噺の話

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 八月に入った。

 年中行事のように、メディアであの戦争に関する番組が組まれる。

 それはそれで、戦争というものを考える機会となるのは、良いことなのかもしれない。
 
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ドナルド・キーン著『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』
 ドナルド・キーンの『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』の初出は「文學界」の2009年2月号。単行本は同じ年の7月に発行されている。
 私は2011年に発行された文春文庫版で読んだ。

 序章に次のように書かれている。

 この本は、主に大東亜戦争が始まった昭和十六年(1941)後半から、連合軍の日本占領の最初の一年が終わる昭和二十一年(1946)後半まで、五年間にわたって日本の作家たちがつけていた日記の抜粋によって構成されている。ここに登場する日記作家は永井荷風を除いて外国では知られていないが、いずれも戦前ないしは戦後の日本でかなり知られた作家ばかりである。

 ということで、本書には実に多くの作家たちの日記が登場する。
 巻末の「参考文献」は、日本語の文献のみで約四頁、英語の文献がほぼ二頁並ぶ。

 まず、「第一章 開戦の日」から、キーンが外国でも知られているということで名を挙げた永井荷風の日記が登場する部分を引用したい。

 多くの人々、とりわけ軍の中枢を嫌っていた人々は、英米のような強敵と事を構えることが妥当かどうか、かねてから疑問に思っていた。しかしそうした疑問は、高まる愛国心の中で一掃された。開戦の年に日本の陸海軍が目覚ましい勝利を収めるごとに、人々の愛国心は強まっていった。相次ぐ勝利に国中が湧いた異常な興奮の中で、ごく少数の日記の筆者だけが冷静だった。中でも一番動じなかったのは、おそらく永井荷風(1879-1959)である。昭和十六年十二月八日、荷風は日記に書く。

  十二月初八。褥中(じょくちゅう、引用者注・寝床の中で)小説浮沈第一回起草。
  哺下(ほか、引用者注・夕暮れ)土州橋に至る。日米開戦の新聞号外出づ。帰途
  銀座食堂で食事中灯火管制となり街頭商店の灯追々消え行きしが電車自動車は
  灯を消さず。六本木行の電車に乗るに乗客押合ふが中に金切声を張上げて演説を
  なす愛国者あり。
 
 四日後、荷風は書いている。

  十二月十二日。開戦布告と共に街上電車飲食店其他到るところに掲示せられし
  ポスターを見るに「屠(ほふ)れ英米我等の敵だ。進め一億火の玉だ。」とあり。
  現代の人の作文には何だの彼だのと駄の字をつけて調子を取る癖あり。駄句駄字と
  謂ふべし。

 戦時を通じて荷風は、日々眼にする愛国主義の示威に侮蔑感を表明し続けた。荷風の日記は軍部について極めて厳しい調子で書いているが、戦局が進むにつれてその語調は強まっていく。荷風が特に苛立ったのは、愛国者たちの悪趣味と幼稚なスローガンだった。

 キーンは、荷風がアメリカやフランスで暮らした経験があり、とりわけフランス文学に愛着があったことから愛国的プロパガンダの影響を受けにくかったかもしれないが、海外滞在経験は必ずしも戦争賛否の態度に関係がなかった、として、荷風とは好対照な例を紹介している。

 戦争の熱烈な支持者の一人だった高村光太郎(1883-1956)は、かつてアメリカとフランスで彫刻を学んだことがあった。しかし真珠湾攻撃を賛美する高村の詩の語調には、荷風の不遜とも見える無関心の態度はまったくない。詩は、次のように始まる。

  記憶せよ、十二月八日。
  この日世界の歴史あらたまる。
  アングロ・サクソンの主権、
  この日東亜の陸と海とに否定さる。
  否定するものは彼等のジャパン、
  眇(びょう)たる東海の国にして
  また神の国たる日本なり。
  そを治(しろ)しめたまふ明津御神(あきつみかみ)なり。

 いわゆるアングロ・サクソンに対する高村の敵意は、ニューヨーク留学中に受けた人種差別に由来するものとされている。「ジャップ」と呼ばれ、自分の国を「にっぽん」の代わりに「ジャパン」と呼ばれるのを耳にして、高村は憤慨した。こうした体験は激しい憎悪とまでは行かなくても、高村が抱いた憎しみの理由とはなるかもしれない。

 私は、本書で初めて高村光太郎がこのような詩を書いていたことを知った。
 
 他にも、その作品からは想像できない戦争への向き合い方を日記に記した作家のことを知ることになった。

 たとえば、あの小説の翻訳で有名な人について。

 伊藤整(1905-69)は、日記とエッセイの両方で開戦を喜び、予想されるアングロサクソンの壊滅に期待をかけている。しかし、真珠湾攻撃を知った時点での伊藤の反応は意外なほど冷静だった。
 (中 略)
 伊藤は自分の高揚する気分を弁明する必要を認めなかったが、教師ならびに翻訳者として英語と身近な関係にあった人物が、幾分かの躊躇を感じることはなかったのだろうか。十二月八日、伊藤は日記に書く。

   感想ー我々は白人の第一級者と戦う外、世界一流人の自覚に立てない宿命を持っている。
   はじめて日本と日本人の姿の一つ一つの意味が現実感と限ないいとおしさで自分にわかって
   来た。

 十二月九日に書かれたエッセイは、さらに率直である。

   ・・・・・・昨日、日米英戦争が始まっている。今後何年続くかも知れぬ大和民族の
  歴史上はじめての、そして最大のこの戦争の・・・・・・。(中略)私は「ハワイ真珠湾
  軍港に決死の大空襲を敢行」という見出しを見て、全身が硬直し、眼が躍ってよく読めない
  のであった。(中略)
   そして、そのことを、私は、地下室の白い壁の凹みによりかかりながら、突然全身に水を
  かけられたように覚る思いであった。そうだ、民族の優越感の確保ということが我々を
  駆り立てる、これは絶対の行為だ、と私は思った。これは、政治の延長としての、または
  政治と表裏になった戦争ではない大和民族が、地球の上では、もっともすぐれた民族である
  ことを、自ら心底から確信するためには、いつか戦わなかればならない戦いであった。

 キーンの伊藤の日記の引用は、この後もまだ続いている。
 伊藤は、民族の優秀性を決定するために戦うのだ、と記している。


 本書で初めて知った作家たちの戦中の日記。

 あの作家がこんなことを、という驚きが読みながら途切れることがなかった。
 
 次回も、そんな内容を紹介するつもり。

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# by kogotokoubei | 2018-08-02 12:29 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 先月の記事別アクセスランキングは、次の通りだった。

1.命日に、“キザな小円遊”という虚像を思う—『談志楽屋噺』より。(2013年10月5日)
2.桂歌丸という噺家さんのこと。(2018年7月3日)
3.円楽の落語芸術協会加入について。(2017年6月26日)
4.FIFAの放映権料2000億円のうち、なぜ日本が400億も支払うのか?(2014年6月30日)
5.歌丸の最初の師匠、五代目古今亭今輔のこと。(2018年7月7日)
6.新宿末広亭 六月下席 夜の部 6月29日(2018年7月1日)
7.新宿末広亭 六月下席 昼の部 6月29日(2018年6月30日)
8.「西郷どん」、そろそろ撤退かな・・・・・・。(2018年7月17日)
9.なぜ、真夏に東京五輪は開催されるのか。(2018年7月18日)
10.落語芸術協会に、寄席の入りが悪く席亭から注文-朝日新聞の記事より。(2012年1月27日)

 半数が、歌丸さん関連の新旧の記事。

 小円遊の記事へのアクセスは、まさに桁違いだった。
 これまでも安定的にアクセスは多かったものの、先月は2000アクセスを越えた。
 これは、たぶん、過去最多。

 2位の記事は、歌丸さんへの私なりの追悼記事。

 3位は昨年の記事で、円楽の芸協加入に関するもの。

 5位は、最初の師匠五代目今輔について書いた記事。

 10位は、古い記事だが、芸協の寄席の入りが悪いことへの末広亭席亭からの苦言について書いたもの。
 その後の芸協の寄席は、ずいぶん客が増えたと思うが、歌丸会長の貢献は小さくなかろう。末広亭での真打昇進披露興行で、昼の部の主任を歌丸自身が務めていたことは、私の体験からも観客動員に大きく寄与していたと思う。

 歌丸さん関連以外。
 4位はサッカーW杯の影響でFIFA放映権料について書いた古い記事。ロシア大会でも、日本は高額な放映権料を支払ったいたようだ。

 6位、7位は6月末の末広亭居続けの記事。

 8位は、NHK大河「西郷どん」のこと。ほぼ、撤退した。
 ほぼ、と言うのは、その後もチラ見しては、がっかり、という状態だったため。
 慶喜の側室が出る度に、おいおい新門辰五郎の娘はどこへ行った、と思ってしまうのだよね。

 9位は、真夏に開催する東京五輪のこと。暑さがつのってきて、アクセスも急増した。

 なんと今日は、42都道府県に高温注意情報が出ているとのこと。
 2年後の8月1日は、決勝種目が集中する土曜日で「スーパーサタデー」と位置づけられている。バドミントンやテニスなどに加え、陸上男子100メートル決勝もこの日を見込んでいる。さて、どんな「スーパー」な日になることやら。


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# by kogotokoubei | 2018-08-01 12:27 | アクセスランキング | Comments(0)
 昨日は、日曜恒例のテニスが都合により休み。

 ということで、池袋か、こっちの会か迷っていたが、落語協会のサイトで、池袋はお目当ての主任菊志んがお休み。
 ネットで国立の二人会の空席がありそうなのを確認し、電話で予約。
 それにしても、「志ん輔の会」が、ネットでも予約できるようになったとは驚きだ。

 そうそう、昨年も、同じ時期の日曜に雨でテニスが休みになり、行っている会。2015年4月にあった会にも行った。
 この二人会とは縁がありそうだ。
2017年7月31日のブログ
2015年4月30日のブログ

 昨年の会では、志ん輔の『三枚起請』と龍志の『酢豆腐』が良かった。

 この会は、二席ともネタ出しされている。
 龍志が『片棒』『らくだ』、志ん輔は『船徳』『厩火事』。
 
 一時開演だが、少し早めに出かけ半蔵門駅と永田町駅の間にある中華料理店で昼食をとって、十二時少し過ぎに会場へ。一階受付でチケットを入手。
 ネットで九割位が埋まっていたので、席はお任せしていたが、十列目の中央ほどの良い席だった。
 
 いったん出てコンビニでアイスコーヒーを買ってから、演芸場に戻った。

 一階喫煙室に入ると中に主催者の方もお一人いらっしゃって、結構会話が弾んだ。
 詳しい内容は、内緒^^
 
 階段を上がって会場へ。結果として実来場は八割位だったろうか。

 出演順に感想など。

桃月庵ひしもち『転失気』 (14分 *13:00~)
 昨年六月末広亭の『平林』以来。
 あの高座でも感じたが、見た目のひ弱さとは違って語り口はしっかりしている。芸人らしい雰囲気も醸し出しており、なかなか楽しみな人だ。

立川龍志『片棒』 (27分)
 ケチは地獄に落ちて、それも暗闇地獄。しかし、真っ暗なのに平気で歩けるのは、爪に灯をともしているから、なんていう洒落た小咄などのマクラから本編へ。
 三人の息子の誰に家督を譲るか悩む赤螺屋ケチ兵衛、自分が死んだらどんな弔いをするかで決めようとする。
 長男の金は、「世間に笑われないような弔いを」、と大豪華版。通夜は二晩、本葬は本願寺か増上寺、お土産は一流料理屋の料理を本漆の三段の重箱に詰め丹後縮緬の風呂敷で包む。足代として一人に二万ほど包む、合計一人十万ほどかけて五、六千人呼ぼうというバブルな案。ケチ兵衛が胸をおさえ、「出てけ!」と怒鳴るのも頷ける。
 この噺の聞かせどころに次男、銀の場面。江戸っ子龍志の持ち味が生きる。「あっしは、誰もが驚く、色っぽい弔いを出します」と、まずは紅白の幕を家の周囲に張るところから始まる。
 その色っぽい弔い行列の先頭は、頭(かしら)ご一行の木遣り。新橋、葭町、柳橋の芸者連の手古舞が続く。
 山車には算盤を持ったケチ兵衛人形。
 神輿がやって来て、♪テンテンテレツク、♪ワッセワッセ、♪チャンチャカチャンとなんとも賑やか。
 木遣りから神輿までの擬音の聞かせどころは、さすがに客を飽きさせない。
 花火が上がり、銅鑼の音で周囲が静まって弔辞。最後は万歳という弔いだと聞いてケチ兵衛、またも「出てけー!」
 「あいつは私の血じゃない」「婆ぁの血だ」というケチ兵衛の科白がなんとも可笑しい。
 さて最後は、三男の鉄。「仕方がありませんから、弔いは、出します」で、ケチ兵衛は最初がっかりするが、次第に鉄のケチぶりに頷く。「出棺を十時と決めさせていただきます」という鉄の言葉に、「今から時間まで決められると、なんか淋しくなるねぇ」の一言が、客席から静かな笑いをとる。結構、ご高齢のお客さんが多い会場だった。十時と言っておいて都合で変わったと八時に出棺してしまえば、酒も肴も出さなくていい、という鉄のアイデアにケチ兵衛の「えらい!」で、客席から大きな笑い。棺桶は菜漬けの樽、という鉄に、ケチ兵衛が「おまえ、親こうこ、なんて洒落かい」と言うのに対し、鉄が「いえ、臭いものには蓋」で、またまた会場爆笑。
 鉄が「菜漬けの樽を荒縄で巻いて」の言葉に「まるで罪人だね」と言うケチ兵衛だが、鉄のケチぶりに次第に感心していく。そして、サゲ。
 見事に三人の個性を描き分け、なかでも次男の銀が秀逸。
 五月に聴いた横浜にぎわい座での古今亭菊丸のこの噺も見事だったが、龍志も負けてはいない。
2018年5月2日のブログ
 菊丸は実に丁寧に三人の息子を描き、なかでも次男の唄が秀逸だった。その菊丸よりは龍志が描く銀のぞろっぺいな姿も、まさに江戸っ子で悪くない。江戸の風と粋、そんなものを感じさせてくれた高座、今年のマイベスト十席候補とする。

古今亭志ん輔『船徳』 (40分)
 隅田川の花火がこの日に延期になったことから、浅草の行きつけの喫茶店で聞いた花火に関する地元の人たちの会話などのマクラから本編へ。
 最初に書くが、この噺も二席目も、志ん輔の工夫が明確に表われた高座だった。
 冒頭は、船頭になりたいと言う徳と親方の会話から、船頭たちが集まっての勘違い懺悔の場へ。このあたりは、本来の筋書きと大きく変えていないが、なよなよした徳の姿が、とにかく可笑しい。
 さて、四万六千日。客二人を乗せた徳。
 船宿の女将が「なにかあっても、若旦那だけは無事に帰ってきてくださいよ」で、蝙蝠傘の客が「おいおい、何か言ってるよ!?」とおびえる。
 もやいを解いて、なんとか出発したものの竿を流してしまい櫓へ。同じところを三度回って、ようやく少し落ち着く。土手を歩いている紗の羽織のい~い女に見とれていたが、連れの男がいてがっかりする場面などは、好きだ。そのすぐ後に竹屋のおじさんを見かけて声をかける。おじさんが心配そうに「大丈夫か~い」と言われ、傘の男が、またまた不安になる。
 船と土手の高低さが伝わり、高座に奥行が出る。
 煙草の場面がないままに石垣へ。蝙蝠傘を犠牲にして難を逃れたが、傘の客の怒りはおさまらない。この時の徳の“切れ方”は、師匠志ん朝よりは、兄の馬生のそれに近いように感じた。
 そして、煙草の場面が登場。これは、師匠とは順が逆。しかし、違和感はない。「汗が目に入ってしまって」、という場面は割愛。
 しばらく静かになって客が徳を見ると、もう駄目。
 「もう、やだ~」「やだ~」「やだ~、おりて!」
 前半に造形していた、なんとも、ナヨナヨした徳の姿とつながる徳の姿。駄々っ子の徳、なのである。
 サゲは替えていなかった。
 通常の筋書きを入れ替え、また、徳の人物造形にも工夫があった高座。私は、志ん輔落語が出来上がりつつあるような高揚を感じながら聴いていた。今年のマイベスト十席候補としたい。

 ここで、仲入り。

 さて、一服して後半戦へ。開演前に喫煙室で楽しくお話ができた方は、仲入りの営業でお忙しいだろう、さすがにいらっしゃらなかった^^

 さて、後半戦。

古今亭志ん輔『厩火事』 (22分)
 一席目に続き、浅草の喫茶店における出来事のマクラ。ネタと関連性のある笑えるものだったが、その内容は、秘密。
 この噺でも志ん輔の工夫が見受けられた。
 お崎夫婦の喧嘩は、お崎さんが休みで大好きな芋(やつがしら)を茹でていたら、「また、芋か」と旦那が言うことから始まったという設定。夫は刺身好き。
 他にも工夫があって、お崎さんの夫について仲人の旦那が、「あれは、うちの二階に居候していたのを、女房の髪を結いに来たお崎さんが一目惚れして、あんな遊び人はやめなと何度も言ったのを聞かずに一緒になったんだ」と二人の馴れ初めを明らかにした。加えて、「元々、腕のいいやつなんだ、一人でも食っていける、いいよ、別れな別れな」という旦那の科白がある。しかし、何の腕がいいのか、説明がない。大工、左官・・・・・・。聞き逃したのかなぁ。いや、言わなかったはずだなぁ。
 私は、こういうことに「?」が付くと、なかなかその後の噺に集中できなくなるのだ。どうも居心地が悪いまま聴き続けていた。また、麹町のさる殿様が、大事な皿を抱えたまま階段から落ちた女房に向かって「皿は大丈夫か、皿は皿は~」と○○回も皿ばかり心配した、という回数を言う場面で噛んでしまったのも、残念。
 お崎さんの夫が一人で刺身を肴に酒を呑んでいた、という話は割愛。冒頭に、素性を明らかにしているから、不必要とも言えるが、この改作は評価が分かれるところだろう。
 一席目の工夫は、噺の骨格を壊すことなく楽しめた。しかし、こちらの工夫は、まだ改良が必要と感じた。

立川龍志『らくだ』 (44分 *~15:47)
 マクラでは、子供の頃、近所には怖い、おかしなおじさんがいた、と振り返る。
 ベーゴマの台のことを「床」と言うのを初めて知った。実は、北海道で過ごした少年時代、私の近所ではベーゴマは流行っていなかったのだ。もっぱら、ビー玉やパッチ(メンコ)だったなぁ。
 さて、本編は、通し。
 龍志のこの高座でも、気になる言葉不足があったなぁ。
 らくだの兄貴分、丁(の)目の半次が屑屋の久さんに月番のところに行かせた後、「もう一軒行ってこい」と言うのだが、「大家のところへ行って来い」とは言わずに次の科白につなげた。その途中で大家の名は出たのだが、ちょっとリズムが悪くなったのは否めない。
 大家のところでのカンカンノウも、少し短縮バージョンだったかな。もう少し見たかった^^
 八百屋で棺桶代りの名漬けの樽を借りて来るのだが、これは一席目とツク、と私は思う。ツクことを徹底して嫌う志ん輔は、龍志の二席のネタを聞いて、指摘しなかったのだろうか。
 もちろん、良い場面もたくさんあった。久さんが半次に清めの酒を注いでもらい、三杯目から主客逆転する当たりは見事だった。らくだの髪を剃る場面や、落合の火屋に向かう場面なども楽しく、私の席近くの女性陣などは大笑いしていた。
 全体としては、もちろん悪くない高座ではあったが、さて、この人にとってこの噺がニンなのかどうか。
 一席目の、大いに江戸の風と粋を感じた高座の余韻の方が、強く残っていた。


 はねて残暑きびしい中を帰宅。

 台風がそれて、なんとか今月も落語会に来ることができた。

 それにしても今回の台風12号の進路は不思議だ。

 なにも、急カーブしてまでこの前豪雨被害のあった西日本を襲わなくてもいいだろうにねぇ。
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# by kogotokoubei | 2018-07-30 12:27 | 寄席・落語会 | Comments(6)

大山は、本日夏山開き。

 先日、中込重明さんの本から『大山詣り』の原話について書いて記事で紹介したように、今日は、大山の夏山開き。

 前の記事でも引用したが、神奈川県のサイトの観光情報のページから、伊勢原市観光協会のフライヤーをダウンロードできる。
神奈川県サイトの該当ページ

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 暑い山開きの日となったが、台風による雨予報の明日よりは、ましだろう。

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 榎本滋民さんの『落語小劇場』(下)では、この噺が最初に載っている。

 夏山にも、登る時期で名前がついている。

 六月二十六日から七月七日までを初山、八日から十三日までを間(あい)の山、十四日から十七までを盆山。旧暦だから盛夏から初秋である。
 2014年7月17日、私が初めて行った柳家小満んの会でこの噺が演じられたが、その日いただいた栞には、間の山、盆の山の期間は同じだが、初山は七月一日から七日、と書かれているなぁ。
2014年7月18日のブログ
 あの日は、とにかく『有馬のおふじ』が素晴らしかったことを思い出す。
 同じ山岳信仰にまつわるネタだが、富士が大山に勝ったなぁ^^

 伊勢原市のサイトには、夏山の区分が新暦で紹介されている。
伊勢原市のサイトの該当ページ

 その内容によると、7月27日から31日を初山、8月1日から7日を七日堂、8日から12日を間の山、13日から17日を盆山と言うらしい。
 
 七日堂というのもあるんだね。

 旧暦の行事を新暦に替えているので、微妙なズレがあるのは、しょうがないか。

 しかし、やはり、こういった年中行事は、旧暦で行なって欲しいと思う。
 旧暦なら今日は六月十五日。
 山開きは、まだ先だ。

 江戸の長屋の連中の楽しみであった大山詣りは、多くの川柳からも庶民に身近なものだったことが伝わる。

 小満んの会でいただいた栞にも、「盆山の坂を掛念仏で越え」などの川柳が紹介されている。

 では、出発前の準備を含め、『落語小劇場』から。

 両国橋東詰め(小石川関口にもあった)の垢離場で水垢離を七日間とって精進潔斎する。
 罪障懺悔の唱えごとを一千回くり返すので千垢離というが、数を忘れないように緡(さし)を一本一本川に流す。よく流れるか渋滞するかで吉凶を占った。 
  百度目のさしは目より高く上げ
  投げるさし十九本目に土左衛門
  屋根船の唄垢離場につぶされる
  清浄なへのこ南無帰命頂礼
  屋形をみまいおえるぞざんげざんげ
 涼み船の美女を見るな、へのこ(男根)がおえる(勃起する)とどなっているのだから、どんな野郎たちか想像できるだろう。
 上がると、伊達染めの浴衣か白い行衣の揃いで、納め太刀と称する七八寸から一丈あまりの木刀をかつぎ、いよいよ夜中に江戸を立つ。中には当時年二期(盆と暮れ)だった勘定の清算がつかず、借金とりを避けるために大山まいりに加わる者も多かった。
  盆前の借り太刀先で切り抜ける
  納まらぬ頭でかつぐ納め太刀
  十四日抜き身を背負って夜這する
  所詮足りないと大山さして行き
  十四日末は野のなれ山へ逃げ
 この連中は借金のがれではなく、名人四代目橘家円喬以後この落語を演じて絶品とうたわれた四代目橘家円蔵は十三人、近年では第一人者六代目三遊亭円生は十八人としているが、とにかく十数人の職人の楽しい団体旅行である。
 
 江戸時代のこの時期の気候はどうだったのかはよく分らないが、猛暑での山登りは辛かったに違いない。

 しかし、登った後の楽しみが多かったからなんとか我慢できたのな。

 さて、現代では、山詣りの風習も、その後の楽しみもほなくなった。
 
 私にとっての楽しみは、落語を聴くことと、その後の居残り会が、関の山^^
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# by kogotokoubei | 2018-07-27 12:53 | 落語のネタ | Comments(0)
 来週31日の火曜は、火星が大接近する。

 毎日新聞のコラム「余録」が、なかなか興味深い内容だった。引用する。
毎日新聞の該当コラム

「この節毎夜二時ごろに現出せる赤色の星を遠めがねにて見れば、西郷隆盛(さいごう・たかもり)氏が陸軍大将の官服を着せる体(てい)なりと。何人(なんびと)がこれを言い出したるか、かかる妄説さえ伝えに伝えて、物干棚(ものほしだな)に夜を更(ふ)かす人のある」▲1877(明治10)年8月3日、「西郷星」の出現を伝える新聞記事である。これ、実は9月3日に地球に最も近づいた火星の大接近であった。西南戦争で政府軍に追いつめられた西郷さんが自刃したのは、同じ月の24日のことだった▲火星が5630万キロの距離まで接近したこの時、二つの衛星が見つかり、「運河発見」の騒ぎもあった。一方、今夏の火星大接近の最接近距離は5759万キロ、西郷星よりは少し遠いものの6000万キロを切る接近は15年ぶりだという▲星の見にくい東京でも、このところ夜になると南東の空でひときわ赤い輝きを見せている火星である。最接近日となる7月31日にはマイナス2・8等にまで明るくなり、見かけの大きさも遠い時の約7倍になって夜半の南の空に輝く▲今では「スーパーマーズ」とも呼ばれる火星大接近だが、最接近後も9月上旬ごろまでマイナス2等を超える輝きを保つという。昔の人が西郷さんや火星人の運河に見立てた表面の模様の変化を天体望遠鏡で目にするチャンスである

 月にはウサギ、火星には西郷さんがいる、ということか。

 国立天文台のサイトに2003年以降の接近日と距離などが掲載されているので、引用。
国立天文台サイトの該当ページ


 年月日   時刻(日本時間) 地心距離  視直径(秒角)明るさ(等)

2003年 8月27日   18時51分   5,576万km   25.1    -2.9
2005年10月30日  12時25分   6,942万km   20.2    -2.3
2007年12月19日  8時46分    8,817万km   15.9    -1.6
2010年 1月28日   4時01分    9,933万km   14.1    -1.3
2012年 3月6日    2時00分   10,078万km   13.9    -1.2
2014年 4月14日   21時53分    9,239万km   15.2    -1.4
2016年 5月31日   6時34分   7,528万km   18.6    -2.0
2018年 7月31日   16時50分   5,759万km   24.3    -2.8

 「余録」にも書いているが、次に5,000万km台に接近するのは、2035年。

 何気なく調べてみたら、2003年には、ヨーロッパは猛暑で、なかでもフランスで被害が甚大だった。
 Wikipediaの「ヨーロッパ熱波(2003年)」から引用する。
Wikipedia「ヨーロッパ熱波(2003年)」

フランス

この熱波の影響で、フランス国内では元々夏に比較的暑くなる地域として知られていたヨンヌ県では、2003年8月初旬に8日連続で40℃以上の気温が観測された。

フランスでは75歳以上の高齢者を中心に14,800人以上が熱波により死亡している。

フランスは、特に北部地域において、夏でも基本的にはそれほど暑くならない。このことが人的被害が大きくなった原因と考えられている。と言うのも、突然の熱波に襲われたため、ほとんどの人が脱水症状に陥った場合の対応ができなかったこと、多くの住宅や施設に空調が備えられていないこと、自然災害や人災による緊急マニュアルが策定されていても高温は対象外であったことが挙げられる。

この熱波をきっかけに、フランス政府は全国熱中症警戒情報システム(SACS)の開発が決定された。

 大変だったんだねぇ、15年前のヨーロッパ熱波。

 15年前、そして、今年の猛暑、もしかしたら火星大接近が関係しているのかもしれない。

 近づいてくるのが、なんたって「火」の星だからね。


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# by kogotokoubei | 2018-07-25 12:53 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 先週二十日が土用の入りで、かつ丑の日。

 なにかと鰻の話題が多かったが、今になって、西日本新聞のコラム「春秋」の内容に気が付いた。引用する。

西日本新聞の該当コラム

江戸の頃から庶民に好まれたウナギは落語の題材にも…
2018年07月21日 10時34分

 江戸の頃から庶民に好まれたウナギは落語の題材にも。その一つ「鰻(うなぎ)谷」。へそ曲がりの魚料理屋の主人は、不漁続きで他の料理屋が休んでいると知って、店を開けてやろうと考えた。が、肝心の魚が手に入らない

▼ふと川を見るとヌルマがうじゃうじゃ。食べると命がないとされ、誰も見向きもしない魚である。仕方なく捕まえて帰り、かば焼きにしてみたら、香りも味もとびっきり

▼ヌルマを店で出したと知れば、客は「そんなもん食べられるか」と怒りだす。そこで女房が「私の手料理です」と助け舟。客が「うまいなぁ、お内儀(ないぎ)」と繰り返すので「お内儀」が「うなぎ」に聞こえ、いつの間にやらヌルマがウナギになったとか-

▼きのうは土用の丑(うし)の日。落語の中では川に「うじゃうじゃ」だったウナギだが、今や高根の花。ニホンウナギは絶滅が心配されるほど数が減り、養殖用の稚魚シラスウナギも記録的な不漁。価格高騰で「そんなもん食べられるか」と庶民の嘆きが聞こえそう

▼特定の日にウナギを大量消費する習慣を見直そうとの動きも。「牛肉やアナゴで精を付けて」とPRしたり、サンマやサバのかば焼きで代用したり、魚のすり身をウナギのかば焼きそっくりに仕上げたり

▼品薄、高値で密漁や違法取引も横行しているという。貴重な資源を守る助け舟と思えば、時にはウナギが「ウナギふう」になっても「うまいなぁ」といただけよう。
=2018/07/21付 西日本新聞朝刊=

 この「春秋」の内容、せっかく珍しいネタを取り上げてくれたのはいいのだが、少し、言葉足らず。

 この店の名が、菱又ということから、「魚偏に日四又」で鰻となったということも、説明が欲しいところだ。
 また、「私の手料理です」と機転をきかせた女房の名が、お谷さん。それで鰻の下へ谷の字を書いて「鰻谷」となり、菱又のあった長堀南通りが鰻谷と名が変わった、ということも加えてもらいたいのだが、そこまで書いていては字数が足らないのも事実。

 補足した内容は、上方落語を調べる上で度々頼りにしている「世紀末亭」さんのサイトにある、橘ノ円都の1963年の高座の記録を元にした。
「世紀末亭」さんサイトの該当ページ

 円都がマクラで、この噺を演じるのはほぼ自分だけ、と語っているように、実に珍しい噺であり、西日本新聞の春秋の筆者の方が、よくぞ取り上げてくれたものだ。

 橘ノ円都は、二代目桂小南の本『落語案内』について書いた記事で、小南の上方での師匠として紹介した。
2018年2月4日のブログ

 膨大なネタ数を誇っていたと言われる円都をして、「もう、お前にやる咄はないわ」というほど稽古してもらった小南。
 しかし、小南の残した音源に、私が調べた範囲では、『鰻谷』は見当たらない。
 稽古をしてもらったものの、東京では、やはり演りにくいネタだったということだろうか。

 今年は夏土用の丑の日が、二日ある。「二の丑」は8月1日。

 私は、何度か書いてきたが、土用の丑の日は、鰻を食べない日と決めている。

 別に牛肉やアナゴの「鰻もどき」を食べようとも思わない。

 そうだ、土用には「土用しじみ」だってあるじゃないか。
 「土用しじみは、腹ぐすり」と言われてきた。
 夏バテ解消、二日酔にも最適。

 しじみは良質なたんぱく質を豊富に含んでいる。このたんぱく質を構成しているのが、アミノ酸の一種であるタウリン、アラニン、グリコーゲンなどで、肝臓の働きを助けてくれる作用がある。
 その他、ビタミンB2やカルシウム、鉄、亜鉛、マグネシウムなど、暑い時期には汗とともに排出されて不足しがちなミネラル分も豊富なのだ。
 「腹ぐすり」と言われていたのには、これだけの訳がある。

 とはいえ、そのしじみが、果たして「やまとしじみ」なのかどうかが、実に怪しい。
 結構、いろんなお店や商社などで、産地偽装をしてきた過去もある。

 ロシア産を青森の十三湖産だなんて嘘をついていた業者もある。
 
 そのうち、「土用しじみは、腹ぐろい」なんて言われるようにならなきゃいいが。
 まぁ、産地を正直に表示してくれればいいわけで、中国産だろうが北朝鮮産だろうがロシア産だろうが、そのしじみが安全ならば、私はいただくけどね。

 もうやめましょうよ、一年のうち一日か二日に集中して、日本全国で希少な鰻を食べるなんて馬鹿なことは。

 しばらく我慢して、また川に天然ウナギがたくさん見受けられるようになってから、食べるようにしてはどうだろうか。

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# by kogotokoubei | 2018-07-23 12:22 | メディアでの落語 | Comments(4)
 来週7月27日は、大山の夏山開きだ。

 神奈川県のサイトの観光情報のページから、伊勢原市観光協会のフライヤーをダウンロードできる。
 その中の夏山開きの案内部分をご紹介しよう。
神奈川県サイトの該当ページ

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 「お花講」とは、なんとも可愛い名前だこと。

 落語の『大山詣り』(上方では『百人坊主』)については、ブログを始めて間もなく、記事を書いた。
2008年7月25日のブログ
 
 あらためて『大山詣り』に関して棚の本をめくっていて、あの噺の元ネタについて認識を新たにした。

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中込重明著『落語の種あかし』(岩波書店)

 中込重明さんの著『落語の種あかし』は、岩波書店から2004年6月に発行された。
 しかし、著者の中込さんは、本書の発行を待つことなく、同年4月に三十九歳の若さで旅立っている。
 中込さんには、他にもう一冊、亡くなる直前に書かれた『明治文芸と薔薇』という著作がある。
 どちらも、延広真治さんの支援によるものだ。
 
 他に新書版の入門書的な本、「落語で読み解く『お江戸』の事情」(青春出版社)があって、同書からは拙ブログで何度か引用している。

 田中優子著『江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか?』と比較した記事を書いたこともある。
2010年6月12日のブログ
 杉浦日向子さんの著作も含め、江戸時代にどれくらいご飯を食べていたか、なんて記事も書いた。
2017年9月16日のブログ

 さて、『落語の種あかし』は、中込さんの遺作と言ってよいと思うが、その内容には、落語の原話を探るための、著者の執念のようなものを感じてしまう。

 では、もうじき夏山開きとなる『大山詣り』は、どんなルーツを持っているのか、本書から引用したい。
 さて、落語「大山詣り」の原話だが、他の落語に較べて、これまで諸書に指摘が見られ、広く知られている。その一つ、興津要『日本文学と落語』(1970、桜楓社)の「西鶴と落語」では、典拠を狂言「六人僧」として、これから、井原西鶴の浮世草子『西鶴諸国ばなし』(貞享二年・1685刊)巻一・七「狐四天王」へ、さらに滝亭鯉丈の滑稽本『大山道中膝栗毛』をはさんで、現行の上方落語「百人坊主」・東京落語「大山詣り」へ、という系譜を説明している。他の文献でも一様に、「百人坊主」の出典同様、「大山詣り」の原話を狂言「六人僧」としている。現在考えられるところで最も古い、この種の話柄である「六人僧」から、順に見てゆくことにした。古川久他編『狂言辞典』(東京堂出版)事項編より、その梗概を引用する。
   諸国仏詣を思い立ち、同行二人を誘って旅に出た男(シテ)が、仮にも怒る心など
   持つまいと提案し、互いに誓い合う。途中辻堂で一休みし男が寝入ると、他の二人が
   男の髪の毛を剃り落としてしまう。目をさまし驚くが誓言の手前怒れない男は、このような
   姿では具合が悪いからと一人別れて帰宅し、妻たちを呼び集めると、高野への途中紀ノ川で
   二人が溺れ死んだので、一人残った申し訳なさに僧形になって戻ったと言う。二人の妻は
   夫の菩提を弔おうと尼になるので、男はその髪を高野山へ納めようと再び旅立つ。そして
   高野山で同行の二人に出会うと、三人の仏詣をなじみの女に会いにいったと諫言する者が
   あって、二人は妻のさし違えて死んだと言い、証拠だと髪を見せる。二人は妻のあとを
   弔おうと剃髪する。さて帰郷すると、二組の夫婦は互いの生存を驚き喜び、男に詰め寄る。
   そこへ男の妻も尼になって出てくるので、これも仏の導きであろうと、出家三人・尼三人、
   男女別々に霊場を巡り後世(ごせ)を願おうと、名残りを惜しみ謡留めにする。(三百番)

 ここに引いた文字が示すとおり、ほぼ「大山詣り」の原形が完成されてしまっている。

 狂言に似た話がある、ということは薄々知ってはいたのだが、その内容までは知らなかった。

 中込さんのこの本、一度はざっと読んでいたはずなのだが、狂言の内容までは覚えていなかった。

 中込さんが偉いのは、実に粘り強く、一つの落語ネタのルーツを探ろうとしていること。
 この後、『西鶴諸国ばなし』の「狐四天王」と「お霜月の作り髭」の紹介が続いて、同じく西鶴の浮世草子『懐硯』の「水浴の涙川」の考察もしている。
 しかし、これらの話は、寝ている間に悪戯をする、という点で「六人僧」との類似点はあるものの、仲間の女房までを巻き込んでの復讐ネタとしての趣きはない。

 中込さん、まだまだ負けず(?)、十返舎一九の黄表紙『滑稽しつこなし』(文化二年・1805刊)の挿話に『大山詣り』の原形を見出そうとする。

 この挿話は、神田八丁堀の長屋に住む左次兵衛・太郎兵衛・権兵衛が江の島参詣に行って、という設定だが、ほとんど「六人僧」と同じ筋書き。

 結論として、狂言「六人僧」から着想を得た一九の『滑稽しつこなし』の挿話を母体として、落語「大山詣り」が産声をあげたとする見解を、「大山詣り」成立の主流としたい。
 ところで、一九よりも古い談義本に「六人僧」を生かし、さらに「大山詣り」の趣向にきわめて類似した説話があるので、その粗筋を引いておきたい。滑稽本『俗談唐詩選』(宝暦十三年・1763成立)巻之一「飲中八仙は口頭の交り」がそれである。

 「飲中八仙は口頭の交り」は、江戸橋辺の両替店の主人・知無多屋上戸郎(ちんたやじょうごろう)と酒飲み仲間の他の七人と屋形船に乗って・・・という設定で、上戸郎が髪の毛を剃られた後は、こちらも「六人僧」とほぼ同じ内容。

 『俗談唐詩選』の方が、一九の『滑稽しつこなし』より古いのだが、中込さん、このように書いている。

 これは、『滑稽しつこなし』に先行する、「大山まいり」と同趣向の説話として位置づけられる。ただ、一九と落語との深い関係を考えれば、『俗談唐詩選』から落語への直接的影響について、一九からの影響以上に強く言うわけにはいかないであろう。

 なるほど、十返舎一九と落語との深い関係、か。

 一九のことを、もう少し知りたくなった。

 この後、注記が二頁半続く。
 なにごとも疎かにできない、著者の個性が察せられる。

 「六人僧」から「滑稽しつこない」への飛躍、そして「大山詣り」という傑作落語への発展を知ることは、実に楽しい読書体験だった。

 もちろん、その噺を、多くの名人上手だちが、高座で磨いてきたからこそ、今も、我々が楽しむことができるわけだ。

 音源では、迷うことなく古今亭志ん朝。
 「志ん朝十八番」に、私はこの噺を入れている。
2012年2月3日のブログ

 現役では、多くの噺家さんが演じるが、なかでも春風亭一之輔が出色。

 まさに、この噺の似合う季節になってきたなぁ。

 もう少し、暑さがやわらいだら、寄席か落語会で出会いたいものだ。


 最後に本書の延広真治さんの「あとがき」から、少し引用。

 なお、文中の『会報』は、諸芸懇話会のそれである。

 『会報』二百三十六号(平成十三年十一月刊)に「追悼・古今亭志ん朝」を草して中込君は、悲嘆に打ちひしがれながらも次のように結ぶ。
   やはり、ここで、落語を見捨てるわけにはいかない。だから、精一杯力の限り新しい
   落語家に期待しよう。再び落語の黄金時代の到来が来ることを信じて、その日まで
   生きてゆこう。
 なんと子供たちが、毎朝「寿限無~」を唱える日がやって来たではないか。この寿限無世代が十年たてば木戸銭を持って寄席に通いだす。君の信じたとおり、「黄金時代の到来が来る」(管理人注:“到来が来る”に傍点)のは必至である。どうかその日を中込君、双眼で見定めてくれたまえ。そして傍点部のような表現が本文にも見受けられた場合には、手直ししたことを許してくれたまえ。

 四月二十一日 中込君三十九歳の誕生日に

 追記 四月三十日、中込重明君は白玉楼中の人となりました。奇しくも『明治文芸と薔薇』上梓の日でした。
 
 中込さんは昭和四十年の生まれ。延広さんは昭和十四年生まれなので、二回り以上も上なのだが、あとがきからは、同じ落語という芸を愛する同士としての熱い思いを感じる。

 残念ながら、中込さんの著作は、多いとは言えない。

 本書の内容は、今後も紹介していくつもりだ。

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# by kogotokoubei | 2018-07-19 21:18 | 落語のネタ | Comments(0)
 なんとも暑い日々が続く。

 体温を越える暑さの地域もある・・・・・・。

 二年後の東京五輪は、この時期に開催される。

 兄弟ブログ「幸兵衛の小言」に、ほぼ一年前に書いた記事と重複するが、この暑さもあって、あえてこの件について。
 
 個々の競技を含む日程は、「2020東京2020」というサイトに詳細が掲載されている。
「2020東京2020」サイトの該当ページ

 7月24日が開会式だが、サッカーは22日から始まる。
 8月9日が閉会式。
 ちなみに陸上のマラソン女子は8月2日で、男子は閉会式の8月9日。

 昭和39年の大会は、ご存じのように、10月10日が開会式。
 旧体育の日。

 なぜ、こんな暑い時期の開催なのか・・・・・・。

 日本のJOCは「最高のパフォーマンスをしてもらうため7月24日~8月9日にした」と言っているようだが、猛暑が想定できる季節に、どうやって「最高のパフォーマンス」など期待できようか。

 実は、IOCのお達しなのだ。
 それには多分に商売の論理が影響している。

 IOCは開催都市に立候補する大前提として、7月15日~8月31日で開催することを求めている。

 それは、欧米のテレビで五輪の放送時間を確保するためなのだ。

 春先はMLBが始まるし、9月に入るとサッカーの欧州チャンピオンズリーグの戦いがあり、米プロフットボールのNFLも開幕する。

 IOCが夏にこだわるのは、これらとの競合を避けるためなのである。

 要するに、魅力的なプログラムのない“夏枯れ”に、オリンピックを開催させるのであって、そこには、開催都市(国?)の意向などは入る余地がない。

 オリンピックという素材をメディアに高く売るための、猛暑での開催なのだ。

 かつては、開催国が開催時期を決めることができた。
 昭和39年の東京五輪10月開催は、過去の天候を入念に調べ、選手が「最高のパフォーマンス」を発揮でき、また、観客にとっても過ごしやすい季節を優先した。

 今日では、選手のことも観客のことも二の次。すべては、商売のためなのである。

 では、前回のリオ五輪はどうだったのか。

 biglobeの「ZenTech」という旅行に関するサイトに、リオデジャネイロと東京の気温などの比較グラフがあったので、お借りする。
ZenTechサイトの該当ページ

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 リオ五輪は、8月5日から21日に渡って開催された。

 ご覧のように、8月の平均最高気温は、リオの方が東京より大幅に低い。

 一年中で、温暖差が少ないとはいえ、リオは南半球にあるから、季節なら冬なのである。

 安倍首相が、“原発はUnder Control”という嘘までついて招致した五輪だが、果たして、暑さという自然を、どうコントロールしようとしているのか。

 今、体温を越えるかという猛暑の中、「不要不急」の外出を避けるようメディアも伝えている。

 二年後のこの時期も、同じような天候が、十分想定できる。

 人間的な、そして自然と融和した発想に基づくならば、「不要不急」な場合には外に出るな、と言われるような30度を超える猛暑の時期に、五輪など開催するのは愚の骨頂ではないか。

 そもそも、二度目の東京五輪など開催する必要は感じないが、もし、開催するなら、もっと開催する側が主体的に時期なども選べるようにすべきでないか。

 IOCの利益のために五輪が存在すること自体が、問題。

 百歩譲って夏に開催するならば、少なくとも、国民に熱中症などの被害が出ないように最大限の対策を施して欲しい。

 二年後、猛暑の中を東京五輪観戦に出かけることを、政府は「不要不急」と言うわけにはいかないだろう・・・・・・。

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# by kogotokoubei | 2018-07-18 12:36 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)

 NHKの大河「西郷どん」は、西郷と大久保役の俳優がそう悪くないと思い見続けてきたが、そろそろかな、と思っている。

 先週は、沖永良部島から戻った西郷が京に出向く場面だった。

 たしかに、久光は西郷嫌いであるが、あの煙管を噛む場面、多すぎる。

 史実では、あの後、久光は薩摩の京都藩邸の体制改革で西郷を軍賦役に登用している。
 そういったことも、しっかり表現すべきだろう。

 時代考証を担当する人も、史実とは違うことを認めているのだが、それって何か変でしょう。

 SmartFLASHの記事から引用する。
SmartFLASHの該当記事

 明治維新の英雄・西郷隆盛を鈴木亮平(34)が演じるが、「史実との違いを探せばきりがありません」と語るのは、鹿児島・志學館大学の原口泉教授(70)だ。
 『翔ぶが如く』(1990年)、『篤姫』(2008年)などの大河に携わり、『西郷どん』でも時代考証を担当。その原口教授自ら、史実との違いをツッコんでくれた。
 ということで、次のように史実と違う項目(フェイク)をあげている。

【フェイク1】西郷隆盛と主君の出会い
「第1回の放送で藩主・島津斉彬(渡辺謙)がお忍びで薩摩へ帰り、幼少期の西郷隆盛と出会います。しかし、当時斉彬が住む江戸から幕府の許可を得ずに帰るのは、不可能に近い。
 史実ではないので、『天狗』に化けて子供の西郷に会う、というような演出になっています。誤解がないように、番組の最後で、『このとき斉彬が薩摩に来た記録はありません』とナレーションを入れてもらっています」

【フェイク2】西郷は下戸
 主君・斉彬と西郷が飲み明かすシーンもあるが、「西郷は下戸です」。

【フェイク3】西郷家と大久保家の場所
 大河では、西郷家と盟友・大久保利通(瑛太)の家が隣同士という設定だ。
「実際には、150メートルほど離れていました」

【フェイク4】「妙円寺詣り」は夜
 島津義弘の武勇を偲ぶ地元行事、「妙円寺詣り」も描かれている。
「これは本来であれば、夜間におこなわれる行事です。キャストの小学生が夜のロケに出られないので、昼間に撮り終えたと聞いています」

【フェイク5】糸子は幼馴染みではない
 西郷は3人の妻を娶っている。3番めの妻が糸子(黒木華)だ。
「2人が幼馴染みという設定も史実に反します。脚本の中園ミホさんが『2人は子供のときに会わせたい』との希望でしたので、『まあ、いいでしょう』と」

【フェイク6】月照と西郷の関係
 林真理子氏の原作で、話題を呼んだのは僧・月照と西郷の関係だ。主君の斉彬を亡くし、絶望のあまり切腹を図る西郷を、月照が夜具に誘って慰める。尾上菊之助が演じる月照とのシーンは、どう描かれるのか……。
「2人の関係を、林さんは『ボーイズラブ』とおっしゃっていますが、私は月照と西郷は『一心同体』だったと思います。斉彬の君命を受けた西郷と、孝明天皇の勅命を受けた月照は、まさに志をひとつにしていた。男と男、男と女の愛など超えていたのです」

【フェイク7】糸子の奄美大島訪問
 物語の中盤で、妻・糸子が奄美大島に渡り、西郷の2番めの妻・愛加那(二階堂ふみ)とその息子・菊次郎と会う場面がある。
「時代考証の立場からは史実と違うと言いました。ですが、林さんはドラマ上、糸子と愛加那に、女同士で話をさせたかったと。これは歴史小説やドキュメンタリーではなく、新しいジャンルの物語だと思っています。あくまで西郷という人間を描いているのです」

 物語のプロット作りから参加した原口教授は、『西郷どん』で新しい西郷像を描こうと試みた。

 なんと、時代考証家が史実との違いを指摘してはいても、作家の意向で、ありえない出会いを捏造することを許しているということか。

 “新しいジャンルの物語”って、いったい何・・・・・・。

 朝の連続ドラマは、“特定の人物をモチーフとしたフィクション”と、嘘であると宣言している。まぁ、我慢しよう。

 しかし、大河は違うんじゃないの、と思っていたのだが。

 この時代考証家は、こう言っている。

「ぜひ、そういう番組を観ている若い人に観てもらって、新しい国づくりに役立ててほしいですね」

 嘘の歴史を押し付けておいて、何が“新しい国づくり”だろうか?

 そろそろ、このドラマからは撤退かな、と思っている。

 史実との明らかな違いが多いし、西郷隆盛を描くにあたっては不可欠な人物が登場しないなど、納得できないことが多すぎる。

 磯田道史も時代考証に名を連ねているのに、なぜそうなっているのか。
 彼もNHKの番組への出演が多いから、最近は人気タレントとして、了見が変ってきたのかもしれない。

 前半で一番ひっかかったのは、藤田東湖が登場しなかったこと。
 
 西郷にとって、斉彬を別とした恩師を二人あげるなら、橋本左内と、藤田東湖と言われる。

 ちなみに、「翔ぶが如く」では、元新国劇の大山克巳(旧芸名は大山勝巳)が藤田東湖を演じた。

 そして、「西郷どん」で配役でもがっかりしたのは、岩倉具視役。
 鶴瓶では、ちがうんだよねぇ、イメージが。第一に、私は彼を役者とは思っていない。
 ちなみに「翔ぶが如く」では、小林稔侍。

 15日の第二十六回「西郷、京へ」は、岩倉以外にも、いろいろと気になったなぁ。
 慶喜と久光の場面も、ああではないだろうと思う。

 そして、慶喜の側室が、あの女性とは・・・・・・。

 どうしても、女性を中心とするドラマにしようとする無理がある。

 特別番組に「翔ぶが如く」で西郷を演じ、「西郷どん」でナレーションをしている西田敏行が出演していた。鈴木亮平が映像で語っていたが、彼は「翔ぶが如く」の映像を見て、西郷役西田に政治的な長科白が多く、それをしっかり薩摩弁でこなしていたのことに驚いた、というようなことを言っていた。

 ということは、「西郷どん」には、政治的な科白が、ないということか。

 あの時期、登場人物に政治的な話がないはずはないが、それをあまり語らせていない、ということは間違いなかろう。

 妙に、間が多いのも気になる。

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海音寺潮五郎著『西郷隆盛』

 海音寺潮五郎の『西郷隆盛』を、読み返している。

 京に上った西郷と大久保の会話について。

「わしにも茶を下され。酒はあまり好きではなかのに、宴席となると、つい過ごしてしまう」
 と、西郷が言うと、大久保はみずから急須の茶を新たにして、ものなれた手で、淹れてくれた。
「ああ、うまい。もう一ぱい」
 重ねて所望してのんだ。
「京は茶もようごわすが、水がようごわすので、一しお茶がようごわすな」
 と、大久保もまたのんだ。
「菓子もうもうごわすな」
 むしゃむしゃと饅頭を、忽ち二つも食った。大久保は微笑してそれを見ていたが、西郷が三つ目に手を出したところで言う。
「食べながらでようごわす。用談にかかりもす」
「ああ、言うて下され」
 饅頭を食いながら、聞いている。
 大久保は極度に低い声になっている。それは久光のことであった。大久保の言うところによれば、薩摩の癌は久光である、頑迷で、まことにこまる、しかしながら、我々が多年の希望を達成するためには、藩の力を利用することは絶対に必要であるから、久光の機嫌を損なわないようにするしかない、それを考えたから、こうして特別に会うことにした云々・・・・・・。
「なるほど、わしがまたご機嫌を損ずるようなことをしはせんかと思われたわけでごわすな」
 と、西郷は笑った。
 (中 略)
「オマンサアは直情怪行、いつも信じるところを堂々と押して行くお人でごわすが、こんどはそれではいかんのでごわす。こまかな芸当が必要なのでごわす」
 西郷は瞑目して考えこんだ。しかし、これはやらなければならないことだ。この三、四年の間に幕府を倒し、日本の姿勢を立て直さなければ、日本は外国の餌食になってしまうことは確実なのだ。
「よろしい。やりもそ!」
 と、大きくうなずいた。

 
 この会話には、西郷と大久保の個性が、なかなか見事に描かれているように思う。

 「西郷どん」の中では、西郷も大久保も、あまりに表面的な人物としか描かれていないように思う。
 西郷には二枚腰、三枚腰のしぶとさがあることや、大久保は策士として西郷に大きな影響力があったことなど、もっともっと彼らを描くのなら、やり方があると思うなぁ。

 さて、大久保の助言を胸に西郷は久光との対面を終え、久光は在京の幹部を集めて、京都藩邸の組織を改造した。藩主名代は三男の薩摩図書、家老は小松帯刀、軍賦役を西郷が担うことになった。
 西郷の任ぜられた「軍賦役」の「賦」は「くばる」という意味だ。すなわち、軍事司令官の役目である。西郷ははじめて、天下第一の精兵をもって自任する薩摩藩兵の京都における総司令官になったのである。

 西郷に天が活躍する場を与えた京都で、これから内戦が始まる。

 さて、次週、禁門の変までは見ようか・・・・・・。

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# by kogotokoubei | 2018-07-17 12:54 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(6)
 今日7月14日は、里見弴が百三十年前、明治二十一(1888)年に生まれた日だ。

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矢野誠一著『文人たちの寄席』(文春文庫)

 先日、宇野信夫のことで引用した矢野誠一さんの『文人たちの寄席』には、里見弴の章もある。
 なお、本書の初版は、平成9(1997)年4月に白水社から発行され、私が持っている文春文庫版の発行は、平成16(2004)年10月。

 引用する。

 里見弴が熱心に寄席通いしたのは明治の末から大正改元頃の四、五年間、年齢で言うと二十歳前後のことだという。あの娘義太夫こそその全盛期をすぎてはいたが、色物席とよばれただけあってその時分の寄席には落語ばかりでなく、常磐津の岸沢式多津(西川たつ)、新内の三代目柳家紫朝、浮世節の立花家橘之助、講釈の神田松鯉(初代)、中国手品の吉慶堂李彩などなど絢爛たる藝人だちが名人上手ぶりを高座に競っていた。

 立花橘之助の名も出た。
 色物が、今よりもなんとバラエティに富んでいることか。
 もちろん落語家も華々しい名が並んでいた時代だ。

 落語のほうでは、橘家圓喬、初代三遊亭圓右、四代目の橘家圓蔵といった三遊派の大看板が顔をそろえたいた時代で、里見弴も圓喬の十八番中の十八番だった『鰍沢』をきいている。

 このように、三遊派全盛の時代なのだが、里見弴は、こんなことをしていた。

 里見弴の家では年に一度氏神祭を催していたのだが、ある年父親に言いつかってその余興をつとめたことがある。脳脊髄梅毒症に白内障を患って失明した廓噺の名手初代柳家小せんを招いて好評だったのだが、当日来ていた親戚の医者に「ありゃあ梅毒のひどいやつだ、あんなものを座敷に連れてきて」と、さんざ油をしぼられたという。

 当時活躍していた名のある三遊派の噺家ではなく、小せんを選ぶあたり、里見弴は並の落語愛好家ではないと感じるねぇ。

 そうそう、里見弴と言えば、有島武郎、生馬の弟だが、有島家には落語と縁がある。

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永井啓夫著『新版 三遊亭円朝』(青蛙房)

 以前、圓朝の翻案作品について書いた記事で、永井啓夫の『三遊亭円朝』から、『名人長二』について次の内容を紹介した。
2013年8月11日のブログ

 明治二十五年、大阪より帰京後、怪我をした円朝が湯河原で湯治中創作にとりかかった作品である。
 題材は、有島武夫人幸子から教えられたフランスの小説家モーパッサンの小説『親殺し』(Un parricide、1884年作)を翻案、作話したといわれている。
 有島武(1840-1914、有島武郎、生馬、里見弴の父)が横浜で税関長をしていた頃、部下にフランス文学の研究者があり、その人から聞いた話を有島夫人幸子が書きとめて円朝に送ったのである。これに対する円朝の礼状が、有島家に所蔵されている。
 モーパッサンの作品がわが国で始めて翻訳紹介されたのは、明治三十三年「帝国文学」に掲載された「ゐろり火」である。翻案にしても、円朝がその八年前にモーパッサン作品を手がけていることは注目すべき事であろう。

 
 里見弴の母親が、圓朝の『名人長二』誕生に、貢献していたのである。
 その母親の実家は山内という名だが、里見弴の本名は山内英夫。生後すぐに母の実家の養子となったためだが、育ったのは有島家である。なぜそうなったかは、分からない。

 学習院から東大英文科に進んだが、中退して「白樺」の同人になった。
 先輩志賀直哉の影響を受けたが、一度、絶交状態になった。

 志賀直哉との絶交状態はその後解消したが、矢野さんは『大佛次郎敗戦日記』からの引用を含め、次のように書いている。

    里見氏の作風に対し志賀氏は小せん(落語)にならねばよいがと云った由。
 という記述がある。
 戦時風景の記録はさておき、里見弴の作風が柳家小せんにならねばとの志賀直哉のいだいた危惧の念とは、どういうことなのだろう。

 実は、矢野さんの本、この里見弴の章の後「仲入り」の章があり、矢野さんは阿川弘之の『志賀直哉』を読んで、志賀直哉の言葉の謎が解けたことを記してくれていた。
 昨年の春、結局四百五十枚ばかしになったその評伝の一応の完結を見て、ほっとした気分で楽しみにしていた封印切りをしたとたんにぶつかったくだりというのが、
    里見弴についても、自分の柄にあるものは中々上手だから、「若し盲目になって、
    脚が立たなくなれば、小説家の小せんになれる」と、芸人見立てで揶揄した。
 なる一節なのである。
 孫引きのかたちになった鍵括弧内の志賀直哉の言の出典は、雑誌「人間」に寄せた「『人間』の合評家に」なのだが、志賀直哉というひとの他人の仕事に対するきびしい物言いに、あらためて感心させられる。

 実家の宴会の余興に初代小せんを呼んだ里見弴。
 そして、先輩志賀直哉からは、その小せんの名で評されたというのは、落語好きな里見弴らしい、とも言えるかもしれない。

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# by kogotokoubei | 2018-07-14 19:58 | 小説家と落語 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛