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噺の話

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 歌丸のことを書いた後、最初の師匠、五代目今輔について書かれた本をめくっていた。
 本名鈴木五郎、明治31(1898)年生まれ、昭和51年(1976)没。
 群馬県佐波郡境町(現、伊勢崎市)の出身で、「お婆さん落語」で売り出し、「お婆さんの今輔」と呼ばれた。曲芸師の鏡味健二郎は実子。

 ちなみに、歌丸は、今輔門下にあって、当時若手の寄席の出番が少ないなどについて、他の若手と一緒に待遇改善を訴えたことから今輔の逆鱗の触れ、一時落語界を離れている。
 二年ほど化粧品のセールスなどをした後、兄弟子米丸の仲介で戻り、米丸の弟子として再出発した経緯がある。
 
 今輔の前名も、米丸。

 
歌丸の最初の師匠、五代目古今亭今輔のこと。_e0337777_14303376.png

宇野信夫著『私の出会った落語家たち』

 宇野信夫著『私の出会った落語家たち-昭和名人奇人伝-』は、2007年河出文庫の発行だが、1986年に同じ河出文庫発行『今はむかしの噺家のはなし』を底本にして、一部を割愛、いくつかの章を他の本から追加したもの。

 この本に、米丸時代のことが書かれているので、紹介したい。

 米丸になってからの今輔は少しは売れてきた。昭和十年の一月に「吹雪峠」という私の作が二代目左団次によって東劇に、九月に六代目菊五郎によって「巷談宵宮雨」が歌舞伎座に上演された。この二作とも、米丸は文都(里う馬)柳楽(可楽)馬の助、甚語楼(志ん生)と一緒に見物してくれた。但し私の作だけを、三階の一幕見の立見席で見てくれた。もちろん、普通の入場料を払うほど楽ではなかったからである。しかし、これがほんとうの「惣見」だと言っていた。

 里う馬は、九代目。本名黒柳吉之助で、“吉ッつあんの里う馬”と呼ばれた人。明治25生まれだから、志ん生の二歳下。あの名人四代目橘家円喬に入門したものの半年ほどで師匠が亡くなり、出鼻をくじかれて活弁に転向した。それも半年でやめ、四代目円蔵門下から六代目馬生(四代目小さん)門下となったものの、師匠の妹さんとの不祥事から北海道にドロンした後は、一時幇間になった、というなんとも波乱の半生を送った人。
 馬の助は、亭号は蝶花楼で、明治29年生まれ、後に八代目金原亭馬生になった人。本名小西万之助。志ん生とは若い頃いちばんの友人。
 その二人とは里う馬になった文都も仲が良く、頻繁に橋場の宇野邸を訪ねては、ご馳走になっていた。
 八代目の可楽になった柳楽は、志ん生の口ききであの世界に入った人で、明治31年生まれ。
 そういった兄貴分志ん生を中心にした悪友たちの中に、米丸時代の今輔も加わっていたのは、いささか意外であった。
 橋場の旦那、さすがに多くの噺家に慕われていたということか。

 引用を続ける。

 米丸の芸風は、前述の通りぶッきら棒でそっけなく、義理にもうまい噺家とはいえなかったが、その人がらが堅実で、しっかりした見識をもっていた。
「私のことを仲間が上州だ、群馬県だ、と言うから、こっちから先に、私は群馬県だからね、私は上州だからね、と何かにつけて先廻りして言ってやると、この頃は私のことを誰も群馬県だ、上州だ、と言わなくなっちまいましたよ」そんなことを私に言ったことがある。

 訛りについて思い出すのは、初代正楽が信州出身、二代目正楽が春日部出身で訛りに苦労して噺家から紙切りに転身したことは有名。
 しかし、米丸は、その出身による言葉のハンデを、新作落語によって克服した。
 戦後、今輔になってから、新作では第一人者になった。今輔は自分の芸風が古典落語ににむかないことをよく知っていた。自分に生きる道は新作にあると、早いうちから悟っていた。私の「霜夜狸」を誰より先に高座にかけたのは、今輔である。
 鈴木通夫という私の友人が、今輔の理解者で、「おばあさん」を主人公とする落語を何篇か書いた。今輔はそれを生かして高座にかけて大いに迎えられ、「今輔のおばあさん」で通るようになった。今輔は鈴木氏にしんから感謝したに違いない。
 鈴木氏がこんなことを私に話したことがある。
「大晦日の晩、今さんがわざわざ鎌倉の私の家をたづねてくれた。誰でもいそがしい大晦日に、なんの用だろうと思っていると、私の原稿料をもってきてくれた。苦労をしたんだから、私の懐を考えてくれたんだろうと思って、ほんとうに有難かった」 
 里う馬の生活を思いやって、まとまった金を出して、
「返すときがあったら返してくれ、返さなくても結構」今輔さんこそ男の中の男だ、里う馬は古風なことを言って、涙をこぼしていた。

 いい話ではないですか。

 このあと、押しもおされもしない人気者になった今輔は、宇野信夫が高齢者を対象に開催していた「敬老会」に、安い謝礼金にも文句を言わず、毎年出演してくれたことが明かされている。

 今輔の人柄の良さ、仲間思いで義理堅い人だったことがうかがえる。

 たぶんにそれは、上州生まれであることを周囲からもからかわれ、自分もその訛りに苦労してきた若い頃の我慢の日々が。土台にあるのだろう。

 だから、弟子だった歌丸(当時は、今児)たちの行動が、我がままな振る舞いとしか思えなかったのかもしれない。

 歌丸のことから、最初の師匠今輔の人となりを思い返すことになった。
 
 晩年、志ん生とは、きっと協会などの縛りなどを越えた交流もあったのではないだろうか。

by kogotokoubei | 2018-07-07 11:57 | 落語家 | Comments(2)
 さぁ、W杯サッカーは、今日からベスト8の戦いだ。

 ウルグアイはカバーニが欠場すると、痛いなぁ・・・・・・。

 日本のメディアは、これからの決戦に関するニュースよりも、日本の次期監督に関するさまざまなニュースでもちきりだが、どうも納得がいかない。

 日本サッカー協会は、次の監督のことを考える前に、やるべきことがあるのじゃないか、ということ。

 一次リーグ突破で田嶋会長は「めでたし、めでたし」と思っているかもしれないが、忘れていけないのが、この四年間の監督交代問題だ。

 アギーレ退任、そして直前でのハリルホジッチ更迭については、それぞれ記事を書いた。
2015年6月18日のブログ
2018年4月10日のブログ

 二度の監督交代による、チーム強化の遅れ、そして時間とコストの浪費は、日本サッカー協会幹部に責任がある。

 それこそ、西野と一緒に、今月いっぱいで田嶋は会長の座を降りるべきせはないのか。

 一次リーグ突破とベルギー戦の惜敗によって、もはやサッカー協会は禊ぎは終わった、と思っているのだろうか。

 とんでもない。

 もし、セネガルがコロンビアに追いついて一次リーグで敗退していたら、間違いなく、田嶋会長の責任問題が追及されたはずだ。

 結果、西野ジャパンは綱渡りの賭けに勝ち、ベスト16に進んだが、だからと言って、日本サッカー協会のこの四年間の失態は消えるわけではない。

 たしかに、数多くの監督就任希望者からラブコールが届き、他の国との争奪戦もあるのだろうが、慌てて決める必要はなかろう。

 ブラジル大会終了からロシアでの戦いまでの四年間全体を検証してから、次のカタールまでの四年間に臨むべきだ。

 ハリツホジッチ更迭の理由に、田嶋会長は監督と選手のコミュニケーションの問題を挙げた。
 しかし、より大きな問題は、監督と協会側とのコミュニケーションだったはず。

 そういいい身では、技術委員長としてハリルホジッチを支援する立場にいた西野にだって責任はある。

 西野が監督慰留を固辞した理由には、そういうことへの思いもあると、私は察する。


 日本フェンシング協会では、昨年、三十代の太田雄貴が会長に就任した。
 もちろん、同じには考えられない要素は多いが、組織改革に関して見習うべき点はあるだろう。

 日本サッカ-協会の理事には、フットサル担当で北澤豪の名はあるが、もっと若手の日本代表経験者が理事に加わってもいいのではないか。


 代表メンバーも次回に向けて若手への世代交代が必要だろうし、期待する若手も少なくない。
 協会組織だって、代替わりを図る必要があるのではないか。


 次期監督は日本人か外国人かの論議の前に、それを考える組織体制を一新すべきだ。

 まずは、責任を取りましょうよ、田嶋さん。

by kogotokoubei | 2018-07-06 12:33 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
 昨日、過去の記事へのアクセスが急増している。

 それは、三遊亭小円遊について書いた、2013年10月の記事。

 談志の本を元に、「笑点」でつくられた“キザな男”というレッテルが、あの噺家さんの重荷になった、ということを書いたものだ。
 
 これまでにも、桂歌丸が入院するとか、あの番組を降板するなどで話題になると、この記事のアクセスが急に増えていたが、今回は尋常じゃない。

 やはり、歌丸という噺家さんの影響力は大きいと痛感。

 私が体験した歌丸の高座で印象深いのは、何と言っても一昨年の末広亭5月上席の二日目。

 あれは、副鼻腔炎の手術から退院してから行った、昼夜居続けの日で、昼の主任で『おすわどん』を聴いた。前の年と同様、板付きだった。
 ちなみに、夜の部は真打昇進披露興行。
2016年5月3日のブログ

 あの日が、私が体験した末広亭の最多来場者数日だ。

 ブログの内容を少し振り返ってみる。

 まだ午後1時を少し回ったばかりなのに、「立ち見」とのこと。
 五日までの昼の部の主任が、桂歌丸・・・あの、笑点降板発表効果、ということもあるか。

 どこかでお茶でもしようか、と思わないでもなかったが、覚悟(?)を決めて会場に入る。
 立ち見を含め、とにかく、凄い入りだ。
 昨年も同じ五月上席の真打昇進披露も歌丸が昼の主任で立ち見だったが、それ以上。
 桂竹丸の高座の途中だったが、立ち見のお客さんを含め、彼の漫談で笑いの渦、という状態。
 笑いたい人、あるいは、寄席初体験のお客さんも多そうだ。
 しばらく後ろで聴いていた。

 二階に上がる階段にも、座っているお客さんがいたので、その横に腰を掛けていた。
 小南治の高座が始まった。

 そうそう、あの番組の降板を発表したばかりの主任の高座だったなぁ。
 
 その一年前には、やはり板付きで『城木屋』を、二重に取り巻く立ち見の客の一人として聴いた。
2015年5月6日のブログ

 晩年積極的に歌丸が取り組んだ円朝作品については、聞かず嫌いを後悔した高座が、2012年の国立演芸場の『双蝶々 雪の子別れ』だった。
2012年4月14日のブログ
 その時は、次のように書いている。

桂歌丸『双蝶々 雪の子別れ』 (48分)
 どう言えばいいのだろう。なぜ今までこの人を聞かず嫌いでいたのかを、今は反省している。音源なら何と言っても円生になるが、最近は五街道雲助一門が、『長屋』~『定吉殺し』~『権九郎殺し』~『雪の子別れ』の通しで演じるなど、新たな試みもあって決して過去の噺ではなくなったが、歌丸の円朝もの(このネタは円朝作ではないという説もあるが)への取り組みは年季が入っているようだ。
 談志と同じ昭和11年生まれ今年76歳の歌丸の口跡ははっきりしているし、地の部分と登場人物が語る部分も流れるように展開されていく。たしかに、白酒が一門の会の楽屋ネタとして、この噺は病気の老人の噺でつまらない、という会話があったと言っていたが、本来『双蝶々』と言えば、この噺。終盤、雪に見立てた紙吹雪の演出と三味線も程よく効果的。この高座に出会えただけでもこの中席は満足である。もちろん、今年のマイベスト十席候補とする。

 結果としてその年のマイベスト十席には選ばなかったが、歌丸という噺家さんの認識を新たにした高座だった。

 談志との関係や「笑点」のこと、実家のこと、奥さんのことなどは、多くのメディアで取り上げているので私が紹介するまでもない。

 私にとっては、末広亭を階段まで含め超満員にする動員力を持った噺家さんであったことが、何と言っても思い出深い。

 そして、明解な口調が地を中心にした内容との相性の良さもあって、円朝の怪談噺で新境地を開いた噺家さんであったことも記憶されるべきだろう。

 
 世の中には、大喜利が落語だと思っている人が、少なからずいらっしゃる。
 それも、あの番組の影響力の凄さと言えるだろう。
 
 柳家小満んが、関内ホールの小ホールで独演会をする同じ日、大ホールで歌丸独演会があり、多くの方が並んでいたのを思い出す。

 テレビの人気者だったからと言って、桂歌丸の噺家としての実力は表層的なものではない。

 落語芸術協会の会長として、末広亭の席亭から客の入りの少なさに苦言を呈されたこともある。

 今思うと、末広亭に板付きで出演していた時、歌丸の目には二階までぎっしり埋まった客席は、どう映っていたのだろうか。


 小円遊について書いた五年前の記事に、こんなことを書いていた。
2013年10月5日のブログ

 小円遊が亡くなった時、番組では喧嘩相手という役割にあった歌丸が号泣したと言われている。同じ芸術協会の仲間として、きっと小円遊を心配する思いも強かったに違いないし、高座に上がるよう忠告したこともあるだろう。
 そして、何より本人の持ち味に近かったのかもしれないが、“キザな小円遊”というテレビ向けのキャラクターで人気は出たものの、落語を磨く上で、その虚像が大きな障害になっていたことを、歌丸が十分すぎるほど分っていたからこその、涙であったように思う。

 その小円遊と再会し、さてどんな思い出話にふけっているのやら。

by kogotokoubei | 2018-07-03 21:28 | 落語家 | Comments(12)
 西野ジャパンに、しばらくの間、夢を見させてもらった。
 よくやった、と言う言葉しかない。
 戦前、居残り会の皆さんには、2対2でPK戦の勝利、と予想をお伝えしていたが、もう一歩・・・・・・。

 先月の記事別アクセスランキングは、次のような結果だった。

1.FIFAの放映権料2000億円のうち、なぜ日本が400億も支払うのか? (2014年6月30日)
2.池袋演芸場 六月上席 夜の部 6月8日(2018年6月10日)
3.池袋演芸場 六月上席 昼の部 6月8日82018年6月10日)
4.国立演芸場 中席 6月19日(2018年6月20日)
5.山手線新駅の名前は「高輪大木戸」で、江戸の町を再現!(2014年6月4日)
6.志ん朝の『茗荷宿』が、聴きたかった!(2018年6月16日)
7.健さんが愛した歌、「ミスター・ボージャングル」についての補足。(2014年11月25日)
8.「万引き家族」を観て、思うこと。(2018年6月25日)
9.川島雄三、生誕百周年記念企画のこと。(2018年6月13日)
10.旧暦五月、夏の噺について。(2018年6月14日)

 1位は、四年前のこの時期の記事。
 ブラジルW杯のFIFAの放映権料2000億円のうち、なんと日本が400億、なかでもNHKが280億も支払っていたらしい、という話。今回のロシア大会でも、同じように日本が巨額の負担をしているようだ。記事は古いが、旬のネタ、ということか。

 2位、3位、4位は、先月行った寄席の記事。
 
 5位は、これも四年前の記事で、山手線新駅の名前について書いたもの。公募は6月30日で終了。「高輪大木戸」になる可能性は低いだろうが、「高輪」はあるかもしれないなぁ。

 6位は、矢野誠一さんの本で、志ん朝が、一時期『茗荷宿』をよく演っていたという扇橋の話を知り、少し驚いた、という記事。私の知る限り、音源は残っていないはず。寄席でしか聴けなかったのだろう。どんなクスグリを挟んだのかなぁ。聴きたかった。

 7位は、安定的(?)にアクセスの多い記事。ちなみに、私は携帯音楽プレーヤーで、各落語家のテーマソングを頭に入れているのだが、古今亭志ん生はニッティ・グリッティ・ダート・バンド(NGDB)の「プー横丁の家」そして、桂文楽は同バンドのこの歌にしている。なんとなく、イメージでそうしている。
 
 8位は、先日久し振りに言った映画の記事。安藤サクラ、いい女優です。

 9位の記事は、川島雄三生誕百周年企画について書いたものだが、10月の落語会、なんとか行きたいものだ。

 10位は、夏の噺のことを書いたもの。
 あの記事で紹介した二冊の本で一致した夏の噺十四席(笠碁・青菜・素人鰻・二十四孝・船徳・お化け長屋・たがや・夏の医者・佃祭・あくび指南・水屋の富・千両みかん・麻のれん・唐茄子屋政談)、先日の末広亭居続けでは、一席もなかった^^
 そうそう、小三治は、初日『青菜』だったと、Iさんからメールをいただいていた。
 昼夜で二十一席の落語を聴いたのだが、トリ以外でも出来そうな『青菜』も『あくび指南』もなかったなぁ。これは、たぶんに、小三治が演るかもしれない、という“忖度”の結果なのだろう^^


 日本が去ったとはいえ、W杯は、これからが佳境。
 しばらく、寝不足の日々が続きそうだ。


by kogotokoubei | 2018-07-03 05:39 | アクセスランキング | Comments(2)
上野戦争(2)ー吉村昭著『彰義隊』より。_e0337777_11095564.jpg

吉村昭著『彰義隊』(新潮文庫)

 吉村昭の『彰義隊』を元に、サッカーのポーランド戦が始まる前に書いた記事の、後半。

 それにしても、昨日の二試合が、いずれもPK戦になるとは。
 
 さぁ、ベルギー戦は、どうなるか。

 その前に、百五十年前の上野の戦いのこと。
 前回は、慶応四(1868)年の五月十五日の月の見えない、雨の中の一戦を前に、薩摩兵が黒門口を固めた、というところまでを書いた。

 ついに、戦いの火ぶたが切られた。
 大村益次郎からは、黒門口を突破せよという指令があって。薩摩藩兵の一隊は広小路を進み、黒門口の彰義隊に一斉に銃撃を開始した。六ツ半(午前七時)であった。
 その銃声に、湯島神社にあった本隊は、砲五門をひいた大砲隊を黒門口前面と御徒町方面へ、さらに小銃諸隊、遊撃隊がそれにつづいて押し出し、たちまち激烈な戦闘がくりひろげられた。

 上野戦争は、町人たちの生活にも、多大な被害をもたらしている。

 薩摩藩の大砲隊長は、黒門口をのぞむ会席料理の松源と仕出し料理店の雁鍋(がんなべ)の二階に砲をかつぎあげさせて、そこから砲撃させた。このことが後に江戸市民の批判を受け、人気のあった松源の客足は徐々に少なくなり、やがて廃業の憂き目にあった。

 東叡山を身近に感じていた上野の住人にしてみれば、官軍側に肩入れするような店は、許せなかったのだろう。

 しかし、松源も雁鍋も、薩摩藩兵が鉄砲掲げて「二階を貸せ」と言ってきたら、到底断ることはできなかったはずで、なんとも可愛そうである。

 大村益次郎は、戦略家で、根岸、日暮里方面には兵を配置せず、彰義隊の逃げ口として開けておいた。彰義隊も、それを知っていた。

 さて、戦闘はどんな様相となっていたのか。
 黒門口は、上野東叡山の南にあるが、北の谷中口方面には長州、肥前、筑後(久留米)、大村、佐土原の各藩の連合軍が、本郷の加賀藩邸から根津方面に出撃し、根津権現にいた彰義隊の一隊と遭遇してこれを撃退し、団子坂から谷中口方面に進んでいた。
 谷中口をかためていた彰義隊の諸隊は、それを知って出撃し、団子坂と善光寺坂の間の、水が満々とはられた水田をへだててはげしい銃砲撃戦となった。
 また、朝廷軍の諸藩兵は、穴稲荷門をはじめ諸門を守る彰義隊に砲弾を浴びせかけ、銃弾を連続的に撃ちこみ、これに対して彰義隊も必死に応戦し、樹木は吹き飛び、硝煙で視野は閉ざされた。
 双方の死傷者はおびただしく、時間の経過につれてその数は増していた。手足がちぎれて血を流し、頭部が砲弾で吹き飛んだ遺体が血に染まって降雨の中にころがっていた。

 あえて、おどろおどろしい表現の部分も引用したが、戦争とは、そういうものなのであって、湾岸戦争以降の風潮のように、決して、ゲーム感覚で捉えてはいけないと思う。戦地では、血が流れるのだ。

 黒門口では、もっとも激烈な戦闘が続けれらていた。

 薩摩藩兵の死傷者が増し、指揮者は、本陣で戦況を見守る大村益次郎のもとにおもむいて増援を要請した。しかし、大村は床几に座ったまま返事をしない。
 指揮者は怒り、
「薩摩藩兵をことごとく死なせるつもりですか」
 と、言った。
「もとより、その通りだ」
 大村は、冷ややかに答えた。
 この一言に、指揮者の怒りはさらにつのり、黒門口に駆けもどった。
 薩摩藩兵の背後の民家は火炎を噴き上げ、それがせまってきて、火熱が兵たちをおおうようになっていた。このままでは、陣地を撤去して敗退することになる。指揮者は、進む以外に活路は得られぬと決断し、全軍に突入を命令、藩兵たちは喊声をあげて銃を乱射しながら黒門口に突撃した。
 これを見た鳥取、藤堂藩の藩兵たちも、呼応して突き進み、これによって少しのゆるぎなく守られていた黒門口の陣地が突破された。
 薩摩藩兵は、後退する彰義隊員を追って進み、すぐにとって返して黒門口をかためた。
 彰義隊員たちは、黒門口を奪い返そうとして、後方にまわり、銃弾を放った。藩兵は応戦し、彰義隊員を追い払って、黒門口は朝廷軍の手に落ちた。時刻は、九ツ半(午後一時)すぎであった。

 この薩摩の指揮者と大村とのやりとりについては、吉村昭は裏が取れたのかもしれないが、諸説ある。

 一つは、作戦会議の段階で大村が示した薩摩軍の配置を見て、西郷隆盛が「薩摩兵を、皆殺しになさる気ですか」と問うと、大村が「そうです」とにべもなく答えたという説。また、大村を問い詰めたのは桐野利秋という説もある。しかし、もっとも激戦の予想された黒門口を受け持つことを薩摩が希望したという説もあるので、このあたりは、何とも言えない。
 しかし、西郷は大村に全権を委任したと思われるので、彼の発言とは思えない。

 いずれにしても、“背水の陣”ならぬ“背炎の陣”での薩摩藩兵の突破により、彰義隊は黒門口を失った。残された時間は多くはなかった。

 銃声は散発的に起こっていたが、戦いは、事実上終わっていた。七ツ半(午後五時)すぎであった。
 依然として雨は降りつづき、上野の山には死骸が累々と横たわっていた。朝廷軍の死傷者は約百二十名、彰義隊の死者じゃ、二百六十六人。彰義隊の死者が多かったのは、薩長両藩の使用したアームストロング砲をはじめとした最新鋭の銃砲の威力によるものであった。

 アームストロング砲については、佐賀藩の所有する同砲が活躍した、とも言われている。

 朝七時から、午後五時・・・約十時間の戦闘。

 戊辰戦争の局地戦の一つ、と数えることもできる上野戦争から百五十年。

 かつて、日本人同士内戦を行ったことは、次第に忘れられていく。

 明治という国をつくるための陣痛とも言える内戦は、なんとも痛ましい歴史だ。
 
 そして、戊辰戦争を含む多大な犠牲を払い出来た新たな日本は、日清、日露の勝利に奢り、あの大戦に向かって行く。

 
 内戦はもとより、戦争も、「なんとも、馬鹿なことをした」と振り返られるべきだ。
 決して、美化してはいけない。

 そんな思いがあって、旧暦五月十五日に、この記事を書き始めた。
 あの夜は見事な満月だったが、百五十年前の江戸は雨で、その雨は上野の山のあちこちで、血の色に染まったのだ。


 八月十五日近くにメディアはいろんな特集を組むかもしれないが、いわば年中行事化しているとも言えるだろう。

 「今そこにある戦争の危機」について、大手メディアは、ほとんど無視している。

 いろんな戦争の歴史を振り返るたびに、今そこにある危機が、もっと語られていいと思う。
 
by kogotokoubei | 2018-07-02 12:27 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 仲入りでコンビニで仕入れた助六(風)を食べ さて、夜の部。

 開口一番から、感想など。

柳家寿伴『真田小僧』 (10分 *16:45~)
 昨年一月、まだ関内ホール(小ホール)で開催されていた柳家小満んの会で、ロビーのモニターで『饅頭怖い』の後半を観ていたが、実質的には、初と言って良いだろう。
 なかなか個性的と言えるだろう。金坊が按摩さんの口真似を何度かして、父親は「真似はいいから」なんてやりとりは、少し笑えた。

柳家小はぜ『道灌』 (9分)
 まだ二十代なのだが、顔かたちも口調も、年齢不相応だなぁ^^
 とはいえ、可愛いい小僧さん、という印象もあるし、高座を含め、とにかく味のある噺家さんだ。
 
ダーク広和 奇術 (12分)
 十八番のヒモの芸。いい味だなぁ、いつものことだけど。
 この人の話芸、聴く度に磨かれている印象。

柳家一琴『目薬』 (14分)
 この人のこの噺も、十八番と言えるだろう。
 マクラ、小児科の先生のノリで産婦人科で産婦を診たら、というのは実演(?)を控えたが、演って欲しかった^^
 
柳家禽大夫『風呂敷』 (15分)
 意外にも、初。なんとも評しにくい。個性があるような、ないような・・・・・・。
 小三治門下、いろんな人がいるなぁ。

ホームラン 漫才 (15分)
 アドリブのようで、実に練り上げられた漫才、だと思う。たにしの芸の幅の広さを、相方の勘太郎が、巧妙に引き出す。
 昼の部のロケット団は、若さ、スピードが売り。ホームランのようなベテランは、間の可笑しさが絶妙。どちらも、好きだなぁ。

 ここで、二階席が開いた。

林家鉄平 漫談(「披露宴の司会?」) (13分)
 修業時代、とはいえ、落語の稽古はあまり行わず、結婚披露宴の司会をやっていた、ということでいくつか逸話を披露。あまり面白いとは、言えない。ネタやりましょうよ。

柳家さん八『長短』 (15分)
 寄席でのこの人の十八番の一つ、と言えるだろう。マクラの女房が外してあったさし歯を箸置きにしていた、というのはネタではなく、実話か^^

ペペ桜井 ギター漫談 (10分)
 あえて書くが、声も聴きづらくなってきたし、ギターの音も歯切れが悪くなってきた。しかし、昭和10年生まれ、十月で83歳になる芸人さんが復帰した姿を見ることができるだけで、私は嬉しい。

吉原朝馬『源平盛衰記』 (14分)
 昨年6月の居続けでも聴いているネタだが、あの時と感想は大きく変わらない。
 遊びの出来るネタにしては、それほど笑えない。そうそう、元素記号の覚え方、私のとは、違うなぁ^^

柳家小里ん『二階ぞめき』 (14分)
 この人が、仲入り。それでも、この短時間での高座。とはいえ、蛙の女郎買いのマクラもしっかり入れてこの噺。仕懸けが八橋だから懐かしい、なんてぇ科白、なかなか聴けない。
 毎夜吉原に行く若旦那、番頭が意見をすると、冷やかすのが好きなんだから、家に吉原があるなら出かけない、と言うので、腕のいい大工に二階に吉原らしきものを作らせる、という落語ならではの内容。見せ場、聴かせどころは、この若旦那の一人芝居。
 志ん生や演じながら、全部一人で演んなきゃならないから大変、などの一言でも笑わせる。小里ん、短いながら、好高座。こういう噺、大好きだ。

柳亭こみち『浪曲社長』 (13分)
 夜の部のクイツキはこの人。
 円歌による、なんとも古~いネタを演じてくれた。
 音源では聴いているが、生の高座でこの噺は、作者も含めてこれまで、機会がなかった。
 さすがに、クスグリのいくつかで「若いお客さんには、分からないぞ」なんて自虐的に言いながらも、なかなか楽しい高座。
 今年一月の池袋で『虱茶屋』を聴いているが、この人、いろんな噺に挑戦しているね。

柳家小菊 粋曲 (12分)
 「両国風景」ではなく「上げ潮」で締めたが、珍しいのではなかろうか。
 こみちの後に登場しても、やはり、寄席の彩りだ^^

五街道雲助『粗忽の釘』 (13分)
 上席の池袋と同じネタに遭遇。もちろん、楽しい高座なのだが、出来るものなら別のネタに出会いたかった^^

桂南喬『出来心』途中まで&師匠小南の思い出 (12分)
 膝前は、大好きなこの人。ネタを三分の一位進めたとことで、前座がネタ帳を持って出て来た。ネタがツイたようだ。ということは、私が入場する前になるなぁ。
 開口一番ではないだろうし、二ツ目でもなかろう。きく麿か文蔵の代演の燕路だろうか。
 南喬も、他のネタを急いで考えていたようだが、持ち時間を考え、前座時代の師匠先代桂小南の思い出を語ってくれた。
 真夏の地域落語会がハネたあとに喉が渇いたので、師匠に言われて自動販売機で飲物を買ったのだが・・・という二つの逸話の内容は、秘密。
 こういうハプニングも、寄席の楽しみだねぇ^^
 今年の特別賞候補として、朱色を付けておく。

鏡味仙三郎社中 太神楽 (12分)
 三人で登場。いつものように、膝代りの役割をしっかり果たす。
 居続けの身としては、流派は違うとはいえ、昼と夜、どちらにも太神楽があるのは、ちょっと残念^^

柳家小三治 マクラ&『小言念仏』 (28分 *~21:00)
 あまり体調が良くない、サッカーのせいで、と切り出す。
 なるほど、観てるんだね。
 ポーランド戦について、「最後は蹴鞠みたいになって」というのは、流石の形容だ^^
 楽屋でもサッカーの話題になっているようだ。いろいろサッカーの話題が続いたが、
 「やめましょう、この話」、というのが二度あっての約20分のマクラの後、約10分の本編へ。
 泥鰌が煮えたぎる鍋の中で腹を出して死んでいると聞いてからの、なんとも言えない微笑が、この噺の要諦かな。
 元気で何より、という高座。


 ほぼ八時間の、居続け。

 初めて聴く噺もあったし、小三治ほか、元気な姿を見るだけでも嬉しかった人も何人かいたなぁ。
 寄席に欠かせない中堅どころも充実し、歌奴や一之輔、こみちなどの元気な高座にも出会えた。

 尻は痛かったが、それだけのことは、あったかな^^

by kogotokoubei | 2018-07-01 20:15 | 寄席・落語会 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛