噺の話

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 青蛙房『林家正蔵全集』別巻の『正蔵一代』から、五つ目の記事。

 戦中の慰問活動は、『芸の話』から紹介したので、割愛。
 戦後しばらくして正蔵を襲名するのだが、ご承知のように、襲名前ひと騒動あったのである。

 正蔵襲名

 あたしが馬楽から林家正蔵を襲いだのが、昭和二十五年の六月です。
 あの時は、その、五代目小さんの襲名にからんで、世間でもいろいろ言われましたけど、今日では、もう差障りもなくなった事ですから、本当のところを申し上げときますがね。
 あれァその、四代目未亡人が、「小さん」てえ名前を、自分の手に握っていたいと、ひとつの財産みたいな見かたをして、それには弟子の小三治、今の五代目小さんですね、あれに襲がせておけばいい、という考えで、黒門町の文楽さんのところへ行って、
「弟子同様に引き立ててやってください」
 って頼んだ。それから小三治夫婦も、文楽さんのところへ頼って、一生懸命伺いにも行くし、文楽さんのほうでもしきりに可愛がって、ゆくゆくは夫婦養子に貰おう、なんてえところまで気に入ったんですね。
 だからそもそもの発頭人は、四代目のおかみさんで、ものも言わずにそれに加担しちまったのが文楽さんなんです。

 未亡人が、旦那の名跡を自分の財産みたいに思っていた・・・なんとも似たようなことが、襲名では繰り返されるのだなぁ、と思わずにはいられない。

 歴史は繰り返す、ということか。

 しかし、四代目は馬楽から小さんになった人だ。そして、前回の記事で紹介したように、昭和三年の落語研究会において、師匠の小さん襲名と、正蔵の馬楽襲名のダブル襲名の披露目とも言える会が催されていた。

 正蔵は、晩年ではあったが三代目門下としても旅興行に随行するなど、小さん一門とは縁が深い。

 だから、そう簡単にことは進まないのである。
 この襲名における騒動は、正蔵の兄貴分の登場で大きくなる。

 ところが、文楽さんなんぞは、あたしが上野(三代目小さん)のうちへ預けられたってえことは知りませんから、代々の小さんに関係のない、部外者だと思って、あたしにはいっさいのことを言わないで、小さん襲名の準備を始めちまった。そうすると、あの“山春”がまだ生きてましたから、
「それじゃァあんまり筋が立たないし、かりにも、四代目だって馬楽から小さんになった人だから、今の馬楽・・・・・・つまりあたしですね・・・・・・馬楽をなんとかしなくちゃいけない」
 って、黒門町へ話し合いに行ってくれたんですよ。そしたら、その時分の文楽さんてえ人は、もの判ったような判らなねえようなことを言って、
「馬楽さんには、新しくできる小さんの“おじさん”になってもらいたい」
 てったんで、“山春”が怒った。
「われわれのほうの業体(ぎょうてい)では、“おじさん”てえのは大変に重きをなしている敬称だけど、噺家のほうで“おじさん”て言やァ碌なもんじゃァない。そんな扱いかたってえのァないだろう」
 って言ったもんです。

 あの“山春”登場、である。

 三福の家の押入れの上と下とで寝ていた兄弟分のために、浅草の顔役が黒門町に駈け込んだのであった。
 それで一方、五代目小さんになったご当人てえものは、あのとおり大人(だいじん)ですから、
「あたしが辞退をして、馬楽さんにゆずるべきだ・・・・・・」
 ってことは・・・・・・言わないんですよね。大きいところがあるんですよ、あれァ、とど、
「じゃァまァ、馬楽さんのほうに、いい名前を先に襲いでもらって、そのあとから小さんをこしらえたい」
 つまり、あたしがそのまンまでいると、馬楽の名前が、小さんの上席へ、いやが応でもすわることになりましょう?だから、そういうことのないようにしておこう、という、ひとつの配慮といいますか、筋道ですよね。そういうことで妥協しましてね、さて、それではってんで、あたしに襲げそうな名前を探してみるってえと、その時分にあいてたのは、圓蔵、圓右、小勝・・・・・・というようなところですね。だけど、考えるとどれもこれもみんな、大したよりどころのある名前でしょう?圓蔵、圓右はもちろんのこと、小勝だってそうですからねェ。
 もっとも、小勝という名前は、あたしァ好きなんですよ。小勝のじいさん(五代目・加藤金之助)の行状には、倣っているつもりでもあり、また、小さんほどえらくなれなくとも、小勝にはなれそうだという気持ちもあって、かたがた好きなんですけどもねェ、どうもその、先代があんまり売れちまった名前はやっぱりいけませんでね、名前負けがして、四代目の小さんがそうですからねェ。馬楽でいた時分にゃァ評判はよかったんですよ。それが小さんになったら、やはり先代と比較されるから、知らない者はあんまり香(かん)ばしいことは言いませんよ。

 五代目小さんが、“あのとおり大人(だいじん)ですから”という表現は、なかなかに深いねぇ。

 ま、そんなことで考いているうちに、「じゃァ竹さんの名前を襲いでみたら」ってえことに思い当たった。
 竹さんてえのは、海老名竹三郎、今の林家三平のおとっつァんの林家正蔵・・・・・・この人が昭和二十四年に亡くなったんで、正蔵があいたんですね。竹さんは小三治から正蔵になった人だし、
「怪談噺を演るんだから、正蔵のほうがいいだろう」
 てえ意見もあって、急速にきまっちゃった。
 で、その時に、三平のうちへ正蔵の名前を貰いに行ってくれたのが、五代目の柳亭左楽(中山千太郎)さんと、死んだ紙切りの林家正楽(一柳金次郎)さん、このふたりがいっしょに行ってくれましたよ。竹さんが小三治から正蔵になるときにも、五代目の左楽さんが今西の家へ貰い行った因縁がありますし、正楽さんは今西さんのお弟子さんで、その辺のいきさつも知ってますから、それで行ってくれたわけなんです。
 
 当時の東京落語界の重鎮が五代目左楽。いきさつから左楽が行くのは道理かと思うが、初代正楽も同行してくれたんだねぇ。
 初代正楽については、貴重な戦争の記録である日記のことを含め記事にしたことがあるので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2017年8月21日のブログ
2017年8月22日のブログ
2017年11月13日のブログ

 さて、七代目正蔵未亡人との交渉は、どうなったのか。

 そしたら、未亡人、つまり今の三平のおっかさんが、やっぱり執着もあるしするから、
「うちには倅がいるし、いずれおとっつァんの名前を襲がせたいと思うから、正蔵の名前は、馬楽さん一代で返してほしい」
 まァつまり、貸す、という意味ですよね。前の時のいきさつを知ってる五代目や正楽さんは、
「それァ法にない事(こつ)で、納得の行かないとこだけど、まァまァ女の言う事(こつ)たし、いいじゃァないか」
 というようなわけで、五代目も、もう年齢(とし)で、折れてますから理屈は言わない。それで、あたしァ原稿紙へ借用書を書いて渡した、と、まァこれが一件の真相なんです。

 大きな名のまま旦那が亡くなると、その未亡人は、その名前を自分の財産だと思い、なんとか自分の子や可愛い弟子に継がせたいと思うのは、やはり人情なのだろうねぇ。

 しかし、紹介した内容にあるように、七代目正蔵の未亡人が、一代限りで返して欲しい、という言い分は、道理にかなうとは言いにくい。
 しかし、なんとか早く事を収束したかったのだろう、五代目左楽が七代目未亡人の希望を呑むと言ったのでは、正蔵も従わないわけにはいかなかったわけだ。

 とはいえ、“山春”は、こんなことを言っていた。

 その時に、あたしが、
「どうも借りたものは責任があっていけねえ」
ってったら、“山春”が、
「もう借りちまやァこっちのもんだよ」
「だって、一札、証文がはいってる」
「どんな神で書きゃァがったか知らねえが、今の上なんざァ、おめえ、十年もたちゃァもう書いたものは判らなくなるし、二十年たちゃァ紙のほうでぼろぼろンなる」
「そうは言っちゃァいられない」
 ってったんですがね。

 その後のなりゆきは、落語愛好家の皆さん、ご存知の通り。

 正蔵は、三平が存命中に、正蔵の名を返して、おじいさんの名、一朝を名乗ろうかとしたことがあるようだが、三平のとこから、「今、急に名前替えないで、よろしいまで正蔵でいてください」と言ってきたとのこと。

 しかし、まさか、あんなに早くその三平が亡くなるとは、正蔵も含め誰も思わなかっただろう。

 本書では、「正蔵代々」として、七代目から過去にさかのぼって、それぞれの正蔵のことが書かれている。

 せっかくなので(?)、代々の正蔵を並べてみたい。
 『古今東西落語家事典』なども参考にした。

    初代三笑亭可楽
       |
       |
   初代林屋正蔵
   *「可楽十哲」の一人
       |
       |----------------------------
       |             |
   二代目林屋正蔵          |
    *母が初代の後妻        |
     通称「沢善の正蔵」      |
       |       三代目林屋正蔵
       |        *初代の娘の養子
|---------------|         後の二代目柳亭左楽
|        |
|  四代目林屋正蔵
| *一時「二木家(ふたぎや)正蔵」と名乗る
|
|
---------------|
      |           二代目談洲楼燕枝
       |               |
      |               |
  五代目林家正蔵              |---------------------------
  *二代目門下。             |            |
   享年百歳           六代目林家正蔵          |
   通称「沼津の師匠」       *沼津の五代目の許しを得て  |
                    六代目を襲名        |
                                  |
                           ------------------|
                          |
                          |
                       初代柳家三語楼
                       *一時、二代目燕枝門下
                          |
                          |
                      七代目林家正蔵
                       *六代目の未亡人の
                        許しを得て襲名
 八代目林家正蔵                  |
  *師匠は、二代目三遊亭三福           |
  (後の三代目三遊亭圓遊)-            |
   四代目橘家圓蔵-                |
   三代目柳家小さん-               |
   四代目蝶花楼馬楽(後の四代目柳家小さん)   |             
  *七代目未亡人の許しを得て           |
   一代限りで名跡を借用             |
                       九代目林家正蔵
                      *七代目の孫。

 結構、縦の線を合わせるのに、苦労する^^

 初代からの筋で、正蔵の本家として継承されてきたと言えるのは、五代目までと言えるだろう。

 六代目、七代目、そして八代目は、先代の家族に了解を得ての襲名。
 九代目は七代目の血縁ではあるが、初代からの師弟関係は、すでに途切れている。

 だから、今の九代目を、林家の本家であるなどという指摘については、私は与しない。

 いろいろあった今回の三代目林家九蔵襲名騒動については・・・もうふれない。
 

 さて、『正蔵一代』からは、他にも紹介したいことはあるが、今回のシリーズとしては、お開き。

 長々のお付き合い、ありがとうございます。

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by kogotokoubei | 2018-03-30 12:18 | 落語の本 | Comments(0)
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 青蛙房『林家正蔵全集』別巻の『正蔵一代』から、四つ目の記事。

 三遊亭三福に入門した福よしが、旅で当時朝太と名乗っていた志ん生と出会ったことを、前回はご紹介した。

 さて、時代は、少し先に飛ぶ。

 「圓楽時代」から、“とんがり由来”をご紹介。

 とんがり由来

 あたしの“とんがり”って、あだ名もね、あれァ四代目が言いだしたんじゃァなかったかと思いますよ。
 もっとも、自分(てめえ)で言っちゃァおかしいが、あたしァ自分の事(こツ)で苦情を言ったことァあンまりなくて、おもに他人(ひと)のことでもって、とんがっちゃうんです。
 いつかもねェ、去年故人になった吉原の幇間の忠七、あの人をあたしがなぐっちまおうてえさわぎを仕でかしたことがある。

 四代目は、四代目小さん。

 この“さわぎ”は、忠七の幇間の師匠、桜川三孝が主催した温習会(おさらいかい)での出来事に端を発する。
 
 その時分のおさらいなんてえものは、朝の十時から始まって、まる一日ぶッとおして、夜の八時、九時までやって、手をしめてお開きにする。と、その開場まぎわになって、楽屋に弁当がない・・・・・・ってことンなった。そんな時にゃァ、それこそ天丼でもライスカレーでも、そういって取り寄せりゃァいいのに、そいつをその、忠七が、わざわざ弁松へ弁当を誂いたもんです。一百(いっそく)誂えた。そいつが届くうちにゃァもう、みんな帰っちゃうから、足りる足りないじゃァない、もう余りに余っちゃった。そしたらその、おだやかでものの判った三孝さんが、
「これァ無駄だなァ・・・・・・」
 って、そう言いましたよ。そィからあたしが承知をしない。忠七をなぐっちまおうってんで、吉原ィはいってった。もっともこっちァべろべろに酔ってたんですから、碌なもんじゃァない。すると、
「おいおい」
 って呼んだのが、浅草のやくざの山春で、それから、大慶という、吉原のやくざの溜り場みたいになってるすし屋へ行って、
「そんなに酔ってどこィ行く」
「酔ってるたってなんだって、忠七ってやつァふてえ野郎だ、弁当をあんなに誂えやがって・・・・・・これから行ってなぐっちまう」
「だけど、なぐたってしょうがねえ」
「どうしてもおれァやっちまう」
 って、そのすし屋の丸い小さな腰掛けをぶらさげて、戸外(おもて)へ出た。で、酔ってるもんだから、すぐ隣りのうちへ入(へえ)っちゃったんですよ。そのうちじゃァ驚いたってねェ。そうでしょう、べろべろに酔ったやつが椅子ゥひっさげてはいってきたんだから。
 とうとう忠七の居所ァ判らずじまいで、あとから心配して来てくれた人やなんかがあって、まァ当人にも会わないからなぐりもせず、ものもこわさず納まったんですがね。あくる日、そのすし屋の隣りのうちへ、最中の折かなんか持って詫びに行きましたよ。だから腹ァ立てると入費がかかるんです。そのくらいなら腹ァ立てなきゃよさそうなもんだが時々それをやるんですねェ。そんなとこから“とんがり”なんて言われたんでしょうね。

 弁松の弁当を誂えること自体は、決して忠七を責めることはできないだろうが、間に合わないことには、しょうがない。

 それにしても、当時の正蔵の勇ましい姿には、驚く。

 晩年、彦六のイメージから、酔って殴り込みをかける姿など想像し難いのだが、若き日々には、こんな威勢のいい江戸っ子だったんだねぇ。

 それにしても、すし屋のお隣は、びっくりしたことだろう。
 見知らぬ男が酔っ払いって、椅子持って乗りこんできたんだから^^

 さて、もう少し時間を進める。
 圓楽から蝶花楼馬楽を襲いだ時のこと。

 馬楽襲名

 あたしのうちに、馬楽になってからこしらいたワリを入れる財布があって、それに昭和四年としてあるんで、圓楽から馬楽に改名したのは、昭和四年だと思ってたんです。そうしたら、先日あるかたが、第二次落語研究会の番組のビラを見せてくれました。それをちょっとここへ写します。
 そうしてみると、あたしが馬楽になったのは、昭和三年五月てえことになります。

 その写しを、下に私も写す。
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落語研究会第二次第三回 
演 芸 会 番 組

    弥次郎       柳家小ゑん
    浮世床       柳家小せん
    竃怪談       三笑亭可楽
    岸柳島  圓楽改  蝶花楼馬楽
    松山鏡       三遊亭圓生
    居残佐平次     橘家 圓蔵
    粗忽の釘      春風亭柳橋
    ろくろ首 馬楽改  柳家小さん
    心眼        桂  文楽
    法華長屋      林家 正蔵

昭和三年五月第二日曜日(十三日)午前十一時半開場

   開場(神田区通新石町)  立 花 亭
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 先代の蝶花楼馬楽が四代目の柳家小さんとなり、空いた馬楽を圓楽だった正蔵が襲名、というダブル襲名だったことが、これで分かる。

 なお、トリの正蔵は、六代目の「今西の正蔵」。
 文楽は、もちろん大正九年には襲名していた八代目だが、すでに、評価が高かったことが、この出番からもうかがえる。
 圓蔵は、のちの六代目圓生で、義父であった五代目の後に出演していたんだね。
 可楽は七代目、「玉井の可楽」。

 ちなみに、小せんは二代目で、その後廃業し、落語協会の事務などを勤めた人。
 開口一番の小ゑんは、その後八代目の小三治。この人もその後、落語協会の事務になった。
  

 この「馬楽時代」に、あの人について、詳しく紹介がある。
 
 山春のこと

 空襲で死んだってえと、思い出すのは六代目一龍斎貞山ですねェ。大震災の少ゥしあとから、もうずっと、講釈師でありながら、落語界のほうに君臨して、席亭でもなんでも、ものの見事に押さえてたんですから、まァ政治力があったんでしょうが、寄席の講談としちゃァ芸もよかったてえことは事実です。
 昭和二十年三月十日の東京大空襲でやられて、隅田川へ落っこった死骸が、漂流したのを、人足が上げてトラックへ積んで、これを上野の山へ持ってって並べたもんです。そこへ、前にちょっと話が出た、浅草の顔役の“山春”が、焼け出されて上野の山へ逃げてって、つまずいたものがあるから、ひょいと懐中電灯を見たらば、貞山さんの死骸だってんですね。“山春”と貞山さんは仲がよくなかったんだが、ああいう場合には何か因縁ばなしみたいになっちゃうもんで、仲の悪いやつが見つけるってのァおもしろいもんです。

 この浅草の顔役“山春”は、五代目小さん襲名騒動の際に、活躍(?)することになる。

 正蔵によると、こんな人だ。

 この人は、本名を山田鉱次郎・・・・・・ペンネームみたいなもんで、山田春雄といったんで、“山春”ってのが通り名になったんです。芝に永寿亭という寄席がありまして、これァ落語の席じゃァなくて、浪花節(ふし)かなんかやってたらしんですね。そこの倅に生まれて、物ごころついてからお約束の道楽を始めたんで、株屋へ奉公にやらされた。そこをとび出してきて、今度ァあの、飯島という、露店商・・・・・・・デキヤですよね、その大親分のとこへ養子にやられたんですけども、そこも出ちゃって、浅草になんとなく居ついちゃった。
 テキヤのとこへ養子に行ってたから顔は広いでしょう。だから、浅草でも屋根屋の弥吉とかいう親分から何から残らず知ってるから、まァどこの身内というんでもなく、一匹狼みたいなもんですけども、人あたりはいいし、“ポンチ絵の羽左衛門”つったかなァ、ちょいと十五代目(たちばなや)にも似て見場はいいし、頭ァ切れるしで、そのうちに子分が大勢できて、かなり羽振りがよくなったわけです。

 株屋とテキヤをやっていた山春は、とにかくいろんなことを知っていたらしい。
 『牡丹燈籠』の「関口屋のゆすり」で、ゆすりに来た宮野辺源次郎を、逆に伴蔵がおどす時の啖呵、「おれなんぞァ悪いという悪いことは、二三の水出し、やらずの最中、野天丁半ぶったくり、ヤアのトハまで逐(お)って来たんだ」の意味を、すべて知っていたと正蔵は回想する。

 ちなみに、それぞれ次のような内容。
 “二三の水出し”は、白紙を水へつけて文字が出るようになっていて、二とか三とか決まった数字が出ると景品がつく、“やらずの最中”は、最中のからに数字がはいっている、どちらも、客から金を取って、決して勝たせない、いかさま。
 “野天丁半ぶったくり”は、祭りなどで野天でばくちをして、「おいおい、役人が来たぞ」と茣蓙(ござ)を引っ張って場銭(ばせん)をばらばらにして、あとでかき集める、という技(?)のこと。
 “ヤアのトハ”は、“ヤア”はヤァさまのことで、“トハ”は鳩のこと。鳩は人が来ると散るので、仲間が客が集まるまで人寄せをすること。

 正蔵いわく、うえつがたのことは知らなかったが、そういうことは、何でも知っていたとのこと。

 この山春、のちには、横田千之助という政治家や神田伯山の用心棒もしたらしい。

 ですから、浅草へ検事やなんかが視察にくるなんてときには、“山春”を通じて、新門の親分と会わせる。それから芸人が浅草で興行をやるときに、“山春”のうちの者が行ってる、と、あとから来た者ァ決して因縁をつけない、というような按配で。
 伯山さんなんかも、明治座とか、ああいう大きなところで独演会ばッかりよくやってましたから、“山春”はあれでずいぶん役に立ったんですね。

 正蔵と山春との付き合いは、師匠であった三福を山春が贔屓にしていた関係で、山春が株屋を飛び出した際、師匠の家にころがりこんだことから始まった。
 狭い師匠の家の押入れの上と下で寝ていた仲。
 山春は、正蔵を弟のように可愛がり、そのおかげで、長年浅草での仕事では、ゆすりやたかりの被害に遭わずにすんだ。

 山春は、その弟分のために、五代目小さん襲名の騒動で活躍(?)することになる。

 今回は、正蔵自身が威勢のいい喧嘩ッぱやい時分の逸話と、馬楽襲名の時のこと、そして“山春”のご紹介までで、お開き。


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by kogotokoubei | 2018-03-29 12:27 | 落語の本 | Comments(0)
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 青蛙房『林家正蔵全集』別巻の『正蔵一代』から、三本目の記事。

 数え年十八で、三遊亭三福に弟子入りし、福よしとなった岡本義少年。

 前回ご紹介したように、三福は桂小南などがいる三遊分派に属していたが、この一派は長続きしなかった。
 そこで、福よしは、旅興行に参加した。
 
 もちろん大真打なんぞァいやしません。一番の頭株が、数年前に亡くなった立川ぜん馬(鳥井兼吉)さんです。
 あの人は、もともとは“鼻”の圓遊さんの弟子で、そのころは遊福でしたかねェ、旅のあいだは右圓遊っていってたかなァ。それから本名を川崎仙太郎といって、のちに橘家花圓蔵となりましたが、その時分に三遊亭遊橋といってましてね、もともと芝の薪屋のあるじで、川柳なんぞもうまくって、世事には大変長(た)けてる人なんで、これがまァ参謀格なんですよ。
 (中 略)
 まァそういう一座にあたしも入れてもらって、静岡だとか浜松とかをまわるんですけども、途中で抜けるやつもあるし、また、何処かから駈けこんできて仲間にはいるやつもいるし・・・・・・というような按配で、だんだん打って行って、焼津から浜松の勝鬨亭って小屋へあがったもんです。
 そン時に、こないだ亡くなった志ん生と、初めて出会ったんです。

 本書の発行が昭和49年9月。志ん生は、この発行日から、ほぼ一年前に亡くなっている。東大落語会のメンバーが稲荷町で正蔵に話を聞いた時点では、たしかに“こないだ”のことだったのだろう。

 どんな出会いだったのか。

 そのころは朝太といってたでしょうね。やっぱり旅まわりでほうぼうを歩いていて、落語の一座があったらとび込もうと思ってたんでしょうが、それもないんで、しょうがなくて、一文なしで宿屋へ泊まったんですね。それで無銭飲食のかどで警察へ突き出されたってんです。と、その時分ですから、区裁判所かなんかへ送られたんじゃないんですかね・・・・・・途中で、われわれ一行のビラを見たんです。それでその検事って人が大変情けのある人で、
「おまい噺家だな」
 ってんで、今、道で見た勝鬨亭のあの一行を知ってるって奴が言ったもんだから、勝鬨亭のほうへ、だれか出頭してくれって差紙が来たんです。
 するとこの勝鬨亭のあるじってえのが馬淵さんてえまして、まァ田舎政治家といったようなもんで、そういうことには慣れてるから、おめず臆せず出頭して行ったならば、その件なんで、
「この噺家が、おまえンとこにかかってる芸人の中ははいりたいと言ってる。宿屋の代金を払えば潔白な身の上になる、疵をつけなくないから、なんとか協力してくれないか」
 代金ったって大した金じゃァないんですよ。で、馬淵さんが即金で上納して、やつを引き取ってきて、ま、われわれの仲間へ入れてくれってわけなんで。

 あらら、志ん生、当時の朝太は無銭飲食でつかまっていたんだ。

 正蔵が印象深く覚えている、志ん生との初対面の出来事。

 あくる朝になってね。どうせわれわれァみんな楽屋へ泊まってるんですから、田舎の寄席で、戸外(おもて)に水道があって、そこィバケツを持ち出して顔を洗うんです。で、やつとあたしと顔を洗っちゃってから、あいつが、
「おい、ちょいとまんだら貸してくンねえか」
 まんだらてえのをあたしがまだ知らないんですねェ、噺家になりたてだから・・・・・・。
「おゥ、手拭いだよ」
 って言われて、手拭い貸してやった、というような仲なんで・・・・・・。ですから彼とはずいぶん古くから知り合ってるんですよ。

 この時分の志ん生は、最初は師匠二代目小圓朝の旅興行について行ったのだが、明治天皇崩御で師匠が東京に戻ったのに、自分は帰らず旅を続けていた。

 そんな時に、福よしの正蔵に出会ったということか。
 宿代も払えない状況で、手拭いすら持っていなかったわけだ。

 二十代前後で出会った二人。 
 
 正蔵は、志ん生について、こう回想している。

 過去が過去だから、彼の薄情なところも、そっくり知ってますしね。あいつのほうが先ィえらくなって、こっちァまだちっともえらくねえ、と、
 「義(よ)ッちゃん、おまいとはずいぶん苦労したねェ」
 ってことは・・・・・・人前では決して言わない。あたしとふたりッきりになると言うんですよ。そういうところが、死んだ金馬にちょいと似てましたね。金馬も、あたしがあすこの家ン遊びに行って、
「一ぱいつけるから飲んでけよ」
 なんてえ時には、しみじみと話をするんだけども、だれか一人でもそこにいた日にゃァ、もう、はっきり格差をつける・・・・・・そういうところがありましたよ。
 でも、あたしが志ん生に感心してるのはねェ、彼がそう言いましたよ。
「おれァ警察に引っぱられてな、縄付きンなって検事局にも行ったけども、留置場ン中でおれァ毎晩噺を稽古してえた」
 これがあいつの生涯の魂でしょうねェ。

 いい話だなぁ。

 この後には、子供ができてから、一番安い遊び場所が上野の動物園で、志ん生親子と正蔵親子は、たびたび動物園で親子連れで顔を合わせた、という思い出が語られている。
 なぜか落ち合う場所は、河馬の檻の前だったらしい。

 さて、今回は、若き正蔵と志ん生との出会いのお話だった。

 次回は、もう少し時代が先のことになる予定。


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by kogotokoubei | 2018-03-28 12:33 | 落語の本 | Comments(0)

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 青蛙房『林家正蔵全集』別巻の『正蔵一代』から、二つ目の記事。

 
 『芸の話』から、奉公先から藪入で家に帰ると別な人が住んでいた、という逸話を紹介した。
 その後も、正蔵はいくつか奉公をしている。
 最後は、人形の木地屋ってえのをやりました。
 これァ、おがくずみたいなやつを生麩(しょうふ)でもって固めて、それで人形の胴なかだの、手足をがらんどうにこしらえるんですけどね、この木地屋は、その時分、よその空地に出来上った木地を干しとくんで、その関係で、近所に空地がなくちゃいけないんですよ、自分で土地を買うってほどの資力はないんで。だんだん空地がなくなっちゃって、おしまいごろには亀有のほうへ越しちまいましたが、あたしがやってた時分には本所ッの小梅のほうに居ましたね。
 住み込んだり、かよったり、自由ですけど、そこのうちのあるじが静岡の人で、義太夫なんぞ語って、やっぱり吉原の見世の者ですね、牛太郎やなんかやったことがあって、なかなかしゃれたうちでしたよ。
 木地屋は、三年か四年やったでしょう。だからもう、十七、八になった。

 この木地屋の主人も、落語国の住人、という感じだなぁ。
 それにしても、昔は、いろんな仕事があったものだ。

 さて、岡本義少年の落語家生活が、ようやく始まる。

 「かけだしのころ」から引用。

 正蔵の落語界入りには、それほど劇的なドラマはなかったようだ。

 弟子入り

 噺家になったのが、数え年で十八の時です。のちに三代目の圓遊になった伊藤金三という人が、三遊亭三福といってました。そこへ弟子に行ったんです。
 噺家になるについて、別に大それた志があるわけでもないんで、そのころは、徴兵適齢になって職業をもってないと、なんか肩身がせまいような、そいいう時世でしたからね、なにかやらなくちゃいけねえだろうってっんで、まァ、寄席というものは、小僧の時分から行ったり、そのほかにも下町の者は行く機会が多いですから、そいでまァ、ただふらふらッと、噺家になっちゃったんですがね。
 
 なぜ、三福だったのか、について。
 三福さんのところへ行ったのは、三福さんの贔屓というような旦那がいて、その人の口添えで行ったんですが、あとで考いれば、やっぱり小さん・圓右の弟子になるべきでしたね、ええ、それがために、義理だてをして、ずいぶん苦労しましたからね、苦労てえものは身につくことで、これァもう、必ず無駄にゃなりませんよ。けれども、やっぱりその、苦労をしているうちがねェ、並たいていじゃありません。

 三福は、『古今東西落語家事典』によると、明治十一年生まれ、正蔵が入門した明治四十五年には、三十四歳ということになる。
 三代目圓遊襲名は大正十四年。晩年は、幇間に転向し、昭和二十年三月の空襲で焼け出され、疎開先で同月十七日に亡くなったとされている。

 福よしの名で三福に弟子入りした頃の東京の落語界について、次のように説明されている。

 あたしが噺家になった時分には、三遊分派というのがありまして、これァ、桂小南(初代。若田秀吉)、三遊亭遊三(初代・小島長重)、三遊亭圓橘(三代目・塚本伊勢吉)、土橋亭里う馬(七代目・村松新三郎)、それにあたしの師匠の三福、それから音曲師でもって橘家三好、こういうところがずヮッといまして、若手では、のちに今輔になった中島市太郎が三遊亭右女助で、そろそろ売り出してくる・・・・・・と、そういう時でした。
 三遊の本派のほうは、名人の圓喬(四代目・柴田清五郎)を除いて、圓右(初代・沢木勘次郎)、圓蔵(四代目・松本栄吉)、小圓朝(二代目・芳村忠次郎)、それに音曲で立花家橘之助、そういう人たちがずらッといましてね、それで、圓喬さんは、独立して一派を立てていましたから、つまり、三遊が、本派、分派、圓喬派と三つに分かれていたんですね。

 あの立花家橘之助の名も登場。

 正蔵入門当時は、三代目小さんは全盛期を過ぎてもおり、三遊派の方が優勢だったと思われる。だからこそ、三派併存もできたのだろう。

 さて、福よしの落語家生活のその後は、次回のお楽しみ。
 
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by kogotokoubei | 2018-03-27 12:25 | 落語の本 | Comments(0)
 二月末で閉店した池袋の古書店、八勝堂で買った三冊の本。

 その一冊は、噺家の川柳の師匠であった坊野寿山による『粗忽長屋』。
 鹿連会と名づけた川柳の会を通して、寿山にしか語ることのできない噺家たちの逸話を、いくつか紹介した。

 また、林家正蔵『芸の話』からは、“とんがり”の正蔵ならではの内容の一部を記事にしたばかり。

 実は残る一冊も、八代目林家正蔵の本。

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 青蛙房の『林家正蔵全集』別巻の『正蔵一代』である。
 昭和49(1974)年9月25日の初版。
 その後、新装版は、正蔵の写真を表紙にして発行されているが、八勝堂で手に入れたのは、シンプルな紺地表紙の初版。

 『芸の話』とほぼ同じ時期の発行だが、こちらの方が少し遅い。
 
 東大落語会の編集で、原稿化は若い人々、監修と“動き”の記録を吉田章一さん、演目解説のまとめを保田武宏さん、芸談・身の上ばなしを山本進さん、という分担だったとのこと。

 それぞれ、個人でも落語関係の著作をものにしている落語通だ。

 しかし、その中の山本さんも、ご苦労なさったようだ。

 「あとがき」で次のように書いている。

 うかうかと引き受けたのがまちがいで、これはやはり私の任になかったのではないか・・・・・・と考え出した理由はいくつかある。ひとつには、正蔵師自身が大そう筆の立つかただということ。もうひとつは、麻生芳伸氏による『林家正蔵随談』と柳家紫朝師による『芸の話』が、すでに世に出ているということ。そうして、最後で最大の理由は、私自身がこれまで正蔵師の“芸”と“人”とをあまりにも知らなすぎたということである。
 あの山本さんにして、収録したテープ、二十時間の内容で、初めて知った“芸”と“ひと”が盛り込まれているということになる。

 目次を並べてみる。

 ・浅草育ち(明治二十八年~明治四十四年)
 ・かけだしのころ(明治四十五年~大正八年)
 ・圓楽時代(大正九年~昭和二年)
 ・馬楽時代(昭和三年~昭和二十五年)
 ・正蔵一代(昭和二十五年~)
 ・怪談噺・芝居噺

 最初の「浅草育ち」では、生まれ育った環境や家族などが詳しく書かれているのだが、その内容に、岡本義(よし)少年の周囲には、落語国の登場人物が生きていたのだなぁ、と思わないではならない。

 まず、お父上のこと。

 三歳(みっつ)の年に、おやじとおふくろとが別れまして、それで、おふくろが子供ふたりと自分の母親・・・・・・つまり、あたしと姉と、あたしのおばあさんですね・・・・・・それを連れて、浅草へ来たんです。
 おやじってのは、初めは“にんべん”あたりの大きな鰹節屋の通い番頭だったそうですが、その後、道楽をして、牛太郎(ぎゅうたろう)ンになったんですね。まァ、筆がたって、人間もきっとしっかりしてたんでしょう、その仲間の、今の言葉で言やあ、ボスですね、他人(ひと)の世話もする、というようなわけで・・・・・・。あたしたちが浅草へ越してきてからも、いわゆるその、子分の人がね、訪ねてきてくれたもんですよ。

 このように、お父さんが、“牛(妓夫)太郎”であり、仲間から慕われる“兄い”とでも言える人だったのである。
 まさに、落語の重要な登場人物である。

 お母さんの血筋にも、こんな人たちがいる。

 おふくろは、岡本かねというんですが、実家が鎌倉河岸で岡本屋ってえ船宿をしてましてね、そこの倅が鳶の者になった・・・・・・これがつまり、あたしのおじいさんにあたるわけなんです。その鳶の者と女房のあいだィできたのがおふくろで、ひとりッ子だったらしい。ですから、その母親、つまりあたしにとってのおばあさんを引き取って、一緒に暮らしてたわけなんです。
 このおばあさんというのが、人間もしっかりしてるし、針仕事のうまい人でしたよ。鳶の者の女房ってえものは、針が持てないとだめなんですってね。火事場へ着てった刺ッ子なんぞは、それァ今と違って、一ン日も二日も燃え続けているでしょう、だからもう、ずたずたンなって帰ってくるんですってさ。それをほとんど新しいように、きれを当てがって刺すってえのが鳶の女房の役目なんです。それであの、糸をね、額の生えぎわの髪の毛へ当てがって左右にこう、きゅッきゅッとしごくでしょ?しょっちゅうしごいてるから、そこンとこだけ禿げてましたよ。もう今はそんな人ァ見かけませんからねェ。

 あら、母方のおじいさんは、鳶。
 鳶の女房だったお婆さんは、刺子を直す、針仕事の達人。

 これまた、落語に不可欠なバイプレーヤー達ではないか。

 次に、お母さん自身のこと。

 申し上げたように、あたしが三歳(みっつ)の年に、おやじと別れてから、浅草田町に来ましてね、それでおふくろは吉原の“おばさん”になったこともあるんです。もちろんあたしは、おふくろが吉原の遣手(やりて)になってるなんてことは、その時分には知りませんでしたけども、何年かたってからねェ、やっぱりその時分のお客がうちィくるんです。これがその、まじめな相談でくるんですね。つまし、勤めをしている妓(おんな)と夫婦約束をして、
「あたしァ一生懸命に稼いでいるから、おばさん、よろしく頼む」
 なんてね、そういう、まァ人生相談所みたいなわけで・・・・・・。
 このおふくろも永生きしました。この稲荷町の家で死んだんですがね。

 あら、お母さんが、吉原の“おばさん”もしていたんだ。

 近所にも、こんな人がいた。

 あたしが住んでた家(うち)の持主じゃァないんだが、少し先のほうの長屋を何軒か持っているという家主(いえぬし)が、実に落語の中ィ出てくるような典型的な人物なんですよ。禿げ頭でもって、
「南無妙法蓮華経なんみょうほうれんげきょう・・・・・・」
 って、お題目を唱えながら往来へ水を撒くんですが、
「八百屋さん、そこィ荷車置いちゃいけねえ」
 とか、
「魚屋さん、その、盤台をもっとこっちィ寄せな」
 とか、いちいちその、小言を言ってね、おもしろござんしたよ。

 まさに『小言幸兵衛』や『小言念仏』のあの爺さんではないか。


 正蔵の周囲には、今では落語でしか知ることのない職業や境遇の人々が、当たり前のように生活していた。

 そんな日常、環境の中で、自然と芸の世界に飛び込んでいったように思える。

 次回は、「かけだしのころ」から、ご紹介したい。

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by kogotokoubei | 2018-03-26 12:36 | 落語の本 | Comments(2)
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 林家正蔵の『芸の話』から、五つ目の記事。
 『民族芸能』に連載された随筆の「噺家の手帖」からご紹介。

 こんな楽しい提案があった。
 悪口雑言デー

 近ごろの世相は勝手気儘の行動を自由主義と思い違いしている事象が多すぎるようだ。乗物の中で少し席を譲り合えば、もう一人掛けられるのに一切黙殺だし、落し物を拾って手渡ししても一言の礼もいわぬ人、湯へ行って扉をあけると中から出てくる人、湯屋の扉は自動装置ではないはずだ。他人に開け立てさして出入りをするのは、キャバレーか刑務所ぐらいなものだ。
 乗物の席のことなどは、私も毎日のように感じている。
 この、キャバレーか刑務所、というたとえが、実にいいねぇ^^

 さて、とんがりは、この後、どう続けるのか。
 かかる非常識きわまる人類を教養づけるために「悪口雑言デー」を設けることを提案したい。
 この日に限り他人の悪口雑言には悪口雑言をもって応酬し、決して暴力には訴えぬという紳士的態度で、週に一回でも月に一回でもこんな催しがあったら愉快なことであろうと思う。

 なかなか楽しそうな記念日(?)ではないか。
 とんがりの、非常識きわまる人類への応酬は、こんな調子だ。

 電車の中で上衣のボタンをかけておかないので隣りの人が座席に坐ると上衣のスソを尻にしかれるから邪険にひっぱる人ーには、
「上衣のボタンを一ツはめておくとスリが取りにくいといいますよ。上衣のスソなんか他人の尻になったって痛かァねえんだから、そのまンまにしておけッ。しみったれめッ」

 いいねぇ、この啖呵!

 次に紹介したいのは、ごくごく短いのだが、弟子に関する楽しい内容。

 噺家らしさ

 私が腰を痛めて一週間病臥した。弟子の中で柳朝独りだけ見舞に来ない。呼んで小言をいってやろうと電話をすると「誰かしくじったんですか?」「お前だよ」「じゃ明日連れて行きます」「・・・・・・」

 これだけ^^

 柳朝は、いったい誰を連れて行ったのか^^

 このシリーズのトリは、正蔵十三歳の時の思い出。

 昔は貧乏人の子倅は義務教育(尋常小学)が終了するとすぐ奉公に出された。私も型のとおり小僧に住み込んで十ヵ月経って、正月の藪入にいそいそと懐しいわが家を訪ねると他人が住んでいる。驚愕とはこのことだ。移転したことは主家へ出入りの人に伝言を頼んだのだがその人が忘れたとは後でわかったが、その日は私は食事もせずに狂気のように探し歩いた。トド、お寺の離れ家ににいたのだが、便所の手洗いの所にかけてあった手拭いが私が家にいたときに使っていた品だ。「お母さんッ」障子を開けて泣きながら飛び込むと、お婆さんお母さん姉さん夫婦みんないた。もう夜になって電灯が点いた。十三の子供であった私は主家へ帰る分別を失った。あの手拭いが私を噺家にしたのかな。

 岡本義(よし)少年の運命を決めたのは、この手拭いだった、ということか。

 さて、これにてこの本からの“とんがり”のお話はお開き。

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by kogotokoubei | 2018-03-25 20:12 | 落語の本 | Comments(2)
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 林家正蔵の『芸の話』から、四つ目の記事。

 今回は、正蔵の芸の師匠について。

 あたくしが、噺を教わったのは、三遊亭一朝老人、当時はまだ、三遊亭円楽といってましたが、直接あたくしが教わったのはこの人です。名人円朝の直門で、慶応元年に十九歳で円朝門下となったんですからネ。「三遊の稽古台」といわれるくらい噺の数も多い人でした。先代の円生さんも、つい先頃亡くなった文楽さんだって、この人には一つや二つの噺は教わっていますし、現在の円生さんもたしか教わっているはずです。円朝師匠の芸はあらましこの人が継承していますので、このお爺さんのところへいちばん稽古に通ったあたくしと、いまの今輔(古今亭)が、円朝の噺を多く吸収できたというわけです。前座、二ツ目の噺から、真打の噺、それにお家芸の怪談噺にいたるまで、このお爺さんに教わりました。

 一朝は、正蔵もそう言うように、三遊亭一朝とも呼ばれるが、ご本人は三遊と言っていたらしい。
 その前が二代目の三遊亭円楽、短い期間だが初代の三遊亭小円朝でもあった人。

 ご本人の高座は、それほど高く評価されなかったようだが、“稽古台”としてうってつけの方だったようで、正蔵が述懐しているように、多くの後輩が稽古をつけてもらったという。
 引用を続ける。

 今輔が芸術協会のほうへ行って、新しい型の、例のお婆さんもので売り出しちゃいましたが、当時、あたくしが二三蔵でかれは桃輔といったころの同門ですよ、二人で、当時浅草栄久町にいた一朝爺さんのところへ夢中になって通いましたよ。
 いまあたくしの演(だ)し物のあらかたはこの一朝老人から教わったものです。もっともそのころはお手本になるような師匠の噺がふんだんにきくことができましたがネ、四代目さん(小さん)にも芸風で影響もうけましたし、品川の師匠(円蔵)には、「首提燈」とか「お血脈」「蔵前かご」なぞで影響をうけますしネ、また、たとえば「五人廻し」なぞでは、さいしょの妓夫太郎と客のやりとりとか、さいごのほうのおもしろさにひかれましたし、なかで、ポンポン啖呵をきるところなぞは、円右師のものですし、田舎侍が出てくる場面になるとなんといっても三語楼さんのがよかった・・・・・・ってな具合で、楽屋できいていて、それぞれの師匠のそうした良いところを、自然のうちに吸収していくんですネ。

 一朝老人、あるいは一朝お爺さんと、正蔵は親しみをこめて呼ぶ。

 一朝お爺さんにはネ、あたくしも今輔もネ、仕込んでもらった・・・・・・ってえことですよネ、ネタをふやす、という目的じゃなくて、“芸”を仕込んでもらうということは、こりゃァちがいますからネ、もっとも芸を仕込んでもらうといったって、毎日毎日行くんですから、むこうだって、そうそうは疲れちまいますから、どうかすると、雑談だけで終わっちゃうこともありますがネ、その雑談もあたくしたちにはなにかとためになることが多うございましたよ。そんななかで、ピリッと、どっかきびしいことも教えてくれたもんです。あたくしが今でもいちばん覚えていることは、「芸人だから、情婦(いろ)はつくってもいいが、女房にすると言っちゃいけないよ」・・・・・・なんて言われたもんです。こりゃァいい言葉ですよネ。


 噺のみならず、処世術も一朝お爺さんは伝授してくれた、ということか。

 一朝お爺さんへの恩に正蔵は夫婦で報いた。
 聞き手の紫朝が、マキ夫人の言葉を含め、こう書いている。

 ところで一朝老人が、昭和五年十一月、八十五歳で亡くなるまで、しばらく寝たっきりになってしまう。入谷の借家の二階に寝かせた「お爺さん」の面倒見はマキ夫人の役、下(しも)の世話からなにからなにまで、ちょうどそのこと何番目かのお子さんをみごもっていたマキ夫人は、ひんぱんな、二階へのあがりおりに、流産してしまう。でも愚痴一つこぼさず、最後の最後まで「お爺さん」にはつくした。
 かと思うと師匠の芝居噺の道具をはこぶ大八車のあと押しをしたり、質屋通いから内職、それに育児と一人三役四役を背負って、あたりまえのことのようにやりぬいてきた。
「関東大震災で家が焼けちゃったでしょう、あたしには震災さまさまでしたよ、だって嫁にくるとき持ってきたものも全部焼いちゃっいまして、姉たちに言えますもんネ、それまでは、なんかちょっと家に行きにくかったのが、それ以来平気なんですよ、そしたら姉たちがまた着物なんかこさえてくれてネ、オッホホホ・・・・・・」
 正蔵師匠の若さの一因を、このおかみさんから汲みとることができそうだ。

 こんなできた女房がいたら、一朝お爺さんの助言がなかろうと、とてもとても情婦に向かって女房にする、なんてぇことは言えやしないか。

 一朝お爺さんの最後を看取った後、世の中には軍靴の音が響き、正蔵も大陸に慰問に行ったことなどは、すでにご紹介した通り。

 これまでの記事は、「その一 噺家のはなし」からの引用。

 「その二 怪談ばなし」は、『真景累ケ淵ー水門の場ー』の口演内容。
 「その三 噺のはなし」は、拙ブログと同じお題だが、正蔵ならではのマクラも紹介されていて、なかなか楽しい。つい、大須の志ん朝の音源からマクラを聞き書きしたことを思い出す。しばらく、やってないなぁ・・・・・・。
 「その四 噺家の手帖」は、最初の記事で紹介したように、「民族芸能」誌に掲載された随筆だ。
 次回、その随筆からなにかご紹介して、このシリーズはお開きの予定。


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by kogotokoubei | 2018-03-23 08:56 | 落語の本 | Comments(2)

 闘病中だった立川左談次の訃報を目にした。

 朝日新聞から、引用する。
朝日新聞の該当記事

落語家の立川左談次さん死去 67歳、8日前まで高座に
2018年3月20日23時12分

立川左談次さん(たてかわ・さだんじ=落語家、本名山岡通之〈やまおか・みちゆき〉)が19日、食道がんで死去、67歳。通夜は25日午後6時、葬儀は26日午前11時から東京都荒川区町屋1の23の4の3の町屋斎場で。喪主は妻光子さん。

 68年に立川談志に入門し、82年に真打ち昇進。16年にがんであることを公表し、治療を続けながら、今月11日まで高座に上がっていた。

 実は、ぜひ聴きたかったので、来月の渋谷での雲助との二人会のチケットを取ろうとしていた矢先だった。

 残念、無念だ。

 最後のブログの記事は、2月16日付け、20日間休まず通院して治療した後のもので、「褒めてつかわす」と題するものだった。
立川左談次のブログ

副作用も辛いけど、仲間の笑顔の為ならなんのその
 の言葉が印象的だ。

 ツイッターは3月5日が最後で、体調最悪、とあった。

 こまめに一門の人の近況を綴っている談四楼のツィッターを見ても、予期していなかったことがうかがわれる。
立川談四楼のツィッター

 昨年11月のNHK BSプレミアム「アナザーストーリーズ」で志ん朝を取り上げた番組に登場していたことを思い出す。
2017年11月1日のブログ


 やはり、もっと早くに、聴きに行くんだったなぁ、と悔やまれる。

 合掌

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by kogotokoubei | 2018-03-22 12:17 | 落語家 | Comments(4)
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 林家正蔵の『芸の話』から、三つ目の記事。

 戦後のお話。
 明治生まれの、今では考えられない当時の心境が回想されていた。

 あのころことによると「陛下」も戦犯に指名されるんじゃないか? なんていう噂がとんだことがありましたネ、もし「陛下」が戦争犯罪人として裁かれるようなことになったら、あたくしは宮城(皇居)のお掘へとびこんで死のう、と、真剣にそう思っていましたネ、もしそんなことになっていたら、あのお堀は殉死した死人で埋まったことでしょうネ、戦前のふるい教育で育ったわれわれはどうしてもそういうことを考えるんですよ。
 あの正蔵にして、と思わないでもないが、これだけは戦後生まれの我々には理解を超える明治人たちの感慨だったのだろう。
 
 食べ物がないひもじさや、税金の取り立てなどにも苦労しながらも迎えた昭和25年、あの名を襲名する。

 昭和25(1950)年に、八代目林家正蔵を襲名しましたが、元来この正蔵という名は怪談噺の家元名で、初代の正蔵は、文化三年に名乗って、天保十三年に亡くなりました。自分の棺の中にひそかに花火をもちこんでいて、火葬にしたらそれがバンバンと威勢よく破裂したという変人です。怪談噺の始祖といっていいでしょう。で、あたくしも怪談噺をやるしするから・・・・・・と、今の三平君のお父さんが先代正蔵で、亡くなってその名があいていたにで、未亡人、つまり三平君のオッ母さんのところへ行ってたのんだら、あたくし一代に限りおかししますというので、了解して八代目正蔵を名乗ったんです。ですからあたくしも、八十歳までこの名でいて、おかえししてもし余生があったら、なんかオツな隠居名前でも考えてみようかと思うんです。ですから、いまの三平君がいずれ、九代目正蔵になるんですネ。この間もその話をして、どうか正蔵にふさわしい芸をやってくださいよ、とたのんだら喜んでくれましたよ。

 本書発行の昭和49年当時は三平の絶頂期と言えるかもしれない。
 脳溢血で倒れる五年前。

 正蔵から、九代目正蔵に“ふさわしい”芸をやってくださいよ、と言われた三平が喜んでいたとのことだが、もし正蔵の問いかけに笑顔で応えたとしても、その笑いが心底喜んでいたものかどうかは、正直なところ、疑問でもある。
 正蔵も、“ふさわしい”という言葉にどんな思いを込めたのだろうか・・・・・・。
 まさか、三平に怪談噺を期待したわけではなかろう。
 父親の七代目正蔵も、怪談噺をするような噺家ではなかったから、父に負けないような正蔵になって欲しい、という思いだったのかもしれない。

 いずれにしても、九代目正蔵は、七代目の子ではなく、孫が襲名することになった。
 その根岸の林家に関する今回の騒動については、もう書かない。
 名跡や襲名には、いろんなことがからんでいるし、考え方も人それぞれだからね。

 次は、この本の出版社にも関連する話題。
 
 聞き手の紫朝に、正蔵が共産党を応援していることについて、きかせて欲しいという問いかけにこう答えている。

 そうですネ、あたしゃなにも共産党の主張とか思想とかに共鳴しているわけでもなんでもありません、政党のことなぞ、ほかの政党もふくめてなんにもわかっちゃいません、しかし自民党にはあきたりないって気持ちはだれしも持っているわけで、そこへたまたま、共産党の人と知り合いになったから、それを応援するという、ただそれだけのもので、社会党とさきに知り合ってたら、そっちを応援したかも知れない、しかし社会党はわれわれ芸人なぞ、そうした階層より、労組といったああいう組織のほうがなにしていて、なにか親しさがない、もっともいまだに共産党が天下をとったら、宮城(皇居)が宮本顕治の住まいになる、なんてひでえことを言うのがいて、こりゃァ漫画にもならないデマで、そういうことをあたしゃ信じちゃいませんがネ、なにごとも自民党じゃ困る、自民党と対決することができる共産党を応援しようって気持ちですネ
 この後、野坂参三から著書を贈ってもらい、お礼の手紙を送ったものの、近所に野本という人がいて、つい、野本と名前を間違え、お詫びの葉書を出した、という話が続く。

 野坂先生から折り返し、人の苗字なぞとかく思いちがいのあるもの、お気になさらず云々とあってネ、仕事が片づきましたらお宅にコーヒーをご馳走になりに伺いますから・・・・・・としてあるんだなァ、ネ、これだけでもあの方の人格ってえものがわかりますよネ、そこでまァ好きになっちゃう
 当時は田中角栄首相時代で、本書発行の二年前昭和47年には、日中国交正常化があった。
 逆に、本書発行二年後の昭和51年に、ロッキード事件が発覚する。

 共産党は、正蔵が好きになっちゃった、という野坂参三が議長。

 sて、共産党に関する正蔵の言葉は、次のように締められている。

 穏健ないまの方針にあきたりないではみ出す人だっていると思うんですが、そういうのは焦ってるんだなァ、焦ったところでどうなるものでもないでしょ、焦らなきゃァならないのはあたくしの年になって芸の完成を目指して焦る、こりゃァ焦りますよネェ、なにしろ先がないんだからネェ。

 明治28(1895)年生まれの正蔵、昭和49(1974)年、79歳の言葉である。
 昭和43年には、紫綬褒章と芸術祭賞の受賞していながら、まだまだ芸の完成を目指し、焦っていたんだねェ。

 “とんがり”の正蔵なら、はたして今の政治状況について、どんな発言、行動をするだろうか。
 
 正蔵とマキさんご夫婦には、六人のお子さんが生まれたが、四人は夭折されている。
 ご長男の信雄さんのことについて、ご夫婦の言葉を最後にご紹介したい。

マキ 亡くなった信雄は子供のころ木馬が好きでネ、浅草の木馬館へ行ってグルグルまわるあれにのせてやったっけ。
正蔵 信雄も可哀想な子だったネ・・・・・・あたくしの長男ですが、戦時中徴用にとられて、どっか地方の工場で働かされて、栄養失調と過労がもとで戦後間もなく二十二歳で死にました。ちょうどあたくしが税金が払えないで苦しんでいたころ、あの子がひとりで寝てる家へ税務署が来て、その病人の枕元の品物からなにまでベタベタ差し押さえの紙を貼っていきゃァがった。
マキ あの時ですよネ、旦那が税務署にのりこんでいったにおは・・・・・・
正蔵 まったく情のカケラもない奴等ばかりであのときばかりは心底腹が立った。
 
 この税務署の行為を、血も涙もない丸太ン棒という。

 正蔵なら、今日の税務署の親方の体たらくを見て憤り、財務省に乗り込んでいるかもしれないなぁ。

 次回は、正蔵の芸の師匠であり、その最後を看取った、一朝爺さんのこと。

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by kogotokoubei | 2018-03-21 12:18 | 落語の本 | Comments(2)
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 林家正蔵の『芸の話』から、二つ目の記事。

 大正十二年の関東大震災以降のこと。

 あたくしも震災後は、池袋やら入谷やら、雑司ヶ谷あたりにも住んだりして、転々としましたが、昭和十二年に現在(いま)のところに落着いていつの間にか、三十四~五年になっちまったんですネ。そうこうしているうちに日支事変の前ぶれの満州事変やらなにかがおきて、国民はツンボ桟敷におかれたまま、非常時となってくるんですが、どうもそんな世の中のことはあたくしどもには大して興味もかかわりあいも感じませんでしたがネ、「日支事変」のはじまる前、「満州」に出兵していた兵士の慰問ということで、当時の陸軍省新聞班、これがのちの情報局の前身だったらしんですが、ここから派遣されることになり、あたくしと貞丈(先代)が熱河省あたりへ慰問に行くわけですが、むこうについたら、あっちは関東軍の支配下でネ。陸軍省の御用で行ったわれわれも、あの関東軍の威勢には驚きましたネ。

 落語家で大陸に慰問、となると、どうしても志ん生、円生の方が有名だが、彦六も行っていたのである。
 
 この後、零下何十度というとんでもない寒さを、餞別でもらった真綿を体中にまきつけて、しのいだと書かれている。
 結構、大変だったんだねぇ。
 しかし、良いこともあったようだ。

 この前線慰問というのはいい稼ぎになりましたネ。日当五円ぐらいもらえるんですからネ、それでどこへ行っても喜ばれるし、内地ではそろそろ食えなくなったようなものだってフンダンにあるし、あの前線慰問でうるおった芸人がずいぶんいるんじゃありませんか? 情けないッていっちゃえばそれまで、それほど、寄席の芸人が貧乏してた・・・・・・ってわけですな。

 その後、戦況が悪化していった。
 それが、昭和18年ころともなると、前線慰問もだいぶ事情がかわってきましてネ、その年の六月に、およそ三ヵ月という約束で、そのときは広東(現在の広州)へ行ったんですが、われわれ慰問団が到着した現地に、とっくに還れるはずの、先発隊の“たぬきや連”の人たちがまだまごまごしてるんですよ、輸送船などが狙われて爆撃か魚雷か知りませんがどんどんやられちゃうので船の手配がつかない・・・・・・なるほどその人たちの腕にまいた日の丸の腕章が色あせて、黄の丸になっちゃってましたネ、こりゃァわれわれもひょっとすると・・・・・・と予感が当たって、順調にいけば八月中に内地に還れるはずが、何とその年の十二月に、それも台湾から、やっとの思いで調達してくれた船にのってかえることができました。いよいよ明日はかえれるという前夜お名残りの演芸会で皆気はそぞろ、歌手は唄をまちがえるし、あたくしも手馴れた噺を何度も絶句したりとちったり、あのときほど嬉しかったことはありませんでしたネ。
 「明日は、帰れる」との思いが、どれほど嬉しかったか、逆に、それまでどんなに不安な日々を送っていたかを察することができる。

 正蔵は、国内でも慰問をしていた。
 その慰問行脚で、運命というものを深く考えることがあった。
 
 けど、人間の運命なんていうのはふしぎなもので、あの終戦の年には、あたくしは鉄道慰問で北海道へ行ってましてネ、あっちこっちまわっているうち、樺太へも行ってくれということになり、一同その気でいましたら、どうも敵の飛行機の機銃掃射なんかがあって危険だからやめよう・・・・・・ということになって、札幌で待機していると、するとまただいぶ危険が遠のいたから行ってくれないか・・・・・・といわれたちょうどそのころに、一行中の猫八(現木下華声)に赤紙が来たんです。急いで東京に帰らなくちゃならない、それであたくしどもも、樺太はやめにして、そのころは欠航続きだった青函連絡船にかわる駆逐艦かなんかにのって、青森までたどりついたんですが、その艦にのりこんだところ、艦にある弾丸を打ちつくしたら船は自爆するからそのつもりで・・・・・・なんておどかされてネ、まったく生きた心地もありませんや、青森へ着いたら、猫八がネ、ここでひと晩泊りたいなんていうんですよ、だから、そいつァよしたほうがいい、この先何が起こるか判らないのだから、いっときも早く汽車にのろうと、夜行列車にのりこんで帰ってきましたが、その夜の大空襲で青森がやられたということです、あれもし泊っていたら、土地不案内のところですからネ、助かってたかどうか。

 青森大空襲は、昭和20年7月14日から15日にかけてのことだったので、まさに、敗戦直前の猫八への赤紙だったわけだ。

 なお、猫八への赤紙は「8月15日入隊」となっていたらしい。

 もし、猫八の誘いに乗って、青森に泊まっていたら・・・・・・。
 
 この二代目江戸家猫八の本名は長谷川栄太郎で、明治45(1912)年生まれなので、当時は33歳。
 なお、木下華声の父は、一時東京の落語界で一世を風靡した柳派の五厘の大与枝。華声は、野村無名庵の甥でもある。

 大与枝のことは、大正期の東京落語界の戦国状況に関する記事に、登場する。
2018年2月8日のブログ
2018年2月9日のブログ
2018年2月10日のブログ

 大与枝は、柳家の「番頭」と呼ばれ、三代目小さんを名人に仕立てあげたことでも知られるし、大道芸人だった初代猫八を見出した人でもある。また、初代快楽亭ブラックの興行なども行ったらしい。

 しかし、その大与枝は、大正六年に伊藤痴遊との関係が悪化してから五厘の地位を失い、その後、家は没落していく。

 初代猫八は、世話になった大与枝の倅ということで、栄太郎をひきとり、二代目猫八に育てあげた。
 そして、その二代目が、初代の倅を預かって、三代目猫八となる。

 昭和20年7月14日、もし、青森に泊まって空襲に遭遇していたら、もしかすると、三代目猫八も、もちろん、四代目も存在していなかったかもしれない。

 あくまで、歴史にタブーの「もし(if)」の話だが。

 木下華声と正蔵は、徳川夢声が主催した「談譚集団」という漫談研究会で、一所に漫談修行をするような間柄だった。

 本書には、戦中の苦しい生活体験が語られている。
 東京大空襲では、奇跡的に稲荷町界隈は空襲から免れたが、浅草方面に見舞いに行く途中で、その被害の酷さを目の当たりにしている。

 ようやく敗戦となり、正蔵の戦後が始まる。

 さて、どんな“とんがり”を発揮してくれるのか、次回ご紹介。
 

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by kogotokoubei | 2018-03-20 12:45 | 落語の本 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛