噺の話

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 10月の記事別アクセスランキングは、次の通りだった。

1.『擬宝珠』—柳家喬太郎による古典掘り起こしの成果の一つ。(2014年1月18日)
2.NHK新人落語大賞の開催は10月22日、放送は11月4日(2018年10月3日)
3.円朝作『縁切榎』というネタで思う、いろいろ。(2016年8月10日)
4.今から140年前、なぜ明治政府は改暦を急いだのか。(2013年1月14日)
5.名作落語の夕べ 横浜にぎわい座 10月6日(2018年10月8日)
6.NHK新人落語大賞の結果、感想は放送を見てから。(2018年10月23日)
7.落語を楽しむための「マナー」について。(2016年6月21日)
8.松鶴に土下座させた、笑福亭小松という落語家のこと。(2014年8月4日)
9.『野ざらし』—サゲまで聴きたい彼岸に相応しい噺。(2014年3月25日)
10.桂文字助のこと。(2017年9月23日)


 1位と2位がアクセス数1000を越えた。
 3位は300台だから、ツートップがぶっちきり、という感じ。
 
 1位は先月に続き、喬太郎の『擬宝珠』について書いた四年余り前の記事。
 NHK「日本の話芸」での放送の影響かとは思うが、アクセス数が1500を越えるのは、珍しい。

 2位と6位にNHK新人落語大賞に関する記事。開催日と放送日を書いたものと、結果について書いた記事。
 4日の放送を見て、感想などを書くつもり。

 3位の『縁切榎』について書いた記事へのアクセス増は、鈴本の10月下席で、喬太郎がネタ出ししていたことで検索が増えたからだろう。ちなみに、この噺は10月30日の楽日に予定されていた。

 4位は、安定してアクセスのある明治の改暦の記事。

 5位は、10月一度だけ行けた落語会の記事。残念ながら、野暮用続きで寄席には行けなかったなぁ。今月はなんとか、と思っている。

 7位は、9月もランクインした「マナー」について書いた記事。落語会や寄席でのマナーについて関心が高まっているということだろうか。

 8位も、なぜかアクセス数が多い四年前の記事。

 9位に、『野ざらし』について書いた記事が入った。彼岸も過ぎているのに、なぜか理由は分からない。また、テレビで何か放送されていたのだろうか。

 10位に桂文字助の記事が入ったのは、ちょっと嬉しい。

 
 さて、早いもので、もう11月。

 3日は、 文化の日。

 「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨とする、文化の日。

 明治天皇の誕生日を祝う天長節、明治節を経て、昭和21年の日本国憲法公布の日、という背景がある。

 その平和憲法がないがしろにされる危機を迎えている。

 消費税値上げ問題がメディアを賑わす中、憲法問題の話題が極端に少なくなったように思う。

 落語を楽しむのも、スポーツを観たり実際にプレーして興じることができるのも、平和であればこそ。

 そんなことを考えてしまう、今日この頃。

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# by kogotokoubei | 2018-11-01 12:27 | アクセスランキング | Comments(0)
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長部日出雄著『笑いの狩人-江戸落語家伝-』

 『笑いの狩人-江戸落語家伝-』の最初のお話「江戸落語事始」からの、最終四回目。

 石川流宣の後押しもあって、長谷川町に住む塗師の安次郎は、鹿野武左衛門という名で江戸の咄職の先駆となり、人気者となった。

 しかし、武左衛門に、とんでもない災難が待っていた。

 その災難につながるのが、五代将軍綱吉の『生類憐れみの令』だった。

 綱吉の一子徳松が亡くなって以降、正室にも側室にも子が生まれないことを案じた綱吉の母である桂昌院に、僧の隆光が「前世の殺生の報い」であるからかたく殺生を禁じること、中でも綱吉は戌年生まれなので犬を大切にせよ、と進言したことから、天下の悪法が施行された。

 さて、そんな時代に、ある疫病が蔓延した。

 その年の四月ー。
 江戸にはソロリコロリという原因不明の奇病が蔓延して、沢山の人が死にはじめた。幕府では官医の余語古庵に命じて、治療法を研究させたが、悪疫の猖獗は一向にやまなかった。そのうちに奇妙な噂と、『病除(やまおよけ)の方書(ほうがき)』と称する小冊子が、巷に流れ出した。それによれば、あるところの馬が人語を発して、
ーこの病を防ぐためには、南天の実と梅干を煎じて服すれば即効あり。
 といったというのである。南天の実を乾燥させたものは、古来、咳どめの薬とされており、梅干は毒消し、または下痢どめの薬として知られている。ソロリコロリの主な症状は激しい嘔吐と下痢で、しかもその処方を馬が口にした、ということが、いかにも奇跡的な著効があるようにおもわせたのか、その小冊子は飛ぶように売れ、南天の実と梅干の値段は、平常の二十倍から三十倍にまで暴騰した。

 この事態を解決すべく、南町奉行の能勢出雲守頼相によって、流言蜚語の出所を確かめるために、一町ごとに人別改めが行われた。
 
 鹿野武左衛門と石川流宣は、「どこのだれか知らねえが、薬の方書なんか書かせておくのは勿体ねえ、咄職になったほうがいい」などど冗談を言い合っていた。

 ところが、とんでもないことが起こった。

 武左衛門の家へ二度目にやって来た町役人は、いきなりかれを縛って、呉服橋の南町奉行所に引っ立てた。
 奉行所の吟味場の砂利に敷かれた荒筵(あらむしろ)のうえに、縄つきで引き据えられた武左衛門に向かって、板の間を隔てた上段の畳敷きの部屋から、二人の吟味方与力のうちの一人が、怖ろしい形相でこういった。
「そのほう、よくも馬が物をいったなどと、不埒なことを申したな」
「め、めっそうもない」
 まるっきり身に覚えのない嫌疑に、武左衛門は動転して問い返した。「一体なにを証拠にそのようなことを・・・・・・」
「なにを証拠に?」尻上がりにそういって「白白しいことを申すなッ。ここに、ちゃんとこのように確かな証拠があるではないか!」
 吟味方与力は、持っていた一冊の書物を手で叩いた。それは確かに武左衛門の著書であった。かれは自分の話を集めて、十年まえに『武左衛門口伝はなし』、七年まえに『鹿の巻筆』という本を出していたのだが、与力が手にしていたのは、そのうちで一年まえに再刊された『鹿の巻筆』の一巻だった。
「ああ、それは・・・・・・」
 武左衛門は、ようやく事の次第を理解した。その一巻のなかには、『堺町馬の顔みせ』という話がある。

 この『堺町馬の顔みせ』という話は、現在『武助馬』として伝わるネタの原話。
 米河岸で刻み煙草を売っていた芝居好きの斎藤甚五兵衛という男が、念願かなって市村座の芝居に出ることになり、米河岸の仲間にぜひ総見し祝儀を上げてくれと頼んだ。とこどが、自分の役は、馬の後ろ足。それに気づいた仲間たちが「イヨーッ、馬さま、馬さま」と声をかけると、甚五兵衛も黙っていられなくなり、馬の尻のほうから「いいん、いいん」と嘶き、舞台を跳ね回った、というお話。

 与力の話では、江戸中を詮索した結果、『病除の方書』を書いたのは、浪人の筑紫団右衛門と判明したとのころ。彼が自分の本のみならず、南天の実と梅干を高値で売るために神田須田町の八百屋惣右衛門と共謀したのだが、この二人を取り調べた結果、馬がソロリコロリの処方を喋ったという話を、武左衛門から聞いたと白状したと言う。

 もちろん、武左衛門は否定し、反論した。
 
「それは嘘でございます」
 武左衛門は怒りと恐怖で身を震わせながら叫んだ。「だいいち、その筑紫団右衛門と申す浪人者やら、八百屋惣右衛門なる者、会ったこともございませぬ。さきほども申しました通り、わたくしめが喋りましたのは、馬の足の役者がなき声を真似たという話で、だいたい馬が人の言葉を喋るなどということは・・・・・・」
 (中 略)
「そのほう、いかにもまことしやかに、根も葉もないつくり話などして、おのれの名を売ったり、多額の金を儲けたり、それでこの世の中が通るとおもっておるのか!」
 与力の眼の色には、高名で実入りの多い武左衛門に対する深い憎悪と嫉みも籠められているようであった。

 武左衛門は、いわゆる“スケープゴート”にされたのであった。

 その後、穿鑿所(せんさくじょ)に連れて行かれた武左衛門は、尖った薪の上に座らされ、膝の上に思い石版を乗せる拷問を受けた。
 この様子は、読んでいるだけで痛くなる(?)ので、割愛。

 ついに、拷問の恐ろしさに耐えかねて、嘘の自白をすることになる。

 南町奉行能勢出雲守は、浪人筑紫団右衛門に斬罪、八百屋惣右衛門と鹿野武左衛門には流罪、板木元の弥吉には江戸追放を申しつけた。『鹿の巻筆』と『病除の方書』は、板木を焼き捨てられた。
 武左衛門は伊豆の大島に流された。命は助けられたものの、人に話を聞かせることを禁じられたかれは、死んだも同然であった。大島における武左衛門は、いつも無患子(むくろじ)の皮を煎じた汁をつけた葭の茎から、小さな泡のような水玉を吹き飛ばして見せては、島の子供たちの喝采を浴びていたという・・・・・・。
 幕府の狙いは、当ったともいえるし、当らなかったともいえる。鹿野武左衛門は、五年目の元禄十二年の四月に許されて江戸に帰り、八月に死んだ。五十一歳だった。かれの死後、どんな軽口や小咄も、幕府の怒りに触れるということで、江戸の落語は、すっかり廃れてしまった。

 とんだ、とばっちりを受けたものだ。

 しかし、鹿野武左衛門が本当に流罪になったかどうかについては、異説もある。
 延広真治さんが疑問を呈していることを、以前の記事で紹介した。『武助馬』として伝わる、問題となったネタ『堺町馬の顔見世』についても関山和夫さんの『落語名人伝』の引用で紹介した。
2014年1月12日のブログ

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延広真治著『江戸落語』(講談社学術文庫)

 重複するが、その記事から延広真治さんの『江戸落語』の内容を引用する。

大島遠島も証となるべき『流人帳』は現存せず(立木猛治『伊豆大島志考』、昭和三十六年)、赦免も、『旧幕府引継書』中の『赦帳』が、『正徳四年より享保九辰迄 御仕置ニ成候者此度赦ニ可罷成分窺帳』に始まるため、確認できない。八丈島遠島は、宇喜多秀家以来の『流人明細帳』により確認しうるが、武左衛門は不登場。したがって大島遠島に関しては確かめえないが、『延元年間秘事』も「板刻ハ焼捨」が、正徳六年(1716)板『鹿の巻筆』の存在により否定された以上、遠島も疑うべきであり、しかも無削除であるから、『鹿の巻筆』筆禍説は成り立つまい。


 このように、武左衛門が流罪になったことを裏付ける証拠に乏しいのである。

 しかし、武左衛門のつくった滑稽噺が、江戸の詐欺事件と結び付けられ、彼がとばっちりを受けたこと、そして、その結果、江戸の落語の火が消えたことは事実なのではなかろうか。

 長部さんの本から、鹿野武左衛門に関する「江戸落語事始」の記事、これにてお開き。
 他の話も紹介しようかとは思っているが、別な記事を挟んでからになる予定。

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# by kogotokoubei | 2018-10-31 12:47 | 落語の本 | Comments(4)
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長部日出雄著『笑いの狩人-江戸落語家伝-』

 『笑いの狩人-江戸落語家伝-』の最初のお話「江戸落語事始」からの三回目。

 自分の新作を披露して、初めて絵師石川流宣やその弟子たちを爆笑させることができた安次郎。流宣は、咄職を本業としてはどうかと安次郎に勧めるのだった。

「咄職というのは、この江戸にはまだねえ商売だが、なあに、あまえさんほどの腕がありゃあ、心配することはねえ。おまえさんがその気なら、及ばずながらおれたちみんなが贔屓になって後押しさせて貰うぜ」
 流宣はそう言って、弟子のほうに声をかけた。「なあ、みんな」
「へえ」「安次郎さんのためなら・・・・・・」「興行の旗持ちでも車引きでも、なんでもやりまうぜ」
 弟子たちは口口にいった。
「しかし・・・・・・」と流宣は「京の咄職が露の五郎兵衛で、江戸がおしゃべり安次郎というんじゃ、どうも貫禄がねえな。おまえさんの家には、苗字ってものはないのかい」
「なんでも聞いたところでは・・・・・・」安次郎は首を傾げて「先祖はさむらいで、志賀という苗字だったとか」
「元は武士で、苗字は志賀か。志賀の・・・・・・そうだ、鹿野武左衛門(しかの ぶざえもん)というのは、どうだい。これなら飄軽なところと、武張ったとことを両方あって、江戸の人間にゃあ、ぴったりだ。どうだい、この名前は」
「へえ、わたしには別に異存は・・・・・・」
「よし、決まった。おまえさんはきょうから鹿野武左衛門、江戸の咄職の元祖てえわけだ」

 というわけであった。

 なお、第一回の記事で、初代三笑亭可楽のお話、としばらく間違えたままだったことを、平にお詫びします。最近、以前では考えられないような間違いが、多くなったなぁ。

 さて、塗師の安次郎が、ついに咄職の鹿野武左衛門として、人様の前に顔を出すこととなる。

 中橋広小路の露天に、葭簀(よしず)張りの小屋を構えて、六文の木戸銭を取り、晴天八日の興行をした鹿野武左衛門の仕方咄は、たいへんな評判を呼んで、連日大入り続きの盛況となった。武左衛門はこのときのために、小咄ばかりでなく、身振り手振りを入れた仕方咄を練り上げて「しかた咄 鹿野武左衛門」の看板と幟を小屋の外に掲げていた。

 この後、「夢中の浪人」という仕方咄のあらすじが紹介されている。
 武左衛門の著『鹿の巻筆』巻二に収録されているようだ。
 浪人が仕官を目指して訪れたある殿様の家で、殿を待つ間にその家の子供が現れ、浪人に出された干菓子を持って行ってしまう。浪人が食べたと思われるのを厭い、何度も顔を出し菓子を盗む子供を脅かそうと、目と口と鼻の穴に両手の指を突っ込み、顔をできるだけ引きひろげ、「ももんがあ!」と嚇した。
 それでも懲りずにやって来る子供に、その都度、「ももんがあ!」をやる浪人。

 この話には浪人が「ももんがあ」の顔をつくるところが五回ある。武左衛門の顔はその五回とも、まるっきり違っていた。造作を横にひろげたり斜めにしたり八の字にしたりするので、浪人が顔をまえに伸ばして「ももんがあ!」と嚇すたびに、吹き出さずにはいられない。とくに「ももんがあ」の顔をしたまま、相手が殿と判った一瞬の表情の変化は、抱腹絶倒のおかしさだった。そして最後の憎きも憎し、と眦(まなじり)を本当に横に切り裂けんばかりに肘を張った両手で引きひろげ、「ももんがあ!」と威嚇するところでは、その浪人が怖いなら、おかしいやら、気の毒なやらで、聞く者は、ああ面白い、よい話を聞いた・・・・・・と、すっかり満足させられてしまうのだった。

 仕方の巧さのみならず、話を実話仕立てにしているところも、武左衛門の人気が出る要因だった。

 石川流宣や彼の弟子たちも、武左衛門のために協力した。

 -武左衛門のいるは賑わし涼み台
 という句を、人の目につく壁に書いて、かれの名前の広目(宣伝)をして歩いた。武左衛門の成功に刺激されて、江戸には、横山町の休慶、中橋の伽羅小左衛門(きゃら こざえもん)、おなじく伽羅四郎斎、芝の喜作・・・・・・といった咄職が生れた。そのことも、仕方咄随一の名人は鹿野武左衛門、ということになって、いっそうかれの名前を高めた。
 何年もしないうちに、鹿野武左衛門は江戸市中の人気者になっていた。

 塗師の安次郎は、ついに、江戸の咄職の元祖、鹿野武左衛門として人気を博すことになった。

 しかし・・・・・・好事魔多し、である。

 この後、あの事件が起きるのであった。

 その内容は、最終回にて。


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# by kogotokoubei | 2018-10-29 20:53 | Comments(0)

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長部日出雄著『笑いの狩人-江戸落語家伝-』

 『笑いの狩人-江戸落語家伝-』の最初のお話「江戸落語事始」からの二回目。

 長谷川町に住む塗師の安次郎は、得意がって町の住人に聞かせていた話を、絵師の石川流宣から批判される。
 安次郎は、ある話を思いつき、流宣の家へ駆け込んだ。

 安次郎はなにかに憑かれたような足どりで、石川流宣の家に行った。流宣は数人の弟子と一緒に絵草紙の制作をしていた。話を聞いて貰いたいんだ、と安次郎はいった。弟子たちは露骨にうんざりした顔つきをした。安次郎はまえにもこの家で何度か話をしたのだが、そのたびに、まるで面白くない、と弟子のあいだからは笑い声ひとつ起こらなかったのである。だが、流宣だけはいつもと違った気配を感じとった表情で、「いいよ、やってみねい」といった。

 この石川流宣という絵師、どんな人か知りたくなった。
 
 Wikipedia「石川流宣(いしかわ とものぶ)」を参照。

Wikipedia「石川流宣」
 この人、「生没年不詳」とのこと。
 「来歴」を引用。

師系不明。作は菱川師宣または杉村治兵衛の画風とされている。姓は石川、名は俊之。俗称伊左衛門。画俳軒、河末軒流舟と号す。戯作名は踊鶯軒。『江戸図鑑綱目 乾』(元禄2年〈1689年〉刊行)の「浮世絵師」の項に「浅草 石川伊左衛門俊之」としてその名が見え、浅草に住んでいたことが知られる。作画期は貞享から正徳の頃にかけてで、元禄期の主要な絵師の一人といわれている。作は主に好色本、地誌など版本の挿絵を描き、戯作も執筆する。また日本図、世界図、江戸図の木版地図の作画を手がけており、それらは「流宣図」と呼ばれている。一枚絵はあまりないが、『増訂浮世絵』によれば流宣の一枚絵で「元禄頃と思はれる単純素朴な傘をさした版画」があるという。

 結構、謎の人。

 だから、長部さんもこの話に登場させやすかったのかもしれない。

 さて、その流宣の好意で、新作を披露することになった安次郎。

 その話とは。

ーある人、座敷を建て直しましてな。近所の人を新宅に招いて振舞いをいたしました。酒のなかばに内儀が出て「なにもございませぬが、新宅を馳走に酒をまいりませ」というに、一座の者「さりとては物入りでござりましたろうが、結構なご普請でござる」といえば、内儀「うちの力ばかりではござりませぬ。みんな近所の衆のおかげじゃ」というた。 これを聞いた与茂作、家に帰って「あの家のご内儀は、実に利発なお方じゃ。あの身代で、だれの力を借りた筈もないのに、こうこういうた」と褒めて話せば、女房「それしきのことが、わしにもいえぬものか」というたが、それから十四、五日ほどして、この女房が出産をいたしまして、七夜の祝いに招ばれた近所の者が亭主に「きょうはまことにめでたい。ご内儀もお喜びでござろう。やすやすとご安産。しかも男子でござるによって」といえば、女房まかり出て「亭主の力ばかりで出来たのではござらぬ。これもみんな、近所の衆のおかげじゃ」・・・・・・。

 ご存知、寄席でもよく出会う噺、『町内の若い衆』だ。
 
 私の持っている本『落語の鑑賞 201』では、『枝珊瑚珠』(元禄三・1690年刊)巻五「人の情」に原型が見られる、と書かれているが、作者については説明がない。

 さて、この新作を聞いた、絵師たちの反応は、どうだったのか。

 話し終わったとき、一座はしんとしていた。やっぱり駄目だったのか・・・・・・と安次郎は気を落としかけたが、ほんの一瞬の間をおいて、爆笑が起こった。話があまりにおかしすぎたときには、笑い出すまでに、すこし間があくものらしい。そのかわり、いったん笑い出すと最早とまらぬ様子で、弟子たちは体をまえに折って笑い転げた。「これはおかしい」と流宣は涙を手で拭いながらいった。「これなら露の五郎兵衛にも負けぬ。いや、露の五郎兵衛の話でも、これほど笑ったことはない。よくできた。よくできたぞ、安次郎・・・・・・」
 初めて流宣に激賞されて、安次郎は眼に涙が滲むのを感じたが、「では、もうひとつ・・・・・・」と、笑いの余韻が静まるのを待って、次の話を始めた。

 次の話は、艶笑(バレ)ネタの小咄。割愛する。

 勢いに乗った安次郎は、その後も話し続けた。
 いや、そろそろ噺を続けた、と言ったほうが良いかな。
 これらの噺の評価が、安次郎の人生の転機になった。

「安次郎さん・・・・・・」
 石川流宣は深い感動を現していった。
「おまえさんの芸は、もう露の五郎兵衛に引けをとらねえよ。おれの考えじゃ、それ以上かも知れねえ。どうだ、ここでひとつ、噺職になってみる気はないかね」

 さて、石川流宣という大きな支えを得て、安次郎の将来は、この後どう変わっていくのか。

 それは、次回のお楽しみということで、今回はお開き。


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# by kogotokoubei | 2018-10-27 13:27 | 落語の本 | Comments(0)

 長部日出雄さんが亡くなった。

 実は、直木賞作家である長部さんの本は、次の一冊しか読んでいない。

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長部日出雄著『笑いの狩人-江戸落語家伝-』

 『笑いの狩人-江戸落語家伝-』は昭和55年に実業之日本社から初版、昭和58年に新潮文庫で再刊され、私はその文庫版で読んだ。

 次の五篇が含まれている。

 「江戸落語事始」「落語復興」「幽霊出現」「天然浮かれ節」「円朝登場」

 訃報に接して、再読した。

 「江戸落語事始」から、紹介したい。

 あの、鹿野武左衛門の話。

 主人公塗師職人の安次郎が住む長谷川町とは、どんな所だったのか。
 安次郎が可楽になるには、この町も大きな要因だったと思われる。

 長谷川町から人形丁通りを隔てた向う側には、堺町と葺屋町の芝居町がある。長谷川町の横丁の裏店には、職人や振売りの商人のほかに、芝居者や絵草紙屋なども大勢住んでいた。場所が場所だけに、このあたりには芝居町や吉原の噂話が、飯よりも好きな連中が多く、なかでも話好きな安次郎は、数日まえから聞き集めた噂話を虚実とりまとめて、小出兵助吉原出陣の一件を、長屋の涼み台に集まっていた連中に聞かせていたのだった。

 安次郎は、旗本の小出兵助が、夏の土用に虫干しだと言って鎧兜を身につけ、家来を引き連れて吉原に繰り出した際の騒動を、近所の住人に面白おかしく聴かせたのだった。

 その話を側で聞いていた男が、安次郎に声をかけた。

「安次郎さんとやら・・・・・・おまえさんの話、あまり面白くないね」
 安次郎はむっとした。現にいままで聞いていた連中は、自分の話の面白さに、手を拍って笑い転げていたのである。それを、あまり面白くないね、というのは、「どこがどう、面白くないんです」と、安次郎は聞き返した。

 その男は、安次郎の話のサゲの拙さを指摘し、京都で人気を博している露の五郎兵衛のことを口にした。

「たとえばね、こんな話をするんだ」 
 男はそういって話し始めた。
ー江戸と大坂と京の者がね、一隻の渡し舟に乗り合わせたというんだよ。そこでそれぞれ在所の話が始まって、江戸の者がいうには「江戸のほうじゃあ、何でも流行るものには、山号寺号をつけます。江戸でも評判の福安殿という名医がござってな、この人を医王山薬師寺と申して、ことのほか流行りまする」。それを聞いた大坂の人が「なるほど、いずかたもおなじことでございますな。大坂の芝居には四十三字平次という役者がおりまする」というのを聞いて京の人が「いや、別に珍しいことではない。京の島原には、皆さんご存じという太夫がござる」・・・・・・。
「ワハハハ」安次郎はおもわず哄笑した。

 この男は、菱川師宣の弟子で、石川流宣という絵師だった。

 流宣は、安次郎に言った。

「おれは話の一が落ち、二が弁舌、三が仕方と考えているんだが、おまえさんの落ちは、どうもあまりうまくねえ。だが、弁舌と仕方は、なかなかのものだ。おまえさん、中山喜雲の『私可多咄』は読んだことがあるのか」
「へえ」安次郎は頷いた。
 医師でもあり俳諧師である中川喜雲は、仕方咄の元祖でもあって、その『私可多咄』という本のなかの、-あるいは都人とかこち、あるいは鄙人とつくる。されば、わかちめ、あざやかならねば、しかたばなしになんしける。・・・・・・つまり、話し方よって、町育ちの者であるか田舎者であるか、はっきり演じ分けなければ仕方咄にはならない、という教えにしたがって、安次郎は身振り手振りに声色までまじえた自分なりの話し方を工夫していたのだ。
「そうだろうな。さっきおまえさんの話で、さむらいと傾き者の仕分けは、よくできた。けれど、何度もいうように落ちがうまくねえ。あの話の落ちは・・・・・・そうだ、こうしたらどうだ」

 安次郎にとって、石川流宣は実に重要な存在になってくる。

 さて、今回は、このへんでお開き。



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# by kogotokoubei | 2018-10-26 12:38 | 落語の本 | Comments(2)
 複数のメディアが、昨日行なわれた今年のNHK新人落語大賞の結果について報道している。

 本当は、結果を知らないまま11月4日の放送を観たかったのだが、これだけメディアが騒いでいると、そうもいかないなぁ。

 スポーツ報知から引用するが、結果を知りたくない方は、この先はお読みにならないよう願います。
スポーツ報知の該当記事

 若手落語家の登竜門として知られる「NHK新人落語大賞」の本選が22日、東京・渋谷の「NHKみんなの広場ふれあいホール」で行われ、3年連続4度目の本選出場となった桂三度(さんど・49)が大賞に輝いた。

 6人で行われた本選。三度は、採点で入船亭小辰(34)と同点となった後、5人の審査員の評価で3対2で上回る薄氷の大賞となった。「泣きそうです…。この賞を取れたら落語家としてやっとスタートに立てると思っていました。これからも精進します」。涙をこらえながら喜びを口にした。

 小辰に勝って欲しかった私としては、実に残念。

 放送を見て、自分なりの採点、感想を記したい。

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# by kogotokoubei | 2018-10-23 08:29 | テレビの落語 | Comments(0)

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 殿山泰司さんの『三文役者の無責任放言録』から、最終の三回目。

 殿山さんと川島雄三との密接な関係を示す部分から引用。
 なお、この文章は、以前にも紹介したように、『漫画読本』に連載されたもので、1963年7月の内容。6月11日に川島が亡くなって間もない時期の文章。

 -10年前の3年間ほど、毎年正月元旦から3日間、川島旦那はオレの家に居た。何処の酒場も開いてないからである。4日目になるとコツ然と姿を消して行方不明になった。東京無宿になるためである。オレが今でも時々東京無宿となるのは旦那の大きなエイキョウである。アリガトウでした。川島旦那が酔い痴(し)れて寝てしまうと、オレの側近のオンナは旦那を抱えてフトンへ運ぶのであった。《川島先生て意外と軽いのね》、オレはオンナの頬をピシッと叩いた。側近のオンナが言うべきことでない言葉を言ったからである。オレは聞きたくない言葉を聞いたからである。ああどうしてこう泣けるのだ。男は泣き虫じゃ。本当を言えばオレは追憶をケイベツする。しかし出てくる涙を誰が止められるのだ。

 
 川島雄三は殿山さんを含む多くの俳優に愛され、慕われた。
 
 だから、次のような会が開催されていた。

 川島旦那と周囲の人間たちによって、毎年1回パーティが持たれていた。オレたちはそれを《白山例の会》と言った。白山の某所に於て催されるからである。勿論川島雄三旦那が総裁である。このパーティではマジメな会話をするなんて愚かしい奴は1人も居ない。キタナラシイと思われるアソビをキタナラシク遊ぶパーティである。世界的にも最低である。最低こそ尊敬されるべきである。しかしオレの側近のオンナは《スケベエ会》であると看破した。誰かが密告しやがったかな。

 “キタナラシイと思われるアソビをキタナラシク遊ぶ”なんてぇパーティ、どんなものは覗いて見たくなる。

 その《白山例の会》で、殿山さんにとって晴れがましい催しがあった。

 オレが1962年度の主演男優賞なるものを2つばかり頂いたので、今年度のこのパーティの席上に於て、川島総裁に手から賞状を授与された。今にして思えばこの日が川島旦那との最後の日であったのだ。

 この1962年の主演男優賞とは、毎日映画コンクールの賞で、映画『人間』の演技が高く評価されてものだった。

 さて、川島総裁は、どのような言葉で殿山を祝してくれたのか。

 オレは悲しい。賞状を左に掲げる。

     賞  状

       新ばし浮人 殿山泰司
 右ノ者 浮人ノ身ヲ以て 映画界
 演劇界 TV界 トリコ界 オカマ界
 等々挺身シ 竿一本をヲ頼リニ 能ク
 主演賞ヲ奪取セリ 依ツテ
 玉杯一 玉一 ヲ相添エ ココニ
 コレヲ賞ス
   昭和三十八年三月十七日
           白山例の会

 この賞状を読む時の川島旦那の顔は、荘重そのものであった。オレも小学生の如く荘重な顔をした。他の人間はゲレゲラと笑ってやがった。不謹慎な。

 賞状の文面、名文と言えるだろう。
 続きを引用。

 家へ帰って頂いた小箱を明けてみたら、玉杯1しか出てこない。玉1なるものは何処にも無い。箱の底についてた説明書を読んで見たら、この盃に酒を満たすと玉1が浮んで見えると書いてある。慌てて酒を入れてみたら成程玉らしきものが浮んで見える。今度は水を入れるてみたらやっぱり玉が浮んで見える。ああこのオモチャの如き盃も、今では我が家の家宝となってしまったのだ。 
 敬愛する川島旦那よ。静かに眠って下さい。天国にも美酒や美女が沢山タクサンある筈です。広島も炎天下で汗の如く涙が出る。オレもボールペンをポケットにしまおう。再びサヨナラ。川島旦那よ。
 私もオニイサント一緒ニ川島旦那ノゴメンナサイ川島賛成ノ御冥福ヲ祈リタイト思イマス。有難う、ありがとう。小さな悪魔め。
 
 なんとも独特な文体ではなるが、殿山さんの川島雄三を思う心は、十分に伝わってくる。

 川島雄三没後二十六年、平成元(1989)年に、殿山さんも天国に旅立った。

 今頃は、美酒や美女で溢れる天国で、川島旦那と殿山さん、そして小沢昭一さんに加藤武さんなどが、キタナラシイと思われるアソビをキタナラシク遊んでいるに違いない。

 このシリーズ、これにてお開き。

 殿山さんは、本書の後にも何冊かエッセイを残してくれている。

 ぜひ、読んでみたいと思う。

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# by kogotokoubei | 2018-10-19 23:57 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 殿山さんの本のシリーズは、いったん休憩し、新聞のコラムについて。

 落語好きと思しきコラムニストによる東京新聞の昨日の「筆洗」が、消費税に関連して、落語『真田小僧』を取り上げていたので紹介したい。
東京新聞サイトの該当コラム

筆洗
2018年10月16日

 落語の「真田小僧」に出てくる金ちゃんはずる賢い。こづかいをくれぬおとっつぁんにおっかさんの「秘密」を教えてやると持ちかけ、まず一銭、巻き上げる▼「おとっつぁんのいないときに白い服を着て色眼鏡をかけたキザな男が来た」「おっかさんが手を取って家に上げた」。おとっつぁんの気になるところで話を切ってはそのたびに「ここから先が聞きたきゃ、もう少し出しなよ」「ここから先を話すのは子どもとしてはとってもつらいんだ。もうちょっと…」。おとっつぁんは言われるがままにおあしを出してしまうが、結局、おっかさんのところに按摩(あんま)さんが来たというだけの話だった▼「真田小僧」にしてやられている気がしてならぬ。安倍首相は十五日、消費税率を来年十月一日に現行の8%から10%へ引き上げる方針を正式に表明した。導入以来5%、8%と三度目の引き上げとなる▼「財政の危機だから」「社会保障制度を守るためだから」と言葉巧みに説得され、その度引き上げをがまんしてきたが、ついには10%である▼しかもこれで将来の社会保障制度は安泰かといえば、そんな話では毛頭なく、最近の政府税調では先細りしていく年金を背景に国民の「自助努力」を促す方針という▼消費税率を引き上げる上に、老後のことは自分でも何とかしなさいよでは無策と無責任さに真田小僧も顔を赤らめるだろう。

 ネタを小出しにすることからこの噺を思い出したのかと察する。

 この噺、9月の同期会の二席目で披露した。まぁまぁの出来だったと思う。
 いつもは辛口の同期の落語通の女性から、褒められた^^

 サゲの「薩摩に落ちた」までやったが、安倍首相は、その薩摩で総裁選出馬声明をし、NHKのみ生放送していたようだ。

 さて、『真田小僧』は、話の肝心な部分で講談のように切れ場をつくり、父親の紙入れから銭を捻り出すのだが、父親が心配したその話は、結局は女房の浮気ではなく按摩さんの来訪だったのだから、聞く側にも救われる面がある。

 しかし、消費税値上げは、3%->5%->8%ときて、来年10月に10%となるにあたって、その財源が社会福祉など国民にとって有益に使われるのか不透明で、救いがない。

 その増えた税収の多くが、首相のお友達にのみ還元されるのではないか、と疑念も沸く。

 加えて、軽減税率で8%として残る物もあるようだが、この基準が実に不明確。

 コンビニで買って帰る場合は8%で、イートインなら10%か・・・なんてことが話題になっているが、そんな複雑なことでは、システム化するのも大変だ。

 私見だが、消費税アップは、必要だと思う。
 問題は、増えた財源が、どう使われるかだ。

 また、明確な説明ができないまま値上げすることだけが公表されているのは、永田町も霞ヶ関も、仕事としてお粗末と言える。

 たとえば、「将来の高齢化と医療費増加に備えて、消費税は10%にします。その財源は、○○○のために使い、首相のお友達の便宜のためには使いません」と明確に言えないところが、なんとも歯がゆい。

 当り前だが、真田小僧とは似て非なるものだ。

 なにより、真田小僧の金ちゃんは、憎らしいけど、可愛いいじゃないか。

 そして、金ちゃんは、かしこい。

 父親の言葉を一回盗み聞きしただけで、あれだけスラスラと真田三代記を語るのは、そう簡単ではないよ。

 私だって、結構稽古したから、人様の前で披露できたのだ^^

 首相や官房長の言葉は、どうも、その事前の稽古、もとい、準備不足を感じてならない。

 来年10月以降、コンビニのイートインに閑古鳥が鳴くかどうか。

 少なくとも、真田小僧の金ちゃんは、イートインで焼き芋を食べないに違いない。

 
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# by kogotokoubei | 2018-10-17 12:42 | メディアでの落語 | Comments(4)


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 殿山泰司さんの『三文役者の無責任放言録』から、二回目。

 仕事先の広島で川島雄三の訃報に接し、流山のBARで飲みながら涙が止まらなかった、殿山さん。

 映画のロケ先の広島では、乙羽信子さんも一緒だったと書かれていた

 撮影していたのは新藤兼人監督の「母」。
Wikipedia「母(1963年の映画)」

 脳腫瘍の子供のいる主人公を乙羽さんが演じ、殿山さんは三人目の夫の役だ。

 
 さて、広島で泣き明かした、その後のこと。

 告別式の日、仕事の都合で偶然に東京に帰れた。しかしオレは汚れたシャツ1枚でサンダル履きであった。ウチへ帰る暇もなかった。小沢昭一に電話をした。構わないよ、その方が旦那も喜ぶんじゃないかな、と言ってくれた。川島旦那は解ってくれるだろうが、解ってくれない沢山の人間の眼がイヤであった。芝大門のお寺へ行かないことにお決意した。1万円の香典を事務所の人間に託した。
 何故1万円なぞとイヤらしきことを書いたのか説明したい。川島旦那の手下であった日活の今村カントクから、旦那がこの世に残したものは借金ばかりである。だから香典は1万円にしろと命令があったのである。命令は守らなければならない。命令は守られてこそ組織のチカラは発揮出来るのである。ツマランことを書くな、川島雄三伝だぞ。

 川島のこの世に残したものは、借金ばかり・・・・・・。

 弟子の今村昌平が、その借金を少しでも返済するための、香典一万円縛り、だったということか。

 「団塊世代の想い出」というサイトに「昭和の物価」というページがあった。
「団塊世代の想い出」の該当ページ

 昭和38年当時、公務員の大卒初任給が15.700円、かけそばやラーメンが40~50円、喫茶店のコーヒー60円、銭湯23円、映画館が250円という時代。

 私が八歳の時で、たしかに、近所のラーメン屋さんのラーメンが、50円だったような気がする。

 その高額な香典で、果たしてどんな供養ができたのだろうか。


 この後の部分も引用する。

 ああ又しても涙がポロポロと出る。思えば川島旦那とオレのそもそもの出会いは、昭和21年晩秋の大船撮影所であった。オレは中支より復員したばかりであった。オレにとっては見知らぬ撮影所であり、イヤな日常の中で、風景にも、オレの精神にも冷い風が吹いていた。そんな或る日、撮影所前のメシ屋でオレは得体の知れない酒を飲み、川島旦那も得体の知れない酒を飲んで居た。川島旦那はあのギロギロした眼でオレを睨みつけていた。何故睨みつけられたのかオレには判らない。オレの態度が不遜であったのであろうか。オレは人見知りをするからつい態度が不遜になってしまう。キライな習性である。しかしやがて酒のチカラで会話が始まった。川島旦那とオレとの交情の幕が開いたのだ。会話は主に織田作之助や太宰治に就てであった。初めての日、旦那とオレは初めて肩を並べて新橋へ出た。酒を飲むためである。記念すべき日であったのだ。涙が出る。

 話題になったという二人の作家について、川島は織田作は肯定的に、そして、太宰は否定的に語ったのであろう。
 殿山さんも同じような織田作と太宰への印象を抱いていたのかは分からないが、初対面で肩を並べて酒を飲みに行ったということから、意気投合したと察する。

 三歳上の殿山さんだが、川島との関係は年齢の差とは逆だったようだ。

 《下手な役者奴》と川島旦那によく言われた。下手な役者と言われることは役者にとっては不快な言葉である。しかし旦那の《下手な役者奴》の中にはユラメク様な愛情があった。胸の熱くなる様な信頼があったのだ。
 《下手なカントク奴》とオレも小さな声で言いたかったけどとうとう言えなかった。バカ、当り前ョ、オニイサンコソ死ネバヨカッタノヨ。

 なんとも独特の言い回しだが、殿山さんの川島雄三への想いが、十分伝わってくるではないか。

 二人で飲んだ時のこと。

 川島雄三は酒飲みであった。川島旦那は小児マヒであった。だから酒場で酔ってよく倒れた。パタンと倒れた。それはパタンと形容していい様な倒れ方であった。そんな時オレは手を貸さなかった。手を貸すなどとはいと易き行為である。手を貸さぬことこそ死ぬ程ツラかったのだ。オレは慌てて酒場のオンナに話しかけたり、眼をつぶって酒をガブガブと飲んだ。オレの胸の中を涙が流れていたのを誰も知るまい。酒場のオンナは非情なオレを睨みつけた。オンナなぞに何が判る。無礼者!!非情こそ厚き友情なのだ。非情こそ真紅に輝く花なのだ。オレは旦那の根性を尊重しただけである。川島旦那は何事も無かった様な顔をして再びオレの隣に坐って、酒を飲み始めるのであった。涙が出る。

 二人の男の、それぞれのダンディズム、ということか。

 倒れても助けないダンディズム、そして、何事もなかったかのように、カウンターのスツールに戻るダンディズム。

 小児マヒ、というのは誤りである。

 川島は松竹に入社時に、身体に何らかの問題があったわけではなく、助監督時代は、監督の指示により走り回っていたという証言がある。

 だから、成人してからの病であり、その病名は、藤本義一の『生きいそぎの記』について書いた記事の五回目に登場する。
2018年9月27日のブログ

 弁慶と牛若丸のどちらが好きか、という話題で川島と口論して家に帰った藤本が川島からの電報を見て、宿に帰る。
 川島が不在だった部屋にあった『家庭医学全書』の燐寸棒の栞のあるページで、藤本はその病名を目にした。
 シャルコー病、あるいは、筋萎縮性側索硬化症。これが、川島雄三の病だった。

 
 次の最終回は、そんな川島が殿山が初の映画賞を受賞したことを、どのように祝ってあげたのか、などを紹介したい。

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# by kogotokoubei | 2018-10-16 12:36 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(4)

 川島雄三については、今年が生誕百年ということで、落語会を含みイベントが開催されているということを、以前書いた。
2018年6月13日のブログ

 なお、『幕末太陽傳』に登場するネタが披露される落語会は、六本木俳優座で10月29日~11月3日に開催。

 まだ、行くかどうか、迷っている。
 あの会、木戸銭も安くはないし、果たしてあの企画を天国の川島雄三は喜んでいるのかどうか、なんてことを思っている。

 また、川島と共同で映画「貸間あり」の脚本を書いた藤本義一の『生きいそぎの記』について、9月20日から五回にわたって紹介した。
2018年9月20日のブログ


 その川島雄三について、ある俳優さんが書いている本を、先日古書店で発見。

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 殿山泰司さんの『三文役者の無責任放言録』である。
 私の大好きな、俳優さんだ。

 角川文庫版だったが、この本の初版は昭和41(1966)年の三一新書。そして、この角川版は昭和59(1984)年発行だが、その後、平成12(2000)年には、ちくま文庫でも再刊されているようだ。

 いずれにしても、古書店でしか入手できない本。

 立ち読みして、買うことに決めた章が、この川島雄三について書かれた一文。

 冒頭部分を、引用。
小さな《川島雄三伝》《1963・7》

 オレ如き若輩が《川島雄三伝》なぞとオコガマシイ。百も承知。書くべき人は沢山居る。先輩諸兄よ。貧しい三文役者の非礼を許して下さい。書きたいのです。ポロポロと涙が出る。オレの涙にうるんだ瞳に免じて許して下さい。《小さな》と言う字を付けたのも原稿の枚数の関係ではありません。精神の関係です。叱らないで欲しい。イヤ叱られても書く。

 三一新書の初版発行は、前述のように昭和41年だが、内容は文藝春秋の『漫画読本』の連載が元であることを、本文庫解説で井家上隆幸が説明している。

 川島が亡くなったのは、昭和38(1963)年6月11日なので、まだ、記憶が鮮明な時の文章だ。

 引用を続ける。

 ロケ先の広島で川島旦那の訃に接した。信じたくなかった。嘘だと思った。同行の乙羽信子も《信じられない、信じられない》とツブやいていた。悲しくも本当であったのだ。ロケバスの中で、宿舎の部屋で、オレはポロポロと泣いた。川島旦那よ、何故オレよりも先に天国へなぞ行ってしまったんだ。極道なオレが先に行くべきであった。バカタレじゃ。オレも連れてってくれ。

 ね、まだ冷静さを取り戻してはいない、文章でしょ。

 殿山泰司は川島雄三より三歳上の大正四(1915)年10月17日生まれ。
 だから、川島が今年二月で生誕百年だったが、殿山は明後日に生誕百三年、ということになる。記念日とは、言えない。

 引用を続けよう。

 その夜、オレは流山のBARへ行って浴びる程ウィスキーを飲んだ。マダムが《どうしたの今夜は》と言った。《お通夜じゃ》《誰の》《知らん、誰でもエエ》。涙がポタポタとグラスの中に落ちた。ウイスキイと一緒に飲んだ。死ぬ者はバカタレじゃ、と怒鳴ったらしい。マダムもオンナ達も遠ざかってオレを一人にしてくれた。その心情が嬉しかった。

 ここで、日活のサイトにある『幕末太陽傳』のページのCastの紹介から、殿山泰司の短いプロフィールを引用する。
日活のサイトの該当ページ

仏壇屋倉造:殿山泰司
1915年10月17日-1989年4月30日。亨年73歳。
1936年に新築地劇団に入団。39年に千葉泰樹監督作品『空想部落』でスクリーンデビューを飾る。42年に興亜映画に入所し、第二次世界大戦をはさんだのち『森の石松』(49)などの吉村公三郎監督作品に参加し、50年に吉村公三郎監督が設立した近代映画協会に創立メンバーとして参加する。その後、様々なジャンルの映画に出演し名バイプレイヤーとしての地位を確立した。


 殿山さんの名は、五年近く前になるが、五街道雲助の本を紹介した記事の中で、雲助の「酒の師匠」であった、「かいば屋」の常連として登場した。
2013年11月21日のブログ

 「かいば屋」が、のれんを新しくする際、その字を書いたのが殿山さん。


 また、吉村平吉さんの『吉原酔狂ぐらし』を紹介した記事にも登場する。
2014年6月7日のブログ

 作者吉村平吉は、野坂昭如の『エロ事師たち』のモデルであり、『実録エロ事師たち』という著作もある。野坂昭如の原作を元にした映画は今村昌平監督により主役は小沢昭一さんだったが、吉村さんの“実録”の方は、日活ロマンポルノの曽根中生監督で映画化され、主演が殿山泰司さんだった。

 吉村、野坂、田中小実昌といった人たちとの“酔狂連”という文化的(?)サークルのメンバーとしても殿山さんの存在は大きかったようだ。


 次回は、香典の金額が明かされ、その金額を指定した人や、なぜそうだったかなどについても、ご紹介したい。


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# by kogotokoubei | 2018-10-15 12:44 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(6)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛