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噺の話

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<   2019年 05月 ( 17 )   > この月の画像一覧

 川崎の事件は、なんとも言えない悲しみと空しさが募る。

 さまざまなメディアで。あの事件が報道されている。

 その中で、街頭での声やメディアでのコメンテーターなる人たちの発言が、いろいろと物議を醸している。

 どんな発言が話題になっているかは、あえて書かない。

 
 こういう事件があると、随分前に書いた、ある本に関する記事を思い出す。

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中島梓『コミュニケーション不全症候群』

 それは、中島梓さんの『コミュニケーション不全症候群』。
 1991年8月に筑摩書房から単行本として発行され、1995年12月に文庫化。

 八年ほど前、二度、長い記事を書いた。
2011年3月5日のブログ
2011年3月6日のブログ

 今思えば、3.11の直前だった。
 
 最初の記事は、本書の引用を中心に、どんなことが書かれているかを紹介し、翌日、補足的な記事を書いた。

 その二つ目の記事と重複するが、こういう事件の背景にある社会病理について、考えたい。


 あの本の「最後の人間」の章から引用。

 ここに、なぜ「おタク」や「ダイエット」などを素材として「コミュニケーション不全症候群」というテーマで本を書いたのかについて、著者中島さんの思いが書かれている。

 もっとずっと重大に見えるたくさんの問題−たとえば環境破壊、地球の汚染、戦争や飢餓がこれほど身近に迫った臨界点をかかえているように見えるとき、なんでわざわざコミュニケーション不全症候群−いうなればほんのちょっとした不適応ないし過剰適応の問題を俎上にあげてまじめに考えなくてはならないのか。
 それは警察の機構と似ている。−「犯罪が起こらなくては何もできることはない」のである。おタクのなかのあるものがゆきずりに幼女を殺せばはじめておタクという存在は社会問題となる。が、それはすぐに次の−そう、たとえば、見捨てられている少年たちが女子高校生をさらって監禁し、ついになぶり殺してしまった、というような事件にとってかわられ、人々の関心と有識者の意見とはすぐに、それまでのおタクについての考察から、放任家庭への批判へとうつりかわってゆく。同じように拒食症で20キロになって死に瀕してはじめて、少女たちは多少なりともかえりみられるだけの価値のある存在、つまりは立派な「患者」として扱われるようになるだろう。
 本当はそれでは遅いのだが、そういう扱いが幸いにして間に合うことはなかなかない。いや、彼ら彼女たちがそのような、さまざまな異様な症状を呈するにいたったのはそもそも大体が、それほどに−殺人をおかしたり20キロにまで自分自身をすりへらすようなことになるまでに、社会から無視され、かえりみられず、かえりみるだけの価値もない存在として扱われていたからなのだ。社会は彼らをちゃんとした人間として正視しなかったし、彼らもまた自分たちの同類をそうしなかった−彼らの場合はそうするだけの余力はもう残ってなかったのかもしれない。また彼ら自身も社会に対してそういう期待をもつこともなかったのだ。そうするかわりに彼らは自分自身の頭を虚構の砂のなかに埋める−さながら駝鳥のようにだ。そうして何も見ないで生きようとする。

 中島さんの文章は、特にこの評論は、独特の言い回しもあって分かりにくい部分もあるが、私なりの理解とちょっとした主張にまとめると、こういうことになる。

(1)現代社会は、自分自身が安心していられる“テリトリー”が、常に侵害される恐れがある
(2)そのテリトリー外の人とのコミュニケーションが、なかなか上手く行えない傾向にある
(3)いわば「コミュニケーション不全症候群」と言うべき病は、必ずしも“ヘンな人”や
   “異常な人“といった特定個人の問題ではなく、現代人がすべからく侵されかねない
   社会病理である
(4)そういった環境に過剰適合したものとして、「おタク」や「ダイエット」、そして行き
   過ぎたダイエットによる摂食障害などの問題がある。
(5)しかし、こういった社会病理に起因する問題は、特定個人が何か問題を起こしたり、
   ニュースになるような事態になって初めて、あくまで“個人”の問題として警察が扱い
   マスコミも取り上げるが、本質的な社会病理のことは滅多に話題にならない
(6)重要なのは、その特定個人による“事件”の背景にある社会病理の実態を知ることと、
   それをどう解決するかという議論なのである


 さまざまな事情、背景から、自分の狭いテリトリーに閉じこもりがちな人に対し、その殻を一層固いものにしてしまうような発言や行動は、決して今回のような事件の解決にならないと思う。

 すでに“犯人”である人物に対し批判するのは、周囲の同調も得られやすい。
 そういう時の発言は感情的になりやすいが、多くのメディアは、それを煽る。

 そうやって、犯人を批判、指弾することは、同じような事件の発生を抑制する効果があるのかどうか。

 大事なことは、“犯人”を出さないことではないのか。

 安倍内閣を含め、登下校時の安全確保、ということを力説するが、それで問題の本質部分が解決できるのだろうか・・・・・・。


 中島梓さんが『コミュニケーション不全症候群』を書いてから三十年近く経とうとしている。
 彼女が指摘した、“社会から無視され、かえりみられず、かえりみるだけの価値もない存在として扱われ“る人は、間違いなく増えていると思う。

 同じような事件が起こらないようにするには、寛容な姿勢で、相互扶助の精神が生きる社会が必要だと思う。

 3.11の後、そういう社会に戻りつつあったように思うが、残念ながら、あれだけの犠牲があったにもかかわらず、不寛容な社会に戻りつつある。

 “さながら駝鳥のように”“自分自身の頭を虚構の砂のなかに埋める”人が増えているのではないか。

 防御の観点でいろいろ考えることも、大事かもしれない。

 しかし、警備を厳重にすることにも限界がある。

 AIを活用して画像認識技術で危険と思われる人物を特定する、なんてことが可能な時代だ。
 中国では顔の認識技術と罰金の引き上げで、交通違反や犯罪を減らしている。

 しかし、行き過ぎると、常に監視の眼が光る息苦しい社会になる危険性がある。

 ジョージ・オーウェルの「1984」の社会は、技術的には現実性を帯びてきた。

 そんな息苦しい社会を、多くの人が望むのだろうか。

 やはり“犯人”をできるだけ生み出さないための社会の姿を模索することが大事ではないか。

 あえて、「甘い!」という批判を覚悟で書くが、イソップ寓話の「北風と太陽」の教えを思い出す必要があると思う。

by kogotokoubei | 2019-05-31 21:54 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 5月19日の「いだてん」で、森山未來が馬生と志ん朝(朝太)の高座を演じ分けた芸に感心した。

 ビートたけしの志ん生も、最初の頃ほど抵抗感はなくなってきた。

 というか、金栗四三、田畑政治、そして志ん生の三人の物語と思って、楽しんでいる。

 その志ん生が、記録的な改名の歴史を誇る(?)ことは、有名。

 しかし、いつどの名跡を名乗っていたかは、部分的にはご本人の記憶も曖昧で、確たる説はない。

 どんな説があるのかを、ある本から紹介したい。

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保田武宏著『志ん生の昭和』

 その本は、保田武宏さんの『志ん生の昭和』(アスキー新書)。
 著者の保田さんは志ん生のCDとDVDの全作品691のガイドブックも書いているし、志ん生のことを知るには、保田さんの著作に当るべきだろう。

 「第一章 なめくじ長屋」から引用。

 ここで五代目古今亭志ん生の改名について記しておこう。度重なる改名で、本人もはっきり覚えていないほどだが、三つの説がある。
[小島貞二説] まず『びんぼう自慢』を聞き書き、アレンジした小島貞二の説。
   三遊亭盛朝(明治四十年)-三遊亭朝太(明治四十一年)-三遊亭圓菊(大正五年)-
   金原亭馬太郎(大正七年)-全亭武生-吉原朝馬-隅田川馬石-金原亭馬きん(大正十年)-
   古今亭志ん馬-小金井芦風-古今亭馬生(大正十五年)-柳家東三楼(昭和二年)-
   柳家ぎん馬-柳家甚語楼-古今亭志ん馬(昭和七年)-金原亭馬生(昭和九年)-
   古今亭志ん生(昭和十四年)
 馬太郎と馬ぎんのあいだに全亭武生、吉原朝馬、隅田川馬石をまとめて入れているが、年代の裏づけはない。

 古今亭志ん馬を二度名乗っているので、名跡の数は十六。
 保田さんが小島さん以外に紹介しているのは、結城昌治さんと、斎藤忠市郎さんの説。

[結城昌治説] 小説『志ん生一代』の作者の説。
   三遊亭朝太(明治四十三年)-三遊亭圓菊(大正五年)-金原亭馬太郎(大正七年)-
   吉原朝馬(大正八年)-全亭武生(大正九年)-金原亭馬きん(大正十年)-
   古今亭志ん馬(大正十二年)-小金井芦風(大正十三年)-古今亭馬生(大正十五年)-
   古今亭ぎん馬(大正十五年)-柳家東三楼(昭和二年)-柳家甚語楼(昭和二年)-
   隅田川馬石(昭和五年)-柳家甚語楼(昭和五年)-古今亭志ん馬(昭和七年)-
   金原亭馬生(昭和九年)-古今亭志ん生(昭和十四年)
 隅田川馬石を昭和へもってきているが、ぎん馬を古今亭にして柳家東三楼の前にしている。最初の盛朝は入れていない。
 すべてに襲名の時期がある。大正十二年と昭和五年は、同じ年での二度改名していることになる。
 盛朝がなく、古今亭志ん馬と柳家甚語楼が二度あって、名跡は十五種類。

 さて、三っめの説。

[斎藤忠市郎説] 落語史研究家が、新聞、雑誌などの資料にあたって、調べあげた説。筆者も調査してみて、この説が一番正確だと判断した。したがって本書はこの説によっている。
   三遊亭盛朝(明治三十八年)-三遊亭朝太(明治四十三年)-三遊亭圓菊(大正六年)-
   金原亭馬太郎(大正七年)-金原亭武生(大正九年)-金原亭馬きん(大正十年)-
   古今亭志ん馬(大正十三年)-小金井芦風(大正十四年・志ん馬と併用)-
   古今亭馬きん(大正十四年)-古今亭馬生(大正十五年)-柳家東三楼(昭和二年)-
   柳家ぎん馬(昭和二年)-柳家甚語楼(昭和三年)-隅田川馬石(昭和五年)-
   柳家甚語楼(昭和五年)-古今亭志ん馬(昭和七年)-金原亭馬生(昭和九年)-
   古今亭志ん生(昭和十四年)
 吉原朝馬が入っていない。これを名乗のった形跡がないのである。武生は前二説と違って金原亭であり、馬きんは金原亭と古今亭の二度名のっている。ぎん馬は名前から判断すると古今亭のように思えるが、これは三語楼門下になってからであり、柳家で間違いない。

 古今亭志ん馬と柳家甚語楼を二度名乗っているので、名跡の数は十六。

 
 26日の放送では、アントワープオリンピックのマラソンで16位と低迷した金栗四三が、他のメンバーと一緒に帰国せず、ヨーロッパを旅していた。

 アントワープオリンピックの開催は1920年、大正九年。
 斎藤忠市郎説で、志ん生は金原亭馬太郎から金原亭武生に改名した年だ。

 ちなみに、本書で保田さんが書いているが、隅田川馬石の名は、三語楼協会を出てフリーになった時に名乗ったのだが、結局は泣かず飛ばずで、ほぼ一ヶ月後に三語楼に頭を下げて復帰し、再び甚語楼に戻っているとのこと。

 借金取りから逃げるため、と改名の理由を志ん生は語っているが、それだけではない歴史も背後には存在する。
 
 今後、「いだてん」で、若き志ん生にどんな出来事があり、いつどんな名跡を名乗るのか、なんてことも楽しみである。

by kogotokoubei | 2019-05-30 12:59 | 落語家 | Comments(0)
八五郎 いますか?
ご隠居 おや、八っつぁんじゃないか、お上がりよ。
八五郎 言われなくても、上がらせていただきやす、よっと。
ご隠居 どうした、やけにご立腹じゃないか。
八五郎 そりゃぁそうですよ、ご隠居。
ご隠居 何かあったかい。
八五郎 あの相撲にあちゃらの大統領が見に来た一件でさぁ。
ご隠居 ほうほう、千秋楽にトランプ大統領が観戦に来たねぇ。
八五郎 なんですか、ありゃぁ。
    マス席に座らずに、椅子に座ったり、危険だから座布団投げが禁止されたり、
    そもそも、表彰式で土俵にスリッパで上がったんですぜぇ。裸足でしょうが。
ご隠居 なぜ、貴賓席ではなかったのかは疑問だね。近くで見たかったのかもしれないが、
    マス席四つ、16人分の場所に大きな椅子四つとは、異様な風景だった。
    たしかに、相撲の伝統を外れた、特別対応だったね。
八五郎 そうでしょう。それに、自販機に「休場」なんて紙貼って、飲み物を買うことも
    できなかったらしいじゃぁねえですか。喉が渇いた客は、窮状だってぇの!
    それに、トランプ旦那が入場する時の、あの「間」がいけねぇ。
    前の日に優勝が決まっていたから良かったものの、もし優勝がかかった一番の前に
    あれだけ間が空いたんじゃ、肝腎の勝負にだって響きまさぁ。
ご隠居 たしかに。朝乃山と対戦した御嶽海が、もう少し工夫できたんじゃないか、
    と言っているが、同感だね。
八五郎 そうですよ。だいたい、途中でトランプさん、居眠りしてたでしょう。
    暑い日でしたからね、ゴルフの疲れがあったんでしょうが。
ご隠居 結構、きついスケジュールだったようだね。
八五郎 ゴルフから相撲に居酒屋に。全部、税金使ってるんでしょう。
    やたら「令和最初の」なんて言ってますが、まさに、令和最初の大接待てこと
    じゃねぇですか。
ご隠居 たしかにそうだね。トランプさんも1946年生れ、とうに古希を過ぎている、
    相当お疲れだったろう。
八五郎 千葉のゴルフ場では、16ホール回ったらしいすね。
    そのゴルフ、楽しんだんでしょうかねぇ。
ご隠居 そこは安倍さんだから、きっとヨイショして、楽しませただろう。
八五郎 ヨイショ、ですか。いったい、どんな具合に?
ご隠居 決まっているじゃないか。ゴルフでナイスショットしたら、声をかけたな
八五郎 おっと待った、あっしにも分かりやした、「よっ、大統領!」


 オソマツさまです。


by kogotokoubei | 2019-05-29 12:36 | 八五郎とご隠居 | Comments(2)

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森まゆみ著『明治東京畸人傳』(新潮文庫)
 その本は森まゆみさんの『明治東京畸人傳』。

 平成八年単行本、平成十一年の文庫化。森さんの住んでいる‘谷根千’近辺に縁のある人々について書かれた本。

 この本から、新宿・中村屋の創業者、相馬愛蔵と黒光夫妻について二回目。

 明治三十九年の暮れ、本郷で居抜きのパン屋を買い、屋号もそのまま中村屋として、なんら経験もないまま、二人が商売を始めた。

 研究熱心な愛蔵は理づめで商売を考える。先代中村萬一氏はなぜ失敗したのか。検討して次のような戒めとした。
  営業が相当目鼻がつくまでは衣服は新調しないこと。
  食事は主人も店員女中も同じものを摂ること。
  将来どのようなことがあっても、米相場や株には手を出さぬこと。
  原料の仕入れは現金値引きのこと。
 書生あがりのパン屋ということで、雑誌社の取材もあった。同じく女学生あがりの妻良は「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」がいえず、家の近くの太田ヶ原(旧太田摂津守邸跡)でひそかに声を出して練習したという。一高の茶話会の注文もあって商売は順調にのびていく。

 相馬愛蔵という人、なかな骨太な男だったようだ。

 この人は、古今亭志ん生が生れた明治23(1890)年に東京専門学校を卒業すると同時に北海道に渡り、札幌農学校で養蚕学を学んだ。
 その後、安曇野に帰郷し蚕種の製造を始め、『蚕種製造論』を書いて注目されたとのこと。
 また、禁酒会をつくって、地元の若者にキリスト教と禁酒を勧めたり、村に芸妓を置く計画に反対して廃娼運動も行うなど、社会運動家の顔も持つ。

 個人的には、その潔癖な姿勢に必ずしも好感が持てるわけではないが、自分の哲学を持ち、世間の風潮に染まらない姿勢は、見習うべき点だと思う。

 引用を続ける。
 愛蔵は「士農工商」の身分秩序や「うまくごまかして儲ける」という商売道に反抗し、「人格と道徳」を商売の基礎においた。リベートやコミッションの要求は拒否し、客に対しても対等に接し、客のわがままは許さなかった。店員を芝居や相撲につれていくときはかならず一等席とし、卑下した気持ちにさせなかった。禁酒運動に参加したくらいだから、もちろん店には酒類は置かない。こんなふうに商売を近代化したのである。

 こういった経営者、そうはいない。

 特に、飲食業でこのような経営方針を掲げることは、実に稀なことだと思う。

 今日の“ブラック”といわれる飲食業界のトップに、相馬愛蔵という経営者のことを知って欲しい。

 愛蔵、『私の小売商道』という文の中でこんなことを書いていると、森さんが紹介している。

「すべて日本人の弱点として、アメリカやイギリスを真似て得意がると同様に、地方ではやたらに『東京を真似る』ので地方の特色を失って行く。封建時代は地方地方の名産がまことに特色があり、如何にもその土地らしいにおいがして、ちょっと旅をしてもどんなに趣き深いことであったろう。それが現在では日本が一律に単調化し、平面化しますますその味わいを失って行く。文明、人物、みなこの名物の例に異らずである」

 昭和27年に書かれたもの。

 なお、『私の小売商道』は、青空文庫で読むことができる。
青空文庫・相馬愛蔵『私の小売商道』

 さて、愛蔵の経営哲学を土台にし、中村屋はどんなお店になっていくのか。

 さて本郷の中村屋は間口三間半、家賃十三円、一日の売上げは店売り八円、配達と卸売りで五円、合計十三円。つまり月の家賃は店の一日の売上げと同額なのが、商売の基本と愛蔵は考えた。そして三年目に、アンパンのあんをクリームに替えたクリームパン、ジャムとクリームに替えた「クリームワップル」を売り出して大当たり。そのため人手が目に立って、税務署のにらむところとなった。このとき売上げを正直に申告したため、また大変な税金を払わなくてはならなかった。
 中村屋は、日露戦争後の明治四十年、新開地の新宿に支店を出し、そちらを本拠地としていく。翌年、安曇野時代からの夫婦の友、荻原守衛(もりえ)が、ヨーロッパから帰り、新宿角筈(つのはず)にアトリエを建て毎日中村屋に通う。またその関係で中村彝(つね)、中原悌二郎、戸張孤雁(こがん)、柳敬助ら、新進美術家たちが中村屋に出入りするようになり、黒光も愛蔵も彼らを助けた。しかし四十三年までは、住いは本郷団子坂坂上であったようだ。

 この後、黒光は一存で娘俊子を亡命者ボーンに縁づけたことなどとともに、やや周囲に誤解を与える人物でもあったことが紹介され、森まゆみさんは、こう書いている。

 黒光は何か心に大きな空白感を抱いていた女性のように思われる。満たされぬものをつねに外に向う情熱としていった。
 (中 略)
 理知的で寛大な愛蔵、情熱的で唯我独尊の黒光。まさに反対だった。黒光の方がずっと有名だが、私はじつは愛蔵がエラかったのではないか、と思っている。

 “まさに反対”だったから、良かった、ということでもあろう。

 愛蔵は、今日の日本が、ますます一律に単調化、平面化が進んでいる状況を見たら、いったいなんと言うだろうか。

 昭和29(1954)年に、愛蔵は84歳で亡くなり、後を追うかのように、その翌年、黒光は79歳で旅立っている。

by kogotokoubei | 2019-05-24 21:18 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 NHKの朝の連続小説「なつぞら」で、新宿・川村屋というお店が舞台の一つとなっている。

 どう考えても、このお店のモデル(モチーフ?)は、新宿・中村屋。

 ある本に、中村屋の創業者のことが書かれていたことを思い出した。

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森まゆみ著『明治東京畸人傳』(新潮文庫)
 その本は森まゆみさんの『明治東京畸人傳』。

 平成八年単行本、平成十一年の文庫化。森さんの住んでいる‘谷根千’近辺に縁のある人々について書かれた本。

 この本からは、以前、圓朝作『松と藤芸妓の替紋』のことを紹介したことがある。この本を読んで、残念ながら行けなかったが、むかし家今松が独演会でこの噺をネタ出ししていたことを思い出して書いた記事だった。
2017年5月20日のブログ


 この本の中に、「相馬愛蔵・黒光夫妻の駒込千駄木林町十八番地」という章がある。

 冒頭部分から引用する。

 新宿中村屋のカリーライス、といえばいまも名物だが、戦前はとりわけハイカラでお洒落な食物だった。これは、絵描き中村彝(つね)や柳敬助、彫刻家荻原碌山らのパトロン、というか支援者であった中村屋の女主人相馬黒光が、インドの亡命者ラシュ・ビハリ・ボースのつてで純印度式を仕込んだものという。
 黒光はボースをかくまい、のちに娘俊子を彼に嫁がせている。また盲目のロシアの詩人エロシェンコの世話もしたが、その縁でボルシチをメニューに入れ、店員にルバシカを着せることを取り入れている。ピロシキも売り出した。しいていえば、こうした国際的な交友とその産み出す伝説で、ちゃんと商売のもとは取っていたといえるのだろう。ついでに、新宿中村屋では、いまも「碌山」「黒光」とい名付けた和菓子を売っている。
 上階のレストランには、先にあげた中村屋ゆかりの美術家の作品が飾られ、食事をしながら、絵を楽しむこともできる。

 カリーも、ボルシチやピロシキなどのメニューには、中村屋の歴史が込められている、ということか。

 ホームページには、大正四年と五年に出来事として、ボース、エロシェンコのことも紹介されている。
新宿中村屋のサイト

 黒光の夫は、相馬愛蔵。

 ふたたび、引用。

 黒光は仙台藩の漢学者・星雄記の孫として明治八(1875)年、広瀬川の畔(ほとり)に生れた。本名を良(りょう)という。高等小学校時代にキリスト教に触れ、上京して横浜のフェリス女学校、そして麹町の明治女学校で学ぶ。このとき、すでに布施淡(あわし)という画家の恋人がいた。
 しかしこの恋は実らず、安曇野の旧家の生れで東京専門学校(いまの早稲田大学)を卒業した相馬愛蔵と結婚。このとき良は都会の生活に嫌気がさしていて、長野の自然の中での生活こそ、と小さなオルガンと柳行李一つで穂高に向かう。

 本書には出会いのことは書かれていないが、愛蔵が募金活動で仙台を訪ねた際に、二人は会ったようだ。

 本書掲載と同じ二人の写真をWikipediaで発見。
 すでに著作権切れとのことでお借りした。
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                相馬黒光
ウィキメディア・コモンズの該当ページ

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                相馬愛蔵
Wikipedia「相馬愛蔵」

 黒光、なかなかの美人。

 さて、都会を嫌い憧れた信濃での生活だったが、黒光は、農村の生活に馴染めず、健康も害して、仙台の実家で静養してから、愛蔵と二人、ふたたび上京。

 明治三十四年九月、二人で東京の土を踏んだとき、はじめて借りたのが、本郷団子坂上、駒込千駄木林町十八番地の借家であったという。

 ということで、著者森まゆみさんの守備範囲(?)になったということ。

 二人は、コーヒー店をやろうと思いついたのだが、近くの本郷五丁目には、淀見軒というミルク・ホールがすでにあったし、その前には森鴎外なども通った洋風喫茶・菓子店の青木堂もあり、断念。

 次に「パン屋」を思いつく。当時、パン屋は在留の外国人家庭から、次第にインテリ層の生活に入り込みつつあった。果して一時の流行か、食事として定着するのか。二人はさっそく、その日から、三食のうち二食をパンにしてみた。砂糖、胡麻汁、ジャムなどを副食とした、煮炊きの手間はかからぬし、「突然の来客の時など、ことに便利に感じられた」という。
 二人が東京帝国大学正門前の中村屋を譲り受けたのはその年の暮、十二月三十日である。試食のパンを買った店だし、立地は良い。繁盛していたからまさかと思ったが、主人が相場に手を出して失敗したのだという。さっそく居抜きを七百円で買う。屋号はそのまま引き継いだ。

 ということで、新宿に移っても、その屋号を継続したわけである。

 その新宿での出来事などは、次回。


by kogotokoubei | 2019-05-23 20:47 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(6)
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『歌丸 極上人生』

 『歌丸 極上人生』は、最初は平成18年に、うなぎ書房から『極上 歌丸ばなし』として発行され、平成27年に加筆・修正の上で、祥伝社黄金文庫で再刊。

 この本からの五回目。

 落語研究会の白井プロデューサーからの“無茶ぶり”で、圓朝作『牡丹燈籠』の『栗橋宿』を演じた歌丸。

 白井さんからは、また依頼があった。

 研究会で『栗橋宿』をやって、しばらくしてから、今度は『真景累ヶ淵』をやったらどうだって、持ち掛けられました。白井さんもしばらく様子を見てたんじゅないですか?その間二年ほどありましたから、で、あたしも『牡丹燈籠』のほうは、ともかく『栗橋宿』をやったんだから、いったん脇に置いといて、じゃァ今度は『累ヶ淵』に手を伸ばしてみようかな、と思っんです。

 なるほど、そういうことだったか。
 
 今度は、歌丸も初めから乗り気だったようだ。

 圓朝師匠の『真実累ヶ淵』は、本当だったら、発端の『宗悦殺し』からやらなくちゃいけないんでしょうけども、初めに見せられたのが、やはり圓生師匠の『深見新五郎』のビデオだったんです。そうするとね、その前の『宗悦殺し』からやると、馬鹿に長くなっちゃって、くどくなると思ったんです。『深見新五郎』をやれば、そのマクラで、それまでのあらすじをずーっと言わなくちゃいけませんよね?あたしはそれでいいんじゃないかって思ったんです。それで、平成八年の八月、国立演芸場で十日間やったうえで、十一月の研究会にかけました。それ以後、毎年、国立の八月中席の十日間で、一話ずつこしらえていって、五年がかりで五席にまとめたと、こういうえわけです。
 なにしろ長い噺ですから、全部片付けるには、あまりに時間がかかるために、あたしとして、深見新五郎の一件と、あとは新吉とお賎のスジだけに絞ろうと考えたんですね。それで、『深見新五郎』のあとは『勘蔵の死』『お累の自害』『湯灌場から聖天山』『お熊の懺悔』と、結局この五席でまとめることにしたんです。
 『豊志賀の死』とか『お久殺し』は、ほかにもやる人があるし、とりわけ『豊志賀の死』は、もうみなさんがおやりになってますから・・・・・・みんながやってるところをやってもつまらない、と思いました。それに『勘蔵の死』をやっとけば、マクラっていうか、初めのスジの説明で、豊志賀、お久のほうあ一言で片が付いちゃうから、もういいんじゃないかって・・・・・・。

 なるほど、いろいろ考えて歌丸版の『真景累ヶ淵』が出来上がっていったわけだ。

 「真景」は当時の流行語だった「神経」のもじりで、漢学者の信夫恕軒の発案と言われている。
 
 とにかく、登場人物も多く、その因果関係も複雑な噺。

 圓朝作品についてしばしなお世話になる、「はなしの名どころ」さんから、図をお借りした。
「はなしの名どころ」サイトの該当ページ
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 同サイトでは、この噺を次の九つに分けて紹介している。

①宗悦殺し ②松倉町の捕物 ③豊志賀の死 ④お久殺し ⑤迷いの駕籠
⑥お累の死 ⑦聖天山 ⑧麹屋のお隈 ⑨明神山の仇討

 ②松倉町の捕物、が『深見新五郎』に該当するのだろう。

 たしかに、『豊志賀の死』は、多くの噺家さんが演じる。』

 なお、「はなしの名どころ」管理人さんが書いた『落語と歩く』について、昨年四回に分けて紹介した。この本、まだ読んでらっしゃらない方に、ぜひお勧めします。
2018年4月3日のブログ
2018年4月5日のブログ
2018年4月6日のブログ
2018年4月8日のブログ

 話を戻す。
 『真景累ヶ淵』、そう簡単に出来る噺ではない。
 歌丸が悩んでいた時、ある噺家さんが助け船を出してくれたようだ。

 『お累の自害』のときは、林家正雀さんと話し合ったことがあるんですよ。あの人も、稲荷町の正蔵師匠の系統の『累ヶ淵』をやっていますからね。で、あたしの場合は、圓生師匠のおやりになったのをもとにしているんですが、圓生師匠のでいくと、あすこで新吉がお累をいじめ抜きますね、蚊帳を持って行かれては赤ん坊がかわいそうだからと、放さないのを無理に引っ張って生爪をはがしたり、赤ん坊に煮えくるかえっている薬缶の湯をかけて殺したり、あまりにも残酷で、あたしは凄く抵抗を感じちゃって、これはできない、あすことどうにかしたいっていうようなことを、正雀さんを話し合ったんです。そうしたら正雀さんが一言、「そいじゃァ四谷様へもってちゃったらどうです?」って・・・・・・つまり、『四谷怪談』のお岩と伊右衛門の型ですね、そっちにしたらどうですって言われて、ああそうかと思って、赤ん坊を抱いたお累が、蚊帳をを放さないのを、委細構わず蚊帳ごとずるずる引きずってきて、上がり框(がまち)のとこで、いきなり引ったくると、患っているお累は力がないから、思わず抱いている赤ん坊を落とす、打ち所が悪くて・・・・・・という具合に持ってくようにしたんです。

 なるほど、圓朝作品に挑戦する、良い仲間がいたねぇ。

 林家正雀の圓朝ものは、2015年の8月下席の主任で『牡丹燈籠ーお札はがし』を聴いている。
2015年8月30日のブログ

 その際、柳家小袁治師匠のブログから九日間のネタ帳の写真をお借りし掲載した。

 最初の四日間が『真景お類ヶ淵』で『深見新五郎』『豊志賀』『お久と新吉』『お累の婚礼』の四席。

 どの人物、どの筋書きを取り上げるかは、噺家さんそれぞれに思いがあるだろう。
 ちなみに、歌丸が演じた『お熊の懺悔』は、圓生も正蔵も手がけていない。

 また、歌丸は、最初は割愛した『豊志賀』をやってみて、やはり発端の『宗悦殺し』から始める必要を感じたという。
 その結果、「語り直して三遊亭圓朝作 怪談真景累ヶ淵」では、『宗悦殺し』から、始め、『深見新五郎』『豊志賀』『勘蔵の死』『お累の自害』『湯灌場から聖天山』、最後『お熊の懺悔』と全七話で構成している。

 なお、白井プロデューサーの“無茶ぶり”は、その後も続き、『髪結新三』(河竹黙阿弥作)に歌丸は挑戦することになる。

 その内容については・・・この本でご確認のほどを。

 なんとか、今になって、桂歌丸という噺家さんが、テレビの人気者で終わらないために精進していた姿を知ることになった。
 
 もっとその高座を聴くべきだったと、悔やむばかり。

 このシリーズ、これにてお開き。


by kogotokoubei | 2019-05-22 21:27 | 落語の本 | Comments(2)
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『歌丸 極上人生』

 『歌丸 極上人生』は、最初は平成18年に、うなぎ書房から『極上 歌丸ばなし』として発行され、平成27年に加筆・修正の上で、祥伝社黄金文庫で再刊。

 この本からの四回目。
 次第にホール落語会への出演が増えてきた歌丸。
 
 そんな時期、あるプロデューサーからの“無茶ぶり”が、あった。

 三吉演芸場の独演会を始めてからは、どんどん古典のほうへ傾いて行きまして、そのうちに圓朝ものに手を染めることになるんですが、その転機になったのが、平成六年七月の落語研究会でやった『栗橋宿』です。
 これは、前にもちょっとお話が出たTBS『落語研究会』の白井良幹さん、あのかたにやれって言われたんです。それまで白井さんがあれやれ、これやれって言ったことはありませんでした。ただ出てくださいっていうだけで、出し物はあたしのほうで、じゃァこれやりましょうって決めてたんですけど、このときから、いろいろ出し物の注文が来だしました。

 TBSの名プロデューサーと言われた白井良幹(よしもと)さん。
 その後を継いだのがイーストの今野徹さんだった。
 入社三年目から今野さんは白井さんのアシスタントプロデューサーを務めたが、2017年12月に五十代の若さで旅立ち、さて、今は誰がプロデュースをしているのかは知らない。

 白井さんの無茶ぶりのことを続ける。

 一番初めに、いきなり持ってこられたのが、圓朝作『怪談牡丹燈籠』の『栗橋宿』・・・・・・あたしはね、それまで圓朝ものはやったことはないし、まして、圓生師匠があれだけ得意にしていらしたものですから、とてもじゃない、勘弁してください、できませんって言ったんですよ。そしたら、できないって言ってちゃなんにもできない、できるできないはともかくも、やってごらんなさいって、前に圓生師匠が研究会でおやりになった『栗橋宿』のビデオテープを、無理矢理押しつけられちゃったんです。

 白井さんだから出来たことなのだろう。

 さて、名プロデューサーからのリクエストにどう応えたのか。

 あたしは、研究会でやるために地方で稽古したってのはこのときだけですね。地方の会で四、五回やりましたかね、それである程度固めてから、本番にぶつけたんです。

 これで思い出すのは、以前は柳家権太楼なども、落語研究会の前の落語会では、研究会のネタが多くなること。
 それだけ研究会の価値も高かったと言えるだろうが、今日では、はたしてどうだろう。
 出演者の顔ぶれやネタを眺めて、時代の変遷を感じるのは私だけではないだろうと思う。
 今も続く歴史あるホール落語は、大きな過渡期を迎えているように思う。

 さて、引用の続き。
 研究会で初めてやったときには、まず、終わってほっと一安心したってのが、正直なとこでしたね。あとで自分のビデオ見て、悪いところもずいぶんありました。でも、まァなんとかなるんじゃないか・・・・・・と思って、それから、その年の八月中席の国立演芸場ですね、あすこは昭和五十七年ころからずっと、八月中席は、あたしがトリを取らしてもらってますんで、十日間、毎日『栗橋宿』を出して勉強させてもらいました。ほかでも時どき出してみて、いくらかずつは自信らしいものがついてきましたけど、まさか、これがキッカケで、『牡丹燈籠』を全部やるようになろうとは思いませんでしたね。

 白井さんの無茶ぶりが、桂歌丸という噺家さんに、大きな芸の引き出しをつくることになったわけだ。

 この本には、聞き書きをした山本進さんとの対談も掲載されているのだが、その中で、柳家小三治の『小言念仏』も、白井さんによる研究会のための無茶振りが最初らしい。

 今日、そんな無茶ぶりが許される人も、それを生かすだけの噺家も、いないような記がするが、はたしてどうなのだろうか。

 その後の歌丸の圓朝作品への挑戦については、次回。

by kogotokoubei | 2019-05-19 16:54 | 落語の本 | Comments(2)

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『歌丸 極上人生』

 『歌丸 極上人生』は、最初は平成18年に、うなぎ書房から『極上 歌丸ばなし』として発行され、平成27年に加筆・修正の上で、祥伝社黄金文庫で再刊。

 少し間が空いたが、この本からの三回目。
 
 これまでに、昭和49年、家の近くの三吉演芸場で歌丸が三十八歳の時に始めた独演会で、古典に挑戦していたことを紹介した。

 その独演会開始から十五年目、平成元年の芸術祭で、「桂歌丸独演会」の成果が認められて、演芸部門の芸術祭賞を受賞している。
 ちなみに、その前後における演芸部門で落語家の受賞は、昭和61年に雷門助六、62年に林家正雀、前年63年に三遊亭圓楽、翌平成2年が、小文枝時代の五代目桂文枝。

 さて、もっと前から、あるホール落語にも出演していた歌丸だが、三吉演芸場で古典に取り組み始めてから、他の伝統あるホール落語への出演要請が増えてきた。

 一番早かったのは、NHK東京落語会で、昭和40年7月、第79回公演に初めて出演しまして、その後の二年か三年にいっぺんづつ出さしてもらいましたが、当時はまだ新作専門のころですから、出し物も『乗車券』『京の舞妓』『時間売ります』『姓名判断』『新聞記事』といったような新作を出してます。昭和55年12月の公演で『おすわどん』を出しまして、以後は古典ものばかりになりました。
 その55年9月には三越落語会に初出演(『お茶汲み』)、58年12月にはTBS落語研究会(『三味年栗毛』)59年6月には紀伊国屋寄席(『鍋草履』)と、次々に定評のある落語会に出していただくようになり、このころには、もう逆に古典専門になってしまいました。
 『鍋草履』『三味線栗毛』は、両方とも春風亭の先生のものです。六代目の柳橋師匠・・・・・・このかただけは、「師匠」じゃなくて「先生」と言わないといけなかったんです。なにしろ昭和5年に芸術協会ができたときからの会長ですから、お稽古してもらうどころか、ぴょこぴょこの真打なんか、なかなか口をきいてももらえませんよ。

 意外に思うのは、東京落語会が、二ツ目時代の新作派の歌丸を出演させていたこと。
 「笑点」が始まるのは昭和41年だから、その前年に初出演。

 『鍋草履』『三味線栗毛』が、柳橋譲りとは知らなかった。とはいえ稽古をつけてもらったのではないけどね。どのように譲り受けたのかは、後でご紹介。

 歌丸の『鍋草履』は、2012年の新宿末広亭9月下席、十一代目桂文治の襲名披露興行で聴いている。
 その時の感想を、あらためて確認。
2012年9月27日のブログ

桂歌丸『鍋草履』 (15分)
 談志と同じ昭和11年生まれ、今年76歳になる芸協会長が健在で良かった。トリへの配慮がうかがえる軽い噺ではあるが、こういうネタをしっかり出来ることが、落語家にとって重要なのだと思う。口跡もはっきりしていて、聴いていて疲れない高座。ある意味で、落語の教科書とも言える内容に感じた。
 昨年末、この寄席の席亭が発した苦言を契機に、このところ芸協は頑張っているように思う。全員の実力が一気に上がることはありえないが、米助の古典への挑戦なども含め、背後に歌丸会長の思いが、良い方向に向かわせているような気がする。この席でも千秋楽に当代円楽が出演するようだが、それは披露目での特別なもの。定席では、他の一門の助けなど借りずに、客を呼べるだけの勢いがつきつつあるのではないだろうか。だから、会長にはまだまだ元気でいて欲しい、と思う。

 最近は、過去の記事を読み直して、ようやく少し記憶が甦る・・・のである。

 そうそう、この披露目は、前年末に席亭から苦言があった、その末広亭だった。

 ちなみに、この日は、口上でもなかなか味のある話をしてくれた鶴瓶が、『青木先生』を披露した。
 これまで私が聴いた、鶴瓶の唯一の高座。
 たしかに、十分ほどで客席をドカンドカンさせた話芸は、たいしたものではあった。
 トリ文治の十八番『源平盛衰記』も、大いに笑った。


 さて、歌丸は、どうやって「先生」と呼ばれた芸協のドン、柳橋からネタをもらうことができたのか。

 こっちがやっと少し認められるようになってから、あるとき楽屋で、春風亭の先生に謎をかけたんです。「先生、あの『鍋草履』は、先生はレコードにはお入れになってないんですか」って、あたしが聞いたら「いや、俺は『鍋草履』はレコードに入れてないぞ」「ああそうですか」「なんだ」「いや、いい噺だと思いまして」「なんだ、やりてえのか」「やりたいですねェ」ったら、「ふーん」って、その日はそれっきり。で、次の日に「『鍋草履』の音はNHKにあるぞ」って言ってくれたんですよ。NHKに音があるぞってえことは、こりゃァやってもいいって言ってくれたようなもんだと、こっちは解釈しますよ。
 それからNHKのプロデューサーのかたにお願いをして、まだカセットのないころ、オープンリールのテープにダビングしてもらった音をいただきました。それで春風亭の先生のところへ行って「先日はありがとうございました。NHKに音がありました。プロデューサーのかたからいただきました」って言ったら、「うん、そうか」って、それでおしまい。それ以後やらしていただいてます。

 なるほど、そういういきさつだったか。

 オープンリールですぜ。
 
 カセットでさえ知らない人のほうが多くなっただろう令和の時代、オープンリールなどは、もうじき死語になるのではなかろうか^^

 次回は、あるホール落語会のプロデューサーからの要請から、また一つ桂歌丸という噺家さんの引き出しが増えた、というお話。
 
by kogotokoubei | 2019-05-17 21:36 | 落語の本 | Comments(0)
 なんとか、国立演芸場の中日、四代目圓歌の襲名披露興行に行くことができた。

 三月二十一日、鈴本の下席から始まり、末広亭、浅草、池袋を経て四十五日目、残り五日となった定席での披露目。

 開場直後の12時20分頃、演芸場に到着。

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 四代目圓歌の幟が、旗めいていた。

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 なんと、平日の昼なのに、「満員御礼」とは。

 後で知るのだが、居残り会では合流したOさん、当日券で大丈夫だろうとタカをくくていたため、チケットを入手できなかったのであった。

 そんなことは露知らずで、会場へ。

 最初の後ろ幕は、「贔屓与利」で、富士山がシンプルな線で描かれて、「晴れてよし くもりでもよし 不二のやま」と書かれていた。
 結局、この日三つの後ろ幕は、すべて「贔屓」贈呈。二枚目は結構派手だったが、最後三枚目は、「寿」の字と女性の絵の描かれた艶っぽいもので、結構だった。

 私は四列目だったが、まだ、前の列にも空席のある状態で、開口一番が始まった。
 その後、客席はほぼ埋まっていたなぁ。

 出演順に、感想などを記す。

三遊亭歌つを『牛ほめ』 (13分 *12:47~)
 開口一番は、初めて聴く前座さん。
 落語協会のHPのプロフィールによると、2017(平成29)年3月三遊亭歌奴に入門、2018(平成30)年1月21日前座となる。前座名「歌つを」、とのこと。
 白酒が「待機児童」と呼んでいた見習い期間が、結構長かったということか。
 髪の毛も短めでスッキリしているし、清潔感のある印象で、見た目は悪くない。しかし、声が高めでキンキンする点は、今後の要改善点。父親とおじさんの口調も、あまり変わりがなく、前座さんではやむをえないかもしれないが、今後の精進を期待しましょう。

春風亭一花『やかん』 (16分)
 日替わりの二ツ目さんの出番、この日は一朝一門のこの人。三度目。
 2014年7月の関内ホールでの師匠の独演会、そして、2016年9月の同じ会場での、小満んの会で聴いている。どちらも、好印象だった。
 この高座も実に良かった。
 知ったかぶりの先生の口調なども悪くない。歌つをは、袖で聴いていて勉強になったのではなかろうか。
 猫も杓子も--->女子(めこ)も赤子(せきし)も、など、三代目金馬の音源を思い浮かべながら聴いていた。講釈部分も、よどみなくリズムが良い。
 立川こはるを初めて聴いた時も感心したが、芸風は違うものの、女流落語家ながら、しっかり古典を語れる人として、今後も期待。
 個人的には、この日一番の高座だと思う。
 何か賞をあげたいので、朱の色を付けておく。
 
三遊亭多歌介 漫談(師匠の思い出、など)(17分)
 ずいぶん久しぶりと思っていたら、2009年の池袋以来、十年ぶりだ。
 あの時は『短命』だったようで、結構、印象が良かったようだ。さすがに、記憶は残っていない^^
 志ん朝の葬儀における名(迷)スピーチなどの師匠三代目圓歌の思い出や、自分の地方での講演での逸話など。この人、講演や講演&落語で全国各地を回っており、平成30年の講演(数?)日本一とのこと。
 でも、ネタをやって欲しかったなぁ。

鏡味仙三郎社中 太神楽 (16分)
 4月29日の末広亭では、親子二人だったが、この日は仙三郎と仙成の二人。
 いつものように、傘の芸で仙成が鞠と升を回したが、茶碗になって仙三郎が「これは難しいから私が」と代わった。しかし、最初に茶碗を乗せようとして上手く収まらず、やり直そうとして茶碗を舞台に落してしまった^^
 なかなか、お目にかかれない光景。
 五階茶碗を仙成が演じ、仙三郎が土瓶の芸、そして、花笠と撥で締めた。
 
三遊亭若圓歌 漫談&『授業中』 (19分)
 初。経歴を後から調べたら、内弟子を終えて、最初は漫談家としてスタートしたらしい。
 師匠の思い出を語りながら、師匠が昭和天皇に『授業中』を披露してこのネタを封印したため、師匠に代わってこの噺をするようになった、とのこと。
 震災後のボランティアでも、何度も演じたらしい。
 後半の短い時間で、相当はしょってのネタになったが、なかなか味わいがあったので、もっと長く演って欲しかった。

柳亭市馬『粗忽の使者』 (19分)
 日替わりの仲入り、この日は協会会長。
 客席から「待ってましたぁ!」の声がかかったが、この興行が何か分かっていない、野暮な行為としか、私には思えない。
 去年の鈴本夏祭り以来。あの時は『山号寺号』に、噺家の名を取り入れて楽しませてくれた。
 冒頭部分を省略し、大工の留っこが、地武太治部右衛門と田中三太夫のやりとりを盗み聞きした内容を、仕事仲間に話す場面から。
 こういう噺は、ニンだと思う。侍はサマになっている。一時、首の振りが極端だったり、途中で歌を挟むのが嫌で、敬遠していたが、やはり、芸達者であるなぁ、と思わせる高座だった。
 
 口上を楽しみに、一服。

口上 (16分)
 五人並んだ。下手から、司会の多歌介、若圓歌、四代目圓歌、歌司、市馬。
 若圓歌が、七年の内弟子を終えることができたのが、彼の次に入門した歌之介のおかげ、と言っていたが、今では途絶えてきた内弟子仲間の絆は強いものがあると感じた。授業中、浪曲社長、月給日などの師匠の作品は手がけず、自分の作品を大きく育ててきた弟弟子を褒める言葉にも、心がこもっており、圓歌一門の好ましい関係をうかがうことができたなぁ。
 歌司が、三十五年ほど前、宴席で師匠の隣に座っていて、「圓歌は歌之介に継がせたい」と言われたと語る。兄弟子としては、辛い話であったろうに、それを納得させるだけの、一門の歌之介への評価もあったということか。
 歌司は、昭和50(1975)年にNHK新人落語コンクールで『あくび指南』で優秀賞を授賞した人。ちなみに、その時の最優秀賞は『たがや』を演じた小丸、現在の柳亭金車。
 この人が古典重視ということも、三代目が新作派の歌之介に継がせたかった理由かもしれない。
 市馬が、「手を取って 共に登らん 花の山」という三代目圓歌の言葉を聞かせてくれたので、ほぼ七年前のこの会場での一之輔の真打昇進披露のことを思い出した。私は圓歌が披露目すべてに出演した一朝は偉い、と言った言葉と「手を取って~」で、目頭が熱くなったのだ。
2012年5月19日のブログ

 さて、その市馬の音頭で、三本締め。
 圓歌一門の絆の強さ、温かさが伝わる口上だった。

アサダ二世 奇術 (13分)
 いつもの「今日は、しっかりやりますから」に、嘘はなかった^^
 「あと、三分」とか「二分」とか言いながら、芸を始めようとしては、またマイクに戻り、寄席の下座さんがどれだけ大変か、などと話す、その間が絶妙。
 お客さんが選んだトランプを風船の中から取り出す十八番も、良かったよ。

三遊亭歌司『蜘蛛駕籠』 (14分)
 「91になりまして・・・ウェストが」でまず、客席を笑わせる。去年は「86」だったと記憶しているので、太ったか^^
 酔っ払いの繰り返しの科白の部分でも、大いに客席を沸かせる。
 寄席体験の少ないお客さんも多かったとは思うが、芸達者でなければ、この噺の可笑しさをあれだけ引き出すことは難しい。

立花家橘之助 浮世節 (14分)
 二年前の二代目橘之助襲名で、一回り芸が大きくなったようだ。
 最後は時間切れと短めではあったものの「たぬき」を聴かせてくれた。

三遊亭圓歌『母ちゃんのアンカ』 (35分 *~16:21)
 『母のアンカ』が、正式な演題なのかもしれないが、私はサゲで本人も使っていた『母ちゃんのアンカ』の方が良いように思う。
 この噺では、師匠が亡くなって五日後、末広亭の夜の主任を白酒の代演(代バネ)で涙ながらに聴かせてくれた高座を思い出す。
 あの時は、最初『B型人間』だったのが、この噺に代わり、ややとりとめのない流れになったのだが、それもやむなし、という時期だった。
2017年4月30日のブログ
 前半は、小ネタをつないで、客席を温める。4月1日に「令和」の発表で驚いたらしい。師匠の最初の奥さんが、令子、次の奥さんが、和子・・・とのこと。
 師匠の家にいた寒さに弱いアイヌ犬のことや、たわけもの・大納言などの言葉の語源のことで、笑いを取る。おっぱいの元は血液、という話あたりは、ネタとの関連性が、少しはあるかな。
 そして、11月の寒い時期、高野山に招かれ、その宿坊で寝た時の思い出から、ネタそのものは始まる。零下三度、布団には、湯タンポが入っていた。
 その湯タンポで足を温めていると、自然に、子どもの頃、寒いときに布団の中で、足を母ちゃんのまたぐらに入れて、温めていたことを思い出す・・・ということで、さまざまな少年時代の母との逸話が語られる、爆笑ネタとは言えない演目。
 四代目圓歌作の、人情ばなし、とも言えるかもしれない。
 私は、この人は、今後も古典に挑戦などしなくてもいい、爆笑ものの新作を聴きたいと思う。何度聴いても笑える噺、という点で、間違いなく師匠の芸の精神を継承する人だろう。


 さて、お開きとなれば、楽しみは、居残り会。

 佐平次さんの地元の「はじめ(一)」で、ちょうど五時の開店時間から。
 Iさん、Nさん、そして、チケット入手ならずお店に直行して、すでにビールを始めていたOさんの五人。
 最初は生ビール。そして、次々に出される、薬味ハンバーグや鯵の刺身、などなど美味しい肴のおかげで、お勧めの日本酒を一升瓶ごといただき、結局二升が空になった。
 その後は、燗酒も呑んだはず。
 途中で、絶品の揚げパンが出され、また生ビールもらったりしたな。
 話はあっちこっちに飛んだようにも思うが、部分的に覚えていない^^
 落語のサワリをご披露したようにも思うが、よく覚えていない^^

 四時間ほど、宴は続いたのかな。

 とにかく、楽しい居残り会でござんした。

p.s.
 新宿末広亭の披露目にいらっしゃったIさんがお聞きになった後ろ幕の情報を入手。
 最初の富士山の幕は、中村天風作、2枚目のやや派手な幕は、佐藤勝彦作で、お二人とも圓歌本人とご縁のある方らしいです。三枚目の美人画は先代ゆかりのもの、とのことです。。
by kogotokoubei | 2019-05-16 12:59 | 寄席・落語会 | Comments(14)

2019年5月、テニス合宿(2)

 さて、二日目。

 朝食をとってから、まずは、昨年も行った宿のすぐ近くの「四季の里」へ寄ることは決まった。
 地元の野菜などの直売もしているし、昨年と同様「丹沢アートフェスティヴァル」の一環で特別展示や、美味しいインドカレーがお昼に食べられるかもしれない。

 とはいえ、どこかちょっとした観光もしたいものだと相談していると、「小田原はどう?」という声・・・・・・。
 なるほど、そう遠くはないし、小田原城にでも行こうか、ということに落ち着き、宿をチャックアウト。

 すぐに「四季の里」に到着。

 こちらが正式名称「大井町農業体験施設 四季の里」のサイト
「大井町農業体験施設 四季の里」のサイト

 サイトからお借りした写真と平面図。
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 これが、私のガラケーで撮った、入り口の写真。
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 やってましたよ、「丹沢アートフェスティヴァル」の催し。
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 この写真は、平面図の「体験室1」の前。

 この部屋で、昨年同様アートギャラリーを開いていたのは、「相和もりあげ協議会」の國島さんご夫婦。
「相和もりあげ協議会」のサイト

 ご挨拶したら、お二人とも私を覚えてくださっていて、昨年のブログ記事もご覧いただいたとのこと。
 実は、ご名刺をいただき、起債されていたメールアドレスに、お礼を兼ねて、ブログのことをお知らせしていたのであった。

アートギャラリーを開いていらっしゃった國島和子さん。
 いただいた名刺には、「神奈川県大井町 相和もりあげ協議会」と書かれている。

 その名刺の裏には「Siinoki Retreat」のサイトが案内されていて、次の文章があった。

都会からは姿を消した「かみさま」が、まだ生きている丘の上で日帰り農作業とリトリート体験

 その「Siinoki Retreat」サイトから引用。
Shiinoki Retreatのサイト
シイノキリトリートでは、学校や企業の研修など、団体での農村体験企画も受け入れています。富士山を望む、ゆったりとした里山風景のなかで、農作物の収穫、そば打ち、桜の花摘み、竹風鈴づくり、民泊など、農村ならではの作業を楽しむ。その体験を通して、農村に受け継がれてきた知恵や技術を学び、自然と人とのつながりに思いを馳せる。そんなプログラムを企画・提案いたしますので、まずはご相談ください。
 こういう活動をなさっているのである。

 昨年の記事にご興味のある方は、こちらをご覧のほどを。
「2018年5月、テニス合宿」の記事

 國島さんからは、今年も11日と12日の二日間のみ、「四季の里」がピザづくり体験で使っている釜を使いナンを焼いて、小田原のインド料理店が出張して、本場のインドカレーを食べさせてくれるとのこと。

 釜のこと、昨日、私はテニス仲間に間違った説明をしていたなぁ。
 陶器教室があって、陶器を焼く釜、などと説明していた^^
 誠に申し訳ない。
 
 アートギャラリーを仲間と見て、皆、なにかしら買い求めていた。
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 私は、地元の陶工さんによる、ご飯茶碗を購入。
 家で今つかっている茶碗が小さいので、ちょうど良い大きさと色合いのものを見つけたのだ。

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 そして、昨年持ち帰ってその甘さに驚いた、完熟トマトを購入。

 まだ時間が早いので、小田原のインドカレーのお店、バルティヤ・ザイカ の人たちは来ていなかった。
 ちなみに、お店の名は、ヒンズー語で「インドの味」という意味らしい。

 昨年、あのカレーは旨かったなぁ、とは思うものの、小田原城を見学したらお昼はやはり小田原だよね、と話しながら、仲間は野菜直売所でも買い物。

 その後、一行は後ろ髪をひかれながら、小田原へ。

 車2台で小田原城までは約20km、40分ほどで到着。

 小田原城の南入り口近くの駐車場に車を止めて、城内に入る前、蓮がいっぱいの堀(南堀)で鯉を眺める。

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 ハスは、「大賀ハス」、と言うようだ。
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 Wikipedia「大賀ハス」で、少し勉強。
Wikipedia「大賀ハス」

 大賀ハス(オオガハス、おおがはす)は、1951年(昭和26年)、千葉県千葉市検見川(現・千葉市花見川区朝日ケ丘町)にある東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)の落合遺跡で発掘された、今から2000年以上前の古代のハスの実から発芽・開花したハス(古代ハス)のこと。
 戦時中に東京都は燃料不足を補うため、花見川下流の湿地帯に豊富な草炭が埋蔵されていることに着目し、東京大学検見川厚生農場の一部を借り受け草炭を採掘していた。採掘は戦後も継続して行われていたが、1947年(昭和22年)7月28日に作業員が採掘現場でたまたま1隻の丸木舟と6本の櫂を掘り出した。このことから慶應義塾大学による調査が始められ、その後東洋大学と日本考古学研究所が加わり1949年(昭和24年)にかけて共同で発掘調査が行われた。その調査により、もう2隻の丸木舟とハスの果托などが発掘され、「縄文時代の船だまり」であったと推測され落合遺跡と呼ばれた。
 そして、植物学者でハスの権威者でもある大賀一郎(当時・関東学院大学非常勤講師)が発掘品の中にハスの果托があることを知り、1951年(昭和26年)3月3日から地元の小・中学生や一般市民などのボランティアの協力を得てこの遺跡の発掘調査を行った。調査は困難をきわめめぼしい成果はなかなか挙げられなかったが、翌日で打ち切りという30日の夕刻になって花園中学校(3月31日迄は千葉市立第七中学校)の女子生徒により地下約6mの泥炭層からハスの実1粒が発掘され、予定を延長し4月6日に2粒、計3粒のハスの実が発掘された。

 結構、ドラマチックな歴史のあるハスだったんだねぇ。

 さて、南の入り口から城址公園内へ入る。

 こちらが、小田原城の公式サイト。
「小田原城」公式サイト
 無断での引用は許可されていないので、Wikipedia「小田原城」から引用。
Wikipedia「小田原城」
 北条早雲氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高校がある場所)を詰の城としていた。だが、建築者は、不明である。 居館部については北条氏以前の大森氏以来のものとするのが通説であるが、大森氏時代にはより東海道に近く15世紀の遺構が実際に発掘されている現在の三の丸北堀付近にあったとする異説もある。3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となったが、八幡山は放置された。そのため、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る全国的に見ても珍しい城郭である。
 最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭である。八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいた。慶長19年(1614年)、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを撤去させている。地元地方の城郭にこのような大規模な総構えがあることを警戒していたという説もある。ただし、完全には撤去されておらず、現在も北西部を中心に遺構が残る。古地図にも存在が示されており、小田原城下と城外の境界であり続けた。明治初期における小田原町の境界も総構えである。
 北条氏没落後に城主となったのは大久保氏であるが、2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、一度改易の憂き目にあっている。一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封された。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。

 伊勢新九郎が早雲となる物語は、かなり前に司馬遼太郎『箱根の坂』で読んだが、相当忘れていることを、今回の旅で身にしみた。また、読もう。

 城址公園に、珍しい大木があった。

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 イヌマキ、なんて初めて見たと思う。

 天守閣の前に広がる公園には、猿もいたなぁ。

 これが、Wikipediaで借りた、復興された天守閣。
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 これが、私のガラケーで撮った、天守閣への登り口にある看板。
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 天守閣内のシアターや説明パネルにも紹介されていたが、北条(あるいは後北条)は、五代で終わることになった。
 北条五代、初代の早雲は、明応四(1495)年、大森氏を退けて伊豆韮山から小田原城に入った。二代目氏綱がその後の繁栄の基礎づくりをし、三代目氏康の時代には城下町として発展した。四代氏政と五代氏直の時代に、外敵から町全体を守るための総構を築いた。しかし、天正十八(1590)年、約18万の秀吉の大軍に包囲され、北条氏は滅亡。

 NHk大河『真田丸』では、四代目氏政を高嶋政伸、五代目氏直を細田善彦が演じた。天守閣内のシアターでは、「北条五代100年の夢」というドラマ仕立ての紹介ムービーが流れていて、氏政役に苅谷俊介、氏直役に合田雅吏という俳優さんが出演していた。

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 天守閣の展望台から、笠懸山を望む。この山の頂に構築されたのが、石垣山城。別名、「一夜城」。小田原城からは見えないように築き、完成してから周囲の木を伐採したので、北条側は、一夜にして築城されたかのように驚き、戦意を失う要因ともなったと言われている。

 天守閣には、観光地にはお決まりの、こんな撮影場所もあり、仲間の何人かは侍になって写していたねぇ。
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 さて、ほぼ1時間の天守閣ツアーを終えて、時計は正午を少し回っていた。
 
 昼食はどうするか、ということになったが、知らない店に行くより、また四季の里に戻って、あのインドカレーを食べようと全員合意。

 そして、もどって食べたよ、「インドの味」のバターチキンカレー。
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 ガラケーの下手な写真では、味は伝わらないなぁ^^

 ピザ焼き用の釜でナンを焼いている様子。
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 やはり、カレーもナンも、美味かった!

 その後、私は小田急新松田駅に送ってもらい、帰って来たのであった。

 いやぁ、なかなか充実した一日半だった。

 これにて、春の合宿の記事は、お開き。


by kogotokoubei | 2019-05-13 21:36 | 小さな旅ー2019年5月、テニス合宿。 | Comments(4)

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by 小言幸兵衛