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噺の話

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 これは、16日に開催された横浜での柳家小満んの会の千秋楽でいただいた、「全百五十回 演目控え」の表紙だ。

 これが、最初のページ。
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 内容をエクセルにしてみた。

 これが、その表の抜粋。

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 毎回三席、計450席のうち、どれほど重複があるか、数えてみた。

 なんと、開始から十七年後の平成23年五月、第104回の『猫の災難』まで、重複なし。
 
 隔月開催で、連続三百席以上も、違うネタを演じ続けていた、ということになる。

 その後は、さすがに演じていないネタは少なくなり、全百五十回で、重複した噺の合計は77席あるが、それにしても450席から77を引いて、373席もの演目を演じてきたことになる・・・・・・。

 私がこの会に最初に行ったのは、平成26年七月の第123回。
 会の存在は知っていたが、強く動機づけられたのは、佐平次さんからのお勧めだった。
 初めて聴く『有馬のおふじ』を堪能。
2014年7月18日のブログ

 その次の九月の124回では、文楽譲りの絶品『寝床』に酔った。

 そして、佐平次さんが事前の散歩で目をつけていたお店、団欒での最初の居残り会は、その夜のことだった。
2014年9月27日のブログ

 懐かしいなぁ。

あらためて私が行けた回は、次の通り。

第123回 平成26(2014)年7月
第124回 平成26(2014)年9月
第125回 平成26(2014)年11月
第126回 平成27(2015)年3月
第127回 平成27(2015)年5月
第128回 平成27(2015)年7月
第129回 平成27(2015)年9月
第130回 平成27(2015)年11月
第131回 平成28(2016)年1月
第132回 平成28(2016)年3月
第133回 平成28(2016)年5月
第134回 平成28(2016)年7月
第135回 平成28(2016)年9月
第136回 平成28(2016)年11月
第137回 平成29(2017)年1月
第138回 平成29(2017)年3月

 ここまでは、16回、皆勤だった。
 その後。

第140回 平成29(2017)年7月
第142回 平成29(2017)年11月
第145回 平成30(2018)5月
第149回 平成31(2019)年1月
第150回 平成31(2019)年3月

 平成29年11月第142回から翌年11月の148回まで、関内ホールが改装のため会場が吉野町市民プラザに移ったので、やはり行きにくくなった。

 ということで、通算21回、通ったことになる。

 いただいた演目控えを見ても、また、自分のブログを読んでも、それぞれの高座が脳裏に蘇る。 

 この会は、関内ホールが相応しく、だからこそ、落語会とすぐ近くの常盤町にある団欒での居残り会が、強く結びついて記憶にある。

 居残り会は、いろんな噺家さんの会の後で開かれてきたが、関内小満んの会後の団欒での会は、特別なものだった。

 昨年の忘年会も今年の新年会も、落語会がない場合でも、最近では団欒で居残り会が開催されるようになった。

 昨年、団欒のご主人が病気から快復されてお店が再開されてから、なおさら特別の思いで開催されている。

 そのご縁も、お店から徒歩五分の小満んの会との縁だったことを、あらためて感じる。

 二十五年に渡り四百席近い演目を披露してきた柳家小満んという噺家さんと、関内で四十年続く老舗への思いは深く結びついている。

 四百五十席の演目を眺めて、その高座とその後の旨い酒、楽しい会話を思い出す。
# by kogotokoubei | 2019-03-19 21:18 | 落語家 | Comments(4)
 オスカー受賞作の『グリーンブック』を桜木町の映画館で観てから関内へ。
 ホールに着いた時は、まだ涙が乾いていなかったかもしれない。

 二十五年間続いた関内の小満んの会が、百五十回をもって千秋楽。

 土曜の午後の開催ということもあり、関内ホールの小ホールは、七割ほどの入り。

 これまで半分も入ったことのない会だったので、ロビーのモニターを見て、「毎回、最終回と言って続けてくれないかな・・・・・・」などと思っていた。

 受付でこれまでの全演目一覧をいただく。
 なんとも幅広いネタを演じられてきたことか。

 久しぶりに師匠の奥様もいらっしゃった。
 どこか、すっきりした笑顔でお客さんを迎えていた。
 
 会場に入ると、お誘いしたOさんのお隣が空いていたので、そこに落ち着く。

 出演順に感想などを記す。
 なお、今回は、記録としては、師匠という敬称は省略するが、後半は、どうしても呼び捨てにはできないので、表記が混在すること、ご容赦のほどを。

柳家り助『二人旅』 (12分 *14:00~)
 初。協会のHPを見ると海舟の弟子のようだが、四年前に真打に昇進した人が、もう弟子をとっていたんだ。
 噺家らしい見た目。印象は悪くない。
 それにしても、この噺は、いわゆる放送禁止用語たっぷりだなぁ、と思いながら聞いていた。「いざり」「おし」「つんぼ」などが続々登場^^
 もはや、落語以外では聞かれない言葉になりつつある。
 その言葉を発することが差別、という風習、なんとかならないものだろうか。

柳家小満ん『長屋の花見』 (23分)
 短いマクラから本編へ。
 二人目の師匠小さん型が基本だが、ところどころに独自性があった。
 大家の花見の誘いを受けた戸無し長屋の一行。
 「どうする、上野の山へ行くかい」と問われたお調子者が「行くとも、上野の山でも、カムチャッカでも」というクスグリは、小さん譲り。
 終演後の居残り会で、「あそこは、他の場所じゃだめで、カムチャッカしかないなぁ」と皆が同意^^
 月番が幹事役に立候補するというのは、小満んの工夫か。
 幹事役として何か目印にという話題に「サイダーの口金でも」で笑った。
 卵焼き(たくわん)と蒲鉾(大根のこうこ)の器は「切り溜め」。
 最初はピンとこなかったが、切った野菜などを入れる木箱のことだから、箱膳やお重と言わず、切り溜めのほうが、貧乏花見には相応しいわけだ。
 「甘茶でかっぽれ、番茶でさっぱり」などとぶつぶつ言いながらの、ご一行の宴会の様子が目に浮かぶ。いったん飲んだお茶けを吐きだす者や、「大家さん、最近では練馬のカマボコ畑も少なくなって」なんて言い出す者など、このネタのなんとも言えない可笑しさが描かれる。
 「大家さん、酒柱が立った」でサゲ。まさに、軽妙洒脱と言える好高座。

柳家小満ん『狸の鯉』 (21分)
 すぐに高座に引き返して、二席目。
 『狸』の噺には、「札」「賽」「釜」「鯉」と四話あるが、この日は今では珍しいネタ。
 とはいえ、狸の「札」もあって、長寿庵の蕎麦代を払って、逃げてくる。
 兄貴分の子供の初節句の祝いにと、次に狸が鯉に変身。
 兄貴分が、鯉こく、あらいにして食おうと言うのを聞いて怖がる狸の姿が可笑しい。
 師匠小さんが説く「狸の気持ち」になっての佳品。


 仲入りとなって、師匠の奥さんに、この日の私の企み(?)を明かす。
 それは、『小満んのご馳走』という本を持参していて、ぜひ、この本に何か書いていただきたかったのである。
 「これに何か書いていただきたいのですが」と奥さんにお聞きすると、私の肩を掻いて「かいてあげる」と笑う。
 さすが、噺家の女房^^
 終演後に直接頼んでみますね、と言うと、「そうしな!」と優しい笑顔が答えていた。
 
柳家小満ん『らくだ』 (44分 *~15:56)
 小満ん落語の醍醐味は、まず、受けを狙ったあざといクスグリなどはないこと。たとえば、それは一席目の『長屋の花見』で言うなら、今では多くの噺家が挟む「長屋中 歯を食いしばる 花見かな」という三代目蝶花楼馬楽の専売特許(?)とも言える句を、小満んは加えない。ご自身でも俳句たしなみ、川柳にも造詣が深いから、あえて、人様の句を借りることもない、とも言えるが、風潮などには背を向ける姿勢を感じる。
 また、ネタの本来の味わいとして、あるいは、演出上で、割愛しても良いと思われる部分は大胆にカットするところも、特徴だろう。
 この高座では、屑屋長さんがらくだの兄貴分に言われ、長屋の月番に出向いて香典を頼む場面を割愛。また、らくだの頭を剃る場も短く、あっと言う間につるつるにしている。
 あの場面は、剃刀で剃るにしても、毛を抜くにしても、あまり聴いていて気持ちの良いシーンとはいえない。そのへんは、品を大事にする小満んらしさか。
 とはいえ、あの場面は、毛を毟る志ん生の演出には、この噺の奥の深さを思わせる面もあるのだが、それについては、別の機会に書くとしよう。
 この高座で初めて聴いたのは、らくだの火葬代の稼ぎ方。
 長さんの知り合いの隠亡がいる落合の火屋に連れて行くことになったが、その隠亡への手間賃を、らくだの兄貴分が、質屋の奥で賭場が開かれているのを知っていて、それをネタに強請って二両巻き上げるというのは、初めて聴いた。
 その二両をまるまる、隠亡に渡すところは、江戸っ子!
 そういった筋書きの妙もあったが、やはり圧巻は、屑屋と兄貴分の主客逆転の場面だ。
 大家がカンカンノウに怯えてもって来た、まあまあの酒を兄貴分が屑屋に「かけつけ三杯だ」と飲ませようとして、屑屋が「勧め上手だねぇ」と言うあたりから、逆転が始まる。
 長さんの科白。「できるときは、やったほうがいいね。どれほど金があっても、高みの見物・・・俺だって、見てられねぇ性分だからねぇ・・・」
 その三杯目を飲み干して、煮しめを食べた後の屑屋の「なぁ、兄弟!」も効果的。
 四杯目に、らくだが「絵を買って欲しい」と言って背中の彫り物を見せたことを思い出す時分には、完全に屑屋が上だ。
 サゲの願人坊主の絶叫まで、堪能した。
 二十五年、百五十回を締める絶品の高座、今年のマイベスト十席候補であるのは当然である。

 さて、終演。

 大事な仕事(?)が、残っている。
 いつものように、お客様を見送る小満ん師匠の姿を見ながら、最後のお見送りが済んだと思しき頃、『小満のご馳走』を手に、お声をかけた。

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「東京かわら版」サイトの該当ページ
 この本は、発行直後にこの会で「東京かわら版」の方が販売していたのを入手したのだった。

 読後、二回記事にしている。
2015年7月24日のブログ
2015年7月25日のブログ

 さて、私にとって、初めての試み。こんなにミーハーになるとは^^

 師匠に声をおかけした。
 「ぜひ、この本に何か書いていただけますか。師匠は、大好きな堀口大學さんからは、書いていただけなかったようですが」と切り出すと、「そうですか、では、大學さんに代わって。」と笑顔で、私が差し出した筆ペンで、ささっと、大學の詩を書いてくださったのである。

 その本に、こう師匠は書かれている。
 
堀口大學は私にとって、運命であり、母校である。そんな風に感じている。

 そんな師匠のある思い出。

 叙勲の際にとある会で逢えるかもしれないチャンスがあって、この時、羽織を持っていった。

 「エロスの技法」
 “お手(てて)で口説くのよ”

 間が良ければ、このフレーズを書いてもらおうと思って持っていったが、いらっしゃらなかった・・・・・・。私はほとんど、こういうことをしたことがなかったけれど、この時だけは特別な気持ちだった。

 私もほとんどこんなことをしたことはなかった。
 でも、師匠は願いを叶えてくれて

 
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 「お手ゝで 口説くのよ」 大学様に代って

 としたためていただいたのだ。

 さて、心も躍る宝物を頂戴した後は、居残り会。
 師匠に書いていただく間、お待ちいただいた居残り会仲間の方と、関内で四十年の老舗、団欒へ。

 本来はお休みのところを開けていただき、落語会を聴いた佐平次さん、I女史、Oさんと私のよったりに、近くでお芝居をご覧になった後にお越しのM女史、そして、Nさんも合流。

 お任せでご用意いただいた刺身も他の肴も、いつものように絶品、小満ん落語のことや、さまざまな話題も、これまた絶品。男山の燗の具合も、絶品。
 他にどんな話題が飛び出していたのやら、半ば記憶は飛んでいるが、あっと言う間に三時間余りが経つ。

 帰り際、Nさんからはお菓子のお土産をいただき、団欒のご主人からは手拭を頂戴した。

 そして、何より、小満ん師匠からいただいた、宝物を大事に持って帰宅し、最良の一日が暮れたのであった。

 さて、お江戸日本橋亭の会は、元々、本牧亭で始まった独演会の流れのある、四十年を超える歴史のある会で、そちらは継続されるとのこと。

 あちらへ行かなきゃならないなぁ、これからは。

 そして、団欒へは、落語会とは関係なく宴会を企画し、皆さんをお誘いしようと思っている。

 関内の千秋楽で、いい思い出をつくっていただいた。

 小満ん師匠、ありがとうございます。


# by kogotokoubei | 2019-03-18 12:25 | 寄席・落語会 | Comments(4)

 昨日は、二十五年続いてきた横浜の柳家小満んの会が、百五十回にて最終回。

 
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 終演後、師匠にお願いして、著作の表紙裏に、こんな素敵な言葉を書いていただきました。
 私のガラケーのせいと、撮影が下手なのでボケておりますが、これは、宝物になります。

 この内容や、落語会、そして居残り会については、次の記事にて!
# by kogotokoubei | 2019-03-17 09:35 | 落語家 | Comments(5)
 落語・演芸評論家の川戸貞吉さんの訃報に接した。
 
 サンスポから。
サンケイスポーツの該当記事

2019.3.12.05:00
演芸評論家の川戸貞吉氏が死去、「現代落語家論」など著書多数

 演芸評論家の川戸貞吉(かわど・さだきち)氏が11日午前11時55分、直腸がんのため東京都杉並区の自宅で死去、81歳。横浜市出身。通夜は13日午後6時から、葬儀・告別式は14日午前9時半から杉並区和泉3の8の35、龍光寺大師堂で。喪主は妻、恵子(けいこ)さん。早大の落語研究会で活動し、1961年にアナウンサーとしてラジオ東京(現TBS)に入社。ディレクターに転身後は数々の落語番組を制作。学生時代から立川談志さん、五代目三遊亭円楽さんらと交流し、五代目柳家小さんさんにも目をかけられた。「現代落語家論」「落語大百科」など著書多数。

 多数の著作があるが、代表作はこの記事でも挙げている『現代落語家論』だろう。

 私も、何度か記事で引用させてもらっている。
 五代目小さんの十三回忌追善落語会が開かれていた頃に書いた記事で、川戸さんのこの本から、他の人の著作では知りえない逸話を引用した。

 重複するが、あらためで紹介したい。
2014年5月14日のブログ

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 川戸さんは、早稲田の落研時代から当時の小ゑん(談志)や全生(五代目円楽)と懇意になり、TBS入局後に、今につながる落語研究会の再開を企画した人。

 本書は昭和53年五5月10日初版発行なので、あの落語協会分裂騒動の直前。よって、著者は翌年早々に『新現代落語家論』を書くことになる。

 さて、上下二巻のうち下巻にある小さんの章からの引用。

 不精な私だが、『落語日記』と称して、落語に関する日記だけは、つけてきた。この日記から、小さんの芸談を、少し拾い出してみよう。

 昭和四十二年十月三日
 夜、イイノホールへ行く。楽屋では正蔵・小さん両師のやりとりが印象に残った。
 小さんが正蔵に、いろいろと聞いている。まず朴炭(ほおずみ)のこと。『湯屋番』に出ているという。
「家の愚妻さんも使っているよ。四代目(四代目小さんのこと)も使っていた」
 と、、正蔵がいう。
 朴炭は朴の木の炭で、それでこすると、たいへんすべすべするそうだ。
「垢すりも近頃は使わなくなったねェ」
「昔は三助が使ったが」
 と、しばらく雑談。
『湯屋番』は小さんの十八番といわれているのに、まだ調べている。頭が下がる。
 (中 略)
 この夜の小さんの演しものは『王子の狐』。

 稲荷町と目白の楽屋話、なんともいい感じだ。
 横で聞いていた人が羨ましい。しかし、誰にでも話すようなことではない。
 やはり、川戸さんが小さんや正蔵が心を許して話せる相手だった、ということだろう。

 日記の紹介を続ける。
 
十月八日
 夜、小さん師と飲む。『王子の狐』について話を聞いた。前座・二ツ目時代に八代目文治から教わったもので、ずっとオクラにしていたという。
「久々此間(こないだ)演ったが、もう忘れちゃったよ」
 そういってケラケラ笑った。
 四代目小さんは、狐をだます人間を二人連れにして演っていたという。『そのほうが演りやすいから』という理由からであった。
「なるほどそのほうが演りやすいやね」

 今まで『王子の狐』で二人連れで狐をだます噺は聞いたことがないが、なるほど面白いかもしれないなぁ。

 この師匠四代目小さんにまつわる逸話を、昭和四十八年三月二十二日の日記の、小さんの会話の途中からご紹介。

「とにかく昭和の名人というと、五代目円生、三語楼、四代目小さん、八代目文治だな。文楽師匠は、まだそのあとだよ。あたしも三語楼の噺を聞いて噺家になろうと思ったんだから。そりゃァ素人のときは、三語楼を追いかけたもんだ」
 それから話は、自分の師匠四代目小さんのことに移った。
「うちの師匠は本当に上手かった。でも、うちの師匠の本当のよさをわからねえ奴が、大勢いたね。あの小勝(五代目小勝)だってそのうちのひとり、それから正岡容。
 その人が、うちの師匠のことを悪くいったんだ。『志ん生の代わりに四代目が出たが、あれじゃァ代演にならない。志ん生の代わりに小さんなんて・・・・・・』等と書いたんだな。いまにして思うと、これはセコだとかなんとかいうんじゃァない。芸風が違うから代演にならないという意味なんだろうけれど、なにしろこっちゃァ若かったからねェ、浅草のほうの鳶の鳶頭(かしら)が見せてくれたんだが、『うちの師匠のことをこんなに悪くいうなんて』と思ったら、体がぶるぶる震えてきたね。『よーし、あの野郎明日ぶん殴りに行ってやる』と思ったン。『そうだそうだ』なんて、鳶頭もこっちを煽るしね。本当に行こうと思ったン。
 ところが、その晩に赤紙がきて、こっちは軍隊に連れてかれちゃったァ。いまから考えると、殴らなくていいことしたよ」
 本当だ。もしこのとき殴っていたら、おそらく大騒動になっていたに違いない。
 もし、小さんが正岡宅に殴りこみに行っていたら五代目を継ぐこともできなかったかもしれない。

 学生時代からの談志との縁、そして、テレビ局の演芸担当としての仕事柄もあるだろうが、昭和の落語家との交流の幅広さや深さ、という点においては、この人を超える人はいなかったのではなかろうか。

 昭和の名人たちの得がたい逸話で、川戸さんの著作からしか知ることができないものは少なくない。
 
 たとえば、『現代落語家論』から、志ん朝の二ツ目時代の奮闘ぶりを紹介したことがある。
2011年10月1日のブログ

 実に貴重な記録でもある。川戸さんしか書けない内容だと思う。


 また、学生の頃から集めはじめた高座の録音テープも有名。自身が担当したTBSラジオの「早起き名人会」でも放送され、『席亭 立川談志の「ゆめの寄席」』などがCD化された。

 川戸さんのライブラリーに関しては、NHKラジオで、玉置宏さんが「早起き名人会」の音源を無断で使用したことが発覚し、川戸さんと玉置さん側でひと悶着あったが、落語愛好家としては、なんとも言えない残念な事件だった。

 小朝が書いた文章への抗議なども含め、やや、喧嘩っぱやい性格だったかもしれない。

 談志の著作では「貞やんを知らない奴は、(落語の世界の)モグリ」と書かれていたなぁ。

 昭和の落語家、落語界の語り部が、また一人旅立った。

 3月11日という命日は、忘れることはないだろう。


 家元が、「よっ、待ってました!」と迎えていたに違いない。

 川戸貞吉さんのご冥福をお祈りします。
# by kogotokoubei | 2019-03-13 12:27 | 落語評論 | Comments(2)
 時事的な内容は、兄弟ブログに引越したのだが、3.11から八年を迎えた今日、どうしても書いておきたいことがある。

 さまざまな角度から特別番組が組まれているが、重要な問題がおざなりになっているように思う。

 それは、原発事故による、甲状腺がん患者の増加に関する問題だ。

 検索しても、大手メディアのサイトでは、ここ最近ほとんど扱われていない。

 朝日が今年1月に掲載した記事は、福島県立医大の発表をそのまま扱い、原発事故との関連性を希薄化しようとしているような記事で、感心しない。
朝日新聞の該当記事

 真実は、もっぱら、他のサイトから確認することになる。

 なかでも、「福島原発事故の真実と放射能健康被害」のサイトが有益だ。
 昨年末更新された、甲状腺がん増加に関する詳細な記事を紹介する。
「福島原発事故の真実と放射能健康被害」のサイト


福島の甲状腺がん→現状で子供201人が発病!原発事故の現在と影響
更新日:2018年12月27日 公開日:2014年3月14日

2019年、福島原発事故の現状。それは子供達の甲状腺がんの多発を抜いて語ることはできません。

そこで今回は『福島原発事故と甲状腺癌』のカテゴリに属する7つの記事をまとめて5分で読めるようダイジェストでご紹介します。詳細な内容は各記事への青色のリンクをクリックすることで閲覧できます。

福島原発事故の現状…現在の状況がどうなってしまっているのか…

2018年9月5日に公表された最新の福島県民調査報告書によると、福島県の小児甲状腺がん及び疑いの子供達は、2か月半前…前回の198人から3人増えて合計201人になりました。

それから手術で良性結節だったことが確定し甲状腺がんではなかった1人も元々は、この甲状腺がん及び疑いにカウントされていましたから、この1人も数えれば甲状腺がん及び疑いは合計202人となります。

福島県の発表は甲状腺がんを、悪性…悪性とはがんのことですが『悪性ないし悪性の疑い』という言葉を使い、あたかも甲状腺がんでない子ども達もこの中に含まれているように書くことで、焦点をぼかしチェルノブイリ原発事故との比較を困難にしています。


しかし手術を終えた165人の中で、良性結節だったのはたった1人にすぎず、162人が乳頭癌、1人が低分化癌、1人がその他の甲状腺癌との診断です。

つまり手術を終えた165人中164人が小児甲状腺癌でした。

%表記にすれば『悪性ないし悪性の疑い』のうち99%は、小児甲状腺癌。

ですので疑いという言葉を過大評価して安心するのは危険です。

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この記事は現状、福島県で甲状腺癌と考えられる201人の子どもたちを市町村別、事故から病気発見までの経過年数別、男女別、事故当時の年齢別、地方別にそれぞれ分類して、チェルノブイリ原発事故や過去の日本や福島県のデータと比較しています。比較することで、現状の福島の小児甲状腺がん患者数が多いのか?少ないのか?放射能の影響はあるのか?ないのか?客観的に見ることができます。

なお混乱しやすい先行検査と本格検査の定義の解説もおこなっていますので初めて『福島の甲状腺がん問題』に接する方にも最適です。


 サイトから、他の記事もぜひご確認いただきたい。

 国は、甲状腺がんと原発事故との因果関係を認めようとしない。

 しかし、さまざまな事実、データなどを踏まえて、その因果関係は明らかではなかろうか。

 国策として原発を推進してきた国、そして、想定可能だった津波対策をないがしろにした東京電力は、甲状腺がん患者となった人々に対して、大きな責任を持っている。

 なぜ、「あれから八年」の番組で、甲状腺がんのことが避けられているのか・・・・・・。

 政府への忖度であったり、メディアの自主規制であるなら、これは、由々しき問題である。

# by kogotokoubei | 2019-03-11 21:36 | 今日は何の日 | Comments(7)
 先日、矢野誠一さんの『人生読本 落語版』から、いくつか記事を書いた。

 その中で、『唐茄子屋政談』など、若旦那が勘当されるネタについて、「久離」という言葉の由来について、矢野さんが三笑亭夢樂に、まんまとかつがれた、という逸話を紹介した。
2019年2月23日のブログ

 その際、夢樂のことをWikipediaで紹介したのだが、「永井荷風を通じて正岡容を知り、その紹介で、1949年3月に5代目古今亭今輔に入門」という説明に関し、どこで、夢樂と永井荷風がつながっていたのか不明、と書いていた。

 最近、ある本を再読していて、その糸口が見つかった。

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大西信行著『落語無頼語録』

 その本とは、大西信行さんの『落語無頼語録』。
 元は「話の特集」での連載で、昭和49年に芸術生活社から発行され、その二年後には角川文庫の一冊となった。
 私は、初版の単行本を読んでいたが、最近、古書店で文庫も手に入れ、再読していた。

 「可楽と夢樂」の章に、夢樂の入門場面に大西さんが偶然居合わせたことが書かれていたのだ。

 夢樂は可樂の弟子になる前、古今亭今輔の弟子で今夫といっていた。
 かれが落語家になるそもそもに、ぼくは偶然立合っている。
 思えば、あの場に居合わせていた人はみな死んでしまって、夢樂とぼくと二人だけになった。
 二十五年も前のことだ・・・・・・。
 市川の菅野というところに長唄の三味線弾きで杵家五叟という人がいた。戦後永井荷風がこの五叟の家に寄宿していて、荷風の没後に五叟の次男が荷風の著作権者になったりしているのだかで、荷風の縁戚なのだろう。その五叟がおなじ市川の真間にいた正岡容の家へ、夢樂を連れて来た。満州の北京大学を出たとかで、夢樂は海軍将校の着るような黒っぽい外套を着ていて、あれはいったいいつのことだったろうと聞いてみたら昭和二十四年の三月だったそうだ。
 落語家の弟子になろうというなら少しは粋なところもありそうなものだのに、五叟の連れて来た渋谷滉と名乗る青年は体ばかりやけにがっしりといかつくて、むしろ講釈師になら向いていそうだなと、そんなことを考えながら部屋の隅に坐って黙って話を聞いていると、正岡は今輔という人が弟子の育て方にも新しい考え方を持っていて、それを実行するだけの力もあるからとすすめて、夢樂の渋谷滉は今輔の弟子になった。

 その後、古典がやりたい夢樂は、今輔が一升瓶を下げて可樂の家を訪ねて弟子入りを願い、その後、可樂が一升瓶を下げて今輔を訪ね「たしかに今夫は私がひきうけました」と、無事、夢樂の移籍(?)が成立。
 夢樂は、「つまり私は酒一升でトレードされたようなものでして・・・・・・」と大西さんに笑って言っていたらしい。

 少し調べてみたら、杵家五叟は荷風の従弟のようだ。

 縁戚が正岡容の元に夢樂を連れて行ったことは、分かった。

 しかし、なぜ、その五叟と夢樂との縁があったのかが、まだ、謎ではある。

# by kogotokoubei | 2019-03-08 20:27 | 落語の本 | Comments(2)
 新聞のコラムニストには、落語好きが多いようで、たびたび落語をコラムの素材に使うが、昨日の毎日新聞の「余録」は、次のような内容だった。
毎日新聞の該当コラム「余録」

余録
三軒続きの長屋の右隣は….
毎日新聞2019年3月6日 東京朝刊

三軒続きの長屋の右隣は鳶(とび)の頭(かしら)で若い衆の出入りがうるさい。左隣は侍(さむらい)が剣術を教えていて稽古(けいこ)の音がやかましい。真ん中の家にすまわせた妾(めかけ)に引っ越したいと言われた伊勢屋、両隣の追い出しをはかる▲両隣はこのたくらみを察知したが、双方ともにあっさりと金を受け取って引っ越すという。伊勢屋が「どこへ」と頭にたずねると「へえ。あっしが剣術の先生のところへ越して、先生があっしのところへ」。落語「三軒長屋」である▲さて、こちらは引っ越しを頼んでもいないのに、勝手に入れ替わるつもりらしい。松井一郎(まつい・いちろう)大阪府知事と吉村洋文(よしむら・ひろふみ)大阪市長がこの8日にも辞職表明し、4月の統一地方選で知事選に吉村氏が、市長選に松井氏が出馬する構えだという▲この奇計、目的は両氏の率いる大阪維新の会の看板政策「大阪都構想」の実現である。都構想は4年前の住民投票で否決されたが、その再投票実施へ向けた公明党との協議が不調となり、民意をダブル首長選で問うというのである▲ポストの交換は、出直し選では当選しても両氏とも今年中に任期が切れるという法の規定への対策らしい。当選すれば4年の任期をまるまる確保でき、無駄遣い選挙との批判も避けられる「首長入れ替わりの術」の一挙両得(いっきょりょうとく)である▲何が何でも住民投票の再実施という維新の意気込みのほどはよく分かった。だが知事や市長のポストなど長屋の空き家同然といわんばかりの党利党略、有権者が“名案”と感心してくれるかどうかは分からない。


 『三軒長屋』と、大阪の選挙の共通点は、どちらもやかましい同志で入れ替わる、ということか。

 落語と大きな違いは、落語の方は、お互いが相手の家に引越すという秀逸な奇策のサゲで、聴く者が大いに笑える、また、感心できるのだが、大阪の引越しは、まったく笑えないし、感心できようもない。

 コラムニストは、「意気込みのほどはよく分かった」と書いているが、さて、それもどうなのか。

 おなじ住民投票でも、沖縄のそれは、住民の意気込みの強さが十分に感じられた。

 大阪のそれは、政治家の我侭しか、見えてこない。
 住民は、「またかいな!?」という思いの人が圧倒的に多いのではないか。
 
 落語のオチのような策略なのである、その選挙に、オチがつくかもしれないよ^^
# by kogotokoubei | 2019-03-07 20:57 | メディアでの落語 | Comments(4)
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ドナルド・キーン著『二つの母国に生きて』

 ドナルド・キーン『二つの母国に生きて』は、初版が昭和62(1987)年の朝日新聞から単行本で発行され、平成27(2015)年に朝日文庫にて再刊。

 1980年代に書かれた文章を中心に編集された本。

 本書からの、二回目。

 「戦争犯罪を裁くことの意味」(1983・5・27)の章から。

 ドキュメント・フィルム『東京裁判』を見ながらさまざまの思い出が甦った。とはいえ、私は裁判と関係したわけではない。当時の占領軍の方針として宣教師や貿易商以外の外国人を日本に入国させなかったが、裁判の通訳は入国できたので、一日も早く日本へ行きたがっていた私は募集に応じた。しばらくして採用通知があったが、迷いに迷ったあげく、断りの電報を打った。日本へは行きたかったが、戦犯を裁くことについての疑問があまりにも深すぎたので、通訳としても参加したくなかったのだ。
 当時の私の考え方は終戦直後、友人に出した手紙の中に手短に書いてあるから引用する。
「日本の指導者たちを“戦争犯罪人”の名の下に処罰するのは、名目がいかに高尚な響きを持つものであっても、結局は、人類の歴史が始まって以来、多くの国々が行ってきたことを繰り返すことにすぎない。もし、征服された民族の犯罪のみならず、イギリス人がインドや香港で犯した罪、フランス人がシリアで犯した罪、ロシアが東ヨーロッパで犯した罪、そしてアメリカが無防備の住宅地に住む日本人たちに爆撃を浴びせたことなどが問われるのであれば、この戦争裁判は新しい時代の幕開けを象徴するものであるという言葉は、それなりの意味を持つ。しかし、今回の戦争裁判は、実際には終戦を祝う儀式として開かれるものであり、例によって敗戦国非難と自己満足の精神に満ち満ちているのだ」(1945年9月23日付の書簡。オーテス・ケーリ編『天皇の孤島』に収録。1977年、サイマル出版会)

 終戦直後に書かれた書簡の内容が、キーンさんの戦争への一貫した思いを表していると思う。

 なお、この書簡を含む本の編集者のオーテス・ケーリは、キーンさんアメリカ海軍日本語学校の同級生。二人は、通訳として従軍する戦友だった。
 書簡の宛先は、きっとケーリだったのだろう。
 ケーリは戦後、同志社大学で教授を務めた。
 ケーリも貴重な記録を著作で残している。後日、紹介したいと思っている。

 さて、本書からの引用を続ける。

 戦時中、私は日本軍が戦場に残した書類の翻訳をしていた。日記の中に、アメリカの飛行士が捕虜になった後、死刑に処されたという記入が時々あった。私はこうした事実を知った時、人道にそむく行為であり、明らかな犯罪だと信じていた。しかし、戦争末期、アメリカの飛行機が日本の都市の無差別攻撃を行うようになった段階、それも犯罪ではないかと思い、自分の正義感に迷いが生じた。

 この文章を読んで、私は数年前にCSで観た、ある映画を思い出した。
 藤田まことが主演の『明日への遺言』だ。大岡昇平の小説『ながい旅』を原作に、2007年に製作された映画。
 昭和20年5月14日の名古屋空襲の際に、撃墜され捕虜となったB29の搭乗員を処刑したため、B級戦犯となった軍人の裁判を中心とする物語だった。
 陸軍中将の岡田資(たすく)は、戦犯裁判において、米軍の空襲について「一般市民を無慈悲に殺傷しようとした無差別爆撃である」とし、「搭乗員はハーグ条約違反の戦犯であり、捕虜ではない」と徹底的に主張した。岡田は、これを『法戦』と呼び、検察や米軍関係者による爆撃の正当化を批判、捕虜虐待の罪に付いても全面的に争った。
 藤田まことが亡くなる二年前の迫真の演技が、印象に残っている。
 岡田資のことや、大岡昌平の本のことは、また後日書こうと思う。

 さて、キーンさんの本からの引用を続ける。

 人間の想像力には限界がある一人の軍人が敵の軍人を殺す、または同じ軍人が壁の前に立たされた何の防備も持たない民間人を銃剣で刺し殺すことを想像するのは、それほどむずかしくない。現に、終戦直後、私が中国の青島に駐在していた時、似た話を多き聞いた。日本の兵士の戦意を高めるために、何の罪もない中国人を逮捕し、銃剣の練習の対象とした日本軍人にも会い、号令をかけた海軍大尉をも尋問した(彼は、弾丸が足りなかったためそうさせたと私に語った)。殺された中国人の死体から肝を切り取って薬にした日本兵にも会った。
 これらの戦犯を調べていた時、何回もぞっとしたことがあるが、犯罪そのものは想像することができた。しかし、一万メートルの高度でハンドルを回して巨大な爆弾を投下する飛行士の犯罪の大きさは想像できなかった。数万人が焼死した場合でも、爆弾が目標をはずれて海に落ちた場合でも、殺戮を意図している以上、犯罪性は変わらないといえるかどうかーこれは並の想像力をはるかに超える難問である。

 上空から爆弾を投下することの犯罪の大きさを想像できないとしたキーンさん。
 では、あの湾岸戦争で、まるでテレビゲームのよう、と形容されたハイテク機器による戦争に、どんな感想を述べていらっしゃたのだろうか。

 ボタン一つで、何万、何十万人の生命を奪う時代。
 その危機は、まだ続いている。

 キーンさんは、この章を次のように締めくくっている。

 言うまでもなく、国家が存在する限り、国と国との摩擦が起ころうし、また、人間に攻撃性がなくなるまで“実力”で摩擦を解決しようとする傾向も残るだろう。しかし、攻撃性を法律で限定するように、戦犯裁判で戦争を政治手段として利用する指導者をある程度まで限定することもできるはずである。そして現在の日本における反戦思想が根強いのは東京裁判とも無関係ではなかろう。
 現在の私は、三十八年前の私ほど自分の見解に自信がない。今も一方的な裁判に深い疑問を抱き、『東京裁判』を見ながら、あらゆる偏見や政治的配慮が公平な裁判を妨げたことが改めてわかったが、欠点だらけの国連でも、あることがないよりはましだと思うと同様に、あの悪名高き裁判にも戦争を不法行為として告発しただけの意義はあると信じたいのである。

 “意義はあると信じたい”との思いを、残された日本人は、大事にしなくてはならないだろう。

 あの裁判を批判する人々は多い。
 もちろん、戦勝国による敗者への不公平な見せしめの行為、という側面はあるだろう。
 しかし、東京裁判で裁かれた日本の戦争指導者や、米軍捕虜への対応により戦犯となった岡田資のことなども含め、一連の戦犯裁判を明日につなげるためには、戦争そのものがすべての元凶であり、何としてても、戦争を起こしてはならない、ということだ。
 もちろん、何百万人という犠牲者のことを忘れず、反戦の声を上げ続けることが重要だ。

 キーンさんが、信じたかったのは、そういうことだったと思う。

# by kogotokoubei | 2019-03-05 12:36 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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ドナルド・キーン著『二つの母国に生きて』

 ドナルド・キーン『二つの母国に生きて』は、初版が昭和62(1987)年の朝日新聞から単行本で発行され、平成27(2015)年に私が読んだ朝日文庫にて再刊された。

 1980年代に書かれたものを中心に編まれた本だ。

 最初の「なぜ日本へ?」-1985・4-からご紹介。

 一年のほぼ半分を東京で暮らすようになったのは、1971年以来のことである。それまでは、毎年、九月から五月までコロンビア大学で教鞭を執り、夏の間の約三ヵ月を日本で過ごしていた。初めのうちは京都に滞在したが、後には東京で暮らすようになった。しかし、やがて、日本の春や秋が味わえないことに苛立ちを覚えるようになった。いっそのことコロンビア大学で教えるのをやめてしまおうかとまず考えたが、そのうちに大学のほうで、一年のうち一月から五月にかけて教壇に立つだけでいいと言ってくれた。
 先生はなぜ、それほど多くの時間を日本で過ごしたいのですか、とよく訊かれる。
 (中 略)
 東京にいるときのほうがより幸福である理由を説明する際、私はまず幾つかの否定形を使った答えを並べ立てるのを常としている。すなわち、東京では、夜遅く暗い通りを独りで歩いても少しも心配する必要がない。東京の地下鉄は落書きで汚されているということもないし、乗客たちにしても、突如として暴力を振るいそうな不穏な様子はない(最近、日本では車内暴力が頻発しているようだが、そのスケールはニューヨークに遠く及ばない。ニューヨークでは凶悪な死傷事件が日常茶飯事なのである)。東京の冬はニューヨークの冬ほど寒くはないし、夏も、ニューヨークの夏と同じように暑いけれど、猛暑はそれほど長く続かない、等々。
 しかし、これら否定形を用いた答えは、苦痛がないことを示唆するものではあるが、積極的に喜びや楽しさを語るものではない。人々に得心してもらうためには、東京における生活の楽しさを語らなければならないだろう。

 この後、その東京、あるいは日本で暮らす楽しさとして、挙げられるのは、次のようなこと。

 ・たった一、二度しか会ったことのない人から親切にされること
 ・ニューヨークでは、銀行の現金自動支払機のトラブルで行列ができた際、行員に
  声をかけると「私の仕事にあれこれ口出ししないでほしい」と言われ、他の仕事を
  片づけるまで、機械を直そうとしなかった。それに比べて、数ヵ月前に日本の銀行で
  同じような機械の故障に遭遇した際、担当者が一生懸命に直そうとし、時間はかかった
  が、しきりに彼は客に詫びを言い、だれ一人として文句を言わなかった
  「この種のささやかな出来事も、日々繰り返されると、その都会の印象の一部として定着」
  すると述懐する。

 そして、その後、こう続けている。

 日本で暮らしたいと思う本当の理由は、自分の専門分野だけではなく、日本に関してできるだけ様々なことを学びたいという気持ちが依然として強いからである。

 あらためて確認するが、この文章が書かれたのは、1985年4月。

 「ドナルド・キーン・センター柏崎」のサイトにある年譜を引用する。
「ドナルド・キーン・センター柏崎」のサイト


1983年(61歳)
   山片蟠桃賞、国際交流基金賞受賞。
  (執筆)
   7月4日~1984年4月13日、「百代の過客 日記にみる日本人」朝日新聞・夕刊、(全185回)。
  (日本人の質問 』 朝日選書。

1984年(62歳)
 『百代の過客』により読売文学賞、日本文学大賞受賞。
  (執筆)
  『百代の過客 日記にみる日本人』朝日選書。
  英語版 "Travelers of a Hundred Ages" NewYork:Henry Holt and Company,1989。

1986年(64歳)
  コロンビア大学に「ドナルド・キーン日本文化センター」設立。
  アメリカン・アカデミー会員(文学部門)に選ばれる。
  春、米ニューヨーク市立図書館、「日本の美学」('Japanese Aesthetics')米カリフォルニア
  大学ロサンゼルス校、「日本の詩」('Japanese Poetry')、「日本の詩の有用性」
  ('TheUses of Japanese Poetry')。
  「日本の小説」('Japanese Fiction')
  8月7日、日本近代文学館主催「夏の文学教室」で「ローマ字でしか書けなかった啄木の真実」
  講演。
  10月8日、国際シンポジウムあまがさき(兵庫県尼崎市総合文化センター)
  「世界のなかの近松―悲劇の条件について」
  10月26日、愛媛県松山市立子規記念博物館開館五周年記念講演、「外国人と俳句」
  10月13日~1987年10月29日「続百代の過客 日記にみる日本人」朝日新聞・夕刊、(全234回)
  (執筆)
   『少し耳の痛くなる話』新潮社。


 前年に『百代の過客』が複数の賞を受賞し、翌年にはコロンビア大学に「ドナルド・キーン日本文化センター」ができるという、そんな研究者として絶頂に近い時期だ。

 年齢は、今の私とほぼ同じ、還暦を少し回った時期。

 そんな時期においても、

 “日本に関してできるだけ様々なことを学びたいという気持ちが依然として強い”キーンさんは、次第に生活の基本をアメリカからニューヨークに移していく。

 「文庫版あとがき」(2015年6月)から引用。

 約三十年ぶりで『二つの母国に生きる』を読み出した時、きっと私は日本がどんなに変わったかを発見するだろうと予想していた。無論、その間に目立った変化が充分にあったことは確かだが、この本を書いた今の“私”は、不思議にこの本を書いた頃の当時の“私”に似ていた。その時書いた冗談は現在でも通じそうで、読みながら笑った。
 しかし大きな変化もあった。この本を書いた頃、毎年の四、五カ月間をニューヨークで過ごし、コロンビア大学で教え、残りの月は東京に滞在していた。そしてニューヨークと東京両方に住居があることを喜んでいた。ところが、もしもなにかの理由で、どちらかにずっと十二ヵ月間を過ごすことを決める必要があったらどうしよう、と自問した。この本の中で私は、その場合東京にする、と書いた。そうしてその通りになった。
 今年はニューヨークに十日間程度しか滞在しなかった。三年前に日本の国籍を取得してからはニューヨークには家がない。このことを知った日本の友人は私に対する態度を変えた。以前は「何時(いつ)アメリカへ帰りますか」と問われたものだ。しかし、国籍を所得してからは私の住まいは東京だけなので、時折ニューヨークと東京を往復することはあるだろうが、帰る国は日本であると認めた。

 キーンさんが、日本国籍を取得したのは、2011年3月11日の後のこと。

 それ以前から、日本国籍を取得しようと思っていらっしゃったようだが、東日本大震災が、その行動を後押ししたようだ。

 震災後、日本国籍を取得した後に東北を訪れたキーンさんの言葉を、JIJI.COMより。
JIJI.COMの該当記事

 東日本大震災をきっかけに日本への移住を決めた日本文学研究の大家ドナルド・キーン米コロンビア大学名誉教授(89)が2011年10月19日、訪問先の仙台市内で記者会見し、「東北全体に美しい町をつくってほしい」と述べ、復興に期待感をにじませた。
 松尾芭蕉の「おくのほそ道」の英訳でも知られるキーン氏は、「東北に深い関心を持っている。仙台は『杜(もり)の都』という名前もあり、そうした伝統を復活させてほしい」と強調した。また、「災難に際して、日本人は落ち着いて、順序良く自分たちのやるべきことをやったということが世界的に知られるようになった。日本人への尊敬は以前に比べ何倍にもなった」と語った 【時事通信社】


 多くの海外からの駐在者などが、震災と原発事故の恐怖から日本を離れたことを考えると、キーンさんの行動の貴重さが分かる。
 
 第一回目は、これにてお開き。

# by kogotokoubei | 2019-03-04 12:21 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 2月24日に亡くなったドナルド・キーンさんは、新潟県の柏崎市と長岡市の名誉市民。

 また、柏崎には、ニューヨークにあったキーンさんの書斎の再現なども展示されている「ドナルド・キーン・センター柏崎」がある。

 どんな越後との関りがあったのだろうか。

 センターのサイトから紹介する前に、新潟日報の訃報を伝える記事から、ご紹介。

新潟日報の該当記事

ドナルド・キーンさん死去 96歳
日本文学研究者 新潟との縁深く


 三島由紀夫、安部公房さんらの作品を英訳して世界に紹介した日本文学研究者で、東日本大震災後に日本国籍を取得した米コロンビア大名誉教授のドナルド・キーンさんが24日午前6時21分、心不全のため東京都台東区の病院で死去した。96歳。米ニューヨーク生まれ。葬儀・告別式は親族のみで行い、後日、お別れの会を行う。喪主は養子のキーン誠己(せいき)さん=新潟市西蒲区出身=。

 新潟県との縁が深く、たびたび来県した。1998年には長岡藩ゆかりの米百俵の戯曲を英訳。約50年前に英国で台本が発見された古浄瑠璃「越後国柏崎 弘知法印御伝記(こうちほういんごでんき)」の復活上演をきっかけに2013年、柏崎市に業績などを紹介する「ドナルド・キーン・センター柏崎」がオープンした。同演目はキーンさんらによって17年6月、ロンドン公演が行われた。長岡市と柏崎市の名誉市民にもなっている。また、新潟日報文化面で14年から「東京下町日記」を連載していた。

 コロンビア大在学中に「源氏物語」と出合い、日本文学への関心を抱く。米海軍日本語学校に入学し、第2次世界大戦中は通訳官を務めた。ハワイの日本人捕虜収容所では、新潟日報社の小柳(おやなぎ)胖(ゆたか)元社長とも交流があった。

 終戦後、コロンビア大大学院、英ケンブリッジ大で学び、1953年に京都大大学院に留学。近松門左衛門や松尾芭蕉を研究した。太宰治や三島らの作品を英訳。三島や谷崎潤一郎、川端康成、司馬遼太郎さんら日本を代表する数々の作家と交流し、日本の文化や歴史、能や文楽などの芸能を海外に紹介した。86年にはコロンビア大に「ドナルド・キーン日本文化センター」が設立された。

 近年は明治天皇が日本の近代化に果たした役割に注目、隠された史実の掘り起こしにも力を注いだ。菊池寛賞、毎日出版文化賞、安吾賞など受賞多数。2008年に文化勲章を受章。

 長年ニューヨークと東京を行き来して活動を続けたが、東日本大震災後、日本永住を表明し、12年春に国籍取得。多くの外国人が離日する中、日本人を勇気づけた。雅号は「鬼怒鳴門(キーンドナルド)」。

 著書に、日本文学の普遍性と特殊性を解説した大著「日本文学の歴史」(全18巻)のほか、「日本との出会い」「百代(はくたい)の過客(くわかく)」「明治天皇」「正岡子規」「石川啄木」など。11年から「ドナルド・キーン著作集」(全15巻)を刊行していた。
【社会】 2019/02/24 18:32

 ということで、新潟のと縁は、この記事で丁寧に紹介されている通り。

 柏崎との縁につながる「弘知法印御伝記」について、Wikipadia「弘知法印御伝記」から、少し紹介する。
Wikipedia「弘知法印御伝記」
『弘知法印御伝記』(こうちほういんごでんき)は、即身仏となった弘知法印の伝説を基にした説教浄瑠璃。1685年(貞享2年)刊の絵入り本が1963年(昭和38年)にイギリスの大英博物館で発見され、世に知られた。江戸時代初期に演じられた古浄瑠璃の一つで、正本は江戸孫四郎(江戸時代前期の説経節太夫)によるもの。角書きは「越後国柏崎」(えちごのくにかしわざき)、内題は「弘知上人」。
 
 その内容についても、少し引用。
 内容は、同作が著された約250年前の南北朝時代に即身仏となったとされる伝説的な僧・弘知法印の生涯を演劇的な虚構を加えて創作したもので、出家、家族との離別・再会、お家再興、上人の栄光を六段に分けて描いており、江戸時代の庶民の死生観や宗教観を伺い知ることができる。
 なお、弘知のミイラ化した遺体とされるものが新潟県長岡市寺泊の西生寺に安置されており、同寺の『弘智法印即身仏御縁起』(年代不明)によると、弘知は下総国香取郡正木郷に生まれ、奥羽を巡り、高野山での修行の後、1363年(貞治2年)に猿ケ馬場の岩坂で禅定の境地に入り、亡くなったとされる。本作以降も弘知の名は江戸時代の様々な文芸作品に登場し、とくに旅行記・旅行文献には弘知のことや西生寺への参詣についての記述が江戸末期まで散見される。

 弘知法印の生涯を描く絵入り浄瑠璃が、なぜ、イギリスに渡ったのか、という謎は興味深い。
 そして、その古浄瑠璃復活上演に、キーンさんは貢献していた。

 そういう縁でできたセンターのサイトから、「ドナルド・キーン ごあいさつ」を引用。
ドナルド・キーン・センター柏崎のサイト

柏崎に、ドナルド・キーン・センター柏崎という名称の日本研究センターができたことは、日本文化を国外と国内でよりよく理解されることを願って、これまでの人生を送ってきたわたし私にとって、もちろん勿論非常に嬉しい出来事です。その上、この研究センターに私の名前がついていることは言葉で表現できない悦びです。海外の日本研究は私から始まったものではありません。先輩に、特にアーサ・ウエーリという天才的な学者がいて、ウエーリの『源氏物語』の英訳を読んで私は初めて世の中に日本文学があることを知り、その素晴らしさに感激しました。しかし、私が日本語を勉強し始めた、今から七十二年前にウエーリの翻訳を知っていた欧米人は少数であって、文学を専攻する大学生は世界の文学を論じる場合、日本文学を無視するか、二三の俳句を引用する程度でした。

変化が起こったのは太平洋戦争でした。私は反戦主義者で、戦争を徹底的に嫌いましたが、戦争という悪行にも人間のためになることがあります。日米戦争が始まった時、陸海軍が日本語のできるアメリカ人は極めて少ないことに気付いて、あわてて日本語学校を設立して、一流大学の最もすぐ優れた学生―特に或る外国語を習得した学生―を選んで集中的に日本語を教えました。全部で二千人位の若者が日本語を覚え、戦時中日本軍が戦場に残した書類や日本の捕虜の尋問をするようになりました。戦争が終わってから、日本語学校を卒業した人達の大多数は戦前に希望していた職業に就きましたが、そういう人達も日本に関心が深く、日本人が好きでした。日本と戦争していたにも関わらず日本語を覚えた若い人達に敵愾心はありませんでした。

一方もとの学生の一割位は日本語を忘れないで、なにかの形で日本と関係のある仕事を見つけました。私はその一人でした。コロンビア大学で、角田柳作先生の許で古典文学と思想史を勉強しました。他は日本の美術、近代史、経済、政治などの研究に力を入れました。かれらは海外の日本研究の最初の世代でした。現在孫弟子が活躍しています。

戦前、日本語を教えるアメリカの大学は六、七しかなく、多くは二世の多い太平洋に近い大学でしたが、現在は殆どの評判のいい大学では日本語を教えています。もう珍しい外国語でなくなりました。アメリカだけではありません。戦前ヨーロッパで日本語を教える大学は四、五しかありませんでしたが、現在各国で人気のある外国語です。

ドナルド・キーン・センター柏崎は一人の名前の冠を持っていますが、海外で一生懸命に日本の研究をし、日本への道を切り開いた全ての人達と一緒にこの喜びを分かち合いたいと思います。

ドナルド・キーン

 「反戦主義者」と、明確に宣言している。
 日本、そして日本文化への深い愛情が、この文章からも十分に伝わってくる。

 今後、海外で日本、日本文化を研究する人たちが訪ねるに値する場所が、越後にできた。

 私も、ぜひ立ち寄ろうと思う。

 こセンターのサイトからも、いろいろ学ぶことができる。
 年譜が掲載されている。
 昭和20(1945)年の内容を紹介したい。
 
1945年(23歳) 3月、フィリピン・レイテ島を経て沖縄戦に従軍。日本軍捕虜の通訳官を務める。
        8月、沖縄戦終了後、ハワイに戻り、ホノルルの自宅で広島への原爆投下を知る。
        8月15日、日本、ポツダム宣言受諾、敗戦。中国・青島への赴任の途中、グアムで
        昭和天皇の玉音放送を聴く。
        9月、中国・青島で日本兵の戦犯調査の任務に就く。
        11月、戦犯調査にいたたまれず、除隊を申請。
        12月、ハワイの原隊復帰への帰路、焼け野原の東京に立ち寄る。親しくなった
        日本人捕虜たちから託された手紙を懐に、消息を家族に伝えて廻る。
 23歳で、米軍の通訳官として、沖縄戦を体験している。
 戦犯調査にいたたまれなくなったことは、著作でも書かれているので、そのうちに紹介したい。
 捕虜からの手紙を家族に伝えて廻る、なんてこと、なかなかできることではない。


 キーンさんと越後の縁を、遅ればせながら知ることができ、連れ合いの実家の長岡に行く時の楽しみが増えた、
# by kogotokoubei | 2019-03-02 09:18 | ある人物 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛