噺の話

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 今日7月11日は、旧暦で5月28日。

 隅田川花火大会は、享保18(1733)年の5月28日に始まった。

 花火大会公式サイトから、引用する。
隅田川花火大会の公式サイト

川開きと花火その由来

歴史的記録の残るものは両国の花火が最古となっています。江戸時代の享保17年(1732)の大飢餓で多くの餓死者が出て、更に疫病が流行し国勢に多大な被害と影響を与えました。
幕府(8代将軍吉宗)は、翌18年(1733)5月28日(旧暦)犠牲となった人々の慰霊と悪病退散を祈り、隅田川で水神祭を行いました。この時に、両国橋周辺の料理屋が公許(許可)により花火を上げたことが「両国の川開き」の由来とされています。

※江戸時代、隅田川は別名「大川」とも呼ばれていました。古典落語の中では大川と表現されていることがあります。
※両国橋の名称の由来、貞享3年(1686)武蔵国と下総国の国境に掛かっていたので両方の国をつなぐ橋として両国橋の名がついたそうです。

 落語のことを含む注釈も含め、なかなか結構な説明だ。

 両国の花火、となれば落語『たがや』だが、あの噺については、ずいぶん前に書いた。
2009年6月3日のブログ

 あの記事では、由来や画像を「NPO法人 すみだ学習ガーデン」さんのサイトからお借りしたのだが、同法人は今年三月末で解散になったらしい。
「すみだ学習ガーデン」のサイト
 花火のことを知るのに大いに参考になったのだが、残念。

 さて、その『たがや』で思い出すことがある。

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 この噺となると、まずは三代目桂三木助、そして、三遊亭金馬を思い浮かべるが、志ん生ももちろん手がけており、立風書房「志ん生文庫」の「志ん生長屋ばなし」に収められている。

 この本、解説は推理作家、SF作家、そして翻訳家としても活躍した都筑道夫。

 昭和四年生まれの都筑道夫、まずは、落語との出会いから。

 古今亭志ん生を最初に聞いたのは、レコードによってで、演目は「替り目」だった。わが家にはそれまでにも、柳家金語楼の「兵隊」や、三遊亭金馬の「居酒屋」のレコードがあったが、三歳上の兄が買ってきた志ん生の「替り目」は、たちまち私の気に入って、口まねするくらい、なんども聞くようになった。

 志ん生「替り目」との出会いは、小学校の時。

 兄の影響もあってレコードの落語が好きになった都筑道夫は、寄席にも出向くようになる。
 神田の神保町にあった花月、上野の鈴本、人形町の末広、四谷駅から四谷三丁目のほうへ少し行った左がわの裏通りにあった喜よし、たしか現在地とは反対側にあった新宿の末広、あちらこちらに出かけたが、山の手線の大塚駅前、天祖神社のわきの道を入ったところに、大塚鈴本という寄席が出来ると、そこへいちばん頻繁に行くようになった。私たちの家が小石川の江戸川橋にあって、ほかの寄席よりも、この大塚鈴本が近かったからだ。
 短篇小説「円太郎馬車」や長篇小説「寄席」、寄席芸能に関する随筆で、注目はじめていた正岡容が、そのこと大塚の三業地のなかに住んでいて、隔月だったか、毎月だったか、「寄席文化向上会」という会を、大塚鈴本で主催していた。現在の目で見ると、なんとも嫌味な名前の会だけれども、戦争ちゅうだから、しかたがない。
 正岡容については、今さら説明するまでもないだろう。

 都筑道夫の兄は、落語好きが高じてその後、噺家になった。

 たしか昭和十八年ごろだったが、兄は正岡容のところへ出入りしていたので、その口ききで古今亭志ん生の弟子になった。兄を通じて、志ん生の芸談を聞くのが、私の楽しみになった。

 このお兄さん、志ん生門下では、古今亭志ん治を名乗った。

 昭和二十一年には、志ん生が大陸から戻って来ないこともあり、正岡容のすすめで五代目古今亭今輔門下となり、桃源亭花輔を名乗る。その三年後には、鶯春亭梅橋で真打昇進している。
 そうそう、桂歌丸が五代目今輔に入門したのが昭和二十六年なので、当時、一門の真打として梅橋が同門だったということになる。

 私は原稿を書いて生活するようになっていて、なるべく兄の内面には立入らないことにしていたから、くわしい事情はわからない。なにしろ、私はまだ十九、二十、独立して生活をはじめるのに、精一杯だった。けれど、兄が悩んでいることはわかった。その言葉のはしばしから、しだいに私は落語家がきらいになっていった。
 いまでも、私は落語は好きだが、落語家は好きではない。ふたたび、ホールの落語会なぞへ通うようになったのは、兄の鶯春亭梅橋が二十九歳で、若死にしてからである。寄席はすっかり変っていた。志ん生の芸は円熟して、「火焔太鼓」の底ぬけのおかしさ、「今戸の狐」の深い味わい、「黄金餅」の陰惨さが笑いに突きぬけているところ、悟りの境地のような笑いの世界に、私は堪能した。

 小学校で知ったレコードの志ん生から始まる、長い年季の入った志ん生ファンが、都筑道夫ということだ。

 しかし、その志ん生に、異変が起きた。

 その志ん生が倒れ、桂文楽の調子がおかしくなったときには、私はもう落語は聞くまいと思った。志ん生が再起して、ホールの落語会に出たり、独演会をひらくようになると、私はできるかぎり逃さずに出かけていった。
 しかし、人形町の末広で独演会を開いたときには、あまりのいたましさに涙が出た。小泉信三が好きだったという大津絵の「冬の夜」をうたったのだが、私はごく前のほうにすわっていたのに、声がかすれ、言葉はもつれ、まったき、聞きとれない。おまけに最後の演目の「たがや」では、武士の首のかわりに、たがやの首を飛ばしてしまったのである。
 それだけなら、名人も病いには勝てない。そうなってまで、独演会をひらきたがる志ん生に、拍手を送るだけですんだのだが、翌週、ある週刊誌にその独演会の記事がのった。筆者は安藤鶴夫で、まるでなにごともなく、好調な独演会であったかのように、しかも大津絵「冬の夜」をうたったあと、小泉信三をしのんで、志ん生が泣いている姿をえがいて、きわめて感動的な記事にしていたのだ。
 嘘をつきやがれ、と私は思った。あれは、めちゃめちゃな独演会だった。感動的なものがあったとすれば、それに黙ってつきあっていた客たちの、志ん生に対する愛情だけだ。私は落語家と落語評論家が、またあらためて嫌いになって、それからはもっぱらレコードで、志ん生を聞くようになった。

 『たがや』で、武士の首ではなく、たがやの首を飛ばすという筋がないわけではない。元々は、そういう筋だったとも言われる。

 しかし、この「志ん生長屋ばなし」収録のこのネタでも、飛ぶのは武士(殿さま)の首となっているから、わざと志ん生が筋を変えたわけではない。

 都筑道夫と安藤鶴夫が、同じ高座を聴いて、なぜ、こんなことが起ったのか。

 アンツルさんだって、その日の高座や大津絵を高く評価していたとは思えない。
 楽屋での志ん生の姿が、もっとも印象深かったのだろうし、病後の志ん生の高座を批判することを憚る気持ちが、新聞の記事につながったのだろう。

 かたや、小学生の頃からの筋金入りの志ん生ファン都筑道夫としては、「あれは、私の好きな志ん生ではない」という思いが強かったのだろうし、あくまで高座を客観的に見る姿勢が強かったのではないだろうか。

 また、「嘘をつきやがれ」という言葉からは、兄のみならず正岡容と懇意にしていた都筑道夫だから、正岡のライバル(?)アンツル、という強い対抗意識も感じる。

 隅田川花火大会が始まった旧暦5月28日、『たがや』に始まり、同じ志ん生の独演会の時間と空間を共有していた二人のことまで、思いは発展していったのである。

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# by kogotokoubei | 2018-07-11 19:54 | 小説家と落語 | Comments(2)
 私のブログは、芋づる式なことが、多い。

 歌丸の記事からのつながりで、最初の師匠五代目古今亭今輔のことを宇野信夫の本を元に書いた。

 しかし、宇野信夫という劇作家のことを知らない人も多いかもしれない。
 私も、落語を通じて知るようになった人で、そう詳しくはない。

 歌舞伎作品を元にしたものが多いが、落語をいくつか創作している。
 柳家小満んの『大名房五郎』と『江戸の夢』を聴いているが、元は円生のためにつくった噺。円生のために作った作品は、他に『小判一両』という噺もある。
 雲助では『初霜』を聴いている。元は師匠馬生のための創作。
 前の記事では、『霜夜狸』を五代目古今亭今輔が真っ先に演じてくれたことを紹介した。

 正直なところ、劇作家としての宇野信夫については、よく知らない。

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矢野誠一著『文人たちの寄席』(文春文庫)

 ということで、矢野誠一さんの『文人たちの寄席』を引っ張り出した。
 本書の初版は、平成9(1997)年4月に白水社から発行され、文春文庫化は、平成16(2004)年。

 ずいぶん前のことだが、夏目漱石について書いた記事で、本書から引用している。
2009年2月9日のブログ
 また、正岡子規のことを書いた記事では、子規作のなんとも楽しい地口を引用したことがある。
2009年12月22日のブログ

 さて、本書の宇野信夫の章。
 冒頭から、まず引用。

 「昭和の黙阿彌」というのが、劇作家宇野信夫につけられた称号のようなものだが、嬉しくなかったわけはない。市井のひとたちの哀しい営み、世態、人情を描かせてこれだけの芝居書きはそう出るものじゃない。劇作家とよぶよりも、狂言作者がふさわしい最後のひとだった。

 「昭和の黙阿彌」とは、これまた凄い形容。
 1904(明治37)年埼玉県熊谷に生まれ、浅草は橋場に育った宇野信夫は慶應大学文科在学中から「三田文学」に戯曲を発表。1933年の『ひと夜』が友田恭助の築地座で上演され劇作家デビューを果たしたのだから、本人の言うように「出発点は新劇」だった。出世作となったのは、1935年二代市川左團次による『吹雪当峠』に次いで上演された六代目尾上菊五郎が破戒僧龍達を演じた『巷談宵宮雨(よみやのあめ)』で、以後六代目との提携をふかめ、『小判一両』『春の霜』『柳影沢蛍火』『怪談蚊喰鳥』など次々と歌舞伎に新作を提供する。
 1953年に、中雁治郎・扇雀親子(もちろん先代)のため脚色新演出にあたった近松門左衛門『曽根崎心中』は空前のヒット作となり、森鴎外『高瀬船』『ぢいさんばあさん』、谷崎潤一郎『盲目物語』などの脚色作品もくりかえし上演されている。

 そうだったんだぁ。
 二十代で、劇作家としてデビューしていたんだ。

 引用を続ける。

 1972年に藝術院会員に、85年には文化功労者に選ばれるなど、晩年の宇野信夫は劇界の長老的存在になるのだが、その長老は、日本敗戦まで住んだ浅草橋場界隈の下町的風情をなつかしむことしきりで、自分の作品の根底に息づくそのあたりの気分や、暮しのなかでさり気なく使われている魅力ある言葉のあれこれを、じつにしばしば洒落た随筆に仕立てていたものだ。
 なかでも、この橋場で送った学生時代の、おなじく若いまだ世に出ない落語家たちとの交流ぶりをくり返し描いたものは、このひとの晩年の随筆のなかでも珠玉の輝きを見せている。
 その“珠玉の輝き”を見せている随筆について、さらにこのように矢野さんは書いている。
 そんな若き日の落語家との交流を描いた随筆の極め付けと言っていいのが、1983年4月から85年8月まで二十七回に及び国立劇場演藝場のパンフレットに連載された「いまはむかしのはなしかの話」で、やたら面白くて、毎回が楽しみだったのを思い出す。

「いまはむかしのはなしかの話」は、昭和61(1986)年に河出文庫化(『今はむかしの噺家のはなし』)されていて、前の記事で、歌丸の最初の師匠五代目古今亭今輔のことを紹介した『私の出会った落語家たち』の底本となっている。

 この後、矢野さんは、橋場に集まった当時の売れない若い落語家たちのことを、少し紹介している。
 
 いったいなにがきっかけで、そんな坊っちゃん書生と落語家のつきあいが始まったかについて、宇野信夫にもはっきりした記憶はないらしい。
 と矢野さんは書いているが、実は、文庫版の『私の出会った落語家たち』には、『今はむかしの噺家のはなし』にはなかった「橋場の家」と「路地の痴話」という章が『昭和の名人名優』という著作から収録されており、「橋場の家」に、初めてつき合った噺家が、蝶花楼馬の助であったことが書かれている。
 金馬を知っている友人がいて、新石町の寄席立花亭で金馬がトリをとっていた時、その友人に連れられ楽屋に行った際、馬の助もいた。宇野は馬の助の『鰻の幇間』や『干物箱』が好きだと言うと本人が喜んで、「いずれお宅へうかがいます」と言って、数日後、橋場を訪ねたことがきっかけらしい。本名、小西万之助。その後、八代目金原亭馬生になった人で、志ん生の大の友人。自ずと、橋場には甚語楼時代の志ん生や当時柳楽だった八代目可楽が入り浸ることになった。

 『私の出合った落語家たち』によると、父親が出張所にしていた橋場の家には二軒の貸家、蕎麦屋と道具屋がついていて、その家賃が宇野信夫の生活費となっていたようだ。そして、貧乏落語家がやって来ると、よく隣の蕎麦屋から天麩羅蕎麦をとってご馳走してあげたらしい。

 さて矢野さんの本、宇野信夫の章の締めの部分。

 学校の教室や書物からは得られないざまざまなことを、落語や講談から学んだことに感謝しつづけ、遠慮なくひとをさらってしまう歳月に、やがては自分もさらわれてゆくとしていた宇野信夫が、ほんとうにそうなったのは1991年10月28日のことだった。

 志ん生のマクラ、「こんなこと、学校じゃぁ教えない」の名科白を思い浮かべる。

 若かりし日、売れない落語家たちとの交流によって得た、学校じゃ教えないいろんなことや体験が、「昭和の黙阿彌」を生み出すための大きな財産となったに違いない。

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# by kogotokoubei | 2018-07-09 21:53 | 落語家の支援者 | Comments(0)
 歌丸のことを書いた後、最初の師匠、五代目今輔について書かれた本をめくっていた。
 本名鈴木五郎、明治31(1898)年生まれ、昭和51年(1976)没。
 群馬県佐波郡境町(現、伊勢崎市)の出身で、「お婆さん落語」で売り出し、「お婆さんの今輔」と呼ばれた。曲芸師の鏡味健二郎は実子。

 ちなみに、歌丸は、今輔門下にあって、当時若手の寄席の出番が少ないなどについて、他の若手と一緒に待遇改善を訴えたことから今輔の逆鱗の触れ、一時落語界を離れている。
 二年ほど化粧品のセールスなどをした後、兄弟子米丸の仲介で戻り、米丸の弟子として再出発した経緯がある。
 
 今輔の前名も、米丸。

 
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宇野信夫著『私の出会った落語家たち』

 宇野信夫著『私の出会った落語家たち-昭和名人奇人伝-』は、2007年河出文庫の発行だが、1986年に同じ河出文庫発行『今はむかしの噺家のはなし』を底本にして、一部を割愛、いくつかの章を他の本から追加したもの。

 この本に、米丸時代のことが書かれているので、紹介したい。

 米丸になってからの今輔は少しは売れてきた。昭和十年の一月に「吹雪峠」という私の作が二代目左団次によって東劇に、九月に六代目菊五郎によって「巷談宵宮雨」が歌舞伎座に上演された。この二作とも、米丸は文都(里う馬)柳楽(可楽)馬の助、甚語楼(志ん生)と一緒に見物してくれた。但し私の作だけを、三階の一幕見の立見席で見てくれた。もちろん、普通の入場料を払うほど楽ではなかったからである。しかし、これがほんとうの「惣見」だと言っていた。

 里う馬は、九代目。本名黒柳吉之助で、“吉ッつあんの里う馬”と呼ばれた人。明治25生まれだから、志ん生の二歳下。あの名人四代目橘家円喬に入門したものの半年ほどで師匠が亡くなり、出鼻をくじかれて活弁に転向した。それも半年でやめ、四代目円蔵門下から六代目馬生(四代目小さん)門下となったものの、師匠の妹さんとの不祥事から北海道にドロンした後は、一時幇間になった、というなんとも波乱の半生を送った人。
 馬の助は、亭号は蝶花楼で、明治29年生まれ、後に八代目金原亭馬生になった人。本名小西万之助。志ん生とは若い頃いちばんの友人。
 その二人とは里う馬になった文都も仲が良く、頻繁に橋場の宇野邸を訪ねては、ご馳走になっていた。
 八代目の可楽になった柳楽は、志ん生の口ききであの世界に入った人で、明治31年生まれ。
 そういった兄貴分志ん生を中心にした悪友たちの中に、米丸時代の今輔も加わっていたのは、いささか意外であった。
 橋場の旦那、さすがに多くの噺家に慕われていたということか。

 引用を続ける。

 米丸の芸風は、前述の通りぶッきら棒でそっけなく、義理にもうまい噺家とはいえなかったが、その人がらが堅実で、しっかりした見識をもっていた。
「私のことを仲間が上州だ、群馬県だ、と言うから、こっちから先に、私は群馬県だからね、私は上州だからね、と何かにつけて先廻りして言ってやると、この頃は私のことを誰も群馬県だ、上州だ、と言わなくなっちまいましたよ」そんなことを私に言ったことがある。

 訛りについて思い出すのは、初代正楽が信州出身、二代目正楽が春日部出身で訛りに苦労して噺家から紙切りに転身したことは有名。
 しかし、米丸は、その出身による言葉のハンデを、新作落語によって克服した。
 戦後、今輔になってから、新作では第一人者になった。今輔は自分の芸風が古典落語ににむかないことをよく知っていた。自分に生きる道は新作にあると、早いうちから悟っていた。私の「霜夜狸」を誰より先に高座にかけたのは、今輔である。
 鈴木通夫という私の友人が、今輔の理解者で、「おばあさん」を主人公とする落語を何篇か書いた。今輔はそれを生かして高座にかけて大いに迎えられ、「今輔のおばあさん」で通るようになった。今輔は鈴木氏にしんから感謝したに違いない。
 鈴木氏がこんなことを私に話したことがある。
「大晦日の晩、今さんがわざわざ鎌倉の私の家をたづねてくれた。誰でもいそがしい大晦日に、なんの用だろうと思っていると、私の原稿料をもってきてくれた。苦労をしたんだから、私の懐を考えてくれたんだろうと思って、ほんとうに有難かった」 
 里う馬の生活を思いやって、まとまった金を出して、
「返すときがあったら返してくれ、返さなくても結構」今輔さんこそ男の中の男だ、里う馬は古風なことを言って、涙をこぼしていた。

 いい話ではないですか。

 このあと、押しもおされもしない人気者になった今輔は、宇野信夫が高齢者を対象に開催していた「敬老会」に、安い謝礼金にも文句を言わず、毎年出演してくれたことが明かされている。

 今輔の人柄の良さ、仲間思いで義理堅い人だったことがうかがえる。

 たぶんにそれは、上州生まれであることを周囲からもからかわれ、自分もその訛りに苦労してきた若い頃の我慢の日々が。土台にあるのだろう。

 だから、弟子だった歌丸(当時は、今児)たちの行動が、我がままな振る舞いとしか思えなかったのかもしれない。

 歌丸のことから、最初の師匠今輔の人となりを思い返すことになった。
 
 晩年、志ん生とは、きっと協会などの縛りなどを越えた交流もあったのではないだろうか。

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# by kogotokoubei | 2018-07-07 11:57 | 落語家 | Comments(2)
 さぁ、W杯サッカーは、今日からベスト8の戦いだ。

 ウルグアイはカバーニが欠場すると、痛いなぁ・・・・・・。

 日本のメディアは、これからの決戦に関するニュースよりも、日本の次期監督に関するさまざまなニュースでもちきりだが、どうも納得がいかない。

 日本サッカー協会は、次の監督のことを考える前に、やるべきことがあるのじゃないか、ということ。

 一次リーグ突破で田嶋会長は「めでたし、めでたし」と思っているかもしれないが、忘れていけないのが、この四年間の監督交代問題だ。

 アギーレ退任、そして直前でのハリルホジッチ更迭については、それぞれ記事を書いた。
2015年6月18日のブログ
2018年4月10日のブログ

 二度の監督交代による、チーム強化の遅れ、そして時間とコストの浪費は、日本サッカー協会幹部に責任がある。

 それこそ、西野と一緒に、今月いっぱいで田嶋は会長の座を降りるべきせはないのか。

 一次リーグ突破とベルギー戦の惜敗によって、もはやサッカー協会は禊ぎは終わった、と思っているのだろうか。

 とんでもない。

 もし、セネガルがコロンビアに追いついて一次リーグで敗退していたら、間違いなく、田嶋会長の責任問題が追及されたはずだ。

 結果、西野ジャパンは綱渡りの賭けに勝ち、ベスト16に進んだが、だからと言って、日本サッカー協会のこの四年間の失態は消えるわけではない。

 たしかに、数多くの監督就任希望者からラブコールが届き、他の国との争奪戦もあるのだろうが、慌てて決める必要はなかろう。

 ブラジル大会終了からロシアでの戦いまでの四年間全体を検証してから、次のカタールまでの四年間に臨むべきだ。

 ハリツホジッチ更迭の理由に、田嶋会長は監督と選手のコミュニケーションの問題を挙げた。
 しかし、より大きな問題は、監督と協会側とのコミュニケーションだったはず。

 そういいい身では、技術委員長としてハリルホジッチを支援する立場にいた西野にだって責任はある。

 西野が監督慰留を固辞した理由には、そういうことへの思いもあると、私は察する。


 日本フェンシング協会では、昨年、三十代の太田雄貴が会長に就任した。
 もちろん、同じには考えられない要素は多いが、組織改革に関して見習うべき点はあるだろう。

 日本サッカ-協会の理事には、フットサル担当で北澤豪の名はあるが、もっと若手の日本代表経験者が理事に加わってもいいのではないか。


 代表メンバーも次回に向けて若手への世代交代が必要だろうし、期待する若手も少なくない。
 協会組織だって、代替わりを図る必要があるのではないか。


 次期監督は日本人か外国人かの論議の前に、それを考える組織体制を一新すべきだ。

 まずは、責任を取りましょうよ、田嶋さん。

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# by kogotokoubei | 2018-07-06 12:33 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
 昨日、過去の記事へのアクセスが急増している。

 それは、三遊亭小円遊について書いた、2013年10月の記事。

 談志の本を元に、「笑点」でつくられた“キザな男”というレッテルが、あの噺家さんの重荷になった、ということを書いたものだ。
 
 これまでにも、桂歌丸が入院するとか、あの番組を降板するなどで話題になると、この記事のアクセスが急に増えていたが、今回は尋常じゃない。

 やはり、歌丸という噺家さんの影響力は大きいと痛感。

 私が体験した歌丸の高座で印象深いのは、何と言っても一昨年の末広亭5月上席の二日目。

 あれは、副鼻腔炎の手術から退院してから行った、昼夜居続けの日で、昼の主任で『おすわどん』を聴いた。前の年と同様、板付きだった。
 ちなみに、夜の部は真打昇進披露興行。
2016年5月3日のブログ

 あの日が、私が体験した末広亭の最多来場者数日だ。

 ブログの内容を少し振り返ってみる。

 まだ午後1時を少し回ったばかりなのに、「立ち見」とのこと。
 五日までの昼の部の主任が、桂歌丸・・・あの、笑点降板発表効果、ということもあるか。

 どこかでお茶でもしようか、と思わないでもなかったが、覚悟(?)を決めて会場に入る。
 立ち見を含め、とにかく、凄い入りだ。
 昨年も同じ五月上席の真打昇進披露も歌丸が昼の主任で立ち見だったが、それ以上。
 桂竹丸の高座の途中だったが、立ち見のお客さんを含め、彼の漫談で笑いの渦、という状態。
 笑いたい人、あるいは、寄席初体験のお客さんも多そうだ。
 しばらく後ろで聴いていた。

 二階に上がる階段にも、座っているお客さんがいたので、その横に腰を掛けていた。
 小南治の高座が始まった。

 そうそう、あの番組の降板を発表したばかりの主任の高座だったなぁ。
 
 その一年前には、やはり板付きで『城木屋』を、二重に取り巻く立ち見の客の一人として聴いた。
2015年5月6日のブログ

 晩年積極的に歌丸が取り組んだ円朝作品については、聞かず嫌いを後悔した高座が、2012年の国立演芸場の『双蝶々 雪の子別れ』だった。
2012年4月14日のブログ
 その時は、次のように書いている。

桂歌丸『双蝶々 雪の子別れ』 (48分)
 どう言えばいいのだろう。なぜ今までこの人を聞かず嫌いでいたのかを、今は反省している。音源なら何と言っても円生になるが、最近は五街道雲助一門が、『長屋』~『定吉殺し』~『権九郎殺し』~『雪の子別れ』の通しで演じるなど、新たな試みもあって決して過去の噺ではなくなったが、歌丸の円朝もの(このネタは円朝作ではないという説もあるが)への取り組みは年季が入っているようだ。
 談志と同じ昭和11年生まれ今年76歳の歌丸の口跡ははっきりしているし、地の部分と登場人物が語る部分も流れるように展開されていく。たしかに、白酒が一門の会の楽屋ネタとして、この噺は病気の老人の噺でつまらない、という会話があったと言っていたが、本来『双蝶々』と言えば、この噺。終盤、雪に見立てた紙吹雪の演出と三味線も程よく効果的。この高座に出会えただけでもこの中席は満足である。もちろん、今年のマイベスト十席候補とする。

 結果としてその年のマイベスト十席には選ばなかったが、歌丸という噺家さんの認識を新たにした高座だった。

 談志との関係や「笑点」のこと、実家のこと、奥さんのことなどは、多くのメディアで取り上げているので私が紹介するまでもない。

 私にとっては、末広亭を階段まで含め超満員にする動員力を持った噺家さんであったことが、何と言っても思い出深い。

 そして、明解な口調が地を中心にした内容との相性の良さもあって、円朝の怪談噺で新境地を開いた噺家さんであったことも記憶されるべきだろう。

 
 世の中には、大喜利が落語だと思っている人が、少なからずいらっしゃる。
 それも、あの番組の影響力の凄さと言えるだろう。
 
 柳家小満んが、関内ホールの小ホールで独演会をする同じ日、大ホールで歌丸独演会があり、多くの方が並んでいたのを思い出す。

 テレビの人気者だったからと言って、桂歌丸の噺家としての実力は表層的なものではない。

 落語芸術協会の会長として、末広亭の席亭から客の入りの少なさに苦言を呈されたこともある。

 今思うと、末広亭に板付きで出演していた時、歌丸の目には二階までぎっしり埋まった客席は、どう映っていたのだろうか。


 小円遊について書いた五年前の記事に、こんなことを書いていた。
2013年10月5日のブログ

 小円遊が亡くなった時、番組では喧嘩相手という役割にあった歌丸が号泣したと言われている。同じ芸術協会の仲間として、きっと小円遊を心配する思いも強かったに違いないし、高座に上がるよう忠告したこともあるだろう。
 そして、何より本人の持ち味に近かったのかもしれないが、“キザな小円遊”というテレビ向けのキャラクターで人気は出たものの、落語を磨く上で、その虚像が大きな障害になっていたことを、歌丸が十分すぎるほど分っていたからこその、涙であったように思う。

 その小円遊と再会し、さてどんな思い出話にふけっているのやら。

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# by kogotokoubei | 2018-07-03 21:28 | 落語家 | Comments(12)
 西野ジャパンに、しばらくの間、夢を見させてもらった。
 よくやった、と言う言葉しかない。
 戦前、居残り会の皆さんには、2対2でPK戦の勝利、と予想をお伝えしていたが、もう一歩・・・・・・。

 先月の記事別アクセスランキングは、次のような結果だった。

1.FIFAの放映権料2000億円のうち、なぜ日本が400億も支払うのか? (2014年6月30日)
2.池袋演芸場 六月上席 夜の部 6月8日(2018年6月10日)
3.池袋演芸場 六月上席 昼の部 6月8日82018年6月10日)
4.国立演芸場 中席 6月19日(2018年6月20日)
5.山手線新駅の名前は「高輪大木戸」で、江戸の町を再現!(2014年6月4日)
6.志ん朝の『茗荷宿』が、聴きたかった!(2018年6月16日)
7.健さんが愛した歌、「ミスター・ボージャングル」についての補足。(2014年11月25日)
8.「万引き家族」を観て、思うこと。(2018年6月25日)
9.川島雄三、生誕百周年記念企画のこと。(2018年6月13日)
10.旧暦五月、夏の噺について。(2018年6月14日)

 1位は、四年前のこの時期の記事。
 ブラジルW杯のFIFAの放映権料2000億円のうち、なんと日本が400億、なかでもNHKが280億も支払っていたらしい、という話。今回のロシア大会でも、同じように日本が巨額の負担をしているようだ。記事は古いが、旬のネタ、ということか。

 2位、3位、4位は、先月行った寄席の記事。
 
 5位は、これも四年前の記事で、山手線新駅の名前について書いたもの。公募は6月30日で終了。「高輪大木戸」になる可能性は低いだろうが、「高輪」はあるかもしれないなぁ。

 6位は、矢野誠一さんの本で、志ん朝が、一時期『茗荷宿』をよく演っていたという扇橋の話を知り、少し驚いた、という記事。私の知る限り、音源は残っていないはず。寄席でしか聴けなかったのだろう。どんなクスグリを挟んだのかなぁ。聴きたかった。

 7位は、安定的(?)にアクセスの多い記事。ちなみに、私は携帯音楽プレーヤーで、各落語家のテーマソングを頭に入れているのだが、古今亭志ん生はニッティ・グリッティ・ダート・バンド(NGDB)の「プー横丁の家」そして、桂文楽は同バンドのこの歌にしている。なんとなく、イメージでそうしている。
 
 8位は、先日久し振りに言った映画の記事。安藤サクラ、いい女優です。

 9位の記事は、川島雄三生誕百周年企画について書いたものだが、10月の落語会、なんとか行きたいものだ。

 10位は、夏の噺のことを書いたもの。
 あの記事で紹介した二冊の本で一致した夏の噺十四席(笠碁・青菜・素人鰻・二十四孝・船徳・お化け長屋・たがや・夏の医者・佃祭・あくび指南・水屋の富・千両みかん・麻のれん・唐茄子屋政談)、先日の末広亭居続けでは、一席もなかった^^
 そうそう、小三治は、初日『青菜』だったと、Iさんからメールをいただいていた。
 昼夜で二十一席の落語を聴いたのだが、トリ以外でも出来そうな『青菜』も『あくび指南』もなかったなぁ。これは、たぶんに、小三治が演るかもしれない、という“忖度”の結果なのだろう^^


 日本が去ったとはいえ、W杯は、これからが佳境。
 しばらく、寝不足の日々が続きそうだ。


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# by kogotokoubei | 2018-07-03 05:39 | アクセスランキング | Comments(2)
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吉村昭著『彰義隊』(新潮文庫)

 吉村昭の『彰義隊』を元に、サッカーのポーランド戦が始まる前に書いた記事の、後半。

 それにしても、昨日の二試合が、いずれもPK戦になるとは。
 
 さぁ、ベルギー戦は、どうなるか。

 その前に、百五十年前の上野の戦いのこと。
 前回は、慶応四(1868)年の五月十五日の月の見えない、雨の中の一戦を前に、薩摩兵が黒門口を固めた、というところまでを書いた。

 ついに、戦いの火ぶたが切られた。
 大村益次郎からは、黒門口を突破せよという指令があって。薩摩藩兵の一隊は広小路を進み、黒門口の彰義隊に一斉に銃撃を開始した。六ツ半(午前七時)であった。
 その銃声に、湯島神社にあった本隊は、砲五門をひいた大砲隊を黒門口前面と御徒町方面へ、さらに小銃諸隊、遊撃隊がそれにつづいて押し出し、たちまち激烈な戦闘がくりひろげられた。

 上野戦争は、町人たちの生活にも、多大な被害をもたらしている。

 薩摩藩の大砲隊長は、黒門口をのぞむ会席料理の松源と仕出し料理店の雁鍋(がんなべ)の二階に砲をかつぎあげさせて、そこから砲撃させた。このことが後に江戸市民の批判を受け、人気のあった松源の客足は徐々に少なくなり、やがて廃業の憂き目にあった。

 東叡山を身近に感じていた上野の住人にしてみれば、官軍側に肩入れするような店は、許せなかったのだろう。

 しかし、松源も雁鍋も、薩摩藩兵が鉄砲掲げて「二階を貸せ」と言ってきたら、到底断ることはできなかったはずで、なんとも可愛そうである。

 大村益次郎は、戦略家で、根岸、日暮里方面には兵を配置せず、彰義隊の逃げ口として開けておいた。彰義隊も、それを知っていた。

 さて、戦闘はどんな様相となっていたのか。
 黒門口は、上野東叡山の南にあるが、北の谷中口方面には長州、肥前、筑後(久留米)、大村、佐土原の各藩の連合軍が、本郷の加賀藩邸から根津方面に出撃し、根津権現にいた彰義隊の一隊と遭遇してこれを撃退し、団子坂から谷中口方面に進んでいた。
 谷中口をかためていた彰義隊の諸隊は、それを知って出撃し、団子坂と善光寺坂の間の、水が満々とはられた水田をへだててはげしい銃砲撃戦となった。
 また、朝廷軍の諸藩兵は、穴稲荷門をはじめ諸門を守る彰義隊に砲弾を浴びせかけ、銃弾を連続的に撃ちこみ、これに対して彰義隊も必死に応戦し、樹木は吹き飛び、硝煙で視野は閉ざされた。
 双方の死傷者はおびただしく、時間の経過につれてその数は増していた。手足がちぎれて血を流し、頭部が砲弾で吹き飛んだ遺体が血に染まって降雨の中にころがっていた。

 あえて、おどろおどろしい表現の部分も引用したが、戦争とは、そういうものなのであって、湾岸戦争以降の風潮のように、決して、ゲーム感覚で捉えてはいけないと思う。戦地では、血が流れるのだ。

 黒門口では、もっとも激烈な戦闘が続けれらていた。

 薩摩藩兵の死傷者が増し、指揮者は、本陣で戦況を見守る大村益次郎のもとにおもむいて増援を要請した。しかし、大村は床几に座ったまま返事をしない。
 指揮者は怒り、
「薩摩藩兵をことごとく死なせるつもりですか」
 と、言った。
「もとより、その通りだ」
 大村は、冷ややかに答えた。
 この一言に、指揮者の怒りはさらにつのり、黒門口に駆けもどった。
 薩摩藩兵の背後の民家は火炎を噴き上げ、それがせまってきて、火熱が兵たちをおおうようになっていた。このままでは、陣地を撤去して敗退することになる。指揮者は、進む以外に活路は得られぬと決断し、全軍に突入を命令、藩兵たちは喊声をあげて銃を乱射しながら黒門口に突撃した。
 これを見た鳥取、藤堂藩の藩兵たちも、呼応して突き進み、これによって少しのゆるぎなく守られていた黒門口の陣地が突破された。
 薩摩藩兵は、後退する彰義隊員を追って進み、すぐにとって返して黒門口をかためた。
 彰義隊員たちは、黒門口を奪い返そうとして、後方にまわり、銃弾を放った。藩兵は応戦し、彰義隊員を追い払って、黒門口は朝廷軍の手に落ちた。時刻は、九ツ半(午後一時)すぎであった。

 この薩摩の指揮者と大村とのやりとりについては、吉村昭は裏が取れたのかもしれないが、諸説ある。

 一つは、作戦会議の段階で大村が示した薩摩軍の配置を見て、西郷隆盛が「薩摩兵を、皆殺しになさる気ですか」と問うと、大村が「そうです」とにべもなく答えたという説。また、大村を問い詰めたのは桐野利秋という説もある。しかし、もっとも激戦の予想された黒門口を受け持つことを薩摩が希望したという説もあるので、このあたりは、何とも言えない。
 しかし、西郷は大村に全権を委任したと思われるので、彼の発言とは思えない。

 いずれにしても、“背水の陣”ならぬ“背炎の陣”での薩摩藩兵の突破により、彰義隊は黒門口を失った。残された時間は多くはなかった。

 銃声は散発的に起こっていたが、戦いは、事実上終わっていた。七ツ半(午後五時)すぎであった。
 依然として雨は降りつづき、上野の山には死骸が累々と横たわっていた。朝廷軍の死傷者は約百二十名、彰義隊の死者じゃ、二百六十六人。彰義隊の死者が多かったのは、薩長両藩の使用したアームストロング砲をはじめとした最新鋭の銃砲の威力によるものであった。

 アームストロング砲については、佐賀藩の所有する同砲が活躍した、とも言われている。

 朝七時から、午後五時・・・約十時間の戦闘。

 戊辰戦争の局地戦の一つ、と数えることもできる上野戦争から百五十年。

 かつて、日本人同士内戦を行ったことは、次第に忘れられていく。

 明治という国をつくるための陣痛とも言える内戦は、なんとも痛ましい歴史だ。
 
 そして、戊辰戦争を含む多大な犠牲を払い出来た新たな日本は、日清、日露の勝利に奢り、あの大戦に向かって行く。

 
 内戦はもとより、戦争も、「なんとも、馬鹿なことをした」と振り返られるべきだ。
 決して、美化してはいけない。

 そんな思いがあって、旧暦五月十五日に、この記事を書き始めた。
 あの夜は見事な満月だったが、百五十年前の江戸は雨で、その雨は上野の山のあちこちで、血の色に染まったのだ。


 八月十五日近くにメディアはいろんな特集を組むかもしれないが、いわば年中行事化しているとも言えるだろう。

 「今そこにある戦争の危機」について、大手メディアは、ほとんど無視している。

 いろんな戦争の歴史を振り返るたびに、今そこにある危機が、もっと語られていいと思う。
 
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# by kogotokoubei | 2018-07-02 12:27 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 仲入りでコンビニで仕入れた助六(風)を食べ さて、夜の部。

 開口一番から、感想など。

柳家寿伴『真田小僧』 (10分 *16:45~)
 昨年一月、まだ関内ホール(小ホール)で開催されていた柳家小満んの会で、ロビーのモニターで『饅頭怖い』の後半を観ていたが、実質的には、初と言って良いだろう。
 なかなか個性的と言えるだろう。金坊が按摩さんの口真似を何度かして、父親は「真似はいいから」なんてやりとりは、少し笑えた。

柳家小はぜ『道灌』 (9分)
 まだ二十代なのだが、顔かたちも口調も、年齢不相応だなぁ^^
 とはいえ、可愛いい小僧さん、という印象もあるし、高座を含め、とにかく味のある噺家さんだ。
 
ダーク広和 奇術 (12分)
 十八番のヒモの芸。いい味だなぁ、いつものことだけど。
 この人の話芸、聴く度に磨かれている印象。

柳家一琴『目薬』 (14分)
 この人のこの噺も、十八番と言えるだろう。
 マクラ、小児科の先生のノリで産婦人科で産婦を診たら、というのは実演(?)を控えたが、演って欲しかった^^
 
柳家禽大夫『風呂敷』 (15分)
 意外にも、初。なんとも評しにくい。個性があるような、ないような・・・・・・。
 小三治門下、いろんな人がいるなぁ。

ホームラン 漫才 (15分)
 アドリブのようで、実に練り上げられた漫才、だと思う。たにしの芸の幅の広さを、相方の勘太郎が、巧妙に引き出す。
 昼の部のロケット団は、若さ、スピードが売り。ホームランのようなベテランは、間の可笑しさが絶妙。どちらも、好きだなぁ。

 ここで、二階席が開いた。

林家鉄平 漫談(「披露宴の司会?」) (13分)
 修業時代、とはいえ、落語の稽古はあまり行わず、結婚披露宴の司会をやっていた、ということでいくつか逸話を披露。あまり面白いとは、言えない。ネタやりましょうよ。

柳家さん八『長短』 (15分)
 寄席でのこの人の十八番の一つ、と言えるだろう。マクラの女房が外してあったさし歯を箸置きにしていた、というのはネタではなく、実話か^^

ペペ桜井 ギター漫談 (10分)
 あえて書くが、声も聴きづらくなってきたし、ギターの音も歯切れが悪くなってきた。しかし、昭和10年生まれ、十月で83歳になる芸人さんが復帰した姿を見ることができるだけで、私は嬉しい。

吉原朝馬『源平盛衰記』 (14分)
 昨年6月の居続けでも聴いているネタだが、あの時と感想は大きく変わらない。
 遊びの出来るネタにしては、それほど笑えない。そうそう、元素記号の覚え方、私のとは、違うなぁ^^

柳家小里ん『二階ぞめき』 (14分)
 この人が、仲入り。それでも、この短時間での高座。とはいえ、蛙の女郎買いのマクラもしっかり入れてこの噺。仕懸けが八橋だから懐かしい、なんてぇ科白、なかなか聴けない。
 毎夜吉原に行く若旦那、番頭が意見をすると、冷やかすのが好きなんだから、家に吉原があるなら出かけない、と言うので、腕のいい大工に二階に吉原らしきものを作らせる、という落語ならではの内容。見せ場、聴かせどころは、この若旦那の一人芝居。
 志ん生や演じながら、全部一人で演んなきゃならないから大変、などの一言でも笑わせる。小里ん、短いながら、好高座。こういう噺、大好きだ。

柳亭こみち『浪曲社長』 (13分)
 夜の部のクイツキはこの人。
 円歌による、なんとも古~いネタを演じてくれた。
 音源では聴いているが、生の高座でこの噺は、作者も含めてこれまで、機会がなかった。
 さすがに、クスグリのいくつかで「若いお客さんには、分からないぞ」なんて自虐的に言いながらも、なかなか楽しい高座。
 今年一月の池袋で『虱茶屋』を聴いているが、この人、いろんな噺に挑戦しているね。

柳家小菊 粋曲 (12分)
 「両国風景」ではなく「上げ潮」で締めたが、珍しいのではなかろうか。
 こみちの後に登場しても、やはり、寄席の彩りだ^^

五街道雲助『粗忽の釘』 (13分)
 上席の池袋と同じネタに遭遇。もちろん、楽しい高座なのだが、出来るものなら別のネタに出会いたかった^^

桂南喬『出来心』途中まで&師匠小南の思い出 (12分)
 膝前は、大好きなこの人。ネタを三分の一位進めたとことで、前座がネタ帳を持って出て来た。ネタがツイたようだ。ということは、私が入場する前になるなぁ。
 開口一番ではないだろうし、二ツ目でもなかろう。きく麿か文蔵の代演の燕路だろうか。
 南喬も、他のネタを急いで考えていたようだが、持ち時間を考え、前座時代の師匠先代桂小南の思い出を語ってくれた。
 真夏の地域落語会がハネたあとに喉が渇いたので、師匠に言われて自動販売機で飲物を買ったのだが・・・という二つの逸話の内容は、秘密。
 こういうハプニングも、寄席の楽しみだねぇ^^
 今年の特別賞候補として、朱色を付けておく。

鏡味仙三郎社中 太神楽 (12分)
 三人で登場。いつものように、膝代りの役割をしっかり果たす。
 居続けの身としては、流派は違うとはいえ、昼と夜、どちらにも太神楽があるのは、ちょっと残念^^

柳家小三治 マクラ&『小言念仏』 (28分 *~21:00)
 あまり体調が良くない、サッカーのせいで、と切り出す。
 なるほど、観てるんだね。
 ポーランド戦について、「最後は蹴鞠みたいになって」というのは、流石の形容だ^^
 楽屋でもサッカーの話題になっているようだ。いろいろサッカーの話題が続いたが、
 「やめましょう、この話」、というのが二度あっての約20分のマクラの後、約10分の本編へ。
 泥鰌が煮えたぎる鍋の中で腹を出して死んでいると聞いてからの、なんとも言えない微笑が、この噺の要諦かな。
 元気で何より、という高座。


 ほぼ八時間の、居続け。

 初めて聴く噺もあったし、小三治ほか、元気な姿を見るだけでも嬉しかった人も何人かいたなぁ。
 寄席に欠かせない中堅どころも充実し、歌奴や一之輔、こみちなどの元気な高座にも出会えた。

 尻は痛かったが、それだけのことは、あったかな^^

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# by kogotokoubei | 2018-07-01 20:15 | 寄席・落語会 | Comments(2)
 W杯ポーランド戦には、いろんな意見があるだろうが、私は素直に喜んでいる。
 西野はコロンビアのリードを知り、向こうの試合が、そのままコロンビアの勝利になることに、賭けた。
 そして、その賭けに勝った。
 もちろん、セネガルが同点に追いつけば、賭けは負け。

 しかし、初戦のコロンビア戦から、サッカーの女神は日本に微笑んでいた。
 女神は裏切らなかった、ということだろう。
 アジア、アフリカから日本のみベスト16という結果は、誇っていい。
 そして、ベルギー戦は、蘇った川島に、まだ女神が微笑むことを祈り、2対2でPK戦の勝利を期待する。

 さて、昨日は一日時間ができたので、西野ジャパン一次リーグ突破の余韻を感じながら、久し振りに末広亭での居続けだった。
 もちろん、夜の部の主任小三治がお目当てだったが、昨年九月下席三代目桂小南襲名披露興行以来の末広亭、時間と空間を、たっぷり楽しみたかった。

 さすがにサッカーのせいで少し遅く起き、連れ合いとわが家のシーズー達を風呂でシャンプー洗いして、朝の陽ざしの中を散歩してから新宿へ向かった。

 熊本の震災からの復興を祈念し(?)桂花のラーメンセットの昼食、コンビニでいろいろ仕入れて入場したのが、一時少し前。
 ストレート松浦の代演丸山おさむの途中。

 好きな下手桟敷に空間を発見し、確保。
 椅子席はすでに九割ほど埋まっており、桟敷も七割がたは入っていた。まだ、二階席は、この時は開いていなかった。
 
 初めから聴けた高座の内容や感想を備忘録代りに記す。

金原亭世之介『辰巳の辻占』 (15分 *13:04~)
 昨年十月、浅草演芸ホールでの二代目古今亭志ん五襲名披露興行以来。その前は、四年前九月の末広亭、師匠十代目馬生三十三回忌興行で、どちらも持ち時間が短かったせいもあろう、漫談だった。
 そのうちネタを聴きたいと思っていてので、師匠十八番のこの噺を聴けて、良かった。いつも思うが、器用な人だ。マクラも結構楽しい。年齢を重ねるとともに、寄席で大事な噺家さんになるような気がする。

柳家さん福『おつとめ(尼寺の怪)』 (15分)
 初めて聴いた噺。
 仲間が蕎麦屋の二階で、怖い話を順に披露して、もし怖くなかったら蕎麦代を全部持つ、ということになり、そんな怖い話を知らない寅さんが、和尚にネタを仕入れに行って・・・という噺。
 この人はこれまで何度か聴いているが、あまり良い印象がなかった。しかし、この珍しい噺は楽しく聴かせた。ネタとの相性もあるかな。
 話を教わる場面での鸚鵡返しでの間違い(「托鉢」→「爆発!」など)と、それを仲間に披露する場面での可笑しさは、『道灌』や『牛ほめ』『新聞記事』などと相通じる。しばらくは、この噺、さん福の顔と一緒に覚えておこう。

ひびきわたる 漫談 (9分)
 この日は、小道具なし。妹親娘の参観日のネタ、山形の食堂のネタ、など。
 
柳亭市馬『雑排』 (15分)
 最近、この人の高座を、以前のような新鮮な気持ちで聴けるようになってきた。
 協会の副会長の時、そして会長になった当初は、その政治的な立場への複雑な思いがあって、高座を楽しむことができず、あえて言えば、敬遠していた。池袋でトリの時は、その前に席を立ったこともある。
 しかし、一人の噺家さんとしては、やはり上手いし、味がある。
 歌いさえしなければ、達者な噺家だ。

 ここで二階席が開いた。

柳家小ゑん『レプリカント』 (15分)
 これまた初めて聴く噺。
 この日は、初めて生で聴いた噺が、昼夜で四席あったなぁ。
 理系の学生八木君が主人公で、西村先輩が助演(?)。
 酒癖の悪い八木君は、酔ってどうやって家に帰ったか分からない。気が付くと部屋には、あのカーネル・サンダースの人形。前夜一緒に三軒はしごで飲んでいた西村先輩が心配してやって来た。八木君の部屋には、他にも川柳川柳の末広亭の看板やら、星占い付きの喫茶店の灰皿など、酔って持ち帰った戦利品(?)がたくさんある。
 さて、カーネル・サンダースを店に戻そう、ということになるのだが。
 題は後で調べて知ったのだが、そうなら、「ブレードランナー」にちなむギャグがもう少し欲しかった。
 しかし、この人の新作は、なかなか楽しくて、好きだ。

柳貴家小雪 太神楽 (10分)
 久しぶりに、この人の女性一人で演じる太神楽に出会った。
 調べたら、2011年、当初3月12日の開催が予定されていた「ちがさき寄席」が延期になった11月の会以来だ。
2011年11月23日のブログ
 五階茶碗をしながら横笛を吹くのは、この人だけだろう。
 夜の部に出演した仙三郎の社中や、翁家社中との芸の違いを感じていたので調べたら、この人は水戸流太神楽、ということらしい。
 師匠、正楽の太神楽、というサイトに、プロフィールがあった。
「柳貴家正楽の太神楽」サイト
伝統芸能である大神楽の中でも3大流派のひとつ・水戸大神楽の宗家に生まれ、幼少より芸事に親しむ。5歳の時、実父である18世家元・柳貴家正楽に師事。8歳で初舞台。平成11年1月1日より1人高座を務める。特に清麗な古典曲芸「籠鞠(かごまり)」を得意とする。
 あら、こういう方だったのか。道理で、達者なはず。

鈴々舎馬風『親子酒』 (13分)
 仲入りは、この人。
 志ん生の酒、というマクラを聴いていて、漫談で終わるかな、と思っていたら、なんとネタへ。
 この人も、小三治と同じ昭和14年生まれで傘寿。
 高座で元気な姿と、あの声を聴くことができれば、それで良し、と思う。


 仲入りで、一服。
 本数は減ったのだが、やはり止められない。
 前夜も、日本とポーランド戦のハーフタイムで、ため息と一緒に外で一服していたなぁ。


春風亭一之輔『代脈』 (13分)
 予定では文雀がクイツキだったが、順番が入れ替わった。
 仲入り後は、この人を含め、トリの歌奴の時間を作るためだろう、皆短く切り上げた。
 しかし、このテッパンネタだ。二階は半分位だと思うが、椅子席も桟敷もほぼ満員の客席を、ドッカンドッカンと沸かした。
 尾台良玄が銀南に「お嬢さんが、放屁をなさった」と言うと、銀南が「現実から逃げたんですか」に、一瞬の間で良玄が「逃避、ではない。そんな難しい言葉を知っていて、なぜ放屁を分からん」などのクスグリは、何度聴いても笑える。
 羊羹茶漬け、コロンボ様なども、この人ならでは。
 寄席の大好きな人のネタ、寄席の客も大好きなのだ。

ロケット団 漫才 (10分)
 東京の若手(中堅?)しゃべくり漫才では、この人たち一番かもしれないなぁ。
 定番のネタでも、何度聴いても笑える。とはいえ、その内容はしっかり変化もしている。四字熟語シリーズでは、一つを疑うとすべてが怪しくなるのは、「疑心暗鬼」ではなく、今回は「日本大学」^^
 セキュリティなんて言葉、山形では何十年も前から使っていたんだね^^

桂文雀『木火土金水』 (10分)
 これまた、初めて聴く噺。
 この人は、昨年6月上席で居続けした時の昼の部でもクイツキで、『虎の子』という珍しい噺を聴かせてくれた。
2017年6月8日のブログ
 とにかく珍しいネタが好きなんだなぁ。
 ご隠居と八五郎の問答ネタなのだが、ご隠居は、「すべてのものは、五行、木(もく)火(か)土(ど)金(ごん)水(すい)で出来ている」と八に偉そうに話す。
 たとえば、八が「じゃあ、家はどうです」と聞くと、「一軒の家でも、木をもって作り、金で出来た釘を討ち、土をこねて壁を塗り、火を焚いて水を使う。木火土金水になっているだろう」という具合。
 ずいぶん前に『八問答』なんてネタも聴いた。
 そういった珍しいネタも結構だが、たまには、よく知られた古典も聴きたいものだ。

林家種平『忘れ物承り所』 (13分)
 十八番ネタ。まさか、次の正楽が、このネタを切ることになるとは、思わなかったろう。

林家正楽 紙切り (5分)
 挨拶代りの「相合傘」と「忘れ物承り所」の頭の上の眼鏡もしっかり切って、下がった。

三遊亭歌奴『御神酒徳利』 (36分 *~16:28)
 さあ、他の演者が時間をつくってくれての長講は何かと期待していたら、この噺。
 もちろん、柳家の『占い八百屋』ではなく、二番番頭善六が主役。
 この人の高座は、その清潔感溢れる、とでもいう清々しさが特徴。もちろん、それは実に結構なのだが、反面、人物描写がやや軽くなるような、きらいがある。
 しかし、この高座では、数多い登場人物を見事に演じ分け、リズム、メリハリも良く、まったくダレることがなかった。
 なかでも、善六の女房の描写が良くて、たとえば、鴻池のお嬢さんのブラブラ病を治しに大阪へ行くことになって弱っている亭主に、「病の占いが、一番やさしい、危なそうなら、祟りでございます、とか、寿命でございます、無常の風は時を選ばず、と言えばいいから」と、父親譲りの策を授ける場面など、たくましい^^
 神奈川宿の新羽屋で、紛失した薩摩人の紙入れの有り場所を占うことになった善六。はなれの部屋に入って、「あぁ~!」と大声で歎く場面なども、さもあの場面なら、あんな声も出るだろう、と納得。母親の薬代欲しさに善六の部屋を訪れて罪を告白した女中のおきんには、善六が新羽屋からの当座の礼金二十両の半分十両を渡すのだが、これなども、ほっとさせてくれる。
 新羽屋稲荷のおかげで鴻池のお嬢さんの病も治り、目出度く善六は江戸で宿屋の主人になることができた。歌奴の目出度い高座、今年のマイベスト十席候補としたい。


 さて、昼の部がお開き。

 夜の部は、次の記事にて。

 
 
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# by kogotokoubei | 2018-06-30 12:37 | 寄席・落語会 | Comments(4)
 今日は旧暦五月十五日。

 今から百五十年前、慶応四(1868)年の五月十五日に、あの上野戦争があった。

 天気が良ければ今夜のような満月が天空に輝いていたのだろうが、百五十年前は、そうではなかった。

 彰義隊、上野戦争については、以前、時代の波に飲み込まれた少年たちを描いた杉浦日向子さんの『合葬』が映画化されることを記事にした。そのすぐ後の記事でも『合葬』のことや、吉村昭の『彰義隊』、森まゆみさんの『彰義隊遺聞』についても、少しふれた。
2012年12月12日のブログ
2012年12月16日のブログ

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吉村昭著『彰義隊』(新潮文庫)
 あらためて吉村昭著『彰義隊』から、あの日のことを振り返りたい。


 まず、官軍側の主要人物、大村益次郎のことから。
 大村は、漢学を広瀬淡窓に、蘭学を緒方洪庵にまなび、兵学の修得につとめ、西洋学兵学教授となった。
 幕府の長州征伐の折には、石州(せきしゅう)口の総参謀として連勝し、洋式兵術に卓越した知識をそなえていることが広く認められていた。かれは、討幕軍進発にしたがって江戸に来て、親兵を編成していた。
 参謀の西郷隆盛は、兵術家として大村にまさる人物はいない、と高く評価し、今後の軍事に関する一切の権限を大村に託す、と公言していた。

 広瀬淡窓の名を目にすると、葉室麟の『霖雨』を思い出すなぁ。
 『霖雨』は、私の好きな葉室作品のベスト5に入る。

 さて、話は上野戦争。

 百五十年のこの時期の江戸は、雨続きだった。

 閏四月中旬から雨の日が多く、五月に入ると梅雨期とは言え、例のない異常な気象状況をしめしていた。
 五月一日から七日まで、わずかに二日間晴れ間がのぞいただけで雨がつづき、八日には豪雨があって江戸の町々は雨しぶきで白く煙った。
 九日は雨があがったが、十日からは連日絶え間なく雨が降りつづき、河川は急激に増水して堤をやぶり、濁水が町々を流れた。神田明神と湯島の後ろの崖が水をふくんでくずれ落ち、家々が破壊されて怪我人が出る騒ぎとなった。隅田川をはじめとした川には樹木や小屋などがうかぶ水が急流のように流れ、橋の上まで水に洗われて、押し流されぬように大きな石が橋の上にいくつも運ばれた。

 こんな悪天候の中、十五日を決戦の日と定めた大村は、攻撃のため諸藩の兵の配置を定めた。兵力は二万。
 対する彰義隊は、三千の隊員が上野に屯集。
 ところが、十五日の討伐決行を知った隊員の間には、動揺が広がった。

 江戸市内の家に帰っていた者たちの中には、戦を恐れて上野山中の陣営に姿を現さぬ者もいた。また陣営に行こうとしても、すでに進出した朝廷軍が市中に土塁をきずいていて交通を遮断していたため、もどれぬ者もいた。
 また、隊員の中には生きる糧を得るために隊に加わっていた者たちもいて、かれらはひそかに山をおりてのがれていた。
 残ったのは二千人足らずであったが、かれらはあくまで朝廷軍に死力をつくして戦おうと誓い合った幕臣たちで、その士気はたかかった。

 戊辰戦争の江戸局地戦と言える上野戦争は、大村益次郎率いる二万人と、幕臣たちを中心とする二千人、その差十倍の兵力差での戦争だった。

 さて、その決戦の日。
 翌十五日朝もはげしい雨が降りつづき、風も吹きつけていた。
 八つ半(午前三時)頃、雨に打たれながら諸藩の兵が砲をひき銃を手にして、江戸城大手門前に集結した。
 ただちに出撃命令が下され、各藩の者たちは総指揮者大村益次郎の指示にしたがってそれぞれの配置方面に進んでいった。 

 上野東叡山には正門が黒門、その他新黒門、穴稲荷門、清水門、車坂門、屏風坂門、谷中門、新門の七門があり、寛永寺を守護していた。
 正面からの攻撃をおこなうため黒門口にむかったのは、西郷隆盛指揮の薩摩藩兵一番、三番各小銃隊、一番遊撃隊、兵員一番隊、一番大砲隊、白砲隊であった。

 薩摩藩兵の黒門口での戦いについては、いろいろと逸話がある。

 ちなみに、彰義隊士たちは浅黄色の羽織に白い義経袴、朱鞘の刀を差し、髪は「講武所風」に結っていたといわれる。そのいでたちに憧れて入る者も少なくなかったとも言われるが、彼らはもてた。吉原でも、「情夫(いろ)にするなら彰義隊」と歓迎した。
 そうそう、『野ざらし』の先生こと尾形清十郎は、彰義隊の生き残りと、桂小文治が言っていたなぁ。

 江戸っ子たちにしてみれば、薩摩や長州の田舎者が朝廷を騙して、徳川様をお城から追い出した、と思っているから、多くの町人たちは彰義隊の味方だ。

 さて、この後、新政府軍と彰義隊との戦いは、どうなったのか。

 もうじき上野戦争が始まるわけであが、日本のサッカーチームの戦争(?)も始まるので、本日は、ここまで。


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# by kogotokoubei | 2018-06-28 22:18 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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by 小言幸兵衛