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噺の話

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 ドナルド・キーンさんが、亡くなった。

 1922年、日本の元号なら大正11年生まれ。
 北海道の実家で元気に暮らす私の父と同じ年の生まれなので、勝手に親近感を抱いていた。

 だから、もっと生きて、後輩の我々日本人たちに、言葉を残して欲しかった。

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ドナルド・キーン著『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』

 昨年8月、四回にわたって『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』について、記事を書いた。

 その四回目の内容と重複するが、キーンさんの言葉を紹介したい。
2018年8月6日のブログ


 巻末の「文學界」2009年9月号に掲載された平野啓一郎との対談から、キーンさんの言葉を引用。
キーン 私が戦地で出会った兵たちの日記は、忘れがたいものでした。まだそういう日記があったら、どこまでも探しに行きたいほどです。南太平洋のどこかの島で食べ物がなくなって、マラリアに罹って、近いうちに死ぬだろうと予期した兵が、家族について書く。そして最後の一行は英語で、これを拾うアメリカの軍人は家族に返してくださいと書いている。そういうことが、私は忘れられないんですね。戦争のとき、私はアッツ島と沖縄にいましたが、あのときのことを忘れません。そして、今度この本を書いたのはそのためです。あのとき読んだ日記、あるいは当時の日本の捕虜との付き合いは決して忘れられません。


 キーンさんは、二度、死んでもおかしくない体験をした、と語っている。

 一度目は沖縄に向かう洋上で、「カミカゼ」に襲われた時。特攻機操縦士のミスで助かった。

 もう一度は沖縄に上陸してから。「捕虜になったら殺される」と日本兵から脅されていた市民が隠れる洞穴でのこと。投降させようと洞穴に入ると、そこに機関銃を構えた日本兵がいた。
 驚いて飛んで逃げたが、なぜか日本兵が引き金を引かなかった。

 そんな体験をしたキーンさんは、日本と日本人、日本文化を深く愛した。
 そして、憲法九条を守ること、反戦を力強く訴えていた。

 今の政治家や官僚たちに、爪の垢を飲ませたかった人。

 ドナルド・キーンさんの、ご冥福を祈る。


by kogotokoubei | 2019-02-28 19:36 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)
 居残り仲間のM女史が携っていらっしゃる会に、居残り仲間と一緒に赴いた。

 都民劇場の落語会の企画として、喬太郎が人選などプロデューサーとなり、紀伊国屋“ホール”で“寄席”を開催する、というもの。

 落語あり、講談あり、色物あり、という趣向だ。

 出演順に感想などを記す。

橘家門朗『あなごでからぬけ』 (10分 *18:23~)
 初。文蔵の弟子のようだが、落語協会ホームページには、次のように書かれている。
   2014(平成26)年12月15日 橘家文左衛門に入門
   2016(平成28)年4月1日 前座となる 前座名「門朗」
 入門から前座になるまでの期間が長くなっているとは聞いているが、「待機児童」が増えているのだろうなぁ。 
 次の小辰が「みんな、怖かった」といじっていたが、たしかに強面ではある。
 しかし、語り口はしっかりしているし、印象は悪くない。
 
入船亭小辰『悋気の独楽』 (17分)
 生では、久しぶりだ。
 テレビでは、昨年のNHK新人落語大賞で『真田小僧』を観ている。優勝して不思議のない高座だった。
 実力が着実についていることは、この日の高座でも明らか。
 特に、女性が良い。師匠より上ではなかろうか^^
 この噺は、女房と妾をどう演じるかが重要なのだが、見事。定吉も憎らしく、可愛い。
 “寄席”ならではのネタであり、高座だった。

林家たけ平 漫談&『袈裟御前』 (19分)
 ずいぶん久しぶりだ。まだブログを始める前、二ツ目時代には何度か聴いているが、十年以上空いている。
 当代正蔵が、こぶ平時代に入門した総領弟子だが、良い意味で弟、妹弟子からの刺激を受けているのかもしれない。若々しい高座だが、キャリアも感じさせた。
 お客さんの笑いにも救われていたが、漫談のネタも、そんなに悪くない。
 北千住に高齢者が多く、老人会に青年部ができた、というネタはどこかで聞いた気もするが、ありそうな話^^
 「トマト工場に泥棒が入った」「みんなでカゴメ」「泥棒は、デルモンテ」なんてぇネタでも、笑ってしまった。この日の客席の空気もあっただろう。
 近所の高齢のお爺さん(東山さん)が家族から注目されることもあるという、どんな時かと言うと、「餅を食べる時」というのも、ほどよい切れ味のジョーク。
 そんな漫談風マクラが十分余りあった後の本編なので、遠藤盛遠、後の文覚上人が、袈裟御前の家に忍び込む前でサゲた。
 林家に伝わる『源平盛衰記』ではなく、上方のこの噺を東京の噺家さんで聴いたのは初めて。ちなみに、この噺の元、文覚上人と袈裟御前の逸話は、カンヌ・グランプリ『地獄門』につながっているなんてぇ蛇足を加えておこう。
 たけ平、客席を乗せ、また、その客席の空気に乗せられた、そんな感じの楽しい高座だった。ホールに、寄席の風が吹いていたなぁ。

翁家和助 太神楽 (13分)
 一人で見るのは、初めてか。
 長撥-五階茶碗-土瓶、と十八番の芸を披露。
 五階茶碗で、茶碗と茶碗の間の板を飛ばす技は、寄席で見たことがない。あんなこともやるんだね。
 日常生活に役立つ芸、ということで、スーパーでたくさん買い物をした荷物が多いときに雨が降ってきたら、と傘を額に立たせてみて、客席は爆笑。
 ご飯を早く食べさせようとするには、なんてのもあったなぁ。
 また、芸がどうやって生まれたかを考えた、とアツアツの焼き芋を持とうとして出来た(んじゃないかな)、と再現(?)してみせた。これも笑ったねぇ^^
 あの「チコちゃん」のドラマを見るような感覚になったよ。
 締めの皿回し、包丁三本をつないだ上で皿を回した芸は、圧巻。
 亡き和楽師匠の芸を、彼らしい味付けでしっかり継承している。
 これまた、寄席の風が、ほどよく吹いていた。

三遊亭兼好『夏どろ』 (20分)
 仲入りは、この人。
 足立区民として、“都民”特選寄席に出演でき嬉しい。足立区は「埼玉?」なんて言われているが、立派な都民で、浦安の人たちが千葉県民なのに都民のように振舞うのとは違う、などと、この人らしいマクラの入り。
 東京マラソンに出場できる確立は8.6%、落した財布が戻るのは59%、などの数字を並べていたのは、客席の温度を測っていたのか。結構、あったまっているのを確認して本編へつないだような気がする。
 冒頭、泥棒が、なかなか開かない長屋の戸を開けようとする場面を、擬音効果と顔の表情や仕草で演じるが、こういう細かいところ、結構上手いんだよなぁ。
 一文無しの底抜けの明るさと、つい道具箱などの質草を出して来いと財布から金を出す泥棒の人の好さとの対比が、実に可笑しい。
 男が、「せっかくだがこの五円を返す、利息分が足らない」、と言うと、「えっ、それもオレー!?」と呻く泥棒の姿が、なんとも可笑しい。
 着物も、当面の生活費も含め、有り金全部男に恵んでしまう泥棒が、「博打は、もうやめて働け」「分かった、博打はやめる、賭けてもいい」「それがいけねぇんだ」といった良いやりとりでも、会場から笑い。
 泥棒の、「遠くから見守っているからな」や、「戸締りはしっかりしておけ。オレみたいなかわいそうな泥棒がでねぇように」などの科白も、秀逸だ。
 仲入りに相応しい好高座。寄席の逸品賞候補としたい。

 さて、後半。

一龍斎貞寿『石川一夢』 (20分)
 貞心門下の女流講釈師が登場。初。
 張り扇のことを少し説明して、本編へ。
 講釈師の石川一夢が高座を務めた後で大川端を歩いていると、心中をしようとする若い男女を見かけた。一夢は後ろから二人の襟首をつかんで引きとめる。
 男は笹川五岳の倅で芳次郎だった。五岳は一夢の先輩講釈師だが、一夢が中座読み(落語家の二ツ目相当)時代、いろいろ嫌がらせを受けていた。
 事情を聞くと二人はは同じ古着屋に勤めていて惚れ合う中になったが、やむを得ぬ理由から店の金、十両に手を付けてしまいどうにもならなくなったと言う。彼らのために一夢は自らの十八番『佐倉義民伝』を相生町の質屋伊勢屋万衛門に質入れし、十両の金を拵えた。古着屋で事情を話して許され、芳次郎たちは、晴れて夫婦となることができた。しかし、日本橋の翁亭に出た一夢は、河岸の若い衆から『佐倉義民伝』を聞かせてくれと強く頼まれる。さて、困った一夢、事情を話すと客たちが・・・といった内容。 講談は、そう多く聴いていないが、この高座は聞きやすかったし、松之丞のような無駄なクスグリもなく、なかなか良かった。

林家正楽 紙切り (17分)
 大きなスクリーンが背後に下り、高座にはOHPがセットされた。
 ご挨拶代わりの①相合傘から、②ひな祭り(親子が一つづつ持つ雛人形の細工が見事)、③はやぶさⅡ、④紀伊国屋文佐衛門、⑤ボヘミアン・ラプソディ

 なんと言っても最後の作のご注文の後、下座がすぐ「We Will Rock You」を演奏。
 恩田えり嬢、やるねぇ。太鼓は、たぶん、小辰だろう。
 客席も拍手で応える。
 この日の会場、客同志の一体感があったなぁ。
 また、正楽師匠の、フレディー・マーキュリーとブライアン・メイも、良かったねぇ。
 恩田えりさんには、下座ではあるが、何か賞をあげたいので、朱書きにしておこう。

柳家喬太郎『掛取万歳』 (20分 *~21:00)
 「ボヘミアン・ラプソディー」の後で、いったい何をやったらいいですか!?
 と叫ぶ。
 まぁ、ネタは決めていただろうが、気合を入れなおし、自らを鼓舞するための咆哮を上げて、噺家の時知らず、なんて言いましてと本編へ。
 まさに、喬太郎ならではの掛取りだ。
 最初の魚勝は、落語、なかでもホール落語が好き。
 ということで、『芝浜』の世界に魚勝を引き込み、女房役になった八五郎が「お前さん、お願いだから河岸いっとくれよ」と頼むと、勝さん、天秤棒をかつぎ出て「いってくるぜ!」で、追い出した。
 村松屋は、ウルトラマン好き。ということで、ガヴァドン登場!
 ウルトラマンとガヴァドンの対決の最中、女房に「ガヴァドンを殺さないで!」と叫ばせ、ウルトラマン撤退で、二人目も攻略。
 三人目は、末広屋。大の寄席好き。
 ここでは、落語家、講釈師の高座への出を様子を形態模写。
 円丈、馬風、貞水、さん喬、雲助。
 さすがに、師匠さん喬の真似は、遠慮がちだったかな^^
 最後は、紀伊国屋。つかこうへい大好きとのことで、「熱海殺人事件」が始まる。
 八五郎が三浦洋一扮した木村伝兵衛となり、紀伊国屋を平田満が演じた熊田留吉に仕立てる。
 木村が、熊田に向かった「行け!」と言うと、熊田が出て行き、無事攻略。
 テレビでしか見ていないが、喬太郎、芝居も好きなんだなぁ、とつくづく思わせた場面だ。
 自分が楽しめればいいんだ、と冒頭言っていたが、なに、十分に客席も楽しんだ高座。
 ピッタリ20分で、九時のお開き。
 この高座の楽しさ、そして、この席のプロデューサーとしての特別賞も想定し、朱を付けておこう。

 喬太郎の人選も良く、また、それぞれが持ち味を発揮し、一人もダレるこのない会だった。
 これだけ笑った落語会もない。

 終演後は、楽しみだった、いつものお店で、五人での居残り会。
 興奮冷めやらぬこの会のことはもちろん、佐平次さん、Kさん、I女史が偶然日曜日に行っていたが会わずにいた国立名人会での志ん輔の高座の話題、などなどで盛り上がる。F女史はご子息とご一緒に会にお越しだったが、居残り会には、しっかり参加。
 話題も楽しいし、石川県は珠洲市の酒、宗玄の生原酒が、すこぶるいける。
 厚岸の牡蠣や・・・いろんな肴も美味しくいただきながら、あっと言う間に時間が過ぎる。

 もちろん(?)、帰宅は日付変更線を過ぎたのであった。

 こんな素晴らしい会を催してくれたM女史に、大感謝!

by kogotokoubei | 2019-02-27 12:57 | 寄席・落語会 | Comments(6)
 笑福亭松之助さんが亡くなり、その後、ドナルド・キーンさんの訃報にも接することに。

 お二人について書きたいことはあるが、まず、このシリーズを完結させてからとしよう。

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矢野誠一著『人生読本 落語版』(岩波新書)

 矢野誠一さんの『人生読本 落語版』(岩波新書)から最終の五回目。

 「第五章 遊びをせんとや」の「遊郭」をご紹介。

 冒頭から引用。

 あまり学校じゃ教えてくれないたくさんのことを、寄席という教室で学んだわが身が、こればっかりは落語以外に手本がなかったと、こころの底から思うのが、廓の世界のあれこれである。無論、1958年3月31日の、俗のいう「売春防止法」の施行前にすべりこめた口だから、べつに威張るほどのことじゃないが、私にだって一応の廓体験ぐらいはある。だが廓とは名ばかりの、単に御婦人相手に遊べる特殊飲食店のそれで、だから伝えられる綿綿たる廓情緒は、落語の廓ばなしから感じとるほかになかった。

 まさに「こんなこと学校じゃ教えない」ことの筆頭が、廓ばなしの世界。

 矢野さんは、昭和33年3月31日という、よく落語のマクラで、親の命日は忘れてもこの日は忘れない、という期限には間に合ったんだが、それは、落語の世界ではなかった、というわけだ。

 この後、その廓ばなしの名手のことが紹介される。

 二十七歳で腰が抜け、三十で失明、失明後はかつて吉原でお職をはった恋女房のおときに背負われて楽屋入りして高座をつづけた名手もいた。この能脊髄梅毒症に白内障をおこし、三十七年の短かすぎる生涯を終えた廓ばなしの名手が初代柳家小せん。ひと呼んで盲目の小せん。

 初代柳家小せんについては、これまでにも何度か拙ブログの記事で紹介している。
 当代の小せんが襲名することになった時に書いた記事でも、廓ばなしの名手として、多くの当時の若手に十八番を伝授したことなどを紹介した。
2010年2月17日のブログ

 初代小せんの教えは、当代の噺家さんにも引き継がれており、立川左談次を偲ぶ会で、五街道雲助が演じた『付き馬』は、雲助が初代小せんの速記を元にしたと、プログラムに記されていた。

 矢野さんは小せん廓ばなしの中から『五人廻し』を取り上げ、大正8(1919)年発行の『廓なばし小せん十八番』から、最初に登場する威勢のいい職人の科白を引用している。

 「三ツの時から大門をまたいで」という、あの啖呵だ。

 矢野さん、このくだりを「吉原概論」と名づけたが、なるほどぴったり。

 そして、この小せんの創作の背景に、話が及んでいる。

 後世の落語家の規範ともなっている小せんによる『五人廻し』の「吉原概論」だが、若い衆相手にとうとうとまくしたてる前の職人がどうしていたかというと、これが、やって来ない花魁を待ちくたびれて、
「オヤ、足音は何処へ行っちまったんだい、其の儘(まま)立消えは心細いぜ、オヤオヤ、今度は又階段(はしご)を早足にトントン、トントントントン向ふの部屋だ。廊下バタバタ胸ドキドキ、三度の神は正直といふ、今度は上草履を引摺りながらバタバタやって来たな、待てよ、此奴は起きて居るてえ奴も宣(い)いやうで悪いねぇ、考へもんだ」
 などとひとりごちていたのである。
 ところがこのくだり、かの寺門静軒センセイが名著『江戸繁昌記』(東洋文庫)は「吉原」の項に記された、
   乍(たちま)ち聞く長廊上履(ウハゾウリ)の声、遠々恐(きょう)然として
   漸く近し。意(おも)ふに敵娼(あいかた)来り到ると。急に衾(ふすま)を
   蒙(おお)ふて睡を粧(よそお)ふ。何ぞ意(おも)はんと足音の之を隣房に
   失はんとは。
 なんて嫖客(ひょうかく)の無聊をかこつさまの、まことたくみなアレンジなのである。
 失明する以前の柳家小せんが無類の読書家で、江戸文藝や漢籍に通じていたことはつとに知られるところだから、『江戸繁昌記』にもオリジナルの狂体漢文で接していたことは間違いなく、あの時代の落語家の教養にいまさらながら畏敬の念を払わずにはいられない。

 初代小せん、実地の勉強のみならず、書籍からもいろいろ学んでいたわけだ。

 なお『江戸繁昌記』を著した寺門静軒という人も、なかなか興味深い人物。
 Wikipediaから、引用したい。
Wikipedia「寺門静軒」
水戸藩御家人であった寺門勝春の子として生まれ(生母は河合氏)、13歳で父が死ぬが、彼は本妻の子ではなかったために後を継いで仕官する事が許されなかった。放蕩無頼の生活に身をゆだね、19歳の時に腹違いの兄が水戸家の禄を離れたために父から受け継いだ別宅を売って一時の生計に充てる。その頃から折衷学派山本緑陰の食客・門人となった。文政13年(1830年)、水戸藩の新しい藩主となった徳川斉昭が藩政を一新し有為の人材を広く登用する趣意に応えて、再度上書して黙殺され藩邸の門前で請願を試みることまであえてしたが仕官はかなわなかった。それからは駒込で塾を開いていたが、天保2年(1831年)より、江戸の風俗を記した『江戸繁昌記』を執筆する。
 (中 略)
天保13年(1842年)には江戸南町奉行・鳥居甲斐守(鳥居耀蔵)に召喚され、第五篇まで書いていた『江戸繁昌記』は「風俗俚談を漢文に書き綴り鄙淫猥雑を極めその間に聖賢の語を引証…聖賢の道を穢し」たと判断され「武家奉公御構」(奉公禁止)という処分を受けた。この際鳥居は、儒学者の旨とするところは何かと問い、静軒が「孔孟の道に拠って己を正し、人を正すところにある」と答えると、すかさず『江戸繁昌記』を突きつけ、「この書のどこに孔孟の道が説かれているか答えよ」と迫り、返す答えのない静軒は罪に服した、と木村芥舟が随筆に記している。

以後、自らを「無用之人」と称して越後国や北関東を放浪する。やがて武蔵国妻沼(現在の埼玉県熊谷市)に私塾を開いて晩年を過ごした。

 仕官がかなわず、放蕩無頼の生活に身をゆだねたというあたりは、勝小吉を連想してしまった。
 その体験を生かして執筆した『江戸繁昌記』が、いわゆる天保の改革で槍玉になったことから、晩年を放浪、そして、私塾を開くことで過ごした寺門静軒という人、誰か小説にでも書いていないかしら。
 
 寺門静軒が、江戸の風俗を伝える貴重な書を遺してくれたからこそ、初代小せんの廓ばなしもよりリアリティが増し傑作に仕上がったのであろう。

 興味あるなぁ、この寺門静軒という人。

 話を本書に戻す。

 矢野さん、吉原の大門について、このように書いている。

 いつの世にも文化、風俗、流行の発祥地であった吉原で、大門はやはりあの地を象徴するものだった。四囲をかこまれた廓の唯一の出入りのかなう一方口で、どこの廓にもあったこの正面口に地名を冠すことなく、ただ「大門」と称したならば、それは吉原大門のことだった。1881年(明治14)四月、門柱が石製から鉄製に改められたのを機に、その左右の柱に、「春夢正濃満街櫻雲」「秋信先通両行燈影」の漢詩が装飾されている。作詩と揮毫は「東京日日新聞」主筆の福地櫻痴によるものだが、その福地櫻痴が、「吉原に在って藝妓の膝に枕し乍ら日々新聞の社説を草して新聞社に送るのを常にしてゐた」のを「快」とした高浜虚子は、「どうかさういふ真似をやってみたい」と、京都の高等中学校に退学届を出し、小説家たらんと上京するのだ。
 今の時代に、新聞社の主筆が、風俗店から社説を送るなんてぇことは、到底想像できないが、世も違えば、人間のスケールも違う。

 少し、福地について紹介したい。

 福地櫻痴、本名福地源一郎は、天保二(1841)年に長崎で生まれた。
 江戸に出て、英語などを学び、慶応四(1868)閏4月に「江湖新聞」を創刊。
 そこで彼が書いた内容が凄い。
 「明治の御一新などというが、幕府から薩長に政権が移ったに過ぎない。薩長幕府が生まれただけではないか」と痛烈に新政府を批判したのだ。新政府の怒りを買って新聞は発禁となり、源一郎は逮捕されるのだが、木戸孝允の取り成しで事なきを得た。
 これが明治時代最初の言論弾圧と言われている。源一郎は士籍を奉還して平民となり、英語とフランス語の私塾「日新舎」を開く。塾は福澤の慶応義塾、中村敬宇の同人社と並んで「東京の三大学塾」とまで称せられ、門人には中江兆民もいた。
 しかし新聞を失った源一郎は、悶々として、吉原通いを始めることになったとのこと。
 その後、岩倉使節団の一員として明治三(1870)年にアメリカとヨーロッパを訪問するのだが、そのきっかけは、吉原で渋沢栄一と知り合ったからと言われている。

 寺門静軒が、仕官して報われない中で吉原通いをし、『江戸繁昌記』がお上の怒りにふれて罪を受け、晩年は私塾を開いていたのと、順番は逆だが、福地櫻痴との共通点が、あるなぁ。
 なお、福地櫻痴は馴染みの花魁を身請けして妾としていたから、小せんと相通じるものもある。

 ともかく、自分の生命と引き換えにそこに入り浸っていた初代小せんも、その体験を本に著した寺門静軒も、そして、そこで仕事をしていた福地櫻痴も、皆、吉原が好きだったのである。
 
 矢野さん、こんな言葉でこの話を締めくくっている。

 吉原ならずとも廓を舞台にした、あやしい危険をともなった擬似恋愛の世界から、すぐれた作品の世に出た例に、いまさら京傳、荷風、淳之介の名を持ち出すこともあるまい。
 ふりかえって思うに、辛うじてすべりこめたわが廓体験の、なんとまあみすぼらしかったことよ。絢爛たる文化や情緒の薬にしたくも無い、けばけばしいネオン街の、ただただ隠微な彷徨にすぎなかった。だが、たとえ隠微な彷徨ではあっても、やはりあの地にはなんとなく胸をときめかすものがあったし、そこに身を置くかぎり、自分にも大先達のいだいた詩人のこころが宿るような気がしたものだ。
 だからやっぱり間にあってよかった。

 間に合うはずもなかった者に、そんな自慢をしてくれる大人も、次第に減っていくばかり。

 平成の世の晩年を迎えているが、昭和世代としては、実に複雑な思いがする。

 まだ、昭和には江戸や明治、大正の頃とは違っていようとも、吉原が存在していた。そんな時代が、ずいぶん遠くに過ぎ去っていく。

 だからなおさら、学校じゃ教えないことを、落語から学ばなきゃならないなぁ。

 このシリーズ、これにてお開き。

by kogotokoubei | 2019-02-25 21:18 | 落語の本 | Comments(0)
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矢野誠一著『人生読本 落語版』(岩波新書)

 矢野誠一さんの『人生読本 落語版』(岩波新書)から四回目。

 「第三章 金は天下の」の「時刻」から。

 『時そば』のあらすじを紹介した後、矢野さん、こう書いている。

 この『時そば』流勘定支払法による悪戯は、『饅頭こわい』の「こんどは何何がこわい」式の言い方とともに、ついこのあいだまで暮しのなかに生き残っていた。

 たしかに、会話の途中で「今なんどきだい?」なんて科白を挟む人、今やどんどん減っているよねぇ。

 この後に、「岩波国語辞典」の裏表紙の見返し(いわゆる、表3)にある、江戸時代の「不定時法」の図解が掲載されている。
 この図は丸いのだが、その伝えることは、江戸時代は夜明け、夕暮れという自然実態に沿って明六ツ、暮六ツと時刻を定めるので、夏は昼の時間が長く、冬はその逆という時刻の数え方になるということ。

 参考のために、私が以前にサマータイムより江戸の不定時法はすごかったという記事を書いた際に、エクセルで作った図を載せる。
2015年11月4日のブログ
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 不定時法について、矢野さん丁寧に説明してくれる。

 明け六ツつまりは夜明けと、暮六ツ即ち日没を昼夜の境として、それぞれ六等分して一刻とするのが不定時法だから、一刻は現在の二時間と単純計算してみても、昼の一刻と夜の一刻の長さが一年中一定していないことが、白(昼)黒(夜)色分けして示されているから、夏至時の昼の一刻など夜の一刻の倍近くあったことがよくわかる。
 不定時法では明け六ツの次が五ツになり、四つとつづいて正午が九ツ、以下八ツ、七ツで暮六ツである。暮六ツの次が五ツで四ツときて、その一刻後の子の刻、ただいまの午前零時で九ツに戻る。それから八ツ、七ツで明け六ツとなるから一ツ、二ツ、三ツがない。
 だから『時そば』のぼおっとした男は、九ツ即ち深夜の十二時に出かけるべきを、四ツの十時に出てしまったために、一文かすめるつもりが逆に四文も多く、それも不味い蕎麦に支払ってしまったことになる。

 この後、テレビの時代劇で、江戸の不定時法の沿わない科白、たとえば「だいぶ日が長くなったね。さっき六つ打ったのにまだ明るい」なんて表現の間違いを指摘するのだが、実は、矢野さんも、あるミスをしたことを告白(?)している。

 1967年に協同企画出版部から『落語遊歩道』という本を出してもらった。「東京中日新聞」に週一回連載して「落語散歩」をまとめたもので、落語の名作に描かれた場所の現在を訪ねながら、その落語の世界を紹介しようというものだ。なかに『品川心中』の項があって、八ツ山についてこう書いている。
  八ツ山は「江戸百景」にも描かれるところだが八つに重なっているので八ツ山。一説には、
  お江戸日本橋を七ツだちとすると、このへんで八ツになるので八ツ山。
 じつを申すと「このへんで八ツになるので八ツ山」というくだりは、旅のガイドブックで知られる老舗の某出版社から出た「東京案内」にあったのを、そのまま引きうつしたものだが。そう、江戸時代の不定時法で七ツの次は明け六ツでなければならない。案内書の記述をそのまま引いた、言いわけのきかない私のミスだ。

 あの矢野さんにして、このミス・・・・・・。

 それも、別にカミングアウト(?)する必要はないのに。

 そして、この話は、次のように締められている。

 お江戸日本橋を七ツ立ちするときは、たとえ夏でも真暗で提灯がいった。だからこそ唄の文句にも「こちゃ高輪提灯消す」と、高輪つまりは八ツ山あたりで明け六ツをむかえると、ちゃんとある。その唄の文句を知っていながら「八ツになるので八ツ山」なんて、かえすがえすも恥しい。
 活字を単純に信じてはいけません。

 だったら、ブログなどは、まず、疑ってかかる必要がある。特に、このブログなどはね^^
by kogotokoubei | 2019-02-24 17:27 | 落語の本 | Comments(0)
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矢野誠一著『人生読本 落語版』(岩波新書)

 矢野誠一さんの『人生読本 落語版』(岩波新書)から三回目。

 「第二章 渡る世間に」の「勘当」から。

 さっそく、冒頭から引用。

 道楽が過ぎて勘当された若旦那が主役の落語がたくさんある。
 その勘当という言葉を、近頃あまりきかない。手もとの「国語辞典」で「勘当」をひいたら、
   悪行をして親や師が、子や弟子の縁を切ること。義絶。▽罪を勘(かんが)え、
   おきてに当てる意から。
 とあった。ちなみに「勘」には「罪を問いただす。実情を糾明して責める」の語意がある。
 へぇ、「勘」にそんな意味があるんだね。
 
 この後、矢野さんはある言葉の謎解きに関して、こう書いている。

 若旦那が勘当されるくだりで使われる落語のくすぐりに、
   久離(きゅり)切っての勘当。どうも勘当というと胡瓜を切りますようで、
   あまり茄子や南瓜は切りません。
 というのがあるが、あの久離というのは久離と書くのが本当なのか、それとも旧離と書くほうがいいのか、落語家のなかでも博識で知られる三笑亭夢樂師匠にたずねたことがあった。かれこれ三十年以上むかしのはなしである。夢樂の答はこうだった。
「あれは久離でも旧離でもいいように字引には出てるけど、ほんとうは胡瓜なんだ。むかしは親が子を勘当するとき、胡瓜を半分に切って持たせる習慣があったの。お前に与えるのはこれっきりだというわけだ。いまでこそ一年中いつでも手にはいる胡瓜だけど、むかしは夏のものだったろう。だから勘当は夏ときまってたんだ。それが証拠に若旦那が勘当される落語は『唐茄子屋』にしても『船徳』『湯屋番』だって、季節はみんな夏じゃないか。胡瓜切っての勘当、あまり茄子や南瓜は切りませんようでってくすぐりにも、ちゃんとそれなりの意味があるのさ」
 なるほどなあと思った。

 三笑亭夢樂、なつかしいねぇ。よく、テレビで拝見したものだ。
 夢樂について、Wikipediaから引用する。
Wikipedia「三笑亭夢樂」

幼少時代に馬賊に憧れていたことから、1942年より単身中国北京へ移住。敗戦後帰国し、農林省開拓局に入局。
永井荷風を通じて正岡容を知り、その紹介で、1949年3月に5代目古今亭今輔に入門する。前座名は「今夫」。しかし、当の本人は新作落語、古典落語の概念をあまり知らずとりあえず今輔から提供を受けた新作の台本をやっていたが、ある日柳家金語楼から渡された新作の台本を「八っつぁん」「熊さん」に書き換えたことで今輔から叱責され古典路線の道に転向、1951年4月に新作中心の今輔門下から8代目三笑亭可楽門下へ円満移籍。翌5月、二つ目に昇進し「夢楽」と改名。1958年9月、真打に昇進。

『寄合酒』『三方一両損』『妾馬』などの長屋物を得意ネタとし、明るく軽妙で当意即妙な芸風から大喜利も得意とした。また、『お笑いタッグマッチ』(フジテレビ)、『ばつぐんジョッキー』(CBCラジオ)などのテレビ番組・ラジオ番組にも出演し、人気を集めた。

2005年10月28日、肺不全のため死去。80歳没。

 どこで永井荷風と縁があったのだろうか。
 五代目今輔門下から移籍(?)という経歴は、歌丸さんと共通している。
 私が大好きな八代目可樂の弟子。
 テレビやラジオのぼんやりとした記憶だが、たしかに、博識だったのだろうと思わせる。
 笑顔が印象的な人だった。
 長年「若手落語会」を開催し、志ん朝や談志も重要な修行の場となっていた。

 その夢樂の謎解き、矢野さんが信じたのも、むべなるかな、なのだが、後日談。

 奥が深いと思って風俗史に関するいろいろの本をあたって勘当のことを調べてみたのだが、どこを探しても胡瓜を半分に切って渡す風習についての記述は見当たらない。思いあぐねて藝能と民俗学に関する篤学の士、日大教授永井啓夫にたずねてみたら、言下に、
「矢野さん、そりゃあ夢樂さんにからかわれたんですよ」
 ときたもんだ。

 矢野さん、まんまとかつがれたのだが、「不愉快な思いがまったくなかったばかりか、むしろ不思議な爽快感を覚えた」と書いている。

 それにもしからかわれなかったら、なんの役にもたたない勘当の風習について、あんなに調べることもなかったはずだ。
 勘当されると、奉行所や代官所に届出されて人別帳から除籍されるが、これはいわゆる本勘当というやつで、単に口頭や文章で言い渡されるのは内緒勘当と言って、法的効力はなかった。落語の若旦那のされる勘当は、たいていこれだ。勘当すると親のほうは、子供のしでかした不始末に関して、一切の責務をまぬかれた。問題の胡瓜ならぬ久離あるいは旧離だが、これは失踪中や別居中の子供との関係を断絶することで、欠落久離として勘当とは区別されていた。新時代明治をむかえて法的には廃止された勘当だが、法的に根拠のない私的な勘当は、いまでもまったく姿を消したわけではない。

 こうやって勘当の種類や久離のことを、矢野さんから教わることができるのも、夢樂が矢野さんを見事にからかってくれたからと言えるだろう。

 この後、道楽が過ぎて勘当された若旦那の噺の多くで若旦那に反省の色が見えないのだが、『唐茄子屋』だけは違う、としてそのあらすじの一部を紹介している。

「お天道様と米のめしはついてまわる」
 と威勢のいい啖呵をきって家をとび出したまではよかったが、たよりにしていた吉原(なか)の花魁にはそでにされ、あっちへ二日、こっちに三日の居候も実家のほうから手がまわってながくはつづかず、二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなって、二日三日と食うや食わずでほっつき歩いた身に、ついてきたのはお天道さまばかり。暑い土用の日盛りの大川に、とびこんじまえと佇んだところに出くわした叔父さんに助けられる。この叔父さんなる者が、若旦那の了見を入れかえてやろうと思ってことにあたるから、なかなかに手きびしい。

 この若旦那、その本気度には疑問もあるが、一度、死を覚悟しているという点で、確かに他の若旦那勘当ばなしとは、違うなぁ。

 そして、あの叔父さんの存在も大きい。

 あくる朝は、はやくからたたき起して、薄ぎたないなりで天秤棒肩に唐茄子売りに歩かせる。なにせ箸より重いものは持ったことがなく、茶屋酒のしみこんだ身に、いきなりこういうつらい仕事をさせて、根性をたたきなおそうという荒療治でもって、働くことの尊さを教えるのである。

 叔父さんが登場してから、この噺は、骨格がしっかりしてくるように思う。
 
 矢野さん、もう一人、この噺の登場人物のことを書いている。
 
 落語には本筋に直接かかわりを持たない、たくみなエピソードが用意され、作品の効果を高めてくれる例が多いのだが、この『唐茄子屋』に出てくるお節介やきの職人などは、そんなエピソードのにない手として、じつにいい役どころをつとめている。姓名のほどは不詳だが、数ある落語の登場人物のなかでも私の好きな男のうち、五本の指にいれたい存在だ。

 まったく同感。
 唐茄子を積んだ天秤棒をかついでやって来た田原町。つまづいて転んだ若旦那から事情を聞いて、長屋の連中に唐茄子を売ってくれるあの男、好きだなぁ。
 
 矢野さん、この話を、こう結んでいる。
 勘当されたことによって、若旦那はひとの情を知ったわけで、言い変えれば初めてほんとうの世のなかに出たことになる。荒療治ではあるが、勘当もときには人生のお役に立つのだ。

 たしかに、一人で暮らし、社会の厳しさを経験することは、重要だ。
 私も、大学入学から一人暮らしをすることで、親の有難さを身に染みて感じた。
 勘当、ではなかったけどね^^
 
 もし、親の手に余る子供が、今の世で勘当されたら・・・・・・。

 田原町のあの男や、あえて厳しく働くことの価値を教えてくれる叔父さんのいない現代では、なかなか難しい問題ではある。

by kogotokoubei | 2019-02-23 18:20 | 落語の本 | Comments(6)
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矢野誠一著『人生読本 落語版』(岩波新書)

 矢野誠一さんの『人生読本 落語版』(岩波新書)から二回目。

 本書は大きく次の四つの章がある。
 1.命あっての
 2.渡る世間に
 3.金は天下の
 4.遊びをせんとや

 各章に、七つから八つの話がある。
 その話に登場する落語のネタは、巻末の索引によると、約八十。

 では、「第一章 命あっての」の中から、「墓碑銘」の内容をご紹介。

 乱雑をきわめた仕事机の片隅に、窮屈そうにファクシミリ兼用の電話器が置かれている。それでなくても機械音痴のアナログ人間といたしましては、ずいぶんと長いあいだダイヤル式の電話器を愛用していたのだが、必要にせまられてファクシミリを購入したのを機に、居間にあった電話器を仕事机に移したわけだが、おかげで仕事中に電話が鳴ってもいちいち机から離れる手間がなくなった。
 その仕事中にかかってくる電話だが、ご多分にもれず勧誘、宣伝、セールスに関するものがすこぶる多い。やれ資産運用だの、不動産だのと、縁なき衆生にいくら甘い言葉をささやいても、効果のないことがわかっていそうなものなのに、どこの名簿で調べたか、ちゃんとこちらのフルネームなど呼称して電話の相手をたしかめるあたり、ご苦労さまなことである。

 いまや、携帯あるいはスマホの時代だが、本書の書かれた2008年頃を考えると、たしかに、宅内の電話に時たまかかるのは、セールス関連がなんと多かったことか。
 そのセールスの中でも、私の経験でも、マンションの次に多かったのが、矢野さんが次に書いている、ある商品(?)についてであった。
 
 そんな電話のなかで、近頃めっきり増えてきたのが墓の勧誘である。先様の商売とあって、当方が相応の年齢になっていることまで、先刻調査済みなのである。せっかく調査してくださったお墓の業者には申し訳ないが、自分の墓と言い切るほどのものではないにしろ、一応私と私の配偶者には死んでから入れる場所がある。
 入会している日本文藝家協会の「文学者之墓」というのが富士霊園にあって、そこに江國滋といっしょに生前手続きをすまでたのが1991年のことだった。「文学者之墓」というのは、日本文藝家協会員のお墓のアパートみたいなもので、埋葬者名と代表作、死亡年月日と年齢が刻字されるのもで、江國滋とならんでわが名が赤字で刻まれている。隣人ともいうべき江國滋は97年8月に世を去って、赤い碑銘が黒になった。

 落語評論で私が敬愛する江國滋さんと矢野誠一さんのお墓が、隣同士なんだぁ。

 さて、この後に落語『お見立て』のあらすじが簡潔に紹介された後をご紹介。

 喜助が杢兵衛に「お見立て」を願った墓碑には、もっぱら戒名だの俗名だのが刻られていて、最近ではこの国の墓地でもしばしば目にするようになった墓碑銘の記されたものはない。
 その墓碑銘だが、ハンフリー・ボガートの墓石には、「おれに用があるときは口笛を吹いてくれ」と記されているそうだ。いかにもハードボイルド・タッチの映画でならした彼らしく、他人が選んだにせよ、生前自分できめていたにせよ、こんなにふさわしい墓碑銘はないと、そう思った。
 ところがこれが嘘なのである。嘘というのは、都筑道夫に「寄席番組の変った楽しみ方に関するささやかな報告」というエッセイがあって、このなかで、伝えられているような墓碑銘がボギーの墓には記されていないことを、実際に墓地まで足をはこぶことなく、日本で手にいれたさまざまな資料にあたって考証するのだ。
 都築道夫の調査によると、なんでもボガートの愛西ローレン・バコールが、ボギーからプレゼントされた純金製の呼子笛を、涙ながらに骨壷におさめたはなしが誤り伝えられたものだという。呼子笛には「なにか用があったら、これを吹くだけでいいのよ」の文字が刻まれていたというのだが、それがくだんの墓碑銘にすりかえられたのがことの次第だそうだ。
 嘘ではあっても、この「おれに用があるときは口笛を吹いてくれ」という墓碑銘は、いかにもハンフリー・ボガートにふさわしく、この役者の風姿をしっかりとらえて離さない。

 たしかに、ボギーにふさわしく、まんまと騙されるネタである。

 ローレン・バコールのデビュー作『脱出』(1945)で、ボギーとバコールは初共演しているが、この映画では、バコールがボギーに口笛の吹き方を教えるという場面のことが有名らしい。

 墓碑銘の風説は、そういう背景も含めて、広まったのかもしれない。

 それにしても、今のようにネットでいろいろ調べることの出来ない時代に、都筑道夫は、現地へ行かず、どうやって風評の誤りについて調べることができたのか。
 そのエッセイを、ぜひ読みたくなったなぁ。

 ちなみに、都筑道夫については、昨年7月に、『志ん生長屋ばなし』(立風書房)の解説から、兄の鶯春亭梅橋のことも含めて紹介した。
2018年7月11日のブログ

 
 
 さて、このあと矢野さんは、日本文藝家協会の墓に刻字できる代表作の名を明らかにしている。

 どの作品かは、実際にこの本でお確かめのほどを。


 この話からは、まことしやかな話も、実は自然と出来上がった風評や、巧妙な嘘の場合がある、ということがボギーの墓碑銘のことで学べる。

 そして、二人とも大好きな落語評論家でもあり名エッセイストでもある矢野さんと江國さんのお墓が、隣同士であるということを知ったことも収穫だった。


 私を富士霊園に行く気にさせないよう、矢野さんのお墓の名が赤いままで長く続くことを祈っている。
by kogotokoubei | 2019-02-22 12:36 | 落語の本 | Comments(0)

 すでに記事で紹介したつもりでいたが、まだだった、と最近になって気づいた本がある。

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矢野誠一著『人生読本 落語版』(岩波新書)

 矢野誠一さんの『人生読本 落語版』は、岩波新書から2008年に発行された。
 Amazonのレビューも最初に書いたし、当然、拙ブログでも紹介済みと思っていたが、まだだった。

 ということで、遅ればせながら、この本より、いくつか紹介したい。

 まずは、第一回目なので、マクラ的な内容を紹介する。

 「あとがき」で、矢野さんが、岩波の編集者との酒席で、この本の企画について話したのが、発行の七年前のことだったと振り返っている。
 酒席で「どんなに遅くなっても来年には」と2001年の秋に口約束していたものの、その後に芝居を観るために費やす時間が増えたりし、つい、七年の年月を経て、ようやく、『エノケン・ロッパの時代』に続く岩波新書の矢野さんの本が、陽の目を見たとのこと。

 「はじめに」から。

 若い頃、ずいぶんたくさんの本を読んだ。古今東西の名著をかたっぱしからという感じで、高校を卒業するまでに、岩波文庫緑帯(近代・現代日本文学)を全巻読破する計画をたてたりして、七割方達成したのではなかったか。
 それだけ乱読していながら、思想書、哲学書、なかんずく人生論にはまったく目を通さなかった。小説でも、人生論じみたテーマのものは最初から敬遠してきた。生きることなんて、誰もがやっているし、誰にでもできることだから、ことさらそれを論じるまでもないだろうという、若さゆえの不遜な考えをいだいていたようだ。若さゆえと、たったいま書いておきながら、気がついてみれば私はいまだにそんな思いを持ちつづけている。要するに人生論がきらいで、考えなしのその日その日を過ごしながら、この年齢(とし)まできてしまったことになる。
 だからと言って、時世時節移り変りの激しいひとの世から、なにも学んでこなかったわけではない。乱読してきた書物は無論だが、夢中になってた芝居と映画、それに多くの師や先輩、友人、知己とのつきあいなど、学校の教室以外のところで、どれだけたくさんの、それもきわめて大切なことを教えられたか、はかり知れない。小むずかしい人生論など読まなくても、身につくものはいくらでもある。

 矢野さんは、昭和10(1935)年生まれ。
 ちなみに、麻布中学から麻布高校を卒業し、大学受験に失敗した後、文化学院に進んだ。

 岩波文庫緑帯の七割・・・凄いねぇ。

 引用を続ける。
 そんな、私にとってのほんとうの人生の教師役をいま思いかえして、まだ若くて感受性のゆたかだった時代に出会うことのできた落語の影響を無視するわけにいかない。まだ若くて感受性のゆたかだった時代というのか、ものごとに影響されやすい時代でもあって、その意味で言うならば、私は落語の世界を、しごく単純、率直、そして無批判に受けいれてしまったような気がする。受けいれっぱなしでここまできてしまった。

 これ、私も同じような思いがある。

 小学生の頃から、テレビ、ラジオの漫才、落語なごが好きで、高校で興津要さんの『古典落語』に遭遇し、続編の発行を心待ちにしていた。
 
 高校の運動部の先輩が卒業する際の予餞会では、落語を披露していた。

 大学受験勉強はラジオの深夜放送を聞きながらだったが、落語が始まると、手が止まってしまい、笑いっぱなし。
 特に、金馬、志ん生が好きで、圓生は、どうも苦手だった。

 私も、落語を目一杯、“受けいれっぱなし”だったなぁ。

 最後に、このシリーズのお題の由来を含む部分を、引用。

 私は落語から多くのことを教えられた。けっして世のため、ひとのためにはならないが、貧しいながら楽しく人生を送るすべを学んできた。古今亭志ん生がしばしば口にした、
「こんなこと学校じゃ教えない」
 のひと言は、まさに教育の妙諦で、その意味でも八代目桂文楽、五代目柳家小さんなどなど綺羅星のごとくにならんだあの時代の寄席は、私にとって最高の教室だった。春風亭小朝が麒麟児よろしく颯爽と登場してきたとき、「小朝をどう思いますか」と訊ねられ、「文楽・志ん生から人生を教わった者が、いまさら小朝ごときから人生を教わりたくない」と答えて顰蹙を買い、いささか反省もしたが、本音だったことにお間違いはない。
 それにつてもと思うのだ。
 大世紀末を、前倒しならぬ後倒ししたような、昨今の地に堕ちた世情を見せつけられると、石油を使うことなく、テレビとも、パソコンとも、携帯とも無縁の、不便で貧しくはあってもこころ豊かだった落語の世界から、あらためて人生を学びなおしてもいいのではあるまいか。

 志ん生の名科白、廓ばなしのマクラなどで、よく使っている。

 すでに書いたように、本書の発行は、2008年。
 それから、十年余が経過した。

 “大世紀末”を“後倒し”したような“地に堕ちた世情”は、変らない。

 いや、悪化するばかりではないか。

 ということで、次回より、本書を元に、あらためで落語から人生を学びなおそうと思う。
by kogotokoubei | 2019-02-20 21:27 | 落語の本 | Comments(2)

 月が、綺麗だ。
 満月が近い。
 月齢満月は20日。今年最大の月、とのこと。

 明日は、旧暦1月15日。
 小正月。
 その年の最初の満月を祝う日でもある。

 また、明後日2月20日、金子兜太さんの一周忌。

 昨年、訃報に接し、短い記事を書いた。
2018年2月21日のブログ

 
 小正月には、左義長(さぎちょう、三毬杖)と言われる火祭りの行事が、今も、新暦ではあるが、行われる地域がある。

 地方により、どんど焼、どんと祭り、歳の神、墨塗り、ぐろ、かんがり、などさまざまな呼び方がある。

 四年前の旧暦1月15日に、小正月について記事にしていた。
2015年3月5日のブログ

 その記事では、韓国では、旧暦で小正月を祝っており、豊作と新年の祈願をするタルジプテウギ(わらや薪の山を燃やす行事)があることを、紹介した。

 現在の日韓のぎくしゃくした関係を思うと、日本が新暦一辺倒になり、アジア各国と同じ暦で祭事を祝わなくなったことも、心情的な隙間を作る要因の一つと思えてならない。


 昨年の記事でも紹介したが、金子兜太さんの、この句をあらためて噛みしめたい。

 左義長や 武器という武器 焼いてしまえ

 「武器輸出三原則」を、今の政府は緩和した。
 
 とんでもないことだ。

 金子兜太さんの句には、多くの国民の反戦の思いが凝縮されていると思う。

 平和のための条約締結を拒否し、国境に壁などを作ろうとしているアメリカの男、そして、そんな男をノーベル平和賞に推薦するような男に、この句を突きつけたい。

by kogotokoubei | 2019-02-18 21:54 | 旧暦 | Comments(0)
 また、左談次の記事か、の声が聞こえそうだが、ご容赦のほどを。

 11日の偲ぶ会でも、左談次に酒癖のことが語られたが、以前に、談四楼の『談志が死んだ』からその酒癖に関する逸話を紹介していた。

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立川談四楼著『談志が死んだ』(新潮文庫)

 2016年の11月21日、談志の命日に書いた記事と重複するが、ぜひあらためて紹介したい。
2016年11月21日のブログ

 談志が亡くなった直後の、一門のこと。

 こんなのべつに通夜をやる一門はねえなと言いつつ、兄弟弟子は事あるごとに師匠を肴にして酒を飲んだ。談志のネタは山ほどある。あんなこともあった、こんなこともあったとそれぞれのエピソードを出し合い、笑い、みな安心して談志を血祭りに上げるのだった。

 “血祭り”は言葉のアヤだろうが、とにかく、夜な夜な弟子たちは集まっていた。

 そして、その“通夜”では、晩年の談志の不可解な言動が明かされることもあった。

 左談次の逸話を引用。
 酒癖と言えば左談次。いやむしろ私は陽気ないい酒だと思っているのだが、談志がそう思ってなかったという話なのだ。
 入門早々、左談次は渋谷にある談志の書斎で小言を食った。帰れと促され、少しムッとしたらしい。私も知っているが、あのマンションのドアは鉄製で重かった。左談次がそれを閉めようというとき突風が襲い、ドアがガッチャーンと凄まじい音を立てて閉まった。左談次が階段を降りかけた時、そのドアから談志が飛び出して来た。
「ごめん山岡クン、言い過ぎた、ヤケになるな」。
 以来、キレると何をするかわからないと談志はインプットされたらしい。何か仕出かす前に帰そう。それには酒癖が悪いという口実がいい。おそらくそんな回路を経て、左談次は酒癖が悪いことになったのだ。新年会など、一門の折々の宴席で談志は言い続けた。「おい、左談次はそろそろ帰せ。あいつは酒癖が悪いんだから」。

 突風のことは、左談次も、あえて言わなかった、ということか。

 左談次が入門したのが昭和43(1968)年だから、昭和11(1936)年生まれの談志は、32歳。
 「笑点」の初代司会者を昭和41(1966)年5月から昭和44(1969)年11月まで三年半務めている、まさにその時期。
 ちなみに、あの『現代落語論』は昭和40(1965)年上梓している。二十代で書いた本なのだ。
 そんな若くて、仕事にもノリノリの時期、たまたま突風のせいで重たいドアが音を立てて閉まったのを勘違いし、本名で「ごめん山岡クン、言い過ぎた、ヤケになるな」という談志の姿を思い浮かべると、なんとも可笑しい。

 その左談次が、談志の異変について語った言葉も引用。
「オレたち近過ぎてわからねえんだよ。数年ぶりに会った人が、師匠おかしいと気がつくんだ」
 左談次はそんな前フリから話を始めたのだが、晩年、旅のお供をしたらしい。“ひとり会”と銘打ったのに声が出ないから二席はきつく、サポート役として真打が一人同道した。その打ち上げの席だったという。
「師匠は打ち上げの席は好きだからさ、ウーロン茶を飲んでた。声も出ねえし、こっちはそれが務めだと思うから、飲みながらパアパア言ってたよ。ふと家元の視線に気づいたんだ。オレの手元のグラスを見てんだよ。で言ったんだ、左談次、おまえ酒飲めるのかって。いや、イスから転げ落ちるかと思った。驚いたねえ。じゃ今までの酒癖が悪いから帰れってのは何だったんだよってなもんさ」

 若い時分にインプットされていた「左談次=酒癖が悪い」という情報が、晩年、まったく消えていた・・・・・・。

 それも病による影響であろう。


 左談次自身は、最後の最後まで、結構、記憶などはしっかりしていたように思う。

 晩年、彼のブログをよく見ていたので、そう思うのだ。
「さだやんのほろ酔い日記」

 今も見ることのできるブログ、昨年2月10日、亡くなるほぼ一か月前の記事を紹介したい。
落語で衝撃を受けたベスト3。
先ずは小学6年生初めて行った寄席末廣での師匠談志の「源平」
コレで噺家になろうと決めた一席。
中1雨の鈴本夜円生師「妾馬」帰り道の気持ちよかった事。
噺家になってから楽屋で小さん師「道灌」の凄みと面白さに改めて震えた。
 12歳で、談志の『源平』の良さが分かったんだ・・・・・・。
 円生『妾馬』、小さん『道灌』。
 

 左談次という噺家さんは、落語が心底好きだったんだなぁ、と知らされる、三席。

by kogotokoubei | 2019-02-17 16:36 | 落語家 | Comments(6)
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 11日の「立川左談次を偲ぶ会」でいただいたCD。
 「制作:鈴々舎馬桜」と、してある。
 CDジャケットのイラストは、山藤章二さんが無償でご提供、とのこと。


 木戸銭三千円で、あの落語会を楽しめたのに加え、この二席。

 ここ数年、むやみに高い木戸銭の割りに、がっかりする落語会も多い中、この落語会は、素晴らしい!

 CDは100枚制作だったので、手違いで増えた約120名のお客さんの中で、当日お渡しできなかった方には、馬桜さんが送料負担し送付するとのことだった。

 馬桜さん、結構、持ち出しの会になったのではなかろうか。

 『宿屋の富』は、2011年10月、木更津清見台ホールの高座。
 『付き馬』は、2013年3月16日、浅草ニコニコ大会(東洋館)の高座。

 それぞれ、聴いた感想を記す。

『宿屋の富』
 客席から「待ってました!」の声。
 地域の落語会(晴見台寄席)ならではの客席の暖かい空気が伝わる。
 ちょうど、プロ野球が佳境を迎えた時期だったのであろう、地元球団の話題がマクラ
 の冒頭でふれられている。
 また、師匠談志のことにも「今は亡き談次は」とギャグにしていたが、この時期は、談志が亡く
 なるほぼ一ヶ月前。その容態が危ぶまれていた時期だ。
 その談志や大師匠小さが高座の挨拶の頭を下げる仕草を演じているが、これはその日、会場にいた
 お客さんしか楽しめないのは、当然のこと。
 会場が葬祭場なので、控室が「導師様」の部屋、というのは可笑しかった。
 そんな少し長めのマクラから、本編へ。
 仲の良かった古今亭志ん五譲りの志ん生型、とプログラムで解説されていたが、湯島天神での
 場面、古今亭では二番富の五百両が当る、という若い男の妄想ばなしは、三番富の三百両が当る、
 予定、と替えられている。
 とはいえ、全体的には古今亭の筋書きで、楽しい高座になっている。
 
 
『付き馬』
 11日にいただいたプログラムによると、雲助は、この噺を十八番としていた初代小せんの
 速記に基づいているとのこと。
 であるなら、左談次の高座も、ほぼ雲助と同じような筋書きなので、お互いにその源は、
 同じ初代小せんではなかろうか。
 雲助との違いは、たとえば、男が吉原の妓夫太郎を引っ張りまわす道中で、築地行きの
 ボギー車が雲助では登場するが、左談次では含まれないなどだが、基本的な構成や、
 クスグリは似ている。
 「見ぬようで見るようで 客は扇の垣根より」や、「五十の着物に百の帯」なども、挟まれる。
 妓夫太郎がついに怒り出すのは、紅梅焼きと豆屋の場面だが、そこまでの道中のテンポが実に良い。
 雲助もそうだったが、若い衆を騙すこの男が、ほどよく「軽い」のだ。
 雲助は、左談次版を意識し、できるだけ同じ型でと配慮したのではなかろうか。
 飄々とした左談次の語り口は、この噺にニンだ。
 田原町のオジサンの江戸っ子ぶりも、良かった。
 人を騙す噺なので、演者によっては暗く重くなりがちなのを、実に楽しい噺に仕上げている。


 ということで、ようやく雲助や一朝が「さだやん」と親しみをこめて呼ぶ、立川左談次という噺家
 さんの高座を、私自身が偲ぶことができた。

 二席に共通しているのは、実に丁寧で分かりやすい、ということ。
 11日の鼎談で知った逸話からは、もっと伝法な高座なのかと思っていたので、意外だった。

 そして、無理に笑わせようという意図は、まったくうかがえない。噺本来の持つ味を引き出せば、落語というのは楽しいものだ、ということを伝えてくれる。

 なるほど、落語協会に戻って欲しかった、と雲助が言うのが、よく理解できる。

 とはいえ、やや物足りなさを感じたのは、11日の偲ぶ会で、一朝と雲助の出色の高座の記憶が、まだ新しいからだろう。
 あの二人の高座のすぐ後では、左談次も不運(?)

 一朝の『宿屋の富』、そして、雲助の『付き馬』は、それだけ素晴らしかった。

 二人とも、天国で見守る左談次に、情けない姿は見せられないという強い思いが、あの高座につながったような気がする。

 11日の鼎談で、馬桜からの「左談次の一席は?」という問いに、雲助は『大安売り』、一朝は『真田小僧』をあげた。
 二人が言っていた、得がたい「軽さ」は、それらの噺で鮮明だったに違いない。

 その二席の音源もあるなら、ぜひ、聴きたいものである。
by kogotokoubei | 2019-02-15 21:18 | 落語のCD | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛