噺の話

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 落語の舞台を巡ることをテーマにした本は、結構多い。

 先月紹介した、「はなしの名どころ」管理人さん田中敦さんの『落語と歩く』もそうだし、落語ファンの多くがお世話になっていると思われるサイト「落語の舞台を歩く」(サイト『吟醸の館』内)を運営している河合昌次さんによる『江戸落語の舞台を歩く』もある。また、朝日新聞の記者だった佐藤光房さんが同紙に掲載していた内容が『東京落語地図』として出版されている。
 落語家が案内人になっている本も、円生のものや、三代目と四代目の三遊亭金馬による本、柳家小満んが「東京かわら版」に連載していた内容も、出版されている。

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吉田章一著『東京落語散歩』(角川文庫)

 吉田章一さんの『東京落語散歩』も忘れてはならないだろう。
 著者の吉田章一さんは、昭和8年生まれで、東大落語会の一員。

 以前紹介した『正蔵一代』(青蛙房)は東大落語会の編集で、監修と“動き”の記録を吉田章一さん、演目解説のまとめを保田武宏さん、芸談・身の上ばなしを山本進さん、という分担だったとのこと。

 この『東京落語散歩』も最初は平成9(1997)年に青蛙房から単行本で発行され、平成21(2009)年に角川文庫として再刊。

 コンパクトなのだが、結構中身は、濃い。

 再読していて、最初気が付かなかった発見が多い。

 たとえば、「浜町」の章に、このような姉妹のことが書かれていた。

 靖国通りを横切ると、もとも米沢町になる。女悦道具の店四ツ目屋(東人本橋二ー18-4)が江戸期から明治末まで営業した。小咄甚五郎の作に登場する張形は、名作すぎて人を妊娠させてしまう。
 明治五年から震災まで営業した有数の寄席「立花家」(東人橋二ー13-7)もあった。ここは二階の正面に桟敷があり、四〇〇~五〇〇人はいれた。こけら落としに出演を予定していた圓朝は、門下の三代目圓生に芝居噺の道具一式を譲って代演させ、自らは素噺に転向したという。「立花家」の向かいにあった「初音」という寿司屋の娘の、姉つねが四代目古今亭右女助の、1886~1935)と一緒になり、次の千代は八代目桂文楽(1892~1971)と駆け落ちし、下の妹マキが林家彦六(1895~1982)の妻になった。近くに太平記場跡(東人本橋二ー6-8薬研堀不動院内)、講釈場「福本」(同二ー19-6)もあった。

 四ツ目屋のことから引用したのは、文章の流れを踏まえたもので、どうしても紹介したかったわけではないので、誤解(?)なきよう。

 寿司屋「初音屋」姉妹のこと、知らなかった。

 この文を読んでから検索すると、千代は、文楽の妻とはなっていないようだ。
 
 寄席の近くの寿司屋の姉妹・・・なるほど出会うのは自然の成り行きかもしれない。

 以前読んだ本をあらためてめくると、最初は読み飛ばしていて記憶に残っていない、こういう発見があるのが、読書の一つの楽しみと言えるのだろう。


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by kogotokoubei | 2018-04-29 18:21 | 落語の本 | Comments(4)
 朝鮮半島で、大きな歴史的な動きがあった。

 政治的な内容は、兄弟ブログ「幸兵衛の小言」の方で書いているのだが、今回のことについては、少し書きたくなった。

 今後の展開について、「一国二制度」の可能性が大きくなったと思う。

 「幸兵衛の小言」の昨年9月の記事で、「内田樹の研究室」からの引用で書いた内容の一部と重複するが、ご容赦のほどを。
2017年9月13日のブログ

 昨年9月4日の「内田樹の研究室」より。
「内田樹の研究室」該当記事

 “戦争であれクーデタであれ住民暴動であれ、北朝鮮政権が統制力を失った後の混乱をどうやって収めるかについてのプランなんて、中国もロシアもアメリカも韓国も誰も持っていない”、と内田は指摘し、その後に、こう書いている。太字は管理人。

もっとソフトな解決法があります。一国二制度による南北統一です。
これは1980年に、当時の北朝鮮の金日成主席が韓国の全斗煥大統領に向けて提案したものです。統一国家の国名は「高麗民主連邦共和国」。南北政府が二制度のまま連邦を形成するという案です。「在韓米軍の撤収」という韓国政府にとって簡単には呑めない条件がついていたせいで実現しませんでしたが、懲りずに北朝鮮は2000年にも金正日が南北首脳会談の席で、金大中大統領に対して、再び連邦制の検討を提案しています。
南北統一については、北の方からまず「ボールを投げている」という歴史的事実は見落としてはいけないと思います。条件次第では、南北統一、一国二制度の方が「自分たちにとって安定的な利益がもたらされる」という算盤勘定ができないと、こんな提案は出て来ません。
今の金正恩にとっては、「王朝」の安泰が約束され、「王国」の中で自分たち一族が末永く愉快に暮らせる保証があるなら、一国二制度は悪い話じゃありません。連邦制になれば、核ミサイルをカードに使った瀬戸際外交を永遠に続けるストレスからは解放されるし、飢えた国民が自暴自棄になって暴動を起こしたり、政治的野心を持った側近がクーデタを起こすといったリスクも軽減される。
 当時、ミニメディアやネットでは目にしていたアントニオ猪木の発言や行動は、テレビや全国紙で取り上げられても良かったと思うのだが、北朝鮮は対話の扉を閉めていたわけではない。
 きっと、「一国二制度」を飲んでくれるのなら、状況は大きく変わるはずだ。
北朝鮮は保有する兵力は想定ですが、陸軍102万人、海軍6万人、空軍11万。他に予備役が470万人、労農赤衛隊350万人、保安部隊が19万人。2400万人の国民のうち約1000万人が兵器が使える人間、人殺しの訓練をしてきた人間です。
イラクでは、サダム・フセインに忠誠を誓った共和国防衛隊の軍人たちをアメリカが排除したために、彼らはその後ISに入って、その主力を形成しました。共和国防衛隊は7万人。朝鮮人民軍は1000万、その中には数万の特殊部隊員がふくまれます。職を失った軍人たちをどう処遇するのか。彼らが絶望的になって、反社会勢力やテロリスト集団を形成しないように関係諸国はどういう「就労支援」を整備したらいいのか。それはもう日本一国でどうこうできる話ではありません。
リビアやイラクがそうでしたけれど、どんなろくでもない独裁者でも、国内を統治できているだけ、無秩序よりは「まだまし」と考えるべきなのかも知れません。
今のところ国際社会はそういう考えのようです。とりあえずは南北が一国二制度へじりじりと向かってゆくプロセスをこまめに支援するというのが「北朝鮮というリスク」を軽減するとりあえずは一番現実的な解ではないかと僕も思います

 なかなか、内田のような論調を目にすることはなく、とにかく騒ぐだけ騒いでいるのが、現在のマス・メディアの実態。

 もっとも罪が大きいのは、アメリカの強硬論に追随するだけの、従来の日本の政府。

 「すべてのカード」という言葉を安倍首相をよく使ったが、まさに、米追従の象徴的な言葉だ。
 これまでは、「一国二制度」の模索というカードは、トランプにも、安倍のトランプにも、存在しなかったあろう。

 さて、これからは、どうか。

 唯一の被爆国ができること、あるいは、すべきことはたくさんあるはずだ。

 豊臣秀吉の朝鮮出兵を、現代の人は無謀な、馬鹿げた行為と判断することができる。

 では、現在の北朝鮮問題については、どういう歴史を刻むことができるのか。

 安倍忖度政治による不祥事に明け暮れていては、世界の平和など語れる状況にない。

 歴史に、日本のおかげで最悪の事態は防ぐことができた、と書き残したいではないか。
 そういう政治、政府が、今望まれていると思う。
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by kogotokoubei | 2018-04-27 19:31 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 昨日、無事、帰った。

 滞在中に書き切れなかったことなどを。

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 これは、現在閉館中の伊達開拓記念館の前に植えられている、記念樹の松。

 明治9年、時の太政大臣 三条実美が伊達開拓村を視察に訪れた時に植えたもの。

 明治新政府の立役者の一人と言われる三条実美。
 文久3(1853)年の八月十八日の政変で、長州に追いやられた「七卿落ち」一人として有名。
 歴史ドラマでは、明治6(1873)年、征韓論をめぐり、西郷ら征韓派と岩倉や大久保利の征韓反対派の板挟みになり、その心労から人事不省状態に陥った、なんともひわよな姿が、印象的だ。
 
 南の方の騒動が収まった後、北の大地を訪ねていたんだねぇ。

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 これは、実家の庭の梅。

 ほころびかけているが、滞在中には、まだ咲かなかった。

 北海道は、もうじき、梅も桜もほぼ同時に咲く。

 北国の人が、春を実感する季節になろうとしている。

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 町の中心街は、歴史街道、フロンティア街道などと名づけられ、白壁と瓦屋根で統一されている。

 歩いて、結構空き家が多いのが目立つ。

 北海道ではもっとも気候が温暖で、市も移住政策を積極的に進めており、実際に多くの方が移り住んではいるが、郊外に大型商業施設もできており、商店街がシャッター通りと化す状況は、他の地方都市と同じ傾向にある。

 市民の平均年齢は、結構高いだろう。

 かつては、室蘭の製鉄所などに勤める方も多かったが、かれこそ数十年前から“鉄冷え”で、今日、仕事を求める若者は、札幌に出る人が多い。

 私の二人いる兄の子供も、何人かは札幌で勤めている。

 小学校や中学の同級生で地元に残っている人は、公務員か自営の人がほとんど。

 一昨日夜、同級生と飲んだ際、何人かは、すでに旅立っていることを知った。

 そうそう、同級生と会った24日の昼は、天馬、というお店に両親と三人で行った。
 20日金曜日に、テレビで北海道出身の女性演歌歌手が訪問したことが放送されたらしく、数年前に行ったことがある父親が、「また、行きたいなぁ」と言っていたので、電話すると、テーブルが一つ空いたので、今なら、とのこと。さっそく、タクシーを呼んで出かけた次第。
 ご主人の実家が漁師というお店で、刺身も焼き魚も、美味くて安い。
 1280円の刺身定食が、なんと豪華だったことか。
 96歳の父と91歳の母が、美味しそうに刺身やホッケ焼きを食べて喜んでいた。

 20日の番組の内容は、STVのサイトに紹介されている。
 “旅のトビラ〜江戸の記憶が残る街「伊達」探訪”という番組だったようだ。
 伊達家の子孫自ら、杜このみという歌手を伊達ゆかりの場所に案内した後で、そのお店で食事をしたらしい。
 私は料理の写真を撮らなかったので、ご興味のある方は、こちらのサイトでご覧のほおを。道の駅や有珠の善光寺などにも立ち寄ったことが紹介されている。
札幌テレビ(STV)サイトの該当ページ

 食べながら、「お前が来たから来れた」と言われると、また来なくちゃ、と思う。
 

 街並は大きく変わっていたが、故郷の人、そして、味は変わらないなぁ、と思った帰省だった。
 
 両親が健在なうちに、元気な旧友との再会も楽しみに、出来るだけ行こうという思いを強くした。


 これにて、今回の帰省シリーズは、お開き!

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by kogotokoubei | 2018-04-26 12:27 | 小さな旅ー2018年4月、北海道への帰省 | Comments(2)
 無事、羽田に着き、今、自宅近くの駅に行く、リムジンバスの中。

 今朝、実家の最寄駅である、JR北海道の伊達紋別駅から特急に乗り、南千歳で乗り換えて、新千歳空港まで行って・・・という小旅行。

 空港では、ラーメンを食べた。
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 元気な兄ちゃんの誘いに乗って、サッポロラーメンの「空(そら)」の味噌ラーメン、880円なり。
 なかなか、美味かったよ。

 話は戻って、これは、朝九時頃撮影した、故郷の駅。

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 この記事は、千歳へ向かう特急の車中で、書き始めた。

 伊達紋別駅前交番の前に、こんな案内板があった。

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 少し、アップ。
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 私のガラケーでは、よく映っていないが、下(南)の海が、噴火湾。内浦湾とも言う。
 この湾に面しているために、この地は温暖なのである。

 噴火湾は、海の幸の宝庫でもある。
 なかでも、ホタテは有名だ。
 帰省中、ホタテの稚貝を、毎日食べていた。

 昨日の散歩で、西浜という、漁師が住む一帯を散策した。

 その浜に出るには、この気門別(きもんべつ)川を渡る。
 
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 喜門別川とも書く。私は、喜門別の方のイメージの方が強い。
 また、子供の頃は、きもべつ、と呼んでいたような気がする。

 アイヌ語のキムン・ペッ(山に入る川、の意)が名前の由来らしい。

 その川岸にも、浜から飛んできたカモメがいた。

 曇天で映りは悪いが、その浜、西浜の写真。

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 西浜では、子供の頃に、よく泳いだものだ。

 しかし、今は護岸がされており、船が安全に停泊しているのと裏腹に、泳ぐ場所がなくなった。

 とはいえ、伊達のすぐ近くには、有珠山で有名(?)な、有珠の海水浴場があり、そちらに、夏は多くの人が泳ぎにやって来る。


 そうそう、昨夜、中学時代の野球部の同級生と会ったが、野球部メンバー数名と試合の前の日に西浜で泳ぎ、勝てると甘く見ていた相手にボロ負けした思い出話になった。

 中学時代、全道大会の室蘭地区予選決勝で、僅差で負けた時の思い出話にも、花が咲いた。

 同級生も私も、勝った試合より、負けた試合の記憶が鮮明だ。

 それは、どんな過去の記憶でもそうなのかもしれない。

 街は大きく変貌しているが、同級生とは、すぐにあの頃に戻れる。
 ありがたいことだ。

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by kogotokoubei | 2018-04-25 15:13 | 小さな旅ー2018年4月、北海道への帰省 | Comments(2)
 こちらが、私のガラケーで撮った、宮尾登美子文学記念館の写真。

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 宮尾 登美子さんは、大正15(1926)年4月13日に高知県で生まれ、平成26(2014)年12月30日に、故郷高知で旅立たれた。

 さて、なぜ、高知出身の宮尾登美子さんの文学記念館が、北海道の伊達にあるのか・・・・・・。

 その理由の前に、この記念館のことを、伊達市のサイトからご紹介。

伊達市サイトの該当ページ

太宰治賞や直木賞など多くの文学賞を受賞している作家の宮尾登美子さんは、伊達市近郊の山荘で平成11年から15年までの間「宮尾本平家物語」を執筆し、その間市内でも講演会を行うなど多くの市民と交流を深めました。
その結果、市民の多くの皆さんから文化・社会教育の場として文学記念館建設要望が市に出され、平成17年4月に伊達市が当館を整備しました。
高知県出身で30代後半から文筆活動に始めた宮尾登美子さんは、直木賞受賞作の「一絃の琴」や「序の舞」「陽暉楼」「蔵」などのヒット作を続々と世に送り出し、その多くが映画化・テレビドラマ化されています。
当館には、宮尾文学の軌跡や代表作品を紹介するとともに、宮尾さん自身が愛用した着物や小物、机などを展示しています。

 ということで、四年間、伊達の山荘で、宮尾さんは「宮尾版平家物語」を執筆した。

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 では、なぜ、伊達だったのか。

 昨日、記念館で展示品を見ても、いただいたパンフレットを読んでも、伊達と宮尾さんの縁を物語る情報がなかったので、記念館の受付の方にお聞きした。

 伊達とのご縁は、宮尾さんの小説の挿画を数多く手がけられた、画家の野田弘志さんが、とりもったらしい。

 都会の夏が苦手だった宮尾さんは、どこか避暑に適した場所をお探しだったらしい。

 お知り合いの野田さんから、伊達のことを教えてもらったことが、きっかけだったとのこと。

 宮尾さんが亡くなった翌年の一月の週刊朝日に、追悼記事が載った。

 AERA.dotから引用。

AERA.dotの該当記事

宮尾登美子さん 晩年“人付き合い絶つ”手紙を書いていた
2015.1.16 16:00

 直木賞作家の宮尾登美子さんが老衰で亡くなった。享年88。

 宮尾さんは、1926年に高知市に生まれ、芸妓(げいぎ)紹介業の家に育った。家業に対する嫌悪感は、のちに太宰治賞を受賞する自伝的小説、『櫂』を生み出した。

 17歳で結婚し、教員の夫、長女と旧満州へ渡る。敗戦後1年あまり、難民収容所で過ごした。この壮絶な体験をもとに、極限状態に置かれた人間のエゴイズムをのちに描いた小説が『朱夏』だ。宮尾さんは、

「饅頭一つ欲しさに、赤ん坊の娘を市場で売ろうかとさえ思った」(週刊朝日98年11月27日号)

 と、当時を回想している。

 (中 略)

 86歳になった12年春には、故郷の高知市で一人暮らしを始める。同じ高知市出身で親しくしていた作家の山本一力さんには、

「この年になると、いてもたってもいられない。高知が見たい」

 と話していたという。

「この時期から、母は人生の整理整頓を始めたのでしょう。人付き合いを絶っていきました」(次女・環[たまき]さん)

――これから高知市に住みますが住所は未定です。申し訳ございませんが、手紙も電話も遠慮いたします。宮尾さんは、こうした文面のはがきを、仕事の関係者や知人、友人に送った。

 人付き合いを絶ってから二年半後の12月、宮尾さんは旅立った。

 このハガキを受けとった一人である野田さんのコメントが掲載されている。
宮尾さんの小説の挿絵を担当し、友人として付き合いの深かった日本画家の野田弘志さん(78)も、このはがきを受け取った。

「宮尾さんが平家物語の執筆のために北海道の伊達市に建てた山荘は、私の家から50メートルほどのご近所です。長年の飲み食い友達でしたが、はがきを境に宮尾さんの消息は、ぷつりと途絶えました。宮尾さんと40年来の付き合いがある作家の加賀乙彦さんも心配して、一緒にずいぶん宮尾さんの行方を捜しました」


 加賀乙彦さんの『湿原』の挿画が、野田さんの出世作と言われている。

 野田さんは、だて噴火湾アートビレッジのスーパーバイザーを務められている。
 
 小説家と挿絵を担当した画家との縁が、この記念館につながっていったわけだ。

 記念館には、手書き原稿も展示されているのだが、なんとも綺麗な読みやすい字に、驚いた。一字一字、丁寧に書かれたことが、分る。

 宮尾登美子さんの人柄が、その文字には現れていたように思う。

 展示されていた着物それぞれには、その着物の謂れや宮尾さんの思いが紹介されていた。

 晩年は、故郷にお帰りになったわけだが、七十代に、きっと濃密な四年間を伊達の山荘でお過ごしになったのだろう。

 宮尾登美子文学記念館は、まちの重要な文化的財産。
 入場は、無料。

 ご興味のある方は、来春、すぐ近くの「だて歴史文化ミュージアム」が開館した後にでも、ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。

 亘理藩の伊達邦成主従が開拓した土地という歴史、そして、宮尾登美子さんと縁のある土地、歴史と文化の香りあふれるのが、「北の湘南」伊達なのです。

 しかし、今日の散歩では、せっかく白壁で統一した商店街も、閉店した店が多く、シャッター通りに化していた・・・・・・。

 さて、そろそろ中学の同級生との飲み会に出かけねば^^

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by kogotokoubei | 2018-04-24 17:21 | 小さな旅ー2018年4月、北海道への帰省 | Comments(2)
 昨日は、実家近くの伊達開拓記念館周辺を散策し、その近くにある宮尾登美子文学記念館に立ち寄った。

 まず、開拓記念館のことについては、昨年12月に、NHKの「歴史秘話ヒストリア」で放送された「北の大地に夢をひらけ! お殿さまの北海道開拓史」のことからご紹介。

 NHKのサイトの同番組のページから、引用。
NHKサイトの該当ページ

エピソード1 北に懸けた八千人の命

幕末、戊辰戦争に敗北し、領地を400分の1にされてしまった亘理(わたり 宮城県)の伊逹家。家臣とその家族、武士の誇りを守るため、当主の伊逹邦成(だて くにしげ)が決断したのは「北海道開拓」でした。未知の大地にすべてを賭ける―邦成たちの覚悟を後押ししたのは不思議な飾りのよろいかぶと―。

 ということで、北海道胆振支庁にある伊達市は、仙台伊達藩の支藩である亘理藩の伊達家が開拓した場所。

 エピソード2も、引用。

エピソード2 「和」で荒れ野を切り開け!

新天地・北海道に渡った伊逹家主従は、すぐさま苦難に見舞われました。開拓のための農具や種を積んだ船が事故で着かず、土地を耕すどころか深刻な食料不足に陥ります。絶体絶命の危機に対し「3つの和」でのぞんだ邦成。窮地を乗り切る「和」の秘策とは?

 伊達家主従の苦難の歴史の詳細は、また後日書くことにしたい。

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 この写真は、開拓記念館敷地内の、迎賓館。

 「歴史秘話ヒストリア」でも詳しく紹介されていた。

 どのような建物かは、伊達市のサイトからご紹介。

伊達市サイトの該当ページ

迎賓館は、伊達邦成が伊達の開拓にあたった功績で明治政府から男爵の位を受けた祝いに、家臣らによって明治25年に建てられた邸宅です。
当館は、洋室と和室を取り合わせた構造で全体的に数寄屋(茶室)風の書院造の建物で、開拓状況視察のために来道した明治政府高官や開拓使などを接待するために利用されました。
平成4年に市の有形文化財に指定されています。


 賊軍として新政府から追われるように北海道へ移り住んだ伊達邦成一行だが、開拓の成果を評価され、男爵となったのは、歴史の皮肉とも言える。

 これが、伊達邦成公の像。
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 実は、伊達開拓記念館は、昨年11月末に閉館している。

 なぜかと言うと、よりパワーアップした施設を現在建設中であるからである。

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 来年春に、開拓記念館の展示内容を含む、「だて歴史文化ミュージアム」がオープン予定なのである。

 来年も、また来なくちゃ!

 このミュージアムは、道の駅のすぐ近くに建設中なのだが、同じ敷地内には、びっくりドンキー伊達店がある。

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 そして、店内では、同じグループ企業である牧家(ぼっか)のチーズなどが販売されている。

 実は、伊達は、牧家の所在地なのである。
牧家のサイト


 日曜の夕食では、牧家のカチョカヴァロチーズ、杏仁豆腐を楽しんだ。

 亘理藩、伊達邦成主従が開拓した伊達の牧場で、新たな食の歴史が刻まれている。

 そして、その地に、宮尾登美子さんの文学記念館がある。

 土佐出身の宮尾さんが、なぜ伊達との縁が出来たのか・・・・・・。

 そして、この地で、どんな宮尾作品が生まれたのか、などは次の記事にてご紹介。

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by kogotokoubei | 2018-04-24 10:05 | 小さな旅ー2018年4月、北海道への帰省 | Comments(0)
 昨日から、故郷北海道に帰省中。

 昨年も、同じ時期に二泊三日で帰ったが、今年は三泊四日の小旅行。

 まずは、羽田空港の蕎麦屋への小言。

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 出発ゲート近くにある蕎麦屋。
 空港価格、ということだろうが、最低価格が680円で、お奨めの肉うどん(そば)が980円、おろしうどん(そば)が880円は、高すぎる。
 
 もちろん、食べなかった^^

 新千歳空港に兄に迎えに来てもらい、故郷、伊達市へ。

 伊達は、仙台藩が開拓して、その名を残した場所。

 噴火湾に面した、北海道の中ではもっとも温暖な地。

 少しだけ散歩し撮った、市役所前の写真。

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 ご覧のように「北の湘南」と言われているのだよ。

 昨日は、90歳を超えた両親がともに元気なのを確認できて、とにかく良かった。


 さて、今日はもう少しじっくり散歩し、昔の面影がどれほど残っているか、あるいは、どれほど変わっているか、確認するつもり。

 また、ジャズ好きの従兄の家に遊びに行こうと思っている。

 明日の夜は、中学時代の友人と会う予定になっている。

 今朝も、天気は良く、思ったほど寒くはない。

 やはり「北の湘南」なのである。

 ところどころ写真も撮り、旅の記録として記事にするつもり。

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by kogotokoubei | 2018-04-23 07:38 | 小さな旅ー2018年4月、北海道への帰省 | Comments(8)
 架空の会見を考えてみた。

 太字は麻生読みで、(  )内が漢字と正しい読み。

記者 テレビ朝日が、福田前次官のセクハラ被害者が自社の社員であると
   公表し、財務省に抗議すると言っていますが。
麻生(顔をしかめ、口を曲げて)
   う~ん、福田に実際セクハラをしたか事実のユウム(有無 ウム)を
   確認したら、やってない、というんですからねぇ。
   私としては、福田の言葉を信用するしかないでしょう。
記者 では、なぜ、辞任したんですか。
麻生 これだけの騒動になって、とても落ち着いて仕事ができない。お騒がせした
   責任があるから辞めたい、と言う以上、認めるしかないでしょう。
   他にどういうショチ(措置 ソチ)をしたらいいんですか。
   まぁ、テレビ朝日の抗議内容は、それが届いたら、そのヨウサイ(詳細 ショウサイ)
   をね、精査します。
記者 大臣ご自身の進退について、どうお考えですか。
麻生 これだけハンザツ(頻繁 ヒンパン)に、いろんなことが起きることには、
   責任を感じていますが、辞めずに、この問題を解決することも私の責任です。
   さまざまな事実をフシュウ(踏襲 トウシュウ)して、ミゾウユウ(未曾有 ミゾウ)の
   困難を解決するのが、私の役目だと思っています。
記者 財務省を統督するのが、大臣の責務ですよね。
麻生 え、なに?
記者 ですから、組織を統督する責任がありますよね。
麻生 尊ぶ、責任?
記者 いえ、統督、です。
麻生 ・・・・・・。
記者 国家行政組織法10条に
  「各省大臣、各委員会の委員長及び各庁の長官は、その機関の事務を統括し、
   職員の服務について、これを統督する。」
  とあるのです、知りませんか。
麻生 へぇ、そうなの、これから、六法全書を精査して・・・・・・
記者 いえ、あなたは、国語辞典を精査してください。
麻生 ・・・・・・。


 この会見は、もちろんフィクションです^^

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by kogotokoubei | 2018-04-19 12:18 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)
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葉室麟著『河のほとりで』(文春文庫)

 この本から三回目。

 前回は藤沢周平について葉室麟がどう思っていたか、ご紹介した。
 今回は、司馬遼太郎のこと。

 司馬さんのソファー
 仏教的な世界観 培った 宗教記者時代

 <司馬さんのソファー>と呼ばれる長椅子がある。
 作家の司馬遼太郎さんは、もとは産経新聞の記者で若かりしころ、京都の宗教回りを担当していた。京都は各宗派の本山だけでも何十もあり、行事や人事も多く、これらを記事にするのが宗教回りの記者だ。司馬さんは東西両本願寺の記者室を中心に国内でも唯一、世界的にも珍しい「宗教記者クラブ」の創立メンバーのひとりだった。

 司馬作品は結構読んでいるが、このことは知らなかった。

 まさに、京都ならではの記者クラブと言える。

 引用を続ける。

その当時、司馬さんが宗教記者クラブの記者室で横になって本を読んでいた長椅子が、いまも<司馬さんのソファー>として保存されているのだ。
 京都、西本願寺の宗教記者室を訪れて拝見させてもらった。記者室の一角にあるソファーは、何の変哲もない長椅子に違いないのだが、司馬さんが新聞記者から作家に転身した後でも宗教記者時代の姿を覚えていたひとが多かったということだろう。
 そんなことを考えていると、宗教記者だった司馬さんはそのころの経験から仏教的な世界観を持つにいたったのではないかと、ふと、思った。
 司馬さんは戦時中、従軍して戦地に行く際には親鸞の『歎異抄』を持っていったという。「蓮如と三河」という文章の中で司馬さんは『歎異抄』を読んだ体験について、
「とくに『歎異抄』を読んでいるときに、宗教的感動とともに、芸術的感動がおこるのである。

 親鸞は弟子一人ももたず候

 ということばなどは、昭和十八年、兵営に入る前、暮夜ひそかに誦唱してこの一行にいたると、弾弦の高さに鼓膜が破やぶれそうになる思いがした」
 と書いている。生と死の問題を考えざるを得なかった戦時中だけでなく、戦後、作家になった司馬さんの作品の中にも仏教の影響が見え隠れする。

 この後、葉室麟は、司馬作品の中の仏教の影響の例として、『空海の風景』はもちろんとして、『国盗り物語』における斎藤道三の法華経の解釈のことや、『燃えよ剣』や『新撰組血風録』に見られる仏教的な無常感などを挙げている。

 そして、このエッセイは、次のような文章で締めくくられている。

 『「昭和」という国家』では、日本という国は昭和に入って「魔法の森」に入ったと述べ、この「魔法の森」のために数百万人の日本人が死んだとしている。そのことの是非はさておき、司馬さんは昭和という時代が、仏教でいう釈迦の教えが顧みられなくなる、 
 -末法の世
 に見えていたのではないかという気がする。
 もし、そうだとすると、司馬さんが存命なら昭和だけでなく、平成の今も「魔法の森」に入った末法の世だと思ったのではないだろうか。

 
 いわゆる司馬史観について、さまざまな意見があると思う。

 明治維新を高く評価し、それ以降、あの戦争までを暗黒時代と見なすことへの反論はあるだろう。
 維新の功臣たちを英雄視し、市井の人々への視線に欠けているという指摘もあるだろう。

 しかし、司馬史観に肩入れしないとしても、明治維新までと、それから日清・日露、そして太平洋戦争に向かう時代の様相の違いは大きい。
 もし、「魔法の森」に入ってしまったとするなら、それは、昭和からなのだろう、という指摘は否定できないように思う。


 そして、葉室が指摘するように、昭和が「魔法の森」に入ったとするならば、間違いなく、平成もまた「魔法の森」に舞い戻ってしまったのではなかろうか。

 戦争をしやすい国家にしようとする者が国のリーダーである状況は、あの戦争の前の日本の状況と似ていはしないか。

 しかし、同じ過ちをしてはいけない。
 早く、その森から抜け出さなくてはいけない。
 司馬遼太郎も、そして、葉室麟も、きっとそう言うに違いない。

 この文章を読んで、そんなことを思っていた。
 
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by kogotokoubei | 2018-04-17 20:36 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
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葉室麟著『河のほとりで』(文春文庫)

 この本から再び。

 藤沢周平について書かれた章。
 まずは、葉室麟に藤沢周平のことを紹介してもらおう。

 藤沢周平文学
 たじろがず 過去を振り返る ひそやかな強さ

 藤沢周平さんは時代小説の大先達だ。わたし自身、藤沢作品をこよなく愛するファンのひとりでもある。
 七月に山形市に行く機会があったおりに、鶴岡市の藤沢周平記念館を訪れた。
 藤沢さんは昭和二年に山形県東田川郡黄金村大字高坂(現鶴岡市高坂)に生まれた。
 山形師範学校に学び、中学教師となったが、結核が見つかって休職、教師生活は二年間で終わった。六年余の闘病の後、東京の業界新聞社に就職した。仕事の傍ら小説を執筆し、昭和四十八年、直木賞を受賞した。四十五歳のときだ。故郷の鶴岡市では、藤沢さんの業績を讃えて、藤沢さんの書斎を再現し、自筆原稿や創作メモなどの資料を展示する市立記念館を建設、四年前にオープンした。

 この文章が西日本新聞に掲載されたのが2014年9月。だから、記念館は2010年のオープンということになる。
 藤沢の直木賞受賞は昭和47(1972)年の『暗殺の年輪』。

 葉室麟は、記念館で『風の果て』の特別展示を見たようだ。

 藤沢作品の中でも『風の果て』は特に好きだ。どこが好きなのかと言えば、中年にさしかかた男が過去を振り返らざるを得なくなったときの視線に思いがけないほどの温かさがあるからだ。
 生きていくことは過酷で、何かを得ていくことは、同時に大切なものを捨てることである。それだけに過去を振り向くには難しい。自分が見たくないものを見ようとはしない。蹉跌の苦情やひとを傷つけたかもしれない自らの傲慢さから目をそむけてしまう。しかし、藤沢作品には、たじろがずに過去を振り返るひそやかな強さがある。

 この文章を目にして、葉室麟がどれほど藤沢作品から影響を受けてきたかを知った。

 葉室が藤沢作品について評した、“たじろがずに過去を振り返るひそやかな強さ”は、葉室作品の主人公に、そのまま当てはまると思うからだ。

 この文章の後、藤沢が教科書に載っていた佐藤春夫の詩「望郷五月歌」を暗記していたことが『半生の記』に書かれていると、同詩の一部を紹介している。

 その『半生の記』で、藤沢が戦時中にクラス全員で予科練志願すべきと、級長として国を憂うる正義派ぶって級友をアジったことを悔いていることを葉室は紹介している。

 そして、こう言う。

 軍国主義の時代、戦争協力を当然のごとく叫び、意に従わない者を声高に非難した<愛国者>は多かったに違いない。だが、戦後になって、そのひとたちは自らがしたことを悔いただろうか。手のひらを返したように「仕方ない」ですませたのではないか。
 自らがしたことを後悔する誠実さ、やさしさは現代になって失われつつあるものだ。
 いまもなお藤沢文学がひとを癒やすのは、時代の波に押し流されない「悔いるやさしさ」があるからだ、とわたしは思う。

 「悔いるやさしさ」は、その根底にある「悔いる強さ」は、藤沢作品に魅かれた葉室麟の作品にも、感じるものだ。

 良き読み手が、良き書き手になったのだなぁ、と、このエッセイを読んで強く感じた。

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by kogotokoubei | 2018-04-16 21:42 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛