噺の話

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 大正六年に勃発した東京落語界の戦国模様について、暉峻康隆さんの本の続きの前に、別の本からも、百年前の様子に関する記述を引用しておきたい。

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今村信雄著『落語の世界』(平凡社ライブラリー)
 今村信雄著『落語の世界』に「三派に分裂」という章があり、東京寄席演芸株式会社(会社)側と落語睦会(睦会)との争いの状況が、興味深く書かれている。

 会社創立の理由は種々あったが、根本は落語家の月給制度であり、睦会の反対理由もやはりそこにあった。睦会側は普通では会社側に及ばないと考え、伊藤痴遊に応援を頼んだ。ところが会社側に貞山が加わったので、睦会では伯山を応援に頼むというわけで、両軍しのぎを削ってゆずらなかったが、面白いのは、顧問弁護士に会社側が鈴木富士弥氏を頼めば、睦会では三木武士吉氏を頼むという具合だった。

 同書の注を元に何名かについて補足する。
 伊藤痴遊は、元自由民権運動家で、明治の元勲らを題材にした新講談を得意として人気のあった人。
 貞山は、六代目一龍齋貞山で、「義士伝」など本格講釈の名手。
 伯山は、三代目神田伯山。「次郎長伝」で人気だった。

 暉峻さんの本では、この弁護士や講釈師における両派の対抗の姿は書かれていなかったので、この本で知り、あの戦国の様子が、より理解が深まった。

 そして、戦いが上方をも巻き込んでいったことについて、次のように書かれている。

 この競争は大阪にまでのびて、会社側は三友派の紅梅亭と手を結べば、睦会では反対派の吉本花月亭と提携、会社派が飽くまで本格の芸を看板に進めば、睦会はどこまでも陽気に、踊れる者は落語のあとで必ず踊るという方針にした。

 三友派と反対派、そして反対派と手を握った吉本については、以前何度も書いた通り。
 NHKのあの番組からはサヨナラしたので、今どうなっているか分からない。きっと、綺麗ごとばかりなのだろう。
 三友派との戦いをしていた吉本せい、そして吉本興業は、大正前半には、東京の戦争にも敵の敵は味方、として担ぎ出される存在になっていた。

 今村信雄の父親、次郎もこの戦いにどっぷり浸かっていた。

 そのうちに会社側が弱ったのは、睦会のなかに会社の株券を持っている者がいて、株主の権利とたてにとって会社の帳簿を調べに来ることで、その結果、会社側の芸人の月給がすっかりわかり、睦会ではそれ以上の金を出して買収にかかった。会社の重役は鈴木顧問の意見を容れて株式会社を解散して合資会社に改めた。その際、今まで主事として頼んでいた今村次郎を代表社員に就任せしめ、無限責任者には、小さん、円右、円蔵、貞山、鈴木富士弥、京橋の金沢亭、神田の立花亭、両国の立花亭等、有限写真としては本郷の若竹、上野の鈴本、人形町の鈴本、浅草の並木、四谷の若柳、金馬、つばめ、文治、円窓、小円朝、小勝、英昌、三語楼、貞吉、岡鬼太郎であった。
 さすがに、お父上が会社側の代表社員であっただけあり、詳しい。
 ちなみに、金馬は二代目、つばめも二代目、文治は八代目(山路の文治)、円窓は後の五代目円生、小円朝は二代目、小勝は五代目、三語楼は初代である。

 すでに「三派」という言葉が出てしまったが、あらためて、ここからは、前回の続き。

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暉峻康隆著『落語の年輪-大正・昭和・資料篇』(河出文庫)

 前回は『落語の年輪』より、東京寄席演芸株式会社と睦会の争いが激しさを増し、事態は訴訟にまで発展したところまで紹介した。

 では、その訴訟の理由から再開。

 その理由は、会社を設立した立花亭が小柳枝は月給六十円、しん馬は二十五円と定めて、八月から原告指定の寄席に出演すべき雇傭(こよう)契約を結び、すでに広告までしたにもかかわらず、両人は反対派の寄席に出演したために、円歌・りう馬の二人を臨時にやとい入れて穴埋めしたが、顧客の攻撃ははなはだしく、すくなからざる損害および名誉を傷つけられというにあった。会社派を睦派の芸人争奪戦が表沙汰になったわけである。
 要するに古典派とか新作派とかいう傾向によるグループの結成ではなく、主として利害と派閥による団体であるから、動揺がはげしいのも無理はない。なお十一月には金原亭馬生(五代目古今亭志ん生)も会社を脱し、“睦会”へ移っている。
 
 この小柳枝は三代目。会長となった師匠の四代目柳枝について睦会に入った人。その後、五代目を飛ばして六代目柳枝となったのがこの人。
 当時馬生だった志ん生は、まだ人気が出る前。いずれにせよ、あの方に月給をもらう姿は、似合わないね^^
 次のように、会社派と睦会の噺家争奪戦は、相当激しかったんだ。
 会社側と睦会の競争は、いよいよ激しさを加え、十月になると寄席演芸会社は大阪へ手をのばし、紅梅亭へ芸人の交換を申しこんだ結果、七代目桂文治門下の桂米丸が一ヵ月の約束で上京したが、そのまま東京にとどまることになり、翌七年の春、矢の倉の福井楼で桂小文治を襲名したのが、後の“芸術協会”の最高幹部の小文治である。このとき米丸とともに上京した大阪の咄家で、橘ノ円(まどか)門の橘家円歌は、談洲燕枝、師匠の円、先代三遊亭円歌、円子(えんこ)、馬生その他の宴会で、橘家と三遊亭と亭号はちがうけれども、円歌が二人あってはややこしいから改名してくれという燕枝の要請にしたがい、師の円と相談の上で、橘ノ円都と改名したといういきさつは、昭和三十九年(1964)二月、神戸市灘区に八十二歳で健在であった円都師よりの私信で知ることができた。その私信は、巻末の「年譜考証」の最初に資料として転載しておいたから、参照していただきたい。

 ワァを! である。
 まったく予期していなかったが、二代目小南の記事で書いた、小南の上方咄の師匠、橘ノ円都のことが書かれているではないか。

 こうなると、巻末の資料を見ないわけにはいかなくなる。

 暉峻さんは、落語の通史を書くため、当時ご健在だった多くの噺家さんにアンケートを送っていた。転載された内容の前に、暉峻さんはこう記している。

 なお橘ノ円都さんからのアンケートに対する返事はわざわざ封書で、自分が橘家円歌を橘ノ円都と改名するに至った事情や略歴がしたためてあり、かけがいのない資料と思うので、とくに転載することにした。昭和三十九年当時、円都さんは八十二歳、すでに引退して発信先は神戸市灘区深田町五ー二十九であった。

 ちなみに、本書の初版は昭和53(1978)年である。

 円都師匠の手紙の内容は・・・別途、この方について書く際にご紹介したい。

 ますます、この人のことをもっと知る必要性を感じている。

 さて、初代小南を睦会が呼び、その後に小文治となる米丸や円都を演芸会社が呼ぶ、という上方の噺家をも巻き込んだ派手な戦いは、相手がやるならこっちも、という終わりの見えない泥沼の様相。
 一方睦会の方でも、人寄せに狂奔し、会社の月給制とちがって、うちはワリ制度だから、腕次第で客さえふえればいくれでも収入がふえるという口実で誘いをかけたので、腕に自信のある咄家が睦会に心をひかれたのも自然のなりゆきであった。翌大正七年四月に、柳亭燕枝と小燕枝改め六代目林家正蔵が睦会に移ったのは、その一例である。また会社側の顔付けをしていた二代目三遊亭金馬が会社を辞任したのは、その翌五月のことであった。

 これだけ会社側から噺家が離れていっては、株主の中にも、不安が広がるのが道理。
 そうこうしているうちに、十一月になると鈴本一派と京橋金沢亭が寄席会社から脱退し、“落語席中立会”を設立した。このため会社側は中立会を憎み、かえって一ヵ年間も敵視してきた睦会とよしみを通ずることになり、円右を相談づくて睦会へ貸し、横浜の新富亭で三本に一本は会社側が興行することになった。
 一方中立会では、主要な看板どころの真打連は、おおむね会社・睦に属しているので形勢がふるわない。そこで体制の立て直しを図り、翌大正八年(1919)の春になると、柳派の五厘大与枝を主任にかつぎ上げて、寄席会社と同様に月給制で芸人を集め、会名も“誠睦会”と改めたが、形勢は依然としてふるわない。
 この後に、五厘の説明があるが、割愛。

 会社が睦と手を握ったのは、“敵の敵は味方”ということだなぁ。
 さて、二十八の寄席の席亭が結束した設立したはずの演芸会社だが、席亭たちの足並みが揃わなくなり、まさに群雄割拠、なるほど戦国時代の様相。
 こうなると、漁夫の利を得ようとする者が現われるのは、歴史の必然か。

 するとそこへ、神戸の興行師吉原政太郎が上京し、東西芸人の融和を図るという名目で誠睦会に働きかけたので、たちまちこれと結んで、“東西落語会”を作り上げた。そこで鈴本一派は勢いを得て、寄席会社の転覆をくわだて、第一着手に小さんに白羽の矢を立て、弟子の燕枝に泣きを入れさせて、首尾よく鈴本へ小さん燕枝親子会の看板をあげることに成功した。
 小さんは、もちろん名人と謳われた三代目。寄席演芸会社の無限責任者の一人なのに、会社を脱退して鈴本が中心となって作った誠睦会の芝居に出るとはなぇ。

 ついに、三派に分裂し、上方の芸人や興行主まで巻き込んだ、百年前の東京落語界。

 今回は、このへんで、お開き。
 三代目の小さんが誠睦会の芝居に出た後のことは、次回のお楽しみ。

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# by kogotokoubei | 2018-02-09 08:30 | 江戸・東京落語界 | Comments(2)
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暉峻康隆著『落語の年輪-大正・昭和・資料篇』(河出文庫)
 初代桂小南のことを書いた記事の中で紹介した、暉峻康隆さんと文楽の会話で、東京寄席演芸株式会社と睦会のことが話題になっていた。

 私のブログは“芋づる式”なので、この大正六(1917)年の東京落語界の出来事が気になり、同じ暉峻さんの『落語の年輪(大正・昭和・資料篇)』で確認した。

 今からほぼ百年前に、こんな状況があったのだ。

 “落語研究会”が支えとなって、小康を保っていた東京落語界も、大正六年八月に“東京寄席演芸株式会社”が設立されたのをきっかけに、落語史上またとない戦国時代がおとずれることとなった。

 落語界に“戦国時代”という言葉は、なんとも不自然な印象なのだが、いったいどんな戦国だったのだろう。

 この演芸会社の株主は、神田の立花、白梅、下谷の鈴本、人形町の鈴本、末広、京橋の金沢、浅草の並木、両国の立花、麹町の青柳をはじめとする落語二十八軒と、小さん、円右、燕枝、小勝、円蔵らの咄家連で、柳・三遊派と契約して、新たに月給制度を採用するという新体制であった。内輪もめの連続で、一年あまりで解散してしまったが、月給制度の会社組織に踏み切った理由は、つぎのようなものであった。
 それまで寄席と出演者の取り分は、長年の習慣で歩合制せあった上に、掛持ちが多いので席を空ける咄家が多く、しかも高座の時間は十分か十五分、といえば今のラジオのコマ切れ落語なみで、中には都々逸の二つ三つもうなって下がるという咄家も出る有様、これではとうてい落語のみで客はひけなくなるという判断にもとづき、団結して会社を組織し、給料を定めて十分に技術を発揮させようというのであった。
 まず、大正六年時点で、この株式会社設立に賛同した寄席だけでも二十八軒あった、ということに、時代の流れを強く感じる。
 この寄席側の思い、分からないではない。都々逸の二つ、三つの高座では、席亭も怒って当然。
 さて、その後、どうなったのか。

 ところが八月上席から、その制度で興行をはじめてみると、内外の苦情が持ちあがり、現在株主たる席亭の中にさえ、折を見て脱会しようとする者があらわれ、左楽のごときは高座で反対を唱える始末であった。

 いったい、どういった問題や苦情が持ち上がったのか。
 契約をした者が、上席の給金を受け取ったままで出演しなかったり、柳枝、小柳枝、年枝、錦生などは、公然と反旗をひるがえし、寄席会社は出発と同時に大騒ぎとなった。生活の保証は腕次第という咄家にとって、安定した月給制度は一応妙案ということになる。しかし一面、天狗の多い咄家のこだから、査定された月給に不満を持つのも当然だし、また腕に自信のある咄家は、月給でしばられて稼ぎを制約されるのは不満であったろう。また席亭にしても、出演者の顔付けは会社から一方的におしつけられる制度では腕のふるいようがなく、これまた不満組が出たのはやむをえない。
 とくに後押しする野次馬もあらわれて、月給に対する不満組が結束し、会社に向かって月給三割増しと要求した結果、一割五分増しで妥協したが、さらに三ヵ月分の給金前払いを要求する者もあらわれる始末であった。

 なるほど、そういうことだったか。
 会社と労働組合との争議、と見られないこともない。
 労使対決で済んでいればまだしも、もっと大きな騒動に発展する。
 一方、反対派は寄席会社が発足した同じ大正六年八月一日に、神楽坂上の演芸館に集合し、三遊・柳両派を存続せしめて旧慣を重んじ、寄席とも協定して円満に落語の改革を図ることになった。柳派の頭取の柳枝をはじめ、雷門橘之助、円遊その他六、日十名が調印して会社へは辞表を出し、政治家の三木武吉氏を顧問として、“落語 睦会”を結成した。会長は五代目柳枝、副会長は五代目柳楽と決定し、同時に睦会の強化を図り、同月中旬に大阪から桂小南を迎えた。
 小南の名も、登場。
 睦会の会長を「五代目柳枝」としているが、正確には後に初代春風亭華柳となる「四代目」の間違いだろう。
 実は、柳枝に五代目は存在しない。俗に「横浜の柳枝」と呼ばれる六代目柳枝が、左楽と同じ五代目では畏れ多い、と代を一つ飛ばしたのだ。
 睦会副会長の、その五代目柳亭左楽は、後に文楽が慕う人物。
 随分前になるが、左楽については書いたことがあるので、ご興味のある方はご参照のほどを。
2010年3月25日のブログ
 また、睦会の顧問役となった三木武吉は、鳩山一郎の盟友として知られた政治家で、1955年の保守合同実現の立役者とも言われている。映画『小説 吉田学校』では若山富三郎が演じていた。 
 そんな政治家まで担ぎ出して会社側に対抗する組織が出来上がった東京の落語界は、激しく戦国の様相を示していく。

 月給制の寄席会社に対して睦会が設立されると、落語界の動揺はいよいよはげしくなっていった。
 会社が発足してからまもなくの大正六年八月二十一日には、会社の重役の一人である神田立花亭こと大森竹次郎が、浅草山の宿(やまのしゅく)の春風亭小柳枝こと松出幸太郎と、下谷西町二丁目の立花家橘之助(浮世節)方の古今亭錦生改め古今亭しん馬の二人を相手取り、東京地方裁判所に演芸債務不履行および損害賠償金五千円の訴訟を提起するにいたった。

 さぁ、訴訟勃発。
 立花家橘之助“方”の志ん馬は、俗に「横浜の志ん馬」と言われた四代目で、昨年、橘之助の浮世節家元の看板の変遷について書いた記事で紹介した、寄席文字の橘右近さんの本『落語裏ばなし』に登場する。昨年二代目橘之助襲名が実現したことに、この志ん馬さん、結構貢献している。
2017年1月7日のブログ

 さぁ、寄席演芸会社と睦会が並び立った、東京落語界の“戦国時代”、その後どんな様相を示すものやら。

 今回は、ここらでお開き。次回をお楽しみに。
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# by kogotokoubei | 2018-02-08 12:18 | 江戸・東京落語界 | Comments(0)
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暉峻康隆『落語藝談』(小学館ライブラリー)

 長々と二代目桂小南の『落語案内』より、小南の半生について書いてきたら、どうしても、初代小南のことが気になってきた。

 まず、当時の金太郎に二代目襲名を許した文楽が、その師匠のことを語っている本を読むことにした。

 では、暉峻康隆さんとの対談集『落語藝談』より。

文楽 父が亡くなったので、私は小学校を三年でやめたんです。九つか十でしたろうか。しばらくボンヤリ家で暮らしていると、おふくろの二度目の、つまりコレ(亭主)ですめ。コレなるものが昔でいう次男、三男ですよ。道楽者で、三味線の一つも弾いて、頭がはげている、はげているけれども、鼓の一つも打ったりなんかするという道楽者ですよ。それと古着屋をしている私の知り合いの人がいて、それが落語のほうの縁引きー落語界に商いに行って出入りしていた。はなし家のみなさんの寄り合いがあると、そこへ「いかがでしょう」というやつですよ。そうすると、それがいまの小円朝さんのおとっつぁんが会長している時分ですから。
暉峻 先代小円朝さん(大12・8・13没。円朝門の古老、三遊派頭取)は頭取でした。
文楽 そうでした。その時分「頭取」といっていました。その縁引きで、大阪から来たばかりの桂小南(昭22・11・21没)というはなし家に、その人と親父の世話で、あたくしは弟子入りしてはなし家になったというわけです。どうです、筋が通っていましょう(笑)
 なるほど、こういう背景、いきさつがあったんだ。
 それにしても、“はげているけれども”鼓や三味線をたしなむことに文楽が疑問を抱いているようなのは、果たして“筋が通って”いるのかどうか^^

暉峻 大正六年ですね。落語睦会(大6・8・1結成。五代目柳枝が会長、五代目左楽が副会長)が桂小南を迎えたのは。
文楽 その睦会へ迎えた前です。あたくしが弟子になったのは。-睦会じゃないでしょう。
暉峻 東京寄席演芸株式会社(大6・8神田の立花、人形町鈴本など寄席二十八軒と小さん、円右、燕枝、円蔵らを株主として発足。月給制を志向する)というのがあって・・・・・・。
文楽 睦会かな。とにかく小南さんがそのときによしましたんです。睦会ができる前に。自分が営業をよしちゃった。小南さんはいいお客さんがありましたから。

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 文楽の記憶が曖昧なようなので、『古今東西落語家事典』を開いて確認。

 文楽については、こうなっている。

 明治四十一年初代桂小南に入門し小莚の名を与えられた。同四十三年二ツ目に昇進したが、その後小南が大阪に帰ったことから旅廻りをし、一時名古屋の三遊亭円都門で小円都を名乗った。


 次に初代小南。
 ちなみに、上方ではなく「江戸・東京」の落語家として載っている。

 小南は、明治三十八年に師匠の南光(二代目、のちの桂仁左衛門)のあとを追って上京したが、その後のこと。
 
 羽振りがよかった野心家の小南は、三代目三遊亭円橘(塚本伊勢吉)、月の家円鏡(伊藤金三)らとともに三遊派を脱し、三遊分派をつくったが、座組(出演者の顔触れ)に変化がないので、しだいに客に飽きられ、仲間の信用を失ない、多額の借金を背負い、追われるように地方巡業に出た。旅は失敗の連続で、小南は大阪に帰った。
 しかし、大正時代に席亭と噺家が東京寄席演芸株式会社を設立した際には、小南の人気は魅力があり、反対派の睦会に呼ばれている。その後も、ほぼ東京に在住して、新睦、扇風会などと転々とし、震災後も睦会から東京落語協会へ移るなどしているうちに、だんだんと看板も下がり、晩年は人気がすたれ、不遇のうちに歿した。

 となっている。

 だから、睦会も寄席演芸株式会社も大正に入ってからであって、文楽の入門は、それ以前の明治末。

 文楽も暉峻さんも、やや勘違いしたままの会話だったようだ。

 さて、『落語藝談』に戻る。

暉峻 ところで最初のお師匠さんの桂小南さん、この人は電気踊りの「奴凧」で売り出した。
文楽 ええ、「奴凧」の電気踊り、「夜這星(よばいぼし)」、それから獅子頭をもって踊る「勢獅子(きおいじし)」。獅子の頭へ豆電球をつけて、踏み線といいまして、今から見るとなんでもないことなんですが、その時分、実にたくさん客を取りましたね。足袋の裏底に、こういう横の線が縫いつけてあって、舞台にも線が引いてある。舞台の線とこの線とがこう合うとパッと電気がつくわけです。
暉峻 そうすると、踊りながらピカピカするわけですね。
文楽 ちょうどサワリのところへきて、見えになるところで踏むとパッとつく。これでどのくらい客を取ったか。それも素人で、研究心があるんですね。そういうような頭があった人ですよ。なるほど、東京へきて売れるわけだということは、わかりました。
暉峻 咄はどうなんですか。
文楽 咄は、今でいえばたいした人ですね。つまり、大阪でふつうの修業をしたはなし家ですよ。けれども踊りで売り出した。「松づくし」をやって、一尺ぐらいの一本歯の下駄をはいて、碁盤の上へその一本歯でこういうふうにして(立ちあがってしぐさをする)足の親指と人差指のあいだに扇子をはさんで、はち巻きして、ここへもはさんで、こうもって「松づくし」を踊る。それから「与三郎」とか、そういう粋なものね。それからまた二枚扇を使う、上品な踊りも心得ているし、第一芝居咄がうもうございましたね。だから鳴りものがそっくりはいっている。
暉峻 鳴りもの入り芝居咄ですね。
文楽 だから連れ下座していました。お囃は東京のお囃じゃ勤まらない。だから大阪から連れてきた。それでずいぶん客を取りました。それでふしぎに、これがいけないことだったんでしょうけれども、その時分の芸能人というものは、俳優といい、なんといい、みんなそのたぐいでした。
暉峻 やっぱりね、咄だけではなくて。
文楽 まあ、いえば、名利の悪いことばかりでしたよ。ですから、それをあたくしはお手本にしていました。ああ、いくら自分が出世しても、こういうことはいかんことだと。
暉峻 つまり、一種のゲテものだということですか。
文楽 つまり一種の横暴ですね。横車。横車でも、すべてが通っちまうんですから。
暉峻 うぬぼれですか。
文楽 ですから、いくらあたくしが世の中へ出ようが、この真似だけはしたくないと思っていました。いまだにそのとおりいっていますよ。
暉峻 ところでね、小南さんに前座ではいったとき、文楽さんの芸名は小莚(こえん)ですね。小南さんが小円朝さんと旅回りに出て、そのあいだ文楽さんは、名古屋に行ったことあるでしょう。名古屋の橘の円都(大阪の落語家。橘の円の門人)さんを頼って。
文楽 それはね、つまり小南さんがよしちゃったわけです。会社ができたために。いままで売れていて・・・・・・月給取りになるのはばかばかしいでしょう。そうなると自分はよしたいというので、いいお客もあったしするから、大阪へ帰っちゃった。弟子はみんなクビですよ。それであたくしが名古屋へはじめて旅に出たわけです。
 
 やはり、文楽の話は、寄席演芸株式会社発足が、大阪へ帰った理由となっているが、それは、文楽が名古屋に旅に出た時期より後のことなのだ。

 まぁ、そういう記憶違いは、さておいて、ここでも橘ノ円都の名が出てきた。
 とはいえ、この名古屋への旅で円都との詳しい交流は書かれていない。
 名古屋では、小金井蘆洲の名人芸に触れたことが、文楽の芸に大きな影響を与えたようだ。

 いずれにしても、初代小南という人は、一時期爆発的な人気を得、多くの固定客がいたようだが、いわば、うぬぼれが強すぎて、所属も頻繁に替え、最後はあまり幸せとは言えなかったようだ。

 歴史に名を残す名跡ではあるが、高座の話芸ではなく、電気踊りなどの演出の妙で特筆される芸人さん、ということか。

 文楽は、最初の師匠小南には、結構複雑な思いがあったかもしれない。
 早い話が、弟子を見捨てる師匠だったのだから。

 とはいえ、一時は「八丁あらし」と言われた人だ、尊敬もしただろう。

 では、なぜ、その名を協会も違う金馬門下の山遊亭金太郎のい与えたのか。

 初代小南は、上方出身で東京で活躍した。
 同じような経歴を持つ金太郎に相応しいと考え、名を譲ったのではなかろうか。

 そんな気がしている。

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# by kogotokoubei | 2018-02-07 12:27 | 落語家 | Comments(0)
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桂小南著『落語案内』(立風書房)
 この本からの、八回目、最終回。

 大阪で橘ノ円都や、文の家かしく、桂文団治などから三ヵ月に渡り集中して上方落語の稽古をつけてもらった金太郎。
 しかし、東京ですぐに上方落語を演じるわけにもいかなかった。まだ、自分のものになっていなかったし、東京の寄席の客が上方落語を受け入れるかは疑問だ。

 仕方がない。東京では、それまでの咄を慰安会などで演ってました。
 そして寄席では、相も変わらず予備でね。
 もう決心するよりない。
<大阪落語しか生きる道はない>とね。
 一日、十席の上方咄を稽古することにしました。
 表を拵えましてね。覚えて来た咄の題名をずらっと紙に書き連ねまして、稽古すると、その題名の上に一の字を書く。つまり正の字を書こうというわけです。
 百幾つありましたね。
 さ、壁に向かって稽古をはじめました。
 朝、目が醒めたら三席。飯食って二席。寄席へ行く前にやる。寄席から帰って二席。寝る前に二席。これで十席。
 でも、一日十席はきつかったですねえ。
  (中 略)
 浦和には、柳家金蔵、本名を中村良三。上方落語の出身で、金語楼師匠の番頭をしていた人です。ここを訪ねて七つか八ついただきました。
 これがきっかけで、円都師匠も、金蔵師匠も、「わしも、もういっぺん落語やってみる。できるわなア」と、大阪で復帰されました。
 おかげさまで、円都師匠は、長生きされ、幸せな晩年を過ごされました。
 考えてみますと、あのままやめてたら、ああいう幸せな、ニコニコとした高座はみられなかったんじゃないかと思います。
 さ、この稽古が実を結びました。

 一日十席の稽古とは、凄い。
 また、金太郎へ稽古をつけたことから円都が現役に復帰したことは、ご本人のみならず、上方の噺家への芸の継承の面でも大きな副次的効果だったと言えるだろう。

 まずは、色物扱いであっても、高座で上方咄を演る機会ができたことは、金太郎にとって、大きな前進。

 一番受けたのが『ドクトル』という咄(奇病にかかった男女と医者の咄)。
 いま思えばくだらない咄なんですが、お客さんが引っくり返って笑うんです。
 なぜ受けたか。どうも一生懸命演ったからなんでしょう。夢中で演ったからでしょう。
 楽屋でも、あんな面白い咄があったのかと皆が驚くほどでしたからね。

 この『ドクトル』は、私が小南治を初めて聞いた際のネタだ。
 2012年の12月、横浜にぎわい座での「芸術祭受賞者」の会だった。
2012年12月1日のブログ
 あの時の小南治の高座は、上述のようなバカ受けはしていなかった。
 当時の記事にも書いたのだが、今の時代にあの内容をそのままというのは、無理がある。
 もう少し現代風にアレンジする工夫が欲しかった、という印象。
 当代小南、昨年の襲名披露以降は聴いていないので、そのうち、ぜひ彼ならではの小南落語を聴きたいものだ。

 さて、その『ドクトル』のこと。

 それが、三月くらい経つと、受けなくなるんです。
 そういうものなんです、落語というものはね。
 無心で演っているうちはいいが、こうすればもっと受けるだろう。こうしたらもっと面白くなるだろうと、つまり邪心が入るから、咄に理屈がつく。これがいけません。
 それだったんですね。つまり、受けなくなったのは。

 この受けようとする“邪心”と、咄を今の時代に相応しいものとするための“工夫”は、似て非なるものだ。しかし、工夫が度を越すと、ウケだけを狙う理屈っぽい咄にしてしまう。
 また、特定の時代に合わせて作られた新作落語は、その分、時の経過によって内容と環境との乖離が大きくなる。
 たとえば、小南の十八番の一つ『ぜんざい公社』を例にとると、今の時代なら、もっと改作の余地があるように思うが、大胆に改作した高座を聴いたことがない。
 それは、噺本来が持つ可笑しさを、下手な改作で壊したくない、という気持ちも働くからだろう。この辺は、難しいなぁ。

 さて、金太郎は、その頃、あの文楽から呼ばれた。
 
 飛んで行きましたよ。文楽師匠の側なんかちょっとやそっとでは行けませんからね。ましてや落語協会といって、協会が違うんですから。それが向うから声をかけてくれた。
 行ってみると、
「お前さんが上方咄をはじめた。まことに結構だ。ついては、大阪へ五、六年行ってみたらどうだい」
 という話。
「はい・・・・・・」
 とは、いったものの生返事。そりゃあねえ、自分一人の生活なら、どうにでもなりますが、所帯はあるし、小さいながらも本屋をやってましたんで、俄かに決心がつきません。
 つまるところ、金馬師匠のところへ相談に参りました。
 と、師匠がいいました。
「東京で本当の大阪落語は受けないよ」
 ここが金馬師匠です。ちゃんと見ているんです。
 東京で生の大阪落語を演っても駄目だ。お前の思うようにやってみろというんです。
 と、いうのは、師匠は、江戸落語であって江戸落語でないような咄をずいぶん演りましたからね。
 ですから、北は北海道から南は九州の、どこへ行っても、客を外しません。大阪なんかには一番行ってたでしょう。東京の落語家としてはね。
 それで、文楽師匠に、
「師匠にこんなふうにいわれましたので、東京でやってみます」
 と、返事をしたんです。
 文楽師匠は、一言、「そうかい」といわれただけでしたね。
 この時、文楽は、なぜ金太郎をわざわざ呼んで、上方へ行くことを勧めたのか・・・・・・。
 金太郎のことを認めていたが、まだ、本物の上方落語とは言えない。だから、彼が本気で上方落語を演りたいのなら、金太郎のことを思い、誰かを紹介して上方で修業させようとしたのだろうか。
 実は、文楽とのこの時のやりとりは、その後、大きな実を結ぶ伏線とも言える。

 京都生まれで、最初は東京落語を覚え、その後、三ヵ月の猛稽古で上方落語を覚えたとはいえ、金太郎の落語は純粋な上方落語とは言えなかった。

 そうなのです。私の咄は、私の上方咄。
 ですから、私は、場所によっては、関西弁をより多く使うようにしたり、東京弁でやったり、土地土地によって変えて演っています。
 (中 略)
 さて、芸術協会の二ツ目を六年ばかりやってまして、そろそろ真打ちにという話が出て来ました。
 真打ちになるならいい名前を継ぎたい。そのこと右女助師匠が、三升家小勝を襲名しましたので、右女助が空いてる。これを継げればと思って、金馬師匠に相談すると、
「右女助なら並河君(文楽師)のとこだから話してやろう。その前にいっぺん様子を見に行って来い」
 という。
 早速、文楽師匠のところへ行きまして、
「右女助をいただくわけにはまいりませんでしょうか」
 と、おそるおそる、おうかがいを立てました。と、文楽師匠が、
「右女助?お前なら小南をやるよ」
 というんでしょう。
 驚きましたよ。
 桂小南といえば、文楽師匠のそのまた師匠の名前ですからね。
 それはもう、大変有難く頂戴して、金馬師匠に、
「小南をいただいてきました」
 といったら、
「小南をねえ。よくくれたなア」
 驚いてましたね。
 小南を襲名して真打ちになったのが、昭和三十九年九月です。
 ときに、文治、柳昇、小円馬、夢楽、柳好さんも一緒に昇進しました。
 いまは、大勢で真打ちになることも珍しくありませんが、当時は異例でした。
 初代桂小南は、東京生まれだが幼少時に大阪に移り、二代目桂南光に弟子入り。師匠の上京を追いかけて東京にやって来たが、上方落語が受けないため、独自の「電気踊り」を考案して人気が爆発し、「八丁あらし」と呼ばれた人だ。
 
 文楽が、その師匠の名を、協会も違う金太郎に譲ったのは、やはり、彼のことを評価していたからとしか思えない。
 襲名後、二代目小南は、順調にその名を高めていった。

 以来、少しづつですが、上方の大きな咄に取り組み、おかげさまで、四十三年に『三十石』で芸術祭奨励賞。四十四年に『菊江の仏壇』『胴乱幸助』『箒屋娘』で、芸術祭大賞をいただきました。五十六年にも芸術祭奨励賞をいただきました。
 その後も、私の落語を集めた本やレコードを出していただき、独演会、地方の学校廻りも続けさせていただいております。 弟子も、文朝と南喬が真打ちとなり、以下、南治、南なん、南てん、南らくと、まアまアいい弟子揃いです。
 早いもので、落語家になって四十六年、歳も六十を数えるところまで参りました。
 これを機会に、なお修業するつもりでおります。 
 噺家には終点というものがございませんので。

 この本の出版は、昭和57(1982)年。
 その後、平成2(1990)年に紫綬褒章授章。平成8(1996)年5月4日に七十六歳で旅立った。
 弟子の文朝、南喬は、その後、芸術協会から落語協会に転じた。
 昭和59年の騒動についご興味のある方は、以前の記事をご覧のほどを。
2014年3月5日のブログ

 南てんは、その後師匠の最初の名、山遊亭金太郎を名乗った。
 南らくは、南楽を経て小南治となり、昨年三代目小南を襲名したのは、ご存知の通り。


 つい、八回に分けての紹介になったが、あくまで、これは、「第二章 私の落語修業」の内容をかいつまんだのみ。
「第一章 寄席ばなし」は、落語を知りたい方への良き入門書になるし、「第三章 芸談よもやま」では、落語をより寄り深く知ることができる。「第四章 忘れえぬ芸人」には、小南ゆかりの人々の興味深い逸話などが紹介されている。

 この本、三代目小南が誕生したこともあるし、ぜひ、どこかの文庫で再刊を期待するなぁ。

 長らくのお付き合い、誠にありがとうございます。

 二代目小南の物語、これにてお開き。

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# by kogotokoubei | 2018-02-05 12:45 | 落語の本 | Comments(2)
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桂小南著『落語案内』(立風書房)
 この本からの、七回目。長くなったものだ。
 
 小文治の身内となって芸術協会の寄席に出ることができたものの、外様としての扱いもあって、次第に心が萎えていった金太郎の姿を師匠の金馬はしっかし見ていた。
 そして、上方落語をやれと言い、自分が大阪について来させた。

 さて、大阪に着きました。
 着いたら、大阪に噺家がいないんです。
 当時、大阪の落語界は全滅状態だったんです。
 事実、大阪の人でさえ「大阪落語は終わった」といってましたからね。
 とにかく若手の二、三人が細々とやってり有様でした。
 大阪は漫才王国ですから、落語なんか相手にしないんです。でも、寄席というからには落語も必要だ。なら、東京から看板の師匠を一人か二人呼べばこと足りるというので、大阪の師匠を呼ばない。


 金太郎の大阪行きは、昭和30年前後かと察するが、その後上方四天王と呼ばれる人々も、まだそれぞれがもがいていた時期だ。

 上方落語協会は、昭和32年の発足。
 協会発足当時の状況については、60周年を迎えた昨年、記事を書いた。
2017年4月3日のブログ

 その記事でも紹介したように、初代会長は三代目染丸。
 四代目染丸や、将来を期待されながら若くして亡くなった四代目小染(「ザ・パンダ」メンバー)などの師匠。

 なお、歴代の会長と在任期間は次のようになっている。
1 三代目林家染丸   1957年 - 1968年 (9年)
2 六代目笑福亭松鶴  1968年 - 1977年 (9年)
3 三代目桂春団治    1977年 - 1984年(7年)
4 三代目桂小文枝   1984年 - 1994年(10年)
5 二代目露の五郎   1994年 - 2003年(9年)
6 六代目桂文枝    2003年 -

 六代目会長、すでに15年になる。
 先月のアクセス数トップは、その会長のスキャンダルのこと。
 権力の座に長く居座ることの弊害は、どの世界でも同じだが、あの男は、会長室で浮気相手の女性と会っていたらしい・・・・・・。
 とにかく、一日も早く辞めるべきだ。。

 さて、金太郎のことに戻る。
 寄席が漫才一色のその時、どうやって彼は上方落語を稽古したのか。
 こんな具合ですから、さァ弱った。
 なにしろ百幾つ持っていた東京落語を全部捨てて行ったんですから。二、三年噺家をやめたつもりで大阪落語をやれと、師匠にもいわれましたし、自分でもその気になってましたから。
 大阪では、師匠が出演してるということで、義理で私を前座に出してくれました。出してくれたのは支配人さんですが、いまでも、この人は恩人だと思ってます。
 と、いうのは、この支配人さんに、こう頼んだのです。
「実は、私、今度大阪落語を覚えたいと思うんですが・・・・・・」
「そうかい、よしよし、それじゃ引き受けてやるから、前座しながら覚えなさい」
 親分肌で、いつまでも出してやるとさえいってくれました。

 東宝名人会の秦豊吉のような恩人が、大阪にもいたということか。
 金太郎、人生の節目で、いろんな人に救われているなぁ。

 さ、前座で出たが、咄を教わる師匠がいない。で、いろいろ訊きました。
 と、大阪には、前座さんがいなくて、下座をやる人は“へたり”というんですが、この人が大抵噺家くずれなんです。この人に訊くました。と、ここにこういう人がいる。あそこにこういう師匠がいるとい教えてくれました。
 で、金馬師匠に相談しましたら、神戸に橘ノ円都師匠がいる。寄席をやめて十二、三年たってるが、達者でいるに違いないから行ってみろといわれました。
 神戸へ行きましたよ。
 円都師匠は、金馬師匠のいうようにお達者でした。
 そこで、用件を伝えますと、
「金馬さんが来てる。会いたいなア」
 と、戎橋まで遊びに来てくれました。
 そこで改めて、師匠から、「実はこれが京都の人間で、東京落語はうまくいかない。ついては、稽古をつけてくれませんか」と、お願いしてくれました。
「では、明日からでも私が神戸に参ります」
 といったら、円都師匠がいいました。
「いや、ワイがこっちへ来るわ。その代りにすまんけど定期買うてくれんか」
 金馬師匠にこれを伝えますと、定期代を出してくれました。
 その翌日から円都師匠が来て下さいました。実にうれしそうにね。
 上方落語復興の話では、この橘ノ円都という人の名は、結構目にする。

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 『古今東西落語家事典』から、橘ノ円都のことを確認したい。

橘ノ円都
 明治十六年三月三日~昭和四十七年八月二十日 90歳

 神戸の代々続いた大工の家に生まれたが、二十一歳のときに素人落語の橘連に加わり、すぐ座長となった。このため家を勘当され、明治三十八年に大阪へ出て、初代桂春団治の世話で二代目桂文団治に入門、桂団寿を名乗った。しかし当時としては入門が遅かったためか前座修業がつらく、堺の天神席でへたりとなったり、派をとびだして旅まわりをしていたが、明治四十五年、神戸に戻った時に、兄弟子の団三郎が橘ノ円の一門で円三郎と改めていたことから一門に加わり、橘家円歌となった。
 その後、大正六年、東西会で上京する時、東京側から三遊亭円歌とまぎらわしいため改名をすすめられ、橘の円都と改めた。円都自身のはなしによれば、円都の名はもともと三遊亭の名で六代目まで続いていたので、この時七代目円都として、神戸千代之座で披露をい行なったという。
 (中 略)
 ネタ数は多く、特に浄瑠璃物が得意で『寝床』『軒付』『浄瑠璃息子』『片棒』などを好んで演じた。けっして器用な噺家ではなかったが、二代目桂三木助、六代目林家正楽、桂塩鯛らから譲り受けた多くの噺をそのままの形で後世に伝え、現役の落語家で、直接・間接に円都の影響を受けていない噺家はないといっても過言ではないほど、後身の指導果たした功績は大きい。また東京大阪で現在演じられている『加賀の千代』は昭和二十年代に自作自演したものである
 あらぁ、『加賀の千代』の作者だったんだ。
 Wikipediaによると、米朝にも枝雀にも多くのネタを稽古している。
Wikipedia「橘ノ円都」
 桂米朝に『宿屋仇』『軒付け』『胴乱の幸助』『けんげしゃ茶屋』『掛取』『三枚起請』『ふたなり』など、桂枝雀には『日和違い』『夏の医者』『あくびの稽古』などが挙がっている。凄いネタばかりではないか。
 この人、上方落語界を語る上で、不可欠ではなかろうか。
 円都のことは、もっと調べて別途書きたいものだ。

 金馬は、金太郎が上方落語を学ぶために、最適の人物を知っていたのだ。
 さて、円都の稽古は、その後どうなったのか。
 これが十日続きました。寄席は十日替わりですからね。
 そして十日が終わるころ、支配人が、
「よっしゃ。そいならわしにまかしとけ。十日過ぎたら、次の芝居には出すわけにはいかんから、次の十日は、京都へ行って来い」
 そういって、京都在住の噺家さんを教えてくれました。
 この人が、いまの文之助茶屋のお兄さんに当たる方で、文の家かしくという方。
 この人は“へたり”をやってたんです。
 (中 略)
 当時は録音機もありませんから、帳面持ってって、聞きながら書きつけました。ですから、咄を教わるどころか、筋を付けるのが手いっぱいでしたね。
 十日はすぐ過ぎる。と、大阪に帰って戎橋の前座です。
 また、円都師匠の稽古です。それから文団治師匠のところへ教わりに行く。そしてまた京都へ。
 そのうち、京都で下手な芸人を泊めるのを内職にしているオバサンをみつけて、その家の三畳を借りました。
 三ヵ月いました。それで、仕入れられるだけの咄をもらいました。
 文団治師匠には、師匠が出ている新世界に一緒に行って教わりました。当時は弟子もなしでした。いまの文紅さんもまだいませんでした。
 で、とうとう、円都師匠をして、
「もう、お前にやる咄はないわ」
 というほど、頂戴しました。
 で、三ヵ月ぶりに東京へ帰って来ました。

 当時の上方落語界において、ネタの多さを誇った円都が、こう言ったとは。
 そして、京都の文の家かしく、大阪の桂文団治も含め、なんと濃密な三ヵ月の上方落語修業だったことだろう。
 この文団治は四代目で、文紅(こちらも、四代目)の入門し文光を名乗ったのは昭和30年3月なので、金太郎の上方修業は昭和二十九年頃かと察する。

 さて、次回は、東京へ戻ってから、小南襲名までの最終回。
 
 ついつい長くなってしまったが、お付き合いのほどを。


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# by kogotokoubei | 2018-02-04 18:03 | 落語の本 | Comments(6)
 二代目桂小南の物語は、一回お休みで、先月のアクセスランキング。

 一月の記事別アクセスランキングは、次のようになった。

1.桂文枝は名跡を返上し、会長も辞すべし。(2018/1/8)
2.三田落語会の“休会”を惜しむ。(2018/1/26)
3.池袋演芸場 1月下席 昼の部 1月25日 (2018/1/26)
4.古今亭志ん駒のこと。(2018/1/23)
5.オヨヨな人には、一日も早く、会長を辞任して欲しい。 (2018/1/9)
6.新聞のコラムと、落語。(2018/1/11)
7.『二番煎じ』の後は、なんと、『子別れー通しー』! (2018/1/13)
8.震災後、星野仙一が放った啖呵を思い出す。(2018/1/6)
9.大久保利通の“幻”となった「大坂遷都」のこと。 (2013/2/28)
10.健さんが愛した歌、「ミスター・ボージャングル」についての補足。 (2014/11/25)

 1位と5位に、女好きの男の記事が入った。二つの記事のアクセス数合計は、約600。
 所属の吉本は、何ら罰則らしいことを考えていない。
 もし、吉本せい、あるいは、正之助なら、何らかの処罰を与えただろうと思うなぁ。
 人気者に何ら小言の言えない吉本・・・とても、わろてんか、などとは言えない状況のはずなのだが・・・・・・。

 2位には、三田落語会の休会についての記事。
 手づくり感のある優れた地域落語の、残念な休会だ。
 今月の会、なんとか駆けつけるつもりだ。
 
 3位は、先月唯一の落語観戦記。笑組のゆたかさんと楽しくお茶を飲んだ記念日^^

 4位は、志ん駒の記事だった。
 最後に高座に出ていたと言われる八年前に、続けて二度聴くことができたのは、僥倖だったかもしれない。

 6位は、落語好きのコラムニストのことだったが、意外に多いアクセス数だった。

 7位は、落語愛好家仲間の皆さんの前で披露する落語ネタのこと。
 『二番煎じ』を披露したのは、つい昨日のようだが、さて、『子別れー通しー』は、いつになることやら。

 星野仙一の訃報には、驚いた。あの震災直後の彼の正論を思い出す。

 9位、10位と古い記事が続いた。
 どちらも、なぜかアクセス数が落ちないのが、不思議。

 さて、小南の記事を書かなきゃ^^

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# by kogotokoubei | 2018-02-03 09:07 | アクセスランキング | Comments(0)

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桂小南著『落語案内』(立風書房)
 この本からの、六回目。

 腸チフスにより死の淵から脱出し、戦後東京に戻り、秦豊吉支配人の気遣いで、宝塚劇場の売店を任され、飲まず食わずの生活から脱出した金太郎のその後。

 まア、ともかく、足もとがお札でいっぱいになるんです。だから儲かって仕方がない。
 しかし、そこが噺家ですねえ。そのときの金を貯めときゃいいんだ。そうすれば、銀座の四兆名あたりに大きなビルなんぞ建ったでしょうが、百円札をまとめて尻のポケットにねじ込んで、銀座ぶらぶらしちゃア、中華料理の高いのを食って、ほとんど使っちまいました。
 で、いい気持ちになってたら、師匠に叱られました。
 神田の立花でした。雨が降り出したんで、師匠の家から下駄と傘を持って行った。
「師匠、下駄と傘を持ってきました」
「ああ」
「ここに置いときます」
「あいよ」
 と、立花の支配人さんが師匠に、
 「あ、師匠、来月、金太郎さんをうちに願います」
 といったんです。ここはなかなか出られないから、やれうれしやと思ってたら、師匠がこう断りました。
「あれはダメです。あれは南京豆の方が上手いんですからダメです」

 「南京豆」という表現が、なんとも可笑しい^^
 私が、咄の稽古もしないで店の仕入ればかりやってるっていうの知ってたんですね。
 あとで師匠がいってました。
「あそこで俺が受けたり、お頼みしますといってごらん。そりゃ出してくれるだろうが、お前自身が頼まれるようでなきゃ駄目だよ」
 もっともですね。
 これが身にしみて、売店の方は人に任せて、私はかまわないようにしました。
 そうしておいて、師匠にいったんです。
「私も寄席に入りたいんですが」
 当時、歌笑さんが日の出の勢いでしたからねえ。それなのに私の方は、まだ前座の毛が生えたところでウロチョロしてる。
 歌笑さんは、噺家として初めて国際劇場に出て、それを満員にしたんですから。
 そのころですか、歌笑さんの家に行くと、「お前、俺の番頭になれ」
 といわれました。いまでいえばマネージャーです。一時は本気で考えました。しかし、噺家が好きでしたから、やっぱり噺家でいたい。

 人気が爆発していた歌笑のマネージャー・・・迷っただろうが、金太郎の選択は、結果として正しかったということか。

 なお、歌笑については、ずいぶん前に書いたことがある。
 当時十四歳だった談志が、彼の死を知って泣いた、ということも紹介した。
2009年5月28日のブログ

 さて、歌笑の番頭要請を断った金太郎の、その後。
 それで、師匠に相談したんですがね。
 そうしたら、あの頑固で、人に頭を下げたこともない師匠が、
「お前は関西の出だから、小文治さんのところへ行った方がいいだろう。俺が頼んでやるよ」
 こういって、すぐ、小文治師匠のところへ電話してくれました。
「すまないけど、うりの金太郎を、なんとかそっちの会に入れてもらえないだろうか」
 それまで、小文治の“こ”の字もおわなかった人がね。
 弟子のためですねえ。
 それで、私は桂小文治師匠のところへ行くことになったんです。
 昭和二十六、七年でしたね。
 金馬師匠の家に入ってから十二年目のことです。

 金馬は、見ていないようで、金太郎のことをしっかり見ていたのだ。
 今のままでは、伸びない。
 関西出身だから、同じ上方から来て東京で看板となっている小文治の下で修業させるのが良いだろう、と日頃思っていたからの、行動と察する。

 小文治は、二代目桂小文治。
 Wikipediaからプロフィールを引用する。
Wikipedia「二代目桂小文治」

現在の大阪府大阪市港区出身。1906年(明治39年)ころ、7代目桂文治門下となり9代目桂小米。1915年(大正5年)、2代目桂米丸襲名。三友派若手の有望株として踊り、声色で活躍する。

1916年(大正6年)10月、東京寄席演芸会社の招きで上京し上席に出演。当初1か月の契約だったのが、そのまま東京に定住。1917年(大正7年)5月、下席から桂小文治に改名し真打昇進。1922年(大正11年)4月、落語睦会に移籍。6代目春風亭柳橋、(俗に)3代目春風亭柳好、8代目桂文楽と並ぶ「睦の四天王」の一角として人気を得る。その後日本演芸協会、さらに日本芸術協会(現:落語芸術協会)に加わり、副会長として、会長6代目春風亭柳橋を補佐する。大阪落語の落語家でありながら、東京落語界の幹部となった。

また、小文治は東京に行ったのち、師匠文治の引退興行の時に大阪に顔を出したが、小文治を可愛がっていた4代目橘家圓蔵が引退する文治よりも小文治の宣伝をしたため、小文治の兄弟子初代桂春団治が激怒し、止めに入った小文治を蹴飛ばし、舞台上で圓蔵を罵倒した、それがゆえに大阪へ戻れなくなり、東京に骨を埋めることとなったといわれている。

2代目三遊亭百生と共に、上方落語を東京で紹介した業績は大きい。また、第二次世界大戦後は、衰亡していた上方落語復興のため、当時の若手6代目笑福亭松鶴、3代目桂米朝らを支えた。戎橋松竹や道頓堀角座にも定期的に出演していた(ただし、肩書きは「東京落語」であった)。

面倒見の良い性格で、他所の門を失敗した落語家を引取ったため、門人も多かった(このため、小文治一門は現在、芸術協会の大半を占め、80名の真打の中で50名以上いる)。

 あの、小金治さんも、小文治門下だった。
 小文治の“身内”になるということで、初めて落語芸術協会の寄席に出る機会が訪れた。

 いよいよ寄席に入りました。入って驚きました。東宝の楽屋とまるで違う。だいたい、楽屋にいる人の名前がわからない。とくに若い人なんか全然わからない。
 それもそのはずで、私が噺家になったころから終戦まで、ほとんど噺家になろうなんていう人がいなかったのに、終戦で、しょうがないから噺家でもやろうか、噺家しかないなんていう「デモシカ噺家」が増えたんですな。そういっては失礼ですが、いまは、もう立派に一家を成している人がいますのでね。
 ま、そう思ったんです。正直なところ。
 さて、小文治師匠の身内になりましたが、身内というのは弟子とは意味が違いまして、早くいえば外様ですから、身近にはいるが、ま、他所者ですよ。

 今の言葉で言えば、“アウェー”な環境に飛び込むことになったわけだ。
 しかし、金太郎は、二ツ目ながら、この時、本来の前座修業に精を出した。
 とはいえ、辛い日々が続く。
 芸術協会に入ったけれど、外様の悲しさ、予備(控え出演者)で高座に上がる機会がない。
 こうなると、どうしてもひがみが出ます。
 このとき、頭に浮かんだのが、金馬師匠の言葉でした。
「噺家は一にも稽古、二にも稽古、褒められたら、ああよかったと稽古しろ。うれしかったら稽古しろ。腹が立ったら稽古しろ。腹が減ったら稽古しろ。腹がふくれたら稽古しろ」
 それから稽古しました。稽古するよりやることがないんです。

 師匠の有難い言葉を思い出して稽古を重ねるが、それが何年も続くと、金太郎も挫けそうになる。

 他人(ひと)の受けてるのが口惜しくて仕方がない。
 この時期、本気で「噺家をやめよう」と思いました。
 それで、本屋さんをはじめました。江戸川橋のそばでしたが。本は好きだったものですから、本屋が一番いいというんでね。もっとも私は店に座りません。名人会の売店のときと同じで、かみさんにやらせました。
 さ、そうこうするうちに、民間のラジオがはじまりました。
 ここでも私は乗り遅れるんです。
 師匠の手引きで、後から入った噺家がどんどんラジオに出る。と、その人の顔つきが変わって来るんです。なんとなく光り輝いてくる。実際、着る物や食べる物まで違ってくるんです。
 私の方は、相変わらず青白い冴えない顔して楽屋の置き物です。
 咄も迷いました。これならいいだろうと思う咄をやってみる。これがダメ。
 そうなんです。いまの言葉でいうと、落ち込んでるときはどうやってもダメなんです。
 これは亡くなりました、桂三木助師匠がいった言葉です。
「噺家の生涯なんて、真ッ黒な部屋の中で、天井からぶら下がってる綱を引っぱってるようなもんだ」
 つまり、綱をのぼって明るい表に出ようと思うが、昇って行くと天井にごつんと当たる。で、一度下りて別の綱にとりつく、やっぱりごつん、ということなんです。
 私も、思い余って、金語楼師匠の種をもらって新作を手がけてもみました。
 しかし、とことんドンヅマリ。
 金もありませんよ。本屋の上がりなんて大した役に立ちません。素人本屋ですしね。
 で、金欲しさに、農村慰問なんかに行って、そりゃもう、受けよう受けようで、大きな振りして演ってたんです。
 で、ある日、金馬師匠の家に行ったら、いきなりどなられました。
「馬鹿野郎、貴様舞台で銭が欲しい、銭が欲しいといってやがる。やめちまえッ」
 私は、一度も師匠の前で喋ったことないんですが、ちゃんと知ってる。弟子のことは何でも知ってるものなんです、師匠というのはね。
 その師匠はといえば、二階に上がって、きちんと稽古している。
 それみて、ああ稽古しなくちゃいけないなと思って帰りましたね。
 ところが、家に帰ると、「何で俺だけ受けないんだ」って囁きが聞こえて来る。もう一人の自分が囁く。人間って弱いもんですねえ。

 何をやってもうまくいかない、そんな時期って、一生のうちに必ずあるよね。

 金太郎にとっては、この時期が、そんな不遇の時だったわけか。

 それにしても、師匠の金馬は、遠くからでも、しっかり弟子を見ていたんだなぁ。

 その師匠から、大きな転機を迎える話があった。

 もう、にっちもさっちもいかなくなりました。
 と、師匠から呼び出しがかかりました。
 で、家に参りますと、
「金太郎、お前大阪落語やれ」
 という。
 師匠はちゃんとご存知だったんですね、私が苦しんでるっていうのをね。
「大阪落語ですか・・・・・・」
「京都の生まれだから、その方がよかろう。その気があったら、今度俺が大阪の戎橋松竹に出るから連れてってやるから、ひとつ向うの咄を聞いてみろ」
 と、いうので、師匠の鞄持ちで大阪へ行きました。
 ところが、これは寄席とは関係がない。大阪へ行くなんてことは、小文治師匠と行くなら公用ですが、金馬師匠と行くのは、いわば私用です。
 でも、そんなこといっちゃいられません。
 協会の方へは、しばらく休ませていただきますよ、大阪へ行きました。
 背水の陣を敷いたわけですね。

 私は、この本を読むまで、小南は小文治の下で上方落語を学んだのだろうと思っていた。

 ところが、小文治の身内の時代が、こんな悲惨な時期であったことを初めて知った。

 もちろん、それは小文治のせいではなく、東宝名人会専属の師匠に弟子入りしていたという事情も含め、小南にとって巡り合わせの悪さが大きな原因と言えるのだろう。

 さて、大阪で金太郎はどんな経験をすることになるのか。
 それは、次回のお楽しみ。


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# by kogotokoubei | 2018-02-02 12:54 | 落語の本 | Comments(0)
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桂小南著『落語案内』(立風書房)
 この本からの、五回目。
 思ったより、このシリーズ長くなりそうだ。

 前回は、入隊し演芸会でスターになった金太郎だが、太平洋戦争に突入した昭和十六年十二月、連帯がフィリピンに移動しようとする時に、腸チフスになり、死を覚悟していた。

 さぁ、金太郎はその後どうなったのか。
 前回ご紹介した最後の部分から。

「もう死ぬのかな」
 覚悟、というより、ぼんやりしてました。
 と、輸血が止まってから三日目でした。
 夜中に軍医さんが来て、
「おい、いまから輸血する」
 というんです。
「ハイ」
「この血はただの血ではない。よく聞け、お前の中隊長殿が特別に下さったものだ。中隊長は出発前に、面会を希望したが、それはできないとお断りした。『もう死にます』と。そしたら『じゃ俺の血を採れ、採って輸血してやってくれ』とおっしゃる。それはできないといったのだが、『たっての頼みだ』というので採血した。いいか、いまからこれを輸血する。死ぬなり生きるなり自分できめろ。中隊長殿は、いまフィリピンに向け出発された」
 軍医中尉でした。軍医で中尉といえば、連隊長級でしたね。
 私は、ここで思い直しました。ここで死ぬのを待ってちゃいけない。死んだら中隊長をはじめ連隊中がなんで輸血に協力してくれたのかと。
 生きるんだ、そう思いました。
 と、その翌日からぐっぐっと良くなるんです。びっくりしましたね。
 軍医さんまで「どうして良くなったんだろう」って首を傾げてる。
 それから二、三日したら、若いヤツが歩いて入院して来て、朝入院して、昼に逝ってしまったんで、私のベッドの下にある服を着せました。あんまり急だったものでね。あれは、私の身代りですね。
 で、つくづく思いました。病は気からだってね。心をぐっと締めてかかれば病なんて平気だってネ。

 こういう実話を知ると、病は気から、という言葉の重さをしみじみ感じる。
 連隊の仲間のみならず、連隊長までもが、金太郎のために自らの血を授けてくれたということが、しおれかけていた生きる力に水を与え、彼らのためにも、という生命力が湧き出てきたのだろう。
 その後のこと。

 こうして、死病から逃れることができましたが、私に輸血してくれた戦友は、フィリピン沖で輸送船が襲われてずいぶん戦死しました。
 ただ、中隊長は帰って来ました。再会したときは、本当に土下座してお礼をいいました。
 ま、これというのも私が噺家で、それも金馬の弟子だったからでしょうね。
 そんなこんなの間に合ったような間に合わなかったような兵隊を三年つとめて帰ってまいりました。
 終戦。
 死の淵から生還した東京。
 宝塚劇場は、進駐軍に接収されアニー・パイルという名に替わった。
 名人会は、日劇の五階に移った。

 ところが、東宝があちこちに寄席を作ったんです。映画館より手軽にできるということでね。
 神田の立花の買収を皮切りに、新宿の帝都座、神楽坂の演芸場、早稲田の寄席好きの染物屋さんが工場を改造した“ゆたか”など東宝が傘下に収めたんです。
 これを私がかけ持ちですよ。そりゃいい気分でしたね。気の毒に、他の寄席に出てる人は、東宝が呼ばなければ入れない。たとえ来たところで東宝専属の私の方が上って頭があるから、威張ってました。ま、威張ってるたってタカが知れてます。二ツ目ですもの。
 しかし、それも長く続きませんでした。
 で、秦豊吉先生に連れられて名古屋の宝塚劇場に行きました。

 この秦豊吉は、「第四章 忘れえぬ芸人」でも登場するが、以前紹介した池内紀さんの『二列目の人生ー隠れた異才たちー』でも、十五人の中の一人として取り上げられている。
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池内紀著『二列目の人生-隠れた異才たちー』(集英社文庫)

 拙ブログでは紹介しなかった秦豊吉について、池内さんの文章を引用したい。
 題は「鴎外の双曲線」。

 秦豊吉は三つの人生を生きた。一つは三菱商事のエリートとしてのそれである。府立一中、一高・東大法科卒の優等生は、新妻をともなってベルリン支店へ赴任した。十数年にわたる三菱時代のあいだ、彼は無遅刻、無欠勤のモーレツ社員だった。
 二つ目は文筆家としての人生である。ベルリン駐在中は精力的にヨーロッパの文芸思潮を紹介した。そして多くの翻訳をした。レマルクの『西部戦線異状なし』をはじめとして、第一次大戦後のドイツの話題作は、おおむね秦豊吉訳を通してこの国に入ってきた。
 三つ目は演劇人としての人生である。四十代のはじめ、秦豊吉は三菱より東宝に転じ、以後は舞台芸術に没頭する。その才覚は、もっぱら、レヴューやコミック・オペラといった軽演劇の分野で発揮された。秦豊吉企画・脚本・演出による数々の舞台は、わが国のモダニズムが、まがりなににも実現しためざましい成果だった。
 正確にいえば、さらにもう一つの人生がある。「丸木砂土」のペンネームのもとにおこなったエロス文学顕彰のそれである。

 という、実に多彩な方。
 小林一三は、昭和七年に宝塚の東京進出を企て、三菱の文筆家社員に目をとめ、昭和八年一月一日付けで秦豊吉を新劇場の取締役として迎えた。秦が四十一歳の時のことだ。
 
 小南の本に戻る。
 その秦豊吉に連れられて行った名古屋の宝塚劇場で、金太郎はどんな体験をしたのか。

 当時、劇場の前に立つと、大須の観音様まで見通せました。あとは焼けっ原でね。
 その劇場に宝塚が来ると、大変な入りでしたね。なにしろ遊ぶところがほかにないんですから、何も。ですから、劇場の周りを見物する人が取り巻くんです。それで整理券がつかない。すると、その時分にヤクザ者がおりました、これが出て来て整理をする。なかで“浅切りの正太”という物凄いのがおりました。どうして浅切りかというと、人を斬るのに、死なない程度にスパーッと斬るのでこの名がついたという。
 この正太とあと二人凄いのがいました。
 ところが、私たち芸人に対しては大変親切なんです。とくに私は楽屋に寝泊まりしてましたから、ちょくちょく楽屋に来ては遊んでいるんです。大人しいんです。二十二、三くらいでしたが、子分を二十人くらい連れてました。三人がそれぞれにね。それで劇場内で暴れる者がいると摘み出してしまう。
 私は、当時、落語もやってましたが、芝居もやってたんです。実は、五階の寄席の楽屋にいると、下の劇場で、役者が足りないから手伝ってくれってんで、助(ス)けですね。
 喜んでやってましたよ。
 この後、“浅切りの正太”に誘われて、ある壮絶な場面を見物することになるが、その件は割愛。
 
 名古屋は一年間勤めまして、また東京へ帰って来ました。
 帰ったが飯が食えない。食えないのは名古屋も同じですが、楽屋泊りですから何とか食えたが、東京じゃ、アパート暮し、これが八円です。家賃が払えないんです。仕方がないから外食券(当時米は配給制で、この券がないと食堂で食べられなかった)をもらって、これを売って家賃にする。あとはどうするかというと、水飲んで部屋に引っくり返ってました。
 そうしたら、秦先生が見るに見かねて、「お前、そんなことしててもしょうがないから名人会で売店やれ」
 と、こういったんです。
「ほんとですか」 
 私は、飛び上がりましたよ。
 と、いうのは、私は食えもしないのに、おかみさんをもらったんです。名古屋でね。もらったというより養子になっちゃったわけですよ。ですから、これを食わせなくちゃならない。当時売店ってな儲かったんです。だから権利をとるのが大変でした。それを社長の一言ですから私にその権利がきた。
 そこで名人会にふさわしくってんで、数寄屋造の素晴らしい売店を造ってもらって、商売をすることになりました。
 飴を売りました。
 これがバカ売れ。儲かるなんてもんじゃアない。昼間は、これがラジオで始まると、風呂屋がガラガラになったという“鐘の鳴る丘”の芝居で、夜が名人会。
 もう夫婦じゃ忙しくてたまらないというんで、かみさんの妹を連れて手伝わせました。
 この妹が来たら、私ァ落語屋でもって、高見の見物をきめようと思ったんですが、休憩が終わると店がからっぽになっちゃうんです。なにもないんです。で、何か仕入れてこいといわれて、「へいッ」ってんで、籠持って御徒町へ飛んで行く、いまでいうアメ横ですね。で、飴でもなんでもいいから、仕入れて帰って店へ並べる。と、休憩になる。客が百円札を抛るようにして出すと、五つ六つ摑んで客席へ行く。釣りなんか取らないんです。で、十五、六分で空。またアメ横へ行く。問屋なんか待っちゃいられないんですからね。

 “水っ腹金ちゃん”から、“飴屋の金ちゃん”への転身。
 その当時、金太郎にとって、秦は神様のように思えたのではなかろうか。
 最終章で、秦(先生)について、こう書いている。

 東宝名人会の創立者として、秦先生は、われわれ噺家にとっては恩人です。
 日劇黄金時代というのがありました、ダンシングチームだけで小屋が唸るほど入りました。
 この時代に秦先生が東宝名人会というものを拵えたんです。
 それは本当の名人会でした。いまの名人会とは格が違いました。
 とにかく、当時、寄席では大看板扱いの桂右女助(小勝)さんが前座ですから。
 そのメンバーたるや、先代小さん、柳橋、先代円生、金語楼、先代柳好、権太楼、それに先代金馬。実に錚々たる名前ばかりです。
 しかし、秦先生は、若手にも目をかけてくれまして、私も先生のおかげで、東宝の前座になることができたんです。
 と、いっても高座には上がれません。で、早めに師匠の家を出て、まだ緞帳が下りている東宝演芸場に来て、真ッ黒な舞台に布団を敷いて、稽古するんです。
「ええ、一席うかがいます」
『金明竹』などやりました。
 ある日、いつものように稽古してたんですが、電球二つつけて緞帳の下りた中で演ってると暖かくて、眠気がさして来た。咄の半分どころで、つい、「ふわァ、あああ」ってあくびしたんです。
 と、緞帳の向う側で、
「馬鹿野郎ッ」
「なにィ・・・・・・」
 ひょいと緞帳の裾を持ち上げて覗いたら、秦先生じゃありませんか。
「馬鹿野郎ッ」
 飛び上がりましたよ。
 と。「続けろ」、「ヘエッ」
 いつの間にか舞台の前にいて聞いているんですね。
 とにかくこわい先生でした。


 その秦が若手のために、『東宝笑話会』というの場をつくった。
 昼間があいてる時間に若手を含めて、バラエティに富んだ寄席形式のものにしたのだ。

 池内紀さんの本で初めて知った秦豊吉という人物について、桂小南の実体験から、より深くその人柄を知ることができた。
 実は、池内さんの本では、東宝名人会のことは、ほとんどふれられていなかったのだ。
 小南がこの後に書いているが、名古屋で日本舞踊のチームを作ろうとしていて、間もなく発足というところまで行って、秦がアメリカ軍の追放を食らって、いっさいの公職から手を引くことになる。
 小南は、名古屋にもう一つ名物が増えたと思うのに、と残念がっている。

 池内紀さんが「二列目」としているのは、この公職追放がなければ、「一列目」として、もっと秦豊吉という人の名が陽の目を見たはず、という思いがあるからかもしれない。


 さて、死の淵から生還し、秦先生という恩人のおかげで窮地を救われた金太郎は、その後、どんな噺家としての人生を歩むのか・・・は、次回。

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# by kogotokoubei | 2018-02-01 12:36 | 落語の本 | Comments(0)
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桂小南著『落語案内』(立風書房)
 この本からの四回目。
 師匠が専属だった東宝名人会の前座になってからのこと。

 当時、名人会の楽屋には、森暁紅(ぎょうこう)先生といって、怖くて煩い先生がいました。それから鈴木金次郎さん。もと立川扇太郎という噺家で、金馬師匠の兄弟子でしたが、やめて名人会の別支配人のような形でいました。この人々が、顔付けといって、プログラムを作ってました。
 私が、はじめて楽屋に入ったときは、桂文楽、春風亭柳枝(七代目)、それに柳好といった師匠方がいました。
 こっちは、客席からこういった師匠方の高座を見てましたから、楽屋でも、あのとおりだと思ってた。
 で、ひょこと行きまして、
「えー、金馬の弟子でございます」
 って、挨拶したんですが、まるで見もしないで、“うん”とか“そうかい”なんていって、まるで愛想がないんです。聞くと見るとは大違いといいますが、これは見ると聞くとは大違い。
 でも一人、文楽師匠だけは如才なかったですねぇ。
「いようッ。やりましたね。ラッキョですねぇッ」 と。楽屋中が笑いでひっくり返りました。
 どうしてか、私がラッキョに似てたんですな、痩せてて、頭の鉢が開いてて、顎までこけてましたんでね。
 以来、私は「ラッキョ」で通ってました。
 なにかというと、「おい、ラッキョ、煙草買ってきとくれ」てなもので。

 文楽という人は、寄席の楽屋でもこの人ならではの気の利いた言葉(べけんや、など)などで周囲に笑いを生み出す存在だったようだが、名人会でも同じだったわけだ。

 昭和十六年、そんな前座生活を一変させることが起こる。

 前座にも慣れて、どうやら落ち着いたところで、右女助師匠が召集から帰ってくるのと入れ替わりのように、私に召集令状が来たんです。

大正九(1920)年生まれのラッキョ、もとい金太郎は、二十一歳になっていた。赤紙が届く日本男児だったのだ。

 私は第二乙といって、平時ならどうにもならない屑者ですが、当時は甲種より先に引っ張られました。おそらく弾除けのつもりだんたんでしょう。この間も徳島へ行きましたが、当時、匍匐前進なんて土の上を這いずり廻った河原が、そのままでありましたよ。
 さて入営すると、自己申告ってのがあるんです。つまり、自己紹介ですね。内務班のふり分けられた新兵が、古兵からいろいろ訊かれるんです。
「地方(一般社会)の商売は何だったか」
 「落語家であります」
「名前はなんというたか」
「山遊亭金太郎であります」
「聞いたことがない」
「金馬の弟子でありました」
「なにイッ、金馬の弟子だ」
「ハイ、これが証拠であります」
 日の丸の旗を広げました。入営前に楽屋で書いてもらったんです。これがすごい。
 金馬師匠をはじめ、ロッパ、エノケン、金語楼から宝塚のスターまで。宝塚の方は、楽屋のおばさんが、すぐ下の宝塚の楽屋へ持って行って書いてもらったんです。
 柳家金語楼のネタを思わせるような、やりとり^^

 それにしても、日の丸には凄い名前が並んだものだ。
 やはり、出征となると、大看板たちも普段の接し方とは違ったのだろう。
 さア、この旗がききました。
 師匠のおかげですねえ。もっともこの旗は古兵に取り上げられてしまいましたが。噺家が入ったというので大もて。演習でマメができて、フウフウいってるのに、休憩になると、「おい、一席演れ」。やだっていえないんですよ。しょうがないから、前に出て演りました。皆が煙草吸いながら休んでいるのに、「ええ、一席うかがいます」ってね。
 で、中隊に帰れば、日曜日になると、各中隊で演芸会をやるんですが、これのお座敷がかかるんです。
 もう大スターでしたね。いや、本当は休みたいんですが、こっちが一つ星(二等兵)のスターダストですから断ることができないんです。
 ただ、出演料だってんで、帰りにオマンジュウを山ほどもらって来て、班で分けましたから、班では可愛がられました。「おい、谷田は出稼ぎで疲れとる。当番代わってやれィ」てな具合でね。班長殿がマネージャー代りだったりしてね。
 まさに、芸は身を助く、である。
 軍隊で、つかの間の楽しみとして噺家が活躍したことは、春風亭柳昇や、五代目小さんなどで有名だが、金太郎も、仲間を笑いで癒すことに貢献したわけだ。

 しかし、そんな大スターの金太郎に、大きな転機が訪れる。

 真珠湾攻撃から日本は戦争に突入してからのこと。
 で、いよいよ、私どもの連隊がフィリピンに行くということになりました。
 ときに、私が腸チフスにかかるんです。
 怖い病気で、朝元気だったのが、お昼にころっと死ぬというくらい。夕方鼻歌を歌ってたのが翌朝は冷たくなっている。あれよあれよという間でした。
 これが大流行。軍隊なんてな、一度伝染病が流行すると、まるで油紙に火がついたように広がる。当時、四、五百人罹りましたかね。四千人の連隊でね。
 私も、罹らなくちゃ悪いみたいに罹りました。
 即入院。
 これがひどくて、絶対死ぬと保証つきだったんです。八十人の部屋から個室に移されたんですから。
 個室に移された時の心境は、いかばかりだったか。
 死を覚悟していた金太郎に、救いの手が伸びる。
 ところが、噺家が入院したというのを聞いて、連帯中が献血してくれました。それもO型の丈夫なやつの血を採ってね。二十何本やりました。これ輸血がなかったら死ぬんです。
 でも、よくならない。連隊はフィリピンに次々と遠征に発つんで、輸血もままならなくなりました。
「これで最後の輸血だ。いいな、これでお前は最後だ、いいな」
 軍医さんがいうんです。
「ハイ」
 頭だけは妙に冴えるんですね。ああいう病気はね。
 私のベッドの下には、一番上等の軍服が風呂敷包みになって入っている。-軍隊というのは死ぬと一番いい服を着せ、靴下と靴を着け、帽子までかぶせて、荼毘に付すんですー。そして死んだら運ぶタンカも入ってる。
「もう死ぬのかな」
 覚悟、というより、ぼんやりしてました。

 この、ぼんやり、は諦めの境地だった、ということかもしれない。
 気力が萎えていた、とも言えよう。

 さぁ、輸血も止まり、ベッドの下には自分の死に装束がすでに用意されている。

 この後、金太郎はどうなるのか。
 生きる気力は甦るのか・・・惜しい切れ場だ、次回をお楽しみに。
 

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# by kogotokoubei | 2018-01-31 12:33 | 落語の本 | Comments(0)
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桂小南著『落語案内』(立風書房)
 この本からの三回目。

 さて、日本橋の呉服問屋をやめて、退路を断って金馬に入門した金次郎少年は、金太郎という名前をもらう。
 金太郎という名は、以前に講談の先代貞丈師(一龍斎)の弟さん、今の貞丈さんの叔父さんて方が、金馬師匠の家にいて、これを名乗っていたんです。
 とってもいい男で、咄の上手だったそうです。ただ、酒が強くって、師匠も好きなんでその供をしながら馬鹿呑みしたんですね。それが祟って若死にしてしまったんです。
 で、この金太郎が空いていたんで、私にいきなり金太郎という名をつけてくれたんですね。山で遊ぶ金太郎で、山遊亭金太郎、洒落た名前で。
 ところが兄弟子の歌笑さんには、当時名前がなかったんです。師匠は本名の「治男」と呼んでました。
 金次郎より二年も前に入門していた歌笑に、まだ名前がなかったんだなぁ。
 その理由は・・・次のような小南の指摘から推測することはできる。

 四角い顔で、とくにエラが張っていて、口が大きく、眼が吊り上がって、しかも窪んでいて、片方の眼は、まるで横を向いている。極度の斜視で、弱視でした。しかも眉毛が短くて、珍しい顔でした。
 そんなわけで、咄の方はまるで駄目。
「お前、噺家おやめ」
「いえ、噺家になります」
 ほとんど毎晩のように師弟でやってましたね。
 金馬は、本気で歌笑に噺家になるのを止めさせようとしていた、ということだろう。
 だから、名前はしばらく与えなかったのではなかろうか。
 そもそも、金馬が治男に「一席やってみろ」と言うと、咄ではなく歌を歌っていたというから、師匠としても、彼が本当に噺家になりたいのかどうか、疑っていたかもしれない。

 さて、金太郎の方はどうかと言うと。
 歌笑さんが唄ばっかりですから、
「金太郎、一席やれ」
 って、こっちにお鉢が廻ってくる。
「へぇッ」
 これは稽古をつけてもらえると思うから、覚え立ての咄をやりますよ。
「ええ、一席申し上げます。八っつあん」
「なんだ」
「こっちへお上がりよ」
「やだよ」
 師匠が合いの手を入れるんですよ。
 つまり、オモチャですよね。
 で、
「俺が返事をしなくなるまでやれ」 
 という。
 やれるもんじゃないですよ。

 兄弟子歌笑は、結局、柳家金語楼の弟、昔昔亭桃太郎の元に行き、『音楽風呂』や『ジャズ風呂』という自慢の歌を生かせる新作落語を覚えるのだが、師匠の金馬は、「そんなものは落語じゃない」と、つれなく当たった。

 さて、金太郎はというと、咄の稽古どころではなく、金馬宅に先に住んでいる家族(?)の面倒をみることになる。

 金馬師匠という方は、動物を飼うのが好きでしてね。家には、いろんな動物がいましたね。
 犬がいて、伝書鳩がいて、鈴虫が十何種類といました。
 この犬については、ずいぶん話があります。
 ドーベルマンですよ。この犬が、脚がばかに細くって長くて、顔も長くて、獰猛な面構えしてるんですよ。
 “ジュゲム”という名がついてまして、これがいなや犬でしたよ。

 犬好きの私としては、この部分、少し厭~な思いがしたなぁ。
 さて、どんな犬だったというのか。
 
 師匠は、こんな利口な犬はないと、さかんに可愛がっていました。
「お座り」
 といえば、ぴたっと座る。
「お廻りッ」
 くるくると廻る。しかもニコッと笑う。犬も笑うんです。

 可愛いじゃないか^^
 しかし、我が家の犬は、笑わないなぁ.

 ところが、これ、師匠が声をかけるとやるんで、私や歌笑さんがやっても知らん顔してる。それどころか、じろっと睨んで、ぷいっと横を向く、憎らしいんです。

 そりゃそうだ。犬は人間を見ぬくのである。
 金太郎がジュゲムを、いやな犬と思う理由は、それだけではない。人間様より、食い物が良かったのである。

 このジュゲムのご飯がスキヤキなんです。
 私と歌笑さんはコロッケ。
 このスキヤキが食いたくてしょうがない。
 ある日、そのスキヤキを持って行くと、台所で歌笑さんが待っていて、
「おい、金ちゃん、ね。これ食っちゃおう、食ちゃおうよ」
 そういって、肉だけ食っちまったんです。
 犬のやつは、貰えるのを知ってるから、ハウスに入って、ヨダレを垂らして待ってるんですよ。
 で、肉なし丼を持ってったら、食わないんです。「ううっ」っていいやがって、そのうちピューっと師匠のところへ行って、「クウン、クンクン、クワン」っていいつけやがる。「あいつらが肉を食っちゃった」ってね。
 これがバレて、こっぴどく叱られてね。
 やなやつですよ。犬のクセにね。
 
 スキヤキなんか食べていたジュゲムは、長生きしたのかどうか・・・・・・。
 さて、他にもジュゲムや鈴虫、河鹿などをめぐる笑える逸話がいくつかあるが、それは割愛。

 金太郎の前座時代について。

 私が、はじめて噺家として寄席に行ったのは、内弟子になって三ヵ月くらい経ってからですね。
 東宝名人会、日比谷の宝塚劇場の五階、この間までありましたが、いまはなくなってしまいました。
 金馬師匠が名人会の専属だったんです。
 師匠は、名人会ができたときに、寄席の出演者の中から引き抜かれて専属になりました。おかげでほかの寄席からボイコットされて、以来亡くなるまでフリーというか一匹狼の存在でした。
 でも東宝名人会というところは、一種独特の格式がありました。
 なにしろ、当時売り出し中のバリバリの桂右女助さん(のちの三升家小勝、『水道のゴム屋』の咄で売り出した)が、寄席では大看板なのに、名人会では前座扱いでしたからね。
 それもそうで、うちの師匠のほかには、四代目柳家小さん、私の所属している落語芸術協会の前々会長で、先年亡くなった春風亭柳橋。柳家金語楼。先代の春風亭柳好。「エッヘッヘの柳枝」といわれた春風亭柳枝とか、大看板中の大看板が揃って出たんですからナ。
 曲芸は春本助次郎、この人は本牧亭のご主人になりました。そう、柳家権太楼もいました。あの、旅行けばァーの『次郎長伝』を演って<虎造節>を売りまくった、広沢虎造さんが二ツ目でしたからねえ。
 (中 略)
 この東宝名人会の前座なんです、私が。
 ところが、前座といっても、ただいるだけの前座でした。
 なずかというと、名人会というのは、前座を置くことはないんです。普通の寄席と違って、前にも申し上げたように、大看板ばかりが出演するシステムですから、若手を育てる必要がない。 
 これが寄席ですと、前座がいて二ツ目、若手真打、大看板といて、前座が楽屋の雑用をやって、先輩方に殴られたり、叱られたりしながら、噺家らしく育って行くわかですが、名人会にはこれがない。
 舞台の方は、ちゃんと舞台係の人がいる。これは、四代目小さん師匠の親戚の人でしたね。下座は、おきんさんといって、意地悪な人でした。なぜかっていうと、全然鳴物をさあえてくれないどころか、触らせてもくれませんでした。もっとも、出演者が偉い人ばかりですから、鳴物の方も、昔噺家をやっていて、いまはそれをやめて、昼間勤めて、夜アルバイトに太鼓や笛をやるという人がいて、これが大変なうまさ。
 こういうわかですから、なんにも用事がないんです。せいぜい、舞台から下りた師匠の着物をたたむとか、お茶汲みをい手伝うくらいしかないんです。

 
 とにかく、東宝名人会の顔ぶれが、凄い。
 私が好きな柳枝の名もあるが、この頃は七代目。

 さて、何もやることのない、東宝名人会の前座。
 歌笑は、弟弟子が入ったのを幸い、金太郎に名人会の前座役を押し付けて、二代目三遊亭円歌の元に行った。そして、結局、円歌の身内(弟子ではない)として、寄席に入ることになる。

 では、その後の金太郎は、いったいどんな修業の道を歩むのか・・・は次回。
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# by kogotokoubei | 2018-01-30 12:27 | 落語の本 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛