噺の話

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カテゴリ:江戸関連( 35 )

 また、JR山手線の新駅に関連したこと。

 「高輪」という地名の由来を、ちょっと調べてみた。

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大石学著『地名で読む江戸の町』

 大石学著『地名で読む江戸の町』(PHP新書、2001年3月発行)の、「高輪」の章より。

 高輪(港区)

 赤穂浪士と泉岳寺

 高輪付近には、「高輪台」「三田台」「白金台」など、台のつく地名が多い。その名の通り、この付近は台地であった。
『新編武蔵風土記稿』によると、高輪という地名の由来は「土地往還の縄手道(なわてみち)にして頗(すこぶる)高き所なれば高輪と唱へし」とある。つまり、高台に通っていた縄手道(直線状の道)に由来するということである。「高縄手」の下の一文字が省略され、「高縄」となり、「高輪」と変わった。高輪が台地であったがゆえについた地名と言える。

 「高」い「縄手道」--->「高縄手」--->「高縄」--->「高輪」

 ということだったわけだ。
 
 引用を続ける。
 大木戸は、江戸の府内と府外を区別する門のことである。高輪大木戸は東海道の江戸の入口である。現在残っている大木戸は、ほかに甲州街道・青梅街道の入口である四谷大木戸がある。全国測量を行った伊能忠敬は、高輪大木戸を基点としたと言われる。

 大木戸のこと、そして、伊能忠敬との関係も、しっかり説明されている。

 次に、この近くの史跡といえば、あのお寺のことになる。

 港区高輪二丁目にある泉岳寺には、浅野内匠頭長矩と、吉良邸(隅田区両国)に討ち入った四十七名の浪士の墓がある。泉岳寺は徳川三代将軍家光の命により、浅野家と縁故を結んだと言われる。
 赤穂浪士は討ち入り後、四大名家に預けられ切腹した。すなわち、伊予松山藩松平隠岐守の中屋敷(港区三田、現イタリア大使館)には、大石主税ら十名、岡崎藩水野監物の中屋敷(港区芝)には、間重次郎ら九名、熊本藩細川越中守下屋敷(港区高輪)には大石内蔵助ら十七名、また長州藩毛利甲斐守上屋敷(港区六本木)には、岡嶋八十右衛門ら十名が、それぞれ預けられ切腹した。切腹の地は、いずれもこの近くであった。なお、寺坂吉右衛門は討ち入り後に離脱し、八十三歳で天寿をまっとうしたと言われる。

 泉岳寺をはじめ、新駅近くが、忠臣蔵ゆかりの地であるのは、すでに周知のこと。
 また、伊予松山藩松平隠岐守の中屋敷が、現在イタリア大使館であるように、港区には大使館が多い。

 森ビルの入居者を会員とするeHills Clubが運営している「HILLS CLUB」という、六本木ヒルズ・赤坂・虎ノ門周辺のタウンガイドのサイトに、港区にある大使館の一覧が掲載されている。HILLS CLUBのサイト

 なんと、高輪や西麻布、六本木や白金台などに約90の大使館がある。

 これは、江戸時代に大名屋敷の多くが現在の港区にあったため、明治新政府が土地を没収し、“グローバル化”のために数多くの国の公使館を立てる土地にあてがったことが始まり、と下記のように港区のサイト(KIDS SQUAREの「まちなみ探検」)にも書かれている。
港区サイトの該当ページ

はじまりは江戸時代(えどじだい)に置か(おか)れた最初(さいしょ)の外国公使館(こうしかん)

 現在(げんざい)、日本には約(やく)140カ国(かこく)の大使館(たいしかん)があり、その約半数が港区(みなとく)にあります。
 江戸時代末期(えどじだいまっき)に日本が世界(せかい)へ国際交流(こくさいこうりゅう)の門戸を開き(ひらき)、最初(さいしょ)の外国公使館(こうしかん)がアメリカは善福寺(ぜんぷくじ)に、イギリスは東禅寺(とうぜんじ)に、フランスは済海寺(さいかいじ)に、オランダは西応寺(さいおうじ)に置か(おか)れました。
 明治維新(めいじいしん)後、政府(せいふ)は旧(きゅう)大名家から没収(ぼっしゅう)していた屋敷(やしき)の跡地(あとち)を大使館用地として各国(かっこく)に提供(ていきょう)しました。このような経緯(けいい)により、大名屋敷が多くあった港区に大使館が集まっ(あつまっ)たのです。

 現在多くの外国大使館が港区に置かれているのも、こうした歴史的(れきしてき)な背景(はいけい)があるからでしょう。

 すでに幕末から、この一帯は、国際的だったと言えなくもない。

 そういう点からも、「高輪ゲートウェイ」という名称、まんざら当っていないとも言えないのだが、JRの命名の理由に、大使館のことは含まれていない。

 それにしても、やはり「高輪大木戸」にして欲しかった。
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by kogotokoubei | 2018-12-06 12:47 | 江戸関連 | Comments(2)

江戸庶民と、ご飯。

 明日は、旧暦の八月一日、八朔。

 六年前の新暦の8月1日に、八朔については記事を書いた。
2011年8月1日のブログ

 江戸では、家康が江戸城入りした日という記念日。
 吉原では紋日であることなども紹介したので、興味のある方はご覧のほどを。

 この時期に早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を贈る風習があったので、“田の実の節句”ともいう。
 「たのみ」を「頼み」にかけて、武家や公家の間でも、日頃お世話になっている人に、感謝の意味で贈り物をするようになった、と言われる。

 私は“田の実”からご飯を連想してしまうのだが、それは前回の記事で、江戸時代には一日ご飯を五合食べていた、ということを紹介したからかな。

 もうじき、今年の新米も出回るだろう。

 そこで、ご飯シリーズ。

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永山久夫著『大江戸食べもの歳時記』(新潮文庫)

 まず、最初はこの本から。

 食文化の研究者で、江戸時代の食事などに関し多数の著書がある永山久夫さんの『大江戸食べもの歳時記』からは、以前に蕎麦のことで引用したことがある。
2015年12月11日のブログ

  今回は、ご飯のことで、前回の記事の裏付け(?)的に、江戸時代にどれだけご飯を食べていたかについて引用。

現代人の二倍の米を食べていた 
 
 日本人は、昔から一人当り一年間に一石(150キロ)の米を食べてきた。江戸初期のの日本人の人口は3000万人で、米は3000万石生産されていた。
 明治になって、人口が5000万人になったとき、米は5000万石とれていた。大正末期に6000万人となったが、米の生産量は6000万石に達していた。米の生産量が、人口を増やしていたのである。
 一年に一石というと、一日には約410グラムになる。現在の日本人が食べている量は200グラム弱だから、江戸時代の人たちの半分以下。
 日本人が現在と同じように、一日に三回食事をするようになったのは、江戸時代の初期で、大人で一日ざっと五合(750グラム)の米を食べていた。
 三回になる前の時代は、ずっと朝と夕の二回食であり、一食分が二合五勺(約375グラム)。江戸時代には二合五勺の升があったが、二食時代の名残りである。

 ほらね、こっちの本でも、一日五合、でした。

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永山久夫著『江戸めしのスゝメ』(メディアファクトリー新書)


 こちらも永山久夫さんの本、『江戸めしのスゝメ』。
 一日二食から三食に替わったのはいつの頃か、ということについて。

 『おあむ物語』という江戸時代の書物には、それまで永らく一日二食だった人々が三度の習慣を新鮮に受け止めていた様子がわかる、興味深い記述がある。この本は石田三成の家臣として大垣城に仕えていた武士の娘が晩年、子どもたちに語った話を記録したもので、彼女は慶長五(1600)年の関ケ原の戦の後、父に従って土佐に趣き、寛文(1661~73)の頃に80歳前後で亡くなったとされている。
「私の父は知行300石をとっていたが、その頃は戦が多くて何事も不自由だった。朝夕には雑炊を食べていた。(中略)13歳のときに持っていた着物は手作りの帷子(ひとえの着物)が一着だけ。それを十七歳まで着ていたので、すねが出てしまい困り果てた。このように昔は物事が不自由だった。昼めしを食べるなんて夢にも思わなかったし、夜食もなかった。最近の若い者は服が好きだし、お金を使う。いろいろと食べ物の好みもある」 江戸後期の国学者、喜多村信節(のぶよ)はまた、庶民社会の風俗を記した『瓦礫雑考』のなかで「古くより朝餉夕餉といって、昼餉ということは聞かず、中食(昼食)は後世のことなるべし」と記している。
 もっとも、一日二食の習慣が長かったのは上流階級や武士だけで、農民や職人など労役者は古くから間食を自由にとっていた。江戸の庶民たちのあいだにも比較的、早い時期から三食の習慣が定着していたと考えられる。

 引用されている「おあむ物語」について、少し調べてみた。
 国立公文書館のサイトに、創立40周年記念貴重資料展「歴史と物語」のページがあり、その中で「おあむ物語」が紹介されていた。国立公文書館ができたのが昭和46(1971)年7月だから、六年前のイベントだ。
「国立公文書館」サイトの該当ページ

 引用する。

36.おあむ物語
おあんものがたり

戦国時代といえども、さすがに女性がいくさの前面に出て戦うということはめったにありません。しかし、血を見るのも怖い、と恐れるようなことは言っていられませんでした。
ここで取り上げた資料は、青春時代を戦国の混乱の中で過ごした女性の思い出話。主人公の「おあむ」は、石田三成の家臣の娘で、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのおり、石田方の美濃大垣城に入ります。そこで待ちかまえていたのは、味方の獲ってきた敵方武将の首の処理。

みかたへ、とった首を、天守へあつめられて、札をつけて覚えおき、さいさい、くびにおはぐろを付ておじゃる・・・くびもこはいものではあらない。その首どもの血くさき中に、寝たことでおじゃった。

戦後の恩賞のため、少しでも綺麗に見栄え良く化粧することが求められました。しかし、凄まじいのはこれから。「おあむ」は、目の前で実弟が射殺され、冷たくなっていくのを目の当たりにします。また、闇に紛れて城から逃げる際には、身重の母親が急に産気づき、田んぼの水を産湯代わりに妹を出産。すぐに父親が母親を肩にかけて落ち延びていきます。

「おあむ」の語りの言葉に、凄まじいまでの戦国の世の実像が感じとれます。

展示資料は、享保初年(1716)頃までに成立か。天保8年(1837)刊。全1冊。
 戦国の世の実態を物語る、なかなか貴重な記録であることが分かる。

 その貴重な記録、永山さんだから、食に関する部分に焦点を当てるのであって、磯田道史なら、この本をどう紹介してくれるかなぁ、などと思う。

 つい最近、CSで『殿、利息でござる』を観た。
 磯田道史の『無私の日本人』所収の「穀田屋十三郎」が原本。
 タイトルから、内容がお茶らけになっているのを危惧したが、そうではなかった。とはいえ、もう少しシリアスな描き方があったように思うが、それでは観客がついてこないのかもしれないなぁ。難しいところだ。

 『無私の日本人』には、他にも、「こんな人がいたのか!」と驚く日本人が紹介されていて、そのうち記事にしたいと思っている。
 磯田の本は結構読んでいる。読むうちに、彼のように古文書が読めるってぇのが、羨ましく思える。

 さて、永山さんの本にあった『瓦礫雑考』の著者である喜多村信節は、江戸後期の風俗百科事典と言える『嬉遊笑覧』の著者でもあり、喜多村筠庭(きたむら いんてい)という名の方が有名だろう。

 庶民が武士や公家などよりいち早く一日三食になっていたとはいえ、白米を食べるようになったのは、それほど早い時期ではない。

 永山さんの本から、引用。

 食卓への白米の定着を促した要因として真っ先に特筆すべきは、農業機具の発達だろう。たとえば水車が広まったことで玄米を搗くのが容易になり、大量の玄米が精白できるようになった。またこの時期、財政難に悩み始めた徳川幕府が新田開発などで米の増産を後押しする政策に力を入れたことの影響も大きい。
 白米の生産量が伸びた結果、供給量に余剰が生まれ、米の値段が下がっていった。これにより、いままで高価で手が出なかった町人たちでも白米を購入できるようになったのである。しばらくすると「米搗き屋」という精米所が江戸や大坂の都市部に広まり、やがて各地に普及していった。

 「搗き米屋」は、落語の『幾代餅』や『搗屋幸兵衛』に登場するから、落語愛好家にとっては馴染み深いね。
 
 では、いつ頃から白米が庶民の間に普及したのか。

 元禄の少し前の時代まで、白米を日常的に食べることができたのは将軍及び一部の特権階級だけであったが、1800年代に入る頃までに、江戸では下級階層まで日に三度の白米食が当たり前となった。「将軍さまと同じものを食べるんだ」という江戸っ子のプライド、あるいは意地のようなものが、白米の流行と浸透を助長した可能性は小さくない。

 なるほど。たしかに、「将軍さまと同じものを食べる」という意識は、江戸っ子にとっては、実に気持ちのいい感覚だったのだろう。
 そして、できるものなら将軍さまよりも美味く食べてやろう、という思いもあるから、白米を食べる方法にしても、江戸っ子は知恵を働かせるのだ。

 白米に熱中する庶民の様子は、米の炊き方一つとってみてもよくわかる。
 米は前の晩のうちにとぎ、朝まで水に浸けておいた。こうすることで芯まで熱が通り、ふっくらと炊けることを知っていたからだ。栄養学的にいえば、水に浸けておくことによって、能の血行をよくするギャバという成分が増える。
 江戸時代後期の国語辞典『俚言集覧』(太田全斎・著)には、こんな一文がある。
「ドウドウ火ニ チョロチョロ火 三尺サガッテ 猿ネムリ 親が死ストモ 蓋トルナ」
 まるで呪文のようだが、当時の米の炊き方をい教える遊び唄である。
 羽釜(はがま)に入れた米を最初は強火で炊く。それから弱火に変えて、猿が火の前で居眠りするくらいの、ほんのり温かい余熱で蒸らしていく。炊飯中は何が起きようとも絶対に蓋を取ってはいけない。
 沸騰中に米から出るオリゴ糖は水分中に流れ出る性質をもっており、このオリゴ糖が少ないと甘みのないまずい米になってしまう。外に出たオリゴ糖をもう一度米に吸収させるには充分に蒸らす必要がある。江戸の庶民が実践していたのは、とても的を射た炊飯方法だったわけだ。

 ギャバですよ、ギャバ!

 遊び唄は、その後、落語『権助芝居(一分茶番)』で飯炊きの権助が言う、次の歌詞(?)に変わっていったのだろう。

 169.pngはじめちょろちょろ中ぱっぱ ぶつぶついう頃火を引いて ひと握りのわら燃やし 赤子泣いても蓋とるな

 あらためて、思う。

 日本人は、ご飯だよなぁ。

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by kogotokoubei | 2017-09-19 18:54 | 江戸関連 | Comments(0)
 食欲の秋、である。
 
 先日の同期会加賀の旅、山中温泉で夕食後の幹事部屋での仲間との会話で、私が春の合宿の朝食で、どんぶり飯を七杯食べたことも、ちょっとしたネタになった。

 そうそう。
 三杯目からは、仲間が食べない漬物などのおかずを集めて食べたものだ。

 それでも、午前中の練習後に、しっかり昼飯を食べることができたからねぇ。
 
 まぁ、四十年以上前のお話。

 今はどうか。
 日頃、私は一日の食事の中で、昼食でもっとも多い量のご飯を食べる。
 平日の外食の場合、おかわりをしたり、大盛りを食べる時も多い。

 最近、外食の際に気になるのが、若い男たちが少食であること。
 「ご飯少な目」なんて注文する人が、なんと多いことか。

 そんな思いがあるので、江戸や落語関連の本から江戸時代の食生活のことを知ると、あまりにも現代と違うことに驚くのだ。

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中込重明著「落語で読み解く『お江戸』の事情」

 まず、何度も引用しているこの本から。
 中込重明さんが若くして旅立ったことは、惜しんで余りある。

 『目黒のさんま』の章を読んでいて、あらためて江戸時代の食生活について再確認した。
 引用したい。

 『目黒のさんま』では、殿様ははじめてさんまを食したことになっている。寛永、宝暦から文化年間(1804~1817)頃までの、世情、売り物などに関する随筆『続飛鳥川』にも、さんまは下の魚だから、下々の者しか食べなかった、寛政の頃から追々食用になったと記されている。
 当時の庶民の食卓には、他にどんなものが上っていたのだろうか。『目黒のさんま』は江戸郊外の農家が舞台になっているが、江戸の長屋住まいの人々を基本に考えてみたい。『守貞謾稿(もりさだまんこう)』によると、庶民の食事は一般に以下の通りということになる。朝、飯を炊き、味噌汁を合わせる。昼と夜は冷や飯。ただし昼食は野菜か魚のおかずを一品添える。夕飯はお茶漬けと漬物を食べる。
 また、『文政年間漫録』に記されている大工の一家の場合、夫婦に子供一人で、年間に米を三石五斗四升食したとある。これを手がかりに算出してみると、江戸では大人一人あたり一日に四合近くの米を食べていたことになる。出職の職人や棒手振などが持っていく手弁当も、握り飯にたくわんか梅干というのが定番だった。
 以上の情報をもとに推測すると、江戸の人々は現代に比べると米中心の食事であったと考えられる。

 もう一冊。


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『杉浦日向子の江戸塾』

 七年余り前の記事と重複するが、『杉浦日向子の江戸塾』(PHP文庫)からも、江戸時代の食生活についてご紹介。
2010年7月22日のブログ
 日本橋生まれの杉浦さんと、深川育ちの宮部みゆきとの対談から。

宮部 江戸時代は初期から一日三食だったんですか。
杉浦 中期以降ですね。初期は二食です。
宮部 小説のなかで食事の回数を書くとき、いつも迷うんですよね。
杉浦 その家の風習にもよるんです。江戸の中期以降でも、二食で通して
   いた家もありました。
宮部 決まった時間に食べてはいなかったんですか。
杉浦 腹が減った時が食べる時。日に六度飯の人もいれば、一日一回、
   ドカ食いする人もいる。商家のように大人数を抱えているところ
   では、食べる時間が決まっていましたけどね。
宮部 朝昼晩で、どの食事が一番豪勢だったんでしょう。
杉浦 それはお昼。昼には焼き魚がつきましたから。ご飯は冷や飯
   だけどね。午前中でほぼ仕事が終わってしまう河岸の衆などは、
   酒も付けてまるまる一刻(二時間)かけて食べるんですよ。
宮部 ラテン系の人たちみたい。
杉浦 そう。それで夜はお茶漬けでさらさらっと。
宮部 たりない分は夜食で補う。
杉浦 そうなんです。
宮部 当時の人はたちは、お米をたくさん食べていたんですよね。
杉浦 一日五合が基準。二食のときは一食で二合半です。だからどこの
   家庭にも、二合半の升が必ずあった。一人前の分量ということで。
   それで、一人前じゃない人に対して「この一合野郎」という罵り
   言葉があったほどです。半人前以下ってことですね。
宮部 一合野郎か、今度使ってみよう。

 中込さんの本はある史料から一日約四合と記されていたが、杉浦さんは、一日五合と説明。

 二合半の升、という裏付けからも、一日五合に説得力があるなぁ。

 あっしも一日五合は、食べない。
 八っつぁんや熊さんから、「この一合野郎」と罵倒されるだろう^^
 
 こういう話を知って、すぐこう反応する人は少なくないだろう。
「だから、寿命が短かったんだ」。

 大きな誤解だ。江戸時代の統計として寿命が短かった大きな理由は、乳幼児死亡率が高かったからで、長生きした人はいくらでもいる。

 葛飾北斎などは九十まで生きた。

  炭水化物->血糖値上昇->糖尿病

 というイメージが、あまりにも沁みついていることもあるのだろうが、現代の日本人は、あまりにも米を食べなくなった。

 ご飯をよく噛むことで、栄養にもなり、満腹感も得られる。

 あのタニタの食堂だって、白米や玄米は重要な主食。

 二十代の二割の人が、一ヶ月に一度もご飯を食べていない、という統計もある。
 
 代わりに、お菓子にコーラ、サプリメント・・・・・・。

 日本の将来を考えると、この若者の食生活の問題、結構大きな危険性を孕んでいると思うなぁ。
 米をもっと食べないとねぇ。

 さぁ、これからご飯、米を食べよう!

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by kogotokoubei | 2017-09-16 11:30 | 江戸関連 | Comments(2)
 16日の夜10時から、NHKのEテレで放送された「先人たちの底力 知恵泉」を見た。
 あの遠山の金さんは、実は大変な上司のために苦労した、というお話。
 NHKのサイトから引用。
NHKサイトの該当ページ

先人たちの底力 知恵泉「遠山金四郎 一件落着!苦手な上司対処法」

「この桜吹雪をよ~く見ろぃ!」実は遠山の金さんは上司に悩んでいた?「ワンマン」「ムチャぶり」「職場いじめ」…現代もいる迷惑上司に向きあう、一件落着!の知恵とは?

「お前の所業は、この桜吹雪がすべてお見通しだ!」と、嫌な上司に言えたらいいのに…。実は「遠山の金さん」こと遠山金四郎(景元)は、苦手な上司との関係に悩んでいた。上司は「天保の改革」で有名な老中・水野忠邦。江戸が衰退しかねない強引な改革を進める水野は、「ワンマン」「ムチャぶり」「職場いじめ」と3拍子そろった迷惑上司。庶民の笑顔を守るため金さんが駆使した、人づきあい全般にも使える、みごとな知恵とは?

 番組で「天保の改革」で、水野が寄席全廃を主張したが、遠山が意見書を出して、なんとか十五軒の寄席を残すことができたと紹介されていたが、たしかに、幅広い芸能に関して、あの改革は「改悪」でしかなかった。

 天保の改革においては、水野の方針のために八丁堀の同心たちも、大いに苦労した。

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林美一著『江戸の二十四時間』(河出文庫)

 時代考証家の林美一さんの著書『江戸の二十四時間』には、江戸時代の庶民や旗本、殿様や同心などのある一日の模様を描いていて、実に興味深い。

 本書の「定町廻同心の二十四時間」は、天保十二年(1842)に絵草紙、人情本、好色本等の取締りのために右往左往する定町廻同心、飯尾藤十郎の一日を描いたものだが、その行動の後の実際の裁きの経緯について書かれた部分をご紹介しよう。

 押収品をもとに、改めて版元の洗い直しがなされ、作者や絵師の身元の割出しが急がれたが、人情本はともかく、春画本の作者や絵師は、署名を欠いたり、わざと隠号を使ったりしているので、なかなか摑めず、嬌訓亭腎水・大鼻山人・女好菴主人・好色山人・淫斎白水・百垣千研・桃草山人・好色外史・悪疾兵衛景筆・猿猴坊月成(以上作者)、婦喜用又平・一秒開程芳・艶川好信・淫乱斎(以上絵師)などと多数の人名が挙がったが、結局、作者としては人情本の元祖と自称する「春色梅児誉美」の作者・狂訓亭為永春水が、嬌訓亭腎水なる似通った隠号から春本作者でもあったことが明らかとなり、かつ最も多作でもあるところから代表的人物として槍玉に挙げられ、浮世絵師では、これも婦喜用又平なる隠号で、最も多作、かつ代表的人気浮世絵師であった歌川国貞が、一月下旬に版元ら七人とともに北町奉行所から差紙を立てられて、奉行遠山左衛門尉じきじきの調べを受けることになった。

 遠山の金さんじきじきのお調べとは、大事だ。
 
 ところが、春水は出頭したが、国貞は事前に察したのだろう、門人を連れて伊勢参りに出かけて裁きの日になっても帰って来なかった。
 その代わりに召喚されて被害に遭ったのが、同じ豊国門下の弟弟子で一秒開程芳の名を高めていた国芳だった。
 彼は、二日間牢に入った後、春水と同様に吟味中に手鎖の刑になってしまい、両手が使えないから絵を描けず飯の食い上げ。

 特に国芳は、人一倍向う意気の強い男だが、二日間の入牢はさすがにこたえた。彼は憤懣の余り、判決後、水野の改革を諷刺した錦絵「源頼光公館土蜘作妖怪図」を発表し、江戸っ子たちの喝采を浴びるのだが・・・・・・。

 その後、伊勢に逃げた国貞が捕えられることはなかった。
 
 金さんが水野に進言して春画、枕絵の作者や絵師を裁かないよう仕向けることができず、自らお白洲で春水や国芳を罰したのだから、逃げた国貞も江戸に戻った後で裁くべきだったと思うなぁ。金さん、ちょっと片手落ちでしょう。

 その逃げた国貞について、林一美さんは、こんな譬えをしている。
 何だかロッキード事件で、すぐアメリカへ飛んでしまった容疑者たちと似たような話
 この本の単行本での初版は平成元年(1989年)。

 ロッキード疑惑が明らかになったのは昭和51(1976)年だ。

 十年以上を経ても作者林さんが譬えにしただけの大事件だったということだろう。

 私は学生時代で、結構テレビに釘付けになったものだ。

 結果としては総理の犯罪として田中角栄の退陣につながるのだが、あの事件を巡っては、周囲で不審な関係者の死が続いた。
 まず、ロッキード事件を追っていた日本経済新聞の高松康雄記者が昭和51(1976)年2月14日、児玉誉士夫の元通訳の福田太郎が同年6月9日、さらに田中元首相の運転手である笠原正則が同年8月2日と立て続けに急死している。

 証拠隠滅のため、何者かの手によって抹殺されたのではないかとの疑念を呼んだ。

 この度の加計学園疑惑のことに思いが至る。
 ようやく全国紙やテレビも思い腰を上げたように思う。
 森友とは比較にならない「総理の犯罪」の匂いがプンプンするじゃないか。

 周囲で不自然なことが起こらないことを祈るばかりだ。


 水野忠邦という暴君とも言える上司に知恵と行動で対処した遠山の金さんのような奉行が、今まさに求められているなぁ。

 遠山の金さんや天保の改革のことから、つい、現実に戻ってしまった。

 「改革」という名で「改悪」をしようとする権力者は、いつの世にもいる、ということか。

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by kogotokoubei | 2017-05-18 12:47 | 江戸関連 | Comments(0)
 山手線の新駅近くに、「新東海道」ができる、という東京新聞の記事をご紹介。
東京新聞の該当記事

「新東海道」江戸の活気再び 山手線新駅・田町-品川間
2017年5月10日 14時27分

 JR山手線と京浜東北線の田町-品川間に二〇二〇年春に開業する新駅(東京都港区)の西側に、国内外の人々が集う広場のような歩行者道「新東海道」がお目見えする。二〇年の東京五輪後に着工し、三〇年代の完成が見込まれている。すぐ近くにかつての東海道にあった江戸の玄関口「高輪(たかなわ)大木戸」の跡があることから、交通の要衝だった往時のにぎわいの再現を目指す。(増井のぞみ)

 新東海道は、新駅前広場の西側に南北にわたって造る想定で、道幅は八メートル以上、長さ四百メートル。道の両側に高層ビルが並び、ビルの低層階に飲食店や商業施設が入る。

 道沿いの建物の一階部分には柱だけの空間や、外に張り出したひさしを設け、建物内と路上を行き来しやすくする。路上などに机やいすを置き、ビル内のオフィスで働く人らが外で仕事をするなど、買い物客、観光客を含めた憩いの場所にする。

 新東海道に近い国道15号沿いにある国史跡の高輪大木戸跡は、旧東海道の関門。江戸時代に道の両側に石垣を築き、門を取り付けた場所で、治安維持のために門を開閉して江戸への人の流入を制限した。近くに茶屋などが並び、旅人らでにぎわった。門は江戸後期に外され、今も石垣の一部が残っている。

 品川駅の地下には二七年にもリニア中央新幹線が開業し、泉岳寺駅は京急線で羽田空港とつながっている。新駅周辺の整備方針を検討した委員会の座長で東京工業大の中井検裕(のりひろ)教授(59)=都市計画=は「新駅周辺は、日本全国や世界各地から訪れるのに便利な場所。東海道の歴史を生かし、人の交流を促して新たなビジネスや文化の創出につなげたい」と話した。

<東海道> 江戸時代に江戸を起点に整備された五街道の一つで「江戸と京、大坂を結ぶ大動脈。幕府が最も重要と位置づけた」(品川区立品川歴史館)。海沿いにあり、景色が良く起伏が少ないため、参勤交代によく使われ、物資を運ぶ人馬、旅人らが行き交った。現在の東京都港区では、国道15号の位置にあったとされる。

<JR山手線・京浜東北線の新駅> 1971年開業の西日暮里駅(荒川区)以来となる山手線30番目の駅。2020年春に、品川-田町間の品川車両基地(約13ヘクタール)の一角で暫定開業の予定。基地跡地では、山手線と京浜東北線の線路を東に最大120メートル移設。JR東と他の地権者の土地を合わせて東京ドーム3個分に当たる約16ヘクタールの開発用地をつくり出す。オフィス向けを中心とした7棟の高層ビル、マンションなどが建てられる。

(東京新聞)


 この「新東海道」ができる背景となる歴史について、肝腎な部分を、もう一度太字で確認。
すぐ近くにかつての東海道にあった江戸の玄関口「高輪(たかなわ)大木戸」の跡があることから、交通の要衝だった往時のにぎわいの再現を目指す


 “道の両側に高層ビルが並び、ビルの低層階に飲食店や商業施設が入る”というのは賛成しないが、高輪大木戸にちなむ新たな「東海道」という“憩いの場”ができることには賛成したい。

 三年ほど前、この新駅の名を「高輪大木戸」にしてはどうか、という記事を書いた。
2014年6月4日のブログ

 その記事で、次のようなことを書いた。
 2020年の東京五輪に向けた“建設という名の破壊”ばかりではなく、良い機会ととらえて過去の名所を蘇らせる試みがあってもよいだろう。

 新駅「高輪大木戸」の命名で、その昔の話題が喚起されることも結構だし、新たな町が江戸時代の庶民の生活を偲ぶことのできる、土や木の香りのする場所がある方が、海外のお客様も喜ぶのではなかろうか。

 もはや、新駅の名は「高輪大木戸」で決まりでしょう^^

 しかし、この「新東海道」、「新」という言葉に甘えた超近代的なつくりにはして欲しくないなぁ。
 すでに概要は決まっているのだろうが、新「東海道」なら、それに相応しい道のあり方があるはず。

 まだ間に合うのなら、良い手本がある。
 東北自動車道の羽生パーキングエリア、“鬼平江戸処”だ。
鬼平江戸処のサイト

 羽生には「栗橋関所」が近くにあった。
 円朝の『怪談牡丹燈籠』の舞台でもあった。

 鬼平江戸処のコンセプトは、「温故知新」。

 同じ商業施設にしても、その土地の歴史に立脚し、まさに、「温故知新」の精神で開発してもらいたいものだ。

 「新東海道」では、“高層”ビルより、“高輪大木戸”にちなむ街づくりという“構想”にこそ力を入れて欲しいと切に願う。

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by kogotokoubei | 2017-05-11 00:36 | 江戸関連 | Comments(2)

 「恵方巻き」という、まったく伝統とは無縁な現代の疑似年中行事が終って、ほっとしている。
 恵方に相応しい言葉は「恵方参り」であり、これは落語の『御慶』のサゲにも登場する。
 先月の小満んの会での『御慶』は、実に結構だった。

 何度か書いているが、節分の伝統的行事は「厄払い」「厄落し」であり、その一環としての「豆まき」である。


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宮田登著『江戸歳時記』(吉川弘文館)

 宮田登著『江戸歳時記』は、吉川弘文館から発行された「<江戸>選書」の一冊で、初版は昭和56年発行。私は神保町で買った初版を読んでいるが、2007年に復刊されている。

 「江戸歳時の世界」の章から、厄払いに関する部分をご紹介。

 実は必ずしも大晦日や節分の日だけに厄払いがあったわけではなかった、などについて。

立春と節分

 旧暦が中心だった時代には、暦の上でまだ新年にならないうちに、立春が来てしまうことがあったが、これはどうも改まった感覚が生まれにくかったのではなかろうか。
 元旦と立春の間は、かなり近いのがふつうで、時に一致する年があった。
 (中 略)
 節分の豆撒きと十二月の追儺の儀礼とが混同しはじめたのは、江戸時代にはいってからのこととされている。
 柊の枝に鰯の頭をさして焼き、それを門口に置くのは邪霊を防ぐための呪術であり、邪霊の化身というべき鬼が追われる。室町時代の『徒然草』の中で、大つごもりの夜に松明をともして人々が夜半すぎまで各家の戸口をたたきまわったことを印象深いこととして記しているが、この夜はまた追儺の行なわれている夜でもあった。さらに節分の豆撒きがくわわることがあると、いっそう賑やかになったのである。
 小豆や大豆が厄除けの呪力をもつという考え方は古くからあったが、災厄を一身に背負う厄払いという職能が出現したのは、江戸や京・大坂という大都市であった。喜田川守貞の『守貞漫稿』には、厄払いが文化元年以来、大晦日、節分、正月六日、十四日にまわってくるようになったと書いている。元来は、節分の夜の厄払いの行事と結びついていたものである。厄年の者が、節分の夜に神社へ厄落しに参拝するというのを、身代わりになって厄を一身に背負う代償として銭十二文をもらった。
 これは願人坊主が、身代わりに代参して、報酬を得るのと同じ発想であり、都市社会であるからこそ成り立つ商売でもあった。

厄払い・厄落し

 「御厄払いましょ、厄落とし、御厄払いましょ、厄落とし」のよび声が、夕暮どきに町のいずところもなく聞えてくる。年越しで厄を払うのか、ごくあたり前の心情であるが、江戸では、さらにこれを三回にわたって厄を払っておこうとする、何度払っても落しきれない厄の蓄積が、厄払いの民俗を複雑にしているのであろう。

 あら、江戸時代には、なんと四日も厄払いの日があったのだ。

 当時の江戸庶民に蓄積されたと思っていた厄を、「恵方巻き」を食べて払っていたわけではない。
 しかし、払うべき厄は、現代人の方が少ない、とは言えないだろう。
 今の日本も、払わなくてはならない厄がたんまりと蓄積しているような気がするなぁ。

 さて、立春の今日、旧暦では十二月二十六日。
 今年の旧暦元旦は2月8日だ。
 ニュースでは、「春節」休暇による大陸からの「爆買い」ツアーの話題が流れている。

 立春と旧暦の元旦が一致することも巡り合わせでありえる。
 1954年と1992年がそうだったし、次は2038年。

 江戸時代、文化年間にあった四度もあった厄払い日。
 せっかくなので(?)、矢野誠一さんの『新版・落語手帖』から、厄払いの口上をご紹介。読むだけでも、少しは厄が落ちることを願って(^^)
矢野誠一著『新版・落語手帖』

ああら、めでたいなめでたいな、今晩今宵のご祝儀に、目出たきことにて払おうなら、まず一夜あければ元朝の、門に松竹しめ飾り、床にだいだい鏡餅、蓬莱山に舞い遊ぶ、鶴は千年、亀は万年、東方朔は八千歳、浦島太郎は三千年、三浦の大介百六ッ、この三長年が集まりて、酒盛りいたす折りからに、悪魔外道がとんで出て、さまたげなさんとするところを、この厄払いがかいつまみ、西の海へと思えども、蓬莱山のことなれば、須弥山のほうへサラリ、サラリ」

 落語『厄払い』では、与太郎さんがこの口上を覚えることができず苦労する。
これ、与太さんじゃなくても、覚えるのは大変だ(^^)

 厄、と言えば、私は昨年が還暦の本厄だった。

 その昔、還暦で迎えて、こんな句を詠んだ人がいた。

 春立つや 愚の上に又 愚にかへる

 小林一茶の句だ。

 一茶は、藤沢周平が『一茶』で著したごとく、決して平穏な人生を送った人ではない。

 遺産相続をめぐる骨肉の争いなど、その二万句を超える作品の印象からまったく想像できない多難な日々を送った人のようだ。

 紹介した句は、実に身につまされる。

 六十年も生きてきて、なんと愚かしいことばかりやってきたか、と私も思うばかり。

 かと言って、あの時にタイムマシーンで戻ることができたところで、同じ愚行をしていただろう、とも思う。

 立春の夜、そんなことを思いながら飲む酒は、少しほろ苦い。
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by kogotokoubei | 2016-02-04 20:23 | 江戸関連 | Comments(4)
 浅草寺では明日19日まで「羽子板市」が開かれている。
 
 「浅草寺歳の市」のサイトをご覧のほどを。
「浅草寺歳の市」のサイト

 昨年、「羽子板市」が「歳の市」の名残りであることについて記事を書いた。
2014年12月4日のブログ

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鈴木章生著「江戸の職人 その『技』と『粋』な暮らし」

 江戸関連本も多い青春出版社のプレイブックス・インテリジェンスシリーズの一冊、「江戸の職人 その『技』と『粋』な暮らし」からは、すでに、職人さんと信仰について記事を書いた。
2015年12月1日のブログ

 今回は「押絵羽子板」のことについて、本書から紹介したい。

 「第七章 季節を彩る」からの引用。

押絵羽子板
■縁起物としての羽子板
 娘道成寺、藤娘、八重垣姫、助六、鏡獅子、弁慶、め組の喧嘩の辰五郎・・・・・・、歌舞伎の登場人物の絵姿が目にも鮮やかに再現された押絵羽子板の世界。江戸時代から人々に愛され続けてきた、日本の正月を彩る華やかな小道具である。
 羽根突き遊びはもともと、その羽根を、子供に病気もたらす蚊を食べてくれるとんぼと見立てて、これを突き上げて厄払いする、という風習からはじまったとされる。室町時代には御所で、公家やその女官たちらが集まって、羽根突き大会に興じたという。かつては胡鬼板(こぎいた)、羽子木板(はこぎいた)と呼ばれ、羽根は、こぎの子、はごの子などと呼ばれていた。
 また、時代が下がって天保九年(1838)の『東都歳事記』(江戸後期の最も詳しい年中行事の解説書)によると、当時、男の子が生まれると破魔矢を、女の子が生まれると羽子板を贈る風習があったとされる。この通り、江戸時代、羽子板は遊び道具であるとともの、縁起物であり、祝いの品であった。さらに土産物としても重宝された。

 羽根を「蚊」を食べてくれる「とんぼ」と見立てていた、なんてぇことは、初めて知った。

 羽子板が遊び道具から発展して、縁起物、土産物になったわけだが、そうなったことに「押絵」の技術は大きく関わっている。
 さて、現在の押絵羽子板は、描かれた下絵に合わせて頭、顔、襟、袖、帯、手、小道具など、各部分をボール紙で作り、これに綿をもってその上から柄布でくるみ、それを板の表面に糊で貼り付けて作られている。裏面には、板屋によって松竹梅などの絵がさらりと描かれている。
 押絵羽子板は、それ以前に生まれた押絵の技術を羽子板の装飾に応用したものである。現在知られている中でもっとも古い押絵を残しているのは、二代将軍秀忠の娘で、後に後水尾天皇の中宮になった東福門院(1607~1678)だ。当時の押絵は、綿が少ないか全く入っていない作りで、現在のように立体的なものではなかった。
 東福門院の影響により、押絵はやがて京都御所内の女官の間で、やがては江戸城内の奥女中の間で流行したとされる。やがて絵師の中から押絵を専門とする押絵絵師が生まれ、さらに押絵で羽子板を作る者が出てきて、押絵羽子板が誕生した。
 押絵羽子板の歴史をたどると、秀忠の娘、東福門院にたどり着く、ということか・・・・・・。


 例年、その年の話題の人で「変わり羽子板」を発表している「久月」。
 今年は、「五郎丸羽子板」も登場。
「久月」サイトの該当ページ

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*「久月」のサイトより借用。


 TPPで「甘利羽子板」というのは、なんとも・・・・・・。

 「話題の人」の選定基準、今ひとつ分からないなぁ。
 あくまで、選ぶ人にとっての「話題」ということか。

 羽子板->押絵、ときて、東福門院を話題にする人は、現在は皆無に近いだろう。

 しかし、私は、今後は羽子板を見ると、徳川家と天皇家をつなぐための人生を送った東福門院のことを思い出しそうだ。
 彼女は、お江の方と秀忠の末っ子の徳川和子(まさこ)。

 武家から初めて天皇家に嫁いだ人で、宮尾登美子が『東福門院和子の涙』という小説を書いているようだが、未読。近いうちに読んでみたい。

 彼女は後水尾天皇の中宮(妻)となってから、宮廷での辛い生活のために心から笑うことはなかった、と言われている。

 東福門院和子が今に残る押絵を作っていたのは、そういった日常から少しでも気を紛らすためだったのかもしれない。

 羽子板市をきっかけに、東福門院という一人の女性のことを思う、そんな師走である。

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by kogotokoubei | 2015-12-18 20:45 | 江戸関連 | Comments(0)
 早いもので、12月。
 
 先日、「お会式」のことや、落語のネタ『甲府い』『鰍沢』などについて記事を書いた。

 江戸の人々にとって、信仰や祭事は深く生活に根付いたものだったからこそ、落語のネタにも信心深い人々や物語が残ったのだと思う。

 年末の祭事と言えば、酉の市。
 浅草の酉の市は11月なので今年は29日が三の酉だったが、鷲(おおとり)神社の本社とされる埼玉久喜の鷲宮(わしのみや)神社は、12月最初の酉の日、今年は11日に大酉祭が行われる。

 鷲神社は、日本武尊を祀り、武運長久、開運、商売繁盛の神として信仰されてきた。
 江戸時代にも、数多くの人が、年末の酉の日にお参りしたことだろう。

 最近読み返した本に、江戸の人々、なかでも職人さんと信仰について書かれた内容があった。

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鈴木章生著「江戸の職人 その『技』と『粋』な暮らし」

 江戸関連本も多い青春出版社のプレイブックス・インテリジェンスシリーズの一冊に、「江戸の職人 その『技』と『粋』な暮らし」がある。
 本書の監修者鈴木章生という人は、本書発行時(2003年1月)は江戸東京博物館の主任だったらしいが、現在は目白大学の教授のようだ。

 第二章「職人と江戸っ子文化」の中で「職人と信仰」について書かれているので、引用したい。

業種ごとの職業神

 職人たちは、古くからそれぞれの業種ごとに、特有の職業神を信仰してきた。多くの場合、とある神が現れてその仕事を手伝ったとか、技術を開発したといった言い伝えにしたがって、職業神が決められていたようである。物を作り出すという仕事に従事する上で、宗教的な支えがあったことは想像に難くない。特に、古代から伝統的な技術を持つ職種にその傾向は強い。
 それぞれの職人たちは、その信仰に則って毎年独自の祭礼などを行っており、それは彼らの大事な年中行事になっていた。また、その信仰は仕事の現場に限らず、それぞれの家庭においても守護神的役割を果たし、職人たちの精神的なよりどころとなっていた。
 たとえば大工、屋根葺(ふき)、石工、左官などの建築関係者たちは、聖徳太子を祀り、毎年二月二十二日に太子講を行っていた。その信仰は、聖徳太子が寺院建立の祖であるとされていたところからきている。昭和の初期頃までは、建築関係の職人の家や店には、必ず太子の掛け軸などが祀られていたという。
 一方、鍛冶、鋳物師、錺職人など金属加工関係者たちは、稲荷を信仰していた。これは、10世紀末、京の三条にいたという鍛冶が刀を打つときに、稲荷神が現れて共に槌を打ったという言い伝えからきている。彼らは十一月八日に稲荷祭を行っており、これを別名、鞴(ふいご)祭といった。ただし、これは職人たちが一同に集まって行うものではなく、各自の家で内々に祀ったものだった。
 また、金属加工関係者の中には、天目一筒命(あめのまひとつのみこと)を信仰する者たちもいた。こちらは、天照大神が天の岩戸に隠れていた間、刀や斧を作っていたという伝承からきている。
 他にも、紺屋は愛染明王(あいぜんみょうおう)を、挽物師(焼き物職人)は水上祖神を信仰したことが知られている。


 仕事によって、それぞれ信仰対象があり、心の拠り所になっていたんだなぁ。

 曲尺(かねじゃく、さしがね)を広めたのが聖徳太子と言われており、大工さんたちの家にあった聖徳太子像は、曲尺を持った姿であったようだ。

 富士講、大山講、えびす講などと同様に太子講もあったのだ。二月二十二日は、聖徳太子の命日。

 今日では大工さんが不足しており引く手あまたのため、その手間賃も増えているようなので、大工さん→聖徳太子ということから一万円札を連想してしまう自分が、なんとも野暮でいけねぇや(^^)

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by kogotokoubei | 2015-12-01 12:49 | 江戸関連 | Comments(0)
 ラグビーワールドカップの準決勝の現地開始時刻と日本時刻のことで、疑問を感じた方は少なくないのではなかろうか。

 準決勝のスケジュールは、次のようなものだった。
 
 開催日  現地時刻 日本時刻
10/24(土) 16:00   24:00   南アフリカ対ニュージーランド
10/25(日) 16:00   25:00   アルゼンチン対オーストラリア

 「あら、現地は同じ16:00なのに、日本は一時間ずれている?!」

 と思われた方が、いたはず。

 もちろん、ご存じの方も多かったとは思うが、これはイギリスで夏時間(サマータイム)が10月25日で終了することによる。

 Wikipediaの「英国夏時間」から引用する。
Wikipedia「英国夏時間」

具体的な実施期間は、3月最終日曜日1時(UTC)から10月最終日曜日1時(UTC)までの期間。つまり、グリニッジ平均時で3月最終日曜日の1時になった瞬間、英国夏時間が始まり、同日の2時になる。また、英国夏時間で10月最終日曜日の2時になった瞬間、グリニッジ平均時に戻り、同日の1時になる。このため、夏時間の開始日は1日が23時間となり、終了日は1日が25時間となる。

 電車のダイヤが分刻みで計画され、それがほとんど遅れない日本において、こういった夏時間の運用は、難しいかもしれない。

 一年のある一日が23時間になり、また、ある一日が25時間になる。

 ただし、戦後、連合軍(≒米軍)の占領期間に短期間ながら日本も夏時間を導入したことがある。

 サマータイムに反対する人は、いろんな理由を挙げるが、たしかに、さまざまなシステムのソフトウェアの変更などの必要はあるだろう。
 また、東の北海道と西の沖縄での日の出と日の入りの時刻の違いなども、導入に掉さす理由にはなる。

 しかし、地域を限って導入する試みはあって不思議はない。実際に北海道で試験的に実施しようという動きもある。

 江戸時代は、サマータイムよりもっと先進的(?)な「不定時法」という時間を採用していた。
 日の出、日の入りを基準に、自然の変化に柔軟に適合していた江戸人は、私は凄いと思う。

 夏至、春分・秋分、冬至における時刻は、現在の時刻を横軸にすると次のようになる。
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 私がExcelで作った図なので分かりにくいとは思うが、灰色の部分が夜で黄色い部分が日中。
 黄色が始まる、要するに朝が明ける時刻が「明け六つ」になり、灰色が始まる前、日が暮れかかる時刻が「暮れ六つ」となる。

 たとえば、夏至に代表される夏は、現在の時刻で朝4時から5時頃「明け六つ」となり、現在時刻夜7時頃に「暮れ六つ」となる。

 冬至との日の出と日の入りとの時間差は、2時間近い。


 江戸時代の時刻の数え方は、今の時間にして約二時間単位で九つ、八つ、七つ、六つ、五つ、四つとなって、また九つに戻る。この一つの単位を「一時(いっとき)」、あるいは「一刻(いっこく)」と呼ぶ。
 
 目安として現在の時間に相当する一時と、その時間帯を干支に当てはめた呼び方は次の通り。

 九つ:午後11時~午前 1時=子(ね)の刻
 八つ:午前 1時~午前 3時=丑(うし)の刻
 七つ:午前 3時~午前 5時=寅(とら)の刻
 六つ:午前5時 ~ 午前7時=卯(う)の刻
 五つ:午前7時 ~ 午前9時=辰(たつ)の刻
 四つ:午前9時 ~午前11時=巳(み) の刻 
 九つ:午前11時~午後 1時=午(うま)の刻
 八つ:午後 1時~午後 3時=未(ひつじ)の刻
 七つ:午後 3時~午後 5時=申(さる)の刻
 六つ:午後 5時~午後 7時=酉の刻(とり)
 五つ:午後 7時~午後 9時=戌の刻(いぬ)の刻
 四つ:午後 9時~午後11時=亥の刻(い)の刻

 この一時を四つに分けて一つ、二つ、などと呼んだりするので、「草木も眠る丑三つ時」は、今の時間にあえてたとえると、午前2時から2時半くらいの時間帯、ということになる。

 さて、私は何を言いたいのだろう・・・・・・。

 江戸っ子は、自然現象の日の出、日の入りを基準に、現在の定時法的な概念ではなく、四季の移り変わりに応じて、柔軟に時間を管理し運用してきた、ということだ。
 逆に言えば、自然と時間経過が同期していて当たり前であり、暗闇なのに「明け六つ」などという状況こそ、彼らにとっては違和感があったのだろう。

 もちろん、日が昇ったら起きる、沈んだら寝る、という生活のリズムに、時は密着して流れていた、ということも言えよう。

 あえて言えば、サマータイムの先を行っていた江戸時代。

 現代人の生活は、日が昇れば起きて、沈んだら寝る、というリズムではない。
 農作業など、自然との共存が重要な生活とは無縁な人が圧倒的多数にのぼっている。
 一日は24時間であり、23時間や25時間では困る、という人も、少なくないだろう。

 さまざまな理由からサマータイムの導入ができそうにない今の時代、もし、江戸時代と同様の不定時法を採用しよう、なんてぇことを言ったら、役所や企業から「ふてい奴!」と言われそうだ。(おそまつ)


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by kogotokoubei | 2015-11-04 20:36 | 江戸関連 | Comments(0)
 9月27日は、旧暦8月15日、中秋の名月。

 十五夜に加えて月を愛でる日としては、旧暦9月13日の十三夜が有名。

 しかし、江戸時代の人々は他の日にも月を愛し、楽しんでいたということを紹介したい。

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杉浦日向子監修『お江戸でござる』(新潮文庫)

 出典は、お馴染みの『お江戸でござる』。

 平成7(1995)年から平成16(2004)年まで放送された、NHK「コメディーお江戸でござる」を本にしたもので、もちろん杉浦日向子さんの監修。

 言葉の起源についても勉強になる部分を、引用する。

 八月の月見も、十五夜だけでは終わりません。次の夜は「十六夜(いざよい)」で、満月よりも、出るのがちょっと遅くなります。「いざよう」というのは、ためらっている状態をあらわしています。
 その次の夜が「立待月(たちまちづき)」。立って待っているうちに、月が出てきます。物事が早くはかどることを、「たちまち」というのは、ここから来ています。また、江戸時代の即配便を「十七夜(じゅうしちや)」と呼ぶのは「たちまち着く」というシャレからです。

 「いざよう」や、「たちまち」という言葉の起源が「月」だったとは。
 ここで、まだ月の楽しみ方が終わらないのが、江戸人の凄いところ。

 十八夜が「居待月(いまちづき)」で、座敷で待っていると、月が出ます。十九日が「臥待月(ふしまちづき)」です。座敷に横になって待ちます。さらに出てくるのが遅くなると、「更待月(ふけまちづき)」といいます。夜更けにならないと出てきません。
 江戸で月見が最もにぎわったのは、実は「二十六夜待ち(にじゅうろくやまち)」です。八つ(午前二時くらい)に月が出てくるので、それを、どんちゃん騒ぎをしながら待ちます。水菓子、にぎり鮨、天麩羅、二八蕎麦、団子などの屋台が出ます。月見を口実に、夜更かしができるというわけです。「月見舟」も出ます。

 「二十六夜待ち」なんて、言葉自体が死語化しているねぇ。
 ちなみに、この「二十六日」は、旧暦の七月二十六日。
 月の出が遅いので、“待ち”なのである。
 待つだけの、ご利益がある、と信じられていた。

 二十六夜待ちでは、観音様、阿弥陀様、勢至菩薩の三尊の光を見ることができるといわれ、信仰に対象にもなっています。月は女性と深い関わりがあり、子宝・子育ての願もかけます。秋に収穫の時期なので、農耕の感謝の気持ちも込めます。
月見の種類の多さを知るだけでも、どれほど江戸の人々が感受性が豊かで粋か、よく分かる。

 さて、これから団子・・・ではなく酒と肴で月見と洒落込むか(^^)


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by kogotokoubei | 2015-09-27 17:45 | 江戸関連 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛