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噺の話

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 BS時代劇『蛍草 奈々の剣』の六回目を見た。

 感想などは、日曜の再放送の後に書こう。

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ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人』

 このシリーズの最終回、五回目。

 本書初版は1984年に紀伊国屋書店から発行されているが、私が読んだのは、1991年の中公文庫版。副題は、「日本史に学ぶ軍縮」。

 なぜ17世紀、一時は世界でもっとも鉄砲を保有していた日本が、その“飛び道具”を捨てることになったのか。

 著者が指摘する五つの理由をご紹介。


①火器の統制がきかなくなってきたと感じる武士が大勢いたこと
  どの位、武士が多かったかについて、こう書いている。
 日本の武士団はヨーロッパのどの国の騎士団よりも規模が大きく、総人口のほぼ7~10パーセントをしめていた。
 豊臣政府は、1591年から人口調査を行ったものの、
侍を頭数の一つとして数えるのはその品位を貶めるものだとして武士を集計の手続きから除外
 したのだが、十九世紀の調査をもとに、16世紀末に約200万人、総人口のほぼ8パーセント、と試算している。
 対照的にイギリスでは、1597年において諸侯60、騎士500、地方名士(スクワイア)ならびにジェントルマン5800で、それらの家族と合わせて騎士階級は総計3万で、総人口の0.6パーセントをしめるにすぎない。ヨーロッパのどの国をとっても、騎士階級が優に1パーセントを越すような国はなかった。
 ということで、仮想敵があまりにも多い状況において、「このままでは、統制がきかなくなる・・・・・」という危惧を、多くの武士が共有していたことが、第一の理由と指摘する。
 あえて付け加えるなら、戦国の末期には、多くの武士に厭戦感が強かったと思われる。
 戦うことに疲れていたはずで、鉄砲など火器の軍備拡張合戦への動機づけも低かったと察する。

②侵略しにくい自然条件を含め、外敵に対する国家的統合の維持は通常兵器で可能だった
 加えて、ポルトガルやスペインが、日本を侵略しようとしたわけでもないし、秀吉の朝鮮出兵の記憶が残る朝鮮半島や明は、侵略することなど想像すらしなかった。

③刀剣が日本ではヨーロッパより大きな象徴的な意味をもっていた
 これは、意外に強い理由かもしれない。
 ペリンは、こう書いている。
 まず日本刀は単なる戦いの武器たるにとどまらず、プライドの物的な表現、日本流に言うならば、「武士の魂」であった。
 (中 略)
 また日本刀は、封建ヨーロッパよりもはるかに重要な社会的意味をもっていた。帯刀の権利がなければ、名字されもてなかったのである。封建日本にあっては農民、町人は帯刀の権利もなければ、名字もなかった。ときには農民や町人が出世して武士身分を許されることがあった。これは名字帯刀の特権といわれた。
 さらに日本の刀は通常の武器であるとともに代表的な美術品でもあった。
 著者はこの後、1607年に鉄砲鍛冶年寄四人が駿府に召出されて家康にお目通りを許され、帯刀まで許されたことを紹介している。

④キリスト教と商業に対する西洋人の態度への反動的な潮流の存在
 ヨーロッパの商人についてのある日本の将軍の言葉として、次の内容が紹介されている。
「利害を好み、欲ぼけの者どもである。かような唾棄すべき輩にはいずれ天罰が下るであろう」
 注には、「Boxer,Christian Century,p245」とあるが、誰の言葉かは分からない。とはいえ、当時の大半の武士にとって、ヨーロッパの商人は、武士道からはかけ離れた極悪人に映ったことは察することができる。

⑤日本刀が、日本的美学に結びついた、飛び道具よりも品位の高い武器と考えられていた
 “剣道”の名が示すように、そては、一つの哲学とも言えるだろう。
 ペリンは、その具体的な事例として、日本刀どころか鉄砲についてさえ、“作法(形、道)”が厳格にあったことを紹介している。ニューヨーク公立図書館に保蔵されている、1595年に河上茂介が著した『稲富流鉄砲伝書』の図、火縄銃を撃つ場合の姿勢についてこと細かに書かれた図を掲載しているのだが、なんと、三十二枚の図のうち、十枚も掲載しているのだ。
まことに日本人は鉄砲についてさえ、できうるかぎりの上品さを保とうとした観がある。

 私は、ペリンが挙げる五つの理由のうち、③と⑤に着目する。

 そこには、日本人の美学や哲学が存在する。

 美しくなければ、作法にのっとってなければ、道に反していたら、それは日本的ではない、ということなのではなかろうか。

 さて、今の日本に、そういった美学や哲学は残っているのだろうか。

 もちろん、徳川幕府が鉄砲、大砲の製造を制限するために鉄砲鍛冶を囲い込んだり、法的にも施策を進めたことも、大きな理由だが、著者ペリンは、日本人の美学、文化といった側面に強く魅かれたようだ。

 その美学、文化は、時代を経ても不変なものではなかろうか。

 そう思いたい。

 これにて、このシリーズはお開き。

 長々のお付き合い、誠にありがとうございます。
by kogotokoubei | 2019-08-30 22:27 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 仮想敵国北朝鮮、ということで、また日本はアメリカから武器を大量に買わされるようだ。
 AFPのニュースから。
AFPサイトの該当記事

米、日本への弾道弾迎撃ミサイル売却を承認
2019年8月28日 8:31 発信地:ワシントンD.C./米国 [ 米国, 北米, 日本, アジア・オセアニア, 北朝鮮, 韓国・北朝鮮 ]

【8月28日 AFP】北朝鮮が最近も新型弾道ミサイルの発射実験を繰り返し、日本に脅威が及ぶ恐れも生じている中、米政府は27日、弾道弾迎撃ミサイル33億ドル(約3500億円)相当の日本への売却を承認した。

 米国防総省によると、日本が購入するのは米防衛機器大手レイセオン(Raytheon)製の「SM3ブロック2A(SM-3 Block IIA)」最大73発で、艦載型イージスシステムから発射する設計。

 北朝鮮はミサイル攻撃能力を拡張しており、過去2年間、核弾頭を搭載して日米を攻撃できる中・長距離弾道ミサイルの発射能力を示してきた。

 また、北朝鮮が先月末から相次いで行った新型短距離弾道ミサイルの発射実験では、少なくとも1発が日本に届くだけの距離を飛行した。

 ほかにも国防総省は、ハンガリー、韓国、リトアニア、デンマークに対する計9億4300万ドル(約997億円)相当の兵器売却を承認した。(c)AFP

 もし、トランプが武力で半島の危機に対抗しようとしたら、それをやめさせる努力をすることこそ、同盟国の役割ではないのか。

 トランプは、さまざまな意味で、“死の商人”に見えてならない。

 日本政府は、出鱈目な調査結果を元に秋田や山口に配備を進めようとしたイージス・アショアについて、すでに1400億円ほどの契約をしているとも報じられている。

 とにかく、アメリカからの買い物に、大盤振る舞いなのだ。

 武器のみならず、中国に売れなくなったから、遺伝子組み換えのトウモロコシを日本が買うなんてこと、国民の多くは認めないぞ。
 「win-win」というのは、両者の利害が一致する、双方ともプラス、という意味だろうが、どこに日本のメリットがあるのだろうか。


 さて、ミサイルは、まさに“飛び道具”である。

 その飛び道具を一度は捨てた国が、いまは、どんどん買おうとしている。

 捨てた時代を、振り返ってみよう。


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ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人』

 このシリーズ、四回目。

 本書初版は1984年に紀伊国屋書店から発行されているが、私が読んだのは、1991年の中公文庫版。副題は、「日本史に学ぶ軍縮」。

 ペリンが分析する、江戸期に日本が鉄砲と捨てた理由の前に、日本にも鉄砲が普及していた事実も、念のため確認しておこう。

 「第三章 鉄砲の全盛時代」から。

 もちろん、その契機となったのは、長篠の合戦である。

 目標を定めた一千発の一斉射撃は、周章狼狽していようが泰然自若としていようが、敵とあれば見境いなく、相手を声も届かぬ離れた地点から撃ち殺した。鉄砲に立ちむかう場合、勇敢さはかえって不利となり、攻守ところを変えて自分が鉄砲隊となると、もはや相手の顔かたちは見分けがつかなくなったであろう。
 (中 略)
 ともあれ、鉄砲をもつ農民が最強の武士をいともたやすく撃ち殺せることを認めるのは、誰にとっても大きな衝撃であった。
 その結果、長篠の合戦後まもなく、鉄砲に対する二つの違った態度が現われはじめた。一方で、鉄砲は、遠く離れた敵を殺す武器としてその優秀性をだれにも認められるところとなり、戦国大名はこぞってこれを大量に注文したのであった。少なくとも鉄砲の絶対数では、十六世紀末の日本は、まりがいなく世界のどの国よりも大量にもっていた。

 われ先にと戦国大名が鉄砲を注文したのは、あの時代を考えたら、ごく当然のことだったろう。

 しかし、その武器を自らが使うか、ということになると、様子が変わってくる。

 他方で、正真正銘の軍人すなわち武士階級の者はだれもみずから鉄砲を使おうとする意思はなかった。かの織田信長でさえ、鉄砲をおのれの武器としては避けた。1582年信長は、死を招いた本能寺の変で、まず弓を用い、弦が切れたあとは槍で闘ったと言われる。


 このあたりの、武士の、いわゆる“美学”は、その後の歴史にも反映される。

 では、「第四章 日本はなぜ鉄砲を放棄したか」より。

 鉄砲の発明は、その後、大砲の製造につながった。

「大砲と火器は残忍で忌わしい機械です。それは悪魔がじかに手を下した仕業だと信じます」とマーティン・ルターは言った。しかるにルターのドイツは大砲鋳造の中心国へと歩みを進めていったのである。それに対し一方の日本はと言えば、十九世紀に入ってもなお甲冑作りを続けていた。
 (中 略)
 イギリス人はシェイクスピアの想像をも絶する破廉恥なる鉄砲をもって中国人を計略的に殺していた。ひるがえって日本をみれば江戸時代、その二世紀半という長期にわたり、飛び道具といえば弓矢という、旧式武器の復興期(ルネッサンス)を迎えていたのである。
 朝鮮の役が終わった頃から、ヨーロッパは急速に火器を発達させたのに、なぜ日本は火器から背をむけたのであろうか。これを説明する理由は少なくとも五つあると思われる。

 中略の部分には、シェイクスピアが『ヘンリー四世』で語らせた、次の科白も含まれている。

「あわれ、立派な勇士たちが、ごろごろ、卑怯な飛び道具で生命を落とさねばならぬ、なんという遺憾、・・・・・・こんな下等な鉄砲なんてものさえなけりゃ、拙者だとても立派な武人になっていましたように」

 “卑怯な飛び道具”“下等な鉄砲”という概念は、日本の武士にも共通するものだろう。
 騎士道、そして、武士道・・・・・・。


 さて、日本政府が懲りずにアメリカから“飛び道具”を買うニュースに少しスペースを割いたこともあり、今回はここまでとし、五つの理由は、次回最終回にてご紹介したい。
by kogotokoubei | 2019-08-28 21:27 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人』

 少し時間が空いたが、このシリーズ、三回目。

 本書初版は1984年に紀伊国屋書店から発行されているが、私が読んだのは、1991年の中公文庫版。副題は、「日本史に学ぶ軍縮」。

 ようやく、日本に鉄砲が伝来されたことへ。

 鉄砲は1543年に、日本に漂着した最初のヨーロッパ人がもたらした。それはたちどころに採用され、それから百年間、広く使用されたのである。ところがそれを過ぎると、徐々にではあるが、放棄されていった。鉄砲が採用されていったいきさつについては多くの史料がヨーロッパ側に残されている。だが、ことその放棄についてはそうではない。

 補足すると、種子島久時が薩摩国大竜寺の禅僧・南浦文之(玄昌)に編纂させた、鉄砲伝来に関わる歴史書『鉄炮記』によれば、天文十二(1543)年8月25日(西暦9月23日)に、種子島は西村の小浦に一艘のポルトガル船が漂着したことがきっかけ。

 あらためて、なぜ、鉄砲放棄の歴史が語られることがなかったか。

 その理由は単純で、以下の通りである。1543年から1615年の時期、ヨーロッパ人は日本国内を自由に通行することができた。最初ポルトガル人つづいてスペイン人、オランダ人そしてイギリス人が商館を開設した。ポルトガル人とスペイン人は日本のキリスト教改宗化をもくろんでいた(一方、オランダ人とイギリス人にはその意図はなかった)。ポルトガル人とスペイン人は当初は成功したが、最終的にはほぼ完全に失敗した。というのも日本政府が、宣教師はヨーロッパによる日本植民地化の前触れらしいと思い込んだからである。植民地化の企図を勘ぐった日本の統治者は、それゆえにまず宣教師に対し、やがては外国人のすべてに対して、一連の厳しい規制措置を次から次へと講じたのである。1616年以降、外国人の国内自由通行が禁じられた。ポルトガル人とスペイン人は長崎の居留地から一歩も外に出ることが許されず、オランダ人とイギリス人は狭い平戸港のみの活動は制限された。
 この外国人の居留地も長続きしなかった。1623年にはイギリス人が、損失続きのために、自発的に平戸の商館から立ち退いた。翌1624年にはスペイン人が長崎から追い払われた。これはスペイン人がフランシスコ会宣教師の活動を統制できなかったか、もしくは、しようとしなかったためである。1639年にはポルトガル人も追い払われた。こうして、日本人観察者として取り残されたのは、わずかな人数のオランダ人ばかりとなった。二年後には日本は鎖国をしてしまったので、オランダ人の日本観察も事実上ここの終わってしまう。オランダ人が国外退去を命ぜられなかったのは、オランダ東インド会社が行なっていた日本ー中国間の中継貿易が日本にとって有益であったからである。だが、当のオランダ人は、一種の拘禁状態におかれたようなものであった。1641年5月21日、オランダ人は平戸商館を立ち退き、小さな人工島の出島へ移るように命じられた。出島というのは縦約200ヤード、横約80ヤード、面積わずか3エーカー〔1エーカーは約4047平方メートル〕余りの島である。

 ということで、なぜ鉄砲を日本人が捨てたのかは、長らく語られることがなかった。

 また、あまり興味の対象ともならなかったのだろう。

 しかし、著者ノエル・ペリンは、その歴史に大いに関心を寄せたのである。

 それは、実に特異な歴史であり、また、軍縮につながる重要な知恵とも考えているからだ。

 第一回で引用したペリンの言葉を再度紹介したい。

 日本語版への序文に、このように書いている。
 日本はその昔、歴史にのこる未曾有のことをやってのけました。ほぼ四百年ほど前に日本は、火器に対する探求と開発を中途でやめ、徳川時代という世界の他の主導国がかつて経験したことのない長期にわたる平和な時代を築きあげたのです。わたくしの知るかぎり、その経緯はテクノロジーの歴史において特異な位置を占めています。人類はいま核兵器をコントロールしようと努力しているのですから、日本の示してくれた歴史的実験は、これを励みとして全世界が見習うべき模範たるものです。ささやかながら、本書もまた日本の経験をめぐって執筆したものです。
 この場をかりて敢えて希望を申し述べることが許されますならば、日本にいま一度新しい模範を示していただけないものか。日本が国の栄誉のために自衛隊の増強を決めたとしても、それはそれで仕方がありません。外部からとやかくいうべき筋合いのものではまったくないからです。それでもなおわたくしは、ワシントンの野心家の機嫌をとるだけのために日本が新式兵器に金をかけることのないよう、貴国に希望を託しています。

 1984年2月24日と記されている。

 しかし、この言葉は、残念ながら現在も妥当性がある。
 国と国との争いがある以上、武器を捨てるという発想には至らない。

 今日の米中や日韓の関係、G7の混乱・・・・・・。

 江戸時代に学ぶことは多い。

 それを、なんとアメリカ人が教えてくれているのが、本書だ。

 次回は、少し先に進めて、鉄砲を日本人が捨てた理由についてペリンの見解をご紹介。
by kogotokoubei | 2019-08-27 12:47 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 23日に末広亭から帰ってから見て、昨日再放送も確認したが、このドラマも佳境を迎えた。

 さて、菜々は亡き父と奉公先の主人市之進の汚名を晴らすことができるのか。

 轟平九郎の魔の手から逃れられるのか・・・・・・。

 今回、湧田の権蔵が初登場。

 これで、菜々を助ける個性的な人物が全員揃ったことになる。

 権蔵の子分たちを蹴散らした時の“菜々の剣”、凄かったねぇ。

 また、市之進を救う柚木弥左衛門役のイッセー尾形、いいねぇ。


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葉室麟著『蛍草』
 原作の『蛍草』は、双葉社から2012年に単行本が発行され、2015年に文庫化された。
 なお、双葉文庫からは、他に傑作『川あかり』も発行されている。


 今回明らかになった内容を含め、原作とドラマの主な違いを並べてみる。

 (1)原作では、菜々の父、安坂長七郎は城中で刃傷沙汰を起こし切腹したことに
    なっているが、ドラマでは濡れ衣を着せられての切腹と替わっている
 (2)原作では、菜々の佐知との思い出として和歌が登場するが、ドラマでは、 
    佐知が菜々のために作った蛍草の押し花に替わっている
 (3)原作では、菜々が佐知と子供達の危機を救う場面、相手は狂犬病の犬だが、
    ドラマでは、かどわかし(誘拐犯)に替わっている
 (4)原作では、風早市之進と轟平九郎との間に血縁関係はないが、ドラマでは、
    轟は市之進の祖父風早市左衛門が日向屋の女中に産ませた子で、二人は叔父、甥の
    関係となっている
 (5)原作では、市之進が勧められた再婚相手自身は登場しないが、ドラマでは
    雪江として登場

 雪江は、次回に重要な役割を演じるようだが、この人の存在のみ、やや蛇足と感じている。必要あったのかなぁ。

 また、葉室麟作品は、たとえば、最後の長編『影ぞ恋しき』につながる『いのちなりけり』『花や散るらん』の三部作でも顕著なのだが、和歌は重要な要素となっている。
 押し花の脚色は映像作品として相応しいと思うが、和歌は割愛して欲しくなかった。
 
 渡邊睦月、森脇京子のお二人、なかなかの書き手だとは思うが、少し残念。


 さて、ドラマも良いが、原作ならではの味わいもあるわけで、今回も少しだけ紹介したい。

 菜々が父親の残した物から、父、そして市之進の無実を証明する何かを探している場面から。

 父はどこか他の場所に隠したのだろうか、とも考えたが、どこを捜したらいいのか心当たりはなかった。頭を悩ませているうちに、
(和歌の書物に何か秘密が隠されているのではないだろうか)
 と考えついた。
 書物には父の字で書き込みがあるようだ。和歌の解釈と思われるけれど、ひょっとしたら書状の隠し場所などが書かれているのかもしれない。
 菜々は和歌の手ほどきは亡くなった佐知から短い間、受けただけで、深く解せるほどではなかった。だから書き込みにどのようなことが秘められているかは読んでもわからないだろう。
(そうだ、死神先生に読んでいただければ、わかるかもしれない)
 節斎に見てもらうのがよさそうだ、と菜々は風呂敷に和歌の書物を包み、隣りの節斎の塾へ向かった。
 この日、講義初めで正助ととよは節斎の塾へ出かけていた。塾では講義初めの日に汁粉が振る舞われるそうで、ふたりは昨日から楽しみにしていた。菜々が塾に入ると、塾生たちが汁粉の鍋を囲んでにぎやかに食していた。
 座の真ん中にいた正助が菜々に目ざとく気づいて、
「先生、菜々が来ました。菜々にもお汁粉をあげてもいいですか」
 と節斎に訊いた。だが、節斎は厳しい顔をした。
「この汁粉は、今年も学問に励む者のたまに作ったものだ。塾生でない者に食させるわけにはいかん」
 すると、正助の傍らで汁粉の椀を抱えて口をもごもぐさせているいたとよが、
「わたしはお弟子ではないけど、お汁粉をちょうだいしています。菜々はなぜいけないのでしょうか」
 とちょっぴり口を尖らせた。
 それは、そなたが子供であるゆえだ、と節斎がむきになって話すのもかまわず、菜々は塾生たちを押しのけて座り、
「わたしはお汁粉をいただきたくて参ったわけではありません」
 ときっぱり告げた。なんだ、そうだったのか、とつぶやいた節斎の前に、菜々は風呂敷包みを押しやった。

 原作の正月の塾の風景、季節感たっぷりだし、なんと言っても、菜々を慕う正助、そして、とよが良いのである。
 
 さて、風呂敷包みの中にあるのは、和歌集。
 節斎はその和歌集をめくって、こう言った。

「書き込みに謎などはない。この書物を開いて眺めるだけで、わかることだ」
 節斎は和歌集を開いて、菜々に示した。
「ここをさわってみよ」
 言われて菜々が表紙の裏をさわってみると、一枚で薄いはずの紙が厚い。二枚の紙が糊で貼り合わさっているようだ。
「それ、ここもだ」
 節斎は別の和歌集の表紙も示した。これも厚みがある。
「書物を開いて一度でもさわたったならば、すぐに気がついたはずだ」
 苦い顔をしながら節斎は小柄を取り出して、貼り合せされた部分を慎重にはがしていった。合わさった二枚の紙の間に一枚の紙が挟まれている。
 節斎は他の和歌集も小柄でていねいに次々とはがしていく。やがて十数枚もの文書が出てきた。
 それそれ借用書や念書、さらに手紙などもあり、いずれにも日向屋の名が記されていて、中には轟平九郎の名が書かれているものまであった。

 ということで、和歌、そして和歌集が重要な素材となっているのである。


 先週金曜の末広亭で三遊亭歌る多の『西行』を聴いた。
 時間が押したせいもあってやむをえないが、「あこぎ」の説明が不十分だった。

 北面の武士佐藤義清(のりきよ)は、落語においては染殿の内侍、白洲正子さんの推理では待賢門院から「あこぎ」と言われたのだが、「伊勢の海阿漕ヶ浦に曳く網も度重なればあらはれにけり」の古歌を知らなかったがために、武門を捨て剃髪、名を西行と改めて歌修行の旅に出た、ということになっている。

 和歌は、それだけ大事なのであるよ。

 実は、昨日末広亭の記事を書いた後で思い出したのだが、二年前の西行忌の日、矢野誠一さんの本を中心に、落語『西行』の記事を書いていた。
2017年3月13日のブログ

 『鼓ケ滝』は何度か聴いているが、『西行』は、初めてだったなぁ。
 今思い出すと、本来のサゲにせず、後味の良い歌る多の高座だった。


 さて、このドラマのこと。
 主人公菜々役の清原果耶は、8月21日に拡大版でも見た「マンゴーの樹の下で」において、まさに体当たりの演技を披露していて感心した。

 デビューとなった「あさが来た」での“ふゆ”の役も印象的だったし、「なつぞら」では、短い間だったが、行方不明だった、なつの妹役を演じた。

 そして、今月初旬に再放送で見ることができた「透明なゆりかご」では、発達障害という難しい役どころを演じていた。

 まだ、十七歳。

 今後が実に楽しみな女優さんだ。


by kogotokoubei | 2019-08-26 19:18 | ドラマや時代劇 | Comments(2)
 一昨日の金曜、エアポケットのように時間ができたので、久しぶりに末広亭へ。
 都合で居続けはできないが、昼の部主任の歌る多の客演に、上方から露の都が出演することや、一之輔の名に魅かれた。

 正午少し過ぎに入場する。
 三遊亭歌扇の『桃太郎』の途中だった。

 椅子席は七割ほど、桟敷も三割位は埋まっていた。
 平日、なのに。
 最終的には、椅子席は満席で立ち見席もあり、仲入りでは二階も開いた。
 桟敷も八割くらいは入っただろうか。
 まだ夏休み中ということで、家族と一緒に小さな子供も何人か見かけられた。

 いつもの下手桟敷に席を確保。

 初めから聴くことのできた内容を、記す。

林家正楽 紙切り (12分、*12:10~)
 二楽の代演で、米粒写経と出番が代わった。こんな浅い時間では珍しい。
 ご挨拶代わりの「線香花火」の後、「ミッキーマウス」。三味線と太鼓のミッキーマーチが聞けるのはここだけ、と話しながら、見事なミッキー。次が、椅子席二列目に母親と一緒に来ていた小学生の女の子のリクエスト。なんと、「ジャガーがワニをつかまえるところ」というお題^^
 正楽も弱りながらも、しっかりした出来上がり。「夏休みの宿題で、自分で切ったといって出してください、エヘヘ」と笑わせる。
 最後は、上手桟敷の女性から「サグラダファミリア」のリクエスト。闘牛とサグラダファミリア(らしきもの、と正楽)で下がった。いつ見ても、流石の芸。

林家きく麿『寝かしつけ』(15分)
 小林旭の♪昔の名前で出ています、を歌ってから、この新作。
 友人から三歳の子供を寝かしつけできないと相談を受けた男。
 子守歌や昔話の本、歌などのアイデアを出すのだが、どれも難癖をつけられて拒否。 後半は、桃太郎と犬との、きびだんごをめぐる会話で盛り上げる。
 百栄の桃太郎ネタとは別な味わいで、なかなか楽しかった。
 
三遊亭歌奴『宮戸川』 (14分)
 マクラが、なかなか味のあるブラックで良かった。
 祖父祖母、両親の家族で生まれた赤ちゃん。生まれてからまったく泣かないし、言葉を発しない。一歳の誕生日に初めて発した言葉が「おじいちゃん」。おじいちゃん、喜ぶことしきり。しかし、翌朝、おじいちゃんが、ポックリと亡くなった。二歳の誕生日に「おばあちゃん」、三歳の誕生日に「おかあさん」と続き、やはり翌日亡くなる。さて四歳の誕生日に「おとうさん」と言ったので、父親は覚悟をきめたのだが・・・・・・。
 自分の余興の落語のマクラで使うために、少し詳しく書いた次第^^
 本編は、この人らしい丁寧で明るい高座。圓歌門下の、すでに中堅として存在感がますます出てきたように思う。
 島崎又玄の「木曽殿と背中合せの寒さかな」なんて句が登場するあたりも、渋い。

ストレート松浦 ジャグリング (10分)
 色物は、芸協のほうが総合的に上か、と思ってはいるが、この人や小猫などの芸に触れると、落語協会の色物の層が厚くなったなぁとも思う。
 中国独楽、踊る傘、お手玉の芸に、客席の子供たちも目を見張っていた。

 ここで、少しだけ空いていた椅子席が、ほぼ埋まった。

三遊亭萬窓『ぞろぞろ』 (13分)
 熱い夜、近くの学校のプールに忍び込んで、というマクラも、余興で使わせてもらおう^^
 本編は、落語の教科書のような、上下、所作、目線、表情のしっかりしたもので、上品でもある。若手は、こういう人の高座を手本にすると良いと思う。
 
橘家蔵之助『饅頭こわい』 (15分)
 「落語界の箸休め」とは、言いえて妙^^
 本編は、少し脚色を加えて爆笑ネタにしている。なるほど、箸休めか、と思いながら聴いていた。

米粒写経 漫才 (12分)
 居島一平のパワフルな芸、なかなかである。
 日中戦争に従軍した、日ロ戦争にも・・・というネタなどもなんとも可笑しい。

桂才賀『カラオケ刑務所』 (15分)
 元気な姿を見ることができるのは、嬉しいのだが、ここ数年、このネタ以外を聴いたことがない。
 また、以前も書いたのだが、この作品が落語協会が募集した新作落語台本の準優勝になったのは、2014年で、五年前。そろそろ「一昨年の準優勝」というのは、あらためましょう^^

柳家小団治『ぜんざい公社』 (13分)
 定番のマクラ、オリンピックはメダルにこだわらないで、「金でも銀でも銅でも鉄でもいい」、「鉄は錆びる」「いえ、オリンピックは参加(酸化)することに意義がある」というネタ、今日のテニスの後の飲み会で使わせていただきました^^
 この人とか蔵之助は、ある意味で、寄席に来たなぁと思わせてくれる。

ダーク広和 奇術 (15分)
 大きなガマ口のようなカバンを肩にかけて登場。道具は、その中の紐だけ。
 この人、実はとんでもない名人なのかなぁ、なんて思いながら見ていた。

三遊亭圓丈『金さん銀さん』 (15分)
 仲入りは、この人。
 いつものように尺台にカンペ(?)を置いての高座。
 リズムが悪く、また、時折カンペを見るのが、気になる。
 本編は、二年前2017年10月、浅草での二代目古今亭志ん五襲名披露で聴いているので、二度目だが、あの時ほど、熱田高校時代の逸話が盛り上がらなかったなぁ。
  あの日は、春風亭栄枝の『都々逸坊扇歌物語』が良かった。栄枝も元気だろうか。
2017年10月16日のブログ
 栄枝は、志ん朝と同じ昭和十三年生まれだが、圓丈は昭和十九年生まれ、まだ、若い。
 圓丈、元気な姿を見るだけで嬉しい、という噺家になるには、まだ早かろう。
 そろそろ尺台をとっぱらって、十八番の新作でぶっとぶ高座を、また魅せて欲しい。
 ここで、二階が開いた。
 平日でも、凄い入りであることにびっくり。
 一服して、後半に備える。

三遊亭美るく『半分垢』 (9分)
 クイツキは日替わりで主任歌る多の弟子の粋歌とこの人が務めている。
 初、だ。
 登場した時から、雰囲気は講釈師。
 噺も、そんな感じ。そっち系統のネタは、合うかもしれない。

江戸家小猫 動物物まね (14分)
 なるほど、国立演芸場の花形演芸賞大賞を受賞するだけの、芸だ。
 ここまでくれば、五代目猫八を襲名するのに、誰も反対はしないだろう。
 四代目の父は2016年3月21日に亡くなっている。
 七回忌、三年後あたりが、披露目になるような気がしている。
 
露の都『堪忍袋』 (17分)
 さぁ、お目当てだった、上方初、よって日本初の女流落語家の登場。
 五年前、横浜にぎわい座の上方落語の会、以来。
2014年2月16日のブログ
 そして、同じネタだった。
 しかし、実に良かった。マクラで「三十は超えました・・・嘘ついてすんませ~ん、四十を超えました・・・嘘ついてすんませ~ん・・・・・・」から、最近の加齢による(?)逸話をいくつか披露。トイレに入っている時に宅急便屋さんが来た時の一件は、とても東京の若手女流落語家には言えない(当り前か^^)内容。
 本編は、師匠の五郎兵衛というより、枝雀が描く上方の夫婦の会話のようで、なんとも楽しい。
 五年前の記事でも引用したが、上方の噺でよくお世話になる「世紀末亭」さんのサイトから引用。
「世紀末亭 上方落語メモ」の該当ページ
 ほんでなぁ、今、平兵衛はん言ぅてたあの「堪忍袋」早いこと縫え
 言わいでも縫ぅてます。ポンポン、ポンポン言ぃなはんな、ポンポンポンポン言わな、よぉもの言わんのか。昔のこと言ぅたろか、恥ずかしぃやろ、わたしの奉公先にあんたが出入りの大工として来てたときに、毎日弁当食べるときお茶入れたったら勘違いしやがって……人のおらんとこ無理矢理連れて行って「なぁ、一緒になってくれるやろ。ふんちゅうてくれ、ふぅんちゅえ、ふぅんちゅえ」子どもに糞さすみたいに「ふんふん」言ぃやがって。あのときあんた言ぅたやろ「体ひとつで来てくれたらえぇ」ちゅうて「お前が来てくれたら、なんもせんでえぇ。わしが何でもする、お前にケガされたらかなんさかい」来たら来たでなんにもせんと、ダラダラ・ダラダラして……、思い出したわ、あんたこれ言ぅたら顔赤こなるで、言ぅたろか「お前と一緒になれへんかったら、わしは死ぬ……」いぅて
 喧しぃわ、アホンダラ。早いこと堪忍袋縫えッ!
 縫ぅてます、縫ぅてます、今できたわ。これがちゃんと堪忍袋になってたら、わたしがズッと思てたことみな、こん中に入れてスッキリしたんねん、覚えとけ・・・・・・
 こういった会話が、都ならではのくすぐりを交えて楽しく続く。
 「なんであたしが歯磨きのチューブ後ろから絞って絞ってつこうてるのに、頭の方から出すんじゃ、アホー・・・エヘヘ」てな具合^^
 この噺、上方版のほうがサゲが鋭くブラックで、好きだ。
 なかなかええとこの嫁が「くそばばぁ、死ねぇ」とは大きな声で言えないだろうし、くたばりかかったその婆さんが、堪忍袋が破れて聞こえたその嫁の声を聞いて生き返る、なんて、落語らしくていいよね。
 名人上手の高座なら東西の言葉の壁がないことは、客席の爆笑で証明していた。
 この高座、今年のマイベスト十席候補とする。

春風亭一之輔『夏泥』 (15分)
 泥棒ネタは『鈴ケ森』を得意としていると思うが、私はこの人でこのネタは初めて。
 ちなみに、2012年の真打昇進披露興行の五十日間でのネタは、次の通り。
  5回(1):茶の湯
  4回(3):百川、子は鎹、粗忽の釘
  3回(4):欠伸指南、初天神、明烏、らくだ
  2回(6):短命(長命)、不動坊、長屋の花見、花見の仇討、青菜、藪入り
  1回(10):竹の水仙、雛鍔、くしゃみ講釈、鈴ケ森、蛙茶番、代脈、大山詣り、
      鰻の幇間、へっつい幽霊、五人廻し
 私が聴けたのは、末広亭の『雛鍔』と国立の『五人廻し』の二席。
 一之輔の良さはいろんな方が指摘しているが、古典落語の可笑しさの本筋を外さす、彼なりの現代的な感性を加えて自分のネタとして作り上げていることだと思う。
 「金は計画的に使えよ」という泥棒の科白や、「おかずが食べたい!」と叫ぶ一文なし男の絶叫などで客席を沸かせる。
 ますます独演会のチケットが取れなくなるなぁ、と思った高座、寄席の逸品賞候補として、色をつけておく。

鏡味仙三郎社中 太神楽 (10分)
 久しぶり(私にとって)に三人で揃って登場。
 客席の小学生の女の子が喜ぶ顔が、こういう芸の重要性を裏付ける。

三遊亭歌る多『西行』 (30分 *~16:35)
 憧れの露の都(と、桂あやめの交替出演)が出てくれたことへの感謝の言葉から。
 東京落語界の女流落語家が二十一人になったとのこと。
 他の噺家さんと違って地噺を、とこのネタへ。
 西行がまだ佐藤兵衛尉義清という北面の武士であった時の逸話。
 帝に寵愛されていた染殿の内侍が、帝の代参で南禅寺に参詣した折り、蝶が舞う姿を見て、萩大納言が「蝶(丁)なれば二つか四つも舞うべきを 三つ舞うとは これは半なり」と詠んで短冊を内侍に渡した。
 この萩大納言は、以前に内侍に袖にされた男で、きっとその遺恨をはらすべく内侍に恥をかかせようとする企みに違いない。この時、内侍は丁半博打なんて知るはずもない。歌る多は、入門してこれも社会勉強と思い、嫌だったけど競馬競輪丁半博打をたしなんだ、と笑わせる。
 内侍が弱っているところに佐藤義清が「一羽にて千鳥といへる名もあれば 三羽舞うとも 蝶は蝶なり」と返歌で助け舟。これが、二人の出会い。
 堅苦しい宮中の生活からも逃れたいし、帝以外の男とも自由に遊びたい染殿の内侍。義清に「この世にては逢はず、あの世にても逢はず、三世過ぎて後、天に花咲き、地に実り、人間絶えし後、西方弥陀の浄土で我を待つべし、あなかしこ」という隠し文が届けた。四日目の夜中に西にある阿弥陀堂で待っているようにというナゾかけだ。義清は嬉しくて夜も眠れず、当日は早くから阿弥陀堂へ行って染殿を待つが、うかつにも居眠りをしてしまった。
 だいぶ遅れてやって来た内侍は鼻から提灯を出して眠っている義清を見て、「われならば鶏鳴くまでも待つものを 思はねばこそ まどろみにけり」と怒って帰ろうとする。義清は内侍の袖をとらえ、「宵は待ち夜中は恨み暁の夢にや見んとしばしまどろむ」と返歌し、内侍の機嫌も直って、二人は逢瀬を楽しんだ。
 帰り際に義清が内侍の袖をつかんで、「またの逢瀬は」と問うと、「義清、阿漕(あこぎ)であろう」と袖を振り払って帰ってしまった。
 ところどころ、歌る多らしいクスグリが入るのはもちろん。
 内侍が義清が寝てしまっているところを見て、現代の若いおねぇちゃんなら、などなど。
 さげてから「師匠圓歌から唯一教わったネタ、本日は月命日でございます」と聞いて、少し目頭が熱くなった。
 時間のせいもあるだろう、「あこぎ」の説明などは割愛したが、なかなかの高座。

 ちなみに、白洲正子さんが著書『西行』で、西行に「あこぎ」と言ったのは染殿の内侍ではなく、待賢門院ではないかと推理していることは、以前紹介しているので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2018年5月27日のブログ
2018年5月28日のブログ

 
 野暮用のため夜の部は断念し帰った。
 ともかく、露の都が光った。私より少しだけ年下だが、学年は同じ。元気をもらった。

 ああいう上方の女流の高座は、可愛いい、なんてもてはやされている東京の若手女流落語家に、ぜひ見習ってもらいたいものだ。

 やはり、寄席はいいね。

by kogotokoubei | 2019-08-25 17:36 | 寄席・落語会 | Comments(8)

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ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人』

 このシリーズ、二回目。

 本書初版は1984年に紀伊国屋書店から発行されているが、私が読んだのは、1991年の中公文庫版。副題は、「日本史に学ぶ軍縮」。

 前回、著者の日本語版への序文から、反戦、反核の強い思いがあることを紹介した。
 また、日本と日本人への深い思い入れなしに、この本は存在しなかっただろう。

 その背景には、著者自身の朝鮮戦争での従軍体験がある。

 「文庫版への序文」からご紹介。

 もう遠い昔のことになりますが、まだ若かった頃、私は日本の美しい自然景観のとりこになりました。それは、朝鮮戦争が勃発し、私が青年士官の身分で交替要員として戦地に派遣されたときのことです。そのとき、戦地に直接送られるのではなく、まず横浜近くに上陸し、そこから軍用列車で一路佐世保に向かいました。佐世保からは小型の日本製の軍艦に乗りかえて釜山に渡りました。釜山から軍用列車で前線に送られ、そこで新しい部隊に組みいれられて、戦闘に従軍したのです。


 朝鮮戦争と聞いて、18日に見た、NHKのBS1スペシャル「隠された“戦争協力” 朝鮮戦争と日本人」を思い出す。
NHKサイトの該当ページ

 通訳などで米軍の支援をするという名目で半島に渡った日本人が、実は、武器を渡され戦闘に加わっていたという事実は、衝撃的だった。

 話を戻す。
 ノエル・ペリンは、半島に渡る前に立ち寄った日本の記憶を記している。


 いまでも覚えているのは、横浜から佐世保までの三十時間位の鉄道の旅のことです。あれからずいぶん年月が流れましたので、やや誇張したところがあるかもしれませんが、それが横浜発の夜行列車であったこと、そして、翌日も乗りっぱなしであったこと、夏の夜が短かったとはいえ、汽車に乗っている間中、一睡もしなかったことなど、鮮明に覚えています私は、生まれて初めて眼にする日本の自然の美しい光景にすっかり魅入られ、眼の前につぎつぎと繰りひろげられる光景をどれも見のがすまいとしていました。段々畑と松の生えた山々は見事な調和を見せ、谷が随所にあり、その形状は変化に富み、ある峡谷には小川が流れ、別の谷で上流が深い峡谷になっていました。


 著者ペリンは、最後部のデッキに立ったままで、そういった日本の光景を見続けた。
 二、三時間ごとに警備兵が来て車内に戻るようにと注意されたらしい。

 私はこう答えたものです。
「もし、私がここに立っていることで、貴官に迷惑がかかるようなことがあれば、私はもうすでに五度も車内に戻るように注意されているのに、私がその警告に従わなかったと説明します。ですから気にしないでいただきたい。ありがとう、伍長」
 それは、いまから四十年も前のことですが、私が初めて軍規に従わなかった出来事でした(もっとも、そのときの私は警備兵よりも身分の高い中尉でしたから、なんということもなかったのですが・・・・・・)。それは同時に美しいものを大切にしようとするその後の生活の始まりともなりました。


 著者ノエル・ペリンは、小さな農場で牛を飼いメイプルシロップなどを作るなどの田園生活を送ったのだが、その生活を題材にしたエッセイ集も出している。
 その出発点が、朝鮮戦争に従軍する際に経由した日本で見た田園風景だった、ということか。

 それでは、本編にそろそろ入ろう。

 「初めに 世に知られていない物語」から。

 本書が物語るのは、ほとんど世に知られていない歴史上の出来事である。高い技術をもった文明国が、自発的に高度な武器を捨てて、古くさい武器に逆戻りする道を選んだ。そしてその国日本はこの逆戻りの道を選びとって成功した。この物語は、核兵器についての今日のディレンマー核が人類の輝かしい科学技術の進歩の象徴であると同時に、人類の絶滅の象徴でもあるというディレンマーにそのまま通用するわかではないにしても、類推をたくましくすれば、核兵器の廃棄という類似の事態を考える余地は十分にある。それゆえ、この話はもっとよく知られる価値がある。
 読者がこの物語を理解するに当たっては、日本史のほんのわずかな知識があれば十分である。

 この“日本史のほんのわずかな知識”、それほど、“わずか”とは言えない。

 日本人は、西暦八世紀頃から高い文化と技術ーとはいっても工業化以前の技術だがーをもっていた。その頃から数えて八百五十年あまり、日本はヨーロッパから完全に独立した発達をとげた。しかし日本の歴史にはヨーロッパの歴史と似たところがあった。というのはその間に日本は、ヨーロッパの騎士に似た甲冑に身を固めた武士のいる、まぎれもない封建社会を生み出したのである。日本人の武器のなかにはヨーロッパ人の武器に優るものさえあった。騎士道に似た武士道も存在した。複雑な宗教制度と多数の寺院をもち、その多くは、ヨーロッパで言えば聖フランシスのリトル・ブラザーズの平和主義の伝統というよりも、むしろかのテンプル騎士団の戦闘的な伝統に近いものをもっていた。日本人は莫大な富ももっていた。しかし、こと鉄砲については、これを持っていなかったのである。


 次回は、ようやく(?)鉄砲伝来のことについて。

by kogotokoubei | 2019-08-21 12:47 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 三遊亭圓生の『江戸散歩』の川本三郎の解説の中で、ノエル・ペリンの『鉄砲を捨てた日本人』のことにふれていたことを以前紹介した。
2019年7月27日のブログ

 この本、久しぶりに再読。

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ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人』

 初版は1984年に紀伊国屋書店から発行されているが、私が読んだのは、1991年の中公文庫版。
 副題は、「日本史に学ぶ軍縮」。

 著者は、1927年ニューヨーク生まれで、ダートマス大学英米文学教授だった方。環境科学も教えていたらしい。
 小さな農場でメイプルシロップをつくるなどの田園生活は、エッセイにもなっているとのこと。

 本書の一部は、The New Yokerに最初掲載されたようだ。
 
 ちなみに翻訳は、現静岡県知事の川勝平太。

 著者は、日本語版への序文に、このように書いている。

 日本はその昔、歴史にのこる未曾有のことをやってのけました。ほぼ四百年ほど前に日本は、火器に対する探求と開発を中途でやめ、徳川時代という世界の他の主導国がかつて経験したことのない長期にわたる平和な時代を築きあげたのです。わたくしの知るかぎり、その経緯はテクノロジーの歴史において特異な位置を占めています。人類はいま核兵器をコントロールしようと努力しているのですから、日本の示してくれた歴史的実験は、これを励みとして全世界が見習うべき模範たるものです。ささやかながら、本書もまた日本の経験をめぐって執筆したものです。
 この場をかりて敢えて希望を申し述べることが許されますならば、日本にいま一度新しい模範を示していただけないものか。日本が国の栄誉のために自衛隊の増強を決めたとしても、それはそれで仕方がありません。外部からとやかくいうべき筋合いのものではまったくないからです。それでもなおわたくしは、ワシントンの野心家の機嫌をとるだけのために日本が新式兵器に金をかけることのないよう、貴国に希望を託しています。

 1984年2月24日と記されているが、この著者の願いは、今でも妥当性のあるものだ。

 8月6日と9日、広島、そして長崎でのこの国のリーダーの言葉は、残念ながらノエル・ペリンが託した希望に沿うものではなかった。

 なぜ、唯一の被爆国の責任者が、核兵器廃止を大きな声で叫ぶことができないのか。

 なぜ、いまだに“ワシントンの野心家”の機嫌をとって、新式兵器を購入するのだろうか。

 鉄砲を捨てたある国の歴史のことを、次回からご紹介したい。


by kogotokoubei | 2019-08-19 12:58 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 さて、このシリーズ、四回目。

 本当は15日金曜に見ていたが、再放送を確認。

 轟平九郎を襲った者は、ことごとく轟の刃に倒れた。命は救われたが大怪我を負った者もいた。
 彼らの中の一人の行動は、この先明らかになると思う。

 轟が襲撃されるのを目撃したことを菜々が市之進に報告したことで、市之進は菜々と轟の因縁を知る。

 佐知が亡くなってから叔父夫婦が世話をしたものの破談になった再婚話の相手、雪江が市之進を訪ねて来る。
 この雪江は、原作にはない脚色。
 彼女の存在、微妙。

 やがて風早家は閉門、菜々たちは屋敷を追い出され、市之進は江戸送りと決まる。
 菜々は、江戸送りになる市之進に一目逢うために走り出す。

 原作では、故郷の姿を最後に目にするために駕籠が止められたその時、あの和歌を菜々が詠唱するのである。

 原作から、ご紹介したい。

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葉室麟著『蛍草』
 『蛍草』は、双葉社から2012年に単行本、2015年に文庫化された。

 勢田獄は町筋を抜けて、半里(二キロ)ほど行ったところにある。菜々が急ぎ足で通り過ぎる道筋に町家は少なくなり、田圃が見渡せるあたりまでたどり着くと、大きな門構えが見えた。あれが勢田獄に違いないと、息を切らして菜々は門を見つめた。この牢屋敷に市之進は押し込められているのだ。しばらく眺めているうちに、鉄鋲を打った門がゆっくりと開いた。
 (中 略)
 駕籠は城下への道筋をそれて、街道へ出る近道の、田圃に囲まれた細い道をたどった。
 菜々はその後を目立たないよう追った。どうしても市之進に子供たちのことをしっかり守っていると告げたかったが、どうやって伝えたものかと考えあぐねた。
 そうこうするうち、突然、駕籠が止まった。街道に出るすぐ手前に一本の松がある。そのあたりは城下の町を一望できるので、遠方に送られる囚人に国許と別れを告げさせるため、ひと目眺めるのを許す習わしがあった
 菜々ができる限り近づいて様子をうかがっていると、護送の役人が網をのけて、駕籠の戸を開けた。市之進が駕籠から身を乗り出して城下の方角を眺めた。鬚はかなり伸びており、体はやや痩せたとうに見えた。
 市之進の姿を見た菜々は、大きな声で、
「月草の仮なる命にある人をいかに知りてか後も逢はむと言ふー」
 と和歌を詠唱した。
 佐知が好きだと言っていた万葉集にある和歌だと、市之進は知っているはずだ。「後も逢はむ」という言葉にまたお会いしたいという心をこめた。
 市之進は声のした方に顔を向け、菜々に気づいて、わずかに白い歯を見せて笑った。


 蛍草の押し花のドラマの脚色は、悪くない。
 しかし、著書に和歌などを効果的に織り込む葉室作品の味わいも、実に良い。

 市之進が、鉢植えの菊より蛍草が好きだ、と言った言葉、菜々は嬉しかったことだろう。
 そして、正助とよの二人が、菜々をなごませてくれる。

 次回は、市之進の危機をある人物が救う。
 そして、菜々の父が残した轟と日向屋の不正を裏付ける証拠が、ある人物の助けで明らかとなる。
NHKサイトの該当ページ

 今回登場した“死神先生”の他にも、いろいろ個性的な登場人物が増えるなぁ。

 来週も、楽しみだ。
by kogotokoubei | 2019-08-18 19:54 | ドラマや時代劇 | Comments(2)
 少し、ブログのお休みが続いた。

 言い訳ではないが、ちょっとしたカミングアウトを。

 数年前から、会社の方は契約社員で、平均すると週三日勤務。繁忙期はもっと出るので、年間でやりくりしている。

 会社に出ない日は、まだ体も大丈夫だし、もちろん経済的な問題もあるし、飲食業のアルバイトをしている。

 62歳から一部の年金ももらっているし、家のローンも完済しており、単にお金のためだけでもない。

 学生時代は、運動部がオフの時期に京都の旅館でバイトをしていたこともあるが、結構、飲食業のアルバイト、好きかもしれない。

 しかし、飲食業の人手不足は、このお盆でも顕著。

 私は長岡の花火見学が早めの夏休みだったので、このお盆は他のメンバーが休む分をできるだけ補完すべく奮闘した次第。

 私のバイト先は、外国人の採用はしない。

 その妥当性は別にして、とにかく人手不足、なのだ。

 その仲間が、助け合って、ぎりぎりなんとか回っているのが実態。

 どんな人がバイト仲間にいるのか・・・・・・。

 ・諸般の事情で年金が少なく、70歳を超えてもがんばっている男性。
 ・二十代で子二人。旦那の稼ぎの補完のためにがんばっている女性。
 ・諸般の事情で、シングルマザーとしてがんばっている女性。
 ・ご主人が亡くなり、自分の生活と趣味のために働く、おばさん。

 などなど。

 みんな、がんばっている人たち、ではある。


 いろんな人がいるが、一部の人とは、会社の仲間よりも連帯感は強い。

 実は、前店長が半年ほど前に辞めてから、社員不在、バイトだけでなんとか運営している、そういうお店。

 食材の発注、シフト決め、月末たな卸しなどを、ほぼアルバイトだけで回しているのである。
 
 某フランチャイズチェーンの一店で、他の店を含め管理しているマネージャーが相談相手ということになる。

 いろいろ言いたいこともあるが、彼も(きっと)安い給料でがんばっているのを知っているので、バイト仲間は、忖度して助け合っている。


 これからは、こんな、Wワークおやじの独り言も少し書いていこうかと思っている。

 今夜は、連れ合いと久しぶりに外食し、そろそろいい気分で眠くなってきた。
 また、そのうち、何か書くことでしょう。

by kogotokoubei | 2019-08-15 21:59 | Wワーカーおやじの独り言 | Comments(10)
 本日も、BSで「いだてん」から「蛍草 菜々の剣」というゴールデンタイム。

 「いだてん」は、“実感放送”が目玉だったねぇ。

 とはいえ、全般的にシリアスな内容で、五輪の光の部分を、陰で支えた多くの人たちがいたことが伝わってきた。
 
 そして「蛍草」は、佐知と菜々の悲しい別れ、だった。

 二人をつなぐものとして、原作とは違う脚色だが、蛍草の押し花。
 
 映像用の脚色として悪くない。
 
 原作では、蛍草について、菜々には佐知とには、こんな思い出がある。

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葉室麟著『蛍草』
 『蛍草』は、双葉社から2012年に単行本、2015年に文庫化された。

 葉室作品には、効果的に和歌などが素材となっているが、この作品にも登場する。

 庭で露草を見てしばらくたったころ、菜々が台所で水仕事をしていたおり、佐知が部屋に来るよう告げた。何の用事かと行ってみると、佐知は書物を広げて菜々に見るように勧めた。
 和歌がいっぱい書いてあるらしいが、菜々は和歌を学んだことがないので戸惑った顔をしていると、佐知は指差して、
「ここを読んでごらんなさい」
 と言った。菜々は、たどたどしく声に出して読んだ。

 月草の仮(かり)なる命にある人をいかに知りてか後も逢はむと言ふ

 という和歌だった。万葉集に作者不詳としてある歌だという。
「庭の露草は蛍草とも月草とも呼び名があると話しましたが、これは月草を詠っていますから、蛍草の歌でもあるのです」
 佐知はそう言って、和歌の意味をよくわかるように説いてくれた。
 露草の儚さにたとえ、わたしには仮初(かりそ)めの命しかないことを知らないのだろうか、後に逢ほうとあの方は言っているけれど、という意味だという。
 菜々がいまひとつ意味をつかみかねて首をかしげると、佐知は微笑んで、
「一夜の逢瀬を重ねた後、女人が殿方から又会おうといわれた際に、わたしは露草のように儚い命なのに、また逢うことなどできるのだろうか、と嘆く心を詠った和歌かもしれませんね」
 佐知が説いてくれる話を聞いて、菜々はせつない心持ちがした。
「菜々にはまだ早いかもしれませんが、ひとは相手への想いが深くなるにつれて、別れる時の辛さが深くなり、悲しみが増すそうです。ひとは、皆、儚い命を限られて生きているのですから、いまこのひとときを大切に思わねばなりません」
 佐知にそう言われて、なぜか目に涙が滲んできたことが脳裏によみがえった。

 この和歌は、原作では、大事なある場面で再登場することになる。

 もしかすると、この作品は、この和歌が発想の元だったのか、などとも思っている。

 ちなみに、原作には、悪徳商人の日向屋の主人は出てこない。
 本田博太郎、あまりにも、ニン^^

 次回は、今回最後の場面の結果から、風早家の一大事となるのだが、新たな個性的な人物も登場するようで、楽しみだ。
NHKサイト「BS時代劇 蛍草 菜々の剣」のページ

by kogotokoubei | 2019-08-11 21:18 | ドラマや時代劇 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛