噺の話

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『古典落語 正蔵・三木助集』(飯島友治編・ちくま文庫)

 白洲正子さんの本『西行』から、西行と崇徳院の関係について記事を書いた。

 落語の『崇徳院』について、『古典落語 正蔵・三木助集』をめくった。
 もちろん、三木助。

 飯島友治さんの冒頭の文章から、この噺の作者のことをご紹介。

 原作は上方落語中興の祖ともいわれる、桂派の創始者、初代桂文治(1815没、四十二歳、異説あり)である。文治は『崇徳院』のほか『竜田川』『口合小町』『反古染め(ほうごぞめ)』『昆布巻芝居』『按摩芝居』を初め、多くの制作と改作をつくり、また『臍の宿替』『道具太平記』『大開好色合戦』以下、落語本もたくさん残している。

 『竜田川』は、『千早ふる』のこと。
 あらためて、初代文治の偉大さが、分るね。
 引用を続ける。

 大阪の『崇徳院』とは別に、東京にも『皿屋』『花見扇』の名で、古くから同工の噺があった。これは人情噺『三年目』の発端ともいわれているが、現在は殆んど演(や)り手がなく、湮滅したも同然である。

 『皿屋』に『花見扇』か・・・・・・。
 誰か復活させてくれないものだろうか。

 噺の梗概について飯島さんは、今我々が知っている内容とは違うサゲを紹介してくれる。なお、捜索担当(?)は、若旦那側が本屋の金兵衛、お嬢さん側は、鳶頭(かしら)である。

 ある日披露困憊し、髪結床の羽目にもたれて、ついうとうとしていると、これもまたお嬢さんの親に懸賞付で頼まれた鳶頭が飛び込んできて、床屋の親方に、一部始終を話しているのを小耳にした金兵衛は、しめたとばかりその胸倉をとらえ「・・・・・・この扇子(おうぎ)に歌が書いてある。瀬をはやみ岩にせかるる滝川の、唐桟の上着に更紗の下着、燻んだ羽織に博多の帯、紙入れの中へ金が五十両!・・・・・・」と夢中にまくしたて、はては「うゥッもう目が見えぬ、うゥゥん」と気絶したが、それでも鳶頭の胸から手を離さない。そこで鳶頭が「おいッいいかげんにしろッ苦しくてならねえ、ここォ放せ」ようやく気のついた金兵衛は「いいや、放すんじゃァねえ、合わせ(結婚)て貰うんだ」というのである。
 上方の古い型は、舞台を京都の清水観音堂にとり、なれそめは、双方が供に連れて来た小僧同士が喧嘩を始め、仲裁に入った若旦那に、お嬢さんがぽォッと赤くなって礼を言い、扇子の上の句を達筆にすらすらと書いて渡すのが、きっかけとなる。

 原作は、ずいぶん筋書きもサゲも違っていたんだねぇ。

 「放せ」と「合わせ」、その「合わせ」で「結婚」を意味するサゲ・・・・・・。
 今では、さすがに通じにくい。
 
 だから、三木助は、筋書きもサゲも工夫し、また、独自のクスグリによって、十八番のネタとして練り上げた。

 その三木助のクスグリについて、なかなか興味深いことが書いてあった。

 お嬢さん側鳶頭に「一昨日(おととい)の朝、北海道代表が発ちましてねェ、昨日の朝九州代表が発ってねえ、あたしが四国代表でね」「都市対抗だね、まるで・・・・・・」のやりとり〔本文では削除〕は、楽しく聞けるに相違ないが、それは生前に、一部から批判された。しかし師匠はその演出については、大変な自信をもっており、筆者がその間の事情を問いただしたところ、次のような比喩をもって答えた。「こっちにくさやの干物があって、板わさがあって、ちょいとチーズのあるのが好きで・・・・・・」というのである。

 今日の噺家さんなら、旬のネタで「一昨日の朝、コロンビア代表が発ちましてね、昨日の朝セネガル代表が発ってねえ、今朝はポーランド代表が発った」「サッカーワールドカップだね、まるで・・・・・・」とでも言いそうだ。


 最後のたとえは、なかなか深~い言葉。

 くさやの干物があって、板わさがあって、ちょいと○○○があるのが好き。

 噺家さんによって、この○○○の中に入るものは違うだろう。

 もちろん、好みによる。

 私は、チーズ、いいと思う。

 アボカドは、遠慮する。

 この噺、今では東京の多くの噺家さんも演じる。

 私が、忘れられない高座は、生で一度だけ出会うことができた、2012年8月の、六代目笑福亭松喬、JAL名人会の高座だ。

2012年8月29日のブログ

 音源は、三木助はもちろん良いのだが、志ん朝もこれまた名演。

 実は、9月の同期会、12月のテニス合宿、この『崇徳院』に挑戦しようかと、思っている。

 でも、まだ分からない。

 くさやと板わさに合う、クスグリも考えなければ^^

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# by kogotokoubei | 2018-06-03 18:45 | 落語の本 | Comments(4)

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白洲正子著『西行』

 さて、この本から崇徳院と西行について、二回目の記事。

 少しおさらい。

 白洲さんがある本を元にした推理では、西行が出家を決断した背景にあると思われる失恋の相手は、鳥羽上皇の中宮(妻)となった待賢門院(たいけんもんいん) 璋子(たまこ)であるらしい。

 待賢門院は、白河法皇に幼い頃から可愛がられていた。その結果、二人の間に子供(崇徳院)ができてしまった。

 崇徳院は、父の鳥羽上皇の子ではなく、上皇の祖父白河法皇と母の待賢門院との間の不義の子であるために、上皇に疎まれていた。

 白河法皇の崩御をきっかけに、時代は不穏な空気に包まれていく。
 上皇は、寵愛していた美福門院得子との間にできた子の体仁(なりひと)親王を崇徳院の養子にさせることで、崇徳院が院政を執ることができないようにした。

 これは摂政藤原忠通の策謀といえた。

 待賢門院は心労もあって、崩御。

 と、ここまでが前の記事からのいきさつ。

 さて、それでは、あらためて本書から引用。

 生まれながらに暗い影を背負わされていた崇徳院には、悲しい歌が多いのであるが、その日その日を生きること自体が、薄氷を踏むおもいであったに違いない。

  早瀬川水脈(みを)さかのぼる鵜飼舟 
  まづこの世にもいかが苦しき

  (中 略)

  憎しむとて今宵かきおく言の葉や
  あやなく春のかたみなるべき

 最後の歌は詞花和歌集に、「三月尽の日、うへのをのこどもを御前に召して、春の暮れぬる心をよませさせ給ひけるに、よませ給ひける 新院御製」としてあり、いつ頃の作かはっきりしたことは知らないが、「今宵かきおく言の葉」が、いつ何時「かたみ」となるかも知れないことを、懼れていられたのではなかろうか。

        *

 やがて病弱な近衛天皇が夭折すると、崇徳院の同母弟の雅仁親王(後の後白河天皇)が即位され、「われても末にあわむとぞおもふ」望みはついに断たれてしまう。それと同時に頼長も、近衛天皇を呪詛したかどで宮廷から完全に閉めだされてしまった。実はそれだけの理由ではなく、長い時間をかけて忠通が裏でさまざまの工作をしたのであるが、それは歴史の本を読めばわかることだから触れずにおく。

 実は、崇徳院が、これほどまで不幸に見舞われた人だとは、本書を読むまで知らなかった。
 西行のことを知りたいと思って読んでみて、この本からは他にも多くのことを教えられている。
 肝腎の西行の歌は、あまり覚えることができていないんだけどね^^

 そうそう、その西行と崇徳院とのこと。
 再び、引用する。

 保元の乱が何日にはじまったか、はっきりしたことはいえないが、七月八日に天皇方が頼長の東三条邸を襲ったのが最初の合戦で、十一日の朝にはあっけなく終っていた。崇徳院は出家して、弟の覚性(かくしょう)法親王のいられる仁和寺へ逃亡し、頼長は流れ矢に当って死んだという。
 この時、西行は、いち早く仁和寺の崇徳院のもとは伺候した。

     世の中に大事いできて、新院あらぬ様にならせおはしまして、御髪(みぐし)
     おろして仁和寺の北院におはしましけるにまゐりて、兼賢阿闍梨(けんげん
     あざり)いであひたり、月明(あか)くてよみける
  かかる世にかげも変らずすむ月を
  見るわが身さへ恨めしきかな

 保元元年といえば、西行が高野山で修行していた時代で、鳥羽上皇の葬送に参列したばかりか、敗残の崇徳院のもとへも馳せ参じているのである。当時の情況としては、これは中々できにくいことで、まかりまちがえば殺されかねない。西行は覚悟の上で実行したのであろう。この歌にも、止むに止まれぬ崇徳院への思いがこもっており、世が世なれば自分も院に味方して、命を落したであろうにと、生きて今宵の月を見ることが悔まれたに相違ない。これで私たちははじめて崇徳院に対する西行の真情を知ることができるのであるが、それは単なる判官びいきとか、主従の情愛とかいうものではなくて、長年の間に育くまれた人間同士の理解の深さによるのではないかと思う。

 (中 略) 
 
 西行(1118生)と、崇徳院(1119生)は一つ違いで、頼長(1120生)ともほぼ同年輩であった。「悪左府(あくさふ)」と呼ばれた学者の頼長は、強い性格の持主で、欠点も多かった半面、情熱家であったことは、西行の出家を大げさに賛美したことでもわかるが、この三人に共通する性格は、「純粋」であったことだろう。政治家の中でもっとも悪辣な忠通と太刀打ちできる筈はなく、勝敗は保元の乱で戦う以前にきまっていた。その中で、西行は身分の低いためもあって、早くに自己に目覚めて出家することができたので、別に来たるべき惨事を予見していたわけではあるまい。が、詩人の敏感さから、世の中の趨勢に不安を感じ、安心を得たいと願っていたことは、左のような歌からも想像がつく。

   惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは
   身を捨ててこそ身をも助けめ

 これは出家するに当り、鳥羽院においとまを述べに行った時の歌であるが、年齢の近いせいもあって、西行が親近したのは、御子の崇徳院の方であったと思う。その上、崇徳院はすぐれた歌人であり、数奇の好みにおいても西行と共通するところが多かった。

 乱のあった保元元年(1156)、西行は四十八歳、崇徳院が四十七歳。

 寿命の短い時代とはいえ、本来であれば盛りと言える年齢において、二人は辛い出会いをしたのだろう。

 西行にとっては憧れの女性、崇徳院のとっては母であった待賢門院がつないだ縁。

 白洲さんが、“長年の間に育くまれた人間同士の理解の深さ”を物語る逸話が紹介されている。

 西行が崇徳院の知遇を得ていたのは、ただ和歌の上ではなかったように思われる。

      縁(ゆかり)有りける人の、新院の勘当なりけるを、許し給ふべき由、申し入れ
      たりける御返歌に
   最上川つなでひくともいな舟の
   しばしがほどはいかりおろさん  (崇徳院)

      御返(をんかへし)奉りける
   強く引く綱手と見せよ最上川
   そのいな舟のいかりをさめて   (西行)

 西行に縁のある人が、崇徳院に勘当されたので、その許しを願った時、院から御返事を頂いた。
 -最上川では上流へ遡る稲舟を綱で引くというが、もうしばらくの間はこのままで、いかりを下しておこう、という歌で、いな舟を「否」に、いかりを「怒り」にかけて、そなたがいくら取りなしてもまだ許しはしない、という意味である。「つなで」が「なべてひくらむ」となっている場合もあるが、これは綱手の方がわかりやすいし、似合ってもいる。
 それに対して西行は、-私が一生懸命お願いしていること(強く引く綱手)をお察し下さって、お怒りをおさめて下さいましと、たくみに言い返したのである。「かく申したりければ、許し給びてけり」と記してあり、崇徳院は西行の歌に免じて勅勘を解いたのであろう。「縁有りける人」は誰だかわからないが、一説には、俊成のことだともいわれており、崇徳院と俊成と西行の間には、和歌を通じて切っても切れぬ縁があったのである。それはとにかく、西行が縁者の赦免のために、直接崇徳院と交渉できるほど信頼されていたことは、心にとめておいていいことだ。


 この和歌による二人の会話の、なんとも雅で、かつ智に富んでいることか。


 待賢門院は、康和3年(1101)生まれなので、西行の十八も上だった。

 亡くなったのは、久安元年(1145)。

 保元の乱による崇徳院の無残な姿を見ることがなかったのは、もしかすると幸いだったのかもしれない。


 西行、そして、崇徳院。
 ある女性を媒介にして、また、和歌で通じ合っていた二人。

 よもや、後世に落語のネタにされるとは、想像していなかったに違いない。

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# by kogotokoubei | 2018-05-31 12:36 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

  瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
  われても末にあはむとぞおもふ

 有名な崇徳院の作。
 落語愛好家の方は、よくご存知^^


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白洲正子著『西行』

 白洲正子さんの『西行』から、今度は、西行と崇徳院に関して。

 落語の『西行』でも登場する「あこぎ」という言葉を、まだ出家する前の佐藤義清(のりきよ)に言ったのは、待賢門院であっただろう、という白洲さんの推理のことを前の記事で紹介した。

 崇徳院は、その待賢門院の子。しかし、待賢門院の夫である鳥羽天皇(後の上皇)の子では、ない。

 本書「讃岐の院」から、引用。

 保元の乱につづいて平治の乱、源平の合戦から承久の乱に至るまで、それらの戦いは皆ひとつづきのもので、さしも強力であった朝廷の権力は、怒涛のように崩れ去るのであるが、中でも凄惨をきわめたのは崇徳天皇の生涯であった。
 天皇が、白河法皇と待賢門院璋子(たまこ)の間に生れた不義の子であったことは、周知の事実であり、父親の鳥羽上皇は、「叔父子(おじご)」と呼んでおられた。
 白河法皇が六十を過ぎて、当時十代の璋子を可愛がるあまり身ごもらせてしまったのだが、白河法皇は孫の鳥羽天皇に璋子を中宮(天皇の妻)とさせた。
 
 表向きは平穏でも、こうした親子の間柄ほど複雑で、陰湿なものはない。白河法皇が崩御になると、前(さきの)関白太政大臣忠実の娘が後宮に入って、皇后に冊立(さくりつ)され、ついで美福門院得子が、鳥羽上皇の寵愛を一身に集めるようになる。

 関白太政大臣藤原忠実は、前の記事で、待賢門院がふしだらな女性であることを日記に書いた人物であったことを、紹介した。

 白河法皇に疎まれていたが、法皇の崩御で、権力を取り戻したのである。

 鳥羽上皇も、目の上のたんこぶだった白河法皇がいなくなれば、自分の時代、とばかりに好きなことを始めた。
 寵愛した美福門院得子に子供ができた。
 天皇の母であった待賢門院は、徐々にその立場を失い始める。

 それが表面に現れたのは、得子の産んだ体仁(なりひと)親王(後の近衛天皇)を皇太子に立て、崇徳天皇に譲位をせまられた時のことであった。
 その時天皇は二十三歳で、体仁親王を養子にしていられた。させられていた、というべきかも知れない。それは得子の身分が低いので箔をつけるためであったが、親王はわずか三歳で即位し、譲位の宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」と記されていた。これはきわめて重要なことで、皇太弟では、退位後に上皇は院政を執ることができないだけでなく、子孫を皇位につける望みもあやしくなる。「愚管抄」には、「コハイカニト又崇徳院ノ御意趣ニコモリケリ」と、鳥羽上皇に恨みを抱かれたことが記してあるが、実際には殺生忠通の策謀によるものであったらしい。

 白河法皇の崩御から、一気に激動の時代に突入する。
 皇室や摂関家が敵味方に別れて戦うことになるが、メインプレーヤーとして登場したのが、藤原忠通(ただみち)だった。

 忠通は、忠実の長男で、実直な父親とは違って、奸智(かんち)にたけた政治家であった。一方、次男の頼長は、愚管抄に「日本第一の大学生(だいがくしょう)」と称賛されたほどの大学者であったから、父親に愛され、兄の忠通とはことごとに反目し合っていた。どちらかといえば、一本気で、融通のきかない忠実・頼長父子と、天才的な策士である忠通との二派にわかれた摂関家の内紛が、皇室の内部にまで影響を及ぼし、保元の乱の要因となったことは疑えない。

  瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
  われても末にあわむとぞおもふ

 百人一首で有名な崇徳院の御製である。永治元年(1141)譲位して間もなくの作とかで、『詞花和歌集』では「恋 題不知」となっており、「谷川」が百人一首では「滝川」に変っている。一応はげしい恋の歌には違いないが、岩にせきとめられて、二つに分かれた急流が、やがては一つになって逢うことができるであろうという信念は、崇徳院の皇統が、いつかは日の目を見ることを切に願っていられたことを暗示している。
 そのころから母后の待賢門院も落胆のあまり出家して、病がちとなり、四年目の久安元年(1145)崩御になった。

 保元の乱において崇徳院の敵方には、源義朝と平清盛も、仲良く加わっていた。

 さて、西行が失恋のあまり出家することになった待賢門院の子、崇徳院が窮地に陥り、西行はどうしたのか・・・・・・。

 次の記事で、ご紹介したい。

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# by kogotokoubei | 2018-05-30 12:27 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

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白洲正子著『西行』

 落語の『西行』でも重要な要素となる、北面の武士、佐藤義清(のりきよ)が出家するきっかけとなった、ある失恋。

 なお、北面の武士とは、平安時代に院の御所の北面 (きたおもて) に居て,院中を警固した武士のこと。白河上皇のときに設置された。この白河上皇は、本記事で後半に登場する。
 なお、院の御所とは、上皇の住まいのこと。
 上皇とは、皇位を後継者に譲った前の天皇のことであり、太上天皇(だいじょうてんのう)と呼ばれる。なお、出家した上皇を、法皇と呼ぶのだよ。

 さて、落語では、西行をふった女性は、染殿の内侍という設定だが、これは、あくまで作り話。

 白洲正子さんの『西行』から、いったいどの高貴な女性が「あこぎ」と言ったのか、白洲さんの推理をご紹介。

 その推理には、ある本が大きなヒントとなっている。

 先日、角田文衛氏の『待賢門院璋子(たまこ)の生涯』(朝日選書)を読んで、「申すも恐ある上﨟」とは、鳥羽天皇の中宮、待賢門院にほかならないことを私は知った。角田氏は極めて慎重で、そんなことは一つも書いていられない。が、実にくわしくしらべていられるので、読者はいやでもそう思わざるを得ない。
 (中 略)
 待賢門院璋子は、康和三年(1101)、正二位権大納言藤原公実(きんざね)の末子に生れた。公実の子の実能(さねよし)、-璋子の兄に当る人が嵯峨んび徳大寺を建立したので、その後は「徳大寺殿」と呼ばれるようになるが、西行がその家人だったことは前に記した。

 なるほど、佐藤義清と待賢門院(たいけんもんいん)が、この徳大寺で出会ったことは、十分に考えられる。

 その待賢門院璋子とは、どんな女性だったのか。

 璋子は生れてすぐの頃から、白河法皇の寵妃、祇園女御の養女となり、以来、院の御所で生活するようになる。父の公実は美男であったというから、幼時からすぐれて美しい子供であったらしい。白河法皇が、孫のように可愛がられた逸話が『今鏡』にある。
   をさなくては、白河院の御ふところに御足さしいれて、ひるも御殿ごもり
   たれば、殿(関白忠実)などまゐらせ給ひたるにも、「ここずちなき事の
   侍りて、え自づから申さず」などといらへてぞおはしましける。(宇治の川瀬)
 法皇のふところに足をさし入れて、昼も添寝をしていられたとは、何とも不思議な情景である。「ずちなき事」は術なきこと、仕様がないという意味で、関白が参内しても、今、手の離せない事情があって、答えるわけには行かないと、法皇がいわれたのもおかしなことである。いくら相手が幼い子供でも、妙に色っぽい話で、法皇がふくみ笑いをしながら、関白を追払っていられる様子が目に見えるようである。
 そのようにして、天下第一の専制君主と、その寵妃に甘やかされて育った姫君の将来に、どんなことが起ったか。先ずはっきりしているのは、法皇が璋子を寵愛するあまり、ついに手をつけられたことで、その関係は、彼女が鳥羽天皇の中宮になった後もつづいて行く。光源氏と紫上の情事を思わせるが、いかに男女の仲が自由であった時代でも、これは異常のことで、しまいには璋子を自分の孫(鳥羽天皇)の中宮に据えてしまうのだから、言語道断というほかない。

 なんとなんと、璋子は、そういう環境で育ったのであった。
 この後、白洲正子さんは、前述の角田さんの本を元に、最初の関係が、白河法皇が六十歳を過ぎ、璋子が十三歳の時と推察している。

 現代なら、間違いなく、犯罪だ^^

 法皇は、璋子の将来のことを心配もし、その婿探しをしている。
 白羽の矢が立てられたのは、関白忠実の息子、忠通(ただみち)だったが、忠実は応じなかった。
 そりゃそうだろう、法皇が幼い頃から璋子を、尋常ではなく可愛がっていたことを、忠実は知っているのだからねぇ。

 結局、璋子は法皇の孫、鳥羽天皇のもとへ入内。
 永久五年(1117)のことで、天皇は十五歳、璋子が十七歳の時。
 
 いよいよ入内がきまった時、忠実ははじめて日記(『殿暦』)に、このようなことを 暴露した。
 -件の院の姫君は、備後守季通(すえみち)と通じており、世間の人々は皆このことを知っている。「不可思議也」。その他いろいろの噂が耳に入り、とても真実とは思えないが、世間周知の事実であるのだ、と。

 忠実は、その後も日記に、璋子が他の者とも密通している、と書き残している。
 しかし、白洲さんが参考にした本において、著者角田氏は、忠実が書いている季通は、そんな好色な人物とは思えない、と疑問を呈している。

 そんな噂が立つほどの美女、璋子と西行、佐藤義清は、璋子の兄が建立した徳大寺で出会い、一夜をともにし、そして、その後、待賢門院璋子が、西行に「あこぎの浦ぞ」と言ったことは、十分に推定できる。

 この待賢門院は、鳥羽天皇の元に入内した後に子を何人か生むのだが、そのうちの一人が、白河法皇との子と鳥羽天皇も疑った、後の崇徳院なのであった。

 西行、そして、彼を取り巻く環境には、何かと落語との関係が深いのである。


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# by kogotokoubei | 2018-05-28 12:54 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 落語に『西行』がある。
 二代目、そして三代目三遊亭円歌の十八番だったようだ。

 内容は、西行が、天皇の側室、染殿の内侍に一目ぼれして、歌を交わすうちに内侍に気に入られ一夜をともにする。西行が「またの逢瀬は」と問うと、「阿漕であろう」と返される。その「阿漕」の意味がわからなかったが西行だが・・・とサゲにつながる。

 西行が登場する落語は、他に『鼓ケ滝』がある。

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白洲正子著『西行』
 
 先日、自宅付近の古書店で、文庫ばかり五冊手に入れた。
 そのうちの一冊が、この白洲正子さんの著『西行』だった。

 落語の『西行』でも、染殿の内侍の「阿漕」という言葉の説明があるが、もう少し、この言葉の背景や、西行という人について、本書で知ることができた。

 西行、元は北面の武士佐藤義清’のりきよ)が出家した理由は、『西行物語』では、親友の佐藤範康の急死にあると、されているらしい。

 本書より引用。

 西行物語によると、その前日に鳥羽法皇の命により、西行こと佐藤義清は、御所の障子に、十首の歌を一日のうちに詠んで奉ったので、褒美に「あさひまろ」という太刀を賜わった。また、待賢門院の方へも召されて、美しい御衣の数々を頂戴したため、衆人は驚き羨んだだけでなく、家族の人々にも大いに面目をほどこしたという。
 さて、その夜は同じ北面の武士の佐藤範康とともに退出し、翌朝範康の家へ行くと、ン門前で多くの人々が立ち騒いでいる。何事が起こったのか問い質すと、殿は今宵亡くなられましたと、十九になる若妻と、八十を越えた老母が、身も世もあらず嘆き悲しんでいる。義清は夢に夢みる心地がして、人の命のはかなさを痛切に思い知らされるのであった。
 (中 略)
 それを機に義清は出家に踏み切るのであるが、『源平盛衰記』は、ぜんぜん別の物語を伝えている。

 引用部分、「翌朝」訪ねたのに、「今宵」亡くなった、というのは少し変なのだが、これは本書のまま。

 いずれにしても、つい前日まで一緒だった二歳年上の同僚の突然の死が、佐藤義清に与えた精神的なダメージは多きかったとは思う。
 しかし、『源平盛衰記』は、別な物語を伝えているらしく、その物語とは何か気になる。
   さても西行発心のおこりを尋ぬれば、源は恋故とぞ承る。申すも恐ある
   上﨟(じょうらふ)女房を思懸け進(まひ)らせたりけるを、あこぎの浦
   ぞと云ふ仰(おはせ)を蒙りて、思ひ切り、官位(つかさくらゐ)は春の
   夜見はてぬ夢と思ひなし、楽み栄えは秋の夜の月西へと准(ながら)へて、
   有為の世の契を逃れつつ、無為の道にぞ入りにける。(崇徳院のこと)
 西行の発心のおこりは、実は恋のためで、口にするのも畏れ多い高貴な女性に思いをかけていたのを、「あこぎの浦ぞ」といわれて思い切り、出家を決心したというのである。「あこぎの浦」というのは、

  伊勢の海あこぎが浦に引く網も
  たびかさなれば人もこそ知れ

 という古歌によっており、逢うことが重なれば、やがて人の噂にものぼるであろうと、注意されたのである。
 あこぎの浦は、伊勢大神宮へささげる神饌の漁場で、現在の三重県津市阿漕町の海岸一帯を、「阿漕が浦」「阿漕が島」ともいい、殺生禁断の地になっていた。そこで夜な夜なひそかに網を引いていた漁師が、発覚して海へ沈められたという哀話が元にあって、この恋歌は生れたのだと思う。或いは恋歌が先で、話は後からできたという説もあるが、それではあまりにも不自然で、やはり実話が語り伝えられている間に歌が詠まれ、歌枕となって定着したのあろう。

 この後、世阿弥が作曲した『阿漕』の能について書かれている。

 漁夫のざんげ物語が、いつしか西行の悲恋の告白に変って行き、「阿漕々々といひけんも、責一人に度重なるぞ悲しき」と、前シテの老人が泣き伏すところなど、まるで西行がのりうつって、恨みを述べているかのように見える。
 室町時代になると、「あこぎ」という詞(ことば)と、西行は、切り離せないものになっていたことを示しているが、ものもとあこぎには、厚かましいとか、しつこいという意味があり、今私たちが使っているような、ひどいことをする、残酷である、という言葉とは違う。時代を経るにしたがって、ものの見かたの立場が変って来たのである。だから「あこぎの浦ぞ」といわれることは、最大の恥辱であったのだが、では、そんな冷酷な言葉を誰が投げつけたのかといえば、ただ「申すも恐ある上﨟女房」とあるのみで、相手は誰ともわかってはいない。朝廷に仕える女房たちとなら、西行は自由に交際していたし、源平盛衰記も、「申すも恐ある」とはいわなかったであろう。このように高飛車な言が吐けるのは、よほど身分の高い「上﨟」に違いないのである。

 あこぎ、という言葉、よほど酷いことをする相手に対しても、そう簡単には言えない。

 さて、ではいったい、どんな高貴な女性が、西行に「あこぎ」と言ったのか・・・・・・。

 佐藤義清の当時の勤務先(?)や、特別な環境で過ごしたある女性に着目した白洲正子さんの推理については、次の記事でご紹介。


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# by kogotokoubei | 2018-05-27 19:12 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

根岸の件、補足。

 一昨日の根岸に関する記事に、「あの落語家一家」という表現を使ったが、鍵コメで、その一家について蔑んでいる、との批判をいただいた。

 まったくそんなつもりではなく、今日「根岸」と言うと、落語愛好家のみならず、「ねぎし三平堂」の存在が大きすぎて、過去に子規など多くの文人・墨客が暮らした地であることが忘れられる傾向にあるとの思いが、あの記事を書いた背景にある。

 まぁ、頻繁に拙ブログにお立ち寄りいただくほとんどの方は、誤解なく受け取っていただいているとは思うが、どうにも、自分の気持ちがおさまらないので、補足しておきたい。

 前回の記事で、根岸の地に「ねぎし三平堂」があることや、三代目金馬、そして「根岸の文治」と言われた八代目桂文治が住んだ地であることは、割愛した。

 それは、かつては、子規をはじめ、落語家以外の文人・墨客がたくさん愛した土地が、根岸だったということを、伝えたかったからである。

 あらためて書くが、私は、初代三平のことや奥さんの海老名香葉子さん、三平の父である七代目林家正蔵について、批判的に見ているということはない。

 たとえば、以前、ちくま文庫『東京百話-人の巻-』から、海老名香葉子さんのエッセイ「竿忠の家」について、記事を書いている。
2015年8月19日のブログ
 あの方の反戦を訴える活動も、尊いものだと思っている。

 また、昨年、『源平盛衰記』について、初代三平のことを書いた記事もある。
2017年2月19日のブログ
 談志は、あのネタを三平から教わったことなどを紹介した。

 では、七代目正蔵については、どうか。
 音源も少し持っているが、初代三平のクスグリが、父譲りだったことが、よく分る。
 軽い口調の楽しい高座なのだ。

 また、2015年12月に、NHKの「ファミリーヒストリア」で、七代目正蔵の『相撲風景』を見た。実に貴重な記録だと思う。
2015年12月6日のブログ

 この時の記事には、九代目正蔵が、祖父に関する映像を見ての、「初めて知った」という反応に、違和感を覚えたことも書いている。

 Wikipediaででも分ることなのに・・・と思ったものだ。
 「正蔵」という名を襲名するにあたって、祖父のことなども調べただろう、と思うのだが。

 また、あの時の「ファミリーヒストリア」は、最後が「ねぎし三平堂」の宣伝のような構成になっていて、がっかりした。

 
 あらためて書くが、七代目正蔵、初代三平、そしてエッセイストであり反戦活動家である海老名香葉子さんについては、何ら悪い印象はない。

 しかし、幻の林家九蔵襲名に関する記事で書いたように、今の海老名家は、何か勘違いをしているのではないか、という思いがあるのは事実だ。

 九代目の正蔵は、こぶ平時代からメディアに頻繁に露出していたこともあり、NHKも含めて大事にされているだろうし、そういった人気や人脈も踏まえ、落語協会の副会長にもなったのだろう。

 弟の二代目三平も、なぜあの人気番組のレギュラーになったのかは、海老名家というブランドの大きさも、間違いなく左右しただろう。

 好みももちろんあるが、当代正蔵と三平の落語について、私は良い印象を持っていない。

 それは、あくまで特定の噺家さんへの芸の評価。

 是々非々なのであって、七代目正蔵、初代三平の芸については、決して悪く書いたことはない。

 ただし、香葉子さんも、他の親のように、年齢を積み重ねるうちに、自分の子供が可愛いあまりに、周囲への目配りができにくくなってきたのかな、という思いはある。

 あの林家九蔵襲名問題については、いろんな意見があると思う。
 たしかに、根岸にもっと早く伺いを立てていれば、と私も思うが、もし、海老名家が快く三代目九蔵の襲名を認めていたら、周囲もあの一家を好意的に思っただろうに、それが残念だ。

 こんなことを書くと、また、反対意見の方から批判がありそうだな・・・・・・。
 
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# by kogotokoubei | 2018-05-23 12:48 | 落語の舞台 | Comments(10)

根岸のこと。

 今日は二十四節気の小満だが、先日、柳家小満んの『茶の湯』を楽しんだ。

 舞台となった根岸は、今日では、ある落語家ご一家が住む地という印象が強いが、あの地については、少し認識をあらためる必要があると思う。

 二冊の落語関連本からご紹介したい。

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 まずは、北村一夫さんの『落語地名事典』(昭和53年、角川文庫)より。
 前半には、根岸が登場する落語の抜粋が並ぶ。

根岸

 ・・・・・・いろいろ思案した結果、おいらんを身請けして根岸の里へ妾宅をかまえてかこいました・・・・・・「悋気の火の玉」
 ・・・・・・日も長々と六阿弥陀、五阿弥陀ぎりで、引っ返し、根岸へまわった罰あたり・・・・・・「芝居風呂」
 へェ、東京といえば東京でございますが、モウ片ッ隅でございまして、根岸の御院殿の傍におりました・・・・・・「猫の茶碗」
 むすこさんは、江戸っ子でございますから、風流も心得ておりました、根岸に別荘がございます・・・・・・「茶の湯」
                            (他、「お若伊之助」)
▼台東区根岸一ー五丁目のうち。
 かつては呉竹の根岸の里といわれた閑静な地で、音無川が流れ、鶯や水鶏(くいな)の名所だった。地内に時雨ヶ丘、御行の松、梅屋敷、藤寺などがあった。文人の住居や大商人の寮などの多かったところである。
▼光琳風の画家で、文人としてきこえた酒井抱一、町人儒者亀田鵬斎、『江戸繁盛記』の著者寺前靜軒をはじめ、文化・文政頃からこの地に住んだ有名人ははなはだ多い。
  山茶花や根岸はおなじ垣つづき 〔抱一〕
 明治期には饗庭篁村(あえばこうそん)、多田親愛、村上浪六、幸堂得知、正岡子規などがここに住んだ。有名人である点では、ここに豪壮な妾宅をかまえていた掏摸の大親分仕立屋銀次もひけはとらない。

 子規の句。
  妻よりも 妾の多し 門涼み

 子規が主催した根岸短歌会は、後にアララギ派に発展した。

 だから、以前は多くの方が、根岸->子規、という連想をしたはず。

 また、根岸短歌会のことや饗庭篁村らの文人のことを、根岸派と呼んだ。

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吉田章一著『東京落語散歩』(角川文庫)

 吉田章一さんの、平成9(1997)年に青蛙房から最初に発行された『東京落語散歩』からも引用したい。

 天王寺の前の芋坂を進んで鉄道を越える。通りに出た右角にある羽二重団子の店(荒川区東日暮里五ー54-3)は、文政二年(1819)に創業し、藤棚があって藤の木茶屋といわれた。餡と醤油だれの団子を供す。圓朝人情噺にも登場し、明治以後文人にも親しまれた。
 このあたりから根岸の里(台東区根岸)になる。元は今の荒川区東日暮里四・五丁目と一緒に金杉村といったが、明治二十二年に音無川以南が下谷区に編入されて、今の根岸一~五丁目になった。呉竹の里ともいい、台東区根岸二ー19~20が輪王寺宮の隠居所御隠殿の跡である。公弁法親王が京から取り寄せた訛りのない鶯数百派を放って鶯の名所となった。弘化四年(1847)から関東大震災まで、梅屋敷(根岸二ー18)周辺で鶯鳴き合わせ会が催された。文人墨客が住み、茶の湯、悋気の火の玉にあるように隠居所や妾宅が多かった。

 鶯谷の地名の由来が、紹介されているねぇ。

 輪王寺宮の名前を見ると、吉村昭の『彰義隊』を思い出す。

 『落語地名事典』と重複もあるが、もう少し引用する。住居の番地は割愛。

 そのほか根岸には次のような多くの文化人たちが住んだ。
 俳優市川白猿、伊井蓉峰、画家酒井抱一、谷文晁、北尾重政、初代及び二代目柳川重信、岡倉天心、儒学者亀田鵬斎、『江戸繁盛記』も作家寺門靜軒、寺堂得知、森田思軒、俳人河東碧梧桐、寒川鼠骨、漢学者大槻如電・国語学者大槻文彦、浜野矩随の門人の彫刻家、二代目浜野矩随。


 今日、根岸は、どうしてもあの落語家一家の住む地、という印象が強いのだが、少し歴史を紐解いてみれば、根岸の印象は変わる。

 根岸、子規をはじめ多くの文人・墨客が住んだ地だったんだよね。


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# by kogotokoubei | 2018-05-21 12:23 | 落語の舞台 | Comments(4)
 久しぶりに、この会へ。

 奇数月の開催だが、何かと野暮用と重なり、一月と三月は行けなかったので、今年初。
 会場に着いた時は、開口一番、林家彦星の『道具屋』のサゲ近く。
 なんとも、棒読みだなぁ。

 できるだけ静かに、空いている席に座った。

 客の入りは、80人位だったろうか。200席の会場なので、それほど空虚感は、ない。
 小満んのネタ出しされている三席、順に感想などを記す。

柳家小満ん『花色木綿』 (30分 *18:45~)
 結論から。絶品だった。
 ネタ出しが『出来心』だったが、『花色木綿』としたほうがよいだろう。
 寄席でも、宵のうち泥棒ネタが多く、これは「お客さんの懐に飛び込もう、ということで」というマクラそのもので、しっかり、聴く者の懐に飛び込んできた。
 「(泥棒に入る時は)裸足で入っちゃいけねえ。足の油で、ぬちゃっと音が出る」というのは、初めて聞いた。
 軽い口調なのだが、そのリズムが、この日は実に良かった。たとえば、出来の悪い泥棒の新米が「やじり切りに入りました」と言うと、師匠(?)が「土蔵破りか」と即座に答えるあたりの呼吸が、なんとも心地よい。
 しかし、「親分、それが大笑い」と新米。間違って寺に入って、墓場に抜けたという大失敗。「星を見て気が付いた」「そら、見たことか」などのクスグリも、なんとも可笑しい。「せっかくだから、卒塔婆を持って来た」「そんなもん、何にする」「カンナで削って、冬にスキーでもできるかと」なんてぇ軽妙なやりとりが続く。
 こじんまりしていて綺麗に掃除がしてあって、電話のあるような家に入るんだ、と言われた新米「そういう家に入ったんですよ、親分。それが、大笑い」なんと、そこは交番。「つかまるのに、世話がない」と言う新米が、楽しい。
 空き巣狙いに出かけた新米泥棒の失敗が続く。最後の長屋、入るとケヤキの如鱗杢の長火鉢があり、南部の鉄瓶にお湯が沸いている。鍋の中には、出来立てのおじや。
 これ幸いとおじやを食べる場面が絶妙。「あわてちゃいけねぇぃ。あわてて出世したのは、ボラばかり」などと呟きながら、丁寧に椀のおじやを箸でぬぐって食べていると、外から人の声。そこの住人、八五郎が帰ってきたのだ。裏は崖で逃げられないので、縁の下へ。
 新米泥棒、一軒前の家で慌てて逃げたので、下駄を置いてきた。その汚い足で上がったから、足跡がついている。「泥棒か!?」と驚く八五郎だが、ちょうど家賃がたまっていたので、この泥棒が貯めていた家賃を盗んだことにしよう、という悪知恵が浮かんだ。
 大家を呼んでくると、警察に盗難届を出すから、盗まれたものを言え、と言う。
 実際に盗まれたものは、干してあった褌と、おじや(食い逃げ)だけなのだが、金の茶釜や布団などを挙げる八。大家「布団の表は」「表は、にぎやか」などのトンチンカンな会話が、笑える。八五郎が、大家さんの家の布団と同じと言うと、「表が唐草、裏は花色木綿」ということになり、それからは、黒羽二重も帯も箪笥までも「裏は、花色木綿」と八五郎が
馬鹿の一つ覚えで繰り返すのだが、分かっていても、実に笑える。
 そんな会話の中にも、大家は「蚊帳は一張り」「刀は、一振り」などと数えるんだと教える場面があり、落語はいろいろタメになるのだ。
 縁の下で聞いていた泥棒が、たまらず出て来て、八五郎に向かって「嘘つきは泥棒のはじまりだ」にも笑った。泥棒が八の嘘をバラしていると今度は八が縁の下へ。その八がまた出て来て、泥棒の科白を真似て、「ほんの、出来心でございます」でサゲ。この展開も、ありだろう。
 まさに、軽妙洒脱という形容が相応しい好高座、今年のマイベスト十席候補とするのに、迷わない。

柳家小満ん『鍬潟』 (28分)
 いったん下がって、すぐ再登場。
 マクラで、昔、釋迦ヶ嶽(しゃかがたけ)雲右エ門という大男の相撲取りがいて、ご贔屓と浅草にお詣りに行ったが、人混みがひどく、ご贔屓が賽銭を入れるのを釋迦ヶ嶽に頼んだところ、腕を伸ばしてその賽銭は、屋根の上に乗った、という逸話を紹介。
 逆に、小さな人もいて、と、背丈が二尺三寸の男のお話へ。
 その男が、大きくなりたいと甚兵衛さんに相談に行くと、昔、上方に鍬潟という三尺二寸(小満ん、三尺三寸、とい言い間違え)の相撲取りがいて、あの雷電に勝った、という話を聞かせる。雷電との一番の前、鍬潟は体に油を塗りたくって、八十六度マッタをして立ち、雷電の股をくぐって逃げ回った挙句、後ろから“折り屈み”になって、雷電の膝を叩き、四つん這いにさせた、とのこと。
 小さな男、相撲取りになって稽古し、たくさん食べて寝れば大きく成れるかと思い、甚兵衛さんに頼んで、朝日山部屋に入門。なんとか、稽古をつけてもらい、その日は帰って熟睡。起きると、布団から手足が出ている。「かかぁ、ほら、相撲のおかげで大きくなった」「なに言ってんだよ、それは座布団だよ」でサゲ。
 珍しい小品と思っていたが、この高座も約30分。さて、今回は、いつもよりお開きは遅く庵るかなぁ、なとと思いながら、外の空気を吸いに行った。

柳家小満ん『茶の湯』 (40分 *~20:40)
 仲入り後は、この噺。
 マクラの、カメラマン濱谷浩さんが、ネパール・カトマンズから来日したご友人を茶の湯でもてなした時の逸話が、可笑しかった。内容は、ヒミツ。
 濃茶は苦手で、と「青蛙 おのれもペンキ ぬりたてか」の芥川龍之介の句が登場。このあたりが、小満ん落語の楽しさ。
 利休が茶の湯の作法を考えたのは、堺のキリスト教会でのミサがヒントになってのかもしれない、というのは新説かな。
 茶の湯で、老人たちが回し飲みする際、最初の方の人が、水っ洟を・・・というマクラでは、大笑い。

 あらすじは、随分前になるが、このネタについて書いているので、その内容を引用。
2009年11月5日のブログ
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(1)蔵前の大店の主人、家督を倅に譲り根岸の隠居所へ移る。
(2)供としてつれていった定吉と退屈な日々を過ごすご隠居だったが、
  せっかく茶室があるので「茶の湯」を始めることになった。
(3)しかし、ご隠居も定吉も茶の湯のことはまったく分からない。根が
  ケチな隠居、定吉が探してきた青黄粉で茶を点てようとする。しかし、
  泡が立たないので、またもや定吉が探してきた椋の皮で泡立てる始末。
  このとんでもない代物を茶だと信じて二人は毎日「風流だなぁ」と、
  必死に飲むのだった。
(4)二人はとうとうお腹をくだしてしまうが、今度は他人に飲ませよう
  と企てる。孫店(まごだな)に住む手習いの師匠、鳶頭、豆腐屋に
  茶会をするから来るように手紙を出した。店子の三人、茶の湯の流儀
  を知らないので恥をかくから引っ越そうと思ったが、手習いの師匠の
  真似をしてなんとかその場をしのごうということになり、隠居の家へ。
(5)師匠、豆腐屋、鳶頭の順でなんとかひどい茶(もどき)を飲んだもの
  の、まずくて口なおしに羊羹をほおばって退散。隠居は懲りずに近所の
  者を茶会に呼ぶのだが、噂が広まり、呼ばれた者は飲んだふりをして、
  羊羹をいくつも食べていく始末。羊羹代が馬鹿にならない勘定になって
  きた。ケチな隠居、何か安く菓子を作れないかと考え、薩摩芋を買って
  きて蒸かして皮をむき、すり鉢に入れて黒砂糖と蜜を加え、すり粉木で
  摺って椀型に詰め型から抜こうとするがべとついてうまく抜けない。
  そこで胡麻油がないので灯し油を綿にしめして塗るとうまく抜けた。
  この油まみれの物体に「利休饅頭」などと名付けて客に出すことにした。
(6)ある日、蔵前にいたころの知り合いの吉兵衛さんが訪ねてきたので、
  さっそくお茶(もどき)を点てる。吉兵衛さん、隠居がいつもより多く
  椋の皮を入れて泡だらけになった液体を目を白黒させて飲み込んで、
  今度は口直しにと「利休饅頭」をほおばったが、とても食べられる代物
  ではなく、あわてて便所へと逃げた。
(7)吉兵衛さん、饅頭を捨てようとするが掃除が行き届いた縁側には捨て
  られず、前を見ると垣根越しに向こう一面に菜畑が広がっている。あそ
  こなら捨ててもいいだろうと放った菓子が畑仕事をしている農夫の横っ
  つらに当たった。農夫の「ははは、また茶の湯か・・・・・・」でサゲ。
-----------------------------------------------------------------------
 
 この噺は、まず、ご隠居と定吉との会話に魅力がある。
 冒頭の会話には、このご隠居と定吉が繰り広げる騒動を予感させる、二人の性格の一端がかいま見える。麻生芳伸さんの『落語百選』を元に再現。

定吉 少しはご近所の様子をとおもいまして、ひとまわりしてみましたが、
   蔵前とちがって、根岸てえところは寂しいとこですねえ
隠居 なぜ寂しいと言う。おなじ言うなら、閑静と言えば雅があっていい
定吉 ご近所に住んでる方、みんな上品な方ばっかりで・・・・・・
隠居 そりゃそうだ、なんといっても風流な土地だからなァ
定吉 お向こうの垣根のあるお庭の広い家があるでしょ?あそこでね、いい音が
   してンですよ、なんだろうって、そうっと行って覗いて見たら十七、八の
   娘さんが琴をひっかいていました
隠居 ひっかくてやつはないよ。猫じゃあるまいし・・・・・・琴は弾じる、
   あるいは調べるとでも言うもんだ

 小満んは、定吉が垣根をかぎ裂きにして覗いた、と言っていたような。
 「風流」が、この二人の会話のキーワード。
 知ったかぶりの隠居と、大胆不敵な定吉によって、何人もの犠牲者を出すことになる。
 小満んは、このご隠居、赤ん坊の頃に、母親の乳房にぶら下がりながら、片目で茶の湯を見ただけ、と言って笑わせた。
 小満んの高座、主役二人の会話の楽しさ、加えて、青黄粉と椋の皮とで茶もどきをたてる仕草などの可笑しさに加え、孫店の騒動、鳶頭の啖呵の切れの良さなども程よいアクセントとなって、まったく、飽きさせなかった。
 これまた、今年のマイベスト十席候補とすべき逸品。

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麻生芳伸編『落語百選-秋-』(ちくま文庫)

 参照した麻生芳伸さんの『落語百選』の麻生さんの解説が、なんとも楽しいので、紹介したい。
«解説»「落語」から見た<風流>の実態、<風流>に対する痛烈な反抗(レジスタンス)が込められた一篇。茶、生花(いけばな)などのとりすました、お体裁の、しかも高額な免許、伝授料をとるーいわゆる<流儀>に、日ごろ「なにをくだらねえことをやってやンでッ」と、一撃を加えたくなるのは、筆者ならずとも、庶民だれしもが心の底に抱いている感情・・・・・・衝動であろう。
 そもそも・・・・・・と、茶の湯の発祥に関して<解説>を記すほど、筆者は残念ながら知識も見聞も持ち合わせていないが、わずかな愚見を述べれば、・・・・・・豊臣秀吉が天下を取って、南蛮渡来の絢爛豪華、贅沢三昧の、いわゆる桃山文化の時代に、千利休が二畳の部屋を造り、野の木を切って、杉の皮や葉で天井を作り、そこへ秀吉を招き、朝鮮の庶民の井戸端にざらに転がっているような茶碗に、茶の湯をたてて、自然な、素朴なものに秘められた真実の<美>をたたきつけた、のだった。つまり、それは千利休が体を張った、命がけの、秀吉に対する挑戦であり、ルネッサンスだったのである。-それが<原点>であり、最初の意図だったのである。・・・・・・ところが、その<原点>が忘れられ、その後、千利休の帰依者や研究家によって理論家され、形式化され、<侘び>だの<寂び>だの、やれ<表>だの<裏>だのと、こじつけられ、体系づけられて、それぞれの<流儀>が派生し、その<流儀>を習得することが、茶道の心に通じると、いつのまにかすりかえられてしまったのではないか。

 なかなか、読んでいて、スッキリする内容。
 そうなのだ、落語は、権威的なるものに対して、笑いで反抗する芸能でもある。


 さて、お開きとなり、今回は佐平次さん欠席で、Iさんと二人のミニ居残り会。
 もつの塩煮込みが美味しいお店で、落語をはじめ、いろんなお話。

 なんとか、日付変更線を越えずに帰還。
 
 久しぶりに、小満ん落語を満喫した夜だった。

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# by kogotokoubei | 2018-05-18 18:53 | 寄席・落語会 | Comments(2)
 昨日、高畑勲のお別れの会が開かれたことを、各紙が報じている。

 最後の外出は、落語会だった、とのこと。
 スポニチから引用。
スポニチの該当記事

2018年5月15日
高畑勲氏 最後の外出は落語会だった…涙の小三治「そんな思いで来てくれたのか」
 4月5日に死去したアニメーション映画監督の故高畑勲氏のお別れの会が15日、東京・三鷹の森ジブリ美術館で営まれた。お別れの会委員長は盟友・宮崎駿監督(77)が務め、山田洋次監督(86)、岩井俊二監督(55)、宮本信子(73)、瀧本美織(26)ら関係者約1200人が参列した。

 高畑監督がファンだった落語家の柳家小三治(78)は「亡くなったとは思えなかった」と複雑な思いを告白。「若い頃から案内状を出したことがなく、高畑監督にも出したことないのに、年に何回かは奥様と2人で落語会にきてくれた」と明かし、高畑監督の最後の外出も小三治の落語会だったことを聞かされると「そんな思いで来てくれたのかと思うと…」と涙をぬぐった。

 デイリースポーツによると、この落語会は、3月13日にジブリ美術館で行われた小三治の会だったようだ。
デイリースポーツの該当記事

 Literaには、親交があった映像研究家の叶精二が、ツイッターで公開した年賀状の内容が掲載されている。
 引用したい。
Literaの該当記事

2017年の正月に高畑監督から送られてきた年賀状を公開。そこにはこのような文章が書き添えられていた。

〈皆さまがお健やかに
お暮らしなされますようお祈りします
公平で、自由で、仲良く
平穏な生活ができる国
海外の戦争に介入せず
国のどこにも原発と外国の部隊がいない
賢明強靭な外交で平和を維持する国
サウイフ国デ ワタシハ死ニタイ です〉

 残念ながら、“サウイフ国”になる前に、高畑勲は旅立った。

 私は、それほど、高畑勲という人を知らなかった。

 しかし、落語がお好きだったことを知り、この年賀状を読んで、遅ればせながら、好きになってしまった。

 いわば、年賀状の内容は、高畑勲の遺言ではないだろうか。
 
 一人の日本人として、残った言葉を、噛みしめたいと思う。

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# by kogotokoubei | 2018-05-16 21:17 | 落語好きの人々 | Comments(6)

これまでの、ネタ。

 テニス合宿の記事を書いたが、今回の余興の落語ネタ『井戸の茶碗』を含め、これまで大学の同期会、および、テニス合宿の余興で演じたネタは、メモを見ると、次のようになっている。

 あえて、おことわりするが、自慢でもなんでもない。備忘録代り。

 『道灌』・『金明竹』・『寿限無』・『牛ほめ』・『替り目』・『小言念仏』・
 『千早ふる』・『代書屋』・『高砂や』・『居酒屋』・『うどん屋』・『雑排』・
 『厩火事』・『買い物ブギ』・『看板のピン』・『天災』・『目黒のさんま』・
 『紙入れ』・『元犬』・『持参金』・『三方一両損』・『たらちね』・『そば清』・
 『親子酒』・『藪入り』・『子ほめ』・『夜の慣用句』・『あくび指南』・
 『転失気』・『二人癖(のめる)』・『子別れ(子は鎹)』・『鈴ヶ森』・
 『野ざらし』・『井戸の茶碗』
 
 こうやって並べてみると、「えっ、あれもやってたっけ!?」というネタが多い。

 忘れてるねぇ^^

 もちろん、これらのネタがいつでも出来るわけではない。
 それぞれ、その前に、それなりの稽古もして臨んでいるのである。

 帰宅する道を歩きながら、ぶつぶつやっていて、通り過ぎる人に不思議な目で見られたことも、何度かある。

 今回の『井戸の茶碗』は、昨年末の居残り会忘年会での、途中を端折った“なんちゃって落語”が、結果として練習になった^^

 そうか、居残り会の新年会では、Yさんとのリレー落語で『二番煎じ』をやらせていただいたなぁ。

 今回は、志ん朝の音源を何度も聴いた。
 途中で、権太楼の音源も聴いて、そのクスグリを頂戴した。


 あくまで、酒の席での素人の落語であり、話す方も聞く方も酔っているから、科白を忘れたり、言いよどんだり。
 とはいえ、素面では、できないなぁ。

 九月に大学の同期会がある。その後には、またテニス合宿がある。

 そうだ、同期の中には、このブログを見ている人もいるなぁ。

 ネタ替えようか、『井戸の茶碗』でいくか・・・・・・。

 やはり、同期会とテニス合宿用に、新ネタにすべきか。

 今から、結構、悩ましいのである。

 居残り会仲間からは、『二番煎じ』の次は、リレーで『子別れー通しー』を、などという無茶振りがあったが、一人では、とても出来そうにない。

 同じ相手に同じネタにはしたくない。
 とはいえ、前座噺など短いネタは、ほとんど過去にやっている。

 まぁ、今後行く落語会なども踏まえ、考えるとしよう。


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# by kogotokoubei | 2018-05-15 12:36 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛