噺の話

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 一昨日と昨日のアクセスランキングで、ほぼ六年前、2013年2月の記事へのアクセスが急増していた。

 「成田屋のこと」という記事。
2013年2月4日のブログ

 十二代目が亡くなった、次の日の記事。

 海老蔵が来年五月に十三代目団十郎を襲名するというニュースがあったことによる検索が影響しているようだ。

 そうか、二月三日の七回忌を前に、発表したわけだ。

 六年前の記事は、訃報の中で、成田屋がケネディ家と同じような不幸な因縁があり、団十郎が早死にするという内容があったので、それについて反論的な内容を書いた。

 来年五月、十三代目市川団十郎の誕生を、時期尚早と見るか、否か・・・・・・。

 Wikipediaの「市川團十郎」を元に、初代から十二代までの生年、團十郎襲名年、没年を並べてみる。分かりやすいように西暦で記す。
Wikipedia「市川團十郎」
 
 初代 1660年生まれ--->1675年(15歳)で襲名--->1704年没(44歳)
 二代 1688年生まれ--->1704年(16歳)で襲名--->1758年没(70歳)
 三代 1721年生まれ--->1735年(14歳)で襲名--->1742年没(21歳)
 四代 1711年生まれ--->1754年(43歳)で襲名--->1778年没(67歳)
 五代 1741年生まれ--->1770年(29歳)で襲名--->1806年没(65歳)
 六代 1778年生まれ--->1791年(13歳)で襲名--->1799年没(21歳)
 七代 1791年生まれ--->1800年(9歳)で襲名--->1859年没(68歳)
 八代 1823年生まれ--->1832年(9歳)で襲名--->1854年没(21歳)
 九代 1838年生まれ--->1855年(17歳)で襲名--->1903年没(65歳)
 十代 1880年生まれ--------->1956年没(76歳)*死後に追贈
十一代 1909年生まれ--->1962年(53歳)で襲名--->1965年没(56歳)
十二代 1946年生まれ--->1985年(39歳)で襲名--->2013年没(67歳)


 先代が亡くなってすぐ襲名した人もいて、少年期で団十郎となった人も少なくない。

 年代別の襲名者の人数は、このようになっている。

  十歳未満  2人
  十代    5人
  二十代   1人
  三十代   1人
  四十代   1人
  五十代   1人
  死後追贈  1人

 「劇聖」と言われた九代目も、兄の八代目が早世したこともあるが、十代で襲名している。

 十三代は、来年43歳での襲名になるが、過去の事例からは、高齢での襲名のうちに入る。決して、早すぎることはない。

 東京五輪の年に、そのお祭りに先駆けて五月から襲名披露興行が開催されるが、成田屋十八番の「荒事」が中心になるのだろう。どうしても無理をしてしまうのではなかろうか。

 余談だが、JOC会長の会見を見ると、東京五輪というイベント・ビジネスにまつわる疑惑は、まさにこのイベントも「荒事」だなぁ、と思う。

 さて、ほぼ四十歳と同じような年齢で襲名した父も、五十路で継いだ祖父も、そう長生きした方ではない。

 あまり無理をしないで、長くこの大名跡を名乗ってもらい、自分が元気なうちに、十四代目を誕生させて欲しいと思う。

 大名跡が復活するのは、歌舞伎も落語も、良いことだと思う。

 そういう意味では、団十郎の復活に合わせて、成田屋を贔屓にしていた、あの名人の名跡の復活を期待したいものだ。

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関山和夫著『落語名人伝』(白水Uブックス)

 海老蔵の酒の上での“荒事”の後で書いた記事で、関山和夫著『落語名人伝』(白水Uブックス)から次の文章を引用した。
2010年12月10日のブログ

 三遊亭円朝の辞世の句「目を閉じて聞き定めけり露の音」には仏教的な“悟り”が感じられて感銘深いものがあるが、談洲楼燕枝が残した「動くもの終りはありてこぶ柳」には悲痛な感じがただよっている。
 柳亭燕枝があえて談洲楼といったのは、むろん市川団十郎から来ているのだが、それが烏亭焉馬への憧憬の志を含んでいることは見逃せない。落語中興の祖といわれる烏亭焉馬は、五代目団十郎に傾倒して談洲楼焉馬と称したが、燕枝は焉馬を追慕したようである。燕枝は若いころから道具入りの芝居噺を演じたが、声色は河原崎権之助(のちの九代目市川団十郎)の真似が一番うまかったという。よほど成田屋が好きだったのであろう。

 このように、柳亭焉馬は五代目、初代談洲楼燕枝は九代目の大の贔屓だったのである。
 ちなみに、歌舞伎の世界で「九代目」といえば、この人のこと。

 燕枝の名跡は、三代目が柳亭燕枝を名乗っていたが、昭和30(1955)年に亡くなって以降、空白のままだ。

 私は、三遊派の円朝と競い合った初代燕枝の作『嶋鵆沖白浪』を復活させた柳家三三に、ぜひ談洲楼燕枝の四代目を襲名して欲しいと思っている。

 団十郎とともに談洲楼も復活、なんて、実に楽しいではないか。

 三三なのだ、成田屋を贔屓にして、定紋にちなんだ「三升連」になる縁もある。

# by kogotokoubei | 2019-01-16 12:36 | 襲名 | Comments(4)
 11日(金)から始まり、私が13日に再放送で見たNHK BS時代劇「小吉の女房」について、短い記事を書いた。

 勝小吉という魅力的な人物が登場することに加え、主役も脇役も小劇団で腕を磨いてきた俳優さんなど芸達者なキャスティングで、今後も楽しみだ。

 勝小吉は自伝『夢酔独言』で、自分の失敗もあからさまに書き残し、子孫への「いましめ」にせよ、いわば、反面教師にせよ、と言い残している。

 小吉は、生涯を通してガキ大将として生きたような人で、喧嘩も大好きだった。

 すでに息子の海舟に家督を譲った後に書かれた自伝には、そこまで書くか、という失敗談が多い。

 その内容には、自分を良くみせようなどという虚飾性は、微塵もない。

 そういう意味で、小吉の自伝と、このシリーズで取り上げているある人物の覚書は、好対照と言えるかもしれない。

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「忠臣蔵事件」の真相(佐藤孔亮著・平凡社新書)

 佐藤孔亮著「『忠臣蔵事件』の真相」(平凡社新書)を元に、このシリーズの四回目。

 浅野長矩を刃傷事件の後に取り調べた目付の多門(おかど)伝八郎が残した覚書には、いろいろ疑問が多く、伝八郎の創作と思われることを本書の著者は指摘しているが、中でも自分自身のことを偽って劇的に描いたと思しき点について今回はご紹介。

 長矩の切腹場所が庭先であると大目付の庄田下総守が言うので、上司の庄田に対し自分が抗議したと、伝八郎は『多門覚書』に記している。

 しかし、田村家の記録の一つ『杢助手控』には、この切腹の場所は老中の指示であり、庄田と多門との口論があったことなど、まったく書かれてはいない。

 本書から、引用。

「柳沢吉保に抗議した」話

 多門は検使として田村邸に赴く前に柳沢吉保の勘気を受け、控え部屋に控えていた、ということになっている。だから私は役目のことを直接伺っていないので、大目付の庄田に落ち度がないようお願いし念を押しているのだと言う。
 これも変な話だ。一種の責任逃れにも見える。自分は聞いていない、当地(田村邸)へ行けばやり方がおかしい、責任は大目付の庄田にある。では同役の大久保左衛門はどうか。大久保は控え部屋にいたわけでもなく、きちんと仕事をこなして田村邸に行ったはずだ。ところが『多門覚書』では彼も多門と一緒に庄田に向かって抗議をしていることになっている。これが本当だとしたらこんな無能な目付もいないものだ。

 多門の覚書では、長矩の切腹の場所が庭先であることについて、大目付の庄田がそれが老中の指示であると明確に答えていないため、多門が大名には相応しくない、と抗議したと書かれているが、やはり、これは不自然だ。もちろん、紹介したように、同役の目付が二人して上司に抗議するなども、あり得ないことだと思う。

 本書では、多門の覚書では、庄田も大久保も、長矩を預かった田村も、みなおかしい、と指摘する。

 多門の批判を受けて言い訳も説明もせず、ただ威張っている庄田、終始無言で時々多門と行動を共にする大久保、多門に言われて立腹し、じっくり聞くと感心してしまう田村。多門を主役とするとみんな脇役か悪役である。

 そして何と言っても不思議なのは、多門が柳沢吉保の勘気を受けていた、という点なのだが、その理由が、多門のとんでもない行動によるものだと、本人が記しているのだ。

 『多門覚書』では刃傷事件の後、その裁定をめぐって多門が異議を申し上げ、なんと当時側用人から老中上座に上り、将軍綱吉の信頼を集め、権勢を誇った柳沢吉保の怒りを買って部屋の控えさせられた、と書いているのである。
 多門は刃傷事件の後の浅野長矩を取り調べた。浅野長矩が言うには、「お上に対して恨みはない、吉良には宿意をもって前後を忘れ刃傷に及んだ。打ち損じたことは残念だが、この上はどのよう裁きを受けてもかまわない」ということだった。
 ところが、幕府の裁定は浅野は切腹、吉良はお構いなし、であった。多門は若年寄(目付は若年寄の支配下にあった)に面談を求め、ここで抗議する。「五万石の大名が家名を捨て、場所柄も忘れて刃傷に及ぶほどの恨み」である。吉良に落ち度があるかもしれず、それを吟味しないで切腹を言い渡すとはあまりにお手軽な取り計らいではないか、というのだ。いかにも多門が言いそうな論理である。ただし『覚書』によると多門はじめ目付両人の訴えとなっている。
 これに対し、若年寄は「もっともなことだ。老中に申し上げよう」と言うので、多門たちが控えていたら、若年寄の稲垣対馬守と加藤越中守が、もうすでに柳沢吉保(ここでも『多門覚書』は「松平美濃守」と書いているが、柳沢がこの名前を賜ったのは八ヶ月後の元禄十四年十一月のことである)が決着したことだ、と伝えてきた。
 そこで多門はひとりになって食い下がる。柳沢ご一存(原文は「美濃守殿ご一存」と書かれている)の決着であれば(つまり将軍の裁定に達していないのであれば)もう一度お願いしたい、という。これを伝え聞いた柳沢が立腹した。執政の者に何度も異議を申し立てるとは心得がたい、とのことで多門はついに差し控えの部屋で控えておれ、との仕置きを受けたのである。

 この日の江戸城の様子を察すると、こんなことはとても考えられない。

 勅使への対応で忙しい中に刃傷事件発生。
 その裁定をめぐって目付が若年寄に抗議し、若年寄が実力者の老中上座の柳沢に取り次ぐなんてことが、あり得るだろうか。

 柳沢吉保の短い日記には、「目付両人参る」とだけ書かれており、多門の名も残されていない。
 『徳川実紀』にも、何らこの抗議のことは書かれていない。

 『多門覚書』だけが、本人が裁定に抗議したことを記しているのだ。

 どう考えても、不思議なのだ。

 多門伝八郎の覚書は、終始、浅野贔屓であるとともに、自分が浅野を援護するあまり上司や若年寄にまで抗議する姿が描かれている。

 これまで紹介してきた、多門伝八郎の覚書への疑問は、次のような点。

 (1)浅野長矩の辞世の歌の紹介
 (2)介錯の刀に自分の差料を使ってくれと長矩が頼んだ、という逸話
 (3)切腹の場所が庭先であることについて、上司の大目付に抗議したという記述
 (4)幕府の裁定について抗議し、老中上座柳沢吉保の怒りを買ったという記述

 これらのことは、田村家関連の三つの記録を含め、他の史料には、いっさい存在しない。


 なぜ、多門伝八郎は、そんな記録を残したのか・・・・・・。

 その謎についての本書の推理は、最終回のお楽しみ。

 旧暦十二月十四日まで、あと四日だ。


# by kogotokoubei | 2019-01-15 12:27 | 江戸関連 | Comments(0)
 昨夜、NHKのBSで「いだてん」の後、新たに始まった時代劇「小吉の女房」を再放送で見た。

 だからなおさら比較しやすいのだが、ドラマとしては、「小吉の女房」が数倍、面白い。

NHKサイトの該当ページ

 まず、勝小吉役の古田新太が、落語用語(?)で言えば、ニンである。
 女房役の、沢口靖子も、久しぶりにテレビで見たのだが、いいねぇ。
 連続ドラマとしては遺作となる、江波杏子さんの味のある演技も楽しみ。

 勝海舟の父、勝小吉を描いた本は、何冊かある。

 何と言っても、本人の『夢酔独言』が、失敗談も含めたなんともあけすけな本で楽しい。記事にしたいと思いながら、まだ書いていない。

 子母澤寛の『父子鷹』も有名だが、まだ読んでいない。

 小松重男の『喧嘩侍 勝小吉』は読んだ。
 『夢酔独言』を小説としてコンパクトに読みやすくまとめてくれた本、と言えるかもしれない。
 この人は、『蚤とり侍』の作者だが、他にも『川柳侍』や『ずっこけ侍』なんて面白い本を書いている。


 「小吉の女房」、キャストも良く、大河では今年味わえない歴史ドラマとして、今後も楽しみにしたい。


# by kogotokoubei | 2019-01-14 09:33 | ドラマや時代劇 | Comments(2)
 昨日のアクセスランキングで、『談志楽屋噺』を元に書いた“キザな小円遊”に関する記事(2013年10月)へのアクセスが急増していた。

 この記事は安定的にアクセスがあり、「笑点」関連のニュースがある際には増えるのだが、昨日のアクセス数は約150もあった。

 きっと、BS笑点ドラマスペシャルの影響かとは思うが、昨夜午後七時からの五代目圓楽を主人公としたドラマは、野暮用のため見ることができなかった。

 歌丸さんのドラマが予想外に良かったので、なんとか見たかったが残念。録画もしなかった。まぁ、こういうことも、よくある。

 ということで、そのドラマのことではなく、このシリーズの続編。

 旧暦十二月十四日は、1月19日。あと、六日だ。

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「忠臣蔵事件」の真相(佐藤孔亮著・平凡社新書)

 佐藤孔亮著「『忠臣蔵事件』の真相」(平凡社新書)を元に、このシリーズの三回目。

 一回目は、浅野長矩作とされる辞世、「風さそう花よりもなお我はまた春の名残をいかにとかせん」は、浅野長矩の取調べをした目付、多門(おかど)伝八郎の覚書にしか存在しないものであること、二回目は、長矩が介錯に使う刀として自分の差料を望んだことも、同じように伝八郎のみが伝えていることを紹介した。

 三回目は、その後創作された「忠臣蔵」で重要な場面の元となったとされる、あの話について。

 「多門伝八郎覚書」より。

 ちなみに、この逸話の前には、多門が上司である大目付の庄田下総守と、切腹の場所について衝突していたことが紹介されている。

「片岡源五右衛門の暇乞い」というフィクション

 もう一つ、重要なことがある。田村邸で浅野長矩が切腹をしたときに、片岡源五右衛門が田村邸を訪れ、主君に一目逢いたいと言って暇乞いが許された、という話である。これは映画やドラマにもなっている有名な場面である。しかしこれまた、首をひねらざるを得ないことなのである。さきほど庭先の切腹をめぐる正使(大目付)庄田下総守と副使(目付)多門伝八郎との衝突について考えたが、『多門覚書』によるとその騒ぎが終わる頃である。田村右京太夫が伝えるところによると、「ただ今、浅野内匠頭家来片岡源五右衛門と申す者が来て、主人がお宅で切腹を仰せ付けられていると聞いて主従の暇乞いに一目主人に逢わせてもらいたい、と言っている。断ったところ、一度検使の方にお願いしたいと、顔色を変えて言っているが、どうしたものか」というのである。
 庄田下総守は「それしきのこと、大検使に言うまでもないことだ」と言って、いいとも悪いとも言わない。多門は「差し支えないではないか、長矩切腹の場所に出て、間を隔てて無刀にして、警護をすれば、家来は大勢いるし、主人を助けようと飛びかかってきても取り押さえられるだろう。一目くらいは慈悲である」と認める考えである。これを聞いて庄田は「思うようにされたらいい」と認めた。
 田村右京太夫が多門伝八郎の一存で許された旨を片岡へ伝えると、ことのほか喜んだという。そして小書院次の間に無刀で控えさせて、大勢の家来で警護させる、と多門に伝えた。こうして「片岡源五右衛門、主君への暇乞い」が叶ったというわけだ。
 「仮名手本忠臣蔵」での主従の最後の対面など、この片岡源五右衛門の暇乞いがネタ元となっているわけだが、本当にこんな場面があったのかどうか・・・・・・。

 片岡源五右衛門は、九歳にして片岡家百石の家督を相続し、小姓として浅野長矩に仕えた。長矩とは同い年で、信任が厚かったと言われている。

 この片岡暇乞いについて、田村家の三つの史料には何ら記述はない。
 いろいろ疑わしい点が、ある。
 多門覚書には、翌日十五日、片岡が多門に家を訪れて主人との対面の礼を述べたとも記されている。
 また、その年の十一月にも片岡が再び訪ねてきたとされている。
 本書での見解。

 この話はどうだろうか。まず、田村邸での切腹の場に現れてきたということ。一度来て断られて、再度来たときは検使にもお願いする、ということで多門の出番となった。
 ふつう切腹の場は非公開である。その場にいるのは検使のほかは当家の主人と世子、他は介錯人などの役人にすぎない。そこへ切腹する当人の家来が「一目だけでも」と暇乞いをお願いするというのは、講談・浪曲の世界であって、いくら警護を大勢つけたといって、にわかには信じがたい。
 なにしろ少し前まで主君の死には殉死が一般的だった時代である。殉死は前代将軍の家綱時代に禁じられていたが、それにしても何が起きるかわからない。切腹する当人は大名とはいえ殿中で刃傷に及んだ者である。もし暇乞いのような願いが出されたとしても、断固としてはねつけるのが検使の役目であろう。もしこれが事実ならば、それこそ検使としてこれが落ち度にならなかったことが不思議である。
 田村右京太夫もおかしい。『多門覚書』では田村が片岡と多門の取次ぎをしているのある。片岡は感謝しております、などということを三万石の大名が、検使の目付にわざわざ報告に来るだろうか。相手は罪人の家来である。
 翌日の話もおかしい。片岡はお礼に多門の屋敷を訪れたという。しかし片岡は同日の十四日、主人内匠頭長矩の遺骸を泉岳寺に葬り、墓前で磯貝十郎左衛門、田中貞四郎、中村清右衛門と四人で主君に殉じて落髪している。そんな状態の者がいくらお礼が言いたいといって、目付の屋敷へ出かかていくだろうか。はなはだ疑問である。

 ということで、劇的な主従の別れのの対面も、多門伝八郎の創作と考えられるのだ。
 では、最後に長矩と家来との何らかのコミュニケーションはなかったのか、というと、田村家の記録の一つ『長岡記録』には、長矩が切腹する前に、家来への伝言があったことが記述されている。
 最初、手紙を遣わしたいと長矩が言ったら、番人が伺いを立てなければならないと答えたので、それでは口上にて伝えたいと言って残した言葉がある。

 宛て先は「田中源五左衛門」と「磯田七郎左衛門」となっているが、おそらく片岡源五右衛門と磯貝十郎左衛門のことではないかと思われる。

   此の段兼ねて知らせ申すべく候えども、今日やむを得ざること候ゆえ
   知らせ申さず候、不審に存ずべく候由」という内容。

 このことはかねてから知らせておくべきだったが、今日となってはもはや知らせることはできなくなった、さぞ不審に思うことだろう、ということだが、さっぱり要領を得ない文章だ。あえていえば、吉良との確執とか、胸にしまっておいた思いがあるのだろうが、とうという言えずに終わってしまった、らしいことがわかる。
 私はこの言付けは信用できると思う。これは番人が「伺いを立てなければならない」と言っていることから、検使の役人には聞こえない範囲で言ったことだろう。本当に最後に言った言葉というのはこんなものかもしれない。長矩は従容としてその場についた、と思われる。
 
 なんとも劇的ではない、長矩最後の言葉、と言えるなぁ。

 本書の著者は、この最後の言葉の宛先が片岡源五右衛門であると想定し、実際に遺骸を引き取りに彼が来たことから、暇乞いというフィクションを創作したと推理している。
 では、なぜ、多門伝八郎は、そんな作り話を後世に残したのか・・・・・・。

 謎は深まる。

 次回は、他にもある多門覚書の不思議について。

# by kogotokoubei | 2019-01-13 17:27 | 江戸関連 | Comments(2)
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「忠臣蔵事件」の真相(佐藤孔亮著・平凡社新書)

 佐藤孔亮著「『忠臣蔵事件』の真相」(平凡社新書)を元に、このシリーズの二回目。

 前回は、浅野長矩の有名な辞世は、刃傷事件の後に長矩を取り調べた目付の一人、多門(おかど)伝八郎が残した覚書にしか書かれていないことを紹介した。

 長矩が預けられ切腹の場となった田村家の関係者が残した三つの記録には、辞世についての記載がまったくない。よって、地元赤穂市の記録においても、あの辞世が長矩が実際に詠んだものかは疑わしいと指摘しているのだ。

 どうも、多門の創作ではないかという説が、現在では有力となってきている。

 また、多門は、他にも創作している可能性がある。

介錯の刀をめぐる重大な疑問

 辞世の歌の他にも多門の『覚書』には首をひねらざるを得ない箇所がいくつもある。
 第二点は介錯の刀である。先にも紹介した多門の『覚書』には辞世の歌の直前にこのような場面がある。
 六つ過ぎ、長矩が切腹の座に着くと、御検使衆に一つ願いがある、と言って「拙者の差料をお預けしたはずだが、その刀で介錯してもらいたい。その刀は後で介錯人にお渡しいたしたい」というのである。大検使の庄田下総守は副使である目付二人、つまり大久保権左衛門、多門伝八郎と相談した上、願いのとおり預かりの刀を取り寄せることにした。そして長矩が辞世の歌を詠んでいる間にそれが届いた。
 はたして切腹する当人が、自分の刀で介錯して欲しい、と願い出ることは実際にあることだろうか。疑問である。しかもその刀を介錯人に与える、という。何のために、という疑問がわく。

 介錯に、自分の刀を使って欲しい・・・と願う感覚、なんともつかみ難い。

 この件についても、切腹の場、田村家の記録が多門への反証となる。

 介錯の刀に関しては『杢助手控』に詳しい。大名切腹の介錯の刀ということから、殿様の御腰の物から下げ渡しを戴きたいと、小姓頭が吟味した上、「美濃千寿院の刀」が一枚五両の札が付いているのをどうか、と伺ったところ、殿様の田村右京太夫は「この刀はそのようなことに使うものではない。誰がそのようなことを言ったのか」と叱ったという。そのため加賀清光(長さ二尺一寸)を下され、袋箱がなかったので相応なる袋箱を用意する、というバタバタぶりである。
 一方、三方に載せ、長矩が切腹で用いる小脇差は長光の小脇差を使った。由緒あるもので、使用後に研ぎなおし、鞘なども作り変えて納め置いたという。
 これによると、あれこれ吟味した上、殿様の意向もあって、介錯の刀は加賀清光、小脇差は長光に決まったというのである。五万石の大名を急に預かり、その切腹にあたって短時間での田村家の準備がいかに大変だったのか、よくわかる話である。

 田村右京太夫、右京太夫は官位、本名は田村建顕(たむらたつあき)で、陸奥岩沼藩第二代藩主にして、のちに田村家一関藩初代藩主となった人。

 前回、田村家の記録が三種類のあると紹介したが、その一つは『一関藩家中(かちゅう)長岡七郎兵衛記録』(以下『長岡記録』)。一関藩、となっているのは、田村家が初代藩主であったからなのだ。
 『杢助手控』も、正式には『一関藩家中北郷(きたざと)杢助手控(もくすけてびかえ)』なのを短縮したもの。もう一つの田村家の記録は、『三月十四日御用留書抜』(以下『御用留書抜』)だが、『杢助手控』以外の二つの記録には、刀について詳しいことは書かれていない。

 では、『多門伝八郎覚書』と『杢助手控』のどちらが、正しいのか。

 筆者も、そして私も、『杢助手控』に軍配を上げる。
 
 その内容が、現場に居た者でしか書けないリアリティがあるのだ。

 反して多門の覚書には、まるで小説のような、創作された痕跡がある。

 また、浅野長矩という大名の振る舞いとしても、多門が残した記録には疑問が消えない。

 筆者の見解を引用。

 私は史料を読み解くことによって、従来言われてきた浅野長矩像を見直していきたいと思っているが、切腹の場における長矩は、従容として潔く最期の場に臨んだのではないか。五万石の大名として、よけいな振る舞いはなかった、と思いたい。
 『多門覚書』は最初から最後まで浅野びいきの立場で書かれている史料である。その意図が何であるのか知らないが、ときにこうしたひいきの引き倒しにも見える記述がある。

 辞世の歌、介錯の刀、そして、他にも『多門覚書』には、他の記録にはない劇的とも言える記述があるが、それは、次回のお楽しみ。
 
# by kogotokoubei | 2019-01-12 10:36 | 江戸関連 | Comments(2)
 「お笑い三人組」の主役の一人、一龍斎貞鳳さんが、二年余り前に亡くなっていたことを、今日のニュースで知った。

 サンスポから引用。
サンスポの該当記事

2019.1.10 12:24
一龍斎貞鳳さんが死去…テレビ草創期のバラエティー番組「お笑い三人組」で人気

 テレビ草創期のNHKのバラエティー番組「お笑い三人組」に出演して人気を博した元講談師で、参院議員も務めた一龍斎貞鳳(いちりゅうさい・ていほう、本名今泉正二=いまいずみ・しょうじ)さんが2016年12月27日、脳梗塞のため東京都内で死去していたことが10日までに分かった。90歳。福島県出身。三回忌を済ませたのを機に遺族が公表した。

 1938年に五代目一龍斎貞丈に入門し、54年に真打ち昇進。「お笑い三人組」では落語家の四代目三遊亭金馬(当時は小金馬)、物まねの故・三代目江戸家猫八さんと共に出演し、茶の間の人気者となった。

 71年には自民党から参院選に出馬して当選。本名を議員名として国立演芸場の設立などに尽力したが、1期で引退。その後は講談界に戻らず、政治評論活動などをしていた。
 
 亡くなったことが、二年以上も、伏せられていたんだ・・・・・・。

 芸能人をめぐるどうでもいいネタの取材のために身辺をストーカーまがいの行動でかぎまわる人間が多い今日、ずっと貞鳳さんの訃報が表面化しなかったということに、なんとも言えない切なさを感じる。

 NHKの「お笑い三人組」は、最初はラジオだったが、昭和31(1956)年からテレビ放送になり、昭和41(1966)年まで約十年間続いた。

 私は、小学校低学年の頃に家族と一緒に見た記憶があり、「アハハ ウフフ 三人元気に顔出して、ニコニコニッコリ笑ったら、心はいつでも青空だ」のテーマソングは、よく覚えている。

 舞台設定の違い、キャスティングの違いなどで、第一期、第二期、第三期と分けられるが、私が覚えているのは、最後の第三期。
 Wikipedia「お笑い三人組」から、キャスティングを引用。
Wikipedia「お笑い三人組」

満腹ホール(ラーメン屋)の金ちゃん(竜助):三遊亭小金馬
ニコニコクレジット社員の正ちゃん(今泉正二):一龍齋貞鳳
クリーニング屋の八ちゃん(八太郎):江戸家猫八
金ちゃんの妹(かおる):音羽美子
正ちゃんの妻(真知子):桜京美
おたまちゃん(珠枝、八ちゃんの恋人):楠トシエ
おたまちゃんの母・おふで:武智豊子
クリーニング屋「峰松」の主人:渡辺篤
金ちゃんの父:木田三千雄
頑太(満腹ホールのアルバイト):矢野目がん


 主役の三人を支える脇役陣に、喜劇役者の名優が並ぶ。

 音羽美子さんは、主役の妻、妹、恋人という女性三人の中では、おとなしい美人という役回り。

 桜京美さんと楠トシエさんが、とにかくパワフル。

 桜京美さんは、「アイ・ラブ・ルーシー」のルーシーの初代声優でもあったなぁ。

 楠トシエさんは、あの頃流行った「トランジスターグラマー」の見本のような人であったように思う。

 猫八さんとの「八ちゃん、おたまちゃん、うー」というギャグが懐かしい。

 そのおたまちゃんの母親おふで婆さんの武智豊子さん、好きだったなぁ。
 あの甲高い声を思い出す。
 「女エノケン」と言われた人だ。
 
 渡辺篤さんは、もちろん、テレビで他人の家を訪問しているあの人ではない^^
 黒澤映画で名脇役だった人。

 あのドラマの凄さは、今日のバラエティと称する愚かしいテレビ番組とは、一線を画している。

 なんと言っても、公開生放送なのだ。

 それで、思い出したのは、三代目江戸家猫八さんのこと。

 広島で被爆し、原爆症の辛さから、あの生放送の日も体調が悪い日もあったことを、晩年に告白されている。

 2014年の原爆投下の日、記事を書いた。
2014年8月6日のブログ

 三人組は、ついに、金馬さんだけになった。

 貞鳳さんが、参議院議員を辞めた後に講談界に戻らなかった理由は、知らない。

 講談師の時代も、司会などですでに売れっ子になっていたことから、講談には未練がなかったのかもしれない。

 今や、松之丞人気もあって、講談があらためて注目を集めていることを考えると、一龍斎貞鳳さんが、人知れず亡くなっていたことが、なんとも言えない寂しさをもたらす。

 今頃、猫八親子と一緒に、昔話に花を咲かせているのかもしれない。

# by kogotokoubei | 2019-01-10 21:27 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)
 今年の旧暦十二月十四日は、1月19日の土曜日。

 元禄十四年の十二月十四日、あの有名な事件があった。

 その日までに何回かに分けて、このシリーズを書くつもり。

 「忠臣蔵」については、2013年の旧暦十二月十四日に書いたことがある。
2013年1月25日のブログ

 樋口清之さんの本『江戸と東京』を引用した短い記事だった。
 引用部分を再度ご紹介。
嘘忠臣蔵

 元禄の快挙として、忠臣蔵程芝居講談で人気のあったものはなく、又、それだけに脚色に脚色が加えられて真実の誤りを伝えられているものも少くありません。
 殊に「仮名手本忠臣蔵」をはじめ、戯曲の忠臣蔵類は、芝居としての舞台変化と、ストーリーの曲折をねらって、良くもあんな嘘が言えたものと思う程に、色々と妙な話が附随してしまいました。いわゆる赤穂浪士には私も十分の同情と、理解を持っているつもりですが、それだけに、俗説忠臣蔵には一方甚だ憤りを感じています。今後機会を得てできるだけその真相を詳しくお話申し上げたいと存じます。
 第一堀部安兵衛高田馬場の仇討も十八人斬どころか相手は僅かに五人、味方は四人でありましたし、討入りにつきものの山鹿流の陣太鼓も実はただの銅鑼でありましたし、上野介が斬られたのは松の廊下ではなく大廊下でした。豪酒家といわれる赤垣源蔵は全然酒を飲みませんし、本所松坂町などという名の町は討入りの頃にはまだありません。一行が勢揃いした楠屋というそば屋はなく、勢揃いしたのは実は堀部安兵衛の私宅でした。それに第一討入りの正確な日は元禄十五年十二月十五日午前四時で、十四日ではなく、かつ雪等は降らず月夜でした。天野屋利兵衛は義士と何の関係もなく、忠僕直助等は実在しません。

 史実と俗説や芝居(ドラマ)の大いなるギャップは、現代でも頻繁に散見されるが、「忠臣蔵」ほどその乖離が大きいものはないかもしれない。

 樋口さんが指摘するように、あの事件はあまりにも脚色されてしまった。

 言い換えれば、あまりにも“劇化”された、とも言える。

 それは、江戸の町人たちが、それを期待したという社会情勢もあっただろうが、“劇化”を促す情報が背景にあった。

 今回は、ある本を元に、あの事件を劇化させることに大きな貢献(?)をしたある人物のことを紹介したい。

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「忠臣蔵事件」の真相(佐藤孔亮著・平凡社新書)

 「『忠臣蔵事件』の真相」は2003年に平凡社新書で発行されたもので、作者の佐藤孔亮(こうすけ)という人は、出版社勤務を経てフリーライターになった方で、年齢は私とほぼ同じだ。
 本書巻末のプロフィールには、次のように紹介されている。

歌舞伎、落語など古典芸能に造詣が深く、また独自の視点から忠臣蔵の史料に取り組み、芝居と史実の両面からアプローチを試みている。川柳作家、都々逸作家でもある。

 この内容を読んで、少なからず親近感が湧いてきた。

 さて、「忠臣蔵」が創られる背景には、さまざまな要因があるのだが、この人の残したものは実に重要だなぁ、と思えるのが、目付の多門伝八郎。

 本書の「第四章 忠臣蔵を作った男・多門伝八郎」より引用。

 まず、あの辞世への疑問から。

辞世の歌は別人の作か

  風さそう花よりもなお我はまた春の名残をいかにとかせん

 浅野長矩の辞世として知られている歌だ。あまりにも有名である。JR播州赤穂駅の構内ロビーに書家によって大きく書かれているのもこの歌だ。しかしこの歌は本当に長矩の辞世だろうか。いや、本人が本当に詠んだ歌なのだろうか、という疑問の声が多いのである。
 この歌が記されているのは『多門伝八郎覚書(おかどでんぱちろうおぼえがき)』という幕府目付多門伝八郎の書いたものである。他には記されていない。まず第一にこれがおかしい。浅野長矩は刃傷事件を起こした後、田村右京太夫建顕(たけあき)の屋敷に預けられ、そこで切腹を仰せ付けられた。元禄十四年(1701)三月十四日、事件を起こしたその日の六つ過ぎ(午後六時過ぎ)である。
 『多門伝八郎覚書』にはこうある。
 長矩が切腹の座について、「自分の差料(さしりょう)を介錯の刀として使ってもらいたい」との願いが許され(この話もおかしいが後述)、その後に硯箱と紙を所望するので差し出すと、長矩は硯箱を引き寄せ、ゆるゆる墨を摺り、筆を取り、「風さそう花よりもなお我はまた春の名残をいかにとかせん」と書いて、墨を摺っているうちに届いた刀(自分の差料)を介錯人磯田武太夫に渡し、辞世の歌は御徒付目付水野杢左衛門が受け取って「田村左京太夫」(多門は田村右京太夫を間違えてこう書いている)へ渡した、という。

 多門伝八郎は、刃傷沙汰の後に、浅野長矩を取り調べた目付。
 だから、彼が残した覚書は、信頼できるものとしえ当時は受け入れられたのだと思うが、それ以外に存在する史料には、辞世の句のことは、まったく残されていない。

 引用を続ける。

 ところが他の史料ではどうか。この切腹に関して田村家の記録は三種類ある。『一関藩家中(かちゅう)長岡七郎兵衛記録』(以下『長岡記録』)は、江戸城へ赴き長矩の身柄を預かるところから切腹までをもっとも細かく記している。『一関藩家中北郷(きたざと)杢助手控(もくすけてびかえ)』(以下『杢助手控』)は介錯の刀や切腹の場所をめぐる話が細かく書かれていて面白い。『三月十四日御用留書抜』(以下『御用留書抜』)は要点のみを書き記している。いずれも田村家がどのように対応したかについて書き残しており、貴重な記録になっている。
 『長岡記録』では切腹の場面はこう書かれている。
 大目付庄田下総守が上意の趣、すなわち「その方儀、意趣ある由にて吉良上野介を理不尽に切り付け殿中を憚らず時節柄と申し重畳不届至極に候、よって切腹仰せ付けられ候由」と申し渡す。それを受けて長矩は、「今日不調法なる仕方如何様にも仰せ付けらる儀を切腹と仰せ付けられ有難く存じ奉り候」と述べる。
 それが終わると御徒目付が左右後ろに付き添い、障子を開けて庭へ降り、毛氈の上に着き、小脇差を三方に載せ、中小姓(愛沢惣右衛門麻上下を着す)が三方を持って前に差し置く。介錯の磯田武太夫がただちに仕舞い、首を差し上げて検使に見せる。
 実に淡々とした様子で、辞世の歌などどこにも出てこない。

 田村家の他の記録にも、辞世のことは書かれていない。
 なんと、赤穂市刊行の『忠臣蔵』第一巻にも辞世の歌については他の史料で確認できず、「偽に近いようにも思われる」と指摘していると本書では説明されている。

 そして、辞世に限らず、多門伝八郎の覚書には、いくつも疑問があることを本書は指摘する。

 それらの問題点については、次回。

 講釈師見てきたような嘘をつき、なんて言葉があるが、伝八郎は講釈師ではなく、旗本であり、目付なのだ。

 なぜ、彼が残した覚書が、「忠臣蔵」というフィクションにつながっていくのか、なかなかに興味深いテーマなのである。


# by kogotokoubei | 2019-01-10 12:50 | 江戸関連 | Comments(2)
 昨夜は、「いだてん」をBSプレミアムで午後六時から見てから、BS日テレで午後七時から始まった「BS笑点ドラマスペシャル 桂歌丸」を見た。

 2017年に放送されたドラマの再放送。
 実は、三度目の放送。
 平成29(2017)年10月9日に最初の放送があり、昨年、歌丸さん逝去直後に追悼番組として、7月11日再放送されていた。
 二度とも、見逃していたのだが、昨夜、ようやく縁があった。

 BS日テレのサイトに、今のところ、番組の紹介ページが残っている。
BS日テレのサイトの該当ページ

 主役の歌丸、本名椎名巌役を、歌舞伎役者の尾上松也が務めた。
 体格を含め見た目は似ているとは言えないのだが、苦悩する若手落語家を巧みに演じたと思う。
 今回の再放送は、12日に同じシリーズで五代目圓楽のドラマが放送される宣伝も兼ねてのことだろうが、そのドラマでも尾上松也は歌丸を演じるようだ。

 巌を育てた気丈な祖母タネを泉ピン子が演じたが、ハマリ役。
 後に妻となる幼馴染の富士子は水川あさみが演じた。売れない時代に夫を支える姿が、なんとも健気で良かったなぁ。

 そして、親戚の知り合いを通じて入門することになる五代目古今亭今輔を、笹野高史が演じたのだが、この人が実に良かった。
 入門志願の巌に「何かやって」と言い、巌がラジオを聴いて覚えた二代目三遊亭圓歌の十八番『ぼろたく』をオドオド始めると、途中から今輔役の笹野が噺を引き取って演じたが、なかなかのもの。
 『粗忽長屋』などもさわりだけ演じる場面があったが、今輔には似ていないにしても、まさに、明治生まれの芸達者の落語家が、そこに居る感じだった。
 笹野は落語家役は初めてではなく、NHKの朝のドラマ「わろてんか」では喜楽亭文鳥を演じ、見事な『時うどん』を披露している。
 また、中島らも原作で、マキノ雅彦(津川雅彦)の監督第一回作品「寝ずの番」では、中井貴一演じる笑満亭強太の兄弟子、笑満亭橋次を演じている。こちらの方は、高座の演技ではないが、バーで知り合った妖艶な女性(高岡早紀)との実に艶っぽいからみの演技が秀逸だったなぁ。

 さて、晴れて落語の世界に入ることのできた巌は、今児の名をもらった。
 しかし、新作中心の師匠の意向に反して古典ばかりを演じる今児は、ついに今輔と口論してしまい破門される。
 その後、化粧品のセールスなどもしながらも、落語を諦めきれずに、夜、稽古を続ける姿、そしてその様子を陰で見つめる富士子。この若い夫婦の姿に、目頭が熱くなったよ。

 今児が演じた古典の一つが『鍋草履』だったことが、懐かしい思いにさせた。
 それは、少し古くなるが2012年の九月下席での十一代目桂文治襲名披露興行に行ったのだが、その時に歌丸さんが演じてくれたのが、その『鍋草履』だったことをドラマを見ながら思い出したのである。
2012年9月27日のブログ

 その時のブログに、こんなことを書いていた。

桂歌丸『鍋草履』 (15分)
 談志と同じ昭和11年生まれ、今年76歳になる芸協会長が健在で良かった。トリへの配慮がうかがえる軽い噺ではあるが、こういうネタをしっかり出来ることが、落語家にとって重要なのだと思う。口跡もはっきりしていて、聴いていて疲れない高座。ある意味で、落語の教科書とも言える内容に感じた。
 昨年末、この寄席の席亭が発した苦言を契機に、このところ芸協は頑張っているように思う。全員の実力が一気に上がることはありえないが、米助の古典への挑戦なども含め、背後に歌丸会長の思いが、良い方向に向かわせているような気がする。この席でも千秋楽に当代円楽が出演するようだが、それは披露目での特別なもの。定席では、他の一門の助けなど借りずに、客を呼べるだけの勢いがつきつつあるのではないだろうか。だから、会長にはまだまだ元気でいて欲しい、と思う。

 あれから六年近い間、歌丸さんは病と闘いながらも、芸協の会長として奮闘した。

 ドラマは、半生を描いたもので、「笑点」で人気者になる前の時点で終わったことが、後味の良さになっていたと思う。
 欲を言えば、真打昇進披露興行の場面も描いてもらいたかった。
 その披露目では、最初の師匠今輔も口上に並んでくれていたのだ。

 真打昇進と言えば、今年は春に三人、そして秋に小痴楽が一人で真打昇進披露興行がある芸協。

 彼ら若手への良き理解者であった歌丸さん自身の若き姿を描いたドラマ、多くを期待していなかったこともあるが、笹野高史などの脇役も含め、なかなか良かった。

 12日には五代目圓楽を主人公として、「笑点」誕生のことなどを描いたドラマが放送される。こちらも見てみようか、と思っている。
BS日テレのサイトの該当ページ
# by kogotokoubei | 2019-01-07 12:47 | テレビの落語 | Comments(2)
 「いだてん」を、BSで見た。

 ビートたけしの古今亭志ん生は、「赤めだか」の談志よりは、良いと思う。
 しかし、あの弟子入り志願の若者には、ちょっとびっくり。
 まぁ、もう少し見ないと分からないなぁ、このドラマ。

 ドラマの最後に、このドラマは史実を基にしたフィクション、というテロップが出るのが、どうも気に入らない。

 逃げなのである、これは。

 そのあと、BSで桂歌丸のドラマ「BS笑点ドラマスペシャル 桂歌丸」の再放送を見た。


 「まんぷく」は、まだ見ている。
 
 いろいろ、気になることがある。

 以前、このドラマについて記事を書いた。
2018年12月13日のブログ

 あの記事では進駐軍に萬平(百福)が逮捕されたのは、手榴弾を海で爆発させた反乱罪容疑ではなく、従業員への小遣いが給与とみなされた脱税の容疑であり、それは徴税を強化した進駐軍の指示を受けたみせしめの逮捕で、巣鴨プリズンに二年近く収容されたのが史実である、と書いた。

 その後に、実際脱税容疑で逮捕される場面が続いた。

 なぜ、あんな手榴弾事件などを挟んだのか、疑問。

 
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『転んでもただでは起きるな!-定本・安藤百福-』

 以前も紹介した中公文庫の『転んでもただでは起きるな!-定本・安藤百福-』は、安藤百福発明記念館の編集による本。

 この本の巻末に「安藤百福の年譜」がある。

 生誕以降、最近のドラマの出来事まで、引用したい。

1910(明治43)年・・・・・・0歳
3月5日 当時日本の植民地だった台湾の台南県東石郡杜子街で生まれる。
76年に一度現れるハレー彗星が地球に接近。
幼少時に両親が亡くなり、兄二人、妹一人とともに、祖父母に引き取られる。

1924(大正13年)・・・・・・14歳
尋常小学校を卒業し、祖父の経営する織物業を手伝う。
そろばんが好きで数字に異常な興味を持つ。

1930(昭和5)年頃・・・・・・20歳頃
県の郡守(知事)に勧められ、杜子街に初めてできた図書館の司書になる。
世界文学全集、シェークスピアの戯曲、美濃部達吉の天皇機関説などを読む。
本に囲まれた静かな生活が性に合わず2年で辞め、家業に戻る。

1932(昭和7)年・・・・・・22歳
台北市永楽町に資本金19万円で「東洋莫大小(メリヤス)」を創業し独立。
編み物のメリヤス製品を日本から輸入して台湾で売る貿易商売を始める。

1933(昭和8)年・・・・・・23歳
大阪市の唐物町2丁目に「日東商会」を設立、貿易業務を本格化する。
日本一のメリヤス業者「丸松」などと組み、特注品を仕入れる。
商品は台湾で飛ぶように売れ、若くして財を築く。

1934(昭和9)年・・・・・・24歳
3月 社長業の傍ら夜間に学び、立命館大学専門学部経済科修了。

1941(昭和16)年・・・・・・31歳
12月8日 台湾出張中に「宣戦の詔勅」が発布されて太平洋戦争始まる。
メリヤス貿易は継続できなくなり断念。

1942(昭和17)年~1945(昭和20)年・・・・・・32~33歳
戦時下でも事業意欲は衰えず、幻灯機の製造、軍用機用エンジンの部品製造、炭焼き(兵庫県上郡)、バラック住宅の製造(兵庫県相生市)など、次々に事業を起こす。
軍用機エンジン工場で、国から支給される官給資材を横流ししたと疑われ、憲兵隊に拘束され拷問を受ける。45日後に無罪釈放されるが腹部に腸閉塞の後遺症を残す。

1945(昭和20)年・・・・・・35歳
3月21日 仁子と結婚。京都・平安神宮で挙式。
8月15日 終戦。疎開先の兵庫県上郡で玉音放送を聴く。
戦後、食べるものがなく栄養失調で亡くなる人々を見て、食の大切さに目覚める。大阪梅田の闇市でラーメン屋台に並ぶ行列を見る。これがチキンラーメン開発の原風景となる。

1946(昭和21)年・・・・・・36歳
4月 泉大津の旧造兵廠跡地の払い下げを受け、復員軍人などの若者に仕事を与えるため製塩事業(1949年3月まで)を始める。

1947(昭和22)年・・・・・・37歳
4月1日 名古屋に中華交通技術専門学校設立(1951年3月まで)。
10月7日 宏基(現・日清食品ホールディングス社長CEO)誕生。

1948(昭和23)年・・・・・・38歳
9月 大阪府泉大津市に国民栄養科学研究所設立(1951年3月まで)。病院用栄養食品「ビセイクル」開発。
9月4日 泉大津市汐見町に中交総社(資本金500万円)設立。
12月 製塩所で若者達に支払った「小遣い」から所得税を払っていなかったとして脱税容疑でGHQに逮捕され、巣鴨プリズンに収監(1950年12月に無事釈放)。

1949(昭和24)年・・・・・・39歳
1月26日 明美(現・堀之内姓)誕生。
9月 中交総社をサンシー殖産に商号変更し、大阪市北区曽根崎に移転。加工食品の輸出入を行う予定であったが休眠、1958(昭和33)年に日清食品として引き継がれた。

1951(昭和26)年・・・・・・41歳
11月 信用組合理事長に就任。

 まず、百福が台湾で生まれたことや、早くに亡くなった両親の代わりに、台湾で祖父母に育てられたということが、スルーされている。

 また、台湾でのメリヤス事業についても、まったく触れられていない。

 名古屋での事業についても割愛。

 あくまで、ある実在の人物をモデルにしたフィクションと言うことで、その人物の人生のすべてが拾い上げられるものではないのかもしれないが、スルーして良いものと悪いものがあると思う。

 「西郷どん」では、西郷隆盛にとって大きな影響力を持った人物、藤田東湖が登場しなかったことで、私は興味が半減した。

 品川の遊郭に徳川慶喜が忍んで遊びに行き、西郷や橋本左内に会う、などという筋書きにも、呆れた。

 そこまでではないにしても、安藤百福をその妻をモデルにするのなら、スルーしてはいけない歴史もあるだろう。


 少なくとも、植民地であった台湾で過ごした幼少期、そして、その台湾で若くして事業家とし才能を発揮したことは、何らかの形で足跡を明らかにするべきではなかったか、と思う。

 年譜には記されないが、百福にとって重要な周囲の人物のことも、スルーされている。
 なかでも、通産大臣や文部大臣を務めた田中龍夫と懇意にしていたことは、外せないと思う。

 田中龍夫は、総理大臣を務めた長州出身の田中義一の子息。

 百福と田中龍夫は同じ明治43年生まれで気が合ったとのこと。その田中龍夫のおかげで、佐藤栄作や福田赳夫らの厚誼を得ることが出来た。

 安藤百福の人生にとって、それらは重要な意味を持っていたのではないだろうか。

 幼少期から青年期までを過ごした台湾での体験、事業を成功させるために築いた人脈、そういう百福の姿をスルーしないことで、ドラマにもより深みが出てくるように思う。

 松坂慶子を道化役として安易な笑いを挟むだけの脚本では、安藤百福と仁子の苦難の人生を正しく描くことなど、できようがない。

 見ていても、やはり、軽いのだ。
 人間が、描けていないのだ。


 それに比べて、先ほどまで見ていた「BS笑点ドラマスペシャル 桂歌丸」(2017年放送の再放送)は、期待していなかったこともあるが、なかなか良かった。
 歌丸夫婦の、不遇時代の姿に、目頭が熱くなった。
 このドラマのことは、記事にするつもり。

# by kogotokoubei | 2019-01-06 21:27 | ドラマや時代劇 | Comments(6)
 12月24日の末広亭で、ホームランが、正月三日に生放送での出演依頼があった、と話していた。
 しかし、何らかの都合で出演しないかもしれない、と言っていたので、さてどうなったかと思いしばらくNHKの「新春生放送 東西笑いの殿堂」を見ていた。

 実際に出演していたので、良かった。

 しかし、ややネタはすべったかな^^

 その前にスタジオで太神楽の翁家和助と小花が出ていたが、こちらのほうが盛り上がっていたね。

 和助、土瓶の芸、仙三郎の後継者として期待したい。
 小花は久しぶりだが、うまくなった。

 こういう寄席の伝統芸を知る人が増えるのは良いことだと思う。

# by kogotokoubei | 2019-01-03 14:47 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛