噺の話

kogotokoub.exblog.jp
ブログトップ

<   2017年 12月 ( 21 )   > この月の画像一覧

 『二番煎じ』について記事を書いている中で、さて、他に冬の噺にはどんなものがあるか、ということで、懲りずに二冊の本を比べてみた。

 昨年9月に、同じ二冊を元に、秋の噺のことを調べて記事を書いた。
2016年9月21日のブログ

 比べたのは、次の二冊。

e0337777_11125583.jpg

矢野誠一著『落語讀本』(文春文庫)

 まず、一冊目は矢野誠一さんの『落語讀本』(文春文庫、1989年初版発行)。
 副題にあるように三百三席のネタが紹介されている中で、冬として分類されているのは、35席。
 ちなみに、正月のネタが7席、春が100席、夏66席、秋が95席なので、冬に分類されているネタは、もっとも少ない。


e0337777_14383303.jpg
 
麻生芳伸編『落語百選ー冬ー』

 次に、麻生芳伸さんの『落語百選-冬-』(ちくま文庫)。初版は1976年に三省堂から発行され、その後に社会思想社の現代教養文庫で1980年に再版。ちくま文庫では1999年の初版。

 百席を四季ごとに同数づつに分けて掲載しているので、冬篇は25席。

 秋の噺の時と同様、『落語百選』を元にネタを並べて、『落語讀本』ではどう分類されているかを調べてみた。
 両方で冬の噺として分類されているネタにをつけた。
 なお、『落語讀本』では、正月の噺を「年の始めの・・・・・・」として、別分類しているので、こちたも冬の噺を考える。


    落語百選 <冬>   落語讀本<冬ざれの>
(1)うどんや       冬
(2)牛ほめ        夏
(3)弥次郎        春
(4)寝床         秋
(5)火焔太鼓       秋   
(6)首提灯        秋
(7)勘定板        なし
(8)鼠穴         なし
(9)二番煎じ       冬
(10)火事息子      冬
(11)按摩の炬燵     冬
(12)大仏餅       春
(13)文七元結      冬
(14)芝浜        冬
(15)掛取万歳      冬
(16)御慶       *年の初めの・・・・・・
(17)かつぎや     *年の初めの・・・・・・
(18)千早振る     *年の初めの・・・・・・
(19)藪入り      *年の初めの・・・・・・
(20)阿武松       なし
(21)初天神      *年の初めの・・・・・・
(22)妾馬        春
(23)雪てん       なし
(24)雪の瀬川      なし
(25)粗忽長屋      春


 二冊とも挙がったネタは、半数以下の十二席。

 秋の噺の時にも感じたことだが、噺は必ずしも季節が明確ではないものもあるので、そういう噺の分類は、結構難しいと思う。
 加えて、麻生芳伸さんの『落語百選』は、四季それぞれに分けて二十五席ということなので、他の季節では選ばなかったが、取り上げたネタを別な季節の巻に入れる、ということはありえる。
 そして、春夏秋冬の百席以外のネタは、「特選」として「上」「下」の二冊に収められたことは、落語愛好家の方はご存知の通り。

 よって、「冬」に収めることができなかった『富久』などは「特選・下」に載っている。

 矢野さんの本では正月を別の枠にしている。もちろん冬の噺。
 その特別なネタを別にして、冬の噺としてこの二冊で合致しているのは、次のものだった。

 ◇うどんや
 ◇二番煎じ
 ◇火事息子
 ◇按摩の炬燵
 ◇文七元結
 ◇芝浜 
 ◇掛取万歳

 結構、大ネタが並んだと思う。
 
 さて、年が明けて平成30年一月一日は、旧暦の十一月、霜月の十五日。
 まだまだ冬の噺に出会えそうだ。

 本年の記事は、ここまで。
 拙ブログにお立ち寄りの皆さん、良いお年をお迎えください。
 来年も、皆さん、よろしくお願いします。


[PR]
by kogotokoubei | 2017-12-31 18:17 | 落語のネタ | Comments(2)
 ふたたび、『二番煎じ』について。

 ということは、三番煎じか^^

 この噺のことを確認しているうちに、志ん朝以外の過去の芸達者のことも分かってきた。

 上方からこの噺を移植し十八番としていたのが、五代目三遊亭圓生。六代目の義父だ。太っていたので、デブの圓生、などと呼ばれていた。
 明治17(1884)年)10月生まれで、昭和15(1940)年1月23日没。

 その少し後の世代でこの噺で定評があったのは、三代目の三遊亭小圓朝。
 明治25(1892)年生まれで、昭和48(1973)年に亡くなった。
 地味な噺家だったらしいが、ご通家からの評価は高い。
 昨年、飯島友治さんの『落語聴上手』から、小圓朝の『笠碁』に関する熱い思いを紹介した。
2016年5月7日のブログ

e0337777_13435734.jpg

金馬・小圓朝集

 その飯島友治さんの編集による『古典落語 金馬・小圓朝集』には、小圓朝の代表的なネタ十四席が収められているが、『笠碁』などと一緒に、『二番煎じ』も含まれている。
 読んでいて、志ん朝の音源との共通点が多いことが分かった。
 一の組で火の廻りに出るのは、志ん朝版の伊勢屋が相模屋になっている以外は、名前も鳴り物の持ち物も一緒。文字で読んでいても、小圓朝という噺家の良さが伝わるのだ。

 前回の記事で少し詳しく紹介した志ん朝版における火の廻り場面での辰つぁんの科白などは、志ん朝よりも小圓朝の方が、味があるとさえ思える。

 飯島友治さんがト書きを入れてくれており、大いに参考になるその部分を、自分のために引用。

「(右手で金棒を突いたり引きずって歩きながら)へいッ。よろしゅうござんす。(得意顔、威勢よく)あァ・・・旦那方はねえ、素人ですからね・・・うまくいかないのがあたり前(まい)で・・・不思議はねえン・・・・・・で、まァ・・・私(あっし)なんざあ・・・これで若い時分にずいぶん道楽をしましてね、勘当されて・・・吉原ィ来て火の廻りをしたことがあるンですが・・・・・・(思い出して嬉しくなり、自分の言葉に酔うように)どうも・・・火の廻りの身姿(なり)のこしらいがいいねえ・・・ェえ?刺子の長半纏でねえ、豆絞りの手拭を首に巻いて、金棒突いて一(しと)廻り・・・まわってごらんなさい・・・ねえ、助六じゃァねえが、彼方(あっち)からも此方(こっち)からも煙管の雨が降るようで・・・・・・」
「まァ・・・いいよ・・・そんな事ァ。能書きァどうでもいィんだ・・・やってくれェ」
「ヘイ。よろしゅうがす・・・(金棒を突きながら、まるで妓楼の二階を回る火の用心のような気になりいい声を張って)火のォようゥじィん・・・さァしゃ・・・りゃ・・・しょォゥいッ!(尻上がりに)」
「(感心顔)なるほど!・・・・・能書き言うだけあって・・・うまいねえ・・・やってくれ」
「火のォようゥゥじィん・・・さァッしゃ・・・ァりゃ・・・しょォゥいッ!・・・二階を・・・ゥ・・・廻らっさァァりやしょゥい・・・・・・『(遊女の声色で)おや!・・・・・・火の廻りかい?・・・・・・ねえ寒いから・・・こっちィ入って・・・一服吸(や)っといでよ』『え?・・・うん、お前かァ・・・・・・おい冗談じゃァねえ。住替えしたのか?・・・・・・ふざけちゃァいけねえなァ・・・・・・住替えしたら・・・したで、いいからよゥ、手紙の一本も寄こすが・・・いいじゃァねえか・・・ふん・・・(強く)薄情なことォするなよッ』・・・・・・(投げ節の調子で)♪今朝の寒さァにィィいィい・・・ェェ・・・帰ェさりょォかァ・・・ィ・・・・・・(我に返り、強く)まわろうウ・・・まわろうゥ・・・・・・」

 煙管の雨、という決め科白の部分で助六の名が入っているのも、蛇足とは思えないし、今の時代ならなおさら良いのではなかろうか。

 吉原での火の廻りを回顧しての科白などは、『あくび指南』で稽古してもらっている男の吉原での脱線話を思い浮かべるような楽しさがある。

 ちなみに、『あくび指南』も小圓朝の代表作として選ばれた十四席に含まれている。

 飯島友治さんの解説からも引用。

 『二番煎じ』は五代目圓生(1940没、五十七歳)が若い頃〔橘家圓窓時代〕上方から移した噺であるが、噺中に身分・階級の違う人物が大勢出てくるので、それを完全に仕分けて演出することはたいへん難しい。
 小圓朝師は七代目可楽(1944年没、五十四歳)に教わり、以後独自の考えから多少演出を変えて高座へ掛けるている。たとえば、原作では熱い猪鍋を股の下へ隠したり、汁が下帯にしみて云々・・・とあるのを、鍋は後ろへ隠し、下帯云々は省いてあっさりと演出する。もっともこの件(くだり)を上方流にどぎつく、顔をしかめて演れば客は爆笑するが、それはいささか度を越した演技であり、それに見廻りの役人がいくら食意地が張っていても、股ぐらから出した猪鍋を所望するのはどうかと思われるからである。由来小圓朝師はこの噺に限らず、俗うけの人気を無視して不合理の箇所は改め、卑猥な件はつとめて上品に演出することに心掛け、もちろん大袈裟な身振り仕草ばどは絶対にしない。
 一行が町内を廻る場合、銘々が勝手な節をつけて“火の用心・・・・・・”云々と唄うのは、演者の都合で謳・清元・長唄・浪花節その他なにを使ってもよいが、「火の用心さっしゃりましょう」と丁寧に言うのは廓内の火の番廻りに限る言い方であるから、辰公だけが特殊の抑揚で呼ぶだけで、他の連中は言わないことになっている。
 やはり、飯島さんも、難しい噺と言ってるねぇ。

 小圓朝は、どぎつさ、卑猥、俗うけ、などとは距離を置いた噺家さんであったわけだ。

 当代の噺家さんに似た人は・・・見当たらないなぁ。もっとも近いのが、小満んだろうか。

 小圓朝は、昭和42(1967)年7月に脳出血で倒れてから高座に復帰しないまま、昭和48(1973)年に亡くなっている。
 志ん朝が入門したのが昭和32(1957)年なので、10年ほど、小圓朝の現役時代と重なっている。

 この噺に関して志ん朝は、小圓朝を手本としたのではなかろうか、と私は勝手に思っている。


[PR]
by kogotokoubei | 2017-12-30 09:47 | 落語のネタ | Comments(6)
e0337777_15282902.jpg

池内紀著『二列目の人生-隠れた異才たちー』(集英社文庫)

 落語の『二番煎じ』をはさみ、この本からの、二番煎じ。

 ご紹介するのは、福田蘭童。

 一回目の記事に、取り上げられた人で知っている名は橋爪四郎のみ、と書いたところ、佐平次さんからこの人も知っているでしょう、とコメントを頂戴したが、実は、知らなかった。

 この方の父親とご長男は、知っていた。

 まず、お父上のことから。

 画家青木繁の評価はとっくに定まっている。伝記、評論、画集など、いろいろとある。その年譜には東京美術学校卒業と同じ年に、こんな記述があるはずだ。
「房州布良へ写生旅行(坂本繁二郎、森田恒友、福田たね同行)。『海の幸』『海景』など制作」
 天才画家がはじめて自分の天分を作品にした意味深い旅行だった。だが、つづく翌年の出来事には、さして注意が払われない。
「明治三十八年(1905)、一子幸彦(のちの福田蘭童)誕生」
 福田の姓からもわかるように福田たねとのあいだにできた。房州布良が二人を結びつけた。海彦の里にちなみ、ついては「幸」を念じて「幸彦」と名づけたのだろう。このとき父親青木繁は二十四歳、福田たねは二十一歳。
 青木繁の名は、知っていた。
 しかし、その長男のことは、この本で初めて知った。
 佐平次さんの年代よりは少しだけ若いので、笛吹童子は知っていて、♪ヒャラーリ、ヒャラリーコ、という笛のテーマソングも聞いたことはあるが、その音楽を担当した人の名をそらんじることができる同時代のラジオを聞いた世代ではないのですよ^^

 昭和15年生まれの著者は、もちろん同時代で、あのラジオを聞いていた。

 番組のはじめにスタッフの紹介があった。そのはずである。というのは「作・北村壽夫(ひさお)」を記憶のはしにとどめているのだから。しかし、ほかは何一つ覚えていない。ただし、「音楽・福田蘭童」を除いてのこと。そして、この「音楽・福田蘭童」は「作・北村壽夫」よりも何倍か強く印象づけられた。蘭童というナゾめいた名前が呪文のようにある世代を呪縛した。

 このナゾめいた名の持主のご長男は、よく知っている。
 福田蘭童の長男、石橋エータローが「笛吹童子」のころを回想したなかで述べているが、NHKに父親を訪ねたとき、ちょうど主題歌の録音中で、尺八を片手にオーケストラの指揮をしていた。横笛もいろいろ工夫して、自分でつくって吹いていたそうだ。曲の最後が中途半端だというと、蘭童は答えた。
「まだ何かありそうな気分にしたかった。おまえのやっているジャズとはちがうからな」
 石橋エータローは本名英市、姓が福田ではなく石橋なのは母親が離婚をしたからだ。

 父親の天才画家と言われる青木繁、そして、ご長男の石橋エータローの名を知っていたのだが、蘭童はこの本で初めて知った。

 エータローにとって父蘭童は、「物心ついた頃からオヤジは死んだことになっていた」とのこと。
 十七、八歳の時に生きていると分かり、母親の禁令を無視して蘭童に会いに湯河原まで行ったと回想している。

 その蘭童も、親の愛には恵まれない少年だった。

 青木繁は一子誕生の翌年、わが子を恋人の両親に押しつけて郷里へ帰ってしまった。娘の「不始末」に困惑したのだろう、その両親は預かった子供を養子として入籍した。ために母と子は、戸籍の上では姉と弟になっている。

 預けられた栃木から上京して小石川の中学に通った蘭童は、知り合いの先生宅を訪ねて、床の間にあった尺八をいじってこっぴどく叱られたことがくやしくて、本格的に尺八を習うようになる。
 琴古流荒木派の関口月童、月童が倒れた後、水野呂童についての猛稽古の末、次のような逸話まであった。

 井伏鱒二はまた人からの話だがと断った上で、「福田蘭童は指先で紙に触ってみて、その紙の色彩を云いあてることが出来る」と述べている。机の上のマッチ箱を指でおさえ、下側のレッテルの色をいいあてたこともある。

 中学生で、すでに師範格、同時にピアノを習い、洋楽を学んだとのこと。

 独立したのち一派をおこして、これまで秘伝扱いされていた尺八に五線譜を導入した。晩年の弟子である横山勝也は「修行帖」のなかで「今でこそ誰でも使う奏法である、タンキングや情感の表現としてのポルタメントやレガート奏法、甲ツのメリを四と五孔開けの替え運指で出したり、の技法を、いち早くわがものにしていた若い蘭童の天才ぶりをあげている。

 蘭童がその名を残したのは、尺八ばかりではない。
 きっと、栃木での少年時代の川釣りからの発展なのだろう、釣りの名人とも言われた。

 西園寺公一の『釣魚迷』には釣り三昧だった蘭童の日常が語られている。「-日本が真珠湾の奇襲から太平洋戦争に突入する少し前の頃だ」と書き添えてある。人みなが好むと好まざるとにかかわらず軍国主義に流されていくなかで、そんな時代相をいっさい黙殺するかのように釣り糸を垂れたいた。
「魚釣りはたのしい。釣れないときより釣れたときのほうが嬉しいにきまっているが、釣れた魚をその場で、調理して食べるのはまた格別である」
 蘭童は開高健のように『釣魚大全』などといった大げさなタイトルはつけなかった。その著書はまったく、これ以上ないほど自然な名づけ方で、『釣った魚はこうして料理』。

 渋谷に、数年前、居残り会メンバーで忘年会を開催した三漁洞がある。

 佐平次さんから、石橋エータローの奥さんのお店とお聞きしていたが、その元は蘭童だったんだなぁ。エータロー亡き後は、奥さんが仕切っている。

 「三漁洞」では調理室に入ることはせず、そっと店に顔を出して、片隅で酒を飲んでいた。味見をすると、たいていはほめた。おりおり、何げない口ぶりで魚の特長や料理法のコツを洩らしたりした。いつもきちんとスーツを着て、ネクタイをしている。年をとっても独特にイロ気があって、若い嫁は義父と顔が合うたびに胸がドキドキしたそうだ。

 嫁の胸をときめかせる、粋でダンディで、かっこいい義父だったということか。
 
 本書では、その蘭童が、父青木繁に対して、複雑な思いを抱いていたことが、久留米に父の墓詣りをした時の逸話からうかがえる。

 天才画家の子をして生まれ、尺八、釣りで名を残した福田蘭童を、恥ずかしながら、この本で初めて知ることができた。
 
 もう一人位、本書から紹介したいが、他の記事を挟むかもしれない。

[PR]
by kogotokoubei | 2017-12-29 12:21 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 つい、落語愛好家仲間の忘年会で、私の“なんちゃって落語”で『井戸の茶碗』をご披露してしまったがために(?)、新年会で『二番煎じ』をリクエストされてしまった。
 それも、居残り会創立メンバーの仲間であるYさんと前後半交代で、と居残り会リーダー佐平次さんからのお言葉。他人まで巻き込んでしまった^^

 今、携帯音楽プレーヤーで、古今亭志ん朝の昭和56年のSONYの音源(大阪毎日ホール)と、平成5年の大須の音源を聴き勉強(?)を始めた。

 43歳と55歳の音源は、もちろん、声には年齢の差が出ているが、どちらも良いのだ。
 
 志ん朝版を元に、大須ならではのマクラは別として、こんな構成。

①火の廻りをする時代背景
 火事と喧嘩は、江戸の華と言われるほど、江戸時代には、火事が多かった。
 各町内に番小屋を置き、常雇いの火の廻り(番太郎、略して番太)を雇った。
 しかし、この番太は、血気盛んな若者というわけにはいかず、「血気なんてぇなあ
 かなり前になくしたような」お年寄り、それも「若い時分に、ちょいと世の中
 やりそこねちゃった」というようなお年寄りがなるもんだから、つい、一杯飲んで
 火の廻りに出て、小屋に戻ると寝てしまい、そういう時にボヤが大火となったり
 したものだから、町内の各家から一人づつ小屋に集まり、自分たちで火の廻りを
 するようになった。
 
②火の廻り
 月番の提案で、二組に分けて、片方が回っている間、もう片方は番小屋で休む
 ことにしようということになる。
 月番が言い出しっぺだから「一の組」になるといい、仲間に伊勢屋、黒川先生、
 辰つあん、宗助さんを選ぶ。伊勢屋が鳴子、黒川先生が拍子木、辰つぁん
 は金棒、宗助が提灯と役割を分担。寒いものだから、伊勢屋は鳴子を帯に紐を
 挟んで膝で打っているから、バサバサとしか鳴らず、黒川先生は拍子木を袂に
 入れて着物の上から当てるからコツン、コツンとしか響かない。金棒が冷たい
 辰つぁんは紐を指に通して引きずっているから、ズルズル(引きずる音)、
 カターン(石に当たった音)、パシャーン(水たまりに落ちた音)、という具合。
 掛け声にしても、宗助は、まるで売り子の呼び声のような調子で、「えっ、え・・・
 火の用心、火の用心、えー、火の用心・火の廻り、火の用心はいかがですな」とやって
 月番に「売っちゃいけない」と叱られる始末。黒川先生は、謳いの調子で、
 「(拍子木の音)コツーン、コツーン、ひのよう~じん、ひのぉ~まわ~り」と
 やるが、とても火の廻りにならない。伊勢屋は、習った新内節の調子で
 「(三味線)チャチャチャチャーン、ひのぉーようじん、ひのぉーまわ~り、
 たがいーに、ひもとーを、きをつけーぇーえー、(一調子上がって)まぁー
 しょう」となるから月番から「自分ばかり気持ちよくなったってしょうが
 ないんだよ」と小言を喰らう。
  さて、次が辰っつぁん。前半の火の廻りの聞かせどころなので、少し詳しく。
   素人には無理なんすよ。あっしなんざはね、若い時分に道楽が
    元になって勘当されてね、なか(吉原)の頭のところに転がり込んで、    
    火の廻りやったことがありますよ。あいつは、またねぇ、ナリの拵えが
    いいんだ。ねぇ、腹掛けに股引(ももしき)、刺し子の長半纏を着てね、
    算盤玉の三尺を締めて、首んところに豆絞りの手拭いをキュッと結んでね、
    こんな恰好をして、腰んところに提灯だ、金棒持ってこやって、チャーンと
    歩いてる。ねぇ。そうするってぇと、女が皆心配してくれるよ、ねぇ。
    私たちのために火の廻りをまわってくれるんだ、嬉しいねぇ、なんてね
   『ちょいと、火の廻り、ご苦労だね。こっち来て、まぁ一服やっておくん
    なまし』なんてんでね、煙管の雨が、降るようだ
  月番 なにを気取ってんだよ。そんなことどうでもいいから、早くおやりよ
   わかってます、やりますよ。こやってね、火のよう~ぉうじん~、
    さっしゃりゃしょー
  月番 なるほど、なるほどねぇ、へへぇ、恐れ入りましたねぇ、伊勢屋さん
  伊勢屋 本当ですなぁ。辰っつあん、たいしたノドだね
   どうもね、わけぇ時分には、女がみんなこの声に惚れたもんだ
  月番 そんなことは、どうでもいいんだよ。続けておくれ
   へぇへぇ、どうも、ありがとございやす。こういう具合にね、
    チャーンと、えへへへ、お二階を、まわらっしゃりやしょう~(ほう)~~
  月番 なんだい、そのしまいのほうほうほうっていうのは
   声が北風にふるえてる
  月番 芸が細かいね
 
 この志ん朝のやりとりのリズムの良さは、絶品。
 火の廻り一の組は、この後、番小屋に戻る。

③番小屋での酒盛り
 ここでは、黒川先生が娘が酒を持たせた、と言うと、初めは月番がいさめるのだが、実は月番も持ってきており、ふくべの酒ではなく、土瓶の煎じ薬ならいいでしょう、と燗酒の酒盛りが始まろうとすると、宗助さんは猪の肉に葱、味噌と猪鍋の用意をし、鍋まで背中に背負ってきていた。この場面での聞かせどころ、見せ所は、何と言っても、猪鍋をつつきながらの会話になる。黒川先生は、川柳をひねりながら食べ、伊勢屋は「葱だけいただく」と言っておきながら、葱と葱の間に肉をはさんで食べる。興に乗って来たところで、伊勢屋が「都々逸の回しっこ、しましょう」と言い出し、
 ♪騒ぐ烏に 石投げつけりゃー それてお寺の鐘が鳴る、
 と披露し、黒川先生は「猪鍋を食べ おかしくもあり シシシシシ」なんて駄句を披露。酔っている月番も大喜びのところで、見回りの役人が“バン”と戸を叩く。

④見回り役人との会話
 慌てて土瓶や鍋を片付けたものの、それをかいま見ていた役人。土瓶を隠したな、と役人に言われ、風邪薬の煎じ薬を飲んでいた、と言うと、役人も風邪気味だから飲ませろ、と言われしぶしぶ湯呑みに注ぐ。
 役人が飲んだ後、「おまえたち、これを飲んでいたのか!」と大声で言うものだから、てっきり叱られるかと思いきや、「なかなか良い煎じ薬だ」と言ってお代わり催促。鍋のようなものもあったな、と役人に突っ込まれ、宗助さんの膝下に隠した鍋も、煎じ薬の口直し、と言って提供。
 食べた役人、「口直しが良いと、煎じ薬も効くなぁ」と満足気。さらに煎じ薬を注げと催促され、全部飲まれたんじゃ困ると、もうなくなったと答えると、「もう一廻りしてくるから、二番を煎じておけ」で、サゲ。


 ご覧のように、登場人物が多いし、前半は火の廻りにおいて、謳い風、新内風、そして本寸法の辰の美声などを演じる技量が求められる。
 かと言って、後半も酒を飲み鍋をつつきながら番小屋の情景を描くには、高度な演出力が必要。

 これは、誰でも簡単に演れるような噺ではないのである。

 現役の噺家さんの中でも、食べる場面の多いネタで本領を発揮する瀧川鯉昇や、芸達者の五街道雲助などでなければ、こなせない噺。
 2011年の1月に鯉昇、2013年の1月に雲助で、どちらも横浜にぎわい座でこの噺の名演を聴いている。
2011年1月12日のブログ
2013年1月10日のブログ
雲助は、師匠馬生の型なのか、志ん朝とは設定がいろいろと違っている。

e0337777_09482407.jpg

麻生芳伸著『落語百選-冬-』
 麻生芳伸さんの『落語百選』の「冬」の解説には、次のようにある。

 江戸の時代考証として貴重な資料になる、日常的な出来事が描写されている。しィーんとして身を切られるような凍てつく夜の町の佇(たたずま)い、手拭いで頬被り、揃いの法被に提灯、それぞれが拍子木、鉄棒、鳴子を鳴らしながら「火の用心、さっしゃァしょう・・・・・・」と町内を流して歩く・・・・・・、それは江戸の冬の響きであり、町内町内が結束し寄り合う、生活(くらし)の槌音でもあった。さらにそして、そこにも江戸の遊びの精神が持ち込まれていかにも旦那衆らしい寄合酒がはじまるのである。見廻り役とて人の子、それを目的(めあて)にお役目を務めたとて、無理からぬことではないか。
 麻生さんのご指摘の通りで、時代考証の面でも、実に重要な噺だと思う。

 江戸の冬の情景、町内の旦那衆の結束や寄合酒の遊び心などを描く出す落語として、冬の代表的な噺であることは間違いないだろう。

 あぁ、とんでもないネタをふられたものだ^^

[PR]
by kogotokoubei | 2017-12-28 12:18 | 落語のネタ | Comments(6)
 23日に葉室麟が亡くなっていたことを知り、ただただ意気消沈。

 最近も、織田信長の娘の数奇な人生、そして、その夫、蒲生氏郷という武将の健気な姿が描かれた『冬姫』を読んだばかり。

 名作『銀漢の賦』が『風の峠ー銀漢の賦ー』という題でNHKで放送された時、いくつか記事を書いた。
2015年1月30日のブログ
2015年2月6日のブログ
2015年2月20日のブログ


 直木賞受賞作の『蜩の記』は、もちろん、数多くの良質な時代小説を楽しみにしていたし、今後も多くの傑作を著してくれるものと期待していたのに。

 まだ、六十六・・・・・・。

 葉室麟のことは、別途書くとして、今回の記事のこと。

 今日12月25日は、大正天皇の祥月命日。

 期せずして、その大正天皇と深い関係のあった人に関する記事になった。

e0337777_15282902.jpg

池内紀著『二列目の人生-隠れた異才たちー』(集英社文庫)

 この本は、昨年、NHK FMラジオの「日曜喫茶室」の過去の放送の中で、著者池内紀さんが、当時の「近刊」として説明していらしたのを聴いて知っていた。
 最近になって古書店で文庫を見つけ迷わず購入。
 記憶が曖昧だが、「日曜喫茶室」で池内紀さんは、トップランナーではなく、その後ろを走ってきた人にも、さまざまな人生があって、それに興味を持って調べ始めた、というようなことをおっしゃっていたと思う。

 本書は、2003年に晶文社から単行本として発行され、五年後に集英社文庫入り。

 取り上げられた人物を目次から拾ってみる。

  大上宇市  もうひとりの熊楠
  島 成園  松園のライバル
  モラエス  ハーンにならない
  中谷巳次郎 無口な魯山人
  西川義方  天皇のおそばで
  高頭 式  先ズ照ラス最高ノ山
  秦 豊吉  鴎外の双曲線
  篁 牛人  志巧を見返す
  尾形亀之助 賢治の隣人
  福田蘭童  尺八と釣り竿
  小野忠重  版の人
  中尾佐助  種から胃袋まで
  早川良一郎 けむりのゆくえ
  槁爪四郎  もうひとりのトビウオ

 私が知っていたのは、橋爪四郎のみ・・・・・・。

 本編の紹介の前に、印象に残る言葉「記憶の訪問」について、「はじめに」からご紹介。

  はじめにー「記憶の訪問」のこと

 幸田文(あや)は父の露伴から家事その他きびしい躾を受けた。二十四のときに嫁いで十年後に離婚。だから「結婚雑談」というエッセイのはじめに、自分は離婚した経験をもつ女だから、結婚について満足なことは何一つ言えそうにない。もし言うとすると、「いびつな過去」を思い返して、「いびつなままの現在」から話すしかない。と断っている。
 この場合の「いびつな」は謙虚さから出た言葉だろう。大きな経験を、よく耐えた人に特有の意味深いことがつづられている。
 二十代のはじめから何度か見合いをした。そのうちの一つが結ばれて、あとは流れてしまったわけだが、流れ去ってあとかたもなくなるはずのものに、流れてもなお余情のあるものがある。恋ではなく特別な事件でもなく、なんとなく心に残る人のおもかげといったもの。だからこそ結婚というのが大きな事柄であることに、あらためて気がついた。
「結ばない縁のはしばしにも忘れないものがあって、こうして三十年過ぎた今も記憶の訪問に逢うからである」
 ちょうどこの『二列目の人生』を書いているときだった。「記憶の訪問」という言葉がひとしお身にしみた。まさにそんな気持ちで一人、また一人と対面していたからである。
 何か一つのことに打ち込んだ人は、たいていの場合、独自のルールをもっている。そのためしばしば世間から変わり者扱いされたりした。
 (中 略)
 あきらかに、その人でなくてはありえないエピソードなのに、なぜか誰にあってもあかしくないようでもある。どうやら夢のありかを伝えているせいらしい。
 
 「記憶の訪問」とは、なんとも味わい深い言葉だと思う。

 そうそう、ふいに、過去の記憶の訪問を受けることがある。

 この中から、もうじき祥月命日を迎える大正天皇の侍医でありった西川義方について、紹介したい。
 ちなみに大正天皇は、明治12(1979)年8月31日に生まれ、大正15(1926)年12月25日の崩御。だから、昭和元年は、たった六日しかなった。

 西川義方の凄さは、彼が残した医者にとって大事にされていた書物が物語っている。

 もしかすると、ちいさいときに目にしたことがあったかもしれない。腹痛で近所の医者にいった。老先生が診てくれた。白い髪に鼻ひげ、ズボンつりをつけた腹がまん丸い。聴診器を胸にあてられると、くすぐったいのだ。からだをよじらせているうちに、いつのまにか腹痛が消えていた。
 生水は飲まない。ご飯をよく噛んで食べる。食事のすぐあと駆け出さないー老先生はそんなことをいった。いちいち思い当たる。神妙な顔で聞いている間、目は一心にあたりをながめていた。不思議な形の瓶や皿、瓶のレッテル。ガーゼの束、消毒液。ガラス戸棚に大きな本が並んでいる。見なれない漢字のせいで魔法の書物のようだった。はしに一つの青い本があって、背が低いわりに厚ぼったい。のべつ開かれるらしく、はしが手ずれでほつれている。
 西川義方著『内科診療の実際』といった。刊行は南山堂。古い医家にはきっと一冊そなわっていたはずだ。表紙の色のせいで通称「青本」。大正十一年(1922)に世に出て以来、半世紀あまりにわたり、たえず版を改めた。途中に息子が手助けして、西川義方・西川一郎著となって、役割を終えた最後の版が昭和五十年(1975)の改訂七十版。総部数はいったい、どれほど数えたものか。
 途方もない著書である。手にとると、だれだってそんなふうに思うだろう。三千ページちかくに及んで「医」にかかわるあらゆる情報がつまっている。著者はその世界を大都に見立てたようだ。そこに入るべき二つの門を考えた。つまり、
  第一門 治療門
  第二門 診察門
 門が編に分かれ、編が章に細分化され、章が節で区分され、節が第一、第二、第三と分岐し、それがさらに一、二、三に分けられ、これをまた其一、其二、あるいは①②③が補っていく。

 私も、池内さんと同じような体験がある。

 子どもの頃、風邪をひいたり、腹をこわすと、近所の町医者に連れて行かれた。
 すでにご子息が病院を継いではいたが、大先生も健在で、子供はだいたい大先生が診ていたように思う。
 白髪で、鼻ひげ。
 あの頃は、とにかく注射が嫌いで、太い注射針を見ただけで泣いていたような気がする。だから、大先生は、正直、怖かった。
 しかし、その先生に注射を打ってもらったり、いただいた薬を飲むと、風邪も腹痛の治った記憶がある。名医だったのだろう、きっと。

 その病院の棚には、たしかにいろんな瓶やらの隣の本棚に洋書と並んでぶ暑い青い本があったはずだ。
 北海道の片田舎の先生も、きっと『内科診療の実際』は必読書だったに違いない。
 だから、先生が名医だったのではなく、その本が優れていたのかもしれない。

 こんな凄い本を書いた西川義方とは、どんな人物なのか。

 西川義方は明治十三年(1880)六月、和歌山県海草郡雑賀村に生まれた。父は村長をしていたので、その支援があったのだろう。三高より東大医学部に進学。卒業してすぐに和歌山の新宮病院に赴任。弟の学資稼ぎの意味もあった。数年で東京にもどり、日本医大で教えていた。そのままいけば勉強好きで学生おもいの医学部の先生の一生だったはずである。学界のボスになったりせず、新発見もしなかったが、町医者の六法全書ともいうべきありがたい本をのこしていったー。
 大正八年(1919)、西川義方は大正天皇の侍医に任じられた。入沢侍医長が東大のときの恩師にあたり、その縁で人選が進められていたらしい。当時、天皇の侍医は四人いて、そのうちの一人である。

 侍医になったのは、西川義方、三十九歳の時だ。
 しかし、大正天皇に初めてお会いした際、天皇から「西川、いくつになります」と問われて、西川は「こればかりは御許しを願います」と答えている。
 「言ってもよいではないか」とさらに天皇から問われ、「それではどうか御許しを得まして申し上げまする。西川は三十でございます」と嘘をついている。
 大正天皇は、ひとりごとのように「そんな筈はなかろうに」と呟かれてらしい。

 なぜ、西川は九つもサバを読んだのか。
 彼は、なんでも人間は三十が生命の盛りであって、これをこえると十二分の活躍がむずかしい、と考えていた。だから、いつも三十歳の意気でいたかったかららしい。

 大正天皇は、時に冗談を言って、西方たち侍医を笑わせるような人だったようだが、次第に病魔が襲ってきた。

 侍医に任官した翌年のこと。

 同年七月、宮内省発表。
「・・・・・・御発語に御障害起り明亮を欠くことあり。厳粛なる御儀式の臨御、内外臣僚の引見は御見合せ相成る旨・・・・・・」
 大正十年十一月二十五日、皇太子裕仁が摂政となった。以後は天皇の代理をする。その三日前、宮内省は大正天皇の幼時にさかのぼり、理由をくわしく発表した。
「天皇陛下には御降誕後三週目を出ざるに脳膜炎様の御疾患に罹らせられ、御心身の発達に於て、幾分後れさせらる、所ありしか・・・・・・」
 ために政務においては日夜、ひとしおの苦労があった。目下のところ、おからだにはお変わりはないのだが、「御脳力漸次御衰えさせられ特に御発語の御障害あらはるるため御意志の御表現甚だ御困難に拝し奉る・・・・・・」
 表現がまわりくどく、敬語がのさばっているが、しかし、伝えるべき情報はきちんと伝えてある。何一つ隠しだてせず、言い換えたりも、言いつくろったりもしていない。発表は「まことに恐懼に堪えざる所なり」で結ばれているが、それは自分の年齢を仕事ざかりの三十歳と思いさだめて、専心任務にはげんでいた侍医の思いでもあったに相違ない。

 大正天皇がまだご健在な間に、皇太子裕仁が摂政となって代理をしている、という事実を知り、この度の今上天皇の生前退位問題を思い出した。
 今上天皇は、父が摂政となって健康がすぐれない大正天皇の代理を務めたことを知りながらも、皇太子を摂政とするのではなく、自分が退位する道を選んだ、ということか。
 天皇という名である以上は、どうしても無理をせざるを得ない、ということなのだろうな。
 
 さて、発語障害などの悪化に伴い、なんとか最新医療を知ることで対策を打てないか、ということもあったのだろう、西川義方は、大正十五年(1926)二月に、新医学見聞の公務でヨーロッパに向かった。

 ドイツ語がよくできたし、自分もドイツ医学畑出身なので、旅のコースからもわかるように、ドイツが中心だった。しかし、本になったときは、なぜか北欧にはじまって、イタリア、フランス、イギリスのあと、ようやくドイツが出てくる。実際は一度ドイツを離れてから、イタリア巡歴中に遠路をおしてベルリンにもどった。そしてベルリン郊外ダンドルフの精神病院へ行った。
 プロフェッサー・シュスターに会うためだった。彼から「アルツハイメル氏病」について、くわしく聞いた。ふつう、ブラウスラウ大学教授アロイス・アルツハイマーの発見といわれているが、ダルドルフのシュスター氏が早々と病理解剖をしていた。
 (中 略)
 その臨床報告によると、ある女教師だが、読むこと、書くことができなくなり、何をいっても定まった一語しか発しない。この病は四十五歳から五十五歳に発病して、確実に進行する。西川義方はつけ加えている。「氏によると本病の病理は特定せる局所がない。浸潤もなく又滲出もない」。
 経過は短く、おおかたは数年にして死亡する。数カ月の短い経過で終わったケースもある。
 パリに着くと大使館員より封書を手渡された。入沢侍医長よりの電報が封じ手あった。
「至急御帰朝相成度ー」
 ただちに旅装をととのえ、シベリア鉄道経由で帰国。十二月五日、下関。翌日、葉山着。同月大正天皇没。四十七歳だった。

 内科医の百科辞書ともいえる大著をものにした西川義方も、大正天皇の病を治すことは、かなわなかった。

 西川は、『温泉と健康』という、四百頁、図版が四百五十あまりという本も著している。日本の温泉は、妻と二人で訪れ、「共著たるべきもの」をつくるつもりだったという。
 昭和六年(1931)、妻を病で失った。『温泉と健康』の序に、いかにも明治人間の語彙で、ともあれ青年のような初々しさで述べている。
「一時は、こいしさ、なつかしさ、かなしさ、やる瀬なさの涙に金泥にして、紺紙に写経でもものして、悶々の情を医(いや)さんとも考えた」
 だが、せっかく妻と二人して集めた資料である。約束を果たしてやらなくてはかわいそうだ。「夢見る人の心で、ある時はうれしく、なつかしく、またある時は狂おしく迸る心に鞭をあてて」、ペンを走らせたという。

最後に、大正天皇の微笑ましいお話を。

 宮中には独特の言い方があって、日常の食べ物でも名前がちがう。西川義方は、お得意の図表形式で品目と特別の呼び名の一覧をつくっているが、たとえば葱は「ひともじ」、ソバは「そもじ」、エビは「えもじ」、タコは「たもじ」、タイは「おひら」、イワシは「おむら」。
 大正天皇が元気なころ、京都府舞鶴に赴いたことがあった。大森という知事が説明役で近くの水産講習所に話が及んだ際、知事は「おむら」を知っているかとたずねられた。
「水産講習所を建てながら、魚の名のおむらも知らぬとは」
 と天皇は笑った。
 そのあと天橋立で網を引くと、大量のイワシがかかった。知事が水産講習所長に「おむら」のことをたずねると、所長は首をひねった。専門家も知らぬ魚を、知事が承知していなくてもやむをえないー。一件を紹介したあと西川義方は書いている。「大森はずるいぞ」といって天皇は大いに笑った。
 休憩のあと成相山登山が予定に入っていた。二十町の急坂に先導役の肥っちょ知事があえいでいる。痩せ形の天皇が声をかけた。
「大森、押してやろうか」
 その人が日々、休息に衰えていく。
  
 大正天皇のお人柄が伝わる、逸話。

 この部分前半の“宮中の符牒”の、葱が「ひともじ」で、つい、落語の『たらちね』を思い出してしまった。

 昭和四十三年に八十八歳で亡くなった西川義方という医者の存在を、この本で初めて知ることができた。

 本書からは、あと二、三人、異才をご紹介するつもり。

 ところで、この本の題、「二列目の人生」は、葉室麟作品の主人公と相通じるものがあるような気がしていた。
 葉室麟は、歴史上の人物を題材にする場合、いわば“一列目”で名の通った人はほとんど選ばない。
 そんな気がしながら、この記事を書いていた。
 まだまだ書いて欲しかったなぁ。


[PR]
by kogotokoubei | 2017-12-25 23:45 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

今年のマイベスト十席。

 一昨日は、落語愛好家仲間と、リーダー佐平次さんの地元、桜新町の「一(はじめ)」で忘年会。

 楽しかったなぁ。

 つい、調子に乗って私の“なんちゃって落語”で『井戸の茶碗』をご披露。
 記憶が飛んでいるが、なんとかサゲまで辿りつけていたようだ^^

 少し早いが、来週は寄席・落語会に行けそうにないので、恒例(?)の今年のマイベスト十席をご紹介。

 今年は、月二回に少し足らない寄席・落語会通いだった。

 いろいろ野暮用があることに加え、プロの落語評論家でもないし、月に四、五回通うのは、少し多すぎだと思うようになった。

 「野暮用」については、そのうち書こうと思っているが、二年前の還暦の時、そして今年62歳になり、仕事や生活の環境は大きく変わっている。
 自分なりに充実はしており、結構、忙しいのである。

 数は少ないものの、その中から、マイベスト十席および特別賞候補となった高座は、次の通り。
 

2017年 今年のマイベスト十席候補など

(1)三遊亭円馬『ふぐ鍋』
>新宿末広亭 1月下席 夜の部 1月30日

(2)春雨や雷蔵『権助提灯』
>新宿末広亭 1月下席 夜の部 1月30日
*寄席の逸品賞候補

(3)むかし家今松『品川心中-通し-』
>むかし家今松独演会 関内ホール(小ホール) 2月21日

(4)古今亭志ん吉『明烏』
>魅せる!はなしか三人集 横浜にぎわい座(のげシャーレ) 2月26日
*新人賞(or敢闘賞)候補

(5)柳家小はん『馬のす』
>新宿末広亭 3月中席 昼の部 3月16日
*寄席の逸品賞候補

(6)柳家小里ん『山崎屋』

>新宿末広亭 3月中席 昼の部 3月16日

(7)柳家小満ん『味噌蔵』
>柳家小満んの会 関内ホール(小ホール) 3月21日

(8)金原亭伯楽『長屋の花見』
>新宿末広亭 4月上席 昼の部 4月9日
*寄席の逸品賞候補

(9)三遊亭歌之介『母ちゃんのアンカ』他
>新宿末広亭 4月下席 夜の部 4月29日
*特別賞候補

(10)古今亭菊丸『中村仲蔵』
>菊丸・福治二人会 池袋演芸場 5月26日

(11)立川談四楼『人情八百屋』
>立川流落語会 国立演芸場 5月28日

(12)春風亭一之輔『蛙茶番』
>新宿末広亭 6月上席 夜の部 6月7日

(13)むかし家今松『お若伊之助』
(14)むかし家今松『笠碁』
>ざま昼席落語会 ハーモニーホール座間 6月10日

(15)柳家小満ん『王子の幇間』
(16)柳家小満ん『湯屋番』
>柳家小満んの会 関内ホール(小ホール) 7月18日

(17)古今亭志ん輔『三枚起請』
(18)立川龍志『酢豆腐』
>龍志・志ん輔二人会 国立演芸場 7月30日

(19)柳家小のぶ『へっつい幽霊』
>納涼四景 浅草見番 8月4日

(20)入船亭扇遊『夢の酒』
(21)入船亭扇遊『青菜』
>熱海の夜 入船亭扇遊独演会 内幸町ホール 8月22日

(22)三笑亭可龍『宗論』
>三代目桂小南襲名披露興行 新宿末広亭 9月28日
*寄席の逸品賞候補として

(23)古今亭志ん五『出目金』
>二代目古今亭志ん五真打昇進襲名披露興行 浅草演芸ホール 10月15日

(24)柳家さん喬『ちりとてちん』
>東雲寺寄席 さん喬・新治二人会 11月5日

(25)柳家小満ん『お直し』
>柳家小満んの会 吉野町市民プラザ 11月20日

(26)三遊亭歌司『長短』
>二代立花家橘之助襲名披露興行 12月1日 池袋演芸場
*寄席の逸品賞候補として

(27)二代立花家橘之助『浮世節』
>二代立花家橘之助襲名披露興行 12月1日 池袋演芸場

 まずは、寄席の逸品賞を上期と下期で一つづつ選びたい。

◇寄席の逸品賞:上期
柳家小はん『馬のす』
>新宿末広亭 3月中席 昼の部 3月16日
2017年3月17日のブログ
<馬の毛を抜くと「大変なことになる」という理由を知りたい相手をじらしながら、酒を二合じっくり飲み、枝豆を美味そうに食べる勝ちゃんの姿に、喉が鳴ったなぁ。三木助と小さんの二人の師匠に鍛えられた、喜寿を迎えた噺家さんは、いぶし銀の魅力がたっぷり>

◇寄席の逸品賞:下期
三笑亭可龍『宗論』
>三代目桂小南襲名披露興行 新宿末広亭 9月28日
2017年10月1日のブログ
<来年四十路となる可龍は、見た目よりも江戸の香りがする。私の好きな若手の一人。たまに披露する寄席の踊りにも、年齢に似合わぬ昭和の空気を漂わせてくれる。現役でこの噺では、春風亭正朝とこの人が図抜けていると思う。小三治は、別格。小南襲名披露興行で演じた十八番の高座が、実に良かった>

 さて、次に若手二ツ目対象に、敢闘賞の発表。
  
◇敢闘賞
古今亭志ん吉『明烏』
>魅せる!はなしか三人集 横浜にぎわい座(のげシャーレ) 2月26日
2017年2月27日のブログ
<横浜にぎわい座の地下秘密倶楽部“のげシャーレ”での高座は、強く印象に残った。45分の長講だったことを終わってから気づいたのだが、まったく長く感じさせなかったなぁ。NHK新人落語大賞での『紙入れ』に関する審査員の採点結果は低かったが、私はあの高座もそんなに悪くなかったと思っている。時次郎の科白での独自のクスグリにもセンスの良さを感じた。入門から十年以内なら、2010年の一之輔以来の最優秀新人賞とするのだが、今年で入門から十一年になるので、敢闘賞としたい>

 もう一つ、特別賞。
 師匠円歌が亡くなって六日後の末広亭夜の部、同郷の白酒の代バネで主任を務めた歌之介の高座が、印象深い。

◇泣けたで賞
三遊亭歌之介『B型人間』『母ちゃんのアンカ』&師匠の思い出
>新宿末広亭 4月下席 夜の部 4月29日
2017年4月30日のブログ
<「泣けた」のは、あくまで歌之介本人のこと。冒頭「なんとか普通の姿になって」きたと言っていたが、まだ一週間も経っていない。「普通に」と自分自身に言い聞かせていたのだろう。しばらく、師匠円歌の思い出話が続き、途中からネタの『B型人間』になり、次に『母ちゃんのアンカ』に変わって、小学生の頃、父親と離婚して苦労した母親のことを語り出してから歌之介の目が赤くなってなり、潤んできた。ネタなのか、思い出なのか判然としない内容になっていく。しかし、客席も歌之介の心中を察し、分かっているのだ。
 十八歳で円歌に入門しているから、きっと彼にとっては、父親代わりだったと思う。
 ついつい、師匠のことが走馬灯のように脳裏に浮かんできたのだろう。
 爆笑落語で会場をドッカンドッカンとひっくり返す姿ばかり見てきた者としては、なおさら、彼のこの高座が印象深い>

 さて、いよいよ今年のマイベスト十席。

 例年のように、同じ噺家さんの高座を複数選ばないルールにしているので、まず候補に複数上がった人の高座から一席に絞る。

柳家小満んは、関内と吉野町の独演会から四席が候補となっている。
『味噌蔵』(3月21日)
『王子の幇間』(7月18日)
『湯屋番』(7月18日)
『お直し』(11月20日)

 この中から一席に絞るのは、結構難しい。
 ハロー効果で、一番最近聴いた『お直し』も捨てがたいし、7月の『王子の幇間』と『湯屋番』の二席も、そしてあの『味噌蔵』も良かったからねぇ。

 悩みに悩んで、『王子の幇間』にしよう。

 次に、むかし家今松。
 2月21日の関内ホールでの独演会における『品川心中-通し-』と、6月10日ざま昼席落語会の『お若伊之助』と『笠碁』の中からは、『品川心中-通し-』を選ぶ。

 入船亭扇遊は、8月の独演会の『夢の酒』と『青菜』の二席から、『夢の酒』にする。

 ということで、今年のマイベスト十席を発表。

171.png2017年のマイベスト十席171.png

三遊亭円馬『ふぐ鍋』
>新宿末広亭 1月下席 夜の部 1月30日
2017年1月31日のブログ
<鍋から湯気が見えたなぁ。主人と幇間の繁が、おそるおそる鍋のフグの身を口に入れようかどうしようかと、相手の様子を探りながら苦闘する場面の表情は出色だった。芸協の将来を背負って立つ人であることは間違いがない>

むかし家今松『品川心中-通し-』
>むかし家今松独演会 関内ホール(小ホール) 2月21日
2017年2月22日のブログ
<小満んを思わせる粋なマクラからの50分を超える長講が、まったくダレることがなかった。人物描写が見事で、なかでも、おそめが生き生きとしており、今松が、これほど女性を巧みに描くのか、と再発見。後半の金造とおそめの会話も、なんとも楽しい。この噺の通しは、なかなか聴くことはできないことも考えると、とんでもない高座に巡り合ったのだろう、と思う>

柳家小里ん『山崎屋』
>新宿末広亭 3月中席 昼の部 3月16日
2017年3月17日のブログ
<この会の記事でも紹介したが、山田洋次はこの噺について“あっぱれな親不孝『山崎屋』”と題したエッセイで、「つまり、山崎屋の若旦那とその父親は、両方とも民衆の心の中に矛盾しながら生きて」いて、「人間の意識をそのようにとらえて物語にして見せるところに、落語というリアリズム芸術の近代性があるのだ」と書いている。小里んの高座は、ネタの持つ魅力を、父と子、番頭を中心に十二分に引き出してくれた>

古今亭菊丸『中村仲蔵』
>菊丸・福治二人会 池袋演芸場 5月26日
2017年5月27日のブログ
<最後の二人会に初めて行ったことによる、僥倖と言える高座。八代目正蔵の型を踏まえているが、ところどころは設定が違ったが、それはまったく悪い影響を及ぼしていない。一人一人の人物がしっかり描かれていたが、なかでも、仲蔵を健気に支える女房おきしが良い。この人が演じる女性の、なんとも艶っぽいこと。ベテラン落語愛好家の間で評価の高い人による名高座に、ようやく出会えた、という印象だ>

春風亭一之輔『蛙茶番』
>新宿末広亭 6月上席 夜の部 6月7日
2017年6月9日のブログ
<この高座は、昼夜居続けの夜のトリだから、ほぼ9時間聴いた中の、最後ということになる。戦中に禁演落語五十三席の一つとして、はなし塚に葬られた艶笑落語なのだが、客席の笑い声は、女性の方が大きかった。この人ならではのクスグリも秀逸な、寄席大好きな若手筆頭株による出色の高座。この一年でもっとも笑った高座だ。こういう噺を、下品にせず爆笑ネタに仕上げる力量は、やはり大したもの>

柳家小満ん『王子の幇間』
>柳家小満んの会 関内ホール(小ホール) 7月18日
2017年7月19日のブログ
<最初の師匠文楽譲りのネタを見事に演じた。口の悪さで知られた幇間の平助が、大店の主人たちによる出入り止めさせる策略に遭遇する噺だが、前半の平助の辛口お愛想が絶妙。女中に「その帯、雑巾をうまくつなぎましたね」などと言って泣かせる。サゲは師匠の型の後に上方版(二代目、三代目染丸)をブレンドする工夫も良かった>

立川龍志『酢豆腐』
>龍志・志ん輔二人会 国立演芸場 7月30日
2017年7月31日のブログ
<この噺は、①町内の若い衆たちの酒の肴の算段②半公への策略③伊勢屋の若旦那の奮闘、という大きく三つの場面があり、登場人物も多いから、そう簡単なネタではない。過去の名演も文楽、志ん朝にほぼ限られると思うのは、ネタの難しさ故だろう。だから、柳家のみならず、東京でも、より構成がシンプルな『ちりとてちん』を演じる人が多いのだと思う。しかし、龍志の高座は、前半の若い衆の造形から最後まで、このネタの持ち味をふんだんに引き出す好演。今、立川流で聴きたいと思うのは、この人と談四楼、そして未見の左談次かな>

柳家小のぶ『へっつい幽霊』
>納涼四景 浅草見番 8月4日
2017年8月5日のブログ
<いくつか型があるが、熊(と思しき)男が、博打で儲かったと喜んでいる場面から始まるというのは、初めて聴いた。とにかく、左官の半次の幽霊が楽しい。手を陰に下げて、ぶらぶら振る様子が、今でも目に焼き付いている。熊が「うらめしー、なんてぇことはねぇじゃねえか」と言うのに半次が「これは、幽霊の枕詞でして」などのクスグリも可笑しく、“幻の噺家”が、幽霊の半次と一緒に娑婆に現れた、という嬉しい驚きの高座>

入船亭扇遊『夢の酒』
>熱海の夜 入船亭扇遊独演会 内幸町ホール 8月22日
2017年8月23日のブログ
<ご旅行で行けなくなっF女史からいただいた手作りの会に、なんとか行くことができ、珠玉の十八番ネタの高座を堪能。若旦那とのやりとりで、女房お花に次第に怒りが募る様子を、絶妙な表情の変化で描く。そのお花と向島の女とを、「同じ演者か?!」、と思うほどに見事に演じ分ける。大旦那が、普段は大旦那が酒を飲むと嫌な顔をする若旦那が向島で酒を飲んだと知り、「えっ、こいつが・・・酒を・・・こういう奴なんです」の科白の間も絶妙で、その可笑しさは、譬えようがない。この噺では当代の噺家で随一だと思う>

二代立花家橘之助『浮世節』
>二代立花家橘之助襲名披露興行 12月1日 池袋演芸場
2017年12月2日のブログ
<先日二十日の国立演芸場まで続いた五十日連続興行の三十一日目、池袋の初日に行くことができた。三味線と唄の芸は次の三作。①浮世節(「かんちろりん」)②吹き寄せ③たぬき、だったが、初代の代名詞でもあった「たぬき」は圧巻で、10分以上の大作だった。一作目は、師匠圓歌が「こういうのがある」と教えてくれたらしく、「きっと、芸者さんの膝枕で聴いたんでしょう」の言葉にも亡き師匠への思い入れを感じた。初代が得意とした「吹き寄せ」とはどういうものかを説明して演じてくれた。私はそれほど小唄や長唄に詳しくないが、その味わい、おもしろさは、分かった。口上で、歌司の師匠の思い出の話を聞き、橘之助の目にうっすらと光るものがあったのが、印象的だ。五十日連続興行という披露目全体への評価も含めて、選んだ次第>

 なんとか、今年もこの記事を書くことができた。
 
 来年は、どんな一期一会に出会えることやら。
 寄席には今年より行きたいなぁ。
 できるだけ、まだ聴いたことのない人や、若手の成長株の高座にも行きたいと思っている。

 長い記事へのお付き合い、誠にありがとうございます。

[PR]
by kogotokoubei | 2017-12-24 22:27 | 寄席・落語会 | Comments(4)
 昨日の午後九時から、NHK BSプレミアムは立川談志を取り上げた。

 NHKのサイトから引用する。
NHKサイトの該当ページ

ザ・プロファイラー~夢と野望の人生~「落語界の風雲児~立川談志~」

岡田准一がMCを務める歴史エンターテインメント。「百年に一度の天才」とも言われる落語家・立川談志。早くから売れっ子となり、「笑点」を企画・司会したり、政治家になったりもした。そして落語協会と決裂。その生き方は、型破りで破天荒、「落語会の風雲児」と呼ばれるほどだった。一方、古典落語を現代の客に楽しんでもらうため、さまざまな努力を続け、落語界に革命を起こす。天才・立川談志の実像に迫る。

【司会】岡田准一,【ゲスト】立川志の輔,大林宣彦,ラサール石井

 談志没後、数多の番組が放送されている。
 また、数多くのご本人の著書や、談志を含めた、四天王の時代について書かれた本も少なくない。
 だから、それほど新たな発見があることを期待しないで見ていたが、結構、嬉しい発見があった。

 それは、談志の妻となった女性への、数多くのラブレターだ。

 談志は、愛妻則子さんを、「ノンくん」と呼んでいた。

 その、ノンくんへのラブレターが公開されたのは、私の記憶では初めてだ。

 お嬢さんが、そのラブレターを見て母則子さんに、「結婚前、そんなに会えなかったの?」と聞くと、「いえ、毎日のように会っていたわよ」と答えた。
 「電話は使わなかったの」と聞くと、「毎日のように電話もあったよ」とのこと。

 会って、電話で話をしていても、談志はラブレターをまめに書き綴っていたのだ。
 そんな姿を想像するだけでも、結構、微笑ましいではないか。

 放送での内容を正確に覚えていないが、談志は、自分はまともな人生を送れる気がしないが、ノンくんと結婚できれば、まともになれると思う、というようなことを言ったり、書いたりしていたらしい。

 それだけ、惚れていたんだね。

 その愛妻、則子さんについては、拙ブログを初めて間もない頃、ある本を読んで書いている。

2008年6月20日のブログ

e0337777_10445352.png

『人生、成り行き-談志一代記-』
 『人生、成り行き-立川談志一代記-』は、「小説新潮」に連載された、吉川潮の聞き書きが本になったもの。

 自分の記事からの引用になるが、このノンくんが、実に楽しい個性の持ち主。

『小説新潮』に連載された回数がそのまま章の名前に使われているが、「第四回 結婚、そして先を越された真打昇進」の章にある、おかみさん則子(ノンくん)のことは、たぶん書物としては初登場であろう。

 ノンくんは素晴らしい、そしてユニークな女性である。「則子(ノンくん)語録」から少しだけご紹介しよう。

・ある友人のことを「竹馬の友」と言われ、「違うわよ。だって、あの人と一緒に竹馬乗ったことないもん」

・「あたしはペットなの。でもいいペットでしょ。トイレも自分で行けるし、ラーメンも作れるし」

・師匠が癇(ひきつけ)を起こした時、なぜか真っ先にガスを止めた。「地震じゃねえや」と突っ込んだのは言うまでもない。


 なんとウィットに富んだ語録であろうか。このおかみさんだからこそ、家元が現役で今も活躍できるのだと確信した。本書には家元24歳、則子さん22歳の新婚時代の写真が掲載されている。とってもチャーミングな方だ。きっと今でも素敵な女性なのだろう。

 この本は、今では文庫にもなっているが、単行本で読んで、Amazonのレビューも書いた。

 読み返してみたら、則子さんとの出会いなどについては、こう書かれている。

ー二つ目時代で一番大事な出来事は、やはり則子夫人との結婚だと思います。昭和三十五年、談志師匠が二十四歳で・・・・・・。
談志 向こうが二十二かな。暮れに結婚したんですよ。つまり税金対策で、扶養家族として年内に届けを出したほうが得だって言うんで慌てて出して、年が明けてから結婚式を挙げたのを覚えています。落語家が素人娘と結婚するのがまだ珍しかった時代です。
ー当時、落語家の結婚相手というと、寄席の従業員のおねえさんとか、いわば身内の女性が多かったですものね。
談志 師匠の家(うち)の女中をカイちゃって、結婚したとかネ、芸人なんか、ちょっとかわいい女と見ると見境なくカイちゃうからね。うちの弟子なんか、おれのとこに来てたファンまでカイちゃった。その娘と結婚したけどね。
 だから、吉川さんの女房(音曲の柳家小菊)に昔、「気をつけろよ」って言ったんだ。「おい、気をつけろよ、こいつら何するかわからねえからな」って。
ーはい、そのことはよく覚えていると家内が言ってました。談志師匠に「芸人には気をつけろ」と言われたって。肝に銘じたそうですが、結局所帯を持ったのがこの程度ですから、まあ。
談志 訊いたら「若い作家と一緒になった」というから良かったと思って。あんなかわいい顔して、変な芸人とくっついたら可哀相だし、おれもイヤだしね。
ーうちのことはともかく、師匠が出会われた時、則子夫人は第一生命ホールで案内嬢をされてたとか。
談志 案内だけでなく、事務のほうもやってたらしいけどね。最初に言った、湯浅がやっていた「若手落語会」の会場が第一生命ホールで、そこで会ってね、かわいい子だなと思ってーそれじゃあ、ほかの落語家と同じだよなァ。
 ある時、おれが何かで怒ったんだよ。そしたら、「怒られちゃった・・・・・・」って呟いたんです。そ様子にネ、ほう、これはいいな、かわいいな、こいつは大事にしとかなきゃと思った。向こうには結婚を約束した人があったらしいんだけど、おれ、そこへ談判しに行って。それで、鵜の木の実家を出て、彼女の中野のアパートに半月くらいいたのかな。何も台所用品がなくて、ビールとクッキーだけで暮したことを覚えてます。それから、当時の収入からしては家賃が高かったんだけど、目黒の元競馬場に越した。同じアパートに画家の長尾みのるさんが住んでいて、その縁で、のちに『現代落語論』(昭和四十年、三一書房)のカバーやカットを描いてくれました。

 先約(?)がありながらの略奪婚だったことは、昨夜の放送でも紹介されていた。
 映画「卒業」か^^

 よほど、惚れていたということだ。


 談志自筆の大量のラブレターを見たい方、あるいは、大林宣彦と談志の意外な(?)交流を知りたい人、そして、井上ひさし作の舞台「円生と志ん生」で志ん生に扮するために、青々と頭を剃ったラサール石井を見たい人、再放送は、12月27日(水) 午後6時00分からとのことです。

[PR]
by kogotokoubei | 2017-12-22 12:18 | 落語家 | Comments(4)
 上野動物園で、パンダのシャンシャンの一般公開が始まった。
 1月末までは抽選とのこと。

 競争率の激しさなど、日刊スポーツから引用する。

日刊スポーツの該当記事

シャンシャン観覧当選者1419人 抽選倍率40倍
[2017年12月20日9時53分 紙面から]

 東京・上野動物園で6月に生まれたジャイアントパンダ「シャンシャン(香香、雌)」と母親シンシンの一般公開が19日、同園で始まった。上野生まれのパンダの公開は、1988年(昭63)に誕生した雄のユウユウ以来、29年ぶり。観覧は抽選方式だったこともあり、大きな混乱もなく、初日はほぼ予定通り約2時間半の公開で終了した。シャンシャンは木登りをするなど愛くるしい姿を見せ、来園者からは「かわいい」「抱いてみたい」との歓声が上がった。

 園によると、この日の観覧者は468組の1419人。当日キャンセルなども見込み、目安としていた400組より多く当選者を出したという。初日申し込みは約1万8300組で、倍率は約40倍。1組最大5人まで入れるが、平均は約3人だった。園全体の来園者は6926人。中には事前申し込みが必要と知らずに訪れた人もおり、千葉県成田市の女性(78)は「見たかった。(抽選方法が)高齢者には少し分かりにくい」と残念そうだった。

 このニュースで、落語の『らくだ』を思い浮かべた。

e0337777_11134083.jpg

矢野誠一_落語歳時記

 矢野誠一さんの『落語歳時記』の「冬」のお題「ふぐ」から引用する。
 東京版『らくだ』のサゲ前、火葬場への道順を説明した後から。
本家の上方版では、空堀通を西へ、九之助橋を西に渡り、大宝寺町を堺筋へ出て南に曲がり、さらに日本橋の北詰を西へ行き、太左衛門橋を渡って、千日前の火葬場へたどりつくといったあんばいに、かなり克明だ。
 火屋のあった千日前、こんにちではご存知大阪ミナミを代表するような歓楽街だげ、明治のはじめまでは刑場や墓場のある、さびしい場所だった。その千日前が、東京ならさしずめ浅草といったアミューズメント・センターとして生まれ変わる過程には、いろいろ見世物や大道藝で人をよんだ時代があって、大阪の郷土雑誌『上方』などをみると「千日前見世物看板、天じく渡り生大像、身の丈一丈六尺、量目二千五百貫目、鼻長さ八尺五寸」などとある大きな象の描かれた絵看板が載っている。
  動物園など、あるわけもない時代には、象のごとく、ただ巨大で珍しいというだけで見世物として通用したわけで、大きなことにかけては象にひけをとるものではない、偶蹄目駱駝科のわがらくだなども、推古天皇の時代より久方ぶりに渡来した文政の頃、珍禽獣の見せ物として、空前の大当たりをとったという。朝倉無聲の『見世物研究』は、このときの様子を、
「是より先き江戸の町々では、やがて駱駝が来るとの前触れがあったので、市中寄るとさわると其取沙汰のみで、いよいよ五日に板橋駅へ到着した時には、江戸へ来れば必ず見世物となって、札銭さへ払へば何時でも見られるといふのを知りながら、一日も早く珍獣を見たいとあって、駅中見物人で立錐の地もない程であった」
 と記している。
 こうした文政のらくだブームは、
 立つよりは寝てゐた方がらくだらう百のおあしを三ツ折にして
 といった狂歌を生むにいたったのだが、こうなると、落語『らくだ』の主役にして、既に死がいという無頼漢のあだ名のいわれに、図体が大きいというだけでなく、ぶらぶらと働くことをしないさまを指す「楽だ」もダブらしているという、ある落語家の説も捨てたものではない。

 シャンシャンのように「かわいい」とか「抱いてみたい」という対象ではないが、文政のらくだは、今日のパンダよりも、見世物としては動員力があったと思われる。

 どちらも、見世物には違いない。

 「人寄せパンダ」とは、よく言ったものだ。

 文政のらくだも、きっと興行師が一儲けしたに違いない。

 もちろん、上野動物園も、シャンシャンの経済効果は小さくないだろう。
 抽選に当たった人も、大喜び。

 メディアも、久し振りの明るいニュースで潤う。

 だから、皆が丸くおさまるというのだが、それもそのはずで、名前が、シャンシャンだ^^
 

[PR]
by kogotokoubei | 2017-12-20 12:34 | 落語の本 | Comments(2)
 昨夜は、たまたまチャンネルを合わせた8チャンネルの「THE MANZAI 2017」を少し観た。

 日頃はバラエティ番組はほとんど見ないが、かつて芸達者の見事な漫才を見たことのある番組名に、少し魅かれてしまった。

 その中の、ウーマンラッシュアワーのネタには、正直、驚きもしたし、共感した。

 ハフィントンポストが記事にしていたので、引用する。

ハフィントンポストの該当記事

ウーマンラッシュアワー、THE MANZAIで沖縄米軍基地ネタ「面倒くさいことは見て見ぬふりをする」
「福井の小さい地域に原発が4基ある」などと風刺

2017年12月18日 08時11分 JST | 更新 1時間前

お笑いコンビの「ウーマンラッシュアワー」が、全国ネットのテレビ番組で、過激な漫才ネタを披露したと話題だ。

2人は12月17日、フジテレビ系の「THE MANZAI」に出演。北朝鮮ミサイル問題や沖縄の米軍基地問題、日米安保など、2017年の政治情勢を笑いで風刺した。

「福井の小さい地域に原発が4基ある」

まずネタになったのが、村本大輔が出身だという福井県おおい町だ。

「大飯原発があるおおい町です。原発のあるおおい町です。おおい町の隣は高浜町、高浜原発。その隣は美浜町、美浜原発。その隣は敦賀のもんじゅ。小さい地域に原発が4基あるんです」

と、村本は一気にまくし立てた。さらに、おおい町では午後7時になると店が閉まるところが多く「町が真っ暗になる」と説明。

「これだけは言わせて下さい、電気はどこへゆく!」

などと訴えた。

「本当の危機は、国民の意識の低さ」

しかしこれだけでは終わらない。ネタは10月の衆院選惨敗で「希望の党」の代表を辞任した小池百合子都知や、オリンピックに向けて新国立競技場には大金が投入されている一方で、東日本大震災や熊本地震の被災者の数万人が、未だに仮設住宅で暮らしていることなどまでに広がった。

沖縄の米軍基地問題を東京オリンピックと比較して「楽しいことは日本全体のことにして、面倒くさいことは見て見ぬふりをする」とか、アメリカにとって日本は、ミサイルや戦闘機などを買ってくれる「都合のいい国」になっているなどと批判した。

2人はこれらのニュースよりも、議員や有名人の暴言・不倫がニュースに取り上げられる機会のほうが大きいと指摘。その理由を「数字(視聴率)がとれるから」「それを見たい人がたくさんいるから」などとした上で、「本当の危機は、原発問題よりも、基地問題よりも、国民の意識の低さ」などとバッサリ斬った。

「圧巻」「ネタとしては...」様々な声上がる

このネタに対し、Twitterなどには「圧巻だった」「村本という人の覚悟、それを受けての相方の人の覚悟が神々しかった」「ネタとして面白くない」「正論言ってくれてすっきりする 笑いにできるって凄いと思う」など、さまざまな意見が投稿されている。

ネットからの反応に対し村本は、「漫才とか漫才じゃないとか風刺とか風刺じゃないとか時事とか時事じゃないとかどうでもいい」とTwitterに投稿。「言いたいことを言いたいだけ。様々な価値観を押し付けられて、息苦しい世の中、マイクの前だけが呼吸させてくれる」などとコメントした。

 この漫才には、最近はほとんど見るこのできない、かつて漫才や落語に存在した体制批判の精神が、明白に見受けられた。

 舞台下手の村本大輔の切れのいい早口に、上手の相方、中川パラダイスもリズミカルに反応し、しゃべくり漫才の技量としても、決して低くはない。

 村本の地元おおい町を含め、福井県にある原発の電気は、関西地区に供給されている。

 地元には、原発の電気は供給されず、立地地域への「迷惑料」が支給される。
 その金で、がんじがらめになっているのが、おおいや美浜を含む原発立地地域の実態だ。

 かっての電源三法交付金の仕組みが、2003年10月1日に法改正されて一つにまとめられた電源立地地域対策交付金となり、この原発立地地域への「迷惑料」が地元にとっては「麻薬」となっていることを、忘れてはならないだろう。

 彼らは、熊本地震での被災者、東日本大震災での被災者で、いまだ仮設住宅暮らしである人数を、掛け合いの中で明らかにした。
 彼らが主張するように、新国立競技場に1500億円もかけて、オリンピックをするどころではないはずだ。
 兄弟ブログ「幸兵衛の小言」で先日書いたことだが、「ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)」がノーベル平和賞を受賞するにあたっては、サーロー節子さんはじめ、高齢の日本人の被爆者の方々の生命をかける支援が大きく寄与した。日本のメディアは、NHKをはじめ、受賞式でのサーロー節子さんの感動的なスピーチを放送しなかった。
「幸兵衛の小言」の該当記事
 政府に「忖度」しているのだ。
 「ICAN」がノーベル平和賞を受賞するにあたっては、サーロー節子さんはじめ、高齢の日本人の被爆者の方々の生命をかける支援が大きく寄与した。
 受賞式やサーロー節子さんのスピーチを、なぜ日本のメディアは放送しないのか。

 そういう今日の日本のマスメディアの病状にも、彼らは明確な問題提起をしていた。

 「ICAN」が貢献した核兵器禁止条約に、世界で唯一の被爆国日本は、批准していない。アメリカはじめ核保有国と、なぜ歩調を合わせる必要があるのか。
 まさに、彼らの言う通、アメリカにとって、「都合のいい国」になっている。

 「本当の危機は、国民の意識の低さ」とは、よくぞ言った。

 今の国の実態に警鐘を鳴らすような漫才は、痛快でもあった。

 村本大輔が個人的に反戦、反原発を明確に主張していることは、ネットなどで知っていたが、この日は、漫才コンビとしてしっかりネタになっていた。

 爆笑問題も観たが、彼らの漫才には、かつてはあった良い意味での“毒”は、感じなかった。弱い者いじめに近いもので、社会批判的な要素は見られない。

 首相と会食して喜んでいるような先輩芸人の松本人志とは、実に対照的だ。
 
 真っ当な感性から時事問題に挑み、タブーとも思われる題材を取り上げて公共の電波で披露した彼らの漫才に、私は拍手を送りたい。
 
[PR]
by kogotokoubei | 2017-12-18 12:33 | お笑い・演芸 | Comments(2)
e0337777_09443123.jpg

中島隆信著『大相撲の経済学』(ちくま文庫)

 さて、シリーズの三回目、最終回。

 関取の給与は、どうなっているのか、『大相撲の経済学』の「第2章 力士は能力給か」から紹介。

 なお、本書序章でことわっているように、数字は平成20年春場所時点。

 日本相撲協会は力士個人の給与を明らかにしていないが、給与体系については情報公開している。その情報をもとに年俸を推定することができる。すると、概算で白鵬は4000万円、玉春日は2000万円、幕内力士の平均は2000万円である。相撲社会の頂点を極めた横綱にしては、年収の点で他の力士と実力ほどの格差はついていないことがわかる。なぜこうしたことが起こるのだろうか。

 ここで、情報公開している、というその情報については、注記で「日本相撲協会寄附行為施行細則」を参照、と書かれている。
 この「寄附行為施行細則」という名前の規則で、力士の給与が定められているということには違和感があるが、それはおいておこう。

 推定することができる、についての注記には、月給を12倍、褒賞金を6倍して加算したもので、懸賞金や本場所特別手当は含まれていない、と説明されている。

 では、この続き。

 大相撲の給与は「二階建て」
 その理由は大相撲の独特な給与体系にある。プロ・スポーツの場合、給与は契約制による場合がほとんどである。実績に照らして契約内容を更新していくことで能力が給与に反映されるしくみである。
 大相撲の場合は、番付と呼ばれる一種の職階が給与のい一部を規定する。本場所の成績を反映して番付が上下すると、それにともなって給与も増減する。
 番付は本場所後に開かれる番付編成会議において決められる。会議のメンバーは審判部に属する親方衆が中心で、力士たちはそこでの議論に参加することができない。また、会議の結果も大関や横綱昇進などの特殊な場合を除いては次の場所の直前まで公開されない。このように、協会サイドが一方的な権限を握ってはいるものの、番付上の地位によって決まる給与はプロ・スポーツにおいては一般的に見られる能力給と見なすことができる。
                  <番付による給与月額>
e0337777_10574711.jpg

 表は平成20年時点における番付地位別の給与月額を示したものである。この表には三つの注目すべき点がある。第一に十両より上か下かで天地ほどの開きがある。十両に昇進しないことに月給は一銭ももらえない。第二に、階級があまり細かく分かれていない。たとえば、幕下以下はすべて無給、関脇と小結は同じ給与、平幕と十両の中では上位も下位も関係なく同一の給与である。番付の多少の変動は給与に影響を与えないことがわかる。第三に、関脇から大関への昇進では70万円、大関から横綱では50万円程度の昇給に過ぎない。
 なぜ、横綱と大関とでも給与額がそれほど大きくないのか、また、平幕や十両では、皆が同一給与なのか、という疑問について、もう一つの給与といえる「力士褒賞金」が、次のように説明されている。

 大相撲では番付に応じた給与とは別に、「力士褒賞金」という給与がある。俗に「持ち給金」とも呼ばれるこの給与の最大の特徴は、「成績が良ければ増えるが悪くても減らない」という点である。褒賞金は本場所の成績に応じて、
 ①勝ち越しの数(勝ち数マイナス負け数)でプラスの場合、その数一つにつき五十銭(0.5円)
 ②平幕力士が横綱に勝った場合(金星)につき十円
 ③幕内優勝すると三十円、全勝の場合五十円
 というように加算されていく。興味深いのは負け越しても、時間が経過しても減額されないことである。実際は、この褒賞金を4000倍した額が十両と幕内力士に限って年六回の本場所ごとに支給される。
  (注)より厳密には、褒賞金は番付上の地位に応じて最低支給額が定められている。
   横綱は150円、大関100円、幕内60円、十両40円、幕下以下3円で、昇進時それに
   満たない力士は最低支給額までアップされ、そこから再び加算される。

 この褒賞金は、あくまで十両以上の力士(関取)にのみ支給される。
 それまでは、褒賞金をひたすら積み上げ、貯める時期なのである。

 本書では、この当時の現役力士中の最多褒賞金は、横綱朝青龍の985円と紹介されている。
 では、今日の現役力士ではどうか。
 少し古くなるが、昨年1月のNEWSポストセブンに、力士の給与の仕組みを含め、歴代の褒賞金上位者に関する記事があったので、引用したい。

NEWSポストセブンの該当記事

「力士報奨金」 大鵬の歴代最高額を軽々塗り替えた白鵬
2016.01.19 07:00

 「土俵にはカネが埋まっている」とは、元横綱・若乃花(故・二子山親方)が遺した言葉だ。その言葉通り、角界は出世を果たすたび、一般人では考えられない凄まじい金額を稼ぎ出せる仕組みになっている。力士の収入を大別すると、月給、力士報奨金(給金)、懸賞金という3本柱に分けられる。ここでは「力士報奨金」について解説しよう。

 月給と違って力士によって大きく変わってくるのが「力士報奨金」である。これはいわば力士の能力給といえるもので、好成績を上げるごとに額が増えていく仕組みになっている。

 力士はすべて、序ノ口でデビューした際に「持ち給金」として1人当たり3円が与えられる。以降、本場所での勝ち越し1勝につき0.5円が加算され、他にも金星1個につき10円、優勝1回につき30円、全勝優勝は50円を加算。そしてこの合計を4000倍した金額が、本場所ごとに引退するまで支給される。

「番付は上位陣の多くが勝ち越すなどして三役に昇進できなかったり、上位が詰まっていて上がれないようなこともあり得る。内規に照らせば条件を満たしているものの、横綱や大関への昇進が見送られることも多い。番付にはこうした不平等があるため、給料の能力指数として万全ではないという見方があり、その不備を補うために考案されたのが力士報奨金だといわれています」(角界関係者)

 現役で持ち給金が最も多いのは横綱・白鵬で1691円。これを4000倍した676.4万円×年6回=4058.4万円が、基本給にプラスして支給される(支給金額は推定)。これまで持ち給金の最高額は大鵬の1489.5円だったが、白鵬はこれを軽々塗り替えてしまった(ちなみに千代の富士は1447.5円、貴乃花は1060円)。

 白鵬が持ち給金を増やせた理由は全勝優勝の多さにある。全勝優勝すれば50円に加え、15勝の勝ち越しなので7.5円加算され、合計で57.5円(一場所あたり23万円)。これが14勝1敗の優勝なら優勝の30円と勝ち越しの6.5円で36.5円(同14万6000円)と全勝優勝の約半分となる。白鵬は35回の優勝のうち、歴代1位となる11回が全勝優勝。最多額をたたき出しているのも頷ける。

 白鳳は、その後も優勝を含めて褒賞金を積み上げているので、史上最高額を更新し続けているわけだ。
 番付だけの給与のみではなく、褒賞金による給与の「二階建て」制度は、『大相撲の経済学』で著者が次のように書いているように、妥当性があるのだろう。

 実力主義が当たり前のスポーツ界においてこうした収入の安定性や年功賃金的要素を取り入れることのの道理性はどこにあるのだろう。
 まず、収入の安定化にはメリットがある。人間は誰しもリスクを嫌う。時々の調子の良し悪しで収入が乱高下するよりも、その平均値を安定的に支払ってくれた方が力士にとってより望ましいといえる。ただ、完全な固定給にしてしまうと、今度は力士が稽古をしなくなり、相撲の質の低下を招くおそれがある。そこで十両と幕下の間に禁止的ともいえる格差をつけ、努力を怠ると幕下に陥落し、積み上げた褒賞金も給与も一切もらえなくなるようにする一方、稽古に励んだ結果、大勝ちしたり金星をあげたりすれば給与が上がるというインセンティブを同時に与えている。

 こういう仕組みを考えても、やはり、大相撲はスポーツとは言えないだろう。
 他のプロスポーツで、選手が加入する年金などのセーフネットの仕組みを除けば、副業を除く競技による報酬は、あくまで成績によって決まる。

 さて、横綱審議委員会のことなど、まだ紹介したい内容もあるのだが、そろそろ、相撲への「取組み」は、今回にて終わりとしたい。


 メディアは、まだ相撲協会側に寄った貴乃花親方批判で賑わっている。

 あえて書くが、白鳳の年収は、今回の記事でお察しの通り、決して少なくない。

 アーセナルのベンゲル監督が、日本滞在中に好きになった相撲の姿、横綱の気品を、彼は備えているのか。

 勝負の判定に抗議する姿、優勝して万歳を強要する姿勢に、横綱の姿はあるのか。

 そして、あの鳥取の夜の事件現場で、なぜ、彼は同じ横綱による常識を超えた暴力をすぐに止めなかったのか。
 私は、彼は共犯と言えるのではないか、という疑惑をずっと持ち続けている。

 『大相撲の経済学』では、横綱は興行上の看板であるとともに、奉納相撲なども行う公共財でもあるから、なかなか辞めさせることが難しいと説明する。

 経済学的な視点では、その通りかもしれない。

 しかしだ、世の中、経済の論理だけで考えてはいけないだろう。

 以前も引用したが、落語の『二十四孝』の科白に次のようなものがある。

「おまえの親父は、食べる道は教えたが、人間の道というものを教えないから、貴様のようなべらぼうものができたんだ。ええ?」

 協会、そして横綱審議委員会が、「食べる道」という経済学のみならず、「人間の道」に立って考えるなら、白鳳の横綱としての適性を、もっと論じるべきではないか。

 彼は、教わった「食べる道」のおかげで、給与も褒賞金も溢れるほど積み立てることはできただろう。

 しかし、「人間の道」については、どれほどの積み立てがあるのか、疑問だ。

 最後には、こんな小言になり、これにてこのシリーズ「千秋~楽」でございます。

 
[PR]
by kogotokoubei | 2017-12-16 12:12 | 大相撲のことなど | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛