噺の話

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桂小南著『落語案内』(立風書房)
 この本からの三回目。

 さて、日本橋の呉服問屋をやめて、退路を断って金馬に入門した金次郎少年は、金太郎という名前をもらう。
 金太郎という名は、以前に講談の先代貞丈師(一龍斎)の弟さん、今の貞丈さんの叔父さんて方が、金馬師匠の家にいて、これを名乗っていたんです。
 とってもいい男で、咄の上手だったそうです。ただ、酒が強くって、師匠も好きなんでその供をしながら馬鹿呑みしたんですね。それが祟って若死にしてしまったんです。
 で、この金太郎が空いていたんで、私にいきなり金太郎という名をつけてくれたんですね。山で遊ぶ金太郎で、山遊亭金太郎、洒落た名前で。
 ところが兄弟子の歌笑さんには、当時名前がなかったんです。師匠は本名の「治男」と呼んでました。
 金次郎より二年も前に入門していた歌笑に、まだ名前がなかったんだなぁ。
 その理由は・・・次のような小南の指摘から推測することはできる。

 四角い顔で、とくにエラが張っていて、口が大きく、眼が吊り上がって、しかも窪んでいて、片方の眼は、まるで横を向いている。極度の斜視で、弱視でした。しかも眉毛が短くて、珍しい顔でした。
 そんなわけで、咄の方はまるで駄目。
「お前、噺家おやめ」
「いえ、噺家になります」
 ほとんど毎晩のように師弟でやってましたね。
 金馬は、本気で歌笑に噺家になるのを止めさせようとしていた、ということだろう。
 だから、名前はしばらく与えなかったのではなかろうか。
 そもそも、金馬が治男に「一席やってみろ」と言うと、咄ではなく歌を歌っていたというから、師匠としても、彼が本当に噺家になりたいのかどうか、疑っていたかもしれない。

 さて、金太郎の方はどうかと言うと。
 歌笑さんが唄ばっかりですから、
「金太郎、一席やれ」
 って、こっちにお鉢が廻ってくる。
「へぇッ」
 これは稽古をつけてもらえると思うから、覚え立ての咄をやりますよ。
「ええ、一席申し上げます。八っつあん」
「なんだ」
「こっちへお上がりよ」
「やだよ」
 師匠が合いの手を入れるんですよ。
 つまり、オモチャですよね。
 で、
「俺が返事をしなくなるまでやれ」 
 という。
 やれるもんじゃないですよ。

 兄弟子歌笑は、結局、柳家金語楼の弟、昔昔亭桃太郎の元に行き、『音楽風呂』や『ジャズ風呂』という自慢の歌を生かせる新作落語を覚えるのだが、師匠の金馬は、「そんなものは落語じゃない」と、つれなく当たった。

 さて、金太郎はというと、咄の稽古どころではなく、金馬宅に先に住んでいる家族(?)の面倒をみることになる。

 金馬師匠という方は、動物を飼うのが好きでしてね。家には、いろんな動物がいましたね。
 犬がいて、伝書鳩がいて、鈴虫が十何種類といました。
 この犬については、ずいぶん話があります。
 ドーベルマンですよ。この犬が、脚がばかに細くって長くて、顔も長くて、獰猛な面構えしてるんですよ。
 “ジュゲム”という名がついてまして、これがいなや犬でしたよ。

 犬好きの私としては、この部分、少し厭~な思いがしたなぁ。
 さて、どんな犬だったというのか。
 
 師匠は、こんな利口な犬はないと、さかんに可愛がっていました。
「お座り」
 といえば、ぴたっと座る。
「お廻りッ」
 くるくると廻る。しかもニコッと笑う。犬も笑うんです。

 可愛いじゃないか^^
 しかし、我が家の犬は、笑わないなぁ.

 ところが、これ、師匠が声をかけるとやるんで、私や歌笑さんがやっても知らん顔してる。それどころか、じろっと睨んで、ぷいっと横を向く、憎らしいんです。

 そりゃそうだ。犬は人間を見ぬくのである。
 金太郎がジュゲムを、いやな犬と思う理由は、それだけではない。人間様より、食い物が良かったのである。

 このジュゲムのご飯がスキヤキなんです。
 私と歌笑さんはコロッケ。
 このスキヤキが食いたくてしょうがない。
 ある日、そのスキヤキを持って行くと、台所で歌笑さんが待っていて、
「おい、金ちゃん、ね。これ食っちゃおう、食ちゃおうよ」
 そういって、肉だけ食っちまったんです。
 犬のやつは、貰えるのを知ってるから、ハウスに入って、ヨダレを垂らして待ってるんですよ。
 で、肉なし丼を持ってったら、食わないんです。「ううっ」っていいやがって、そのうちピューっと師匠のところへ行って、「クウン、クンクン、クワン」っていいつけやがる。「あいつらが肉を食っちゃった」ってね。
 これがバレて、こっぴどく叱られてね。
 やなやつですよ。犬のクセにね。
 
 スキヤキなんか食べていたジュゲムは、長生きしたのかどうか・・・・・・。
 さて、他にもジュゲムや鈴虫、河鹿などをめぐる笑える逸話がいくつかあるが、それは割愛。

 金太郎の前座時代について。

 私が、はじめて噺家として寄席に行ったのは、内弟子になって三ヵ月くらい経ってからですね。
 東宝名人会、日比谷の宝塚劇場の五階、この間までありましたが、いまはなくなってしまいました。
 金馬師匠が名人会の専属だったんです。
 師匠は、名人会ができたときに、寄席の出演者の中から引き抜かれて専属になりました。おかげでほかの寄席からボイコットされて、以来亡くなるまでフリーというか一匹狼の存在でした。
 でも東宝名人会というところは、一種独特の格式がありました。
 なにしろ、当時売り出し中のバリバリの桂右女助さん(のちの三升家小勝、『水道のゴム屋』の咄で売り出した)が、寄席では大看板なのに、名人会では前座扱いでしたからね。
 それもそうで、うちの師匠のほかには、四代目柳家小さん、私の所属している落語芸術協会の前々会長で、先年亡くなった春風亭柳橋。柳家金語楼。先代の春風亭柳好。「エッヘッヘの柳枝」といわれた春風亭柳枝とか、大看板中の大看板が揃って出たんですからナ。
 曲芸は春本助次郎、この人は本牧亭のご主人になりました。そう、柳家権太楼もいました。あの、旅行けばァーの『次郎長伝』を演って<虎造節>を売りまくった、広沢虎造さんが二ツ目でしたからねえ。
 (中 略)
 この東宝名人会の前座なんです、私が。
 ところが、前座といっても、ただいるだけの前座でした。
 なずかというと、名人会というのは、前座を置くことはないんです。普通の寄席と違って、前にも申し上げたように、大看板ばかりが出演するシステムですから、若手を育てる必要がない。 
 これが寄席ですと、前座がいて二ツ目、若手真打、大看板といて、前座が楽屋の雑用をやって、先輩方に殴られたり、叱られたりしながら、噺家らしく育って行くわかですが、名人会にはこれがない。
 舞台の方は、ちゃんと舞台係の人がいる。これは、四代目小さん師匠の親戚の人でしたね。下座は、おきんさんといって、意地悪な人でした。なぜかっていうと、全然鳴物をさあえてくれないどころか、触らせてもくれませんでした。もっとも、出演者が偉い人ばかりですから、鳴物の方も、昔噺家をやっていて、いまはそれをやめて、昼間勤めて、夜アルバイトに太鼓や笛をやるという人がいて、これが大変なうまさ。
 こういうわかですから、なんにも用事がないんです。せいぜい、舞台から下りた師匠の着物をたたむとか、お茶汲みをい手伝うくらいしかないんです。

 
 とにかく、東宝名人会の顔ぶれが、凄い。
 私が好きな柳枝の名もあるが、この頃は七代目。

 さて、何もやることのない、東宝名人会の前座。
 歌笑は、弟弟子が入ったのを幸い、金太郎に名人会の前座役を押し付けて、二代目三遊亭円歌の元に行った。そして、結局、円歌の身内(弟子ではない)として、寄席に入ることになる。

 では、その後の金太郎は、いったいどんな修業の道を歩むのか・・・は次回。
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# by kogotokoubei | 2018-01-30 12:27 | 落語の本 | Comments(2)

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桂小南著『落語案内』(立風書房)

 さて、勤めている呉服屋のお客さん向けの“名人大会”で古今亭志ん生の高座で、初めて落語を聴いた金次郎少年のその後。

 私にいわせれば、後年の志ん生師より、若い頃の志ん生師の方が面白さでは格別だったと思います。
 呉服屋での私の受け持ちというのが、浅草の松屋でしてね。周りには寄席がいっぱいある。
 私は、要領がよかったんですね。本当は徴兵検査がすまないともらえない羽織、つまり番頭になったのが十七です。
 番頭になりますと、店からお前は、月いくらいくら商いをしろというノルマが課せられるんです。小僧が一人ついて、そりゃ豪勢でしたよ。
 これを満たせば、あとは遊んでいてもいいんです。あまりはかが行きますと、次の年にノルマが増えますから、ほどほどに商うのが要領ですね。
 そんなわけで、時間があるんです。
 朝に納品をすめせて、夕方の注文を受け、お店に連絡して用意させ、翌朝納めりゃいいんですから、昼間は空いてる。
 (中 略)
 こんなときに志ん生の面白さに出会ったんです。先程申し上げました件のようにね。
 さ、それからとうものは、ひまがあると寄席に通いました。 
 ところが、生意気な番頭でね。大勢の出演者の中から、面白い師匠(ひと)を選んで聞く。つまらないと便所に立ったり、煎餅をかじったり、常連のような格好して、客席の端に寄りかかってました。いやな客でしたね、いま思いますとね。
 金次郎は呉服屋の番頭として、要領よく仕事のノルマを果たしながら、空いた昼時間を、戦前もっとも華やかな時期の浅草で過ごしていたわけだ。
 それにしても、十代にしては、いやは寄席の客だったねぇ。
 そして、客から一線を超えようとする時を迎えるのだった。

 通ううちに、「これなら俺もやれやしないかなア」。そんな気がしてくるんですな。
 あれくらいの芸ならできるよ。
 咄もいっぺんで覚えてしまうんです。頭が若いから、すぐ染み込むんです。どんな咄でもネ。
 で、店に帰ってきて、みんながわァわァやってると、歌を唄ったり、手品をするやつがいたり、浪曲を唸るのがいたりする。私もやるよってんで、部屋の隅に座って、「ええ、一席伺います・・・・・・」。これが受けるんです。バカ受け。
 いよいよ自信を深めまして、これは、問屋の小僧をいつまでやってたって、問屋がやれるわけじゃない。小売屋ならひょっとして小さい店を持つことができるかもしれないが、問屋じゃそうはいきませんからね。問屋の番頭でしくじってクビになるより、いま、噺家に転向した方が将来性がある。思い込んじまったんですねえ。若気のいたりで。
 この気持ち、少しだけは、分かる。
 私も素人の“なんちゃって落語”を披露することがあるので、少しでも受けると、「下手な落語家より、俺の方が上手いんじゃねえか」なんて、大きな勘違いをする時があるのだ。

 でも、私のように還暦を過ぎてからは、噺家になろう、なんてことは思うはずもない。
 金次郎少年は、十代でその感覚を覚えてしまったのだ。
 その後、思い切った行動に出る。
 子どもの頃からの持病、扁桃腺を医者に無理に願って切ってしまうのだ。
 私も子供の頃によく扁桃腺をはらしていたので、この思いは分からないでもない。
 とはいえ、いきなり「切ってください」とは、なんとも凄い行動力。

 それから、入門への師匠探しが始まった。
 さて、噺家になる決心はしたものの、どの師匠ンところへ行ったらいいかがわからないんです。
 憧れの志ん生師も、どこに住んでるか見当がつかない。多分、有名なナメクジ長屋時代だったでしょうが。
 で、どうやって調べようか。電話帳がよかろう。あれだけの噺家なら電話の一本や二本入ってるに違いない。
 探して、探して、やっと探し当てたのが、柳家金語楼というのと三遊亭金馬。この二人しか出ていない。
 それで、三遊亭金馬の住所を見ると、四谷内藤町とある。新宿御苑の裏の大木戸です。いまは、あの辺もすっかり様変わりしてしまいましたね。

 金馬を入門先に選んだのは、電話帳に出ていたから、ということだったわけだ。
 店の休みを利用して金馬の家を探すこと三度目に、ようやく探し当てることができた。

 玄関をガラッと開けて、
「こんちはッ」
「はいィ」 
 出て来たのが先代の三遊亭歌笑さん。本名を高水治男という。この人のご面相というのが四角でね。犬よりすごい。

 あの歌笑が登場。それも、まだ歌笑を名乗る前のこと。
 昭和12年に金馬に入門している。当時は金平の名をもらっていたと思うが、師匠は治男と呼んでいたかもしれない。
 その、四角い顔が、金馬宅で金次郎の訪問を受けたわけだ。

「なんだ、おまえ」
「あのオ、噺家になりたいんですが」
「噺家・・・・・・。あのオ、師匠ッ。変なやつがきましたアッ」
 変なやつだってんですよ。この私をつかまえて。ま、こっちも変なやつと思ってましたから、これはおあいこで。
 と、奥から、高座と同じ声で、師匠が、
「駄目だ。追い返せ」
 っていうのは聞こえる。
「おい、駄目だよ」
「なりたいんです」
「師匠が追い返せっていうんだから駄目」
 その日は帰りましたよ。
 それから、休みの日のたびに三回くらい行きましたね。
 ところが、店の休みというのは、月の一日と十五日しかないんですが、必ず二日休めるというわけじゃない。どちらか一日は宿直があるんです。
 だから、金馬師匠の家は、三回行くというのは大変なんです。
 この三回目にやっと、師匠からお許しが出たんです。と、いっても、
「こんちはア」
「またお前さんかい、しょうがないねえ、上がれ」
 座敷に上がってみると、師匠がデーンと座っている。
 もう、頭を畳につけたまま、夢中で、
「噺家になりたいんです」
「お前さん、故郷はどこだい?」
「京都です」
「あア、駄目、お帰り・・・・・・」
 ってわけで、座敷に上がっただけで追い返されちゃった。

 京都出身じゃ、江戸っ子の啖呵は無理、ということもあろうが、とにかく断る理由を見つけて、早いところ追い返したかったというのが金馬の本音だったのだろう。
 たぶんに、二年前に四角い顔を弟子にとったことを後悔していたのではないかと察する。
 ちなみに、歌笑は柳家金語楼と六代目柳橋に入門を願い出だが、両方から断わられている。

 金次郎、断わられても、挫けはしなかった。
 でも、行ったんですね。性懲りもなくね。
 あんまり行くもんだから、師匠の方が根負けしまして、
「何してるんだい?」
「実は、日本橋のこれこれという呉服問屋で小僧をしてます。けども、噺家になりたいんです」
 ま、こういえば、向うでこうすりゃ、あきらめると思ったんでしょう、休みの日だけでいいから来いっていってくれたんです。
 うれしかったですねえ、この時は。いまでも忘れられません。
 それからというものは、休みといえば、師匠の家へ行きましたね。宿直は、なんとかかんとかいって、ごまかすか朋輩に押しつけてしまいましてね。
 師匠の家に行けば、いわれもしないのに、そこいら掃いたりするわけですよ。ね、丁稚やってるんですから、そのへんはぬかりがない。
 ある日、師匠から声がかかりました。
「お前、本当に噺家になりたいんだったら、何か一席やってっごらんよ」
 「待ってましたア、お安いご用・・・・・・」 
 とはいいませんでしたよ。
「ハイッ」
 いい返事をいたしまして、自分で十八番にしておりました『羽織の遊び』を演りましたよ。
 ところが、本人はちゃんと喋ってるようですごいナマリ。 
 それもそうです。呉服問屋の使用人というのが私も含めて関西人が多い。なかでも江州(滋賀県)の人が多い。ですから、京都弁に丹波弁、大阪弁に江州弁でこね上げて、その上から東京弁をマブシたような言葉で『羽織の遊び』をやったんですな。
 当人は、いい気持。問屋仲間の間では、「日本一ッ」なんておだてられてたんですからねえ。
「駄目だ、駄目だ、あらためて断るよ」
 あらためてクビですよ。
 当時の『羽織の遊び』ならば、きっと三代目柳好の高座を元にしたのだろう。

 やはり、素人仲間の前で受けていても、プロ、それも金馬という名人には、ナマリだらかの噺では見込みがないと判断されても、当然か。

 しかし、金次郎少年は、諦めない。
 で、考えました。
 これは、店に勤めているから、帰る所があるから駄目というんだ。店をやめちゃったら入れてくれるだろう。乱暴な料簡ですね、そうきめちゃったんです。
 早速、店の主人の前に行って、
「私、噺家になります。ついてはお店をやめさせて下さい」
 驚きましたよ主人が。
「とんでもないことをいうな、お前は見込みがあるから検査前(徴兵検査)に羽織を着せて小僧もつけて、ウチとしては上得意で大切なデパートを任せたんだ。行く行くはウチの養子にするつもりだ。妙な考えを起こすなよ・・・・・・」
 こんこんと諭されました。
 が、一度走り出したら止まらないんです。若気ってものはね。
 夜、ひそかに柳行李に着物を詰めまして、それで八分目くらいありましたかねえ。
 それを持って店を出ました。
 いま考えると、あのとき養子に納まってれば、今ごろ九階建てのビルの社長室にデンと座ってますよ。
 谷田金次郎社長、金ちゃん社長ですね。
 それを捨てて、金馬師匠の家へ行きました。
「師匠、店はやめてまいりました」
「やめた!・・・・・・。ふーん。じゃ、しょうがねえなア」
 推し掛け弟子ですね。
 その日から、晴れて内弟子になりました。
 田舎にそういってやったら、親父が怒りましてね。
「なんで河原乞食になるんだ。親アそんなつもりで育てたんじゃない」
 育てたって十三歳までですが、親の顔に泥を塗ったというんで見事に勘当。ま、左官屋の倅ですから泥を塗るのは上手ですよ。
 左官屋の倅、泥を塗るのは上手・・・さすが噺家はうまいこと言うねぇ^^

 それにしても、よほど決心が固かったということだろう。呉服屋の主人に、養子にして後を継がせるつもり、と言われたら、父が言うように当時は河原乞食と見られていた噺家になるなんて思いが、グラッと傾きそうなものだが。

 ということで、昭和14年に晴れて三代目金馬への入門が叶った、谷田金次郎少年。

 その後の、犬(ドーベルマン)や鈴虫や河鹿など、動物園のような金馬宅での内弟子生活の思い出や、前座仕事での切磋琢磨、そして、徴兵され病で死にかけたことなどについては、次回。

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# by kogotokoubei | 2018-01-29 12:37 | 落語の本 | Comments(0)
 先日池袋演芸場に行く途中で、神保町の古書店街をぶらついた。
 ある書店で、前から欲しかったある本が目にはいった。
 それも、ほどよい価格だったので迷わず購入。

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桂小南著『落語案内』(立風書房)

 それが、桂小南の『落語案内』。
 昭和57(1982)年、立風書房刊。

 昨年は弟子小南治が三代目を継いだが、まだ小南と言えば先代のイメージが強い。

 「第二章 私の落語修業」の生い立ちから、まずご紹介。

 私の生まれ故郷は、京都市から北へ三十キロばかり入った山の中、京都府北桑田郡山國村井戸、今は合併して京北町井戸となっておりますが、山國村という村名がついていたことでもおわかりのように、実に山懐に抱かれたところでしたね。

 大正九(1920)年一月二日の生まれ、本名は谷田金次郎、父親の職業は左官。

 山を駆けまわり、川で泳ぎ、その川を流れていく筏を追いかけていた金次郎少年は、高等小学校を出て、他の友達と同じように、丁稚奉公に出る。

 家が左官屋ですから、一番はじめに左官屋へ行けといわれました。でもねえ、兄貴が泥だらけになってるのを見て、あんなのはいやだ。畳屋は力がないからダメ。大工さんは木を運ぶからいやってんで、考えついたのが印刷屋。
 これなら新しい商売だと思ったんです。
 これからどういうふうに伸びるかわからない、文明の商売だと考えたんです。
 奉公したのは、京都の印刷屋さんですが、印刷という仕事は、新聞などを見て、素晴らしい仕事だと思ったんです。内容など知らずに行ったんです。
 寺町の今出川。京都でも、上の方で、鴨川に近く、京都御所、同志社大学、相国寺などが近くにありまして、川の向うは松竹下鴨撮影所がありました。夜間撮影がえらいきれいで、仕事が終わってから、よく見物に行ったもんです。

 寺町今出川か、あの辺は懐かしい一帯だ。
 しかし、その印刷屋勤めは長く続かなかった。
 他の同期の仲間と同様、夜逃げすることになる。
 叔父は建具職。“建具屋の半ちゃん”といいたいところですが、半ちゃんどころじゃァない。大変な大酒呑みでね。仕事は、名人でしたがね。
 この叔父貴の世話で入ったのが呉服屋です。長い着物を着た方がいい、というそれだけの理由で。
 入って、すぐに東京の店に廻されました。
 昭和九年です。

 建具屋の半ちゃん、などが登場するのは、さすが噺家。

 さぁ、ふとした縁から、東京に出た金次郎少年。
 奉公している少年には、過酷な試練が待っていた。
 休みはたいがい四日でしたね。五日とはくれませんでした。
 ところが家に帰ったまま帰って来ない者がいるんです。落語の『藪入り』ですね。
 と、これ幸いとやめさせてしまう。
 これでまず間引きができる。
 次は、“食事療法”というより、“食事ショック”ですねえ。
 朝食が、ご飯と味噌汁と漬物。昼食が、味噌汁と漬物と菜っ葉の煮物。夕食がやっぱり菜っ葉の煮たのと味噌汁と漬物、たまに一日と十五日に魚の切り身がつくだけの三百六十五日。
 これでだいたい脚気になる。でなきゃ肺結核。とにかく肺を病まないのが不思議なくらいでしたな。
 脚気になると、自分の生まれた土地を踏むと治る、なんていいまして、裸足で土を踏んで来いと帰される。そんなことで治るわけがないんです。
 ま、家に帰れるのはうれしい。親元も可哀そうにってんで一ヵ月が二月と長くなる。
 お店の方からお役ご免が届くわけですね。

 こんどは、『藪入り』が登場。

 私の従兄が、逆に京都の呉服屋さんに奉公していたことがある。
 当時の話を聞くと、昭和五十年代であったが、“食事療法”は、京都も厳しかったらしい。
 まず、ご飯は前の夜に炊くので、朝食は冷や飯だったとのこと。
 おかずも、小南の体験とほぼ同じようなものだったようだ。それも、伝統、ということか。

 さて、辛い奉公の間、金次郎少年には、大きな楽しみができた。
 まずは、そのきっかけから。
 呉服問屋にいたころ、お得意さんを接待するために“名人大会”というのをよくやったものですが、たまたま券があまったので、私が見に行ったんです。
 問屋仲間が金にあかして、当時の芸能人の一級どころをずらりと並べるんですから、豪華なもんでした。
 歌舞伎から喜劇、歌謡曲から落語まで。
 私が参りましたのは、古今亭志ん生師の高座でしたね。まだ売れてない昭和十二年のころ。あれは、本当は春風亭柳好師が出るところを休演で、志ん生師が代演でした。
 柳好の代演が、なんと、志ん生とは。
 しかし、昭和十二年なら、そういうことだったのだろう。
 柳好は、大正六(1917)年に六代目春風亭柳枝の門下で柳好で真打ち。東京演芸会社から落語睦会にスカウトされ、八代目文楽、六代目柳橋(当時は小柳枝)、二代目小文治と並び「睦の四天王」と呼ばれたていた絶頂期だろう。
 志ん生の人気が爆発するのは、やはり、満州慰問から昭和二十二年に帰国してからになる。
 それにしても、志ん生襲名は昭和十四年なので、十二年は、まだ七代目金原亭馬生だったはず。その時は馬生の名での出演だったのか、それとも小南の記憶違いで、十四年の志ん生襲名後の“名人大会”だったのかもしれない。

 いずれにしても、その高座が、金次郎少年にとっては、大きな転換期となり、落語を聴くために寄席通いが始まる。

 この本からの第一回目は、ここまで。

 次回は、寄席めぐりから、自らの落語高座、そして三代目金馬への入門までの予定。
 
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# by kogotokoubei | 2018-01-28 17:34 | 落語の本 | Comments(2)
 本来は、今年の初落語が22日の柳家小満んの会(吉野町市民プラザ)の予定だったが、あの雪で、自重した。
 結果として、昨日の池袋の昼が初落語。
 池袋の下席、結構、好きなのだ。木戸銭二千円にしては、なかなかの顔づけであり、出演者が少ない分、一人当たりの持ち時間も相応に確保できる。
 今席の主任が柳家一琴。この人のトリは初めてで、興味があったし、他にも好きな噺家さんがいた。しかし、なんと言ってもヒザが笑組であるのが、最大の動機かもしれない。久しく、大好きな彼らの漫才、聴いていないのだ。

 神保町にて途中下車し古書店めぐりと昼食。欲しかった本を、意外な安値で入手。その本については読後記事にするつもりだ。

 少し前に池袋に着いてコンビニで若干の買い物をして1時半頃に入場。
 七割程度の入りは、予想以上。
 出演順に感想などを記す。

三遊亭ぐんま『芋俵』 (13分 *13:45~)
 開口一番は、初めてのこの人。白鳥の二番弟子とのこと。なかなか歯切れの良い高座で、悪い印象ではない。選んだ師匠からして、新作が好きなのかなぁ。

柳家小はぜ『真田小僧』 (18分)
 はん治の弟子は、順調に成長している、という印象。珍しく、ネタに題にちなむ真田の六連銭までしっかりと演じてくれた。
 昨年八月の浅草見番(納涼四景)では、『富士詣り』という珍しいネタを聴かせてくれたことを思い出す。青く刈り上げた頭や見た目など、古風な印象を与える、若手では珍しいタイプの、噺家らしい噺家さんで、私は期待している。

柳亭こみち『虱茶屋』 (16分)
 久しぶり。八代目雷門助六が十八番としていたネタで、当代助六もよく演じるということは知っていたが、初めて聴いた。
 『けんげしゃ茶屋』と似た上方が元の噺で、普通の遊びに飽きた旦那が、座敷に虱を持ち込んで、「骨相を見てやる。襟口を見せろ」と芸者や幇間に言って後ろ向きに座らせ、瓶に忍ばせてきた虱を背中にこっそり放り込む。見せ場は、幇間の一八が、虱に七転八倒しながら、虱を爪でつぶしたり、歯で噛んでプッと外に吐き出しながら踊る様子であって、これだけは実際に見ないことには可笑しさは分からないだろう。
 この虱踊りは、そうとう稽古しなければ出来ないだろう。
 まさに、寄席ならではの高座を楽しんだ。
 以前はちょっと苦手な人だったが、印象を大転換させる、それだけの芸を魅せてくれた。
 今年の寄席の逸品賞候補として、色をつけておこう。

古今亭菊太楼『寄合酒』 (11分)
 柳家の席でこの人と馬石のみ古今亭。寄席ならではのネタを短い時間でしっかり。

翁家勝丸 太神楽 (15分)
 次の円十郎の入りが遅くなったのか、少し長め。
 五階茶碗の抜き扇では、近くに団体で来ていたおばさん達から歓声が出ていた。
 クリスティーと言う名の和傘も、毬、舛、茶碗まで。
 「馬石師匠以外は、とにかくデブばかりの席でして」とマクラで言っていたが、まったくその通り^^

橘家円十郎『宮戸川』 (16分)
 その巨漢を座布団に落ち着かせるのに「ヨイショ」と声を上げるのがお約束。
 2005年9月に真打昇進は、白酒と一緒。もうじき五十路という年齢も考えると、元気な高座も楽しいが、そろそろ年相応の芸が求められるのではなかろうか。

隅田川馬石『粗忽の釘』 (20分)
 仲入りはこの人。唯一のスマートな出演者^^
 同じネタでも、この人は独自の世界を作り出す。
 物忘れに関する、若干シュールなマクラをふってから本編へ。
 八寸の瓦釘を壁に打ち込んで、間違ってお向かいの家に行ってから、煙草を持ってあらためてお隣りへ。女房との馴れ初めは、伊勢屋で奉公に出ていた当時の女房に、カンナ屑をあげて、そのお礼にと甘塩の鮭をもらう。周囲にそそのかされて縁日に誘い、腰巻を三枚買ってあげた。それが縁でくっついてから三年。というあたりは普通なのだが、三年も経つと変わるもので、あれしろこれしろと・・・と愚痴ると、隣の主人が「がまん、がまん」と諌める。こういう展開も珍しいが、不思議はない。一之輔のように盥踊りで爆笑させたり、鯉昇のようにロザリオが登場するわけでもないが、本来はこういう落語なのではなかろうか、と思わせる。円十郎が巨体をふるわせながらの高座の後なので、一層、こういう語りの芸の魅力が際立った。

鈴々舎馬るこ『東北の宿』 (12分)
 ネタの題は後で調べて分かった。桂文生門下だったが廃業した桂きん治の作品を、馬るこが了解をとって演じているらしい。
 マクラを聴いて、「旅行日記か?」と思ったが、違っていた。
 その旅行日記にも似た点もあるし、都会のホテルの仕組みを中途半端に真似る、というのはマキシム・ド・呑ん兵衛にも似ている。
 クイツキとしては、客席を暖める役割を果たせたかもしれない。
 私は、マクラで「ツク噺に、中席で主任だった小三治師匠は厳しくて」と、かつて楽屋で遠くから見ていた小三治と扇橋の会話、というのが楽しかった。

柳亭左龍『長短』 (12分)
 「馬るこの、唾が・・・」と周囲を見渡す。「終わる頃には、乾いているんですが」で笑わせる。
 この噺の難しさは、長さんを与太郎にはしないで、彼の気長な性格を短七と対照させて表すか、ということかと思うが、なかなかの高座だった。煙草をせわしなく吸う短七の表現もリズムに乗っていて、楽しき聴かせた。顔の芸だけではない、ということを示した高座。

笑組 漫才 (14分)
 お目当て登場^^
 ゆたかの鼻声が、「風邪かな?」と思わせ、やや心配して聴いていたが、いつもの彼らの楽しい漫才を楽しめた。
 ゆたかが常に身につけている香り袋への電車の中の学生の反応、その後の五歳の子の反応、というネタから、床屋のサインポールの謎、野球、サッカー、バレーボールの人数はどう決まったか、という十八番ネタで切り上げたが、ヒザはトリの時間を作るのが重要な役目でもある、文芸作品ネタなどは、また 別な機会に期待しよう。

柳家一琴『小言幸兵衛』 (33分 *~17:02)
 寄席の浅い時間で『目薬』や『のっぺらぼう』を聴く機会が多かったので、トリでどんな高座になるか興味があったが、なんと、私の名前の噺とは、嬉しかった。
 豆腐屋、仕立屋のみならず、本来のサゲにつながる鉄砲鍛冶も登場。
 幸兵衛がでっち上げる、仕立屋の息子と古着屋の娘の心中の芝居がかった場面で、工夫があった。念仏を唱えるその宗派、古着屋が法華、仕立屋は、真言ではなく、なんと天理教。その「みかぐらうた」を見事にこなして、仕立屋に「おじょうずですね」と言わせ、幸兵衛が「うちも、天理教だ」と答えさせた。その後に、鉄砲鍛冶がやって来て、サゲへ。
 のべつ小言を言っている幸兵衛の人物造形がよく出来ていて、登場する豆腐屋、仕立屋、鉄砲鍛冶の個性の演じ分けも良く、それぞれと幸兵衛との掛け合いも、リズミカル。
 学生時代の友人が天理に住んでいて何度か泊りに行っていたので、「みかぐらうた」に接したことがあるので、少し懐かしい気もしたなぁ。
 一琴、その体つきのみならず、高座に貫禄も出てきたように思う。真打昇進同期の文蔵や萬窓と良い意味でライバルとして、今後の東京落語界を盛り上げて欲しい。
 本来の筋の楽しさに一工夫されたこの高座、今年のマイベスト十席候補に充分値する。


 ハネてから、楽屋横のソファーで一服していたら、笑組のゆたかさんが楽屋から出てきた。
 一瞬迷ったが、拙ブログによくコメントを頂戴していることもあり、立ち上ってお呼び止めして、ご挨拶。
 ゆたかさん、「もっと年長の方かと思っていました」などど、さすがヨイショが上手^^
 ソファに座って、しばらくお話をしていたが、この日は打ち上げがなく、少しお時間があるとのことで、池袋駅構内で、少しお茶を飲んだ。志ん駒師匠のことなども含め、なかなか楽しい小一時間だった。その内容は、秘密^^
 私は、噺家さんとは個人的に親しくならないよう努めている。ブログに正直なことが書きにくくなるからね。
 でも、ゆたかさんは漫才で、よくブログをご覧いただいている方である、今後もお会いして、古今亭のことなどをお聞きしたいものだ。

 今年の初寄席、その高座も、後のオマケも、実に楽しかった。
 風邪気味だったのに、お付き合いいただき、ゆたかさんありがとう!

 さて、いろいろ野暮用もあり、次はいつになるものやら。
 まぁ、無理せず、月二回程度、寄席や落語会に今年も行ければ、と思っている。
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# by kogotokoubei | 2018-01-26 12:39 | 寄席・落語会 | Comments(10)
 少し前に、『子別れ』について書いた。

 この噺の作者と言われている初代春風亭柳枝のことについては何度か書いているが、ある本で新たな発見があったのでご紹介。

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野村無名庵『本朝話人伝』
 その本とは、野村無名庵の『本朝話人伝』。
 私が持っているのは中公文庫だが、2005年には中公文庫BIBLIOで復刊されていて、Amazonには私がレビューを書いている。名前は、ドートマンダーで、幸兵衛ではない。

 初版は、昭和19(1944)年、協栄出版社刊。その翌年の5月25日の空襲で、無名庵は亡くなっている。
 
 初代柳枝の師匠柳橋と柳枝について、「柳橋と柳枝」と題して(一)(二)(三)に分けて書かれている。

 その(一)より引用。
 柳橋と柳枝(一)
 当今でこそ、所属の会派を異にするだけで、落語家は柳連も三遊連も一緒になりましたが、明治から大正初年(厳密に言えば大正六年に寄席演芸会社が出来るまで)にわたる永い間、三遊と柳とははっきり別々になっておりました。その昔話柳連の元祖になりましたのは前にもちょっと述べましたごとく、初代扇橋の弟子の初代柳橋であります。
 この初代柳橋は亭号を麗々亭柳橋と申し、芝金杉の人で、俳名は亀好(きこう)と号しました。扇橋の弟子になって初めの名を橋蝶といい、一時師の許を退いて柳好と称したこともありましたのは、生来柳を好んだからだとのこと、その後また師の許へ帰って柳橋と名のり、人情噺の創始者となりましたが、この柳橋が即ち柳連の開祖であります。


 柳の開祖が、この麗々亭柳橋であることは、ベテランの落語愛好家の方にも意外と知られていないような気がする。
 無名庵が、次のように続けているように、細かな情報が残されていないせいかもしれない。

 門下に柳馬、柳朝、柳枝、柳里、柳佐、柳舎、柳太、柳治、柳花等の弟子があり、天保十一年四月二十一日没、青山持法寺に葬るとのみ、伝記の細かいことはわかりません。

 ご覧のように、弟子に柳枝の名がある。
 はたして、どんな噺家だったのか。
 この人の門人に初代の柳枝が出まして、亭号を春風亭と申しました。春の風に柳の枝、まことに優美な芸名であります。両国米沢町に住み、幼名を亀吉といい、十六の時から柳橋の弟子になって前席を勤め、次第に巧くなるに従って、人情咄のやり方にも新機軸を出しましたのは、ちょうど講釈の馬琴が今までの棒読みを改めて、男女の声調を使い分けたのと同様、柳枝もそれまでの筋だけ運ぶ素噺を、大人は大人、小児は小児、声音を分けて身振りも入れて演じましたのが、情態真に迫って妙を極め、例の「九州吹戻し」や縮屋新助の三代吉殺しなど、最も得意に話したとのこと、非常に酒の好きだった人で、醒めれば飲み、醒めれば飲み、片時も酒の気が離れなかったが泥のように酔って舌ももつれ、歩行(ある)くことさえ出来ないようになりながらも、それで一たび高座に上れば別人のようにハッキリして、少しも正気の時と違わなかったといいます。
 その名が亀吉だったので、『子別れ』の子どもの名も亀吉、という説がある。一方、改作した春錦亭柳桜(三代目麗々亭柳橋の隠居名)の長男(四代目麗々亭柳橋)の名の亀吉が由来、という説もある。
 今なら、大人なら大人のように、子供なら子供、そして男は男、女は女らしい語り分けは、当たり前だが、初代柳枝以前の落語は、そうではなかったということか。

 そして、無類の酒好きだったことが、戒名にまで表れている。
 本来、師名をついで、二代目柳橋ともなるべき位置なのですが、春風亭柳枝という名の方が、自分の好みに合っているからとて、終生これを名乗ってその初代になりました次第、明治三年七月十七日没、残念にもその行年がわかりませんが、寺は麻布今井町妙縁寺に葬り(初代燕枝の日記には浅草田圃翻竜寺とあり)、法号を酒遊院日酒柳枝居士と申します。
 戒名にまで酒という字が、御丁寧に二つまで入っているところ、よほど大酒家であったものと思われますが、この柳枝の弟子に、栄枝と伝枝がありました。もちろんその他にも多勢いたのですが、まずこの二人が弟子頭で、その中の伝枝は後に初代談洲楼燕枝となり、この人のことは後に述べます。兄弟子の栄枝が春風亭柳朝からさらに師匠の名を相続して二代目柳枝、落語系図を見ると「おとわ丹七」得意としてあります。

 戒名を、再確認。

 遊院日柳枝居士

 なかなか、お目にかかれない戒名と言えるだろう。

 『子別れ』の「上」と「中」までの熊さん、作者が大の酒好きだったことが反映されているのかもしれないなぁ。

 なお、弟子の伝枝、後の初代談洲楼燕枝については、以前書いている。
2010年11月19日のブログ
 柳家三三が復活させた『嶋鵆沖白浪』の作者であり、同時代の三遊亭円朝の好敵手だった噺家。

 その燕枝も、初代柳枝の弟子だったのだ。

 初代麗々亭柳橋->初代春風亭柳枝->初代談洲楼燕枝、という流れが、柳派の今日の隆盛につながっているということだろう。


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# by kogotokoubei | 2018-01-24 19:54 | 落語家 | Comments(0)

古今亭志ん駒のこと。

 古今亭志ん駒の訃報に接した。
 新聞などで、志ん生最後の弟子、とか、海上自衛隊出身などのプロフィールが紹介されている。

 ところで、Googleで検索しようとして、「古今亭志ん」まで入れると、志ん生、志ん朝はもちろん、志ん五も選択肢として出て来るが、「駒」は登場しない。

 それだけ、ここ数年静養していた、ということを物語る。

 残念ながら、たった一人の弟子である駒次の9月の真打昇進披露興行に、間に合わなかった。

 私の生で出会った志ん駒の高座は、同じ2010年の近い期間に二度。

 どちらも、弟子の駒次が付き添って高座に上がっていた光景を思い出す。

 一つは、厚木。
2010年7月24日のブログ
 「志ん生落語の四季」と題した会。
 漫談で、最後の弟子として志ん生の思い出を語り、「落語はこの後で権ちゃんが、ちゃんと締めてくれますから」という、言葉を残し、登場の際と同様に弟子の駒次に助けられて高座を後にした。
 その時の記事。

昭和12年1月生まれの73歳。助六、権太楼の10歳年上だから、かつてテレビの時代劇で「瓦版屋」を演じた時のイメージからは、当り前だが時の流れを感じる。
しかし、“口”は見た目と違って若々しく、海上自衛隊時代の思い出話や、巻紙に自ら書いてきた志ん生の略歴を読みながら語るエピソードは、なかなか楽しかった。「落語はこの後で権ちゃんが、ちゃんと締めてくれますから。もう名人だね!ご馳走になってるからヨイショしないとね」というところが、この人の本領発揮なのだろう。
まだまだ元気に古今亭の歴史を語り残していただきたい。

 もう一回は、横浜にぎわい座で、三三の会での客演。
2010年9月2日のブログ
 この会は「柳家さんと○○さん」と題して、三三が昭和の名人と近しい噺家をゲストに招く企画の一つだった。志ん生最後の弟子として三三の指名を受けた志ん駒が、楽しそうに語る姿が印象に残る。

 厚木の時よりは元気な高座だった。

 ブログには、次のように書いていた。
前半は“あつぎ寄席”とほぼ同じ。覚悟していたので落胆はなかったが、体調も出来も客の反応も今夜の方が数段良かったようだ。途中で「志ん生を見たことがある人?」という会場への質問に、隣の席のご高齢の男性が即応して手を上げた。少しだけ、嫉妬した。
杉良太郎の遠山の金さんの舞台を再現をしたあたりでやや息切れしたようで前座さんを呼び出し、「まだ時間あんのぉ、一緒になぞかけでもするか!」と始まり、慌てたように三三が登場。前座さんが下がり急遽対談モードに入った。たぶん、本来の予定は中入り後に対談だったのだろうが、流れを読んでの変更だろう。結果はオーライだった。厚木では志ん駒師匠が会場に「何か質問ある~?」とばかり尋ねたのだが、大ホールである。なかなか盛り上がらなかった。しかし、三三はツボを押さえて志ん生との思い出を志ん駒師匠から手繰り寄せる。「志ん生とかけて?」のお題でのなぞかけの解き方を含め、三三の如才なさが光った。志ん駒師匠が同じこをを何度も繰り返すところも、結構楽しい演出になったほどだ。

 残念ながら、元気な時の高座には巡り合っていない。

 しかし、弟子の駒次が甲斐甲斐しく師匠に肩を貸していた姿が、この師匠と弟子の信頼関係の深さを目の当たりにするようで、嬉しかった。

 昭和12年生まれは、談志より一年若く、志ん朝より一歳上になる。

 12日に42歳という若さで亡くなった柳家小蝠に続く訃報。

 比べてはいけないことだろうが、志ん駒の傘寿を過ぎての旅立ちは、往生と言って良いのかもしれない。

 「ヨイショの志ん駒」の、ご冥福をお祈りします。

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# by kogotokoubei | 2018-01-23 08:05 | 落語家 | Comments(4)
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釈徹宗著『おてらくごー落語の中の浄土真宗ー』(本願寺出版社)

 釈さんのこの本からの最終回は、いわば、“一期一会”のこと。

 「第五章 シンクロする場」から、ご紹介。

 そんなことは不可能ですが、もし、話し手の頭の中、聞き手たちのそれぞれの頭の中のイマジメーションを取り出して並べたら、みんなバラバラのはずです。驚くほど違うかもね。それはそうでしょう。各人の生活史や環境や能力や体験など、千差万別な基盤の上に展開しているんですから。
 すなわち、聞き手の人生経験や人間観察や自己分析が豊かであればあるほど、落語の世界は広がり、堪能できるというわけです。そして、この点も、仏教のお説教と通じる部分でしょう。
 ところが、あるとき、その場にいる人たちのイマジネーションがシンクロし出すことがあるんですよね。それはもう、“宗教の場”と言っても過言ではありません。私は今まで何度か体験しました。うまく説明できませんが、その場にいるとわかります。何か話し手と聞き手、その場にいる人たちみんなの反応がすごく素早くて、なおかつ息が合っている、呼吸が合っている、そんな感じです。ある種の宗教的熱狂に近い雰囲気だと言えるかもしれません。そして、それはやはり「名人」「上手」と呼ばれる噺家さんの高座で起こりやすいですね。もちろん節談説教においても、同じような状態が起こります。

 釈さんの「うまく説明できませんが、その場にいるとわかります」という表現、大いに同感。

 あるのですよ、そういった“一期一会”を体感できる高座が。

 私の経験では、近いところで、2016年3月、都民劇場創立70周年記念「第48回 とみん特選小劇場」の柳家権太楼独演会(紀伊国屋ホール)を思い出す。
2016年3月9日のブログ

 十八番の『代書屋』、そしてトリの『百年目』におけるあの会場こそ、“シンクロする場”であったと思う。

 また、その前の年、2015年1月の、ざま昼席落語会の「鯉昇・喜多八 二人会」の印象も強い。
2015年1月11日のブログ

 鯉昇の『御神酒徳利』も良かったし、喜多八は、正しい立飲みについて詳細を語ったマクラが秀逸だった。
 380名という当時の最多入場者数を記録した客席も、皆、ほぼ同じリズムと呼吸で二人の高座を楽しんでいた。

 もう少し遡ると、2013年9月県民ホール寄席の三百回記念、柳家小三治独演会がある。
2013年9月26日のブログ
 『道灌』も良かったし、第一回でも演じた噺『付き馬』の見事だったこと、そして、客席の一体感を十分に体感した。

 そう考えると、単に人気者を集めて大ホールで開催される木戸銭の高い、商売っ気たっぷりの落語会ではなく、手作り感たっぷりの地域落語会の方が、そういう“一期一会”への遭遇が多いように思う。
 長年通っている固定のお客さんが多い地域落語会は、話し手も聞き手も、呼吸が合いやすい。そういった空間でなければ、なかなか“シンクロ”しないだろう。

 やや、私的な落語体験のことに話が広がったので、釈さんの本から、ふたたび。
 考えてみれば、語りの名手はまだまだ成熟していない聞き手の「聞く能力」を引き出します。洗練された語りと、共振現象が起こるような時空間に、繰り返し出会うことで、私たちは次第に「聞く」ことができるようになりま。かすかな記号や噛めば噛むほど深まる味わいを受けとる心身への育つ。それはきっと、生と死を豊かなものにしてくれることでしょう。また聞く名手は、未熟な語り手の言葉を引き出します。聞き手とのコミュニケーションによってしか語り手は育ちません。聞き手を物語を共有することで、語り手は新しい扉が開くのを実感します。つまり、語り手と聞き手とは相互依存関係なのです。これを“仏教の場”と言わずして、何と言いましょうや。

 まさに、釈さんのおっしゃる通りだ。

 優れた語り手が、聞き手の聞く能力を引き出す、ということは、落語を長年聴いてきて納得である。
 
 また、その逆は、つい最近、落語愛好家仲間との新年会で体感している。
 私とYさんが演じた『二番煎じ』は、優れた聞き手が、未熟な語り手の言葉を引き出してくれたのだと思う。

 時折、高座の噺家に、落語の神様が舞い降りることがあるようだが、神様も客席の様子をしっかり見た上で降りてくるのだろう。

 そんな機会が数多く訪れるように、良き聞き手でありたい、と思う。 

 宗教的な高揚感に浸ることのできる“一期一会”、釈さんの言葉では“シンクロする場”を体験したい、というのが、すべての落語愛好家の願いではなかろうか。

 釈さんのこの本からは、このへんでお開き。

 あぁ、早く良き語り手の今年初高座を聞きに行かねば。
 
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# by kogotokoubei | 2018-01-22 12:27 | 落語の本 | Comments(2)
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釈徹宗著『おてらくごー落語の中の浄土真宗ー』(本願寺出版社)

 釈さんのこの本からの三回目は、仏教が深く関連する落語のネタのこと。

 すでに『お文さん』のことは以前書いたので、その他のネタについて。
 この章で登場するのは、『お文さん』の他は、『宗論』『菊江仏壇』『後生うなぎ』などだが、それらは落語愛好家の方もご存じかと思うので、あまり馴染みのない噺をご紹介。
 『亀佐』という噺。本書の紹介、その全文を引用。
『亀佐』

 実はこの落語、私は、桂米朝師匠以外の方から聞いたことがありません。ですから、これもヘタすると消えていくかもしれないネタのひとつですね。
 このお噺は、噺家自身がお説教師の雰囲気で語らねばなりませんから、ごくごく短い噺ではありますが、誰にでもできるというわけではないでしょう。それに、あんまり笑うところがないし・・・・・・。
 「亀佐:というのは「亀屋佐京」の略で、今でも営業されている老舗モグサ屋さんです。かつて、モグサを売るときの売り口上の節回しが独特だったので有名なんだそうです。この「亀佐」の売り口上がこの噺の落としどころなので、ちょっとあらかじめ説明が必要です。この「仕込み」がないと、サゲがさっぱりわかりません。
 途中、「ご同行、南無阿弥陀仏を称えるということはな、これはもう、どなたでもおっしゃることじゃ。しかしただ称えりゃええというもんではないぞ。それはちょっと心得違いじゃ」と、高座でお説教せねばなりません。で、居眠りをするお同行のいびきがうるさくてお説教が続けられない。この男を起こそう、そういう噺です。「講中の皆さん、ちょっと起こしてやってくだされ」なんて、いい感じのセリフがあります。同じ仏道を歩む人を「同行」と呼んだり、同行の集まりを「講」と言うなど、真宗用語がポイントです。
 これが、全文。

 というわけで、上方落語の内容を調べる際に度々お世話になる「世紀末亭」さんのサイトで、『亀佐』を確認することにした。
世紀末亭さんのサイトの該当ページ

 釈さんが指摘していた、モグサ売りの口上を、まず引用。

この「亀屋佐京」が東海道を上り下りする人に宣伝をしはった。面白い節
でこの伊吹モグサを売って歩いたんですなぁ。

 ♪ ご~~しゅ~ いぶきやまのほとり

   ♪ かしわばらほんけ~~ かめや~~さきょ~

      ♪ く~すりもぐさよろ~~~し

 っちゅう、こぉいぅ節でずっと売って歩いた。わたしら、もちろん知りま
せんが南天さんなんて人はこの真似が得意で、よぉ真似したはりました。

 この後、ある老婆と閻魔大王に関する、お説教がある。
 そして。

●かなんなぁこれ、説教のあいだあいだへ鼾(いびき)が入るじゃないかいな。
講中(こぉじゅ~)の皆さん何をしてござる。鼾があっては邪魔になる、説法
の邪魔になるでな、気ぃ付けてもらわんと困るで講中の皆さん。

▲おっすぁんそれがねぇ。鼾かいてるのんあれ、講中の一人でんねや●えぇ、
だ、誰じゃいな?▲亀屋佐兵衛さんが鼾かいてまんねやがな●亀屋佐兵衛さ
んちゅうたら頭はげらかして、もぉえぇ歳やないかいな。そんな人が念仏の
邪魔をしてはいかん。お説教の邪魔になりますで、早よ止めなされ。

▲ちょっと、佐兵衛さん。亀屋佐兵衛さん。念仏の邪魔なる言ぅたはります
がな■グァォ~~ッ▲あんた、講中やろ。頭はげらかして、鼾が邪魔んなる
言ぅてはりまっせ■グァォ~ッ▲難儀やなぁ……

♪ こぉ~~じゅ~~ いびきじゃまのあたり
♪ かしらはげ、あんた本家じゃ、ほんけかめや~~さへぇさん、これッ!
♪ ゆ~すりおこすえ~~~ぇ

▲おっすぁん、まだ起きまへんがなぁ……

【さげ】
●今ので一つ、すえたげなはれ。

 う~ん、なるほど、消えるかもしれない噺、ではあるなぁ。

 でも、米朝一門、誰か継いでいてくれているのか、どうか。

 伊吹堂亀屋佐京商店のサイトには、広重が描いたお店の絵がある。
亀屋佐京商店のサイト
 『百川』は、残念ながらお店はもうないが、噺はしっかりと残っている。

 まだ、亀佐というお店はあることだし、ぜひ、この噺も残して欲しいものだ。
 

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# by kogotokoubei | 2018-01-20 21:01 | 落語の本 | Comments(2)

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釈徹宗著『おてらくごー落語の中の浄土真宗ー』(本願寺出版社)

 釈さんのこの本からの二回目は、副題ともなっている第四章「落語の中の浄土真宗」よりご紹介。
 章の冒頭には、落語につながった説教・法話と浄土真宗について、まず書かれている。
 浄土真宗では、神秘主義や安易な現世利益(げんぜりやく)を避けてきました。
 よって、浄土真宗は「誠実に言葉を尽くす。物語を紡ぐ」というところに生命線がありまます。だからこそ、説教・法話が発達したのです。浄土真宗が「聞く仏教」と呼ばれる所以です。
 今でも京都・西本願寺の聞法(もんぽう)会館に行けば、一年中いつ行っても法話・説法をお聴聞できます。そういう教団もなかなかないんじゃないでしょうか。
 また、浄土真宗では布教師ではなく、布教使と言います。決して語る側が先生なのではなく、みんな如来さまの弟子です。そして、語る側は如来さまの使いとしてお話しさせていただくのだ、という自覚からこの表現を使います。

 「聞く仏教」ということは、その相手は「語る仏教」ということ。
 その語り手に中には、落語の世界と同様に、名人がいた。

 浄土真宗の第六祖とされる源信(恵心僧都ーえしんそうずー)は「今迦葉」(いまかしょう)と呼ばれた説教の名手だったそうです。
 そして、親鸞聖人の師・法然聖人も「語り」の天才だったと思われます。なにしろ自らの筆による著作はないのです(『選択(せんじゃく)本願念仏集』も、弟子による聞き書き)。その特徴は「法語」がとても多いことです。「法語」とは、説教や法談を記録したものです。そして、“法然法話”がいかに魅力的であるかは、直接読んでみればわかります。
 関山和夫氏は、室の泊での「遊女発心」(ゆうじょはっしん)は、法然聖人の名説教だ、と指摘しています。
 おっと、関山さんの名が出てきた。
 やはり、落語と仏教を語る上では、釈さんにしても、関山さんの著作は必読書ということだろう。
 この「遊女発心」の内容は割愛する。というのは、文章ではその「語り」の名人芸をうかがうのは、難しいのだ。
 では、浄土宗の法然に続き、弟子の親鸞、そして蓮如のこと。

 和讃は、日本語による仏教賛歌です。親鸞聖人は五百四十首余りの和讃を創作しています。
 浄土真宗では、この和讃に節を付けて読誦します。室町時代の蓮如上人は、親鸞聖人の和讃を「節付き」で合誦する形態を確立しました。この一体感はなかなかのものです。
 そして、まさに後の節談説教を生み出すことにつながっていると思われるのです。
 きっと当時から美しい節が付けられて、詠まれたに違いありません。そして、それは民衆の宗教的情緒を揺さ振ったことでしょう。

 このような単独での「語り」のみならず「読誦」、そして「合誦」という形態によって、浄土真宗という仏教は、布教をしていた、ということか。

 とはいえ、もちろん、文章による布教形態がなかったわけではない。しかし、ただその文章を黙読するという形態ではないところが、大事な点である。

 蓮如上人は、文書伝道という手段によって教線を拡大しました。
 特に注目すべきは、この『御文章(お文-おふみ-)』が「節を付けて拝読された」ことです。その読み方には独特の抑揚や語り技法が使われました。そしてその節は、基本的に安居院流の系統上にあると言えます東保流の節だそうです)。
 在世当時からこの手法は実践され、ご自身も「私が書いたものだけど、このように読誦してもらうとありがたいものだなぁ」といった発言があるようです。
 この『御文章(お文)』を特有の節で拝読することは現在も行われているのです。上手な人の『御文章』拝読を聞かせていただくと、本当にすばらしいですよ~。

 出ました、『御文章(お文)』。
 NHK Eテレの「落語でブッダ」で初めて聴いた噺、『お文さん』の大事な素材である。 桂塩鯛の高座のこと、関山和夫さんの『落語風俗帳』からの引用を元に記事を書いたことは、すでに前回ご紹介した通り。
2014年1月15日のブログ

 さて、その「お文」の中の有名な内容については、次回ご紹介したい。

 法然という「語り」の天才、弟子で和讃の親鸞、それを合誦することで教線を拡大し、また『御文章(お文)』を節を付けて読みあげることで庶民の日常生活の中で仏の教えを浸透させることに大きな貢献をした蓮如。
 こういった仏教の歴史の積み重ねは、まさに、「語り」の芸の継承の一つと言ってもよいのだと思う。

 その蓮如の「御文章」には、あの有名なものがある。

 「御文章(お文)」で最も有名なものは、「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」というフレーズを耳にしたことがある人もおられるはずの「白骨章」でしょう。
 「白骨章」は、井伏鱒二の「黒い雨」にも出てきます。今村昌平が映画化しましたが、名バイプレーヤー北村和夫が読み上げていました。彼は僧侶でもなんでもないのですが、累々と横たえる遺体を前にして、「白骨章」を読誦せざるを得なかった。
 あるいは、マンガ「はだしのゲン」にも「白骨章」を読誦するシーンがあります。ゲン少年は、たまたま「正信偈(しょうしんげ)」や「白骨章」を覚えていたんですね。それを読誦すれば遺族が喜んでお布施がもらえるので、こりゃいいや、とあちこちで僧侶のマネゴトをしますが、ある場面で心の底から吐き出すように「白骨章」が出てくるところは涙なしには読めません。

 思い出した。『黒い雨』を読んで、「白骨章」のことを知った。
 文庫をめくってみた。
 175頁から引用。亡くなった人を川原で焼く場面だ。

 堤の上から見ると、砂原には幾つとなく穴ぼこを掘ってある。たいていの穴に骨が見え、特に、髑髏(しゃれこうべ)だけは実にはっきり見えた。焼け落ちてから骨を覆っていた灰が、川風に吹きとばされたものであるらしい。髑髏は眼窩で空の一角を見つめているものもあり、歯を食いしばって恨みがましくしているものもある。
「髑髏のことを、昔の人はノザラシと別称した」
 僕は心のなかでそう云った。
 頭と足だけが白骨になっているのもある。真赤な焔が、ちらちらしている穴もある。僕はもう一人の死人を思いだして、「白骨の御文章」を口のうちで唱えながら堤の上の道を帰って来た。ノートを見ないで暗唱することが出来た。

 久しぶりに読んだ『黒い雨』の中に、いかに、かつての日本人の生活にとって、仏教、あるいは信仰が根付いていたかが分かる。

 釈さんの本は、落語と浄土真宗の関係のみならず、浄土真宗を中心に、仏教と日本人との極めて身近な関係についても知り、そして、考えさせてくれる有意義な本である。

 次回は、もう少し落語側に寄って、『お文さん』以外の落語について、紹介したい。

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# by kogotokoubei | 2018-01-19 22:54 | 落語の本 | Comments(0)
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釈徹宗著『おてらくごー落語の中の浄土真宗ー』(本願寺出版社)
 
 先日、古書店で発見した本。 
 残念ながら、附属CDはついてなかったが、格安の値段で手に入れることができた。

 著者の釈さんは、浄土真宗本願寺派如来寺住職で、節談説教研究会副会長であり、相愛大学人文学部教授でもある。専門は宗教学、比較宗教思想。この方が落語と仏教との関係を興味深く説いていたNHK Eテレの「落語でブッダ」で見て知っていた人だ。
 あの番組について書いた記事にも、釈さんのプロフィールを載せた。
2013年12月12日のブログ

 他に落語と仏教に関する本に、「落語でブッダ」で取り上げた『お文さん』に関して書いた記事で引用した関山和夫著『落語風俗帳』がある。
2014年1月15日のブログ
 その記事でいただいたコメントで『おてらくご』のことを紹介されていたのだが、四年経って、ようやく読むことができた次第。

 本書は、本願寺出版より2010年9月初版で、私が入手したのは昨年発行の第四版。こういう本が版を重ねていているのは、珍しいことではないだろうか。
 大判の本で読みやすく、釈さんの丁寧な説明で、あらためて落語と仏教(浄土真宗)の深い関係を理解することができる。
 また、仏教との関係を縦糸としているが、横糸には、落語に対する釈さんの深い造詣をが多重に張り巡らされていて、この日本ならではの一人話芸発展の背景を探る意味でも、大いに参考となる書である。


 次のような構成。
 第一章 仏教と芸能
 第二章 説教と落語
 第三章 落語の宗教性
 第四章 落語の中の浄土真宗
 第五章 シンクロする場

 まず紹介したいのは、第二章の中の“なぜ「落語」は世界唯一の話芸なのか?”である。
 落語の起源に関する、おさらい、とも言える部分。
 私たちの日常生活の中にはさまざまな形で仏教が息づいています。生活様式から、思考傾向、死生観、衣・食・住にいたるまで、肌感覚にように仏教が脈々と息づいています。伝統的な芸能においても、仏教を基盤として成立しているものや、仏教の影響を強く受け手展開しているものが大部分なのです。そして、落語もその中のひとつです。
 落語はお説教の形態を色濃く残しているとても特別な芸能です。わざわざ本書を書いたもの、ここに動機があります。
 話者側にはメークアップや衣装の演出もなく、背景や舞台装置もない。ただ、座布団一枚だけであり、その上に和装で正座し、たった一人で語ります。持ち物は扇子と手ぬぐい(符丁ではカゼとマンダラ)のみです。制限された動きの中で、さまざまな人物を表現し、あらゆる場面を創出します。このような話芸の形態は、世界で「落語」だけだそうです。なぜ日本にだけこんな芸能が生まれたのか、それは日本仏教のお説教を起源としているから、というわけです。
 この後に、安楽庵策伝が浄土宗の説教師であり、露の五郎兵衛が元・日蓮宗の僧であったと書き加えられている。
 その後の部分に、なぜ日本に落語という話芸が発展したのかについて、あの枝雀によるユニークな視点をきっかけとして、日本独自の話芸、落語成立のナゾが明かされていく。

 では、落語の特性について考えてみましょう。
 桂枝雀氏は、「なぜ落語というスタイルが日本だけに生まれたのか」というナゾについて、「それは日本に“正座”があったからじゃないか」と答えています。正座して語ることによって、よりイマジネーションできる範囲が大きくなる、という理論を語っていました。確かに、正座は日本礼法の特徴です。中国は椅子に座りますし、韓国ではあぐらや立て膝ですもんね。日本でも、昔のお坊さんを描いた絵巻や肖像画をみると、衣を着てあぐらをかいています。貴族や武士もあぐらで座っていたようです。
 ところで、仏教には江戸時代以前から正座する作法がありました。茶道では、これをうけて成立当初から正座を取り入れていたようです。落語もこの流れにあるということですね。それにしても、“正座”という制限多い状況が、かえって豊かな「見立て」を生み出すんですから、文化というのは、ほんと、不合理なこのなんですねぇ。
 つまり、落語は「見立て」を活用する、ということなのです。

 この部分を読んで、落語愛好家の多くは、ネタの『お見立て』を連想するだろうが、ここで言う「見立て」は、もちろん、女郎の見立てではない。
 
 「見立て」は日本文化における特徴のひとつだと言われています。例えば、枯山水とか、借景とかね。いわば「記号」を使ったイマジネーションを楽しむという文化です。記号を得意とするのは、日本人の脳の特性と関係があるという人もいます。
 落語は記号を使って情報を圧縮できます。カゼ(扇子)を箸に見立てたり、マンダラ(日本手ぬぐい)を財布に見立てたりするのは、みなさんご存じでしょう。お約束ですよね。枝雀さんは、落語を“いくつかの決まり事と想像力”による芸能だと表現しています。これ、マンガも同じなんですね。マンガは多様で洗練された記号を駆使した表現方法です。そのことを世界で最も早く喝破したのは手塚治虫という人でした。日本だけにマンガがこれほど発達したのはゆえなきことではありません。
 だから世界の仏教の中で、日本のお説教だけが独特の展開をして、さらにそこから落語が誕生したということかもしれません。

 このように、仏教のみならず、記号論から落語とマンガの共通性にまで話は展開するのが、釈さんの引出しの多さなのである。

 “いくつかの決まり事と想像力”による芸能、という枝雀の言葉、落語という芸を簡潔かつ過不足なく表現した名言だと思う。

 枝雀の音源のマクラで、想像力という言葉はよく使われているねぇ。
 
 この文章で手塚治虫の名を発見し、ある新聞記事を思い出した。

 それは、三代目春団治が亡くなった後、その遺品から、父親である二代目の依頼で手塚治虫が学生時代に書いた落語に関する絵が発見された、というものだった。
 その記事には、手塚が落語を練習した、という逸話も紹介されている。
毎日新聞の該当記事
 毎日新聞のその記事から、引用する。

手塚治虫
学生時代の肉筆画見つかる 春団治さん遺品から

毎日新聞2016年12月19日 16時02分(最終更新 12月19日 17時33分)

 漫画家の手塚治虫(1928~89年)が、大正から戦後にかけ活躍した落語家の二代目桂春団治(1894~1953年)の依頼で描いた肉筆画9枚(各縦14センチ、横20センチ)が見つかった。学生時代の手塚が、春団治の興行ポスター用に落語や芝居の場面を描いた墨絵。竹内オサム同志社大教授(マンガ史)は「珍しいタッチ。子ども向けと大人向けの両方を使い分け、模索していた時期の画風が見て取れる」と指摘する。

 肉筆画は、二代目春団治の実子で今年1月に亡くなった三代目春団治さんの遺品から見つかった。ポスター制作後に改めて描いたもので、春団治の似顔絵以外の9カット。戦後間もない45~46年、春団治が地方興行で演じていた芝居「明烏(あけがらす)夢の泡雪」の場面などが描かれている。

 手塚は自伝「ぼくはマンガ家」の中で「大阪落語の重鎮」二代目春団治のポスターを描いたこと、春団治に声をほめられ、落語家の道に誘われたことをきっかけに、こっそり落語の練習をしたことなどを記している。

 描いたのは手塚が46年1月、現在の毎日小学生新聞の連載でデビューする前後とみられる。春団治の妻、河本寿栄(かわもと・ひさえ)さん(90)によると、手塚とは大阪市内の写真館の紹介で知り合い、謝礼を支払った際、手塚は「絵を描いてお金を頂くのは、これが初めてです」と話したという。手塚プロダクションの松谷孝征社長は「すばらしい原稿が出てきた。春団治師匠がずっと大事にしてくださっていたのはありがたい」と話している。肉筆画は来年4月22、23日の「いけだ春団治まつり」(大阪府池田市民文化会館)などで公開される。【山田夢留】

 なんと、手塚治虫が、初めて原稿料をもらったのが、この落語の絵だったのか。

 手塚治虫は、田河水泡の影響を強く受け、その田河が『猫と金魚』などの落語作家でもあったことから、落語も好きだったとのこと。

 この本を読んで、この記事を思い出すことができた。

 仏教との関係のみならず、落語を取り巻くさまざまな世界への“想像力”をめぐらせてくれるのが、この本と言える。

 次回は、本書の副題、落語の中の浄土真宗、の章から紹介したい。

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# by kogotokoubei | 2018-01-17 18:27 | 落語の本 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛