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噺の話

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私の読書は、結構“芋づる式”である。

 たとえば、映画の「山本五十六」を見ようと思い、ずいぶん前に読んだ阿川弘之著『山本五十六』を読み直し、この映画を見た後で未読だった同じ著者の『井上成美』、そして『米内光政』を読んだ。最近、本屋で文庫新刊の阿川弘之座談集『言葉と礼節』を見つけたので読んだ後、同書の対談相手の一人であった藤原正彦の『若き数学者のアメリカ』を数年前に古書店で買っていて“積ん読”だったことを思い出して読んだ後、この著者のベストセラー『国家の品格』を古書店で安価で買い求め、今読んでいる、といった具合。

 『国家の品格』は2005年新潮新書発行。数年前、書店で平積みになっているのを見かけたが、いわゆるベストセラーにはすぐに手を出さない主義なので、読むのが今になってしまった。しかし、今こそ、日本人としての「情緒」も「形」も見当たらない政治家連中の必読書として読ませたい内容である。
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 藤原正彦著『国家の品格』

 ちょうど、この季節にふさわしい部分から引用したい。第四章の“「情緒」と「形」の国、日本”から。

 桜の花は、ご存じのように本当に綺麗なのは三、四日です。しかも、その時をじっと待っていたかのように、毎年、風や嵐が吹きまくる。それで、「アアアー」と思っているうちに散ってしまう。日本人はたった三、四日の美しさのために、あの木偶の坊のような木を日本中に植えているのです。
 桜の木なんて、毛虫はつきやすいし、むやみに太いうえにねじれていて、肌はがさがさしているし、花でも咲かなければ引っこ抜きたくなるような木です。しかし日本人は、桜の花が咲くこの三、四日に無上の価値を置く。たった三、四日に命をかけて潔く散っていく桜の花に、人生を投影し、そこに他の花とは別格の美しさを見出している。だからこそ桜をことのほか大事にし、「花は桜木、人は武士」とまで持ち上げ、ついには国花にまでしたのです。
 桜の花の時期になると、みながうきうきします。桜前線が南から上がって来ると、もう吉野は満開かな、高遠や小田原はどうだろう、千鳥ヶ淵や井の頭公園は来週かな、弘前の桜はいつになるだろうなどと、みな自分の知っている桜の名所が気になり出す。桜前線が地元に至ると、今度は天候を心配します。天候を心配するのは、花見の幹事だけではありません。桜は人生そのものの象徴だから、誰もが気になって仕方ないのです。
 アメリカ・ワシントンのポトマック川沿いにも、荒川堤から持って行った美しい桜が咲きます。日本の桜より美しいかも知れない。しかし、アメリカ人にとってそれは「オー・ワンダフル」「オー・ビューティフル」と眺める対象に過ぎない。そこに儚い人生を投影しつつ、美しさに長嘆息するようなヒマ人はいません。


 この文章の後には、紅葉の時期のことも書かれている。ケンブリッジ大学の数学教授が著者の蓼科の山荘を訪ねた時のこと。

 しばらく一緒に歩いていると、「一つ気づいたことがある」と彼がつぶやきました。
「日本の楓の葉は、非常に繊細で華奢だ。欧米の楓の葉は、もっと大きくて厚ぼったい。そのせいか色の変化が大まかだ。それに比べ日本の楓の葉は、薄く繊細なうえ、一つの木にも紅い葉、オレンジの葉、緑の葉などがあり色彩が豊かだ」と言うのです。
 楓に見られるように、日本というのは自然そのものが非常に繊細に出来ている。豪快さには欠けますが、山も川も谷も木々も花も何もかも、非常に繊細に出来ている。その上、四季の変化がはっきりしています。こんな国は珍しい。



 著者は、「四季」を「神の恩寵」と表現して、次のように書いている。

 このような、神の恩寵とも言うべき特異な環境の中に何千年も暮らしていると、自然に対する感受性というものが特異に発達する。この感受性が、民族の根底に年月をかけて沈殿している。そのように思えるのです。
 「もののあわれ」の他にも、日本人は自然に対する畏怖心とか、跪く心を元来持っている。欧米人にとって自然は、人類の幸福のために征服すべき対象です。しかし、太古の昔から日本人で、「人類の幸福」などという目的のために、「自然を征服すべき」などと思った輩は一人もいない。自然というのは、人間とは比較にならないほど偉大で、ひれ伏す対象だった。自然に聖なるものを感じ、自然と調和し、自然とともに生きようとした。そういう非常に素晴らしい自然観があったのです。だからこそ神道が生まれた。
 この情緒が、ある意味で日本人の民族としての謙虚さを生んできた。「人類の幸福のために自然を征服する」などというのは、手に負えない人間の傲慢です。そもそもそんなことを言い出したら、地球環境は破滅に向かってまっしぐらとなります。



 “自然とともに生きる”、“自然の偉大さにひれ伏す”という感覚、自然観を持っているのが、本来の日本人である。散る桜に“もののあわれ”を感じる繊細さに、我々は誇りと自信を持っていいのだと思う。

 同じ章に、「愛国心の二つの側面」という、“目から鱗”の文章があるので引用したい。この部分は、「家族愛」「郷土愛」「祖国愛」「人類愛」の「四つの愛」について、

 順番を間違えてはいけません。家族愛の延長が郷土愛、それら二つの延長が祖国愛だからです。日本ではよく、最初に人類愛を教えようとしますが、そんなことがうまく行くはずがありません。「地球市民」なんて世界中に誰一人いない。そんなフィクションを教えるのは百害あて一利なりです。


と説明してから登場する。

 祖国愛に対しては、不信の目を向ける人が多いかもしれません。「戦争を引き起こす原因になりうる」などと、とんでもない意見を言う人が日本の過半数です。
 まったく逆です。祖国愛のない者が戦争を起こすのです。
 日本ではあまりよいイメージで語られない「愛国心」という言葉には、二種類の考えが流れ込んでいます。一つは「ナショナリズム」です。ナショナリズムとは、他国のことはどうでもいいから、自国の国益のみを追求するという、あさましい思想です。国益主義と言ってよい。戦争につながりやすい考え方です。
 一方、私の言う祖国愛とは、英語で言うところの「パトリオティズム」に近い。パトリオティズムというのは、自国の文化、伝統、情緒、自然、そういったものをこよなく愛することです。これは美しい情緒で、世界中の国民が絶対に持っているべきものです。
 ナショナリズムは不潔な考えです。一般の人は敬遠した方がよい。ただし、政治家とか官僚とか、日本を代表して世界と接する人々は当然、ある程度のナショナリズムを持っていてくれないと困る。
 世界中の指導者が例外なく、国益しか考えていないからです。日本の指導者だけが「ナショナリズムは不潔」などと高邁な思想を貫いていると、日本は大損をしてしまう。安全や繁栄さえ脅かされる。一般の国民は、ナショナリズムを敬遠しつつ、リーダーたちのバランスあるナショナリズムを容認する、という大人の態度が必要になってくる。現実世界を見ると、残念ながらダブルスタンダード(二重基準)で行くしか仕方がないのです。無論、リーダー達の過剰なナショナリズムへの警戒を怠ってはなりません。


 ここで思うのは、原発再稼動ありきで「政治的判断」をゴリ押ししようとしている野田ドジョウや、カメレオン枝野には、散る桜に“もののあわれ”を感じたり、“自然とともに生きる”という感性があるか、ということ。そして、彼らには「祖国愛」と「ナショナリズム」の違いが分かっているか、ということ。

 そもそも原発は、自然界に存在しなかった放射性元素による発電システムである。加えて、放射能を燃やした後に出るゴミの処理については、自分たちが生きている間の問題ではない、とばかりに棚上げしている。

 当面の「電力不足」という常套句のみで再稼動を画策している彼らには、日本人が誇るべき繊細な感性など、まったくうかがえない。

 それでは、彼らはいったい何者なのか?

 落語ブログ仲間の佐平次さんは、「シーベルト星人」による侵入を指摘された。佐平次さんの「梟通信」該当ページ

 野田も枝野も、よく見ると人間の皮をかぶってはいるが、相当前からシーベルト星人に侵入されており、日本を契機に、この地球をいったん放射能まみれにして征服しようとしているのかもしれない。

 もし、本当にそうなら、ある意味では日本人として少し気が楽になるのだがなぁ。ドジョウもカメレオンも、やっぱり日本人だなぁ。しかし、彼らには“もののあわれ”への感性も、アメリカの一方的な攻勢に立ち向かう適正な「ナショナリズム」も、うかがえない。

 原発は再稼動、TPPには参加、日本とは長年の友好関係にあったイランは悪者(アメリカの言いなり)・・・・・・どこに「祖国愛」の一片でも見出すことができるのだろうか。

 「品格」以前の問題なのだ、ドジョウもカメレオンも。あいつらのことを考えると、本当に日本人として情けなくなる。

 野田さんよ、枝野さんよ、あなた達も日本人なら、
神の恩寵とも言うべき特異な環境の中に何千年も暮らしてきた民族の一員として、自然に対する感受性というものが特異に発達していて、感受性が、民族の根底に年月をかけて沈殿しているはずなのだがなぁ。

 それとも、フクシマの放射能汚染水浄化処理装置のように、頻繁に水漏れを起こす欠陥があって、日本人としてのDNAが外部に漏れてしまったのだろうか。

 この本の主張は、第一章の“近代的合理主義の限界”にある、次の文章に顕著に示されている。

家庭崩壊や教育崩壊も、先進国共通の現象です。
(中略)
 世界中の心有る人々が、このような広汎にわたる荒廃を「何とかしなければいけない」と思いながら、いっこうに埒があかない。文明病という診断を下し眉をくもらせているだけという状況です。この荒廃の真因はいったい何なのでしょうか。
 私の考えでは、これは西欧的な論理、近代的合理精神の破綻に他なりません。
 この二つはまさに、欧米の世界支配を確立した産業革命、およびその後の科学技術文明を支えた礎です。現代文明の原動力として、論理・合理の勝利はあまりにもスペクタキュラー(劇的)でした。そこで世界は、論理・合理に頼っていれば心配ない。とそれを過信してしまったのです。
 論理とか合理というものが、非常に重要なのは言うまでのありません。しかし、人間というのはそれだけではやっていけない、ということが明らかになってきたのが現在ではないでしょうか。近代を彩ってきたさまざまなイデオロギーも、ほとんどが論理や近代的合理精神の産物です。こういうものの破綻が目に見えてきた。これが現在の荒廃である、と私には思えるのです。


 
 まさに“論理の固まり”、とも言える数学者の著者の指摘だからこそ、説得力もある。著者は、徹底した実力主義にも反対だし、「現行の資本主義でさえ欠陥だらけの主義」と断じる。「市場原理主義」には「武士道精神」の観点から批判を加える。

 切り口は違うが、内田樹の主張と似た部分もあるし、養老孟司の著作を思い出す部分もある。

 彼らに共通するのは、競争の論理や金儲け第一主義への批判精神であり、藤原正彦の言葉で言うなら「祖国愛」が根底にある、ということのような気がする。

 野田や枝野に、ぜひ読ませたい本だが、「〇〇」につける薬は、ないのかもしれない・・・・・・。
 

 まったく「品格」を感じない国家のリーダーたるべき人達のことを考えて落ち込んでいるうちに、桜が全部散ってしまってもいけない。こっちは、散る桜を見て“もののあわれ”を感じながら、一杯やるしかないか。それにしても、困ったものだ・・・・・・。
by kogotokoubei | 2012-04-10 13:42 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(8)
先週4月6日金曜日、末広亭での春風亭一之輔真打昇進披露興行に行ったことは、すでにブログに書いた通り。金曜と言えば、その深夜にテレビ朝日「落語者」がある。(だから、厳密には土曜)。6日深夜の放送は、土曜日にブログを書いた後で見た。出演は一之輔で、前日末広亭の高座と同じ『雛鍔』だった。

 「落語者」は、前の週も一之輔の『長屋の花見』。テレビ朝日サイトの「落語者-過去の放送-」のページ

 「おやっ?」と思って、鈴本の千秋楽3月30日(金)のネタを調べると、『長屋の花見』・・・・・・。

 私などより早く気が付いていた落語愛好家の方は多かったと思うが、これは、“確信犯”(?)であろう^^

 真打昇進披露興行期間に一之輔の「落語者」の放送がある日、同じネタを先に高座でかけていたのだ。生で聞いたお客さんに、あとでテレビでも振り返ってもらおう、という趣向かと察する。土曜日の私が、まさにそうだった。「あぁ、この場面、そうそうこうだった」などと思い出しながら録画を見ていた。これが逆だと、先に「落語者」で見た後に、生の高座でも同じネタに出会うことになり、「テレビで見たばかりだよ・・・・・・」と若干残念な気持ちになるわなぁ。順番は大事。生→テレビ、で正解だろう。

 そう言えば、テレビ朝日から贈られた花が末広亭の舞台上手(?)に飾ってあったなぁ。また、『雛鍔』の放送の最後のインタビューで、一之輔は「(テレビ朝日)落語者のためになんでもします」、というようなリップサービスをしていた。
 この“生の高座”と“テレビ”との同じネタのシンクロ、局側のアイデアか一之輔本人の発案か分からないが、なかなか味のあることをやるもんだ。

 地上波の再放送をしているBS朝日の「落語者」(月曜夜)でも、下記のように今月後半に一之輔が登場する。昨年10月地上波放送分過去の放送-2011年-だから、順番通りならば23日が『黄金の大黒』、30日が『夏どろ』になるはず。しかし、念のため、放送日近くになったら、(ようやく少しまともになってきた)BS朝日のサイトでご確認のほどを。BS朝日サイトの落語者のページ
*BS朝日「落語者」4月の予定
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2012年4月 9日(月)夜11:30~深夜0:00 柳亭左龍

2012年4月16日(月)夜11:30~深夜0:00 柳亭左龍

2012年4月23日(月)夜11:30~深夜0:00 春風亭一之輔

2012年4月30日(月)夜11:30~深夜0:00 春風亭一之輔
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 記者会見があり、そして鈴本の興行が始まって以降、全国紙やスポーツ紙、週刊誌などでも話題になっているようだが、しばらく一之輔フィーバーは続きそうである。そして、それをプレッシャーどころか自分のパワーにしてしまうような印象を受ける。この人の神経の“太さ”も、小三治会長の抜擢への決断に大きく影響したようだ。

 テレビの落語には、人によって好き嫌いはあるだろう。落語は、もちろん“生”がベスト。これには異論がない。しかし、私が最初に一之輔や菊六の落語を知ったのは、ニフティの「ぽっどきゃすてぃんぐ落語」であった。そして、かれこれ前のことになるが、落語が好きになった原点は、ラジオで三代目三遊亭金馬や志ん生の落語を聞いたことである。

 最初の落語との出会いが寄席、落語会、という人はそう多くはないだろう。だから、既存のテレビ、ラジオ、そして今日ならではのインターネット、そういったさまざまなメディアに落語というコンテンツが登場することを、私は基本的にポジティブに捉えることにしている。
 落語を知らなかった人が、どんな出会いから、特定の噺家や特定のネタを好きになるか分からない。落語の良さを一人でも多くの人に知ってもらいたい、という気持ちがなければ、このブログも書いていない。だから、「今どき落語」の復活を期待しているし、その構成には若干不満もありながら、「落語者」も頑張って続けて欲しい。
by kogotokoubei | 2012-04-09 14:06 | テレビの落語 | Comments(4)
なんとか一之輔の末広亭の披露興行に行くことができた。都内での仕事を終えて、6時少し前に着くと、美智・美登の奇術が終わり勢朝が高座に上がるところだった。一階は予想はしていたが桟敷まで一杯で二階席へ。その二階も結構埋まっており、仲入り前にはほぼ満席になった。

 順番としては予定より遅く上がった勢朝が、「皆さん良かったですねぇ、楽屋に凄い人が来ています」と言った時、次が誰かはある程度予測できた。その誰かさん以降からご紹介。

柳家小三治『二人旅』 (13分)
 場内から盛大な拍手。本来は市馬の出番で登場。真打披露興行では定番(?)ともなったネタがかかると、なぜか安心できる。この噺にはいくつか都々逸が登場するが、その一つを紹介。「この舌で嘘をつくかと思えば憎い 噛んでやりたい時もある」。こんなことをたまにはオツな年増から言われてみたいもんだ。本来のサゲの前で下がったが、小三治に出会えたのは僥倖だった。

林家正楽 紙切り (17分)
 会場からのリクエストに答えたのが、スカイツリー、鯉の滝登り、東京タワー、選抜高校野球の優勝投手、そして夜桜。いつもの軽妙な話芸と見事な職人技の紙切り。落語協会の寄席では欠かせない重要な存在である。

春風亭正朝『普段の袴』 (17分)
 復帰後は初である。病気にもなったようなので、気のせいか少し痩せた印象。江戸っ子のテンポの良い語り口は相変わらずだったし、やはり上手い。あの事件は、この人のCD付き落語本をブログで褒めた直後でもあったので、その反動もあって、しばらくは避けてきた。そろそろ喪が明けたかもしれない。この人の名前のある落語会にも行こうか、と思わせる高座だった。

鈴々舎馬風 漫談 (7分)
 いつものネタだが、笑える。これまた芸であろう。

 ここで仲入り。喫煙所もトイレも混雑しているであろう。席に座ったまま待機。

新真打口上 (23分)
 緞帳が上がると舞台に六名。
 左から司会の市馬、木久扇、一之輔、一朝、馬風、小三治。一昨年秋の鬼丸の披露興行における円歌を含む三代会長揃い踏みとはならなかったが、小三治会長が座っているだけで、この日が“当たり”であったと言える。
 馬風の演出で、なかなか楽しい“演芸会”的な口上となった。市馬の相撲甚句、木久扇の声色、一朝の笛、それぞれ達者な余芸の後、馬風が音頭をとると見せかけて小三治会長による三本締め。結構でした。

笑組 漫才(南京玉すだれ) (6分)
 クイツキは久しぶりのこの二人。しかし、漫才ではなく縁起ものということで、二人で南京玉すだれ。ゆたかが上手で、かずおがぎこちなく操るバランスがなかなか楽しかったが、かずおが演技なのか地なのかは分からない。あれが演技なら、それも芸であろう。でも、あれは地だろうな。

林家木久扇『彦六伝(短縮版)』 (8分)
 「ここに談志さんがいたら」と声色をやったが、これがよく似ていた。談志が昭和11年生まれ、この人は翌12年生まれで、志ん朝の一年年上なのだが、お元気で何より。一之輔の師匠一朝、その師匠柳朝の師匠が八代目正蔵だから、こういう縁のある人が座を盛上げてくれのは、一之輔にとっても有り難いことだろう。

春風亭一朝『日和ちがい』 (12分)
 東京の噺家さんでこのネタを聞いたのは、鯉昇に続いて二人目。どうしても上方、それも枝雀の印象が強いのだが、江戸っ子一朝の軽快なリズムは、短時間でも落語という言葉の芸を堪能させてくれる。流石だ。

仙三郎社中 大神楽 (8分)
 近くの席の、どうも寄席は初めてかと思われる女性二人連れは仙三郎の土瓶の芸に歓声を上げて喜んでいた。これをきっかけに、こういうお客さんが寄席に来る機会が増えることを期待したい。

春風亭一之輔『雛鍔』 (31分)
 「もう十六日目で、慣れてきました」と冒頭語ったが、まったく気負いのない普段通りの一之輔の高座だった。ちょうどこの日は子供の小学校の入学式で、椅子に座って人の話を聞く苦痛を味わった、という話の後に近所の落語好きの小学生が集まった一般家庭で落語を披露した時のエピソードは以前にも聞いたことがあるが、この噺のマクラとして相応しい。
 約10分のマクラの後で本編へ。この噺は、ブログを書き始める前、2008年3月に四谷のコア石響の「ラジオデイズ落語会」で聞いて以来だと思う。あのコンクリートの地下の会場で、三三、文左衛門の会の開口一番だった。あの時は文左衛門の『文七元結』のインパクトが強くて、一之輔の高座は正直よく覚えていないのだが、達者な二ツ目という印象は残った。
 前日末広亭の五日目は『初天神』だったようだが、ませた子供や与太郎を演じるのは、やはり上手い。本来の噺の人物像をしっかり描き出すことに加え、この人なりの味付けが無理なく融合されている。たとえば、父親と子供との会話で、「返事は、はいって言うんだ」「ふん」「ふんじゃねぇ、はいだ」「ふん」「“は”と“い”だ。」「はとい」「てめぃ、親を馬鹿にしてんのか」「はい」、というやりとりは他のネタ(例えば『牛ほめ』)などでも登場するが、こういう会話にこの人ならではのセンスとリズムがある。客に羊羹を出す時の女房のドタバタも、なかなか可笑しい。
 鈴本ではかからなかったネタだったが、まったく緊張している様子もなく、いつもの一之輔の高座。もちろん、結構でした。


 後ろ幕は、三種類あった。寄贈者は最初が「日本橋女学館 同窓会一同」。師匠の奥さん(五代目片岡市蔵の娘さん)が母校を“脅して”出させた、と勢朝が言っていた^^
 二枚目は「日本大学芸術学部落語研究会」。名門落研(?)としてもうれしい昇進だろうし、高田文夫もOBとして寄付した一人に違いなかろう。(立川志らくが寄付したかどうかは、分からない。)
 三枚目が「春風亭一之輔後援会」であった。馬風が口上でさかんに、「一之輔は私と同じ千葉野田の出身」と言っていたが、野田の後援会だったかどうかは、二階席の下手側からでは確認できなかった。

 とにかく、なんとか来ることのできた一之輔の披露興行。落語協会の記者会見の際の動画落語協会サイトの該当ページと同じように、この日の口上でも小三治会長が、聞く側が少し驚くほどの高い評価を口にされていたが、その見立てに間違いはない。
 一之輔の残る三分の二の披露興行、国立演芸場もチケットはあっと言う間に売り切れていた。どうも、今回はこの一回しか披露興行は行けそうにないが、ネタは彼のブログ「いちのすけえん」「いちのすけえん」で確認し、それぞれの寄席の様子は行かれた方のブログを読むのを楽しみにしよう。急遽参上した会なので、「居残り会」はない。素面でも心地よい余韻に浸りながら帰途についた。

p.s.
本来ならこの興行に名を連ねるはずの、一朝門下総領弟子である六代目の柳朝は、入院中である。手術を受け成功したらしい。病名など詳細は分からないが、あの端正で本寸法の高座に、また会える日が近いことを祈りたい。快復の様子は、彼のブログでご確認のほどを。柳朝のブログ「総領の甚六」
by kogotokoubei | 2012-04-07 07:53 | 寄席・落語会 | Comments(13)
一之輔に新たな勲章が加わったらしい。落語協会サイトの該当ニュース

平成23年度「花形演芸大賞」

若手の登竜門として毎年選出される、独立行政法人日本文化芸術振興会
(国立演芸場)主催の平成23年度「花形演芸大賞」の受賞が下記のと
おりに決定いたしました。

<大賞> 春風亭一之輔 <金賞> 柳亭左龍



 過去には喬太郎が連続受賞したり、談春、遊雀、花緑、二年前が三三、そして昨年の白酒という名が並ぶ。

 この賞の謳い文句は、「若手の登竜門」ということになっているようだが、もっともその言葉にふさわしいのが一之輔ではなかろうか。過去の受賞者は、すでに中堅として相応の評価のあった時期に受賞しているように思うからだ。受賞対象の規定が途中で変更されたりしているようなので(注)、この賞の意義がわかりにくい点もあるが、小三治会長の抜擢とも時期的に同期しており、一之輔の力量を裏付けるものであることは間違いがない。

 金賞の左龍も評価されていいだろう。喬太郎という存在感のある先輩がいるが、さん喬門下では、この人も将来が大いに楽しみだ。

 さぁ、末広亭も明日で折り返し点を越えるが、まだまだ披露興行五十日の先は長い。新たな受賞のご褒美を糧に、がんばってもらいましょう!

(注)1995年(平成7年)4月21日の「第191回 花形演芸会」より、出演資格は「二ツ目昇進〜真打昇進5年程度」から「入門満20年まで」に変更(所属会派による基準の違いや真打制度のない上方への配慮)。出演者の規準は、年間11組のレギュラー出演者(年3回交互出演)と一般の若手新人、審査対象外のゲスト1組(以前は2組)に変更。また、四半期ごとの金・銀賞をやめ、年間を通しての大賞・金賞・銀賞に変更。大賞・金賞はレギュラー出演者から、銀賞は一般出演者から決定。銀賞受賞者は翌年度のレギュラー出演への道あり。

geinin.jpのサイトより引用
by kogotokoubei | 2012-04-04 21:33 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
噺家のブログの中で、古今亭志ん輔の「日々是凡日」はよく取り上げているし、私が毎日訪問するブログの一つなのだが、春風亭一之輔の「いちのすけえん」も、結構楽しみにしているブログの一つである。ブログ「いちのすけえん」

 彼は、この短いながらも飾りがなく楽しい日記風ブログで、鈴本の初日以降の真打昇進披露興行でのネタを公開している。次が鈴本での十日間のネタである。

鈴本
(1) 3/21 粗忽の釘
(2) 3/22 百川
(3) 3/23 藪入り
(4) 3/24 茶の湯
(5) 3/25 明烏
(6) 3/26 花見の仇討
(7) 3/27 子は鎹
(8) 3/28 欠伸指南
(9) 3/29 不動坊
(10)3/30 長屋の花見

 そして、昨日からの末広亭は、『竹の水仙』で始まったらしい。私は彼のこの噺を、まだ聞いたことがないが、持ちネタにあったとは知らなかった。そのうちぜひ聞いてみたいものだ。喬太郎が脅威に感じる高座かもしれないしねぇ。

 私が彼のネタとして知っている上記以外のネタは、鈴ケ森、代脈、初天神、夏どろ、加賀の千代、抜け雀、船徳、短命、富久、五人廻し、蛇含草など。

 披露興行が国立演芸場を含めても五月までなので、明らかに冬のネタである富久は出そうにない。
 
 私の勝手な勘繰りとして、鈴本と末広亭では別なネタを二十席並べそうな気がしている。さて、今夜以降、彼のブログが、また楽しみである。そして、果たして私は一日でも末広亭に行くことができるのだろうか・・・・・・。これまた、ミステリーなのだ。期の初め、いろいろとあるのだよサラリーマンには。しかし、二階席でもいいので駆けつけたいと思っている。それとも、立ち見かな。

 まさか、五十席まったく別なネタが並ぶなんてことは・・・・・・ないわなぁ。もし三十席であっても、凄いことだと思っている。しかし、あくまで真打からスタートなのだから、披露興行でパワーを使いすぎないでもらいたいとも思っている。そのへんは、落語愛好家としても、結構微妙な想いだなぁ。注目され長時間外で並んでいたお客さんのことを思えば余計な力も入るだろうし。でも、彼は大丈夫でしょう。なかなか太い神経しているからね。
by kogotokoubei | 2012-04-02 16:24 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛