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噺の話

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 昨日、無事帰宅。 

 さて記事のほうは、まず一昨日25日の午後のこと。

 まず、近くの「道の駅」で、ちょっとした買い物をしていた。

 「だて歴史文化ミュージアム」と「道の駅」は、同じ敷地内にある。

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          道の駅。
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 買い物は、家へのものも少々と日曜のテニスの後にクラブハウスで仲間と食べるための酒の肴、そして、両親と一緒に食べるつもりのお茶菓子。

 これが懐かしいお菓子、草太郎の「よもぎ饅頭」と「べこ餅」。

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 「よもぎ饅頭」は、お店のサイトで紹介されているように、平成19年、苫小牧での全国植樹祭にいらっしゃった当時の天皇・皇后両陛下に献上されたお菓子。
室蘭銘菓「草太郎」のサイト

 「べこ餅」は、北海道で端午の節句のお菓子。

 どちらも、子どもの頃食べた、懐かしい味。
 両親も、ちょうど良いお茶の供ができたと喜んでいた。
 
 それから、ちょっとした散策。

 24日に豊浦へディーゼル車で行った際、「大人の休日倶楽部」を利用して旅行中の方に出会い、“海に近い駅“で有名(?)な「北舟岡駅」や、今や“秘境の駅“として知られる「小幌駅」を訪ねる予定であることをお聞きしたことは書いた通り。

 母親にそのことを話したら、「北舟岡駅」なら近いから、駅舎も綺麗になったらしいから行っておいで、と言われた。

 ということで、夜に中学の同級生と会うまではたっぷり時間があるので、散策に行った次第。

 室蘭本線の「北舟岡」「伊達紋別」そして「小幌」あたりの路線図を、マピオンからお借りした。
Mapionの該当ページ

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 母は、家から伊達紋別の駅までと同じような距離、と言っていたが、後で調べたら、実家から伊達紋別駅まで1.7km、北舟岡までは、ちょうど倍、3.4kmであった^^

 汗を拭きながら辿りついたのが、その北舟岡駅。もちろん(?)無人駅だ。

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 ホームをつなぐ跨線橋に、カメラを構えた人が見える。
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 私も跨線橋に登った。

 函館からいらっしゃったお友達三人ともこと。
 「撮り鉄」さんだろう。


 陸橋から、西側の光景。

 少し曇っていて、有珠山がよく見えないが、駅と海との距離感はお分かりになるだろう。
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 少しして、特急の北斗が来た。
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 結果として、次の日、私はこの北斗で新千歳空港に向うことになったのだ。

 Wikipedia「北舟岡駅」にあるように、この駅名にも、開拓の歴史が息づいている。
Wikipedia「北舟岡駅」

当駅の所在する地名に「北」を付した。この「舟岡」地区は、仙台藩船岡領(現在の宮城県柴田郡柴田町にあった)柴田家中の人々が1870年(明治3年)頃に入植したことから付けられた地名である。現在も東北本線に船岡駅がある。

 高校時代、通学のために毎日汽車(高校二年まで、SLで通っていた)の中から見た駅なのだが、まさか、「鉄ちゃん」たちが訪れる駅になろうとは、思いもしなかったなぁ。

 さて、また3.4kmあるいて実家へ戻り、一息。

 夜は、居酒屋さんで、中学の同級生たちと久しぶりに昔話に花を咲かせた。

 昨年は、入院中だったA君も、義足をつけ、杖をつきながら来てくれた。
 
 中学時代はあまり話したことのなかった別の組の女性が紅一点で参加。
 そのA君が、中学の時、徒競走の選手として、私がA君を推薦してくれた、と語る。
 柔道部所属だったが、足は速かったと語るが、私を含め誰も信じない^^
 
 幼稚園の話も出たなぁ。
 私は、どうも幼稚園が嫌いで、たぶん二、三日しか通っていないはず。
 他の同級生は、しっかり卒園したらしい。偉い^^
 S君の話では、運動会にだけで私が出ていたらしい。親子の徒競走で、私と父、S君と彼のお父さんが一位を争ったと語る。よく覚えているねぇ。
 そのS君のお父さんも、今は施設でほぼ寝たきりとのこと。

 今を語ると、なかなか笑えることばかりではないが、昔の話では、大いに笑ったなぁ。

 二次会は、近くで同級生のお兄さんが経営するカラオケスナック。

 そこには、多くの同級生が顔を出すらしく、いろんな人の逸話が、酒の肴。
 
 日付変更線を超えたことに気づき、後ろ髪を引かれながらもお開き。
 お店のマスターが車で皆を送ってくれた。

 なんと、両親は、寝れなかったと待っていてくれた。

 いつまでも、心配をかける倅であった^^

 シャワーを浴びてから出かけていたので、すぐに寝た。

 こうして、ちょっとした“旅”と同窓会の日は暮れたのでありました。

 昨日の最終日、JRでの移動、新千歳駅からの帰宅については、次の最終回にて。
# by kogotokoubei | 2019-06-27 12:47 | 小さな旅ー2019年6月、北海道への帰省 | Comments(4)

 昨日の朝の散策は、実家から徒歩五分ほどの、「伊達開拓記念館」へ。

 開拓記念館では、小学生が「迎賓館」を写生していたなぁ。

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 記念館のすぐ先、去年は、まだ開館していなかった、「だて歴史文化ミュージアム」へ。
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 「伊達市噴火湾文化研究所」サイト内の「だて歴史文化ミュージアム」のページにあるように、今年4月3日にオープンした。
伊達市噴火湾文化研究所サイトの該当ページ

 入館料300円を支払い、二階の展示場へ。

 入り口に、こんな案内板。
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 フラッシュをさせなければ、写真撮影OKということか。

 ということで、入って最初の展示が、「伊達成実と伊達政宗」。

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 成実(しげざね)は、亘理伊達家の初代当主で、伊達政宗の腹心として、数々の戦功のあった人。

 これが、ほとんど見えないが(^^)系図。

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 伊達を開拓した邦成は、十四代目当主にあたる。

 Wikipedia「亘理伊達家」から引用する。
Wikipedia「亘理伊達家」

伊達宗家第14代当主・伊達稙宗の子・実元を家祖とし、その子の成実が慶長7年12月(1603年2月)に亘理郡亘理城主となったのが始まりで、江戸時代を通じて家中最大の24,385石を領した。

第14代当主・邦成は戊辰戦争の敗北にともない所領をわずか数百分の一まで削減され、数百名の家臣の生活のために自ら家中を率いて北海道に移住し、現在の伊達市を開拓した。明治25年(1892年)にはその功を認められて男爵位を授けられ華族に列した。伊達市と旧領の亘理・山元・新地の三町は、「ふるさと姉妹都市」として提携関係にある。

 成実の功績や、その甲冑、陣馬織などの展示もあった。
 彼の戦功を、Wikipedia「伊達成実」から、拝借。
Wikipedia「伊達成実」

天正13年(1585年)の人取橋の戦いでは、伊達勢が潰走する中にあって奮戦して政宗を逃がす。天正14年(1586年)には大森城から二本松城主へと移され、旧領の信夫・伊達両郡に換えて安達郡33か村(およそ38,000石)の所領を与えられた。天正16年(1588年)の郡山合戦では、寡兵で蘆名義広の攻勢をしのぐ一方で大内定綱を調略して帰参させ、天正17年(1589年)の摺上原の戦いでは、突出した敵の側面を強襲して合戦序盤の劣勢を覆すなど、伊達勢の中核として活躍し数々の軍功を挙げた。

 という人。

 時代は巡り幕末の戊辰戦争、そして、明治を十四代の邦成の時に迎える。
 賊軍となった亘理伊達家は、北海道に活路を見出そうとしたわけだが、そのことについては、昨年、詳しく紹介したので、ご参照のほどを。
2018年4月24日のブログ

 今回このミュージアムで再認識したことは、先住民アイヌの人々との融和の歴史。
 邦成は、アイヌの人たちの生活を害さないことを徹底し、その結果、アイヌほ人々から漁の仕方を教わり、また、食料を分けてもらったりしたことが、開拓成功の大きな礎であった。

 そういう歴史を紹介していたパネル。
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 故郷の歴史の勉強のあとは、入館する際教えていただいた、宮尾登美子記念アートホールで今月末まで開催されている、地元出身の彫刻家、渡辺元佳展へ。

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 これが、一昨年行った金沢の「21世紀美術館」を思い出すような、アートで楽しませてくれた。

 いただいたパンフレットから、作者のプロフィールをご紹介。

彫刻家 渡辺元佳
1981年北海道伊達市出身。2006年武蔵野美術大学造形学部彫刻家卒業。主に動物をモチーフとして彫刻作品を発表。近年では、銀座四丁目宝童稲荷参道(2016)パークシティ大崎(2015)、矢口南児童公園(2009)をはじめとしたパブリックスペースの作品設置や、展覧会、ワークショップなどを多数開催。2017年には、だて歴史の杜カルチャーセンターに大型彫刻「コルウス」を寄贈。「Tokyo Midtown Award 2013」優秀賞(東京ミッドタウン/2013)、「第七回エネルギー賞展」最優秀賞(東京電力TEPCO銀座館/2007)受賞。

 という方。

 その作品。

        巨大ウサギ。
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        チーズのピアノ。
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        ピアノの上のネズミ。
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 そして、昨日午後に行った、カルチャーセンター「あけぼの」のロビーにある、巨大カラス「コルウス」

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 伊達成実から邦成までの亘理伊達家の歴史をたどったあと、現代の地元出身のアーティストの作品にふれたのが、昨日の午前中の“小さな旅”であった。

 午後からも、とある場所への往復7キロを超える徒歩の“旅”があったが、それは次の記事にてご紹介。

 これから、今日の遅い朝食だ。

# by kogotokoubei | 2019-06-26 09:50 | 小さな旅ー2019年6月、北海道への帰省 | Comments(0)
 さて、北海道帰省の第二弾。

 昨日の昼間は、ちょっと遠くまでの散歩。

 まず、実家から伊達紋別駅まで歩いて行く道すがら。

 あちこちに、この幟がある。
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 伊達市のサイトから、ご紹介。
伊達市のサイト
伊達市は今年、仙台藩一門亘理伊達家領主の伊達邦成が明治政府から有珠一郡の支配を命じられて以来、150年の大きな節目の年を迎えます。
この150年という節目を基点に、先人の偉業やこれまで積み重ねてきた歴史を振り返り、伊達の魅力を広く発信し未来につなげることを基本コンセプトに「市民が自ら考え、つくり、参加する」を基調にした伊達150年記念事業実行委員会が発足しています。
実行委員会では、「伊達150年 この魅力、伊達じゃない!」をキャッチコピーに、記念事業実施に向けた検討を重ねています。

 ということで、幟やら、こんなポスターが、あちこちにあるのだった。

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 亘理伊達家の開拓の苦労については、昨年の帰省の記事で、NHKの「歴史秘話ヒストリア」で放送された「北の大地に夢をひらけ! お殿さまの北海道開拓史」を元に紹介したので、興味のある方は、ご覧のほどを。
2018年4月24日のブログ

 実家から駅までの途中にあるのは、メインストリートの一つ(?)、網代町の商店街。


          網代町商店街の地図。
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          これが、メインストリートの様子。
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          農協も、こんな建物。

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          銀行だって。

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 駅に近づいた。

 気門別川。天気も良く、流れる水も綺麗だ。

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 去年4月の写真と比べても、空の青さが違う。
          
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 途中、駅近くの喫茶店で、ナポリタンの昼食。
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 ジャズが流れる店で、中本マリのライブのポスターが貼ってあった。
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 この店のライブのポスターも。
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 さて、腹ごしらえも出来て、駅へ。

 伊達紋別駅、である。

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 各駅停車のディーゼル車(電車、ではない!)に乗るのだった。

 行き先は、ジャズ好きの従兄弟の住んでいる、豊浦。

 ボクシング元フライ級チャンピオン、内藤大助の故郷だ。

 また、町のホームページにも紹介されているように噴火湾(内浦湾)に面した良港があり、ホタテなども有名。
 また、日本一の秘境の駅「小幌」でも知る人ぞ知る地域。
豊浦町のホームページ


 ディーゼルがやって来た。
 一両での運行だ。

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 これが、その車内。
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 車内からの前方の様子。

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   伊達紋別->豊浦、360円なり。
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 乗客は、十人を切っている。寄席なら「ツバナレ」していない^^

 長和-有珠-洞爺-豊浦と、30分ほどで、終点豊浦駅に到着。


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 駅前の地図のある掲示板には、「海と緑と太陽の町」、とあった。

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 駅で、同じように下車した方と、少し話した。

 この方、小型のスーツケースをお持ちで、車内からもたくさん写真を撮っていらっしゃった。

 駅は、食堂を兼ねていて、その食堂のオバチャンから、なにやらスタンプを押してもらっていて、「鉄ちゃんだな」と気になっていたのだ。

 食堂の方との話を耳にすると、どうも20分後くらいに出る、逆方向の各駅にまた乗るらしい。

 「どちらからですか?」と声をかけると、東京からのことで、これから、海に近いことで有名な「北舟岡駅」に行き、また戻って、「小幌駅」に寄って、函館から新幹線で帰る、とのこと。

 「大人の休日倶楽部ですから^^」と笑っていらっしゃった。

 従兄弟が待っているので、それ位で「お気をつけて」と別れたが、なるほど、そういう旅もあるか。

 駅から坂を下り10分ほどで、町のメインストリートへ。

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 この通りの右手に、従兄弟の家(店)がある。

 ジャズ好きで、こんなCDの山がたくさん。

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 写真には撮らなかったが、二階には、レコードが、さて何百枚あったかなぁ。

 その中から、何枚か聴かせてもらったが、最後に聴いたのは、ブラウン&ローチ・クィンテットの傑作ライブ盤「In Concert」であった。

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 従兄弟が、毛ガニなどの土産もくれた上で、車で送ってもらった。

 三時間ほど、滞在したかな^^

 とにかく、二階のレコードを見ていたら、あっと言う間に時間が経った。

 従兄弟は、ウェストコースト派でクールジャズ派、リー・コニッツは、全部持ってるんじゃないかと思うほどのライブラリー。

 また、最近のジャズも聴いており、私が知らない北海道出身の二十歳代の女性アルトサックス奏者などを聴かせてもらったなぁ。
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 さて、次兄も来て、夕食は、いただいた毛がにとビールで始まった。

 やはり、蟹の王様は、毛ガニである!

 ということで、散策の程よい疲れもあり、昨夜は早めに寝たのであった。
 
 今、朝食を終えて、これから散策に出る予定。

 どこへ行くかは・・・次の記事のお楽しみ。

# by kogotokoubei | 2019-06-25 09:18 | 小さな旅ー2019年6月、北海道への帰省 | Comments(2)
 昨年までは4月に帰省していたが、今年は、もう少し温かくなってからと思い、昨日から実家に三泊四日での帰省。


 羽田空港で出発を待つ。
 午前九時過ぎ、外は雨になってきた。恒例のテニスはできたのかどうか・・・・・・。

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 新千歳空港は、なんとも賑やか。

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 昼は、もちろん(?)ラーメン。
 空港ビル三階の「北海道ラーメン道場」で、弟子屈ラーメンを食す。
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 並み盛でも、結構ボリュームがあったし、味噌が甘すぎず、しょっぱすぎず、なかなか結構。

 兄が空港まで迎えに来てくれたので、道央道で一路、実家へ。

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 こういう光景が、延々と続く。

 さて、実家近くの出口の少し手前に、「有珠山サービスエリア」があり、眺めがいいとのことで、寄った。

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 掲示板の写真。左から、有珠山、昭和新山、そして羊蹄山。

 こちらが、私がガラケーで撮った、有珠山。
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 左が有珠山、右が昭和新山。

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 さて、車に戻り、「伊達」の出口だ。
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 実家では、97歳の父、92歳の母、ともに健在でなにより。

 夜は、次兄夫妻がやってきて、五人で刺身や地もののアスパラ、フキの煮付けなどで晩餐。

 父も、ビールを少々に加え、私が送っていたスパークリングワインも、飲みやすいとグイグイ^^

 一夜明け、絶好のお天気。

 ニュースでは、関東で地震とのこと。

 近くのコンビニにコーヒーを買いに行った帰りに撮った、実家。

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           バラ、近影。
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 実家は、母がボケ防止のため(^^)にも、花やら野菜がたくさんなのである。

           アヤメ。
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           サツキ。
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           ダリア。
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    家の中には、胡蝶蘭。

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 ここから、食材系^^

           キュウリ。
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           サヤエンドウ。
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           アスパラ。
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 これらは、今夜の食卓に並ぶかもしれない.


 さて、これから昼食前に、街を散策だ。

# by kogotokoubei | 2019-06-24 10:18 | 小さな旅ー2019年6月、北海道への帰省 | Comments(2)
 何気なく、書棚に数冊並んだ『落語界』(深川書房)をめくっていて、今年亡くなった笑福亭松之助に関する記事に目が留まった。

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 昭和五十四年十一月一日発行の第24号、「創刊六周年記念特大号」とのこと。
 表紙のイラストは柳橋で、「大特集/春風亭柳橋を偲んで」「志ん朝落語の魅力・榎本滋民」「追悼/三遊亭圓生、突然逝く!」と並んでいる。

 多くの連載企画がある中に、相羽秋夫さんの「上方落語界の人たち」があって、その第十八回が今年二月に亡くなった笑福亭松之助。

 お題が、「さあこれからと晴れの出番を松之助」となっている。

 五代目松鶴門下で、六代目と兄弟弟子だったが、残念ながら松之助の落語は聴いたことがない。
 俳優としての姿は、何度かテレビで観ている。

 松之助が、どんな噺家さんだったか、なかなか興味深い内容なので紹介したい。
 冒頭は、酒にまつわる武勇伝が紹介されている。
 
 笑福亭松之助も、兄弟子松鶴に負けず劣らず酒にまつわる失敗談が多い。
 自ら語った武勇伝を紹介してみたい。(ABC“なにわ寄席”プログラムより)
 四代目米団治、つまり米朝の師匠が亡くなった時のことである。通夜の輪から抜け出した松之助と、米団治門下の米之助の助助コンビは酒の勢いを借りてとんでもないことを考え出した。「らくだ」よろしく、こともあろうに師匠の屍体でカンカン踊りをやろうというのである棺桶のふたを開けてまさに米団治をひうぱり出そうとした瞬間に、二人のワルがいないことに気がついた一同が見つけ出して事なきを得た。

 四代目米団治が亡くなったのは、昭和26(1951)年のことだから、大正14(1925)年生まれの松之助が26歳、米之助(三代目)は昭和3(1928)年生れなので23歳での、武勇伝。
 ちなみに、米之助は、落語家でありながらも定年まで大阪市交通局に勤めた異色の人。落語に関する知識も豊富で、米朝も頼りにしていたほど。

 さて、松之助。
 どんな噺家さんだったのか。

 彼の口演する演目の速記は、全て自筆で原稿用紙にていねいに書き連ねてあり、その原稿用紙の下四分の一ぐらいが余白になっている。ここに、何年何月何日初演。客層がこうこうの場合は、こういう演出をたてる方が良策、といった調子の反省点がびっしりと書き込まれている。これだけで上方落語の貴重な資料である。彼はこのような手間ひまのかかることを平気でやる人である。

 当時なので、自筆原稿ということにはそれほど驚かないが、この書き込みは、なかなか出来るものではない。
 
 筆まめである松之助の別な逸話もご紹介。

 ある会に一緒に出演した若手の高座の正すべき点を指摘した封書が数日後くだんの落語家に郵送されてきたりする。何通ももらって彼に傾倒している後輩がたくさんいる。口では注意出来ても手紙に認(したた)めることはなかなか出来ることではない。ましてや一門ではない他人の弟子に対してそうであるから、頭の下がる思いがする。
 こうした行動を見てくると、彼の落語に対する厳しい見方、対処の仕方が必然的に浮かび上がってこよう。

 この逸話には、驚いた。
 たしかに、なかなか出来ることではない。

 松之助の高座について。

 松之助の高座は、八方破れの飛躍の大きいマクラから始まる。勉強熱心であり皮相に物事を斬るギャグがまず何よりも楽しい。渡したちがすっかり彼のペースにはまった頃、やおら彼の信奉する古典に入る。そうすると、やにわに、きっちりと演出された一言一句おろそかにしない言葉の運びにびっくりさせられるのである。草書から楷書への突然の移行に驚くようなものだ。
 この落差が松之助落語の大きな特徴だ。『あくびの稽古』『おしの魚つり』『軽業』『くっしゃみ講釈』といった、ジェスチャーの入る古典に、彼は際立った手際を発揮する。
 あるいは、『くやみ』『黄金の大黒』のような切り口の会話が出てくる噺などは、松之助のニンが出てきて良い出来栄えを見せるのである。
 もちろん新作もやる。ほとんどが自作で、シェイクスピア劇を翻案した『じゃじゃ馬馴し』は異色中の異色である。落語に横文字の名前の人物が登場するのだから、初演の頃は聞き手がまずびっくりした。
 他に『仮面ライダー』『女の一生』『女房の飼い方教えます』など、タイトルを読んだだけでおもしろそうなものが並んでいる。

 この後、松之助のプロフィールが紹介されていて、五年前に入門した明石家さんまのことにも、少しふれている。

 ちなみに、明石家は、松之助の本名、明石徳三に由来。


 俳優としては何度かテレビでお目にかかっているが、その高座はまったく聴いたことも見たこともない。

 紹介した内容から、五代目松鶴の落語を継承する得がたい噺家さんだったことが分かるなぁ。

 談志は、六代目松鶴と松之助の噺家としての力量が拮抗している、と言っていたらしい。

 数少ない記録として平成紅梅亭のDVDがあるようなので、遅ればせながら聴いてみようか、などど思っている。

# by kogotokoubei | 2019-06-21 12:36 | 落語家 | Comments(4)
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岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)

 このシリーズの最終四回目。

 岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)は、平成19(2007)年の発行で、内容は平成6(1994)年から発行が始まった『これが志ん生だ』(三一書房、全十一巻)の月報の中から選んで編まれている。
 副題が「家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔」とあるように、志ん生 “が” 語るのではなく、志ん生 “を” 語っている本。

 志ん生の師匠は・・・ということではいろんな人の名が登場するが、馬生は、こう語っている。

 オヤジさんの師匠は“イカタチ”の圓盛がいて、小圓朝がいて、鶴本の志ん生(四代目)、三語楼(初代)がいたわけなんですがオヤジさんが一番影響を受けたのは、“めくら”の小せん(初代)だそうですね。
 あたしは知らないけれど、速記を読むとよくわかる。うちのオヤジさんに、
「めくらの小せんはどういうしゃべりかたをしてたの?」
 って聞いたら、
「俺と同じだよ」
 って言ってました。
「女郎買いってのは難しいもんでしてな。寄席ぇ終わって、うちへ帰って、茶漬けを食う。腹が減っちゃあ何もできませんからな。で、表へ出ると灯りがある。人力があるけど高いから尻ぱしょりして歩きだす。女郎買いか、火事場へ行くんだかわかりませんな・・・・・・」
 って調子が同じなんです。で、そう演(や)っていって『とんちき』なんかに綺麗に入っていくんですよ。だからオヤジさんは、柳家小せんを襲名するべきだったくらい似ていたらしんです。鶴本さんとは似てなかった。

 “二十七歳で腰が抜け、三十歳にして失明し、三十七歳で没した“”初代柳家小せんについては、『居残り佐平次』を中心に以前書いたことがある。
2014年1月23日のブログ
 馬生は、憧れの圓喬とともに影響を受けたもう一人が、初代小せんであり、当時仲間内で高く評価されていなかった小圓朝の弟子だったことは、あまり言わなかったと語る。
 
 しかし、圓喬や小せんを真似るだけではなかった。
 マクラだって、自分なりの工夫をすることに努めていた。馬生が語る。

 うちのオヤジさんは、マクラは勉強してましたよ。『江戸小咄』の本を宝物みたいにして、そいつを読んじゃあクスグリを拵えてたんですよ。で、お客さんも待ってるわけですよ。例えば
「えー、カストロなんてえ人がいまして、焼酎の親方みたいな名前で・・・・・」
 こんなことは普通の人が言ったって、おかしくも何ともないんですよ。でも、、引っくり返るんですから。お客の方も<面白んだ。面白いんだ>って先入観で聞いてますからね。だからそれだけで笑うっちゃう。

 この“カストロ”のマクラ、私の持っている音源でも聴いている。
 
 当代の噺家さんで、マクラがマンネリ化している人が、少なくない。
 一つのネタにまでなっているのならまだしも、つまらないマクラを聴くと、本編を聴く前に、がっかりしてしまう。
 ネタのみならず、名人と言われる地位においても志ん生がマクラを磨いていた了見も、見習うべきだろう。

 馬生も、そんな志ん生を見習っていたのだが。

 最初の頃はあたしもオヤジさんのような感じの噺をしていたんですが、途中でこれじゃあいけないってんで、変えたんです。まあ、そう思ったのは二十年くらい前なんですがね。そうしたらオヤジさんが、
「何だ、お前の噺はちっとも面白くねええじゃないか」
 って言うんです。
「これからはお父っつぁんと違う演りかたをしないと、俺、駄目になっちゃうから・・・・・・」
「何言ってんだ。俺が演りゃあ客がわーっと笑うんだから、俺の言う通りにやれっ」
 もう喧嘩別れになっちゃってね。今、どうやらこうやら食べられるのは、あの時オヤジさんとああなったけど、自分なりに変えたからだと思うんです。

 たしかに、馬生は、芸の上では父から離れたからこそ、独自の芸風を築くことができたんだろう。

 それは、持ち味の違いなどもあるが、父とは好対照な馬生の“理詰め”の性格にもよるのだと思う。
 たとえば、『火焔太鼓』について馬生はこう語る。
 あの噺は全然でたらめな噺。一文で買ったんだからね。だいたい“火焔太鼓”というようなものを市で買ってこられるわけがない。それに“火焔太鼓”ってのは大きいんですよ。ヒョイヒョイと担いで行けるようなものじゃないんです。オヤジさんはそんなことはいっさい構わないで演っちゃう。こっちはそのまま演ったら大変だと思ってね。だからできるだけオヤジさんとは違う噺を選んで演ってたんです。

 この馬生の“理詰め”の姿勢は、弟子たち、なかでも、むかし家今松に継承されていると思う。
 それは、たとえば師匠の『大坂屋花鳥』を拡大して語る『嶋鵆沖白浪』の花鳥が島流しになった舞台を、作者談洲楼燕枝の創作三宅島ではなく、事実に基づき八丈島に改定するなどが物語る。

 今回、この本を再読して、あらためて感じたのは、同じ人間同士に、師匠と弟子、そして父と子という別の関係が内包している難しさだ。

 十代目金原亭馬生にとっての師匠・五代目古今亭志ん生と、美濃部清にとっての父・美濃部孝蔵との関係の、なんとも複雑なパラレルワールド、とでも言おうか。

 きっと、志ん生には、それほど気にしないことだったのだろうが、子の馬生にとって、それは、なかなか割り切れないジレンマが一生つきまとってような気がする。

 甘えたい時に甘えることができず、頼りたい時に父がいなかった、馬生。しかし、周囲からは、親の七光り、という視線が絶えず感じられたのだろう。

 短い生涯だったのは、そんな彼の精神的な苦難が影響しているような気がしてしょうがない。
 
 さて、長男馬生が語る志ん生のシリーズは、これにてお開き。
 
# by kogotokoubei | 2019-06-19 12:47 | 落語の本 | Comments(6)
 昨日の記事の“マクラ”でリンクしたのだが、2012年9月1日の「関東大震災と、志ん生」という記事へのアクセスが、百を大きく超えていた。

 どう考えても「いだてん」効果と言えるだろう。
 
 視聴率ではなく、視聴“質”の高いドラマは、観る人もドラマに登場する内容への関心が極めて高いのだろう。

 クドカンが、実に的確にあの震災を描いたことを、しっかり受け止めている視聴者がいるのだ。

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岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)

 さて、このシリーズの三回目。

 岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)は、平成19(2007)年の発行で、内容は平成6(1994)年から発行が始まった『これが志ん生だ』(三一書房、全十一巻)の月報の中から選んで編まれている。
 副題が「家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔」とあるように、志ん生 “が” 語るのではなく、志ん生 “を” 語っている本。

 前回は、馬生が、家ではちっとも面白くないから、志ん生の高座が面白い、なんて話していることをご紹介。
 では、家ではどんな親子の関係だったのか。馬生は、こう語っている。

 あたしはオヤジさんとは酒の呑みかたがちっとも合わないんですよ。だから、誰かが、
「お父さんと呑んだ時のことを」
 なんて聞くんだけれども、思い出しても何もない、思い出がないの。
 うちのオヤジさんてえのは、例えば湯豆腐をグツグツと煮てて、酒をグッと呑んじゃうと、その湯豆腐ですぐ飯を食っちゃう。わたしは、トロトロ、トロトロ呑んですよ。するとオヤジさんが、
「手前(てめい)みてえなヤツと酒を呑むのは嫌だっ」 
 だからほとんど一緒に呑んだことがない。

 酒呑みの印象が強い志ん生だが、家での酒は、実に大人しかった。
 昨日の「いだてん」では、関東大震災で酒屋の四斗樽から一気に一升五号の酒を呑んだ、というのは、いわば“火事場の馬鹿力”で、例外。
 また、あの双葉山と呑み比べをして二升呑んだが、さすがに横綱には勝てなかったという逸話もあるが、これまた例外と言えるだろう。

 じっくり呑む酒が好きな馬生は、父の晩酌の友とはなれなかったようだが、若い時分には、様子が少し違っていたようだ。

 酒は二ツ目の頃のほうが一緒に呑むことが多かったですね。二ツ目の頃は、こっとはついて歩いてましたからね。そうすると、
「お前の今の噺はこうだ」
「これはいけねえ」
 とか、
「あの師匠はこうやってたぞ。俺はこうやるけど」
 というようなことを教えてくれましたね。例えば、細かいことですけど、
「お前、碁を習え。俺は知たねえから『傘碁』はできないし、『碁泥』はできない。で、『雨の将棋』って将棋で演(や)ってるけど、あの噺は将棋じゃ駄目だ」
 とか。だいたい自分の欠点もそのまま言ってましたね。
「俺は“間”を持ってジーッとしゃべってるよりも、ある程度スーッとしゃべってるほうが自分も心持ちがいい」
 って言ってましたね。マクラのうちは、
「えーえ・・・・・・」
 なんて言っても、噺に入るとトントン、トントンっていくリズム感が何とも言えませんでしたね。

 二ツ目の頃には、なかなか好ましい親子の会話があったじゃないか。
 私は、馬生の『笠碁』の音源が好きで、五代目小さんよりも良いと思っている。
 その十八番の背景には、父・志ん生の助言があったとは、嬉しいじゃないか。

 馬生は、志ん生が、橘家圓喬の弟子だった、と主張することなどについて、こう語っている。

 うちのオヤジさんが、圓喬の弟子だって言ってましたけど、それは一つの見栄でいいじゃないですか。
 最初は圓盛(三遊亭)、“イカタチ”の圓盛さんの弟子で・・・・・・弟子っていうか、あの頃は、とにかく咄家になれればよかったわけです。師匠は誰でもかまわなかったんです。で、咄家になってその後、小圓朝(二代目)さんの所へ自然と吸収されていくわけです。
 で、一時、圓喬師の弟子が足りなくなっちゃんで、小圓朝さんの所へ、
「誰か若い者を貸してくれよ」
 って言ってきたんで、オヤジさんが行ったらしいんですね。
 今は何かと詮索して楽しむようなところがあるでしょう。情報化社会だから。
「馬生は志ん生によって不幸になった」
 って余計なことを言う人がいる。
「志ん朝は、志ん生によって幸福になった」
 なんて。何だっていいんですよ。そんなことは大きなお世話なんです。そういうことでみんな腐っちゃうんだよね。私は圓右(二代目)のことをずいぶん細かに調べてるけど、かなり上手かったらしいですよ。それをね、徹底的に黒門町(八代目文楽)がけなしましてね。
「あれは馬鹿でした。馬鹿松でした。本当に馬鹿でしたね。それが証拠に掃除夫になって終えました」
 って言ってましたけど。圓右さんが、<落語界がみんなでぶったたいてくるなら、俺はやめちゃおう>って、掃除夫になって晩年をおくたってのは本人にとってよかったと思うんですよ。大成しないで、高座をやんないで、楽屋の隅で割り(給金)をもらって生きていくより手前でもって掃除夫になって、誰の世話にもならないで、誰も知らないうちに死んじゃう・・・・・・。あたしなんか、そっちをとりますね。
 だから、小圓朝さんだって、本当の意味で先代の倅っていう色メガネで見られなかったら、もう一段大きな咄家になったと思いますね。

 
 馬生、志ん生本人が「圓喬の弟子だった」と言っているんだから、それでいいじゃないか、それ以上詮索するのは野暮だ、と言っているのだろう。
 いろいろ詮索してその本人の言葉を否定しにかかっている私なんぞは、馬生からは、野暮の固まりに思えることだろう^^

 また、二代目の圓右(本名沢木松太郎)、三代目の小圓朝に関する言葉は、同じ咄家の倅という立場、いわば“同志”としての思いが吐露されたと思う。

 今回は、これにてお開き。

# by kogotokoubei | 2019-06-17 12:57 | 落語の本 | Comments(4)
 今夜の「いだてん」は、志ん生一家の引っ越し、そして、関東大震災・・・・・・。

 大震災と志ん生のことについては、以前書いたことがあるので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2012年9月1日のブログ

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岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)

 さて、このシリーズの二回目。

 岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)は、平成19(2007)年の発行で、内容は平成6(1994)年から発行が始まった『これが志ん生だ』(三一書房、全十一巻)の月報の中から選んで編まれている。
 副題が「家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔」とあるように、志ん生 “が” 語るのではなく、志ん生 “を” 語っている本。
 
 前回は、馬生が、父と母の生前中に、六代目志ん生は弟の志ん朝に継がせると約束していた話をご紹介。

 さて、今回は。

 馬生にとって、父はどんな存在だったのか。

 この聞き書きでは、珍しくこんなことを言っている。
 この頃よく<つまんねえなあ・・・・・・>と、考える。とにかく人の面倒ばかり見てきた。物心ついた時から親の手伝いでしょ。それから戦争に入って、咄家になって、・・・・・・咄家も一番悪い道をずーっと歩いてきて、やっとどうにかなった時には、志ん生の倅ってことで、つまり、“咄家の倅いじめ”ってのがあってね。志ん朝はあたしが防波堤になったから、まあ、ぶつからなかったんですけどね、それをやられて、ようやっと振りきってやってきたんです。

 これだけ泣き言を言うのは、珍しいのではなかろうか。

 昭和三年生まれの馬生。
 笹塚の家を夜逃げ同然に引っ越して業平の“なめくじ長屋”で暮らすようになったのが二歳の時だ。
 予科練を志していたが、腸の病気で大手術を受けることになり、断念。 落語家になろうと思い立って昭和17(1942)年、十四の時に父に入門し、四代目むかし家今松を名乗った。ちなみに、当代は七代目。
 当時は落語家が足りなかったため、二ツ目からのスタート。昭和十九(1944)年頃、初代古今亭志ん朝と改名。昭和二十(1945)年四月、終戦直前になって父・志ん生が満州慰問に出てしまったため、苦労を重ねた。 
 だから、志ん生没後、父について語ることには、積極的と言えなかった。

 オヤジさんの話をするってのは本当は嫌なんです。それはね、志ん生というとみんなが綺麗な印象を持ってる。それをどうしたって一つづつはがしていくことになるでしょ。
 まあ、あたしなんか志ん生を偲ぶってのを何十回とやってきた。だから、
「もう勘弁してぃださいっ。うちのオヤジさんは名人だったんです。で、非常に楽しい芸人だったんです。それでいいじゃないですか。みなさんが頭の中で描いている志ん生像が一番なんです。それぞれがこしらえてる志ん生像がある。それを何もほうぼうからはがすことはないんだから、もうよしましょうよ」
 って今まで言ってきたの。

 志ん生を高座や音源でしか知らない人に、その家族がイメージを壊しかねない姿を暴露することへの遠慮、気配り、ということもあろうが、馬生にとっては、長男として抱く父、美濃部孝蔵への複雑な思いもあっただろう。

 馬生、いや、美濃部清にとって、父の孝蔵とはどんな存在だったのか。

 まあね、うちのオヤジさんは内側だとちっとも面白くないんですね。面白くないからこそ、高座が面白かったんですよ。楽屋でやたらと面白い人がいるんですよ。楽屋でやたらと面白いんだけど、高座に上ると面白くないの。うちのオヤジさんなんて楽屋でブスっとしている。前座に、
「何が出てるぅ?」
 って聞いて、で、
「・・・・・・うん・・・・・・」
 って言って、高座に上る。そこで一席演って、下りてきて、次へ行っちゃう。皆さんが期待するようなことは何もないんです。これだけの話だからね。

 それでも、家では親子の会話だってあっただろうにと思うのだが、それについては、次回。
# by kogotokoubei | 2019-06-16 21:05 | 落語の本 | Comments(0)
 古今亭志ん生について書かれた本は、たくさんある。

 その中には、私と同様、生の志ん生の高座を知らない著者による本もあった。

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岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)

 岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)が、それだ。

 志ん生と、りんさんの実にいい写真がカバーとなった本は、平成19(2007)年の発行で、内容は平成6(1994)年から発行が始まった『これが志ん生だ』(三一書房、全十一巻)の月報の中から選んで編まれている。

 この本、副題が「家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔」とあるように、志ん生 “が” 語るのではなく、志ん生 “を” 語っている本。

 まだ、「いだてん」を充分には楽しめなかった頃、志ん生についての誤解(?)を解くべく、本書から二度、記事にした。

 一つは、先代圓歌による、高座で寝た志ん生の目撃談。
2019年4月2日のブログ

 もう一つは、榎本滋民さんが証言する、志ん生の“ダンディズム”について。
2019年4月3日のブログ

 昭和二十七年生まれで、私と同世代の著者の「あとがき」から、ご紹介。

 『これが志ん生だ!』(全十一巻・三一書房)の第一巻が出たのは平成六年(1994年)の九月だからもう十三年、準備の段階から入れると十六、七年の歳月が流れている。
 当時、私は落語というより、五代目古今亭志ん生の熱烈なファンだったが、生で志ん生を見たことは一度もないのである。

 生で高座を見たことはなかったが、著者は志ん生について書かれた本を読み漁り、LPやカセットを聴きまくり、ますます志ん生への思いが募る。
 その結果、志ん生の本を出版することになるのだが、そのため多くの関係者に取材することになった。

 その取材対象者の中には、もちろん、家族も含まれる。

 先日、『柳田格之進』を楽しませてくれた、むかし家今松の師匠十代目金原亭馬生は、父志ん生についてどんなことを語っているか、ご紹介したい。

 題は、「ふだんちっとも面白くないからこそ、高座が面白かったんですよ」となっている。
 冒頭から引用。
 オヤジさんが死んでからも、いろんな人にオヤジさんのことを聞かれますけど、人について語るなんておこがましいですよね。まして、オヤジのこととなると、そうでしょ?だから、できるだけオヤジさんのことは話さないようにしてるんですけどね。その点、
「名人です。うちのオヤジは名人です」
 って言ってる志ん朝のほうが利口ですね。だから、
「オヤジさんは面白い人でした」
 それでいいんです、それは。でも、みなさんは納得しないで、何かと聞くわけです。だからここで、まあ、これが最後ってわけじゃないと思うんですけど、あたしなりのオヤジさんの話をしてみようと思うんです。

 ということで、実に貴重な記録と言えるだろう。

 この後、すぐ、襲名のことに話が及んでいる。

 みなさんが気になっているのは、あたしが六代目を継ぐかどうかっていうことなんですけど、これはもう志ん朝に継がせることに決めたんです。別に誰に言われたってわけじゃなくて、あたしが自分で決めたんです。オヤジさんの遺言じゃない。
 オヤジさんはもう志ん朝がかわいくて、かわいくてしょうがないんですよ。歳をとってからの子供でしょ。それがパーッと素直に育って、パーッと売れたでしょ。だから嬉しくてしょうがないわけです。だけど、あたしという者がいるから、心配なわけですよ、もう。そこになると単なる世間のお父っつぁんになっちゃうですね。ええ。だから、生前、
「安心しなよ。志ん生は志ん朝に襲名させるから」
 って言ったら、もう、涙と洟(はなみず)でクシャクシャになって、
「ありがとう・・・・・・ありがとう」
 って。で、おふくろからも、
「お願いします」
 って両手をつけられて、それじゃあしょうがないでしょう。わずらってるおふくろに、
「お願いします」
 って、手をつかれちゃったら。・・・・・・それであたしが志ん生になったら馬鹿ですよ。

 ということで、せっかく兄が気配りして父、そして母に約束した弟の六代目襲名だったが、それは、結果として実現しなかった。

 本書の馬生の聞き書き、ご本人の生きた言葉が聞こえるようで、なかなかいいのだよ。

 初回は、このへんでお開き。
# by kogotokoubei | 2019-06-14 12:47 | 落語の本 | Comments(0)
 月曜から、古い記事へのアクセスが急増している。

 2010年に、古今亭志ん生のりん夫人の命日、12月9日に書いた記事だ。
2010年12月19日のブログ
 
 「いだてん」の影響だろう。

 9日のいだてんも、なかなか楽しかった。

 金栗四三の、女の園でのお茶らけぶりは、クドカンならでは。

 志ん生が真打昇進した際の、ぼろぼろの着物での披露目も登場。
 そして、りんさんと結婚。

 結婚したのは、関東大震災の前年大正11年、美濃部孝蔵32歳、清水りん25歳の晩秋のことだった。りん夫人がやって来た翌日には、悪友と女郎買いに出かけた志ん生の姿も「いだてん」で描かれていたね。

 夫人が持参した嫁入り道具はあっと言う間にまげて(質に入れて)しまい、あの有名な貧乏生活が幕を開けるのであった。


 私は、このドラマ、金栗四三と田畑政治、そして、古今亭志ん生の三人が主役、と思って観ている。

 実在の人物を「モチーフ」にしたフィクションと割り切り、たとえば、若き日の志ん生の姿も、相当脚色されてはいるのだが、それも、クドカン流の楽しさと思うようになってきた。

 相変らず視聴率が低いというニュースがネットで飛び交うが、そんなことは気にしなくていいでしょう、関係者も。

 見ている人の期待度、満足度は。これまでの大河より高いのではなかろうか。
 私は、そうだ。

 視聴率という「量」ではなく、測ることはできないが、視聴「質」で勝負する大河。
 それが、「いだてん」だと思う。

# by kogotokoubei | 2019-06-12 12:57 | ドラマや時代劇 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛