噺の話

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 明日8月25日は、旧暦七月十五日。
 
 かつて、お盆はこの時期。

 お盆については、仏教行事という説と、いや先祖を敬う神事であるという説がある。

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神崎宣武著『旬の日本文化』(角川ソフィア文庫)
 何度か紹介している神崎宣武著「『旬』の日本文化」(角川ソフィア文庫)の「盆と生見玉」の章から、引用したい。

 ちなみに、この著者、言い切る文体が、結構強い調子になる。切れ味が鋭い、とも言えるかな。昭和19年生まれ、岡山県宇佐八幡神社宮司で、民族学者。旅の文化研究所所長でもあるらしい。

 盆は、旧暦七月十三日から十五日ないしは十六日にかけて、先祖の霊を家に迎え、供物を供えて供養する行事である。仏教の盂蘭盆経(語源は梵語のullambana)に由来するとされ、盆会ともいい、一般には仏教行事に位置づけられている。文献上みられる最初の例は、『日本書紀』によると、推古十四(606)年、宮廷の仏教行事として行なわれた、とある。それは、中国での行事にならったものと推測できる。
 しかし、盂蘭盆経がいかなるものであったか、以後の日本ではほとんど問うことがなかった。民間に広まった盆行事は、仏教色が薄く、むしろ祖霊崇拝のかたちが顕著にみられるのである。
 日本では、古くから死者の霊を祀る「御魂まつり」とか「御魂しずめ」がこの時期行なわれていた。民間の盆行事は、そうした土着の祖霊信仰と仏教の回向とが融合したもの、とするのがよい。現在も、盆行事が画一的でなく、地方によって少しずつ異なるのは、その土台にそれぞれの御魂まつりや御魂しずめの習慣があるからなのである。

 ということで、中国の仏教行事を元に始まり、次第に、日本の祖霊信仰が融合したのが、お盆。

 諸霊を迎える、という意味では、盆と正月は共通している。

 ひらたくいえば、盆も正月も、カミ、ホトケ、それに祖霊を家に招き、もてなし、親しく交流をはかるまつりにほかならないのだ。
 行事の構成も、似たようなもの、と対比できる。たとえば、正月を迎えるにあたっての祓いが「煤祓い」や「大祓い」であるのに対して、盆を迎えるにあたってのそれが「夏越の祓い」。神仏の迎えが、正月では依代(よりしろ)としての門松、盆のそれが迎え火。その違いは、山からの歳神(歳徳神)か墓からの祖霊かの違いにすぎない。常緑樹も篝火も依代としては同じ意味をもち、ところによりまつりによりつかいわけがされるだけのこと、と考えるのがよい。祓いをして、しかるべくのちに依代をもって諸霊を迎える。その構図の共通こそが大事なのである。

 依代とは、憑代とも書き、神霊が依り憑く(よりつく)対象物のこと。
 門松と迎え火を、同じ依代として並べて考えることは、あまりないだろう。

 時期は新暦に替わったが、門松も送り火も、現代まで継承されている。

 しかし、ほとんど消えかかっているお盆の行事がある。

 盆行事の場合は、先祖霊が主賓である。その先祖たちの霊界と私たちの世界をつなぐ存在として長老が敬われることにもなる。長老は、つまりは生見玉(いきみたま、生御魂)である。いいかえるならば、カミ・ホトケを最上位とし、ご先祖さまが中間にあって、現世の人間が下層に連なる構図にほかならない。「お宮さん、お寺さんづとめは、年寄りの役目」といってきたし、現在でもそうされるのは、その伝統的な世界観のせいである。
 したがって、盆行事では、祖霊を迎えて祀るだけではなく、生見玉へ敬意を表し、祝福する習俗がもとはかなり広範にみられた。古く『親長卿記(ちかながきょうき)』の文明八(1476)年七月十一日の条に、「若宮御方巳下有御祝之儀、いきみたま云々」とみえるので。すでに室町時代には生見玉を敬う習俗があったことがうかがえる。
 江戸時代になると、それは庶民のあいだでも広く行なわれるようになった。たとえば、『日本歳時記』の七月十三日の条に、「生見玉の祝儀とて、玉祭りより前に。おやかたへ子かたより、酒さかなをおくり、又饗をなす事あり。いつの世よりかはじまりけん、今の世俗にする事なり。死せる人は、なき玉をまつるに今いける人を相見るがうれしき、とのこころなるべし」と記されている。「敬老の日」が法廷祝日となったのは、昭和四十一(1866)年のことであるが、すでに往古よりその原型たる行事があったのだ。死霊を祀るまえに生霊の長生きの祝いをしたのである。


 祖霊を迎えるお盆行事の直前に、長老を生見玉(生御魂)として敬う。
 これは、ほとんど消えてしまった習俗だろう。

 現在の敬老の日とは、その意味合いも、成り立ちも違う。

 とはいえ、時期は違うにしても、長老、そして親を敬うことはいいことだろう。

 そう考えると新暦でも旧暦でも、自分自身の祭礼を設けることはできる。

 私はおかげさまで両親が健在だが、北海道にいるので、自分が休みをとって訪ねやすい四月下旬に顔を見せに行くようにしている。

 自分にとって、生見玉の祝儀である。

 今夜は、満月に近い月が、なんとも綺麗だ。地球に接近している火星も明るい。

 かつてのお盆は、こういう空と月の下で迎えていたということか。

 やはり、七夕やお盆は、旧暦であるべきだと思うなぁ。


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# by kogotokoubei | 2018-08-24 21:52 | 旧暦 | Comments(2)
 私の読書や、このブログの記事は、芋づる式になることが多い。

 先日の鈴本夏まつりの終演後の居残り会で、さん喬の『五人廻し』のことから、喜多八のことに話題がつながり、私が、喜多八は師匠小三治と同じ親が教育者という共通点があり、入門がすんなり決まったという話をした。
 その話の出典は浜美雪著『師匠噺』だったのだが、居残り会では、それを小三治の奥さん、郡山和世さんの著書と勘違いしていた。

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郡山和世『噺家カミサン繁盛記』

 そんなこともあって、『噺家カミサン繁盛記』の中で喜多八について書いている内容を探しているうちに、ほとんど全編を再読していた。

 何度読んでも、楽しい本だ。

 今回は、弟子のことではなく、オカミサンついて。

 お題は「オカミサン三人寄れば・・・・・・」

 小三治の弟弟子、さん喬師のカミサン、玲子ちゃん。
 もう三十路をいくつか過ぎただろうに、いつ会っても女学生のようにかわいらしい。

 ことわっておくが、この本の初版は1990年。文藝春秋からの単行本。数編書き加わって講談社文庫から発行されたのが1999年。
 ちなみに、私はどちらも持っている。
 
 引用続き。

 噺家のカミサンの鑑、いえ、女房族の鑑と言えるような女性。若い噺家達にもずい分とファンがいるようだ。
 去年の秋、先輩、扇橋師のオカミサンと私と彼女で京都へ三人旅をした。
 だいたい、噺家になろう・・・・・・なんて人は、すべからく奇人、変人の少なくとも親類筋になる方ばかりだから、その女房に志願する女性ともなれば、その上を行くんじゃないかな。
 自分はごく、普通人と思っているけど、どうしてどうして、私を含めて皆クセのある人と思って間違いない。
 扇橋師のオカミサンは、一見、日本の母の代表選手みたいな方だけど、長年お付き合いしていると、ほんとうに嬉しくなっちゃう程、嬉しい方だ。

 こういった文章が、著者の持ち味で、つい、「おいおい、どんな嬉しい方なんだ!?」と興味が湧くのである。

 青梅出身の方と伺っているけど、その体に流れる血は、どうみても江戸下町のオカミサン。働きもので、その上、器用。和裁、洋裁なんでもござれ。
 独特の口調で、
「イヤ~だヨォ!」
 なんてセリフを言うのだが、私達にとっては、たまらなく嬉しい。
 小三治が、落語に登場するオカミサンの口調のモデルにしたほどだ。
 三人旅をしている間に、私もさん喬師のオカミサンも、すっかりその口調がうつってしまった。三人して「イヤ~だヨォ!」の連発をしながら、嬉々として初旅に挑戦。

 小三治の落語のオカミサンのモデルが、盟友扇橋のオカミサンだったとはねぇ。
 この三人旅、なかなか楽しそうではないか。

 扇橋師のオカミサンは、名前がサチコさんなので、私達は「サッチャンネェちゃん」と呼んでいる(噺家社会では、どんなに年をとっても先輩女性はお姐さん)。
 サッチャンネエちゃんは、初旅にあたって、大張り切りで、早起きして、ゆで玉子とおにぎりを沢山作って持ってきてくれた。おせんべいやバナナもボストンバッグに詰め込んで、さしずめ部隊の兵糧係。私ァ、口先ばかりの斬り込み隊長。
 さて、サッチャンネエちゃんがせっかく作った、ゆで玉子とおにぎりは、どうなったのか。

 京都に到着後、喰い意地の張っている私は、あっちへ行っても、こっちは行っても、名物を口にほうばる。南禅寺の湯どうふ、嵐山ではニシンそば。先斗町の懐石膳。八坂神社近くのいもぼう。太巻寿司・・・・・・。
 で、ハッと思い出した。サッチャンネエちゃんのゆで玉子とおにぎり。どうしよう。いい気になって食べすぎて、夜食等、もうとても入らぬほど、詰めこんじまった。「全く、和世ちゃんは良く食べるべェ・・・・・・」とサッチャンネエちゃんは言いながら、きっと、ゆで玉子とおにぎりを気にしていたに違いない。どうしよう。そっと玲子ちゃんに訊いてみる。
「私も、もう入りません・・・・・・。でも今日中に食べなきゃ、サッチャンネエちゃん気を悪くしますヨ・・・・・・。和世姐さん、頑張って下さい!」
「頑張ってったって・・・・・・」
 そんな私達の気配を感じとったのか、サッチャンネエちゃんは、
「ゆで玉子とおにぎり、もう食べらンないだろ。いいよ気にしなくとも」
 と言ってくれた。
「ごめんネ。明日の朝、食べるから・・・・・・」
 結局、翌朝、いくつか食べたが、あらかた処分するハメに。ほんとの申し訳ございませんでした・・・・・・と、うなだれる後輩二人に、「いいよオ~、気にしないでよオ~」と、いつものように明るい笑顔、ホッ!

 サッチャンネエちゃん、ほんと、嬉しくなる人だなぁ。

 この三人旅、落語に負けないカミサン三人の珍道中。

 京都見物は、さん喬カミサンが案内係。
 もっとも、性格的に正反対の私と扇橋師のオカミサンの間に挟まって、さぞや、さん喬師のオカミサンは疲れたことだろう。
 私は、自分で言うのも何だが、極く、気が短い。その上気性が人一倍激しい。すぐケンカ腰になる。 
 扇橋師のオカミサンは、苦労人ゆえ、おっとり、さわがず、どちらかと言えば気の長いおヒト。
 さん喬カミサン「お姐さん方、これからどちらへ行きましょうか?」
 扇橋カミサン「どこでも良いよ。なんでもいいから良いようにしてくれよ」
 小三治かみさん「早く決めちゃおうヨ!ヨシ、こっちにしよう!ネッ?いいよネ?」
 さん喬カミサン「ハッ、アッ、よろしいんですか?ハイッ!アッ!そうですか?」

 まるで、『長短』の主人公二人の間に、人の良い甚兵衛さんが加わったような、会話^^
 買い物にしても、こんな感じ。

 小三治カミサン「ワッ!これいいねェ。買っちゃおうかな」
 扇橋カミサン「およしヨ、もったいない。そんなの買ったって、結局無駄だヨ。おやめヨ!高いじゃないかヨ。その茶碗。一個の値段だよ。やっぱり高いですヨ!」
 小三治カミサン「いいじゃない。私が買うんだからァ。お姐さんに迷惑かかるわけじゃないんだからァ」
 扇橋カミサン「でも、もったいないヨ。それよか、こっちにある漬物でも買いなヨ。亭主がよろこぶヨ。うまそうだし」
 小三治カミサン「いいの!この際亭主は関係ないの!亭主喜ばせるために旅してんじゃないもんネ」
 扇橋カミサン「まったく和世ちゃんは強情なんだから。そういう調子で亭主をやりこめてんだろ」(図星です)
 さん喬カミサン「まアまアお姐さま方、ネッ?ハツ?イエ、そうそう、アッ!そうですか?ハッ!アア・・・・・・ネエ~?」
 これでどっか気が合うんだなァ。なんてネ。

 「これでどっか気が合う」・・・やはり『長短』だ^^

 その後、再びこの「三人旅」が実現したかどうかは不明だが、きっとどっかに行ってることでしょう。

 この本、何度読んでも、楽しい。

 小三治と三歳違いの昭和十七年生まれの和世さん、今もお元気で亭主をやりこめているのかどうか。

 できるものなら、続編を書いていただきたいものだ。
 噺家本人が書いた本は少なくないが、オカミサンが書いた本は、実に貴重なのである。


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# by kogotokoubei | 2018-08-23 12:33 | 落語の本 | Comments(6)
 先日の居残り会で、喜多八の話題も出た。

 さん喬の高座についての会話の中で、二、三人の方が、喜多八の『五人廻し』が良かった、と回想。

 あんな噺家、今はいないねぇ、と瞬時、お盆らしく亡き噺家を偲ぶ。

 その話の中で、私は、小三治の奥さん郡山和世さんの本(『噺家カミサン繁盛記』)から、として喜多八入門の際の逸話を紹介した。

 しかし、書いていた本は、記憶違いだった。
 『噺家カミサン繁盛記』をめくったのだが、その件は書いていない。
 あら、どの本だったっけと探した結果、ある本で発見。

 居残り会メンバーへのお詫びを含めて、紹介したい。

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浜美雪著『師匠噺』

 その話を読んだのは、浜美雪著『師匠噺』だった。

 この本は、何度か紹介している。
2009年1月24日のブログ
2010年6月16日のブログ
2018年5月7日のブログ

 春風亭柳昇のこと、柳昇と昇太、さん喬と喬太郎のことで引用したが、小三治と喜多八の章からは初めて。

 副題が「じゃあしょうがねえな」となっているが、なぜこんなお題になったのか。
 まず冒頭部分、懐かしい喜多八の姿が目に浮かぶ内容なので、少し長くなるが引用する。

 師弟関係というものは、年齢が近いと親子というよりは、兄弟や先輩後輩、もしくは会社の上司と部下、あるいはコーチと選手の関係に近くなってくるのかもしれない。
 いい例が柳家小三治と喜多八の師弟関係だ。
 喜多八は小三治の二番目の弟子で、年齢は十しか違わない。
 そんな喜多八のことを、小三治夫妻はこう語っている。「(前座修業のため師匠宅に通ってきた)弟子のなかで一番気を遣った」と。
 いったい喜多八の何がそうさせたのか。
 少なくとも、酔って暴れたとか、何か問題を起こしたという武勇伝の持ち主だからではない。
 というのも、喜多八は、そんなことをする体力さえなさそうに見えるからだ。
 やや肩を落とし、うつむき加減でとぼとぼと高座まで歩いてきたかと思うと、「はぁ、どっこいしょ」とばかり高座に座り、ふうっとため息をつきながら、世にも情けなさそうな顔でしばし会場を見渡す。
 その疲れきった姿に、なにかほっとしたような、どこか共感が入り交じった笑い声がさざ波のように会場のそこここから舞台へと寄せ返す・・・・・・。
 世に落語家は数々あれど、疲労困憊気味の登場ぶりがチャームポイントになり、独特のフラを生み出していることにおいて、喜多八の右に出る者はいない。
 ところが、である。
 ひとたび喜多八が言葉を発すると、今度は軽い驚きと笑いが生まれる。
 喜多八は、まくらで決まって、二時間ドラマの色悪にぴったりな、憂いを含んだ顔で、ぽそっとこうぼやく。
「あのお、やる気がないわけじゃないんです、虚弱体質なだけなんです。だから、高座まで歩いてくるだけで、体力の大半を使い果たしちゃってるんです」
 ところが、その言葉や表情とは裏腹の浪々とし響くテノールばりの豊かな声、喜多八がまさに芸も体力も盛りを迎えていることを雄弁に物語っている語り口と、それまでの疲労困憊ぶりとのギャップに驚き、観客の肩すかしからすとんと力が抜け、喜多八流のユーモアに引き込まれてしまうのだ。
 そして、観客は深く納得するのだ。この、やや斜に構えた、観客の心を軽くいなし、肩すかしを加えながら、自分の世界へと観客を巻き込んでいく芸風はまさしく、柳家小三治の弟子以外の何者でもないな、と。
 二時間ドラマの色悪、とは言い得て妙^^

 私は、喜多八の高座の感想で、たびたび、あの疲れたという仕草、表情に、「騙されてはいけない」と書いた。

 いきなり発する大声なども、喜多八落語ならではの演出の一つだった。

 静と動、弱と強の落差をあれほど見事に使い分けた噺家は、いないのではなかろうか。

 そして、斜に構え、観客の心を軽くいなして、肩すかしを食らわせながら、自然に自分の落語世界に客を巻き込む・・・なるほど。

 その表現の仕方は違うものの、小三治と喜多八には、野球にたとえるならば、いきなり直球を投げないという点で、共通点はあるだろう。

 変化球の緩~いボールを見せておきながらの時たま投げるストレートは、バッターにはスピードガンの示す数字よりも速く感じる、ということか。

 あるいは、力まないので直球が手元で伸びる、とでも言えるかな。

 師匠小三治が昭和十四年十二月十七日生まれ、喜多八は昭和二十四年十月十四日生まれ。たしかに、ほぼ十歳の差。

 
 さて、では入門の時のことを引用。ここにも、二人の共通点がからんでくる。
 気難しそうに見える小三治だが、入門はあっさり決まった。
「何時だったか忘れましたけど、夜、高田馬場の家に行ったら、すぐに家に上げてくれたんです。
 で、師匠は『何で落語家なんかになりたいんだ』なんて訊いてきたんですけど、こっちもひねくれてるから『そりゃ、好きに決まってるじゃないですか』(笑)。
 あとでおかみさんに言われましたよ『お前はうちのお父ちゃん(小三治)によく似てるねえ、嫌なとこまで』って(笑)
 ともかく、生意気にもそんな答えをしたもんですから、二人とも黙っちゃった。
 そしたらややしばらくしてうちの師匠が『お前の親の商売は何だ?』って訊いてきた。
 それで『教員で』って答えたら、『それじゃあしょうがねえな』(笑)。
 うちの師匠の父親という人も学校の校長をしてましたから、僕と同じだと思ったんでしょう。親に逆らってまで落語家になろうとしているっていうところが。
 だから、なんの苦労もなく即入門を許されて、次の日から師匠の家に通うことになったんです」
 こうして1977年2月に入門が許され、通い弟子の生活がスタートした。
 ということで、この本で読んでいた話だった。

 教員の子は、似るんだろうねぇ、きっと。
 
 それにしても、師匠の女将さんに「嫌なとこまで師匠に似ている」って言われた時、喜多八は、内心では嬉しかったのかな・・・・・・。
 
 郡山和世さんの本からは、小八時代の、ある逸話を紹介したことがある。
 オカミサンにお土産を持ってくることが多かった小八なのだが・・・これが、結構笑えるんだよね。
2012年12月2日のブログ


 今思い出すと、高座に上がる際の、なんとも気だるい仕種や表情は、晩年は封印していたように思う。

 そんな演出はもう不要だ、と思っていたのかもしれない。

 実際に気だるいに違いない病身になって、その姿を客に見せまいとしていたかもしれない。

 私が実際に聴いた高座や居残りのお仲間の目撃談でも、げっそり痩せ細った姿ではあっても、晩年の喜多八の声は高く張りがあり、目をつぶって聴いていたら、全盛期と変わらないと言っても良かった。

 亡くなる四か月前2016年1月、板付きだった横浜にぎわい座睦会の『やかんなめ』は、忘れることができない。

 存命だったら、今年、古稀を迎えるはずだった。

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# by kogotokoubei | 2018-08-20 18:54 | 師匠と弟子 | Comments(10)
 久しぶりに、八月中席の、鈴本の特別興行へ。
 居残り会のお仲間I女史からのお誘いで、五人が揃った。
 いただいたプログラムでは第29回とのこと。来年30回になるんだねぇ。

 四年前に楽日に来て以来。
2014年8月21日のブログ
 
 あの日は、さん喬『水屋の富』、権ちゃんがトリで『唐茄子屋政談』、三本締めを含め50分だった。
 居残り会を気にしながら九時半近くでお開きだった。

 さて、今年はどうなるものやら。

 特別興行なので、前座の開口一番は、ない。
 出演順に感想など。


柳家甚語楼『浮世根問』 (14分 *17:20~)
 トップバッターは、十日間日替わりで、この日は甚語楼。
 休養万全なのだろう、実に元気いっぱいの楽しい高座。
 八五郎がご隠居に「極楽はどこにある」としつこく聞くのに対し、「いいだろ、どこでも、どうせお前は行かないんだから」でご通家が多いと察する客席も爆笑。
 二人の会話のリズム、間、実に小気味良い。
 寄席の逸品賞候補として、をつけておく。

鏡味仙三郎社中 太神楽 (9分)
 三人で登場。傘->五階茶碗->土瓶->花笠とバチを、この時間内でしっかり。
 とにかく、元気な寄席の吉右衛門を見ることができれば、それで嬉しい。

五街道雲助『強情灸』 (15分)
 マクラの湯屋で熱い湯を我慢する場面が、秀逸。
 後から入った男が、「こうやって股ぐらに湯をかけて洗ってから入るもんだ」と桶で湯をかけた後の苦悶の表情の後、「ゆで卵が二個できるとこだった」は、なんとも可笑しい。その男が湯船に入った後にもう一人に話しかけると、なんとも苦しそうな表情で、「湯が、ぬるい時には、しゃばるな!」でも笑い。
「夜中の小便のような、目のさめるようないい女」、であるとか、「ただモグサを乗っけておくだけか。石燈籠の頭じゃねぇやい」なんて科白も、この人にかかると実に味がある。

春風亭一之輔『新聞記事』 (15分)
 やはり、一之輔は凄い、と居残り会でも一致した高座。
 このネタで、あれほど笑ったのは初めてだ。
 導入部は、八五郎とご隠居の根問いモノに近く、甚語楼とツクなぁ、なんて思っていたが、そんなことを度外視させる大爆笑高座。
 鸚鵡返しによる言い間違えが、この噺の魅力だが、この人にかかると現代らしい味付けで、それがまた可笑しい。
 「天麩羅屋だけに、あげられた」の洒落がなかなかわからない男に、「天麩羅を揚げる、犯人を挙げる・・・ダブル・ミーニング」などの英語まで交えるのも、この人らしさ。
 ビルマの竪琴の水島は出るわ、佐野元春も出演(?)するわの高座。
 実は、八五郎が話していた相手が、当の天麩羅屋の竹さんだった、というサゲも洒落ている。
 この高座も、寄席の逸品賞候補だなぁ。

柳亭市馬『山号寺号』 (14分)
 後半は出演者を織り込んだ噺に仕立てた。無難な一席。

ホンキートンク 漫才 (13分)
 楽しい掛け合いの途中で爆笑となり、後半の科白が聞こえにくいほど。
 若手では、もっともノッてる二人かもしれない。

柳家喬太郎『宮戸川』 (14分)
 途中で咳き込むのは、やや六日目で疲れが出たか。
 あえて現代風のクスグリなどを排した内容は、好感が持てた。
 こういう興行でのネタ選びの難しさも感じさせた高座。
 あまり受けても、師匠には申し訳ない、という心理も働くだろうしね。

露の新治『鹿政談』 (19分)
 仲入りは、ここ数年恒例のこの人。
 マクラで奈良名物に「奈良判定」を加えるあたりは、この人ならでは。
 豆腐屋六兵衛は、六十三歳。あら、私と同じではないか^^
 上方で名奉行の名が高かった「松野河内守」の逸話を基にした噺とされるが、奉行の名は根岸備前守で演じる人が多い。しかし、新治はその松野河内守としていた。
 途中で若干の言い直しなどがあったのは残念。
 やはり六日目ということと、暑さによってお疲れだったからだろうか。
 全体的には悪くないが、この人への期待感が高いので、これまで聴いた中では、上出来とは言いにくい。

柳家小菊 粋曲 (9分)
 食いつきがこの人、というのも特別興行ならでは。
 「金来節」から朝顔の都々逸、なすかぼで締めた。

柳家さん喬『五人廻し』 (33分)
 アメリカ人が前座の研究論文を書くためにやって来たため、楽屋に背の高い男がいる、とのこと。かつて松葉屋で開かれていた落語会の顔付けが、文楽、志ん生、圓生、そして志ん朝、前座でさん喬とは、なんとも豪華だったなぁ。
 マクラ約10分で本編へ。
 一人目は「とにかく、よしゃーよかった」と後悔し続ける男。
 二人目が『酢豆腐』の若旦那のような、キザ男。「でげしょ!」連発^^
 お次は、「おらぁ、イドっ子だ」の田舎者。
 四人目は、病気の妻が給料袋の封を切らず「私の代わりに」と吉原へ送り出してくれた、という涙、涙(?)の役人風。
 喜瀬川が付いていたのはお大尽。
 それぞれ、しっかりと演じ分けていたし、楽しかった。
 なかでも、二人目の「でげしょ!」が秀逸。
 後からメモを見て、少し驚いた。
 本編時間は二十分余りだったことを考えると、急ぐこともなく、五人をしっかり廻した高座は、やはり凄い。今年のマイベスト十席候補とする。
 権ちゃんの高座が、意外な展開でやや楽しめなかったこともあり、この日はさん喬の日だったか。

林家正楽 紙切り (11分)
 ご挨拶代りの①線香花火、②お座敷遊び、③露の新治、④盆踊り、とこの時間で、それも見事に切ってくれた。流石だ。

柳家権太楼『子別れ』 (51分 *~21:21)
 これまでの出演者が、時計のように正確な進行で、予定通り八時半から。
 マクラ、この日の浅草のお客さんのことで、笑った。
 また、正楽の紙切りの途中で、下座さんの三味線の糸が切れて若干パニックだったらしい。う~ん、そういう不吉なことがあったのか・・・・・・。
 爆笑のマクラの後の本編は「えっ、通し!?何時に終わるの?」と時計を見てしまった。
 とはいえ、「上(強飯の女郎買い)」の吉原の店に上る場面から「中(浮名のお勝)」は、ほぼ地でつないで「子は鎹」へ。この時点で八時五十二分。
 この後半が、とにかく饒舌で、泣きがたっぷりなのであった。
 亀と出会った熊も泣く。もちろん、亀も泣く。女房も番頭までも泣く。
 亀のと再会の場面で、「額の傷の件は割愛したか、それもいいだろう」、と思っていたら、順番を入れ替えて加えた。
 最後の鰻屋の場面の主役はお店の番頭。
 「熊のことなんかどうでもいい。亀ちゃんのために、よりを戻してくれ」と別れた女房に番頭が頼み込む。
 居残り会でも、全員が首をひねった泣きの多さと、筋書きの改訂。
 浅草で語り足らなかった分を、こっちで語ったのか^^
 あるいは、権太楼の新たな解釈なのかもしれないが、この噺で登場人物がこれだけ泣くと、聴いている方は、泣けない。
 この噺は、うっすらと涙が浮かんでくる程度で、演じてもらいたかった。

 
 さて、終演後は楽しみだった五人での居残り会。
 私が予約していた店に電話して、少し遅れたことを告げる。
 快く答えてくれたお店の方の声を聞き、初めて行く店に期待したが、まあまあのお店で、皆さんも喜んでもらえたようだ。
 九時半近くからの居残り会は、とにかく話題が満載。この日の高座のことから、奈良判定や日大アメフト部、78歳のボランティア爺さんは偉い、ということやそれに比べて今の政治は、などなど。
 なかでも興味深かったのは、ある事故(事件?)の謎に関し、佐平次さんとM女史から、それぞれ別の本の興味深い内容を紹介していただいたこと。この二冊、読まなきゃなぁ。I女史から志ん五がトリの時の国立のポスターというお土産に、Yさんは大喜び。I女史からは佐平次さんと私にもプレゼントがあり、嬉しい限り。M女史はまた佐平次さんに自分が読んだお奨めの本をお貸ししていたなぁ。二人とも読書量は、半端ない^^
 あっと言う間に十一時の閉店時間となり、もちろん、帰宅は日付変更線を越えたのであった。やはり、この五人の居残り会は楽しいね。

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# by kogotokoubei | 2018-08-17 20:47 | 寄席・落語会 | Comments(9)
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今日出海著『悲劇の将軍』(中公文庫)

 さて、三回目。

 この本は、本間雅晴と山下奉文に関する短篇の他に四つの作品が収められているが、中心になるのは題の通り、二人の軍人のことだ。

 山下奉文のことを書いた文章に、こう書かれている。

 軍司令官の本間雅晴中将はあまりに占領地行政が寛大すぎるというので、東條派で憲兵出身の田中静壹中将に代えられてしまった。しかし田中軍司令官の時代から軍紀頽廃の兆候が現われ出したし、現地人の離反が目立ち始めた。

 本間のことを書いた短編には、次のように書かれている。

 さて本間中将はマニラに晴れて入城し、先に述べた官邸に入ると、司令部通いで、夕方帰邸すると、副官とテニスをしたり、夜は読書に明け暮れし、文化工作にも肩を入れて、親善を機会あるごとに力説していた。しかしこんな文化司令官は当時の硬論派には気に入らず、殊に東條首相はバタアンの作戦が長引いたことを理由にして、相合わぬ彼を首にしてしまった。
 ちょうど更迭の電報が来た日に、報道部長と私は官邸に用があって行くと、このことを副官に耳打ちされ、早々に引退ろうとすると、
「まァいいじゃないか、一緒に飯を食おう」
 といかにも寂しげに言うのに、すぐにも帰れず、大食堂で最後の晩餐を共にした。どうしたことか、その時停電になって、銀の燭台に蝋燭を立て、しめやかな食事をした。
「ロンドンで公式のリセプション(招宴)に呼ばれると、必ず蝋燭を食卓に灯したものだが、期せずして今日は、本格のリセプションになったね」
 と灯影がゆらめき、達磨のような像がうしろに映って、私は酒盃を手にしながらも少しも心が弾まなかった。

 先に述べたマニラの官邸というのは、米国の高等弁務官(総督)セイヤアの官邸で、わざわざマニラ湾を埋めたてて建てた豪奢なもの、という説明のこと。

 蝋燭の灯りだけの大食堂での最後の晩餐。
 今日出海にとって、揺れる焔に照らされた本間の表情は、きっと忘れることのできない思い出になったことだろう。

 本間は、イギリスの大使館附武官を務め、英語が堪能だった。バタアン半島の付け根の町サン・フェルナンドで民家を借りた家で、蝋燭の灯りで読んだ本には、マニラ官邸にあった総督セイヤア夫人の蔵書も多かったらしい。
 
 ヨーロッパ的文化性を身に備えたばかりに、軍部からは親英派と言われ、当時の国家主義的硬論派からも軟弱武士と嫌われた。

 このへんの軍の事情は、日清・日露の時からは、大きく変貌していると言えるだろう。
 そういう意味では、本間は少し生まれるのが遅かった、ということかもしれない。

 その本間の不幸について。

 軍刀組の秀才で、仕事ができるので中将まで昇進したが、軍の潮流は彼の如き文化人をむしろ排斥し続け、どこかで躓けば首になっている人だった。比島派遣軍の軍司令官になって初めて躓いたのである。バタアン作戦が延引したことも十分弁解が立つことだった。マニラに入城した途端、大本営は最精鋭の師団を他へ転出する命令を出し、老兵未教育兵のみの守備隊でバタアンの大軍に当らしめたことは、むしろ大本営の認識不足であり、失態であるのに、本間将軍の責任にして更迭させてしまった。
 命令一本で動く軍にあっては、どんなに口惜しいと思っても後の祭である。対比政策が軟弱であってということもその理由で、大本営から派遣された某参謀は無断で司令官の名を使い、ひそかに捕虜の虐殺をしたことが、昨今になって判明したが、これが米国では「死の行進」と言われて、本間将軍は鬼畜の如き人物として米人の憤激を買った原因をなしている。

 戦犯として再びマニラに呼び戻された本間を裁く法廷は、皮肉にも、あの高等弁務官セイヤアの官邸、つまり日本軍軍司令官の官邸だった。

 起訴状の内容は、ほとんど本間の知らないことばかり。

 今日出海は、本間を弁護する証人の一人として、この法廷に出向いている。
 
 弁護団側の一隅に白髪と化した本間中将は私服姿で黙然と坐っている。彼は東京拘置所にいた頃、解体前の陸軍省が省内戦犯を調査した、処置せよと占領軍から命を受けた時、予備役の本間中将一人を槍玉にあげ、位階勲等を剥奪し、中将でもない単なる戦犯者として拘置所に送り込んだのである。そのために法廷でも軍服を纏わず、白麻の背広を着ていなければならなかったのである。
 もはや崩壊した筈の軍部の残党達がこのような陰謀を企て、本間一人を犠牲者に祭り上げた事実は世間の誰も知るものはいない。

 私も、この本を読んで初めて、このことを知ったが、その時、なんとも言いようのない虚しさを抱いたものだ。
 戦争は、人の心をも蝕む。

 約五十日の論争の末、法廷は彼を銃殺と決めた。

 他のすべての司令官達は絞刑になった。絞刑とは米軍はその非人道的罪状により武人と認めぬものに死刑を科す時の刑で、本間雅晴は日本では武人と認められず牢獄の中で位階勲等を剥奪されたのに、皮肉にも彼だけはマッカーサー元帥の計らいで、罪一等を減じて、武人として認められ、銃殺されたのである。

 自国の軍隊には惨い仕打ちを受けた本間だが、マッカーサーは彼のことを十分に敬ったということか。
 略服とは言え、軍服を着て、最後を迎えることができたことは、本間にとっては最後の救いではなかっただろうか。

 本間夫人の富士子さんは、法廷に弁護側の一人として立つために、マニラを訪れていた。
 
 「鬼畜」と言われたホンマの夫人の世話をするのを、皆が嫌がった。

 ある中尉の看護婦がこの番に当り、いやいや夫人を迎えて、生活を共ににしたが、四十余日の滞在後、夫の銃殺の判決を聞いて帰国する時、この女中尉は夫人に対して涙を流して別れがつらいと述べたという。彼女は夫人の世話をやいているうちに、こだわりのない夫人の性格を理解し、彼女を好きになってしまったのだ。夫と共にロンドンにもいた。軍縮会議でジュネーブにもパリにもいた。確かに洗練された社交性を持っている筈だが、それよりも目立つのはまことに飾らぬ質素で素直な夫人の天性である。当時十八、九にしかならぬ令嬢の尚子さんは自作の和歌を綴じて小さい和本に作り、暗い牢獄で死を待つ父に僅かの慰めを贈った。
 戦後、今日出海は、主人のいなくなった本間家を訪れている。
 その文章からも、富士子夫人や尚子さんの人柄がしっかり伝わってきた。

 今日出海は、証人として訪れていたマニラから帰国する前日、本間に面会することができた。

 チョコレートの入った丸い缶が堆高く積んであった。監視のMPが自分の小遣いで買っては差入れしたものである。あるMPは私に言った。
「将軍と朝夕会っていると、どうして死刑に値する悪人と思えよう。あんな立派な人に接して俺は名誉だ」
 かくしてチョコレート缶が山と積まれたのだろう。
 本間将軍は今日の判決はすでに覚悟していたようだ。今さら何も言うことはない。
「ただ正しい日本を建設してくれ」とそれだけがわれわれに対する遺言だった。


 本間の遺言、「正しい日本」の建設は、果たして今進んでいるのか・・・・・・。
 

 今日は、八月十五日。

 落語愛好家仲間で、我らがリーダー佐平次さんのブログをきっかけに本棚なら取り出した本で、あらためて本間雅晴という軍人のこと、そして、戦争の悲惨さを振り返ることができた。


 海外事情に詳しい文人派の軍人、という意味で、本間雅晴と山本五十六は共通点がある。
 二人とも、客観的には日本の不利な戦いであることを分かっていながら、軍人として命に従い、できる限りの役割を果たしたのだと思う。

 しかし、彼らの知力やその命は、戦争ではなく、もっと別な道で生かすことができたのではないだろうか。

 まずは、山本の何百、いや何万分の一しか知られていない本間雅晴という軍人のことを、一人でも多くの日本人が知ることは、悪い事ではないと思う。


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# by kogotokoubei | 2018-08-15 11:09 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
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今日出海著『悲劇の将軍』(中公文庫)

 さて、二回目。

 高雄からフィリピンに向かった船上で、今日出海は、本間雅晴と出会った場面の続き。

「君が今日出海君か・・・・・・」
 とすでに姓名を知っているような風だった。
「こんなひどい恰好を誰がさせたか」
「さア、広島で一様に着せられましたが・・・・・・」
「比島に着いてもそんな恰好をしていたら、笑われるぞ」

 
 この会話からも、本間雅晴という人物が、他の軍人とは少し違うな、ということを察することができる。

 日本軍は、昭和十七年正月二日に、マニラ市に入城した。
 マニラは、開戦と同時に開放都市を宣言したので、戦禍に見舞われず、実に簡単に入城することができた。

 米比聯合軍はバタアン半島に立て籠り、半島のつけ根にある町サン・フェルナンドに軍司令部を置き、本間中将始め、幕僚はここにいて、戦闘を指揮していた。
 バタアンの名が登場。本間雅晴とは、切り離すことのできない半島の名だ。

 さて、今日出海たちの仕事は、閉鎖された映画館を開いたり、競技場や劇場を開放し、音楽会を催すことだった。

 呑気な仕事のようで、これは大変な仕事だった。乱暴な兵隊は物資調達と称してフィルムや薬品は撮影所から持ち去るし、楽器は勝手にいじって打ち壊すし、映画館では館員を撲って無料入場するし、そのつど電話でとんで行かねばならぬ。それに何十となくマニラには映画館があり、地方や島々の映画館は破壊を受けたり、占領されたりしてその復旧やら、映画の配給は並大抵ではなかった。
 稀には部隊長に従って、バタアンの戦野にも随行しなかればならぬ。私はたびたびサン・フェルナンドに赴いて、軍司令官に会った。米比軍がバタアンに退く時、この辺は激戦地であったらしく、橋は落され、町も焼けて、古いスペイン風の教会堂の苔むしたドームが荒れ果てた町に聳えていた。
 戦線は膠着して、進むことも退くこともならず、飛行隊が到着するか、援軍が着くかしなければ戦況はいつまで経っても変るまい。軍司令官の宿舎も焼け残った民家で、マニラの一流ホテルに起居している私から見ればお話にならぬ粗末なものだった。この宿舎は軍司令官と副官と参謀長が住み、隣家に幕僚が住んでいた。
 苦労をしている部下の身を思うと、上の人は楽をすることを罪悪の如く思う日本人の習慣で、本間中将はドラム缶の風呂に入り、野戦食をとっていた。戦況の変化がなければ作戦も立たず、全く無聊な生活らしい。といって話相手はなし、読書好きと聞いていたが、夜分は電灯もない焼跡の町では本を読むこともできぬだろう。
「夜はお困りでしょう」
「いや蝋燭で読むことにしている」
 いずれバタアンの作戦が済んだら、マニラの官邸に入り、王侯の生活が待っているのだろうが、それもいつの日か知れたものではない。
 蝋燭のわずかな灯りを頼りに、本を読む男、それが本間雅晴だった。

 本間の敵将は、マッカーサーだった。

 マッカーサーの有名な言葉'I Shall Return'は、日本軍に攻められて、オーストラリアに一時逃亡した際に発した言葉。
 
 当時マッカーサー将軍は戦いに敗れて、潜水艦でコレヒドール島から豪州へ逃げた後なので、われわれは彼を名将とは思っていなかった。しかし本間中将は微細に敵将のいことを調べ、陸士陸大の卒業成績まで知っていた。
「文武両道の名将だね。文というのは文治の面もなかなかの政治家だ。この名将と戦ったことは僕の名誉だし、欣快だ」
 とさえ言っていた。


 1880年生まれのマッカーサーは、57歳で軍を引退して予備役となっていたが、2年後の1939年に第二次世界大戦が勃発。
 翌1940年に日本は日独伊三国同盟を締結。その翌年の1941年の7月、日米間の緊張が極度に高まる中でマッカーサーはフランクリン・ルーズベルト大統領の要請で中将として現役に復帰し、フィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官に就いていた。
 1942年、62歳。

 本間雅晴は明治二十年(1887)生まれ、昭和十七年時点で、五十五歳。

 数々の戦功を立て、予備役から復帰した名将マッカーサーについて、本間雅晴は尊敬の念を抱いていたと思う。

 そのマッカーサーと本間は、この後は対照的な道を進むことになる。

 その内容は、次の最終回にて。

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# by kogotokoubei | 2018-08-14 10:54 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 我らが居残り会のリーダー佐平次さんのブログで、本間雅晴について書かれた本を紹介されていた。
「梟通信~ほんの戯言」の該当記事
 その本は角田房子著『いっさい夢にござ候  本間雅晴中将伝』(中公文庫)。
 この本は、まだ読んでいないが、ぜひ読むつもり。

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今日出海著『悲劇の将軍』(中公文庫)

 本棚から、ある文庫を取り出した。
 初版は文藝春秋から昭和二十七年発行、昭和六十三年に中公文庫に加わった、今日出海著の『悲劇の将軍』。

 こちらは、本間雅春のみならず、山下奉文のことなども書かれている。

 今日出海は、先日ドナルド・キーンの本から高見順の日記を引用した際、戦時中に政府の強い支援でできた日本文学報国会(文報)に高見を誘った人物として名があった。
 今日出海は、明治三十六年(1903)年生まれの小説家であり評論家で、元々は舞台演出家。初代文化庁長官。
 
 本書の「本間雅晴中将と夫人」から引用。
 昭和十六年(1941)、今日出海が三十八歳の時のことから。

 私は太平洋戦争が始まる一月前に、徴用令書を貰い、何ごとならんと芝の増上寺に集合すると、体格検査をし、その夜の汽車で広島へ連れて行かれ、御用船の船艙に叩き込まれると、台北に着いた。ここでいよいよ戦争が始まったら、われわれは比島げ行くのだということが判った。迂闊な話で、本当に戦争をするのかどうか、台北へ行くまで半信半疑だった。
 高雄から帝海丸という船に乗り込み、澎海島の沖合で開戦を待っていた。十二月八日、途切れ途切れだがラジオで宣戦の詔勅を聞いた兵隊は勇躍して戦地へ向うが、私達は身に寸鉄を帯びているわけではなく、広島で着ている服を剥ぎとられ、軍夫の作業着みたいなものを着せられたのだから、戦地へ行くにしても、何をしたらいいのか皆目見当がつかなかった。

 もうそろそろ四十になろうという作家の今日出海が、なぜ開戦直前に、フィリピンに徴用されることになったのか。

 ドイツの宣伝中隊(PK部隊)を真似て、同じ組織を急造したのはいいが、ドイツの宣伝中隊がどんな動きをしたのか部隊長自身知らぬにだから、大本営の編成案を首をひねっても考えつかぬ。作家としては尾崎士郎に石坂洋次郎と私の三人きりで、空中から落す宣伝ビラの文案を書けと言って、比島とは一体どんなところかも知らぬし、戦争を見物したこともなくては実際何を書いていいのか判ったものではない。

 いわゆる戦争プロパガンダ部隊として徴集された作家たちの一人が、今日出海だったということ。

 今は本間雅晴と船上で会っている。

 さて、比島派遣軍総司令官本間雅晴中将と初めて会ったのは、高雄で乗り込んだ帝海丸の甲板である。私達は船艙におり、軍司令官は上部の特別室にいるのだろうから、査閲というのか、船内を隈なく巡視された時、日の目を見ぬ船艙で私たちは軍司令官の顔を見た。ずんぐり肥って、丈は高く、猫背で、いかにも軍司令官という偉丈夫である。それよりも大きな眼で、眉毛が長く、達磨大師の顔そっくりである。
 私は船内にじっとしていると運動不足になり、食欲不振に陥った。戦争に行くのに病気しては、誰もかまってくれる人もあるまいし、兵隊以下の待遇では薬など当てがって貰えるとも思えない。そこで毎朝毎夕上甲板へのぼり、体操をしたり、お百度を踏むようにぐるぐる歩き廻っていると、軍司令官にばったり会ってしまった。私は直立不動の姿勢をとって敬礼をした。胸に幼稚園の生徒みたいに名前をはりつけてあるにを見て、
「君が今日出海君か・・・・・・」
 とすでに姓名を知っているような風だった。

 さて、艦上で本間と会った今日出海。
 そこで、どんな会話があったのか。
 また、その後、戦局がどう変わり、本間にはどんな運命が待ち受けていたのかは、次回。
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# by kogotokoubei | 2018-08-13 09:18 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

『お盆』という噺。

 今日は旧暦七月一日。
 昨日が、夏越の祓の日だったことになる。

 すっかり新暦が当たり前になったお盆の民族大移動が始まった。

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関山和夫著『落語風俗帳』(白水Uブックス)

 関山和夫著『落語風俗帳』に、まさに『お盆』という噺があるのを発見。
 さて、どんな噺なのか。

 
お盆

 この咄、別名を『巣鴨の狐』という。今では、めったに聴かれないが、むかしは二代目三遊亭小圓朝や五代目三升家小勝が得意だったそうである。
 この咄には「法印」と呼ばれる祈祷師が登場する。法印というのは、本来は仏教のはたじるし、標識、特質、仏教あることを証明する規準をいうのであるが、これが僧位に用いられ、「法印大和尚位」となり、中世までは僧綱の最上位を示した。それが近世に入り、時代が下るにしたがって貫録がなくなり、下賤な僧でも法印といった。祈祷というのは、インドで密教が起こって盛んとなり、中国でも盛行した。日本では、古代から神に祈る風習はあったが、仏教が伝来して一段と発展した。真言宗、天台宗はいうに及ばず、禅宗や日蓮宗にも入り、浄土宗でも祈祷を行うに至った。その点では日本仏教各宗とも密教化した部分がある。真宗は祈祷を行わないことを旨とする。

 登場した宗派の開祖は、真言宗は空海、天台宗は最澄、禅宗は曹洞宗が道元、臨済宗は栄西、日蓮宗は書くまでもなく、浄土宗は法然、(浄土)真宗は、親鸞。
 さて、ということでどんな筋書きなのか、というと。

 貧乏な法印(祈祷師)が、一人の下男と、ひっそりと淋しい生活を送っていた。ある日、下男がお使いに行くといって出て行ったが、なかなか帰ってこない。やっと帰ってきたので聞くと、「王子で子狐をつかまえた。そいつを狐汁にしようと思って、いろいろやっているうちに遅くなった」という。法印が「とんでもないことだ。狐は王子稲荷さまのお使いであるぞ」と説諭しているときに、巣鴨傾城ケ池からやってきたという商人が「主人の娘にキツネがついたので、なんとかそれをご祈祷で落としていただきたい」と頼んだ。
 法印は、「そのためにはお金が七両二分かかるが、うまくキツネが離れたら、それをつかまえてあなたに渡しましょう」という。商人はそれを承知して、手付けに一両置いていきたいので、お盆を拝借したいという。下男はお盆がなかったので箱膳のふたを出す。そこで法印が、「物を畳の上などへ、じかに出すのは失礼なので、お盆の上に乗せて出すのが礼儀だ」と下男に教える。
 商人が帰ったあとで、法印は下男に王子まで行って狐をとってこいを命ずる。一両をもらって下男は、狐を三味線箱に入れてくる。法印は巣鴨へ行って、キツネ落としのご祈祷を行う。狐を箱から出そうとすると、狐は死んでいた。
「死んでもいいから狐を出せ」
「そうか、そんなら台所へ行ってお盆を借りてくる」

 数ある落語の中でも珍しいものであるが、サゲがややしまらないのが欠点だ。

 う~ん、サゲのみならず全体が、どうもしまらない。

 お盆は、季節のそれではなく、あのお盆だった。

 この噺、著者の関山さんは、「祈り」の咄を二席、として『藁人形』とこのネタを紹介している。

 祈祷師の法印が登場するこの噺、やはり、その後封印されるのも、やむなしかな。

 つい題に誘われてみたものの、がっかりした感覚を、読者の皆さんにも味わっていたでけたかな^^

 何百とある噺で、今日ほとんど聴くことのできないものもある。

 復活して欲しいネタもあるが、消えてしまったのもやむなし、という噺もある、ということか。

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# by kogotokoubei | 2018-08-11 11:13 | 落語のネタ | Comments(0)
 一昨日以降、過去の「サマータイムよりすごい、江戸の知恵-江戸時代の不定時法。」という記事へのアクセスが急増している。
2015年11月4日のブログ

 サマータイムを導入しようという政府・与党の動きがあるため、アクセスが増えたと察する。

 IOCから、サマータイム導入を提案されたようだ。
 大きなお世話だ。
 IOCに報告して認可されたマラソンのスタート時間は現在午前7時。
 サマータイム導入で2時間繰り上げると、現在の午前5時が午前7時になる。
 5時スタートに変更、と言うと抵抗があるかもしれないが、サマータイム導入で約束通り7時・・・どうも、そのあたりに狙いがありそうだ。

 本来の目的とかけ離れた意図による拙速なサマータイムの導入には、反対だ。

 もし、暑さ対策でマラソンのスタート時刻を繰り上げたいのなら、午前5時に変えればいいのである。

 サマータイムの導入は、以前の記事でも書いたが、現代の日本での導入は難しい面が多い。
 そういった問題点について十分検討しないままの拙速な導入は、混乱を招くだけだ。
 なかでも、時間とリンクしているさまざまなシステムのソフトウェアを変えなければならないことは問題だ。
 
 もちろん、サマータイムの効用はある。
 欧米のサマータイムは、長い年月をかけて定着している。
 私が過去に海外出張で体験したことだが、日の出とともに爽やかな時間帯で効率よく仕事をし、まだ太陽がさんさんと照っているうちに終業して時間を有効に使っている人々の姿を見てきた。
 家族と食事に行く人、ガーデニングする人、友人とゴルフに興じる人、パブで同僚との交流を深める人、などなど。

 では、日本もそうなるか・・・・・・。
 文化の違い、生活習慣の違いなどがあって、そう簡単なことではないだろう。

 日本もアメリカの占領時期に三年ほど導入したが、結果として中止した。

 江戸時代には、サマータイムよりもずっと進歩(?)した仕組みがあった。

 二年近く前の記事と重複するが、江戸時代の不定時法は、人々の生活が主で、そのリズムに合わせていたのであって、先に不定時法ありきではなかった。

 不定時法とは、現在のように一日を24時間で固定するのではない。
 日の出から日没までの時間を6等分、日没から次の日の出までを同様に6等分とし、1日を合計12の時間帯に分ける。「いっとき」は、約2時間ということ。

 だから、不定時法は、夏の時間を早めるだけではなく、夏は昼の時間が長く夜は短く、冬はその逆になる。

 下の図は、以前の記事でも紹介したが、夏至、春分・秋分、冬至における時刻は、現在の時刻を横軸にすると次のようになる。
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 灰色の部分が夜で黄色い部分が日中。

 黄色が始まる、要するに朝が明ける時刻が「明け六つ」になり、灰色が始まる前、日が暮れかかる時刻が「暮れ六つ」となる。

 たとえば、夏至に代表される夏は、現在の時刻で朝4時から5時頃「明け六つ」となり、現在時刻夜7時頃に「暮れ六つ」となる。

 冬至との日の出と日の入りとの時間差は、2時間近い。

 江戸っ子は、自然現象の日の出、日の入りを基準に、現在の定時法的な概念ではなく、四季の移り変わりに応じて、柔軟に時間を管理し運用してきた、ということだ。
 逆に言えば、自然と時間経過が同期していて当たり前であり、暗闇なのに「明け六つ」などという状況こそ、彼らにとっては違和感があったのだろう。

 あくまで、生活習慣に時計を合わせたのが江戸の人々。

 サマータイム問題で期待したいのは、自然と一体感のある生活に関する議論が高まることだが、そうはいくまい。

 もし、来年試験的に導入したら、朝早くから、銀行や交通機関や、さまざまなシステムでトラブルが相次ぎ、対策のために夜遅くまで過酷な労働を強いられるソフトウェアエンジニアが増えるだけではないか、などと思う。

 IOCから言われたから、とか、午前5時を午前7時と言い換えたいから、なんてぇところに本音がありそうなサマータイム導入には、「ちょっとタイム!」と言いたい。

 'Summertime'は、音楽だけで結構。

 ということで、アート・ペッパーのこの曲を聴きましょうか。
 このアルトの響き、夏の終わりにぴったりなんだよねぇ。
 そうなのです。11日は旧暦で七月一日。明日で旧暦の夏はお開き。


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# by kogotokoubei | 2018-08-09 12:22 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)
 今日8月8日は、ジャズアルトサックス奏者、キャノンボール・アダレイの命日。

 1928年9月15日にフロリダ州タンパで生まれ、1975年8月8日にインディアナ州で、脳梗塞で亡くなった。47歳の誕生日を迎える前だった。

 本名は、ジュリアン・エドウィン・アダレイ。

 キャノンボールは愛称だが、その名がついた由来には二説ある。「キャノン=大砲」の「ボール=弾丸」、つまり昔の大砲の弾は炭団を大きくしたような丸い鉄の玉だったので、彼のでっぷりとしたおなかの出具合からきたという説と、「人食い=キャニバル」のように大食いだったから、という説。

 その大食いが糖尿病を招き、彼の死期を早めたと言ってよいだろう。

 ジュリアンの父親はコルネット奏者で、そうした家庭環境もあって少年期にはサックスを吹くようになっていた。成人してからは地元の高校で音楽の教師をやりながら自分のバンドを率い、地味に活動していた。

 キャノンボールは朝鮮戦争が始まった1950年に徴兵されている。配属は軍楽隊で、彼は音楽監督に抜擢されている。その後、1955年に教職の修士課程を取るためにニューヨークへ向かった。

 そのニューヨークで、伝説的なデビューをすることになる。

 1955年6月19日。グリニッジ・ヴィレッジにできたばかりのジャズ・クラブ「カフェ・ボヘミア」に、ジュリアンと弟ナットのアダレイ兄弟は居た。それは、ニューヨークに着いた初日だった。
 ボヘミアのハウスバンドはベースのオスカー・ペティフォードのバンドだったが、いつものサックス奏者が現れない。たまたま居合わせたサックス奏者チャーリー・ラウズに代役を頼んだのだが、彼は楽器を持っていない。そこに、アルト・サックスを抱えていたキャノンボールがいた。ペティフォードはジュリアンに楽器を貸してくれと頼んだところ、なんと自分が演奏すると言い出したのだ。
 ペティフォードは、生意気な太っちょを懲らしめるつもりで、とんでもないハイ・スピードで演奏を始めたのだが、キャノンボールは難なくこなしてしまった。一夜にして、キャノンボールの存在がニューヨークのジャズ・シーンに知られることになった。

 カフェ・ボヘミアでの飛び入りが、ジュリアンを教師の道から、ジャズアルトサックス奏者への道に変えた。

 この1955年は、3月にアルトサックスの巨星チャーリー・パーカー(愛称バード)が亡くなった年だった。だから、キャノンボールを「ニュー・バード」と呼ぶ人もいた。

 デビュー後、キャノンボールはマイルスのバンドで多くのアルバムに参加し、その後、弟ナット(コルネット奏者)とバンドを組んでヒットアルバムを出すことになる。

 さて、キャノンボールの命日に何を聴こうか、と思いながら、ある本をめくってみた。

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 後藤雅洋さんの『ジャズの名演・名盤』(講談社現代新書)は1990年の発行。
 著者後藤さんは、老舗ジャズ喫茶、四つ谷「いーぐる」の店主であり、ジャズ評論家としても有名。

 後藤さんはキャノンボールについて、本書でこう書いている。

 事あるごとに言っているので、少々しつこいと思われるかもしれないが、『サムシン・エルス+1』はキャノンボール・アダレイのアルバムではない。いくらジャケットに名前が大きく書かれていても、このアルバムの実際のリーダーは、キャノンボールではなくマイルスなのである。嘘だと思うなら、このアルバムの目玉、「枯葉」を聴いてみればよい。この曲のムードを決定するおいしいフレーズは、全部マイルスが吹いているから・・・・・・。

 たしかに、そうだろう。
 では、後藤さんはどんなアルバムをお奨めしているのか。

 改めてキャノンボール探究の第一手を考えようとすると、少々困ったことが持ち上がる。マイルスがらみでないキャノンボールも、実は二面性があるからだ。
 まず、パーカー直系の、バリバリと吹きまくるインプロヴァイザーとしての顔を、より広く一般に知られるファンキー・キャノンボールである。個人的には前者の方が好みなのだが、世間的な評価は後者にある。それに、キャノンボールの場合、「ファンクの御用商人」などと辛辣なことを言われても、必ずしも本人の意にそまぬことをしているわけでもない。むしろファンキーは彼の陽性な資質にぴったり合った音楽であるとの見方も成り立つわけだ。
 そこで、彼が弟のナット・アダレイと組んだ記念すべきファンキー・バンドの第一作『キャノンボール・アダレイ・イン・サンフランシスコ』から紹介しよう。
 と思ったのだが、その前に先程から使っている「ファンキー」なることばの説明をしておこう。ファンキーは元々がスラングで、黒人臭さを意味し、そこから「ファンキー・ジャズ」は、黒人特有のアーシーな感覚を強調したジャズということになる。実際の演奏のスタイルはハードバップで、これに“ファンキーな”味付をしたのがファンキー・ジャズなのだ。もっとも、何事にもやりすぎということがあるもので、味付が濃くなり過ぎたものは「オーバー・ファンク」などと言われ、硬派フアンからはバカにされていた。

 ということで、「ファンキー」の説明のあと“イン・サンフランシスコ”のことにふれて、この路線を突き進めて行った果てに大ヒット作『マーシー・マーシー・マーシー』があると解説。

 そして、次のように続く。
 ここらでいよいよ僕の本名盤『キャノンボール・アダレイ・クインテット・イン・シカゴ』を聴いていただこう。テナーの巨人、ジョン・コルトレーンとがっちり四つに組んで、一歩も引けをとっていない。艶やかで朗々と鳴るパーカー派キャノンボールの素晴らしいソロを聴けば、これが『マーシー・マーシー・マーシー』のアルト吹きと同じ人物なのかと考えこんでしまう。アップテンポでのインプロヴァイザー振りも凄いが、「アラバマに星は落ちて」で見せる歌もの解釈に適切さも聴き所。ともかく、キャノンボールで一枚だけと言われたなら、僕は躊躇なくこれをとる。

 私は、正直なところ、一枚、と言われたら、サンフランシスコかシカゴか、はたまたボサノバか・・・・・・。

 しかし、後藤さんがシカゴを奨める理由は、よ~く分かる。

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1.Limehouse Blues (Furber-Braham)
2.Stars Fell On Alabama (Frank Perkins-Mitchel Parish)
3.Wabash (Julian Adderley)
4.Grand Central (John Coltrane)
5.You've A Weaver Of Dreams (Victor Young-Jack Elliot)
6.Tha Sleeper (John Coltrane)

Personnel
Julian Cannonball Adderley(as)
John Coltrane(ts)
Wynton Kelly(p)
Paul Chambers(b)
Jimmy Cobb(ds)

1959/2/3
Universal Recording Studio B,Chicago
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 1959年にマーキュリーから出されたこのアルバムは、マイルスの呪縛から解き放たれたキャノンボールとコルトレーンが、生き生きと演奏しているのが伝わる。

 このアルバム、'Cannonball & Coltrane'というタイトルでも呼ばれる。

 ジャズファンは、私も含め、サンフランシスコに対して、キャノンボールのシカゴ、と呼ぶ人が多いと思う。

 では、後藤さんもお奨め、'Stars Fell On Alabama'を聴きながら、キャノンボールを偲ぼうか。
 

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# by kogotokoubei | 2018-08-08 21:36 | 今日は何の日 | Comments(8)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛