噺の話

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麻生芳伸著『落語百選ー冬ー』

 大晦日の冬の噺に関する記事で参照した、麻生芳伸さんの『落語百選ー冬ー』の解説を、岡部伊都子さんが書いていた。

 随筆家の岡部さんは、関東大震災の年、大正12(1923)年に生まれ、2008年に85歳で亡くなっている。
 そのエッセイへのファンは、少なくない。
 

 この解説も、そのエッセイ同様に、なかなか味わい深いのである。
 紹介したい。

  庶民の力・平和の笑い

 思いがけなく、貴重な『落語百選 冬』に何か書くように言っていただき、どうしたものか、長くおせわになっている麻生芳伸氏のお心にお報いするには、余りにも力無き自分を知っていますだけに、途方に暮れています。
 大阪は西横堀、西区立売堀(いたちぼり)北通一丁目にありましたタイル問屋に生まれて、幼い頃から漫才や落語、文楽人形浄瑠璃や、中座歌舞伎など、大阪の伝統芸能には親戚の長老や、親、兄姉、従兄姉などが、よく連れ廻ってくれたものです。
 あれはどうして母にねだったのでしょう、初代桂春団治師匠の『阿弥陀池』がレコードになった一枚を買ってもらって、何度も何度も飽きもせずに聞いていました。実際の細やかな思い出は、すっかり記憶にありません。
 でも、新町の寄席によく連れてゆかれたようでした。よう空いてる席にころんとねころんできている男の人を見たり、そのまま寝入っている人もありました。

 岡部さんの子供自分、ということは、昭和一桁だろう。
 初代春団治が亡くなったのは昭和9年。だから、ラジオでは聞いたはずだし、もしかすると、生の高座にも接しているかもしれないなぁ。

 引用を続ける。

 このたび、落語研究の大家でいらっしゃる宇治市の中島平八郎様にお電話して、桂春団治師匠のレコードをきいていた幼い話をいたしました。
 すると、早速に初代春団治のレコードから採ってくださった、独特の『阿弥陀池』のカセットと、桂米朝全集の文コピーを送って下さいました。
 家が近かったせいももあって、堀江の「阿弥陀池」のあった和光寺へ連れていってもらったこともあり、尊敬する方の坊やが、落語は全くご存じ無かったのに、「尼さんって、アマイからそういうのか」ときかれたなつかしい記憶が重なって、忘れられない「阿弥陀が行け!」の全貌をよみがえらせました。
 中島様は、カセットの余裕に、やはり初代春団治師匠の『チリトテシャン』(長崎みやげ)と、B面には、五代目古今亭志ん生師匠の『火焔太鼓』を入れて下さっていました。
 立春の雪の舞うた京で、この『百選 冬』を二十四年前の初版本で、また一つ一つ読み直していますと、『火焔太鼓』もはいっているではありませんか。
 江戸の華は、火事。いなせな江戸っ子の日常、町のしくみ、人間関係のくふう、愛ゆえのおどけの呼吸が身に添う実感として語られつづけています。
 名作『火焔太鼓』はもとより、文七元結、芝浜、鼠穴、初天神、粗忽長屋・・・・・・いいなあ、わかり易くて。大阪落語の言葉のニュアンスをしっかりわかる若者より、今では江戸落語の方が身近くなっているのでしょうか。
 中島平八郎という名を、初めて知った。
 少し検索してみたら、『生きている上方落語』という著書があり、雑誌『上方芸能』の編集部にいらっしゃった方のようだ。

 『チリトテチン』は、かつては『チリトテシャン』だったんだ^^

 この解説は文庫初版の1999年に書かれている。よって、二十五年前の初版は、三省堂から1975年に発行された単行本のことになる。

 その当時から、岡部さんは落語ファンだったということか。

 関西出身の方が、年齢を重ね、江戸落語を身近に感じるという話は、あまり聞くことがないので、江戸も上方も好きな私としては、素直に嬉しくなる。

 この後に、やや唐突な感じで、岡部さんと、あの落語家たちとの遭遇体験が書かれている。
 ふと、個人的にせつなかった時代に、初めて五代目柳家小さん師匠と、三代目桂三木助師匠とに、大阪は四つ橋のすぐ近く、炭屋町に建てたばかりの家に来ていただいたことを思い出しました。
 私が結婚していた相手は、どうしてお二人の師匠を招かれることになったのでしょうか。1951年、その当時は大阪に江戸落語が出演されることは少なかったと思うのですが、どういう成行きからか、うちの二階の八畳座敷で一つづつ話してもらうことになっていました。

 岡部さんは、婚約者をあの戦争で、亡くしている。
 戦後にご結婚されたが、数年後に離婚。
 まだ、その方と別れる前に、旦那さんのおかげで、こんな贅沢な出会いがあったということか。

 引用を続ける。
 その時に二階に来られた客人の中には、覚えておられる方もあるでしょうが、それぞれが義太夫の稽古をしたり、芝居もどきの物真似をしたり、たのしい気楽な雰囲気でした。
 私は、これでも主婦でしたから、こんな賑やかな行事となると、忙しくて用意に追われました。店の間には知人たちが腰をかけ、初めての方々は二階に上ってお座布団をしいていただく。その頃はまだ賑やかな巷にも食事の店が少なく、取り寄せられる店も無く、客人方にもてなす料理は、つなない私の手料理でした。
 控の四畳半の間、台所のそばの三畳、とても考えられない小さな空間で、それでもみんな、三、四十人は来られましたか・・・・・・、にこにこうれしそうで。
 私は、お手伝いの人々と一緒に、まず主客である小さん師匠と、三木助師匠のお食事を作りました。幼い頃から器が好きだった瀬戸物町の子、「おいしそうなごちそう」には心がこもりました。
 優しい方々でした。台所そばの小間でお二人召上りながら、今時他には無いといたわられたことが、大きな喜びでした。
 二階への上り降りで、私自身は客人のようにゆっくり坐ってきかせていただけませんでした。でも、ふだんの客人たちのいつもとちがう喜びようや、ふざけようには、この人がマア!と思う表情の発見がありました。
 あの時、柳家小さん師匠は何を演じて下さったのでしょうか。桂三木助師匠は多分、芝浜だったと思うのですが、そのあとで、ふっと立ち上って、所作美しい踊りを舞われた。きれいな切れ味がのこっています。お舞にすぐれたお方だったそうですが、仲よしお二人を迎えたあの日、四つ橋の橋詰でスナップをとられたことも、ぼんやり覚えています。四つ橋と文楽座の間の家でしたから。でも私はやがてそこから出て、一人になって生きることになったのです。
 なんとも贅沢な時間、空間であったことだろう。

 しかし、全体の構成の中で、私はこの体験の登場に、若干違和感を抱いた。
 なぜ、この回想を挟んだのか・・・・・・。

 落語本の解説として、小さん、三木助と出会った体験は書かないわけにはいかない、という意識もあっただろうが、それよりも、「今、書いておきゃなきゃ」という、岡部さんの思いがあったような気がしている。
 1999年、岡部さんは76歳。
 後で引用する毎日新聞の対談の中であるように、岡部さんは幼少より病弱で、長生きできるとは思っていなかったようなのだ。
 だからこそ、小さん、三木助との出会いを書くなら今、ということだったような気がする。
 この回想の後は、次のようになっている。

『ちくま』1999年3月号に、麻生芳伸氏が、「活字落語ー人間の『素型』」といういきいきした文章を書いておられます。『活字で読む落語』に活写されている生ま身の肌あたりの人間像をみごとに説明して下さっています。
   いわゆる町人と呼ばれる人びとは、地主、家持階級に限られ、
   裏店の借家住いの八っつぁん、熊さんは公式には・・・・・・
   法律的には一人前の町人とは扱われていなかった。租税の対象外、
   人数外の人間たちであった・・・・・・
 と。
 そうか、胸いたいこうした差別は、人類各地の歴史に、現状に、のこっています。藪入りなんか商家であった家の習慣でした。
 大阪の、漫才弁、大阪弁は平和論だといわれてきました。
 つまり、真実を貫き、本音を語って、ありのままの姿、嘘のない率直な面白さが、平等を願う尊い「平和の笑い」なんです。この「笑いこそ平和」の力が、世界中にみなぎりますように・・・・・・。
 江戸に、なにわに、喜びの笑いを創作する力が、お互い誰もの日々のすべてに宿っているはずです。
 『落語百選 春・夏・秋・冬』、麻生芳伸様、ありがとうございました。
                                    1999年3月10日

 この「平和の笑い」、「笑いこそ平和」という言葉は、岡部さんの体験、そして信念に根ざしているとい思う。

 毎日新聞に、亡くなる三年前に行われた岡部さんへのインタビュー記事が、再掲載されている。
 毎日新聞の該当記事

 この記事から、引用したい。

 京都・賀茂川近くの家を引き払い、2月に移ったというJR京都駅近くのマンション。岡部伊都子さん(82)ははりの治療を終えたところだった。

 「今日は何のお話ですやろ。私はちょっと長生きしすぎるほど、年がいきましたけど」

 慌てて「いやそんな」と言いかけると、か細い声で「そんなことあるのよ」。

 「私は体が弱くて、この子はすぐ死ぬ、死ぬ言われて育った。ほんまやったら『お前、まだ生きとんのか』って言われるわ。自分でも不思議でしょうがない。14、15歳のころから、何度も自殺しようと思いましたし」とさらり。再び慌ててしまい「それはどういう気持ちで……」などと間抜けた質問をした。平然と一言。

 「いなくなりたいの」


 こういう少女時代を過ごした岡部さんだからこそ、古希を超えた時期に依頼された落語本の解説に、随筆家としてはどうかな、と思われる唐突さを度外視して、先に紹介したような小さん、三木助との回想を、あえて書き加えたと察するのだ。

 そして、「平和」への岡部さんの強い思いは、次のような悲しい体験があるからなのだ。文中の邦夫さんとは、婚約者のお名前。

 岡部さんは68年に沖縄を訪れた。負傷した邦夫さんが置き去りにされた病院では一緒に約2000人が死んだ。「毒を飲まされた」という証言もある。沖縄戦の悲惨さをじかに感じた。自らを「加害者」と断じ、反戦を強く訴えるのはそれからだ。

 沖縄にとって、日本復帰の大きな理由。それは戦争放棄を定めた日本国憲法だった。なのに自民党は改憲案を発表し、在日米軍再編協議では本島北部への基地の集中を一層進める方針が確認された。

 「沖縄にとって、日本って何やろな」

 ため息のように言った。

 「思うこと、言うこと、自由になったはず。せやけど、その自由が間違った方向にいかされたら、どないしまんのやろ。そうは言っても、自分の考えを押しつけがましく言われへんしな。自分自身を含めて、人間をよく信用せんわ」

 沖縄という忘れることのできない地、自由になったはずなのに、その沖縄は、今どうなっているのか・・・・・・。

 自らを「加害者」とする岡部さんの思いは、深い。

 記事の最後の部分を、引用。

 「神の国」から民主主義へ、軍国主義から反戦平和へ。鮮やかに転じたのは、上から与えられたものをただ信じただけなのかもしれない。

 でも岡部さんは、長い月日をかけて上からのものを信じた罪を検証していった。この人は、今も、あの戦争を許していない。あの時の日本を許していない。何より、あの時「喜んで死ぬ」と口にした自分自身が許せない。戦争は被害者だけでなく、加害者を生む。誠実な者ほど自らの罪に苦しみ続ける。

 あの時代なら、私も「消火訓練のバケツリレーに来ない者は非国民だ」などと記事に書いたかも、とふと思った。岡部さんといると、いつの間にか自分自身と向かい合っている。

 でも、自分さえ信じられないとしたら、どう生きていけばいいのだろう。

 「今、いろんな問題があるやろ。家庭、教育、政党……。でも、一番せんならんのは、自分を育てることやろな」

 ……自分を育てる?

 「自分にある未来を。まだ、あるならな。私は病気ばっかりしていますけどな、最期の瞬間まで人としての自分を育てたいと、私はまだそう思っています。今の呼吸より次の呼吸の方が、心が開かれているように」

 帰り際、西本願寺の前を通った。門はもう閉じていて、黒く大きな屋根の上に、夕日が透けたばら色の大きな雲がたなびいていた。【太田阿利佐】

 岡部さんは、たくさん珠玉の言葉を残している。
 その中で、「平和の意味」について、次のように表現していた。

“ 自分が殺されないだけのものではない。人も殺さず、人間以外の生命体をも、無用に殺きなくても済むことが、平和の意味ではないか”

 その「平和」という言葉と「笑い」を結びつけた言葉を、岡部さんが残していることは、落語愛好家としては、なんとも嬉しいことでもあるが、実に重い言葉でもあると思う。

 「平和の笑い」「笑いこそ平和」、そして、嘘のない、平等な世界を、岡部さんは落語に見出していた。

 落語愛好家だった一人の随筆家の言葉を、忘れていけないだろう。

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# by kogotokoubei | 2018-01-04 09:36 | 落語の本 | Comments(4)

 遅ればせながら、12月の記事別アクセスのトップ10は、次のようになった。

1 桂春団治と吉本せい(1) (2017年10月7日)
2 二代立花家橘之助襲名披露興行 池袋演芸場 12月1日(2017年12月2日)
3 柳家三三が『嶋鵆沖白浪』を再演。(2016年5月31日)
4 「THE MANZAI」でのウーマンラッシュアワーの漫才に、拍手! (2017年12月18日)
5 今年のマイベスト十席。(2017年12月24日)
6 NHK BSプレミアム「ザ・プロファイラー」で見た、立川談志のラブレター。
(2017年12月22日)
7 とても笑えない「わろてんか」からは、撤退。(2017年11月28日)
8 今から140年前、なぜ明治政府は改暦を急いだのか。(2013年1月14日)
9 ある日の鳥取の夜。(2017年12月4日)
10 桂春団治と吉本せい(3)(2017年10月10日)

 「わろてんか」関連、と言って良いのかもしれないが、初代桂春団治と吉本せいについて書いた記事が、一位と十位、二つ入った。
 その朝ドラから決別することを書いた記事も七位にランクイン。
 
 立花家橘之助の池袋の披露目の記事が二位なのは、嬉しい。

 三位の昨年の三三『嶋鵆沖白浪』再演の記事は、各地で「たびちどり」が開催されていることでのアクセス増なのだろう。

 「THE MANZAI」のウーマンラッシュアワーの漫才には、多くの方が支持するコメントを寄せているようだが、私も同感だ。やれやれ、ウーマン!

 五位に、今年のマイベスト十席の記事。
 数少ない寄席・落語会からの選択だったが、自分なりに良い高座に巡り合えたと思う。

 NHK BSで見た談志の奥さん“ノンくん”へのラブレターからは、談志の発言や行動からははかり知ることのできない、寂しく、そして優しい一人の男の姿が見えた。

 五年近く前に書いた改暦の記事は、時たま、思い出したようにアクセスが急増する不思議な記事。

 予想外だったのは、あの元横綱の傷害事件を、モンゴル語の本名を使って、遊びで書いた記事が、ランクインしたこと。もしかすると、本名で検索して訪問された方が多いのかな。
 一連の騒動は、本来閉じられた世界で芸能、見世物として歴史を紡いできた相撲が、「公益」財団法人になどになったことも一因だろう。
 まずは、そんな法人であることをやめることから、興行としての伝統を再出発してはどうかと思う。

 すでに「わろてんか」からは撤退したが、あの中で春団治をモチーフとした噺家により、どれほど多くの方が春団治、そして吉本せいについて間違った人物像を抱くかと思うと、残念でならない。

 視聴率というものに執着し、また、綺麗ごとばかりで物語を構成しようとすると、そのドラマの主人公や登場人物の本当の姿から、どんどん乖離してしまう。

 その人の本来の人生とは、美談ばかりでもなければ、不恰好な姿もあるだろうし、そんなに笑えるものでもないだろう。
 
 金をめぐる利害関係や、血縁の醜い争い、決して褒められない言動や行動だって、ある人間の一生の中であるだろう。

 しかし、それこそが人生ではないか、とも思う。

 先月のランキングを見ながら、そんなことを考えた。

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# by kogotokoubei | 2018-01-03 09:53 | アクセスランキング | Comments(0)
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池内紀著『二列目の人生-隠れた異才たちー』(集英社文庫)

 池内紀さんのこの本から、三人目のご紹介。

 その名は、高頭式(たかとう しょく)。

 実はこの本で初めて知ったのだが、私が六年住んだことのある、越後長岡出身だ。
 同じ姓のお店などがあるのは知っていたが、この人のことは知らなかった。

 ちょうど、富士山が舞台のブラタモリの再放送を観たところだが、この高頭式、山に深く関係のある異才だ。

 まず、本書の冒頭から引用。

 東京・市ヶ谷の閑静な一角、少し古びたビルの中に日本山岳会の本部がある。玄関を入った左手がフロアになっていて、壁にずらりと顔写真が並んでいる。歴代の山岳会会長というといかめしい。むしろ人一倍、山好きだった面々のポートレート集といっていい。初代の小島鳥水にはじまって、木暮理太郎、槇有恒、松方三郎・・・・・・。槇隊長によるマナスル初登頂をはじめとして、日本山岳会は数々の輝かしい偉業をなしとげた。あるいは遠征にあたり背後から強力に支援した。
 歴代の「顔」のなかに見慣れぬ一つがまじっている。二代目の位置にあって、ツルリとした頭にまん丸い童顔、きちんとした和服姿だが、病床にあったものか、うしろに枕のようなものが見える。名前まで風変わりだーつまり、高頭式。
 槇有恒(まき ありつね)の名は、マナスル初登頂を成し遂げた日本隊の隊長として、教科書で習った。その名は、まきゆうこう、と覚えている。

 他の会長の名は、正直なところ知らない。
 もちろん、高頭式も。 

 どんな人だったのか。

 明治三十八(1905)年の日本山岳会発足時の規則に、こんな内容が記されている。

 「高頭氏は山岳会の会計に欠損ある場合、向う十年間、毎年千円(会費千人分)を提供する」

 この文の前に、当時の東京帝国大学文科大学講師夏目金之助の年俸が八百円、啄木石川一(はじめ)の岩手の尋常小学校代用教員の月俸が八円、と紹介されている。

 山岳会が赤字なら、毎年千円、それを十年続けると規定された高頭式という人間は、なぜ、そんな大金を拠出できたのだろう。

 その生い立ちについて、ご紹介。

 『越後豪農めぐり』(新潟日報事業社)といった本によると、県内関川村の渡辺家は江戸末期には三千八百石規模の大地主だった。豊浦町の市島家は最盛期には田地二千町歩を数えた。そして高頭式の生家はそんな一つで、長岡郊外深沢村の豪農だった。
 明治十年(1877)の生まれ。本名式次郎。二十歳のとき父が亡くなって家督を継ぎ、家名仁兵衛を名のった。自分では式、あるいは義明を使った。
 
 長岡に六年住んでいた頃、渡辺家は、訪れたことがある。
 しかし、深沢村の豪農高頭家のことは、まったく知らなかったなぁ。
 
 式、あるいは義明は、豪農の家を継ぎながら、何がきっかけで山岳会に関わることになったのか。

 高頭式は十三のとき弥彦山に登って山に開眼した。そのときの体験があずかっていたのかもしれない。のちに『日本山獄志』を著したとき、標高はたいしてないが眺望の大きいことを力説した。『・・・・・・眼界忽ち開けて、北に佐渡島を望み、陸・羽の遠山は模糊として水天髣髴の間に在り』。十三歳の少年はきっと、ひたすら目を輝かせて周りの景観に見入っていたのだろう。『天気晴朗』の日の山頂を述べて、「其爽快なること言語に堪えず」と書きそえている。

 この『日本山獄志』という本が凄い。
 全千ページをこえ、厚さ十五センチ、六十点にあまる写真図版と数十のペン画山岳図、加えて二色刷り・百三十ページに「山獄表」つき、とのこと。

 原稿はすべて和紙に毛筆で書かれていた。積み上げると、まさしく天にとどいただろう。二十世紀初頭に、一国の山を収めて、これだけ完璧な山岳事典が世界のどこかにあったものか。少なくとも、もっとも早い、もっともすぐれた一つだったにちがいない。発行は博文館となっているが、出版費用の全額を高頭式自身が負った。

 有志と一緒に日本山岳会を発足させた翌年の明治三十九年に、この本が、山岳会誌『山岳』と一緒に、世に出された。 
 その後、日本山岳会の運営に、高頭の財力は、欠かせないものとなっていた。

 昭和八年(1933)、小島鳥水のあとを受けて日本山岳会第二代会長につく。ながらくの援助に対する山岳会からの返礼であって、高頭式自身には意にそわない役まわりだったらしく、二年後に早々と退いた。役員の一人が回想している。「・・・・・・いつも高頭さんは役員会に出席しておられた。他の会合でもそうであったように、いつも黙々として語られるところは極めて寡く、談論風発すり若い者の言葉を専らに聴き入って、会が終ると音もなく静かに帰って行かれるのであった」。
 大半が名士の息子たちで、その都会っ子の自慢話を、高頭式がどんな思いで聞いていたのかはわからない。戦後の「農地解放」で大地主があわてふためくなか、彼は自邸を開放して旅館にした。宿の名を「山岳」といって、玄関に高島北海画の槍・穂高屏風、次の間に中村清太郎筆「伯耆大山」、廊下には木下藤次郎の水彩「中禅寺湖」が飾られていた。奥の間は二十畳敷き。昭和二十九年(1954)に訪れた槇有恒が報告しているが。「旅館は御令息夫妻と、令嬢とによって営まれているが、全く旅館といった空気など微塵もない」。
 来迎寺駅を唯一の連絡場所とするその旅館は、世に知られることもなく、近在の者がたまに泊まる、贅沢な空間だった。

 槇がその「山岳」を訪ねた同じ年、高頭式は中風で倒れた。
 日本山岳会のロビーに飾られている写真は。この前後のようだ。

 昭和三十三年(1958)四月没、享年八十一。

 越後の豪農の倅が、酒や博打、女道楽にうつつを抜かすのではなく、日本山岳会という組織のために、家を危うくしてしまった。しかし、彼は“山岳”だけに家財を投入したわけではなかった。

 長岡の日本山岳会事務所を預かる室賀さんや、弥彦山岳会の渡辺さんの回想で、それは証明されている。

 生家跡には背をこす草が茂っていた。昔の写真では松林ごしに冠木門が見え、その奥に白壁をめぐらして堂々とした屋敷が控えていた。今はただ、うっそうと影をつくった藪があるばかり。
「度量の大きな人でしたね」
 室賀さのことばに渡辺さんが無言のまま何度もうなずいた。地区の学校、組合、山の手入れ、道路づくり。一人で費用のおおかたをまかなった。支配人がしぶるのを押しきって、たのまれるとこころよく請け判を捺した。その好人物ぶりを笑う人がいたのだろう、高頭式は大正十四年(1925)に出した『御国の咄し』のはじまりに自分の生い立ちをつづり、そのなかで「馬鹿」といわれたことについて触れている。いかにも自分はノロマで、ボンヤリで、安本丹(アンポンタン)であるが、だからといって馬でも鹿でもない。むしろ「先祖から伝わりました家宝を売りましたり、家屋を壊しましたり致しまするから、それが訛りまして破家(ばか)となりましたものと確信を致して居りまする」。
 大正デモクラシーと労働争議の高まりのなかで、地方では小作争議が頻発していた。隣県富山からはじまった米騒動が、またたくまに全国に波及する。そんな時代相を見つめながら、この「越後の旦那様」は、大地主といったものの行く末をはっきり見定めていたのではあるまいか。

 どんな豪農も、時代の流れには逆らえなかったかもしれない。

 しかし、その趨勢の中で、自分の趣味から大きく発展させて、高頭式は、二列目ではあったが、独力でつくった山岳大辞典とも言える著書を著し名を残した。

 高頭式を知っていたら、もう少し、長岡時代に訪ねるべき場所や人もいたのに、と悔やむ。

 このシリーズ、これにてお開き。
 他の異才たちについては、ぜひ、実際に本書をお読みのほどを。
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# by kogotokoubei | 2018-01-02 09:37 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

 本年も、我が家のミミー(左、女の子、今年四月で九歳)とユウ(右、男の子、今年九月で八歳)が、江ノ島をバックにご挨拶です。

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 本年も、落語のことやいろんなことを書きなぐりますが、よろしくお願いいたします。

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# by kogotokoubei | 2018-01-01 10:28 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)
 『二番煎じ』について記事を書いている中で、さて、他に冬の噺にはどんなものがあるか、ということで、懲りずに二冊の本を比べてみた。

 昨年9月に、同じ二冊を元に、秋の噺のことを調べて記事を書いた。
2016年9月21日のブログ

 比べたのは、次の二冊。

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矢野誠一著『落語讀本』(文春文庫)

 まず、一冊目は矢野誠一さんの『落語讀本』(文春文庫、1989年初版発行)。
 副題にあるように三百三席のネタが紹介されている中で、冬として分類されているのは、35席。
 ちなみに、正月のネタが7席、春が100席、夏66席、秋が95席なので、冬に分類されているネタは、もっとも少ない。


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麻生芳伸著『落語百選ー冬ー』

 次に、麻生芳伸さんの『落語百選-冬-』(ちくま文庫)。初版は1976年に三省堂から発行され、その後に社会思想社の現代教養文庫で1980年に再版。ちくま文庫では1999年の初版。

 百席を四季ごとに同数づつに分けて掲載しているので、冬篇は25席。

 秋の噺の時と同様、『落語百選』を元にネタを並べて、『落語讀本』ではどう分類されているかを調べてみた。
 両方で冬の噺として分類されているネタにをつけた。
 なお、『落語讀本』では、正月の噺を「年の始めの・・・・・・」として、別分類しているので、こちたも冬の噺を考える。


    落語百選 <冬>   落語讀本<冬ざれの>
(1)うどんや       冬
(2)牛ほめ        夏
(3)弥次郎        春
(4)寝床         秋
(5)火焔太鼓       秋   
(6)首提灯        秋
(7)勘定板        なし
(8)鼠穴         なし
(9)二番煎じ       冬
(10)火事息子      冬
(11)按摩の炬燵     冬
(12)大仏餅       春
(13)文七元結      冬
(14)芝浜        冬
(15)掛取万歳      冬
(16)御慶       *年の初めの・・・・・・
(17)かつぎや     *年の初めの・・・・・・
(18)千早振る     *年の初めの・・・・・・
(19)藪入り      *年の初めの・・・・・・
(20)阿武松       なし
(21)初天神      *年の初めの・・・・・・
(22)妾馬        春
(23)雪てん       なし
(24)雪の瀬川      なし
(25)粗忽長屋      春


 二冊とも挙がったネタは、半数以下の十二席。

 秋の噺の時にも感じたことだが、噺は必ずしも季節が明確ではないものもあるので、そういう噺の分類は、結構難しいと思う。
 加えて、麻生芳伸さんの『落語百選』は、四季それぞれに分けて二十五席ということなので、他の季節では選ばなかったが、取り上げたネタを別な季節の巻に入れる、ということはありえる。
 そして、春夏秋冬の百席以外のネタは、「特選」として「上」「下」の二冊に収められたことは、落語愛好家の方はご存知の通り。

 よって、「冬」に収めることができなかった『富久』などは「特選・下」に載っている。

 矢野さんの本では正月を別の枠にしている。もちろん冬の噺。
 その特別なネタを別にして、冬の噺としてこの二冊で合致しているのは、次のものだった。

 ◇うどんや
 ◇二番煎じ
 ◇火事息子
 ◇按摩の炬燵
 ◇文七元結
 ◇芝浜 
 ◇掛取万歳

 結構、大ネタが並んだと思う。
 
 さて、年が明けて平成30年一月一日は、旧暦の十一月、霜月の十五日。
 まだまだ冬の噺に出会えそうだ。

 本年の記事は、ここまで。
 拙ブログにお立ち寄りの皆さん、良いお年をお迎えください。
 来年も、皆さん、よろしくお願いします。


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# by kogotokoubei | 2017-12-31 18:17 | 落語のネタ | Comments(2)
 ふたたび、『二番煎じ』について。

 ということは、三番煎じか^^

 この噺のことを確認しているうちに、志ん朝以外の過去の芸達者のことも分かってきた。

 上方からこの噺を移植し十八番としていたのが、五代目三遊亭圓生。六代目の義父だ。太っていたので、デブの圓生、などと呼ばれていた。
 明治17(1884)年)10月生まれで、昭和15(1940)年1月23日没。

 その少し後の世代でこの噺で定評があったのは、三代目の三遊亭小圓朝。
 明治25(1892)年生まれで、昭和48(1973)年に亡くなった。
 地味な噺家だったらしいが、ご通家からの評価は高い。
 昨年、飯島友治さんの『落語聴上手』から、小圓朝の『笠碁』に関する熱い思いを紹介した。
2016年5月7日のブログ

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金馬・小圓朝集

 その飯島友治さんの編集による『古典落語 金馬・小圓朝集』には、小圓朝の代表的なネタ十四席が収められているが、『笠碁』などと一緒に、『二番煎じ』も含まれている。
 読んでいて、志ん朝の音源との共通点が多いことが分かった。
 一の組で火の廻りに出るのは、志ん朝版の伊勢屋が相模屋になっている以外は、名前も鳴り物の持ち物も一緒。文字で読んでいても、小圓朝という噺家の良さが伝わるのだ。

 前回の記事で少し詳しく紹介した志ん朝版における火の廻り場面での辰つぁんの科白などは、志ん朝よりも小圓朝の方が、味があるとさえ思える。

 飯島友治さんがト書きを入れてくれており、大いに参考になるその部分を、自分のために引用。

「(右手で金棒を突いたり引きずって歩きながら)へいッ。よろしゅうござんす。(得意顔、威勢よく)あァ・・・旦那方はねえ、素人ですからね・・・うまくいかないのがあたり前(まい)で・・・不思議はねえン・・・・・・で、まァ・・・私(あっし)なんざあ・・・これで若い時分にずいぶん道楽をしましてね、勘当されて・・・吉原ィ来て火の廻りをしたことがあるンですが・・・・・・(思い出して嬉しくなり、自分の言葉に酔うように)どうも・・・火の廻りの身姿(なり)のこしらいがいいねえ・・・ェえ?刺子の長半纏でねえ、豆絞りの手拭を首に巻いて、金棒突いて一(しと)廻り・・・まわってごらんなさい・・・ねえ、助六じゃァねえが、彼方(あっち)からも此方(こっち)からも煙管の雨が降るようで・・・・・・」
「まァ・・・いいよ・・・そんな事ァ。能書きァどうでもいィんだ・・・やってくれェ」
「ヘイ。よろしゅうがす・・・(金棒を突きながら、まるで妓楼の二階を回る火の用心のような気になりいい声を張って)火のォようゥじィん・・・さァしゃ・・・りゃ・・・しょォゥいッ!(尻上がりに)」
「(感心顔)なるほど!・・・・・能書き言うだけあって・・・うまいねえ・・・やってくれ」
「火のォようゥゥじィん・・・さァッしゃ・・・ァりゃ・・・しょォゥいッ!・・・二階を・・・ゥ・・・廻らっさァァりやしょゥい・・・・・・『(遊女の声色で)おや!・・・・・・火の廻りかい?・・・・・・ねえ寒いから・・・こっちィ入って・・・一服吸(や)っといでよ』『え?・・・うん、お前かァ・・・・・・おい冗談じゃァねえ。住替えしたのか?・・・・・・ふざけちゃァいけねえなァ・・・・・・住替えしたら・・・したで、いいからよゥ、手紙の一本も寄こすが・・・いいじゃァねえか・・・ふん・・・(強く)薄情なことォするなよッ』・・・・・・(投げ節の調子で)♪今朝の寒さァにィィいィい・・・ェェ・・・帰ェさりょォかァ・・・ィ・・・・・・(我に返り、強く)まわろうウ・・・まわろうゥ・・・・・・」

 煙管の雨、という決め科白の部分で助六の名が入っているのも、蛇足とは思えないし、今の時代ならなおさら良いのではなかろうか。

 吉原での火の廻りを回顧しての科白などは、『あくび指南』で稽古してもらっている男の吉原での脱線話を思い浮かべるような楽しさがある。

 ちなみに、『あくび指南』も小圓朝の代表作として選ばれた十四席に含まれている。

 飯島友治さんの解説からも引用。

 『二番煎じ』は五代目圓生(1940没、五十七歳)が若い頃〔橘家圓窓時代〕上方から移した噺であるが、噺中に身分・階級の違う人物が大勢出てくるので、それを完全に仕分けて演出することはたいへん難しい。
 小圓朝師は七代目可楽(1944年没、五十四歳)に教わり、以後独自の考えから多少演出を変えて高座へ掛けるている。たとえば、原作では熱い猪鍋を股の下へ隠したり、汁が下帯にしみて云々・・・とあるのを、鍋は後ろへ隠し、下帯云々は省いてあっさりと演出する。もっともこの件(くだり)を上方流にどぎつく、顔をしかめて演れば客は爆笑するが、それはいささか度を越した演技であり、それに見廻りの役人がいくら食意地が張っていても、股ぐらから出した猪鍋を所望するのはどうかと思われるからである。由来小圓朝師はこの噺に限らず、俗うけの人気を無視して不合理の箇所は改め、卑猥な件はつとめて上品に演出することに心掛け、もちろん大袈裟な身振り仕草ばどは絶対にしない。
 一行が町内を廻る場合、銘々が勝手な節をつけて“火の用心・・・・・・”云々と唄うのは、演者の都合で謳・清元・長唄・浪花節その他なにを使ってもよいが、「火の用心さっしゃりましょう」と丁寧に言うのは廓内の火の番廻りに限る言い方であるから、辰公だけが特殊の抑揚で呼ぶだけで、他の連中は言わないことになっている。
 やはり、飯島さんも、難しい噺と言ってるねぇ。

 小圓朝は、どぎつさ、卑猥、俗うけ、などとは距離を置いた噺家さんであったわけだ。

 当代の噺家さんに似た人は・・・見当たらないなぁ。もっとも近いのが、小満んだろうか。

 小圓朝は、昭和42(1967)年7月に脳出血で倒れてから高座に復帰しないまま、昭和48(1973)年に亡くなっている。
 志ん朝が入門したのが昭和32(1957)年なので、10年ほど、小圓朝の現役時代と重なっている。

 この噺に関して志ん朝は、小圓朝を手本としたのではなかろうか、と私は勝手に思っている。


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# by kogotokoubei | 2017-12-30 09:47 | 落語のネタ | Comments(6)
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池内紀著『二列目の人生-隠れた異才たちー』(集英社文庫)

 落語の『二番煎じ』をはさみ、この本からの、二番煎じ。

 ご紹介するのは、福田蘭童。

 一回目の記事に、取り上げられた人で知っている名は橋爪四郎のみ、と書いたところ、佐平次さんからこの人も知っているでしょう、とコメントを頂戴したが、実は、知らなかった。

 この方の父親とご長男は、知っていた。

 まず、お父上のことから。

 画家青木繁の評価はとっくに定まっている。伝記、評論、画集など、いろいろとある。その年譜には東京美術学校卒業と同じ年に、こんな記述があるはずだ。
「房州布良へ写生旅行(坂本繁二郎、森田恒友、福田たね同行)。『海の幸』『海景』など制作」
 天才画家がはじめて自分の天分を作品にした意味深い旅行だった。だが、つづく翌年の出来事には、さして注意が払われない。
「明治三十八年(1905)、一子幸彦(のちの福田蘭童)誕生」
 福田の姓からもわかるように福田たねとのあいだにできた。房州布良が二人を結びつけた。海彦の里にちなみ、ついては「幸」を念じて「幸彦」と名づけたのだろう。このとき父親青木繁は二十四歳、福田たねは二十一歳。
 青木繁の名は、知っていた。
 しかし、その長男のことは、この本で初めて知った。
 佐平次さんの年代よりは少しだけ若いので、笛吹童子は知っていて、♪ヒャラーリ、ヒャラリーコ、という笛のテーマソングも聞いたことはあるが、その音楽を担当した人の名をそらんじることができる同時代のラジオを聞いた世代ではないのですよ^^

 昭和15年生まれの著者は、もちろん同時代で、あのラジオを聞いていた。

 番組のはじめにスタッフの紹介があった。そのはずである。というのは「作・北村壽夫(ひさお)」を記憶のはしにとどめているのだから。しかし、ほかは何一つ覚えていない。ただし、「音楽・福田蘭童」を除いてのこと。そして、この「音楽・福田蘭童」は「作・北村壽夫」よりも何倍か強く印象づけられた。蘭童というナゾめいた名前が呪文のようにある世代を呪縛した。

 このナゾめいた名の持主のご長男は、よく知っている。
 福田蘭童の長男、石橋エータローが「笛吹童子」のころを回想したなかで述べているが、NHKに父親を訪ねたとき、ちょうど主題歌の録音中で、尺八を片手にオーケストラの指揮をしていた。横笛もいろいろ工夫して、自分でつくって吹いていたそうだ。曲の最後が中途半端だというと、蘭童は答えた。
「まだ何かありそうな気分にしたかった。おまえのやっているジャズとはちがうからな」
 石橋エータローは本名英市、姓が福田ではなく石橋なのは母親が離婚をしたからだ。

 父親の天才画家と言われる青木繁、そして、ご長男の石橋エータローの名を知っていたのだが、蘭童はこの本で初めて知った。

 エータローにとって父蘭童は、「物心ついた頃からオヤジは死んだことになっていた」とのこと。
 十七、八歳の時に生きていると分かり、母親の禁令を無視して蘭童に会いに湯河原まで行ったと回想している。

 その蘭童も、親の愛には恵まれない少年だった。

 青木繁は一子誕生の翌年、わが子を恋人の両親に押しつけて郷里へ帰ってしまった。娘の「不始末」に困惑したのだろう、その両親は預かった子供を養子として入籍した。ために母と子は、戸籍の上では姉と弟になっている。

 預けられた栃木から上京して小石川の中学に通った蘭童は、知り合いの先生宅を訪ねて、床の間にあった尺八をいじってこっぴどく叱られたことがくやしくて、本格的に尺八を習うようになる。
 琴古流荒木派の関口月童、月童が倒れた後、水野呂童についての猛稽古の末、次のような逸話まであった。

 井伏鱒二はまた人からの話だがと断った上で、「福田蘭童は指先で紙に触ってみて、その紙の色彩を云いあてることが出来る」と述べている。机の上のマッチ箱を指でおさえ、下側のレッテルの色をいいあてたこともある。

 中学生で、すでに師範格、同時にピアノを習い、洋楽を学んだとのこと。

 独立したのち一派をおこして、これまで秘伝扱いされていた尺八に五線譜を導入した。晩年の弟子である横山勝也は「修行帖」のなかで「今でこそ誰でも使う奏法である、タンキングや情感の表現としてのポルタメントやレガート奏法、甲ツのメリを四と五孔開けの替え運指で出したり、の技法を、いち早くわがものにしていた若い蘭童の天才ぶりをあげている。

 蘭童がその名を残したのは、尺八ばかりではない。
 きっと、栃木での少年時代の川釣りからの発展なのだろう、釣りの名人とも言われた。

 西園寺公一の『釣魚迷』には釣り三昧だった蘭童の日常が語られている。「-日本が真珠湾の奇襲から太平洋戦争に突入する少し前の頃だ」と書き添えてある。人みなが好むと好まざるとにかかわらず軍国主義に流されていくなかで、そんな時代相をいっさい黙殺するかのように釣り糸を垂れたいた。
「魚釣りはたのしい。釣れないときより釣れたときのほうが嬉しいにきまっているが、釣れた魚をその場で、調理して食べるのはまた格別である」
 蘭童は開高健のように『釣魚大全』などといった大げさなタイトルはつけなかった。その著書はまったく、これ以上ないほど自然な名づけ方で、『釣った魚はこうして料理』。

 渋谷に、数年前、居残り会メンバーで忘年会を開催した三漁洞がある。

 佐平次さんから、石橋エータローの奥さんのお店とお聞きしていたが、その元は蘭童だったんだなぁ。エータロー亡き後は、奥さんが仕切っている。

 「三漁洞」では調理室に入ることはせず、そっと店に顔を出して、片隅で酒を飲んでいた。味見をすると、たいていはほめた。おりおり、何げない口ぶりで魚の特長や料理法のコツを洩らしたりした。いつもきちんとスーツを着て、ネクタイをしている。年をとっても独特にイロ気があって、若い嫁は義父と顔が合うたびに胸がドキドキしたそうだ。

 嫁の胸をときめかせる、粋でダンディで、かっこいい義父だったということか。
 
 本書では、その蘭童が、父青木繁に対して、複雑な思いを抱いていたことが、久留米に父の墓詣りをした時の逸話からうかがえる。

 天才画家の子をして生まれ、尺八、釣りで名を残した福田蘭童を、恥ずかしながら、この本で初めて知ることができた。
 
 もう一人位、本書から紹介したいが、他の記事を挟むかもしれない。

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# by kogotokoubei | 2017-12-29 12:21 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 つい、落語愛好家仲間の忘年会で、私の“なんちゃって落語”で『井戸の茶碗』をご披露してしまったがために(?)、新年会で『二番煎じ』をリクエストされてしまった。
 それも、居残り会創立メンバーの仲間であるYさんと前後半交代で、と居残り会リーダー佐平次さんからのお言葉。他人まで巻き込んでしまった^^

 今、携帯音楽プレーヤーで、古今亭志ん朝の昭和56年のSONYの音源(大阪毎日ホール)と、平成5年の大須の音源を聴き勉強(?)を始めた。

 43歳と55歳の音源は、もちろん、声には年齢の差が出ているが、どちらも良いのだ。
 
 志ん朝版を元に、大須ならではのマクラは別として、こんな構成。

①火の廻りをする時代背景
 火事と喧嘩は、江戸の華と言われるほど、江戸時代には、火事が多かった。
 各町内に番小屋を置き、常雇いの火の廻り(番太郎、略して番太)を雇った。
 しかし、この番太は、血気盛んな若者というわけにはいかず、「血気なんてぇなあ
 かなり前になくしたような」お年寄り、それも「若い時分に、ちょいと世の中
 やりそこねちゃった」というようなお年寄りがなるもんだから、つい、一杯飲んで
 火の廻りに出て、小屋に戻ると寝てしまい、そういう時にボヤが大火となったり
 したものだから、町内の各家から一人づつ小屋に集まり、自分たちで火の廻りを
 するようになった。
 
②火の廻り
 月番の提案で、二組に分けて、片方が回っている間、もう片方は番小屋で休む
 ことにしようということになる。
 月番が言い出しっぺだから「一の組」になるといい、仲間に伊勢屋、黒川先生、
 辰つあん、宗助さんを選ぶ。伊勢屋が鳴子、黒川先生が拍子木、辰つぁん
 は金棒、宗助が提灯と役割を分担。寒いものだから、伊勢屋は鳴子を帯に紐を
 挟んで膝で打っているから、バサバサとしか鳴らず、黒川先生は拍子木を袂に
 入れて着物の上から当てるからコツン、コツンとしか響かない。金棒が冷たい
 辰つぁんは紐を指に通して引きずっているから、ズルズル(引きずる音)、
 カターン(石に当たった音)、パシャーン(水たまりに落ちた音)、という具合。
 掛け声にしても、宗助は、まるで売り子の呼び声のような調子で、「えっ、え・・・
 火の用心、火の用心、えー、火の用心・火の廻り、火の用心はいかがですな」とやって
 月番に「売っちゃいけない」と叱られる始末。黒川先生は、謳いの調子で、
 「(拍子木の音)コツーン、コツーン、ひのよう~じん、ひのぉ~まわ~り」と
 やるが、とても火の廻りにならない。伊勢屋は、習った新内節の調子で
 「(三味線)チャチャチャチャーン、ひのぉーようじん、ひのぉーまわ~り、
 たがいーに、ひもとーを、きをつけーぇーえー、(一調子上がって)まぁー
 しょう」となるから月番から「自分ばかり気持ちよくなったってしょうが
 ないんだよ」と小言を喰らう。
  さて、次が辰っつぁん。前半の火の廻りの聞かせどころなので、少し詳しく。
   素人には無理なんすよ。あっしなんざはね、若い時分に道楽が
    元になって勘当されてね、なか(吉原)の頭のところに転がり込んで、    
    火の廻りやったことがありますよ。あいつは、またねぇ、ナリの拵えが
    いいんだ。ねぇ、腹掛けに股引(ももしき)、刺し子の長半纏を着てね、
    算盤玉の三尺を締めて、首んところに豆絞りの手拭いをキュッと結んでね、
    こんな恰好をして、腰んところに提灯だ、金棒持ってこやって、チャーンと
    歩いてる。ねぇ。そうするってぇと、女が皆心配してくれるよ、ねぇ。
    私たちのために火の廻りをまわってくれるんだ、嬉しいねぇ、なんてね
   『ちょいと、火の廻り、ご苦労だね。こっち来て、まぁ一服やっておくん
    なまし』なんてんでね、煙管の雨が、降るようだ
  月番 なにを気取ってんだよ。そんなことどうでもいいから、早くおやりよ
   わかってます、やりますよ。こやってね、火のよう~ぉうじん~、
    さっしゃりゃしょー
  月番 なるほど、なるほどねぇ、へへぇ、恐れ入りましたねぇ、伊勢屋さん
  伊勢屋 本当ですなぁ。辰っつあん、たいしたノドだね
   どうもね、わけぇ時分には、女がみんなこの声に惚れたもんだ
  月番 そんなことは、どうでもいいんだよ。続けておくれ
   へぇへぇ、どうも、ありがとございやす。こういう具合にね、
    チャーンと、えへへへ、お二階を、まわらっしゃりやしょう~(ほう)~~
  月番 なんだい、そのしまいのほうほうほうっていうのは
   声が北風にふるえてる
  月番 芸が細かいね
 
 この志ん朝のやりとりのリズムの良さは、絶品。
 火の廻り一の組は、この後、番小屋に戻る。

③番小屋での酒盛り
 ここでは、黒川先生が娘が酒を持たせた、と言うと、初めは月番がいさめるのだが、実は月番も持ってきており、ふくべの酒ではなく、土瓶の煎じ薬ならいいでしょう、と燗酒の酒盛りが始まろうとすると、宗助さんは猪の肉に葱、味噌と猪鍋の用意をし、鍋まで背中に背負ってきていた。この場面での聞かせどころ、見せ所は、何と言っても、猪鍋をつつきながらの会話になる。黒川先生は、川柳をひねりながら食べ、伊勢屋は「葱だけいただく」と言っておきながら、葱と葱の間に肉をはさんで食べる。興に乗って来たところで、伊勢屋が「都々逸の回しっこ、しましょう」と言い出し、
 ♪騒ぐ烏に 石投げつけりゃー それてお寺の鐘が鳴る、
 と披露し、黒川先生は「猪鍋を食べ おかしくもあり シシシシシ」なんて駄句を披露。酔っている月番も大喜びのところで、見回りの役人が“バン”と戸を叩く。

④見回り役人との会話
 慌てて土瓶や鍋を片付けたものの、それをかいま見ていた役人。土瓶を隠したな、と役人に言われ、風邪薬の煎じ薬を飲んでいた、と言うと、役人も風邪気味だから飲ませろ、と言われしぶしぶ湯呑みに注ぐ。
 役人が飲んだ後、「おまえたち、これを飲んでいたのか!」と大声で言うものだから、てっきり叱られるかと思いきや、「なかなか良い煎じ薬だ」と言ってお代わり催促。鍋のようなものもあったな、と役人に突っ込まれ、宗助さんの膝下に隠した鍋も、煎じ薬の口直し、と言って提供。
 食べた役人、「口直しが良いと、煎じ薬も効くなぁ」と満足気。さらに煎じ薬を注げと催促され、全部飲まれたんじゃ困ると、もうなくなったと答えると、「もう一廻りしてくるから、二番を煎じておけ」で、サゲ。


 ご覧のように、登場人物が多いし、前半は火の廻りにおいて、謳い風、新内風、そして本寸法の辰の美声などを演じる技量が求められる。
 かと言って、後半も酒を飲み鍋をつつきながら番小屋の情景を描くには、高度な演出力が必要。

 これは、誰でも簡単に演れるような噺ではないのである。

 現役の噺家さんの中でも、食べる場面の多いネタで本領を発揮する瀧川鯉昇や、芸達者の五街道雲助などでなければ、こなせない噺。
 2011年の1月に鯉昇、2013年の1月に雲助で、どちらも横浜にぎわい座でこの噺の名演を聴いている。
2011年1月12日のブログ
2013年1月10日のブログ
雲助は、師匠馬生の型なのか、志ん朝とは設定がいろいろと違っている。

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麻生芳伸著『落語百選-冬-』
 麻生芳伸さんの『落語百選』の「冬」の解説には、次のようにある。

 江戸の時代考証として貴重な資料になる、日常的な出来事が描写されている。しィーんとして身を切られるような凍てつく夜の町の佇(たたずま)い、手拭いで頬被り、揃いの法被に提灯、それぞれが拍子木、鉄棒、鳴子を鳴らしながら「火の用心、さっしゃァしょう・・・・・・」と町内を流して歩く・・・・・・、それは江戸の冬の響きであり、町内町内が結束し寄り合う、生活(くらし)の槌音でもあった。さらにそして、そこにも江戸の遊びの精神が持ち込まれていかにも旦那衆らしい寄合酒がはじまるのである。見廻り役とて人の子、それを目的(めあて)にお役目を務めたとて、無理からぬことではないか。
 麻生さんのご指摘の通りで、時代考証の面でも、実に重要な噺だと思う。

 江戸の冬の情景、町内の旦那衆の結束や寄合酒の遊び心などを描く出す落語として、冬の代表的な噺であることは間違いないだろう。

 あぁ、とんでもないネタをふられたものだ^^

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# by kogotokoubei | 2017-12-28 12:18 | 落語のネタ | Comments(6)
 23日に葉室麟が亡くなっていたことを知り、ただただ意気消沈。

 最近も、織田信長の娘の数奇な人生、そして、その夫、蒲生氏郷という武将の健気な姿が描かれた『冬姫』を読んだばかり。

 名作『銀漢の賦』が『風の峠ー銀漢の賦ー』という題でNHKで放送された時、いくつか記事を書いた。
2015年1月30日のブログ
2015年2月6日のブログ
2015年2月20日のブログ


 直木賞受賞作の『蜩の記』は、もちろん、数多くの良質な時代小説を楽しみにしていたし、今後も多くの傑作を著してくれるものと期待していたのに。

 まだ、六十六・・・・・・。

 葉室麟のことは、別途書くとして、今回の記事のこと。

 今日12月25日は、大正天皇の祥月命日。

 期せずして、その大正天皇と深い関係のあった人に関する記事になった。

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池内紀著『二列目の人生-隠れた異才たちー』(集英社文庫)

 この本は、昨年、NHK FMラジオの「日曜喫茶室」の過去の放送の中で、著者池内紀さんが、当時の「近刊」として説明していらしたのを聴いて知っていた。
 最近になって古書店で文庫を見つけ迷わず購入。
 記憶が曖昧だが、「日曜喫茶室」で池内紀さんは、トップランナーではなく、その後ろを走ってきた人にも、さまざまな人生があって、それに興味を持って調べ始めた、というようなことをおっしゃっていたと思う。

 本書は、2003年に晶文社から単行本として発行され、五年後に集英社文庫入り。

 取り上げられた人物を目次から拾ってみる。

  大上宇市  もうひとりの熊楠
  島 成園  松園のライバル
  モラエス  ハーンにならない
  中谷巳次郎 無口な魯山人
  西川義方  天皇のおそばで
  高頭 式  先ズ照ラス最高ノ山
  秦 豊吉  鴎外の双曲線
  篁 牛人  志巧を見返す
  尾形亀之助 賢治の隣人
  福田蘭童  尺八と釣り竿
  小野忠重  版の人
  中尾佐助  種から胃袋まで
  早川良一郎 けむりのゆくえ
  槁爪四郎  もうひとりのトビウオ

 私が知っていたのは、橋爪四郎のみ・・・・・・。

 本編の紹介の前に、印象に残る言葉「記憶の訪問」について、「はじめに」からご紹介。

  はじめにー「記憶の訪問」のこと

 幸田文(あや)は父の露伴から家事その他きびしい躾を受けた。二十四のときに嫁いで十年後に離婚。だから「結婚雑談」というエッセイのはじめに、自分は離婚した経験をもつ女だから、結婚について満足なことは何一つ言えそうにない。もし言うとすると、「いびつな過去」を思い返して、「いびつなままの現在」から話すしかない。と断っている。
 この場合の「いびつな」は謙虚さから出た言葉だろう。大きな経験を、よく耐えた人に特有の意味深いことがつづられている。
 二十代のはじめから何度か見合いをした。そのうちの一つが結ばれて、あとは流れてしまったわけだが、流れ去ってあとかたもなくなるはずのものに、流れてもなお余情のあるものがある。恋ではなく特別な事件でもなく、なんとなく心に残る人のおもかげといったもの。だからこそ結婚というのが大きな事柄であることに、あらためて気がついた。
「結ばない縁のはしばしにも忘れないものがあって、こうして三十年過ぎた今も記憶の訪問に逢うからである」
 ちょうどこの『二列目の人生』を書いているときだった。「記憶の訪問」という言葉がひとしお身にしみた。まさにそんな気持ちで一人、また一人と対面していたからである。
 何か一つのことに打ち込んだ人は、たいていの場合、独自のルールをもっている。そのためしばしば世間から変わり者扱いされたりした。
 (中 略)
 あきらかに、その人でなくてはありえないエピソードなのに、なぜか誰にあってもあかしくないようでもある。どうやら夢のありかを伝えているせいらしい。
 
 「記憶の訪問」とは、なんとも味わい深い言葉だと思う。

 そうそう、ふいに、過去の記憶の訪問を受けることがある。

 この中から、もうじき祥月命日を迎える大正天皇の侍医でありった西川義方について、紹介したい。
 ちなみに大正天皇は、明治12(1979)年8月31日に生まれ、大正15(1926)年12月25日の崩御。だから、昭和元年は、たった六日しかなった。

 西川義方の凄さは、彼が残した医者にとって大事にされていた書物が物語っている。

 もしかすると、ちいさいときに目にしたことがあったかもしれない。腹痛で近所の医者にいった。老先生が診てくれた。白い髪に鼻ひげ、ズボンつりをつけた腹がまん丸い。聴診器を胸にあてられると、くすぐったいのだ。からだをよじらせているうちに、いつのまにか腹痛が消えていた。
 生水は飲まない。ご飯をよく噛んで食べる。食事のすぐあと駆け出さないー老先生はそんなことをいった。いちいち思い当たる。神妙な顔で聞いている間、目は一心にあたりをながめていた。不思議な形の瓶や皿、瓶のレッテル。ガーゼの束、消毒液。ガラス戸棚に大きな本が並んでいる。見なれない漢字のせいで魔法の書物のようだった。はしに一つの青い本があって、背が低いわりに厚ぼったい。のべつ開かれるらしく、はしが手ずれでほつれている。
 西川義方著『内科診療の実際』といった。刊行は南山堂。古い医家にはきっと一冊そなわっていたはずだ。表紙の色のせいで通称「青本」。大正十一年(1922)に世に出て以来、半世紀あまりにわたり、たえず版を改めた。途中に息子が手助けして、西川義方・西川一郎著となって、役割を終えた最後の版が昭和五十年(1975)の改訂七十版。総部数はいったい、どれほど数えたものか。
 途方もない著書である。手にとると、だれだってそんなふうに思うだろう。三千ページちかくに及んで「医」にかかわるあらゆる情報がつまっている。著者はその世界を大都に見立てたようだ。そこに入るべき二つの門を考えた。つまり、
  第一門 治療門
  第二門 診察門
 門が編に分かれ、編が章に細分化され、章が節で区分され、節が第一、第二、第三と分岐し、それがさらに一、二、三に分けられ、これをまた其一、其二、あるいは①②③が補っていく。

 私も、池内さんと同じような体験がある。

 子どもの頃、風邪をひいたり、腹をこわすと、近所の町医者に連れて行かれた。
 すでにご子息が病院を継いではいたが、大先生も健在で、子供はだいたい大先生が診ていたように思う。
 白髪で、鼻ひげ。
 あの頃は、とにかく注射が嫌いで、太い注射針を見ただけで泣いていたような気がする。だから、大先生は、正直、怖かった。
 しかし、その先生に注射を打ってもらったり、いただいた薬を飲むと、風邪も腹痛の治った記憶がある。名医だったのだろう、きっと。

 その病院の棚には、たしかにいろんな瓶やらの隣の本棚に洋書と並んでぶ暑い青い本があったはずだ。
 北海道の片田舎の先生も、きっと『内科診療の実際』は必読書だったに違いない。
 だから、先生が名医だったのではなく、その本が優れていたのかもしれない。

 こんな凄い本を書いた西川義方とは、どんな人物なのか。

 西川義方は明治十三年(1880)六月、和歌山県海草郡雑賀村に生まれた。父は村長をしていたので、その支援があったのだろう。三高より東大医学部に進学。卒業してすぐに和歌山の新宮病院に赴任。弟の学資稼ぎの意味もあった。数年で東京にもどり、日本医大で教えていた。そのままいけば勉強好きで学生おもいの医学部の先生の一生だったはずである。学界のボスになったりせず、新発見もしなかったが、町医者の六法全書ともいうべきありがたい本をのこしていったー。
 大正八年(1919)、西川義方は大正天皇の侍医に任じられた。入沢侍医長が東大のときの恩師にあたり、その縁で人選が進められていたらしい。当時、天皇の侍医は四人いて、そのうちの一人である。

 侍医になったのは、西川義方、三十九歳の時だ。
 しかし、大正天皇に初めてお会いした際、天皇から「西川、いくつになります」と問われて、西川は「こればかりは御許しを願います」と答えている。
 「言ってもよいではないか」とさらに天皇から問われ、「それではどうか御許しを得まして申し上げまする。西川は三十でございます」と嘘をついている。
 大正天皇は、ひとりごとのように「そんな筈はなかろうに」と呟かれてらしい。

 なぜ、西川は九つもサバを読んだのか。
 彼は、なんでも人間は三十が生命の盛りであって、これをこえると十二分の活躍がむずかしい、と考えていた。だから、いつも三十歳の意気でいたかったかららしい。

 大正天皇は、時に冗談を言って、西方たち侍医を笑わせるような人だったようだが、次第に病魔が襲ってきた。

 侍医に任官した翌年のこと。

 同年七月、宮内省発表。
「・・・・・・御発語に御障害起り明亮を欠くことあり。厳粛なる御儀式の臨御、内外臣僚の引見は御見合せ相成る旨・・・・・・」
 大正十年十一月二十五日、皇太子裕仁が摂政となった。以後は天皇の代理をする。その三日前、宮内省は大正天皇の幼時にさかのぼり、理由をくわしく発表した。
「天皇陛下には御降誕後三週目を出ざるに脳膜炎様の御疾患に罹らせられ、御心身の発達に於て、幾分後れさせらる、所ありしか・・・・・・」
 ために政務においては日夜、ひとしおの苦労があった。目下のところ、おからだにはお変わりはないのだが、「御脳力漸次御衰えさせられ特に御発語の御障害あらはるるため御意志の御表現甚だ御困難に拝し奉る・・・・・・」
 表現がまわりくどく、敬語がのさばっているが、しかし、伝えるべき情報はきちんと伝えてある。何一つ隠しだてせず、言い換えたりも、言いつくろったりもしていない。発表は「まことに恐懼に堪えざる所なり」で結ばれているが、それは自分の年齢を仕事ざかりの三十歳と思いさだめて、専心任務にはげんでいた侍医の思いでもあったに相違ない。

 大正天皇がまだご健在な間に、皇太子裕仁が摂政となって代理をしている、という事実を知り、この度の今上天皇の生前退位問題を思い出した。
 今上天皇は、父が摂政となって健康がすぐれない大正天皇の代理を務めたことを知りながらも、皇太子を摂政とするのではなく、自分が退位する道を選んだ、ということか。
 天皇という名である以上は、どうしても無理をせざるを得ない、ということなのだろうな。
 
 さて、発語障害などの悪化に伴い、なんとか最新医療を知ることで対策を打てないか、ということもあったのだろう、西川義方は、大正十五年(1926)二月に、新医学見聞の公務でヨーロッパに向かった。

 ドイツ語がよくできたし、自分もドイツ医学畑出身なので、旅のコースからもわかるように、ドイツが中心だった。しかし、本になったときは、なぜか北欧にはじまって、イタリア、フランス、イギリスのあと、ようやくドイツが出てくる。実際は一度ドイツを離れてから、イタリア巡歴中に遠路をおしてベルリンにもどった。そしてベルリン郊外ダンドルフの精神病院へ行った。
 プロフェッサー・シュスターに会うためだった。彼から「アルツハイメル氏病」について、くわしく聞いた。ふつう、ブラウスラウ大学教授アロイス・アルツハイマーの発見といわれているが、ダルドルフのシュスター氏が早々と病理解剖をしていた。
 (中 略)
 その臨床報告によると、ある女教師だが、読むこと、書くことができなくなり、何をいっても定まった一語しか発しない。この病は四十五歳から五十五歳に発病して、確実に進行する。西川義方はつけ加えている。「氏によると本病の病理は特定せる局所がない。浸潤もなく又滲出もない」。
 経過は短く、おおかたは数年にして死亡する。数カ月の短い経過で終わったケースもある。
 パリに着くと大使館員より封書を手渡された。入沢侍医長よりの電報が封じ手あった。
「至急御帰朝相成度ー」
 ただちに旅装をととのえ、シベリア鉄道経由で帰国。十二月五日、下関。翌日、葉山着。同月大正天皇没。四十七歳だった。

 内科医の百科辞書ともいえる大著をものにした西川義方も、大正天皇の病を治すことは、かなわなかった。

 西川は、『温泉と健康』という、四百頁、図版が四百五十あまりという本も著している。日本の温泉は、妻と二人で訪れ、「共著たるべきもの」をつくるつもりだったという。
 昭和六年(1931)、妻を病で失った。『温泉と健康』の序に、いかにも明治人間の語彙で、ともあれ青年のような初々しさで述べている。
「一時は、こいしさ、なつかしさ、かなしさ、やる瀬なさの涙に金泥にして、紺紙に写経でもものして、悶々の情を医(いや)さんとも考えた」
 だが、せっかく妻と二人して集めた資料である。約束を果たしてやらなくてはかわいそうだ。「夢見る人の心で、ある時はうれしく、なつかしく、またある時は狂おしく迸る心に鞭をあてて」、ペンを走らせたという。

最後に、大正天皇の微笑ましいお話を。

 宮中には独特の言い方があって、日常の食べ物でも名前がちがう。西川義方は、お得意の図表形式で品目と特別の呼び名の一覧をつくっているが、たとえば葱は「ひともじ」、ソバは「そもじ」、エビは「えもじ」、タコは「たもじ」、タイは「おひら」、イワシは「おむら」。
 大正天皇が元気なころ、京都府舞鶴に赴いたことがあった。大森という知事が説明役で近くの水産講習所に話が及んだ際、知事は「おむら」を知っているかとたずねられた。
「水産講習所を建てながら、魚の名のおむらも知らぬとは」
 と天皇は笑った。
 そのあと天橋立で網を引くと、大量のイワシがかかった。知事が水産講習所長に「おむら」のことをたずねると、所長は首をひねった。専門家も知らぬ魚を、知事が承知していなくてもやむをえないー。一件を紹介したあと西川義方は書いている。「大森はずるいぞ」といって天皇は大いに笑った。
 休憩のあと成相山登山が予定に入っていた。二十町の急坂に先導役の肥っちょ知事があえいでいる。痩せ形の天皇が声をかけた。
「大森、押してやろうか」
 その人が日々、休息に衰えていく。
  
 大正天皇のお人柄が伝わる、逸話。

 この部分前半の“宮中の符牒”の、葱が「ひともじ」で、つい、落語の『たらちね』を思い出してしまった。

 昭和四十三年に八十八歳で亡くなった西川義方という医者の存在を、この本で初めて知ることができた。

 本書からは、あと二、三人、異才をご紹介するつもり。

 ところで、この本の題、「二列目の人生」は、葉室麟作品の主人公と相通じるものがあるような気がしていた。
 葉室麟は、歴史上の人物を題材にする場合、いわば“一列目”で名の通った人はほとんど選ばない。
 そんな気がしながら、この記事を書いていた。
 まだまだ書いて欲しかったなぁ。


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# by kogotokoubei | 2017-12-25 23:45 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

今年のマイベスト十席。

 一昨日は、落語愛好家仲間と、リーダー佐平次さんの地元、桜新町の「一(はじめ)」で忘年会。

 楽しかったなぁ。

 つい、調子に乗って私の“なんちゃって落語”で『井戸の茶碗』をご披露。
 記憶が飛んでいるが、なんとかサゲまで辿りつけていたようだ^^

 少し早いが、来週は寄席・落語会に行けそうにないので、恒例(?)の今年のマイベスト十席をご紹介。

 今年は、月二回に少し足らない寄席・落語会通いだった。

 いろいろ野暮用があることに加え、プロの落語評論家でもないし、月に四、五回通うのは、少し多すぎだと思うようになった。

 「野暮用」については、そのうち書こうと思っているが、二年前の還暦の時、そして今年62歳になり、仕事や生活の環境は大きく変わっている。
 自分なりに充実はしており、結構、忙しいのである。

 数は少ないものの、その中から、マイベスト十席および特別賞候補となった高座は、次の通り。
 

2017年 今年のマイベスト十席候補など

(1)三遊亭円馬『ふぐ鍋』
>新宿末広亭 1月下席 夜の部 1月30日

(2)春雨や雷蔵『権助提灯』
>新宿末広亭 1月下席 夜の部 1月30日
*寄席の逸品賞候補

(3)むかし家今松『品川心中-通し-』
>むかし家今松独演会 関内ホール(小ホール) 2月21日

(4)古今亭志ん吉『明烏』
>魅せる!はなしか三人集 横浜にぎわい座(のげシャーレ) 2月26日
*新人賞(or敢闘賞)候補

(5)柳家小はん『馬のす』
>新宿末広亭 3月中席 昼の部 3月16日
*寄席の逸品賞候補

(6)柳家小里ん『山崎屋』

>新宿末広亭 3月中席 昼の部 3月16日

(7)柳家小満ん『味噌蔵』
>柳家小満んの会 関内ホール(小ホール) 3月21日

(8)金原亭伯楽『長屋の花見』
>新宿末広亭 4月上席 昼の部 4月9日
*寄席の逸品賞候補

(9)三遊亭歌之介『母ちゃんのアンカ』他
>新宿末広亭 4月下席 夜の部 4月29日
*特別賞候補

(10)古今亭菊丸『中村仲蔵』
>菊丸・福治二人会 池袋演芸場 5月26日

(11)立川談四楼『人情八百屋』
>立川流落語会 国立演芸場 5月28日

(12)春風亭一之輔『蛙茶番』
>新宿末広亭 6月上席 夜の部 6月7日

(13)むかし家今松『お若伊之助』
(14)むかし家今松『笠碁』
>ざま昼席落語会 ハーモニーホール座間 6月10日

(15)柳家小満ん『王子の幇間』
(16)柳家小満ん『湯屋番』
>柳家小満んの会 関内ホール(小ホール) 7月18日

(17)古今亭志ん輔『三枚起請』
(18)立川龍志『酢豆腐』
>龍志・志ん輔二人会 国立演芸場 7月30日

(19)柳家小のぶ『へっつい幽霊』
>納涼四景 浅草見番 8月4日

(20)入船亭扇遊『夢の酒』
(21)入船亭扇遊『青菜』
>熱海の夜 入船亭扇遊独演会 内幸町ホール 8月22日

(22)三笑亭可龍『宗論』
>三代目桂小南襲名披露興行 新宿末広亭 9月28日
*寄席の逸品賞候補として

(23)古今亭志ん五『出目金』
>二代目古今亭志ん五真打昇進襲名披露興行 浅草演芸ホール 10月15日

(24)柳家さん喬『ちりとてちん』
>東雲寺寄席 さん喬・新治二人会 11月5日

(25)柳家小満ん『お直し』
>柳家小満んの会 吉野町市民プラザ 11月20日

(26)三遊亭歌司『長短』
>二代立花家橘之助襲名披露興行 12月1日 池袋演芸場
*寄席の逸品賞候補として

(27)二代立花家橘之助『浮世節』
>二代立花家橘之助襲名披露興行 12月1日 池袋演芸場

 まずは、寄席の逸品賞を上期と下期で一つづつ選びたい。

◇寄席の逸品賞:上期
柳家小はん『馬のす』
>新宿末広亭 3月中席 昼の部 3月16日
2017年3月17日のブログ
<馬の毛を抜くと「大変なことになる」という理由を知りたい相手をじらしながら、酒を二合じっくり飲み、枝豆を美味そうに食べる勝ちゃんの姿に、喉が鳴ったなぁ。三木助と小さんの二人の師匠に鍛えられた、喜寿を迎えた噺家さんは、いぶし銀の魅力がたっぷり>

◇寄席の逸品賞:下期
三笑亭可龍『宗論』
>三代目桂小南襲名披露興行 新宿末広亭 9月28日
2017年10月1日のブログ
<来年四十路となる可龍は、見た目よりも江戸の香りがする。私の好きな若手の一人。たまに披露する寄席の踊りにも、年齢に似合わぬ昭和の空気を漂わせてくれる。現役でこの噺では、春風亭正朝とこの人が図抜けていると思う。小三治は、別格。小南襲名披露興行で演じた十八番の高座が、実に良かった>

 さて、次に若手二ツ目対象に、敢闘賞の発表。
  
◇敢闘賞
古今亭志ん吉『明烏』
>魅せる!はなしか三人集 横浜にぎわい座(のげシャーレ) 2月26日
2017年2月27日のブログ
<横浜にぎわい座の地下秘密倶楽部“のげシャーレ”での高座は、強く印象に残った。45分の長講だったことを終わってから気づいたのだが、まったく長く感じさせなかったなぁ。NHK新人落語大賞での『紙入れ』に関する審査員の採点結果は低かったが、私はあの高座もそんなに悪くなかったと思っている。時次郎の科白での独自のクスグリにもセンスの良さを感じた。入門から十年以内なら、2010年の一之輔以来の最優秀新人賞とするのだが、今年で入門から十一年になるので、敢闘賞としたい>

 もう一つ、特別賞。
 師匠円歌が亡くなって六日後の末広亭夜の部、同郷の白酒の代バネで主任を務めた歌之介の高座が、印象深い。

◇泣けたで賞
三遊亭歌之介『B型人間』『母ちゃんのアンカ』&師匠の思い出
>新宿末広亭 4月下席 夜の部 4月29日
2017年4月30日のブログ
<「泣けた」のは、あくまで歌之介本人のこと。冒頭「なんとか普通の姿になって」きたと言っていたが、まだ一週間も経っていない。「普通に」と自分自身に言い聞かせていたのだろう。しばらく、師匠円歌の思い出話が続き、途中からネタの『B型人間』になり、次に『母ちゃんのアンカ』に変わって、小学生の頃、父親と離婚して苦労した母親のことを語り出してから歌之介の目が赤くなってなり、潤んできた。ネタなのか、思い出なのか判然としない内容になっていく。しかし、客席も歌之介の心中を察し、分かっているのだ。
 十八歳で円歌に入門しているから、きっと彼にとっては、父親代わりだったと思う。
 ついつい、師匠のことが走馬灯のように脳裏に浮かんできたのだろう。
 爆笑落語で会場をドッカンドッカンとひっくり返す姿ばかり見てきた者としては、なおさら、彼のこの高座が印象深い>

 さて、いよいよ今年のマイベスト十席。

 例年のように、同じ噺家さんの高座を複数選ばないルールにしているので、まず候補に複数上がった人の高座から一席に絞る。

柳家小満んは、関内と吉野町の独演会から四席が候補となっている。
『味噌蔵』(3月21日)
『王子の幇間』(7月18日)
『湯屋番』(7月18日)
『お直し』(11月20日)

 この中から一席に絞るのは、結構難しい。
 ハロー効果で、一番最近聴いた『お直し』も捨てがたいし、7月の『王子の幇間』と『湯屋番』の二席も、そしてあの『味噌蔵』も良かったからねぇ。

 悩みに悩んで、『王子の幇間』にしよう。

 次に、むかし家今松。
 2月21日の関内ホールでの独演会における『品川心中-通し-』と、6月10日ざま昼席落語会の『お若伊之助』と『笠碁』の中からは、『品川心中-通し-』を選ぶ。

 入船亭扇遊は、8月の独演会の『夢の酒』と『青菜』の二席から、『夢の酒』にする。

 ということで、今年のマイベスト十席を発表。

171.png2017年のマイベスト十席171.png

三遊亭円馬『ふぐ鍋』
>新宿末広亭 1月下席 夜の部 1月30日
2017年1月31日のブログ
<鍋から湯気が見えたなぁ。主人と幇間の繁が、おそるおそる鍋のフグの身を口に入れようかどうしようかと、相手の様子を探りながら苦闘する場面の表情は出色だった。芸協の将来を背負って立つ人であることは間違いがない>

むかし家今松『品川心中-通し-』
>むかし家今松独演会 関内ホール(小ホール) 2月21日
2017年2月22日のブログ
<小満んを思わせる粋なマクラからの50分を超える長講が、まったくダレることがなかった。人物描写が見事で、なかでも、おそめが生き生きとしており、今松が、これほど女性を巧みに描くのか、と再発見。後半の金造とおそめの会話も、なんとも楽しい。この噺の通しは、なかなか聴くことはできないことも考えると、とんでもない高座に巡り合ったのだろう、と思う>

柳家小里ん『山崎屋』
>新宿末広亭 3月中席 昼の部 3月16日
2017年3月17日のブログ
<この会の記事でも紹介したが、山田洋次はこの噺について“あっぱれな親不孝『山崎屋』”と題したエッセイで、「つまり、山崎屋の若旦那とその父親は、両方とも民衆の心の中に矛盾しながら生きて」いて、「人間の意識をそのようにとらえて物語にして見せるところに、落語というリアリズム芸術の近代性があるのだ」と書いている。小里んの高座は、ネタの持つ魅力を、父と子、番頭を中心に十二分に引き出してくれた>

古今亭菊丸『中村仲蔵』
>菊丸・福治二人会 池袋演芸場 5月26日
2017年5月27日のブログ
<最後の二人会に初めて行ったことによる、僥倖と言える高座。八代目正蔵の型を踏まえているが、ところどころは設定が違ったが、それはまったく悪い影響を及ぼしていない。一人一人の人物がしっかり描かれていたが、なかでも、仲蔵を健気に支える女房おきしが良い。この人が演じる女性の、なんとも艶っぽいこと。ベテラン落語愛好家の間で評価の高い人による名高座に、ようやく出会えた、という印象だ>

春風亭一之輔『蛙茶番』
>新宿末広亭 6月上席 夜の部 6月7日
2017年6月9日のブログ
<この高座は、昼夜居続けの夜のトリだから、ほぼ9時間聴いた中の、最後ということになる。戦中に禁演落語五十三席の一つとして、はなし塚に葬られた艶笑落語なのだが、客席の笑い声は、女性の方が大きかった。この人ならではのクスグリも秀逸な、寄席大好きな若手筆頭株による出色の高座。この一年でもっとも笑った高座だ。こういう噺を、下品にせず爆笑ネタに仕上げる力量は、やはり大したもの>

柳家小満ん『王子の幇間』
>柳家小満んの会 関内ホール(小ホール) 7月18日
2017年7月19日のブログ
<最初の師匠文楽譲りのネタを見事に演じた。口の悪さで知られた幇間の平助が、大店の主人たちによる出入り止めさせる策略に遭遇する噺だが、前半の平助の辛口お愛想が絶妙。女中に「その帯、雑巾をうまくつなぎましたね」などと言って泣かせる。サゲは師匠の型の後に上方版(二代目、三代目染丸)をブレンドする工夫も良かった>

立川龍志『酢豆腐』
>龍志・志ん輔二人会 国立演芸場 7月30日
2017年7月31日のブログ
<この噺は、①町内の若い衆たちの酒の肴の算段②半公への策略③伊勢屋の若旦那の奮闘、という大きく三つの場面があり、登場人物も多いから、そう簡単なネタではない。過去の名演も文楽、志ん朝にほぼ限られると思うのは、ネタの難しさ故だろう。だから、柳家のみならず、東京でも、より構成がシンプルな『ちりとてちん』を演じる人が多いのだと思う。しかし、龍志の高座は、前半の若い衆の造形から最後まで、このネタの持ち味をふんだんに引き出す好演。今、立川流で聴きたいと思うのは、この人と談四楼、そして未見の左談次かな>

柳家小のぶ『へっつい幽霊』
>納涼四景 浅草見番 8月4日
2017年8月5日のブログ
<いくつか型があるが、熊(と思しき)男が、博打で儲かったと喜んでいる場面から始まるというのは、初めて聴いた。とにかく、左官の半次の幽霊が楽しい。手を陰に下げて、ぶらぶら振る様子が、今でも目に焼き付いている。熊が「うらめしー、なんてぇことはねぇじゃねえか」と言うのに半次が「これは、幽霊の枕詞でして」などのクスグリも可笑しく、“幻の噺家”が、幽霊の半次と一緒に娑婆に現れた、という嬉しい驚きの高座>

入船亭扇遊『夢の酒』
>熱海の夜 入船亭扇遊独演会 内幸町ホール 8月22日
2017年8月23日のブログ
<ご旅行で行けなくなっF女史からいただいた手作りの会に、なんとか行くことができ、珠玉の十八番ネタの高座を堪能。若旦那とのやりとりで、女房お花に次第に怒りが募る様子を、絶妙な表情の変化で描く。そのお花と向島の女とを、「同じ演者か?!」、と思うほどに見事に演じ分ける。大旦那が、普段は大旦那が酒を飲むと嫌な顔をする若旦那が向島で酒を飲んだと知り、「えっ、こいつが・・・酒を・・・こういう奴なんです」の科白の間も絶妙で、その可笑しさは、譬えようがない。この噺では当代の噺家で随一だと思う>

二代立花家橘之助『浮世節』
>二代立花家橘之助襲名披露興行 12月1日 池袋演芸場
2017年12月2日のブログ
<先日二十日の国立演芸場まで続いた五十日連続興行の三十一日目、池袋の初日に行くことができた。三味線と唄の芸は次の三作。①浮世節(「かんちろりん」)②吹き寄せ③たぬき、だったが、初代の代名詞でもあった「たぬき」は圧巻で、10分以上の大作だった。一作目は、師匠圓歌が「こういうのがある」と教えてくれたらしく、「きっと、芸者さんの膝枕で聴いたんでしょう」の言葉にも亡き師匠への思い入れを感じた。初代が得意とした「吹き寄せ」とはどういうものかを説明して演じてくれた。私はそれほど小唄や長唄に詳しくないが、その味わい、おもしろさは、分かった。口上で、歌司の師匠の思い出の話を聞き、橘之助の目にうっすらと光るものがあったのが、印象的だ。五十日連続興行という披露目全体への評価も含めて、選んだ次第>

 なんとか、今年もこの記事を書くことができた。
 
 来年は、どんな一期一会に出会えることやら。
 寄席には今年より行きたいなぁ。
 できるだけ、まだ聴いたことのない人や、若手の成長株の高座にも行きたいと思っている。

 長い記事へのお付き合い、誠にありがとうございます。

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# by kogotokoubei | 2017-12-24 22:27 | 寄席・落語会 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛