噺の話

kogotokoub.exblog.jp
ブログトップ

<   2017年 11月 ( 17 )   > この月の画像一覧

 NHKの朝ドラ「わろてんか」は、とても私には笑えないドラマになっている。

 “モチーフ”である吉本せいも夫も、あまりにも実際の彼らとはかけ離れすぎているし、フィクションとしても、このドラマはつまらない。

 主役夫婦を含め、人間の描き方が、なんとも薄っぺらなのだ。
 
 当時の大阪の空気、上方芸能界の息吹きを、感じることができない。
 

 これまで、このドラマの「チェックポイント」という記事を三回と、関連する記事を三回書いた。
2017年9月25日のブログ
2017年9月27日のブログ
2017年9月28日のブログ
2017年10月5日のブログ
2017年10月21日のブログ
2017年10月29日のブログ

 また、初代桂春団治と吉本せい、という題でも三回記事を書いた。
2017年10月6日のブログ
2017年10月8日のブログ
2017年10月10日のブログ

 矢野誠一さんの本、富士正晴の本、そして山崎豊子の本、などを頼りに書いた記事である。
 それらは、当時の上方の大衆芸能界、落語界の姿を少しでも分かりたいという思いで読んだ本である。

 まったくそういった内容の片鱗をも伝わらないドラマが、「わろてんか」である。
 あるいは、脚色の度が過ぎて、史実や人物の実際の姿を歪曲しているとも思え、誤解を与えかねないドラマになっている。

 たとえば、チェックポイントの三回目、9月28日の記事では、吉本吉兵衛(泰三)とせい夫婦の寄席経営にとって重要な支援者であった、浪速反対派の岡田政太郎がどう描かれるかがポイント、と書いた。

 岡田政太郎を“モチーフ”にしているのは、寺ギンという「オチャラケ派」の大夫元だろう。

 その名も、「オチャラケ派」・・・・・・。

 対するのは、「伝統派」とは、なんとも直球の酷いネーミング。

 実際は、伝統のある古典重視の桂派と、元桂派にいた噺家によって組織された、笑いを優先する三友派の二大派閥があって、その二つに岡田の浪花反対派安い木戸銭で対抗しようとしていた。

 寄席を手にした吉本夫婦は、その反対派の岡田と手を組んだのである。

e0337777_12133659.jpg

矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)

 あらためて、矢野誠一さんの本から、そのへんのところを確認したい。

 吉本吉兵衛とせい夫婦が第二文藝館を手に入れて寄席経営を始めた頃の、大阪の落語界の勢力関係について。

 当時の大阪寄席演藝界は、両立する落語の桂派・三友派に対して、上本町富貴席の太夫元岡田政太郎の浪花反対派が、その勢力を競うというよりのばしつつあるといった状況にあった。
 吉本せいと吉兵衛夫妻の手になる第二文藝館は、この浪花反対派との提携で出発したのだが、このときの顔ぶれを、『大阪百年史』は、
<落語には桂輔六・桂金之助・桂花団治・立花家円好、色物に物真似の友浦庵三尺坊・女講談の青柳華嬢、音曲の久の家登美嬢、剣舞の有村謹吾、曲芸の春本助次(ママ)郎、琵琶の旭花月、怪力の明治金時、新内の鶴賀呂光・若呂光・富士松高蝶・小高、軽口の鶴屋団七・団鶴、義太夫の竹本巴麻吉・巴津昇、女道楽の桐家友吉・福助らであった>
 と記している。
 無論、開場興行にこれらの藝人全員が顔をそろえたというわけではなく、岡田政太郎の浪花反対派との提携によって、これだけの顔ぶれが用意されたという意味であろう。のちに、ひとつ毬の名人といわれ、むしろ東京で活躍した春本助治郎の名を見出したりするものの、一流とはいいかねる顔ぶれである。

 桂派と三友派については、ほぼ六年ほど前に初代春団治のことを書く中でふれた。
2011年10月6日のブログ

 桂派は、初代桂文枝の流れを引き継ぐ一派。

 その初代桂文枝の弟子が二代目文枝襲名を競う中で、文三に敗れた文都(のちの月亭文都)が桂派を抜けて出来たのが、三友派である。

 そういった、上方落語界が脈々と胎動していたダイナミズムなども、あのドラマからはまったく伝わることがない。

 三友派ができて二十年近く後に、吉本せいと吉兵衛夫妻は第二文藝館を手に入れたのだが、当時の桂派と三友派を向こうに回して、まったくの端席であったから、岡田の反対派との提携は、吉本せいと吉兵衛夫婦にとって生き残りを賭けた重要な転機であった。


 そして、時は流れ、隆盛を誇った桂派は次第に人気が陰って三友派に吸収される形となった。
 そして、勢力を伸ばした吉本は、ついに、その三友派を代表する桂春団治を陣営に取り込むことになる。

 だから、単純に「伝統派」と「オチャラケ派」の対立構造ではない。

 その後、岡田の事業も、吉本興行は吸収することになる。

 寺ギンが元僧侶という設定も、なんとも無理があるなぁ。

 岡田政太郎と同じ、風呂屋の倅でもいいじゃないか。

 “モチーフ”のある“フィクション”と謳っているがために、無理に設定を変えているような、そんな気がしてならない。

 たまには、史実通りの設定でも、いいじゃないか。

 そもそも、「オチャラケ派」という名前を聞いた段階で、私は気が抜けた。

 そして、寺ギンと吉本夫婦との取り分をめぐるギスギスした関係が描かれるのを見て、「これじゃだめだ。吉本夫婦も岡田政太郎も浮かばれない」と思った。

 あの当時、桂派と三友派に対抗するには、売れない落語家や若手、そして、たくさんの色物さんで顔付けした、木戸銭の安い寄席で勝負するしかなく、吉本夫婦にとって、岡田の反対派は、重要なパートナーであっても、敵対する間ではない。

 ある特定の人物を“モチーフ”とするフィクションとことわっているが、その“モチーフ”を描く上で、変えてはいけない部分もあると思う。

 生家の場所の脚色(大阪ではなく京都)、家族構成の脚色(後に事業を手伝う弟たちの不在)も、史実と変える必然性をまったく感じないが、寄席経営の最初の一歩に関し、ここまで“オチャラケ”にされたんでは、ついていけない。

 上方芸能にとって重要な人物たち、そしてその歴史まで“オチャラケ”にされている気がして、見ていてストレスがたまるようになった。

 それでは、健康にも良くない^^

 今週は、落語『堪忍袋』を“モチーフ”にした筋書きのようだが、見ている方の堪忍袋も破れる寸前なのである。

 ということで、さよなら、とても笑えない「わろてんか」!


[PR]
by kogotokoubei | 2017-11-28 21:47 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)
e0337777_12501654.jpg

秋山真志著『寄席の人たち』

 さて、この本から二代目橘之助のこと、最終回。

 圓歌は先のおかみさんを亡くしてから、酒に溺れるようになった。
 ご多聞に漏れず、男は女房を亡くすと、からきし弱くなる。
 女は・・・・・・ここでは書かないことにしよう。

 橘之助(当時、小円歌)の内弟子時代の回想をご紹介。

「内弟子は、家のこと全般をするんです。まず、師匠が起きる十時ぐらいまでに新聞とお水を持って部屋まで届けるんです。
 (中 略)
師匠は師匠でおかみさんが亡くなって淋しかったのもあるんでしょうけど、毎晩夜中にベロベロに酔って帰ってくるんです。私と歌る多が両脇を抱えて二階の師匠の部屋まで連れて行って寝かせて・・・・・・お~って呼ぶから行くと、オレが寝るまでマッサージしろっていうんです」
 圓歌は当時の生活を自著の『これが圓歌の道標(みちしるべ)』の中で振り返っている。
「私は、いまでも思うんですよ。小円歌と歌る多がいなかったら、おまんまも食えなかったって・・・・・・。そのころは二階で寝てましたから、階下に降りてくる途中で、パンツからみんな脱いで風呂場へ入っちまって、出てくるとい、下着やなんか、そこに出してあるのを着て、部屋へ入ると、もう朝からすき焼きでビールでしたからね。それから寄席へ行って、ちゃんとつとめてたんですから・・・・・・。いまだったら、ひっくり返っちまいますよ。
 こんな生活を送っていたもんですから、いまでも小円歌と歌る多には言うんですよ、『おまえたちのおかげで、おれは生きられたって・・・・・・』ね」

 あの圓歌が、こんなことを書いていたとは。
 
 私は、橘之助、そして、歌る多と師匠と間にこのような師弟の絆があったことを、初めて知った。

 彼女たちが、師匠圓歌を失った時、どれほど深い悲しみに陥ったものかと察せざるを得ない。

 さて、あす歌から小円歌となって、彼女の修業は続く。芸に悩みもした。
 そんなある日、あの人から一喝されたらしい。

「すごくウケたときもかなりあったんです。でもどちらかというと、笑え、笑え、という感じで、笑いを強要してました。若かったからえげつなかった。ある日、小三治師匠に池袋演芸場の楽屋で叱られました。なんだ!あの高座は、なんなんだ!あのネタは。オレたちが聞いていて恥ずかしくなる。あんなネタやめろ、しゃべるな!オマエは高座に出てきて、ポロンと弾いて、踊ります、って踊って、ああキレイだなって、これでいいんだよ。ウケるようなヤツじゃないんだ!っていわれて・・・・・・そのときはすごく悔しかった。でもこの世界、裏で悪口をいってる人はたくさんいるけど、当人にピシッと直言してくださるのは貴重な方だと思って、小三治師匠には本当に感謝しているんです」
 それでしばらく、小三治のいう通りにやってみた。でもそれまでに、拙いながらもウケているというお客の反応を見てしまっているので、物足りなくてしょうがなかった。これだったらいっそのことやめたっていいな、とも思った。
「私はどちらかというと、三味線とか唄がへただから、しゃべりでカバーしていく、っていうのがあって・・・・・・それは間に合わせでやった初高座のスタンスから変わってないわけですよ。三味線は短くて、そのつなぎのしゃべりが長くて、どんどんウケるじゃないですか。そっちが楽しくなっちゃって、だから小三治師匠のいう通りにやってみても全然おもしろくないんですよ。こんなんだったらやめちゃってもいいな、どうせやめるのなら何いわれてもいいからもう一回もどしちゃえ、そう思ってもどしたんです。ただし、えげつないことをいうのはやめて自分の持ち味、江戸っ子のチャキチャキッとしたところを出していけばいいんじゃないかなと。それに師匠が、オレの悪口はどんどんいっていいから、あとでオレが出て行ってフォローするから、といってくれて・・・・・・そういた師匠の後押しにもずいぶん助けられました」
 それからお客が少し聴いてくれるようになり、だんだんと小円歌の芸風が浸透していった。
 小三治の一喝は、いずれにしても小円歌の転機となったと思う。
 
 もちろん、師匠圓唄のアドバイスも大きい。

 私は、小円歌の芸について批判的な声があるのを知っているが、もうじき、“偉大なくマンネリ”になる一歩、あるいは二歩手前位にあり、今後が楽しみだと思っていた。

 しかし、まさか橘之助の名を継ぐとは予想もしていなかった。

 この本では初代橘之助のことにも触れているので、ご紹介したい。

「大師匠の圓朝にも可愛がられ、真打の看板を上げたのが明治八年、なんと数え年八歳の時であった。とにかく大変な天才で、清元・長唄・常磐津・小唄・端唄・・・何でも自由に弾きこなし、自ら名付けた浮世節の家元となり、楽屋内でも女大名と言われて一世を風靡した」(文・都家歌六 『全集・日本吹込み事始』監修・都家歌六、岡田則夫、山本進、千野喜資)。山田五十鈴の代表的な舞台『たぬき』のモデルとしても名高い。圓生の『明治の寄席芸人』でも絶賛されている。「芸については申し分のない、たいした人だと思います。三味線を持って弾き違えをしたことがない。撥をはずしたことも、あたくしは一度も聞いたことがない。実にどうも大した名人でしたが」
 ただ大変な浮気者で別名“千人斬り”。(のちの)六代目朝寝坊むらくと駆け落ちしたり、艶っぽい話は枚挙にいとまがない。
 この六代目朝寝坊むらくという噺家は、何度も改名している人だが、永井荷風が弟子入りしたことでも知られている。

 さて、その恋多き初代橘之助の芸についての引用を続けながら、当代橘之助の言葉もご紹介。

 橘之助の浮世節はいまもCDやテープで聴くことができる。長唄かと思えば常磐津になり、いつしか小唄・端唄になったかと思うと清元に変わり・・・・・・変幻自在にさまざまな邦楽をつなぎ合わせて唄う“吹き寄せ”が特徴で、すさまじいテクニシャンだ。無論、明治・大正のお客は邦楽にもい通じており、耳が肥えていたからこそできた芸だともいえる。彼女のしゃべりが唯一入っている『文句入り都々逸』という唄が残っているが、なかなか諧謔味がある。橘之助は噺家の二代目三遊亭圓橘の門下であり、前座に噺を教えていたという伝説もあるほどなのでおそらくしゃべりも達者だったのではないか。この時代にもし三味線漫談という言葉があり、軽妙なしゃべりを挟んでいたとしたら、彼女が三味線漫談の嚆矢だったかも知れない。小円歌も「いまの人にもわかる音曲吹き寄せの現代バージョンをつくれないかと思っています」。これが完成したら、三味線漫談の新たなトビラを開くことになるだろう。

 たしかに、今の時代と明治、大正時代とは、客の邦楽の知識も大きく違う。

 しかし、寄席が好き、落語が好き、邦楽も好きという人も少なからずいる。

 私は、初代の芸を今に生かした、二代目橘之助のならではの“吹き寄せ”を聴いてみたい。

 そんな期待、希望をもって、このシリーズをお開きとする。

 今席の浅草の後、来月上席は池袋で披露目が続く。

 そう、小三治に楽屋で叱られた、池袋だ。

 なんとか行きたいと思っている。

[PR]
by kogotokoubei | 2017-11-26 15:20 | ある芸人さんのこと | Comments(4)

e0337777_12501654.jpg

秋山真志著『寄席の人たち』
 シリーズ三回目。

 将来、二代目立花家橘之助となる女性の高校時代のこと。
 女優かバレーボールの道か、あるいは学校で習っている和裁洋裁の仕事に進むのか、など迷った挙句、取りあえず短大に進んで二年生のとき、大きな人生の岐路に直面するのであった。

 短大生となってもバレーを続けていたが、二年のときに神楽坂にある俳優養成所の東京放映に入った。夏期ゼミナールに三遊亭圓歌が特別講師としてやってきた。運命の出会いだった。
「圓歌師匠のことは、小さいときにテレビで見て、黒縁の眼鏡をかけてやまのあなな・・・・・・っていうのを覚えていたけれど、あ、この人テレビに出ているすごく有名な人だ、ぐらいの認識しかなかったですね」
 そこで圓歌が小噺をみんなに教えてひとりずつ前に出てやらされた。落語というのはひとり芝居なので、こういうことも芝居の勉強になるからと、二、三日かけてひとりひとりにアドバイスしてくれた。圓歌はこの中でいいのがいたら弟子に取るよ、といって、古株の生徒を誘ったが逆に断られてしまった。いよいよ最終日の抗議も終わり、圓歌と生徒たちが連れ立って神楽坂を下っていった。タクシーの拾える広い通りまでくると、圓歌が「オレはこれから上野の鈴本まで行くけど、あっち方面のヤツがいたら乗せてってあげるよ」といった。そこで小円歌ひとりが手を挙げた。
 タクシーの中ですっかり仲良くなってしまった。圓歌には、ピンとくるものがあったようだ。まず、浅草育ちということ。江戸っ子は圓歌にとってもステータスだった。しかも日舞の名取で、母親やおばあちゃんも三味線をやっている。
「そんなに女優になりたいんなら、紹介してやるよっていわれたんです。どうだ、圓歌事務所っていうのがあるから、事務所に入ってオレ付き人をやってみたら。そのうちに女優さんを紹介してやるからさ。なんのツテもないのにそんなこといわれたら、あ~やりますって一も二もなく返事して、じゃあ、一週間後に来いよっていわれて、母親と行ったんです。母親はまた私に輪をかけてべらんめい調なんですよ。普通にしゃべっていても、するてえと、なんていう人で、とにかくまるっきり江戸っ子なの。師匠が私よりも母親を気に入っちゃって、親が三味線やってるならできるだろう。日本舞踊もできるんだし、じゃあオマエ、三味線漫談やれ、付き人じゃなくてオレの弟子になれって話になって、エ~ってビックリしちゃいました」
 一緒にタクシーに乗ったのが運の尽きだったのか幸いしたのか、あれよあれよという間に話しが進んでしまった。
 あら、マクラで彼女がいつも言っている「女優にならせてやる」と圓歌が言って騙された、というのはホントだったんだ。

 それにしても、本当に運命というものは、不思議なものだねぇ。

 柳家さん喬が、70年安保の頃の高校時代、大学生のアジ演説を聞いて大学への夢を失い、好きな落語の道を志してから、数々の縁に導かれて目白の小さん宅を訪ねることになったことは紹介した通り。

 小円歌にとっては、まさに師匠が神楽坂から乗るタクシーに同乗してから、運命の歯車が回り出した、と言うべきか。

 これも圓歌、もとい、縁か^^

 さて、この後どうなるのか。

 しかし、小円歌は三味線漫談のなんたるかを知らなかった。一方、圓歌はかつて前座時代、都家かつ江の家に居候するなどかわいがってもらっていたことがあり、三味線漫談の後継者を育てたいという気持ちがあった。当時、かつ江は寄席には出ておらず、そのあとがいない、という状況もあった。
「しょうがないからかう江師匠のテープを買ってきて聴いたんですけど・・・・・・エッ、こんなことやるのって感じで。かつ江師匠はそう三味線がうまいほうではなかったから、あ、三味線はこれでもいいのか、これならできるんじゃないのかと。三味線のうまさではなくて、話し口調とか、ネタのおもしろさとか、その人個人の魅力でいけるんだな、と思いました。けれど、弟子になれという話にはさすがに、考えさせてくださいと答えたんです。それで三日間考えてから入門することにしました。おじいちゃんがすごく乗り気で、一度師匠を家に呼んだらおじいちゃんと気が合ってしまって・・・・・・そのあともふたりでよく飲みに行ったみたいです。とはいえ急に入門というのは無理なので、大学を卒業してから入門することにしました」
 昔から三味線は好きではなかったが、家の中に身近にあった楽器なので、持って爪弾くことはできた。母親から教わったが、圓歌と仲のよい小唄の師匠のところに稽古に通った。三月に正式に入門して、五月二十九日の国立演芸場の圓歌独演会が初高座というスピードぶるだった。芸名は三遊亭あす歌。

 タクシーに一緒に乗ってから、なんというジェットコースター的な日々だったことか。

 それにしても、圓歌が、なぜそこまでに彼女の弟子入りを希望したのだろうか、というのは当然の疑問。

 まさか、俳優養成所での小噺の課題が良かったから、ということはあるまい。

 この本には、あす歌時代の写真が載っていて、結構可愛いのだが、だからつい傍におきたくなった・・・ということでもあるまい。

 実は、圓歌の周辺でのある出来事が、弟子、それも女性の弟子をとりたくさせる要因であると察するし、なんとも早すぎる初高座の理由だったのだ。

「師匠の先のおかみさんが癌でいくばくもなくて、おかみさんは私のことをかわいがってくださっていたんですが・・・・・・あす歌ちゃんの初高座を見たい、っていう話になりまして・・・・・・師匠が毎日マンツーマンで稽古をつけてくれました。踊りはできるので、小唄を二つか三つ覚えて来いといわれて、小唄の合間を持たす小噺を師匠が教えてくれました。小唄と踊りと小噺を組み合わせてひと高座。全然あがらなかったけど、人前に出てお金を取ってしゃべるという経験は初めてのこと。出番は七分だったのにやたらと長く感じて、笑わせているというより、笑われている、という感じでした」
 おかみさんが有名な呉服屋に頼んで色も全部決めて、着物をあつらえてくれた。入院先から点滴を打ちながら見にきてくれた。おかみさんはその年の八月六日に亡くなった。それから小円歌とお手伝いさんが交互に泊まって圓歌の世話をするようになった。
そのうちに歌る多(女性で初めて真打ちになった噺家)が弟子入りし、十月からふたりが本格的に内弟子になった。

 先のおかみさんの話、結構、目がうるうるするねぇ。

 さて、妻を亡くした圓歌は、その寂しさを酒で紛らわせるようになる。
 彼自身がその頃を著書で振り返っているのだが、その内容を含め、その後小円歌を名乗ることになる、あす歌の修業時代のことは、次回最終回でご紹介したい。

 今日も、土曜の浅草の二代目立花家橘之助の襲名披露興行はきっと大入りではなかろうか。

 もしかすると、今回の襲名を天国で一番喜んでいるのは、圓歌よりも、先のおかみさんなのかもしれない。

[PR]
by kogotokoubei | 2017-11-25 13:30 | ある芸人さんのこと | Comments(2)
 
e0337777_12501654.jpg

秋山真志著『寄席の人たち』

 この本から、二代目立花家橘之助のことについての二回目。
 一回目の記事に、浅草で披露目を見た佐平次さんからコメントをいただいた。
 先を越された^^

 さて、江戸っ子一家に生まれた少女のこと。

 まず、あの家族である、自然の流れとして習い事を薦められることになる。
 本人の談。

「女の子が生まれたたら、三味線をやらせようか、踊りをやらせようか、って話になったらしいんですよ。三味線は親がやているから、じゃあこの子には日本舞踊をやらせよう、ということになって、六歳の六月六日に習いに行きました。それから花柳流の名取を取って、いまの世界に入って師範になって、ずっと続けていますね」

 高座の最後に披露する踊りは、やはり素人芸ではないのだよ。

 とはいえ、小さな頃は、人前で芸を披露するような子ではなかったらしい。

 いまの小円歌からは想像もできないが、子供の頃は引っ込み思案で人前で話すことが何よりも苦手だった。舞台で踊るのは平気だが、授業中に手を挙げたり、発表することができない。理科の実験のときも、最初は一番前にいてもいつの間にか見えないところまで下がっていった。

 そんな引っ込み思案の女の子に、ある変化が起きる。

 中学は中・高一貫私立の和洋九段女子中学校に進学。ミュンヘン・オリンピックで男子バレーが金メダルを取った当時のバレーブームの影響を受け、バレー部に入部した。身長も中学に入ってから16センチも伸びて166センチになった(ちなみになぜか大人になってからも伸びて、いまは170センチ)。
 バレー部に入って引っ込み思案の性格が変わった。猛烈にしごかれた。ビンタは当たり前。声を出さないと意思の疎通ができないので、必然的に大きな声を出すようになった。思考回路も変わってきた。前向きに考えるようになり、人前で話ができるようになった。性格が劇的に変わった。本来持っている強情さ、強さ、我慢強さがバレーをやることによってムクムクと頭をもたげてきた。高校では都大会でベスト4.小円歌は第二エースでアタッカー。部活は年に二日の休みしかなく、踊りの稽古に行く時間がない。たまにおあさらいに付き合いで出るために、週に一、二度、稽古に通ったが、その頃の夢はオリンピック選手になること。
 あの「ミュンヘンへの道」の影響か^^

 準決勝のブルガリア戦は、これまで私が観たスポーツの中で、三指に入る大逆転と言えるだろう。

 運動部に入ることでの心身の変化は、私も実感しているので、よく分かる。
 
 しかし、多感な女子高校生は、別な道を進む刺激を受ける。

 高校二年のとき、山口百恵の赤いシリーズのドラマを見て、女優になりたいと思った。バレーをずっと続けるべきか、和裁洋裁の学校なので、その方面に進むか、役者になるか迷ったが、取りあえず大学を出てから考えようと思い、系列の和洋女子短期大学被服科に進学した。

 あらあら、山口百恵の赤いシリーズだよ。
 
 昭和49(1974)年から昭和55(1980)年に放送されたようなので、なるほど昭和35年生まれの多感な女子高校生時代のど真ん中で影響を受けたわけだ。

 さぁ、取りあえず短大に進んだのだが、その学生時代に起こった運命を変える出会いについては、次回のお楽しみ。


[PR]
by kogotokoubei | 2017-11-24 12:29 | ある芸人さんのこと | Comments(2)
 この記事は、実は、さん喬の本の記事より前に書こうと思っていた。

 つい、著者ご本人からサイン入り本を頂戴し、一気に読んだこともあって、あちらが先になった。

 ただ今、襲名披露興行の真っ最中。
 今月上席の鈴本、中席の末広亭に続き、現在は浅草だ。

 あらためて、二代目立花家橘之助について、ある本から紹介したい。

e0337777_12501654.jpg

秋山真志著『寄席の人たち』
 七年前に集英社から発行された秋山真志著の『寄席の人たち』(副題、現代寄席人物列伝)で取り上げられた十人の中に、三遊亭小円歌が含まれている。

 本書を読んで、まず彼女の家のことで、次のように著者も私も驚いた。

 小円歌は浅草生まれのチャキチャキの江戸っ子だ。家族構成を聞いておどろいた。両親と弟妹、母方の四人の兄弟とおじいちゃんとおばあちゃん、おじいちゃんの母親のひいおばあちゃんと、そのまた母親の当時百歳のひいひいおばあちゃん。なんと十三人家族である。おじいちゃんが合紙業を営んでおり、住み込みの職人も六、七人いて、大きな釜でご飯を炊いていた。食堂が開店できるぐらいたくさんの食器があった。

 橘之助は昭和35年生まれなので、私より五つほど下。
 たしかに、昭和30年前半には団塊の世代の兄、姉を含め大家族は普通だったが、この十三人というのは、なんともすごい。
 そして、人数のみならず、同居する大先輩たちのそれぞれが、なかなかはありえない経歴や個性の持ち主なのだ。

幕末生まれのひいひいおばあちゃんはキッコーマンの本家の血筋。おばあちゃんは深川の木場の材木問屋の娘で、シャキシャキした働き者。おじいちゃんが二号を持つと「私も働いているんだから、二号さんにも働かせておくれ」とキッパリといった。
 一方、おじいちゃんも三代続く江戸っ子で、吉原通いや芸者遊びが大好き。粋な遊びをする人だった。
「よく芸者さんを何人も呼んでお座敷に上げて、祝儀を切ってましたね。母の結婚式のときも浅草の芸者さんを披露宴に二十人も呼んだりして・・・・・・ホントにたいへんだったようです。お金ばっかりかかって。でも女性関係はさっぱりしていました。別れるときもあとくされないようにしていましたね」
 おばあちゃんは三味線で小唄を弾いていた。おばあちゃんの先祖は皇族に三味線を教えていた家系だった。母親は長唄を習っていた。小円歌が二、三歳の頃、おじいちゃんが酒を飲みながら小唄を唄って、おばあちゃんが三味線をつまびいていたのが最初の記憶。由緒正しき江戸っ子の家系で、周りも落語の世界の住人のような家族である。芸人になったのもムベなるかなという環境ではないか。
 ホントに、絵に描いたような、江戸っ子一家。

 著者の書くように、芸人になるための環境は、家のみならず、その周囲にも存在した。
 まず、家の裏に住んでいたのが、先代の鈴々舎馬風で、色川のおじさんを呼んで居た。

 おじいちゃんがいろいろなところに連れて行ってくれた。当時都電が家の前を通っていて、それに乗ってあちこちに出かけたが、寄席に行った記憶がない。寄席の存在自すら知らなかった。しかし、浅草は芸人の街。家のすぐ向こう側には初代の江戸家猫八が、そのまた向こうには紙切りの初代林家正楽が住んでいた。漫才のあした順子もご近所仲間。母親の幼馴染は浪曲の玉川勝太郎の奥さん、母の弟の同級生は尾藤イサオ等々、数え上げればそんな例は枚挙にいとまがない。

 凄い環境だ。

 初代正楽のことは、先日書いたばかり。

 とにかく、江戸っ子家族と芸人の街浅草に育った娘が、その後、どのような経緯を歩んだのかは、次回のお楽しみ。

[PR]
by kogotokoubei | 2017-11-23 14:18 | ある芸人さんのこと | Comments(2)
e0337777_11432445.jpg

柳家さん喬『噺家の卵 煮ても焼いても-落語キッチンへようこそ!-』

 さて、この本のシリーズ4回目。

 前回は、高校の先生との面談における歴史的瞬間をご紹介した。

 その後、小さんに弟子入りするまでは、なんとも不思議な縁が、稲葉稔少年を導くことになる。

 まずは、ある親戚から紹介された、ある噺家さんのこと。

 噺家になろうと決めたそんな夏のある日、私の従姉が久しぶりに遊びに来ました。この従姉は浅草の田原町でちょいと気の利いたクラブをやっていまして、エキゾチックな顔立ちをしたなかなかの美人です。私が高校の時に二十七歳くらいでしたから、いまは・・・・・・まあいいか。
 従姉は来るなり「みっちゃん!」と声をかけてきました。当時は、家族、親戚、町内、悪童、みな私を「みっちゃん!」と呼んでいたんです。
「みっちゃんは落語が好きだよね?」
「うん、まあ」
「あのね、うちのお客さんでね、芸能学校を作った人がいてね」
「うん」
「その中に落語の教室もあってさ」
「うん」
「それがさ、生徒が集まらないのだ」
「うん」
「それでね、みっちゃん、その教室に入ってみない?」
 人の運命は好むと好まざるとにかかわらず自然とその方向に向いて行くものなのだろうか、私は従姉への義理もありその落語学校に通うことになりました。
 そこで教えて下さったのが当時二つ目で有望株の三遊亭吉生さん(現六代目三遊亭圓窓師匠)。半年も通ったころ、授業のあと吉生さんに呼び止められました。
「稲葉君は今年高校卒業でしょ?大学は行かないの?」
「はい」
「就職は?どうするの?」
「・・・・・・」
「噺家になるつもり?」
「は、はい!」
「やっぱりね!よした方がいいよ」
 そう言われると思ってはいたものの、でもなりたいんです、と私は珍しく真剣に喰らいつきました。
「どの師匠に弟子入りしたいの」
「小さん師匠です!」
「目白かーっ?」
 ご存知の通り、役者や噺家は住んでいる所で呼ばれます。文楽師匠は黒門町、志ん朝師匠は矢来町、三平師匠は根岸、正蔵師匠は稲荷町、三木助師匠は田端、志ん生師匠は日暮里。
 五代目小さん師匠は目白の閑静な住宅街に住んでいました。そこで師匠は「目白の師匠」となるわけです。吉生さんは「目白かーっ?」と腕を組んだまま。
「駄目ですか」
「いや駄目というわけではないけど、小さん師匠はお弟子さんが多いから難しいかもしれないよ」
 確かに吉生さんの言うとおりでした。のちに弟子入りをい許されたあとで先輩たちから「ひと雨ごとに弟子が増えるね、まるで蛙だね」と言われました。実際、半年の間に私を含め五人も弟子が増えたのですから、そう言われても仕方ないですが、雨後の竹の子ならず、雨後の蛙とはうまいことを言うものです。
 難しいとは言いつつも、吉生さんはいろいろな入門志願成功のノウハウを教えてくれました。
「でも無理だと思うけどなーっ」
 と、また腕を組む吉生さん。それをもいとわず私は、五代目小さんに弟子入り志願しようと心に決めました。

 従姉-お客さん(落語教室)-吉生(現圓窓)、とつながる縁があったとは。

 高校生時代の圓窓との出合いは、落語の世界に入った後も、大きな財産となったのではなかろうか。

 さて、稔少年の落語家になる夢を後押しする縁は、他にもあった。
 続きを引用。

 となれば、いつその目白のお宅へ行こうか。いろいろ考えあぐねていると、意外な展開が待ち受けていました。
 私の実家の洋食屋によく食事に来てくれたお客さんに大沢さんという方がいました。大沢さんがある日、私の父に向かって、
「ねえマスター、お宅の次男坊、今年高校卒業じゃないの、大学は決まったの?」
 親父は皿を拭き、
「それがねぇ、噺家になりてぇなんてとんでもなねぇことを言い出しゃがって、困ってるんですよ、まったく!」
「へー、そりゃいいや、で!誰の弟子になりたいの」
「小さん師匠のとこへ弟子入りしたいとか言ってやがるんですがね、どうもお弟子さんが多いからとってくれねぇかも知れねぇ、とか言ってやがるんですが、こっちはその方がいいと思っているんですがね!」
 大沢さんは水をグィッと飲み、
「そりゃいいや、小さん師匠なら紹介してあげるよ」
「えっ!」
 思わず親父の皿を拭く手が止まりました。大沢さんは、師匠の小さんが二つ目の頃からのご贔屓で「師匠!」「どうも!」の仲とのこと、紹介するくらいはたやすいことだと言います。果たせるかなその大沢さんの紹介で目白の五代目柳家小さん師匠の門をくぐることになるのです。
 大学進学をあきらめてから「噺家行き」という列車にいつの間にか乗っていて、駅、駅でそれぞれの人たちに迷うことなく乗り換えさせてもらい、この目白の五代目柳家小さんという駅に連れてきてもらったような気がします。そこには自分の噺家になりたいという意志とは別の力がはたらいていて、運命とはこんなものかとも思いましたが、それは噺家になれたから言えることなのでしょう。

 こんなこともあるんだぁ、という経緯(いきさつ)ではないか。

 たしかに、本人の意志とは別な運命的なものを感じるね。

 ということで、目白に通う前座修業が始まるのだ。

 その修業時代に、キッチンイナバのレシピ通りでさん喬(小稲)がある洋食を師匠のために作ったのだが・・・とか、喬太郎の名付け親や師匠さん喬でもなければ大師匠小さんでもない意外な人だった・・・とか、サッカーチームがつくれるほどの11人の弟子それぞれについてのさん喬による、とんでもない逸話を含む紹介・・・などなど興味深い内容がふんだんにあるのだが、やはり、それは実際に買って読んでいただきましょう。

 本シリーズ、これにてお開き。
[PR]
by kogotokoubei | 2017-11-22 12:36 | 落語の本 | Comments(0)
 関内ホールの改修工事のため、今回から会場が、地下鉄駅で関内から三つ目の吉野町駅から数分の市民プラザに替わった。
 ちなみに関内ホールは竣工30年を超えての長寿命化工事とのことで、今月から来年9月まで休館。

 六時半の開演には間に合わず、ホールに着いたのが七時十分ほど前。受付の方が開口一番がちょうど終わって、一席目が始まるところと教えていただき、ホール内にこっそり入って空席を見つけ、なんとかマクラが始まってすぐのところに滑り込んだ。

 200席の会場は、七割ほどの、見た目はちょうど良い感じの入り。
 小満んの同級生有志が、頑張って動員したのではなかろうか。

 通路を隔ててお隣にI女史がいらっしゃったので、目でご挨拶。

 三席、順に感想などを記す。

柳家小満ん『奈良名所』 (15分 *18:48~)
 上方の『伊勢参宮神乃賑』、『東の旅』の冒頭部分にあたる。
 小満んが演じるので、旅をするのは江戸っ子の二人連れ。京大坂を見物して、奈良まで足を伸ばした。
 尼ケ辻で道が二つに分かれて右が大和郡山、左は南都奈良、「今なら、尼ケ辻ジャンクション」で軽く笑わせる。前にいたご一行の笠に○にアとあるから、「阿波の百人講だ」と分かる。腹がへったという相棒に、そういうときには「粋に、ラハが北山(きたやま)と言え」と叱る。ラハ は、腹のひっくり返し、北山は、天気がいいと透いて(空いて)見える、という洒落。やり込められた方が、「腹がラハなら、メは?」「ハ は?」とやり返そうとする会話は、『居酒屋』の酔っ払いと小僧のやりとりを思わせて可笑しい。
 着いたところが、奈良の宿屋町。うるさい客引きに、定宿がある、と断る。宿の女中に「定宿はどちらで?」と問われ、「インバイヤ・・・いや、インバンヤ・シュウエモンだ」「手前どもがインバンヤで」というやりとりの後、この噺の聴かせどころの奈良名所の流れるような紹介が続く。上方落語『猿後家』でもこの部分は登場するねぇ。
 興福寺の南円堂、西国三十三所九 番目の札所、三作の塚、三作という小僧が習字の半紙を食べた鹿を追い払おうと文鎮を投げたら死んでしまい、石子詰の刑に処せられたという逸話を披露。「いにしへの 奈良の都の八重桜 今日九重に匂ひぬるかな」は伊勢大輔の作、「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠山に出でし月かも」は、阿倍仲麻呂、などの百人一首がズラっと並べられるなど、これぞ小満んワールド。
 春日神社では、その灯籠 の数と鹿の数をよんだら長者になると言われている。灯籠は数えることができても、鹿は皆同じような顔をしていて、しかとわからぬ、で笑わせて、奈良では放してある鹿を大事にしている・・・放してある鹿、はなしか、噺家を大事に、と畳み掛ける。 
 本来は大仏様で、目から鼻に抜ける、というネタのサゲだが、短縮版で切り上げた。とはいえ、小満んの奈良名所案内、実に結構でした。

柳家小満ん『なめる』 (38分)
 いったん下手に引っ込んで、再登場。場所は変われど、この会の決め式は不変だ。
 「猿若に 七つ目を積む にぎやかさ」の川柳で始まった。
 『今昔物語集』に原話があるという由緒ある(?)艶笑噺で、だから、円生が十八番としていた。
 多くの落語と似た設定があるのを発見するのが、落語愛好家の別な楽しみかもしれない。
 前半、八五郎が猿若町の中村座の桟敷で、若くて綺麗なお嬢さんと連れの年増に頼まれ、「音羽屋!」の声をかけて喜ばれ、弁当をご馳走になり、その後、業平の寮(別荘)に招かれる、という件は、『浮世床』の「夢」に実によく似た設定。しかし、これは夢ではない。
 十八歳のお嬢さんは乳房の下にデキモノがあり、易者によると四つ上の男に舐めさせれば治るという。八五郎は、まさにその二十二。
 デキモノを舐めれば、この娘は自分のもの、と思って舐めた八五郎。さぁ、泊まっていこうかと思っていたところへ、酒乱の叔父さんが戸を叩く音。
 年増女によると、ついこの前、八百屋が訪ねてきていたところに酔ってやって来て、八百屋は斬られそうになったと聞けば、すたこら駒形の家へ逃げるしかない。このあたりは、『紙入れ』にも似た騒動だ。
 翌日、業平を再訪した八五郎。寮に着いたが、人気がない。隣の煙草屋の主に尋ねると、「あぁ、出入りの方。それならお話しましょう。こんな可笑しな話はない」というあたりからは、まるで『転宅』。
 こういう筋書きそのものの楽しさを十分に味わわせてくれるだけではないのが、小満ん落語。
 マクラでは、猿若町の芝居小屋の構造を、詳しく紹介してくれた。平土間に高土間、高土間の奥に上と下に桟敷(しゃじき)があり、下が「うずらの席」。八五郎が、二人の女性の計略とは露知らず、鼻の下を伸ばして「音羽屋!」と叫んでいたのは、この「うずらの席」だ。
 奈良名所案内の後には、猿若町芝居小屋案内。
 円生のこの噺をテレビで観たことがあるが、やや下卑た印象を受けた。小満んは、オデキを舐める場面、「こういうのは、私の柄じゃないんですが」と笑いながら、軽く演じて、後味も良かった。これまた、好高座。
 
 ここで、仲入り。
 ロビーでこの日の居残り会参加の方々と、居残りはできないながらお越しのお仲間にご挨拶。

 さて、トリネタは、あの噺だ。

柳家小満ん『お直し』 (40分 *~20:36)
 今度のマクラは、小満んの「吉原講座」だ。
 籬(まがき)の位置や、西の河岸が二朱店、東が羅生門河岸、などなど、勉強になったなぁ^^
 志ん生なら、「こんなこたぁ、学校じゃ教えない」と言いそうだ。
 その志ん生がこの噺で昭和31年の芸術祭文部大臣賞を受賞したのは、有名。
 筋書きは、吉原の中(位の)店で働いていたベテラン花魁と牛(妓夫)太郎の二人がいい仲になり、主人の計らいで証文を巻いて(棒引きにして)もらって夫婦になり、女は遣り手、男は変わらず店の若い衆(わかいし)として働くことになった。少し小金がたまってくると男が千住(こつ)で遊び始め、揚句には博打でスッカラカンとなって、羅生門河岸で二人で「けころ」を始める、というもの。
 私は、この噺、夫婦のみならず、店の主も重要な登場人物だと思っているが、小満んが演じる主人、良かったねぇ。
 威厳もあれば、あの世界で生きているだけあって、腹も座っている。
 けころまでになって客をとり、酔った客を手玉に取る女房の姿も、見て聴いていて、なんとも小気味がいい。
 「直してもらいなよ」と繰り返しながら、最後は感情が高ぶってくる男の様子の描写も見事。
 ヤキモチは焼くなと念を押していたのに、つい女房と客の会話で取り乱す姿に、男の弱さがしみじみと表される。
 そして、その旦那に「易者と同じで、口裏を合わせるのが商売なんだよ」と言い切る姿に、女の強さをまざまざと感じたなぁ。
 小満んは、志ん生版を土台にしていると察するが、着物などの形容も、実に渋いのだ。
 花魁が遣り手になった時の身なりの変化の描写、志ん生の高座では、次のようになる。
『志ん生廓ばなし』(ちくま文庫)
 緋縮緬の長襦袢に禰襠(しかけ)を着て、髪は赭熊(しゃぐま)に結って、お客をとっていたのが、今日はがらっと変わっちゃって、髷に結って眉を落として、唐桟の襟つきの着物に、八端の黒繻子の腹合わせの帯を引っ掛けに結んで、食いこむような白足袋ィはいて、煙管ゥ持って、お客と花魁の間の、つまりこのォ事を運ぶんですな。これをおばさんてェます。
 こういう描写は、誰でも似合うってぇことはない。
 しかし、小満んには、ピッタリだった。
 吉原講座のマクラと本編を含め、今年のマイベスト十席候補とする。
 

 終演後は、佐平次さんが前もって予約していたお店で、I女史、F女史とよったりでの居残り会。
 さすが、飲み屋の目利きでは日本一の佐平次さんの選択である。旨い焼き鳥と、楽しい落語談義で、松竹梅「辛口豪快」の二合徳利が、何本空いたのやら。
 居残り会を含め、小満んワールドに浸りきった夜だった。
[PR]
by kogotokoubei | 2017-11-21 15:32 | 寄席・落語会 | Comments(2)
 日馬富士の暴行事件の報道が、なんとも言えない暗い気持ちにさせる。

 真相はどんどんグレイになっているなぁ。
 それにしても、貴乃花親方バッシングになりつつあるのが、実に嫌だ。
 協会が裏で、どんどんネタをリークしているのだろう。
 
 ここは、熊さんとご隠居の会話で、シャレのめしたい。

熊五郎 ご隠居、こんどの事件、ビール瓶じゃなくて素手だろうと、ありゃあ
    横綱のするこっちゃねぇでしょう。
ご隠居 そりゃそうだ、とてもプロの中の最上位の人間がやることではないな。
熊五郎 そうか、プロじゃないはずだ。
ご隠居 どうしてだい。
熊五郎 前の名前が「アマ(安馬)」でした!

 第二弾。

熊五郎 それにしても、相撲協会は、こんなことが公けになって困ってんで
    しょうね。
ご隠居 そうだよ、理事長だって、名前のように、ハッカクして欲しくなかった!

 オソマツ・・・・・・。

 では、気分をかえて。

e0337777_11432445.jpg

柳家さん喬『噺家の卵 煮ても焼いても-落語キッチンへようこそ!-』

 さん喬の著書からの三回目。

 今回は、本所の洋食屋「キッチンイナバ」の倅だった稲葉稔が、なぜ噺家の世界に飛び込むことになったのか、ということについて。

 さん喬は昭和23(1948)年生まれ。まさに、“団塊の世代”だ。
 
 彼が子供の頃、昭和20年代後半から30年代には、ラジオでは落語がたくさん流れていた。

 そのころはもちろんテレビなどはありません。ラジオが何よりも庶民の楽しみでした。今とはちがい、どの局に合わせても演芸番組が花盛り、幼い私でも、金語楼・柳橋・志ん生・文楽・金馬・痴楽・エンタツアチャコ・牧野周一・木下華声・千太万吉・英二喜美江等々の師匠方の名前は聞き覚えていました。のちに芸人の世界に入って、中のは、まだお元気に高座をお務めになっておられるそんな師匠方のお身回りのお世話をさせていただけるのは、なんとも心躍る気持ちでした。
 ラジオにかじりついていたのは、六、七歳の頃ですが、私は小学校の卒業作文に「将来は人を楽しませる職業につきたい、喜劇役者、落語家、映画監督や俳優」などと書いた覚えがあります。そのころはテレビも普及し始めて、八波むと志や三木のり平などにあこがれていました。

 芸人への憧れ・・・分かるなぁ、この気持ち。

 私も、小学校時代からお笑いが好きで、ベニヤ板で作ったウクレレもどきを学校に持って行って「あ~ぁ、やんなっちゃったぁ」なんて友達の前でやっていたものだ。
 そんな少年の高校時代は、70年安保闘争が始まっていた。

 そういう時代性が、彼の人生に大きく影響した。

 学生運動華やかなりし頃で、毎日のように学生運動の報道がなされていました。そんな高校二年のある日の授業中のこと、親大学の学生が、突然校庭にトラックで乗りつけ、スピーカーのボリュウム一杯に、
「君たちは、やがて大学に進学し学問をおさめようと、大きな夢を描いているだろうが、今、わが大学はそのような価値もなく、ただ漫然と・・・・・・しかるにわが国家の政治家どもは・・・・・・」
 とか訳のわからないアジ演説をとうとうと始める。もちろん授業にはならず、先生や職員がやめさせようと校庭に出てはみるものの収まろうはずもない。多くの人に迷惑をかけている自分勝手な行動に、少年の心の中にあった大きな夢は大阪城が焼け落ちるがごとく大きな音を立てて崩れ落ちた・・・・・・のであります。自分の憧れていた大学と目の前で見せつけられた大学生の姿、すべての学生がそうでないことはわかっていても、自分の中で憧れががらがら崩れたことはまちがいありません。

 昭和23(1948)年8月生まれだから、稔少年が中央大学附属高校に在籍していたのは、昭和39(1964)年から42(1967)年までだろう。

 70年安保闘争の先がけ的な時期であるとともに、当時、中央や他のいくつかの大学では、学費値上げ反対運動が盛んだったはず。

 同級生の中には、大学生のアジ演説に感化され学生運動に走った人もいたに違いない。そして、さん喬のように、大学に進学する意欲を失った人も少なくなかろう。

 さて、その後、稲葉稔少年はどうなったのか。

 私は目標もなくなり勉強する気にもならず、成績はどんどん落ち、とうとうクラスで最後から二番目。私より下がいたのが驚きだが、ゴルフならブービー。コンペなら賞品が出ますが、学校じゃ出ません。出てきたのは心配した担任の先生、何か悩みでもあるのではないかと私は職員室に呼び出し、
「稲葉!こんな成績では、いくら附属高校でも、学内選考で落とされて大学に進学できないぞ、お前どうするつもりだ?」
 返事もせずにうつむいている私に、先生が肩に優しく手をかけて、
「どうするつもりなんだ?」
 とさらに言いつのります。先生の気持ちを思うと、何かすぐに答えをださなくてはいけないような脅迫観念にかられた私は思わず、
「大丈夫です先生、僕、落語家になるんです!」
 と口にしていました。
 えっ、なんで、おれが噺家?どうして?自分の中に潜在的にひそんでいたものが、追い込まれたその時に、窮鼠猫をかむが如くピュッと飛び出したのか?自分でもわかりません。
 そのとき、私の肩に置かれた先生の優しい手が一瞬離れました。
「おい、稲葉!何を言ってるんだ、そんなこと言わずに頑張れ。お前なら上にいけるんだから」
 当然そんな言葉が返ってくると思っていたその瞬間、
「そうか、お前ならいいかもな」
 と、先生の手は私の肩には戻らず自分の膝に戻ったのでした。

 まことに失礼ながら、この部分を読んで、私はプッと噴出してしまった^^

 先生も、稲葉稔少年のことをよく見ていて、その適性を感じていたということなのだろうが、なんともあっさりと落語家志望に同意したものだ。

 もし、担任の先生が強力に反対したら、いったいどうなっていたのかは、歴史のタブーの「IF」だね。

 ともかく、この歴史的瞬間を経て、稔少年は次の段階に進むことになる。

 さて、その後、目白に弟子入り志願するまでに、どんな物語があったのか・・・は、次回のお楽しみ。

[PR]
by kogotokoubei | 2017-11-20 12:27 | 落語の本 | Comments(6)

e0337777_11432445.jpg

柳家さん喬『噺家の卵 煮ても焼いても-落語キッチンへようこそ!-』
 さん喬の著書からの二回目。

 まずは、ご本人の実家のこと。

 私の生まれ育ったのは、東京の本所という町です。浅草から吾妻橋を渡って四、五分歩きますと本所吾妻橋という地下鉄の駅があります。この交差点の一角にあります「キッチンイナバ」という洋食屋が私の実家であります。そうです私は洋食屋の小倅です。それが何で噺家になったのかと?それはまあ、あとでお話しするとして。


 私も、何で噺家になったのかは、あとのことにする。
 
 なぜなら、この後に続く文章が、なかなか良いので、今回はこの内容を主役(?)としたい。

 昭和四十四年までは都電が走っていましたっけ。家の前が吾妻橋二丁目という停留所でした。月島から柳島(福神橋)へ行く二十三番と、須田町から東向島三丁目へ行く二十四番と三十番の二路線が走っておりました。この吾妻橋二丁目の停留所で向島へ行く電車が大きく左へ曲がっていくのと真っ直ぐ柳島へ行く電車とが軌道のポイントを使い行き交っていまして、当然逆方向もありますから、その騒音は言うまでもありません。さらに深夜に土浦の駐屯地へ向かう警察予備隊(現自衛隊)の戦車が都電の軌道を通り抜けると、キャタピラとレールとの摩擦で放たれる火花と轟音はさながら雷がおちたようでした。昼間は昼間で馬車が肥桶を載せて、ヒズメの音をさせながらパカパカ、ゴロゴロ、ピチャピチャ、ヒヒーンと騒がしく往来し、時折定斎屋(薬売り)が引き出しの環をカタカタ言わせながら売り歩き、キセルの羅宇屋が蒸気の音をピーッと響かせながら街角で客待ちしていたり、爆弾あられ屋が大きな音を立てたりで、とにかくうるさい、いやもうそりゃやかましいったらありゃしない!でもそのやかましさは戦後復興の音であったかもしれません。

 ねぇ、いい文章でしょ!
 ぜひ、そのうち高座のマクラでお聞きしたいような内容。

 映像が眼に浮かび、その音が耳に聞こえそうである。

 以前、八代目林家正蔵のことを書いた記事で、「二邑亭駄菓子のよろず話」のサイトから、正蔵や“留さん”文治が住んでいた稲荷町の長屋の写真をお借りした。
2013年1月29日のブログ


 その「二邑亭駄菓子のよろず話」のサイトに、都電23番と24番が並んだ写真があったのでお借りした。
「二邑亭駄菓子のよろず話」の該当ページ

e0337777_12235455.jpg

 この写真には、
柳島車庫前で出発を待つ[23][24]番。向こう側が福神橋(終点)
7両もつまっている……。1972.7
というキャプションがついている。

 二邑亭駄菓子さんは、この都電の写真のページで次のように綴っている。
 1960年代は、都内のおもな通りにはすべて都電が走っていたように思う。
 放浪癖があった私は、小学生時代から都電を乗り換えてあちこちに行ったものだった。
 浅草に住んでいた小学生時代は、銀座と南千住を結ぶ[22]番(系統)や、三筋町にある図書館に向かうために[23][24][31]番にお世話になった。
 中学生になると、[16]番で通っていた時代もあった。

 だが、いつのまにか路線も少なくなり、写真を残そうと思ったときは、だいぶ減ってしまっていたのは残念である。
 それでも、なんとか、両親の実家がある墨田区を中心にして、小学校時代に住んでいた台東区、そして江東区、中央区という下町を走っていた都電の最後の姿を写真に残すことができたのは幸いである。

 二邑亭駄菓子さんも、23番や24番にお乗りになっていたんですねぇ。

 駄菓子さん、都電の最後の姿を残していただき、ありがとうございます。

 さん喬が書いている都電の軌道に響く「戦後復興の音」、二邑亭駄菓子さんが残していただいた貴重な写真を見ると、聞こえてきそうだ。

 「三丁目の夕日」という漫画が好きだが、それは、やはり昭和三十年代後半から四十年代前半の、“あの頃”のことに浸れるからだろう。

 私が子供の頃、北海道の田舎では、定斎屋(薬売り)が引き出しの環をカタカタ言わせながら売り歩く音や、キセルの羅宇屋が蒸気の音をピーッと響かせる音は聞かなかったが、「ドン」という名で親しまれたトウキビの爆弾あられの音は、懐かしい。
 肥桶を載せた馬車のヒズメの音も覚えているし、その後に残った落し物の臭いも、思い出すなぁ^^

 ということで、今回は、さん喬の持ち味である丁寧さあふれる文章で、昭和の“あの頃”を振り返って、お開き。
[PR]
by kogotokoubei | 2017-11-18 12:42 | 落語の本 | Comments(2)

e0337777_11432445.jpg

柳家さん喬『噺家の卵 煮ても焼いても-落語キッチンへようこそ!-』
 
 11月5日の東雲寺寄席で、著者柳家さん喬ご本人からサイン入りの本をいただいた。
 筑摩書房のwebマガジン「webちくま」に連載したエッセイを元にした本。

 「第一部 修業時代」「第二部 師匠時代」「第三部 外つ国にて」「第四部 師匠と弟子」の四部構成、全部で二十九の章がある。

 この本、さん喬の修業時代のことを知り、また、人間としていろんな面を知ることができて、楽しく読めた。

 何回かに分けて紹介したいが、最初は、初鰻の思い出。

 文章の途中に挟まれる「落語キッチン」の二回目にある内容なのだが、なかなか趣向を凝らした文体で書かれているのである。

 忘れもしない、鰻を初めて食べたのは、噺家になった十八歳の時です。もっと詳しく言うと、昭和42年7月31日午後六時過ぎのことです。
 入門した年の、落語協会恒例の「夏の寄り合い」の日とデパートの閉店時間という、これらの記憶を辿ると確実な時間や場所が限定させるのです。
 うなぎ初体験のあらましは、こんな事でした。

 被疑者・柳家さん喬は、昭和42年7月31日に千葉県・成田山新勝寺で行われた落語協会「夏の寄り合い」に協会員95名余と参詣し、その後割烹旅館梅屋大広間に於いて親睦会と称した宴会に参加。
 その際、文楽・圓生・正蔵・小さん、超人気者の三平・圓歌、まだ若手だった、志ん朝・小三治・扇橋が余興を行い、全協会員が抱腹絶倒・・・・・・
ーエーッ、どんなことがあったの、教えて教えて!
ーウォッホン、これは本件と関係なき事であるゆえ割愛いたします。
 さて、被疑者は師匠五代目柳家小さんの供をして午後三時過ぎの矯京成電車特急にて成田駅から上野駅に向かい、同駅より地下鉄銀座線に乗り換え銀座駅にて下車、デパート松屋銀座店へ向かった。
 当日は、同店ギャラリーで開催されていた彫刻家・植木力氏の個展の最終日であり、展示作品の中に含まれていた五代目小さんの胸像を、展示会終了後に植木氏より贈呈される約束がなされていた。
 しかしその胸像が大変重く、担ぎ手が必要とされ、被疑者は師の命にて同店に同行した。
 無事植木氏より胸像を受け取り、その場を立ち去ったのが閉店時間の午後六時。
 ここで師より「おい!鰻を食いにいこうか!」と誘われ、いまだに食したことのない鰻なるものに大いなる抵抗を覚えたものの、師の誘いを断る勇気は出ず、未知の食い物への興味関心も抗いがたく、ついに禁断の一口を頬張ることになった。
 それ以来被疑者は鰻の虜となり、何かにつけて無意識に鰻に手を出すことになってしまったのであります。
 裁判長。本件は決して自らが選んだ道とは考えづらく、師の甘言によってかような人間に作り上げられしものと推察するものであります。
 以上陳べましたことを考慮して頂き、寛大なる裁定を願うものであります・・・・・・と、何も裁判風に書く必要もないですが。

 たしかに、裁判風にする必要はないが、さん喬の意外なお茶目な面が出ているようで、楽しい。

 この日の余興の内容、本件(?)とは無関係とはいえ、知りたいねぇ^^

 店の名は出していないが、銀座であることは間違いなかろう。

 あるいは、当時の松屋銀座に鰻屋さんがあったのかな。

 引用を続ける。

 初めて鰻を食べた時、世の中にこんな旨いものがあるかと思ったくらい美味しく感じました。
 その時「噺家になって良かった。これからこんなに旨いものがいくらでも食べさせてもらえるなんて!」と、とんでもない罰当たりなことを考えました。
 (中 略)
 あれから四十年余、それ以上の旨い鰻にめぐり会えません。
 確実にあれより旨い鰻を食べているはずなのですが、初めて師匠にご馳走になった時のあの喜びと感動がない限り、あれ以上の旨い鰻にはもう出会えないのかなあ・・・・・・。
 いやいや、今度あなたがご馳走してくださる鰻こそは!

 さん喬って、こんな楽しい文章書くんだ、と私は意外な思いだった。

 落語愛好家の間では、本所にあった洋食屋「キッチンイナバ」が実家だったことは有名だろう。
 結局、開店している間に行くことができなかったなぁ。

 その洋食屋の倅が、なぜ噺家の道を目指すことになったのか・・・・・・。

 次回は、そのあたりをご紹介するつもり。

[PR]
by kogotokoubei | 2017-11-16 22:37 | 落語の本 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛