噺の話

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 本日12月21日は、旧暦で十一月十五日。
 坂本龍馬の命日である。
 実は、誕生日も同じ十一月十五日。

 慶応三(1867)年十一月十五日、京都の近江屋で、何者かに斬殺された。

 その犯人には、いくつもの説がある。

 命日に、その犯人を探る本をあらためて読んだ。

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磯田道史著『龍馬史』(文春文庫)
 いまや、テレビでも引っ張りだこの磯田道史の『龍馬史』は、2010年に単行本で初版、2013年の文庫化された。

 結論から先に書こう。

 著者は、龍馬の手紙などを精査することで、さまざまな他の犯人説を否定し、見廻組が犯人であることに疑問がないとしている。

 まず、見廻組以外の犯人説とはどのようなものか。
 その黒幕については、次のような説が紹介されている。

 (1)新撰組黒幕説
 (2)紀州藩黒幕説
 (3)土佐藩黒幕説
 (4)薩摩藩黒幕説

 それぞれの説の疑問や反証について、本書「第三章 龍馬暗殺に謎なし」からご紹介。

(1)新撰組黒幕説への疑問

 龍馬が殺された後に、真っ先に犯人として疑われたのが、新撰組。
 本書では、このようにこの説に疑問を呈す。

 新撰組説は成り立ちません。戊辰戦争で敗れ、新政府に捕らえられた元隊士たちは一様に、龍馬暗殺について尋問を受け、その取調べ調書が残っています。なかでも横倉甚五郎という元隊士の供述は重要です。彼はこう言っています。
 坂本龍馬を討った(暗殺した)かどうかということじゃ一向に知らない。しかし、事件後、近藤勇が龍馬を討ったものは「先方にては」新撰組だと騒いでいる。おまえらは油断するなといったのをきいた。「先方」というのは土佐藩や海援隊のことです。
 また最後の新撰組隊長だった相馬主計(かずえ)の供述では「隊中で龍馬暗殺の嫌疑が晴れたという回し文があった」とも言っています。近藤の口ぶりからして、どうも新撰組はやっていないようです。このような証言がある上、そもそも新撰組の実行を裏付ける直接証言は、何一つありません。

 ということで、新撰組黒幕説は、消去。


(2)紀州藩黒幕説

 なぜ、紀州藩が疑われてのか。

 それは、慶応三(1867)年の四月、海援隊が四国の大洲藩に出資してもらって運用していた船「いろは丸」が、紀州藩の船に衝突して沈没するという事件(「いろは丸事件」)に起因する。
 この事件で、龍馬は紀州藩を相手取って、莫大な賠償金をせしめたのだった。
 また、海援隊に元紀州藩士の陸奥陽之助(宗光)がいて、紀州藩の弱みを熟知していたことも、龍馬の交渉を有利にした。

 龍馬というと「颯爽としてイメージ」がありますが、こういう交渉事になったときは、颯爽どころかじゃなりあくどい。沈没した直後、原因が分からない状況で「万国公法」を持ち出したのです。
 紀州藩は、御三家のひとつで、おおらかな人が多い藩ですから、こういう交渉事にあまり慣れていません。なにより体面を傷つけられることを非常に嫌っていました。龍馬は「お金よりは体面が大切だ」という紀州藩の基本方針を見極めて、次第にそこにつけ込んでいきます。

 多額な賠償金をせしめるため、龍馬は「いろは丸」の積荷が米や砂糖だったのに、銃を積んでいたと偽り、あげくには現金を何万両も積んでいたとして紀州藩に迫った。
 結果として、七万両の賠償金を大洲藩と海援隊は獲得する。現在価値で数百億円にのぼる額。
 龍馬というタフネゴシエーターに丸め込まれた紀州藩が龍馬暗殺の黒幕とされるのは、この「いろは丸」事件の恨み、という理由。
 この説について、磯田は、こう指摘する。

 しかし、紀州藩が龍馬を「殺す」という命令を出したり、実行部隊を動かした形跡は全くありません。少しでも実行に移していれば、証言や史料という形で残るのでしょうが何も残されていないのです。

 事件直後に紀州藩黒幕説が叫ばれたが、明治になるとこの説は消える。


(3)土佐藩黒幕説

 比較的多くささやかれるのが土佐藩説です。黒幕は後藤象二郎説と岩崎弥太郎説の二説あります。しかし、龍馬が殺された時点で、土佐藩ほど龍馬を必要としていた藩はありませんでした。特に後藤象二郎説というのは、動機に無理があります。
 磯田は、龍馬が音頭をとった大政奉還により、後藤や土佐藩の京都での地位が上昇したことや、慶応三(1867)年正月に長崎で後藤と会った龍馬は意気投合し、同志への手紙に、「後藤は近頃の人物だ」と書いていることを反証材料として挙げている。
 また、岩崎弥太郎と龍馬は、テレビドラマのように幼友達ということではなく、龍馬が亡くなるほんの数ヵ月前に対面したという説が有力で、岩崎が龍馬の利権を奪うために暗殺の黒幕となることも考えられない、と指摘する。


(4)薩摩藩黒幕説

 磯田は、京都において、薩摩と会津が、田舎者として嫌われていたことも、薩摩藩黒幕説の背景にあると指摘する。
 しかし、この説には相当無理があると次のように書いている。
 龍馬暗殺について薩摩藩犯行説がありますが、この説で一番妙なのは、実行自体は見廻組であるとする人が多いことです。見廻組は会津藩の支配下です。それなのに薩摩藩がわざわざ見廻組をつかって龍馬を殺させたというのです。
 こんな馬鹿なことはありません。薩摩は龍馬と親しいので当然、龍馬の居所も知っていました。
 もし薩摩が龍馬を殺したいなら、回りくどいことをする必要はありません。呼べば竜馬は来ますから、薩摩藩邸に呼び出して帰りのい闇討ちにすれば、証拠も残さず簡単に殺すことができるのです。薩摩藩には人斬り半次郎と呼ばれた中村半次郎(桐野利秋など、剣の達人がいくらでもいます。敵対している見廻組に龍馬を殺させる必要はないのです。
 第一、土佐藩邸の目の前の近江屋に滞在中の龍馬を狙うということは、救援が駆けつける可能性もあってリスクが大きい。

 ということで、薩摩藩黒幕説も消去。


 では、見廻組犯行説はどのように裏づけられるのか。

 龍馬が暗殺される直前の数日、龍馬は、ある人物の家を度々訪れている。

 相手は、なんと幕府の大目付、永井玄蕃。

 永井は小さな旗本から異例の出世を遂げたリアリストです。彼の諱(いみな)は「なおのぶ」とか「なおむね」と訓じられますが、永井家では「なおゆき」といっていたようです。この時期は大目付の職からさらに出世し、旗本の最高位ともいうべき若年寄格となっていました(慶応三年十二月には正式に若年寄就任)。戊辰戦争後は投獄されますが、許されたのち元老院権大書記官(ごんのだいしょきかん)になっています。彼の玄孫(やしゃご)にあたるのが作家の三島由紀夫です。
 龍馬暗殺を辿っていて、なんと、三島由紀夫の家系を知ることになった。

 死の五日前の十一月十一日、龍馬は同じ土佐藩の福岡孝弟と一緒に永井玄蕃を訪ねています。永井は二条城近くの「大和郡山藩」の屋敷に下宿していました。龍馬の下宿のあった四条河原町の近江屋から三キロ以上の距離があります。ここに一日で二度いった説まであるのです。

 本書には、関連する地域の地図も掲載されている。

 永井が下宿していた大和郡山藩の屋敷の近くに住んでいた人物に、実は、龍馬暗殺実行犯を解く鍵があった。

 この永井の下宿の隣には「やす寺(松林寺)」という寺がありました。そこには見廻組の佐々木只三郎が下宿していたのです。四日後の龍馬暗殺の実行指揮官です。佐々木は、旗本で剣客としても知られていました。倒幕勢力の糾合を目論んでいた、清河八郎という志士を暗殺したことでも知られています。
 龍馬はこの人の下宿の横に平気でずかずかと入っていきました。この一帯は完璧に幕府方のテリトリーですから、大声の土佐藩士が日に何度も現れて、ついには永井の屋敷に入って行ったという話を見廻組は簡単に掴むことができたはずです。ほぼ隣に住んでいた佐々木が直接見た可能性さえ否定できません。

 磯田は、なぜ危険な幕府テリトリーに出向いてまで龍馬が永井を訪れた理由は、慶喜の処遇についての話し合いと、土佐出身の宮川助五郎という男の釈放を依頼していた可能性が高いと推理している。宮川は、大政奉還の後、三条大橋にあった幕府の高札を何度も抜いて川に投げ捨てたため、捕まっていた。

 ともかく、見廻組の佐々木只三郎の下宿先の隣にいた人物をたびたび訪ねたことを、見廻組犯人説の有力な裏づけと考えることは不思議がない。

 もちろん、後年、襲撃犯たち自身が証言している。

 龍馬襲撃に参加した顔ぶれに関しては証言者によって若干の相違があります。
 「龍馬を斬った男」とされた今井信郎は、襲撃に参加した人間として佐々木只三郎、桂隼(早)之助、渡辺吉太郎、高橋安次郎、土肥仲蔵、桜井大三郎の七名を挙げています。しかし佐々木をはじめ、彼らのほとんどは鳥羽伏見の戦いで戦死しています。
 見廻組は、士気の高い佐幕派ですが、みな戦死というのは、やはり不自然です。龍馬襲撃犯をかばうために、戦死者の名前をわざと言った可能性が高い。今井は自分のことについては正直に供述していますが、他人のことについては信用できない部分もあります。

 同じ渡辺でも渡辺篤という人物が、襲撃メンバーの一人だったと自ら証言していて、当事者しか知りえないような細かい内容を明かしているのだが、今井はその渡辺篤のことを隠すために、死んだ吉太郎の名を出したのではないか、と磯田は察している。

 佐々木らは、下宿先である尼寺「やす寺」から出発し、各々を訪ね、襲撃者を一人ずつ呼び集めていったようです。これについては、今井信郎の家に口伝が残っていて、孫の今井幸彦が『坂本龍馬を斬った男』としてまとめています。
 それによると渡辺という隊士が今出川千本の今井の仮寓を訪れ、奥でしばらくヒソヒソ話をしていた。しばらくすると、「ちょっとでてくる」と言って二人連れ立って出て行った。今井の妻は「また斬り込みだ」と直感したと、のちに語っています。

 さまざまな説があるなか、この本を読むと、見廻組の犯行説は動かしがたいようだ。

 では、黒幕は・・・・・・。

 京都守護に当る会津藩支配下の見廻組である。

 今井信郎と渡辺篤の証言は、どちらも、京都守護職、松平容保からの命令(御差図)であったとしている。

 私は、長岡に住んだこともあり、河井継之助が好きなので、自然、会津藩にも好意を持っている。

 松平容保という人にも悪い印象はないし、戊辰戦争での会津の悲惨な姿にも心が痛む。

 だから、歴史上の人物の中ではきわめて人気の高い龍馬だが、彼を暗殺した見廻組、そしてその指令を発した松平容保を、そうは憎めない気持ちがある。

 あくまで、自分の生まれ育った場所や環境、そして歴史上の役割として、それぞれに定められた運命であった、としか言えないのだろう。


 今、もし、龍馬が日本の姿を見たら、果たしてどう思うだろうか。
 
上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事

 有名な「船中八策」の中の、議会開設に関する文面。

 二院制による議会制民主主義は、形式だけは存在している。

 しかし、その形が、龍馬が理想とした内容を伴っているとは、思わないに違いない。
 民主主義が、今の日本で機能しているとは、彼も思えないだろう。

 長州出身の国のリーダーを見て、龍馬は彼が会った長州の志士たちの面影を見つけることは、到底できないはずだ。

# by kogotokoubei | 2018-12-21 12:27 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

 一昨日17日の記事別アクセス数の結果を見て、驚いた。

 二年余り前に飯島友治さんの本を元に三代目三遊亭小円朝について書いた記事のアクセス数が、一日で1895と、2000近くになっていた。
2016年4月29日のブログ

 ひと月でも特定の記事へのアクセス数が1000を越えることは稀なのに、一日でこの数とは・・・・・・。

 もしかすると、システム障害かもしれない。

 ちなみに二番目にアクセスが多かったのは、五年以上前に、談志家元の本の引用などで四代目三遊亭小円遊について書いた記事だが、アクセス数は300位で、この数も通常では考えられない数なのだ。
2013年10月5日のブログ

 ただし、「笑点」の人気者だった小円遊の記事は、結構安定的にアクセスがあるので、そうは驚かないのだが、小円朝という地味な噺家さんの記事へのアクセス急増は想定をはるかに超えている。

 きっと、この現象は、四代目三遊亭小円朝の訃報が影響しているのだろう。

 15日に、四十九歳という若さで肺炎で亡くなったとのこと。

 残念ながら、生の高座に出会ったことはない。

 円楽一門。

 師匠は六代目三遊亭円橘。
 父も噺家の三代目三遊亭円之助。

 円橘も円之助も、三代目小円朝の弟子だった。

 多くのメディアの訃報の中で、スポーツ報知がもっとも詳しかったので、引用する。
スポーツ報知の該当記事

 小円朝さんの父親は3代目・三遊亭円之助。1996年に父親の弟弟子になる三遊亭円橘に入門。97年に二ツ目に昇進し4代目・円之助を襲名。2005年5月に真打ちに昇進し4代目・小円朝を襲名した。

 ここ数年は体調を崩し入退院を繰り返していた。今年6月には兄弟弟子が「小円朝再生落語会」を開催し、「芝浜」を熱演していた。11月末にインフルエンザから肺炎を発症し入院。今月7日に予定されていた「第2回 小円朝再生落語会」は師匠の円橘が代演した。

 関係者によると、亡くなる前日の14日、師匠・円橘や兄弟弟子がお見舞いに行った時は円橘の「来年4月に落語会を開くから頑張れよ」の激励にはっきり返事をするなど、意識もあったが、翌早朝、眠るように息を引き取ったという。

 最後の高座は10月、千葉・富浦での落語会だった。小円朝さんは落語協会での修業経験もあり、5代目円楽一門会が出演する両国寄席で、太鼓などの鳴り物や、前座修業のしきたりなどを教える良き兄貴分でもあった。

 落語協会での修行経験、とあるが、最初小三治に弟子入りしたのだった。前座名は、さんぽ。入門順では、一琴と三三との間に入る。二年ほどで破門となってしまっている。
 小三治の奥様、郡山和世さんの名著『噺家カミサン繁盛記』に名前を探したが、見つからなかったなぁ。

 お父さんの円之助も、昭和4(1929)年生まれで、小円朝が高校時代の昭和60(1985)年に亡くなっており、決して長命とは言えなかった。

 萬橘、橘也の兄弟子にあたる円橘一門の総領弟子。

 三代目小円朝の記事では、飯島友治さんが、三代目について「微笑みを演じる芸」と形容していたことを紹介した。

 訃報に掲載されている四代目の柔和な写真から、そんなことを思い出した。


 高座への出会いはなかったが、四代目三遊亭小円朝のご冥福をお祈りする。
 
# by kogotokoubei | 2018-12-19 12:36 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 昨夜の「チコちゃんに叱られる」に、神田松之丞が登場した。

 お題は「年の瀬」。

 番組に講談の高座が登場しての一席。

 年の瀬や大晦日、いかに借金の取立てを防ぐか、という話。
 落語愛好家なら、どんな話になるか、ある程度想像がつく。
 ところが、「落語では、大晦日一日中葬式をして」借金返済を逃れる噺がある、などと言っていたが、『掛取り』『狂歌家主』『睨み返し』『言訳座頭』など、年の瀬の代表的な落語ネタのことが登場しなかったなぁ。

 これは、チコちゃんや岡村は許しても、落語愛好家は、許さないぞ^^

 また、新宿末広亭に松之丞が出演すると行列が凄いとチコちゃんが言っていたが、私が先月25日の日曜日、彼が夜席仲入りに出た日に行った末広亭では、そんなことはなかったぞ^^


 同じ寄席で仕事をする講釈師、年の瀬の代表的な落語ネタは、言って欲しかった。

 それにしても、松之丞人気は、バブルだと思うなぁ。

# by kogotokoubei | 2018-12-15 11:15 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)

 NHKの朝のドラマ「まんぷく」について、やはり小言を書かないわけにはいかない。

 実在の人物を“モチーフ”にした“フィクション”ということなのだろうが、気になることが多すぎる。


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『転んでもただでは起きるな!-定本・安藤百福-』
 中公文庫の『転んでもただでは起きるな!-定本・安藤百福-』は、安藤百福発明記念館の編集による本。

 実際の安藤百福の歩んだ人生や環境などの違いを指摘すると、生まれが当時の日本の植民地であった台湾であるとか、その台湾の地で祖父の経営する織物業を手伝っていたことなどがスルーされていることをはじめ、いくらでもあるのだが、まずは、最近の内容について。
  
 ようやく萬平や従業員の若者たちが進駐軍から解放されて、物語は次の段階に進んでいるが、あの事件、事実とは大きく違っている。

 まず、巻末の年譜から、1946(昭和21)年の出来事を引用。

 1946(昭和21)年・・・・・・36歳

   4月 泉大津の旧造幣廠跡地の払い下げを受け、復員軍人などの若者に仕事を
      与えるため製塩事業(1949年3月まで)を始める。

 だから、あの製塩事業は事実。

 また、翌昭和22年に、国民栄養科学研究所設立(1951年3月まで)し、栄養食品(名称は「ビセイクル」)を開発したのも、事実。

 しかし、ドラマのように萬平(百福)や従業員たちは、その後、手榴弾を海に投げたのから逮捕されたのではないし、捕まったのは百福だけである。

 1948(昭和23)年のクリスマスの夜だった。GHQ(連合国軍総司令部)の大阪文軍政部長が転勤するというので、安藤の経営する貿易会館(大阪府北区)で赤間文三大阪府知事や杉道助大阪商工会議所会頭らを招待して送別会を開いた。会が終わり、正面玄関から客を送り出したあと、会館の裏手に停めてあった車に乗ろうとすると、2人のMP(米国陸軍の憲兵)が安藤の身体を両側から抱え込んだ。有無を言わさずジープに押し込んだ。安藤には何が起こったか分からなかった。
 容疑は脱税だという。泉大津の若者達に渡していた小遣いが給与とみなされ、源泉徴収して納めるべき税金を納めていないというのだ。寝耳に水とはこのことである。善意が踏みにじられた思いだった。

 次に紹介するように、みせしめ、とも言える逮捕だった。
 
 GHQは、国の深刻な歳入不足を解消するために徴税を強める必要があるとして、日本の財務当局を奨励した。これを受けて税務署は厳しく徴収した結果、国民の間から激しい反税運動が起きている最中だった。新しく着任した軍政部長が新聞談話を発表していた。「アメリカでは税金を払うのは国民の義務である。日本人も納税義務を果たすべきであり、違反者は懲罰に処す方針」という。記事の中で安藤が名指しされていた。どうやらみせしめに使われたようだった。

 百福は、提訴に踏み切る。
 京都大学方角部長を務めた黒田覚博士ら6人の弁護団を組織した。

 収監されたのは、あの巣鴨プリズン。

 裁判が進むうち、税務当局の役人が「訴えを取り下げてくれないか」と言ってきた。取り下げるなら、即刻自由の身にしてもいいという。もし裁判で負ければ、反税運動を勢いづかせることにもなりかねない。旗色が悪くなったので、妥協を迫ってきたのだ。

 しかし、百福は、そんな誘いにも応じず、訴訟を継続。
 巣鴨には二年近く収監されていた。

 安藤が折れたのは、仁(まさ)子が息子の宏基の手を引き、まだ一歳半の娘の明美を抱いて面会に来た日だった。大阪から11時の夜行列車に乗り、翌朝東京に着く。朝に事務手続きを済ませて、午後一時からようやく面会が始まる。時間はたった45分しかない。金網を挟んで話をする。仁子は離ればなれになった寂しい生活の苦労を伝えようとうる。あっという間に時間がきて、また家族と引き裂かれる。
 小さな手を振って帰っていく幼い子供達の後姿を見て、さすがの安藤も「もうこのへんが潮時かもしれないな」という気持ちになった。

 私は、ドラマ以上に紹介した事実のほうがドラマチックに思えてならない。

 なぜ、みせしめの脱税容疑で逮捕されたことや、収監先が巣鴨プリズンであったことを、ドラマでは変えたのか・・・・・・。

 まさに、消費税アップを目の前にして、なんとも複雑な制度を導入しようとしている政府への忖度、と言うと大袈裟だろうか。

 筋書きにも閉口するが、期待した安藤サクラも、あの『百円の恋』や『万引き家族』の彼女は、あのドラマにはいない。
 夫を支える明るい妻、というステロタイプな役として、なんとも奥行きのない姿が求められているようだ。

 また、これまで書いてこなかかったが、あえて書こう。

 松坂慶子を、NHKは使いすぎである。

 「西郷どん」の母親役でもがっかりしたが、朝も、然り。

 なんというか、人間が見えてこないのだ、この女優の演技からは。

 そこには、歴史上の人物がいるのではなくて、松坂慶子といういつもの女優がいるのみ。

 別な女優はいくらでもいるだろうに。


 まだ、しばらくは見るつもりだが、少し期待が大きすぎたようだ。

 まぁ、それもいつものことだが。
 
 このドラマ、脚色の仕方、俳優の演技、それぞれが軽いのだ。

 題は「まんぷく」だが、とても、腹にはたまらない。
# by kogotokoubei | 2018-12-13 12:36 | ドラマや時代劇 | Comments(2)
 昨日の記事で、三笑亭笑三の私が聴いた最後の高座を、2012年の池袋での『悋気の火の玉』と書いたが、実は2015年7月、国立演芸場における、夢丸の真打昇進披露興行での『ぞろぞろ』だった。

 訂正し、お詫びします。

 検索したつもりで、見逃していた。

 それだけあの『悋気の火の玉』の印象が強かったとも言えるが、『ぞろぞろ』についても、こんなことを書いていた。歌丸の代演での仲入りの高座。
2015年7月6日のブログ

三笑亭笑三『ぞろぞろ』 (25分)
 仲入りは、歌丸の代わりに、今年10月で満90歳を迎える長老が登場。腰は曲がっていたが、自力で高座に上がった。 
 言葉には結構力があるし、よく通る。
 マクラでは、お賽銭の金額の調査をしたら、八割が十円。たった十円で、なんと人間は欲張るものか、とふって本編へ。
 途中、言いよどみはあったが、漫談ではなく、しっかりとネタを披露した。高座から下がりながらのサゲにした後姿を見て会場は一瞬沈黙したが、無事で良かった(^^)
 五月五日の末広亭、披露興行は夜だったが、昼の部の後半から会場に入り、トリの歌丸が板付きだったことを思い出す。長期休養中の会長の代役を、協会の相談役がしっかり果たした。
 実に得難い高座に出会えた、そんな思いを抱きながら、仲入り。

 六年余り前の高座は覚えていて、三年余り前のこの高座を、忘れていたとは・・・・・・。

 ブログを読んで、ようやく少し思い出した。
 サゲの時、一瞬ドキっとしたのだ。

 そうそう。口上でも、三本締めを「三々九度」と言って、笑わせていた。


 卒寿の噺家さんの高座に出会えたのは、これまでこの高座と2016年5月末広亭での米丸だけ。

 天国の笑三さん、あの高座を忘れていて、ごめんなさい。

# by kogotokoubei | 2018-12-12 12:18 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)
 三笑亭笑三が亡くなったことを、今日知った。
 (拙ブログの常で、敬称は略させていただきます)

 10月24日だったらしい。
 朝日新聞から引用。
朝日新聞の該当記事

三笑亭笑三さん死去 初代林家三平の台本作家として活躍
2018年12月11日18時04分

 三笑亭笑三さん(さんしょうてい・しょうざ=落語家、本名斧田道男〈おのだ・みちお〉)が10月24日、肺炎で死去、92歳。葬儀は近親者ですでに行った。

 46年に八代目三笑亭可楽に入門、61年に真打ちに昇進した。初代林家三平の台本作家としても活躍。09年から落語芸術協会の相談役を務め、90歳を過ぎても高座に上がった。

 私が大好きな、八代目可楽の弟子だった。
 
 ブログを始めてからは、残念ながら一度しか生で聴いていない。

 2012年5月の池袋演芸場での『悋気の火の玉』。
2012年5月3日のブログ
 こんな感想を書いていた。

三笑亭笑三『悋気の火の玉』 (22分)
 仲入り前はこの人。大正14年生まれ87歳のパワーに、恐れ入りました!
 先代文楽の十八番だったが、この人の元気なアクションが、「笑三の火の玉は、こうなんだ!」と言う主張に、納得。マクラも現代的な話題を交えて結構だし、テレビでは出せないような内容を含む本編も大変結構。この高座を聞けただけでも良かった。花川戸からやって来る本妻の火の玉と、根岸からのお妾さんの火の玉の壮絶なバトル!凄いね、笑三は。マイベスト十席候補とはならないが、特別な高座として色付けしておく。

 結構、この高座の印象、残っている。
 今は「寄席の逸品賞」と名を変えた、上期の「寄席大賞」に選んだ。
2012年12月28日のブログ
 
 大正生まれの噺家さんは、米丸一人となった。

 最後の高座がいつだったかは知らないが、私にとってはあの高座が最後だった。

 実に個性的な噺家さんだった。

 合掌

# by kogotokoubei | 2018-12-11 21:57 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 時事的な話題は、兄弟ブログ「幸兵衛の小言」に引越ししたのだが、あえて書くことにする。

 M-1とか言う番組で、昨年の優勝者や今年の出場者が、SNSで特定の審査員のことを酔っ払って批判したことが、ちょっとした騒ぎになっているようだ。

 私には、どうでもいいこと。

 また、居残り忘年会でも話題になったが、ある関取の暴力事件のことが過剰にメディアを賑わわせているのも、不思議でならない。

 そういう芸能ネタ(相撲も元々芸能の興行)ばかりを取り上げ、国民の生活苦につながる政治の問題への真っ当な議論が、棚上げされている。

 政治家や官僚が、データを捏造していたり、与党が議長を含めて野党議員の発言を妨げ、ほとんど議論なしに重要法案をゴリ押ししていることのほうが、どれほど重要であろうか。

 入管難民法や水道民営化法は少しは話題になっているが、漁業法と原子力賠償法の改悪は、ほとんどメディアで取り上げられない。
 漫才師のSNSでの醜態や、かつては取り上げなかったであろう相撲界の“かわいがり”問題で、テレビは公共の電波を無駄使いしている。

 漁業法は企業の参入を促すもので、個人経営の地元の漁業関係者にとっては死活問題だ。
 原子力賠償法は、電力会社の賠償への備えを決めるものだが、上限を撤廃すべきなのに、据え置かれた。事故が起きても、限度額以上は賠償責任がないことにしようという悪法。

 今年四月に廃止された種子法も、昨年モリカケ問題に隠れて、ほとんどのメディアが取り上げないままに成立した。
 得意(特異?)の、閣議決定、国会ゴリ押しの一例。
 農家は、種子を育てることに国からの補助がなくなるので、日本の大企業やモンサントを代表とするグローバル企業から種子を買わなければいけなくなる日が近い。


 そこで、このブログに相応しく(?)、落語とも縁の深い狂歌らしきものを、いくつか。

  世の中は とろやサーモンと やかましい
     サビの効かない ネタの不味さよ

  悪代官 昔越後屋 今グローバル
     相手代われど 主は変わらず

  グローバル その横文字の 意味するは
     漢字で書けば 愚弄ばるなり


 お粗末でした。
# by kogotokoubei | 2018-12-10 12:27 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)
 昨日は、珍しく午後から半日時間ができたので、夕方六時からの居残り忘年会の前に、横浜は桜木町で映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観た。忘年会は、お隣りの関内駅の近く。

 正直なところ、話題の『ボヘミアン・ラプソディ』には、それほど期待していなかった。
 同時代では、好みで言うならイーグルスのファーストアルバムからのファンだったし、クィーンは、いわば、キワモノと思っていた。
 ただし、ブライアン・メイのギターは好きだった。
 ちなみに私の好きなロックバンドは、なんと言ってもCCR、そしてイーグルス(バーニー・リードン在籍中の前期が特に好き)、そしてカントリーロックのNGDBなど。

 さて、事前に桜木町の映画館の上映時間をネットで確認したら、二時半からの回に△がついていたので、すこし早めに行ってチケットを取ったが、たしかに空席は少なかった。とはいえ、前から五列目のほぼ中央の席を取ることができた。

 若い人よりも、私と同じような年代の方が多く、また夫婦連れが目立ったなぁ。

 この映画、クィーンへの思い入れによって、感想も違ってくるのは当然。

 映画の公式サイトには、「伝説のバンド」とか「その生き様が世界を変えた」というコピーがあるが、そういう形容には、私は違和感をおぼえる。
映画『ボヘミアン・ラプソディ』公式サイト

 とはいえ、最近あちこちで映画の話題になると、この映画を観たという話が出るので、同時代に海外のロックを聞いていた者としては観ておかねば、と思った次第。

 観終わって、感じたことは、これはクィーンの映画というより、フレディ・マーキュリー、本名ファルーク・バルサラの映画だということ。

 Wikipediaのフレディ・マーキュリーから、生い立ちを少し引用しながら、映画の感想などを書きたい。
 なお、映画のネタバレになることも書いているので、これから映画を観る予定の方は、ご留意のほどを。
Wikipedia「フレディ・マーキュリー」

フレディは、当時イギリス領だった、タンザニアにあるザンジバル島のストーン・タウンで生まれた。インド生まれの両親Bomi(1908〜2003)とJer Bulsara(1922〜2016)は、ペルシャ系インド人であるパールシー。彼の名字のバルサラは、インド・南グジャラートの町であるバルサードに由来する。植民地政府のオフィスで会計係として働く彼の父親が仕事を続けるため、妻とザンジバルに移った。

 映画の最初の方で、フレディがパキスタン人への別称で呼ばれる場面がある。
 しかし、彼はペルシャ系インド人両親の血をひいているんだね。

 引用を続ける。
フレディは、インドで幼少期の大半を過ごした。7歳の頃にピアノを習い始める。1954年、8歳でボンベイ(今のムンバイ)郊外のパンチガニにある全寮制の英国式寄宿学校、セント・ペーターズ・ボーイズ・スクールに通う。この頃から複数のロックバンドで活動し、ピアノとヴォーカルを担当した。ボリウッド歌手のラター・マンゲーシュカルが彼のミュージカル形式に影響を与える。12歳で、彼はスクールバンドの「ザ・ヘクティクス」、クリフ・リチャードやリトル・リチャードのカバー・ロックンロール・バンドを組織する。当時の彼の友人は、フレディは「ラジオを聴き、その後で聴いた曲をピアノで再現する、異様な能力」を持っていたと振り返る。
 映画では、幼少時代、そして、寄宿学校時代のことなどは割愛されている。
 だから、彼がロンドンのバーで後にクィーンになるスマイルというバンドでボーカルが抜けたため、困っているブライアンとロジャーの前で自分を売り込むために歌う場面は、やや唐突な印象を受けてしまった。

1963年にザンジバルに戻り家族と一緒に暮らし始めたが、その翌年ザンジバル革命が起こり、アラブ人とインド人の多数の死傷者が出た。当時17才のフレディとその家族は、安全上の理由でザンジバルから逃れた。家族は、イングランドのミドルセックス州フェルサムにある小さな家へ移り住んだ。両親は郊外住宅の使用人として働いた。フレディはウェスト・ロンドンにあるアイルワース工業学校(現在のウェスト・テムズ・カレッジ)に入り、芸術を学んだ。その後、イーリング・アートカレッジへ進み、芸術とグラフィック・デザインの修了証書を受け取る。彼は後に、クイーンでこれらの技術を用い衣装をデザインしている。
 
 映画は、家族がロンドンに移り住んでからの物語。
 ザンジバル革命のことは語られていない。
 また、カレッジを卒業してからの内容。
 
卒業後、フレディはバンドに参加しながら、ガールフレンドであるメアリー・オースティンとロンドンのケンジントン・マーケットで古着を販売していた。彼はさらに、ヒースロー国際空港でも職に就いた。当時の友人は、彼を「音楽に対して関心を示す、静かで内気な若者」として記憶している。1969年、彼はレッケイジと改名し、バンドのアイベックスに参加する。しかし、このバンドは上手くいかず、サワー・ミルク・シーという別のバンドに加わる。しかし、このグループも、1970年前半には同様に解散した。

 映画は、ライブ・エイドの映像を少し見せた後、空港で荷物の積み下ろしをするフレディが、パキスタン人への別称で怒鳴られる場面。
 上記のようなバンドの変遷のことは割愛されており、クィーンの前身となったスマイルというバンドとのからみになる。

1970年4月、フレディは、ギタリストのブライアン・メイ、ドラマーのロジャー・テイラーが所属するバンド、スマイルに加わる。メイやテイラー、それに当時彼らのマネジメントに携わっていたトライデント・スタジオが難色を示したものの、フレディの選んだ「クイーン」を新たなバンド名とした。

 ボーカル&ベースのメンバーが脱退し、フレディと新たなベーシストが加わったのだった。

 正直な感想としては、前半は少しダレた。
 フレディ役のレミ・マレック(『ナイト・ミュージアム』でエジプトの王子役だった人)の、やや、上の前歯を強調しすぎたメイクと演技も、違和感があった。

 しかし、次第に売れていく彼らの姿と迫力のある演奏が、体を乗せて行く。
 やはり、ロックは、いいのだ。
 フレディとメアリーとの別れの場面、メアリーがフレディがゲイであることを知っていた、という告白は、少しつらかったねぇ。

 そして、ライブ・エイドの直前、新しい恋人(もちろん、男)とフレディが家に立ち寄り、父親とハグする場面は、自然に泣けてきた。

 映像は、ライブ・エイドの場面をハイライトとして終了し、その後フレディが亡くなることはエンドロールで知らされる。

 全体としては、ロック好きな人にとって楽しい時間を過ごさせてくれる映画として良かった。
 とはいえ、今のような大ブームになるほどの映画かと言うと、疑問。
 いわば、ある沸騰点を越して、仲間うちで「まだ、観てないの!?」と言われることが恥となるところまでの動員となり、ますますヒットした、ということか。


 さて、映画館のすぐ近くの桜木町駅から一駅の関内駅。そして、じっくり散歩しながら、常磐町の「団欒」へ。

 関内ホール(小ホール)での柳家小満んの会の後、佐平次さんが事前に当りをつけ二人でぶらっと入ってから、居残り会の店。
 しかし、昨年ご主人が手術入院された。再開後も、閉店時間が早まっていた。
 また、小満んの会も、関内ホールの改装のため吉野町に変わったので、ご無沙汰だったのだ。
 私が幹事役となり、佐平次さん、Yさん三人の居残り会創設(?)メンバーに、その後ほとんど居残りレギュラーとなったI女史、M女史、F女史、そしてKさんの計七人での居残り忘年会だった。
 「迷いカツオ」や、サゴシ(青箭魚)(出世魚のサワラの前)の焼き物などの絶品の肴のおかげもあって、話題もベイスターズ(YさんとKさんが大ファン)のこと、大相撲の話題、もちろん落語のことやら歌舞伎など、なんとも楽しい会話が続いた。
 余興として、私とYさんとで『子別れ』のリレー落語。
 私は「上」「中」を、小三治の音源を元にご披露。縮めるのに苦労したが、まぁまぁだったかな。
 Yさんは「子は鎹」部分を、自分の子育てのことなども踏まえたアレンジで演じた。なかなか結構でしたよ。でも、カミシモはつけましょうね^^

 皆さん、ヨイショ上手で持ち上げていただいたが、だんだん座付き芸人(?)のハードルが高くなる^^

 ちなみに、M女史は『ボヘミアン・ラプソディ』をすでに二回ご覧になり、I女史も一度ご覧になって、また行くとのこと。
 
 お店のご主人も奥さんもお元気そうで良かった。
 そして、居残り仲間の皆さんの元気を、いただくこともできた、そんな忘年会だった。
 
 なお、次回、一月二十一日の小満の会は、関内ホールに戻る。
 団欒のご主人には、居残り会開催をお願いした。
 また、M女史が関わっている二月のある落語会も、全員参加予定。

 来年も、皆さんとの楽しいおつき合いを期待できそうだ。

# by kogotokoubei | 2018-12-09 17:33 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 また、JR山手線の新駅に関連したこと。

 「高輪」という地名の由来を、ちょっと調べてみた。

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大石学著『地名で読む江戸の町』

 大石学著『地名で読む江戸の町』(PHP新書、2001年3月発行)の、「高輪」の章より。

 高輪(港区)

 赤穂浪士と泉岳寺

 高輪付近には、「高輪台」「三田台」「白金台」など、台のつく地名が多い。その名の通り、この付近は台地であった。
『新編武蔵風土記稿』によると、高輪という地名の由来は「土地往還の縄手道(なわてみち)にして頗(すこぶる)高き所なれば高輪と唱へし」とある。つまり、高台に通っていた縄手道(直線状の道)に由来するということである。「高縄手」の下の一文字が省略され、「高縄」となり、「高輪」と変わった。高輪が台地であったがゆえについた地名と言える。

 「高」い「縄手道」--->「高縄手」--->「高縄」--->「高輪」

 ということだったわけだ。
 
 引用を続ける。
 大木戸は、江戸の府内と府外を区別する門のことである。高輪大木戸は東海道の江戸の入口である。現在残っている大木戸は、ほかに甲州街道・青梅街道の入口である四谷大木戸がある。全国測量を行った伊能忠敬は、高輪大木戸を基点としたと言われる。

 大木戸のこと、そして、伊能忠敬との関係も、しっかり説明されている。

 次に、この近くの史跡といえば、あのお寺のことになる。

 港区高輪二丁目にある泉岳寺には、浅野内匠頭長矩と、吉良邸(隅田区両国)に討ち入った四十七名の浪士の墓がある。泉岳寺は徳川三代将軍家光の命により、浅野家と縁故を結んだと言われる。
 赤穂浪士は討ち入り後、四大名家に預けられ切腹した。すなわち、伊予松山藩松平隠岐守の中屋敷(港区三田、現イタリア大使館)には、大石主税ら十名、岡崎藩水野監物の中屋敷(港区芝)には、間重次郎ら九名、熊本藩細川越中守下屋敷(港区高輪)には大石内蔵助ら十七名、また長州藩毛利甲斐守上屋敷(港区六本木)には、岡嶋八十右衛門ら十名が、それぞれ預けられ切腹した。切腹の地は、いずれもこの近くであった。なお、寺坂吉右衛門は討ち入り後に離脱し、八十三歳で天寿をまっとうしたと言われる。

 泉岳寺をはじめ、新駅近くが、忠臣蔵ゆかりの地であるのは、すでに周知のこと。
 また、伊予松山藩松平隠岐守の中屋敷が、現在イタリア大使館であるように、港区には大使館が多い。

 森ビルの入居者を会員とするeHills Clubが運営している「HILLS CLUB」という、六本木ヒルズ・赤坂・虎ノ門周辺のタウンガイドのサイトに、港区にある大使館の一覧が掲載されている。HILLS CLUBのサイト

 なんと、高輪や西麻布、六本木や白金台などに約90の大使館がある。

 これは、江戸時代に大名屋敷の多くが現在の港区にあったため、明治新政府が土地を没収し、“グローバル化”のために数多くの国の公使館を立てる土地にあてがったことが始まり、と下記のように港区のサイト(KIDS SQUAREの「まちなみ探検」)にも書かれている。
港区サイトの該当ページ

はじまりは江戸時代(えどじだい)に置か(おか)れた最初(さいしょ)の外国公使館(こうしかん)

 現在(げんざい)、日本には約(やく)140カ国(かこく)の大使館(たいしかん)があり、その約半数が港区(みなとく)にあります。
 江戸時代末期(えどじだいまっき)に日本が世界(せかい)へ国際交流(こくさいこうりゅう)の門戸を開き(ひらき)、最初(さいしょ)の外国公使館(こうしかん)がアメリカは善福寺(ぜんぷくじ)に、イギリスは東禅寺(とうぜんじ)に、フランスは済海寺(さいかいじ)に、オランダは西応寺(さいおうじ)に置か(おか)れました。
 明治維新(めいじいしん)後、政府(せいふ)は旧(きゅう)大名家から没収(ぼっしゅう)していた屋敷(やしき)の跡地(あとち)を大使館用地として各国(かっこく)に提供(ていきょう)しました。このような経緯(けいい)により、大名屋敷が多くあった港区に大使館が集まっ(あつまっ)たのです。

 現在多くの外国大使館が港区に置かれているのも、こうした歴史的(れきしてき)な背景(はいけい)があるからでしょう。

 すでに幕末から、この一帯は、国際的だったと言えなくもない。

 そういう点からも、「高輪ゲートウェイ」という名称、まんざら当っていないとも言えないのだが、JRの命名の理由に、大使館のことは含まれていない。

 それにしても、やはり「高輪大木戸」にして欲しかった。
# by kogotokoubei | 2018-12-06 12:47 | 江戸関連 | Comments(2)

 JR山手線の新駅の名が、「高輪ゲートウエィ」に決まったとのこと。
 毎日新聞から引用。
毎日新聞の該当記事

公募少数も社内選考で大逆転 山手線「高輪ゲートウェイ」
毎日新聞2018年12月4日 20時11分(最終更新 12月4日 20時51分)

 JR東日本は4日、2020年春に暫定開業する山手線の田町―品川駅間の新駅名を「高輪ゲートウェイ」に決定したと発表した。

 今年6月に公募したところ6万4052件の応募があり、トップは「高輪」の8398件、次いで「芝浦」4265件、「芝浜」3497件。高輪ゲートウェイは36件だったが、社内選考委員会は「品川再開発で国際交流拠点を目指す観点から、街全体の発展に寄与し、日本と世界をつなぐ結節点の願いを込めた」と説明している。

 新駅周辺は旧東海道の高輪大木戸が設けられ、江戸の玄関口としてにぎわった。鉄道発祥の新橋―横浜間とも密接に関連し、歴史的背景を考慮した。駅舎は新国立競技場も担当した建築家の隈研吾さんが設計、照明は面出薫さんが手がける。

 建設工事は順調に進み、東京五輪・パラリンピック開幕前に開業の運び。山手線の新駅は1971年4月開業の西日暮里駅以来49年ぶりで、30番目の駅となる。【斉藤正利】

 この新駅の名称については、「高輪大木戸」が良いのではないか、という記事を四年余り前に書いた。
2014年6月4日のブログ

 公募した中で、「高輪大木戸」は、いったい何票だったのだろう・・・・・・。

 以前書いた記事のアクセス数が急増し、コメントもいただいている。

 Gateway・・・ですか。

 私が持っている英和辞書(小学館プログレッシブ英和辞典)には、こう載っている。

 Gateway
  1.(門で閉じられている)通路(passage),入り口(entrance)
  2.門構え
  3.(ある場所に入る)通路,関門,玄関;(あるものへ)近づく道,手段

 Gate
  1.(柵・塀などにある)門扉(もんぴ),木戸
  2.(出)入口,関門,城門
  などなど。

 ほら、Gateの一番最初に「木戸」が示されているじゃないか。

 「高輪大木戸」でいいんじゃないですか、JRさん。

 わざわざ同意語を英語に求める必要は、ないんじゃないの。

 JR東日本は、ニュースリリース資料に、選定理由をこう記している。
JR東日本の該当ニュースリリース

 この地域は、古来より街道が通じ江戸の玄関口として賑わいをみせた地であり、明治時代には地域をつなぐ鉄道が開通した由緒あるエリアという歴史的背景を持っています。
 新しい街は、世界中から先進的な企業と人材が集う国際交流拠点の形成を目指しており、新駅はこの地域の歴史を受け継ぎ、今後も交流拠点としての機能を担うことになります。
 新しい駅が、過去と未来、日本と世界、そして多くの人々をつなぐ結節点として、街全体の発展に寄与するよう選定しました。

 この文章、「高輪大木戸」の選定理由であっても、不思議はないと思う。

 この文からは、必ずしも「ゲートウェイ」という英語を使う明確な理由は伝わらないよ。
 せいぜい、「国際交流地点」や「日本と世界」という言葉から、「英語」にした理由の妥当性が微かに伝わる程度。

 江戸、明治の「歴史的背景」に重点を置くなら、「大木戸」でいいじゃないか。

 「(大)木戸ってなに?」
 なんて子供に聞かれた親も、答えるために歴史を学ぶことにつながるのではないか。

 もちろん、海外からの観光客から「What is Okido?」と聞かれても、その会話から国際交流につながるではないか。

 「芝浜」を推す声もあったようだが、私は、あくまで「高輪大木戸」にして欲しかった。残念。

 大木戸とゲートウェイ・・・その差は、大きいど!
# by kogotokoubei | 2018-12-05 12:57 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛