噺の話

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 昨日は、日曜恒例のテニスが都合により休み。

 ということで、池袋か、こっちの会か迷っていたが、落語協会のサイトで、池袋はお目当ての主任菊志んがお休み。
 ネットで国立の二人会の空席がありそうなのを確認し、電話で予約。
 それにしても、「志ん輔の会」が、ネットでも予約できるようになったとは驚きだ。

 そうそう、昨年も、同じ時期の日曜に雨でテニスが休みになり、行っている会。2015年4月にあった会にも行った。
 この二人会とは縁がありそうだ。
2017年7月31日のブログ
2015年4月30日のブログ

 昨年の会では、志ん輔の『三枚起請』と龍志の『酢豆腐』が良かった。

 この会は、二席ともネタ出しされている。
 龍志が『片棒』『らくだ』、志ん輔は『船徳』『厩火事』。
 
 一時開演だが、少し早めに出かけ半蔵門駅と永田町駅の間にある中華料理店で昼食をとって、十二時少し過ぎに会場へ。一階受付でチケットを入手。
 ネットで九割位が埋まっていたので、席はお任せしていたが、十列目の中央ほどの良い席だった。
 
 いったん出てコンビニでアイスコーヒーを買ってから、演芸場に戻った。

 一階喫煙室に入ると中に主催者の方もお一人いらっしゃって、結構会話が弾んだ。
 詳しい内容は、内緒^^
 
 階段を上がって会場へ。結果として実来場は八割位だったろうか。

 出演順に感想など。

桃月庵ひしもち『転失気』 (14分 *13:00~)
 昨年六月末広亭の『平林』以来。
 あの高座でも感じたが、見た目のひ弱さとは違って語り口はしっかりしている。芸人らしい雰囲気も醸し出しており、なかなか楽しみな人だ。

立川龍志『片棒』 (27分)
 ケチは地獄に落ちて、それも暗闇地獄。しかし、真っ暗なのに平気で歩けるのは、爪に灯をともしているから、なんていう洒落た小咄などのマクラから本編へ。
 三人の息子の誰に家督を譲るか悩む赤螺屋ケチ兵衛、自分が死んだらどんな弔いをするかで決めようとする。
 長男の金は、「世間に笑われないような弔いを」、と大豪華版。通夜は二晩、本葬は本願寺か増上寺、お土産は一流料理屋の料理を本漆の三段の重箱に詰め丹後縮緬の風呂敷で包む。足代として一人に二万ほど包む、合計一人十万ほどかけて五、六千人呼ぼうというバブルな案。ケチ兵衛が胸をおさえ、「出てけ!」と怒鳴るのも頷ける。
 この噺の聞かせどころに次男、銀の場面。江戸っ子龍志の持ち味が生きる。「あっしは、誰もが驚く、色っぽい弔いを出します」と、まずは紅白の幕を家の周囲に張るところから始まる。
 その色っぽい弔い行列の先頭は、頭(かしら)ご一行の木遣り。新橋、葭町、柳橋の芸者連の手古舞が続く。
 山車には算盤を持ったケチ兵衛人形。
 神輿がやって来て、♪テンテンテレツク、♪ワッセワッセ、♪チャンチャカチャンとなんとも賑やか。
 木遣りから神輿までの擬音の聞かせどころは、さすがに客を飽きさせない。
 花火が上がり、銅鑼の音で周囲が静まって弔辞。最後は万歳という弔いだと聞いてケチ兵衛、またも「出てけー!」
 「あいつは私の血じゃない」「婆ぁの血だ」というケチ兵衛の科白がなんとも可笑しい。
 さて最後は、三男の鉄。「仕方がありませんから、弔いは、出します」で、ケチ兵衛は最初がっかりするが、次第に鉄のケチぶりに頷く。「出棺を十時と決めさせていただきます」という鉄の言葉に、「今から時間まで決められると、なんか淋しくなるねぇ」の一言が、客席から静かな笑いをとる。結構、ご高齢のお客さんが多い会場だった。十時と言っておいて都合で変わったと八時に出棺してしまえば、酒も肴も出さなくていい、という鉄のアイデアにケチ兵衛の「えらい!」で、客席から大きな笑い。棺桶は菜漬けの樽、という鉄に、ケチ兵衛が「おまえ、親こうこ、なんて洒落かい」と言うのに対し、鉄が「いえ、臭いものには蓋」で、またまた会場爆笑。
 鉄が「菜漬けの樽を荒縄で巻いて」の言葉に「まるで罪人だね」と言うケチ兵衛だが、鉄のケチぶりに次第に感心していく。そして、サゲ。
 見事に三人の個性を描き分け、なかでも次男の銀が秀逸。
 五月に聴いた横浜にぎわい座での古今亭菊丸のこの噺も見事だったが、龍志も負けてはいない。
2018年5月2日のブログ
 菊丸は実に丁寧に三人の息子を描き、なかでも次男の唄が秀逸だった。その菊丸よりは龍志が描く銀のぞろっぺいな姿も、まさに江戸っ子で悪くない。江戸の風と粋、そんなものを感じさせてくれた高座、今年のマイベスト十席候補とする。

古今亭志ん輔『船徳』 (40分)
 隅田川の花火がこの日に延期になったことから、浅草の行きつけの喫茶店で聞いた花火に関する地元の人たちの会話などのマクラから本編へ。
 最初に書くが、この噺も二席目も、志ん輔の工夫が明確に表われた高座だった。
 冒頭は、船頭になりたいと言う徳と親方の会話から、船頭たちが集まっての勘違い懺悔の場へ。このあたりは、本来の筋書きと大きく変えていないが、なよなよした徳の姿が、とにかく可笑しい。
 さて、四万六千日。客二人を乗せた徳。
 船宿の女将が「なにかあっても、若旦那だけは無事に帰ってきてくださいよ」で、蝙蝠傘の客が「おいおい、何か言ってるよ!?」とおびえる。
 もやいを解いて、なんとか出発したものの竿を流してしまい櫓へ。同じところを三度回って、ようやく少し落ち着く。土手を歩いている紗の羽織のい~い女に見とれていたが、連れの男がいてがっかりする場面などは、好きだ。そのすぐ後に竹屋のおじさんを見かけて声をかける。おじさんが心配そうに「大丈夫か~い」と言われ、傘の男が、またまた不安になる。
 船と土手の高低さが伝わり、高座に奥行が出る。
 煙草の場面がないままに石垣へ。蝙蝠傘を犠牲にして難を逃れたが、傘の客の怒りはおさまらない。この時の徳の“切れ方”は、師匠志ん朝よりは、兄の馬生のそれに近いように感じた。
 そして、煙草の場面が登場。これは、師匠とは順が逆。しかし、違和感はない。「汗が目に入ってしまって」、という場面は割愛。
 しばらく静かになって客が徳を見ると、もう駄目。
 「もう、やだ~」「やだ~」「やだ~、おりて!」
 前半に造形していた、なんとも、ナヨナヨした徳の姿とつながる徳の姿。駄々っ子の徳、なのである。
 サゲは替えていなかった。
 通常の筋書きを入れ替え、また、徳の人物造形にも工夫があった高座。私は、志ん輔落語が出来上がりつつあるような高揚を感じながら聴いていた。今年のマイベスト十席候補としたい。

 ここで、仲入り。

 さて、一服して後半戦へ。開演前に喫煙室で楽しくお話ができた方は、仲入りの営業でお忙しいだろう、さすがにいらっしゃらなかった^^

 さて、後半戦。

古今亭志ん輔『厩火事』 (22分)
 一席目に続き、浅草の喫茶店における出来事のマクラ。ネタと関連性のある笑えるものだったが、その内容は、秘密。
 この噺でも志ん輔の工夫が見受けられた。
 お崎夫婦の喧嘩は、お崎さんが休みで大好きな芋(やつがしら)を茹でていたら、「また、芋か」と旦那が言うことから始まったという設定。夫は刺身好き。
 他にも工夫があって、お崎さんの夫について仲人の旦那が、「あれは、うちの二階に居候していたのを、女房の髪を結いに来たお崎さんが一目惚れして、あんな遊び人はやめなと何度も言ったのを聞かずに一緒になったんだ」と二人の馴れ初めを明らかにした。加えて、「元々、腕のいいやつなんだ、一人でも食っていける、いいよ、別れな別れな」という旦那の科白がある。しかし、何の腕がいいのか、説明がない。大工、左官・・・・・・。聞き逃したのかなぁ。いや、言わなかったはずだなぁ。
 私は、こういうことに「?」が付くと、なかなかその後の噺に集中できなくなるのだ。どうも居心地が悪いまま聴き続けていた。また、麹町のさる殿様が、大事な皿を抱えたまま階段から落ちた女房に向かって「皿は大丈夫か、皿は皿は~」と○○回も皿ばかり心配した、という回数を言う場面で噛んでしまったのも、残念。
 お崎さんの夫が一人で刺身を肴に酒を呑んでいた、という話は割愛。冒頭に、素性を明らかにしているから、不必要とも言えるが、この改作は評価が分かれるところだろう。
 一席目の工夫は、噺の骨格を壊すことなく楽しめた。しかし、こちらの工夫は、まだ改良が必要と感じた。

立川龍志『らくだ』 (44分 *~15:47)
 マクラでは、子供の頃、近所には怖い、おかしなおじさんがいた、と振り返る。
 ベーゴマの台のことを「床」と言うのを初めて知った。実は、北海道で過ごした少年時代、私の近所ではベーゴマは流行っていなかったのだ。もっぱら、ビー玉やパッチ(メンコ)だったなぁ。
 さて、本編は、通し。
 龍志のこの高座でも、気になる言葉不足があったなぁ。
 らくだの兄貴分、丁(の)目の半次が屑屋の久さんに月番のところに行かせた後、「もう一軒行ってこい」と言うのだが、「大家のところへ行って来い」とは言わずに次の科白につなげた。その途中で大家の名は出たのだが、ちょっとリズムが悪くなったのは否めない。
 大家のところでのカンカンノウも、少し短縮バージョンだったかな。もう少し見たかった^^
 八百屋で棺桶代りの名漬けの樽を借りて来るのだが、これは一席目とツク、と私は思う。ツクことを徹底して嫌う志ん輔は、龍志の二席のネタを聞いて、指摘しなかったのだろうか。
 もちろん、良い場面もたくさんあった。久さんが半次に清めの酒を注いでもらい、三杯目から主客逆転する当たりは見事だった。らくだの髪を剃る場面や、落合の火屋に向かう場面なども楽しく、私の席近くの女性陣などは大笑いしていた。
 全体としては、もちろん悪くない高座ではあったが、さて、この人にとってこの噺がニンなのかどうか。
 一席目の、大いに江戸の風と粋を感じた高座の余韻の方が、強く残っていた。


 はねて残暑きびしい中を帰宅。

 台風がそれて、なんとか今月も落語会に来ることができた。

 それにしても今回の台風12号の進路は不思議だ。

 なにも、急カーブしてまでこの前豪雨被害のあった西日本を襲わなくてもいいだろうにねぇ。
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by kogotokoubei | 2018-07-30 12:27 | 寄席・落語会 | Comments(6)

大山は、本日夏山開き。

 先日、中込重明さんの本から『大山詣り』の原話について書いて記事で紹介したように、今日は、大山の夏山開き。

 前の記事でも引用したが、神奈川県のサイトの観光情報のページから、伊勢原市観光協会のフライヤーをダウンロードできる。
神奈川県サイトの該当ページ

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 暑い山開きの日となったが、台風による雨予報の明日よりは、ましだろう。

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 榎本滋民さんの『落語小劇場』(下)では、この噺が最初に載っている。

 夏山にも、登る時期で名前がついている。

 六月二十六日から七月七日までを初山、八日から十三日までを間(あい)の山、十四日から十七までを盆山。旧暦だから盛夏から初秋である。
 2014年7月17日、私が初めて行った柳家小満んの会でこの噺が演じられたが、その日いただいた栞には、間の山、盆の山の期間は同じだが、初山は七月一日から七日、と書かれているなぁ。
2014年7月18日のブログ
 あの日は、とにかく『有馬のおふじ』が素晴らしかったことを思い出す。
 同じ山岳信仰にまつわるネタだが、富士が大山に勝ったなぁ^^

 伊勢原市のサイトには、夏山の区分が新暦で紹介されている。
伊勢原市のサイトの該当ページ

 その内容によると、7月27日から31日を初山、8月1日から7日を七日堂、8日から12日を間の山、13日から17日を盆山と言うらしい。
 
 七日堂というのもあるんだね。

 旧暦の行事を新暦に替えているので、微妙なズレがあるのは、しょうがないか。

 しかし、やはり、こういった年中行事は、旧暦で行なって欲しいと思う。
 旧暦なら今日は六月十五日。
 山開きは、まだ先だ。

 江戸の長屋の連中の楽しみであった大山詣りは、多くの川柳からも庶民に身近なものだったことが伝わる。

 小満んの会でいただいた栞にも、「盆山の坂を掛念仏で越え」などの川柳が紹介されている。

 では、出発前の準備を含め、『落語小劇場』から。

 両国橋東詰め(小石川関口にもあった)の垢離場で水垢離を七日間とって精進潔斎する。
 罪障懺悔の唱えごとを一千回くり返すので千垢離というが、数を忘れないように緡(さし)を一本一本川に流す。よく流れるか渋滞するかで吉凶を占った。 
  百度目のさしは目より高く上げ
  投げるさし十九本目に土左衛門
  屋根船の唄垢離場につぶされる
  清浄なへのこ南無帰命頂礼
  屋形をみまいおえるぞざんげざんげ
 涼み船の美女を見るな、へのこ(男根)がおえる(勃起する)とどなっているのだから、どんな野郎たちか想像できるだろう。
 上がると、伊達染めの浴衣か白い行衣の揃いで、納め太刀と称する七八寸から一丈あまりの木刀をかつぎ、いよいよ夜中に江戸を立つ。中には当時年二期(盆と暮れ)だった勘定の清算がつかず、借金とりを避けるために大山まいりに加わる者も多かった。
  盆前の借り太刀先で切り抜ける
  納まらぬ頭でかつぐ納め太刀
  十四日抜き身を背負って夜這する
  所詮足りないと大山さして行き
  十四日末は野のなれ山へ逃げ
 この連中は借金のがれではなく、名人四代目橘家円喬以後この落語を演じて絶品とうたわれた四代目橘家円蔵は十三人、近年では第一人者六代目三遊亭円生は十八人としているが、とにかく十数人の職人の楽しい団体旅行である。
 
 江戸時代のこの時期の気候はどうだったのかはよく分らないが、猛暑での山登りは辛かったに違いない。

 しかし、登った後の楽しみが多かったからなんとか我慢できたのな。

 さて、現代では、山詣りの風習も、その後の楽しみもほなくなった。
 
 私にとっての楽しみは、落語を聴くことと、その後の居残り会が、関の山^^
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by kogotokoubei | 2018-07-27 12:53 | 落語のネタ | Comments(0)
 来週31日の火曜は、火星が大接近する。

 毎日新聞のコラム「余録」が、なかなか興味深い内容だった。引用する。
毎日新聞の該当コラム

「この節毎夜二時ごろに現出せる赤色の星を遠めがねにて見れば、西郷隆盛(さいごう・たかもり)氏が陸軍大将の官服を着せる体(てい)なりと。何人(なんびと)がこれを言い出したるか、かかる妄説さえ伝えに伝えて、物干棚(ものほしだな)に夜を更(ふ)かす人のある」▲1877(明治10)年8月3日、「西郷星」の出現を伝える新聞記事である。これ、実は9月3日に地球に最も近づいた火星の大接近であった。西南戦争で政府軍に追いつめられた西郷さんが自刃したのは、同じ月の24日のことだった▲火星が5630万キロの距離まで接近したこの時、二つの衛星が見つかり、「運河発見」の騒ぎもあった。一方、今夏の火星大接近の最接近距離は5759万キロ、西郷星よりは少し遠いものの6000万キロを切る接近は15年ぶりだという▲星の見にくい東京でも、このところ夜になると南東の空でひときわ赤い輝きを見せている火星である。最接近日となる7月31日にはマイナス2・8等にまで明るくなり、見かけの大きさも遠い時の約7倍になって夜半の南の空に輝く▲今では「スーパーマーズ」とも呼ばれる火星大接近だが、最接近後も9月上旬ごろまでマイナス2等を超える輝きを保つという。昔の人が西郷さんや火星人の運河に見立てた表面の模様の変化を天体望遠鏡で目にするチャンスである

 月にはウサギ、火星には西郷さんがいる、ということか。

 国立天文台のサイトに2003年以降の接近日と距離などが掲載されているので、引用。
国立天文台サイトの該当ページ


 年月日   時刻(日本時間) 地心距離  視直径(秒角)明るさ(等)

2003年 8月27日   18時51分   5,576万km   25.1    -2.9
2005年10月30日  12時25分   6,942万km   20.2    -2.3
2007年12月19日  8時46分    8,817万km   15.9    -1.6
2010年 1月28日   4時01分    9,933万km   14.1    -1.3
2012年 3月6日    2時00分   10,078万km   13.9    -1.2
2014年 4月14日   21時53分    9,239万km   15.2    -1.4
2016年 5月31日   6時34分   7,528万km   18.6    -2.0
2018年 7月31日   16時50分   5,759万km   24.3    -2.8

 「余録」にも書いているが、次に5,000万km台に接近するのは、2035年。

 何気なく調べてみたら、2003年には、ヨーロッパは猛暑で、なかでもフランスで被害が甚大だった。
 Wikipediaの「ヨーロッパ熱波(2003年)」から引用する。
Wikipedia「ヨーロッパ熱波(2003年)」

フランス

この熱波の影響で、フランス国内では元々夏に比較的暑くなる地域として知られていたヨンヌ県では、2003年8月初旬に8日連続で40℃以上の気温が観測された。

フランスでは75歳以上の高齢者を中心に14,800人以上が熱波により死亡している。

フランスは、特に北部地域において、夏でも基本的にはそれほど暑くならない。このことが人的被害が大きくなった原因と考えられている。と言うのも、突然の熱波に襲われたため、ほとんどの人が脱水症状に陥った場合の対応ができなかったこと、多くの住宅や施設に空調が備えられていないこと、自然災害や人災による緊急マニュアルが策定されていても高温は対象外であったことが挙げられる。

この熱波をきっかけに、フランス政府は全国熱中症警戒情報システム(SACS)の開発が決定された。

 大変だったんだねぇ、15年前のヨーロッパ熱波。

 15年前、そして、今年の猛暑、もしかしたら火星大接近が関係しているのかもしれない。

 近づいてくるのが、なんたって「火」の星だからね。


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by kogotokoubei | 2018-07-25 12:53 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 先週二十日が土用の入りで、かつ丑の日。

 なにかと鰻の話題が多かったが、今になって、西日本新聞のコラム「春秋」の内容に気が付いた。引用する。

西日本新聞の該当コラム

江戸の頃から庶民に好まれたウナギは落語の題材にも…
2018年07月21日 10時34分

 江戸の頃から庶民に好まれたウナギは落語の題材にも。その一つ「鰻(うなぎ)谷」。へそ曲がりの魚料理屋の主人は、不漁続きで他の料理屋が休んでいると知って、店を開けてやろうと考えた。が、肝心の魚が手に入らない

▼ふと川を見るとヌルマがうじゃうじゃ。食べると命がないとされ、誰も見向きもしない魚である。仕方なく捕まえて帰り、かば焼きにしてみたら、香りも味もとびっきり

▼ヌルマを店で出したと知れば、客は「そんなもん食べられるか」と怒りだす。そこで女房が「私の手料理です」と助け舟。客が「うまいなぁ、お内儀(ないぎ)」と繰り返すので「お内儀」が「うなぎ」に聞こえ、いつの間にやらヌルマがウナギになったとか-

▼きのうは土用の丑(うし)の日。落語の中では川に「うじゃうじゃ」だったウナギだが、今や高根の花。ニホンウナギは絶滅が心配されるほど数が減り、養殖用の稚魚シラスウナギも記録的な不漁。価格高騰で「そんなもん食べられるか」と庶民の嘆きが聞こえそう

▼特定の日にウナギを大量消費する習慣を見直そうとの動きも。「牛肉やアナゴで精を付けて」とPRしたり、サンマやサバのかば焼きで代用したり、魚のすり身をウナギのかば焼きそっくりに仕上げたり

▼品薄、高値で密漁や違法取引も横行しているという。貴重な資源を守る助け舟と思えば、時にはウナギが「ウナギふう」になっても「うまいなぁ」といただけよう。
=2018/07/21付 西日本新聞朝刊=

 この「春秋」の内容、せっかく珍しいネタを取り上げてくれたのはいいのだが、少し、言葉足らず。

 この店の名が、菱又ということから、「魚偏に日四又」で鰻となったということも、説明が欲しいところだ。
 また、「私の手料理です」と機転をきかせた女房の名が、お谷さん。それで鰻の下へ谷の字を書いて「鰻谷」となり、菱又のあった長堀南通りが鰻谷と名が変わった、ということも加えてもらいたいのだが、そこまで書いていては字数が足らないのも事実。

 補足した内容は、上方落語を調べる上で度々頼りにしている「世紀末亭」さんのサイトにある、橘ノ円都の1963年の高座の記録を元にした。
「世紀末亭」さんサイトの該当ページ

 円都がマクラで、この噺を演じるのはほぼ自分だけ、と語っているように、実に珍しい噺であり、西日本新聞の春秋の筆者の方が、よくぞ取り上げてくれたものだ。

 橘ノ円都は、二代目桂小南の本『落語案内』について書いた記事で、小南の上方での師匠として紹介した。
2018年2月4日のブログ

 膨大なネタ数を誇っていたと言われる円都をして、「もう、お前にやる咄はないわ」というほど稽古してもらった小南。
 しかし、小南の残した音源に、私が調べた範囲では、『鰻谷』は見当たらない。
 稽古をしてもらったものの、東京では、やはり演りにくいネタだったということだろうか。

 今年は夏土用の丑の日が、二日ある。「二の丑」は8月1日。

 私は、何度か書いてきたが、土用の丑の日は、鰻を食べない日と決めている。

 別に牛肉やアナゴの「鰻もどき」を食べようとも思わない。

 そうだ、土用には「土用しじみ」だってあるじゃないか。
 「土用しじみは、腹ぐすり」と言われてきた。
 夏バテ解消、二日酔にも最適。

 しじみは良質なたんぱく質を豊富に含んでいる。このたんぱく質を構成しているのが、アミノ酸の一種であるタウリン、アラニン、グリコーゲンなどで、肝臓の働きを助けてくれる作用がある。
 その他、ビタミンB2やカルシウム、鉄、亜鉛、マグネシウムなど、暑い時期には汗とともに排出されて不足しがちなミネラル分も豊富なのだ。
 「腹ぐすり」と言われていたのには、これだけの訳がある。

 とはいえ、そのしじみが、果たして「やまとしじみ」なのかどうかが、実に怪しい。
 結構、いろんなお店や商社などで、産地偽装をしてきた過去もある。

 ロシア産を青森の十三湖産だなんて嘘をついていた業者もある。
 
 そのうち、「土用しじみは、腹ぐろい」なんて言われるようにならなきゃいいが。
 まぁ、産地を正直に表示してくれればいいわけで、中国産だろうが北朝鮮産だろうがロシア産だろうが、そのしじみが安全ならば、私はいただくけどね。

 もうやめましょうよ、一年のうち一日か二日に集中して、日本全国で希少な鰻を食べるなんて馬鹿なことは。

 しばらく我慢して、また川に天然ウナギがたくさん見受けられるようになってから、食べるようにしてはどうだろうか。

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by kogotokoubei | 2018-07-23 12:22 | メディアでの落語 | Comments(4)
 来週7月27日は、大山の夏山開きだ。

 神奈川県のサイトの観光情報のページから、伊勢原市観光協会のフライヤーをダウンロードできる。
 その中の夏山開きの案内部分をご紹介しよう。
神奈川県サイトの該当ページ

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 「お花講」とは、なんとも可愛い名前だこと。

 落語の『大山詣り』(上方では『百人坊主』)については、ブログを始めて間もなく、記事を書いた。
2008年7月25日のブログ
 
 あらためて『大山詣り』に関して棚の本をめくっていて、あの噺の元ネタについて認識を新たにした。

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中込重明著『落語の種あかし』(岩波書店)

 中込重明さんの著『落語の種あかし』は、岩波書店から2004年6月に発行された。
 しかし、著者の中込さんは、本書の発行を待つことなく、同年4月に三十九歳の若さで旅立っている。
 中込さんには、他にもう一冊、亡くなる直前に書かれた『明治文芸と薔薇』という著作がある。
 どちらも、延広真治さんの支援によるものだ。
 
 他に新書版の入門書的な本、「落語で読み解く『お江戸』の事情」(青春出版社)があって、同書からは拙ブログで何度か引用している。

 田中優子著『江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか?』と比較した記事を書いたこともある。
2010年6月12日のブログ
 杉浦日向子さんの著作も含め、江戸時代にどれくらいご飯を食べていたか、なんて記事も書いた。
2017年9月16日のブログ

 さて、『落語の種あかし』は、中込さんの遺作と言ってよいと思うが、その内容には、落語の原話を探るための、著者の執念のようなものを感じてしまう。

 では、もうじき夏山開きとなる『大山詣り』は、どんなルーツを持っているのか、本書から引用したい。
 さて、落語「大山詣り」の原話だが、他の落語に較べて、これまで諸書に指摘が見られ、広く知られている。その一つ、興津要『日本文学と落語』(1970、桜楓社)の「西鶴と落語」では、典拠を狂言「六人僧」として、これから、井原西鶴の浮世草子『西鶴諸国ばなし』(貞享二年・1685刊)巻一・七「狐四天王」へ、さらに滝亭鯉丈の滑稽本『大山道中膝栗毛』をはさんで、現行の上方落語「百人坊主」・東京落語「大山詣り」へ、という系譜を説明している。他の文献でも一様に、「百人坊主」の出典同様、「大山詣り」の原話を狂言「六人僧」としている。現在考えられるところで最も古い、この種の話柄である「六人僧」から、順に見てゆくことにした。古川久他編『狂言辞典』(東京堂出版)事項編より、その梗概を引用する。
   諸国仏詣を思い立ち、同行二人を誘って旅に出た男(シテ)が、仮にも怒る心など
   持つまいと提案し、互いに誓い合う。途中辻堂で一休みし男が寝入ると、他の二人が
   男の髪の毛を剃り落としてしまう。目をさまし驚くが誓言の手前怒れない男は、このような
   姿では具合が悪いからと一人別れて帰宅し、妻たちを呼び集めると、高野への途中紀ノ川で
   二人が溺れ死んだので、一人残った申し訳なさに僧形になって戻ったと言う。二人の妻は
   夫の菩提を弔おうと尼になるので、男はその髪を高野山へ納めようと再び旅立つ。そして
   高野山で同行の二人に出会うと、三人の仏詣をなじみの女に会いにいったと諫言する者が
   あって、二人は妻のさし違えて死んだと言い、証拠だと髪を見せる。二人は妻のあとを
   弔おうと剃髪する。さて帰郷すると、二組の夫婦は互いの生存を驚き喜び、男に詰め寄る。
   そこへ男の妻も尼になって出てくるので、これも仏の導きであろうと、出家三人・尼三人、
   男女別々に霊場を巡り後世(ごせ)を願おうと、名残りを惜しみ謡留めにする。(三百番)

 ここに引いた文字が示すとおり、ほぼ「大山詣り」の原形が完成されてしまっている。

 狂言に似た話がある、ということは薄々知ってはいたのだが、その内容までは知らなかった。

 中込さんのこの本、一度はざっと読んでいたはずなのだが、狂言の内容までは覚えていなかった。

 中込さんが偉いのは、実に粘り強く、一つの落語ネタのルーツを探ろうとしていること。
 この後、『西鶴諸国ばなし』の「狐四天王」と「お霜月の作り髭」の紹介が続いて、同じく西鶴の浮世草子『懐硯』の「水浴の涙川」の考察もしている。
 しかし、これらの話は、寝ている間に悪戯をする、という点で「六人僧」との類似点はあるものの、仲間の女房までを巻き込んでの復讐ネタとしての趣きはない。

 中込さん、まだまだ負けず(?)、十返舎一九の黄表紙『滑稽しつこなし』(文化二年・1805刊)の挿話に『大山詣り』の原形を見出そうとする。

 この挿話は、神田八丁堀の長屋に住む左次兵衛・太郎兵衛・権兵衛が江の島参詣に行って、という設定だが、ほとんど「六人僧」と同じ筋書き。

 結論として、狂言「六人僧」から着想を得た一九の『滑稽しつこなし』の挿話を母体として、落語「大山詣り」が産声をあげたとする見解を、「大山詣り」成立の主流としたい。
 ところで、一九よりも古い談義本に「六人僧」を生かし、さらに「大山詣り」の趣向にきわめて類似した説話があるので、その粗筋を引いておきたい。滑稽本『俗談唐詩選』(宝暦十三年・1763成立)巻之一「飲中八仙は口頭の交り」がそれである。

 「飲中八仙は口頭の交り」は、江戸橋辺の両替店の主人・知無多屋上戸郎(ちんたやじょうごろう)と酒飲み仲間の他の七人と屋形船に乗って・・・という設定で、上戸郎が髪の毛を剃られた後は、こちらも「六人僧」とほぼ同じ内容。

 『俗談唐詩選』の方が、一九の『滑稽しつこなし』より古いのだが、中込さん、このように書いている。

 これは、『滑稽しつこなし』に先行する、「大山まいり」と同趣向の説話として位置づけられる。ただ、一九と落語との深い関係を考えれば、『俗談唐詩選』から落語への直接的影響について、一九からの影響以上に強く言うわけにはいかないであろう。

 なるほど、十返舎一九と落語との深い関係、か。

 一九のことを、もう少し知りたくなった。

 この後、注記が二頁半続く。
 なにごとも疎かにできない、著者の個性が察せられる。

 「六人僧」から「滑稽しつこない」への飛躍、そして「大山詣り」という傑作落語への発展を知ることは、実に楽しい読書体験だった。

 もちろん、その噺を、多くの名人上手だちが、高座で磨いてきたからこそ、今も、我々が楽しむことができるわけだ。

 音源では、迷うことなく古今亭志ん朝。
 「志ん朝十八番」に、私はこの噺を入れている。
2012年2月3日のブログ

 現役では、多くの噺家さんが演じるが、なかでも春風亭一之輔が出色。

 まさに、この噺の似合う季節になってきたなぁ。

 もう少し、暑さがやわらいだら、寄席か落語会で出会いたいものだ。


 最後に本書の延広真治さんの「あとがき」から、少し引用。

 なお、文中の『会報』は、諸芸懇話会のそれである。

 『会報』二百三十六号(平成十三年十一月刊)に「追悼・古今亭志ん朝」を草して中込君は、悲嘆に打ちひしがれながらも次のように結ぶ。
   やはり、ここで、落語を見捨てるわけにはいかない。だから、精一杯力の限り新しい
   落語家に期待しよう。再び落語の黄金時代の到来が来ることを信じて、その日まで
   生きてゆこう。
 なんと子供たちが、毎朝「寿限無~」を唱える日がやって来たではないか。この寿限無世代が十年たてば木戸銭を持って寄席に通いだす。君の信じたとおり、「黄金時代の到来が来る」(管理人注:“到来が来る”に傍点)のは必至である。どうかその日を中込君、双眼で見定めてくれたまえ。そして傍点部のような表現が本文にも見受けられた場合には、手直ししたことを許してくれたまえ。

 四月二十一日 中込君三十九歳の誕生日に

 追記 四月三十日、中込重明君は白玉楼中の人となりました。奇しくも『明治文芸と薔薇』上梓の日でした。
 
 中込さんは昭和四十年の生まれ。延広さんは昭和十四年生まれなので、二回り以上も上なのだが、あとがきからは、同じ落語という芸を愛する同士としての熱い思いを感じる。

 残念ながら、中込さんの著作は、多いとは言えない。

 本書の内容は、今後も紹介していくつもりだ。

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by kogotokoubei | 2018-07-19 21:18 | 落語のネタ | Comments(0)
 なんとも暑い日々が続く。

 体温を越える暑さの地域もある・・・・・・。

 二年後の東京五輪は、この時期に開催される。

 兄弟ブログ「幸兵衛の小言」に、ほぼ一年前に書いた記事と重複するが、この暑さもあって、あえてこの件について。
 
 個々の競技を含む日程は、「2020東京2020」というサイトに詳細が掲載されている。
「2020東京2020」サイトの該当ページ

 7月24日が開会式だが、サッカーは22日から始まる。
 8月9日が閉会式。
 ちなみに陸上のマラソン女子は8月2日で、男子は閉会式の8月9日。

 昭和39年の大会は、ご存じのように、10月10日が開会式。
 旧体育の日。

 なぜ、こんな暑い時期の開催なのか・・・・・・。

 日本のJOCは「最高のパフォーマンスをしてもらうため7月24日~8月9日にした」と言っているようだが、猛暑が想定できる季節に、どうやって「最高のパフォーマンス」など期待できようか。

 実は、IOCのお達しなのだ。
 それには多分に商売の論理が影響している。

 IOCは開催都市に立候補する大前提として、7月15日~8月31日で開催することを求めている。

 それは、欧米のテレビで五輪の放送時間を確保するためなのだ。

 春先はMLBが始まるし、9月に入るとサッカーの欧州チャンピオンズリーグの戦いがあり、米プロフットボールのNFLも開幕する。

 IOCが夏にこだわるのは、これらとの競合を避けるためなのである。

 要するに、魅力的なプログラムのない“夏枯れ”に、オリンピックを開催させるのであって、そこには、開催都市(国?)の意向などは入る余地がない。

 オリンピックという素材をメディアに高く売るための、猛暑での開催なのだ。

 かつては、開催国が開催時期を決めることができた。
 昭和39年の東京五輪10月開催は、過去の天候を入念に調べ、選手が「最高のパフォーマンス」を発揮でき、また、観客にとっても過ごしやすい季節を優先した。

 今日では、選手のことも観客のことも二の次。すべては、商売のためなのである。

 では、前回のリオ五輪はどうだったのか。

 biglobeの「ZenTech」という旅行に関するサイトに、リオデジャネイロと東京の気温などの比較グラフがあったので、お借りする。
ZenTechサイトの該当ページ

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 リオ五輪は、8月5日から21日に渡って開催された。

 ご覧のように、8月の平均最高気温は、リオの方が東京より大幅に低い。

 一年中で、温暖差が少ないとはいえ、リオは南半球にあるから、季節なら冬なのである。

 安倍首相が、“原発はUnder Control”という嘘までついて招致した五輪だが、果たして、暑さという自然を、どうコントロールしようとしているのか。

 今、体温を越えるかという猛暑の中、「不要不急」の外出を避けるようメディアも伝えている。

 二年後のこの時期も、同じような天候が、十分想定できる。

 人間的な、そして自然と融和した発想に基づくならば、「不要不急」な場合には外に出るな、と言われるような30度を超える猛暑の時期に、五輪など開催するのは愚の骨頂ではないか。

 そもそも、二度目の東京五輪など開催する必要は感じないが、もし、開催するなら、もっと開催する側が主体的に時期なども選べるようにすべきでないか。

 IOCの利益のために五輪が存在すること自体が、問題。

 百歩譲って夏に開催するならば、少なくとも、国民に熱中症などの被害が出ないように最大限の対策を施して欲しい。

 二年後、猛暑の中を東京五輪観戦に出かけることを、政府は「不要不急」と言うわけにはいかないだろう・・・・・・。

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by kogotokoubei | 2018-07-18 12:36 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)

 NHKの大河「西郷どん」は、西郷と大久保役の俳優がそう悪くないと思い見続けてきたが、そろそろかな、と思っている。

 先週は、沖永良部島から戻った西郷が京に出向く場面だった。

 たしかに、久光は西郷嫌いであるが、あの煙管を噛む場面、多すぎる。

 史実では、あの後、久光は薩摩の京都藩邸の体制改革で西郷を軍賦役に登用している。
 そういったことも、しっかり表現すべきだろう。

 時代考証を担当する人も、史実とは違うことを認めているのだが、それって何か変でしょう。

 SmartFLASHの記事から引用する。
SmartFLASHの該当記事

 明治維新の英雄・西郷隆盛を鈴木亮平(34)が演じるが、「史実との違いを探せばきりがありません」と語るのは、鹿児島・志學館大学の原口泉教授(70)だ。
 『翔ぶが如く』(1990年)、『篤姫』(2008年)などの大河に携わり、『西郷どん』でも時代考証を担当。その原口教授自ら、史実との違いをツッコんでくれた。
 ということで、次のように史実と違う項目(フェイク)をあげている。

【フェイク1】西郷隆盛と主君の出会い
「第1回の放送で藩主・島津斉彬(渡辺謙)がお忍びで薩摩へ帰り、幼少期の西郷隆盛と出会います。しかし、当時斉彬が住む江戸から幕府の許可を得ずに帰るのは、不可能に近い。
 史実ではないので、『天狗』に化けて子供の西郷に会う、というような演出になっています。誤解がないように、番組の最後で、『このとき斉彬が薩摩に来た記録はありません』とナレーションを入れてもらっています」

【フェイク2】西郷は下戸
 主君・斉彬と西郷が飲み明かすシーンもあるが、「西郷は下戸です」。

【フェイク3】西郷家と大久保家の場所
 大河では、西郷家と盟友・大久保利通(瑛太)の家が隣同士という設定だ。
「実際には、150メートルほど離れていました」

【フェイク4】「妙円寺詣り」は夜
 島津義弘の武勇を偲ぶ地元行事、「妙円寺詣り」も描かれている。
「これは本来であれば、夜間におこなわれる行事です。キャストの小学生が夜のロケに出られないので、昼間に撮り終えたと聞いています」

【フェイク5】糸子は幼馴染みではない
 西郷は3人の妻を娶っている。3番めの妻が糸子(黒木華)だ。
「2人が幼馴染みという設定も史実に反します。脚本の中園ミホさんが『2人は子供のときに会わせたい』との希望でしたので、『まあ、いいでしょう』と」

【フェイク6】月照と西郷の関係
 林真理子氏の原作で、話題を呼んだのは僧・月照と西郷の関係だ。主君の斉彬を亡くし、絶望のあまり切腹を図る西郷を、月照が夜具に誘って慰める。尾上菊之助が演じる月照とのシーンは、どう描かれるのか……。
「2人の関係を、林さんは『ボーイズラブ』とおっしゃっていますが、私は月照と西郷は『一心同体』だったと思います。斉彬の君命を受けた西郷と、孝明天皇の勅命を受けた月照は、まさに志をひとつにしていた。男と男、男と女の愛など超えていたのです」

【フェイク7】糸子の奄美大島訪問
 物語の中盤で、妻・糸子が奄美大島に渡り、西郷の2番めの妻・愛加那(二階堂ふみ)とその息子・菊次郎と会う場面がある。
「時代考証の立場からは史実と違うと言いました。ですが、林さんはドラマ上、糸子と愛加那に、女同士で話をさせたかったと。これは歴史小説やドキュメンタリーではなく、新しいジャンルの物語だと思っています。あくまで西郷という人間を描いているのです」

 物語のプロット作りから参加した原口教授は、『西郷どん』で新しい西郷像を描こうと試みた。

 なんと、時代考証家が史実との違いを指摘してはいても、作家の意向で、ありえない出会いを捏造することを許しているということか。

 “新しいジャンルの物語”って、いったい何・・・・・・。

 朝の連続ドラマは、“特定の人物をモチーフとしたフィクション”と、嘘であると宣言している。まぁ、我慢しよう。

 しかし、大河は違うんじゃないの、と思っていたのだが。

 この時代考証家は、こう言っている。

「ぜひ、そういう番組を観ている若い人に観てもらって、新しい国づくりに役立ててほしいですね」

 嘘の歴史を押し付けておいて、何が“新しい国づくり”だろうか?

 そろそろ、このドラマからは撤退かな、と思っている。

 史実との明らかな違いが多いし、西郷隆盛を描くにあたっては不可欠な人物が登場しないなど、納得できないことが多すぎる。

 磯田道史も時代考証に名を連ねているのに、なぜそうなっているのか。
 彼もNHKの番組への出演が多いから、最近は人気タレントとして、了見が変ってきたのかもしれない。

 前半で一番ひっかかったのは、藤田東湖が登場しなかったこと。
 
 西郷にとって、斉彬を別とした恩師を二人あげるなら、橋本左内と、藤田東湖と言われる。

 ちなみに、「翔ぶが如く」では、元新国劇の大山克巳(旧芸名は大山勝巳)が藤田東湖を演じた。

 そして、「西郷どん」で配役でもがっかりしたのは、岩倉具視役。
 鶴瓶では、ちがうんだよねぇ、イメージが。第一に、私は彼を役者とは思っていない。
 ちなみに「翔ぶが如く」では、小林稔侍。

 15日の第二十六回「西郷、京へ」は、岩倉以外にも、いろいろと気になったなぁ。
 慶喜と久光の場面も、ああではないだろうと思う。

 そして、慶喜の側室が、あの女性とは・・・・・・。

 どうしても、女性を中心とするドラマにしようとする無理がある。

 特別番組に「翔ぶが如く」で西郷を演じ、「西郷どん」でナレーションをしている西田敏行が出演していた。鈴木亮平が映像で語っていたが、彼は「翔ぶが如く」の映像を見て、西郷役西田に政治的な長科白が多く、それをしっかり薩摩弁でこなしていたのことに驚いた、というようなことを言っていた。

 ということは、「西郷どん」には、政治的な科白が、ないということか。

 あの時期、登場人物に政治的な話がないはずはないが、それをあまり語らせていない、ということは間違いなかろう。

 妙に、間が多いのも気になる。

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海音寺潮五郎著『西郷隆盛』

 海音寺潮五郎の『西郷隆盛』を、読み返している。

 京に上った西郷と大久保の会話について。

「わしにも茶を下され。酒はあまり好きではなかのに、宴席となると、つい過ごしてしまう」
 と、西郷が言うと、大久保はみずから急須の茶を新たにして、ものなれた手で、淹れてくれた。
「ああ、うまい。もう一ぱい」
 重ねて所望してのんだ。
「京は茶もようごわすが、水がようごわすので、一しお茶がようごわすな」
 と、大久保もまたのんだ。
「菓子もうもうごわすな」
 むしゃむしゃと饅頭を、忽ち二つも食った。大久保は微笑してそれを見ていたが、西郷が三つ目に手を出したところで言う。
「食べながらでようごわす。用談にかかりもす」
「ああ、言うて下され」
 饅頭を食いながら、聞いている。
 大久保は極度に低い声になっている。それは久光のことであった。大久保の言うところによれば、薩摩の癌は久光である、頑迷で、まことにこまる、しかしながら、我々が多年の希望を達成するためには、藩の力を利用することは絶対に必要であるから、久光の機嫌を損なわないようにするしかない、それを考えたから、こうして特別に会うことにした云々・・・・・・。
「なるほど、わしがまたご機嫌を損ずるようなことをしはせんかと思われたわけでごわすな」
 と、西郷は笑った。
 (中 略)
「オマンサアは直情怪行、いつも信じるところを堂々と押して行くお人でごわすが、こんどはそれではいかんのでごわす。こまかな芸当が必要なのでごわす」
 西郷は瞑目して考えこんだ。しかし、これはやらなければならないことだ。この三、四年の間に幕府を倒し、日本の姿勢を立て直さなければ、日本は外国の餌食になってしまうことは確実なのだ。
「よろしい。やりもそ!」
 と、大きくうなずいた。

 
 この会話には、西郷と大久保の個性が、なかなか見事に描かれているように思う。

 「西郷どん」の中では、西郷も大久保も、あまりに表面的な人物としか描かれていないように思う。
 西郷には二枚腰、三枚腰のしぶとさがあることや、大久保は策士として西郷に大きな影響力があったことなど、もっともっと彼らを描くのなら、やり方があると思うなぁ。

 さて、大久保の助言を胸に西郷は久光との対面を終え、久光は在京の幹部を集めて、京都藩邸の組織を改造した。藩主名代は三男の薩摩図書、家老は小松帯刀、軍賦役を西郷が担うことになった。
 西郷の任ぜられた「軍賦役」の「賦」は「くばる」という意味だ。すなわち、軍事司令官の役目である。西郷ははじめて、天下第一の精兵をもって自任する薩摩藩兵の京都における総司令官になったのである。

 西郷に天が活躍する場を与えた京都で、これから内戦が始まる。

 さて、次週、禁門の変までは見ようか・・・・・・。

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by kogotokoubei | 2018-07-17 12:54 | ドラマや時代劇 | Comments(6)
 今日7月14日は、里見弴が百三十年前、明治二十一(1888)年に生まれた日だ。

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矢野誠一著『文人たちの寄席』(文春文庫)

 先日、宇野信夫のことで引用した矢野誠一さんの『文人たちの寄席』には、里見弴の章もある。
 なお、本書の初版は、平成9(1997)年4月に白水社から発行され、私が持っている文春文庫版の発行は、平成16(2004)年10月。

 引用する。

 里見弴が熱心に寄席通いしたのは明治の末から大正改元頃の四、五年間、年齢で言うと二十歳前後のことだという。あの娘義太夫こそその全盛期をすぎてはいたが、色物席とよばれただけあってその時分の寄席には落語ばかりでなく、常磐津の岸沢式多津(西川たつ)、新内の三代目柳家紫朝、浮世節の立花家橘之助、講釈の神田松鯉(初代)、中国手品の吉慶堂李彩などなど絢爛たる藝人だちが名人上手ぶりを高座に競っていた。

 立花橘之助の名も出た。
 色物が、今よりもなんとバラエティに富んでいることか。
 もちろん落語家も華々しい名が並んでいた時代だ。

 落語のほうでは、橘家圓喬、初代三遊亭圓右、四代目の橘家圓蔵といった三遊派の大看板が顔をそろえたいた時代で、里見弴も圓喬の十八番中の十八番だった『鰍沢』をきいている。

 このように、三遊派全盛の時代なのだが、里見弴は、こんなことをしていた。

 里見弴の家では年に一度氏神祭を催していたのだが、ある年父親に言いつかってその余興をつとめたことがある。脳脊髄梅毒症に白内障を患って失明した廓噺の名手初代柳家小せんを招いて好評だったのだが、当日来ていた親戚の医者に「ありゃあ梅毒のひどいやつだ、あんなものを座敷に連れてきて」と、さんざ油をしぼられたという。

 当時活躍していた名のある三遊派の噺家ではなく、小せんを選ぶあたり、里見弴は並の落語愛好家ではないと感じるねぇ。

 そうそう、里見弴と言えば、有島武郎、生馬の弟だが、有島家には落語と縁がある。

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永井啓夫著『新版 三遊亭円朝』(青蛙房)

 以前、圓朝の翻案作品について書いた記事で、永井啓夫の『三遊亭円朝』から、『名人長二』について次の内容を紹介した。
2013年8月11日のブログ

 明治二十五年、大阪より帰京後、怪我をした円朝が湯河原で湯治中創作にとりかかった作品である。
 題材は、有島武夫人幸子から教えられたフランスの小説家モーパッサンの小説『親殺し』(Un parricide、1884年作)を翻案、作話したといわれている。
 有島武(1840-1914、有島武郎、生馬、里見弴の父)が横浜で税関長をしていた頃、部下にフランス文学の研究者があり、その人から聞いた話を有島夫人幸子が書きとめて円朝に送ったのである。これに対する円朝の礼状が、有島家に所蔵されている。
 モーパッサンの作品がわが国で始めて翻訳紹介されたのは、明治三十三年「帝国文学」に掲載された「ゐろり火」である。翻案にしても、円朝がその八年前にモーパッサン作品を手がけていることは注目すべき事であろう。

 
 里見弴の母親が、圓朝の『名人長二』誕生に、貢献していたのである。
 その母親の実家は山内という名だが、里見弴の本名は山内英夫。生後すぐに母の実家の養子となったためだが、育ったのは有島家である。なぜそうなったかは、分からない。

 学習院から東大英文科に進んだが、中退して「白樺」の同人になった。
 先輩志賀直哉の影響を受けたが、一度、絶交状態になった。

 志賀直哉との絶交状態はその後解消したが、矢野さんは『大佛次郎敗戦日記』からの引用を含め、次のように書いている。

    里見氏の作風に対し志賀氏は小せん(落語)にならねばよいがと云った由。
 という記述がある。
 戦時風景の記録はさておき、里見弴の作風が柳家小せんにならねばとの志賀直哉のいだいた危惧の念とは、どういうことなのだろう。

 実は、矢野さんの本、この里見弴の章の後「仲入り」の章があり、矢野さんは阿川弘之の『志賀直哉』を読んで、志賀直哉の言葉の謎が解けたことを記してくれていた。
 昨年の春、結局四百五十枚ばかしになったその評伝の一応の完結を見て、ほっとした気分で楽しみにしていた封印切りをしたとたんにぶつかったくだりというのが、
    里見弴についても、自分の柄にあるものは中々上手だから、「若し盲目になって、
    脚が立たなくなれば、小説家の小せんになれる」と、芸人見立てで揶揄した。
 なる一節なのである。
 孫引きのかたちになった鍵括弧内の志賀直哉の言の出典は、雑誌「人間」に寄せた「『人間』の合評家に」なのだが、志賀直哉というひとの他人の仕事に対するきびしい物言いに、あらためて感心させられる。

 実家の宴会の余興に初代小せんを呼んだ里見弴。
 そして、先輩志賀直哉からは、その小せんの名で評されたというのは、落語好きな里見弴らしい、とも言えるかもしれない。

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by kogotokoubei | 2018-07-14 19:58 | 小説家と落語 | Comments(0)
 今日7月11日は、旧暦で5月28日。

 隅田川花火大会は、享保18(1733)年の5月28日に始まった。

 花火大会公式サイトから、引用する。
隅田川花火大会の公式サイト

川開きと花火その由来

歴史的記録の残るものは両国の花火が最古となっています。江戸時代の享保17年(1732)の大飢餓で多くの餓死者が出て、更に疫病が流行し国勢に多大な被害と影響を与えました。
幕府(8代将軍吉宗)は、翌18年(1733)5月28日(旧暦)犠牲となった人々の慰霊と悪病退散を祈り、隅田川で水神祭を行いました。この時に、両国橋周辺の料理屋が公許(許可)により花火を上げたことが「両国の川開き」の由来とされています。

※江戸時代、隅田川は別名「大川」とも呼ばれていました。古典落語の中では大川と表現されていることがあります。
※両国橋の名称の由来、貞享3年(1686)武蔵国と下総国の国境に掛かっていたので両方の国をつなぐ橋として両国橋の名がついたそうです。

 落語のことを含む注釈も含め、なかなか結構な説明だ。

 両国の花火、となれば落語『たがや』だが、あの噺については、ずいぶん前に書いた。
2009年6月3日のブログ

 あの記事では、由来や画像を「NPO法人 すみだ学習ガーデン」さんのサイトからお借りしたのだが、同法人は今年三月末で解散になったらしい。
「すみだ学習ガーデン」のサイト
 花火のことを知るのに大いに参考になったのだが、残念。

 さて、その『たがや』で思い出すことがある。

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 この噺となると、まずは三代目桂三木助、そして、三遊亭金馬を思い浮かべるが、志ん生ももちろん手がけており、立風書房「志ん生文庫」の「志ん生長屋ばなし」に収められている。

 この本、解説は推理作家、SF作家、そして翻訳家としても活躍した都筑道夫。

 昭和四年生まれの都筑道夫、まずは、落語との出会いから。

 古今亭志ん生を最初に聞いたのは、レコードによってで、演目は「替り目」だった。わが家にはそれまでにも、柳家金語楼の「兵隊」や、三遊亭金馬の「居酒屋」のレコードがあったが、三歳上の兄が買ってきた志ん生の「替り目」は、たちまち私の気に入って、口まねするくらい、なんども聞くようになった。

 志ん生「替り目」との出会いは、小学校の時。

 兄の影響もあってレコードの落語が好きになった都筑道夫は、寄席にも出向くようになる。
 神田の神保町にあった花月、上野の鈴本、人形町の末広、四谷駅から四谷三丁目のほうへ少し行った左がわの裏通りにあった喜よし、たしか現在地とは反対側にあった新宿の末広、あちらこちらに出かけたが、山の手線の大塚駅前、天祖神社のわきの道を入ったところに、大塚鈴本という寄席が出来ると、そこへいちばん頻繁に行くようになった。私たちの家が小石川の江戸川橋にあって、ほかの寄席よりも、この大塚鈴本が近かったからだ。
 短篇小説「円太郎馬車」や長篇小説「寄席」、寄席芸能に関する随筆で、注目はじめていた正岡容が、そのこと大塚の三業地のなかに住んでいて、隔月だったか、毎月だったか、「寄席文化向上会」という会を、大塚鈴本で主催していた。現在の目で見ると、なんとも嫌味な名前の会だけれども、戦争ちゅうだから、しかたがない。
 正岡容については、今さら説明するまでもないだろう。

 都筑道夫の兄は、落語好きが高じてその後、噺家になった。

 たしか昭和十八年ごろだったが、兄は正岡容のところへ出入りしていたので、その口ききで古今亭志ん生の弟子になった。兄を通じて、志ん生の芸談を聞くのが、私の楽しみになった。

 このお兄さん、志ん生門下では、古今亭志ん治を名乗った。

 昭和二十一年には、志ん生が大陸から戻って来ないこともあり、正岡容のすすめで五代目古今亭今輔門下となり、桃源亭花輔を名乗る。その三年後には、鶯春亭梅橋で真打昇進している。
 そうそう、桂歌丸が五代目今輔に入門したのが昭和二十六年なので、当時、一門の真打として梅橋が同門だったということになる。

 私は原稿を書いて生活するようになっていて、なるべく兄の内面には立入らないことにしていたから、くわしい事情はわからない。なにしろ、私はまだ十九、二十、独立して生活をはじめるのに、精一杯だった。けれど、兄が悩んでいることはわかった。その言葉のはしばしから、しだいに私は落語家がきらいになっていった。
 いまでも、私は落語は好きだが、落語家は好きではない。ふたたび、ホールの落語会なぞへ通うようになったのは、兄の鶯春亭梅橋が二十九歳で、若死にしてからである。寄席はすっかり変っていた。志ん生の芸は円熟して、「火焔太鼓」の底ぬけのおかしさ、「今戸の狐」の深い味わい、「黄金餅」の陰惨さが笑いに突きぬけているところ、悟りの境地のような笑いの世界に、私は堪能した。

 小学校で知ったレコードの志ん生から始まる、長い年季の入った志ん生ファンが、都筑道夫ということだ。

 しかし、その志ん生に、異変が起きた。

 その志ん生が倒れ、桂文楽の調子がおかしくなったときには、私はもう落語は聞くまいと思った。志ん生が再起して、ホールの落語会に出たり、独演会をひらくようになると、私はできるかぎり逃さずに出かけていった。
 しかし、人形町の末広で独演会を開いたときには、あまりのいたましさに涙が出た。小泉信三が好きだったという大津絵の「冬の夜」をうたったのだが、私はごく前のほうにすわっていたのに、声がかすれ、言葉はもつれ、まったき、聞きとれない。おまけに最後の演目の「たがや」では、武士の首のかわりに、たがやの首を飛ばしてしまったのである。
 それだけなら、名人も病いには勝てない。そうなってまで、独演会をひらきたがる志ん生に、拍手を送るだけですんだのだが、翌週、ある週刊誌にその独演会の記事がのった。筆者は安藤鶴夫で、まるでなにごともなく、好調な独演会であったかのように、しかも大津絵「冬の夜」をうたったあと、小泉信三をしのんで、志ん生が泣いている姿をえがいて、きわめて感動的な記事にしていたのだ。
 嘘をつきやがれ、と私は思った。あれは、めちゃめちゃな独演会だった。感動的なものがあったとすれば、それに黙ってつきあっていた客たちの、志ん生に対する愛情だけだ。私は落語家と落語評論家が、またあらためて嫌いになって、それからはもっぱらレコードで、志ん生を聞くようになった。

 『たがや』で、武士の首ではなく、たがやの首を飛ばすという筋がないわけではない。元々は、そういう筋だったとも言われる。

 しかし、この「志ん生長屋ばなし」収録のこのネタでも、飛ぶのは武士(殿さま)の首となっているから、わざと志ん生が筋を変えたわけではない。

 都筑道夫と安藤鶴夫が、同じ高座を聴いて、なぜ、こんなことが起ったのか。

 アンツルさんだって、その日の高座や大津絵を高く評価していたとは思えない。
 楽屋での志ん生の姿が、もっとも印象深かったのだろうし、病後の志ん生の高座を批判することを憚る気持ちが、新聞の記事につながったのだろう。

 かたや、小学生の頃からの筋金入りの志ん生ファン都筑道夫としては、「あれは、私の好きな志ん生ではない」という思いが強かったのだろうし、あくまで高座を客観的に見る姿勢が強かったのではないだろうか。

 また、「嘘をつきやがれ」という言葉からは、兄のみならず正岡容と懇意にしていた都筑道夫だから、正岡のライバル(?)アンツル、という強い対抗意識も感じる。

 隅田川花火大会が始まった旧暦5月28日、『たがや』に始まり、同じ志ん生の独演会の時間と空間を共有していた二人のことまで、思いは発展していったのである。

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by kogotokoubei | 2018-07-11 19:54 | 小説家と落語 | Comments(2)
 私のブログは、芋づる式なことが、多い。

 歌丸の記事からのつながりで、最初の師匠五代目古今亭今輔のことを宇野信夫の本を元に書いた。

 しかし、宇野信夫という劇作家のことを知らない人も多いかもしれない。
 私も、落語を通じて知るようになった人で、そう詳しくはない。

 歌舞伎作品を元にしたものが多いが、落語をいくつか創作している。
 柳家小満んの『大名房五郎』と『江戸の夢』を聴いているが、元は円生のためにつくった噺。円生のために作った作品は、他に『小判一両』という噺もある。
 雲助では『初霜』を聴いている。元は師匠馬生のための創作。
 前の記事では、『霜夜狸』を五代目古今亭今輔が真っ先に演じてくれたことを紹介した。

 正直なところ、劇作家としての宇野信夫については、よく知らない。

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矢野誠一著『文人たちの寄席』(文春文庫)

 ということで、矢野誠一さんの『文人たちの寄席』を引っ張り出した。
 本書の初版は、平成9(1997)年4月に白水社から発行され、文春文庫化は、平成16(2004)年。

 ずいぶん前のことだが、夏目漱石について書いた記事で、本書から引用している。
2009年2月9日のブログ
 また、正岡子規のことを書いた記事では、子規作のなんとも楽しい地口を引用したことがある。
2009年12月22日のブログ

 さて、本書の宇野信夫の章。
 冒頭から、まず引用。

 「昭和の黙阿彌」というのが、劇作家宇野信夫につけられた称号のようなものだが、嬉しくなかったわけはない。市井のひとたちの哀しい営み、世態、人情を描かせてこれだけの芝居書きはそう出るものじゃない。劇作家とよぶよりも、狂言作者がふさわしい最後のひとだった。

 「昭和の黙阿彌」とは、これまた凄い形容。
 1904(明治37)年埼玉県熊谷に生まれ、浅草は橋場に育った宇野信夫は慶應大学文科在学中から「三田文学」に戯曲を発表。1933年の『ひと夜』が友田恭助の築地座で上演され劇作家デビューを果たしたのだから、本人の言うように「出発点は新劇」だった。出世作となったのは、1935年二代市川左團次による『吹雪当峠』に次いで上演された六代目尾上菊五郎が破戒僧龍達を演じた『巷談宵宮雨(よみやのあめ)』で、以後六代目との提携をふかめ、『小判一両』『春の霜』『柳影沢蛍火』『怪談蚊喰鳥』など次々と歌舞伎に新作を提供する。
 1953年に、中雁治郎・扇雀親子(もちろん先代)のため脚色新演出にあたった近松門左衛門『曽根崎心中』は空前のヒット作となり、森鴎外『高瀬船』『ぢいさんばあさん』、谷崎潤一郎『盲目物語』などの脚色作品もくりかえし上演されている。

 そうだったんだぁ。
 二十代で、劇作家としてデビューしていたんだ。

 引用を続ける。

 1972年に藝術院会員に、85年には文化功労者に選ばれるなど、晩年の宇野信夫は劇界の長老的存在になるのだが、その長老は、日本敗戦まで住んだ浅草橋場界隈の下町的風情をなつかしむことしきりで、自分の作品の根底に息づくそのあたりの気分や、暮しのなかでさり気なく使われている魅力ある言葉のあれこれを、じつにしばしば洒落た随筆に仕立てていたものだ。
 なかでも、この橋場で送った学生時代の、おなじく若いまだ世に出ない落語家たちとの交流ぶりをくり返し描いたものは、このひとの晩年の随筆のなかでも珠玉の輝きを見せている。
 その“珠玉の輝き”を見せている随筆について、さらにこのように矢野さんは書いている。
 そんな若き日の落語家との交流を描いた随筆の極め付けと言っていいのが、1983年4月から85年8月まで二十七回に及び国立劇場演藝場のパンフレットに連載された「いまはむかしのはなしかの話」で、やたら面白くて、毎回が楽しみだったのを思い出す。

「いまはむかしのはなしかの話」は、昭和61(1986)年に河出文庫化(『今はむかしの噺家のはなし』)されていて、前の記事で、歌丸の最初の師匠五代目古今亭今輔のことを紹介した『私の出会った落語家たち』の底本となっている。

 この後、矢野さんは、橋場に集まった当時の売れない若い落語家たちのことを、少し紹介している。
 
 いったいなにがきっかけで、そんな坊っちゃん書生と落語家のつきあいが始まったかについて、宇野信夫にもはっきりした記憶はないらしい。
 と矢野さんは書いているが、実は、文庫版の『私の出会った落語家たち』には、『今はむかしの噺家のはなし』にはなかった「橋場の家」と「路地の痴話」という章が『昭和の名人名優』という著作から収録されており、「橋場の家」に、初めてつき合った噺家が、蝶花楼馬の助であったことが書かれている。
 金馬を知っている友人がいて、新石町の寄席立花亭で金馬がトリをとっていた時、その友人に連れられ楽屋に行った際、馬の助もいた。宇野は馬の助の『鰻の幇間』や『干物箱』が好きだと言うと本人が喜んで、「いずれお宅へうかがいます」と言って、数日後、橋場を訪ねたことがきっかけらしい。本名、小西万之助。その後、八代目金原亭馬生になった人で、志ん生の大の友人。自ずと、橋場には甚語楼時代の志ん生や当時柳楽だった八代目可楽が入り浸ることになった。

 『私の出合った落語家たち』によると、父親が出張所にしていた橋場の家には二軒の貸家、蕎麦屋と道具屋がついていて、その家賃が宇野信夫の生活費となっていたようだ。そして、貧乏落語家がやって来ると、よく隣の蕎麦屋から天麩羅蕎麦をとってご馳走してあげたらしい。

 さて矢野さんの本、宇野信夫の章の締めの部分。

 学校の教室や書物からは得られないざまざまなことを、落語や講談から学んだことに感謝しつづけ、遠慮なくひとをさらってしまう歳月に、やがては自分もさらわれてゆくとしていた宇野信夫が、ほんとうにそうなったのは1991年10月28日のことだった。

 志ん生のマクラ、「こんなこと、学校じゃぁ教えない」の名科白を思い浮かべる。

 若かりし日、売れない落語家たちとの交流によって得た、学校じゃ教えないいろんなことや体験が、「昭和の黙阿彌」を生み出すための大きな財産となったに違いない。

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by kogotokoubei | 2018-07-09 21:53 | 落語家の支援者 | Comments(0)

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