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噺の話

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 四月の記事別アクセスランキングは、次の通りだった。

1.「万引き家族」における、樹木希林さんのアドリブのことなど。(2018年9月19日)
2.落語協会、来春の四代目圓歌襲名と、来秋の真打昇進について。(2018年11月14日)
3.今から140年前、なぜ明治政府は改暦を急いだのか。(2013年1月14日)
4.昇太の“四派統合”の野望・・・・・・ありえない。(2019年4月8日)
5.志ん生は、本当に圓喬の弟子だったのか・・・・・・。(2019年4月4日)
6.『抜け雀』のサゲ-『米朝らくごの舞台裏』『落語鑑賞201』などより。(2015年5月15日)
7.あらためて、小痴楽の単独真打昇進のこと、など。(2018年12月30日)
8.健さんが愛した歌、「ミスター・ボージャングル」についての補足。(2014年11月25日)
9.『正蔵一代』より(3)ー旅で出会った、志ん生の思い出。2018年3月28日
10.『富久』(2008年12月25日)


 1位の「万引き家族」に関する記事は、アクセス数が約800あった。理由はよく分からないが、四月に本が文庫化されたからかもしれない。

 2位は、落語協会の今開催中の四代目圓歌襲名披露と今秋の真打昇進について昨年書いた記事。

 3位は、最近安定してアクセスのある明治の改暦の件。

 4位は、落語芸術協会の新会長就任予定の昇太に関するある記事について書いたもの。

 5位、9位は志ん生関連。最初の師匠のことなど、「いだてん」で描かれる姿とは違う、事実に近いと思われる志ん生を伝えたいという思いは、今も強い。また、何か書くつもり。
 10位の『富久』の記事へのアクセス増、「いだてん」の影響だろう。

 6位もネタの記事だが、こちらも安定的にアクセスがある。

 7位は、この秋が楽しみな小痴楽の単独真打昇進の記事。

 8位も、なぜかアクセスの多い、高倉健さん関連のもの。


 先日四月二十九日に末広亭での居続けをした。
 居残り仲間のIさんは、翌三十日に昼の部の仲入りから夜の部のトリまで居続けをされたとのこと。昼の段階で札止めになったらしい。雨の日だったにもかかわらず。
 若いお客さんが多かったとのことだが、それは前の日も同様。

 祝日だから、とだけは言えないと思った。
 落語のお客さんの増加、それも若い方が増えていることを感じる。女性も多い。

 噺家さんのネタ選びも、微妙に影響を受けているかもしれない。
 ちなみに、喬太郎は三十日も新作だったらしい。

 令和の落語ブームが、落語界の活性化につながることを期待する。

 さて、圓歌の披露目は先月までに定席四つが終了し、中休み。
 今月の国立中席が締めの興行となるが、なんとか駆けつけるつもりだ。
# by kogotokoubei | 2019-05-03 09:18 | アクセスランキング | Comments(0)
 平成三十一年四月二十九日、「昭和の日」の末広亭夜の部。

 昼の部からの居続けの方は、二割ほどいらっしゃったような気がするが、大半は仲入り前後のご入場と察する。昼の開口一番からは、たぶん私だけだろう。

 二階は空いたままの大入り。
 主任喬太郎の動員力かな。

 開口一番から順に感想などを記す。

柳家小はだ『饅頭こわい』 (10分 16:45~)
 昼の部の門朗より時間をもらえてネタができた。
 犬好きとしては、猫はともかく、魚屋のポチは食べさせないで欲しい^^
 昨年二月、仏教伝道センターでの三田落語会昼の部での『道灌』以来だが、はん治の弟子は兄弟子小はぜもこの人も、しっかりとした高座を聴かせてくれる。
 また、若いうちは古典を学べ、という師匠の教えがあるような気もする。兄弟子同様、この人も将来が楽しみだ。

柳家小んぶ『幇間腹』 (11分)
 一八のギャグが楽しかった。
 ゴーやのマラソン->苦味走る、カルキが入って->水臭い、など。
 サゲの「今打ったばかりなのに、もうこりました」は、初めて聞くかもしれない。

ホームラン 漫才 (10分)
 ニックスの代演がこの人たちで、得した気分。
 教会での結婚式ネタ、何度聞いても笑える。
 
蜃気楼龍玉『たらちね』 (15分)
 昼の部以降、泥棒ネタが出ていないので、得意の『夏どろ』でも演ってくれるか、と思ったら意外なこの噺。大家が八五郎に、「足入れは仮祝言、腰入れは本祝言」と教える。私も勉強になった^^
 標準的な型と、少し構成が違っており、時間の都合もあるのか八五郎は湯に行かない。また、布団を上げて、そこにたくさんキノコがある、なんてぇのを挟む。
 若手の注目株、もちろん、悪かろうはずのない高座。とはいえ、泥棒ネタのほうが、相性は良さそうに思うなぁ。

柳家喬之助『宮戸川』 (14分)
 マクラで、協会のサイトが、誰かが亡くなるとサーバーが落ちる、などをふくめWebのことをふって、サゲの仕込み。
 霊岸島のおじさんの名が、飲み込みの「久太」としてあった。名前を聞いたのは、初めてかもしれない。
 若手から中堅への過渡期にあると言えるかもしれない。
 元気で清潔感のある噺家さん、というイメージから、良い意味での渋味が少し増してきたような気がする。

林家二楽 紙切り (14分)
 二楽には申し訳ないが、喫煙タイムにさせてもらった。

三遊亭萬窓『ぞろぞろ』 (14分)
 この人が出てくると、なぜか、ホッとする。
 優しさ、温かさを醸し出す噺家さんだ。
 また、噺もしっかりしているし、ネタそのものの楽しさだけで、無駄なクスグリなど挟まずに笑わせてくれる。
 なかなか、こういう人、いないんだよねぇ。

柳家小ゑん『フィッ』 (15分)
 昨年、六月の池袋でも聴いた噺だが、このネタは、この日の若いお客さんの多い客席のほうが合っていたし、笑いも多かった。
 圓丈作のようだが、すでに自分のものになっているように思う。

柳家小菊 俗曲 (12分)
 カエル-ミミズ-ナメクジの三部作に、客席が沸く。
 この日は、初寄席と思しきお客さんの反応が、なかなか良かった。
 ♪お酒一樽千両しよっとままよ 主の寝酒は絶やしゃせぬ
 連れ合いに聞かせたい都々逸だが、怖くてとても聞かせられない。

吉原朝馬『松山鏡』 (15分)
 萬窓とは対照的な高座。
 今風のクスグリ、たとえばAKBやエグザイルなどをふんだんに挟むのだが、私はあれだけいじる必要は感じない。無理が、あるように思う。
 どうも、この人とは相性が悪い。
 
柳家小袁治『堪忍袋』 (18分)
 仲入りは、この人。
 マクラで、自分は秋葉原の電気屋の倅で、小ゑんとは違う、と笑わせる。
 磁気ネックレスの効果はイライラしないこと、と本編に相応しいネタをふったには、流石。
 朝馬のように無理に笑わせようというクスグリなどもないが、充分にこの噺の楽しさを味合わせてくれて、休憩。

 一服。
 
鈴々舎馬るこ『大安売り』 (13分)
 マクラの松平健ネタが可笑しかった。
 みんなにご馳走して、領収書の宛名は「上様」だって^^
 この噺のクスグリの工夫は、楽しめた。
 元銀行員の相撲取りに負けた決め技が、引き落とし。元居酒屋は、突き出し、なんてぇのは気が利いている。
 以前、この人の高座には、無理に笑わせようとする姿勢を感じていたが、次第に印象が良くなってきた。
 さすがNHKの大賞受賞者と、今は思う。今後楽しみな若手の一人になった。

ロケット団 漫才 (11分)
 今、落語協会の漫才では、もっとも乗っている二人かもしれない。
 会話のリズム、スピード感が良い。
 ネタも年齢を問わず笑わせるだけのものだし、旬の時事ネタを取り入れるのも早い。満員の客席の温度は、確実に上昇した。

柳亭左龍『英会話』 (12分)
 柳家金語楼作で、当代では古今亭寿輔が十八番としている。
 落語協会ではこの人で二度目だが、他の噺家さんでは聴いたことがない。
 子供が英語を習いたいということで、家族の会話をすべて英語でしよう、ということからのお笑い。お母さんが「ママ」なら、お父さんは「マスター」は、今でも笑える。子供から「犬は?」と聞かれ父親が「ドッグ」、「猫は?」で「キャット」・・・「河童は?」で答えられないので子供が「レインコート」なんてぇやりとりには、『真田小僧』的な味もある。
 
橘家圓太郎『浮世床ー本ー』 (11分)
 源ちゃんが本を読もうと苦悶する姿が、なんとも可笑しい。
 こういう噺の楽しさは、実際に生で見ないと分からない。
 文蔵の代演として、しっかし膝前の役割を務めたのは、当然とはいえ、流石。

翁家勝丸 太神楽 (9分)
 花籠、お手玉、傘の芸を一人でこの時間でこなし、語りで笑いをしっかり取る。
 膝を任せられるだけの実力者と再確認。

柳家喬太郎『任侠流山動物園』 (26分 *~20:59)
 この噺、三遊亭白鳥の平成の新作の傑作だと思う。
 喬太郎では、五年前の浅草で聴いて感心したが、この日の高座も実に良かった。
 浅草の時の記事と重複するが、筋書きなども含めあらためて。
 象のまさお(政五郎)、鶏のチャボ子、牛の牛太郎、豚の豚次の4頭しかいない千葉の流山動物園は、人気のまさおが病気ということもあり、客が少なく大ピンチ。この日もお爺さんと孫の二人しか来場者なし。しかし、平均来場者数1.8なので、二人なら平均以上^^
 この経営の危機を切り抜けるべく、豚次は昔世話になったパンダの親分パン太郎に会いに、常磐自動車道をひたすら走って、上野動物園に行く。人気者のパン太郎親分に流山まで来て欲しいと頼むのだが、親分は逆に舎弟である「虎」夫に豚次の尻の肉を喰わせる始末。命からがらなんとか流山に戻った豚次や仲間が、さてどんな策をもって危機を救うのか・・・・・・。
 喬太郎が、細かな芸として「豚次のときは、手を蹄にしている」と親指と人差し指をつけ、残りの指もつけて蹄のようにしているのを披露したが、たしかに、登場するそれぞれの動物を表現するための技が求められる。
 『動物園』という噺では、ライオンと虎(ほぼ同じ所作)を演じるわけだが、この噺は、豚・鶏・牛・象・パンダ・虎の五匹分を演じ分ける必要がある。
 喬太郎は、いかにも楽しそうに演じて、途中でお約束のように「こんなことをするために、さん喬の弟子になったんじゃない!」などと挟んで、若い方の多い会場は大爆笑。
 動物を真似るのみならず、豚次とパン太郎との緊迫したやりとり、豚次と園長との心温まる関係、そして、象の政五郎登場場面など、いくつか聴かせどころがあり、それらをしっかりと演じなければ、噺としての骨格が固まらない。
 さまざまな技能やセンスが試される噺でもあり、三三もこの噺を演じるのは、挑戦しがいのある噺と評価しているからだと思う。
 喬太郎が、作者白鳥の傑作を、しっかり自分のものにした高座、今年のマイベスト十席候補とする。

 
 さて、九時間居続けの、平成に出かけた「昭和の日」の寄席の令和の記事は、これにてお開き。

# by kogotokoubei | 2019-05-02 10:18 | 寄席・落語会 | Comments(4)
 一昨日「平成」三十一年四月二十九日の「昭和の日」に、久しぶりに末広亭で居続けした昼の部の記事を、「令和」に書いている。
 九時間の居続けの後で、昨日は野暮用もあり、平成のうちに書き終わることができなかったなぁ。

 混むだろうとは思って、いつもより早めに家を出た。
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 11時20分頃に並んだ行列の最後尾。左は、栄寿司。
 ということは、末広亭からの列は、角の洋風居酒屋(?)さんを曲がってここまできている、ということ。

 さて、好きな桟敷が空いているか、と不安があったが、なんとか下手の中央位に一人分を確保。結局、夜の部終演まで、9時間、同じ席にいたことになる。

 後から後からお客さんで、二階も空いた。

 入場に時間がかかり、開口一番も遅く短くなった。

 その前座さんから順に感想などを記す。

橘家門朗『 ? 』 (3分 *12:00~)
 泥棒の小咄をさっとふって、すぐ下がった。

柳家小もん『手紙無筆』 (7分)
 主任の小里んの弟子。小多け時代には何度か聴いているが、小もんでは初めて。
 短い持ち時間ながら、端正な見た目同様、丁寧な高座に好感が持てた。

ダーク広和 奇術 (10分)
 三目並べは、初めて見た。この人、見た目も優しく軽妙な語り口なのだが、結構、凄い腕を持っているような気がする。
 寄席が初めてのお客さんも多かったようで、満員の客席を大いに沸かせた。

入船亭扇蔵『真田小僧』 (9分)
 三朝の代演。遊一時代には何度か聴いているが、扇蔵では初めてかもしれない。
 高座には、小言がある。短い時間とはいえ、按摩さんの姿、白い服(白衣)・ステッキ(杖)・色眼鏡(黒眼鏡)、という仕込みを金坊がふらないのが、気になった。
 聴く者の想像力をかきたてるのが落語であるから、この噺では不可欠な演出だと私は思うのだがなぁ。

桃月庵白酒『子ほめ』 (15分)
 師匠の雲助は、寄席でかけるネタでこの噺が一番好きだと言っているが、それは弟子にも伝承されているような気がする。実に楽しそうに演じていた。
 赤ん坊の横で寝ているのがお爺さんと知り、布巾をかぶせようとするというこの人ならではのクスグリはあったが、基本的にはそれほど本来の噺をいじらず、それでいて実に可笑しい。流石だ。

ジキジキ 音曲漫才 (14分)
 落語協会に強力な色物さんが増えたと思う。
 ギターとピアニカの夫婦音曲漫才なのだが、ともに実に高いレベルの演奏能力を持っているのに加え、語りも楽しい。
 ♪シャレで全国旅巡り、なども楽しいし、♪聖者の行進の「お椀出せ、茶碗出せ」も傑作。♪うらわ、は名曲。♪Let It Beと♪なごり雪のハーモニーなども流石。
 そして、♪トルコ行進曲から、おでこピアニカの♪男はつらいよ、は絶品だ。

橘家富蔵『親子酒』 (13分)
 初である。実に端正な顔立ちで、あの円鏡の円門下とは意外^^
 マクラが楽しかった。ネタばれになるが一つ。
 公園に犬を連れて来た女性がいた。
 「公園にブタを連れて来ちゃだめだよ」「失礼ね、犬よ!」「いや、俺は犬に言っている」・・・オリジナルかどうかは怪しいが、可笑しい^^

桂才賀『カラオケ刑務所』 (13分)
 何度目かなぁ^^
 新作台本コンテストの準優秀作品で、柳昇の『カラオケ病院』への“オマージュ”作品。
 サゲの後に「これで、現金20万円ですよ。締め切り6月まで、まだあります。ぜひご応募を!」と応募を勧めていたのは、いつものことだが、これも大事なPRか^^
 とにかく、才が元気なら、それでいい。

三増紋之助 曲独楽 (17分)
 いつもながらの、見事な芸。
 しかし、チャンレンジもしているのがよくわかった。
 「五つ独楽」は初めて見た。地味ながら、楽しい。

柳亭小燕枝『宗論』 (13分)
 この人が「インテリジェンス」「パーソナリティ」などの科白を繰り出すのが、なんとも楽しい高座だった。
 クリスチャンの息子が父親に「一緒に聖書の訪問販売をしましょう」に笑った。
 サゲの番頭が旦那に言われ「息子のかたを持つとは、番頭さんもキリスト教かい」に「いえ、私は説教でございます」は、ご本人の工夫だろうか、初めて聞いた。
 古典の小燕枝というイメージが強いので、少しお茶目な別の一面を見た、そんな得した気持ち。

金原亭伯楽『猫の皿』 (15分)
 志ん生の思い出として、骨董屋の主人に勧められて五千円で字が読めない書を買ったが、後でよく見ると「いまがわやき」と書いてあったという逸話(ネタ?か)から、無理なく本編へ。
 8分ほどマクラがあったから、本編7分。そうは思えないしっかりとこの噺に楽しさを味合わせてもらった。はた師と茶屋の主との短い会話だけとはいえ、この噺はよく出来ている。

林家正楽 紙切り (15分)
 ご挨拶代りの「相合傘」から、「吹奏楽」「新元号」「ドラエモン」と続き、私の席のすぐ近くの桟敷のお客さんのリクエスト「端午の節句」で締め。
 いつもながら、お見事。
 私は、「端午の節句」で、次の仲入りでの権ちゃんのネタに、淡い期待を抱いていた。

柳家権太楼『人形買い』 (17分)
 年号のことなどから、正楽の紙切りにふれ節句のことへ。
 「おっ、やってくれるか!」と期待に応えてくれるこの噺。
 この人のこの噺、私は大好きだし、まさに旬のネタ。
 人形屋の小僧、定吉の仕方話の可笑しさで、満員の客席がどよめくような笑いに包まれた。
 権太楼も、この噺は三代目桂三木助版を下敷きにしていると思われる。
 『正蔵・三木助集』(ちくま文庫)から、定吉独演会(?)の一部をご紹介。

ちくま文庫_正蔵・三木助集
「先月あたしがおなかが痛くて部屋で寝てェたんで、隣の部屋がおもよさんの部屋なんで、ちょうど、薮入り(やどり)に行く日なんで、すっかり着物を着かえちゃって(右手で顔をなで)鏡台の前でこうやってお化粧をしてえたン・・・・・・そこィトントントンッて若旦那が上がってきて
『おもよ・・・やどりに行くのにそんなに気取って行っちゃァあたしが心配じゃァないか』
 ・・・そ言ってくるんで・・・・・・そしたらおもよさんが、
『女の部屋へ男なんぞ上がってくるもんじゃありません、だれか来るとおかしゅうござんすから下へおりてらっしゃい』
『大変に髪(あたま)が乱れているから、俺がちょいとなでつけてやる』
『女の髪が男になでつけられますか』
『つけられるか、つけられないか、櫛をこっちィ貸してごらん(荷を持った手をそのままに、肩ごと右へ揺する)』
『だれか来ると変だからおよしなさい(今度は左に揺する)』
『櫛をこっちィ貸してごらん(また右へ)』
『そんなとこをさわっちゃくすぐったい(ぐらぐら揺する)』」
「(両手で押える形で)おいおいおい・・・・・・大変な小僧が付いてきやがった・・・・・・(後略)」
 権太楼は、松っつぁんが、「とんでもねぇ小僧だ」と言うと、相棒が「おれ、こういう話、好き。五十銭づつ出して、もう少し聞こう」「馬鹿言っちゃいけねぇ」でサゲ。
 当代でこの噺は、間違いなくこの人が一番。今年のマイベスト十席候補とする。

 仲入りで一服。
 すでに立ち見状態になっている。

柳家海舟『ちりとてちん』 (15分)
 主任の小里ん門下。四十歳を過ぎて脱サラ(ご本人いわく、リストラ^^)して入門した人。以前は、見た目のみならず全体的に固すぎる印象が強かったが、この高座は、知ったかぶりの六さんが苦悶して「ちりとてちん」を食べる表情も楽しく、客席も笑いで包まれた。しっかし、クイツキの仕事を果した。
 

笑組 漫才 (9分)
 久しぶりだ。
 どうしても仲入りは時間調整もあって、長いネタ、私の好きな文学シリーズなどは難しい。
 師匠が内海好江から志ん朝、志ん五と続いて・・・という話から、お互いを揶揄する言葉遊ぶを、リズム良く掛け合い。かずおが噛まなかったのが、珍しい^^
 「第四位」「なんで」「どう(銅)にもならない」なんてぇのも可笑しい。
 短かったから、私を含めお客さんの誰も「古い掃除機のコード(早く引っ込め)」なんて、思わなかったよ。

金原亭馬の助『漫談:相撲の世界(?)』と『百面相』 (15分)
 初めての寄席というお客さんも多かったようで、『百面相』では、結構笑いが多かった。今では、実に貴重な余芸のできる噺家さんだ。

柳家小団治『つる』 (13分)
 オリンピックのメダルのネタは、定番か。
 「金でも銀でも銅でも、鉄でもいいんです」「鉄は錆びるじゃないか」「いえ、参加(酸化)することに意義がある」 
 これは、私の余興の落語のマクラでいただこう^^
 本編には、少し小言を言わざるを得ない。
 八五郎を作り話で騙したご隠居が八五郎が外で言いふらそうと出て行く場面で、「おいおい、外で行っちゃ駄目だよ」というような引き止める所作・科白がなかった。あれでは、ご隠居が悪い人に見えてしまって、後味が良くないように思う。

鏡味仙三郎社中 太神楽 (10分)
 二人で登場。傘、土瓶、花笠を短時間でもしっかり。これぞ、膝の見本。

柳家小里ん『三人旅-鶴屋善兵衛』 (25分 *~16:30)
 連作の一つだが、「びっこ馬」に続くこの噺を聴くのは初めて。
 びっこ馬の馬方が勧める小田原の宿が、鶴屋善兵衛。
 提灯に宿名が書いてあるが、その字が三人共読めない。
 中に「四角い字は読める。まずは口、それから田、国なら分かるが、鶴屋善兵衛はこの中にあるか」なんて、頓珍漢な会話が挟まれる。
 見つける策をいろいろ考えた末に、「宿場の真ん中で腹痛を起こし、鶴屋善兵衛が指し宿だから連れて行ってくれと頼んだら誰か連れて行ってくれるだろう」、ということになり宿場で一人が腹痛だと仮病を使ったところ、そこに現れた助っ人が、主の鶴屋善兵衛だった、というのが前半。 
 後半は、馬方が言っていた夜のお伽の件。女が二人しかいないと言われ「三人で回しはいけねぇや」と、なんとかしてくれと頼む。そうすると、年増の尼さんでもいいか、と言われ、それでいいとなった。しかし・・・後略^^
 珍しいネタを聴かせてもらった。


 さて、ここで昼の部はお開き。
 夜に備えて、二つ目の弁当を食べたのであった。
 


# by kogotokoubei | 2019-05-01 09:47 | 寄席・落語会 | Comments(8)
 今夜の「いだてん」では、志ん生の無銭飲食事件が描かれていたが、さすがに借りていた宿代は、先日の記事で『正蔵一代』から紹介したように、寄席の席亭が払っていたなぁ。
 『びんぼう自慢』で志ん生の語るような、検事の支払いではなく、正蔵が語っていた説(事実かな)を、クドカンも採用したわけだが、妥当だと思う。

 それにしても、留置場での一席で、『文七元結』が登場するとは思わなかった。

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矢野誠一著『志ん生のいる風景』

 さて、矢野誠一さんの『志ん生のいる風景』から、戦前の速記に関する記事、第二回。

 講談社が発行した戦前の雑誌に掲載された落語の速記を集め、『昭和戦前傑作落語全集』が全六巻で発行されることになり、矢野さんが解説を引き受けることになった。
 もっとも多く収録された志ん生の口演の数々を、矢野さんは、半ば驚きを交えて紹介している。

 年代順に編纂された『昭和戦前傑作落語全集』に、志ん生の速記が初登場するのは第三巻で、この巻には、『円タクの恋』『悋気の見本』『長命』『代り目』『桃太郎』『ぞろぞろ』の六本が載っている。
 前の二本が五代目古今亭志ん馬で、残りの四本は七代目金原亭馬生の名になっている。時代区分でいうなら、いちばん早い『円タクの恋』が1934年(昭和9)の「講談倶楽部」八月号で、『ぞろぞろ』が1935年(昭和10)十二月号のやはり「講談倶楽部」である。わずか一年半のあいだに六本の速記を雑誌に発表している計算になるのだが、このほか全集におさめられていない作品もあるわけで、単純に数だけから判断するならば、かなり多いといえるだろう。

 志ん生を襲名する前の、志ん馬、馬生時代でも、他の人より多くの速記が雑誌に掲載される落語家だったということは、意外に知られていないと思う。私も、知らなかった。

 矢野さんは、それらの速記を読んで、このように書いている。

 こうした雑誌の速記にたくして、志ん生という落語家は思いきった独自の色彩を打ち出してみせている。新作を手がけたり、自身の大胆なアレンジをほどこすなど、他人とおなじ演り方はしたくないといった感じがはっきりと見てとれる。

 では、今では聴くことのできない『円タクの恋』が紹介されているので、紹介したい。
 この噺は、二代目円歌の『社長の電話』などの作者、鈴木みちをが、橘ノ百円時代の七代目の橘家円太郎のために作った『恋の円タク』が元らしい。晩年は音曲ばなし手がけた円太郎は、百円時代に新作を積極的に手がけた人だったようだ。
 その百円の演目だったものを、志ん生は、どう演じたのか。

 おどろくべきことは、鈴木みちをという作者の介在している作品でありながら、すでに志ん生独特の口調が全篇に脈打っていることである、

<ああそうですか・・・・・・向うなら向うといってくれるがいいじゃないか・・・・・・あああの紳士が、手を上げたよ・・・・・・へェお待ち遠さま・・・・・・へェ乗らないんですか、いま手を上げたでしょう・・・・・・ああワイシャツのぼたんが取れたので、ああそうですか・・・・・・なんだ、あんなやつワイシャツなどと着る柄じゃァない、新聞紙に穴でもあけて被ってろよ・・・・・・ああどこかのお嬢さんがパラソルを持って立っている。自動車を待っているに違いない・・・・・・へェ、お嬢さん、参りましょう・・・・・・ェッ、乗らないんですか、人を待っているんで、へッ、いい男でしょうね・・・・・・なーンだ、人の恋路の邪魔までできるか。>

 なんて運転手のモノローグなど、声を出して読んでみるとあの志ん生の語り口が彷彿としてくる。


 昭和9年の『講談倶楽部』に載った、志ん馬時代の口演。
 “パラソル”なんて科白を口にしていたと思うと、なんとも楽しくなる。


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保田武宏著『志ん生の昭和』

 なお、保田武宏さんは『志ん生の昭和』の中で、『円タクの恋』について、こう解説してくれている。

 円タクは一円タクシーの略で、長距離でなければ一円均一で客を乗せたタクシーである。
 (中 略)
 噺は、タクシーの運転手が、ガソリンスタンドに勤めるお君ちゃんという女性に恋をして、夜の十時に逢う約束をする。それまで二時間あるから稼ごうと町を流すと、普段は少ない客がこんなときにかぎってたくさんいて、やっとの思いで十時過ぎにすべり込みセーフで間に合う。ところがお君ちゃん、母親がうるさいから十時を過ぎたら帰らなければならないという。仕方なく明日改めてということにして、お君ちゃんと送っていく。家に帰ったお君ちゃん、母親に「遅いじゃないか。お友達のところへでも行っていたのかい」「いいえ、油を売っていたの」という噺だ。
 ところどころに「おまえなんか円タクに乗る柄じゃねえ。もっこに乗る柄だ」とか、「あんな奴ワイシャツを着る柄じゃない、新聞紙に穴でもあけてかぶっていろ」とか、後の志ん生らしいギャグが入っていておもしろい。これなら編集者も、続けて使う気になる。

 
 保田さんは、一席掲載されると三十円になり、サラリーマンの月給の半分位に相当し、これで、家計は多いに助けられた、と説明している。

 さて、あらためて矢野さんの本から、同じ志ん馬時代のネタ『悋気の見本』。

 矢野さんによるとこんな噺。
 
 『悋気の見本』は他愛ない小品といってしまえばそれまでだが、志ん生でなければ出せない味だけはちゃんとそなわっていることに感心する。
 (中 略)
 全然やきもちをやかない夫人を、友人のなみはずれて嫉妬深い夫人のところへ連れて行き、やき方を覚えさせるというナンセンスなものだ。

 ということで、どんな“味”わいがあるか、引用。

 掲載は昭和12年『キング』四月増刊号で、ちょうど名古屋城の金の鯱(しゃちほこ)がはがされるという事件があった頃とのこと。

<どうかすると手の届かないような所へ手を伸ばして、物を盗ろうなんてんで、名古屋城のしゃちの鱗(こけら)を持って行っちゃったりなんかします。あのしゃちは夫婦ですからな、細君の方が驚いて、
妻「本当にあきれっちまうよ。人間なんて本当に油断がならない。とうとうあなたわたしの鱗を持って行っちゃったわよ。本当に、この分じゃ、みんな鱗を持って行っちゃうよ。こんな思いをするくらいならば、いっそのこと、わたし生きているのがいやだから、お前さんと二人、猫いらずを服んで死にましょうか」
夫「馬鹿なことをいうな。夫婦で猫いらずなど服んでみろ、長年の間、名古屋のしゃちほこは金であると思われていたのを、二人で猫いらずを服んで死んでみろ、金と人は思わねえぞ」
妻「思わないことはありませんよ」
夫「イヤ思わねえ。二人で死んでみろ、あれは真鍮(しんちゅう)だなどといわれらァ」
 しゃちが洒落を言っております。>

 時局にあったエピソードを、たくみなくすぐりや小咄にアレンジしてみせることを、志ん生は晩年まで得意にしていたが、この名古屋城の金の鱗の小咄など、すでにその萌芽がうかがえるのである。

 説明するまでもないが、「真鍮」は「心中」の洒落。蛇足^^

 なお、名古屋城の金の鯱の鱗の盗難は、昭和12(1937)年1月6日に発覚した事件のようで、金の鱗が58枚盗まれていたらしい。

 明治二十三(1890)年生まれの志ん生なので、志ん馬の口演が雑誌に掲載された昭和十年前後は、四十歳半ば。
 貧乏のどん底から、雑誌への口演の掲載を弾みに経済状態も少しづつ改善され、その名も馬生から昭和14年、五代目の志ん生となる。

 その後、名前に負けない昭和の名人になる大きな要因が、戦前の口演にもみられる高い創作力にあったのだと、あらためて思う。

# by kogotokoubei | 2019-04-28 20:57 | 落語家 | Comments(0)
 「いだてん」で志ん生に関する検索が増えたこともあるのだろう、過去の記事のアクセス数が増えている。

 私は、若い人も含め、ドラマをきっかけに古今亭志ん生という稀代の噺家さんのことを知る人が増えることは、良いことだと思っている。

 拙ブログでも志ん生のことは何度か書いてきた。
 しかし、持っている本から考えてみると、まだまだ紹介し足りないなぁ、などとも思う。

 あのドラマは、あくまで実在の人物をモチーフとしたフィクションとうたっているので、やや誤解を招くな内容もないわけではない。

 また、あのドラマでは描かれることのない一面も数多くあると思う。主役じゃないんだし^^

 ということで、今回再読した本の中からご紹介。
 志ん生は『火焔太鼓』などを代表として、元々ある噺を自分なりの工夫で磨き上げ代表作に仕上げる能力が高しい。
 そして、その創作力は、戦前、まだ売れる前から発揮されていたことを、ある本から紹介したい。

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矢野誠一著『志ん生のいる風景』

 矢野誠一さんの『志ん生のいる風景』は、初版が昭和58年の青蛙房刊、昭和62年に文春文庫で再刊。私はこの文春文庫を読んでいる。
 なお、今年、河出文庫でも発行されたが、「いだてん」の影響だろう。

 「曙光がさす」の章から、矢野さんがある落語集の解説を引き受けたことが書かれている。

 1981年(昭和56)の、たしか六月頃ではなかったか。突然という感じで、講談社文芸局の駒井皓二さんから電話があった。「お目にかかって、相談したいことがある」というのだ。駒井さんがまだ「小説現代」だったか、「現代」であったか、とにかく月刊誌の編集部にいた十数年前に仕事をさせてもらっていらいの久方振りの電話であった。
 有楽町の喫茶店で落ちあって、とにかくはなしをきいた。こんど講談社で、『昭和戦前傑作落語全集』というのを全六巻の構成で出すのだが、その全巻解説をやらないかというのである。この全集は、1926年(昭和1)から1941年(昭和16)まで、いわゆる昭和戦前期に刊行された講談社の雑誌「講談倶楽部」「重城倶楽部」「キング」「富士」が掲載した落語の速記六百二十篇のなかから、すぐれた口演を選りすぐって復元しようというもので、すでにリストアップされた案がコピイになっていた。
 なお、この全集の一部は、2013年の講談社学芸文庫から『昭和戦前傑作落語選集』として発行されている。

 さて、矢野さんは、芸の記録という意義のみならず、「まったく別種の落語」としての存在意義があると考え、この全集の解説を「一も二もなく」引き受けた。

 『昭和戦前傑作落語全集』の全巻解説という役目を、その場で引き受けたについては、もうひとつ理由がある。この全集に、古今亭志ん生の速記が二十一本も収録され、柳家金語楼の十八本、三代目三遊亭金馬の十六本をしのいで断然トップをしめていたからである。
 この解説を引き受けたときすでに、僕は少しずつ古今亭志ん生について書き始めており、まったくといっていいくらいに資料的な文献のとぼしい五代目古今亭志ん馬、七代目金原亭馬生、そして五代目古今亭志ん生を襲名するという、「昭和戦前」期におけるこのひとの仕事ぶりに、より以上の関心があった。

 志ん生は、昭和五年に笹塚から、あの業平の“なめくじ長屋”に引越し、この年だけでも、柳家東三楼から柳家ぎん馬、そして柳家甚語楼と名を替えている。
 古今亭志ん馬を名乗ったのは、昭和七年。
 金原亭馬生の七代目になったのが、昭和九年。

 改名の理由は、半ば冗談半ば本気で借金取りから逃げるため、と語る時代。
 その時代の高座の記録に出会った矢野さんの喜びが察せられる。

 また、当時、雑誌に速記が出る、ということについて、矢野さんは次のように書いている。

 寄席へ出るだけでおのれの生活をまかなっていた落語家がそう大勢はいなかったであろうことも、昨今の演藝事情とさしたるちがいはなかったはずで、ラジオに出ることや、雑誌に速記の載ることが、贔屓客の座敷と同様の重さを持っていた。
 つまり落語家にとって、「売れている」ということは、何軒もの寄席をかけもつことばかりはなくて、ラジオに出たり、雑誌に自分の速記が載ることでもあったのだ。

 戦前、改名を続けていた時分において、高座の速記が載ることに関して、志ん生が特別の思いを抱いていたはず、と矢野さんは洞察する。

 その矢野さんが解説を担当した本のネタの前に、志ん生の戦前の記録に関する、あの方の文章を引用。

 正岡容に、『増訂明治大正昭和新作略史』という文章があって、そのなかの昭和の落語家による新作落語の動きにふれた部分に、志ん生についての記述もある。

<古今亭志ん生のしん馬時代、「電車」「夕立勘五郎」の作があり、新体制以後「館林」を改作して、侠客とやくざものの解釈などを盛り込んだ一作がある。(題名を失念した)「電車」は幼児を枷にインチキな乗り方を試みる男の可笑しさ、「夕立勘五郎」は田舎廻りの訛りだらけのの浪曲師の素描である。
「電車」は譲り受けて故柳枝も演じたが、貧乏臭いこすっからさうな柄がしん生の方がピッタリ嵌って可笑しかった。柳枝が此を放送したときは左翼思想横行期で車掌たちから忽ち抗議を申込まれた。>
 
 志ん生に、いうところの新作があるというはなしはあまり知られていないから、1942年(昭和18)に書かれたこの文章におどろくむきがあるかもしれない。

  「電車」についての記録は残っていないようだが、矢野さんは当時流行った権太楼の「満員電車」や三代目柳好の「電車風景」と同工異曲だろうと察している。
 かたや、「夕立勘五郎」は、初代の馬の助もしばしば高座にかけており「あれはおやじの作なんです」と言っていたらしい。
 今でも、しっかり古今亭に残っていて、私は志ん輔のこの噺を末広亭で初めて聴いて、大笑いしたものだ。

 正岡容の文を紹介した後、矢野さんはこう書いている。

 いずれにしても、あまり自作があるとは思われていなかったこのひとに、いくつかの作品があったらしい事実は、意外な一面と受けとれなくもない。『昭和戦前傑作落語全集』に載っている志ん生口演の速記には、志ん生という落語家のそうした知られざる才能の発揮されているものが何本かあって、それがこの時代のこのひとの落語家としての活動のある一面をのぞかせてくれるのだ。

 では、その全集のこと。
 矢野さんは、戦前の講談社の雑誌に掲載され、全集に収められる予定の作品リストを見た。

 全部で二十一本収められている『昭和戦前傑作落語全集』の志ん生の演目をながめて、面白いことの気がつく。それでなくても、演目の決して少なくないひとではあったが、雑誌に載せる速記の性格をつねに考慮していて、多少とも毛色の変った演目を提供しようという意識が、ほかの落語家よりも強くはたらいているようにうかがえるのだ。もちろん、『長命』『代り目』『桃太郎』『ぞろぞろ』『お灸』『つもり泥』『犬の災難』『鯉のぼり』『百年目』『そば清』『淀五郎』『搗屋幸兵衛』と、半分以上は晩年までしばしば高座にかけていた演目の速記なのだが、おなじみのはなしであるはずのこの種の速記にも、志ん生ならではなお色彩はかなり濃厚に投影されている。
 どうやら雑誌に掲載される落語の速記は、高座の記録というよりも、独立した読物としての価値がなければならないという考えを、すでにこの時代の志ん生はいだいていたようで、そうした考えが、雑誌の速記もお座敷のひとつといった姿勢を表面上はとりつくろいながらも、ほかの落語家とはひと味ちがった速記を提供することにつとめていた気味があるのだ。そして、そのことが、この時代の志ん生にとっての精一杯の商売感覚なのであった。
 (中 略)
 寄席というところは、落語家にとって家庭のような意味あいが多分にあって、そういう場所では仲間うちでの評価、評判が必要以上に左右する。仲間うちでの評判の決していいとはいえなかった志ん生が、そうした評価の及ばない、放送、レコード、速記といった、寄席をはなれた場に於て活路をひらいていこうとはかったとしてもべつに不思議なことはない。

 まだ売れる前、雑誌から声がかかった時、一つの勝負の場を志ん生は思ったことだろう。
 いつも寄席でかける噺にしても工夫を加え、あるいは、当時でも珍しい噺(『円タクの恋』など)を意識的に速記の素材とした志ん生。

 どんな内容だったのかなども、次回はご紹介する予定。

# by kogotokoubei | 2019-04-26 21:27 | 落語家 | Comments(0)

 昨日、ある記事へのアクセスが100を超えていた。

 それは、昨年3月28日の、「『正蔵一代』より(3)ー旅で出会った、志ん生の思い出。」という記事。
2018年3月28日のブログ

 「いだてん」の影響以外は、ちょっと考えられない。

 昨夜は、志ん生(朝太)が旅回りで浜松の寄席「勝鬨亭」に出ていたことが描かれていた。

 重複するが、昨年の記事は、こういう内容。

 なお、「いだてん」の朝太の旅の筋書きにおいて、来週の先取りになるということを、お断りしておく。

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 青蛙房『林家正蔵全集』別巻の『正蔵一代』から、三本目の記事。

 数え年十八で、三遊亭三福に弟子入りし、福よしとなった岡本義少年。

 前回ご紹介したように、三福は桂小南などがいる三遊分派に属していたが、この一派は長続きしなかった。

 そこで、福よしは、旅興行に参加した。
 
 もちろん大真打なんぞァいやしません。一番の頭株が、数年前に亡くなった立川ぜん馬(鳥井兼吉)さんです。
 あの人は、もともとは“鼻”の圓遊さんの弟子で、そのころは遊福でしたかねェ、旅のあいだは右圓遊っていってたかなァ。それから本名を川崎仙太郎といって、のちに橘家花圓蔵となりましたが、その時分に三遊亭遊橋といってましてね、もともと芝の薪屋のあるじで、川柳なんぞもうまくって、世事には大変長(た)けてる人なんで、これがまァ参謀格なんですよ。
 (中 略)
 まァそういう一座にあたしも入れてもらって、静岡だとか浜松とかをまわるんですけども、途中で抜けるやつもあるし、また、何処かから駈けこんできて仲間にはいるやつもいるし・・・・・・というような按配で、だんだん打って行って、焼津から浜松の勝鬨亭って小屋へあがったもんです。
 そン時に、こないだ亡くなった志ん生と、初めて出会ったんです。

 本書の発行が昭和49年9月。志ん生は、この発行日から、ほぼ一年前に亡くなっている。東大落語会のメンバーが稲荷町で正蔵に話を聞いた時点では、たしかに“こないだ”のことだったのだろう。

 どんな出会いだったのか。

 そのころは朝太といってたでしょうね。やっぱり旅まわりでほうぼうを歩いていて、落語の一座があったらとび込もうと思ってたんでしょうが、それもないんで、しょうがなくて、一文なしで宿屋へ泊まったんですね。それで無銭飲食のかどで警察へ突き出されたってんです。と、その時分ですから、区裁判所かなんかへ送られたんじゃないんですかね・・・・・・途中で、われわれ一行のビラを見たんです。それでその検事って人が大変情けのある人で、
「おまい噺家だな」
 ってんで、今、道で見た勝鬨亭のあの一行を知ってるって奴が言ったもんだから、勝鬨亭のほうへ、だれか出頭してくれって差紙が来たんです。
 するとこの勝鬨亭のあるじってえのが馬淵さんてえまして、まァ田舎政治家といったようなもんで、そういうことには慣れてるから、おめず臆せず出頭して行ったならば、その件なんで、
「この噺家が、おまえンとこにかかってる芸人の中へはいりたいと言ってる。宿屋の代金を払えば潔白な身の上になる、疵をつけなくないから、なんとか協力してくれないか」
 代金ったって大した金じゃァないんですよ。で、馬淵さんが即金で上納して、やつを引き取ってきて、ま、われわれの仲間へ入れてくれってわけなんで。

 以上が、『正蔵一代』における、朝太の無銭飲食による投獄(?)から脱出のいきさつ。

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古今亭志ん生『びんぼう自慢』(ちくま文庫)

 ところが、小島貞二さん聞き書きによる『びんぼう自慢』では、難を逃れた件、ご本人はこう語っている。

 小円朝一行は、東京に帰ることになったのだが、朝太は、帰っても尊敬してやまない円喬は亡くなってしまったこともあり、一人残って旅を続けることにした。

 ひとり旅の苦労なんてえものは、そりゃァお話にもなにもなりゃァしません。
 あたしゃ一文なしで、名古屋から静岡県の掛川まで歩いたことがあるんです。いま汽車で通るてえと、ほんの一時間ばかりだが、さて、歩くてえのはヒマがかかるもんですよ。
 名古屋を発って二日目かなんかに、弁天島のとこまで来るてえと、渡しがあって「渡し賃八銭」と書いてある。弱ったなァと思いながらひょいとわきを見るてえと、めし屋があって、そこで酒ェ呑んで陽気にさわいでいる奴がいる。
「すみませんが、ひとつ都々逸かなんか歌わせてください」
 と声をかけたら、「あァ、いいよ」というから二つばかりトーンと歌ったら、十銭くれた。
 天の助けとばかり、舟ェのったんです。舟の中では向こう岸につく前に、渡し賃を集めに来るんだが、また天の助けという奴なんでしょうね、あたしのとこだけ来るのを忘れて、スーッといっちゃった。
「ありがてえな、どうも・・・・・・」
 てんで、芋を二銭、せんべいを二銭買って、そいつをかじりながら浜松まで歩いて、そこに知った勝鬨亭という寄席があったから、いくらか貸してもらって、また掛川まで歩いたんですが、何しろ焼けつくような炎天の下を、腹をすかして歩くんだから、マラソンの選手よりなおひどいです。

 おや、期せずしてマラソンなんて言葉が登場^^

 そして、あえてこの浜名湖の南、弁天島の渡しの場面から引用したのは、「いだてん」の筋書きにも関係してくるからである。

 弁天島は、ドラマの二人目の主役田畑政治と、縁(ゆかり)のある場所なのである。
 昨夜は、“河童”たちが、弁天島の海水浴場で泳いでいたよね。

 舞阪町観光協会のホームページに、田畑政治の特別ページがあり、浜松中学時代に弁天島海水浴場で泳いでいたことが紹介されているので、ご紹介。
舞阪町観光協会のホームページ

田畑氏が進学した浜松中学校の水泳部が、弁天島で水泳訓練を行っていた際の合宿先。田畑氏は水泳大会があると茗荷屋に宿泊していた。茗荷屋旅館の子息・堀江耕造氏は水泳部の中心人物で田畑氏の大先輩。水泳部の本部は舞阪町の宝珠院に置かれていたが、参加者が増えたため茗荷屋に移転した。
(旅館は現存しておらず、別荘跡から西隣3軒目に位置していたと思われる弁天島海浜公園内東側に看板がある。)

 茗荷屋旅館、というのが、落語愛好家にとっては、なんとも楽しいなぁ。

 さて、朝太の旅の話に戻ろう。

 宿があったから、そこへとび込んで、夕飯をガーッとかっ込んで、死んだように寝ちまった。ふところには一文もねえことを、ちゃァんと心得ての上だから、考えてみりゃァ向こう見ずの話だが、一応の心づもりはあるんです。
 朝になって食事が出る。一粒のこらず平らげて、そこで腹のできたところで肝ッ玉ァきめて、宿の主のとことへ行って、
「実は、そのォ、おあしがないんですが、あたしゃ東京のもんだけど、帰ったらじきにお届けにあがりますから、しばらく貸しといてください」
 と頼んだんだが、こんどばっかりは天の助けてえわけには参りません。警察へつき出されて、留置場てえのにぶち込まれてしまったんです。
 そのこと、東海道に宿屋荒らしがあって、警察じゃァ、手ぐすねひいて待ってるところへ、あたしが来たから、「こいつだッ!」てんで、ボーンとほうり込んだんですね。何しろ、毎日炎天を歩いているから色はまっ黒けだし、食うものだって満足にゃ食ってねえから、目ばかり光って人相はわるい。そうにらまれたってしょうがなかったのかもしれません。
 ちっとも出してくれねえから、弁当の来るのを待って、食っちゃァ寝、食っちゃァ寝して、小さな声でモソモソとはなしの稽古をしてるところへ、一人凄そうなのが入って来た。何でも土地のやくざの親分で、喧嘩かなんかしたらしい。
 差し入れがウンとあるから、一人じゃァとても食べ切れやしません。あたしに余りをくれる。そんなことですっかり心安くなっちまった。
「おめえ、いったい商売(しょうべい)は何だい?」
 ときくから、
「へえ、あたしやァ東京のはなし家で、実はこうこう・・・・・」
 と宿でのいきさつを話すと、
「ふーん、そんな大物とまちがえられちゃァ気の毒だな。どうだい、はなし家なら、一つおれにきあkせろ」
 てえから、あたしも退屈しのぎに二席ばかりやったら、手は叩かねえけど、親分スッカリよろこんじまった。
 親分のほうは、うらから手を回したかなんかで、先に出て行ってあたしのほうがあとになっちまって、しばらくたって無銭飲食とかなんとかで、裁判所へ回されたんです。

 親分が、助けてくれたわけではなかった。
 さて、この先の内容が、正蔵とご本人とで、違ってくる。

 検事が出て来て、ひょいとあたしの顔ォ見て、
「おう、お前は東京の芸人だな」
「へえ、そうです」
「お前は、近ごろ東海道を股にかける宿屋荒らしの一味ではないかという容疑がかかっとるが、どうも、そうではないようじゃ」
「わかりますか」
「私は、以前、東京でお前の落語をきいた覚えがある・・・・・・」
 あたしは、あのときほど芸人のありがたさを感じたこたァありませんね。結局、宿料一円三十銭を、その検事さんが立て替えて、ミッチリ意見をされて、あたしは助かりましたが、なにしろわるい奴には有無をいわさなかった時代でありますから、あの検事さんと出っくわさなかったら、それこそどうなっていたかわかりゃしません。
 あたしも、その後どうにかなるようになってから、一度、その検事さんに会って礼の一つも言いたいと思って、随分捜したんですが、とうとう会えません。

 あら、宿屋の借りを払ったのが、なんと、検事と回想している・・・・・・。

 冒頭に紹介したように、正蔵は、勝鬨亭のあるじの馬淵さんが支払った、と語っている。

 志ん生の話も、話としてはよく出来ている(?)のだが、これ、正蔵の記憶が正しいのだろうねぇ。

 次回の「いだてん」では、果たして、どう描くのだろうか。
 
 ちなみに、『正蔵一代』では、留置場から出た朝太との最初の出会いが、次のように書かれている。
 あくる朝になってね。どうせわれわれァみんな楽屋へ泊まってるんですから、田舎の寄席で、戸外(おもて)に水道があって、そこィバケツを持ち出して顔を洗うんです。で、やつとあたしと顔を洗っちゃってから、あいつが、
「おい、ちょいとまんだら貸してくンねえか」
 まんだらてえのをあたしがまだ知らないんですねェ、噺家になりたてだから・・・・・・。
「おゥ、手拭いだよ」
 って言われて、手拭い貸してやった、というような仲なんで・・・・・・。ですから彼とはずいぶん古くから知り合ってるんですよ。

 志ん生のほうは、『びんぼう自慢』を含め、留置場を出た後のことや正蔵との最初の出会いのことを語った形跡が見当たらない。

 記憶が薄らいでいたのかもしれないが、自分の惨めな姿を知られている他人の存在を、あえて公表したくなかったのか・・・・・・。


 さて、「いだてん」も新たな局面を迎えている。 
 なかなか、面白くなってきた。
 なかでも、大竹しのぶの演技、光っているねぇ。

 制作スタッフは、視聴率なんてぇものは気にしないで欲しい。

 今後も、金栗四三、田畑政治、古今亭志ん生の物語を楽しみたい。
 
# by kogotokoubei | 2019-04-22 12:36 | 落語家 | Comments(0)
 志ん生の最初の師匠のことを、何冊かの本で探っている中で、ある本の解説を読んで、いろいろ考えさせられた。

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大西信行著『落語無頼語録』

 それは、大西信行さんの『落語無頼語録』の、永井啓夫さんの解説の中の文章。

 なお、この本は、昭和48年に「話の特集」に連載され、昭和49年に芸術生活者から単行本として発行されたものだ。
 ちなみに、この単行本のAmazonのレビュー(一件)は、私が書いたもの。
 なお、昭和51年には、角川文庫で再刊されている。

 永井さんの文章の順番を逆にして、まず、本書と著者について書かれた部分を先に引用する。

 大西信行の『落語無頼語録』は、こうした固陋なはなし家たちに向って正面から堂々と所信をぶっつけた壮挙ともいうべき評論である。大西の<毒舌>には、すでにゆるぎない定説がある。たとえば老練の歌舞伎俳優中村翫右衛門に対して「翫右衛門は名優ではない」と評し、歌舞伎界の誤れる通説に一石を投じたのも大西であった。それまで翫右衛門が登場すれば、必ず繊細で写実的な<名人芸>という賛詞を呈することが劇通や批評の慣習となっていた。だから大西の提言によって驚愕したのは翫右衛門ではなく劇通や批評家だったのである。<名優>という虚名から解放され、ひとりの俳優として批判を浴びせられたことは、翫右衛門にしてみればむしろ役者冥利だったといえよう。
 大西にとって、落語史上<神様>のようにあがめられている三遊亭円朝も名人ではなかったし、「功成り名を遂げた生涯」と新聞が書き立てた桂文楽の死に対しても<自殺説>を主張して哀悼の意を表することとなる。<はなし>とは、しょせん<人>によって語られるものである。だから語り手が「うまいはなし家になりたい」と思ったとき、円生も馬生も談志も、すべて一刀両断に斬られることになる。

 大西さんの鋭い批評家精神は、たしかに、異彩を放っている。

 本書については何度か記事にしているが、たとえば2016年1月に、次のような内容を紹介した。
2016年1月26日のブログ

 三遊亭円朝だけではなしに、そのほかいろいろな分野で、おなじような評価のされ方が、日本ではありがちなのだともいえよう。
 たとえば、あの役者はうまいとだれかがいうと、いつの間にかみんながその役者をうまいというようになり、いったんうまいといわれた役者のやったことだと全部が全部名舞台名演出だと、だれもが疑いをはさむこともなく信じこまれてしまう。そんなバカバカしい現象が、日本という風土には生じやすいもののようだ。
 そのことをひどく不愉快だとも、恥ずかしいことだとも、たまらなくいやだとも、ぼくは思っている。
 あの文楽にだって出来の悪い高座はあった。名優菊五郎も舞台を投げた日があった。
 いや、その日その日の出来のよし悪し以前に、主題の把握の誤りや、役づくりの失敗も、どんな名優名人にもなかっとはいえない筈だ。
 それを正しく判断する目を耳を、みんながみんな失くしてしまっていては困る。
 三遊亭円朝にしても・・・・・・

 連載が始まった昭和48年は、文楽が亡くなってから、まだ二年。
 そんな時期に、このようなことを書く人は、他にいなかったことだろう。

 永井さんは、そんな大西の本を評価する背景を、最初に引用した文章の前段で、当時の落語批評と落語家の実態に照らして、次のように指摘する。
 
 現代落語の質的解明には、江國滋・三田純市・矢野誠一・山本益博らのような見巧者の愛情にみちた指摘も多い。しかし、かんじんのはなし家たちは、落語ばかりでなく伝統芸能の世界ではいずれも共通のことだが<批評>はすべて悪意と曲解によるものとして耳を藉(か)さない。これは現代の伝統芸能が抱えている最大の不幸であろう。

 昭和48年、すでに安藤鶴夫さんは、いない。
 永井さんが挙げた中に、当時ご健在だった榎本滋民さんの名がないのが、残念。

 さて、この本の発行から四十年余りが経過している。

 果たして、落語批評と落語家の関係は、変わったのか、否か・・・・・・。

 少なくとも、永井さんが名を挙げた方を含め、批評を公にする落語の見巧者は、圧倒的に減ったのは間違いがない。

 一方の落語家の方はどうか。

 批評を悪意と曲解によるものと考える落語家は、もしかすると減っているのかもしれない。
 とはいえ、聞く耳を持っているとしても、聞かせる言葉がなければ、コミュニケーションは成り立たない。

 落語批評、とりわけ大西さんのような、媚びることなく、いいものはいい、悪いものは悪い、と明言する人は、今、どれだけいるのだろうかと思うと、暗澹とせざるを得ない。

 芸人を育てるのは客であり、その客の中に、批評家も含まれると思う。

 しかし、職業としての落語批評家、評論家は、成り立ちにくい時代。

 その代わりと言うわけでもないが、ネットの役割は大きくなった。

 よく拝見するブログでも、その視点や批評内容に感心することが度々ある。

 見巧者の方のブログを読んで、自分の聴き方、見方の甘さを反省することも少なくない。

 好みの噺家さんの高座の評価は、どうしても甘くなる。

 大西さんや永井さんの文章をあらためて読んで、いろいろ考えさせられた。

 ネットは匿名性により、長所も短所もある。

 “つぶやき”同様に、「良かった」「面白かった」とか「良くなかった」「面白くなかった」とだけ書かれる高座もあるだろう。

 もし、“批評”として価値がある内容とするには、「何が」「どう」良かったのか、あるいは、悪かったのか、そして、改善するならどうすればいいのか、というヒントも提示できなければならないと思う。

 もちろん、大西さんご指摘のように、噺家さんも人間。
 体調の悪い時だって、あるだろう。
 そんなことも含め、その批評に当事者が読むに耐える内容でなければ、批評とは言えないのではないか。

 落語会、寄席の備忘録として始めたブログだが、出会った高座の感想を書いている以上は、やはり、いい加減なことは書きたくないとも思う。

 “小言”も、聞くに耐えるものでありたい。

 奢った言い方になるのを承知で書くが、拙ブログも、読んでいただいて落語家さんが耳に痛くはあるが参考になるような、身内では表面化しにくい批評となるよう努めなければならないなぁ、と思っている。

# by kogotokoubei | 2019-04-18 12:27 | 落語評論 | Comments(10)
 新橋駅で、旅に出る朝太の見送りに来た円喬は、「フラがあんだよ、フラが」と、円朝門下の兄弟弟子の小円朝に朝太を託す。

 今日の「いだてん」の一場面。
 餞別に、煙草の敷島まで朝太は円喬からもらうのだった。
 あくまで、実在の人物をモチーフにした、フィクションなのです。

 もう、円喬が本当の師匠だったかはどうかについては、書きません^^

 しかし、志ん生は、まぎれもなく昭和の名人だった。
 その志ん生の贔屓は、実業界や政治家、教育者など幅広く、有名な人も多かった。

 吉田茂、池田勇人は、よく知られた志ん生のご贔屓。

 他にも、いろんな方が志ん生という噺家を愛したことを、再確認した本からご紹介。

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古今亭志ん生『びんぼう自慢』(ちくま文庫)
 小島貞二さんの『びんぼう自慢』(ちくま文庫)の「楽屋帳」、いわば少し長めの「あとがき」を読んでいて、意外な人の名を発見した。
 「サンデー毎日」の連載を元に、毎日新聞から最初に『びんぼう自慢』が発行されたのが、東京五輪開催の昭和39年4月。

 この本の発行を記念して志ん生を励ます会を開くことになった。
 その案内状がこれ。

「志ん生さんが、あれ程の大病を克服して、再び高座に元気な姿を見せています。それにまた、このたびは『びんぼう自慢』という結構な本を出しました。
 そこで、これを機に、志ん生を愛する仲間で、心からの励ましとお祝いの会を開きたいと思います。派手なパーティーといったものでなく、落着いた会でしたら、という志ん生さんの気持ちに合った集いを、ゆかりの人形町で開きますから、どうぞお出かけ下さいますよう、ご案内申し上げます。
 日時は五月十七日(日)午後一時から、ところは人形町末広。会費は千円。発起人は小泉信三、鴨下晁湖、安藤鶴夫、桂文楽、高原四郎、小島貞二」

 発起人の顔ぶれが、凄い。

 そして、その会の内容も贅沢だし、客にも高名の人々が並ぶ。

 司会は馬の助、前座が志ん朝(「野ざらし」)、二ツ目が馬生(「たがや」)。そして新内の岡本文弥が、この本にもある「なめくじと志ん生」を演じたあと、三味線豊太郎(次女の喜美子さん)が加わって、志ん朝、馬生が小唄振り。真打に志ん生が上って、晴れ晴れとした表情で、「火焔太鼓」をたっぷりと演じたのである。
 安倍能成、渋沢秀雄、徳川夢声、市川三郎、柳家金語楼・・・・・・など、発起人たちとは別の名だたる人たちの笑顔が、はじめから客席の中にあった。

 な、なんという豪華な会。

 次男志ん朝が前座、長男馬生が二ツ目を務め、トリ志ん生のお祝いの会、最初で最後の組み合わせだったことだろう。

 客席の安倍能成(あべ よししげ)は、哲学者であり、教育者、政治家でもあった人。夏目漱石門下としても有名。貴族院勅選議員、文部大臣、学習院院長などを務めた。

 市川三郎は作家で、ラジオや映画にもなった「チャッカリ夫人とウッカリ夫人」の原作者。

 あら、一万円札になることで今や時の人、渋沢栄一の子息(四男)、渋沢秀雄の名もあるねぇ。今の田園調布の開発に努めた人も、志ん生好きだったんだ。
 渋沢秀雄は、設立間もない田園都市株式会社で、田園調布や洗足田園都市の計画的で大規模な宅地開発を行い、その開発地区のための鉄道敷設・電力供給、多摩川園遊園地の運営も行った。
 開発当初の田園調布は、いわばサラリーマンのための郊外住宅地で、現在のような高級住宅街という存在ではなかった。

 発起人、そして、客席にも名だたる贔屓たちが、当日の人形町末広に集っていたのだ。

 古今亭志ん生という噺家さんの魅力は、幅広く、さまざまな日本人を虜にしたことを、この会のことから、再認識した。

# by kogotokoubei | 2019-04-14 21:09 | 落語好きの人々 | Comments(4)
 またか、という声が聞こえてきそうなのですが、古今亭志ん生の最初の師匠のこと。

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矢野誠一著『志ん生のいる風景』

 本件について書くにあたって、矢野誠一さんの『志ん生のいる風景』を忘れかけていた。
 本棚の奥に、横積みにした数冊の文庫の下の方に、カバー付きで置かれていたので、見逃していた。

 志ん生について語るなら、避けて通れない本だよねぇ。

 初版が昭和58年の青蛙房刊、昭和62年に文春文庫で再刊。私はこの文春文庫を読んでいる。なお、今年、河出文庫でも発行されたが、「いだてん」の影響だろう。

 本書に、「ひとりの師」という章があった。
 
 小島貞二さんの『びんぼう自慢』の中の「円喬師匠のところへ弟子入りして、最初につけてもらった名前が三遊亭朝太」という志ん生自身の言葉があることや、昭和46年の「文藝春秋」掲載の対談でも、志ん生が円喬に最初に入門したと語っていることを紹介した後、このように矢野さんは書いている。

 いずれにしても、落語家古今亭志ん生の最初の師が、四代目橘家円喬であるというのは、当の志ん生没後もしばらくのあいだは定説であった。その定説を否定して、志ん生の最初の師を、二代目三遊亭小円朝であると記したのが、結城昌治『志ん生一代』で、「週刊朝日」連載第一回、まさに発端の章にこう書かれている。

<その志ん生が三遊亭小円朝(二代目)に弟子入りして、朝太の名をもらったのは明治四十三年(1910)、ちょうど二十歳のときである。>

 結城昌治さんが、古今亭志ん生の最初の師匠を、三遊亭小円朝で橘家円喬ではないと推断した最大の根拠は、三遊亭朝太という志ん生に与えられた前座名にある。志ん生自身が、『びんぼう自慢』で、「円喬師匠が若いころやっぱりこの名前をつかっていたそうでありまして」と語っているように、橘家円喬は八歳のとき三遊亭円朝に入門して、三遊亭朝太を名乗っている。しかしこれは、三遊亭円朝の「朝」の字をとった命名で、円喬となってから自分の弟子に「朝」の字のついた名を与えている例がないことなどから推しはかっても、二代目小円朝の弟子で朝太と考えるほうが自然である。橘家円喬が、四十七歳という若さで逝ったのは1912(大正1)十一月二十二日のことなのだが、当時の新聞や雑誌に載った訃報や追悼の記事をさがしてみても、朝太という弟子がいたという記録はない。

 そうそう、結城昌治さんの『志ん生一代』では、疑いもなく二代目小円朝の弟子、としてあった。
 ちなみに、結城さんに志ん生の本を書くよう勧めたのは、立川談志らしい。

 さて、結城昌治さんの本、小説ではあるが、本人聞き書きによらない一代記として志ん生を知る上での必読書だ。
 今年、小学館文庫で再刊されたのは、「いだてん」効果だろう。

 これまでにも、何度かこの本から記事を書いている。
2008年10月13日のブログ
2012年9月1日のブログ
2012年9月22日のブログ
2013年9月21日のブログ
2017年7月21日のブログ

 さて、矢野さんの本に戻る。

 矢野さんは、小島貞二さんの『びんぼう自慢』本文の内容と年表の矛盾を見逃さなかった。

 『志ん生一代』で結城昌治さんが、志ん生の橘家円喬門下説を否定したことは、故人の周辺にはまったくといっていいくらい影響を与えなかった。誰の弟子であろうと、古今亭志ん生は古今亭志ん生なので、その後すぐれた落語家としての名跡は、師匠筋が誤り伝えられたくらいのことでは、びくともするものじゃない。
 波紋は、むしろべつの方面に及んだ。たとえば。1970年(昭和45)に刊行された『志ん生廓ばなし』(立風書房)についている年表で、
 <明治四十年  十七歳
  浅草富士横丁のモーロー俥夫の家に居候しているとき、すすめられてはなし家を志し、運よく“名人”といわれた橘家円喬門下となり、三遊亭朝太の名をもらう。>
 と、している小島貞二は、『志ん生一代』が公にされたあとの、1977年(昭和52)に出た文庫版の『びんぼう自慢』(立風書房)の年表を、

<明治四十一年(1908) 十八歳
 四月二十三日、兄(二男)益没、二十九歳。あとの兄弟はみな夭折して、五男の孝蔵のみのこる。
 円盛のひきで、円盛の師匠初代(正しくは二代目だが芸界では初代)三遊亭小円朝門下に転じ、朝太の名をもらう。「名人四代目円喬の弟子になった」と志ん生本人は語っているが、師匠筋とすると小円朝が正しい。同門に二代目小円朝(初代の実子、当時朝松)、それにのちの講談師田辺南鶴(当時一朝)がいた。>

 と、訂正した上、「楽屋帳(あとがきにかえて)」と題する末尾の文章で、こうのべている。
<年譜を対比しながら、この本を読んだ方は、「生年月日から違ってるではないか」「両親の名前も違うのは、どうしたことだ」などなど、さまざまな疑問を感じられるに違いない。
 実は、私は、そういうことを、随分取材の折り、念を押した。
 放浪時代の入墨のことも、最初の師のイカタチの円盛のことも、そして小円朝のことも、それとなく伺ってみたのだが、その辺のところは触れるのを嫌うように、志ん生師は話題をすぐ別のほうへ動かした。
 (中 略)
 志ん生という人を、本人の談話を忠実に、活字の中に生かすことが、与えられた私の仕事で、何もかもすべてをすっぱ抜き、大上段に人物論を展開するのが目的ではない。本人の語らない・・・・・・無理に語ろうとしない面は、そのままにしておくことが、やはりこうした読物のとるべき態度であろうと、私は今も信じている。>

 この矢野さんの引用を読んで『びんぼう自慢』文庫版の年表を確認した。
 たしかに、「楽屋帳」の「四」に、この通りに記されている。

 小島さんも、苦渋の決断での「聞き書き」であったのだろう。
 矢野さんは、この楽屋帳の内容について、「なんとも歯切れのよくない」印象としている。

 そして、こう書いている。
自分の師を橘家円喬だとする発言が、戦後満州から引きあげてきてからのものと思われるところに興味がわく。

 その後、正岡容が『當代志ん生の味』という文章で、正岡も最初の師匠を小円朝と書いていることを紹介した後で、このように、この問題(?)への考察を締めている。

 戦前の、赤貧洗うがごとき暮しをしていた落語家の時代には、その経歴に注目するひとなどそういなかった。だが、満州から帰国していらい、たちまち時代の寵児のあつかいを受け、東京落語界の指導的地位に立たされてしまった志ん生には、自分の経歴をかざることも必要になってきたのである。三遊亭小円朝よりも橘家円喬のほうが師としてふさわしいというより、橘家円喬でなければならない理由が、志ん生にはあった。

 なるほど・・・なのである。

 結城昌治さんは、小説でありながら実証的な推理を元に最初の師匠を小円朝とし、小島貞二さんは、その本人の言葉を疑いながらも円喬としながら、結城さんの本の出版後、文庫の年表では、正しいと思われる内容を補足した。

 そして、なぜ本人は「円喬の弟子」を強調したのか・・・は、矢野さんの書く通りなのだろう。

 前の記事で、小島貞二さんの『志ん生の忘れもの』に、この問題(?)は、「幻の中」にある、という記述を紹介した。

 小島さんの気持ちも、よく分かる。

 とはいえ、矢野さんの指摘で、「幻」の霧が晴れたのも事実。

 この件、これにてようやくお開き。
 
# by kogotokoubei | 2019-04-11 22:27 | 落語家 | Comments(2)
 先日、古今亭志ん生の最初の師匠は、「いだてん」が描くように四代目橘家圓喬ではないだろう、と書いた。

 あくまで、憧れの師匠が圓喬であり、ご本人が圓喬に入門したとおっしゃっているのは、願望する余りの思い込みではないか、と書いた。

 実は、あの記事で、小島貞二さん聞き書きの『びんぼう自慢』の内容は、あえて引用しなかった。

 なぜなら、あの本では、明確に最初の師匠は円喬と紹介されており、「いだてん」も、たぶんに『びんぼう自慢』を土台にしていると思えたからだ。

 しかし、前回の記事を書いてから、小島さんの本で、見逃せないものがあったことを思い出した。

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小島貞二著『志ん生の忘れもの』(うなぎ書房)

 その本は、『志ん生の忘れもの』(うなぎ書房)。
 平成11(1999)年の発行。
 同じ書店から出ている小島さんの『こんな落語家(はなしか)がいた-戦中・戦後の演芸視-』は、何度か紹介している。

 小島貞二さんと志ん生とのお付き合いは長く、深い。

 その二人の出会いのおかげで、落語愛好家のとって宝物とも言える多くの志ん生に関する作品が残された。

 最初、『サンデー毎日』の連載企画のために小島さんによる志ん生の聞き書きが始まり、その内容から『びんぼう自慢』が生まれた。

 毎日新聞から立風書房に移ってから、その『びんぼう自慢』の再刊に続いて、「志ん生○○○ばなし」シリーズが発行された。

 ちなみに、この本の発行元うなぎ書房は、その立風書房を退社された方が創業した会社。

 「まえがき」から、まずご紹介。

 志ん生さんとのやりとりは、普通のインタビューとは違っていた。
 普通は、一問一答の形で進む。話のキャッチボールで会話が弾むものであるが、志ん生さんの場合は違う。
 一つテーマを示す。「きょうは、子どもの時分のことを・・・・・・」と注文すると、「えー、あたしのガキの時分の、上野、浅草なんてえものは・・・・・・」ともう始まっている。
 あくる日、酒についての注文を出す。「酒えてことになると、あたしは、どうも、ダラシがなくなっていけませんや・・・・・・」、その次は旅、その次はバクチ。「ひとり高座」が十五分も二十分も続く。その日の気分で、いつ、どこから、どっちへつながるのかわからない。
 時には同じ話が二度、三度と返ってくるかと思うと、その同じことのある部分が拡大され、そこから新しい話がまた始まる。無尽蔵の宝庫の中で、しばし迷子になるような気分であった。底の知れない穴蔵に、腕を突っ込んで、埋もれた金塊を探す光景にも似ていた。

 なんとも、贅沢なインタビューだろう。
 
 小島さんというたった一人の客に向かっての、志ん生の高座、とでも言うべきか。

 そんな長時間の聞き書きを、「思い出すままを記した」のが本書、と説明されている。

 本書の「朝太ひとり旅」より引用。

 志ん生さんにきいた、もっともいい話、もっともドラマテックな話を一つ。
 若いころ・・・・・・おそらく朝太の時代であろう。小円朝一座で旅に出た。
 小円朝は当時、三遊派の頭取をつとめた大看板であったが、ちょっと協会にごたごたがあり、責任をとっての旅回りということらしい。前座がひとり足りないからと、朝太がかり出されたのである。
 旅先で、師匠円喬の訃を知り、体中の水分がなくなるほど泣く。旅が一年半ほど続くが、ドサ回りはどこも客が入るとは限らない。ご難が続く。
 そのうちに、「いい加減に、東京に戻っておいでよ」の手紙が来て、小円朝一行は帰京ときまる。朝太も、「お前も、一緒に帰るんだろうね」ときかれる。朝太は考える。
 帰っても師匠(円喬)はいない。このまま小円朝の弟子になる気が向かない。多少芸に自信みたいなものも生まれて来ている。ここでひとり旅をして、いよいよ困ったら東京に戻ればいい。
 友達の窓朝に相談してみると、「ひとり旅も面白いもんだぜ。でも大変だけどもなァ・・・・・・」という。「面白いもんだぜ」と「大変だけどもなァ・・・・・・」を両天秤に掛けて前者を選ぶ。
「それじゃァね、しっかりおやりよ。でもね、身分が前座のままでは通りもわるかろうから、わたしが許すから、これからどこへ行っても、東京の二ツ目ってえことにしたらいいよ」
 と、小円朝から餞別と一緒に、特別に「二ツ目」をもらう。こうして、朝太ひとり旅がはじまる。

 ということで、この文章からは、志ん生が円喬の弟子だったことを、まったく疑う様子が見えない。

 あまりに、志ん生と近づきすぎたことによる、錯覚の共有なのか・・・・・・。

 それとも、小島さんが何度も聞く中で、志ん生ご本人が語る円喬の思い出話から、弟子であったことの信頼性が高いと、判断したのか・・・・・・。

 などと思っていたら、この章のしばらく後に、種明かしのような章があった。

 その名も、「最初の師匠」から引用。

「あたしは、はじめ円盛のとこにいたんですよ」
「えッ、あの、イカタチの円盛の?」
「うん・・・・・・」
 私が飛び上がるほどおどろいたというのは、全くの初耳で、円盛は“奇人”で知られてはいるものの、二流の落語家で、ほとんど無名といってよい。
 志ん生さんは『びんぼう自慢』の中でも、名人といわれた橘家円喬(四代目)の弟子だといっている。最初の名が三遊亭朝太であったこともはっきり語っている。朝太は円喬の最初の名。出世名前である。
 私も、最初の『びんぼう自慢』取材の折、そこのところを二、三度確かめたが、忘れてしまったのか、思い出したくないのか、多くを語ることはなかった。
 志ん生さんのいう「名人円喬の弟子」で、そのときには原稿を統一したいきさつがある。自伝の聞き書きは、誰の場合でもそうであるが、ご本人や記録を大事にしなければならない。
 そこは、いきなり奇人円盛“が、最初の師匠として飛び出した。それもこちらが何も聞かないのに、志ん生さんがポツリと告白のようなひとことだから、驚いて当り前だ。

 このポツリの述懐は、信憑性がありそうだ。

 だから、まずは最初、円盛の弟子、というのは動かせないだろう。

 小島さんは、美濃部孝蔵少年の家出以降を、このように推測している。
 毎日遊んでばかりにはゆかない。さほどの期間ではないが、御徒町の鼻緒屋に奉公したことがある。そのころ芸事に夢中になり、天狗連(アマチュア、セミプロごっちゃの芸自慢)に入り、そういうグループを仕切る三遊亭円盛の内輪になる。そのときの芸名は盛朝。かなり達者で評判もいい。本格的にプロの道に入りたいと願うようになり、円盛に相談すると、
「じゃあ、ウチの師匠に頼んでみよう」
 と、円盛の師匠、小円朝に紹介され、そこに入門する。
 入ってみたが、師匠との折り合いがあまりよくない。寄席できく円喬の名人芸に惚れ込んで、「師匠はこの人だ」とのめり込む。
 あるいは、小円朝の許しを得て、人形町の玄冶店に住む円喬のとろろに通い、身の回りの世話をしながら、稽古を受けたことが、一時期あったのかもしれない。円喬の没は大正元年十一月二十二日、四十八歳だから、志ん生さんが円喬に接したのは、さほど長くはない計算になる。円喬没後改めて小円朝門下に転じたのかもしれない。
 のちの九代目土橋亭里う馬は、その円喬の最晩年の弟子で、初名を喬松といった。
「志ん生さんは、円喬の弟子だったことがあるんですか」
 と生前、里う馬に聞いてみたが、笑ってイエスともノーともいってくれなかった。
 三代目の三遊亭小円朝は、二代目小円朝の実子。志ん生より二つ年下で、十六歳でg父に入門、初名を朝松という。
「志ん生さんは、円喬の弟子だったといってますが、本当は、お父さんの弟子で、師匠とは兄弟弟子でしょう」
 と、きいたことがあるが、これもはっきりと返事をしてもらえなかった。
 功なり名を遂げた“天下の志ん生”に対し、仲間うちで否定的なことは絶対のタブーと、私は理解した。
 志ん生さんのプロとしての最初の師匠は円喬なのか小円朝なのか、幻の中にある。

 この、円喬の弟子だった土橋亭里う馬と、三代目小円朝の小島さんの質問への態度に、事実が隠されているようにも思う。
 なるほど、あの時代の噺家さんは、小島さんの質問に軽々しく答えるようなことはなかった、ということか。

 志ん生が、生涯「円喬の弟子」と言い続けた気持ちも、汲み取ってあげる必要があるのだろう。

 実際に、円喬宅を訪れ、稽古をつけてもらった可能性も、ある。
 師匠の乗った人力車をひいた、というのは、考えにくいのだけどね^^


 さて、あらためて、志ん生の師匠は誰だったか。

 小島さんの言うように、その答えは幻の中にそっと閉じ込めておくのが、よさそうだ。

# by kogotokoubei | 2019-04-08 21:36 | 落語家 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛