人気ブログランキング |

噺の話

kogotokoub.exblog.jp
ブログトップ
e0337777_11051989.gif

昨日のNHK BS2での放送。東京落語会のライブラリから、うれしい映像の登場。昭和53(1978)年10月13日の「夜の指定席」で放映されたらしいが、落語会の開催はこの年の8月18日。
当日の演目は、
2代目 柳家さん助         『湯屋番』
2代目 桂文朝          『三方一両損』
4代目 三遊亭小圓遊        『崇徳院』
10代目 桂文治(当時は伸治)  『三国誌』
そして
10代目 柳家小三治        『天災』
3代目 古今亭志ん朝       『たがや』
*『ご存じ古今東西噺家紳士録』(エーピーピーカンパニー)より

当時小三治師匠が誕生日が12月だから満で38歳、志ん朝師匠40歳である。ともかく若い、そして二人とも達者である。仲入り後の二人の噺をノーカットで放映していると思われる。

『天災』は、時間の都合なのか、今では考えられないがマクラなし。「おらぁ江戸っ子だからねぇ、職人だから・・・・・・」の台詞が小三治師匠ならではのリズムをつくっていて心地よい。途中で煙草屋に立ち寄らずまっすぐに紅羅坊先生宅へ行くなど、刈り込み方も適切で、まったくあきさせない。30代の貴重な映像である。

『たがや』は歌舞伎の大向こうからの掛け声をマクラにして本編に入っている。よく言われる「唄う」ような流暢さでうならせる。不惑を迎えたばかりの志ん朝師匠は、直前に起こった大騒動の疲れも見せず、「芸のみに生きる」という気持ちの切り替えができていたのかもしれない。たが屋の立ち回り場面も含め、実に爽快な芸を見せてくれる。

昭和53年の大騒動というのは、あの落語協会分裂騒ぎのことである。
落語界にとって重要なエポックなので少し説明すると、こんないきさつである。
--------------------------------------------------------------------
5月9日の落語協会理事会で、同協会前会長であった6代目三遊亭圓生が大量
真打昇進に異を唱え、同制度を推し進めていた常任理事5代目春風亭柳朝、
4代目三遊亭金馬、3代目三遊亭圓歌を更迭し代わりに自分と同調する圓楽、
談志、志ん朝を常任理事にして同制度を白紙撤回する議案を出す。だが、賛成
は圓生と志ん朝だけ、圓楽と談志は棄権し、その他全幹部は反対したため大差
で否決されてしまった。圓生は一門を率いて新協会設立にに動き始め、5月24日
に赤坂プリンスホテルで新たな落語三遊協会の設立記者会見を行った。しかし
翌5月25日の席亭会議で、それまで新協会設立に理解を見せていた席亭達も、
新宿末広亭の北村席主の意見に従い、三遊協会には寄席を使わせない事を
決定。志ん朝、圓蔵、圓蔵門下の圓鏡は5月31日にそれぞれ落語協会からの
脱退を撤回。しかし、圓生一門は翌6月1日正式に落語協会を脱退。6月14日、
上野本牧亭で三遊協会を旗揚げした。
--------------------------------------------------------------------
ご存知のように、この翌年圓生は亡くなり、三遊協会は円楽党となった。
この騒動に関しては、三遊亭円丈、金原亭伯楽の両師匠によってリアルに騒動の内幕を明かした本があるので、別の機会にでも紹介したい。
この騒動のすぐ後、6月24日に三百人劇場で「志ん朝の会」が開催された。CDにも残る当日の『三軒長屋』のマクラでは、天候不順のことに続き「とにかく今年は大変な年で~お客様だけが頼りです。」と語って、場内からの笑いと拍手を誘っている。
このCDは、数ある志ん朝ライブラリの中でも、その出来栄えと歴史的な意味を含めトップ10に入ると思っている。

『よってたかって古今亭志ん朝』(文春文庫)の記録による昭和53年の志ん朝師匠の主要落語会での演目は次の通り。
1月13日 東京落語会  『ぞろぞろ』
3月29日 東横落語会  『碁泥』
3月31日 落語研究会  『幾代餅』
4月6日  志ん朝の会  『柳田格之進』『愛宕山』
5月29日 東横落語会  『船徳』
6月24日 志ん朝の会  『三軒長屋』『子別れ(下)』
6月29日 落語研究会  『酢豆腐』
7月31日 東横落語会  『宗の滝』
8月15日 落語研究会  『紙入れ』
8月16日 紀伊國屋寄席 『鰻の幇間』
8月18日 東京落語会  『たがや』*8月20日放映されたのはコレです。
8月30日 東横落語会  『唐茄子屋政談』
9月29日 東横落語会  『蒟蒻問答』
11月17日 東京落語会  『三枚起請』
11月19日 東横落語会  『猫の皿』
12月5日 志ん朝の会  『居残り佐平次』『芝浜』
12月26日 落語研究会  『居残り佐平次』

放送された『たがや』を演じた8月のスケジュールの過密なことに驚かされる。
京酢偕充さんプロデュースによりソニー・ミュージックから発売されているCDは、昭和51年から昭和57年にわたって三百人劇場で開催された「志ん朝の会」と、昭和56年の「志ん朝七夜」が音源の中心となっているが、この年の3回計6作品のうち5つはCD化されている。『芝浜』だけは、翌年11月の大阪での独演会の内容が七夜での『百川』とのカップリングで発売されている。この時期の志ん朝師匠の充実度は際立っている。

NHKの東京落語会に志ん朝師匠は昭和34年10月(なんと師匠21歳!ネタは『元犬』)から亡くなった平成13年の2月まで計71回出演している。
NHkさんには、もっと放送する機会を増やしていただきたいと願う落語ファンは少なくないはずだ。
# by kogotokoubei | 2008-08-21 12:21 | テレビの落語 | Comments(0)

『落語歳時記』矢野誠一

e0337777_11051919.jpg

矢野誠一_落語歳時記

『佃祭り』でも引用させてもらったし、最近別の著者から同一タイトルの本も発行されたので、矢野誠一さんのこの名著をとりあげる。
私が落語のネタを調べる時は、まず矢野さんの『落語手帖』(駸々堂出版 、1988年10月発行) か、同じく矢野さんによる『落語讀本−精選三百三席−』(文春文庫、1989年12月発行)にあたることにしている。これらの本でネタの原話であるとか、時代背景、主な演者のコメントなどを知った上で、次に参照するのが本書なのだ。
初版は1972年12月に読売新聞社から単行本として『落語 長屋の四季』として発行され、1995年2月に改題されて文春文庫として復刊された。それでもすでに13年前のことになるが。矢野さんは「徳三郎」という俳号をもつ「東京やなぎ句会」のメンバーである。この句会は桂米朝、入船亭扇橋、三遊亭小三治といった落語家に小沢昭一、加藤武そして矢野さんなどの落語通人で構成され、扇橋師匠を宗匠格とする、落語ファンならご案内の会である。
本書は新年から冬までの季節ごとに季題と対応する落語で章立てされている。冒頭はそれぞれの季題についての矢野さん自作の句で始まる。
ちなみに、夏の項の目次は次の通り。
----------------------------------------------
<夏>
業平忌       洒落小町
短夜         酢豆腐
うなぎ        鰻の幇間
蚊帳         麻のれん
四万六千日    船徳
暑さ         千両蜜柑
祭り         佃祭り
-季題寸景-
野崎参り/端午/幟/神田祭り/山王祭り/
祇園祭り/富士詣り/大山詣り/川開き/井戸替え
----------------------------------------------
落語の味わい方はいろいろあると思うが、江戸や明治といった時代の風俗や文化、そして庶民の生活を思い浮かべながら聞くことで楽しみが増えることは間違いないだろう。
季題「短夜」という言葉そのものが死語になりつつあるが、こんな粋な俳句を知ることで、季題とともに忘れることもなくなるだろう。
----------------------------------------------
短夜や軽き悪事のふたつみつ  徳三郎
短夜のあけゆく水の匂いかな   久保田万太郎
短夜や嘘と知りつつきくはなし  川口松太郎
----------------------------------------------

また、短夜の季題で扱っている「酢豆腐」についての次のような著者の指摘にも、なるほどと思うのだ。
---------------------------------------------------------------------
『酢豆腐』の若い衆は、口ではいやな野郎、キザな野郎とけなしながらも、あとに
引けなくなって、腐ってカビの生えた豆腐に敢然とたちむかい、「酢豆腐はひと口に
かぎる」と逃げた若旦那にたいし、「ざまァ見やがれ」といった態度はとらない。
おそらく、悪臭を放つ、くさった豆腐に立ちむかったとき、若旦那の胸中には、あの
『助六由縁江戸桜』で韓信よろしく、花川戸助六の股をくぐってみせる通人里暁を
気取るものがあったにちがいない。まことに通人をもって貫き通すのも、はた目には
わからないつらい部分があるものだ。口でけなしながらも、そうした気取りに徹した
いき方は、十分に認めてやった結果の、「やった、やりましたね」であって、「酢豆腐、
酢豆腐はうまいね」なのである。
---------------------------------------------------------------------
俳句を下敷きに季節感のある噺の時代と当時の庶民の生活、そして登場人物の心情など、落語の楽しみを何倍にもしてくれる名著だと思う。本書が多くの落語ファンの手に入るよう、改訂版の発行を期待している。文春文庫には過去に落語関連本が結構多く発行されているのだが、最近改訂されていないので古書店ルートに頼らざるを得ない。ちくま文庫や河出文庫の奮闘に負けないで欲しいと思う次第である。

矢野誠一_落語手帖
矢野誠一_落語讀本
# by kogotokoubei | 2008-08-17 11:07 | 落語の本 | Comments(0)

今年は大祭 『佃祭り』

e0337777_11051889.jpg

8月6日の末広亭夜席の主任、入船亭扇遊のネタは、今がまさに旬の噺。といっても通年は8月6日と7日が祭りなのだが、今年は三年に一度の大祭で、8月1日から始まり土日をはさんで4日がクライマックスであった。上の画像は「佃住吉講」が作っているホームページからいただいた例大祭のポスターである。このホームページにある佃島、住吉神社そして佃祭りの解説は次のとおり。
--------------------------------------------------------------------------
佃煮のルーツで知られる東京都中央区佃は、隅田川の河口に位置し、いまだに
江戸情緒を残すレトロな町として多くの観光客が訪れています。そもそも佃は、
天正18年(1590年)徳川家康公が関東に下降の際、摂津国佃村から漁民33人
呼び寄せ、鉄砲州向干潟を埋め立てさせ佃島と命名し住まわせたことに始まり
ます。この佃を社地とする住吉神社は、正保3年(1646年)6月29日、住吉大社
の分神霊を奉遷祭祀し建立されました。以来、住吉神社の例大祭(佃祭り)
は、江戸幕府に許可された由緒ある祭りとして今日に至っております。揃衣の
若衆が獅子頭の鼻先めがけ殺到する獅子頭宮出しや隅田川を渡御する船渡
御祭、江戸三大囃子のひとつである佃ばやしにのって、高さ20米にも及ぶ六基
の大幟のもと八角神輿が繰り出す風情は、文化的にも希有なものと言えましょう。
佃 住 吉 講
--------------------------------------------------------------------------

矢野誠一さんの『落語歳時記』には、「摂津国といえば、いわずとしれた現大阪府。だんだんと残り少なくなってきている生粋の江戸っ子が、いまなお多く住むといわれる佃島も、もとはといえば、大阪からの移民によって開かれたとは、なんとも皮肉なことではないか」と書かれている。たしかに佃と大阪というのは、まったく意外な組み合わせである。
e0337777_11051822.jpg

佃住吉講活動記録から、今年の4日最終日の宮神輿とにぎわいぶりの画像である。今年はNHKの朝の連続ドラマ『瞳』の舞台ということで、ドラマ出演者も収録のため神輿をかついだようだ。
さて、噺は、まだ佃島に橋がかからず渡し舟に乗る必要のあった時代の話。実際に佃の渡しが沈む事件があったので実話がベースかと思わせるが、原話は中国明代の『輟耕録(てつこうろく)』(陶宗儀著)に収録されている「飛雲の渡し」だといわれる。

現在の橋と船のルートは、いつも参照させていただくすばらしいホームページ「落語の舞台を歩く」から拝借。
落語の舞台を歩く

e0337777_11051825.gif


さて噺は次のようなストーリーである。
(1)神田お玉ケ池の小間物屋の主、次郎兵衛さんは、大の祭り好き。今日もやきもち焼きの女将さんに「どうせお祭りが白粉(おしろい)つけて待っているんでしょう」などと言われながらも佃祭りに出かけた。

(2)祭りを楽しみ、目一杯帰りの乗客を乗せた暮れ六つの終い船で帰ろうと船に足を踏み出した次郎兵衛さんの袖を引く女がいた。次郎兵衛さんが女に引き止められているうちに船は出てしまう。しょうがなく女の話を聞いたところ、実は三年前に奉公先の主人の金三両(五両とする場合もある)を盗まれ、橋(本所の一つ目の橋、とか吾妻橋など設定はいろいろ)から身を投げようとしたところを助けたのが次郎兵衛さんだった。女は結婚して佃に住んでいるので、ぜひ寄って欲しいと懇願する。連れあいが船頭なので、後でお送りすると言われ、ほっとして家を訪ねる次郎兵衛さん。

(3)女の家で次郎兵衛さんが一杯ご馳走になっていると、急に外が騒がしくなってきた。なんと終い船が沈んで岸は死体の山になっているとのこと。三年前に命を救った女に、今度は次郎兵衛さんが助けられたわけだ。女の連れあいが次郎兵衛さんに挨拶に立ち寄ったが、船を出すのは騒動がおさまってからになるので、家でゆっくりしていってくれと言われ、腰を落ち着けてご馳走になる次郎兵衛さん。

(4)一方、神田の次郎兵衛さんの家で帰りを待つ女将さんに、終い船が沈没したとの伝聞が届く。どうも一人も助からなかったらしいという噂に泣き崩れるおかみさん。近所の若い衆がさっそく弔いの準備を始める。若い衆の半分は、次郎兵衛さんの遺体をひきとにり行こうということで、おかみさんに次郎兵衛さんの体の特徴を聞いたところ、次郎兵衛さんの二の腕におかみさんの名前が彫ってあるとのこと。「なんとも、ごちそうさまで」と出かけていく。はっきりしない伝聞ではあるが、次郎兵衛さんが死んだらしい・・・・・とのことで弔問客でごったがえす。中には、とんちんかんな悔やみを言う者もいるが、とにかく早桶も届き坊さんも駆けつけて通夜が始まった。

(5)すっかりご馳走になり明け方に船で神田川まで送ってもらった次郎兵衛さん。ご機嫌で家に帰ってきたが、家では弔いの最中。「おやっ、簾が裏返しになって“忌中”って、誰が死んだんだ。お袋か。かかぁか・・・・・・」と家の中に入って、居並ぶ弔問の者たちが「幽霊!」、という大騒動。

(6)次郎兵衛さんにいきさつを聞いたご一同、坊さんに若い衆があやまるが、坊さんいわく。「けっこうけっこう。因果応報と言いましてな。次郎兵衛さんが三両の金で若い女の人を助けた。だから今日んなって、その三両のために、こんどは自分の命を買うようになったのです。人を助けるということは、みんな自分の身にかえってくることでございます・・・・・・」と法談のように場を締めた。

(7)さて、この話を聞いていたのが与太郎。「身投げを助けて三両やれば、自分が死なねぇですむ」とばかり三両を都合して、毎日、ほうぼうの橋に身投げを探しだした。三日目にようやく、橋に若い女の姿。目に一杯の涙をため手を合わせている。与太郎、ここぞとばかりうしろから抱きついて「待ってくれ。三両の金がねえために、身を投げるんだろう。おれが三両やるから、待ちねえ」」と止めにかかったが、女の言い分はこうだった。「あたしはね、歯が痛いから、戸隠さまへ願をかけているんだよ。」与太郎が「うそぉつきやがれ、え、懐に石があらあ」女の言葉がサゲとなる「これは納めるありの実(梨)だよぉ」

このサゲのために、まずほとんどの噺家が、マクラで戸隠さまへの願かけのことを説明する。矢野誠一さんの『落語歳時記』からふたたび引用する。
「戸隠さんは、平維茂の鬼女退治で知られる長野県は戸隠山にある神社。古くより虫歯の神様として有名だった。このでんで、薬師様が目、水天宮が産婦人科、トゲ抜き地蔵は外科。神様にも専門があるわけだ。戸隠に願をかけるには、生年月日と、上下、何枚目の歯が悪いかを梨に書き、橋の上から戸隠様におがんで川に流す。その様子、遠くからみると、さながら身投げ同様というから、与太郎が間違えるのも無理はない。」
梨を「有(あり)の実」と言うのは、「なし」では縁起が悪いからだが、せっかくマクラで説明していても、サゲで「有の実」と言う噺家はほとんどいない。もったいない。ぜひ死語にならないよう、この噺も語り続けてほしいし「有の実」をサゲでも使って欲しい。

東京オリンピックのあった昭和39(1964)年の佃大橋の完成で姿を消した渡し船が題材となっていることや、神田お玉ケ池町内の若い衆や与太郎によるドタバタ、次郎兵衛さんが昔助けた女の連れあいの船頭(辰五郎)の「いなせ」な立ち居振る舞いなど、季節感もたっぷり役者もいっぱいで江戸落語の代表作の一つだと思う。また、(4)の場面の滑稽な“悔やみ”もこの噺の売りの一つ。噺家がそれぞれ工夫しているので、噺家によってどう悔やむかを聞き比べるのも一興だ。
江戸、祭り、粋といなせで、おっちょこちょいな町人たち、「落語って、本当にいいですねぇ」と、誰かの口癖をまねしたくなる噺である。
お奨めは、迷うことなく古今亭志ん朝である。
古今亭志ん朝_佃祭り
# by kogotokoubei | 2008-08-09 10:47 | 落語のネタ | Comments(0)
都内での打ち合わせが終わって、気が向いたので2月29日以来の末広亭へ。主任は扇遊。仲入り前の二人から、次の顔ぶれとネタを桟敷で楽しんだ。客の入りは6割位。いい感じ。
-------------------------------------
春風亭正朝   町内の若い衆
三遊亭歌武蔵  親子酒
(仲入り)
入船亭扇治   狸の札
ホームラン    -漫才-
桂 文生     雑談 *二日酔い?
柳亭小燕枝   無精床
林家正楽     -紙切り-
入船亭扇遊    佃祭り
--------------------------------------

さん喬が休演だったのは残念だったが、それも寄席である。ちなみに2月29日は、代演でうれしい誤算の桃月庵白酒がすこぶる良かった。

主任の扇遊は、期待通り。この人はビクター落語会で何度か聴いているが、やはり寄席が似合う噺家さんだ。演じる姿がよく分かる寄席空間でこそ、その細やかな仕草や表情の変化が際立つ。しかし、本日の一番は、歌武蔵。あの巨体で、禁酒の約束を破って飲んで帰ってきた息子がいきなり倒れるシーンを、砂かぶりとも言える至近距離から見る迫力はホール落語会では絶対味わえない。また正朝の粋な語り口と現代的なクスグリは相変わらず髪形と一緒でシャープだ。寄席ならではのネタでしっかり客席を暖めた。末広下席では主任らしい。都合がつけば来たいものだ。また、さん喬の代演である小燕枝は初体験だが、さすが小さん門下だけあり柳家の香りがするし、無精床という寄席ならではのネタでしっかり笑いをとっていた。扇辰と交替出演の扇治。雰囲気はあるのだがなぁ、クイツキでこのネタというのはちょっとがっかり。文生は酒にまつわる雑談10分でおりた。二日酔いだろう。

久しぶりの寄席は本当に心がなごむ。特に末広亭は、都内の四つの寄席の中でもっとも建物が古く、いわゆるレトロ感覚がうれしい。部分改修はしているものの昭和21年築なので60年以上たっている。昭和の面影いっぱいの寄席で、この環境そのものが来る価値がある。

寄席はホールでの独演会などと違い噺家や出来栄えにハズレも多いし、主任以外は15分ほどの持ち時間であわただしいという欠点もある。しかし噺家との一体感、お客さん同士の連帯感などは寄席でしか味わえない魅力だ。独演会でチケット完売となるレベルの噺家が主任の時は立ち見にもなるだろう。でも、空席が目立つ平日の会場で、初めての噺家に出会ったり、ホールで知っている噺家の顔を至近距離で確認するのも楽しいものだ。最前列でドッカンドッカン笑っていた年配のおかぁさん達、あなた達は長生きしますよ。
来週の鈴本夏祭りは都合で行けないが、近いうちに寄席にまた来ようと思う、そんな夜だった。

なお、新宿末広亭については、富田均さんの故北村銀太郎席主からの聞書きによる下記の書があり、昭和53年の落語協会の分裂騒動でも存在感を発揮した北村席主の人と生涯を興味深く読むことができる。大正から昭和にかけての噺家達との交流など、北村席主しか知りえないエピソードも多く、落語の歴史書としての価値もあり推奨します。
聞書き_寄席末広亭
# by kogotokoubei | 2008-08-06 23:05 | 寄席・落語会 | Comments(0)
e0337777_11051752.jpg


「落語30年、これまでとこれからの」という特集で、京須偕充さんが編者である。
36号が2003年4月の発行だから5年3カ月ぶりの発行。その前の35号は2001年7月、34号となると1997年6月 だから、3号前は10年以上遡る必要がある。たぶん38号は30年後に発行予定なので、こういった特集になったのでは?というツッコミも入れたくなるが、ぜひ3年以内で38号の発行を期待したいものだ。しかし、季刊ではなくなっても忘れた頃に発行し、いまだに通し番号を付けている弘文出版のしぶとさも、ある意味で凄い。

執筆陣は京須さんをはじめ、落語に関する論客ぞろいの多彩 な顔ぶれである。大友浩、長井好弘、今野徹、佐藤友美、木村万里、田中徹、瀧口雅仁、寺脇研、浜美雪、などなどの名前が並ぶ。 現役の落語指南役で加えて欲しかったのは堀井憲一郎さんだが、執筆依頼がそもそもなかったのか、依頼はあったが何らかの事情で断ったのかは不明。

最初に京須さんが、「さらば、名人の世紀」という長いマクラをふっている。各章のタイトルのみ並べてみる。
(1)志ん朝は名人か (2)名人は幻 (3)名人の黄昏 (4)名人は人間か
(5)名人の逸話と背景 (6)真に迫る (7)名人の世紀 (8)聴き手の想像力
(9)「名人」を捨てた名人 (10)アンチ名人の時代へ (11)ポスト名人時代のリーダーは

「名人」が存在しない、あるいは存在できない時代にあって、今から30年後の落語界を背負って立つのはどういった人たちだろうか、そんな酔狂な企画もあっていいでしょう、という企画のマクラを京須さんは「名人」への考察から始めたわけだ。これに続いて、骨のある落語指南番それぞれの30年後の期待とシミュレーションが記録されている。まさに、各書き手による記録なのだ。皆、自分がその時に存在するか否かという不安を持ちながら、30年後に読み返したいと思っている。

それぞれの書き手による「30年後」の落語界を背負って立つだろう噺家の名前は。本書を読んで確認していただきたいが、落語ファンであれば、ほぼ想像通りの顔 ぶれが並んでいるといえるだろう。 ただし、出てくる噺家の数はとんでもなく多い。もちろん、書き手の視線、好みなどの違いによるが、「この人がこの噺家を推すんだ・・・・・・」という発見も楽しい。

これでもか、というお奨め噺家のオンパレードでお腹一杯になった頃、ほっとさせてくれるとともに、非常に楽しませてくれるのが「柳家喬太郎日記」である。本年4月一ヶ月間の日記が掲載されている。私自身もこの期間の喬太郎のいくつかの落語会に足を運んだので非常に楽しく読めた。特に4月9日のにぎわい座でのさん喬一門会に関する事後の反省には、同じような感想を持っていたので、大いにうれしくもあった。この日記で最初にわかることは、想像はしていたが、喬太郎がどれほど“売れている”か、かつ仕事を断らずにこなしているかという実態。また、日記なので、なんといっても等身大の日常生活を覗く楽しさがある。しかし、彼の日常が楽しいことばかりでは、もちろんない。池袋の行きつけのバーで翌日締切りの原稿を書く夜があれば、なぜか深夜あるいは早朝まで眠れない日々もある。また、十八番(オハコ)を演じた後でも出来栄えに自責の言葉を綴る日も少なくなく、正直言って、「30年後、喬太郎は大丈夫か?」という不安も感じた。もちろん本書でも多くの書き手が喬太郎を30年後の落語界のリーダーとして推している。少しは仕事を選び無理をしないで欲しいと思った次第である。でも、休まんだろうなぁ、彼は・・・・・・。
 
また、長井好弘さんによる「データで読む『当世落語事情』」は、得難い資料となって いる。過去数年間の鈴本や末広亭の演目や、過去数年“演じられていない”噺、といった 情報が提供されており、非常にタメになる。 上方落語に割くページも相応に用意されている。トリを務める花井伸夫さんや相羽秋夫さん達による「これまでの30年」も読み応えある記録である。総体として長期保存版としての価値はある。
 
7月に発行されたが発行部数が多くないのだろう、インターネットでの購入でも数週間かかるようだ。私は、神保町の落語専門古書店で入手したが、通常の書店では間違いなく取り寄せになってしまうだろう。しかし、落語ファンの皆さんが、数年後に古書店ルートで苦労して買い求めることになるのなら、今のうち買っておくだけの価値は十分にある。 自分の贔屓の噺家がどのように評価されているかを知る楽しみもある。そして、今はよく知らないがこれから長い間見守るべき若手成長株の新たな名前を知ることのほうが重要なのかもしれない。次の大友浩さんの言葉が示唆的である。
--------------------------------------------------------------------
30年後の落語界がどうなっているか、遊び半分に考えてみることはある。
しかし、未来を言い当てようとすることがいかに虚しいかは、私たちがこれまで
さまざまな形で目にしてきた多くの未来論で証明済みだろう。・・・・・・
「30年後に期待する噺家は?」と問われたら、「明日入門するあなたです」と
答えたくなってしまう。
--------------------------------------------------------------------

本書を読んで人生が変わった未来の噺家がいないとは限らない。

弘文出版_落語37号
# by kogotokoubei | 2008-08-05 18:50 | 落語の本 | Comments(0)
小田急新百合ヶ丘駅前の1000人収容可能な会場。3月の談春、7月の志の輔はともに平日夜7時開演だったので、土曜の午後2時開演でどこまでこの広い会場が埋まるか、と思ったが当日券販売ありで約8割の入り。
談春は平日で同じ位、志の輔はほぼ埋まった。まぁ、現在の「落語家市況」から考えると、善戦と言ってもよいのかもしれない。

まず、出演者と根多から。
-----------------------------------------
林家種平   お忘れ物承り所
春風亭小朝  池田屋
(仲入り)
林家いっ平  漫談~悋気の独楽
春風亭小朝  唐茄子屋政談
----------------------------------------- 

一月の橋本の独演会でも、「元義弟]」のいっ平が出ていたので、ある程度予想はしていたが、案の上。「そこまで、三平を意識しなくていいだろう」と思わせる高座。
これ以上、助演者についてのコメントは控え、小朝の唐茄子屋を中心にしたい。もちろん昨日の三三の唐茄子の翌日だから、である。あえて、二人の演出の違いを聴き手の立場であげてみる。ポイントは3つ。
*ここからはネタバレ注意内容。噺を知らない方で知らないでおきたい方はお読みにならないほうが賢明です。

(1)吉原田圃
ここに噺家の芸の幅が出てしまうのはやむをえない。都都逸の一つ、小唄・端唄のさわりを披露できるかどうかは、非常に大きな違いとなる。残念ながら三三にはなかった粋な一節が小朝には、ある。その有無による聴き手への効果は、この噺に関する限り小さくはない。古今亭志ん生、金原亭馬生、古今亭志ん朝の親子は、みなこの場面で聴かせてくれる。粋なんだ、この人たちの唄が。志ん生の「薄墨」などは、なんともいえない味がある。

(2)誓願寺店の因業大家の出番
あくまでも8月1日の三三、8月2日の小朝の演じ方での違い。
徳が売りだめを置いて帰った後のシーン。小朝は売りだめを返そうと思った母親が因業大家に出会い、大家が家賃のカタに財布を取り上げるところまでを演じ、徳がおじの家に帰るシーンにつなげている。三三は、まだ試行錯誤なのか時間の都合なのか、大家の出番を挟まず徳がおじの家に帰る。二日連続して聞いた感想としては、大家の出番を挟むほうが演出として効果的だと思った。

(3)誓願寺店の母親の容態
古くは母親が亡くなる悲しい噺だったが、それではあまりにもむなしいので、昨今は助かる設定が多い。三三も小朝も助かる噺になっている。助かった、という情報をどこにはさむか、ということなんだが、徳が大家の乗り込む前に無事であると明かす三三と、最後まで隠しておく小朝。謎解きは最後までひっぱっておくほうが聴く側の緊張度は大きく、解放による効果もある。この点も小朝に軍配が上がる。

この3つのポイントだけで考えても、小朝が上回っている。芸の良さプラス親切な演出とでもいおうか。三三は全体の出来が悪いわけではない。役者の三三は良かったが、演出家の三三は課題あり、と言えるかもしれない。ということは演出を工夫した場合の伸びしろは大きいということだ。三三「唐茄子」の今後の進化に期待したい。たまたま連日で味わった「唐茄子」を引き合いに出すほど、この日の小朝の出来は良かった。大銀座で黒子に徹していたため、噺家小朝の血が騒いできた、としたら良い傾向といえるだろう。
 
今日の会は、小朝が一席目にお手の物の「池田屋」-特に近藤勇エピソードのクスグリ-で会場を暖め、トリに唐茄子屋を披露した構成とそれぞれの芸に、貫禄めいたものを感じた一日であった。もう少し詳しく言うならば、「池田屋」で会場をドッカンドッカン沸かしている時には、「やはりローカルバージョンなのかな・・・・・・。」と半ばがっかりし、いっ平の、妙に三平を意識した漫談芸に辟易した後の「唐茄子屋」の出来に、素直に「来て良かった」と思えた。

小朝は、ローカルで初めて落語を聞くお客様向けの“ドッカン”も出来るし、人情噺も、けっして錆はついていない。
しかし、あえて言おう。「元」義理の弟達は自分たちで食い扶持を探せるだろう。もういいのじゃないか、“偽装”兄弟会は・・・・・・。小朝独演会なら行きたいが兄弟会なら行かない、という落語ファンが少なくないことを分かって欲しい。大銀座が役割を果たした、というのなら、三枝との二人会もそろそろ終わりにして欲しい。(そういえば、やはり大銀座のことは、いっ平の漫談で自慢話に出たくらいで、小朝からはまったく話題に出なかったなぁ・・・・・・。)

“多摩川超え”だからこそ、「紺屋」と「文七」をストレートにぶつけてきた談春、「千両みかん」と「しじみ売り」という十八番(オハコ)をしっかりと並べた志の輔、の立川流。小朝も、多摩川超えの未開拓な落語ファンへの「ドッカン」役はいっ平達に任せ、立川軍団と比較して熱く落語ファンが語れるような、本来の「独演会」を期待したい。前座が必要なら弟子を連れてきて欲しい。あなたは林家一門ではないのです。
# by kogotokoubei | 2008-08-02 19:54 | 寄席・落語会 | Comments(0)
紀尾井ホールの小ホールは250席、というほど良い広さ。
三三の独演会は昨年以来なので、内幸町ホールと思っていたので勝手が違ったが、これはバージョンアップ、ということなのだろうか・・・・・・それはともかく演目。
----------------------------------
三遊亭王楽  「しびん(花瓶)」
柳家三三   「帯久」
(仲入り)
柳家三三   「唐茄子屋政談」
----------------------------------

「しびん(花瓶)」
王楽は昨年の9月15日の朝日名人会以来、久しぶりの再会。この噺は、”田舎侍”が道具屋で「しびん」を「花瓶」と間違えるというのが大前提。田舎侍を描けなければ噺の輪郭が見えない。三三が自分の噺のマクラで「王楽さんは血筋が違いますよ」などとよいしょしたのは、「残念ながら田舎侍を演じるのはDNA的に難しかったのでしょう」というフォローにさえ聞こえた。昨年の朝日名人会の『兵庫船』が、期待していなかったせいか意外に印象が良かったので、ネタの選択ミスともいえるだろう。文楽(八代目)がよく演じたとはいえ、噺自体があまりおもしろくのないネタであり、若さの勢いで聞かせるのは難しい噺である。芝居噺などがニンのはず。これ以上はあえて小言を我慢して今後に期待。

「帯久」
五貫裁きなど政談ものはニンであり、若さに似合わず大店の主など年輩の登場人物を演じたらピカイチといえるので、この噺は期待していた。演じ分けの見事さなど十分期待に応える内容で、ぜひ十八番(オハコ)に加えて欲しい。
サゲの「身をこがして」は三三のオリジナルなのかどうか勉強不足だが、米朝をはじめ「本卦(本家)」と「別家」というサゲが通じにくい今日、志の輔の「帯だけにきつく」というサゲに勝るとは言えないが、話の流れとしては無理がなく好感は持てた。

「唐茄子屋政談」
徳が商売から帰り、おじが徳の話を聞いた後で誓願寺店に向かう場面。二人に向かっておばが言う「二人で吉原に行くのかい」のクスグリがいちばん笑えた。また、吉原田圃での売り声の練習と、花魁との回想とを交える中盤の聴かせどころも、三三らしい色気と笑いがあって、良い。矢野誠一さんの文章に、志ん朝が二つ目朝太の時代の勉強会でこの噺を見事に演じ、若いのに驚いた、という表現があったことを思い出すが、三三の唐茄子屋も若いのにもかかわらずニンである。

月例の三三独演会は、もっと広い会場でも十分集客できるだろう。しかし、内幸町や紀尾井ホールといった会場をあえて選んでいるのであれば、その三三の心意気がもっとも価値がある、そんな思いでトラブルで20分遅れた小田急の、これでもかという位に度重なるお詫びの車内放送を聞きながら、多摩川を超えて帰った夜だった。
 三三、たしかに柳家の正統派の伝統を担う逸材にちがいない。しかしこの日の内容で欲を言えば、「帯久」のマクラで姫路城を訪ねた話をしたが、「なぜ姫路城だったのか」という彼の思い入れなども聞きたかった。マクラには人柄が出る。もっと姫路城への旅の心情面での掘り下げがあれば、三三という一人の人間への理解が深まったのに、と感じた次第。まだ三十代前半ではあるが、あえて自分の思いや好みなどもテレずに吐露してほしい、という小言で締めたい。「上手い!」の段階はすでに到達しているのだから、マクラを含め「できる!」「なるほど・・・・・・」と思わせ、その著作が出たら買いたくさせるような噺家にぜひなって欲しい。
# by kogotokoubei | 2008-08-01 23:40 | 寄席・落語会 | Comments(0)
e0337777_11051682.jpg


京須偕充さんによる意欲的な作品。どう意欲的かと言うと、落語研究会の解説者としてのジェントルな振る舞い、落ち着いた語り口からは想像できない、江戸っ子の“べらんめい”口調と、テーマになっている幇間(たいこもち)的な口調を中心に書かれている本なのだ。 だから、最初は読みながら「これ京須さんの本だよなぁ・・・」と何度か表紙を見返してしまった。しかし、この試みは、なかなか当たっていると思う。

構成は次の通りである。
---------------------------------------------
まくらに代えて
第一章 落語が語る江戸の仕事、職場と就職
第二章 落語が教えることばと人間関係
第三章 大根多『百年目』が語る企業と人情
サゲに代えて
---------------------------------------------

今年に入ってから、落語から処世訓や江戸の智恵を読み取ろう、といった試みでいくつか落語関係本が出版された。矢野誠一、堀井憲一郎、柳家喬太郎などの名が浮かぶ。「小言」をタイトルにした本もあった。思うに、京須さんはこの流れを読みとった上で、他の本との差別化を図ろうとしたのではなかろうか。

印象的だった部分をl抜粋してみよう。

(1)第一章の「商い力の江戸時代」から
「客側も世辞を言う文化は昭和の後半から薄れてきたように思います。量販店がはびこったためでしょう。代金と品物を即物的に交換するというだけでは双方がロボット化していくばかり。昔、下町の個人商店では客と店との人間的絆が強く、会話のはずみでつい、もう一品余分に買う、なんてことがザラにあったものです。今はもう声はあれども心はあらずで、マニュアル化した「アリガトーゴザイマシタ、マタドーゾ」がテープ・ボイスにように響くだけ。みんながそれに慣れてしまえば個人商店は量販店に駆逐される一方ってことになる。」

この部分では“べらんめい”調は押さえられているが、指摘はごもっとも。最近の小咄で次のようなものがある。“会社で会議前にコーヒーのストックがなくなっているので、近くのファーストフード店で20人分のコーヒーを買うよう指示された新入社員。店のカウンターで「コーヒー20個」と言うと、店員から「店内でお飲みになりますか、お持ち帰りですか?」・・・・・・。”おいおい、一人で20杯飲むか!マニュアル化された言葉のむなしさよ。


(2)第二章の「気配りとは相手を読むこと」から
「~家庭だけの話じゃありません。仕事もビジネスも人と人で成り立つものすから、互いが都合を 主張するのみで相手を尊重せず、気配りもしないとなれば、うまくいくはずがありません。気配り は裏を返せば『読み』です。相手を読めなきゃ、成功は覚束ないのは当ったり前のコンコンチキでさ」

気配りは読み、という端的な指摘が秀逸。

(3)第三章の「下の者あっての経営者」から
「***落語「百年目」の一部分の引用***
 さて番頭さんや、店先へ舞台を変えれば、そこではお前さんが栴檀、店の若い者が南緑草ということになる。近頃、店の栴檀はたいそう威勢がいいが、南緑草が少し萎れているように思う。どうかね?私の思い過ごしならばいいが。店の南緑草が枯れれば店の栴檀−お前さんも枯れる。そうなればおくの栴檀−わたしも枯れてしまう。お前さんから見れば店の若い者は行き届かない者ばかりだろうがしかし、人間というものはどこかに何か見所があるものだ。辛抱して、せいぜい露を下ろしてやっておくれ。わたしからもお願いしますよ。***引用終了***
 
 もしも、ここで旦那が頭を下げたなら、番頭は気絶しますね。それに、それじゃあまりにもイヤミになるってもんでしょう。それはともかく、旦那はここで店の者、下の者あっての経営者だということをはっきり言いました。」

この部分、「百年目」という噺を三遊亭圓生版を中心に引用しながら、旦那の会話の中に、現代ではもうお目にかかれない高等な話術と気配りが溢れる経営者、管理職の姿を紹介していく。「百年目」という噺そのものが良く出来ていることに加え、京須さんが選択し、適切に説明をしているところが、本全体の最大の山場となっている。米朝、志ん朝の演じ方なども紹介されており楽しく読める。

 圓生、志ん朝、小三治といったそれぞれ生半可なことで交渉に応じそうもない名人達の歴史的 CDをプロデュースしてきた仕事の背景には、鋭い「読み」を踏まえた「気配り」があったに違いない。

 本書で「小言幸兵衛」を紹介している部分で、幸兵衛の心境が次のように語られている。「あたしゃツベコベ言いたかないが、わからず屋だらけだから、ついつい小言を言うん だよ。いや、言わされてるんだ。こっちの身にもなっとくれ。」
“少数派になってきた”と京須さん が嘆く幸兵衛役をあえて買って出ているのが本書である。しかし、誰でも幸兵衛の小言を長々と聞く のはつらいことを著者は十分“読ん”でいる。だから幸兵衛の毒を幇間的な“よいしょっ”と、べらん めい調のオブラートで絶妙に包みこむ“気配り”を発揮しているのだろう。
 京須さんの数ある著作の中での最高傑作は、10年以上前の発行になってしまうが、『らくごコスモス-落語、昨日今日明日』だと今でも思っている。同書は、当時の落語界への京須さんの熱い思いが語られており、“志ん朝七夜”実現のドキュメンタリーとしての価値も大きい。単純に比べることはできないが、一まわり年を経て書かれた本書は、落語の語り手、聞き手として熟練したお旦が、落語を素材に処世の智恵を語ってくれる良書といえるだろう。今後は、この手の著作が増えそうな気もするし、期待もする。
京須偕充_幇間は死なず
京須偕充_らくごコスモス-落語、昨日今日明日
# by kogotokoubei | 2008-07-29 17:32 | 落語の本 | Comments(0)

『大山詣り』

e0337777_11051591.jpg


 夏の旅の代表的な噺。別名『百人坊主』。写真は、大山阿夫利神社の下社拝殿。

 大山は現在の伊勢原市郊外の山である。別名を雨降山(あふりやま)。参詣先の神社は阿夫利神社。なんとその歴史は紀元前に遡る、らしい。阿夫利神社のホームページから抜粋する。
大山阿夫利神社のサイト

 大山阿夫利神社の神社創立は、今から2200余年以前の人皇第10代崇神天皇の御代であると伝えられています。
 大山は、またの名を「あふり山」という。あふりの名は、常に雲や霧を生じ、雨を降らすことからこの名が起こったといわれ、標高は、1251mで、関東平野にのぞんで突出している雄大な山容は、丹沢山塊東端の独立峰となっています。
 阿夫利神社は、古代からこのあたりに住む人達の心のよりどころとなり、国を護る山・神の山としてあがめられてきました。
 山野の幸をつかさどる水の神・山の神として、また、海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、庶民信仰の中心として、今日に及んでいます。
 山頂からは、祭りに使ったと考えられる縄文時代の土器片が多く出土していて、信仰の古さを物語っており、 仏教が伝来すると神仏習合の山となり、阿夫利神社は延喜式内社として、国幣(こくへい)の社となった。武家が政治をとるようになると、代々の将軍たちは、開運の神として武運長久を祈られました。
 引目祭・筒粥祭・雨乞い・納め太刀・節分祭・山開きなど、古い信仰と伝統に守られた神事や、神に捧げられる神楽舞・神事能・狂言などが、昔のままに伝承されており、全山が四季おりおり美しい緑や紅葉におおわれ、神の山にふさわしい風情で、山頂からの景色もすばらしく、多くの人達に親しまれ、常に参詣するひとが絶えません。


 通常参詣のための登山は、中腹700メートルにある阿夫利神社の下社まで。
豊作祈願、無病息災、商売繁盛などの祈願のため、「講元」さんとか「先導師」「先達」(せんだつ)さんなどと呼ばれるリーダーによる「大山講」という組織が関東一円にでき、白装束の行者姿で集団で参詣することが多かったらしい。古今亭志ん朝の噺によると「博打」の神様でもあり、鳶の頭など博打好きな町人なども盛んに参詣したようだ。大山までは日本橋から18里、約70km。
大山まいりは一般的には「5泊6日」のコースが多かったらしい。 当時の長旅では一日に十里(約40km)は歩いたらしいから、距離をかせぐ旅ではなく、じっくり時間をかけた参詣の旅だったわけだ。

当時の標準的な旅程を紹介しよう。
初 日:「お江戸日本橋七つだち~」ということで夏場なら午前3時頃に江戸を出発。大山街道を三軒茶屋・二子・溝ノ口と進み荏田か長津田宿で一泊。
2日目:下鶴間・海老名・厚木と歩き、伊勢原で二泊目。
3日目:目的の大山阿夫利神社に参詣した後、田村通り大山道で藤沢宿を目指し、夕方藤沢宿に着き三泊目。
4日目:江の島に入り江の島神社と岩屋を参詣した後鎌倉に向かい、鎌倉の寺と鶴岡八幡宮を参詣。その後、朝比奈切通しを抜けて金沢に向かい、六浦の景観を楽しんだ後、金沢八景の称名寺を参詣して、金沢宿で四日目の宿をとる。
5日目:最後の日は途中川崎大師を参詣して品川宿で五泊目の宿をとり、品川遊郭で精進落としをして、翌日江戸に帰ったようである。
ただし、四泊目あるいは五泊目は、落語のように神奈川宿泊まりというパターンも多かったのだろう。
*この旅程情報は「旧東海道の『今・昔』」という素晴らしいホームページ(http://www17.ocn.ne.jp/~ykhm-s/index.html)を参考にしました。

 旧暦6月27日から7月17日の間に参詣することを大山まいりと言うのが本寸法らしい。今年の旧暦6月27日は新暦で7月29日なのだが、今年は7月27日から8月17日が「夏季大祭」と神社のホームページに記されている。旧暦と同様、最初と最後を「7」につく日にして分かりやすくしているのだろう。

e0337777_11051581.jpg

歌川広重の「神奈川宿」(安藤広重、ではないのですよ・・・・・・)

噺の概要は次の通り。

(1)先達、熊に釘をさす
今年も大山詣りの時期が来たが、毎年喧嘩をして周囲に迷惑をかける熊五郎。先達さんから、もし喧嘩の原因をつくったら罰金に二分(一両の半分である)、あばれたら髷を切って坊主にすると釘をささされる。志ん朝は、この取り決めのことを「決め式」と表現している。

(2)案の定、熊が喧嘩。頭を丸められる
無事大山まいりも終わり、最後の神奈川宿。しかし案の定、熊五郎が原因となり風呂場で喧嘩発生。喧嘩相手は先達さんに苦情を言いに駆け込んできた。二分払うから熊の髷を切らせてくれ、とせがむ。しかし、先達さんはせっかく無事にお詣りも済んで後は帰るだけなので、熊を坊主にすることを渋る。さて、夕食で酒も入り先達さんが床についた後、おさまりがつかないのは熊さんに甚振られたままの面々である。気持ち良さそうに酔って寝ている熊さんを見て、酒の勢いもあるのだろう、熊の頭を丸めてしまう。

(3)熊、先に帰る
翌朝、一人宿に取り残された熊五郎。一計を案じ頭を手拭いで包み早かごで一足先に長屋に帰る。「講」のメンバーのおかみさんを全員集めて、「実は藤沢に泊まったあくる日にみんなで金沢八景を見物し、せっかくここまで来たんだから米が浜のお祖師様(横須賀の龍本寺)にお参りしようということになって、船に乗った。しかし急に雨風がきびしくなり、大波がきてその船がひっくり返った。みんな海に投げ出され、気がついたら助かったのはおれだけだった・・・・・・。」「おれだけ生き残っておめおめと帰れるものじゃねえ、死のうと思ったが、江戸で亭主の帰りを待っているおめえさんたちのことを思い、恥をしのんで帰ってきたんだ。」と言う。

(4)熊の大芝居
かみさん達は、普段「ホラ熊」とか「千三つ」と呼ばれている熊さんの言葉をを最初は信じない。そこで熊さんの一番の見せ場登場。「おまえさん達に知らせた後は、高野の山にでも登って死んだみんなの菩提をとむらうつもりで・・・ほら、この頭を見てくれ。」と手拭いをとる

(5)坊主の大量生産
おかみさん達、ふだん見栄っ張りの熊さんが髷を切って坊主になるくらいだから、この話は本当だろうと信じ、泣き叫ぶ。なかには、井戸に飛び込んで死のうとするおかみさんもいる。
ここで熊さんが「おまえさんたちも黒髪を切って尼になり、亭主の菩提をとむらっちゃどうだい」と言ったから、私も私もとかみさんたち全員が髪を切ってしまった。熊さんのおかみさんだけは無事!

(6)エンディング、サゲ
尼さんが集団でお経を唱えているところへ、品川経由で他のメンバーが帰ってくる。自分のかみさんの坊主姿に驚く亭主達、死んだはずの亭主を見て「幽霊!」と驚くおかみさん達、といった大騒動。
サゲは先達さんの言葉。「みんなお毛が(お怪我)なくておめでたい」

 この噺のお奨めは、やはり古今亭志ん朝。神奈川宿での騒動、そして後半の熊さんの大芝居からエンディングまでが山といえる。サゲは地口落ちの典型。この噺を軽快なリズムでテンポ良く聞かせる志ん朝の芸は素晴らしい。熊さんや先達さん、その他ご一行の演じ分けの見事さは言うまでもないし、おかみさん達の色っぽさがこの人ならでは。CDで聞いていて情景が浮かぶ。

 古いところでは長年に渡って落語芸術協会に君臨した春風亭柳橋(六代目)が、「昔はこう演じられていたのかぁ」という意味も含め味がある。熊さんは熊五郎ではなく熊吉。熊さんの大芝居の後にご一行が帰るくだりについては、品川で待っていても迎えが来ないので待ちきれず鼻歌まじりに帰る、と描写されている。その昔は、大山まいりでも、迎えの者が品川まで出向くのが本寸法だったのだろう。落語って本当に生きた歴史の勉強になるんだよねぇ。ほぼ江戸時代に限るけど。加えて大学受験にはまったく役に立たないけど・・・ね。

古今亭志ん朝_大山まいり
春風亭柳橋_大山まいり
# by kogotokoubei | 2008-07-25 08:56 | 落語のネタ | Comments(0)
e0337777_11051431.gif


特定の「落語会」の感想ではなく、一つの大きなムーブメントの終焉の先にある未来への期待を書きたいと思う。
大銀座落語祭が5年間の活動を終えた。そしてグランドフィナーレでの発表内容として、来年10月の宮崎での落語祭開催のことが、ニュースに流れている。
あくまでも“宮崎”は、六人の会あるいはプロデューサーである春風亭小朝の大戦略の“引き金”にすぎないと考える。あるいは、考えたい。

小朝は、2000年2月29日発行の『苦悩する落語』(光文社カップブックス)の冒頭をこう切り出している。
「平成十二年。噺家は、様々な不安と戦い、疲れ果てています。昔はそれを決して表に現さず、明るくふる舞うことがひとつの美学だったのかもしれません。しかし、あと一年で二十一世紀をむかえる今、和服を着て江戸の噺は語っているものの、噺家もあなたと同じようにストレスに苦しむ現代人なのです。もう限界ではないでしょうか。私の目にはそう映ります。五十過ぎの先輩たちのほとんどが、なんらかの持病に苦しみ、仕事が途切れることを恐れ、まったく予想のつかない未来に、ぼんやりとした不安を感じているのです。加えて、目標となる名人たちもこの世を去り、自分の力を十分に発揮できるような高座にも恵まれません。」

1970(昭和45)年に15歳で弟子入りし、十年後に36人抜きで真打昇進。1990(平成2)年には落語界初といえる博品館連続一ヶ月公演、この書を発行する3年前1997(平成9)年には、日本武道館公演も成功させていた。しかし、小朝には、落語界を憂う苦悩があったわけだ。当時はまだ古今亭志ん朝という大看板が健在だったにもかかわらず・・・だ。

さて、それから6年後に『いま、胎動する落語-苦悩する落語2-』が、「ぴあ」から発行された。2004年に大銀座落語祭を開始、2005年に義弟(当時)林家こぶ平の九代目林家正蔵襲名イベントなど、小朝が主体となってプロデュース役を担ってきたイベントも貢献し、、たしかに落語ブームはやってきた。同書で小朝は、2000年当時の状況をこう振り返っている。
「あのころの落語界は、ちょっと低迷していました。なにしろ、落語家が取り上げられるといえば、大概だれかが亡くなったときなんですよ。ほとんど明るい話題がないんです。」

だからこその銀座であり襲名イベントだったのでもあろう。木久扇・木久蔵のダブル襲名も小朝の後押しがあったようだし、いっ平の襲名も控えている。早めに発表してマスコミの露出を多くするという小朝の戦術も成功している。

同書では、六人の会を語る部分で次のような大構想が披露されている。
「僕の考えとしては、ゴールデウィークに銀座で開催して、七月は横浜というのもいいと思うんですよ。それと、前々から言っているんですけども、銀座、横浜だけじゃなくてですね、札幌それから大阪、名古屋、博多あたりで、同時にこれをやりたいんですよね。そうすると出演者が飛行機で移動ということになりますけども、二ヶ所くらいは何とかなりますからね。新幹線を使えば、うまくすれば三ヶ所行けるかもしれないでしょう。ちょっと酷かもしれませんけどね。で、そうなりますと全国的な落語祭りということになってきますから、本当にもう我々のスタッフだけでじゃだめなんですよ。実行委員会のメンバー、プラス、間に代理店に入ってもらったりとかね、そういうことになると思いますけども、行く行くは、そんな形になったらおもしろいなというふうに考えてます。」

来年は宮崎だけなのか?
小朝は2年前から心変わりしたのか?
東京のど真ん中に夏の盛りに五年に渡って数万人を集めることができ、落語界は安泰と納得してしまったのか。プレミアムチケットがオークションに流れ、落語がメジャーになったとでも思っているのだろうか。ちなみに私はオークションでは絶対買わない。買う人間がいるから落語ファンでもない人が買い占めるのである。


「多摩川」を越えてくれればそれで結構という落語ファンもいるし、北にも西にも中部地区にも銀座を遠くから眺め歯軋りした落語ファンが大勢いる。たしかに宮崎の落語ファンや、時間と金をかけて宮崎に行ける人は来年幸せだろう。でも、それはいわゆる「部分最適」ではないのか。「大銀座は終わった。これからは落語ブームが定着するだろう」ということで、お祭りを毎年全国にローテーションさせようという計画なのだろうか。

あえて言いたい。「大銀座」は“象徴”であり、大アドバルーンだった。それをしぼませて再度復活するだけの体力は、まだ落語界にはない。ある特定の噺家のチケット争奪戦が続くだけである。可能性を秘めた二つ目が数多く登場しているニフティのポッドキャスト落語は存続の危機を迎えているようだし、一つのネタをじっくり聞かせる(見せる)テレビのプログラムはいまだに限られている。都内に4つしかない寄席が増えることは、まず想像できない。
「大銀座」が「日本全国」落語祭に発展して初めて、これも小朝が著作の中で提起したような寄席やマスコミの改革にもつながるはずである。国が保護しなければならないような「古典芸能」化を防ぎ、落語を生きた庶民の地平に引きとめたまま、寄席も改革され活気づき、テレビでは、どのチャンネルにも溢れる「お笑い芸人タレント番組」の一部に替わって、粋な落語家が江戸庶民の知恵を語るような番組に登場したり、今以上に多くの落語会が放映されるような改革が。

小朝、志の輔といった六人の侍が5年間に果たした役割は小さくはない。それは十分に認める。しかし、ブームはいつかは去るものであり、熱い思いは時がたてば冷めるものだ。せっかく上げたアドバルーンである。銀座を“あとの祭り”にせず、“あとにも祭り”にしてくれることを強く期待したい。

春風亭小朝_いま、胎動する落語
春風亭小朝_苦悩する落語
# by kogotokoubei | 2008-07-22 16:27 | 寄席・落語会 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛