噺の話

kogotokoub.exblog.jp
ブログトップ
 こちらが、私のガラケーで撮った、宮尾登美子文学記念館の写真。

e0337777_16361915.jpg

e0337777_09434522.jpg


 宮尾 登美子さんは、大正15(1926)年4月13日に高知県で生まれ、平成26(2014)年12月30日に、故郷高知で旅立たれた。

 さて、なぜ、高知出身の宮尾登美子さんの文学記念館が、北海道の伊達にあるのか・・・・・・。

 その理由の前に、この記念館のことを、伊達市のサイトからご紹介。

伊達市サイトの該当ページ

太宰治賞や直木賞など多くの文学賞を受賞している作家の宮尾登美子さんは、伊達市近郊の山荘で平成11年から15年までの間「宮尾本平家物語」を執筆し、その間市内でも講演会を行うなど多くの市民と交流を深めました。
その結果、市民の多くの皆さんから文化・社会教育の場として文学記念館建設要望が市に出され、平成17年4月に伊達市が当館を整備しました。
高知県出身で30代後半から文筆活動に始めた宮尾登美子さんは、直木賞受賞作の「一絃の琴」や「序の舞」「陽暉楼」「蔵」などのヒット作を続々と世に送り出し、その多くが映画化・テレビドラマ化されています。
当館には、宮尾文学の軌跡や代表作品を紹介するとともに、宮尾さん自身が愛用した着物や小物、机などを展示しています。

 ということで、四年間、伊達の山荘で、宮尾さんは「宮尾版平家物語」を執筆した。

e0337777_18375504.jpg


 では、なぜ、伊達だったのか。

 昨日、記念館で展示品を見ても、いただいたパンフレットを読んでも、伊達と宮尾さんの縁を物語る情報がなかったので、記念館の受付の方にお聞きした。

 伊達とのご縁は、宮尾さんの小説の挿画を数多く手がけられた、画家の野田弘志さんが、とりもったらしい。

 都会の夏が苦手だった宮尾さんは、どこか避暑に適した場所をお探しだったらしい。

 お知り合いの野田さんから、伊達のことを教えてもらったことが、きっかけだったとのこと。

 宮尾さんが亡くなった翌年の一月の週刊朝日に、追悼記事が載った。

 AERA.dotから引用。

AERA.dotの該当記事

宮尾登美子さん 晩年“人付き合い絶つ”手紙を書いていた
2015.1.16 16:00

 直木賞作家の宮尾登美子さんが老衰で亡くなった。享年88。

 宮尾さんは、1926年に高知市に生まれ、芸妓(げいぎ)紹介業の家に育った。家業に対する嫌悪感は、のちに太宰治賞を受賞する自伝的小説、『櫂』を生み出した。

 17歳で結婚し、教員の夫、長女と旧満州へ渡る。敗戦後1年あまり、難民収容所で過ごした。この壮絶な体験をもとに、極限状態に置かれた人間のエゴイズムをのちに描いた小説が『朱夏』だ。宮尾さんは、

「饅頭一つ欲しさに、赤ん坊の娘を市場で売ろうかとさえ思った」(週刊朝日98年11月27日号)

 と、当時を回想している。

 (中 略)

 86歳になった12年春には、故郷の高知市で一人暮らしを始める。同じ高知市出身で親しくしていた作家の山本一力さんには、

「この年になると、いてもたってもいられない。高知が見たい」

 と話していたという。

「この時期から、母は人生の整理整頓を始めたのでしょう。人付き合いを絶っていきました」(次女・環[たまき]さん)

――これから高知市に住みますが住所は未定です。申し訳ございませんが、手紙も電話も遠慮いたします。宮尾さんは、こうした文面のはがきを、仕事の関係者や知人、友人に送った。

 人付き合いを絶ってから二年半後の12月、宮尾さんは旅立った。

 このハガキを受けとった一人である野田さんのコメントが掲載されている。
宮尾さんの小説の挿絵を担当し、友人として付き合いの深かった日本画家の野田弘志さん(78)も、このはがきを受け取った。

「宮尾さんが平家物語の執筆のために北海道の伊達市に建てた山荘は、私の家から50メートルほどのご近所です。長年の飲み食い友達でしたが、はがきを境に宮尾さんの消息は、ぷつりと途絶えました。宮尾さんと40年来の付き合いがある作家の加賀乙彦さんも心配して、一緒にずいぶん宮尾さんの行方を捜しました」


 加賀乙彦さんの『湿原』の挿画が、野田さんの出世作と言われている。

 野田さんは、だて噴火湾アートビレッジのスーパーバイザーを務められている。
 
 小説家と挿絵を担当した画家との縁が、この記念館につながっていったわけだ。

 記念館には、手書き原稿も展示されているのだが、なんとも綺麗な読みやすい字に、驚いた。一字一字、丁寧に書かれたことが、分る。

 宮尾登美子さんの人柄が、その文字には現れていたように思う。

 展示されていた着物それぞれには、その着物の謂れや宮尾さんの思いが紹介されていた。

 晩年は、故郷にお帰りになったわけだが、七十代に、きっと濃密な四年間を伊達の山荘でお過ごしになったのだろう。

 宮尾登美子文学記念館は、まちの重要な文化的財産。
 入場は、無料。

 ご興味のある方は、来春、すぐ近くの「だて歴史文化ミュージアム」が開館した後にでも、ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。

 亘理藩の伊達邦成主従が開拓した土地という歴史、そして、宮尾登美子さんと縁のある土地、歴史と文化の香りあふれるのが、「北の湘南」伊達なのです。

 しかし、今日の散歩では、せっかく白壁で統一した商店街も、閉店した店が多く、シャッター通りに化していた・・・・・・。

 さて、そろそろ中学の同級生との飲み会に出かけねば^^

[PR]
# by kogotokoubei | 2018-04-24 17:21 | 小さな旅ー2018年4月、北海道への帰省 | Comments(2)
 昨日は、実家近くの伊達開拓記念館周辺を散策し、その近くにある宮尾登美子文学記念館に立ち寄った。

 まず、開拓記念館のことについては、昨年12月に、NHKの「歴史秘話ヒストリア」で放送された「北の大地に夢をひらけ! お殿さまの北海道開拓史」のことからご紹介。

 NHKのサイトの同番組のページから、引用。
NHKサイトの該当ページ

エピソード1 北に懸けた八千人の命

幕末、戊辰戦争に敗北し、領地を400分の1にされてしまった亘理(わたり 宮城県)の伊逹家。家臣とその家族、武士の誇りを守るため、当主の伊逹邦成(だて くにしげ)が決断したのは「北海道開拓」でした。未知の大地にすべてを賭ける―邦成たちの覚悟を後押ししたのは不思議な飾りのよろいかぶと―。

 ということで、北海道胆振支庁にある伊達市は、仙台伊達藩の支藩である亘理藩の伊達家が開拓した場所。

 エピソード2も、引用。

エピソード2 「和」で荒れ野を切り開け!

新天地・北海道に渡った伊逹家主従は、すぐさま苦難に見舞われました。開拓のための農具や種を積んだ船が事故で着かず、土地を耕すどころか深刻な食料不足に陥ります。絶体絶命の危機に対し「3つの和」でのぞんだ邦成。窮地を乗り切る「和」の秘策とは?

 伊達家主従の苦難の歴史の詳細は、また後日書くことにしたい。

e0337777_09362229.jpg

e0337777_09255832.jpg


 この写真は、開拓記念館敷地内の、迎賓館。

 「歴史秘話ヒストリア」でも詳しく紹介されていた。

 どのような建物かは、伊達市のサイトからご紹介。

伊達市サイトの該当ページ

迎賓館は、伊達邦成が伊達の開拓にあたった功績で明治政府から男爵の位を受けた祝いに、家臣らによって明治25年に建てられた邸宅です。
当館は、洋室と和室を取り合わせた構造で全体的に数寄屋(茶室)風の書院造の建物で、開拓状況視察のために来道した明治政府高官や開拓使などを接待するために利用されました。
平成4年に市の有形文化財に指定されています。


 賊軍として新政府から追われるように北海道へ移り住んだ伊達邦成一行だが、開拓の成果を評価され、男爵となったのは、歴史の皮肉とも言える。

 これが、伊達邦成公の像。
e0337777_09321259.jpg


 実は、伊達開拓記念館は、昨年11月末に閉館している。

 なぜかと言うと、よりパワーアップした施設を現在建設中であるからである。

e0337777_09440388.jpg


 来年春に、開拓記念館の展示内容を含む、「だて歴史文化ミュージアム」がオープン予定なのである。

 来年も、また来なくちゃ!

 このミュージアムは、道の駅のすぐ近くに建設中なのだが、同じ敷地内には、びっくりドンキー伊達店がある。

e0337777_09585332.jpg


 そして、店内では、同じグループ企業である牧家(ぼっか)のチーズなどが販売されている。

 実は、伊達は、牧家の所在地なのである。
牧家のサイト


 日曜の夕食では、牧家のカチョカヴァロチーズ、杏仁豆腐を楽しんだ。

 亘理藩、伊達邦成主従が開拓した伊達の牧場で、新たな食の歴史が刻まれている。

 そして、その地に、宮尾登美子さんの文学記念館がある。

 土佐出身の宮尾さんが、なぜ伊達との縁が出来たのか・・・・・・。

 そして、この地で、どんな宮尾作品が生まれたのか、などは次の記事にてご紹介。

[PR]
# by kogotokoubei | 2018-04-24 10:05 | 小さな旅ー2018年4月、北海道への帰省 | Comments(0)
 昨日から、故郷北海道に帰省中。

 昨年も、同じ時期に二泊三日で帰ったが、今年は三泊四日の小旅行。

 まずは、羽田空港の蕎麦屋への小言。

e0337777_07270575.jpg


 出発ゲート近くにある蕎麦屋。
 空港価格、ということだろうが、最低価格が680円で、お奨めの肉うどん(そば)が980円、おろしうどん(そば)が880円は、高すぎる。
 
 もちろん、食べなかった^^

 新千歳空港に兄に迎えに来てもらい、故郷、伊達市へ。

 伊達は、仙台藩が開拓して、その名を残した場所。

 噴火湾に面した、北海道の中ではもっとも温暖な地。

 少しだけ散歩し撮った、市役所前の写真。

e0337777_07273661.jpg


 ご覧のように「北の湘南」と言われているのだよ。

 昨日は、90歳を超えた両親がともに元気なのを確認できて、とにかく良かった。


 さて、今日はもう少しじっくり散歩し、昔の面影がどれほど残っているか、あるいは、どれほど変わっているか、確認するつもり。

 また、ジャズ好きの従兄の家に遊びに行こうと思っている。

 明日の夜は、中学時代の友人と会う予定になっている。

 今朝も、天気は良く、思ったほど寒くはない。

 やはり「北の湘南」なのである。

 ところどころ写真も撮り、旅の記録として記事にするつもり。

[PR]
# by kogotokoubei | 2018-04-23 07:38 | 小さな旅ー2018年4月、北海道への帰省 | Comments(8)
 架空の会見を考えてみた。

 太字は麻生読みで、(  )内が漢字と正しい読み。

記者 テレビ朝日が、福田前次官のセクハラ被害者が自社の社員であると
   公表し、財務省に抗議すると言っていますが。
麻生(顔をしかめ、口を曲げて)
   う~ん、福田に実際セクハラをしたか事実のユウム(有無 ウム)を
   確認したら、やってない、というんですからねぇ。
   私としては、福田の言葉を信用するしかないでしょう。
記者 では、なぜ、辞任したんですか。
麻生 これだけの騒動になって、とても落ち着いて仕事ができない。お騒がせした
   責任があるから辞めたい、と言う以上、認めるしかないでしょう。
   他にどういうショチ(措置 ソチ)をしたらいいんですか。
   まぁ、テレビ朝日の抗議内容は、それが届いたら、そのヨウサイ(詳細 ショウサイ)
   をね、精査します。
記者 大臣ご自身の進退について、どうお考えですか。
麻生 これだけハンザツ(頻繁 ヒンパン)に、いろんなことが起きることには、
   責任を感じていますが、辞めずに、この問題を解決することも私の責任です。
   さまざまな事実をフシュウ(踏襲 トウシュウ)して、ミゾウユウ(未曾有 ミゾウ)の
   困難を解決するのが、私の役目だと思っています。
記者 財務省を統督するのが、大臣の責務ですよね。
麻生 え、なに?
記者 ですから、組織を統督する責任がありますよね。
麻生 尊ぶ、責任?
記者 いえ、統督、です。
麻生 ・・・・・・。
記者 国家行政組織法10条に
  「各省大臣、各委員会の委員長及び各庁の長官は、その機関の事務を統括し、
   職員の服務について、これを統督する。」
  とあるのです、知りませんか。
麻生 へぇ、そうなの、これから、六法全書を精査して・・・・・・
記者 いえ、あなたは、国語辞典を精査してください。
麻生 ・・・・・・。


 この会見は、もちろんフィクションです^^

[PR]
# by kogotokoubei | 2018-04-19 12:18 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)
e0337777_11495109.jpg

葉室麟著『河のほとりで』(文春文庫)

 この本から三回目。

 前回は藤沢周平について葉室麟がどう思っていたか、ご紹介した。
 今回は、司馬遼太郎のこと。

 司馬さんのソファー
 仏教的な世界観 培った 宗教記者時代

 <司馬さんのソファー>と呼ばれる長椅子がある。
 作家の司馬遼太郎さんは、もとは産経新聞の記者で若かりしころ、京都の宗教回りを担当していた。京都は各宗派の本山だけでも何十もあり、行事や人事も多く、これらを記事にするのが宗教回りの記者だ。司馬さんは東西両本願寺の記者室を中心に国内でも唯一、世界的にも珍しい「宗教記者クラブ」の創立メンバーのひとりだった。

 司馬作品は結構読んでいるが、このことは知らなかった。

 まさに、京都ならではの記者クラブと言える。

 引用を続ける。

その当時、司馬さんが宗教記者クラブの記者室で横になって本を読んでいた長椅子が、いまも<司馬さんのソファー>として保存されているのだ。
 京都、西本願寺の宗教記者室を訪れて拝見させてもらった。記者室の一角にあるソファーは、何の変哲もない長椅子に違いないのだが、司馬さんが新聞記者から作家に転身した後でも宗教記者時代の姿を覚えていたひとが多かったということだろう。
 そんなことを考えていると、宗教記者だった司馬さんはそのころの経験から仏教的な世界観を持つにいたったのではないかと、ふと、思った。
 司馬さんは戦時中、従軍して戦地に行く際には親鸞の『歎異抄』を持っていったという。「蓮如と三河」という文章の中で司馬さんは『歎異抄』を読んだ体験について、
「とくに『歎異抄』を読んでいるときに、宗教的感動とともに、芸術的感動がおこるのである。

 親鸞は弟子一人ももたず候

 ということばなどは、昭和十八年、兵営に入る前、暮夜ひそかに誦唱してこの一行にいたると、弾弦の高さに鼓膜が破やぶれそうになる思いがした」
 と書いている。生と死の問題を考えざるを得なかった戦時中だけでなく、戦後、作家になった司馬さんの作品の中にも仏教の影響が見え隠れする。

 この後、葉室麟は、司馬作品の中の仏教の影響の例として、『空海の風景』はもちろんとして、『国盗り物語』における斎藤道三の法華経の解釈のことや、『燃えよ剣』や『新撰組血風録』に見られる仏教的な無常感などを挙げている。

 そして、このエッセイは、次のような文章で締めくくられている。

 『「昭和」という国家』では、日本という国は昭和に入って「魔法の森」に入ったと述べ、この「魔法の森」のために数百万人の日本人が死んだとしている。そのことの是非はさておき、司馬さんは昭和という時代が、仏教でいう釈迦の教えが顧みられなくなる、 
 -末法の世
 に見えていたのではないかという気がする。
 もし、そうだとすると、司馬さんが存命なら昭和だけでなく、平成の今も「魔法の森」に入った末法の世だと思ったのではないだろうか。

 
 いわゆる司馬史観について、さまざまな意見があると思う。

 明治維新を高く評価し、それ以降、あの戦争までを暗黒時代と見なすことへの反論はあるだろう。
 維新の功臣たちを英雄視し、市井の人々への視線に欠けているという指摘もあるだろう。

 しかし、司馬史観に肩入れしないとしても、明治維新までと、それから日清・日露、そして太平洋戦争に向かう時代の様相の違いは大きい。
 もし、「魔法の森」に入ってしまったとするなら、それは、昭和からなのだろう、という指摘は否定できないように思う。


 そして、葉室が指摘するように、昭和が「魔法の森」に入ったとするならば、間違いなく、平成もまた「魔法の森」に舞い戻ってしまったのではなかろうか。

 戦争をしやすい国家にしようとする者が国のリーダーである状況は、あの戦争の前の日本の状況と似ていはしないか。

 しかし、同じ過ちをしてはいけない。
 早く、その森から抜け出さなくてはいけない。
 司馬遼太郎も、そして、葉室麟も、きっとそう言うに違いない。

 この文章を読んで、そんなことを思っていた。
 
[PR]
# by kogotokoubei | 2018-04-17 20:36 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
e0337777_11495109.jpg

葉室麟著『河のほとりで』(文春文庫)

 この本から再び。

 藤沢周平について書かれた章。
 まずは、葉室麟に藤沢周平のことを紹介してもらおう。

 藤沢周平文学
 たじろがず 過去を振り返る ひそやかな強さ

 藤沢周平さんは時代小説の大先達だ。わたし自身、藤沢作品をこよなく愛するファンのひとりでもある。
 七月に山形市に行く機会があったおりに、鶴岡市の藤沢周平記念館を訪れた。
 藤沢さんは昭和二年に山形県東田川郡黄金村大字高坂(現鶴岡市高坂)に生まれた。
 山形師範学校に学び、中学教師となったが、結核が見つかって休職、教師生活は二年間で終わった。六年余の闘病の後、東京の業界新聞社に就職した。仕事の傍ら小説を執筆し、昭和四十八年、直木賞を受賞した。四十五歳のときだ。故郷の鶴岡市では、藤沢さんの業績を讃えて、藤沢さんの書斎を再現し、自筆原稿や創作メモなどの資料を展示する市立記念館を建設、四年前にオープンした。

 この文章が西日本新聞に掲載されたのが2014年9月。だから、記念館は2010年のオープンということになる。
 藤沢の直木賞受賞は昭和47(1972)年の『暗殺の年輪』。

 葉室麟は、記念館で『風の果て』の特別展示を見たようだ。

 藤沢作品の中でも『風の果て』は特に好きだ。どこが好きなのかと言えば、中年にさしかかた男が過去を振り返らざるを得なくなったときの視線に思いがけないほどの温かさがあるからだ。
 生きていくことは過酷で、何かを得ていくことは、同時に大切なものを捨てることである。それだけに過去を振り向くには難しい。自分が見たくないものを見ようとはしない。蹉跌の苦情やひとを傷つけたかもしれない自らの傲慢さから目をそむけてしまう。しかし、藤沢作品には、たじろがずに過去を振り返るひそやかな強さがある。

 この文章を目にして、葉室麟がどれほど藤沢作品から影響を受けてきたかを知った。

 葉室が藤沢作品について評した、“たじろがずに過去を振り返るひそやかな強さ”は、葉室作品の主人公に、そのまま当てはまると思うからだ。

 この文章の後、藤沢が教科書に載っていた佐藤春夫の詩「望郷五月歌」を暗記していたことが『半生の記』に書かれていると、同詩の一部を紹介している。

 その『半生の記』で、藤沢が戦時中にクラス全員で予科練志願すべきと、級長として国を憂うる正義派ぶって級友をアジったことを悔いていることを葉室は紹介している。

 そして、こう言う。

 軍国主義の時代、戦争協力を当然のごとく叫び、意に従わない者を声高に非難した<愛国者>は多かったに違いない。だが、戦後になって、そのひとたちは自らがしたことを悔いただろうか。手のひらを返したように「仕方ない」ですませたのではないか。
 自らがしたことを後悔する誠実さ、やさしさは現代になって失われつつあるものだ。
 いまもなお藤沢文学がひとを癒やすのは、時代の波に押し流されない「悔いるやさしさ」があるからだ、とわたしは思う。

 「悔いるやさしさ」は、その根底にある「悔いる強さ」は、藤沢作品に魅かれた葉室麟の作品にも、感じるものだ。

 良き読み手が、良き書き手になったのだなぁ、と、このエッセイを読んで強く感じた。

[PR]
# by kogotokoubei | 2018-04-16 21:42 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 13日の金曜日、仕事が休みで昼夜居続けするつもりでいたのだが、野暮用で家を出るのが遅れた。
 そのため、残念ながらお目当ての一人だった春風亭小柳枝の復帰高座には間に合わなかったが、昼の主任の鯉朝は一度聴きたかったし、夜の立川談幸の主任も楽しみなので池袋へ。また、夜の膝前は、寿輔。これまた目当ての一人。加えて、色物の膝替わりも良いしね。

 三時過ぎに入って、楽屋脇のモニターを見ると、日替わり出演の上方のべ瓶が『もぐら泥(おごろもち盗人)』)途中。
 一服していると、ボンボンブラザースのお二人が相次いで楽屋入り。なるほど、ああいうバッグにいろいろ入っているのか、と新たな発見。べ瓶の後の遊馬の次が出番。

 べ瓶がサゲたので客席に入ると、四割ほどの入り。
 まず、最後列のパイプ椅子に座り遊馬を聴いて、その後、三列目の上座側に座った。
 昼の部で聴いたのは、膝前、膝、トリだった。

 順に感想など。

三遊亭遊馬『権助魚』 (19分 *15:13~)
 久しぶり。少し痩せたかな。
 将棋の羽生の1400勝などの短いマクラから本編へ。
 こういう噺は、ニンだなぁ。
 旦那が「権助を連れて行くなら犬のほうがマシだ」には、笑った。
 権助が魚屋で仕入れる網取り魚は、鰊、スケソウダラ、目刺し、蛸、蒲鉾だが、蛸の時に、魚屋が「魚のことは何でも知ってる」と言ったのに権助が「蛸のイボイボはいくつあるかね」と聞くのは珍しい。
 
ボンボンブラザース 曲芸 (13分)
 繁二郎さん十八番の紙を鼻に乗せる芸、なんと、客席に降りて一周してくれた。
 お手伝いしたお客さんも、なかなかのもの。芸協の色物の中心コンビ。膝の役割をしっかり。

瀧川鯉朝『死神』 (32分 *~16:19)
 お目当ての一人。ようやく聴くことができた。
 マクラで、今回の席の裏テーマは、療養していた小柳枝の復活だった、と語る。
 この日も元気に出演したようだし、前日は、柳昇一門の落語会があり、そちらにも総領弟子として出演したとのこと。なお、鯉朝も最初は柳昇に弟子入りした人。
 モニターで小柳枝の高座を見ていた一門二番弟子の桃太郎が、ぼそっと「大丈夫だ」と呟いたのを、鯉朝は耳にして嬉しかったと語る。なかなか、いい話だ。
 ネタは、サゲを改作しているが、私としては、今一つ、という印象。
 しかし、小柳枝の近況報告は、嬉しかった。
 なお、鯉朝のブログを見ると、この日の出演者の写真の中に、その小柳枝も含まれている。
瀧川鯉朝の該当ブログ
 小柳枝は五月の池袋上席の昼の部、鯉昇と交互出演とのこと。
 高座がはねてから、鯉朝は客席を回って割引券を配ってくれた。この人、お客への気配りを感じる。新作もやるようだ。また、聴きたくなった。

 昼の部がはねても、八割位の方はそのまま残っていたような気がする。

 さて、夜の部始まり。

立川幸吾『子ほめ』 (12分 *16:33~)
 初。談幸の弟子。
 この後の吉幸が、まだ入門数ヶ月、二十歳と言っていた。
 声が大きくはっきりしているのは良いのだが、ほとんど、棒読み。
 精進していただこう。

立川吉幸『大安売り』 (15分)
 兄弟子として幸吾のことをフォローするようなプロフィール紹介の後、相撲の話題になって、栃ノ心が好き、と語る。なぜなら、怪我で幕下まで降格して復活したから。降格は、辛いですよー、と自虐ネタ。
 自分も芸協に入って前座からやり直したからねぇ。
 そういった苦労を重ねた吉幸の高座は、寄席ならではのネタ。本人が実に楽しそうに演っているように見受け、降格の苦労の甲斐もあったように思う。

宮田 陽・昇 漫才 (15分)
 中国各州の位置ネタ、十八番とはいえ、何度聴いてもたいしたものだ。
 「重力波」->「十六茶」のネタなど、全編笑えた。芸協の色物、充実している。

笑福亭里光『東の旅・発端』 (16分)
 最前列に前の日にもいらしたお客さんを発見し、「同じネタですんません」と詫びる。
 東京の下座さんとはいくつも合わせるのが難しいので、という言訳だったが、この人は鶴光の弟子で東京で活動している。他のネタももっているだろうに、と思う。
 リズムが今一つだった。
 六年前の6月、縁あって同じ池袋の真打昇進披露興行に来ている。
2012年6月17日のブログ
 本当はその日の主任の予定だった柳城が病気で出演できなくなり、彼のお客さんを前に柳城の十八番ネタを演るという気配りのある噺家さん。
 東京で初の上方落語の真打という謳い文句だった。ぜひ、今後も精進して欲しい。

神田紅『髪結新三・鰹の強請』 (15分)
 この人の講談は好きだ。
 新三、弥太五郎源七、大家の長兵衛それぞれが生き生きと描かれた。
 長兵衛は三十両を並べる際、講談では五両包みで六つだが、歌舞伎では一枚一枚、などという解説も親切。
 最前列の前日も来られたお客さんは、しっかり続き物として楽しめただろう。

マジックジェミー 奇術 (12分)
 卵のネタをお客さんを舞台に上げてやったが、お客さんがなんとも味のある方だった。

柳亭楽輔『天狗裁き』 (19分)
 ずいぶん久しぶり。五年前の国立演芸場以来。
 芸風は小遊三に似ているのだが、もう少し粗っぽい、という感じ。
 
桂歌春『元犬』 (21分)
 仲入りは、この人。歌丸の総領弟子だが、最初は桂文生と同じ二代目桂枝太郎に入門した人だ。
 大学は葉室麟と同じ。
 昭和24年生まれだから古稀だが、高座はいつも明るく若々しい。しかし、良くも悪くも、軽妙という形容が当てはまりそうだ。

鏡味よし乃 太神楽 (12分)
 くいつきは、初めての女性一人の太神楽。
 協会のプロフィールを確認すると、ボンボンブラザースの繁二郎さんの弟子のようだ。
 五階茶碗から傘を披露。明るい笑顔を一所懸命の芸、好感が持てた。

立川幸之進『のめる』 (19分)
 談幸の二番弟子を初めて聴くことができた。
 この日は、兄弟子の吉幸と順番が入れ替わって、深い出番。
 まだ、細かい所作、たとえばご隠居の家の戸を開ける仕草に戸の重さを感じないなどの問題はあるが、全体には、楽しい高座だった。弟弟子も入ったことだ。今後も頑張ってもらいましょう。

古今亭寿輔『堀の内』 (21分)
 久しぶりだ。
 黄色のテトロンの着物が、なんとも言えない。
 「男ばかりだねぇ」と一言。たしかに、四十人位の客席、女性は四名だったかな。
 最前列のお客さんが前日も来ていたことを思い出し、「ネタ、替えなきゃいけないじゃないの」と笑う。実際にネタを考えていたようで、「三年で四回位しか演らないネタ」と本編へ。
 家を出て間違えて着いた場所が浦安。途中で道を尋ねた人が走り出し「こら、逃げるなぁ」と言うと、「ジョギングしているんです」は可笑しかった。本来の内容に、独特のクスグリを挟むが、これが大爆笑。女房が金坊に「お父っつんに湯屋に連れてってもらいなさい」と言うと、「いやだ。それくらいならイスラム国に行く」は、少し旬を過ぎたネタとはいえ可笑しかった。湯屋で手拭いを前に出す仕草をして、「この噺、円遊師匠に教わったんですが、こうやって手拭いを前に出すんですよ」と回想。そうだったんだ。
 連日のお客さんのおかげで、寿輔の珍しいネタを楽しむことができた。
 寄席の逸品賞候補として、印をつけておく。

東京ボーイズ 歌謡漫談 (14分)
 いつもの、何とも言えない味の漫談。
 ♪高崎は今日も雨だった、は、ぜひCDリリースを期待したい^^

立川談幸『宗珉の滝』 (31分 *~20:32)
 かつての落語の名人は、まず高座に着いてから、お湯を口に含み、痰を切り、なかなか話し始めない。一番の名人は、何も話さず終わる、と喜多八を思い出させるマクラから本編へ。
 師匠横谷宗珉をしくじり、上方に旅に出た宗三郎が、旅籠岩佐屋に泊まる。
 実は無一文、という筋書きは『抜け雀』や『竹の水仙』に似ている。大きく違うのは、この岩佐屋の主人。宗三郎の仕事が彫り師と聞いて、何か作った物があるかと、宗三郎が持っていた鍔を見る。そして「どうして、こんな死んだ虎を掘ったんだ」と言う。それを聞いた宗三郎、姿勢を正して頭を下げ、「この虎を死んでいると言ったのは、師匠の次にご主人が二人目」と、破門のいきさつを話す。その主人の目利きを頼りに、これから修業をし直すので、弟子にして欲しいと頼む宗三郎。主人も意気に感じて空いた部屋で修業をさせる。そんなある日、紀州藩留守居役の木村又兵衛が宿を訪れて・・・筋書きはこのへんまでにしておこう。
 前半は、宗三郎の江戸っ子の滑らかな口調が心地よい。そして、怒った時の岩佐屋の主人が、なんとも威厳があり、それまでの柔らかな高座が、しっかり引き締まった。
 かと言って、固い調子がずっと続くわけでもない。酒を飲みながら三日三晩、殿様のために彫った那智の滝の鍔が二度殿様に受け入れられず、岩佐屋の主人に一喝されて心を入れ替え、那智の滝に二十一日打たれ断食した後に彫った鍔も駄目なら腹を斬る、と言った宗三郎に、よし私も腹を斬ろう、そして、お前達も、と使用人たちに言う場面などは、実に可笑しい。
 サゲの後、なぜ、見た目は前の二作より劣るように見えた鍔が、殿様の目に留まったのかを木村又兵衛を通じて確認した後、志ん朝などの音源では、晴れて破門が解け、二代目宗珉を継いだ、となるのだが、談幸は二代目になったとはしなかった。
 これは独自の解釈なのかどうか、わからないが、そもそもこの講談が元の噺の主人公は実在したかどうか不明なので、必ずしも二代目としなくても良いのだろう。
 江戸っ子の流れるような語り口は、一朝と双璧ではないかと思った好高座。今年のマイベスト十席候補としたい。


 約五時間半の池袋、やや腰に疲れを感じたものの、夜の寿輔と談幸の二席だけでも、来た甲斐があった。

 やはり、寄席はいいねぇ。
[PR]
# by kogotokoubei | 2018-04-15 17:12 | 寄席・落語会 | Comments(12)
 葉室麟が昨年12月に亡くなったことを知った時は、しばらく、呆然とした。

 まだ六十代後半だ。

 発行されている作品の七割位は読んでいると思う。
 
 実在の歴史上の人物がモデルの本もあるし、フィクションもあるが、登場人物につい感情移入してしまう名作、佳作が多い。

 これから、まだまだ歴史時代小説好きを楽しませてくれると思っていたので、残念でならない。


e0337777_11495109.jpg

葉室麟著『河のほとりで』(文春文庫)
 『河のほとりで』は、その葉室麟のエッセイ集。

 2月に文春文庫のオリジナルとして発行。

 内容の大半は西日本新聞に掲載されたものだ。
 
 「書物の樹海で」の章は、他の作家の作品の解説が中心。

 その中の2015年4月発行の山本兼一著「おれは清麿」の解説から引用したい。

 山本兼一さんとは生前、安部龍太郎さん、伊東潤さん、佐藤賢一さんととものに歴史座談会でご一緒したことがある。
 座談会が終わって、中華料理店での打ち上げで山本さんの隣に座らせていただいた。にぎやかに雑談しながら、ふと横を見ると、山本さんはいつもにこやかな表情で杯を傾けておられた。
 聡明で人徳のある方だという印象だった。
 それだけのご縁だったと思っていたが、振り返ってみると、山本さんが『利休にたずねよ』で直木賞をとられたとき、わたしも候補のひとりだった。
 このときは、同じ時代小説家の北重人さんも候補だった。五十歳過ぎの歴史時代小説家三人がそろって恋の話を書き、直木賞候補になっていると、ある新聞に書かれた。

 この第140回直木賞、葉室は『いのちなりけり』、北重人は『汐のほとりで』で候補になった。
 『いのちなりけり』には続編があり、その『花や散るらん』も直木賞候補になった。
 この二冊を通して、雨宮蔵人と咲弥という男女の数奇な人生を中心に、赤穂事件の背景への独自の解釈で味付けをしたもので、たしかに、『いのちなりけり』だけでは、直木賞選考委員も本命とは推しずらかったかもしれない。

 引用を続ける。

 初候補のわたしにとっては、照れくささもあり、晴れがましさもあった。しかし、三人のうち、北さんは直木賞候補の翌年に急逝され、昨年、山本さんも永い眠りにつかれた。
 残されたひとりとしての寂寥感はもちろんあるが、それ以上に逝かれた山本さんや北さんが何を作品に込められていたのだろうか、と日々、考えてしまう。
 三人とも作家としては中年になってからの<遅咲き>のデビューで歴史時代小説を書くにあたっては、それぞれの人生と重なり合う思い入れがあったはずだ、と思うからだ。

 その葉室麟も、永い眠りについた。
 
 読者である我々の寂寥感は、まだ癒されない。

 もう新作がないと思うと、まだ読んでいない作品を、急いで読む気になれないのだ。

 このエッセイ集では、藤沢周平、司馬遼太郎という先輩歴史時代小説作家について書かれた文もあり、次回は、その中からご紹介するつもり。

[PR]
# by kogotokoubei | 2018-04-13 12:38 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 かつて、柳家喜多八と三人で睦会として開催していた扇遊と鯉昇(二人)が、毎回ゲスト(三客)を招く企画に替わったが、その四回目に初めて行くことができた。

 6時半には桜木町駅に着き、急いで一蘭で腹ごしらえ。

 会場の入りは八割ほどだっただろうか。

 睦会の時も、満席になった記憶はないので、まあまあということか。

 こんな構成。
--------------------------------------
(開口一番 三遊亭馬ん長『つる』)
入船亭扇遊 『厩火事』
春風亭一朝 『蛙茶番』
(仲入り)
林家 花  紙切り
瀧川鯉昇  『味噌蔵』
--------------------------------------

 出演順に、感想などを記す。

三遊亭馬ん長『つる』 (16分 *19:00~)
 初。円馬の弟子とのこと。
 ご隠居が、若い衆のような口ぶり。全体に粗っぽいが、勢いを感じ、私の印象はそれほど悪くなかったのだが、終演後の居残り会で、他のお三方は全員「うるさ過ぎ」とのことで、評価は悪かったなぁ。

入船亭扇遊『厩火事』 (28分)
 自分が入門した時は、両協会を含め、真打ちは百人くらいだった、と振り返る。
 最近の言葉は判らない、KYなんて、柳家小三治でしょう、で笑った。
 この噺は、十八番の一つと言って良いだろう。
 お崎、旦那、亭主、それぞれの人物がしっかり演じ分けられていた。旦那が、亭主の悪口を言った時の、お崎のなんとも言えない表情などに、女性を演じることにかけて、東京落語界では屈指の芸達者であると感じさせる。
 落語の教科書のような高座。
 調べてみたら、2012年と2014年の扇辰との二人会で、この噺を聴いている。
 また、同じ会場の、この会の前身の睦会では2009年1月に聴いている。
2009年1月6日のブログ
2012年8月8日のブログ
2014年4月23日のブログ
 何度聴いても、流石、である。

春風亭一朝『蛙茶番』 (25分)
 芝居の大向こうについてのマクラから、この噺か、あるいは『芝居の喧嘩』か、どっちかなぁ、と思いながら聴いていた。どちらにしても、十八番、と言えるだろう。
 とにかく、半公の喜怒哀楽が、聴きどころ、見どころだった。
 舞台番という役目にふてくされていた半公を丁稚の定吉が、呼びに行く。
 お店の旦那に、化け物の芝居をする時は役をやる、今回は舞台番、と言われたと言って怒りまくっている半公の“怒”の場面は、江戸っ子の立て板に水の啖呵が心地よい。
 いったん帰った定吉が番頭に知恵を授けられあらためて半公を訪ね、半公が惚れているミー坊の名を出した際、喜びのあまり半公の声が裏返ったのには、笑った。
 湯屋に縮緬の褌を忘れているとも気づかず、かしらとその娘に往来で出会い、つい、着物の裾をめくってみせた場面の可笑しさは、なんとも言えない。
 下手に演じると、下品になる噺だが、流石の一朝、楽しく仕上げた。
 マクラを引くとほぼ二十分。寄席で鍛えた技量と言えるだろう。

 昨年6月、新宿末広亭で弟子一之輔の見事なこの噺を聴き、年間マイベスト十席に選んでいる。
2017年6月9日のブログ
 弟子の好高座は、その手本が良いからだ、ということを再認識。

 仲入りで、佐平次さん、I女史、F女史と立ち話。
 I女史と、「今日は、それぞれの十八番の日だね」ということで一致。
 
林家 花 紙切り (19分)
 2011年の新宿末広亭初席以来。
2011年1月8日のブログ
 その時、こんなことを書いている。
◇花:へぇ~っ、芸協には、こんな美人の女流紙きり芸人さんがいるんだ、と楽しく見させてもらった。トークもほど良い毒があり、私は好きだ。
 たしかに美人の部類ではあると思うが、あれから七年も経つと、やはりねぇ・・・・・・。
 ご挨拶代りの「京の舞妓」、リクエストで「藤娘」(あまり舞妓と違わないのでは^^)、なかなか声がかからないので「大谷翔平」(今ひとつ)、遅刻気味のリクエストで「パンダ」、師匠の今丸と同じように、最後はお客さんの横顔。加えて「長崎ぶらぶら節」を踊るサービス(?)付き。

 なお、女性の紙切りは、もう一人、三遊亭絵馬がいる。
 成瀬の東雲寺のさん喬、新治の会に出演していた。
2013年11月4日のブログ
 その時に新治が説明してくれたが、あの会の第一回では、花も出演したとのこと。
 技術は二人ほぼ互角かなぁ。トークは絵馬の方が上だと思う。
 絵馬は、東京演芸協会の所属で、こちらがプロフィール。
東京演芸協会サイトの該当ページ
 
瀧川鯉昇『味噌蔵』 (41分 *~21:24)
 十八番の日なら、きっと食べる場面のあるネタか、と思っていたら、この噺。
 マクラでは、五年前、飛行機のチケットを買う際、年齢の欄に正直に60歳と書いたら、係の人から「正直に書いてください」と言われた、というネタで会場が爆笑。
 仲入り前の二人は、落語協会で、きっちり、長い噺を聴かせる。芸協は、「あれ、終わったの!?」という高座。九十代で現役の噺家は芸協にしかいない。それだけ、力を抜いて楽にやる、などとふっていたので、逆に長講になるだろうと予想していた。
 ケチな味噌屋の主人が、周囲の薦めで嫁をもらう、というプロローグを長めに挟むが、他の人にはない鯉昇ならではの構成。
 番頭が、好きなものを順に言え、というのに対して、甚助さんが考えた挙句「梅干し」というのが、なんとも可笑しい。番頭が他にないかと言うのに「納豆」、でも笑った。木の芽田楽を売り出したのは「角のカラ屋」。その豆腐屋では、ただのオカラしかもらったことがないから、カラ屋だと思っていたという話には、彼ら使用人の日々の悲惨な食生活を思い、泣けてくる^^
 好きなものの中に「蒟蒻畑」が登場するのも、妙に笑える。
 女房の実家に泊まるはずの旦那が帰った後のドタバタで、蛸の酢の物の大皿を股の下に隠す甚助さんの何とも言えない表情が、秀逸。
 その酔った甚助さんの、解読不能の言葉にも会場大爆笑。
 食べる場面は、お手のもの。
 たっぷりの山葵で刺身を挟んで食べた時の驚愕の表情や、芋の煮っころがしをフウフウしながら頬張る場面などは、面目躍如。
 三人とも十八番ネタの競演の中で、芸協を代表して(?)の好高座、今年のマイベスト十席候補とする。


 終演後は、楽しみにしていた居残り会。
 リーダー佐平次さん、やはり事前にチェックしてくれていた。
 本命だったにぎわい座裏の居酒屋は、カウンター席のみで満席に近く、四人では無理。しかし、佐平次さんは他の店にも目をつけていた。流石。
 今年開店したばかりの焼き鳥がメインの、洒落たお店があり、ちょうど、テーブル席が空いていた。

 入ると、BGMが、ジャズ。
 なかなか、いい感じだ。
 焼き鳥や、焼き竹の子や卵焼き(焼きづくし^^)など美味しい料理を肴に、落語のことや能のこと、そして、I女史が、八十代、七十代、六十代の女性よったりで行ったフランス旅行のお話などで盛り上がり、高清水の二合徳利が次々に空く。今月中に、またお会いすることを約束し、名残惜しくお開き。
 帰宅が日付変更線を越えたのは、言うまでもない。

 あらためて、久しぶりの鯉昇も良かったし、扇遊、一朝も十八番で楽しませてくれた良い会だったと思う。

 そろそろ、喜多八ロスから、仲の良かった噺家さん達も、そして聴くこっち側も立ち直りつつあるような気がする。

 昨夜、我々が焼き鳥を串から外して食べていたのを、喜多八は空の上から、「そりゃぁ本寸法じゃござんせんぜ!」と、睨んでいたにちがいない^^

[PR]
# by kogotokoubei | 2018-04-12 12:47 | 寄席・落語会 | Comments(4)
 春風亭一之輔が、いろんな落語の舞台を歩く毎日新聞の企画「ぶらっと落語歩き」が、三月をもって連載終了とのこと。

 同新聞の記事から引用。

毎日新聞の該当記事

記者の目
「ぶらっと落語歩き」連載を終えて 街の未来図、探しながら=濱田元子(論説室兼東京学芸部)
2018年4月11日 東京朝刊

 古典落語を手がかりに、東京の「今」に、江戸の「昔」を探す。そんなたくらみから2013年4月、落語家の春風亭一之輔さんを案内人に始めた連載「ぶらっと落語歩き」(東京本社版朝刊)に、この3月でひと区切りつけた。振り返れば、「花見の仇討(あだうち)」から「三味線栗毛」まで56の噺(はなし)を取り上げた。往時の面影はほとんど失われてしまった東京だが、落語を重ねてみることで、埋もれた“地層”から思いがけなく江戸のかけらを見つけたことも少なくなかった。街も人も変わりゆくなかで、変わらないものもあっていい。どんな街で、どう生きたいのか。今またあらためて突きつけられているような気がする。

 結構楽しみにしていた。

 埋もれた“地層”から思いがけなく江戸のかけらを見つける、なんて、なかなか味のある表現。

 引用した内容の先は有料記事なのが、残念。

 「三味線栗毛」の最終回からも、少し引用。

毎日新聞の該当記事

 実は雅楽頭は実在した大名の名前。というわけで、一之輔さんとやって来たのが、かつての江戸城、今は皇居の大手門の前(東京都千代田区大手町1)。現在の大手町・丸の内かいわいは大名小路と呼ばれ、武家屋敷が建ち並んでいた。その中でも大老になれる家系であった酒井雅楽頭の屋敷があったのは、大手門のすぐ近く、江戸城に面した“一等地”だ。

 武家屋敷の面影はまったくなく、代わりに大企業のオフィスビル街へと変貌。皇居と堀が往時の名残をとどめる。

 「雅楽頭ってすごいよねえ。こんなところに屋敷を持ってたなんて。登城にも遅刻できないですよね」。大手町はホール落語会が多く、一之輔さんにとっては意外となじみの場所。「ランチタイムになるとタイ料理とかいろんなものを売りに来てますよね。そんなに高くないんです」

 このあたりの光景が一変したのは明治の初期。1871(明治4)年、雅楽頭屋敷跡に旧大蔵省の庁舎が置かれ、74(同7)年には旧内務省と合同の木造2階建ての新庁舎が建設された(1923年の関東大震災で焼失)。さらに時代は下り、現在は三井物産と三井不動産による大規模再開発工事の真っ最中。2020年2月末には2棟の高層オフィスビルが建つ予定という。
 『三味線栗毛』、現役なら喬太郎の高座を思い出す。

 2020年に向け、ますます、江戸のかけらを発見できる地層は、深くなるばかり。

 サイト「はなしの名どころ」の管理人、田中敦さんの本『落語と歩く』に関する記事で紹介したが、田中さんは、時代とともに失われる落語の舞台について「文庫(アーカイブ)」をつくる必要性があることを主張されていたが、まったくその通りだ。

 ほおっておくと、どんどん、落語の舞台は面影がなくなったり、その地名が味も素っ気もないものに変わってしまう。


 このちっぽけなブログででも、何かできることを考えたい。
 

 毎日の連載については、別な噺家さんで、再開を期待している。

 新シリーズは、ぶらっと歩きながら、小さな木札でもいいので、落語の名所案内を残すなんて企画はどうだろう。

[PR]
# by kogotokoubei | 2018-04-11 17:53 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛