噺の話

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 柳家喬太郎が、ラサール石井の演出による、こまつ座の「たいこどんどん」に出演していることを知り、少し喬太郎のことを検索していたら、少し古いが、文蔵、白鳥、喬太郎の対談記事を、朝日新聞のサイト、asahi.comで発見した。

 テーマは、池袋。
 
 なかなか楽しい内容なので、紹介したい。
Asahi.comの該当記事

「無理して来なくてもいい」 人気落語家3人が“嫌われがちな池袋”を大いに語る
2017年10月13日

 「池袋が苦手」だという話をよく耳にする。統計があるわけではないし、イメージと言ってしまえばそれまで。だがしかし、新宿とはまた違った“怖さ”があり、何となく避けるという話を聞くことはないだろうか。池袋で修行し、いまもってその周辺に住まう橘家文蔵さん、三遊亭白鳥さん、柳家喬太郎さんはその曖昧なイメージについてどう考えるのか。池袋演芸場近くの居酒屋で、修行時代の思い出から知られざる池袋グルメまで、愛する池袋の魅力をたっぷり語っていただいた。

苦手なやつは来なきゃいいんだよ。

三遊亭白鳥(以下、白鳥):俺は大学3年から15年くらい池袋の赤線地帯だったアパートに住んでたんですけど、当時は危険な雰囲気でしたよ。池袋の駅からちょっと離れれば落ち着いてるけど、街なかは上品とは言えないよね。

文蔵:子どもの頃からこの辺ウロウロしてたけど、やっぱり北口のほうは怖そうな人がたくさんいたね。

喬太郎:俺も学生時代に寄席とかで来てましたけど、新宿って幅の広い怖さなんだけど、池袋は奥が深い怖さっていう感じがしましたね。でも、意外と住みやすい。要はイメージでしょう、池袋が嫌いって。

文蔵:おれはいまのところに住んで7、8年だから、芸人になってからの池袋歴はふたりよりも浅い。でも、池袋に来ると開放的になるもんね(笑)。

白鳥:ほっとする。外で飲むと疲れちゃうんですよ。

文蔵:そう。この人ね、浅草とかで飲むと「早く帰ろうよ」になっちゃうんだよ。

喬太郎:でも飲むのはさ、駅の向こう側(東・南池袋)じゃなくて、こっち側(北・西池袋)ですよね。

白鳥:そうそう。

文蔵:カウンターしかない焼きとん屋とかね。

 三人の“池袋愛”に満ちた会話は、この後も続く。

 私は、池袋ではあまり飲んだことはないのだが、池袋演芸場には何度も行っている。

 今年も、二度出かけた。

 新宿末広亭には、都合と内容との巡り合わせの悪さもあり、今年はまだ行っていない。
 
 池袋演芸場のあの空間が、なんとも言えず、好きだ。

 三人の対談には、イニシャルで美味い店のことも登場するので、そのうち探索したいと思っている。

 この対談では、こんなことも話している。

白鳥:多文化が入り乱れた場末のアパート。もうなくなりましたよ。みんなつぶしてマンションになってる。立地的には、駅まで3分くらいで行けちゃいますからね。

文蔵:そうだよね。すごいいいところに住んでたんだよね。

白鳥:それで家賃8000円ってどういうこと。まあ、そういう歴史もあり。でも今、(若手に話を)聞くとみんな風呂付の家とかね。

文蔵:うちの弟子なんかも「風呂がなきゃいやです」とか言って、家賃貯めながら住んでるよ。

白鳥:サラリーマンみたいになってきちゃってるもんね。

文蔵: 俺たちのころは、自由だったかもしれないなぁ。

喬太郎:このひと(白鳥師匠)が立前座(前座のなかで一番上)でさ、俺と扇辰っつぁんとで一緒に楽屋に入ったんですよ。なんかつまらなそうにしててさ。「お前たちはつまらない人間だ!」って言われて。「なんでそんなこと言われる必要があるんだよ、にいがた兄貴(白鳥師匠の前座名)」と、思ったけどね(笑) 。

白鳥:あの頃はね、とんがってましたよね。

文蔵:とんがってたっていうか、あんたもゆがんでたんだよ(笑)。

白鳥:いや、昔は本当に殴る蹴るが当たり前でしたからね。(三遊亭)歌武蔵兄貴が、あの巨体で「バカヤロー」って言って、(三遊亭)金時兄貴とか花緑兄貴をばちで殴ったりとかして。

文蔵:みんなね、戦ってたんですよ。それなりにね。

白鳥:芸人になろうなんてやつは、まともな人間じゃないんだから。それが今、サラリーマンみたいになっちゃってるから面白くない。


 入門順では、文蔵が昭和61(1986)年、翌昭和62(1987)年に白鳥、喬太郎は平成元(1989)年。
 二ツ目昇進は、白鳥が平成2(1990)年3月、文蔵が同年9月、喬太郎は平成5(1993)年の5月。
 喬太郎は、平成12(2000)年3月に真打に昇進し、二人を抜く。
 文蔵と白鳥は、翌平成13年に昇進。

 前座修業も同じ時期、二ツ目時代も長期間重なっている。

 年齢も、文蔵が昭和37(1962)年生まれで56歳、白鳥と喬太郎は同じ昭和38(1963)年生まれで、今年55歳と近い。

 三人について、まだ若手と思っていたが、いまや、東京の落語界を背負って立つ中堅と言うべきなのだろう。

 しかし、彼らの戦いは、まだ終わっていないはずだ。

 相手は、師匠も含む上の世代であり、同世代でもあり、台頭する若手、か。


 それにしても、時の経つのは、早い。

 拙ブログも、来月で満十年になる。
 
 志ん朝のマクラを借りるならば、「光陰は、あぁ~、矢のごとしだなぁ~」・・・なのだ。

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# by kogotokoubei | 2018-05-09 21:16 | メディアでの落語 | Comments(8)

 先日の横浜にぎわい座で、三遊亭円馬の『蒟蒻問答』を聴いた。
 
 この噺は、瀧川鯉昇をはじめ、何度も聴いている。

 永平寺の雲水、沙弥托善と蒟蒻屋の六兵衛との問答があの噺の中核。

 托善の問いに答えない六兵衛を見て、托善は「無言の行」と思い、手を使って問う。
 沙弥托善が出した問いと、彼が六兵衛の答えを勘違いした内容は、仏教用語なのだが、いったいどんな意味なのか。

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関山和夫著『落語風俗帳』(白水Uブックス)

 関山和夫著『落語風俗帳』から、引用。

 まず、噺のその問答と托善の誤解、六兵衛の言い分の部分を引用。

 托善は、両手の人さし指と親指で丸い形を作って示す。六兵衛が両手で大きな輪を作ると托善は平伏する。ついで托善が十本の指を出すと六兵衛は五本の指を出す。托善は、また平伏し、指を三本出すと六兵衛は右の人差し指を目の下に当てる。托善は、あわてて逃げ出す。八五郎が追いかけて聞くと、
「大和尚のご胸中はとおたずねいたしましたるところ、大海のごとしとのお答え。二度目に十方世界はときけば、五戒で保つ。三尊の弥陀は、と聞けば、目の下にありとのお答え、とうてい及ぶところではございません」
 一方、六兵衛は怒って、
「なぜ坊主を逃がした。あいつは、おれの商売を知ってやがって、手前(てめい)んとこのこんにゃくは、これっばかりだって小さな丸をこしらえたから、こんなに大きいぞと両手で輪をこしらえたところ、十でいくらだって値をきいた。少し高いが五百文だといったら、しみったれな坊主よ、三百文にまけろてえから、赤んべえをしたやったんだ」

 よく出来た噺だなぁ、と思うが、では「十方世界」とか「五戒」、「三尊の弥陀」って何だ、という疑問が浮かぶ。

 あらためて、引用。

 仕草で落とす(サゲる)技巧は落語として申しぶんのない卓抜なものである。禅問答を熟知していることや「無言の行」「十方世界(インド仏教以来、方角を東・西・南・北の四方に東南・西南・西北・東北を加えた八方、さらに上・下を加えた十方を説く。十方世界、十方諸仏などは十方で全体を代表させる表現である」「五戒(在家信者のために制せられた戒。不殺生(ふせっしょう)戒・不偸盗(ふちゅうとう)戒・不邪淫(ふじゃいん)戒・不妄語(ふもうご)戒・不飲酒(ふおんじゅ)戒)で保つ」「三尊の弥陀(中尊は阿弥陀仏、左右の脇侍は観世音菩薩と勢至菩薩)」「目の下にあり」という専門用語の扱い方に仏教落語の真価を見ることができる。

 最後の「目の下」は、仏教は自分の足元にある、という意味のようだ。

 『野ざらし』とともに、托善正蔵と言われた二代目林屋正蔵による傑作も、こういう内容を知っていると、もっと高座を楽しめるように思う。

 
 落語って、ためになるんだよねぇ。

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# by kogotokoubei | 2018-05-08 12:27 | 落語のネタ | Comments(0)
 前の記事、文春オンラインから、喬太郎が真打昇進した後、これからは小さんや志ん朝とライバルであると思い、楽屋で震えた、という話を紹介した。

 現役を引退したコーチや監督に指導を受けるスポーツの世界の師弟関係と、まだ現役の芸人さんが師匠として弟子を育てる関係は、たしかに、違ったものなのだろう。

 師匠は一所懸命に自分のライバルを育てている、とも言える。

 落語とスポーツの世界の師弟関係の相違点が、もう一つ。

 落語家の弟子は、自分で師匠を選んでいる、ということ。

 師匠と弟子はライバル、ということで、以前にそんなことを紹介した記事を書いたような気がして、少し遡ってみた。
 ずいぶん前の記事が見つかった。

 その師匠は、五代目春風亭柳昇。そして、弟子は昇太。
 柳昇の命日に書いたものだ。
2010年6月16日のブログ

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浜美雪著『師匠噺』

 その際に引用した本は、浜美雪著『師匠噺』。
 Amazonには、レビューを書いていた。(ドートマンダー名義)

 古い記事と重複するが、柳昇と昇太の師弟について、あらためて同書から引用したい。

 落語に対するファイティング・スピリッツでもこの師弟は似ている。
 昇太の高座からは「やってやろうじゃないの」の光線がビシビシ飛んでくる。独演会であろうがホールの落語会であろうが地方のいわゆる営業といわれる落語会でえあろうが、学校寄席であろうが、もちろん寄席であろうが、高座には俺さまが一番ウケてやるという気迫がみなぎっている。その気迫が必ずや爆笑に巻き込む。
 柳昇もまた、闘う落語家だった。
 八十三歳で亡くなるまで、柳昇は闘う姿勢を失わなかった。
「あの風貌であの口ぶりなんで、そうは見えないかもしれませんけど、うちの師匠は実はすごいファイターだったんです。だって輸送船の甲板から機関銃で米軍機を撃ち落そうとした人ですからね(笑)。
 だから、『戦争には勝たなきゃダメだね。それには敵のことをよく研究して、敵がもってない武器で戦わないといけないね。それは落語も同じだね』ってよく言ってました」
 戦争で手を負傷して、戦前の職場へ復帰がかなわなかった柳昇にとって、落語は食べるための命綱、背水の陣で臨んだ世界だった。

 柳昇の戦争体験は、自著の『与太郎戦記』に描かれ、映画にもなった。

 昭和19年にアメリカ戦艦の攻撃を受けて乗っていた船が沈没しながらも生き延び、玉音放送は入院中の北京の病院で聞いている。

 そういう体験が、柳昇のファイティング・スピリッツの背景にある。

 昇太は、こんな逸話も紹介している。
「弟子にだって、負けたくないって思う師匠でしたからね(笑)。亡くなる直前まで寄席に出ていたんですけど、最後まで誰にも絶対負けないっていうオーラが高座から出てました」
 当の柳昇自身、こんなことを語ってくれたことがある。
「人生喧嘩ですよ。
 泥棒でも戦争でも早くやったほうが勝ちだね。負けちゃだめ。
 人間、泥棒根性がなかったら偉くならないですよ」
 新作への思い入れも昇太以上だったかもしれない。昇太の時以上に新作は異端視され、古典に負けたくないという思いが常に心のなかに熱くたぎっていたに違いないからだ。
 柳昇が八十近くなった頃、昇太が柳昇の古典落語の会を企画し、意向を確かめたことがあった。
 だが、師匠の返事はノーだった。
「ありがとう。
 でも、やらない。
 そんな会をやると、もう柳昇は新作が書けなくなったと思われるからね」
 
 あらためて、なかなか良い話だと思う。

 晩年のテレビで見た、あの飄々とした優しい表情からは、壮絶な戦争体験をしたことなどは、とても察することができない。

 柳昇は、「新作の芸協」の大きな柱だった。

 その伝統は、ファイティング・スピリッツとともに弟子に伝承された、と思いたいが、あの人気番組の司会者になった弟子に、今、どれほどのファイティング・スピリッツがあるのかは、正直、疑問もある。

 
 ともかく、落語家の師匠と弟子。
 弟子は、ある時から、師匠をライバルとも思い、精進する。
 師匠もまた、成長する弟子をライバルとみなして、負けないように切磋琢磨する。

 他の伝統芸能にも、そういった関係性があるのかもしれない。

 なかなかに、深~い関係だと思う。


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# by kogotokoubei | 2018-05-07 21:10 | 師匠と弟子 | Comments(4)
 文春オンラインに、なかなか興味深い記事が載っていた。

 柳家喬太郎と、落語好きの俳優、東出昌大の対談。

 後編から、引用。
文春オンラインの該当記事

「文春オンライン」編集部
2018/05/02
東出昌大が柳家喬太郎に聞く「真打になるということ」 落語“大好き”対談【後編】
異色の落語対談、まだまだたっぷりと

俳優・東出昌大さんと、落語家・柳家喬太郎師匠による異色の落語対談。後編は、二人の落語ブーム観から、「真打こわい」の話、そして役者と噺家の大きな違いまで。まだまだ話は尽きません!

今や、落語が好きって「カミングアウト」できるようになった

東出 落語ブームって言われていますけど、落語そのものと人々との関係って歴史的に見ると面白いなって思うんです。いろんなところに寄席があって、みんな夏になると何夜連続で怪談噺を聴いて涼をとるみたいな、生活に落語が根差していた時代。文楽、志ん生、金馬が人気を博したラジオ寄席ブームの時代。爆笑落語ブームもあったし、今みたいにドラマや漫画で、より多くの世代に支持される時代もある。

喬太郎 そう考えると隔世の感がするんですよ、今のブームって。今年僕は55になるんですが、大学の落研に入ったときには先輩にビックリされましてね。当時の落研なんてかっこ悪いものの象徴でしたから。戦後一番チャラチャラしていた80年代に、落語好きなんて自殺行為(笑)。「女の子にモテたくないのか」ってことです。つまり、ダサかったわけですよね。「落語ってじじいがそば食ったりするやつだろ」みたいなイメージ。ところが、今なんて「あ、俺、けっこう落語聴くけど」みたいなカミングアウト、普通にできちゃうでしょ。

東出 カミングアウト(笑)。今だと、深夜ラジオのファンってことも普通にカミングアウトできるようになりましたよね。

喬太郎 アハハハ、そうですよね。でも、そうやって落語が「ダサい」「かっこ悪い」ものではなくなったのは、ある段階で従来の落語というものがいっぺんなくなったからだと思っているんです。

東出 落語がなくなった?

喬太郎 ええ、従来の落語に対する固定観念が、おそらくチャラチャラした時代が終わったどこかの段階でプツッと消えてなくなったんじゃないかと。

東出 いったんそこで途切れているんですね。

 この後、落語を素材にしたテレビドラマが人気になるなどの結果、落語が身近なものとなったことなどが語られ、真打に関して、少し意外な喬太郎の発言があった。

東出 小痴楽さんは「尊敬する噺家挙げてみろ」と米助師匠に言われて、喬太郎師匠だったり一之輔師匠だったり、白鳥師匠だったり、いろいろ噺家さんを挙げたんですって。すると「お前、真打になったら、その人たちと横並び一線で戦うことになるんだぞ。それだけの芸はあるのか」って言われたと。二ツ目ブームに、あぐらをかいてはいないけど、真打になるのが怖い、それがいまの悩みだっておっしゃってました。

喬太郎 僕自身も、真打昇進披露が終わったとき、怖いって思いました。披露目のときはお客さんも新真打として見てくれるけど、以降は一演者でしかない。小さんも志ん朝も、同じ真打として横並びになるわけです。そう楽屋で気づいたときに震えが止まらなくなっちゃって。怖くて怖くて。

 一之輔が尊敬する噺家として名を挙げたのが、みな落語協会というのが、彼らしい。

 喬太郎でさえ、真打になって、小さんも志ん朝もライバルだと楽屋で気づいて、震えが止まらなくなった・・・とはねぇ。

 順風満帆で、怖いもの知らずだったのではないか、と思っていただけに意外だ。

 たしかに、仕事を取りあうという意味においては、一人一人の芸人の戦いという面も、あの世界にはある。

 そして、その競争における切磋琢磨の結果、我々客の側が楽しめる噺家さんが生まれる、ということも確かだろう。

 志ん朝が高座に上がる直前、手に人と書いて呑んでいた逸話を、思い出した。

 
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# by kogotokoubei | 2018-05-05 09:23 | メディアでの落語 | Comments(6)
 八十八夜の今日、なんとか時間が出来た。
 寄席や落語会の予定を調べたところ、横浜にぎわい座で、仲入りが古今亭菊丸、トリが三遊亭円馬、という協会を超えた実力者の名を発見し、桜木町へ。

 少し早めに桜木町に着き、結構気に入っているぴあシティの地下の店で、298円の生中とサバ焼き定食で腹ごしらえ。

 念のため電話で予約したので、二階でチケットを受け取り三階のホールへ。

 最終的に、三割位の入りか。平均年齢は、結構高そうだ。私も平均を上げている一人だが^^
 自由席なので、前方の中央付近に席を確保。

 順に感想などを記す。

林家彦星『元犬』 (15分 *14:01~)
 昨年二度聴いている。これまで小言を書いているような語り口の切れの悪さは改善されてきたが、その語りが人物の会話でも、説明口調で一本調子なのが気になる。精進してもらおう。

瀧川鯉丸『かぼちゃ屋』 (20分)
 初。良く通る明るい声は、好感が持てる。数少ない客席には、あまり落語にお詳しくない方も多そうだが、程よく笑いをとっていた。高座も落ち着いていて、今後も楽しみだ。

青空一風・千風 漫才 (13分)
 初。落語協会所属。申し訳ないが、眠くなった。もっと稽古が必要。

古今亭菊丸『片棒』 (26分)
 仲入りは、お目当ての一人。
 カナヅチ、鰻の、ケチに関するマクラの小咄でも、会場に笑いの渦。
 「爪に火を ともすそばから 倅消し」などの川柳を挟むのも、好きだなぁ。
 マクラから本編まで、これほど顔の表情が豊かな人だったのか、と感心していた。
 長男の金之助が、父の赤螺屋ケチ兵衛が「もし、私が死んだら」と言うと、「お父っつぁんが・・・お亡くなりに^^」と薄笑いを浮かべるのが、なんとも可笑しい。金之助が、通夜は二晩、本葬は本願寺か増上寺、お土産は本漆の三段の重箱に丹後縮緬の風呂敷で、香典返しは箱に金貨、銀貨を詰めて・・・と続けるのを聞き、今にも倒れそうになったケチ兵衛が、「出てけ!」と怒鳴る場面も、なんとも言えない楽しさだ。
 この噺の聞かせどころは、何と言っても、次男、銀次郎の場面。
 つい兄の話を聞いて「兄貴、あ~あ~あ~」と首を横に振る仕草から、この男の性格などがうかがい知れる。「あっしは、誰もが驚く、色っぽい弔いを出します」と言って、ケチ兵衛は、嫌~な予感を抱く様子も、顔の表情がなんとも言えない。
 その色っぽい弔い行列の先頭は、頭(かしら)ご一行の木遣りだが、菊丸の声の良さに、いささか驚いた。
 よく通る高い声で、♪よ~~お~ん~やりよ~ぉ~、の一節。
 会場から自然と拍手が起こった。
 次に手古舞が、♪しゃらん、からん、とリズム良く続く。
 山車のケチ兵衛人形には、団子鼻の脇にホクロがあって、毛が二本出ているというリアルさ^^
 神輿がやって来て、♪テンテンテレツク、♪ワッセワッセ、♪チャンチャカチャン、という擬音で、なんとも賑やかな行列の光景が目に浮かぶ。
 花火が上がり、位牌のついたパラシュートが落ちてくるのを地上で待ち構えるのが、海老一染之助・染太郎。「いつもより多く廻ってます」で会場が大爆笑。
 銀次郎に好対照なのが鉄三郎。「仕方がありませんから、弔いは、出します」で、ケチ兵衛はがっかりするが、次第に鉄三郎のケチぶりに頷く。出棺を十時と告げて八時に出してしまえば、酒も肴も出さなくていい、というアイデアにケチ兵衛の「えらい!」で笑った。棺桶は菜漬けの樽、という鉄三郎に、にやっとしたケチ兵衛が「おまえ、親こうこ、なんて洒落かい」と言うのに対し、鉄三郎、呟く声で「いえ、臭いものには蓋」でも、会場大爆笑。
 これまで、この噺は一朝が際立っていると思っていたが、菊丸の高座で、ナンバーワンはこの人か、と認識を改めた。もちろん、今年のマイベスト十席候補だ。

 外で一服しながら、菊丸の高座の余韻に浸っていた。

三遊亭金朝『半分垢』 (18分)
 クイツキは、久し振りの、この人。
 二ツ目の金兵衛の時には聴いているが、真打になってからは、初めて。二ツ目で聴いた時、どういう噺家さんを目指しているのか、と疑問に感じたものだが、その疑問はこの高座でも解消しない。たしかに“にぎわい寄席”と銘打っているので、寄席ならではのネタ選びなのであろうが、落語通ばかりではない客席では、この噺は適切だったのかどうか。
 サゲでも、多くの人が、キョトン、として静寂だった。

ボンボンブラザース 太神楽曲芸 (15分)
 十八番の紙の芸では、下手の桟敷に相当する席まで出張(?)しての熱演。
 同じ場所のお客さんを、帽子の芸に引きこんで、会場全体が湧いた。いつもながら、流石だ。

三遊亭円馬『蒟蒻問答』 (29分 *~16:31)
 女流落語家は、肉食系。男の落語家は、草食でもなく、ゼリー系と笑わせる。
 問答のいろいろを紹介してくれた。ネタに相応しいマクラと言える。
 六兵衛が八五郎に、「コチャエ節」の♪お前を待ち待ち蚊帳の外、を逆さにしてお経らしくやってみせる場面は、可笑しかった。
 沙弥托善と六兵衛の問答も楽しかったが、トリのネタとしては、別な噺を期待していた、というのが本音。
 昨年、末広亭で聴いた『ふぐ鍋』は、季節柄合わないが、菊丸が『片棒』だったので、人情噺かと思っていただけに、やや残念だった。


 とにかく、この日は、菊丸の『片棒』だった。
 去年池袋で聴いた『中村仲蔵』も印象深い。
 滑稽噺も、人情噺も、自在。
 そんな思いを抱きながら、帰路についた。
 
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# by kogotokoubei | 2018-05-02 20:57 | 寄席・落語会 | Comments(4)
 4月の記事別アクセスランキングは、次のような結果だった。

1.文庫版、三遊亭円丈著『師匠、御乱心!』を読んで。(2018年4月1日)
2.池袋演芸場 四月中席 昼の一部・夜の部 4月13日(2018年4月15日)
3.二人三客の会 横浜にぎわい座 4月11日(2018年4月12日)
4.『逝きし世の面影』を、繰り返し読む今日この頃。(2015年8月27日)
5.健さんが愛した歌、「ミスター・ボージャングル」についての補足。(2014年11月25日)
6.幻の、三代目林家九蔵について。(2018年3月6日)
7.毎日新聞の「ぶらっと落語歩き」連載終了で、思うこと。(2018年4月11日)
8.「相撲」は、江戸時代に始まった“興行”であり“芸能”。(2010年7月8日)
9.日本サッカー協会の、お粗末ぶりに思うこと。(2018年4月10日)
10.「はなしの名どころ」管理人さんの本(1)ー田中敦著『落語と歩く』より。(2018年4月3日)

 円丈の例の本について、文庫を再読して書いた記事が、トップ。
 円生の名跡は、さて、いつ復活するものやら
 
 2位と3位は、4月に行った寄席・落語会の記事。
 やはり、生の落語に関する記事には、コメントも多い。

 4位が、意外な3年前の記事。渡辺京二さんの名著について書いた記事へのアクセスが多かったのは、なぜなのか分からない。

 5位は、これも過去の記事だが、高倉健が好きだった曲の記事へのアクセスは、安定的に上位にくる。

 6位は、例の襲名騒動。話題になったことで、本人の披露目に関心が高まったことは、結果として良かったのかもしれない。

 7位は、結構楽しみだった新聞の記事の終了のことを書いたもの。

 8位は相撲について書いた、8年前の記事。
 そして、9位は4月に書いたサッカー協会の記事。
 相撲は、興行なのに、スポーツとしての姿を求められることへの小言を書いた。
 サッカーは、スポーツマンらしくない、協会の不甲斐なさについて書いたもの。

 10位は、「はなしの名どころ」管理人さん、田中敦さんの本について書いた記事。
 田中さんに記事を書いたことをメールでお知らせしたら、丁寧な返信をいただいた。

 落語の舞台を歩く本は、他にも結構あって、先日も吉田章一さんの本について、書いたばかり。
 他の本も再読していて、いろんな発見があるので、そのうち記事にするつもり。

 
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# by kogotokoubei | 2018-05-01 20:49 | アクセスランキング | Comments(0)
 落語の舞台を巡ることをテーマにした本は、結構多い。

 先月紹介した、「はなしの名どころ」管理人さん田中敦さんの『落語と歩く』もそうだし、落語ファンの多くがお世話になっていると思われるサイト「落語の舞台を歩く」(サイト『吟醸の館』内)を運営している河合昌次さんによる『江戸落語の舞台を歩く』もある。また、朝日新聞の記者だった佐藤光房さんが同紙に掲載していた内容が『東京落語地図』として出版されている。
 落語家が案内人になっている本も、円生のものや、三代目と四代目の三遊亭金馬による本、柳家小満んが「東京かわら版」に連載していた内容も、出版されている。

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吉田章一著『東京落語散歩』(角川文庫)

 吉田章一さんの『東京落語散歩』も忘れてはならないだろう。
 著者の吉田章一さんは、昭和8年生まれで、東大落語会の一員。

 以前紹介した『正蔵一代』(青蛙房)は東大落語会の編集で、監修と“動き”の記録を吉田章一さん、演目解説のまとめを保田武宏さん、芸談・身の上ばなしを山本進さん、という分担だったとのこと。

 この『東京落語散歩』も最初は平成9(1997)年に青蛙房から単行本で発行され、平成21(2009)年に角川文庫として再刊。

 コンパクトなのだが、結構中身は、濃い。

 再読していて、最初気が付かなかった発見が多い。

 たとえば、「浜町」の章に、このような姉妹のことが書かれていた。

 靖国通りを横切ると、もとも米沢町になる。女悦道具の店四ツ目屋(東人本橋二ー18-4)が江戸期から明治末まで営業した。小咄甚五郎の作に登場する張形は、名作すぎて人を妊娠させてしまう。
 明治五年から震災まで営業した有数の寄席「立花家」(東人橋二ー13-7)もあった。ここは二階の正面に桟敷があり、四〇〇~五〇〇人はいれた。こけら落としに出演を予定していた圓朝は、門下の三代目圓生に芝居噺の道具一式を譲って代演させ、自らは素噺に転向したという。「立花家」の向かいにあった「初音」という寿司屋の娘の、姉つねが四代目古今亭右女助の、1886~1935)と一緒になり、次の千代は八代目桂文楽(1892~1971)と駆け落ちし、下の妹マキが林家彦六(1895~1982)の妻になった。近くに太平記場跡(東人本橋二ー6-8薬研堀不動院内)、講釈場「福本」(同二ー19-6)もあった。

 四ツ目屋のことから引用したのは、文章の流れを踏まえたもので、どうしても紹介したかったわけではないので、誤解(?)なきよう。

 寿司屋「初音屋」姉妹のこと、知らなかった。

 この文を読んでから検索すると、千代は、文楽の妻とはなっていないようだ。
 
 寄席の近くの寿司屋の姉妹・・・なるほど出会うのは自然の成り行きかもしれない。

 以前読んだ本をあらためてめくると、最初は読み飛ばしていて記憶に残っていない、こういう発見があるのが、読書の一つの楽しみと言えるのだろう。


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# by kogotokoubei | 2018-04-29 18:21 | 落語の本 | Comments(4)
 朝鮮半島で、大きな歴史的な動きがあった。

 政治的な内容は、兄弟ブログ「幸兵衛の小言」の方で書いているのだが、今回のことについては、少し書きたくなった。

 今後の展開について、「一国二制度」の可能性が大きくなったと思う。

 「幸兵衛の小言」の昨年9月の記事で、「内田樹の研究室」からの引用で書いた内容の一部と重複するが、ご容赦のほどを。
2017年9月13日のブログ

 昨年9月4日の「内田樹の研究室」より。
「内田樹の研究室」該当記事

 “戦争であれクーデタであれ住民暴動であれ、北朝鮮政権が統制力を失った後の混乱をどうやって収めるかについてのプランなんて、中国もロシアもアメリカも韓国も誰も持っていない”、と内田は指摘し、その後に、こう書いている。太字は管理人。

もっとソフトな解決法があります。一国二制度による南北統一です。
これは1980年に、当時の北朝鮮の金日成主席が韓国の全斗煥大統領に向けて提案したものです。統一国家の国名は「高麗民主連邦共和国」。南北政府が二制度のまま連邦を形成するという案です。「在韓米軍の撤収」という韓国政府にとって簡単には呑めない条件がついていたせいで実現しませんでしたが、懲りずに北朝鮮は2000年にも金正日が南北首脳会談の席で、金大中大統領に対して、再び連邦制の検討を提案しています。
南北統一については、北の方からまず「ボールを投げている」という歴史的事実は見落としてはいけないと思います。条件次第では、南北統一、一国二制度の方が「自分たちにとって安定的な利益がもたらされる」という算盤勘定ができないと、こんな提案は出て来ません。
今の金正恩にとっては、「王朝」の安泰が約束され、「王国」の中で自分たち一族が末永く愉快に暮らせる保証があるなら、一国二制度は悪い話じゃありません。連邦制になれば、核ミサイルをカードに使った瀬戸際外交を永遠に続けるストレスからは解放されるし、飢えた国民が自暴自棄になって暴動を起こしたり、政治的野心を持った側近がクーデタを起こすといったリスクも軽減される。
 当時、ミニメディアやネットでは目にしていたアントニオ猪木の発言や行動は、テレビや全国紙で取り上げられても良かったと思うのだが、北朝鮮は対話の扉を閉めていたわけではない。
 きっと、「一国二制度」を飲んでくれるのなら、状況は大きく変わるはずだ。
北朝鮮は保有する兵力は想定ですが、陸軍102万人、海軍6万人、空軍11万。他に予備役が470万人、労農赤衛隊350万人、保安部隊が19万人。2400万人の国民のうち約1000万人が兵器が使える人間、人殺しの訓練をしてきた人間です。
イラクでは、サダム・フセインに忠誠を誓った共和国防衛隊の軍人たちをアメリカが排除したために、彼らはその後ISに入って、その主力を形成しました。共和国防衛隊は7万人。朝鮮人民軍は1000万、その中には数万の特殊部隊員がふくまれます。職を失った軍人たちをどう処遇するのか。彼らが絶望的になって、反社会勢力やテロリスト集団を形成しないように関係諸国はどういう「就労支援」を整備したらいいのか。それはもう日本一国でどうこうできる話ではありません。
リビアやイラクがそうでしたけれど、どんなろくでもない独裁者でも、国内を統治できているだけ、無秩序よりは「まだまし」と考えるべきなのかも知れません。
今のところ国際社会はそういう考えのようです。とりあえずは南北が一国二制度へじりじりと向かってゆくプロセスをこまめに支援するというのが「北朝鮮というリスク」を軽減するとりあえずは一番現実的な解ではないかと僕も思います

 なかなか、内田のような論調を目にすることはなく、とにかく騒ぐだけ騒いでいるのが、現在のマス・メディアの実態。

 もっとも罪が大きいのは、アメリカの強硬論に追随するだけの、従来の日本の政府。

 「すべてのカード」という言葉を安倍首相をよく使ったが、まさに、米追従の象徴的な言葉だ。
 これまでは、「一国二制度」の模索というカードは、トランプにも、安倍のトランプにも、存在しなかったあろう。

 さて、これからは、どうか。

 唯一の被爆国ができること、あるいは、すべきことはたくさんあるはずだ。

 豊臣秀吉の朝鮮出兵を、現代の人は無謀な、馬鹿げた行為と判断することができる。

 では、現在の北朝鮮問題については、どういう歴史を刻むことができるのか。

 安倍忖度政治による不祥事に明け暮れていては、世界の平和など語れる状況にない。

 歴史に、日本のおかげで最悪の事態は防ぐことができた、と書き残したいではないか。
 そういう政治、政府が、今望まれていると思う。
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# by kogotokoubei | 2018-04-27 19:31 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 昨日、無事、帰った。

 滞在中に書き切れなかったことなどを。

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 これは、現在閉館中の伊達開拓記念館の前に植えられている、記念樹の松。

 明治9年、時の太政大臣 三条実美が伊達開拓村を視察に訪れた時に植えたもの。

 明治新政府の立役者の一人と言われる三条実美。
 文久3(1853)年の八月十八日の政変で、長州に追いやられた「七卿落ち」一人として有名。
 歴史ドラマでは、明治6(1873)年、征韓論をめぐり、西郷ら征韓派と岩倉や大久保利の征韓反対派の板挟みになり、その心労から人事不省状態に陥った、なんともひわよな姿が、印象的だ。
 
 南の方の騒動が収まった後、北の大地を訪ねていたんだねぇ。

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 これは、実家の庭の梅。

 ほころびかけているが、滞在中には、まだ咲かなかった。

 北海道は、もうじき、梅も桜もほぼ同時に咲く。

 北国の人が、春を実感する季節になろうとしている。

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 町の中心街は、歴史街道、フロンティア街道などと名づけられ、白壁と瓦屋根で統一されている。

 歩いて、結構空き家が多いのが目立つ。

 北海道ではもっとも気候が温暖で、市も移住政策を積極的に進めており、実際に多くの方が移り住んではいるが、郊外に大型商業施設もできており、商店街がシャッター通りと化す状況は、他の地方都市と同じ傾向にある。

 市民の平均年齢は、結構高いだろう。

 かつては、室蘭の製鉄所などに勤める方も多かったが、かれこそ数十年前から“鉄冷え”で、今日、仕事を求める若者は、札幌に出る人が多い。

 私の二人いる兄の子供も、何人かは札幌で勤めている。

 小学校や中学の同級生で地元に残っている人は、公務員か自営の人がほとんど。

 一昨日夜、同級生と飲んだ際、何人かは、すでに旅立っていることを知った。

 そうそう、同級生と会った24日の昼は、天馬、というお店に両親と三人で行った。
 20日金曜日に、テレビで北海道出身の女性演歌歌手が訪問したことが放送されたらしく、数年前に行ったことがある父親が、「また、行きたいなぁ」と言っていたので、電話すると、テーブルが一つ空いたとことで、今なら、とのこと。さっそく、タクシーを呼んで出かけた次第。
 ご主人の実家が漁師というお店で、刺身も焼き魚も、美味くて安い。
 1280円の刺身定食が、なんと豪華だったことか。
 96歳の父と91歳の母が、美味しそうに刺身やホッケ焼きを食べて喜んでいた。

 20日の番組の内容は、STVのサイトに紹介されている。
 “旅のトビラ〜江戸の記憶が残る街「伊達」探訪”という番組だったようだ。
 伊達家の子孫自ら、杜このみという歌手を伊達ゆかりの場所に案内した後で、そのお店で食事をしたらしい。
 私は料理の写真を撮らなかったので、ご興味のある方は、こちらのサイトでご覧のほおを。道の駅や有珠の善光寺などにも立ち寄ったことが紹介されている。
札幌テレビ(STV)サイトの該当ページ

 食べながら、「お前が来たから来れた」と言われると、また来なくちゃ、と思う。
 

 街並は大きく変わっていたが、故郷の人、そして、味は変わらないなぁ、と思った帰省だった。
 
 両親が健在なうちに、元気な旧友との再会も楽しみに、出来るだけ行こうという思いを強くした。


 これにて、今回の帰省シリーズは、お開き!

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# by kogotokoubei | 2018-04-26 12:27 | 小さな旅ー2018年4月、北海道への帰省 | Comments(2)
 無事、羽田に着き、今、自宅近くの駅に行く、リムジンバスの中。

 今朝、実家の最寄駅である、JR北海道の伊達紋別駅から特急に乗り、南千歳で乗り換えて、新千歳空港まで行って・・・という小旅行。

 空港では、ラーメンを食べた。
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 元気な兄ちゃんの誘いに乗って、サッポロラーメンの「空(そら)」の味噌ラーメン、880円なり。
 なかなか、美味かったよ。

 話は戻って、これは、朝九時頃撮影した、故郷の駅。

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 この記事は、千歳へ向かう特急の車中で、書き始めた。

 伊達紋別駅前交番の前に、こんな案内板があった。

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 少し、アップ。
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 私のガラケーでは、よく映っていないが、下(南)の海が、噴火湾。内浦湾とも言う。
 この湾に面しているために、この地は温暖なのである。

 噴火湾は、海の幸の宝庫でもある。
 なかでも、ホタテは有名だ。
 帰省中、ホタテの稚貝を、毎日食べていた。

 昨日の散歩で、西浜という、漁師が住む一帯を散策した。

 その浜に出るには、この気門別(きもんべつ)川を渡る。
 
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 喜門別川とも書く。私は、喜門別の方のイメージの方が強い。
 また、子供の頃は、きもべつ、と呼んでいたような気がする。

 アイヌ語のキムン・ペッ(山に入る川、の意)が名前の由来らしい。

 その川岸にも、浜から飛んできたカモメがいた。

 曇天で映りは悪いが、その浜、西浜の写真。

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 西浜では、子供の頃に、よく泳いだものだ。

 しかし、今は護岸がされており、船が安全に停泊しているのと裏腹に、泳ぐ場所がなくなった。

 とはいえ、伊達のすぐ近くには、有珠山で有名(?)な、有珠の海水浴場があり、そちらに、夏は多くの人が泳ぎにやって来る。


 そうそう、昨夜、中学時代の野球部の同級生と会ったが、野球部メンバー数名と試合の前の日に西浜で泳ぎ、勝てると甘く見ていた相手にボロ負けした思い出話になった。

 中学時代、全道大会の室蘭地区予選決勝で、僅差で負けた時の思い出話にも、花が咲いた。

 同級生も私も、勝った試合より、負けた試合の記憶が鮮明だ。

 それは、どんな過去の記憶でもそうなのかもしれない。

 街は大きく変貌しているが、同級生とは、すぐにあの頃に戻れる。
 ありがたいことだ。

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# by kogotokoubei | 2018-04-25 15:13 | 小さな旅ー2018年4月、北海道への帰省 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛