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噺の話

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<   2014年 08月 ( 19 )   > この月の画像一覧

私のお盆休みは、記事でも書いたように、連れ合いの実家である越後の長岡で過ごした。その実家のすぐ近くが寺であり墓地がある。そこに、彼女の母親の生家の墓がある。
 私たちの結婚披露宴には、その墓で眠るお婆ちゃんも叔父さんも参列してくれた。十三日には蝋燭と線香を持って墓参り。気持ちとしては、同時に私の先祖へのお参りもする。とは言っても、父方の祖父も祖母も記憶にはない。母方の祖母には可愛がってもらった。夏休みに帰って大学に戻る際、お婆ちゃんが千円札と一万円札を間違えて五万円のお小遣いをくれたことがあった。後で母から下宿に電話があり、間違えたけどあげるとお婆ちゃんが言っていたので大事に使え、と言われ、嬉しかった。そのお婆ちゃんの最後は母がわが家に引き取って看取った。だから、お婆ちゃんの冥福も祈った。

 連れ合いも私もお互いの両親が、いろいろと大小の病気はありながらも、健在なのが何よりだ。

 都合で十五日には帰宅することになり、関越自動車道の渋滞に、見事にはまった。ただし、行きには渋滞していた圏央道は帰りは空いていたのは助かった。
 
 ここで、素朴な疑問。
 なぜ、私も含む日本人は、渋滞にもめげず(?)お盆の墓参りをするのだろう・・・・・・。

 会社に中国生まれの社員がいるので、たまに中国の風習のことなどを聞くことがある。

 日本のように中国ではお盆に休みをとったりお墓参りをする風習はないらしい。
 中国では、二十四節気の清明に「清明節」として、お墓詣りをする。旧暦では二月下旬から三月、新暦では四月初旬だ。法定の休日である。七月や八月にお墓参りする風習は、中国にはないようだ。ただし、台湾や河南地方には、道教の「中元」という風習が旧暦七月十五日にあるらしいので、そういった風習も日本に影響したのだろう。

 なお、清明の風習は沖縄には残っていて、「シーミー」と言い、親戚一同で集まるらしい。昨年の清明の日に書いたので、ご興味のある方はご覧のほどを。2013年4月4日のブログ

 なぜ、沖縄以外の日本では、八月の「お盆」にお墓参りなのか・・・・・・。

 最近、日本人と宗教について不勉強だったので、本を何冊か読んでいる。

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『日本の神々と仏』(岩井宏實監修)
 
 そんな中の一冊が、『日本の神々と仏』である。青春出版社の新書で、副題は「信仰の起源と系譜をたどる宗教民俗学」となっている。

 神社と寺の共存の歴史的背景など、日本人と宗教に関する入門書的な内容で、私は結構勉強になった。

 この本で「お盆」について、次のように解説がある。

・お盆 七月十三日~十六日、または八月十三日~十六日
 盂蘭盆の略である。日本で一番古くに行なわれたお盆は、西暦六五七年の七月十三日から十五日までの三日間、飛鳥寺においてであるという。
 盂蘭盆とは、サンスクリット語のウランバーナが語源といわれている。「逆さまに吊り下げられた」という意味だ。
 釈迦の弟子の目連の母が地獄に落ちたとき、彼女は逆さ吊りにされて飢えと渇きにもがき苦しみ、目連はその苦しみを救うため、七月十三日に供養したといわれ、これが盂蘭盆の起源であるという。
 このように飢えた先祖への供養であるから、お盆には食べ物を豊富に用意する。盆棚という棚には、位牌のほかに水鉢、野菜、果物を供える。素麺や白玉団子、氷菓子などもそえる。キュウリやナスに麻幹(おがら)をさして馬や牛を作るのは、馬は精霊の乗り物であり、牛は荷物を運ぶからだ。
 日本には、仏教とは別系統で現在の八月半ばに一族が集い、収穫物を祖先に捧げる先祖祭りの風習があった。その習わしが仏教の盂蘭盆と習合し、現在のお盆ができあがったようだ。
 先祖の霊は、灯りを頼りに家に戻ってくるという、そこで十三日の夜には庭先で麻幹で火を焚く。迎え火である。仏壇や精霊棚の前には盆提灯や盆灯籠を灯す。そして十六日には、祖先の霊が帰っていくので、また火を焚く。これを送り火という。

 
 収穫物を祖先に捧げる先祖祭りは、神道の“自然信仰”を背景にしていると思われるので、“お盆”は、まさに日本的な神仏習合の産物なのだろう。

 八百万の神を信仰する神道の国であった日本に大陸から仏教が伝わったのは六世紀頃のことらしい。この仏教が生き残るためにも、神仏習合が進む。

 そして、日本で仏教が生活に密着する契機は、江戸時代の檀家制度である。同書では次のように書かれている。

 檀家制度とは、どの家も必ずどこかの寺の檀家になるという制度である。すべての家に所属する宗派や寺を決めさせ、寺が転居や結婚、就職や旅行のときの身分証明となる「寺請け証文」を発行した。つまり、お寺の証文がなければ、個人は社会生活を営めないしくみになっていたのである。
 この制度が生まれたのは江戸時代のはじめ、幕府は信仰心に篤いキリシタンの存在に悩まされ、「宗門改役」という役所を設置した。この役所を使って個人の宗派を管理して、キリスト教徒を根絶しようとした。そしてすべての人を寺に帰属させる檀家制度を進めたのだった。
 つまり日本の檀家制度の確立は、キリスト教禁止と表裏をなしているのである。



 葬式はもちろん、三回忌、七回忌、十三回忌・・・などの法要を檀家として菩提寺で行う風習が今も残っている。

 ちなみに、わが家では、かつて十七歳と十九歳で犬が亡くなった時に、それぞれ喪中ハガキを年賀状の代りに送り、三回忌、七回忌も行っている。家族なのである。

 檀家制度の歴史的背景を知ると、今の時代ではお寺を儲けさせるだけの旧弊ではないか、などと思わないでもない。
 江戸時代のように、キリスト教弾圧という目的もなく、旅行するための証文を必要ともしない現在、檀家制度の実態は希薄になり、儀式のみが残った。

 とはいえ、そういった儀式によって、心の平穏を得られることも事実だろう。それだけ江戸時代の檀家制度による風習が、今に至るまで日本人の心のあり様に奥深く残っているとも言える。

 そうなのだ。仏教と神仏習合による風習は、江戸時代の庶民の生活に深く根ざしていた。
 もちろん、「落語でブッダ」に関する記事でもご紹介したように、古典落語にも仏教は深く関係している。

 偶然にも、日本のお盆の期間は、あの敗戦の日と重なっている。お墓参りという風習によって、子供や孫が父母や祖父母と会い、世代を超えた会話の機会になり、祖先のことに思いを巡らし、そして、戦争のことを考えることにつながるのなら、このお盆の風習も悪いことではないように思う。

 それ相応の費用もかかるし、渋滞などの障害(?)も乗り越えているのだ。それぞれの田舎で、子供や孫が、良い意味でのカルチャーショックを体験する夏休みを過ごしてくれていたら、将来の日本の針路も、そんなに大きくぶれることもないように思うし、そうであることを期待したい。
by kogotokoubei | 2014-08-18 06:14 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
テレビで高校野球を観ていると応援の歌が、結構、気になる。特にチャンスになって、いまだに山本リンダの昔の曲を元に「ウララ~、ウララ~」「狙い撃ち!」とやっているが、実に嫌だ。一つの伝統なのだろうが、そろそろ曲を替えてはいかがだろうか。決して上品とは言えないだろう。

 そんな、品のない今日この頃(?)なのでなおさらなのだろう、漱石のことを書いた後、ついノスタルジーに浸っている。
  
 特に、『三四郎』のヒロイン里見美禰子と、彼女が何度か口走った「ストレイ・シープ」(迷える子)を思い出す。

 青空文庫から、その言葉を含む部分を引用。青空文庫 夏目漱石『三四郎』

 美禰子は三四郎を見た。三四郎は上げかけた腰をまた草の上におろした。その時三四郎はこの女にはとてもかなわないような気がどこかでした。同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴なう一種の屈辱をかすかに感じた。
「迷子」
 女は三四郎を見たままでこの一言(ひとこと)を繰り返した。三四郎は答えなかった。
「迷子の英訳を知っていらしって」
 三四郎は知るとも、知らぬとも言いえぬほどに、この問を予期していなかった。
「教えてあげましょうか」
「ええ」
「迷える子(ストレイ・シープ)——わかって?」
 三四郎はこういう場合になると挨拶(あいさつ)に困る男である。咄嗟(とっさ)の機が過ぎて、頭が冷やかに働きだした時、過去を顧みて、ああ言えばよかった、こうすればよかったと後悔する。といって、この後悔を予期して、むりに応急の返事を、さもしぜんらしく得意に吐き散らすほどに軽薄ではなかった。だからただ黙っている。そうして黙っていることがいかにも半間(はんま)であると自覚している。
 迷える子(ストレイ・シープ)という言葉はわかったようでもある。またわからないようでもある。わかるわからないはこの言葉の意味よりも、むしろこの言葉を使った女の意味である。三四郎はいたずらに女の顔をながめて黙っていた。すると女は急にまじめになった。
「私そんなに生意気に見えますか」
 その調子には弁解の心持ちがある。三四郎は意外の感に打たれた。今までは霧の中にいた。霧が晴れればいいと思っていた。この言葉で霧が晴れた。明瞭な女が出て来た。晴れたのが恨めしい気がする。
 三四郎は美禰子の態度をもとのような、——二人の頭の上に広がっている、澄むとも濁るとも片づかない空のような、——意味のあるものにしたかった。けれども、それは女のきげんを取るための挨拶ぐらいで戻(もど)せるものではないと思った。女は卒然として、
「じゃ、もう帰りましょう」と言った。厭味(いやみ)のある言い方ではなかった。ただ三四郎にとって自分は興味のないものとあきらめるように静かな口調(くちょう)であった。



 私は、当時自分の周囲にいそうもない、この美禰子という女性に、三四郎と同じような不思議な愛情を感じていた。

 他にも、この本には、適度に英語が登場する。

 美禰子と三四郎が戸口で本をそろえると、それを与次郎が受け取って部屋の中の書棚へ並べるという役割ができた。
「そう乱暴に、出しちゃ困る。まだこの続きが一冊あるはずだ」と与次郎が青い平たい本を振り回す。
「だってないんですもの」
「なにないことがあるものか」
「あった、あった」と三四郎が言う。
「どら、拝見」と美禰子が顔を寄せて来る。「ヒストリー・オフ・インテレクチュアル・デベロップメント。あらあったのね」
「あらあったもないもんだ。早くお出しなさい」
 三人は約三十分ばかり根気に働いた。しまいにはさすがの与次郎もあまりせっつかなくなった。見ると書棚の方を向いてあぐらをかいて黙っている。美禰子は三四郎の肩をちょっと突っついた。三四郎は笑いながら、
「おいどうした」と聞く。
「うん。先生もまあ、こんなにいりもしない本を集めてどうする気かなあ。まったく人泣かせだ。いまこれを売って株でも買っておくともうかるんだが、しかたがない」と嘆息したまま、やはり壁を向いてあぐらをかいている。
 三四郎と美禰子は顔を見合わせて笑った。肝心(かんじん)の主脳が動かないので、二人とも書物をそろえるのを控えている。三四郎は詩の本をひねくり出した。美禰子は大きな画帖を膝(ひざ)の上に開いた。勝手の方では臨時雇いの車夫と下女がしきりに論判している。たいへん騒々しい。
「ちょっと御覧なさい」と美禰子が小さな声で言う。三四郎は及び腰になって、画帖の上へ顔を出した。美禰子の髪(あたま)で香水のにおいがする。
 絵はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になって、魚の胴がぐるりと腰を回って、向こう側に尾だけ出ている。女は長い髪を櫛(くし)ですきながら、すき余ったのを手に受けながら、こっちを向いている。背景は広い海である。
「人魚(マーメイド)」
「人魚(マーメイド)」
 頭をすりつけた二人は同じ事をささやいた。この時あぐらをかいていた与次郎がなんと思ったか、
「なんだ、何を見ているんだ」と言いながら廊下へ出て来た。三人は首をあつめて画帖を一枚ごとに繰っていった。いろいろな批評が出る。みんないいかげんである。


 英語が堪能な美禰子は、漱石の弟子である森田草平と心中未遂事件を起こした、婦人運動家平塚雷鳥がモデルと言われている。ちなみに、三四郎は弟子の小宮豊隆、野々宮は同じく弟子の寺田寅彦がモデルらしい。

 筋書きは特に書かない。未読の方は、ぜひ実際にお読みください。

 当時、戦前、大正や明治時代の知識が実に乏しい自分が、小説とはいえ、自分とその周囲にはない、品と格調が高い知識人が登場する世界、未知の日本と日本人の姿を発見したような気になったものだ。

 もしかすると、私のようなかつて漱石に親しんだ五十代、六十代の人たちのノスタルジーも、ブームの一端を担っているのかもしれない。そんな気がする。
by kogotokoubei | 2014-08-16 15:34 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
 昨日より、我が家は連れ合いの越後長岡の実家で夏休みである。
 特別に(?)、昨日の高坂サービスエリアでのミミー(左)とユウの、「暑いぜ!」というツーショット。
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 関越自動車道の渋滞のピークは過ぎてはいたが、暑さのピークは続いていたなぁ。

 昨日の朝日に、古書店で漱石から子規へ宛てた手紙が発見されたというニュースがあった。朝日新聞の該当記事

漱石、病身の妻を思うこころ 子規への書簡に未発表句
中村真理子
2014年8月13日07時11分
 夏目漱石(1867~1916)が親友の俳人・正岡子規(1867~1902)にあてた書簡が、東京都内の古書店で見つかった。1897(明治30)年8月23日付で、俳句が9句書かれており、そのうち2句が未発表だった。漱石が妻を思う心情をつづった珍しい句で、専門家は「きわめて貴重な資料だ」と評価する。

 小金井市で古書店を営む蝦名則(えびなのり)さん(64)が、15年ほど前に大阪の古書店用の市場で入手、今年7月に書簡の山を整理していて漱石の署名に気づいた。国文学研究資料館の野網摩利子助教(漱石研究)や、岩波書店で漱石全集を長く担当した秋山豊さんの鑑定で真筆と判明し、未発表句が含まれていることも分かった。

 漱石は当時、熊本の第五高等学校の教授。野網さんによると、書簡の前夜に東京・根岸の子規庵で句会があり、夏休みで帰京していた漱石も参加していた。書簡の俳句は鎌倉が題材で、句会から一夜明けて新作を子規に届けたとみられる。

未発表の句は、「愚妻病気 心元(こころもと)なき故本日又(また)鎌倉に赴く」という前書きに続き、「京に二日また鎌倉の秋を憶(おも)ふ」。前年に結婚した妻鏡子は体調を崩し、この夏を鎌倉の別荘で療養していた。病身の妻を思いながら、東京から鎌倉に向かう心情を詠んでいる。

 野網さんは「病気の妻を見舞う漱石の思いがはっきりと込められている。親友だから吐露した心境だろう」と受け止める。

 未発表のもう1句は「円覚寺にて」の前書きがついて、「禅寺や只(ただ)秋立つと聞くからに」。円覚寺はのちの長編「門」に登場する。



 朝日には翻刻された手紙の全文が掲載されているので、こちらもご紹介。
朝日新聞の該当記事

 国文学研究資料館の野網摩利子助教が翻刻した夏目漱石から正岡子規への手紙の全文は次の通り。末尾の「愚陀佛庵(ぐだぶつあん)」が漱石の署名で、「升(のぼる)様」が子規を指す。

       ◇

昨夜は失禮(しつれい)致候(いたしそろ)塩原(しおばら)

温泉の出口にて碧梧(へきご)生(せい)の為(た)

めに腕車(わんしゃ)を雇ひ呉(く)れ候(そうろう)但(ただ)し

同車屋も大兄(たいけい)の御出入(おでいり)と見え

て賃銭は大兄より頂戴(ちょうだい)する

由(よし)申(もうし)居(おり)候(そうら)へども遂(つい)に手前より

拂(はら)ひ置(おき)候故(そうろうゆえ)間違(まちがい)なき様

申上候(もうしあげそろ)鎌倉の俳句大

受(うけ)にて恐悦の至(いたり)に存候(ぞんじそろ)

左に二三句行列為致候(なしいたさせそろ)

間(あいだ)御笑覧(ごしょうらん)可(被下)候(くださるべくそうろう)

  鶴岡八幡

 徘徊(はいかい)す蓮(はす)あるをもて朝な夕な

 白蓮(びゃくれん)に卑しからざる朱欄哉(しゅらんかな)

  帰源院(きげんいん)禅僧宗活(そうかつ)

  に對(たい)す

 其許(そこもと)は案山子(かかし)に似たる和尚哉

  同寺にて

 山寺に湯醒(ゆざめ)を悔(くゆ)る今日の秋

 佛性(ぶっしょう)は白き桔梗(ききょう)にこそあらめ

  初秋鎌倉に宿(しゅく)す

 行燈(あんどん)や短かゝりし夜の影

       ならず

  星の井戸

 影二つうつる夜あらん

          星の井戸

  円覚寺にて

 禅寺や只(ただ)秋立(あきた)つと聞くからに

愚妻病気 心元(こころもと)なき故(ゆえ)本日又(また)

鎌倉に赴く

 京に二日また

  鎌倉の秋を憶(おも)ふ

二十三日

           愚陀佛庵(ぐだぶつあん)升(のぼる)様

  研北



 「愚陀佛庵」という署名が、楽しいではないか。
 漱石の妻である夏目鏡子については、弟子の一部では悪妻という指摘もある。しかし、「坊ちゃん」に登場する主人公が慕う下女の名が清で、鏡子の本名がキヨであるため、清に妻への感謝の思いを重ねたという説もある。本当のところは漱石本人しか分からないだろう。鏡子の本(聞き書き)『漱石の思ひ出』の中で漱石、いや夏目金之助の恥ずべき一面も含め赤裸々になっており、ロンドン留学後に子供達に暴力を振るう姿などもあるので、そういった面を気にする人は、鏡子を良妻と考えないかもしれない。
 しかし、今回発見された子規への手紙で、少なくとも結婚後一年目においては、漱石には歌に託すほどの妻への愛情があったことが証明されたわけだ。

 また、漱石については、朝日に「こころ」が連載され、新潮文庫の同書は累計700万部突破、とのこと。
朝日新聞の該当記事

漱石「こころ」700万部突破
2014年8月1日05時00分

 100年ぶりに本紙朝刊で連載中の夏目漱石の小説「こころ」の新潮文庫版が、累計発行部数700万部を突破したと新潮社が31日、発表した。「こころ」の新潮文庫版は1952年に刊行。今年4月に連載が始まると、販売部数が連載前の2倍以上に急増し、この3カ月だけで10万部を増刷。30日に計186刷701万500部に達した。累計部数は同文庫の歴代1位。



 ちょっとした“漱石ブーム”なのかもしれない。
 書店にも漱石作品の文庫が平積みになっていたりする。夏休みの読書感想文需要を当て込んだのかと思ったが、「こころ」に限らず売れているのだろう。

 私が最初に漱石を読んだのが、中学時代のこの時期、夏休みだったことを思い出す。「こころ」だった。
 なぜ「こころ」だったのかは、よく思い出せないのだが、誰かが薦めたのか、姉が一人、兄が二人いたので、たまたま家の本棚にあったからかもしれない。
 私は、その後、高校にかけて漱石の全作品を読んだ。ほぼ旺文社文庫でだったと記憶する。もっとも読書が捗ったのは、運動部の練習や体育の授業で捻挫などの怪我をして、整骨院(ほねつぎ)に通院している待合室だった。だから、私の漱石の読書体験の思い出は、整骨院の待合室とつながっている^^

 なぜ、あんなに漱石に夢中になったのだろう。

 今になって当時の自分の心境を振り返ると、次のように言えるかもしれない。
 昭和30年代に生まれた私は、安保闘争には間に合わず、その後“レイトカマー(Late Comer)”などと言われる世代だが、戦前派でも、戦中派でも、戦後のベビーブーマーでもない、歴史的な背景として劇的要素のない、いわば中途半端な存在だった。物心ついた時に、東京オリンピックがあり、テレビが普及し、高度成長期真っ只中で育った。もちろん、前の世代に比べて経済的に恵まれていたのは事実で、贅沢は言えないのだが・・・・・・。

 小学生時代には、傷痍軍人の姿をまだ見ることがあったが、あの戦争については断片的な知識しかなく、戦前や昭和初期、そして大正、明治時代の生活や文化には、私はほとんど知識がなかった。あるとしても、それはあくまで歴史の教科書で表面的に年表をたどっただけであったように思う。江戸時代のことなどは、異国のことという印象だった。だから、今になって江戸時代が大好きになったのかなぁ^^

 昭和30年代から40年代は、その時点の生活が、それ以前より素晴らしいものと疑っていなかった。そして、あの戦争の前に関する情報が、なんとも希薄だったのである。言い方を替えると、昭和20年以前と以降を、私の中では“不連続”に感じていた。戦争とともに戦争以前をも忘れようという風潮があったのではないか、と思わないでもない。

 私は、そんな精神的な状況の時に、漱石に出会った。
 そして、“カルチャーショック”を受けた。同じ日本人の小説から、である。
 そこにある物語に、あの戦争の前にこんな素晴らしい社会や文化があったことに衝撃を受けた、と言ってもよい。 
 神楽坂の菊人形が目に浮かび、美しいマドンナの顔を想像したが、何より、自分が住む昭和の喧騒と、小説の中の時間の流れ方の違いや、人間の思考の深さがあまりにも差があること、テレビなどなくても、寄席や芝居などの娯楽が豊富であること、などなどが新鮮な驚きであった。

 「こころ」については、明治天皇の崩御、乃木希典の殉死という漱石自身が受けた心理的動揺が執筆の背景にあることは知ってはいたが、その展開のミステリアスなこともあり、少し怖い推理小説を読むような心境で読み進めたような気がする。

 しかし、後から「猫」や「坊ちゃん」、「草枕」「二百十日」「野分」「虞美人草」と発表順に読んでいくと、私には前半の漱石の作品の方が好ましく思えてきた。「三四郎」で三代目小さんに関する文章を読んだ時の興奮は、よく覚えている。すでに、ラジオで落語を聞くのが楽しみになっていた頃だったのだ。なかでも、志ん生、金馬はよく聴いた。
 「三四郎」のヒロイン里見美禰子が、しばらくは理想の女性像になり、作中で何度か彼女が口走る「ストレイシープ(迷える子羊)」が、未年生まれで牡羊座の自分にとって縁が深い言葉のように思えてならなかった。
 
 漱石の著作には、明らかな時代による色合いの違いがある。
Wikipediaから、中編・長編を執筆時期順に並べてみる。Wikipedia「夏目漱石」

・吾輩は猫である(1905年1月 - 1906年8月、『ホトトギス』/1905年10月 - 1907年5月、大倉書店・服部書店)
・坊っちゃん(1906年4月、『ホトトギス』/1907年、春陽堂刊『鶉籠』収録)
・草枕(1906年9月、『新小説』/『鶉籠』収録)
・二百十日(1906年10月、『中央公論』/『鶉籠』収録)
・野分(1907年1月、『ホトトギス』/1908年、春陽堂刊『草合』収録)
・虞美人草(1907年6月 - 10月、『朝日新聞』/1908年1月、春陽堂)
・坑夫(1908年1月 - 4月、『朝日新聞』/『草合』収録)
・三四郎(1908年9 - 12月、『朝日新聞』/1909年5月、春陽堂)
・それから(1909年6 - 10月、『朝日新聞』/1910年1月、春陽堂)
・門(1910年3月 - 6月、『朝日新聞』/1911年1月、春陽堂)
・彼岸過迄(1912年1月 - 4月、『朝日新聞』/1912年9月、春陽堂)
・行人(1912年12月 - 1913年11月、『朝日新聞』/1914年1月、大倉書店)
・こころ(1914年4月 - 8月、『朝日新聞』/1914年9月、岩波書店)
・道草(1915年6月 - 9月、『朝日新聞』/1915年10月、岩波書店)
・明暗(1916年5月 - 12月、『朝日新聞』/1917年1月、岩波書店)

 いわゆる三部作が、前期が「三四郎」「それから」「門」、後期は「彼岸過迄」「行人」「こころ」である。

 「門」を執筆中の明治43(1910)年6月に、「修善寺の大患」と言われる大吐血を経験したことが、その後の作品に影響した、と言われている。
 精神的な病に加え胃潰瘍の持病にも悩む晩年の作品の味わいを否定するわけではない。「則天去私」という言葉を、よく意味も知らずにノートに書き連ねたこともあったなぁ。

 しかし、あえて前半と後半の漱石の作品でどちらが好きかと問われれば、前半、ベスト3には「猫」「坊ちゃん」「三四郎」を挙げる。
 幼い頃から寄席に親しみ、子規との出会いによって俳諧の素養も開花させた漱石の遊び心、洒脱さが反映された初期の作品が好きだ。

 もしかすると、漱石は前半を滑稽噺、後半を人情噺の作家に徹したのか・・・・・・。

 「猫」に登場する『花色木綿』さながらの楽しい文章を含め、漱石と落語については以前に書いたので、ご興味のある方はご覧のほどを。  
2009年2月9日のブログ
 子規と寄席や落語のことについて書いた際にも、少し漱石のことに触れているので、こちらもよろしければ。
2009年12月22日のブログ

 例年のごとく越後で過ごす、盆休み。漱石の記事を読んで、四十年余り前の夏に漱石に耽った日を思い出していた。
by kogotokoubei | 2014-08-14 09:18 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)
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  『榎本版 志ん朝落語』(ぴあ)

 榎本滋民さんの『榎本版 志ん朝落語』は、雑誌『落語界』に連載した内容から十九作品を選んで書籍化したものである。
 この“十九”という数字が、なんとも切りが悪いのだが、それについては私はこう思う。十八番として十八に絞ると、私が何度か“古今亭十八番”の選出で苦労(勝手にしてるんだけどね^^)しているように、「あれがない!」とか、「これはどうした!」ということになる。
 要するに、古今亭にしても志ん朝にしても、十八には絞れないのだ。だから、「十八番ではないよ、たまたま選んだ作品で、他にもあるよ」というメッセージだと、思っている。
 しかし、この本は榎本さんが亡くなってから二年後の平成17(2005)年の発行なので、きっと編集者か発行人が、私のような発想で選んだのかと思う。
 いや、あとがきを書いた、山本文郎さんの考えだったかもしれない。
 その「あとがき」の冒頭部分をを少しだけご紹介。

あとがき                          山本文郎

 今から24年前のこと。ラジオのインタビュー番組で雑談中に「貴方が担当している深夜の落語番組は良いですね。とくに榎本さんとの対談がなんとも言えない雰囲気があって楽しいな。あの人の江戸時代の考証はたいしたものですよ」。
 作家の吉行淳之介さんに褒められたことがある。


 さすが分かる人には、分かるということだろう。このあと、山本さんは榎本さんと1972年から1999年まで、「落語特選会」で二十七年間お付き合いしたと振り返る。その山本さんも旅立った・・・・・・。

 さて、この本には『酢豆腐』も含まれていて、このネタについて、榎本さんならではの興味深い噺の背景が解き明かされている。「はなしの来歴」から、ご紹介。

「やかん」同様、題名が通語になっているほど知られたはなしである。宝暦三年(1753)版『軽口大平楽』所収の小ばなしあたりがもとになり、江戸で練り上げられた。
 明治・大正期の名人三代目小さんの弟子小はんの改変による演出が大阪に移植され、『ちりとてちん』の題名で伝わっている。
 『酢豆腐』は、廓遊びが過ぎて脳脊髄梅毒症にかかり、白内障で失明し、しまいには腰まで抜け、弟子に背負われて高座に上がったほどでありながら、陰惨な印象をいささかも与えず、素枯れた陽性な味わいをたのしませたという初代柳家小せん(大正八年没・三十六歳)が得意とし、八代目桂文楽(昭和四十六年・七十九歳)が洗練を加えて十八番としたほか、六代目三遊亭円生(昭和五十四年没・七十九歳)も小せん直伝のものを継承した。
『ちりとてちん』のほかに、豆腐を石鹸にした改作で、初代三遊亭円歌(昭和二年没・五十三歳)の『石鹸(シャボン)』と四代目橘家円蔵(大正十一年没・五十九歳)の『あくぬけ』があるが、おかしみの質は『酢豆腐』に遠く及ばない。
 文楽がこのはなしを自家薬籠中のものとする上には、若旦那のモデルにした人物があった。三代目三遊亭円橘(大正五年没・五十二歳)門下から二代目三遊亭小円朝(大正十二年没・六十七歳)門下に転じた落語家三遊亭円盛で、低い背を高く見せようと、晴れた日にも高下駄をはき、羽織にはりつけた紙の紋が雨ではがされないようにと、夏でもインバネス(とんび)をはおって細身のステッキをつき、頭には安物の髪油とハッカ水をべたべたとふりかけ、両手の指六本にメッキの指輪をはめていたという。
 言動ことごとく二枚目きどりで、なんとも鼻もちならず、いかが立ち泳ぎをしているようだというところから、いか立ちと呼ばれていた。いかの立ち泳ぎとは、いかにもまざまざと姿態が思い描ける形容で、噺家のあだ名のつけかたは全くうまい。


 このあと円生の若旦那のモデルはラシャ問屋の主人であったと書かれている。
 しかし、榎本さんは、彼らよりも、黄表紙・洒落本などの戯作文学作品で半可通ぶりを発揮する遊冶郎(ゆうやろう)が元々のモデルと考えられる、と流石の考証ぶり。

 ただし、文楽が“いか立ち”の円盛に若旦那に通じる姿を見たのも事実だろう。
 この円盛は、志ん生が二代目小円朝に入門する前、天狗連の頃の師匠として志ん生の経歴に名を残している。

 榎本さん、志ん朝の高座については、次のように評している。

 後段の若旦那のくだりは、まだ文楽との間に径庭があり、前段の一座のくだりは、なお円生に一籌を輸するとしても、中段の半公のくだりは、すでに志ん朝は両大先輩をしのいでいる。



 この部分を読んで、「さて、榎本さんが、先日の志ん輔の高座を聴いていたら、どんなことをおっしゃるだろうか」、などと考えてしまった。

 この本を読むと、私は「落語特選会」での榎本さん山本さんの会話を思い出す。

 山本さんの「あとがき」は次のように締めくくられている。

 志ん朝師匠。榎本滋民も山本文郎も貴方の大ファンでした。「文七元結」はもう最高!その二人とも先に逝くなんて、なんでなの?・・・・・・合掌。


 きっとあちらの方では、志ん朝を囲んで、榎本さんと山本さんが、落語談義で旨い酒を飲んでいることだろう。しかし、肴は「酢豆腐」、ではありえないな^^
by kogotokoubei | 2014-08-12 10:27 | 落語のネタ | Comments(0)
 8月11日は、三遊亭円朝の命日。
 
 落語の神様のように言われることが多いので、あえて、人間臭いところを探してみたいと思う。

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 矢野誠一著『三遊亭円朝の明治』
 
 矢野誠一さんの『三遊亭円朝の明治』は平成11(1999)年に文春新書で発行され、二年前に朝日文庫でも発行された。第一章の「江戸の人気者」の、あの有名な鏑木清方の「円朝像」のことなども含む部分から引用。
*矢野さんの本では“圓”の字を使っているが、この記事では“円”で統一します。

断髪

 三遊亭円朝が自慢の圓朝髷をおろして、新時代にふさわしい断髪にした時期については、はっきりとわからない。わからないが、売物にしていた道具をを使った鳴物入りの芝居噺を、弟子円楽の三代目三遊亭円生襲名を機にゆずり渡し、自らは素噺一本に転じた明治五年(1872)には、すでに断髪だったと思われる。
 (中 略)
 こんにち残された三遊亭円朝の写真のいくつかから、いかにも気難むずかしげな晩年の表情をうかがうことができるのだが、それらの写真をこえて、近代肖像画の傑作とされている鏑木清方の「円朝像」くらい、数多くの資料が伝えるこの不世出の藝人の風貌の的確に描かれたものもあるまい。1930年、帝展に出品され、現在東京国立近代美術館におさめられている。湯呑を手にした高座姿は、円朝作品の速記掲載を売物にした「やまと新聞」創刊者でもある篠野採菊を父に持つ清方の幼い頃の瞼の像が描かれたもので、むかしの高座の忠実な記録画ではないのだが、そこには明治という新時代に権威と名誉を求めて対峙したひとりの藝人の全人格が活写されている。もちろん清方の「円朝像」は短髪の黒紋付姿で、着物も大島紬様のもので、衿もとにのぞく半衿も黒と、地味な好みに統一されており、円朝髷姿で赤い襦袢をちらちらさせた時代の面影だにない。

若き日の醜聞

 それだけに岡鬼太郎のいう「緋の襦袢の頃」の軽佻浮薄な衒いに充ちた、円朝の人気者ぶりが気になるところだ。この時代の円朝の尻を、「藝者もあれば、娘も後家さんもといふ風に何十人といふ婦人が」毎晩のように追いまわしたと、「天保老人の談」として「新小説」に記している伊原靑々園は、同じところに、さればこそ「金廻りも好いと云つたやうな訳で、随って其んな縮緬づくめの衣裳なんかも拵へられたといふ勘定」とも記している。このあたりの色模様に関しては、小島政二郎も虚実とりまぜ得意の筆にしているが、当然のことながらこの時代の円朝には婦人をめぐる醜聞のほうも少なからずあったはずである。


“藝者もあれば、娘も後家さんもといふ風に何十人といふ婦人が”毎晩のように追いまわした時代の円朝について“虚実とりまぜ”て小説にしたものとしては、松井今朝子の『円朝の女』が有名だが、矢野さんが名を出している小島政二郎の『円朝』から、紹介したい。
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小島政二郎著『円朝』

 小島さんの祖父の利八が寛永寺出入りの大工の棟梁で、円朝とは幼友だち、寺子屋が一緒だった。この本は、その祖父から得た貴重な円朝の情報を見事に織り交ぜた名著だと思う。

 その利八と円朝が初めて吉原に行った時のお話から。
 円朝の贔屓客は、何も女性に限られたことではない。男性の贔屓客も大勢いた。
 そういう一人に宮野というお金御用の旦那がいた。この人に連れられて、円朝は桐佐という引手茶屋へ遊びに行って、吉原芸者を上げて遊んだことがあった。その一座に、米八という若い芸者がいた。
 その時は、九つ(十二時)ごろまで遊んで駕籠で送られて帰って来た。
 一度でも馴染が出来たので、その後間もなく、
「一度おいらん遊びがして見たい」
 と、ふだんから云っていた利八を語らって、桐佐へ行った。そのころは、二人とも両という金が自由になる身分になっていた。
 桐佐から送られて、二人は彦太楼という大籬へ上がった。芸人は上げないキメになっているので、仕方がなしに円朝は薬種問屋の若旦那ということにして上がった。彼には長尾大夫というおいらんが相方に出、利八には若竹大夫というおいらんが相手になった。
 (中 略)
 二人とも、十分満足するほど持てなされた。桃の花の咲いている夢の国へ遊びに行ったような思いがした。当分二人とも、この夢の国で見た楽しい思い出が忘れられなかった。

 円朝と利八の幼馴染みの初吉原は、たいそう上首尾だったようだ。
 それにしても、薬種問屋の若旦那と偽って登楼とは、まるで『紺屋高尾』や『幾代餅』のようで可笑しい。
 その吉原の揚屋町には小槌という寄席があって、円朝に口がかかった。場所柄昼席で、昼は暇な人が多く大勢聞きにくるので、円朝は喜んで引き受けた。
 初日、行って見ると、下足札が足りないくらい大入りだった。
「師匠、お陰さまで‐」
 席亭は大喜びで、楽屋へ挨拶に来た。
「時に、彦太からお祝いものが届いておりますが‐」
「お祝いもの?」 
 彦太楼と聞いて、円朝はあるツマズキを感じた。
「なんです一体?」
「これなんですが‐」
 畳紙(たとう)を開くと、高座幕だった。古代紫に白で薬研(やげん)が染め出されて、左の肩に「若旦那へ」、下に彦太楼内と書かれていた。
 贈り主は、云うまでもない。一ト目見るが早いか、ここでも彼はうれしいような困ったような思いをしなければならなかった。
「若旦那なんて‐。ワチキは知っていたんざますよ」
 そう云って、面白そうに笑っている長尾大夫の白い顔が、古代紫の中から浮かんで見えた。籠の鳥の彼女がどうして若旦那の秘密を知っていたのだろう。


 薬研については、本書の注で「薬種を押しつぶして粉末にする銅製のうつわ」と書かれている。
 そう、あの薬研である。

 薬種問屋の若旦那と嘘をついて一晩の夫婦となった円朝に対して、なんと長尾大夫の粋な計らいであろうか。

 薬研が染められた幕には、円朝もさぞ驚いたと思うが、このあと高座に上がった円朝は、客席を見て再び驚いた。

 寄席の客席に立兵庫に結い上げたおいらんの、はなやかな、一種の威厳のある姿を見出したことは、臍の緒を切って初めての経験だった。恐らくこの後の生涯に二度あることとは思えなかった。うしろには、彼女から贈られた幕がありありと二百人の客の目の前にあった。

 
 著者の祖父利八の思い出だろうと思うので、私はこの話はフィクションではないように思う。
 結局、長尾大夫は、寄席に十日間通い続けた。

 円朝の『紺屋高尾』の久蔵のような、身分を隠しての初吉原、そして、薬種問屋の若旦那という偽装を利用した長尾大夫の粋な趣向、円朝を巡る逸話の中では結構異色で楽しいものではなかろうか。
by kogotokoubei | 2014-08-11 11:12 | 今日は何の日 | Comments(4)
志ん輔が主任の国立8月上席は、昨年来ることができなかったので二年ぶり。この時期、池袋の昼は恒例の小三治の席で、こちらには佐平次さんが行かれており、終演後居残りで合流予定。寄席も、アフターも楽しみに隼町へ。

演者とネタ、所要時間と感想を記したい。良かった高座にをつける。

柳家圭花『道灌』 (15分 *12:45~)
 昨年、末広亭で一度聴いている。見た目は古きよき時代の噺家さんの風貌。三年目の前座さんとしては、備後三郎、児島高徳の逸話、「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」を含む内容をしっかり。それにしても、花緑の弟子って多いよねぇ。

古今亭志ん松『不精床』 (13分)
 前座名のきょう介から6月に二ツ目となって、志ん松(しんまつ)となった。同時に昇進した始(はじめ、前座名は半輔)と交互出演で、この日はこの人。
 何度か聴いているネタだが、犬好きの身としては、サゲの内容がどうしても好きになれない。高座は悪くないが、ネタの好みで楽しむことができないのだよ。

古今亭志ん丸『粗忽の釘』 (20分)
 百栄や歌奴と同時に2008年9月に真打昇進。二ツ目の志ん太の時によく聴くことがあり、その元気な高座に好感と抱いていた。その持ち味は変わらない。盥でフェーフェーは楽しいし、独特の高い声、目の演技も悪くはない。
 しかし、何か物足りなさを感じる。真打七年目ということを考えると、もう少し何かが欲しいとも思う。元気で明るい高座を維持しながらも、この人ならではの味が出てくると、もっと高座に奥行きのようなものが出てくるはず。基本はできている人なので、そのうち、「おやっ」と思わせる一皮むけた高座に出会えると期待している。

ホームラン 漫才 (15分)
 たにしの、びっくり箱・見得を切る・工事現場などの動作による連続技(?)は、何度観ても笑える。好きだなァ、このコンビ。

古今亭菊千代『お千代の縁談』 (19分)
 久し振りだ。ブログを書く前で聴いて以来なので、七年ぶりくらいだろうか。この人は寄席にそんなに出ないからね。
 マクラで言っていたが、篤志面接委員として小菅に通っていたり、韓国でハングルで落語会をしたり、手話落語を師匠から引き継いでいたり、子供用の落語の本jをつくったり。
 落語協会のサイトの自己PR欄に、これだけ書かれている。落語協会サイトの該当ページ

落語(古典・新作・自作・手話・子供用・朝鮮・韓国)の他、司会、南京玉すだれ、獅子舞。
文筆業(エッセイ・創作落語)、NGOピースボート水先案内人。
世界各地へ落語発信。全国刑務所、少年・少女院慰問。
横浜・新宿にて落語教室開催。

 忙しそうだ^^
 ネタは、娘が奉公している店の女将が母親の菊に縁談を持ち込むのだが、母親が早飲み込みをして笑わせたり、娘の千代がこれまで付き合って破談になったいろんな商売の相手が断わりの品が駄洒落になっている、という内容。やや無理ネタのものもあるが、女性落語として演じやすく聴く側も違和感のない噺に仕上がっている。

入船亭扇遊『夢の酒』 (23分)
 仲入り前は、この人。十八番の一つだなぁ。こういう安定感のあるきっちりした古典を聴くと安心する。
 病院の待合室で居眠りしている人の順番が来たようで他の人に起される、というネタにお相応しいマクラから本編へ。
 夫が見た夢の内容に次第に怒り出す女房の表情が楽しい。『厩火事』のお崎の描き方が秀逸だし、『佃祭り』での次郎兵衛夫婦の描写も好きだ。江戸の夫婦が登場する噺では、やはり群を抜いていると、あらためて感じた好高座。

マギー隆司 奇術 (15分)
 クイツキはこの人。なかなか味のある芸。「これは、すごいと思うよ」の科白が、好きだなァ。

柳家喜多八『だくだく』 (21分)
 扇遊同様、この人も十八番の一つを披露。絵描きが家財道具を描く場面を割愛する引き算の演出が効いている。
 扇遊と喜多八がそれぞれしっかり露払いをしてくれたのだから、トリの志ん輔への期待も高まる。

柳家紫文 俗曲 (12分)
 いつもの鬼平シリーズに大岡越前シリーズ。都々逸は、声が少し苦しい感じだが、しっかりと予定時刻でトリに引き継いだ。

古今亭志ん輔『酢豆腐』 (40分 *~16:20)
 寄席近くの立飲み屋や、もつとホッピーに関するマクラから本編へ。
 昨日までのネタを日記風ブログで確認していて、大好きなこの噺の可能性が高いと思っていたので、嬉しいかぎり。
 三代目小さんの弟子小はんによる改作『ちりとてちん』が上方で流行り、東京でも柳派を中心に演じる人が多いのだが、古今亭はもちろんこちらだ。文楽、そして師匠志ん朝の名演が有名。
 旬なネタでもある。場面は大きく三つ。
 若い衆の会話・半公への策略・若旦那、とでも言おうか。あらすじを含め志ん輔の高座を振り返る。
 (1)若い衆の会話
 町内の会所と思しき場所に若い衆が集まっている。前夜も宴会をしていたのだろう、
 朝になって寝ていた源ちゃん(文楽は寅ちゃん)が起こされるところが、噺の幕開きだ。
 また昨夜の続きなのだろう、暑気払いで一杯やろうとなる。酒は金ちゃんが二升都合
 をつけてきた(偉い!こういう人を友達に持ちたい)。
 しかし、肴がない。皆の懐も「秋の暮れ」だ。そこで、「安くて、数が揃って、見場が良くて
 腹にたまらず、そのうえ衛生にいい肴」について知恵を出し合う楽しい会話。
 六さんは、金もないのに「刺身!」と言って顰蹙を買い、さんちゃんは黒文字(爪楊枝)
 という珍案で叱られる、といった具合。一人が、糠床から古漬けの残りを取り出して、
 かくやの香こで一杯、という名案を出す。しかし、誰も糠床から古漬けを取り出すなどと
 いうドジでマヌケな役を引き受けない。そんなところへ、飛んで火に入る建具屋の半公。
 志ん輔の高座、真っ青な空と会所に集う若い衆がくっきりと現れた。登場人物が
 多いが、それぞれを丁寧に描き分け、テンポの良い会話で楽しませる。泣き出す
 一人に対して「なんだい、あの議員みたいに」には笑った。
 (2)半公への策略
 通りかかった建半を呼び止めたが、用事があって、と通り過ぎようとする。しかし、
 「小間物屋の美ぃ坊が噂してたぞ!」の一言で半公引き返す。美ぃ坊が半公の“建て引き”
 (江戸っ子は、“ひ”が“し”で、たてしき)が強いところに惚れていると言っていたと喜ばせる。
 「そうよ、俺は頼まれて嫌と言ったことのねえ、江戸っ子よ」と乗せられた半公に、糠床から
 古漬けを出してくれと頼む。断わったが許してくれず、肴を買う金を出して半公は退散。
 ちなみに、半公が、「初犯だから許してやるか」と言われ置いていかされたのは五拾銭。
 志ん輔の高座、半公が、「やっと世間の女に、おれの了見がわかってきた」と涙ぐむ
 場面が、なんとも結構。
 その後、一人が昨夜の豆腐の残りがあるはずと思い出したが、与太郎が湯を沸かした
 後に鍋に入れて蓋をしてあったものだから、豆腐の表面には黄色いものができて、
 とんでもない匂い。捨てようとしていたが、そこに通りかかったのが、伊勢屋の若旦那。
 あの気障な男をからかってやろう、豆腐は捨てるなぁ、となった。
 (3)若旦那
 呼び止められた若旦那、若い衆から煽てられ、昨夜も吉原で花魁に殺されかけた、
 とノロケる。「どうも拙などは、婦人に一命を奪われやすな」と声が頭へ抜け、新ちゃん
 の名は、すんつぁんと変じる。新ちゃん、なんとか若旦那の毒気をこらえ、「若旦那は、
 御通家ですよね」、と食通ネタに誘導。「近頃は、なるがたけ、人の食さないもの、珍らか
 なるものと探しております」と期待の反応。そこに、「もらい物で、こんなものが」と黄色い
 豆腐が登場。「おや、まあ、よくこれが手に入ったねえ」と知ったかぶりの若旦那。新ちゃん、
 待ってましたとばかり、食べ方を教えてくれと、その場で食べるよう仕向けるので、若旦那が
 七転八倒して食べることになる。志ん輔の高座、若旦那が「目ぴり鼻つん」の酢豆腐
 を食べる場面での、百面相的(?)な演技で客席大爆笑。『夕立勘五郎』でも見せて
 くれる頬ブルブルやら、片頬ピクピクなどは、いったいどうすればああなるか不思議だ。
 家で鏡を見て稽古しているのだろうか、と思ってつい笑ってしまう。
 また、この場面で、現役の二人の噺家の名による楽しいクスグリがあった。
 まず、若旦那の登場場面、若い衆の一人に「あぁ、俺はあの若旦那とxxxxxxみたいな
 ナヨナヨしたのは苦手だよ」と言わせ、会場は大爆笑。そして、若旦那の目の下の隈に
 ついて、「この隈は、xxxxxの隈とは違うよ。xxxはただ酒の飲みすぎ」でも爆笑。
 かつては文楽、そして師匠志ん朝の名演が名高いこの噺に、このようなクスグリを挟む
 余裕が出来たことは、非常に良いと思う。

 さて、噺の各場面の重要点をしっかりと押さえた見事な高座、拙は今年のマイベスト十席候補にするのを迷いませんよ(と声が頭に抜ける^^)。
 志ん輔の日記風ブログ「日々是凡日」に、本人はこの高座のことを次のように書いていた。
 “「酢豆腐」は反省点がないわけではないがなんだかノッていた”
 そう、ご本人が楽しそうに演っているのが、こちらにも伝わったなぁ。

 終演後、池袋の佐平次さん、そして、6日には志ん輔、7日に小三治を聴いているI女史の三人が三軒茶屋で合流し、居残り会だ。
 佐平次さんの案内で、昔ながらの“ディープ”な三茶の飲み屋街を散策してから、目当ての店が一杯だったので、新規開拓。相模湾直送の新鮮な魚を売り物にしているという店に入った。やや若者向けの品揃えではあったが、ほうぼうの刺身や鰯の煮付けなどを肴に、もちろん落語のことやらいろんな話をアテに、加賀の菊姫の二合徳利が、どんどん空く。あっと言う間に「軽く」と言っていた居残りは、三時間を越える。では、そろそろとお開きにして、なんとか雨も降らずにいてくれた三軒茶屋から帰宅。
 連れ合いのビールにも付き合っていたので、結構回った。パソコンを開くものの、ブログをつける余裕はない。風呂に入って爆睡だった。

 あらためて、志ん輔の『酢豆腐』は、絶品だったと思う。
 「日々是凡日」によれば、国立でのネタは次のようになっている。
 初日『子は鎹』・二日目『唐茄子屋政談』・三日目『お見立て』・四日目『お化け長屋』・五日目『幾代餅』・六日目『小言幸兵衛』・七日目『明烏』・八日目昼『船徳』・八日目夜『お若伊之助』、そして九日目『酢豆腐』。ほぼ、古今亭十八番シリーズと言える題目が並ぶ。
 さて、今日の千秋楽、あの噺だろうか、それとも、季節柄あれか、などとネタを想像するのも楽しい。予想は、あえて書かない^^

 昨年の師匠の十三回忌を経て、大きな存在であった志ん朝という名前の重さから解放されつつある志ん輔の高座は、今後も大いに楽しみである。
by kogotokoubei | 2014-08-10 08:23 | 寄席・落語会 | Comments(4)
 8月6日、広島に原爆が投下されて69年になる。

 芸人の中にも、あの時、あの場所にいた人がいる。

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小島貞二著『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』(うなぎ書房)

 小島貞二著『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』は以前にも、“わらわし隊”のことや、バシー海峡、昔々亭桃太郎のことなどについてこの本から紹介したことがある。
2010年8月17日のブログ
2012年11月5日のブログ

 昭和二十年八月六日に日本軍の一兵士として広島にいた芸人について、本書から紹介したい。

猫八と原爆

 落語家ではないが、声色の江戸家猫八(三代目・岡田六郎)も出征芸人であった。
 それもヒロシマで原爆に遭っている。
 父が初代の猫八だから根っからの芸人であるが、二代目ではなく三代目。中に一人、二代目がいるのである。あとで書く。
 昭和十六年に古川ロッパ一座に入り、役者を演っているとき、赤紙が来る。骨と皮の体だから、召集など無縁と思っているところへ来たのだから、本人もおどろいたが、ロッパもあわてた。
 当時、満二十歳になる男子は、徴兵検査の義務があった。検査は甲種、第一乙、第二乙、丙種とあり、甲種は文句なしの壮丁だった。戦争末期には丙種だった歌笑にまで赤紙が来たのだから、仲間たちは「歌笑が兵隊じゃァ、日本も勝てないよな」と、小さな声でつぶやき合った。猫八はその第二乙だった。
 新潟の部隊に入り、南方だ北方だとあちこちを引っ張り廻されるうち、ようやく兵隊らしい体格になる。そして広島県宇品で終戦を迎える。
 根が芸能人だけに、部隊では重宝がられ、演芸大会にはいつも主役をつとめ、ロッパからの手紙も励みになる。東京大空襲(二十年三月十日)のあと、許可が出て東京に帰り、浜町の自宅の焼け跡を呆然と見る。
 あのヒロシマの日(二十年八月六日)のことは、猫八が自伝の中で書いている。その一冊『兵隊ぐらしとピカドン』(ポプラ社刊)によると、

  (中略)市内にはいると死体が横たわっている。トラックに何台ものせて
  太田川の土手へはこぶ。路上には、電信柱をささえるワイヤーロープに
  つかまったままで死んでいる人、川の中から上半身を水の上にだして
  虚空をつかむようにしてこう直している死者。水死体となって、川にういて
  いる男、女、そのなかには、牛や馬もまじっていた。
   キノコ雲はまだきえない。
   広島の上空のはんぶんに大雨がふったかと思えば、その反対側が
  晴れてお日さまが見える青空。気象の変化もともなった、まるで、
  キツネの嫁入りのアレである。

 そして、広島市内を歩く。
 その朝、猫八は宇品の兵舎にいた。爆音が響き、小さな落下傘が降った瞬間、ピカーッと光ってドーン。すぐ防空壕に飛び込み、五体満足を確認する。
「街の様子を見てこい!」
 という班長命令で飛び出したのが、前記のスケッチである。
 これがのち猫八の売りものの「原爆体験記」になる。芸術祭公演にも、テレビの演芸にもなり、多くの人に感動を与えた。


 
 猫八の原爆体験のことは、他の媒体でも知ることができる。前日八月五日の夜、猫八は演芸大会で優勝していたことなどを含め「ヒロシマ新聞」に掲載されている。「ヒロシマ新聞」の該当記事
 「ヒロシマ新聞」とは何か。同サイトから引用。

このサイトは被爆五十年目の年に制作されたヒロシマ新聞に、二〇〇五年に新たな情報を加え再構成したものです。ヒロシマ新聞とは、原爆投下で発行できなかった一九四五年八月七日付けの新聞を、現在の視点で取材、編集したものです。一日も早い核兵器廃絶を願って…。


 同サイトには、文章・写真の無断転載禁止と書かれているので転載はしないが、ぜひご覧のほどを。八月五日の演芸大会の優勝賞品の酒を抱えた猫八の写真もある。

 演芸大会の賞品の酒に酔って点呼に遅れたことが、もしかすると原爆の被害を少しは抑えることになったのかもしれないが、放射能が残る市内を歩いたことで、猫八は原爆症になっている。

 そして、あの日、ラバウルや北千島での恐怖体験をも上回る原爆被害の地獄絵を猫八は目の当たりにしたのだ。

 三代目猫八は当代の父で、初代の六男(だから本名が六郎)。私と同世代以上の方は、「お笑い三人組」の八ちゃんを思い出すだろうし、「鬼平犯科帳」の相模の彦十役の渋い演技に思いが至る方もいるだろう。

 大正十(1921)年十月一日生まれの岡田六郎は、あの時、宇品に駐屯する暁部隊の兵長として軍務に従事していた。満23歳の時だ。なお、暁部隊には丸山真男も所属していた。

 岡田六郎は戦後、原爆症に苦しんだ。そして、原爆投下直後の広島の惨状の記憶が、猫八のトラウマになっていたようだ。
 彼が意を決して戦争のこと原爆体験のことを語り出した(正式には「従軍被曝体験記」)のは昭和五十六(1981)年のことであり、『兵隊ぐらしとピカドン』が上梓されたのは昭和五十八年になってからである。

 四年前2010年8月のNHKの戦争特集の中で放送された「戦場の漫才師たち~わらわし隊の戦争~」を見て記事を書いたことがあるが、あの映像の中で戦争の悲惨さを語っていた森光子さん、玉川スミさん、喜味こいしさんは、みな旅立った。
2010年8月11日のブログ

 先代猫八、かつての岡田六郎兵長も平成十三(2001)年に八十歳の生涯を閉じた。

 広島平和記念資料館のサイトに、以前に開催された企画展の紹介ページが残っており、昭和二十一年頃の猫八が奥さんと一緒に移っている下の写真が掲載されている。このページには、喜味こいしさんの戦争体験も掲載されている。
広島平和記念資料館サイトの該当ページ

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八重子夫人と猫八さん 1946年 (昭和21年) 頃ころ
猫八さんは、この頃、髪の毛が抜ぬけ落ち、
白血球は減へり続けていました。
提供/四代目江戸家猫八氏

*広島平和記念資料館のサイトより

 明治、大正生れの方から戦争体験をお聴きする機会が次第に失われていく。
 先月下旬、広島に原爆を投下したB29爆撃機“エノラ・ゲイ”の12人の搭乗者のうち最後の生存者が亡くなったというニュースを目にした。93歳だったようだから、原爆投下時点で、猫八とほぼ同じ年齢だったことになる。
 二十代前半の若者が、一人は空から原爆を投下する役目を持ち、もう一人は投下後の悲惨な光景を目にすることになったわけだ。
 
 広島では、核兵器のない世界を訴えても戦争について語らない首相が式典に並んでいた。
 本当に核兵器のない世界を望むなら、その材料となるプルトニウムを算出する原発の存在も否定すべきだろうと思うが、日本の首相にはそのような想像力はないようだ。彼の信条は一つ。アメリカが喜ぶことをすること。広島と長崎に原爆を投下したアメリカにヨイショする幇間なのである。原爆を含む戦争の被害者の方々は、今の日本の首相をどう見ているだろうか。

 “わらわし隊”の人気者であったミス・ワナカは、敗戦の翌年に心臓発作で三十六歳の若さで亡くなった。ヒロポンで命を縮めたと言われる。私は、戦時中の大陸慰問の際にワカナの漫才で大笑いしていた数多くの兵士が、戦争の犠牲者になったことと、ワカナの戦後の早逝を、分けて考えることができない。

 戦争で亡くなった方も、肉体は生き残ったものの心の病に悩んだ人も、同じ戦争の犠牲者だと思う。

 イラク戦争に関連して中東に配備されていた自衛官の自殺者が非常に多いという統計がある。湾岸戦争、イラク戦争から帰還した米兵に自殺者が多いのは周知の事実である。私は、それらの人も広義の戦争犠牲者だと思っている。

 猫八は、貴重な映像を遺してくれた。昭和六十三年、六十七歳の時に収録されたものだ。
 広島平和資料館サイトの「平和データベース」の「被爆者証言ビデオ」で“岡田六郎”と検索してもらえれば、猫八の証言ビデオを見ることができる。
広島平和記念資料館・平和データベース

 三代目の江戸家猫八は、芸人として通常の高座やテレビで戦争の影を一切見せることはなかった。しかし、原爆症での苦しみは後々の人生まで残ったらしい。映像にあるように、ほんのちょっとの運命のすれ違いで、あの時に広島にはいなかったかもしれない。それでも、幸運にも芸人として生き残る道を歩むことができたことに感謝の思いがあったからこそ、敗戦後三十年以上も過ぎてから、戦争体験を伝えようとしたのだと思う。被爆者手帳を受けとったのは、昭和五十九年のことだった。

 戦争への記憶が薄れることを利用するかのように、日本が戦争のできる国になる準備を進める為政者がいる今だからこそ、反戦、非戦の声を絶やしてはならないだろう。猫八が伝えようとした記録も、貴重なものだと思う。

by kogotokoubei | 2014-08-06 00:23 | 今日は何の日 | Comments(6)
 上方で、かつて笑福亭小松と名乗った一人の男の訃報が届いた。
時事ドットコムの該当記事

夏川鴈二郎氏(元落語家)死去

 夏川 鴈二郎氏(なつかわ・がんじろう=元落語家)2日、急性心筋梗塞のため滋賀県草津市の自宅で死去、57歳。同県出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は長男勝(まさる)氏。
 六代目笑福亭松鶴に入門し、落語家「笑福亭小松」として活躍。90年代後半、胃がん手術後に各地を徒歩で旅しながら開いた落語会などの活動が話題になった。2000年には文化庁の芸術祭賞演芸部門優秀賞を受賞。一方では覚せい剤取締法違反の疑いで逮捕され、その後、落語家を廃業。09年には同法違反罪で実刑判決を受けた。
 関係者によると昨夏、肺がんと宣告されたのを機に再び、落語会などの活動に取り組んでいた。(2014/08/03-19:57)


 生で小松の落語に接したことはない。しかし、ネットで動画を見ることはできる。

 笑福亭小松は、その名の通り、六代目笑福亭松鶴の弟子であった。
 この一門については、弟子松枝による著作を以前紹介したことがある。
2012年6月18日のブログ

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笑福亭松枝著『ためいき坂 くちぶえ坂』(浪速社)

 『ためいき坂 くちぶえ坂』は平成6(1994)年に初版が発行され、平成23(2011)年に改訂版が発行された。

 巻末にある一門名鑑に従って、筆頭弟子仁鶴から順に並べてみる。

仁鶴-鶴光-福笑-松喬-松枝-呂鶴-故・松葉(七代目松鶴)-鶴瓶-鶴志-小つる(六代目枝鶴)-伯鶴-和鶴-竹林-円笑-鶴松-岐代松-伯枝-忍笑-福輔(廃業)-鶴笑-鶴二-小松(廃業)

 最後に(廃業)とおまけが付くものの、小松の名が記されている。入門順では鶴瓶の次である。

 以前にも紹介したが、小松は、「たおれ荘」のメンバーであった。

 昭和47年に鶴瓶が入門した頃から、松鶴を慕って入門する弟子が急増した。弟子は“年季”が明けるまで通いで師匠宅で修行をするのだが、遠くから通う者たちのために松鶴は一計を案じた。

 弟子の増えた松鶴は、権利金を払ってやり、溜息坂の下の長屋の一棟に連中を住まわす事にした。
「朝と昼はうちで食べたらええ。晩飯と家賃はアルバイトでかせいでやっていけ。ええか、仲良う真面目にせえよ・・・・・・」
「たおれ荘」と名付けられた此の長屋で共同生活を始めたのは、「小松」「松橋」「一鶴」「遊鶴」「鶴志」の五人である。全員二十歳以下であった。ただでさえ危ない。
(中略)
 建物の古さは度を越していた。壁土は無数無残にこぼれ堕ち、数ヵ所畳に腐りが見え、部屋の中程には空いたか空けたか、床が陥没して下の土が覗ける所もある。布団は敷きっ放して垢じみ、すえた匂がする。畳は即ゴミ箱でチリ紙、カップ麺の殻、いかがわしい雑誌のいかがわしいグラビア等で足の踏み場も無い。極め付けは便所に戸が無かった事である。彼らは小も大も“さらけ出し”で用を足して居たのである。又、その光景を横に見て食事をしていたと言う。驚嘆を通り越して尊敬すらしてしまう。


 『たおれ荘』の五人の弟子達は、鶴志以外は現役として残っていない。

 この本において、小松に関する内容は決して少なくない。そのほとんどが、問題児としての逸話である。

 「松鶴、土下座する」の章から紹介。

 笑福亭が頭を抱える『三大難問』を紹介して置こう。門弟・推移図も照会頂きたい。
 一に『枝鶴の失踪・放浪癖』である。二に『小松の寸借・借金・逃亡癖』が来る。この二つは動かない。そして三つ目は、時代と口にする者に依って変るが、『福笑・松枝・鶴枝の酒癖』、『呂鶴の競馬狂い』、『鶴瓶・猿笑の女癖』、『伯鶴の負けん気』、『鶴志のヨタ(ええ加減)』等か。
 「小松」は間違い無く、笑福亭の問題児であった。草津の中学を出て十五歳で入門したこの者は、天性他人からそれも初対面から、可愛がられるキャラクターの持主である。それがどうもいけない。
 ともかくも、修行時代を覗いてみる。大阪~草津は遠い為、近所のアパートに住む呂鶴と同居させてもらい、松鶴宅へ通う事になった。“引き取り”には直々に松鶴が実家に出向いた。まだ少年の面影を残すあどけない顔をしている。
 志とは裏腹に本人の寂しさ、心細さ、又両親の我が子との別れの切なさを思い、松鶴は涙さえ浮べた。ところが、親子は涙を見せず、笑って別離の時を迎えた。その気丈さ、けなげなさに又松鶴は感動した。
 数ヶ月後、松鶴は自らの感銘がとんでもないカン違いである事を知った。既に其頃から両親は“我が子”を持て余していたのである。よい厄介払い出来て心底ニコニコしていたのであった。
 小松はよく練る。寝過ごして二日に一度は遅刻する。松鶴宅でも小松はよく寝る。見ると必ず居眠っている。「慣れぬ生活に、つい疲れが溜って・・・・・・」と皆、解釈した。間違いであった。それは夜遊びと緊張感の無さの産物であった。
 「小松、茶入れて」昼食時、松鶴が言った。
 「ハイ」明るく答えて湯飲みを取り、やかんの茶を注ぎ始めた。やがて松鶴は唖然として声が出なかった。茶は湯飲みから溢れているのに未だ注いでいる。小松のその目は、しっかりテレビに向けられていたのである。
 勿論、意識してしたわけでは無いが、そんな小松だけに・・・・・・。
 
  松鶴の頭に味噌汁の鍋を乗せた事がある。
  松鶴の指を車のドアに挟んだ事が、三度ある。
  松鶴の首に食べていたミカンの汁を飛ばした事がある。
  松鶴に居眠りを起こされ「うるさい」と言った事がある。
  松鶴が見ていたテレビの真前に座った事がある。
  松鶴が眼鏡をかけ週刊誌を手に立ち上がった(トイレに立つ
  仕草、弟子なら皆わきまえている)が、先に、入った。

 落語会の楽屋で、松鶴に衣装を着せようとして、弟子が首をかしげた。足袋が無い。風呂敷の上に確かに先程迄有った筈が。出番が近付き師弟はあせった。そこへ舞台を済まして小松が入って来た。
 「小松。ワシの足袋が無い。それ脱いで、貸せ」
 「ハイ。しかしサイズ合いますやろか」履いて見るとピッタリであった。
 「ああ良かった。合いましたなあ」その言葉の終わらぬ内に、松鶴が怒鳴った。
 「合う筈じゃ、阿呆んだらー。これはわしの足袋じゃあ」コハゼの脇に、しっかり「松鶴」の縫い込みが有ったのである。自分の足袋を持って来忘れた小松は、横手に有った足袋を取り敢えず履いて出たのであった。その持主が誰であるか、この男はそういう事に一切頓着しない。そして恐ろしい事に、松鶴に指摘される迄その事を綺麗に忘れていたのである。


 なんとも凄い弟子であったことか。

 味噌汁の鍋を頭に乗せたり、足袋を拝借したり、という身内でのしくじりで済んでいれば、彼が「元落語家」と呼ばれずに「小松」のままで居られただろうが、そのハメの外し方は一門の笑い話で済む範囲を超え、他人(社会)に迷惑をかけるようになっていった。

 持って生れた愛嬌と調子の良さで、小松は余りに早く酒、女、ギャンブル、借金を覚え過ぎた。自制心がついていかなかった。そしてそれらを上手に隠し通す才覚も。元来、そこつでどうもやる事に間が抜けている。やがて松鶴宅に金の催促やだまされた女からの電話が、頻繁に入り出した。
 或る日小松の前で、松鶴は正座した。そして両手を着いて頭を畳にすりつけた。
「(弟子を)やめとくなはれ。松鶴、この通り頭を下げて頼みま・・・・・・。お願いしま。やめとくなはれ」
 四十人を超える入門者の中で、松鶴に土下座させたのは「小松」只一人である。



 唯一、師匠松鶴の土下座させた小松の最近までの状況については、昨年日刊ゲンダイが組んだ特集から紹介したい。
 彼は、映画の題材にもなっていた。
日刊ゲンダイの該当記事

あの人は今こうしている
元落語家・笑福亭小松の夏川鴈二郎さん
2013年7月6日

 末期の進行性胃がんと診断されながら、98年、がん克服のための徒歩による全国縦断落語会を達成し、NHKをはじめ、民放各局のワイドショーに取り上げられた落語家がいた。笑福亭小松(本名・夏川鴈二郎)さんだ。金山一彦主演の映画「勇気の3000キロ」のモデルにもなった夏川さん、今どうしているのか。

 待ち合わせたのは滋賀県はJR草津駅の改札口。タツノオトシゴのように痩せ細った夏川さんが、かつてもてはやされた元落語家だと気づく人は誰もいない。

 その夏川さんの隣にはスポーツマン体形の若者がいる。

「せがれの勝(まさる)ですねん。きょうはボクの決意のほどを知ってもらいたくて、取材に同席させていただきます」
「決意のほど」——。

 実は夏川さん、09年4月に当コラムに登場し、がんに打ち勝ったヒーローとして執筆や講演で大忙しだったのもつかの間、個人事務所がパンクして奈良県内にあった敷地120坪の自宅を失っただけでなく、5000万円の借金が残り、「心労で眠れない」と訴えていた。そして、その2カ月後、覚醒剤使用(3回目)で逮捕・起訴されたのだ。


 松鶴門下の時の逸話が物語る奔放な性格も災いしたのだろうか、彼はせっかく立ち直る機会がやってきても、なかなか上げ潮に乗り切ることができない。若い時からの不摂生も災いしたのだろう。
 

 「自暴自棄になった揚げ句の覚醒剤ですわ。ボクが勝手なことばかりして家族に悲しい思いをさせるもんやから、愛知県内で働いとる勝とはその前から絶縁状態でした」

 夏川さんが3年余りのツトメを終えて滋賀刑務所を出所したのは去年7月。しかし、胃と脾臓(ひぞう)を全摘、膵臓(すいぞう)を半分取った体力の衰えは著しく、入退院を繰り返した。

「おまけに肺に2つの影が見つかりましてね。がんが転移したと死を覚悟しました。幸い、精密検査の結果、結核とわかり、投薬治療は続けてますが、ともすれば萎えそうになる気持ちを奮い立たせてくれたのが家族でした」

 勝さんとは今年正月に対面。妻と長女、家族4人で水入らずの時間を過ごした。
「おかげで、どうにか気力は回復してきたけど、ボクの今の体力では工場勤めとかは無理。かといって、今さら芸人には戻れん。正直、何をやったらいいのか……」と悩む夏川さんを勝さんは、「ボクが知ってる父さんは、笑いでみんなに感動を与えてきたやないか。原点に返って欲しい」と励ましたそうだ。

<「何を寝ぼけたこと言ってるんやと、厳しい意見があることも十分承知してますわ」>

「もちろん、世間はそんなに甘くないことはわかってます。何を寝ぼけたことを言ってるんやと、厳しい意見があることも十分承知してますわ。ボクを応援して下さった方々の善意を裏切ってしまったのは、身が縮こまる思いです。まったくもって深く反省してます。それでも、ボクなりにもう一度恩返しさせていただけないでしょうか」

「二度と罪を犯さないように家族みんなでサポートしていきます。応援してくれとは言いません。せめて父の覚悟を見てやって下さい」(勝さん)

 とはいえ、再犯率が極めて高いのが覚醒剤だ。
「許されるなら、噺(はなし)職人として刑務所での泣き笑いや覚醒剤の恐怖を伝えていきたい」と話すが、本当に4回目は大丈夫なのか。

「命からがらって言葉がありますね。滋賀刑務所での3年間はつらい、厳しいなんて通り越した、まさに命からがらの毎日でした。ホンマ、あそこに行くなら腹かっさばいて死んだ方がまし。ボク、覚醒剤とはきっぱり縁を切ります!」


 
 小松は松鶴一門から破門された後、漫才に取組みNHK新人漫才コンクールで最優秀賞を受賞した。その後、上方落語界への復帰が許され、平成12(2000)年には、 『小松のらくだ』で文化庁芸術祭演芸部門優秀賞を受賞している。
 とにかく、師匠だった松鶴が大好きだったのだろう、『あいらぶ松鶴』というネタがあり、昨年12月14日には、今は亡き大須演芸場で快楽亭ブラックとの二人会で披露している。

 芸人として天性の素質を持っていたことは間違いないだろう。それだけに、生の、そして素面の「小松」の高座を見ることができなかったことは残念だ。
 
 笑福亭一門のトラブルメーカーとして、被害に遭った人も少なくないだろう。

 しかし、彼は辛い刑にも服してきた。死ねば仏である。
 
 体はボロボロだっただろうが、最後には家族との平穏な日々の中で旅立ったであろうと思いたい。

 合掌。
by kogotokoubei | 2014-08-04 23:43 | 落語家 | Comments(6)
先日、春風亭一朝の『淀五郎』を堪能したのだが、この噺では、ある逸話を思い出す。


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矢野誠一著『落語讀本』
 平成元(1989)年12月に文春文庫で発行された矢野誠一著の『落語讀本』は、講談社から再刊された『落語手帖』と重複部分も多いのだが、讀本にしかない内容もあって、「こぼれ話」などには結構楽しい逸話が多い。

 『百年目』の「こぼれ話」からご紹介。

 三遊亭圓楽が、まだ三遊亭全生といって二ツ目の時分、有楽町の第一生命ホールでひらかれていた「若手落語会」に、『淀五郎』を出したことがある。いくら若手落語家にとっての晴舞台とはいえ、大看板の師匠連でも尻ごみしかねない『淀五郎』に、二ツ目の分際でいどんで見せたあたりが、いかにも後の圓楽である。
 当日、高座にあがってびっくりした。うしろのほうの客席に、師匠の三遊亭圓生がすわっているのが目にはいったのである。さあ、それからはなにをどうしゃべったか、まるで夢遊病者の気分で一席を終えた。あくる朝、案の定師匠からの呼び出しだ。おそるおそる顔を出した圓楽に、圓生はいったそうだ。
「全生さん、あなたは結構なはなし家ンになりました。もう私が教えることはなにもありません・・・・・・」
 もちろん、いってる言葉とはまったく裏腹の、強烈な、いかにも圓生らしい皮肉なのである。針のむしろにすわらされた圓楽は、ただ、だまって頭をさげるだけである。師匠から呼び出しを受けたときの心境は、まさに『百年目』の治兵衛のそれだったときいた。


 
 矢野さんの本人から聴いた逸話、師匠圓生からは、こう語られている。

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三遊亭圓生著『寄席育ち』

 『寄席育ち』の「芸と年齢」から引用。

 芸ってものは、何でもそうですが、かたちばかりそれになっても腹の虫がからッぽだったらだめなもので・・・・・・だから老人(としより)の出る噺は、若いうちは、どうやったって出来ないんですね。うちの弟子の圓楽が『淀五郎』を演りたがって、あたしに内緒で演ったことがあるんです。あたくしがかくれて客席で聞いたんですよ。そしたら、あたくしが来てるって、また、よけいなことを言った者があって、当人へどもどしてましたがね。噺はすっかりよく覚えてますが、ただほかの者は出来ても仲蔵が出来ない。年配で、自分が苦労してきて、世慣れてるから、下の者に対する言葉づかいも、そう威張ってはいない、やさしい言葉で、しかもその中に威厳があって、親切で、情誼がなくちゃいけない。そういう人間は、なかなか若いうちに出せっこないんですよ。あたくしも若い時分に『淀五郎』を演りたくッてね、演って失敗したことがあります。『ちきり伊勢屋』なんかも、二十二、三の時分に演ってみたことがありますが、やっぱり大きな噺だからもちこたえられない。しゃべるだけしゃべったってだめなんです。



 『淀五郎』という噺に関する、実に含蓄のある逸話だと思う。
 ただし、圓生本人が、仲蔵に造型したような人物として弟子や他人と接したとは思えないのが、残念ではある。

 春風亭一朝、昭和25年生まれで64歳。もちろん、“しゃべるだけしゃべる”のではない、年の功を生かした味のある噺家だ。

 先日の高座には、“年配で、自分が苦労してきて、世慣れてるから、下の者に対する言葉づかいも、そう威張ってはいない、やさしい言葉で、しかもその中に威厳があって、親切で、情誼”がある仲蔵が存在していた。

 大師匠正蔵と圓生の芝居噺、『中村仲蔵』については、私は正蔵に軍配を上げる。しかし、『淀五郎』については、圓生の芸は捨て難いと思っていた。なるほど、圓生の『淀五郎』への取り組み方には年季が入っている。

 “芸と年齢”のことを考えると、志ん朝の七十代の『中村仲蔵』や、『淀五郎』を聴きたかったなぁ、などと考えてもせんないことを思ってしまう。

 今になって輝いてきた一朝、そして雲助など芸達者がいるじゃないか、と自分に言い聞かせよう。
by kogotokoubei | 2014-08-02 10:56 | 落語のネタ | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛