噺の話

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ここのところ、落語芸術協会について書いていたのだが、先週25日に落語協会の“二ツ目”昇進者の発表があったことを書くつもりで、つい忘れていた。
 次の四名が昇進する。落語協会HPの該当ページ
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一朝門下   春風亭朝呂久
歌之介門下  三遊亭ありがとう
市馬門下   柳亭市也
扇辰門下   入船亭辰じん

(平成24年11月上席より)
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 それぞれの入門と前座修業が始まった年月そして生年月日(今年の満年齢)は、協会HPのプロフィールによると次の通り。見事な年功的昇進。まぁ、前座から二ツ目までは、“抜擢”はなくてもよいのかもしれない。二ツ目から真打ちへの昇進とは意味合いが大きく違うだろう。

朝呂久 平成19年8月入門、平成20年4月1日より前座、昭和56(1981)年7月13日生(31歳)
ありがとう 平成19年11月入門、平成20年5月1日より前座、平成3(1991)年5月9日生(21歳)
市也  平成19年12月入門、平成20年7月1日より前座、昭和59(1984)年2月10日生(28歳)
辰じん 平成20年2月入門、平成20年9月1日より前座、昭和58(1983)年11月24日生(29歳)

 ありがとう以外は聞いたことがある。その三人について、少しだけ書いてみたい。

 何と言っても、辰じんに期待している。彼の開口一番は結構数多く聞いており、端正な高座姿は、入門仕立ての頃から気に入っていた。師匠扇辰譲りの江戸っ子の威勢のいい啖呵が好きだ。この人には、一之輔、菊六などと同様に、先輩の二ツ目を追い越して真打ち昇進の可能性が十分にあると思っている。

 らくだ亭の開口一番などで聞いている朝呂久にも、その体の大きさのみならず大器晩成の予感がする。体を揺らし汗をかきながら“一所懸命”という感じの高座には好感が持てる。今時点において“切れ味”では辰じんに劣るが、先輩に一之輔がいることもあり、今後十分に化ける可能性があると思う。

 最後の市也。私のブログをご覧の方は、彼の高座への小言を数多く見かけられたかと思う。以前は期待させる部分もあったのだが、基礎が十分に出来ていない印象。先日も“ざま昼席落語会”で聞いて酷評したのだが、「滑舌」が悪すぎる。少し“噛む”程度なら許せるが、肝腎の科白がはっきり聞こえない。ぜひ、基礎づくりから改めて精進してもらいたい。


 とにかく、辰じんに期待。昨年2月、喬太郎・文左衛門・扇辰の会で聞いた『道具屋』などは、ここ数年のこの噺でベスト3に入る出来だった。2011年2月16日のブログ
 しかし、それ以来、なぜか辰じんを聞いていないことに気がつく。どうしてか・・・・・・。扇辰の出る会にもっと行かなきゃだめなのかもしれないし、寄席は私は末広亭中心だが、どうも鈴本への出演が多いようだ。また、彼の実力を認める先輩から地方の落語会の開口一番を頼まれることも多いのかもしれない。いずれにしても、二つ目昇進の後は、意識的に辰じんを聞きたいと思う。

 “小三治改革”が続くのであれば、順調に精進を重ねて、あと六年、菊六と同じ入門から十年で真打ち昇進の可能性すら秘めている、そんな器だと思っている。二ツ目になれば、寄席への出演機会はめっきり減るだろうが、楽屋仕事から解放されるので、先輩たちの落語会での開口一番には、今まで以上に声がかかりそうな気がするし、きっと小さな会場での勉強会なども数多く行うはず。古今亭志ん輔が支援している“たまごの会”のメンバーにもなっているようだ。1月29日の古今亭志ん輔「日々是凡日」ぜひ、今後追いかけて、そして応援してみたい人だ。

 余談だが、辰じんの師匠扇辰と同じ年に入門し前座時代の苦労をともにした喬太郎は、弟子をとらないなぁ。自分のことに集中したいのかもしれないし、寄席も、ホールでの落語会も、そして学校寄席なども数多くこなしているから、弟子をとる余裕はないのかもしれない。しかし、先日紹介したWOWOWの番組でも本人が語っていた“古典回帰”をし、より自分の芸を磨くには、弟子をとることも一つの方策のように思う。人に教えることで自分が勉強することって、結構多いからね。しかし、あの番組で、「古典は7~8年遅れている」と言っていた師匠さん喬が、弟子をとることを許さない、ということも考えられる。これは、まったくの邪推。


 さて、辰じんのことに戻る。この人が二ツ目で飛躍して、どんどん上手く、そして大きな器になって先輩の一之輔や菊六、朝太たちを脅かす存在になって欲しい。一之輔や菊六のことも結構このブログで書いてきたつもりだが、これからは辰じんのことを書く機会も増やしたいと思っている。“青田買い”を煽るわけではないが、まだご存知でない方には、ぜひお聞きいただきたい若手の有望株です。
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by kogotokoubei | 2012-01-30 16:41 | 落語協会 | Comments(0)
昨日芸術協会のことを書いた。言葉足らずだったが、「芸協再興」とでも言う思いを書いたつもり。
 かつては落語協会を圧倒していた時代だってあるのだ。鯉昇があの『時そば』を演じるのも、「新作の芸協」の伝統を十分に反映しているのだと思っている。精神的には「原点回帰」をし、落語協会と良い意味で対抗する存在であって欲しい、という思いである。

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『談志楽屋噺』(文春文庫)

 本書は初版の単行本が昭和62年に発行され、その後に文春文庫で再刊されている。
 私にとっては噺家としてよりも落語や演芸の名指南役として評価している立川談志が、まだ入門前に客として寄席を楽しんでいた頃の、芸術協会の楽しい顔ぶれについて書いている。

 私が客の頃、芸術協会で私のヒイキは、先代の春風亭柳好一本槍、
 まだ三木助のよさがワカラなかった。また、あまり芸協のほうを聴かなかったこともあったが、三木助よりむしろ先代遊三の品の良さが、好きだった。あと色物では十返舎亀造・菊次だ。
「何しろ、あっしは旅慣れてますからねェ・・・・・・」の亀造さんだ。それに山野一郎の漫談、ときどきゲストのように出ていた昔々亭桃太郎も好きだった。
 金語楼の実弟で、新作落語が抜群に面白いのに、どういう理由(わけ)があったか知らないけど、B級の・・・・・いやC級の新東宝の映画かなんかに出て、泥棒になって逃げたりしたのを見たことがあった。映画に出るのが好きだったのか。
 芸術協会にはいい色物がいた。いま言った十返舎亀造・菊次、牧野周一、林家正楽、踊りの柳亭雛太郎、音曲の文の家かしく、他にも漫才の桜川ぴん助、曲芸の海老一・海老蔵。曲独楽の三増紋也、女道楽の立花家色奴・小紋、支那手品の二代目吉慶堂李彩、等々・・・・・・。いま思うに百花繚乱であった。ちなみに、女道楽とは女どうし、または一人で歌三味線を聞かせる芸種をいう。女好きという意味ではないよ。
 開口一番、「桃太郎さんでございます」。出囃子は桃から生まれた桃太郎の童謡で。
 自作の『お好み床』で、
「『私はワルツでひとつやってもらいたい』という客に、『ワルツですか。ワルツでやりますからな、ワルツでいきますよ。クィック・クイック・スロー。あ、擦ろうだね、こりゃ』」、くだらないんだが、またこれがおかしい。
 弟子の扇枝が、こないだ師匠の桃太郎の『落語学校』という落語台本を持ってきてくれた。読んだらひとつも面白くない。ところが、あの師匠がやると抜群に面白かった。抱腹絶倒は決してオーバーではなかった。勿論、自作自演の新作落語で、創作の才能は兄金語楼と同様であった。
「最近、ほうぼうに、いろんな学校が、たくさんありますな。お花の学校、お料理の学校いろいろありますが、落語の学校というのはできておりません。できたら面白いでしょうな。こうなると噺家が先生になるんですから、
『えー、先生、だいぶ生徒が集まりました』
『そうか、どのくらいかたまった』
『かたまった?五、六人かたまりました』
『そうか、そろそろ溶かすか・・・・・・』
『溶かす?』
『お待たせいたしました。一番のかた』
『あっしですか、一つ短いのをお願いします』
『ハイ、では一分線香即席噺から教えます。君、きょう早稲田と慶応の野球があった』
『ああ、そうけェ』とどうだ。
『ああ、なるほど、終りですか。これは短かった。やりますか・・・・・・やりますョ。おおい君、きょうは法政と明治、法政と明治じゃない。あっそうだ、オイ、今日は早稲田と慶応の早慶戦があった』
『あーそうけェ』
『それじゃ駄目だ』」って、書くとこんなものだが、桃太郎師匠が演(や)るとたまらなくおかしい。私は正月の人形町末広亭で腹ぁよじった・・・・・・中学の時の想い出である。トリは柳好の絶品『棒だら』。終演(はね)てお客を帰すあいだの江戸噺に若き小金治がいたっけ・・・・・・。



 家元が中学時代、ということは昭和二十代の半ばである。

 看板の柳好、品格ある遊三、襲名したばかりの三木助、新作爆笑噺の桃太郎などバラエティ豊かな噺家達と豪華な色物の芸人さん達。立川流創設から四年後に、家元としては異色とも言える本書によって、当時の芸協の寄席の楽しさが伝わってくる。

 今でも、芸協は、色物では落協に十分に伍しているように思うなぁ。問題は落語家だ。

 そうか、今の芸協の噺家さんのレベルアップのためとモラルアップのために、協会は「落語学校」をつくる必要があるかもしれない。しかし、「そうけェ」程度の駄洒落では、とても笑えない^^
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by kogotokoubei | 2012-01-28 11:35 | 落語の本 | Comments(6)
落語愛好家として大先輩の“ほめ・く”さんのブログで、昨日26日の朝日新聞夕刊の記事について書かれていた。“ほめ・く”さんのブログ
 私は夕刊をとっていないので、“ほめ・く”さんのご考察を含め貴重な情報として拝見した。

 末広亭の席亭が落語芸術協会(以後、芸協)に、落語協会(以後、落協)に比べて客の入りが悪いため、「円楽一門会や立川流と一緒になってほしい」という要望を出したらしい。他の二つの定席(池袋、浅草)も同調するとのこと。

 ネットで探したところ、「朝日新聞デジタル」で見ることができたので、全文を引用する。朝日新聞デジタルの該当ページ

「今のままじゃあ、寄席にお客来ない」
2012年1月26日10時14分

■定席側、芸術協会に他流と合流提案

 今年、東京の落語界が動きそうだ。寄席の定席が客の入りをめぐって落語芸術協会に注文をつけた。家元の立川談志亡き後の落語立川流も揺れている。

 東京の定席は上野・鈴本演芸場、浅草演芸ホール、新宿末広亭、池袋演芸場の四つ。このうち浅草、新宿、池袋には、落語協会(柳家小三治会長)と落語芸術協会(桂歌丸会長)が10日ずつ交互に出演している。五代目円楽一門会(三遊亭鳳楽会長)と落語立川流は両協会に所属していないため、これらの定席には出演できない。

 だが、昨年末の芸術協会の納めの会であいさつに立った末広亭の真山由光社長が、芸術協会が出演している時の客入りの悪さに言及し、「円楽一門会や立川流と一緒になってほしい」と発言した。この二つの会も出演させたいとの趣旨で、浅草演芸ホールと池袋演芸場も同調の姿勢だ。

 これに対して、芸術協会の三遊亭小遊三副会長は「重く受け止めたい」と答えた。

 一昨年、三遊亭楽太郎の六代目円楽襲名の際は、芸術協会の歌丸会長らが協力して定席でも披露興行を開けるよう配慮。三遊亭鳳楽や好楽、円橘らが久々に末広亭などに出演した。この縁で、円楽一門は昨年春に芸術協会への合流を申し入れたが、同協会は昨年6月の総会でこれを否決した経緯がある。

 真山社長は「具体的な数字をあげることは避けるが、芸術協会の時は客が入らない。所属の落語家の数も落語協会の半分で選択肢が狭い。なんとか考えて欲しいという問題提起をしたつもり」と話す。

 定席側の一存では出演者を決められない仕組みだが、芸術協会の理事でもある田澤祐一事務局長は「正式の申し入れと受け止めている。特に夜の部の客入りが悪いことは認識している。近く理事会を開いて、まずはうちの協会の側でお客を呼ぶ努力をしたい」という。

 
■家元亡き後、立川流も課題山積み

 一方、昨年11月に談志家元が亡くなった落語立川流。年明け早々に弟子たちが会合を開いて今後を話し合った。家元制度をやめること、一般に浸透した「立川流」の名称は残すことなどを決めたが、今後の検討課題は多い。

 「入門から3年以上で、落語50席と歌舞音曲ができること」という二つ目昇進の条件、「落語100席と歌舞音曲」という真打ちの条件は当面そのまま残す見込み。家元存命中に真打ち昇進が内定していた談修、こしら、志ら乃の昇進披露は、今後時期を調整する。

 まとめ役は総領弟子の土橋亭里う馬。幹事は各世代から立川左談次、談四楼、談幸、志の輔、志らく、雲水の6人。里う馬は「これまで家元が唯一絶対のルールだったから、今後は話し合いで一からルール作りを始めなければならない」と話している。(篠崎弘)



 円楽一門合流の件が芸協の会議で昨年否決されたことは、ある一部の噺家さんが落語会で暴露したらしいが、“6月の総会”だった、という情報をマスメディアで見たのは初めてである。

 円楽一門のことは以前に何度か書いたが、芸協に(限らず落協にも)、六代目円生や先代円楽への抵抗感を未だに抱いているベテランが少なくないので、芸協に円楽一門が正式メンバーとして加入するのは難しいだろう。本来は落協に“戻る”のが筋道かと思うが、それもありそうにない。七代目円生襲名問題が再燃するからね。

 立川流だって落協に“戻る”ことはあり得ても、芸協に入ってまで寄席に出たいとは思わないだろう。

 あり得るのは、余一会や落語会でたまに企画される「四派合同」のような、“芸協&円楽一門”や、“芸協&立川流”という共演(相乗り)企画までではなかろうか。
 しかし、昨年の総会で円楽一門の加盟を拒否したように、“共演”とは言え、一緒に寄席に出ることを毛嫌いするベテランは多いだろう。そういった人たちは、立川流にだって、抵抗がないわけでもなかろうと察する。ごく一部の中堅や若手が余一会などで合同で出演するのとは、訳が違うのである。

 もしそういったご意見番達も席亭の声を無視できずに、共演を受容したとしよう。そうなると、芸協だけの席なら出演のチャンスのある噺家の出番を減らすことになる。

 落協より少ないとは言え、協会のサイトで調べたところ、真打ち86名、二ツ目が31名、前座19名、色物が40組という所帯である。落語家のみで136名。落語芸術協会のHP

 この人たちに、どれだけ寄席に出演する機会があるか計算してみたい。

 昼席と夜席、そして寄席によっても出演者数は違うが、もっとも出演者数の多い浅草と少ない池袋の間、ということで末広亭昼席を基準として計算してみる。
 落語家さんの出番はほぼ11~12、色物が5~6。落語枠12として、その中身は、前座(開口一番)が1、二ツ目を1、残る10が真打ちと想定する。
 同じ顔ぶれで出演する10日間の興行の昼か夜の会を一つの“席”とした場合、鈴本を除く三つの定席を落協と交互に担当しているのだから、一カ月での出演可能な席の数は、

 3(上席・中席・下席)x 2(昼席・夜席)x 3(末広亭・池袋・浅草)÷2(落協と芸協)= 9

 だから、前座枠が1x9=9名、二ツ目枠も9名、真打ち枠が9x10で90名となる。
 *「池袋の下席の夜の部は・・・」などと細かいことは言わないこと^^
 先ほど書いたように、前座は19名いるので、開口一番が回ってくるのが一ヵ月おき、二ツ目は31名いるから、ほぼ三ヵ月に一回しか出番がない勘定になる。真打ちは86名で、中には寄席に出ない(出られない?)人もいるので、ほぼ毎月、上か中か下席の、昼か夜の部に出るチャンスはある、ということだろう。
*あくまで「機会」であって、席亭が「No!」と拒否する人もいるけどね。 

 落協はもっと大きな所帯なのだが、鈴本という強力な味方がいるので、席数も芸協より多い。

 ここで良く考えなければいけないのは、円楽一門にだって、立川流にだって、前座は少ないにしても二ツ目はいる、ということ。寄席という修業の場で揉まれるのが、先の真打ちへの通過儀礼でもあるわけだが、もし合同の会をするとして、パートナー(?)の二つツ目も定席に出るなら、芸協の二ツ目さんの出番は、今以上に減ることになる。

 そういったことも含めて考えると、他流派(?)との合同ではなく、自助努力で観客動員を考える、芸協の主催の会を魅力的なものとする努力をするしかないわなぁ。

 私は昨年、定席寄席は末広亭のみ六回通った。芸術協会が二回、初席は別として、九月の中席を他の落協の時と比較すると、席亭指摘の通り客は少なかった。しかし、二回の芸協主催の席では、新発見も含め、今後も聞きたい噺家さんに結構出合うことができた。やはり、“意図して芸協の席にも行こう”と思っていた。言い換えると、「意図」しないと行かない、ということになる。落協の席では、その顔ぶれを見て「行きたくなる」ので、そこには大きな違いがある。

  柳家小三治会長の英断で、年功による真打ち昇進を打破した落協。一之輔の春の真打ち昇進披露興行、秋の朝太と菊六の披露興行は、十分に席亭を喜ばせることになるだろう。
 しかし、果たしてどれ位の落語愛好家の方が、芸協で今春真打ちに昇進する次の五名を知っているだろう。あるいは、協会は知ってもらう努力をしているだろうか。
・昔昔亭健太郎(昔昔亭桃太郎門下)
・春風亭柳太(春風亭柳好門下)
・昔昔亭笑海(昔昔亭桃太郎門下)
・瀧川鯉橋(瀧川鯉昇門下)
・笑福亭里光(笑福亭鶴光門下)

 昨年発表があった時に彼らを紹介した。その際、協会HPのプロフィールの誤りを指摘したが、未だに修正されていない。
2011年8月3日のブログ
 こういうことも含め、芸協には、芸人を売込む意欲や危機感が不足していると言わざるを得ない。ほめ・くさんんも指摘されていたが、当日の休演・代演情報は、落協のようにホームページに掲載すべきである。「客の立場」にたった視線や施策に欠けている。これは両協会に共通しているのだが、真打ち昇進者を発表する前に、それぞれの噺家のプロフィールの間違いを正すとともに、もっと情報を記載すべきである。人によって書かれている項目がバラバラで、内容にも誤りが散見されると、ガッカリする。

 そういったことも含め、協会としてのあり方を定め、傘下の会員をリードするのは幹部だと思う。さて、それでは両協会の幹部の顔ぶれを見てみよう。

<落語芸術協会>
会長   桂 歌丸
副会長  三遊亭 小遊三
理事   三遊亭 遊三
理事   橘ノ 圓
理事   三笑亭 茶楽
理事   三笑亭 夢丸
理事   春風亭 小柳枝
理事   三笑亭 夢太朗
理事   桂 米助
理事   三笑亭 夢之助
理事   古今亭 寿輔
理事   春雨や 雷蔵
理事   桂 歌春
理事   春風亭 昇太
監事   柳亭 楽輔
監事   瀧川 鯉昇
参与   玉川 スミ・鏡味 健二郎
最高顧問 桂 米丸
相談役 三笑亭 笑三

<落語協会>
会長      柳家小三治
副会長     柳亭市馬
常任理事   柳家さん喬
常任理事   林家正蔵
常任理事   三遊亭吉窓
理事      桂文楽
理事     古今亭志ん輔
理事     入船亭扇遊
理事     三遊亭歌る多
理事     五明楼玉の輔
監事 柳家小さん・三遊亭圓丈・柳家さん八
相談役 橘家圓蔵・古今亭圓菊・三遊亭圓窓・入船亭扇橋・林家こん平・林家木久扇
顧問  三遊亭金馬
最高顧問 三遊亭圓歌・鈴々舎馬風

 「あれっ、どっちが人数多いんだっけ?!」と勘違いするほどの芸協の幹部の人数の多さ。どれだけ“名誉職”としての幹部が多いか、ということを裏付けていると思う。また、これだけ理事が多いと、「船頭多くして」の譬もあるように、全員参加するわけではないだろうが、会合などで話がまとまらないだろうし、時間もかかってしょうがなかろう。

 「なにせ、会長が高齢でかつ病気がちで、テレビなどでも忙しくて・・・・・・」などの言い訳は許されない。小三治会長のように、手足となり中堅・若手とのパイプ役となる副会長を新たに任命するなど、施策はいくらでもあるはず。相変わらずの年功真打ち昇進も含め、やはり、「危機感」が足らないとしか言いようがない。

 三遊亭小遊三副会長が「重く受け止めたい」のなら、幹部組織のあり方から見直す位の覚悟が必要だろう。

 芸協のホームページには、次のような沿革が記載されている。
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昭和5年  会長・春風亭柳橋(6代目)、副会長・柳家金語楼が日本芸術協会を設立。
昭和9年  柳亭左楽が会長を務める落語睦会を合同する。その後、桂小文治(初代)が副会長となる。
昭和49年 古今亭今輔が会長となる。.昭和51年会長・桂米丸、副会長・春風亭柳昇となる。
昭和52年 12月、文化庁より社団法人の認可を受け、社団法人・落語芸術協会と改称。
平成11年 会長・桂文治 副会長・桂歌丸 副会長付・三遊亭小遊三となる。
平成16年 会長・桂歌丸 副会長・春風亭柳橋(7代目)となる。
平成17年 会長・三遊亭小遊三となる。
平成23年 4月、内閣府より公益社団法人の認可を受け、公益社団法人・落語芸術協会と改称。
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 昭和9年の「落語睦会」の“合同”というのは、やや不正確な表現で、解散した睦会から、五代目の柳亭左楽と三代目春風亭柳好が加入した、と言うべきだろう。睦会の「四天王」の一人は八代目文楽で、ご存知のように文楽は落協に移っている。

 私個人は、落協と芸協の合流などで、銀行が合併を重ねたことで、かつての銀行のどれが何になったのか、ほとんど分からなくなったような状態になることを望まない。

 現状では人数の多さのみならず、実力者の割合も落協より少ないかと思う。しかし、芸協には、沿革にあるように六代目柳橋と柳家金語楼が創設し、その後に加わった三代目柳好をはじめとする人気者の活躍で、落協を圧倒していた歴史がある。その伝統を継承して、あらためて芸協主催の寄席に客を呼び寄せることに努めて欲しい。

 江戸の昔に数多くあった定席寄席は、東京でたった四つになってしまった。そして、それらの寄席も決して経営状態が万全とは思えない。しかし、席亭達は頑張っているように思う。その席亭達が他の流派との相乗りを勧めるような発言をしなくなるようにするには、客を呼ぶための“企業努力”をする必要がある。もし、旧態依然とした、単なる寄合に毛の生えた組織としてしか認識せず、傘下の芸人の売込みにも特段工夫や努力をしないなら、落協との差は、広がるばかりだろう。

 本来は「古典の落協」、「新作の芸協」という謳い文句があった。理事には柳昇の弟子昇太も名を連ねている。SWAが解散した今、昇太が芸協にとってどんな役割を果たすか、それが鍵を握っているような気がする。
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by kogotokoubei | 2012-01-27 13:15 | 落語芸術協会 | Comments(6)
古今亭志ん輔の“オフィシャルブログ”と銘打たれた「日々是凡日」は、ほぼ毎日楽しく読んでいる。
 
 現役の噺家さんの日常を、同時進行に近い日記風で淡々と飾りなく記録し、その時々の心情をあけすけに(と思えるほど)吐露しているブログは、他に見当たらない。書籍化の企画が先にあって書き始めたようだが、ブログとしても十分に読み応えがある。

 昨24日は、次のような内容が書かれていた。古今亭志ん輔のブログ「日々是凡日」

10時 今年の演目を明確にする作業。何回も試みながら半端に挫折して来たのだがお客様からも叱られて もうこれ以上遅らせることは出来ない。
いろいろとこれ迄の演目を見ていながら気付いたことは「古今亭十八番」がないがしろにされていることだった。
今年は新しい試みと共に「古今亭十八番」と言われている噺の見直しをしてゆくことにした。
13時 二時間かかって演目の諸々はまだ決まらなかったが当面の演目は決まった。後は不備な部分を埋めるだけだ。



 「古今亭十八番」という言葉が、光って見えた。

 “ないがしろ”にされていたネタって、何だろう。そもそも、「古今亭十八番」には、どんなネタがあるだろう、と思った次第。

 志ん生および志ん朝の十八番で、他の一門が「これは古今亭の噺」と認めるだろうと思われるネタ、と解釈して並べてみることにした。ちなみに、怪談や、志ん生のみが演じた「塩原多助」シリーズなどの講釈ものは、はずして考えることとする。

・からぬけ*古今亭入門後の最初の稽古は、このネタ。柳家は「道灌」。
・火焔太鼓
・黄金餅
・幾代餅
・柳田格之進
・井戸の茶碗
・抜け雀
・おかめ団子
・替り目
・鮑のし
・搗屋幸兵衛
・疝気の虫
・宋珉の滝

 このあたりは、まず異論なく“古今亭十八番”に入りそうな気がする。

悩ましいのが、次の二席。

・元犬
・お見立て

 志ん生も志ん朝も演じていたし、今も一門の噺家さんは高座でかけるが、これを“古今亭のネタ”と言っていいのかは、やや疑問。「元犬」は、私にとっては八代目春風亭柳枝のネタ、という思いが強い。「お見立て」については、六代目の柳橋も十八番にしていたようなので、こちらも“古今亭ネタ”と言い切るのは無理がありそうだ。

 もちろん、他の落語愛好家の方から、追加や修正のご意見もあろうかと思うので、コメントをいただければ幸いです。

 さて、志ん輔は、どの噺を指して“ないがしろ”にしていたと思ったのか・・・・・・。

 こういうことを書いてくれるので、このブログを見るのが日課になってしまうのだ^^
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by kogotokoubei | 2012-01-25 14:47 | 噺家のブログ | Comments(7)
今日1月23日は、旧暦(太陰太陽暦)では元旦である。中国を含む中華圏や韓国では「春節」ということで、新暦(グレゴリオ暦)の正月よりも、盛大な新年のお祝いをし、企業や学校もお休みになる。

 日本では、横浜や神戸の中華街を除き、春節を一般市民が祝うことは今日では皆無と言ってよいだろう。

 「女郎の誠と四角い卵、あれば晦日に月が出る」-遊郭を舞台にする落語のマクラなどで使われるネタだが、「晦日に月は出ない」のは、あくまで旧暦だから。
 明治五年に新暦に替えて以来、日本人は旧暦だからこそ分かる生活習慣や文化を、忘れてしまったようだ。21日の土曜は二十四節気の「大寒」だったが、天気予報でたまに登場するこういった季節の重要な指標も、「あぁ、だから寒いはずだ!」という位で、すぐ忘れられてしまうだろう。
 
 落語に登場するさまざまな風俗や慣習は、旧暦を知らないと理解が深まらないことが多い。もちろん、暦に関係なく、昔あったものが今日なくなったものも多い。かろうじて、落語は“旧き良き時代”のことを伝えてくれる貴重な芸能である。「単なるノスタルジーだ!」と言われても結構、私は江戸や旧暦の時代が好きなのだ。

 つい最近、近所の寿司屋に行ったところ、お通しに「白魚」が酢醤油で供された。結構大ぶりのもので上手かった。店の主に聞いたところ、宍道湖産とのこと。もう、“隅田川の白魚”は、食べられる時代ではなくなった。関東近隣の白魚なら、霞ヶ浦か銚子産、ということになるようだ。遠くは網走、いずれも“冬”の味覚。実は昔の江戸では、隅田川を上る白魚は春を告げる魚だった。俳句の季語でも、白魚は“初春”である。

 “白魚”と聞くと、どうしても桂三木助の『芝浜』のマクラを思い出す。昨日が旧暦の大晦日、本来なら、このネタは、“旬”なのである。
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安藤鶴夫著『三木助歳時記』(河出文庫)

 あのマクラの由来について、安藤鶴夫著『三木助歳時記』から少し長くなるが引用したい。
 
 芸術祭参加の三越落語会に「芝浜の皮財布」をかけることを決め稽古に励んだ三木助が、近藤亀雄宅を訪ねたシーンから。この“近藤亀雄”(こんかめ)が著者安藤鶴夫のことである。

 ひとつ、落語を稽古すると、きっと、近藤に聞いてもらった。
 近藤は、そんな時、茶を運ばせると、うちの者に、二階へは上がるな、と、ひと払いをして、三木助と、ふたり切りになった。
 かみさんに、一ッ時、時をまちがえて、早く、起こされて、魚勝が、芝の浜へ、魚の買い出しにくる。
 まだ、まっくらで、浜には、人ッ子ひとり、いない。ぶつぶつ、文句をいいながら、砂ッ浜に、盤台をおろしたところである。
 三木助の大きな鼻に、うっすら、汗がにじんでいる。
「ちょいとごめん」
 近藤が、立って、庭の方の、硝子障子をあけたら、さわやかな風が入ってきた。
 そのあいだに、三木助は、きちんと畳んだ高座手拭いで、鼻の頭の汗を拭っていた。
「三木さん、苦労したね」
 まだ、<芝浜>を聞いている途中なので、いいわるいなんか、いわないつもりでいたのに、近藤は、つい、そんな、ほめる調子になった。
「へ」
 少し笑い顔で、あと、ひどく、きびしい顔で、ひとことだけ、そういった。
 三木助の、真向かいに、またすわって、鉛筆と紙を、膝の上に置いて、すぐ、メモの出来る用意をして、
「どうぞ」
 と、かるく、こんかめが、頭をさげた。
「へ」
 もういちど、そういってから、三木助が、
「お願い致します」
 と、これも、頭をさげた。
「ええ、こうやって、浜へ、盤台をおろしまして・・・・・・」
 と、これは、三木助自身の声で、そっくり、もういちど、さっきとおなじ動きをしてみせて、
「ああ、磯ッくせぇにおいだ」
 と、こんどは、すうッ、と、<芝浜>の、落語の中の、魚勝になって、少し、鼻をむずむずさせてから、ひとつ、大きく吸ってみせると、
「このにおいを、ひさしくかがなかったンだからな。ああ、たまらねぇや、こいつがかぎたくって、この商売(しょうべえ)ンなったンだからな」
 (中 略)
「あ、赤みが射してきやがった、赤みッていうより、黄いろだな、あ、そうじゃァねぇ、橙だ、橙色だ、おや?どす黒いとこもあるよ・・・・・・いい色だなァ、お、おてんとさまだ、おてんとさまが出ておいでなすった」
 ふたつ、拍手を打って、鼻の前で、合掌したまンま、
「へい、今日から、商ぇに出ます、お頼ン申します」
 江戸ッ子の、生一本で、さっくりした、棒手振りの魚屋が、そんな短いことばで、あざやかにあらわされる。
 そんな、しらしらあけの、朝の空の描写だって、いままで、こんかめが聞いていた<芝浜>にはない。魚屋の、ぞんざいな、べらんめぇ口調を使いながら、みるみる、刻々に変わっていく、日の出直前の、色の変化がとらえられている。
 近藤は、そういういいかたは、きらいなのだけれど、三木助の、そういうとらえかたというか、そういう三木助の芸を、まるで、文学みたいだな、と、感心する。


 
 この後も三木助の“こんかめ”を目の前にした稽古は続く。サゲまで聞いてからの部分。

 いつもだと、すぐ、いいとか、わるいとかいうのだけれど、突然、近藤は、
「ダメを出します」
 と、いった。
「へ」
 三木助が、すぐ、膝の脇のとこに書いてあった、ちいさなメモ帳を、膝の前に置いて、細い鉛筆を持つと、ぺたッ、と、腹這いみたいなかッこで、
「へい、お願い申します」
 と、下から、近藤の顔をみ上げた。
「まず、マクラ、すばらしいねぇ」
 と、いつもの、振りしぼるような、力の入った、大きな声になった。
 (中 略)
「あのね、マクラで、あんまり売りこむとね、なんかこう、ひけらかしてるようになりがちでね、そこがむずかしいンだろうけど、三木さん、いいねぇ、このマクラ。さらっとしていて、しかも、じつに鮮明だね、誰か、こんなマクラ使っている落語家(はなしか)さんいたの?」
 笑い顔になって、
「いえ、あたくしがね、人形町にくすぶってました時にね、朝湯で、土地のおとしよりに、白魚の話をうかがいましてね」
「ほう、なるほど、それを使った?」
「へぇ、いえ、いつか、なんかで使わしてもらおうと思いましてね」
「じゃァ、長いあいだ、大事にあっためていた?」
「へぇ、べつに、長いあいだということもありませんけど、ほんとうは、使いたくって使いたくって、なンかの落語に使ッちゃおうかなと、いえ、ずいぶん、そう思ったンですが」
 もういちど、笑った顔で、
「こらえたンです、そうしたら、<芝浜>がやりたくなっってきて、考えたら、あ、そうだ、これ<芝浜>のマクラだ、そう思いましてね」



 三木助が“人形町でくすぶって”いた時分の朝湯のシーンは、上記の部分よりずいぶん前の章で書かれている。当時、三木助は、橘ノ圓(まどか)を名乗っていた。

「あれ、二月から、三、四と、ちょうど、いまごろまででしたな、白魚を売りにきたンだから、いえ、やっぱり、いいご時勢でいたな」
 ちょっと、笑ったような、やさしい顔になって、湯の中に浮いている両手を、左右に動かして、泳ぐようなかッこをした。
 彫金師で、花瓶だの、香炉を彫らしたら、大観音の、彫勝で通るひとである。
 人形町の、大観音の路地を入って、すぐの、粋な格子戸の入ったうちで、このごろ、時どき、三味線が聞こえてくるのは、戦後、かみさんが、小唄を教えはじめたからである。
 七十を過ぎた老人だが、歯切れがよくって、きびきびしていて、そんな年には、思えない。
 このあたり、そこで生まれて、そこで育って、そこで、いま、生きている、生え抜きの土地っこが多く、人形町界隈、こんどの戦争で、見事に、焼け残した。
「堀場から、小船町、芳町、小網町、それに蠣殻町ねえ、つまり、この人形町のまわりに白魚を売りにきましてね。そうです、あれ、大橋の白売っていましたッけ」
 圓も、おなじように、朝湯の、湯ぶねの中に、彫勝と顔を浮かべて、
「へえへえ」 
 と、二どずつ、返事をしては、いいな、これ、なんかで、使えそうだな、これァいいネタになりそうだな、と、考えながら、聞いている。
「白魚を売りにくると、東京も、そろそろ、春ンなってきましてね。いいえ、春といったって、そうですね、春浅しとでもいうンでしょうかね、白魚という売り声が、こう、いかにも、生き生きしてましてね、水の中を、なんかこう、つゥッ、つゥッ・・・・・・」
 と、湯の中で、その手つきをしているのが、圓にも、みえて、
「とね、泳いででもいるように、そんなふうに、売り声が聞こえましたな」
 圓が、思わず、にこにこいして、
「よござんしたな」
 と、いうと、すぐに受けて、
「ええ、よござんした」
 (中 略)
「白魚っていやァ、あたくし、いちど、あれ、おもしろいたべかたッてえのかな、のみかたッてえますかね・・・・・・」
 と、圓が、ちょっと、首をひねって、
「お客さまに、おもしろいことを、さしていただきましてね」
 桑名であった。朝の、まだ、しらしらあけに、大きな川のみえる、汚い漁師のうちへ連れていかれた。つい、さっきまで、花札をいじっていたので、桑名の、二月の朝の風が、きりッ、と、つめたくって、いっぺんに、目がさめた。
 大きな茶碗に、徳利が、一本、中年の漁師が、盆にのせて持ってきた。と、茶碗の中に、三尾(さんびき)、白魚が入っている。案内してくれた客が、その茶碗の中に、ちょんと、ひとッたらし、醤油を落とした。
 それから、どうするのかと思ってみていると、こんどは、茶碗の中に、酒をついだ。
 徳利を置いて、急いで、右手を、耳たぶのところに持っていった。そんな、煮え燗である。
 白魚と一緒に、のむのだといわれた。
 おなじようにしてから、改めて、茶碗の中をのぞいていたら、いまのいままで、生きて、踊っていた白魚が、ほんの少し、赤みがさしたようにみえて、
「白魚がね、いえ、酔っぱらったのかと思いました」
「ほう、それァ・・・・・・」
「へえ、なんとも、あれ、忘れられません」
 と、圓も、彫勝も、また、おなじように、そろって、湯ぶねの中で、うっすら、目を細めて、さも、おいしそうな顔をしたが、
「そうそう、そういえば・・・・・・」
 と、彫勝が、湯ぶねの中で、立って、
「ほら、あの、芭蕉の、明(あけ)ぼのやしら魚しろきこと一寸という句、あれ、たしか、あれ桑名ですぜ」
 と、ちょっと考えて、
「そうですよ、桑名から、ちょいと東のね、浜の地蔵堂でつくった句ですよ」
 圓も、立って、
「そうですか、へええ、芭蕉てえひと、桑名で、白魚の句をつくってますか」



 三木助『芝浜』には、近藤(アンツル)が演出で知恵を出した部分もいくつかある。例えば、芝の朝の情景に帆かけ船を加えることや、財布を拾って慌てて帰ってきた魚勝を迎える女房の仕草など。
 しかし、あのマクラは、引用した文が物語るように、三木助オリジナルである。かつて人形町の朝湯で、彫勝から聞いた昔の江戸情緒あふれる隅田川の白魚の話、そして三木助の桑名での経験などが土台となっている。

 『芝浜』については、昨年末、いろいろな方のブログで話題になることが多かった。
 数ある江戸落語の中で、果たしてこの噺は、それ程もてはやされるようなネタなのか、という指摘も多かったように思う。また、そんなにおもしろい噺か、という問題指摘もあった。たしかに、評価が難しい噺なのかもしれない。
 このネタを特別視し過ぎて、“凄い”ネタだ、と持ち上げれば持ち上げるほど、「そんな大したネタではないだろう?」という意見が出るのも分からないではない。本来の落語の持つ可笑しさを盛り込む部分が多いとは言えない。かと言って“人情噺”かと言うと、あの“サゲ”があるので、厳密に言うと滑稽噺の範疇に入るべきもの、という見方もある。

 「落語の『第九』だ!」という表現を聞いたことがあるが、言い得て妙だろう。年中行事的なネタかもしれない。また、そういうネタがあって良いと思う。いわば、年末の恒例行事的なネタとして、楽しめればいいわけだろう。

 すでに評価が定着した三木助の音源や、人によっては談志の高座と現役の噺家の内容を比較したとたん、ガックリして複雑な心境を抱かざるを得ない、そういう噺なのかと思う。それだけ、三木助(ならびに談志の)『芝浜』の存在感は強いものがある、ということだろう。

 三木助の演出に対しては、古今亭を中心に早朝の芝の浜での情景を割愛することもある。噺家によって、どこにヤマを持ってくるかは、他のネタと同様に個性が反映されて結構だと思う。談志は、魚家の女房に独自の解釈と演出をほどこした。それも、人それぞれに評価は分かれると思う。最後は、聞く側の好みになる。

 私の場合は、どの人の『芝浜』を聞いても、やはり三木助の音源と比べてしまい、“三木助にはかなわない”、と思ってしまう。それは、多分にマクラの素晴らしさが影響している。紹介した彫勝から得た風物詩としての隅田川の白魚の思い出話や、「佃育ちの白魚さえも、花に浮かれて隅田川」という都都逸なども効果的に挟まれ、また、川で白魚を掬った時の仕草によって、野暮な客をいたぶる船頭のネタなども含め、このマクラだけでも一席の秀逸な芸だと思っている。

 旧暦の大晦日の夜にこの本をあらためて読み出したら、ついつい読み続けているうちに、寝るのが遅くなってしまった。それは、今や食べらない隅田川の白魚への郷愁もあったかもしれないし、小学生時代に銭湯に行って、人形町の彫勝のような物識り爺さんの語る懐かしい昔話を思い出したからかもしれない。

 この春節のご馳走として、マグロは中国の人も食べるかもしれない。しかし、春の訪れとして“白魚”を愛でることができるのは、きっと日本人だけであろう。あくまで独断だが、そう思うと、なおさら、あのマクラが聞きたくなるのだ。
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by kogotokoubei | 2012-01-23 20:13 | 落語の本 | Comments(4)
 学生時代を関西で過ごしたこともあるが、私は関西弁(大阪も京都も、神戸も)への抵抗はないし、江戸(東京)落語も上方落語も、どちらも好きだ。
 米朝や枝雀、吉朝の音源は常に携帯音楽プレーヤーに入っているし、落語仲間にも恵まれて、最近も雀々や米二の高座を楽しんでいる。

 しかし、一部の評論家を含め、東京の落語愛好家の中には、聞かず嫌いを含め、上方落語に理解を示さない人も少なくない。

 矢野誠一さんと俳句仲間でもあった江國滋さんは、今では娘さんの方が有名かと思うが、落語の目利きとしては私にとって重要な指南番であった。そして、彼の落語への愛着は、東京とか上方とかの垣根を越えている。

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 江國滋著『落語無学』 
 江國滋さんの落語エッセイ三部作の一つを読み返してみて、江國さんという人が江戸落語にも上方落語にも偏見なく幅広い愛情を注いでいたこと、そして的確な鑑識眼を持っていたことを、再確認した。

 この三部作とは、発表順に『落語手帖』(初版は昭和36年普通社刊)、『落語美学』(初版は昭和40年東京書房刊)、そして『落語無学』(初版は昭和44年東京書房刊)である。三冊とも、その後旺文社文庫で再刊され、平成になって、ちくま文庫に三冊が揃った。入手しやすくなったのが、非常にうれしい三冊である。

 ちなみに私は、この『落語無学』を、数年前に古書店で購入した旺文社文庫で読んでいる。私は、江國さんのエッセイを読むたびに、「その通り!」と相槌を打つことが多いのだが、まさにこの本を再読して、何度か“膝を打った”ので、少し痛い^^

 本書の「上方落語の魅力と特色」から引用したい。

 米朝が、はじめて東京で独演会を開いたときのこと。「桂米朝・上方落語の会」と大書したスマートなポスターが刷り上がって、都内のプレイガイドにくばりにいった主催者のY氏に、窓口嬢が問うたそうだ。
「桂米朝ドカタ落語会・・・・・・土方落語ってなァに?」
 いわれてみれば「上方」と「土方」は字面が似ているし、シャンソン歌手が「ヨイトマケの唄」をひっさげてリサイタルを開いた例もあることだし、だから土方落語会があったって、べつに悪くはないが、それにしても、プレイガイドのお嬢さん、つまり興行の専門家が、読むにことかいてドカタ落語とは、そりゃあんまりな、と上方落語のために悲憤慷慨したことをおぼえている。


 この「ドカタ落語会」のエピソードは以前に米朝のことを書いた際にも紹介した。
2009年12月7日のブログ

 この会を主催したY氏とは、矢野誠一さんである。第一回は、昭和42(1967)年5月2日に紀伊國屋ホールで開催された
 この後で江國さんは、次のように、「あれから二年あまりたった」と書いているから、この稿は本書の初版発行の昭和44年に書かれたのだろう。

 あれから二年あまりたった。その間に、米朝独演会や東西交流落語会などの好企画が何度も催されて、東京人のあいだにも、ようやく上方落語のおもしろさが浸透しはじめてきたが、それでもまだ、落語といえば、威勢のいい八っあん熊さんが活躍する江戸前にかぎると仰せのむきが少なくない。その人たちが、これぞ落語の真髄だと思いこんでいる江戸前落語も、多くは上方ダネを東京へ移植したものであり、上方落語はいわば落語の本家なのである。
 その上方落語の魅力と特色は、集約すると次の諸点にしぼられよう。
 第一に、当然のことながら、上方弁そのものの味わいとリズム。同じ内容を喋っても、江戸言葉にくらべるとはるかにアクセントが強く、さまざまな効果を発揮している。
 同時に、上方特有のどぎつさがよくも悪くも上方落語の色彩を濃厚にしている。とくに「ジタジタと音がする」とか「ワチャワチャと若い女の声」とか「チャイチャイお歩き」といった擬声語が随所にちりばめられていることが第二の特色で、これが、一種独特の雰囲気を出している。
 第三にスケールの大きさ。鴻池の本宅でお客をもてなすために『須磨の浦風』や、奇想天外なSF大長編『地獄八景亡者の戯れ』など、とにかく発想のすこぶる非凡な噺が多いのである。三途の川をふりだしに、死者の地獄めぐりをえがいた『地獄八景』のスケールの大きな笑いの前には、東京落語のこざかしい笑いは顔色ない。そうして、この噺にはむやみに大便、小便、屁が出てくる。だが、本来尾篭な固体、液体、気体を扱って、しかも不潔感をあたえないところは、ラブレーの「パンタグリュエル物語」に比肩する、というのはおおげさだとしても、ふと、ゴーロワ的笑いを思わせることはたしかだ。


 『地獄八景』は説明の必要がないだろうが、『須磨の浦風』は、なかなか今では聞く機会がない。たぶん小春団治くらいしか高座でかけていないはず。しかし、まだ聞いたことはない。どんな噺かというと、夏の暑いさかりに大阪の大店である鴻池に紀州の殿さんが来るということで、殿さんをもてなすため、涼しい風の吹くことで有名な須磨の浦の風を葛(つづら)に閉じ込めて客に喜んでもらおうと考えた。しかし、使用人が葛に風を閉じ込めて屋敷に帰る途中、あまりの暑さにたまらずに葛を開けてしまい、風のかわりに屁を入れてしまう、という噺。
 “ゴーロワ”とは、「ガリア戦記」の「ガリア」がなまったものなので、“ゴーロワ的”とは、昔話風の「未開の地」への冒険譚、英雄譚のような噺、ということかと思う。『地獄八景』は、たしかにそういった趣のあるスケールの大きな噺と言えるだろう。
 本書は次のように続く。

 気宇壮大で、風流の極ともいうべき『須磨の浦風』で、さわやかな涼風をえがいたかと思うと次の瞬間には、おならを詰めるという、そこのところがおかしい。つまり、美と醜の極端な同居、それが第四の特色である。たとえば、米朝所演の『愛宕山』では、
「なんし、春のさかりでございまして、空にはひばりがさえずり、野には陽炎がもえ、レンゲ、タンポポが咲き、麦は青々と、菜種の花ざかりでございます」
 といった地の文章で、うららかな田園風景が描写され、その菜種畑で幇間の一八が蝶々をとりはじめる。春風の感触や、土の匂いや、花の色彩までがあざやかに客席に伝わる次の一瞬、蝶はひらひらと逃げ出し、主人公がグッシャリと馬糞をつかんで「うわァきたなッ」と叫ぶ、その破調のおかしみに、上方落語の笑いの特質が凝結している。


 ちなみに、東京落語の『愛宕山』には、「空にはひばりがさえずり、野には陽炎がもえ、レンゲ、タンポポが咲き、麦は青々と、菜種の花ざかりでございます」の場面は、ない。桂文楽が芸の師匠である三代目三遊亭円馬から伝承されたこの噺を演出する上で、この場面の“明”に対する“暗”の「馬糞」の登場を好ましく思わなかったのではないかと察する。
 この後には、昨年三代目(春団治)の高座を堪能した『お玉牛』の演出のことなどが書かれているが、この本をこれから読む人のために、引用は我慢しておこう。

 さて、四つまで特色が指摘されたが、江國さんが五つ目にあげるのは、何か。上方落語にお詳しい方は、察することができる、“あれ”である。

 第五の特徴は“ハメもの”と呼ばれる鳴物入りの演出。噺の途中にいれることによって、雰囲気をもりあげたり、場面転換のおもしろさを強調したりするわけだが、なかには『たちきれ線香』(東京落語名『たちきり』)のように、鳴物そのものがストーリーに密接な関係をもち、これがなかったら物語を構成しないというものさえある。



 上方落語の“魅力”、そして“特色”は、この江國さんの指摘で網羅されていると思う。

 上方落語の、やや大袈裟な身振り手振り、そしてあの関西弁に抵抗を持つ東京、関東、東日本の人が少なくないと思う。私も最初に関西で暮らし始めた時は、なんとも厭な思いをした。しかし、それは、「食わず嫌い」とでも言うもので、慣れてしまえば、関西の風土はなんとも私にとって居心地の良いものに変わってきた。
 東日本の上方落語に抵抗のある方も、ぜひ、その楽しさを味わっていただきたい。

 落語のルーツとも言える上方落語の楽しさを知ることで、落語を聞く喜びは一挙に広がるということを、あえて指摘したい。残念ながら、今日の東京にいる落語評論家と言える方々で、江國さんのような“大人”の鑑識眼で落語を語る人が少なすぎるように思う。だからこそ、少し長くなったが、この名著から引用した次第である。最後に次の指摘を付け加えたい。

 よく、江戸落語と上方落語を、粋と野暮で対比する論を耳にするが、この比較は当を得たものではない。上方落語も粋であり、洗練された世界なのである。また、江戸落語は論理的で、上方落語は非論理的なストーリーが多いという説も錯覚だ。
 (中 略)
 東西の落語を対比させて、これを対立的に論じることはナンセンスだと思う。東西ともに、すぐれた落語は洗練され、計算しつくされたよさをもっている。しいて対比させるとしたら、江戸落語の「間(ま)の芸」に対して、上方落語は「饒舌の芸」といえば、いえるかもしれない。



 こういう文章を読んだ時に私は、「まったく、その通り!」と膝を打つのだ。今日の落語評論家と言われる方々に、ぜひ読んで欲しい本でもある。

 「上方落語も、よろしおまっせ!」
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by kogotokoubei | 2012-01-21 08:56 | 上方落語 | Comments(6)
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KAWADE夢ムック・文藝別冊 総特集 小沢昭一
 『幕末太陽傳』で“貸本屋の金造”に扮した小沢昭一のことが気になっていたので、本棚からこの本を取り出してみた。
 一昨年発行の本で、小沢昭一に関してこれまでさまざまな本や雑誌に書かれたものや対談などを収録し、写真と一緒に編集された、“ムック”である。

「前口上」として、本人が書いているので、少し引用。

 ひと様が、私メのことをあれこれ書いて下さった文章ばかりを、集めて下さいました。
 恐縮しております。文字どおり、恐れ縮むのでありまして、「恐縮」は辞書では「相手の厚意に対して申しわけなく思うこと」とあります。
 (中 略)
 人間、八十路に入りますと、クソ爺ィ、であると同時に、子供にも帰ってゆく面もある様で、間もなく、地獄極楽、どちらかへ行くのでしょうが、もし地獄へ行くことがあれば、私、閻魔様にこの本を見せて、お仕置を少しでも軽くしてもらおうと思っております。
 何はさて、書いて下さった皆々様に、改めて三拝九拝。本当にありがとうございました。
  2010年 夏
                                   小沢昭一敬白


 なんとも、小沢昭一らしい“まえがき”である。

 巻末にある略年譜から、ほんの一部をご紹介。
-------------------------------------------------------------------------
1929年(昭和4年) 0歳
四月六日、東京府豊多摩郡和田堀町大字和泉(現・京王線代田橋付近)に生れる。


1936年(昭和11年) 七歳
小学校入学。この頃からラジオで落語や漫才を聞くようになる。


1945年(総和20年) 十六歳
海軍兵学校第78期生(予科)として長崎で入校も、終戦のために退校。麻布中学四年に復学。

1946年(昭和21年) 十七歳
生徒からの発案でやった「芸能祭」をきっかけに演劇に興味をもち、加藤武、大西信行
らと演劇部をつくる。久保田万太郎作『ふくろうと子供』、山本有三作『盲目の弟』など
を上演、また機関誌『あさのは』を刊行。高座研究の「末廣会」に加入。顧問の正岡容に
私淑する。
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 小沢昭一は、ラジオで落語や漫才を楽しむ少年時代を過ごしながら、そのうち太平洋戦争が勃発。一度は、お国のために海軍兵学校に入校したが終戦。戦後すぐに演劇や、落語への情熱が舞い戻ってきたようである。その後、早稲田に在学中、二十歳の時に俳優座付属俳優養成所に二期生として入所する。映画への出演は二十四歳、『広場の孤独』(佐分利信監督、新東宝)が最初。

 川島雄三作品には、昭和30年に二十六歳で『愛のお荷物』、『幕末太陽伝』の前年の昭和31年にも、『洲崎パラダイス・赤信号』、『わが町』に出演している。

 本書に、『キネマ旬報』1977年1月号の藤本義一との対談が収録されているのだが、川島雄三について、そして『幕末太陽傳』などについて語られている部分を引用したい。

藤本 今日、小沢さんに会ってお聞きしようと思っていたのですが。『雁の寺』の冒頭に出ておられたでしょう。あのときのセリフ
   は、ちゃんと脚本(ホン)にあったんですか。
小沢 なかったと思いますね。「『雁の寺』大映行って撮る。お前出る」って言われただけなんです。
藤本 僕も、そのとき手伝いに来いといわれたんですが、何かの都合で行けなかった。
小沢 僕の記憶もさだかではありませんが、たぶん現場でもらったんじゃないかと思います。どういうわけか、大体僕はあの組では、脚本にはないけれど、ただ行って何かやる、そういう性質の役が多かったものですから、別に奇異にも感じませんでした。一本が終っても、どこかでまた何かをやる。それで、最後に「出ます」といっておかなければ、あの方は機嫌が悪くなるんです。
   (中 略)
   『雁の寺』のときもあたふたと半日くらい、京都の大映に行って撮った記憶があります。
藤本 何か手に棒を持って・・・・・・。
小沢 ええ。「今は雁の寺も観光寺になった。のちのちのなまぐさの若い住職が、ゼニを稼ぐために、ろくでもない品物を、ただいわくありげに説明しておる」というような。監督にしてみれば、あの発想は『幕末太陽傳』のときからやりたかったものなんです。『幕末太陽傳』のラストは、フランキー堺が合成の富士山の手前を海沿いにどこまでも走って消えていくシーンだったんですが、川島さんとしては本当は、全部の登場人物が昭和の品川の赤線の両側に、現代服で揃っていて、「ちょいとお兄さん」というふうにして、そこをフランキー堺だけがチョンマゲ姿で駆け抜けていくようなシーンにしたかったんです。撮影が三分の一くらいすすんだところで、「・・・・・・それをやります」ってなことを言っていました。ところが役者が集まらないんですよ、もう。監督は全員揃えたかったんですが、みんな散ってしまって、チーフの今村昌平さんが、あたふたと役者のスケジュール洗いをやったけど、結局、できなかった。監督はえらく御不満だったですね。僕自身も、ラスト・シーンをそうすれば、また一段と冴えた作品になったんじゃないかと思います。その手を使ったのが『雁の寺』だと思いますが、うまくいかなかったんですね。


 これを読んで、先日『幕末太陽傳』のラスト・シーンについて書いたことを訂正しなければならない。スタッフが反対したのではなく、役者が揃わなかったことが、川島雄三が望んだ“現代へのタイムスリップ”でのラスト・シーンが実現しなかった原因だったようだ。お詫びして訂正します。

 もし、役者を揃えることが出来て、昭和32年の品川遊郭のシーンを佐平次がチョンマゲの旅姿で歩き、彼の周囲にそれぞれの出演者が洋服を着て登場し、遊郭から左幸子と南田洋子があでやかなドレス姿で佐平次を誘っている光景がラストシーンだったら、たしかにインパクトがあっただろうなぁ。

 さて、この後に、次のような興味深い会話が続く。
藤本 あの監督は、落語をどうとらえていたんですかね。
小沢 落語は好きだったです。江戸っ子ではないけれど、江戸落語の好きな人で、多分、異国情緒として落語をとらえていたのではないか、という気がするんですけど。
藤本 オランダ漫才みたいなもので。よくわかりますな(笑)
小沢 川島さんについていつも思い出すことがあるんです。川島さんと今村昌平さんと僕の三人で、あるバーの止まり木で飲んでいたことがあるんです。その頃、今村さんは東北に興味を抱き始め、だんだん傾斜していって、恐山の巫子は今村昌平にとって、好奇心の対象になっていたときです。ご存知のように川島さんは恐山のすぐそばの生まれ育ちですから、今村昌平が恐山にふれると、言下に「あんなものは何もありません」。東北には文化なぞはない、というような意味でもあったですけど。非常に不愉快そうな顔をして、自分の一番弟子を叱咤するというような鋭さがあって、僕は傍にいてちょっとギクッとしたんです。そういう鋭い口調で今村昌平の東北指向をたしなめたんですね。あのとき僕はしみじみと、陸奥の川島雄三が、都会風俗を描かせれば、銀座の女を描かせれば、並みいる監督の中で何たって一番うまいし、東京で生まれて東京で育った今村昌平が、一生懸命東北を珍しがっている、その何ともいえずむだな努力は、そばにいて不思議なものだと思いました。人間の好奇心という奴は、無いものに憬れるものなのか、と。


 私は北海道の田舎町の出身だし、連れ合いが雪国越後の出身である。そして二人とも故郷を離れて生活しているわけだ。青森出身の川島が抱く東京への憧れは、分かる気がする。自分の選んだ道を歩むには、必ずしも故郷がふさわしい環境を提供してはくれない。もちろん、生れた土地で、親の近くで生活することができれば、それは結構なことだろうが、なかなかそうも行かない。
 私は大学入学から故郷を離れ、中学の先生が修学旅行に行く際、「しょっぱい川を渡るぞ」と言った、“しょっぱい川”津軽海峡を渡った。それ以来、故郷はたまの休みに帰る場所であり、生活する場所ではなくなった。そういう故郷を離れた人間にとっては、現在を肯定する心理も働くから、誰かと酒でも飲んで故郷について語る時など、「自然はあるけど、働く場所はないですよ」などと、つい言ってしまう。川島が「何もありません」と語るニュアンスとは、もちろん違うのだが、一度故郷を自分の生活のホームグラウンドとしなくなった人間の、やや屈折した思いという意味では、分かる気がする。たしかに、小沢昭一が語るように、「無いもの」への“憧れ”は誰しも持つだろう。
 私の故郷は北海道の中では暖かい地域とはいえ、冬や雪、寒さにはほとんど良い記憶がない。体育の授業で雪上サッカーをした後、濡れてしびれた足を引きずりながら、顔を上げることのできない横殴りの雪嵐に頭を下げたままで歩いて家に帰るのが、私にとっての冬なのであった。家の中は汗をかくほどストーブを焚くとは言え、とにかく暖かい場所で暮らしたかった。東北や北海道、雪国越後などの人にとって、冬や雪は、ただ耐える季節という記憶が強いはずだ。

 川島雄三にとって、東京人の今村が恐山に興味を抱くことに対し抱いた感慨は、分からなくもない。私が学生時代に実家へ帰る時、なかなか取れないチケットをなんとか確保し、飛行機や電車で移動中、東京や関西からの観光客が機内、車内でワイワイ浮かれて騒いでいるのを見て抱いた感慨(「お前達は遊びに来ているだけだから、北国に住んでいる人の苦労など、絶対分からない・・・・・・。」といった思い)に、似ていなくもないと思う。

 少し話が逸れたようだが、本書を読んで川島雄三という東北出身の稀代の映画人に、同じ北の国の出身者として共感を抱いた次第である。そして、『幕末太陽傳』の出演者で今もご健在な小沢昭一という名優には、まだまだ語り残し、書き残してもらうものがあるだろう、と強く思うのだ。
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by kogotokoubei | 2012-01-15 15:37 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(4)
通算156回目らしい。我が家から近い会場での地域落語会。この二人で前売り700円、当日でも800円という、信じられない木戸銭だが、決して出演者は手を抜くことがない。今回も、結構なネタを二席づつ披露してくれた。

 約400席かと思しき会場は、ほぼ満席。私が来た会では、最多の入りである。

 次のような構成だった。日本舞踊が挟まれるのは、非常に珍しいと思う。
--------------------------------
(開口一番 柳亭市也『出来心』)
柳家喜多八『笠碁』
瀧川鯉昇 『時そば』
(仲入り)
柳家喜多八『短命』
藤間龍玉 日本舞踊
瀧川鯉昇 『味噌蔵』
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柳亭市也『出来心』 (14:01-14:15)
 どうしても、この人には小言が多くなる。昨年10月のこの落語会(扇辰・菊志ん)以来だが、もしかすると、だんだん悪くなるような、そんな気がする。とにかく“滑舌”が悪い。しばしば“噛む”が、それはまだ許せる。肝腎な科白がしっかり伝わらないのは、致命的である。まだまだ精進が必要だろう。

柳家喜多八『笠碁』 (14:16-14:46)
 マクラは初席のこと、昨日も明後日も鯉昇と一緒、ということなどに続き、「素人さんでも上手い人はいる」「我々は、力が抜けたところが勝負」のようなことを言っていた。この“素人さん”って、最近何かあったのだろうか・・・・・・。そんなマクラが約10分。
 さて、本編。この人の『笠碁』は、初めてである。柳家伝統のネタ、さてこの人はどうこなすか、そんな思いで聞いていた。
 しかし、帰宅してから、ちくま文庫の「小さん集」を確認したが、所収されている十八席の中に、このネタはない。編者飯島友治の意に沿わなかったのか、他の理由(書籍の頁数制限、など)か、理由は分からない。もしかすると小さん本人の意向だったのか、などとも思う。喜多八の師匠である小三治が『笠碁』を持ちネタにしているようにも思えない。この件はもう少し調べてみようと思う。
 さて、喜多八のこのネタ、なかなか評価が難しい。喜多八らしさは、十分に出ている。特に美濃屋(相手の「待った」を断る側)が菅笠をさして碁敵の家を行きつ戻りつするところなど、あの“ギョロ目”での演技は楽しい。しかし、全体として、五代目小さんの醸し出すあの味わいが本寸法だとするなら、ポジティブな評価をするのは難しいかなぁ。
 ちなみに私は、この噺は先代馬生の音源が一番好きだ。だから、そのうち白酒がこのネタをかけないものか(すでに演じているか?)、と期待している。これは、まったくの余談。

瀧川鯉昇『時そば』 (14:47-15:17)
 故郷(浜松)に帰って昔の日記を見て夏休みの宿題のことを思い出した、というマクラは以前にも聞いているが、夏休み明け当日の登校の際に「自由研究」の「昆虫採集」をした、というネタは何度聞いても可笑しい。
 約12分のマクラの後の十八番ネタ。マクラで、「『時そば』のようなネタ」と自分自身で評していたが、この人の『時そば』は、進化(変化?)し続けている。どんなところが以前聞いた内容と違っているか。ちょっとだけネタバレだが、書くことにする。
・最初の蕎麦屋「当たり屋」の主人、座間出身(日本人)の母とイスラム系の父の、“ハーフ”
・その主人の好きな“甘味”が「ココナッツ」*もしかすると「ココナッツ・ミルク」かもしれない。
 これだけでも察しの良い方は、分かるでしょうねぇ。少し前までは、「蕎麦屋の娘の年齢」を“騙しの鍵”にしていたのに、もう変わっているのだ。
 ここで書かないわけにはいかないのは、「ココナッツ」の部分、なぜ“「ココナッツ・ミルク」かも”、と注釈が必要なのか、ということ。「ニューヨーク・フィル」の件を書いた“仕返し”なのかどうか、“当たり屋”が登場してしばらく、ちょうど午後3時に会場の後方の席で携帯が鳴ったのだ。呼び出し音ではなく、アラームなのだろう。なかなか鳴り止まないので後ろを振り向いたら、結構若い客がスマホの音を、ようやく止めていた。そんな状況だったので、この「ココナッツ」の場面、集中して聞けていないのだ。困ったものだ。
 一軒目の「当たり屋」で蕎麦を食べるシーンで、会場の前の方の席で、「上手ねぇ!」という声があった。正直な感想だろう。この人の“食べる”落語は、秀逸だ。
 二件目の蕎麦屋は、以前と同様に屋号は「ベートーベン」。その理由は、書かない。生の高座を聞いて笑ってもらわなきゃ^^
 鯉昇の十八番は、どんどん変わるので気が抜けない。「あっ、そうか、鯉昇は、それを狙っているのか!?」と、聞いてから思った次第。

柳家喜多八『短命』 (15:28-15:49)
 鯉昇の『時そば』について、少し突っ込みを入れるなどのマクラが、約7分。これまた、喜多八では初めて聞くネタ。
 この噺には感心した。大家と八五郎が、なぜ伊勢屋で三人も続けて婿が早死にするかについて問答する場面、会話を排した仕草だけの演出が結構だった。これぞ生の高座でしか味わえない“サイレント”な芸の技。このネタは、最近は桃月庵白酒が秀逸だが、言わば、白酒は“しゃべくり”の芸。喜多八は、“しゃべらない”芸、そんな印象。しかし、本編が14分と、やや短縮版と察する。今後、また聞いてみたいと思う。

藤間龍玉 日本舞踊 (15:51-15:58)
 舞台から高座を片付けてから幕が開き、何の説明もなく、日本舞踊が七分間あった。非常に良い趣向だと思ったが、ご本人も主催者からも何も説明もない。落語会では珍しいせっかくの日本舞踊、何らかの“能書き”が必要だっただろう。終演後に落語のネタと一緒に演目が貼り出されていたのかもしれないが、見てこなかった。帰宅してから記憶を元にネットで調べたかぎりでは、「鶴亀」と「木遣りくずし」だったと思う。間違っていたら、御免なさい。

瀧川鯉昇『味噌蔵』 (16:00-16:31)
 短いマクラから、このネタへ。これまた“食べる”シーン満載の十八番ネタ、はずすわけがない。
 ケチな旦那が嫁をもらう、他の噺家では珍しいプロローグをしっかり挟むのが、この人ならでは。旦那が出かけた隙に番頭以下の使用人がドンチャカ騒ぎをする場面での“食べる”“飲む”場面が秀逸だ。旦那が帰宅した後の、酔っ払った使用人たちの、しどろもどろの弁解が、何とも言えない“シュール”さで、可笑しい。
 後半少し時間を気にするように、会場の壁にある時計を見上げていたが、ほぼピッタリの30分で仕上げた、結構な高座だった。しかし、鯉昇なら、想定の範囲、とも言える。


 終演後は、相武台の駅まで散歩。この落語会も、今日の客の入りを考えると、クチコミを含めて来場者が遠方からも増えているように思う。もう“穴場”ではなくなってきたかもしれない、なとど思いながら帰途についた。
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by kogotokoubei | 2012-01-14 17:47 | 寄席・落語会 | Comments(8)
ニューヨーク・フィルの公演中、客席で鳴った携帯の音が止まず、指揮者が演奏を中断したらしい。47NEWSの該当記事

NYフィル、携帯の音で演奏中断 客席でアラーム数分鳴りやまず
【ニューヨーク共同】米ニューヨークで10日夜開かれた名門オーケストラ、ニューヨーク・フィルハーモニックのコンサートで、携帯電話のアラームとみられる音が客席で鳴りやまず、指揮者が演奏を中断するハプニングがあった。12日付のウォールストリート・ジャーナル紙などが報じた。

 同フィルが本拠地リンカーンセンターでマーラーの交響曲を演奏中、最前列の客席からマリンバをアレンジした携帯音が鳴り始め、数分続いたという。

 指揮者が携帯のスイッチを切るように注意したが、鳴りやまないため演奏を中断。最前列にいた年配の男性が切るのを確認した上で、曲の途中から演奏を再開した。
2012/01/13 06:55 【共同通信】


 もし、これがアルバムへの収録のため録音中だったら、この犯人に賠償責任が、アメリカなら発生するのだろう。いや、収録など関係なく、ニューヨーク・フィルと観客への慰謝料が発生するかな・・・・・・。

 音楽であろうが、歌舞伎、能、狂言、そして落語などの芸能であろうが、“ライブ”は演者と観客が作る「一期一会」の世界である。その、限定された「時間」と「空間」を共有する「場」である。

 落語会や寄席の場合に限って考えてみる。その高座が結構なもので、会場の笑い、拍手、歓声などが、高座内容に相応しく、また自然な反応として一体化された時、その「場」が何ともいえない幸福感に包まれる。また、そういう幸福な一体感を味わいたいがために、安くない木戸銭を払い、貴重な時間を費やすとも言えるだろう。

 だから、携帯に限らず、その「場」にふさわしくない音は、全て「ノイズ」となる。
・携帯の音(呼び出し音もバイブレーターの音も含め)
・ひそひそ話の声(例えば、ネタが分かって自慢げに連れの客に告げる馬鹿が、結構いる)
・鼾や寝息
・菓子袋などによるガサガサした音
などなど。

 私の経験では、携帯の“犯人”は高齢の方が多く、仲入り後に鳴るケースが多いように思う。開演前に会場のアナウンスなどで注意したり、開口一番の前座さんが注意することが多いので、仲入りまでに鳴ることは少ないのだが、仲入りで電源をオンにしたままオフにするのを忘れる、ということだろう。仲入り後に会場で再度注意する場合もあるが、必ずしもどの会でも行っているわけではない。本来は“野暮”かもしれないが、残念ながら、仲入り後の後半開演前にも会場で注意を徹底すべきなのだろう。

 もちろん、「マナーだろう!」「大人だろう!」「常識だろう!」とは思うが、実際に携帯が鳴ったりすると、せっかくの一体感、幸福感が台無しになりかねない。

 これを、自動車の運転に喩えてみれば、ルールを守れず、その“流れ”に乗れない運転手は、周囲の迷惑でもあり、事故が起これば相手にも自分自身にも生命の危険を与えることになる。しかし、車の運転の場合、違反することにより罰金や自分自身の怪我などのペナルティがあり得るので、高齢者の方で運転に自信のない人は、自主規制作用が働くだろう。

 だったら、落語会などでの“マナー違反者”にもペナルティを与えるべきではないか、そうすれば抑止効果があるのではないか、という発想も沸く。
 アメリカのような訴訟社会では、万が一の訴訟によるコスト負担が、ある意味で抑止効果になっているかもしれない。日本は、良くも悪くも、アメリカのような訴訟好きな国ではない。

 これは難しい問題なのだが、“携帯違反”(私が今、名付けた)にも、何らかのペナルティを考えるべきなのかもしれない。

 例えば、違反者を特定し、いわばブラックリストに載せて、その人にはチケットを販売しない、などが考えられる。しかし、例えば、たった一回の“不注意”により、その人の楽しみを奪い去ることが許されるのか否か、という論議が起こるだろうなぁ。
 会場によっては、携帯の電波がつながらない所がある。何らかのシールドによって防御しているのだろうが、コストが発生するなぁ。
 受付で携帯を預かる、という手もあるが、もし紛失した場合などは騒ぎになるだろう。管理するコストやストレスが発生する。

 最近行っていないが、喜多八、喬太郎、歌武蔵による「落語教育委員会」は、コント(寸劇?)で携帯マナーの教育活動を行っている。そういった努力も重要だろうが、この会に行った人だけを対象としているので、リーチが狭い。

 いろいろグダグダと書いてきたが、残念ながら「コレッ!」という名案が浮んだわけではない。しかし、今のままでは、“携帯違反”は減らないだろうなぁ。逆に増えるかもしれない。なぜなら老人人口は増えるばかりで、ほぼその人達は携帯を持っているだろうから・・・・・・。

 別の記事によると、他の観客は指揮者の判断を支持して拍手したとのこと。演奏していたのはマーラーの交響曲第九番。この曲のことは詳しくは知らないが傑作で有名らしい。
 
 この“犯人”が、その後どうなったのか、非常に興味が湧くところである。
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by kogotokoubei | 2012-01-13 10:56 | 幸兵衛の独り言 | Comments(8)
昨年、落語ブログ仲間のYさんの紹介で初めて参上(?)した2011年9月9日のブログが、その第二十回目の米二の会に、また駆けつけた。
会場は八割ほどの入りだろうか。関西弁の方も多い、ここだけ「上方」とでも言える“異空間”での落語会は、次のような構成だった。
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(開口一番 桂優々『動物園』)
桂米二『けんげしゃ茶屋』
(仲入り)
桂雀々『雨乞い源兵衛』
桂米二『阿弥陀池』
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桂優々『動物園』 (19:00-19:15)
 プロフィールをネットで調べたら、平成21年4月に雀々に入門した、雀々の(現状)たった一人の弟子。師匠によるこの噺は、新百合が丘の麻生市民館で2009年12月4日に開催された枝雀の「生誕70年記念落語会」で聞いて、あまりの可笑しさに驚いたことがある。2009年12月4日のブログ
 ほぼ師匠の型で演じていたが、入門四年目としては、なかなかのものだった。ただし、着物の裾の乱れは、やはり気になる。枝雀、雀々も動き回るので裾は乱れるが、こんなにだらしなくはない。そういったことも、今後の課題の一つではある。しかし、将来性はあると感じた。

桂米二『けんげしゃ茶屋』 (19:16-19:50)
 1月10日、ということで「十日戎」の出囃子で登場。なかなかオツなオープニングである。
 「けんげしゃ」というのは験(げん)を担ぐ、縁起を気にする人のこと。このネタは、師匠米朝の音源を聞いているが、“師匠譲り”の高座で、結構だった。今回もご一緒したYさんが「米朝の血をもっとも継承する正統派」、とおっしゃるのが納得できる。
 本編の冒頭で尾篭な内容が登場するので、その準備(?)ということで「気体」「液体」「半固体」のそれぞれの小噺を披露。米二を良く知るYさんによると、このネタお決まりのマクラらしい。「気体」の小噺は、他の落語家もよく使う新婚夫婦が寝ている時に、新妻が「ブゥー」と放ってしまう、という例のもの。「液体」「半固体」については・・・明かさないことにする^^
 本編は、大きなお店の旦那、村上の旦さんが、南に一軒置屋を持たせている芸者国鶴とその母親が、あまりにも「けんげしゃ」が過ぎるので、あえて縁起の悪いことを言っては、母娘が嫌がるのを見て楽しむ、という内容。このタチの悪い遊びに加担するのが又兵衛や太鼓持ちの茂八。元旦に葬式(葬礼-ソウレン-)の一行を置屋に来させるなど、とにかく村上の旦さんは洒落がきついこと。それも、落語ならではと言えよう。
 登場人物も多く、その演じ分けも難しい大きなネタと言えるが、なかなか見事だった。それほど力まない演技でありながら、会場から笑いが途切れることがなかった。さすがである。さっそく本年のマイベスト十席候補、第一号としたい。

桂雀々『雨乞い源兵衛』 (20:00-20:36)
 久しぶりの雀々。Yさんも言っていたが、しばらく東京で活動するとのこと。そこで、末広亭に客として入った時のエピソードが、大爆笑ネタだった。ある大ベテラン色物芸人さんの大神楽の“しくじり”のネタなので、ご本人の名誉のためにも名前は伏せておく。
 15分のマクラの熱演で汗だくになってから小佐田定雄さん作の本編へ。“日照り”から入るネタなので、あれだけの汗をかいたのはネタのため意図的な熱演だったのか、と思わせるほど、高座は“夏”の情景になっていた。これも、“芸”と言えよう。どうしても師匠枝雀の音源と比較してしまうので、少し雀々が可哀想ではあるが、やや雑に流れた印象はある。しかし、会場の笑いの大きさから、この人の魅力は十分に伝わったように思う。今年は、この人の高座に出会える機会が増えそうで嬉しい限り。

桂米二『阿弥陀池』 (20:38-21:01)
 一席目が大ネタであったので、東京なら『新聞記事』に該当するネタ。とは言え、上方版のほうが内容的に濃いものがあるように思う。何と言っても「日露戦争」が登場するからね。米二は、こういった短い滑稽噺であっても、なかなかの味わいで客を飽きさせない。雀々とは、好対照な力みのない高座だった。

 客演の雀々、そして米二の二席、なかなか楽しい会だった。入場時のモギリもご本人だったが、終演後もご本人が出口で客を見送る。なんとも、暖かい落語会であり、清清しい気分で新橋の夜の街へ。本年最初の「居残り会」は、常連のSさんとYさんとの三人組。楽しい落語談義で空の徳利の数が増える。もちろん(?)帰宅は日付変更線を超えた。
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by kogotokoubei | 2012-01-11 09:55 | 寄席・落語会 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛