噺の話

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 現在、『子別れ』と言えば、「下」に当たる「子は鎹」を指すと言える。

 寄席では、トリでもなければ、通しはできないし、「子は鎹」なら、それだけで一つの噺として通用するからね。

 筋書きは、ざっとこんな感じ。
(1)吉原の女郎が出て行った後、酒をやめ仕事に精進する熊五郎の元に、
   茶室を普請中のお店(たな)の番頭が訪ねてくる。
(2)番頭によれば、茶室は左官仕事の途中なのだが、主人がせっかちで木口を
   選んで来いと言われ、熊に木場まで付き合ってくれ、とのこと。
(3)お隣に留守をする旨を告げて、番頭と一緒に出かけた熊。
   道すがらの会話となり、番頭が熊に、最初の女房は、いい女性(ひと)だった、
   どうして別れた、などと言うが、熊は自分の非を認めるしかない。
   別れた女房に会いたいか聞かれた熊、女房より、倅の亀のことを思うと、
   つい泣けてくる、と話す。
(4)ちょうどその時、番頭が、亀に似た子が向うから歩いて来る、と熊に告げる。
   熊が「そんなことはない」と注視すると、本当に亀だった。
   番頭は、亀に会って話しておやり、と熊をおいて一人で木場へ向かう。
(5)三年ぶりの親子の対面。
   亀によると、女房は再婚せず、針仕事や洗い物の手伝いなどをして生計を
   立てているとのこと。
   時折、熊の話になり、「お父っつァんは悪い人じゃない、悪いのは、お酒だ」
   と言っていると聞く。
   熊は、女郎は追い出して、それからは酒もやめて仕事に精進している、と告げる。
   亀が近所のお金持ちの子にいじめられて額に疵をつくっていることから、熊の
   胸には、申し訳ない思いが募る。
   熊は小遣を渡し、鰻屋で明日の今頃また会って、うなぎを食べようと約束し、
   亀は喜んで帰る。
(6)亀が帰ると、ちょうど糸が届いたから、糸巻を手伝ってくれ、と母に言われ、
   熊からもらった五十銭を握りしめたままで腕を差し出した亀だが、ついその手
   の中から五十銭が転げ落ちた。
   そのお金はどうした、と聞く母親に、「知らないおじさんから、もらった」
   と熊と約束した科白を繰り返す亀。母は、亀が家を出る時に持ち出した熊の
   大工道具の玄能を持ち出し、「本当のことを言わないと、この玄能でぶつよ。
   これは、お父っつァがぶつのと同じだよ」と涙ながらに言うと、亀もつい、
   熊にもらったことを白状。
(7)翌日、鰻屋に行く亀を送り出した母親は、落ち着かず、自分も鰻屋へ。
   亀が、「お母っつァんもおいでよ」と二人を引き合わせる。亀に、また
   三人で暮らそうよとせがまれた熊、女房に頭を下げて、よりを戻してくれ、
   と頼み、女房も受諾。
   その女房が「子はかすがいって言うけど、本当だねぇ」の言葉に亀が、
   「鎹、あっ、それでお母っつァんが玄能でぶつって言ったんだ」で、サゲ。

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 聞かせどころは、やはり熊と亀の三年ぶりの対面シーンだろう。

 榎本滋民さんは、『落語小劇場』で、次のように書いている。

 熊五郎の最初に発した質問が、あとからできたお父っつァんはかわいがってくれるかということであるのは、いかにも人情ばなしらしい人間描写の妙味で、この男の昨今の心境が端的に表われているが、一笑に付される。
「子どもが先にできて親があとからできるなんてことがあるかい」
 昔の寄席はちゃんとした性教育の場だった。
 お住はこの先の荒物屋と豆腐屋のあいだを入った路地の奥で、賃縫いの針仕事をしながら亀吉を養っているという。なるほど、亀の絣の着物は洗いざらしながら見すぼらしくはない。
 しかも、近所の人の再縁のすすめには、亭主はあの飲んだくれでこりごりだと女やもめに花を咲かせず、亀吉に対しては、屋敷奉公をしていたころ出入り大工の熊五郎が半襟や前掛けを買ってくれた馴れそめを語って聞かせ、酒で魔がさしたけれどもほんとはいい人なのだといっているらしいのである。
「へへ、おっ母さん、だいぶお父っつァんに未練があらあ」 
 こまっちゃくれた口のききようのおかしさで親子対面のぎこちない緊張をほぐしてから、演者は子どもの額の傷の一件で急にしんみりとさせる。

 亀の年齢は、演者それぞれで違う。
 小三治の音源では、九歳。
 榎本さんも、八つか九つぐらいがいい、と書かれている。
 さん喬は、年齢を明確にしていないが、学校へ通う年になった、としている。
 ちなみに、大須の志ん朝の音源では、七つだ。
 
 さて、額の傷のことについて、引用を続ける。
 榎本さんの、この噺に関する、熱い思いの伝わる文章が最後に登場する。

 傷は独楽回しの勝負判定で対立した大家(たいけ)の坊ちゃんに独楽の芯でぶたれたもので、泣いて帰ったときは、いくら男親のない子だってこんなことされて黙っていられないとお住は大いに怒ったが、相手の名前をいったら急に勢いをなくして、あそこからはよくお仕事も坊ちゃんの古着もいただいているから、遊びのけんかぐらいで気まずくなっては親子二人路頭に迷うから、痛くても我慢しろとさとした。
 ぼくはこのくだりでいつもじいんとくる。親子ドラマのお涙頂戴は大きらいだが、貧乏の悲しさ、くやしさがこたえるのである。こうした体験によって、昔の貧乏人の子は世間のむごたらしい仕組みを覚え、それにつぶされずに生きる力を鍛えて行った。長編『子別れ』を名作たらしめている眼目はこの社会性にある。ここがなければ、ただの笑いと涙の封建道徳教科書に堕してしまうとまで、ぼくは極言したい。
 たしかに、分かっていても、この場面を芸達者な演者に語られると、私の涙腺もゆるくなるなぁ。
 榎本さんが説く、落語の社会性、という言葉は結構重要だと思う。
 その時代背景や、その社会に生きた庶民の生活を反映しているということ、そして、その人間の心情や営みの本質のところは時代を超えても変わらないものがあるからこそ、落語は長く生き残っているのであって、そうじゃなければ、とうに博物館入りだったことだろう。

 そして、この『子別れ』は、「上」では大いに笑わせ、「中」では女房に感情移入して怒らせ、「下」では聴く者を泣かせる、という見事な舞台転換が計られている。
 「下」には、もう一つ大きな、泣き、の場面がある。
 亀が帰宅してから、お父っつァんに貰った五十銭の小遣を、母親が盗んだものと勘違いしてからの場面だ。
 榎本さんの文章が、見事に母親のその時の心のあり様を言い表している。

 両の手首に糸束をかけさせて糸を巻きとっているうちに、拳に握りっぱなしの銭を見とがめて尋ねると、子どもは言を左右にする。お住は表をしめさせて引きすえ、
「なぜそんな情ない了見を出すんだ。おっ母さんは三度のものを一度しかたべなくったって、お前に不自由をさせたことがあるか」
 と涙声を出す。ここもあわれに悲しい。とうとう盗みまでするようになってしまったのかという憤激、女手一つでは所詮まっすぐに育てられないのかという絶望、誠実勤勉の生き方はこうももろく踏みにじられるほど無力なものでしかないのかという恐怖ー。お住のまだ十分に若い乳房は衝撃に鳥肌立った。
 噺家が、この場面を、母親になり切って演じることができるのかどうか、が聴く者に「あわれで悲し」くさせるか、あるいは、安直な泣かせの演技と映るのかの分かれ目だ。
 どうしても、五十銭くれた相手を白状しない亀に、熊が使っていた玄能(あるいは、金槌)を取り出してぶつ仕草をして、亀はついにこう叫ぶ。

 「盗んだんじゃねえやい。お父っつァんにもらったんだい」
 「お父っつァんに・・・・・・逢ったのかい?」
 息をつめて、
 「なんだい、お父っつァんてったら乗り出しゃァがって」
 この場面転換も、重要だ。
 泣かせどころばかりではない、というのも落語の味わい深いところ。
 
 翌日の鰻屋の場面は、まさか逢うとは思っていない元女房と再会し、熊が動揺して、つい、同じ科白を何度も繰り返す場面が可笑しい。

 人によっては、この再会場面にお店の番頭を登場させる。
 冒頭での熊と亀の再開から番頭が作ったシナリオ、という設定の場合もある。

 そのあたりは、それぞれの噺家さんの工夫として悪いことではなく、噺全体に無理がなければ、それで構わないと思う。
 ちなみに、さん喬は、サゲ直前の鰻屋に番頭を登場させる。
 好みではあるが、私は、熊と亀の再会は偶然であって、番頭の作為という設定はいかがなものか、と思う。

 また、小三治もそうしているが、熊と亀の再会場面に、近くで盗み聞きしている八百屋を登場させる場合がある。これも、噺の流のアクセントとして不自然でなければ、悪い演出とはいえないだろう。

 以前の記事で書いた通り、この噺は初代春風亭柳枝の作と伝えられ、三代目の柳橋(後の初代春錦亭柳桜)が現在に近い型に改作し、あの名人三代目小さんらに受け継がれた、柳派の十八番。
2009年4月18日のブログ
 
 しかし、あの円朝が柳派に対抗して、「下」を改作したことがある。
 榎本さんの本から。

 三遊亭円朝が柳派の向うを張って下の部分を改作した『女の子別れ』というのがあり、『円朝全集』にものっている。
 女房が一人で出て行き、以前のつてでお屋敷に奉公しているうちに子ども(金太)に道で出会う設定で、子どもは父親と同居していて父親に小づかいをとがめられるわけだから、金槌のおどしも自然だという一種の合理化なのだが、さすがの大円朝の才能をもってしても、これは初代柳枝以来の柳派演出には遠く及ばない。

 残念ながら、まだ三遊亭の『女の子別れ』は、聴いたことがない。

 榎本さんは、この噺について、次のように締めている。

 亭主は女郎を引っぱりこんだ上で後悔して立ちなおり、女房は頼り少ない母子家庭を支えながら一時の軽率を反省している。ここにこそ試行錯誤の連続の人生というもののいじらしさもあるのではないか。
  かくばかりいつわり多き世の中に
    子のかわいさはまことなりけり
 よく引用されるこの道歌がぼくは大きらいだし、親心なるものの完璧な純粋さなども信じていない。純粋と思いこんでいる人たちの実態に目をこらすと、子どもが自分のヴィジョンどおりにあるいはイメージから大きくはずれない程度に育ってくれることを前提に愛情を注いでいる、そうした身勝手な欺瞞が見えすく。決して無償の行為ではないので、期待が裏切られれば断絶だなどとうろたえるのである。
 だから、『子別れ』の題名に幻惑されて、この人情ばなしを“子ゆえの春”式に親心美談として語ってもらいたくないと思う。親子の愛情を無条件の絶対正義と認めて疑わないほど、古典落語のエスプリは薄手なものではないはずだし、そんな体制的な民衆教化に奉仕させられるくらいなら滅び去った方がいい。
 これは“夫婦別れ”。つまり男女という横の関係のドラマとしてとらえられるべきだろう。そこではじめて二人をつなぐかすがいの亀坊と夫婦双方との縦の関係もとらえなおさえ、長編が豊かな奥行きをもつのである。
 「そのもと儀、われら勝手につき」の理由だけで慰謝料なんか払わずに女房をたたき出すことのできた時代も、思えば遠くなったがー。
 なんとも、榎本さんらしい、表現ではないか。
 「試行錯誤の連続の人生」なんて言葉、胸に“どん”と突き当たる。
 また、「古典落語のエスプリは薄手なものではないはず」という表現や、「そんな体制的な民衆教化に奉仕させられるくらいなら滅び去った方がいい」という言葉に、落語というものに真摯に向き合ってきた人の深い洞察力を見る。

 榎本さんは、落語をこよなく愛しており、古典落語は上から授かるののではなく、あくまで庶民の側にあるからこそ、三百年の間生き続けてきた、ということをおっしゃりたいのだろう。


 さて、ついつい、この噺のことを書いていたら、やはり、次の自分の高座のことを考えないわけにはいかなくなった。

 とはいえ、素人がリレーで演じるのだから、聴く方の負担(?)を考えると、せいぜい通しでも25分位が上限だろう。

 まず覚えることが先で、次に、どこをどう割愛するかを考える必要がある。

 ある程度の輪郭が出来たところで、相棒のYさんと、前後半のどっちを担当するか、相談しなけりゃ。

 生で聴いた“通し”の一つは、練馬から座間まで遠征(?)してくれたYさんと一緒に聴いた、むかし家今松による2012年2月「ざま昼席落語会」の名高座。
2012年2月12日のブログ
 そして、珍しく日曜の昼開催で、テニスを途中で抜け出して駆けつけた、2016年11月関内ホール(小ホール)での柳家小満ん。
2016年11月28日のブログ

 それぞれ、その年のマイベスト十席に選んでいる。

 珍しかったのは、立川龍志が、志ん輔との二人会で、「上」と「中」を演じた高座。
2015年4月30日のブログ

 「下」を聴いたことのある落語愛好家は多かろうから、という思いでの選択だったと思うが、なかなか得難いものだった。所要時間は、43分。
 
 今松は、「中」を端折ってはいたものの、休みなしで一時間の長講。

 小満んは、「上」「中」「下」を、しっかり分けた三高座。
 ブログの記録では、それぞれが、33分、29分、30分とほぼ均等の配分だった。

 持っている音源では、小三治は、「上」42分8秒、「中」40分26秒、「下」38分53秒と、それぞれが・・・長い。

 権太楼・さん喬のリレーは、「上」「中」で38分40秒、「下」が41分15秒。

 志ん朝の大須は「中」を地で説明した通しで、57分38秒。基本的な構成も含め、今松は、ほぼ志ん朝に近い。
 
 できるものなら、「中」もなんとか少しでも盛り込んでみたいと思っている。
 小三治の「中」は、聴けば聴くほど、いいんだよねぇ。
 というか、全体に小三治の下北沢の高座は、素晴らしいのだ。

 思い出した。昨年11月に成瀬の東雲寺寄席で、さん喬が酔っぱらった熊の帰宅から始まる、短縮版の「中」から始まる「子は鎹」を演じた。しかし、やや違和感があったなぁ。
 家に帰る熊は、そんなに酔っていてはいけないと思う。逡巡もあって、小さくなって帰るところから始めなければ、熊のその時の姿には近づかないだろう。
 さん喬が、『子別れ』の題の元となる「中」の喧嘩別れから始めたかった気持ちは、よく分かる。しかし、彼のような芸達者でも、無理な短縮を行うと、本来の噺の骨格が崩れてしまうのである。

 『子は鎹』として独立した「下」は、そうなるだけの内容として多くの噺家が練りに練ってきた結果なのだろう。
 通しでこそ生きるのが「上」や「中」。「下」なしでは存在しにくいのだが、そういう意味で、龍志の試みは得難い。


 笑いの多い「上」の後に、あの暗い別れの場面があり、最後の「下」による出会いでほっとさせる、という優れた構成がこの噺の基本なのだなぁ、とあらためて思う。

 とはいえ、素人の、“なんちゃって落語”なのだ。
 各パートの肝腎な部分を中心に、他は地で説明し、なんとか25分から20分にできないかなぁ、なんてことを考えている。

 聴きたい、とか、期待する、とおっしゃる方は気楽かもしれませんがねぇ、そんな簡単なもんじゃないんですよ145.png

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# by kogotokoubei | 2018-01-16 12:45 | 落語のネタ | Comments(4)
 さて、次は、単独で演じられることは滅多にない、『子別れ』の「中」。

 吉原に居続け、四日ぶりに帰宅した熊さんと女房の会話が中心。

 女房に詰問された挙句、熊さんが吉原で品川にいた時分に馴染みだった女郎と出会って、つい長逗留になったと白状。
 そこで、謝ればまだ良かったものを、つい、のろけ話になってしまい、出来た女房の堪忍袋の緒が切れ、売り言葉に買い言葉、熊さんが「出て行け」の一言を発してしまう。

 最後は別れ話になることや、父に「謝っちまいなよ」と懇願しながらも母親と一緒に家を出て行くことになる亀ちゃんの寂しそうな姿もあって、笑いが少なく、また、救いのない筋書きでもある。
 
 前の記事でリンクした記事で紹介したように、柳家権太楼が、東京落語会で「中」だけを演じた高座が「日本の話芸」で放送されたのを見た。馴染みの女郎の名をお勝としていて、題は「浮名のお勝」。
 やはりこれだけを演じるのは、全体があって初めて噺としての骨格が出来上がるので、演る方も聴く方も、どこか物足りなさを感じるように思う。
 なお、権太楼も通しで演じたことはあって、三田落語会の前身、ビクター落語会の高座がDVDで発売されているが、私は持っていない。

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 榎本滋民さんの『落語小劇場』で、「中」の内容を確認。

 熊さんの女房が、「ふだん亭主の帰りがどんなに遅くても起きていて、路地の木戸をたたく音に『熊さんかい?』と開けに行く早さは、とんとんまでたたかせない、とん熊さんというぐらいのよくできた女」と説明しておいて、こう続けている。

 だから、ひと晩泊まりの朝帰りならお目こぼしもあろうに、三日四日と居続けのあとでは神田竪大工町のわが家の敷居は高く、のぞいてみれば女房はふて寝もせずにせっせと針仕事の最中とあっては、
「ええ、少々うかがいます。大工の熊五郎さんのお住まいはこちらでござんしょうか」
 ふざけてみせでもしなければ、うしろめたくてとても入れない。

 小三治も、熊さんを、この科白で帰宅させているが、その前に、
  朝帰り だんだん家が 近くなり
 の川柳を挟む。
 そして、「おかみさんがいる方でないと、その怖さは伝わってこないかもしれませんね」と付け加えている。実体験に基づいているのかどうかは、不明^^

 女房から、「どこへ行ってたんだい」と聞かれて熊さん、小さな消え入るような声で、「とむらい・・・・・・」と答える。「お店(たな)の旦那の弔いに行ったのは知ってるよ。弔いってのは、三日も四日もかかるのかい」と突っ込まれるが、なかなか本当のことを明かすことができない。
 小三治の音源では、焼き場にまで付き合ったものの、96で亡くなった伊勢六の旦那の亡きがらが、ほとんど油っ気がない。旦那の遺言で、よ~く焼いてくれとあったので、薪をさんざん燃やして、三日目の朝にようやく焼け落ちた、などと嘘をつく。
 しかし、女房が紙屑屋の長さんから熊と一緒に吉原に行ったことを聞いたことを知り、熊も観念し、吉原での成り行きを白状するのだが・・・・・・。

 のろけから、女房の堪忍袋の緒が切れる場面について、榎本さんの本より。榎本さんは、女房の名を、お住としている。

 敵娼(あいかた)にきまった女郎のひどさにやけのがぶ飲みから便所へ行っての帰り、廊下でいきなり胸ぐらをとられて、
「男なんて薄情なもんだねえ。わちきの顔をよくごらん」
 涙ぐんだ女は、もと品川でなじんだお松。
 ひところは、やらずの雨に降りこめられて仕事を休んでしまい、たのしみ鍋の差し向かいで飲んだ朝もあるほどの仲で、わちきがいくらのぼせてもお前(ま)はんにはかわいいおかみさんや子どもがあるんだからどうせ末のとげられる見こみはないと泣くのを、合わせものは離れもの、かかあなんぞたたき出してみせると喜ばせたこともある。
 もとより出まかせの口約束、一人息子の亀坊が回らない舌で、
「とっちゃん、お仕事(ちごと)かい。とんとんかい」
 とかなんとかいうようになったかわいさにとりまぎれ、いつかすっかり忘れていたのを、お松の方では真(ま)に受けて、熊に会いたさに方々鞍替えしながら尋ねていたとのこと。
「あんな気休めをどの口でおいいなんだよ」
 と責められて、
「ほかにもち合わせはござんせんから、多分この口でござんしょう」
 顔を突き出したら思いっきりつねり上げられたー。
 こうべらべらいってのけた上に、
「どうかなってやしねえか?こう、見つくて。よ、おっかあ」
 ほっぺたを向ける色男ぶり、たまりかねたお住はいきなり平手打ちを食わせて離縁を望む。
 やらずの雨、鍋の差し向かい、という表現で、『唐茄子屋政談』の徳の回想場面を思い出す落語愛好家の方も多いだろう。

 それにしても、熊の話、いくら出来た女房でも、怒るのは道理。
 
 そうなると、熊も居直る。
「あとがつけえてらあ。裏のどぶじゃねえがな、かかあだのぼうふらなんてものァ棒を突っこんでかき回しゃァいくらだって出てくるんだ。気に入らなけりゃとっとと出て行け!」
 名調子である。さすがに女性上位時代のマイホーム亭主なんかとはオクタン価がちがう。くやしかったら今夜にでも早速やってみるがいい。こっちのいうせりふなんてどなられて、うなだれるのが落ちだろう。

 榎本さんも、なかなかの名調子^^
 この後に、当時の夫婦のことについて、三行半を含め解説されている。
 江戸時代の夫婦関係を律する法的観念は夫権絶対だった。どれほど夫が横暴でも、妻の側から離婚を宣言することはできない。
 そのために、縁切り榎に願をかけるせつねい俗信も行なわれたし、鎌倉松ケ岡の東慶寺へ駈けこんで三年間(実際には二十四カ月すなわり足かけ三年)の有髪(うはつ)の尼僧生活を送れば認められる救済便法も存在したのだが、この場合ですら最終的には亭主が離縁状を発行しなければ離縁は成立せず、里で逃げ帰ったところで再縁もできないので、
「出て行くから、仲人にどういうわけで出てきたと聞かれたとき証拠になるように、去り状を一本書いとくれ、たった今、目の前で、さあ」
 という請求がせめてもの主張なのである。去り状・退(の)き状・離縁状などともいう縁切り証文は、こんな文言を三行半に書く。
   そのもと儀、われら勝手につき離縁
   いたし候上は、何方(いずかた)へ縁づき候とも
   われら方にては一切差し構え御座な
   く候。仍(よっ)て件(くだん)の如し。
 三下り半の俗称はこれによる。

 江戸時代の男尊女卑が離縁状の背景にあったのかもしれないが、当時は、女性人口が少なかったことも、一つの仕組みとして、三行半につながったように思う。
 簡単には、離縁させない。もし、離縁されても、女性がすぐ再婚できやすい仕組み、ということではなかろうか。

 なお、小三治は、かな文字しか書けない熊なので、四下り半になった、と笑わせる。
 隣りに住んでいる住人が仲裁に入るが、熊も一度上げた拳を下げることができない。

 ついに離縁か、という時の亀の言葉は、なんともせつない。
 榎本さんの本から、ご紹介。
「お父っつァん、お前(めい)が悪いんだ。あやまっちゃいなよ。おいらだのおっかあだのがいなくなると、お酒を買いに行く者ァなくなっちゃうぜ。今あやまるんなら、おいらもともに口をそえるからさ」
 これをたしなめてお住は、男の子は男親につくのが法だろうけれど、お前さんのところへ残して行くのは心配でたまらないからとむせび泣いて、
「さあ、亀坊。ながなか御厄介になりましたってお父っつァんに御挨拶をおし」
「いやだなぁ。するよ。ながなが・・・・・・ながなが亭主にわずらわれ・・・・・・」
 と青っぱなをこする亀坊の手を引き、小さい風呂敷包み一つもって、世帯やつれした薄い肩を路地口に消した。
 この場面は、亀の言葉にどんなクスグリを入れても、そうは笑えない。
 やはり、切ない、暗い話なのだ。

 その後、熊は吉原通いを続け、年季が空けた馴染み女郎をうちへ引っぱりこんだのだが・・・・・・。
 ここでお決まりの句が挟まれる。
 「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」
 この句、調べてみると、遊女を身うけしようとした人をいさめて、播磨の瓢水(ひようすい)という人が作ったといわれている。
 「れんげ草のような野の花は、やはり野原に咲いているのが似つかわしい。ものには、本来それにふさわしい場所というものがある。取らずともやはり野に置け蓮華草」という意。
 手に取ってしまった蓮華草が、いったいどんなものだったか。

 朝寝をして昼寝をした上に宵寝までするネゴイストで、せめて飯でも炊かせようと思えば、
「おまんまが炊けるくらいなら、お前(ま)はんとこへきやしないよ。吉ちゃんとこへ行きたかったんだけども、お前はんがおまんまなんぞおれが炊くってえからきたんじゃないの」
 はじめて目がさめたら、追い出すまでもなく女は出て行った。ここまでが中、『子別れ』の題名のよってきたるくだりである。

 中、やはり暗い噺なのだ。

 もちろん、暗いなりに聴かせどころはある。
 熊と女房の会話、亀のなんとも切ない言葉などに、演者の技量が問われる。

 さて、上とつなぐべきか、それとも、下の前に短めに演じるべきか。

 書きながら、次の口演(?)への悩みが増してきたではないか^^

 次回は、お馴染み「下」の「子は鎹」。

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# by kogotokoubei | 2018-01-15 12:33 | 落語のネタ | Comments(4)
 次の「居残り会座付き芸人」のネタは、『子別れ』とのご注文。
 前の記事に続き、この噺のことについて、

 別に今から稽古しよう、ということではない^^
 何かの機会に、落語家や落語のネタについて少し考えてみるのは、こ拙ブログの常。

 前の記事では、柳家小三治が、ネタおろしで「通し」をするために山籠りまでしたことを以前の記事から紹介したが、その少し前に、権太楼の『子別れー中(浮名のお勝)ー』をテレビで観たことから、この噺の作者、初代春風亭柳枝のことなどについて、記事を書いた。
2009年4月18日のブログ

 柳家の御本家とも言える初代柳枝の作品であるから、もちろん、柳家の噺家にとっては大事なネタだ。

 とはいえ、今日では、「上(強飯の女郎買い)」「中(浮名のお勝)」「下(子は鎹)」のうち、「下」を演じることが中心で、なかなか通しで聴くことはできない。

 私が、生の高座で聴けたのは、むかし家今松と柳家小満んの二人。
 持っている音源は、あの小三治の高座と、鈴本での権太楼(上と中)・さん喬(下)のリレー。
 ちなみに権太楼・さん喬のリレーは、2006年8月、恒例の二人が交互にトリを取る「鈴本夏祭り」で、8月19日が、上と中を権太楼、下、さん喬、翌20日はその逆で演じられたものの収録。よって、私が所有しているのは、19日のもの。
 ちなみに、古今亭志ん朝の大須の「上」「下」を持っているが、ほとんど「中」は割愛といった内容なので、今回は、本家の柳家の音源二つを元に辿りたい。

 さて、生でも音源でも、通しとなると珍しいが、落語関連の本でも、あるようでないのが、通しについて詳しく書かれた本。

 本棚を探して、見つけた。

 榎本滋民著『落語小劇場』(上)だ。
 私の持っているのは、上と下の二巻になっている、三樹書房発行の昭和58年版。
 ご覧のように、目次にしっかり入っていた。

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 さっそく、冒頭からご紹介。

 ■子別れ
 
 告別式会場へちょっと行くだけですむ今の安直システムとつがって、昔の会葬は丁寧なものだったから、新仏(にいぼとけ)の菩提寺が遠いと半日一日つぶれてしまう。職人や零細商人には大恐慌で、
  弔いが麻布と聞いて人頼み
 香莫を託して御免こうむる。ところが、
  弔いが山谷と聞いて親父行き
 今はもう「山谷」は堀と橋ぐらいに名残りをとどめるあわれな末路だが、以前はずいぶん広い地域を指していた。吉原通いのことを山谷通いともいったほどで、あの歓楽街を連想しない男はいない。
  こりゃ事だ寺は山谷で七つ(四時)過ぎ
 大勢ならなお行きやすいから、「弱ったね」などとにやにやする。
  吉原へ回らぬ者は施主ばかり
 このとっかかりのところを読んで、はた、と思った。

 私が持っている通しの音源で引っかかった部分があるのだ。

 「弔いを山谷と聞いて親父行き」の川柳は、小三治も権太楼も使っているが、二人とも、若い者を行かせて間違いがあってはいけないから、という解釈を語っている。

 えっ?親父自身が行きたいからなんじゃないの?

 と聞いていて思ったのだが、榎本さんの文章は、私の見解の正しさを裏付けてくれているような気がして、少し嬉しかった^^

 山谷の近くに、あの原っぱがあるから、親父が行きたいということだろう。
 
 もちろん、どちらともとれるのではある。

 また、この章、榎本さんは、あえて『子別れー通しー』とはせず、単に『子別れ』としている。
 本来は、上・中・下と全部で一つの噺、ということなのだろう。

 あらためて、その「上」「中」「下」のそれぞれの噺の山場と思しき部分を、榎本さんの本で確認したい。

 まず、「上」。別名「強飯の女郎買い」。
 大往生した大店の大旦那の葬式に参列した熊五郎が、しこたま般若湯を飲んで酔っ払う。
 冒頭は、この熊の酔っ払いぶりが聴かせどころ。

 榎本さんの本から。

 酔えばまるで分別を失う飲んだくれなのを心配した年寄りが、無駄遣いする金があるのなら、かみさんにうまいもんでも食わせるか子どもに着るもんの一枚でも着せるかしておやりとたしなめれば、
「きいたふうなことをいうねえ。かかあを屋根へ上げて風を食わせとこうと、餓鬼を叺(かます)へ入れてぶらさげようと、手前の世話になんぞなるか。この赤茄子」
 という勢いである。
 叺なんてのも、落語でしか聞かない言葉になってきたなぁ。
 亡くなった大旦那の年齢は、小三治が96歳、権太楼では94歳。
 どちらにしても、あの時代では、大往生だ。

 さて、酔った勢いで外に出た熊は、出会った紙屑屋の長さんと一緒に、吉原へ。
 葬式で出た弁松の弁当を、たんまりと持ち帰っていることが、笑いを呼び込む道具立てである。

 気前がよかった仏の遺言で弁松に別あしらえした強飯の上弁当が出た。強飯すなわちおこわで、不祝儀のときは黒豆が入る。たっぷり汁を含んだがんもどきもそえてある特製が寺の庫裡に残っていたのを、背中に七つ、左右の袂に五つ、懐中に三つ、七五三の形で失敬している。
 落語に登場する江戸時代のお店の中で、弁松は、今でも営業している貴重な存在。
 ホームページには、しっかりと「赤飯弁当」が載っているので、ご確認のほどを。
弁松総本店のサイト

 この弁当、小三治は、榎本さんの本と同様に、背中に七つ、袂に五つ、懐中に三つ持って帰っており、「七五三の、担ぎ分け」と言って笑わせる。
 ちなみに、権太楼は、背中に七つのみ。

 紙屑屋の長さんは、途中で買い物をしたので、三銭しか持ち合わせがない。
 対して熊は、仕事の前受け金の五十円が懐にあるので、気が大きい。奢ってやるからと、この二人が吉原へ行く道すがらの会話が、なんとも可笑しい。

 熊は、何度も「紙屑屋!」と長さんを呼んで、からかいっぱなし。
 榎本さんの本では、こういう科白が紹介されている。
 「お前が紙屑屋だから紙屑屋ってんだ。不思議はねえだろ。それとも気に入らねえのか、紙屑屋。大きに悪かったな、紙屑屋。じゃァ紙屑屋といわねえから行け、紙屑屋」
 さて、たどり着いた吉原。
 
 そこで出会た、客引きをしていた妓夫(牛)太郎。
 
 抹香くさい寺帰りだと断っても、
「手前どもは果(はか、墓)行きがいいお客さまだと喜びますぐらいで、へへ、どうぞお上がりを願います。宵見世のお徳用で御愉快をいかがさま。棟梁。色男。おいらん殺し。よっ」
 なんてんで離すもんじゃない。
 弁松の弁当を妓夫に祝儀に渡して、店に上るまでが、「強飯の女郎買い」。

 切れ場は、小三治では、こんな感じ。
 店に上がると花魁見習いの豆どん(禿)がいて、居眠りして花魁につねられた痣があるのを見た熊が、弁松の弁当をあげようとすると、豆どんが断る。怒った熊が大きな声を出すと、さっきの妓夫が出てきて、彼女たちは客からもらい物をしてはいけないと躾られていると詫び、代りに私がもらいましょう、と言う。「おめぇさっき二つやったじゃねえか」「ご馳走さまで。へい、美味しく頂戴しました。ただ、がんもどきの汁が少なかったような・・・」「そうだろう、さっきこいつ(紙屑屋)に背中を押されて汁が褌に染み込んだんだ。こっちへ持って来い」「取り替えていただけるんで」「いや、褌、絞ってやる」「冗談言っちゃいけない」で、サゲ。

 実際に、小三治は、ここでいったん高座を後にする。

 権太楼は、「上」と「中」を続けているので、この後に、居続けした熊が、遣り手婆さんに体よく追い返されたと地で説明して「中」につなげている。

 「上」「中」「下」のうち、しっかり演じることができれば、もっとも笑いが多いのが、この「上」だろう。

 では、「中」は、どんな噺なのか・・・は次回。

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# by kogotokoubei | 2018-01-14 18:18 | 落語のネタ | Comments(10)
 11日の落語愛好家仲間との新年会で、リクエストに応え(?)、『二番煎じ』をYさんとリレーで演じた。
 元は、忘年会で、つい『井戸の茶碗』をご披露したところ、望外に好評で、次は冬に相応しい噺を、となってしまった次第。

 前半の火の廻りを私、番小屋に帰ってからの後半をYさんが担当。

 二人とも、志ん朝の大須の音源を聴いて練習した結果、皆さんからの評価も悪くなかった。

 ひと安心して熱燗を飲み、美味い焼き鳥をいただいていたら、なんと、次回は『子別れ』の通しをリレーで、とリクエスト。

 いつになるかはともかく、結構、大変なネタをふられたものだ。

 これまで、通しで聴いたのは、むかし家今松(ざま昼席落語会)、柳家小満ん(独演会、関内ホール)かな。

 この噺の通しでは柳家小三治が有名だが、なんと口演に至るには、壮絶なドラマがあったことを以前紹介している。

2009年4月21日のブログ
 以前の記事と重複するが、『子別れー通しー』というネタの重さ、難しさを知るに相応しい逸話を、再確認したい。

 1982年に下北沢に本多劇場がオープンし、「本多寄席」と銘打った落語会が開催されるようになった。第一回として、その年の12月13日に「古今亭志ん朝独演会」が開催された。『寝床』と『文七元結』の二席が演じられ、ソニーのプロデューサーであった京須偕充さんは、出色の出来だった『文七元結』のレコード(CD)の収録に成功した。そして明けて1983年。京須さんは、長年に渡って慎重に交渉を進めてきた柳家小三治の本多寄席での独演会と録音の約束をとりつけた。小三治師匠、44歳の上げ潮といえる頃である。しかし、どのネタにするかは、まだ小三治も迷っていた、そんな時の状況を、『落語名人会 夢の勢揃い』京須偕充著(文春新書)より引用する。

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京須偕充著『落語名人会 夢の勢揃い』


 小三治という人は誰よりも個性的だが、奇を衒うことを好まない。個性たしかだから奇を衒う必要がない。それをしかと自覚している。他のジャンルとのセッションなどという、誰にでも考えられて、しばしば線香花火に終わる企画をもちかけても、おいそれと乗る人ではない。
 とにかく九月一日の独演会とその録音については合意している。会って、相談をして、その演目構成に何か一工夫をしよう。初夏の宵、かつて新宿副都心にいちばん早くオープンしたホテルで待ち合わせた。83年の副都心はまだ意外に空が大きく見えると思うくらい、高層ビルはそれほど林立していなかった。柳家小三治はオートバイで姿を現した。

 京須さんと小三治の立場の違いなどから、二人の会話はスムーズに進まなかったようだ。

 ついに柳家小三治が独演会をやるのなら、待ちに待った録音をスタートするのなら、そして誰よりも個性派の小三治なのだから、せめて演目構成で落語ファンをあっと言わせる企画を実現したい。それが制作者である私の考えだ。しかし小三治本人は、演目を決めることさえ渋るのである。独演会に応じていながら何をいまさらと言えなくもないが、まずは年来の主張を前提に掲げ続ける小三治だった。

 京須さんの粘りに負けてほぼ観念し始めた小三治に、ついに京須さんは提案する。
 雑談にも疲れたところで、ふっとひらめくものがあった。蹴られるかもしれないが、とにかく口に出す。
 『子別れ』どうです。一晩で上・中・下の通し口演ってのは。
 柳家小三治は一瞬、息を呑むようにした。目がギロリと動く。
 「ああ・・・・・・。それなら、ねえ。・・・・・・うん」これ、やっていそうであまりやられていない、と私は付け加えた。ラジオで、五代目古今亭志ん生が至極かいつまんで簡略にやったことはあったが、独演会でじっくり通し口演したのは六代目三遊亭圓生しかいない。これは実質があって、しかも話題になる企画ではないか、とさらに添えた。言いながら、私にもだんだん確信のようなものが生まれてきた。
 「うん、じゃ、それで行きましょう」
 柳家小三治はきっぱり言った。
 
 京須さんの読み通り、この企画はマスコミにも注目された。そして、「山篭り」である。
 いくつかの新聞が柳家小三治にインタビューし、予告記事を書いた。インタビューでは、さァどうなることか自分でもわかりませんと他人事のように言っていた小三治の目の色が変わってきたのは八月のなかば近くになってからだ。やがて小三治山篭りの噂が立った。
『子別れ』に関する、ありとあらゆる資料、録音テープや先輩の速記本を抱えて旅立ったというのだ。帰京予定日は九月一日、独演会の当日という。
 九月一日の独演会当日になった。夕方、早目に楽屋入りした弟子に聞くと師匠小三治は帰京したが、髭が伸び放題だったという。剃る間も惜しんで構成と稽古に没頭していたらしい。やがて楽屋入りした本人にもう髭はなかったが、いつも以上に目がくぼみ、少し青白かった。
 どうしていいかわからない、えらいことを引き受けたと後悔したけど、もうどうにもならない、としきりに悲観的な見通しを述べた。
 どんよりと空気が淀んだ、薄日の蒸し暑い日だった。いっそ天変地異でも起こらないかなァと小三治は穏やかならぬことを言う。それで独演会が中止になれば命拾いをするという、テストを逃れたい少年のような考えだ。その日九月一日はちょうど六十年前の1923(大正12)年に関東大震災が起きた日付けではある。


 あの小三治が、「山籠り」までして稽古に没頭したのが、『子別れー通しー』なのである。

 私は、この小三治の音源も持っている。
 この「山籠り」のことを知って聴くと、なおさらその高座の凄かったことを察することができる。
 いわゆる、「ゾーンに入った」高座だったことが、聴いていて伝わるのだ。


 新年会の後のメールのやりとりの中で、I女史によると、Yさんと私は「座付きの芸人」なんだそうな^^

 今後、無茶ぶりの落語披露が恒例となりそうな・・・予感。

 Yさんも私も、さん喬・権太楼のリレーの音源を持っているので、お手本はその音源になりそうだ。

 さて、これから我々は、山に籠もらなけりゃ^^

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# by kogotokoubei | 2018-01-13 11:54 | 落語のネタ | Comments(6)

新聞のコラムと、落語。

 新聞のコラムには、時折、落語が素材として登場する。

 コラムの筆者が、落語が好きなんだなぁ、と読んでいて微笑ましくなることもある。

 今日の東京新聞の「筆洗」も、そういう記事。
 引用したい。

東京新聞コラム「筆洗」の該当記事

筆洗
2017年1月11日

「権助魚(ごんすけざかな)」「権助提灯(ごんすけぢょうちん)」に、「悋気(りんき)の独楽(こま)」…。落語には嫉妬を明るく笑う噺(はなし)が少なくないが、そんな噺のまくらによく使われるのが、こんな文句。<焼きもちは遠火に焼けよ 焼く人の胸も焦がさず味わいもよし>▼だが、焼きもちというのは、そう加減よくは焼けないもので、気がつけば我を忘れ真っ黒に焦がしてしまう。恋愛のことならまだかわいげもあろうが、出世やらをめぐっての嫉妬となると陰湿になり、胸の中の暗い炎で自分自身をも焼いてしまう▼今、そういう嫉妬の恐ろしさを、それこそ身を焼くような思いで感じているのは、カヌーの日本代表だった鈴木康大(やすひろ)さん(32)だろう。後輩の後塵(こうじん)を拝することに耐えられなかったのか、その選手がドーピング検査に引っ掛かるように細工をしたという▼何ともやりきれぬ出来事だが、それでも少し救われる思いがするのは、本人が良心の呵責(かしゃく)に耐えかね真相を話し、「実力が無いにもかかわらず、努力することを怠った」と反省、謝罪していることだ▼落語家の立川談志さんは生前、嫉妬について愛弟子に、こう説いたそうだ。「己が努力、行動を起こさずに自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです…本来なら相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ」(立川談春著『赤めだか』)▼懐中に入れておきたい、嫉妬の処方箋である。

 この事件を取り上げるにあたり、必ずしも「権助魚」や「権助提灯」など落語の悋気ネタを持ち出す必然性はないだろう。
 もしかすると、『赤めだか』に登場する談志の言葉を先に思い浮かべて、落語ネタのマクラを持ってきたかな。

 いずれにしても、落語が好きだからこその内容。

 以前も、このコラムと毎日新聞の「余録」が一日違いで落語を素材にしていたことを紹介したことがある。
2016年1月6日のブログ

 そこで、今日の「余録」を見てみた。
毎日新聞コラム「余録」の該当記事

 同じ件を扱っていた。
「勝利は技と努力によって手に入れるべきもので、金や後ろ暗い方法で手に入れてはならない」という、古代オリンピックの競技場近くにあったゼウス像の碑文から始まる内容。
 ちょっと、固い。

 どっちが、読ませるものか、味わいがあるか。
 私は、「筆洗」に軍配を上げる。

 落語が好き、ということもあるが、読後に何が残るかと言うと、ゼウスの碑文より、談志の言葉なのだ。

 「余録」は、やや、直球すぎる。
 今回は、落語好きの筆者ではなかったのかもしれないけどね。

 コラムには、いくつかの顔がある。
 時事的なテーマを扱い、その内容を分かりやすく説明することもある。
 また、社説を補足し、あるテーマに関する社としての見解を示すこともある。
 そして、あるテーマを、そのコラムニストならではの切り口で語ることで、読み物としての味わいを出すこともある。

 いずれの場合も、そのテーマに関する意見や感想を書くにあたり、自分の引出しから関連するもの、あるいは一見関係がなさそうなものを取り出して、読む者の興味をつなぐ技が重要だと思う。

 もちろん、テーマの選定そのものにも、センスが求められよう。

 他の記事や社説とは違うので、直球ではなく変化球のイメージだし、ほっと一息させてくれる内容であって欲しい。

 最近朝日の「天声人語」がつまらなくなったのは、まるで社説のような固い内容で、ほっとさせてくれないからだ。

 コラムニストの引出しに落語があることは、その新聞の懐の深さを示すような気がする。

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# by kogotokoubei | 2018-01-11 12:27 | メディアでの落語 | Comments(6)
 前身のビクター落語会を含め何度か通った三田落語会が休会するということを、同会のホームページで知った。

 休会の案内を、引用。
三田落語会のホームページ

■三田落語会 休会のお知らせ■

平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。
さて、三田落語会は2009年2月よりビクター落語会の後を受けて、
「本格・本寸法の落語を楽しく演じて、楽しく聴く」をコンセプトに開催されて
参りましたが、この度諸般の事情により2018年2月24日開催を持ちまして
しばらくの間休会させていただく運びとなりました。
当会をご支援ご愛顧いただきましたお客様、またご出演いただきました落語家の皆様、
そして関係者の皆様には厚く御礼申し上げます。
尚、お客様への感謝の気持ちを込めまして、
2018年6月9日(土)に浜離宮朝日ホールにて「感謝祭」を行う予定です。
皆様お誘い合わせの上、ご来場いただきたく存じます。
今後の三田落語会につきましては、当会ホームページにてご案内する予定です。
今迄本当にありがとうございました。

公益財団法人仏教伝道協会

 「しばらくの間休会」の言葉を、信じたい。

 ブログを始める前に、結構集中してビクター落語会には行った。

 三田落語会に替わってからも、何度か聴いている。

 なかでも、普段は行かない土曜の夜席ながら、露の新治を聴きたくて直前の会に行きチケットを確保したことなどを、思い出す。

 ここ数年はなかなか都合が合わず、結局、昨年、一昨年は行くことができなかった。
 土曜は、昼も夜も、いろいろと都合がつかないのが、今の状況だ。

 前回行ったのは、2015年の師走の回まで遡る。居残り忘年会の日だった。
2015年12月21日のブログ

 今年は、なんとか時間をやりくりして行こうと思っていたのだが・・・・・・。

 休会前の二月の会には、なんとか駆けつけたいと思っている。


 もう十年近く前になってしまったが、ビクター落語会が終了した時にも大感謝祭があり、行くことができた。
2008年12月20日のブログ

 6月の大感謝祭は、次のように案内されている。

■ 三田落語会「大感謝祭」〜さらくちからタップリ その弐〜(仮)
■ 2018年6月9日(土)
■ 【会場】浜離宮朝日ホール(小ホール)
■前売り 各¥4,000(全席指定・税込み)/当日 各¥4,500(全席指定・税込み)
■昼席 開場 12:00 /開演12:30
【出演】柳家権太楼/瀧川鯉昇/入船亭扇辰/桃月庵白酒
■夜席 開場 16:30 /開演17:00
【出演】柳家さん喬/春風亭一朝/露の新治/柳家三三

 凄い顔ぶれだ。こちらもなんとか行けるといいのだが。br>


 決して、この会の常連などとは言えないが、ご縁があった会それぞれに、その後にあった居残り会も含め、思い出はある。

 仏教伝道センターの会場には、パイプ椅子がぎっしり並び、さまざまな落語会でお見かけする落語愛好家の方の顔があった。

 「本格・本寸法の落語を楽しく演じて、楽しく聴く」というコンセプト通りの落語会で、選りすぐりの出演者の二人会が中心の、楽しい空間と時間が、そこにあった。

 良質な落語会で、地域落語会の枠を超えていた。
 休会は、あまりにも惜しい。

 終了ではなく、あくまで“休会”であって欲しいと願うばかりだ。


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# by kogotokoubei | 2018-01-10 00:30 | 寄席・落語会 | Comments(6)
 「オヨヨ」の三枝のだらしない下半身について、ライブドア・ニュースでは、「週刊新潮」の記事が引用されているので、紹介したい。

LivedoorNEWSの該当記事

 被害者(と言ってよいだろう)の女性の回想だ。

「文枝さんが家に来るのは2カ月に1回ぐらい。いつも食事をして寝室で過ごすというパターンでした。当時の私は文枝さんに夢中で“月に1度は来てほしい!”とお願いをしていたのですが、文枝さんは“束縛されたくないんや”と言うのです。家に来られない日は繁昌亭の会長室で会ったり、外でデートしたり。彼は私が寂しがらないように電話を一日3回、メールも写真付きで送ってくれました」

 恵美子さんにすれば、せっかくの逢瀬だというのに、文枝師匠は平気で弟子も連れてやって来た。

「お弟子さんは入れ替わりで2人ぐらい連れて来たでしょうか。車を運転させて “ご飯食べさせてや”とやって来る。食事をしてから、2階の寝室で文枝さんと過ごすのです。その間、お弟子さんが階下で落語の稽古をしていたこともありました。でも、私と文枝さんが抱き合っていたのを分かっていたと思います。そんな時は“下に若い子(弟子)がおると燃えてくるやろ”とからかうのです」

 三枝は、今回の「週刊新潮」の記事について、彼女をストーカーよばわりして、自分の非を認めようとしないようだ。

 しかし、なんとも下品なメールを含む“証拠”は揃っており、恵美子さん(仮名)を都合の良い遊び相手とみなし、あの演歌歌手と二股で長年付き合っていたことは、間違いのない事実であろう。

 まったく、呆れ返る。

 それにしても、師匠も師匠なら、弟子も弟子だなぁ。

 この時、階下にいた弟子が、二十一人もいる弟子の誰かは分からない。
 きっと、愛人宅に同行したのは、当時の若手なのだろう。
 しかし、年長の者だって、師匠の女遊びのことを知らないはずもない。

 もっと言うなら、関西の芸能界で、三枝の女好きは、ほぼ公然のことであり、愛人と目された女性の名は、芸人の中でも複数存在する。

 吉本は、これまでの功績もあって、彼を守ろうとするだろう。

 そこで、はたと思う。

 もし、吉本せいや、林正之助だったら、どうしただろう。

 算盤勘定だけで考えるとは、思えない。
 もう少し、厳しい目で芸人を見ていたと思う。

 今の吉本は、さまざまな面でドライな商売に徹している組織であり、一人一人の芸人の私生活までは、あえて立ち入らない、という立場なのだろう。

 しかし、彼の下半身のだらしなさは、吉本も、間違いなく知っていたはずである。
 マスコミを利用して大々的に襲名披露興行を行って稼いだ吉本の責任は、小さくない。


 もし、彼が名跡を返上する気がないなら、私は「セコ文枝」「オヨヨの文枝」とでも呼ばせていただくが、「公益」社団法人である上方落語協会の会長は、すみやかに辞任して欲しい。

 次のように、歴代の会長だって、そんなに長くは居坐っていない。

①三代目林家染丸   1957年 - 1968年(11年)
②六代目笑福亭松鶴  1968年 - 1977年(9年)
③三代目桂春団治   1977年 - 1984年(7年)
④三代目桂小文枝   1984年 - 1994年(10年)
⑤二代目露の五郎   1994年 - 2003年(9年)
⑥六代目桂文枝    2003年 -

 彼の会長職は、すでに15年にもおよぶ。

 権力の座に長くいると、老害が組織を蝕むのは、どの世界も一緒。

 本来、文枝という名は、上方落語界の光輝く歴史の中だけで語られるべきであったのに、その名跡を汚すだけ汚している者に、その世界の長たる資格などない。

 彼は、文枝を継ぐに際して、落語作家としては三枝の名を使い、落語家として文枝を名乗りたいなどと言っていた。
 早い話が、女性問題と同じく、二股をかけようとしていたのである。
 芸にも、女にも、まったく、軽い男なのだ。
 
 相次ぐ女性問題発覚で、もはや逃げることは許されない。
 そして、名前も名誉も、という二股は許されない。

 せめて、会長職は、早々に降りてもらいたい。
 
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# by kogotokoubei | 2018-01-09 12:27 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 また、「オヨヨ」の三枝(私にとって、彼は文枝ではなく、いつまでも三枝)が、女性問題で世間を騒がせている。

 東スポから引用。
東スポの該当記事

不倫報道にダンマリ続ける桂文枝に報道陣からブーイング
2018年01月06日 16時30分

 一昨年に続き、昨年暮れにまたも不倫疑惑を報じられた落語家・桂文枝が、今回も前回同様、報道陣に対しダンマリを決め込んでいる。

 12月27日発売の「週刊新潮」によると、今回のお相手は日本舞踊の先生・Aさん(56)。2008年に出会い、09年3月に男女の仲になったという。

 15年には元演歌歌手・紫艶と20年にも及ぶ愛人関係疑惑を、写真誌「フライデー」に報じられた文枝。この時も報道陣から逃げ回り続け、不倫について話すことは全くなかった。前回と同様、今回も文枝は報道陣に一切しゃべらずじまい。不倫に関する質問から逃げ回るつもりのようだ。

 所属の吉本興業も「一般私人のことであり、プライベートなことでもありますので、本件に関するコメントは差し控えさせていただきます」としているが…。報道関係者からは「いくらなんでもそれはないだろう。だって文枝は、宣伝したいことがある時はマスコミを呼んで会見するのに、答えたくない時は逃げ回るのはおかしいよ」という声が上がっている。

 実は昨年、こんなことがあったという。7月に文枝は富士山に登頂し「富士山頂上奉納落語会」を開催した。

「この時、文枝さんが『マスコミの方々も一緒に登ってほしい』などと言い出し、吉本が報道関係者に声をかけたことがある。しかも交通費や宿泊費などを吉本か文枝さんサイドが負担するならともかく『経費はマスコミ各社の負担でお願いします』と言ってきたんです」(大阪の民放テレビ局関係者)

 このため多くの社は参加を見送ったが、中には参加した社もあった。「昔から付き合いのある吉本から頼まれて、断りきれなかったのでしょう。でもこんなふうに取材してほしい時はマスコミに協力を求めるのに、答えたくないことにはダンマリを決め込む。こんな勝手なことをされたら、誰も協力したくなくなりますよ」(同)

 上方落語協会会長を務める文枝は今後、同協会の行事や発表があるたびに表に出てくる立場でもある。また来年3月には、弟弟子の桂きん枝が「四代桂小文枝」を襲名することも決まっている。会長の上、筆頭弟子でもある文枝も当然、先頭に立って襲名を盛り上げる立場になる。

「そういう時だけ表に出てきて『取材してください』と言われてもねえ。こちらが聞きたいことは全く話さない姿勢では、『もう協力したくない』となるのは仕方ないでしょう」(同)

 それでも説明責任を果たすことなく、文枝は逃げ回り続けるつもりなのだろうか?

 なんとも、“オヨヨ”な、情ない男なのだろう。

 都合の良い時にはメディアをさんざん利用し、都合が悪い時には、逃げ回る。

 文枝襲名への反論や、その姿勢についての批判を、これまで何度か書いてきた。

2011年7月12日のブログ
2011年7月25日のブログ
2012年7月3日のブログ
2013年4月2日のブログ


 本来は襲名すべきではなかったが、襲名してしまったのだから、その名に相応しい噺家であるべきだ。

 「女遊びは芸の肥やし」と言う言葉は、「芸」があってこそ該当する言葉。
 創作落語と名づける新作の作者としてはそれなりに評価できても、演者としての噺家としては、まったく歴史に名を残すことなどできない男には、まったく当てはまらない。

 それでも、前向きに芸に取り組むのならいいものを、何人もの女性との交遊を重ねていれば、とても稽古などする暇はなかろう。

 芸人である、品行方正であるべし、とは言わないが、その名に恥じない噺家であろうとする姿勢が、まったく見受けられない。

 尊敬される噺家であったり、多くの優秀な弟子が育てた師匠とも思えない。

 メディアを賑わすのは、吉本をバックにした商売のネタか、こういうスキャンダルしかないのではないか。
 
 もう、文枝という名跡は返上すべきだし、上方落語協会会長も辞任すべきである。

 悔しかったら、これから稽古を重ねて、代々文枝の十八番、『三十石』でも演ってみせろ、と言いたい。

 あの談志が、文枝の名を継ぐな、と忠告したのを振り切っての襲名。

 その名を汚すばかりの男は、大名跡を名乗る資格などない。

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# by kogotokoubei | 2018-01-08 15:02 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)

星野仙一の啖呵、続き。

 一昨日、震災後に星野仙一が、震災の影響を考慮することなく、プロ野球の開幕を早めようとしているセ・リーグに、真っ当な反論の啖呵を切ったことを紹介した。

 この啖呵は、その後も切れ味鋭く放たれていた。

 2011年3月21日のブログから、紹介したい。
2011年3月21日のブログ

-----------------------2011年3月21日のブログ--------------------------------
 サンスポに星野の怒りが、よりストレートに紹介されている。
SANAPO.COMの該当記事

仙さん、29日に開幕延期「セ茶番劇や!」

 東日本大震災の当事者だからこそ、伝えたいメッセージがある。名古屋から神戸へ移動したこの日、星野監督が迷走するプロ野球界に“剛速球”を投げ込んだ。
 「今は有事なんや。みんな平和ボケしとる。停電でうじうじ言うなら、ウチみたいにいろんな球場を探せばええやろ。次元が低いよ。停電したり、電車が止まったり、原発問題もあるのに」
 19日に開催されたセ・リーグ臨時理事会で決まったのは、開幕を29日に延期、4月3日までナイター取りやめ、節電のために延長戦は行わない−など。約7時間も話し合った末に出た、たった4日延期の結論に闘将は「茶番劇や」と憤慨した。

 サンスポには、22日に関係者が文部科学省に集まるというニュースもある。
SAMSPO.COMの該当記事
プロ野球Vs蓮舫大臣、開幕問題決着なるか…
日本野球機構(NPB)は20日、加藤良三コミッショナー(69)とセ・リーグの新(あたらし)純生(ヤクルト球団常務)、パ・リーグの井上智治(楽天オーナー代行)両理事長が22日、文部科学省を訪ね、節電協力要請への回答を報告すると発表した。日本プロ野球選手会の新井貴浩会長(34)=阪神=も同席。計画停電を統括する経済産業省や蓮舫節電啓発担当相(43)も訪問し、開幕問題の決着を図る。

 29日セリーグ開幕で、文科省や選手会も合意するムードが出てきたが、私の同時開催、楽天所属パリーグの意向最優先、という持論は変わらない。“仕分けの鬼”蓮舫節電啓発担当相の豪腕くらいしか頼れないなら、この件に関しては蓮舫を応援しよう!

---------------------------引用、ここまで-------------------------------------

 結果は、3月22日に節電啓発担当相の蓮舫からセ・リーグのコミッショナーにパ・リーグと歩調を合わせて、開幕を遅らせ、ナイターを行わないよう強く要請があり、24日にセ・リーグは緊急理事会を開きパ・リーグと同じ4月12日開幕、4月中のナイター中止が決まった。
 
 選手会の強い意向もあったし、世論も考慮したことだろうが、星野の真っ当な啖呵が効いたことは、間違いないだろう。
 
 星野仙一の訃報を機に、震災後の記事を読み返してみて、いろいろ思うことがある。

 もうじき7年になる「3.11」を経て、この日本はいったいどう変わったのか・・・・・・。

 あの時にあった助け合いの精神や、節電、節約の心がけは、自分も含めて、今はどこへ行ったのだろうか。
 
 そんなことを振り返るきっかけにもなった、星野仙一の啖呵の思い出だった。


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# by kogotokoubei | 2018-01-08 10:50 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
 星野仙一の訃報に接した。

 古稀での旅立ちは、今の時代では“希(まれ)”な年齢とは言えない。

 この人で思い出すのは、あの大震災後のプロ野球開幕日程に関する、真っ当な言葉だ。
 “けんか星野”の言葉なので、あえて、啖呵と書こう。

 2011年3月20日に記事を書いている。
2011年3月20日のブログ

 その時の時事通信の記事と拙文を再度掲載する。

-------------------------2011.3.20の記事---------------------------
コミッショナーに苦言=「しっかりして」と楽天の星野監督−プロ野球
 東日本大震災の影響でプロ野球公式戦開幕日程をめぐる混乱があったことについて、楽天の星野仙一監督は20日、「コミッショナーがこうする、と言えば終わる話。もっとしっかりしてもらわないといけない」と私見を述べ、加藤良三コミッショナーのリーダーシップに苦言を呈した。
 被害が大きかった本拠地の仙台では当面、試合ができない。星野監督は、遠征先の名古屋市内で「今は有事。平和ぼけしとる。野球をやって勇気を与えるという次元じゃない」と語り、パ・リーグが4月12日に開幕を延期したように、セ・リーグも開幕を遅らせることは当然、との考えを示した。
 セ・リーグは当初の予定通り25日に開幕する方針を維持していたが、文部科学省からナイター自粛などの要請を受け、開幕を29日に延期し、今季は延長戦も行わないことを19日に決定した。 (2011/03/20-18:21)

 “けんか星野”のこの喧嘩、応援したい。この状況で開催延期を判断をしたパリーグと、巨人(→ナベツネ)にミスリードされて、未だにパリーグより先に開催するという暴挙を画策しているセリーグの、どちらが民意を反映しているか、そんなことも分からないコミッショナーなら、まったく必要ない。

 星野、久しぶりに吼え続けててくれ!選手会も応援するはずだ。

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 結果として、セ・パともに、4月12日の開幕となった。

 小学・中学と野球をやっていた。
 その頃は、ジャイアンツ・ファンだった。
 しかし、その後、正力の倅やナベツネという経営者への反感もあって、アンチ・ジャイアンツになった。

 とはいえ、星野仙一が好きだった、というわけでもなかった。

 ところが、この時の啖呵には、こういう人物があの世界にもいるんだ、と見直した。
 権威、権力には逆らわないスポーツ選手が多い中で、異色だった。
 
 アンチ魂は、巨人相手ではなく、理不尽なことへの真っ当な反論にもつながっていたのだ。

 年齢相応に丸くなってきただろうが、きっと、そのアンチ魂は持っていたと思う。


 かつての有名選手というにとどまらず、権威に媚びずに啖呵を切れる貴重な人材を、日本のプロ野球界は失ったように思う。
 
 合掌
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# by kogotokoubei | 2018-01-06 15:36 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)

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by 小言幸兵衛