噺の話

kogotokoub.exblog.jp
ブログトップ
e0337777_15494147.jpg

ドナルド・キーン著『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』

 ドナルド・キーン『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』から最終の四回目。

 先に、「あとがき」から、永井荷風の日記のことについてキーンの説明を引用したい。

 永井荷風の日記は戦後になって書き直した、殊に軍閥への憎悪や占領軍に対する好意を強調した、という意見が、かなり前から広く言われて来ました。しかし、どの点が書き直されたか証明できる訳ではありません。とは言え東都書房刊の「永井荷風日記」と、岩波書店から発行された「断腸亭日乗」は確かに相当違います。荷風自身か、荷風の名誉を重んじる編集者が、元の日記にかなり手を加えたに違いありません。
 例えば、昭和二十年九月二十八日の記載ですが、東都書房の本ではこうなっています。

   昨朝陛下徴服長徴行して赤坂霊南坂下なる米軍の本営に馬氏元帥を訪はせ給へりと云。

 一方、「断腸亭日乗」では、こう書かれています。

   昨朝天皇陛下モーニングコートを着侍従数人を従へ目立たぬ自動車にて、赤坂霊南坂下米軍
  の本営に至りマカサ元帥に会見せられしといふ事なり。

 意味は同じですが、東都書房のテキストにはいかにも荷風らしいエスプリがあります。徴服(一目につなかい粗末な服装)と徴行(身分の高い人が人目を忍んで外出する)といった皮肉が、岩波書店のテキストからは消えています。また、「馬氏元帥」も「マカサ元帥」より遥かに面白いでしょう。前者には政治的皮肉がはっきり現れ、大げさな言葉遣いが滑稽な雰囲気を醸し出すのに対し、後者からはユーモアが消され、事実を淡々と述べるに過ぎない調子になっています。

 キーンは、他の二つの日記の違いを紹介した上で、東都書房版の“原作”を本書では採用したと書いている。

 その荷風の日記のことを、「第五章 前夜」から。

 永井荷風にとっては、この戦争は軍部によって被った生活の不便以外の何物でもなかった。これまでずっとそう思ってきた荷風は、自分の屋敷が灰燼と帰した時、戦争が何かを初めて知ったのだった。荷風は仮の宿を転々とし、その三度とも焼け出された。今や、リプトンの紅茶がないどころの話ではなくて、荷風は本物の窮乏生活に苦しんでいた。五月一日、荷風は「水道涸渇す」と日記に書いている。ガスは、すでに先月十五日の空襲以来切れていて、「毎日炊事をなすに取壊し家屋の木屑を拾集めて燃やすなり。戦敗国の生活、水なく火なく、悲惨の極みに達したりと謂ふべし」。


 明治十二年(1879)生まれの荷風、昭和二十年は六十六歳。
 彼が『濹東綺譚』を発表したのは昭和十二年。戦前は印税などのおかげで、経済的に困っていたわけではなかった荷風にとって、あの戦争はまったく迷惑な出来事でしかなかった。
 荷風にとって、日本はすでに敗北していた。罹災免税の手続きをするために税務署へ行った荷風は、その手続きが煩雑なので諦めた。誰も、手を差し伸べる者とていなかった。荷風は、自分を見失ってしまったかのように見える。あらゆることが、荷風を苛立たせた。しかし荷風の憎悪の対象はあくまで憲兵であって、アメリカ人ではなかった。

   東京市街焦土となり戦争の前途を口にするもの、憲兵署に引致せられ、又郵書の検閲を受け
  罰せらるるゝ者甚多しと云。

 荷風が日記に記録していることの多くは、ただの風聞に過ぎなかった。しかし荷風は、目黒の祐天寺近くに住む占い師が、戦争は六月中に日本の勝利で突然の終局を迎えると予言したことを、日記に書き留めずにはいられなかった。新宿笹塚あたりでも、お地蔵さまのお告げとして、やはり戦争の六月終結という流言が流れていた。
 その六月になっても、一向に戦争の勢いは衰える様子がなかった。もっとも、東京の空襲は以前より少なくはなっていた。荷風は六月二日、友人と共に東京を離れる。神戸から遠くない明石にある友人の故郷に、一緒に疎開するよう勧められたからだ。しかし二人が到着した時には、すでに故郷の家は避難民で一杯で空き部屋がなかった。近くの寺や友人の家に仮寓して空襲に遭った後、二人は岡山に向かう。ここでも、まるで待ち受けていたかのように荷風は空襲に見舞われた。
 この時期、荷風は山間の小さな町勝山に疎開しているかつての弟子、谷崎潤一郎に手紙を書いている。谷崎は小包を送って寄越し、中には鋏、小刀、朱肉、半紙千余枚、浴衣一枚、角帯一本その他が入っていた。「感涙禁じがたし」と荷風は書いている。
 
 荷風は、よほど谷崎の気配りが嬉しかったのだろう。
 岡山で荷風は八月六日のことを知った。
 日記には八月十日に、「広島市が消滅したニュースが岡山の人々を戦々恐々とさせている」と書いている。
 谷崎は勝山に谷崎を訪ねる決心をした。
 荷風は、勝山で谷崎夫婦に手厚くもてなされた。

 岡山に仮寓先に戻ると、友人が言うには、今日の正午にラジオ放送があり、日米戦争が突然終わったことが公表されたという。「恰も好し」と荷風は日記に書き、日暮れには友人たちと「平和克復」の祝宴を張った。
 戦争が終わったというニュースに永井荷風は、信じられないような平静さで対応した。これで平和になり、白米を見て感涙にむせばなくてもいい戦前の生活が回復される、と荷風は思ったかもしれない。

 そんな荷風と対照的だったのは、山田風太郎だった。
 荷風が六十六歳だったのに対し、大正十一年生まれの山田は、この時、二十三歳。
 山田は、ヒットラーの死を知った時、日記でヒットラーを絶賛している。

   近来巨星しきるに堕つ。ヒトラーの死は予期の外にあらずといえども、吾らの心胸に実に
  いう能わざる感慨を起さずんばやまず、彼や実に英雄なりき!
   当分の歴史が何と断ずるにせよ、彼はまさしく、シーザー、チャールス十二世、ナポレオン、
   アレキサンダー、ピーター大帝らに匹敵する人類史上の超人なりき。
   
 そして、その山田や伊藤整など他の作家たちの原爆投下後の日記。

 山田は八月十四日、日記に書いている。

   日本は最後の関頭に立っている。まさに滅失の奈落を一歩の背に、闇黒の嵐のさけぶ断崖
  の上に追いつめられている。
   硫黄島を奪い、沖縄を屠ったアメリカ軍は、日夜瞬時の小止みもなく数千機の飛行機を
  飛ばし、厖大な艦隊を日本近海に遊弋(ゆうよく)せしめて、爆撃、銃撃、砲撃をくりかえし
  ている。都市の大半はすでに廃墟と化した。無数の民衆は地方に流鼠(りゅうざん)した。
  あまつさえこの敵は戦慄すべき原子爆弾を創造して、一瞬の間に広島を全滅せいめた。
   しかも唯一の盟邦ドイツを潰滅させた不死身のごときソビエトは、八月八日ついに日本に
  対して宣戦を布告したのである。
   怪物支那民族を相手に力闘することすでに八年、満身創痍の日本が、なおこの上米英ソを
  真正面に回し、全世界を敵として戦い得るか?

 伊藤整は八月十二日の日記で、空と海からの攻撃の下で祖国が絶体絶命の境に追い込まれたことを認めた。しかし伊藤は、なお戦闘が延々と続くと信じていた。

   大和民族はどういう境遇になっても、戦えるところまで戦うであろう。しかしその実力、
  最後の実力は国民にも分らず、敵にも分っていない。我々はまだまだ戦う力があると信じている。

 大佛次郎は八月十一日、政府がスイスとスウェーデンの公使を介して皇室は残すという了解のもとポツダムの提議に応ずる、と回答したことを友人から聞いた。大佛は、日記に書いている。

   結局無条件降服なのである。嘘に嘘を重ねて国民を瞞着し来たった後に遂に投げ出した
  というより他はない。国史始って以来の悲痛な瞬間が来たり、しかも人が何となくほっと
  安心を感じざるを得ぬということ!卑劣でしかも傲慢だった闇の行為が、これをもたらした 
  のである。

 海野十三は、八月九日にソ連が北満および朝鮮国境を越えたニュースを聞き、頭がふらつき、最悪の事態が起ったと思った。日本の強硬な反共姿勢にも拘らず、政府は不可侵条約を結んでいたソ連が戦争終結の仲介をしてくれるに違いないと信じていた。

 山田風太郎は、信じていた日本の勝利に疑いを抱き始めたことが、分かる。

 伊藤整は、不安ではあるものの、日本は負けるはずがない、という気持ちが、まだ敗戦の不安より勝っている。

 大佛次郎は、怒っている。

 「鞍馬天狗」や「赤穂浪士」で有名な大佛は、明治三十年(1897)生まれで昭和二十年当時は、四十八歳。玉音放送から四日後の八月十九日に、「英霊に詫びる」の第一回を朝日新聞に掲載した。(第二回以降は宍倉恒常、吉川英治、中村直勝)。東久邇宮内閣の参与に招聘されたので、治安維持法の廃止、世論調査所の設置、スポーツの振興などを提言するが、その内閣が一ヶ月半で総辞職してしまう。戦後は『パリ燃ゆ』『天皇の世紀』などノンフィクションライターとしても活躍した。

 海野十三は知らない方も多いと思う。
 Wikipediaから引用。
Wikipedia「海野十三」
海野 十三(うんの じゅうざまたはうんの じゅうぞう、1897年(明治30年)12月26日 - 1949年(昭和24年)5月17日)は、日本の小説家、SF作家、推理作家、漫画家、科学解説家。日本SFの始祖の一人と呼ばれる。本名は佐野 昌一(さの しょういち)。
来歴
徳島市安宅町生まれ。徳島市立福島小学校3年生の時、神戸に移住。神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)を卒業後、早稲田大学理工科で電気工学を専攻。逓信省電務局電気試験所に勤務しながら、機関紙などに短編探偵小説を発表。

1928年(昭和3年)、雑誌『新青年』から依頼を受け、探偵小説「電気風呂の怪死事件」を発表して本格的文壇デビュー。

太平洋戦争以前には軍事科学小説を量産していたが、開戦後はその方向の作品の発表をやめ、ユーモラスな金博士シリーズ等を執筆。1941年10月、海軍従軍作家として徴用令状が届き、1942年2月11日から3月28日まで当時南方ラバウル方面で活動していた青葉型重巡洋艦「青葉」に乗艦する。徴兵検査で第二乙種となり不合格だった海野は、軍艦に乗艦したことに感激。2月21日の妻への手紙に、極めて強い印象を受けたことを記している。健康を害し、4月30日帰国。その後、敗戦に大きな衝撃を受ける。

1946年(昭和21年)2月の友人小栗虫太郎の死が追い打ちをかけ、戦後を失意の内に過ごす。健康を害し、この時期しきりに喀血する。

1949年(昭和24年)5月17日、結核のため東京都世田谷区の自宅で死去。多磨霊園に葬られた。
 この内容から、正岡子規を思い浮かべていた。
 
 大佛と同じ明治三十年生まれなので、昭和二十年当時四十八歳。

 ソ連が宣戦布告したことを知ったときの日記の内容を含め引用したい。

 海野にとって、日本の勝利どころか戦争の平和的解決の望みさえ絶たれたことは明らかだった。海野は書いている。

   わが家族よ!
   (中 略)
   われらが斃れた後に、日本亡ぶか、興るか、その何れかに決まるであろうが、興れば本懐
  この上なし、たとえば亡ぶともわが日本民族の紀元二千六百五年の潔ぎよき最期は後世誰か
  が取上げてくれるであろうし、そして、それがまた日本民族の再起復興となり、吾ら幽界に
  浮沈せる者を清らかにして安らかな祠に迎えてくれる事になるかもしれないのである。
   此の期に至って、後世人に嗤わるるような見ぐるしき最期は遂げまい。
   わが祖先の諸霊よ!われらの上に来りて、俱に戦い、共に衛(まも)り給え。われら一家  
   七名の者に、無限不尽の力を与え給わんことを!

 他の多くの日本人と同じように、海野は戦に敗れた日本で生きていくことは想像できなかった。海野は死ぬ覚悟をし、家族も道連れにするつもりでいた。

 あの戦争の時代、作家に限らず国民は一人一人、違った思いで生活していたことだろう。
 海野は、ある典型的な日本人の心情を日記に残していたと言えなくもない。
 神国日本の敗戦などありえない、と思っていた人は少なくない。

 永井荷風のような人は、例外的だったと思う。
 もちろん、年齢などによっても、戦争への向き合い方は違っていただろう。
 六十台だった荷風、四十台だった大佛、海野、三十台の高見順、そして、まだ二十代を迎えたばかりだった山田風太郎。

 取り上げた日記は、山田風太郎は「戦中派不戦日記」と「戦中派焼け跡日記」、高見順は「高見順日記」、伊藤整「太平洋戦争日記」、大佛次郎「大佛次郎 敗戦日記」、そして永井荷風は東都書房の「永井荷風日記」。

 このシリーズで取り上げられなかった日記は多い。
 しかし、それぞれの作家たちの戦争への向き合い方があるが、それらの日記からひしひしと伝わるのは、戦争の空しさであり、悲惨さだ。

 物理的な面のみならず、精神面でも日本人が打ちのめされたのが、あの戦争だったことを伝えている。

 最後に、巻末の「文學界」2009年9月号に掲載されたドナルド・キーンと平野啓一郎の対談から、キーンの言葉を引用したい。
キーン 私が戦地で出会った兵たちの日記は、忘れがたいものでした。まだそういう日記があったら、どこまでも探しに行きたいほどです。南太平洋のどこかの島で食べ物がなくなって、マラリアに罹って、近いうちに死ぬだろうと予期した兵が、家族について書く。そして最後の一行は英語で、これを拾うアメリカの軍人は家族に返してくださいと書いている。そういうことが、私は忘れられないんですね。戦争のとき、私はアッツ島と沖縄にましたが、あのときのことを忘れません。そして、今度この本を書いたのはそのためです。あのとき読んだ日記、あるいは当時の日本の捕虜との付き合いは決して忘れられません。


 キーンは、二度、死んでもおかしくない体験をした、と語っている。
 一度目は沖縄に向かう洋上で、「カミカゼ」に襲われた時。特攻機操縦士のミスで助かった。
 もう一度は沖縄に上陸してから。「捕虜になったら殺される」と日本兵から脅されていた市民が隠れる洞穴でのこと。投降させようと洞穴に入ると、そこに機関銃を構えた日本兵がいた。驚いて飛んで逃げたが、なぜか日本兵が引き金を引かなかった。

 そんな体験をしたキーンは、今や日本人。
 九十歳を超える今も、憲法九条を守ること、そして反戦を力強く訴えている。

 八月六日の広島、そして、九日の長崎への原爆投下を経て、十五日を迎える。
 あれから、七十三年。

 今日、広島での平和記念式典で、安倍首相は「核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努め、国際社会の取り組みを主導していく決意だ」と言ったようだが、どんな“橋渡し”をすると言うのだ。
 相変らず、昨年7月に国連で採択された核兵器禁止条約には触れなかった。
 なぜ、唯一の被爆国が、「核廃絶」と言えないのか。

 まだ全国に十五万人を超える被爆者の方がいらっしゃる。
 放射能による染色体異常で、何十回となく手術を受けてきた被爆者の方がいらっしゃる。
 そういう人々に対し、国はどう向き合ってきたのか。

 そういう意味で、あの戦争はまだ終わっていない。
 
 愛国という言葉が、文字通りの意味では受け取られていない状況があるが、あえて書こう。
 敵国だったドナルド・キーンと、現在の日本政府の首脳の人々と、果たしてどちらが日本にとって愛国者と言えるのか。

 四回の記事で取り上げた日記は、本書の中のほんの一部。
 興味のある方は、ぜひお読みのほどを。
[PR]
# by kogotokoubei | 2018-08-06 21:18 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(4)
e0337777_15494147.jpg

ドナルド・キーン著『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』

 ドナルド・キーン『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』から三回目。

 前回に続き、「第二章 『大東亜』の誕生」から、ガダルカナルの戦闘の頃。

 ガダルカナル戦は日本の知識人たちの日記では、主としてアメリカ(とオーストラリア)の軍艦を撃沈させたニュースに狂喜するという形で話題となった。遠方の島で命を落とした日本兵に対して、深い悲しみを表明した日記は驚くほどわずかだった。代わりに日記の筆者たちは、死んで神となった兵士たちを称揚した。
 ガダルカナルでの敗退にもかかわらず、戦争に勝てる見込みがある限り日本の大本営は死傷者の数を隠蔽したり、戦闘の結果を偽る必要を感じなかった。しかし、ほどなく大本営発表は当てにならなくなった。敵の損害を誇張するどころか捏造するようになり、逆に日本の損害は最小限に抑えて発表するようになった。大本営発表が明らかにしなかった事実については、風説がその代わりを務めた。伊藤整は、日記に書いている。

   昨夜実の話、満鉄調査部のニュース。ガタルカナルにあった海兵一万(?)は全滅しや由。
  その後の陸の揚兵三船の内二つは沈められ、一のみ上陸せるも苦戦にて、やっと上陸点を
  死守せる由。極秘の由。他言なし。

 満鉄調査部には、ガダルカナルの戦況が、正しく伝わっていた。
 しかし、国民のほとんどには、捏造された大本営発表しか、情報がなかった。
 だから、日記にも書きようがない。

 永井荷風の日記は、ガダルカナルのことに言及していない。南太平洋の島をめぐる戦闘より、荷風にとっては近所で見かける陰険な私服憲兵の方が気になるようだった。荷風は日記の中で、憲兵が自分の家を接収しようと企んでいるのではないかと憂慮している。荷風はまた、自分にとって極めて大事なジョニーウォーカーのような日用品が、目玉の飛び出るような値段になっている事実を報告している。戦時中の日記の筆者として一番勤勉なはずの高見順は、ことガダルカナルについては一切触れていない。

 戦時中に極めて詳細な日記(約三千ページ)をつけていたのが高見順だった。

 高見順は、昭和8(1933)年、治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されたが、「転向」を表明し、半年後に釈放された、という経歴をもつ。
 その高見には、戦時中に政府の強い支援でできた日本文学報国会(文報)への誘いがあった。

 文報に所属していた作家たちの長い名簿を見ると、すべての作家がこれに参加していたのではないかという印象を受ける。多くの作家が文報に入ったのは、戦争目的に賛同する真面目な考え方からか、あるいは、左翼系の作家たちにとっては文報に属することで過去の罪を水に流すことが出来たからだった。しかし、頑固に参加を拒絶した人々もいた。永井荷風は、再三にわたって入会を強要されたが、「打棄てゝ答へず」と日記に書いている。大空襲下の東京の生活を生き生きと描いた日記「東京焼盡」の筆者内田百閒(1889-1971)は、何度も勧められたが文報には最初から関係せずと心に決めていて、あくまで無関係を通した。百閒は、そもそも政治家とつき合う作家が嫌いだった。
 高見順は昭和二十年(1945)六月まで参加を拒否していて、当時の日記に次のように書いている。

   過日、今日出海君から文報入りを誘われたとき、迂闊にも「入ってもいい」と答えたので
  ある。今君は、再三説かれて遂に文報入りを承諾し、私にも一緒に入ってくれないかといった。
  久米さんも、入ってやれというので、ついうかうかと、ウンといった。あとで考えると、
  やはりいやだった。そこで文報から正式にいって来たら、断ろうと思っていたところだ。
  しかるに文報側は、今君から私の文報入り承諾を聞いて理事会にただちに掛けたらしい。
  -文報へ入ったっていいのだが、勉強の時間がなくなるのが辛いのだ。島木君の「独善主義」
  かもしれないが、私は「自己完成」に忙しのだ。だったら一切の外的活動は拒んだらよさそう
  なものだが、そうも行かない。そうも行かない範囲のことは、やる。それは一種の休息にも
  なる。精神的換気である。文報入りは換気ではすまされない。

 高見はそうは言っていないが、あるいは文報から受けとる手当てを歓迎したかもしれない。

 キーンは、憲兵に逮捕され拷問を受けている高見としては、文報入りは、共産主義者と見られないためでもあったのだろうと付け加えている。
 その後に、意外が人物の文報入りのことが書かれている。

 自他ともに認める共産主義者の宮本百合子(1899-1951)は、戦後になって夫の宮本顕治から文報入りを非難された。宮本顕治は当時、共産主義者として投獄されていた。百合子は、一人で外にいるのに耐えられなかった、と顕治に応えている。

 まさか、宮本百合子が文報に入っていたとは、知らなかった。

 以前、NHKの朝ドラ「花子とアン」について、村岡花子についてあのドラマで捏造があったことを書いた。
2012年12月24日のブログ
 文報のイベント・大東亜文学者大会で、花子は「子供たちの裡にこそ大東亜精神を築き上げるべき」と述べていた。
 そういう彼女の活動について、ドラマではまったく触れることはなく、別の出演者の愛国者の姿を投影していた。
 
 その文報は、どんな成果を出したのか。

 こう言っておけば間違いないのではないだろうか。ほとんどすべての作家が、自ら進んでかどうかは別にして文報の仕事に関わった、と。また同時に記しておかなければならないのは、それが存在した約四年間にわたって文報はなんら目覚ましい業績を挙げなかった。東京と南京で文学者大会を後援したほかには、「愛国百人一首」を昭和十八年に発行し、また芭蕉の死後二百五十年を記念して俳人たちが顕彰式典を行い、さらに軍艦建造のための献金運動をした。

 さて、戦況はますます悪化していく。

 次回の最終回は、昭和二十年の日記を中心に紹介するつもりだ。
 
[PR]
# by kogotokoubei | 2018-08-05 17:07 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

e0337777_15494147.jpg

ドナルド・キーン著『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』

 ドナルド・キーン『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』から二回目。

 前回同様、まず「第一章 開戦の日」からの引用。ときに、章の名の範囲を超えた時期の日記もキーンは紹介している。

 戦時中、作家たちは元旦に新しい日記を書き始めるにあたって、そのつど予言したものだったー(どの年であれ)今年こそ日本の運命を決する年になるだろう、と。昭和二十年は、まさにその決定的な年だった。昭和二十年一月一日、当時医学部の学生だった山田風太郎(1922-2001)は、次のように日記に書く。

   ○運命の年明く。日本の存亡この一年にかかる。祈るらく、祖国のために生き、祖国の
  ために死なんのみ。
   ○昨夜十時、午前零時、黎明五時、三回にわたりてB29来襲。除夜の鐘は凄絶なる迎撃の
  砲音、清め火は炎々たる火の色なり。浅草蔵前附近に投弾ありし由。この一夜、焼けたる家
  千軒にちかしと。
 
 最初に東京が空襲を受けたのは、昭和十七年四月だった。ジェイムズ・ドゥーリトル中佐率いる十六機の中型爆撃機が、軍事的な標的と公式に認められていた東京の施設を爆撃した。もっとも、その成果を示す写真は小型の釣り船一隻の沈没を確認するにとどまった。爆撃機は航空母艦から発進したが、着艦に際して爆撃機の機体の重量があり過ぎたため、爆撃完了後は安全のため中国大陸へ向かった。これは見せしめのための空爆にすぎず、東京の標的に損害を与えることより、むしりアメリカ人の士気を高めることが目的だった。しかしながら、この爆撃は日本人の不安を煽ることになった。ドゥーリトル戦隊の急襲の翌日、伊藤整は灯りが外へ洩れないように窓の隙間に目張りをし、また身動きしやすいように着物をやめて洋服を着ることにした。永井荷風は、日記にこう書いている。

   四月十八日。(中略)哺下金兵衛に至り初めて此日の午後米国飛行機東京に来襲。爆弾投下の
  事を知る。火の起りし処早稲田下目黒三河島浅草田中町辺なりと云。歌舞伎座昼間より閉場。
  浅草興行物夕方六時打出し夜は無しと云。新聞紙号外を出さず。
   四月十九日。(中略)米機襲来以後世情騒然たるが如し。午睡の後金兵衛に至り人の語るを
  きくに大井町鉄道沿線の工場焼亡。男女職工死傷二三百人。浅草今戸辺に高射砲弾丸破片落下
  の為負傷せし者あり。小松川辺の工場にも被害ありと云。新聞紙ラヂオ共に沈黙せるを以て風説
  徒(いたずら)に紛々。確報知るべからず。

 信頼すべき情報の欠如が、この戦争の特徴だった。

 山田風太郎、本名山田誠也(せいや)は、兵庫で父母ともに医者の家系に生まれた。
 旧制高等学校の受験に失敗し、更に二年間浪人したが希望校に入れず、昭和十七年に家出同然に上京した。二十歳になっていたので徴兵検査を受けたが、肋膜炎のため丙種合格で入隊していない。昭和十九年、二十二歳で旧東京医学専門学校、現在の(世間を賑わわせている)東京医科大学に入学。入学後は、やや虚無的な青年として読書ばかりする日々を送った。戦争末期には学校ごと長野県飯田に疎開している。

 戦中の山田青年が、やや異常な精神状態となっていたことが、その日記からもうかがえる。

 一方、荷風の日記に登場する金兵衛は、彼の行きつけの新橋の小料理屋。日記に頻繁に名が出る。

 昭和十七年のドゥーリトル隊の空襲は、米軍が想定していた以上に、日本人に多大な恐怖心を植え付けた。
 その年以降、空襲が劇化する中、人心がどう変遷していったか、山田風太郎の日記で察することができる。

 アメリカの空襲が頻繁になり、アメリカ軍が昭和二十年三月に硫黄島を占領後、空爆はさらに激化した。日本の本土に近い基地を手に入れたことで、アメリカの爆撃機は日本列島に爆弾を落とした後、燃料を補給することなく基地に帰還できるようになった。事実上向かうところ敵なしのアメリカの爆撃機は、全国の大都市を広域にわたって破壊した。しかし多くの日本人は、この期に及んでなお最終的な日本の勝利を信じていた。
 山田風太郎は日記の中で、こうした日本人が抱く自信と、敵国の人々が抱く自信の性格を比較している。富強に頼るアメリカ、広大な領土に頼る中国、不敗の伝統に頼る英国と違って、日本人を支えていたのは日本魂に対する信仰だけだった。山田は、戦争のこの段階での日本人を夢遊病者に譬え、誰もが物に憑かれたように「凄烈暗澹たる日本の運命」を両手で支えている、と書いた。昔からゴシップ談義に花が咲く銭湯で耳にした話題について、山田は次のように記している。

   十七年はまだ戦争の話が多かったと憶えている。十八年には工場と食物の話が風呂談義の
  王座を占めていた。十九年は闇の話と、そして末期は空襲の話。(中略)今ではいくら前の
  晩に猛烈な空襲があっても、こそとも言わない。
   黙って、ぐったりとみな天井を見ている。疲れ切った顔である。それで、べつに恐怖とか
  厭戦とかの表情でもない。戦う、戦いぬくということは、この国に生まれた人間の宿命の
  ごとくである。(中略)壁の向うの女湯では、前にはべちゃくちゃと笑う声、叫ぶ声、子供のい
  泣く声など、その騒々しいこと六月の田園の夜の蛙のごとくであったものだが、今はひっそりと
  死のごとくである。女たちも疲れているのである。いや女こと、最も疲労困憊し切って
  いるのである。

 昭和二十年一月六日、山田は書く。

   過去のすべての正月は、個人国民ともにそれぞれ何らかの希望ありき。目算ありき。
  今年こそはあの仕事やらん、身体を鍛えん、怒らざらむ等々。よしそれの成らざるも、一年の
  計を元旦になすは、元旦の楽しみの一つなりき。しかも今年に限りてかかる目算立つる人
  一人もあらざべし。

 昭和二十年元日の山田の日記、また同じ日に書かれた他の筆者たちの日記にも戦争を楽観視する言葉は微塵も見られない。

 山田風太郎の日記から、戦局の悪化は、銭湯での笑い、そして会話を奪い取っていったことがよく分かる。

 昭和二十年元旦、ほとんどの作家が、暗澹たる気持ちで日記帳やノートを広げていたことも、伝わってくる。

 少し時期を戻して、「第二章 『大東亜』の誕生」から、ガダルカナルの戦闘の頃。

 昭和十七年(1942)八月から翌十八年二月まで続いたガダルカナルの戦闘は、開戦初年度に日本軍が占領した領土をアメリカ軍が奪還にかかった第一歩だった。戦闘は熾烈を極めた。多くの日本兵がアメリカ軍の銃弾のためだけでなく、飢餓によって死んだ。そのため、日本兵たちは自分の日記にガダルカナル島のことを「餓島」と記したものだった。戦場や海上で回収されたこれらの日記を、わたしは数週間後に真珠湾の海軍局で読んだ。飢えと病気に苦しむ男たちの話で満たされた日記を読んでわかったのは、これまで日本人の心理がわかると公言していた者たちが、日本人のことを普通の人間の弱さを持たない狂信者だと言っていたのが大変な間違いだということだった。

 遅ればせながら著者ドナルド・キーンのことを本書表紙裏からご紹介。

 1922年、米国ニューヨ。ーク生まれ。日本文学研究者、文芸評論家。
 コロンビア大学に学ぶ。米海軍日本語学校で学んだのち情報士官として海軍に属し、
 太平洋戦線で日本語の通訳官を務めた。戦後、ケンブリッジ大学、京都大学に留学。
 1955年からコロンビア大学助教授、教授を経て、同大学名誉教授。
 2008年に文化勲章受章。2011年、日本国籍を取得し日本に永住することを発表した。

 キーンが丹念に読んできた戦中の作家の日記について、もう一、二回は記事にするつもりでいる。

[PR]
# by kogotokoubei | 2018-08-04 10:07 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 八月に入った。

 年中行事のように、メディアであの戦争に関する番組が組まれる。

 それはそれで、戦争というものを考える機会となるのは、良いことなのかもしれない。
 
e0337777_15494147.jpg

ドナルド・キーン著『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』
 ドナルド・キーンの『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』の初出は「文學界」の2009年2月号。単行本は同じ年の7月に発行されている。
 私は2011年に発行された文春文庫版で読んだ。

 序章に次のように書かれている。

 この本は、主に大東亜戦争が始まった昭和十六年(1941)後半から、連合軍の日本占領の最初の一年が終わる昭和二十一年(1946)後半まで、五年間にわたって日本の作家たちがつけていた日記の抜粋によって構成されている。ここに登場する日記作家は永井荷風を除いて外国では知られていないが、いずれも戦前ないしは戦後の日本でかなり知られた作家ばかりである。

 ということで、本書には実に多くの作家たちの日記が登場する。
 巻末の「参考文献」は、日本語の文献のみで約四頁、英語の文献がほぼ二頁並ぶ。

 まず、「第一章 開戦の日」から、キーンが外国でも知られているということで名を挙げた永井荷風の日記が登場する部分を引用したい。

 多くの人々、とりわけ軍の中枢を嫌っていた人々は、英米のような強敵と事を構えることが妥当かどうか、かねてから疑問に思っていた。しかしそうした疑問は、高まる愛国心の中で一掃された。開戦の年に日本の陸海軍が目覚ましい勝利を収めるごとに、人々の愛国心は強まっていった。相次ぐ勝利に国中が湧いた異常な興奮の中で、ごく少数の日記の筆者だけが冷静だった。中でも一番動じなかったのは、おそらく永井荷風(1879-1959)である。昭和十六年十二月八日、荷風は日記に書く。

  十二月初八。褥中(じょくちゅう、引用者注・寝床の中で)小説浮沈第一回起草。
  哺下(ほか、引用者注・夕暮れ)土州橋に至る。日米開戦の新聞号外出づ。帰途
  銀座食堂で食事中灯火管制となり街頭商店の灯追々消え行きしが電車自動車は
  灯を消さず。六本木行の電車に乗るに乗客押合ふが中に金切声を張上げて演説を
  なす愛国者あり。
 
 四日後、荷風は書いている。

  十二月十二日。開戦布告と共に街上電車飲食店其他到るところに掲示せられし
  ポスターを見るに「屠(ほふ)れ英米我等の敵だ。進め一億火の玉だ。」とあり。
  現代の人の作文には何だの彼だのと駄の字をつけて調子を取る癖あり。駄句駄字と
  謂ふべし。

 戦時を通じて荷風は、日々眼にする愛国主義の示威に侮蔑感を表明し続けた。荷風の日記は軍部について極めて厳しい調子で書いているが、戦局が進むにつれてその語調は強まっていく。荷風が特に苛立ったのは、愛国者たちの悪趣味と幼稚なスローガンだった。

 キーンは、荷風がアメリカやフランスで暮らした経験があり、とりわけフランス文学に愛着があったことから愛国的プロパガンダの影響を受けにくかったかもしれないが、海外滞在経験は必ずしも戦争賛否の態度に関係がなかった、として、荷風とは好対照な例を紹介している。

 戦争の熱烈な支持者の一人だった高村光太郎(1883-1956)は、かつてアメリカとフランスで彫刻を学んだことがあった。しかし真珠湾攻撃を賛美する高村の詩の語調には、荷風の不遜とも見える無関心の態度はまったくない。詩は、次のように始まる。

  記憶せよ、十二月八日。
  この日世界の歴史あらたまる。
  アングロ・サクソンの主権、
  この日東亜の陸と海とに否定さる。
  否定するものは彼等のジャパン、
  眇(びょう)たる東海の国にして
  また神の国たる日本なり。
  そを治(しろ)しめたまふ明津御神(あきつみかみ)なり。

 いわゆるアングロ・サクソンに対する高村の敵意は、ニューヨーク留学中に受けた人種差別に由来するものとされている。「ジャップ」と呼ばれ、自分の国を「にっぽん」の代わりに「ジャパン」と呼ばれるのを耳にして、高村は憤慨した。こうした体験は激しい憎悪とまでは行かなくても、高村が抱いた憎しみの理由とはなるかもしれない。

 私は、本書で初めて高村光太郎がこのような詩を書いていたことを知った。
 
 他にも、その作品からは想像できない戦争への向き合い方を日記に記した作家のことを知ることになった。

 たとえば、あの小説の翻訳で有名な人について。

 伊藤整(1905-69)は、日記とエッセイの両方で開戦を喜び、予想されるアングロサクソンの壊滅に期待をかけている。しかし、真珠湾攻撃を知った時点での伊藤の反応は意外なほど冷静だった。
 (中 略)
 伊藤は自分の高揚する気分を弁明する必要を認めなかったが、教師ならびに翻訳者として英語と身近な関係にあった人物が、幾分かの躊躇を感じることはなかったのだろうか。十二月八日、伊藤は日記に書く。

   感想ー我々は白人の第一級者と戦う外、世界一流人の自覚に立てない宿命を持っている。
   はじめて日本と日本人の姿の一つ一つの意味が現実感と限ないいとおしさで自分にわかって
   来た。

 十二月九日に書かれたエッセイは、さらに率直である。

   ・・・・・・昨日、日米英戦争が始まっている。今後何年続くかも知れぬ大和民族の
  歴史上はじめての、そして最大のこの戦争の・・・・・・。(中略)私は「ハワイ真珠湾
  軍港に決死の大空襲を敢行」という見出しを見て、全身が硬直し、眼が躍ってよく読めない
  のであった。(中略)
   そして、そのことを、私は、地下室の白い壁の凹みによりかかりながら、突然全身に水を
  かけられたように覚る思いであった。そうだ、民族の優越感の確保ということが我々を
  駆り立てる、これは絶対の行為だ、と私は思った。これは、政治の延長としての、または
  政治と表裏になった戦争ではない大和民族が、地球の上では、もっともすぐれた民族である
  ことを、自ら心底から確信するためには、いつか戦わなかればならない戦いであった。

 キーンの伊藤の日記の引用は、この後もまだ続いている。
 伊藤は、民族の優秀性を決定するために戦うのだ、と記している。


 本書で初めて知った作家たちの戦中の日記。

 あの作家がこんなことを、という驚きが読みながら途切れることがなかった。
 
 次回も、そんな内容を紹介するつもり。

[PR]
# by kogotokoubei | 2018-08-02 12:29 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 先月の記事別アクセスランキングは、次の通りだった。

1.命日に、“キザな小円遊”という虚像を思う—『談志楽屋噺』より。(2013年10月5日)
2.桂歌丸という噺家さんのこと。(2018年7月3日)
3.円楽の落語芸術協会加入について。(2017年6月26日)
4.FIFAの放映権料2000億円のうち、なぜ日本が400億も支払うのか?(2014年6月30日)
5.歌丸の最初の師匠、五代目古今亭今輔のこと。(2018年7月7日)
6.新宿末広亭 六月下席 夜の部 6月29日(2018年7月1日)
7.新宿末広亭 六月下席 昼の部 6月29日(2018年6月30日)
8.「西郷どん」、そろそろ撤退かな・・・・・・。(2018年7月17日)
9.なぜ、真夏に東京五輪は開催されるのか。(2018年7月18日)
10.落語芸術協会に、寄席の入りが悪く席亭から注文-朝日新聞の記事より。(2012年1月27日)

 半数が、歌丸さん関連の新旧の記事。

 小円遊の記事へのアクセスは、まさに桁違いだった。
 これまでも安定的にアクセスは多かったものの、先月は2000アクセスを越えた。
 これは、たぶん、過去最多。

 2位の記事は、歌丸さんへの私なりの追悼記事。

 3位は昨年の記事で、円楽の芸協加入に関するもの。

 5位は、最初の師匠五代目今輔について書いた記事。

 10位は、古い記事だが、芸協の寄席の入りが悪いことへの末広亭席亭からの苦言について書いたもの。
 その後の芸協の寄席は、ずいぶん客が増えたと思うが、歌丸会長の貢献は小さくなかろう。末広亭での真打昇進披露興行で、昼の部の主任を歌丸自身が務めていたことは、私の体験からも観客動員に大きく寄与していたと思う。

 歌丸さん関連以外。
 4位はサッカーW杯の影響でFIFA放映権料について書いた古い記事。ロシア大会でも、日本は高額な放映権料を支払ったいたようだ。

 6位、7位は6月末の末広亭居続けの記事。

 8位は、NHK大河「西郷どん」のこと。ほぼ、撤退した。
 ほぼ、と言うのは、その後もチラ見しては、がっかり、という状態だったため。
 慶喜の側室が出る度に、おいおい新門辰五郎の娘はどこへ行った、と思ってしまうのだよね。

 9位は、真夏に開催する東京五輪のこと。暑さがつのってきて、アクセスも急増した。

 なんと今日は、42都道府県に高温注意情報が出ているとのこと。
 2年後の8月1日は、決勝種目が集中する土曜日で「スーパーサタデー」と位置づけられている。バドミントンやテニスなどに加え、陸上男子100メートル決勝もこの日を見込んでいる。さて、どんな「スーパー」な日になることやら。


[PR]
# by kogotokoubei | 2018-08-01 12:27 | アクセスランキング | Comments(0)
 昨日は、日曜恒例のテニスが都合により休み。

 ということで、池袋か、こっちの会か迷っていたが、落語協会のサイトで、池袋はお目当ての主任菊志んがお休み。
 ネットで国立の二人会の空席がありそうなのを確認し、電話で予約。
 それにしても、「志ん輔の会」が、ネットでも予約できるようになったとは驚きだ。

 そうそう、昨年も、同じ時期の日曜に雨でテニスが休みになり、行っている会。2015年4月にあった会にも行った。
 この二人会とは縁がありそうだ。
2017年7月31日のブログ
2015年4月30日のブログ

 昨年の会では、志ん輔の『三枚起請』と龍志の『酢豆腐』が良かった。

 この会は、二席ともネタ出しされている。
 龍志が『片棒』『らくだ』、志ん輔は『船徳』『厩火事』。
 
 一時開演だが、少し早めに出かけ半蔵門駅と永田町駅の間にある中華料理店で昼食をとって、十二時少し過ぎに会場へ。一階受付でチケットを入手。
 ネットで九割位が埋まっていたので、席はお任せしていたが、十列目の中央ほどの良い席だった。
 
 いったん出てコンビニでアイスコーヒーを買ってから、演芸場に戻った。

 一階喫煙室に入ると中に主催者の方もお一人いらっしゃって、結構会話が弾んだ。
 詳しい内容は、内緒^^
 
 階段を上がって会場へ。結果として実来場は八割位だったろうか。

 出演順に感想など。

桃月庵ひしもち『転失気』 (14分 *13:00~)
 昨年六月末広亭の『平林』以来。
 あの高座でも感じたが、見た目のひ弱さとは違って語り口はしっかりしている。芸人らしい雰囲気も醸し出しており、なかなか楽しみな人だ。

立川龍志『片棒』 (27分)
 ケチは地獄に落ちて、それも暗闇地獄。しかし、真っ暗なのに平気で歩けるのは、爪に灯をともしているから、なんていう洒落た小咄などのマクラから本編へ。
 三人の息子の誰に家督を譲るか悩む赤螺屋ケチ兵衛、自分が死んだらどんな弔いをするかで決めようとする。
 長男の金は、「世間に笑われないような弔いを」、と大豪華版。通夜は二晩、本葬は本願寺か増上寺、お土産は一流料理屋の料理を本漆の三段の重箱に詰め丹後縮緬の風呂敷で包む。足代として一人に二万ほど包む、合計一人十万ほどかけて五、六千人呼ぼうというバブルな案。ケチ兵衛が胸をおさえ、「出てけ!」と怒鳴るのも頷ける。
 この噺の聞かせどころに次男、銀の場面。江戸っ子龍志の持ち味が生きる。「あっしは、誰もが驚く、色っぽい弔いを出します」と、まずは紅白の幕を家の周囲に張るところから始まる。
 その色っぽい弔い行列の先頭は、頭(かしら)ご一行の木遣り。新橋、葭町、柳橋の芸者連の手古舞が続く。
 山車には算盤を持ったケチ兵衛人形。
 神輿がやって来て、♪テンテンテレツク、♪ワッセワッセ、♪チャンチャカチャンとなんとも賑やか。
 木遣りから神輿までの擬音の聞かせどころは、さすがに客を飽きさせない。
 花火が上がり、銅鑼の音で周囲が静まって弔辞。最後は万歳という弔いだと聞いてケチ兵衛、またも「出てけー!」
 「あいつは私の血じゃない」「婆ぁの血だ」というケチ兵衛の科白がなんとも可笑しい。
 さて最後は、三男の鉄。「仕方がありませんから、弔いは、出します」で、ケチ兵衛は最初がっかりするが、次第に鉄のケチぶりに頷く。「出棺を十時と決めさせていただきます」という鉄の言葉に、「今から時間まで決められると、なんか淋しくなるねぇ」の一言が、客席から静かな笑いをとる。結構、ご高齢のお客さんが多い会場だった。十時と言っておいて都合で変わったと八時に出棺してしまえば、酒も肴も出さなくていい、という鉄のアイデアにケチ兵衛の「えらい!」で、客席から大きな笑い。棺桶は菜漬けの樽、という鉄に、ケチ兵衛が「おまえ、親こうこ、なんて洒落かい」と言うのに対し、鉄が「いえ、臭いものには蓋」で、またまた会場爆笑。
 鉄が「菜漬けの樽を荒縄で巻いて」の言葉に「まるで罪人だね」と言うケチ兵衛だが、鉄のケチぶりに次第に感心していく。そして、サゲ。
 見事に三人の個性を描き分け、なかでも次男の銀が秀逸。
 五月に聴いた横浜にぎわい座での古今亭菊丸のこの噺も見事だったが、龍志も負けてはいない。
2018年5月2日のブログ
 菊丸は実に丁寧に三人の息子を描き、なかでも次男の唄が秀逸だった。その菊丸よりは龍志が描く銀のぞろっぺいな姿も、まさに江戸っ子で悪くない。江戸の風と粋、そんなものを感じさせてくれた高座、今年のマイベスト十席候補とする。

古今亭志ん輔『船徳』 (40分)
 隅田川の花火がこの日に延期になったことから、浅草の行きつけの喫茶店で聞いた花火に関する地元の人たちの会話などのマクラから本編へ。
 最初に書くが、この噺も二席目も、志ん輔の工夫が明確に表われた高座だった。
 冒頭は、船頭になりたいと言う徳と親方の会話から、船頭たちが集まっての勘違い懺悔の場へ。このあたりは、本来の筋書きと大きく変えていないが、なよなよした徳の姿が、とにかく可笑しい。
 さて、四万六千日。客二人を乗せた徳。
 船宿の女将が「なにかあっても、若旦那だけは無事に帰ってきてくださいよ」で、蝙蝠傘の客が「おいおい、何か言ってるよ!?」とおびえる。
 もやいを解いて、なんとか出発したものの竿を流してしまい櫓へ。同じところを三度回って、ようやく少し落ち着く。土手を歩いている紗の羽織のい~い女に見とれていたが、連れの男がいてがっかりする場面などは、好きだ。そのすぐ後に竹屋のおじさんを見かけて声をかける。おじさんが心配そうに「大丈夫か~い」と言われ、傘の男が、またまた不安になる。
 船と土手の高低さが伝わり、高座に奥行が出る。
 煙草の場面がないままに石垣へ。蝙蝠傘を犠牲にして難を逃れたが、傘の客の怒りはおさまらない。この時の徳の“切れ方”は、師匠志ん朝よりは、兄の馬生のそれに近いように感じた。
 そして、煙草の場面が登場。これは、師匠とは順が逆。しかし、違和感はない。「汗が目に入ってしまって」、という場面は割愛。
 しばらく静かになって客が徳を見ると、もう駄目。
 「もう、やだ~」「やだ~」「やだ~、おりて!」
 前半に造形していた、なんとも、ナヨナヨした徳の姿とつながる徳の姿。駄々っ子の徳、なのである。
 サゲは替えていなかった。
 通常の筋書きを入れ替え、また、徳の人物造形にも工夫があった高座。私は、志ん輔落語が出来上がりつつあるような高揚を感じながら聴いていた。今年のマイベスト十席候補としたい。

 ここで、仲入り。

 さて、一服して後半戦へ。開演前に喫煙室で楽しくお話ができた方は、仲入りの営業でお忙しいだろう、さすがにいらっしゃらなかった^^

 さて、後半戦。

古今亭志ん輔『厩火事』 (22分)
 一席目に続き、浅草の喫茶店における出来事のマクラ。ネタと関連性のある笑えるものだったが、その内容は、秘密。
 この噺でも志ん輔の工夫が見受けられた。
 お崎夫婦の喧嘩は、お崎さんが休みで大好きな芋(やつがしら)を茹でていたら、「また、芋か」と旦那が言うことから始まったという設定。夫は刺身好き。
 他にも工夫があって、お崎さんの夫について仲人の旦那が、「あれは、うちの二階に居候していたのを、女房の髪を結いに来たお崎さんが一目惚れして、あんな遊び人はやめなと何度も言ったのを聞かずに一緒になったんだ」と二人の馴れ初めを明らかにした。加えて、「元々、腕のいいやつなんだ、一人でも食っていける、いいよ、別れな別れな」という旦那の科白がある。しかし、何の腕がいいのか、説明がない。大工、左官・・・・・・。聞き逃したのかなぁ。いや、言わなかったはずだなぁ。
 私は、こういうことに「?」が付くと、なかなかその後の噺に集中できなくなるのだ。どうも居心地が悪いまま聴き続けていた。また、麹町のさる殿様が、大事な皿を抱えたまま階段から落ちた女房に向かって「皿は大丈夫か、皿は皿は~」と○○回も皿ばかり心配した、という回数を言う場面で噛んでしまったのも、残念。
 お崎さんの夫が一人で刺身を肴に酒を呑んでいた、という話は割愛。冒頭に、素性を明らかにしているから、不必要とも言えるが、この改作は評価が分かれるところだろう。
 一席目の工夫は、噺の骨格を壊すことなく楽しめた。しかし、こちらの工夫は、まだ改良が必要と感じた。

立川龍志『らくだ』 (44分 *~15:47)
 マクラでは、子供の頃、近所には怖い、おかしなおじさんがいた、と振り返る。
 ベーゴマの台のことを「床」と言うのを初めて知った。実は、北海道で過ごした少年時代、私の近所ではベーゴマは流行っていなかったのだ。もっぱら、ビー玉やパッチ(メンコ)だったなぁ。
 さて、本編は、通し。
 龍志のこの高座でも、気になる言葉不足があったなぁ。
 らくだの兄貴分、丁(の)目の半次が屑屋の久さんに月番のところに行かせた後、「もう一軒行ってこい」と言うのだが、「大家のところへ行って来い」とは言わずに次の科白につなげた。その途中で大家の名は出たのだが、ちょっとリズムが悪くなったのは否めない。
 大家のところでのカンカンノウも、少し短縮バージョンだったかな。もう少し見たかった^^
 八百屋で棺桶代りの名漬けの樽を借りて来るのだが、これは一席目とツク、と私は思う。ツクことを徹底して嫌う志ん輔は、龍志の二席のネタを聞いて、指摘しなかったのだろうか。
 もちろん、良い場面もたくさんあった。久さんが半次に清めの酒を注いでもらい、三杯目から主客逆転する当たりは見事だった。らくだの髪を剃る場面や、落合の火屋に向かう場面なども楽しく、私の席近くの女性陣などは大笑いしていた。
 全体としては、もちろん悪くない高座ではあったが、さて、この人にとってこの噺がニンなのかどうか。
 一席目の、大いに江戸の風と粋を感じた高座の余韻の方が、強く残っていた。


 はねて残暑きびしい中を帰宅。

 台風がそれて、なんとか今月も落語会に来ることができた。

 それにしても今回の台風12号の進路は不思議だ。

 なにも、急カーブしてまでこの前豪雨被害のあった西日本を襲わなくてもいいだろうにねぇ。
[PR]
# by kogotokoubei | 2018-07-30 12:27 | 寄席・落語会 | Comments(6)

大山は、本日夏山開き。

 先日、中込重明さんの本から『大山詣り』の原話について書いて記事で紹介したように、今日は、大山の夏山開き。

 前の記事でも引用したが、神奈川県のサイトの観光情報のページから、伊勢原市観光協会のフライヤーをダウンロードできる。
神奈川県サイトの該当ページ

e0337777_13155165.png


 暑い山開きの日となったが、台風による雨予報の明日よりは、ましだろう。

e0337777_11123891.png


 榎本滋民さんの『落語小劇場』(下)では、この噺が最初に載っている。

 夏山にも、登る時期で名前がついている。

 六月二十六日から七月七日までを初山、八日から十三日までを間(あい)の山、十四日から十七までを盆山。旧暦だから盛夏から初秋である。
 2014年7月17日、私が初めて行った柳家小満んの会でこの噺が演じられたが、その日いただいた栞には、間の山、盆の山の期間は同じだが、初山は七月一日から七日、と書かれているなぁ。
2014年7月18日のブログ
 あの日は、とにかく『有馬のおふじ』が素晴らしかったことを思い出す。
 同じ山岳信仰にまつわるネタだが、富士が大山に勝ったなぁ^^

 伊勢原市のサイトには、夏山の区分が新暦で紹介されている。
伊勢原市のサイトの該当ページ

 その内容によると、7月27日から31日を初山、8月1日から7日を七日堂、8日から12日を間の山、13日から17日を盆山と言うらしい。
 
 七日堂というのもあるんだね。

 旧暦の行事を新暦に替えているので、微妙なズレがあるのは、しょうがないか。

 しかし、やはり、こういった年中行事は、旧暦で行なって欲しいと思う。
 旧暦なら今日は六月十五日。
 山開きは、まだ先だ。

 江戸の長屋の連中の楽しみであった大山詣りは、多くの川柳からも庶民に身近なものだったことが伝わる。

 小満んの会でいただいた栞にも、「盆山の坂を掛念仏で越え」などの川柳が紹介されている。

 では、出発前の準備を含め、『落語小劇場』から。

 両国橋東詰め(小石川関口にもあった)の垢離場で水垢離を七日間とって精進潔斎する。
 罪障懺悔の唱えごとを一千回くり返すので千垢離というが、数を忘れないように緡(さし)を一本一本川に流す。よく流れるか渋滞するかで吉凶を占った。 
  百度目のさしは目より高く上げ
  投げるさし十九本目に土左衛門
  屋根船の唄垢離場につぶされる
  清浄なへのこ南無帰命頂礼
  屋形をみまいおえるぞざんげざんげ
 涼み船の美女を見るな、へのこ(男根)がおえる(勃起する)とどなっているのだから、どんな野郎たちか想像できるだろう。
 上がると、伊達染めの浴衣か白い行衣の揃いで、納め太刀と称する七八寸から一丈あまりの木刀をかつぎ、いよいよ夜中に江戸を立つ。中には当時年二期(盆と暮れ)だった勘定の清算がつかず、借金とりを避けるために大山まいりに加わる者も多かった。
  盆前の借り太刀先で切り抜ける
  納まらぬ頭でかつぐ納め太刀
  十四日抜き身を背負って夜這する
  所詮足りないと大山さして行き
  十四日末は野のなれ山へ逃げ
 この連中は借金のがれではなく、名人四代目橘家円喬以後この落語を演じて絶品とうたわれた四代目橘家円蔵は十三人、近年では第一人者六代目三遊亭円生は十八人としているが、とにかく十数人の職人の楽しい団体旅行である。
 
 江戸時代のこの時期の気候はどうだったのかはよく分らないが、猛暑での山登りは辛かったに違いない。

 しかし、登った後の楽しみが多かったからなんとか我慢できたのな。

 さて、現代では、山詣りの風習も、その後の楽しみもほなくなった。
 
 私にとっての楽しみは、落語を聴くことと、その後の居残り会が、関の山^^
[PR]
# by kogotokoubei | 2018-07-27 12:53 | 落語のネタ | Comments(0)
 来週31日の火曜は、火星が大接近する。

 毎日新聞のコラム「余録」が、なかなか興味深い内容だった。引用する。
毎日新聞の該当コラム

「この節毎夜二時ごろに現出せる赤色の星を遠めがねにて見れば、西郷隆盛(さいごう・たかもり)氏が陸軍大将の官服を着せる体(てい)なりと。何人(なんびと)がこれを言い出したるか、かかる妄説さえ伝えに伝えて、物干棚(ものほしだな)に夜を更(ふ)かす人のある」▲1877(明治10)年8月3日、「西郷星」の出現を伝える新聞記事である。これ、実は9月3日に地球に最も近づいた火星の大接近であった。西南戦争で政府軍に追いつめられた西郷さんが自刃したのは、同じ月の24日のことだった▲火星が5630万キロの距離まで接近したこの時、二つの衛星が見つかり、「運河発見」の騒ぎもあった。一方、今夏の火星大接近の最接近距離は5759万キロ、西郷星よりは少し遠いものの6000万キロを切る接近は15年ぶりだという▲星の見にくい東京でも、このところ夜になると南東の空でひときわ赤い輝きを見せている火星である。最接近日となる7月31日にはマイナス2・8等にまで明るくなり、見かけの大きさも遠い時の約7倍になって夜半の南の空に輝く▲今では「スーパーマーズ」とも呼ばれる火星大接近だが、最接近後も9月上旬ごろまでマイナス2等を超える輝きを保つという。昔の人が西郷さんや火星人の運河に見立てた表面の模様の変化を天体望遠鏡で目にするチャンスである

 月にはウサギ、火星には西郷さんがいる、ということか。

 国立天文台のサイトに2003年以降の接近日と距離などが掲載されているので、引用。
国立天文台サイトの該当ページ


 年月日   時刻(日本時間) 地心距離  視直径(秒角)明るさ(等)

2003年 8月27日   18時51分   5,576万km   25.1    -2.9
2005年10月30日  12時25分   6,942万km   20.2    -2.3
2007年12月19日  8時46分    8,817万km   15.9    -1.6
2010年 1月28日   4時01分    9,933万km   14.1    -1.3
2012年 3月6日    2時00分   10,078万km   13.9    -1.2
2014年 4月14日   21時53分    9,239万km   15.2    -1.4
2016年 5月31日   6時34分   7,528万km   18.6    -2.0
2018年 7月31日   16時50分   5,759万km   24.3    -2.8

 「余録」にも書いているが、次に5,000万km台に接近するのは、2035年。

 何気なく調べてみたら、2003年には、ヨーロッパは猛暑で、なかでもフランスで被害が甚大だった。
 Wikipediaの「ヨーロッパ熱波(2003年)」から引用する。
Wikipedia「ヨーロッパ熱波(2003年)」

フランス

この熱波の影響で、フランス国内では元々夏に比較的暑くなる地域として知られていたヨンヌ県では、2003年8月初旬に8日連続で40℃以上の気温が観測された。

フランスでは75歳以上の高齢者を中心に14,800人以上が熱波により死亡している。

フランスは、特に北部地域において、夏でも基本的にはそれほど暑くならない。このことが人的被害が大きくなった原因と考えられている。と言うのも、突然の熱波に襲われたため、ほとんどの人が脱水症状に陥った場合の対応ができなかったこと、多くの住宅や施設に空調が備えられていないこと、自然災害や人災による緊急マニュアルが策定されていても高温は対象外であったことが挙げられる。

この熱波をきっかけに、フランス政府は全国熱中症警戒情報システム(SACS)の開発が決定された。

 大変だったんだねぇ、15年前のヨーロッパ熱波。

 15年前、そして、今年の猛暑、もしかしたら火星大接近が関係しているのかもしれない。

 近づいてくるのが、なんたって「火」の星だからね。


[PR]
# by kogotokoubei | 2018-07-25 12:53 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 先週二十日が土用の入りで、かつ丑の日。

 なにかと鰻の話題が多かったが、今になって、西日本新聞のコラム「春秋」の内容に気が付いた。引用する。

西日本新聞の該当コラム

江戸の頃から庶民に好まれたウナギは落語の題材にも…
2018年07月21日 10時34分

 江戸の頃から庶民に好まれたウナギは落語の題材にも。その一つ「鰻(うなぎ)谷」。へそ曲がりの魚料理屋の主人は、不漁続きで他の料理屋が休んでいると知って、店を開けてやろうと考えた。が、肝心の魚が手に入らない

▼ふと川を見るとヌルマがうじゃうじゃ。食べると命がないとされ、誰も見向きもしない魚である。仕方なく捕まえて帰り、かば焼きにしてみたら、香りも味もとびっきり

▼ヌルマを店で出したと知れば、客は「そんなもん食べられるか」と怒りだす。そこで女房が「私の手料理です」と助け舟。客が「うまいなぁ、お内儀(ないぎ)」と繰り返すので「お内儀」が「うなぎ」に聞こえ、いつの間にやらヌルマがウナギになったとか-

▼きのうは土用の丑(うし)の日。落語の中では川に「うじゃうじゃ」だったウナギだが、今や高根の花。ニホンウナギは絶滅が心配されるほど数が減り、養殖用の稚魚シラスウナギも記録的な不漁。価格高騰で「そんなもん食べられるか」と庶民の嘆きが聞こえそう

▼特定の日にウナギを大量消費する習慣を見直そうとの動きも。「牛肉やアナゴで精を付けて」とPRしたり、サンマやサバのかば焼きで代用したり、魚のすり身をウナギのかば焼きそっくりに仕上げたり

▼品薄、高値で密漁や違法取引も横行しているという。貴重な資源を守る助け舟と思えば、時にはウナギが「ウナギふう」になっても「うまいなぁ」といただけよう。
=2018/07/21付 西日本新聞朝刊=

 この「春秋」の内容、せっかく珍しいネタを取り上げてくれたのはいいのだが、少し、言葉足らず。

 この店の名が、菱又ということから、「魚偏に日四又」で鰻となったということも、説明が欲しいところだ。
 また、「私の手料理です」と機転をきかせた女房の名が、お谷さん。それで鰻の下へ谷の字を書いて「鰻谷」となり、菱又のあった長堀南通りが鰻谷と名が変わった、ということも加えてもらいたいのだが、そこまで書いていては字数が足らないのも事実。

 補足した内容は、上方落語を調べる上で度々頼りにしている「世紀末亭」さんのサイトにある、橘ノ円都の1963年の高座の記録を元にした。
「世紀末亭」さんサイトの該当ページ

 円都がマクラで、この噺を演じるのはほぼ自分だけ、と語っているように、実に珍しい噺であり、西日本新聞の春秋の筆者の方が、よくぞ取り上げてくれたものだ。

 橘ノ円都は、二代目桂小南の本『落語案内』について書いた記事で、小南の上方での師匠として紹介した。
2018年2月4日のブログ

 膨大なネタ数を誇っていたと言われる円都をして、「もう、お前にやる咄はないわ」というほど稽古してもらった小南。
 しかし、小南の残した音源に、私が調べた範囲では、『鰻谷』は見当たらない。
 稽古をしてもらったものの、東京では、やはり演りにくいネタだったということだろうか。

 今年は夏土用の丑の日が、二日ある。「二の丑」は8月1日。

 私は、何度か書いてきたが、土用の丑の日は、鰻を食べない日と決めている。

 別に牛肉やアナゴの「鰻もどき」を食べようとも思わない。

 そうだ、土用には「土用しじみ」だってあるじゃないか。
 「土用しじみは、腹ぐすり」と言われてきた。
 夏バテ解消、二日酔にも最適。

 しじみは良質なたんぱく質を豊富に含んでいる。このたんぱく質を構成しているのが、アミノ酸の一種であるタウリン、アラニン、グリコーゲンなどで、肝臓の働きを助けてくれる作用がある。
 その他、ビタミンB2やカルシウム、鉄、亜鉛、マグネシウムなど、暑い時期には汗とともに排出されて不足しがちなミネラル分も豊富なのだ。
 「腹ぐすり」と言われていたのには、これだけの訳がある。

 とはいえ、そのしじみが、果たして「やまとしじみ」なのかどうかが、実に怪しい。
 結構、いろんなお店や商社などで、産地偽装をしてきた過去もある。

 ロシア産を青森の十三湖産だなんて嘘をついていた業者もある。
 
 そのうち、「土用しじみは、腹ぐろい」なんて言われるようにならなきゃいいが。
 まぁ、産地を正直に表示してくれればいいわけで、中国産だろうが北朝鮮産だろうがロシア産だろうが、そのしじみが安全ならば、私はいただくけどね。

 もうやめましょうよ、一年のうち一日か二日に集中して、日本全国で希少な鰻を食べるなんて馬鹿なことは。

 しばらく我慢して、また川に天然ウナギがたくさん見受けられるようになってから、食べるようにしてはどうだろうか。

[PR]
# by kogotokoubei | 2018-07-23 12:22 | メディアでの落語 | Comments(4)
 来週7月27日は、大山の夏山開きだ。

 神奈川県のサイトの観光情報のページから、伊勢原市観光協会のフライヤーをダウンロードできる。
 その中の夏山開きの案内部分をご紹介しよう。
神奈川県サイトの該当ページ

e0337777_13155165.png


 「お花講」とは、なんとも可愛い名前だこと。

 落語の『大山詣り』(上方では『百人坊主』)については、ブログを始めて間もなく、記事を書いた。
2008年7月25日のブログ
 
 あらためて『大山詣り』に関して棚の本をめくっていて、あの噺の元ネタについて認識を新たにした。

e0337777_13292196.jpg

中込重明著『落語の種あかし』(岩波書店)

 中込重明さんの著『落語の種あかし』は、岩波書店から2004年6月に発行された。
 しかし、著者の中込さんは、本書の発行を待つことなく、同年4月に三十九歳の若さで旅立っている。
 中込さんには、他にもう一冊、亡くなる直前に書かれた『明治文芸と薔薇』という著作がある。
 どちらも、延広真治さんの支援によるものだ。
 
 他に新書版の入門書的な本、「落語で読み解く『お江戸』の事情」(青春出版社)があって、同書からは拙ブログで何度か引用している。

 田中優子著『江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか?』と比較した記事を書いたこともある。
2010年6月12日のブログ
 杉浦日向子さんの著作も含め、江戸時代にどれくらいご飯を食べていたか、なんて記事も書いた。
2017年9月16日のブログ

 さて、『落語の種あかし』は、中込さんの遺作と言ってよいと思うが、その内容には、落語の原話を探るための、著者の執念のようなものを感じてしまう。

 では、もうじき夏山開きとなる『大山詣り』は、どんなルーツを持っているのか、本書から引用したい。
 さて、落語「大山詣り」の原話だが、他の落語に較べて、これまで諸書に指摘が見られ、広く知られている。その一つ、興津要『日本文学と落語』(1970、桜楓社)の「西鶴と落語」では、典拠を狂言「六人僧」として、これから、井原西鶴の浮世草子『西鶴諸国ばなし』(貞享二年・1685刊)巻一・七「狐四天王」へ、さらに滝亭鯉丈の滑稽本『大山道中膝栗毛』をはさんで、現行の上方落語「百人坊主」・東京落語「大山詣り」へ、という系譜を説明している。他の文献でも一様に、「百人坊主」の出典同様、「大山詣り」の原話を狂言「六人僧」としている。現在考えられるところで最も古い、この種の話柄である「六人僧」から、順に見てゆくことにした。古川久他編『狂言辞典』(東京堂出版)事項編より、その梗概を引用する。
   諸国仏詣を思い立ち、同行二人を誘って旅に出た男(シテ)が、仮にも怒る心など
   持つまいと提案し、互いに誓い合う。途中辻堂で一休みし男が寝入ると、他の二人が
   男の髪の毛を剃り落としてしまう。目をさまし驚くが誓言の手前怒れない男は、このような
   姿では具合が悪いからと一人別れて帰宅し、妻たちを呼び集めると、高野への途中紀ノ川で
   二人が溺れ死んだので、一人残った申し訳なさに僧形になって戻ったと言う。二人の妻は
   夫の菩提を弔おうと尼になるので、男はその髪を高野山へ納めようと再び旅立つ。そして
   高野山で同行の二人に出会うと、三人の仏詣をなじみの女に会いにいったと諫言する者が
   あって、二人は妻のさし違えて死んだと言い、証拠だと髪を見せる。二人は妻のあとを
   弔おうと剃髪する。さて帰郷すると、二組の夫婦は互いの生存を驚き喜び、男に詰め寄る。
   そこへ男の妻も尼になって出てくるので、これも仏の導きであろうと、出家三人・尼三人、
   男女別々に霊場を巡り後世(ごせ)を願おうと、名残りを惜しみ謡留めにする。(三百番)

 ここに引いた文字が示すとおり、ほぼ「大山詣り」の原形が完成されてしまっている。

 狂言に似た話がある、ということは薄々知ってはいたのだが、その内容までは知らなかった。

 中込さんのこの本、一度はざっと読んでいたはずなのだが、狂言の内容までは覚えていなかった。

 中込さんが偉いのは、実に粘り強く、一つの落語ネタのルーツを探ろうとしていること。
 この後、『西鶴諸国ばなし』の「狐四天王」と「お霜月の作り髭」の紹介が続いて、同じく西鶴の浮世草子『懐硯』の「水浴の涙川」の考察もしている。
 しかし、これらの話は、寝ている間に悪戯をする、という点で「六人僧」との類似点はあるものの、仲間の女房までを巻き込んでの復讐ネタとしての趣きはない。

 中込さん、まだまだ負けず(?)、十返舎一九の黄表紙『滑稽しつこなし』(文化二年・1805刊)の挿話に『大山詣り』の原形を見出そうとする。

 この挿話は、神田八丁堀の長屋に住む左次兵衛・太郎兵衛・権兵衛が江の島参詣に行って、という設定だが、ほとんど「六人僧」と同じ筋書き。

 結論として、狂言「六人僧」から着想を得た一九の『滑稽しつこなし』の挿話を母体として、落語「大山詣り」が産声をあげたとする見解を、「大山詣り」成立の主流としたい。
 ところで、一九よりも古い談義本に「六人僧」を生かし、さらに「大山詣り」の趣向にきわめて類似した説話があるので、その粗筋を引いておきたい。滑稽本『俗談唐詩選』(宝暦十三年・1763成立)巻之一「飲中八仙は口頭の交り」がそれである。

 「飲中八仙は口頭の交り」は、江戸橋辺の両替店の主人・知無多屋上戸郎(ちんたやじょうごろう)と酒飲み仲間の他の七人と屋形船に乗って・・・という設定で、上戸郎が髪の毛を剃られた後は、こちらも「六人僧」とほぼ同じ内容。

 『俗談唐詩選』の方が、一九の『滑稽しつこなし』より古いのだが、中込さん、このように書いている。

 これは、『滑稽しつこなし』に先行する、「大山まいり」と同趣向の説話として位置づけられる。ただ、一九と落語との深い関係を考えれば、『俗談唐詩選』から落語への直接的影響について、一九からの影響以上に強く言うわけにはいかないであろう。

 なるほど、十返舎一九と落語との深い関係、か。

 一九のことを、もう少し知りたくなった。

 この後、注記が二頁半続く。
 なにごとも疎かにできない、著者の個性が察せられる。

 「六人僧」から「滑稽しつこない」への飛躍、そして「大山詣り」という傑作落語への発展を知ることは、実に楽しい読書体験だった。

 もちろん、その噺を、多くの名人上手だちが、高座で磨いてきたからこそ、今も、我々が楽しむことができるわけだ。

 音源では、迷うことなく古今亭志ん朝。
 「志ん朝十八番」に、私はこの噺を入れている。
2012年2月3日のブログ

 現役では、多くの噺家さんが演じるが、なかでも春風亭一之輔が出色。

 まさに、この噺の似合う季節になってきたなぁ。

 もう少し、暑さがやわらいだら、寄席か落語会で出会いたいものだ。


 最後に本書の延広真治さんの「あとがき」から、少し引用。

 なお、文中の『会報』は、諸芸懇話会のそれである。

 『会報』二百三十六号(平成十三年十一月刊)に「追悼・古今亭志ん朝」を草して中込君は、悲嘆に打ちひしがれながらも次のように結ぶ。
   やはり、ここで、落語を見捨てるわけにはいかない。だから、精一杯力の限り新しい
   落語家に期待しよう。再び落語の黄金時代の到来が来ることを信じて、その日まで
   生きてゆこう。
 なんと子供たちが、毎朝「寿限無~」を唱える日がやって来たではないか。この寿限無世代が十年たてば木戸銭を持って寄席に通いだす。君の信じたとおり、「黄金時代の到来が来る」(管理人注:“到来が来る”に傍点)のは必至である。どうかその日を中込君、双眼で見定めてくれたまえ。そして傍点部のような表現が本文にも見受けられた場合には、手直ししたことを許してくれたまえ。

 四月二十一日 中込君三十九歳の誕生日に

 追記 四月三十日、中込重明君は白玉楼中の人となりました。奇しくも『明治文芸と薔薇』上梓の日でした。
 
 中込さんは昭和四十年の生まれ。延広さんは昭和十四年生まれなので、二回り以上も上なのだが、あとがきからは、同じ落語という芸を愛する同士としての熱い思いを感じる。

 残念ながら、中込さんの著作は、多いとは言えない。

 本書の内容は、今後も紹介していくつもりだ。

[PR]
# by kogotokoubei | 2018-07-19 21:18 | 落語のネタ | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛