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噺の話

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 NHKのBS時代劇で、「蛍草 菜々の剣」が始まった。

 2015年にNHK総合木曜時代劇で『銀漢の賦』がドラマ化されて以来の、葉室麟作品の登場、実に嬉しい。

 舞台は、鏑木藩。

 故あって武士の娘であることを隠し、風早家に奉公することになった菜々が主人公。

 清原果耶が菜々を演じている。「あさが来た」にも出ていたし、「なつぞら」では、なつの妹役として、短い間ではあったが出演していた注目株。

 NHKサイトの同ドラマのページにあるように、菜々の父を死に追いやった男と、風早家の主人を陥れようとする敵が同じ人物。
NHKサイト「BS時代劇 蛍草 菜々の剣」のページ

 副題が暗示するように、その仇に立ち向かう菜々の姿を描くドラマが始まった。

 
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葉室麟著『蛍草』
 原作は、双葉社から2012年に単行本、2015年に文庫化された。

 題の由来について、ドラマの第一回でも登場した、風早家の妻佐知と菜々との会話を、原作から引用。
 夏の日はぎらぎらと照りつける。暑さを避けるように築地塀(ついじべい)のそばで日陰になっている草を取っていた時、菜々はふと手を止めた。塀の際に青い小さな花が咲いている。
「露草だー」
 菜々は額の汗をぬぐいながら、うれしくなってつぶやいた。青い花弁が可憐な露草は菜々の好きな花だ。早朝、露が置くことに一番きれいに咲いて、昼過ぎにはしおれてしまうから、摘んだりはしない。見かけた時にひっと眺めるだけだが、それでも幸せな気持ちになってくるから不思議だ。
 菜々がなおも腰を下ろして見入っていると、
「その花が好きなのね」
 佐知の声がした。菜々ははっとして立ち上がった。
「申し訳ありません、草むしりをしていたのですが、花を見つけて、つい手を止めてしまいました」
 菜々が頭を下げて言い訳をすると、佐知はさりげない口調で言った。
「謝ることはありません。きれいな花に目が留まるのは心が豊かな証ですから、ゆっくりと見てかまいませんよ」
 菜々の傍に腰を屈めた佐知は言葉を継いで、
「露草ですね。この花を万葉集には月草と記してありますが、俳諧では蛍草(ほたるぐさ)と呼ぶそうです」
 と教えた。月草や蛍草という名の響きに菜々は目を輝かせた。
「蛍草・・・・・・、きれいな呼び名ですね」
 深く心を動かされたように菜々が言うと、佐知は微笑んだ。
「そうですね。きれいで、それでいて儚(はかな)げな名です」
「蛍草は儚い名なのですか」
 佐知の横顔に目を向けながら菜々は不思議そうに言った。夏の夜に青白い光を点滅させる蛍のことはきれいだと感じるだけだった。蛍草という名を聞いても、蛍が止まる草なのだろう、とぼんやりと考えて、ほかに思いつくことはなかった。
「蛍はひと夏だけ輝いて生を終えます。だからこそ、けなげで美しいのでしょうが、ひとも同じかもしれませんね」
 佐知は感慨深げに言うと、菜々に顔を向けた。
「あなたの立ち居振る舞いを見ていると、武家の折り目正しさを感じます。紹介してくださった方は赤村のお百姓の娘だと教えてくれましたが、武家の血筋なのではありませんか」
 佐知に見つめられて菜々はどきりとした。

 二人の女性の会話が、ミステリアスな今後を暗示させる。

 佐知は、蛍の短い命に、何を思っていたのか・・・・・・。

 それにしても、題の付け方は、葉室麟らしいセンスの良さを感じるなぁ。


 第二回では、佐知と子供達に危険が迫るのだが、原作とは少し設定を変えているようだ。
 いずれにしても、菜々は、その危機を勇気を出して防ごうとするのだが・・・・・・。


 2017年の師走に接した葉室麟の訃報には、驚いた。

 もはや新作が出ないと思うと、未読の作品を、じっくり楽しみたいと思い、最近はあえて読まないようにしていたが、『蛍草』を再読して、やはり、葉室作品の素晴らしさを再確認した。

 『銀漢の賦』の次のドラマ化は、直木賞を受賞し映画化もされた『蜩の記』と同じ羽根藩シリーズ(『潮鳴り』・『春雷』・『秋霜』・『草笛物語』)か、大好きな『川あかり』を期待していた。

 しかし、『蛍草』も、葉室美学が底流に流れる佳品だ。

 日曜に「いだてん」から続けて見ることもあるだろうが、なんとも贅沢な時間になりそうだ。

 Wikipedia「ツユクサ」から、画像を拝借。
Wikipedia「ツユクサ」
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 「露草、月草、蛍草などの名で、秋の季語」と説明されている。

 明日8月1日は、旧暦七月一日。

 そう、暦では秋が始まるのだ。
by kogotokoubei | 2019-07-31 21:36 | ドラマや時代劇 | Comments(2)
 大船渡高校の佐々木投手が、県大会の決勝で投げなかったことが、話題になっている。

 あの「渇!」のおっさん(おじいさん?)が、投げさせるべきだと言っていたことに対して、ダルビッシュが反論している。

 ダルビッシュを全面的に支持する。


 昨年の夏の甲子園、金足農のエース吉田輝星の投球数の多さが話題になり、兄弟ブログ「幸兵衛の小言」で記事を書いた。
「幸兵衛の小言」の該当記事
 同記事では、ニュースサイトの記事から、高校野球の予選や本選で数多く投球した選手の中で、プロでも活躍できたピッチャーは、ほんの一握りであることを紹介した。

 一年ほど前の兄弟ブログの重複するが、高校野球でエースを酷使するのは、もうやめるべきだ。

 高野連も重い腰を上げて、ようやく投球制限の検討を始めたようだ。

 参考になるのが、「ピッチスマート」の考え方だろう。

 MLBの公式サイトに、「ピッチスマート」の説明がある。
MLB.COMの該当ページ

 年齢ごとに投球数の上限の目安が設定されているのと、球数による休養日のガイドラインが設定されている。

 次のようなものだ。
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 17歳~18歳の一日の投球数の上限は、105球。
 投球数と休養日のガイドラインは、31~45球->一日、46~60球->二日、61~80球->三日、81球以上投げた場合は、4日の休養を取るように定めている。
 
 これは、一つの目安になると思う。

 「これでは層の厚いチームしか勝てない」とか、「休養日を多く設けると、開催期間が長くなり費用が増える」とか、いろいろ批判もあるかもしれない。

 しかし、高校野球は、いったい誰のためにあるのか。

 当事者たる一人一人の選手の野球人生を短くさせてでも、一時の「見世物」として楽しければいいのだろうか。

 私は、「勇気と感動をありがとう」などという言葉は、嫌いだ。

 今必要な勇気とは、選手の健康を最優先して、エースを酷使しない仕組みを導入することではなかろうか。

 大船渡國保監督の勇気を讃えたい。

 そして、夏の甲子園でも、エースの酷使がないことを祈るばかり。

by kogotokoubei | 2019-07-29 12:45 | 幸兵衛の独り言 | Comments(8)
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 圓生による落語研究会の歴史を紹介した、『江戸散歩』。

 初版は昭和53年、あの騒動がある直前に、集英社から上下二冊の単行本として発行された。
 私は、昭和61年の朝日文庫版(上の画像)を持っている。
 三年前、小学館から、紙の書籍と電子書籍を同時発行する「P+D BOOKS」で再刊されている。
三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)

 昭和61年発行の文庫本に、川本三郎が「おしゃれな都市」と題した解説を書いている。

 当時の江戸ブームの担い手として、山本昌代という小説家や、杉浦日向子という漫画家、岡本蛍という劇作家の名を挙げ、彼女たちを江戸が魅きつけるのは、江戸が何よりも「おしゃれな都市」だったからに違いない、と主張した後から引用。
 ポスト・モダンと呼ばれる脱工業化社会の現代は、消費と蕩尽の時代だ。遊びの時代だといまさらのように騒がられているが、考えてみれば三百年ものあいだ平和が続いた江戸時代こそ、もっとも遊び心にみちた優雅な時代だったのである。戦争という無粋な男の破壊行為に対して、戯作や遊郭といった“軟弱な”女文化が熟した。まさにポスト・モダンを先取りした時代だったのである。
 昨年、ノエル・ペリンというアメリカの学者が書いた『鉄砲を捨てた日本人』という面白い本が話題になった。日本では戦国時代に鉄砲という刀を超える新兵器が輸入され、一気に普及した。ところが江戸時代になると不思議なことにこの鉄砲は捨てられ、再び刀に戻ってしまった。世界の武器の歴史のなかで鉄砲から刀へと退歩、ディスカレーションしたのは日本だけである。軍備拡張の時代に生きるわれわれ現代人は、この江戸時代の日本人の軍縮の知恵を学ばなければいけないーというのが『鉄砲を捨てた日本人』の主旨である。
 従来、江戸時代を語るときは「徳川三百年の太平」とか「武士が武士であることをやめた時代」とか、むしろその“軟弱さ”を批判的に見ることが多かった。しかし、現在の江戸論はその“軟弱さ”こそ、江戸のよさだったと見方を変えている。三百年も平和が続いたなんて本当にすごいことではないか!吉原の遊郭も落語も確かに“軟弱”かもしれないが、しかし、戦争で殺し合うよりずっといいではないか。

 まったく、同感。

 落語好きが“軟弱”と言われても結構^^

 『鉄砲を捨てた日本人』は、中公文庫で発行されている。

 この本を、もっとも読むべきなのは、原文(Giving up the Gun: Japan's Reversion to the Sword,1979)でトランプさん、文庫で安倍さん。

 朝日新聞の「GLOVE +」のサイトに、昨年8月14日、こんな記事があった。
朝日新聞「GLOBE+」の該当記事
 記事のタイトルは「戦略から決めるべき防衛費 なぜGDP比で語る」で。執筆者は軍事社会学者の北村淳。

ビジネスマン出身のトランプ大統領は、国防費のGDP比に拘泥している。しかし、NATO諸国はもとより、アメリカの軍事専門家たちの間にも、国防費をGDP比で決定する方針には強い批判がある。

それらの中でも軍関係者や軍事戦略家たちの間で最も目立って主張されているのが、「国防費は軍事的能力を基準として策定されるべきものであるから、軍事的能力ベースの評価が最優先されるべきであり、それ以前に『GDP比2%』といった数字ありきというのは全く誤った方針である」といったものである。

 日本のテレビで、こういう正論を主張するコメンテーターも、いわゆる“専門家”もいなかろう。

 日本の防衛費はここ数年増え続け、五兆円を超えている。
 
 なぜ、北朝鮮や中国が危険であると煽り、欠陥戦闘機のF-35やオスプレイを大量に買わなければならないのか。

 江戸時代、内戦という戦争をしないという戦略が、鉄砲を捨てさせたことを学ぶことは、重要だ。
 平和な世の中でなければ、あれだけ豊かな文化は育たなかった。

 軟弱で結構、鉄砲を捨てた江戸に学ぼうじゃないか。

by kogotokoubei | 2019-07-27 14:36 | 江戸関連 | Comments(0)
 なかなか味わえない(?)一日だったので、記録として書いておこう。

 昨日は、日帰りで北海道に行って来た。

 母が、股関節骨折で手術、入院したため。

 本人は、元気だから来なくていい、と言っているようだが、どんな状況なのか直接確認したく、一日時間を作ることが出来たので、日帰りの旅。

 時間軸で、こんな一日だった。

 (1)午前四時半起床。支度をして徒歩で最寄り駅へ。

 (2)AM5:30-AM7:45 小田急線某駅--->羽田空港 バス
  最寄駅の一つ隣の駅から、羽田空港行き高速バス乗車。
  乗車前、係りの方から、東京五輪に向けた試験的な交通規制で、
  普段より時間がかかるが、それでも良いかと聞かれる。
  おうおう、そんなことニュースで言っていたなぁ、と思い出す。
  予定では1時間半ほどなのだが、いつもそれより少し早く着いていた。
  もし2時間かかっても、フライトは8:15だから大丈夫、と乗車。
  二列目の席だったので、バス会社の無線と運転手さんのやりとりが、よく聞こえる。
  東名の青葉から渋滞なので降りて第三京浜へ、という指示。たしかに、青葉ICの
  近くから渋滞が始まった。運転手さんは一般道に下りて、第三京浜を目指すが、こちらも
  渋滞が続く。第三京浜から湾岸に入っても、しばらく渋滞。
  パソコンを立ち上げて渋滞情報を見ていた。あちこち、赤い!
  時計を睨む。「これは、だめかな・・・・・・」
  と思ったが、渋滞が緩和して、なんとか、フライト30分前に空港到着。
  検査場を20分前に通過することができた。
  これが、この日最初のバス。

 (3)AM8:15-AM9:45 羽田空港--->新千歳空港 飛行機

 (4)AM11:00-PM0:45 新千歳空港--->室蘭 バス
  空港でラーメンを食す。写真は、撮らなかった。
  一ヶ月前とは、心のあり様が、ちょっと違う。
  母の入院先は、室蘭の病院。近くまで行く高速バスに乗った。懐かしい道南バスに乗車。
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  途中、雨。一ヶ月前とは、天候もずいぶん違った。
  登別から室蘭へ向う外海も、荒れ気味だ。
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  なぜ、「外」海、かと言うと、室蘭以西は内浦湾(噴火湾)沿いなので、海は、穏やかなのである。

Wikipedia「内浦湾」
  Wikipedia「内浦湾」から、地図を拝借。
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  室蘭に近づくにつれて雨はおさまった。吉兆だ!

 (4)PM1:10-PM2:30 病院
  病院近くのバス停で降りて、病院へ。病室はメールで兄から知らせてもらっていた。
  病棟のナースステーションに顔を出してから病室へ。
  母は、元気ではあった。
  おいおい聞かせてもらった物語(?)は、こんな内容。
  13日土曜日に、家の勝手口の外に粗大ゴミを出そうとしていた。もうじき次兄が取りに
  来るのだった。
  そして、少し段差のある狭いベランダ風の場所で足を踏み外して転び、しばらく動けず、
  立ち上がろうとしても立てなかった。
  そこに、次兄がやって来て、様子を見て、救急車を呼んだ。
  次兄は消防団員でもあり、消防署の人とも面識がある。救急隊員の方が、股関節骨折を疑い、
  すぐに手術できる病院を調べ、地元ではなく、室蘭の病院へ。
  レントゲンで骨折と告げられ、母は「カメラが壊れているんじゃないか」と言ったとのこと^^
  まさか、と思っていたに違いない。92歳なのだが、気だけは若い。
  すぐ手術となり、手術は無事成功。
  翌日から、すぐにリハビリが始まったようだが、十日たったが、まだ手術をした方の左足には
  力が入らないようだ。
  ネットで、この骨折には、頚部(けいぶ)と転子部(てんしぶ)の骨折があり、頚部の
  ほうが予後が難しいとは調べていた。
  本人は詳しいことは分からないようなので、ナースステーションで確認。
  転子部骨折とのこと。少しは、ほっとする。
  長兄が2時頃に到着。ちょうどリハビリが始まるとのことで、リハビリセンターまで  看護士さん、
  車椅子の母、兄と一緒について行く。
  結構、このセンターが広く、大勢の方が、さまざまな器具でリハビリをしている。
  少し待つようなので、ここで病院を出た。
 
 (5)PM2:40-PM3:30 室蘭--->伊達の実家 長兄の車
  途中で、兄が父に約束していたという、実家近くの回転寿司を持ち帰り実家へ。

 (6)PM3:30-PM5:10 実家滞在
  父は、思ったほどは落ち込んでいなかった。
  長兄と三人で、寿司を食べる。さすが北海道は、回転寿司でも、なかかなの味。
  母の入院後、父の朝昼兼用の食事は、隣に住む長兄が一緒に食べている。
  夜は、長兄と次兄と父が三人で食事をしているとのこと。
  次兄の奥さんがおかずを持ってくれているらしい。
  父は、滑車のついて椅子につかまって家の中を移動している。
  自分で米と研いで炊くことができるのは、偉い。
  父の事件の目撃談。
  「母さんが、ずっと座っているなぁ、と思っていたら、救急車が来た」
  97歳の時間感覚では、そうなのだろう^^
 
 (7)PM5:10-PM5:40 実家--->室蘭の東町バスターミナル 長兄の車

 (8)PM6:00--->PM7:30 室蘭---.新千歳空港 バス

 (9)PM8:30-PM10:10 新千歳空港--->羽田空港 飛行機

 (10)PM10:30-PM11:30 羽田空港--->小田急線某駅 バス
  乗る際、すでに規制は解除され、目的地までは1時間ほどで着くだろう、と運転手さんに
  確認。

 (11)PM11:40-AM0:00 電車&徒歩で帰宅

 
 母は、今週末にも、実家近くでリハビリで定評のある病院に転院の予定。

 どこまでリハビリを頑張れるかの勝負。
 まぁ、あれだけ陽気で前向きな人だ、頑張れるだろう。

 なんと、バスに6時間半乗っていたことになる。
 飛行機に、3時間と10分。

 母の入院する病院に1時間と20分、父のいる実家に1時間40分。
 合計、3時間。

 寄席の居続けをして鍛えて(?)いるせいか、思ったほどは疲れてはいない。
 とはいえ、足腰は、やや張っているなぁ^^

 あらためて、実家近くで父母を支えてくれている兄やそのご家族に感謝。

 
 たぶん、最初で最後、少しでも両親が元気になれたなら、という思いで出かけた
北海道日帰り旅の記録は、これにてお開き。

by kogotokoubei | 2019-07-25 12:59 | ある日の行動記録 | Comments(4)

いろいろ。

 一昨日20日の土曜日夜、地上波で初めて「万引き家族」が放送された。

 ある程度は予想していたが、20日、そして昨日21日のアクセス数に驚いた。

 昨年、樹木希林さんの訃報に接して書いた記事に、昨日も一昨日も、なんと、2000以上のアクセスがあった。一昨日は、3000に近かった。

 桁の間違いかと思って見直したが、間違いない・・・・・・。

 関連する記事へのアクセスも多かった。

 まぁ、それはそれとして、参院選だ。

 兄弟ブログに、「れいわ新選組」について記事を書いた。
「幸兵衛の小言」2019年7月18日の記事

 ほとんど、マスコミが無視していながら、二議席を確保。

 山本太郎は、99万票を獲得。しかし、落選。
 
 もちろん、そんなことも想定の範囲だろう。

 衆院選では、もっと大きな風穴が開く。
 
 とはいえ、もう少し若者が投票所にかけつけていたら、と思わずにはいられない。

 投票は義務制にするしかないのじゃないか。
 五割を切る投票率で、民意が反映された、と言えるのか。

 森達也は、れいわの応援演説で、カメラに向って、これいつ放送するんですか。選挙の後ですか。口惜しがらせるためですか、と言った。

 その日のニュースで、新橋や新宿の熱狂が放送されていたらと思うが、政権に忖度するメディアだけの責任ではない。

 権利を放棄するなら、義務化するしかないかもしれない。

 ちょうど六年前の今日、参院選で投票率が五割を切りそうだったことについて投票義務制のことを書いた。
2013年7月22日のブログ
 その記事への昨日のアクセスは、2番目に多かった。

 昨日、山本太郎が出演しているテレビへのツィートで、「消費税ゼロで時給1500円、財源はどうするの?」のような内容が表示されたが、れいわの主張を知らないということだろう。

 時給1500円も消費税廃止も、これまで軽減されてきた法人税、所得税を改正し、累進的に富める者から納税してもらう仕組みとセットなのである。

 「れいわ新選組」の公式サイトでは、丁寧に主張を解説している。
「れいわ新選組」公式サイト

 「消費税ゼロ・・・そんなことできるわけないだろう」という発想から、変えなければならない。

 消費税の増税分は、法人税、所得税で減った税収の補填に大半が費やされていて、社会福祉には、ほとんど回っていない実態から、変える必要がある。

 既成政党、既成事実を是とするのではなく、役人が政治家に忖度するのではなく、政治家が国民に忖度する国をつくろう、というのが、れいわの主張。

 消費税が、いったいどれほど社会福祉関連に使われているのか・・・そういったことをメディアはまったく報道しなくなった。

 こっちのブログでこんなことを書くと、「落語のことだけ書いていろ!」みたいな、コメントがきそうだが、この記事、「幸兵衛の独り言」ですから^^

 土曜日の夜、新宿に駆けつけることができなかったが、れいわのサイトで、生で見ることができた。まさに「新宿占拠」だった。

 前川喜平さん、良かったねぇ。メディアが終わったことにしているモリカケ問題も、しっかり語っていた。


 映画「万引き家族」は、「家族のあり方」を問いかけている。

 「れいわ新選組」は、「国のあり方」を、今後も問いかけるだろう。
 

by kogotokoubei | 2019-07-22 12:36 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
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三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)
 
 このシリーズ、最終の六回目。

 圓生と志ん生が満州に行っている間に、第三次落語研究会は短い歴史を閉じたことが、前回まで。
 では、その後。

 それから志ん生やあたくしが満州から帰ってきましてから、第四次落語研究会というものができました。これものちに出演料云々のことでもってつぶれてしまって、それで現在の落語研究会は第五次になります。今の国立劇場(こくりつ)でやっておりますが。

 あら、第四次については、ほとんどスルーか^^

 ということでWikipediaの助けを借りて、少し補足したい。
Wikipedia「落語研究会」

第四次

1948年~1958年
全115回開催
旗揚げ 1948年10月9日 千代田生命ビル[10]七階講堂

会場 千代田生命ビル
神田須田町 立花 (1954年廃業)
東京ヴィデオ・ホール(1954年12月~)[11]

最終興行 1958年4月19日

発起人 林家彦六
6代目春風亭柳橋
8代目桂文楽
5代目古今亭志ん生
3代目三遊亭金馬
2代目三遊亭円歌
6代目三遊亭圓生

賛助会員 7代目林家正蔵
5代目柳亭左楽
8代目桂文治
2代目桂小文治
6代目三升家小勝
3代目桂三木助
初代柳家権太楼
5代目古今亭今輔
3代目三遊亭小圓朝
8代目三笑亭可楽
5代目春風亭柳好
8代目春風亭柳枝

主事 今村信雄

解散の理由 発起人の中に、ギャラが安すぎるという理由で出演拒否する者が現れ、金銭関係で内部で衝突がおこったため。
 圓生自身も発起人の一人で、10年も続いた会だったのか。

 あくまで『江戸散歩』という本の「日本橋」の章での記述なので、第一次落語研究会が主体となっていることは分かるものの、第四次への記述の少なさは、疑問。

 引用した文の次に、今に続く第五次について圓生はこう書いている。

 これは本当のことを申しますと、あたくしは反対をしたんです。落語研究会という名前をつけるにはもっと若手の人を選(すぐ)ってですね、やはりこの人ならば将来伸びるという人を、落語研究会というものをばその若い人達にやらして、それからあと旧来、落語研究会に関係のあった者は代りばんこか何かで、一人ずつとか、あるいは二人ずつぐらい賛助という名目で出をして、若い人の手に委ねた方があたくしはいいという、論をはいたんですが、死んだ文楽さんが、「いやァ、どうせやるんならば落語研究会という立派な名があるんだから」それでやりたい、とこういうわけで。

 文楽には、圓生もさからえなかった、ということか。
 
 実は、この後、第四次についての批判が登場する。

 それは名前も立派で会も立派なんだけれども、第四次なんぞもやっぱりだらしのない事をした、いわば上部(うえ)の人があまりだらしのない事をしすぎたからつぶれてしまった、お客様もだんだん来なくなった・・・・・・。名目だけは会員になっていて、さらに出を演しないてェ者が多くなってきちまった。だからそのまた轍をふむのはあたしは厭だから、そういうふうに新たにやったらどうかと云うんですが、「そりゃやっぱり落語研究会と云えばお客様の方でも、古いかたは名前を知っているから」というわけで、それが現在の国立劇場(こくりつ)に残っておりますあの会なんですが。
 実際に会員の中の誰が出演せず、出演料をめぐる騒動の主も書かれていないが、圓生にとっては、それすら思い出すのも嫌だったのかもしれない。

 さて、つい長くなったシリーズ、圓生の言葉も借りて、お詫びしよう^^

 日本橋でやったという常磐木倶楽部がありますから、その話に触れたわけですが・・・・・・大分長くなってすみません。この辺で橋を渡ることにいたします、向うがわへ・・・・・・。

 来週23日、613回目の第五次落語研究会は、次のように案内されている。
「TBS落語研究会」のサイト

【演者】
三遊亭歌太郎   「磯の鮑」
林家たけ平    「扇の的」
柳家權太樓    「短命」
柳家小里ん    「一人酒盛」
古今亭志ん輔   「唐茄子屋政談」

 私は行かないが、なかなかの顔ぶれではないか。

 しかし、仲入りで帰るお客さんも少なくないからなぁ。

 志ん輔の唐茄子屋、通しに違いないから、ぜひ権太楼の後に帰ろうと思っている方もトリまで残って欲しいものだ。

 それだけ、落語研究会のトリが大事であることは、このシリーズでご紹介した通り。

 ということで、これにてこのシリーズお開き。
 長らくのお付き合い、ありがとうございます。

by kogotokoubei | 2019-07-20 09:07 | 落語の本 | Comments(0)
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三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)
 
 このシリーズ、五回目。

 第一次落語研究会が、明治三十八(1905)年に始まり大正12(1923)年の関東大震災で終了するまでの18年間には、若手や中堅の噺家さん達も台頭し、中には抜擢されて研究会に名を連ねる噺家さんもいた。

 当時の“若手”のことを、圓生はこう書いている。
 
 当時、若手、若手といいましてあたくしの父親ですね、それが圓窓時代。それから大阪へ行って三代目圓馬になりました七代目朝寝坊むらく。こないだ亡くなった志ん生の師匠だった、その前の志ん生。本名鶴本勝太郎といいました。馬生から志ん生になったんですが、その他八代目桂文治になった人、本名山路梅吉といった、こういう人がもうみんな、ばりばり売り出して、聞いておりましても実にお客様に受けるし、うまいなと思う人達ですが、相当みな腕を上げてきた。
 その時に、楽屋で幹部連中やまた先生方が、もうこの人達も相当にみんなよくなってきたから深いところへあげる・・・・・・深いところって、つまり幹部が二人あがりその間へ順々に入れて行くわけですね。交替で。それであとへ幹部が二人出るという事になっていた。次会からトリを取らしてもいいんじゃないかって事になった。
 トリというのは一番最後へ上げる事です。じゃァこれと、これとこれと、これと、トリを取らしてみようという事に決定した。そこでみんなトリを取るようにと云った時にいっせいに手をついて、研究会のトリだけはどうぞご勘弁を願いたいといってあやまったんですが。これはどうも実に偉いもんだと思います。やはりいかにできても若手であって、まだまだその幹部には及ばざるところは多々あるわけなんです。しかしみんな人間ですから、自惚れはありましょう。俺はまずいと思ったら高い所へ上がって喋っちゃいられないんだから。だから各自自惚れはあっても、なおかつ自分の芸は分っている。だから研究会のトリ席にまわってどうなるかてェ事を考える。できないとは思わないでしょうけれども、研究会のトリだけは勘弁していただきたいと云っていっせいに断っちまった。
 今の人間ならば「あァ。よろしゅうがす」てンんで、軽く引受けたでしょうけれども、やはりそれだけの芸に対する心掛けというものが昔と今とは時代も違い、変ったのかも知れませんが、なかなかやかましい会でした。
 第一次落語研究会が、どれほど権威のある会だったかが察せられる。

 三代目の圓馬は、八代目文楽の芸の上での師匠として有名。三代目金馬も、多くの噺を伝授された。その圓馬でさえ、朝寝坊むらく時代、研究会のトリだけは受けることができなかった、ということか。

 圓生が名を挙げた三代目圓馬や四代目の志ん生、八代目桂文治は、第一次落語研究会の準幹部に名を連ねていた人。準幹部の中で、圓生は名を挙げていない人に、三代目蝶花楼馬楽がいる。岡村柿紅の推薦で抜擢され出演し大絶賛された。一部の新聞は「名人馬楽」とまで誉めた。しかし、彼はそのチャンスを生かすことなく、四十歳台で病のため旅立った。馬楽の人生の頂点は、落語研究会に出た時だったかもしれない。

 さて、紹介した文の後、圓生はこう続けている。

まあそんな思い出がこの宮松の研究会にはずいぶんありました。こりゃ大正十二年八月まであって、あたくしもその研究会へずっと行ってたわけですが、それが九月に大地震があって、そしてこの第一次落語研究会というものがなくなります。

 ということで、そろそろ、第一次から第二次への“替り目”である。

 とはいえ、関東大震災のダメージは大きく、復興の声は、昭和も少し経ってからのこと。
 本書の著者、六代目圓生も、大いに関わることとなった。

 再興落語研究会 第二次は先代圓生、父親の希望でわたくしが八方先生がたにお願いしてやっと再興したのが、昭和三年三月十一日、茅場町薬師内宮松亭で開催、第二回より神田立花亭に移り、東宝に変り、さらに日本橋倶楽部(当時日本橋区浜町河岸)、それも空襲はげしきため、昭和十九年三月二十六日研究会臨時大会、お名残り公演、会費金二円税共。

 この昭和十九年三月二十六日の最終回の出演者が、紹介されている。
 代数と本名も記されている。
 春風亭柳枝を、七代目、としているには八代目の誤りと思うので修正したうえで引用。

 この時の出演順
  桂文雀(現橘家圓蔵 市原虎之助)
  柳家小三治(元協会事務員 高橋栄次郎)
  船勇亭志ん橋(故三代目三遊亭小圓朝 芳村幸太郎)
  桂右女助(故三升家小勝 吉田邦重)
  春風亭柳枝(故八代目 島田勝巳)
  三笑亭可楽(故七代目 玉井長之助)
  三遊亭金馬(故三代目 加藤専太郎)
  三遊亭圓生(著者 山崎松尾)
  三遊亭圓歌(故二代目 田中利助)
  桂文楽(故八代目 並河益義)
  柳家小さん(故四代目 平山菊松)
 以上をもって一時閉会となった。

 昭和三年から十九年まで16年間も続いた第二次落語研究会、その開催にご本人も奔走したようなのだが、この本で書かれているのは、これだけ。

 すぐ後、第三次について、こう書いている。

 第三次はあたくしは知らなかった・・・・・・。それはあの満州へ行きましてね。志ん生とあたくしと二人帰れなかった。その留守中に第三次落語研究会というものはできたんでございます。ところがこれは短命にして、五回か六回やってつぶれてしまった。
 だいたいこの落語研究会というものはこの人と、この人を、というんで初めから人選をして、ちゃんとまじめに噺をする人、本当の落語というものをやるべき本筋のものというのか規定でございます。
 ところが第三次の時にはそうではなくして、そういうふうな初めから制限をするてェ事はよろしくない。一般の噺家を入れてこそ、本来の落語研究会であるからその制限をして、初めから差別をしてやるてェ事はかしからんことであるという・・・・・・。
 論法はたいへんにお立派なんですがね、駄目なんです。誰でも彼でも出演(で)られるという、それでは本来の研究会にはならないわけで。だからどこへでもこれはあてはまるわけなんですね。政治でも、それから芸界でも。一般に平等に、こうこうやったらいいという・・・・・・いかに論法が立派であっても、やっぱり一つのちゃんと固まったもの、芯がなくちゃいけないんじゃないかと思います。
ですから第三次落語研究会というものは、五回か六回やったけどお客様もこない。ま、云っちゃ失礼だが、その人選は落語研究会へ出る噺家じゃないてェのが出演(で)ていたわけなんです・・・・・・。それがためにつぶれてしまった。

 ということなのだが・・・・・・。

 Wikipediaの「落語研究会」で確認すると、第三次は、会長に久保田万太郎、参与に正岡容と安藤鶴夫の名が並んでいる。顧問には、渋沢秀雄も登場。
Wikipedia「落語研究会」

 しかし、昭和21年2月から8月までと、たしかに短命であった。

 立派な論法が道を誤らせることがある・・・というのは、なかなかに奥深い指摘ではなかろうか。

 短命だったのは、圓生が指摘するがごとく、“芯”がなかったからか。

 その“芯”となるべき人が、満州に行っていて不在だったから、という声が、この文章からうっすら聞こえてもくるなぁ。

 というわけで、次の最終回では、第四次と第五次についてご紹介。

by kogotokoubei | 2019-07-18 12:54 | 落語の本 | Comments(0)
 昨日のアクセスランキングでも、志ん生と『替り目』について書いた過去の記事へのアクセスが100近かった。

 「いだてん」の影響なくしては、考えられない。

 14日の放送「替り目」には、三つの“替り目”の場面が登場した。

 一つ目は、ネタと同様に、若き志ん生が、自分では売れない納豆を女房のりんさんが売りに出かける、と言って出かけた(と思っていた)後、出来すぎた女房への感謝の思いを呟いていたら、まだ、りんさんがそこにいた・・・「元帳を見られた!?」という場面。

 そして、田畑政治が、金栗四三に三度出場したオリンピックでの一番の思い出は何かと質問したところ、紅茶と甘いお菓子が美味かったこと、という答えに呆れて、帰ってくれと追い出した(と思っていた)後、やはり日本人オリンピック出場第一号の四三は偉い、と呟いたところ、まだ、そこには四三がいたという、落語『替り目』へのオマージュ(決して、パクリではない^^)の場面。

 そして、三つ目は、田畑政治に向って「さよなら」と金栗四三が呟いたように、四三が熊本に帰ることになり、田畑が今後の主役になる、という“替り目”である。

 さすがのクドカン、やってくれる!

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三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)
 さて、このシリーズ、四回目。

 第一次落語研究会は明治三十八年に始まり、関東大震災の影響で終了する大正十二年まで続いたわけだが、後半、若き日の圓生(当時は、圓童)も、その権威ある会に接することができた。

 そして、得がたい体験をしている。

 いや怖い会だと思ったのは、当時の幹部は四人でした。圓喬、圓左の二人はもはや歿していたので、圓右、圓蔵、小圓朝、小さんの四人です。それに圓右は三遊派の最高幹部であり出演者の中でも権力がありました。その圓右の倅、小圓右(前名圓子)が春に真打昇進をして、圓右も倅をどうか出世をさしてやりたいという親心で、研究会へ出してやりたいというその心持は分りますが、あるとき研究会へ圓右が出て噺にかかる前に、
「さて、あたくしの倅小圓右でございますが、今年の秋頃より、当落語研究会へも出して頂くことに相成りましたので、その節はよろしくお引立てを願います・・・・・・」
 と云ったが、これはもし出演させるならば、前もっと相談をするべきなのです。そして一同が承知した上でお客様に口上を云うべき筈なのに、いきなり高座で喋ったので岡先生が客席で聞いていたが、いきなり楽屋へ入ってきて今村さんに、
「今の口上をあなた聞きましたか」
「いえ、何です」
「小圓右を秋から研究会へ出すというが」
「いえ、あたくしは全然知りませんが」
「そうですか。あんなものが出演(で)るなら、私は断然今日限り研究会から手を引きかすから」
 常にはやさしい先生が、いやたいへんな立腹です。圓右が高座から下りてくると今村さんが陰に呼んで、暫時、こそこそ話をしていたが、圓右はつまり倅を出してもらいたいと希望をのべたつもりだというが、希望だけでなく出して頂くと・・・・・・なってしまった。結局岡先生に圓右が詫びておさまったが、これは圓右師が悪いのだが、例のおっちょこちょいで、云わずもがなの事を云って失敗した。

 出来の悪い子ほど、親は可愛い・・・ということか。
 この小圓右は、大正13(1924)年に父が亡くなってすぐ、二代目圓右を継いだが、なかなか売れずに数年後に廃業し、郵便局に勤めたとのこと。

 なお、岡鬼太郎は、歌舞伎作家、劇評家で知られているが、三代目小さんのために創作した落語『意地くらべ』でも知られている。
 この噺、最近では、春風亭一之輔が、彼ならではの改作で口演しているらしいが、未見。そのうち、ぜひ聴きたいものだ。

 この後、圓生の師匠四代目圓蔵が、静岡に旅興行に出ていても、落語研究会には、その興行を休んで弟子に代演させて出演したと書かれている。

 師匠のフトコロではきっと損をしていたと思いますが、大切な会だから欠席はできないというので、旅興行を休んで帰ったのは偉いと思いますね。それに当時の師匠方は実にうまかったもんです。まだ十四か十五の子供時代に聞いていて、生涯に俺はこれだけうまくなれるのかしら、と考えたこともあり、悲観した事もありました。なかなかあのうまさなんてェものは頭へこびりついていますが。
 昼間の四時頃ですが、圓右の『真景累ヶ淵』を聞いていた時に「はッ」と云われた時にぞッとした。聞いていたら真ッ暗になっちゃったんで。あんまり恐いかたハッと後ろを向いたらお尻のところに夕日が当っていたんで。
 芸の力てェものは恐ろしいもので・・・・・・昼も夜も忘れてしまった。さもさも真っ暗な中を、おじさんと新吉が提灯をつけて歩いていると、もう聞いているうちに錯覚しちゃって昼ってことを忘れちゃったんですね。実にうまいもんだと思って感心した事がありました。

 圓喬の『鰍沢』を聴いていた志ん生が、その高座の世界にどっぷり入り込んで、急流の場面、外は晴れているのに雨が降ってきたと錯覚したという逸話を思い出させる、圓生がかたる圓右の高座だ。

 柳家から一人参加した三代目小さんの高座の思い出も語っている。

『猫久』 それから三代目柳家小さんの『猫久』なんてえ噺を・・・・・・こりゃ柳派の噺です。その当時はやはり柳派、三遊派といって二派ですから三遊でやっても柳の方ではやらない。柳でやって三遊派ではやらないという噺がありました。
 この『猫久』という噺はあたくしは初めて三代目小さんのを聞いたんです。あんまり聞いておかしいんで、大きな声で楽屋で笑ったんで怒られました。楽屋でそんな大きな声で笑っちゃいけないって叱られた。叱らたってしょうがない、おかしいんだから。どうにもしようがない。もう一言々々にそのまあおかしさなんてえものは、いやわたくしだって子供の頃からやってる噺家ですからね、噺を聞いたってそんなに素人のようにおかしくもないし、受けないわけですが。
 ところがあなたそれが、聞いていて、どうにもこうにもおかしくておかしくて声を出さずにはいられないてェ程・・・・・・実に大したもんでした。
 その『猫久』という噺はまあ、失礼ですがどなたのを聞いていも何ンかちっともおかしくないんです。その後も、この人は大看板と云われた人のを聞いたんだがまるっきりおかしくない。三代目小さんの『猫久』という噺のいかに優れていた事か。


 三代目の高座で、笑いを抑え切れなかったという『猫久』という“柳派”の噺は、五代目の小さんに、三代目小さんを尊敬していた七代目三笑亭可楽を通して伝わった。
 師匠四代目小さんが、自分の真似になることを嫌って稽古をつけないようになり、他の師匠からネタを教わっていた五代目は、この七代目可楽から多くの三代目十八番を継承している。

 そのことは、以前、記事にしたことがある。
2014年5月15日のブログ

 もちろん、五代目小さんの十八番でもあった。

 今につながる第五次の落語研究会は、昭和四十三(1968)年三月十四日に、国立劇場小劇場で始まったが、その時の五代目小さんのネタが、まさに『猫久』。
 
 あら、第五次の初回、なぜ、第一次と同じ三月二十一日ではなかったのだろうか・・・・・・。
 烏亭焉馬による「咄の会」由来の、「昔」という字を分解した「二十一日」に執着して欲しかったなぁ。

 さて『猫久』のことだが、今では、この噺を聴く機会は実に少ない。

 私は、ほぼ五年前、池袋の下席、柳亭燕路で聴いたっきりだ。

 たしかに、今ではあの噺の可笑しさは伝わりにくくなっているが、柳の噺家さん達にもっと演じて欲しい噺である。


 それにしても、名人たちの凄い高座を、若き日の圓生は体験していたんだねぇ。

 次回は、第二次落語研究会のことに“替り(目)”ます。


by kogotokoubei | 2019-07-16 21:18 | 落語の本 | Comments(0)
 昨日のアクセスランキングで、志ん生の『替り目』について書いた記事へのアクセスが急増した。
 間違いなく、「いだてん」の影響だろう。
 今年は、志ん生関係の記事のアクセスが、ときおり急増する。
 視聴率など関係なく、番組への強い視聴者の関わり方を感じる。

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三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)
 さて、このシリーズ、三回目。

 明治三十八年三月二十一日、常磐木倶楽部で第一次落語研究会が幕を開けたことまでを前回までにご紹介した。

 圓生は、その第一回のネタなどは記していないので、以前、暉峻康隆さんの『落語の年輪』から紹介した内容をを再度引用。
2017年1月29日のブログ

初席は圓左の「子別れ」、次席は小圓朝の「文違い」、続いて圓右の「妾馬」、圓喬の「茶金」、圓蔵の「田の久」、承知の上で欠席した圓遊に代わって、圓左が「富久」を再演、最後に小さんの「小言幸兵衛」で、いずれもそれまでのように端折らず、サゲまで演じて聴衆を堪能せしめた(「万朝報」)。これを第一回として、大正十二年(1923)九月の関東大震災で中絶するまで毎月開催し、東京落語の声価を高めた功績は大きい。

 圓遊にも声をかけていたんだねぇ。

 さて、開催は続いたのだが、途中で会場は変わっている。

 あらためてことわっておくが、『江戸散歩』は、さまざまな土地を訪ねて、それぞれにちなんだ話題、中でも落語に関わることが書かれている。
 第一次落語研究会のことは、「日本橋」の常磐木倶楽部をお題にして書かれ始めたもの。
 お題は、変わる。
 薬師の宮松亭 それからのちになって薬師の宮松、これは茅場町にあります。今でも薬師様がございますが、あの茅場町の境内に宮松亭という席がある。これは圓朝などはよくここで興行いたしました寄席でございます。
 ところがもうその時代になりますと落語というものはやりませんで、主に女義太夫・・・・・・たれぎだってェましたが、その義太夫ばかりをかけていたんですが、会場をこの宮松亭へ移すことになりました。
 それというのはやっぱり常磐木倶楽部で演っていたかったんですが、村井銀行という銀行がその倶楽部の前に建つわけで、鉄筋を打ち込む、どォん、どォん、という音、それが響いて噺の邪魔になってどうしても演れないんで、仕方がないから、じゃ会場をこりゃ移す事にするよりしょうがない、なかなか工事はお終いにならないからと云うので、そこでこの宮松の方へ落語研究会というものが引き移ったんです。

 第一回が開催された明治三十八(1905)年は、圓生が五歳だったが、大正十二(1923)年関東大震災まで続いた第一次落語研究会の十八年の歴史の中で、圓生自身と研究会との接点ができる。

 わたくしも十四歳ぐらいでしたか研究会へ・・・・・・と云ってもいきなり出演したわけじゃァないので、つまり前座になったわけですよ。ただし寄席ではわたくしは二ツ目で、前座がお茶を汲んで、「ご苦労さまです」と云って敬意を表して出してくれる。
 それが研究会へ行けばお茶を汲んで出し、下駄をそろえ、羽織をたたむ、前座通りの仕事をしなければなりませんが、それを無上の光栄だと思って本当に嬉しかった。何故かと云って研究会の前座になれば、かならず今に演らして。研究会へ出演できるということは将来を約束されたようなものですから、見込みのない者は絶対に出してくれません。
 もちろん、この前座になるには自分の師匠から「どうでしょう」といって推薦される、今村さんへ。すると、「ああ、あれならいいでしょう」
 もちろんその芸も聞き、人間も知っていての話ですが、ただし今村さんは玄関口でそれで決まるわけじゃァないので、岡先生に聞き、石谷、森、全部の先生がよろしい、と云って初めてゆるされるのですからたいへんに手数が掛かる。
 わたしは幸いと義太夫語りから転向して落語家になり、つまり普通の二ツ目よりと違い先生方も知っているのでスラスラとゆるされましたが。

 大阪で生まれた圓生は、五 ~六歳の頃から豊竹仮名太夫の元で義太夫の稽古を受けていた。生家の破産後に両親が離婚。三味線で生計を立てていた母と東京に移住し新宿角筈に居を構える。豊竹豆仮名太夫の名で子供義太夫の芸人として寄席に出演していた。
 その後、伊香保温泉の石段で転んで胸を打ち、医者から義太夫をやめるよう言われて、橘家圓蔵門下で落語家になった。

 最初に落語研究会の楽屋入りした時は、橘家圓童の頃だったと察する。

 若き圓生にとって、そこはどんな空間だったのかは、次回。

by kogotokoubei | 2019-07-15 08:45 | 落語の本 | Comments(0)
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三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)

 このシリーズ、二回目。

 前回は、明治三十八年、三遊亭圓左が今村次郎に相談したことから第一次落語研究会が始まることになったことを紹介した。
 圓遊人気に沸く寄席の様子に、落語の将来への危機感を圓左が抱いたわけだが、その思いは、速記者として落語、講談界で大きな権力を持っていた今村のみならず、顧問として名を連ねた岡鬼太郎、森暁紅、石谷(いしがや)華堤らも同感だった。

 さて、それでは、どんな噺家を出演させるか、ということになった。

 落語研究会の名人たち その当時、まず選ばれましたのが三遊派の橘家圓喬という、あたしども聞きました噺家の中で、まあそれ以上うまい噺家というのは今もって聞いたことありません。あたしが十二の年まででしたが、聞いたのは。こりゃまあ圓朝の直門でございますけれども大した芸の人でした。
 それから三遊亭圓右、橘家圓蔵・・・・・・私の師匠で。それから三遊亭小圓朝。この間亡くなりました小圓朝、あの人は本名芳村幸太郎という、そのお父っつぁん・・・・・・芳村忠次郎といいました。それから発起人である三遊亭圓左、この五人。全部三遊派の者でございまして。その当時は柳、三遊に分かれておりました。三遊派が五人でて柳の方からは柳家小さん。これは三代目でございますが・・・・・・一人だけ、六人・・・・・・。これが発起人としてスタートをしたわけで、明治三十八年の三月でございます。
 凄い顔ぶれだ。
 それにしても、当時の落語界における三遊派の充実ぶりは、現在の状況とはあまりにも、対照的。

 圓遊調が流行る時勢、客は入らないかもしれないが、なんとか続けようということで、この六人が、一人五円ずつ出して始めることになった。

 一カ月に一回の会で五円。と、六人いるんですから三十円の金が集るわけで、まだあなた、明治の三十年代に三十円の金というのはたいへんなものです。だから諸経費、それから会場費、それらのものを全部払ったところで三十円あれば立派にできるわけなんです。だからそれだけの金を出そうじゃないかという相談の上でやったわけです。

 明治三十年代、小学校教員の初任給が八~九円という記録がある。

 また、明治後半の寄席の木戸銭は十銭の時期が長く、大正になって十三銭に上ったとのこと。
 当時の一円の価値、現在なら二万円~三万円だろうか。

 ざっくり、六人の発起人(噺家)が、一人十万円ずつ拠出したと考えて、そう間違いはなさそうだ。
 それだけ、客の入りが悪かろうと思っていたわけだが。

 ふたをあけてみると予想に反してお客様がたいへんにおいでになった。一同、もうびっくりするぐらい。十二時から開演というんですが、もう十一時過ぎてお客様はどんどん入ってくる。
 (中 略)
 開演時間までこの入ったお客様をただ待たしておいては悪いからというので、その時にどうしようって事になって・・・・・・、小圓朝の弟子で、のちに二代目の金馬になりましたこの人が来ていたので、まだ当時二ツ目だったんです、圓流といった。これが楽屋にいたもんですから、「じゃァ何だ、おまえちょいと、お客様のお集りのあいだ十二時まで演って、それからあとは全員の者があがるようにするから」というようなわけで、急に臨時がとび出すというわけで。

 あら、二代目金馬の名が登場。
 
 常磐木倶楽部での初開催は、明治三十八年の三月二十一日。
 とかく、この二十一日は、「昔」を分解する字ということもあり、江戸落語中興の祖と言われる烏亭焉馬が「咄の会」を開いた日でもあり、縁起の良い日。

 予想以上のお客様が集まり、終演後には出演者、当時の大看板たちが、下足番を手伝ったという。

 さて、こうやって始まった第一次落語研究会は、会場を替えて長く続くことになる。
 その歴史の中に若かりし頃の圓生自身も、関わっていくのだが・・・・・・。

 今回は、これにてお開き。

 三週続いて、雨でテニスが休みになった。
 さて、どこへ行こうか。
by kogotokoubei | 2019-07-14 09:47 | 落語の本 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛