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噺の話

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カテゴリ:江戸関連( 41 )

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 圓生による落語研究会の歴史を紹介した、『江戸散歩』。

 初版は昭和53年、あの騒動がある直前に、集英社から上下二冊の単行本として発行された。
 私は、昭和61年の朝日文庫版(上の画像)を持っている。
 三年前、小学館から、紙の書籍と電子書籍を同時発行する「P+D BOOKS」で再刊されている。
三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)

 昭和61年発行の文庫本に、川本三郎が「おしゃれな都市」と題した解説を書いている。

 当時の江戸ブームの担い手として、山本昌代という小説家や、杉浦日向子という漫画家、岡本蛍という劇作家の名を挙げ、彼女たちを江戸が魅きつけるのは、江戸が何よりも「おしゃれな都市」だったからに違いない、と主張した後から引用。
 ポスト・モダンと呼ばれる脱工業化社会の現代は、消費と蕩尽の時代だ。遊びの時代だといまさらのように騒がられているが、考えてみれば三百年ものあいだ平和が続いた江戸時代こそ、もっとも遊び心にみちた優雅な時代だったのである。戦争という無粋な男の破壊行為に対して、戯作や遊郭といった“軟弱な”女文化が熟した。まさにポスト・モダンを先取りした時代だったのである。
 昨年、ノエル・ペリンというアメリカの学者が書いた『鉄砲を捨てた日本人』という面白い本が話題になった。日本では戦国時代に鉄砲という刀を超える新兵器が輸入され、一気に普及した。ところが江戸時代になると不思議なことにこの鉄砲は捨てられ、再び刀に戻ってしまった。世界の武器の歴史のなかで鉄砲から刀へと退歩、ディスカレーションしたのは日本だけである。軍備拡張の時代に生きるわれわれ現代人は、この江戸時代の日本人の軍縮の知恵を学ばなければいけないーというのが『鉄砲を捨てた日本人』の主旨である。
 従来、江戸時代を語るときは「徳川三百年の太平」とか「武士が武士であることをやめた時代」とか、むしろその“軟弱さ”を批判的に見ることが多かった。しかし、現在の江戸論はその“軟弱さ”こそ、江戸のよさだったと見方を変えている。三百年も平和が続いたなんて本当にすごいことではないか!吉原の遊郭も落語も確かに“軟弱”かもしれないが、しかし、戦争で殺し合うよりずっといいではないか。

 まったく、同感。

 落語好きが“軟弱”と言われても結構^^

 『鉄砲を捨てた日本人』は、中公文庫で発行されている。

 この本を、もっとも読むべきなのは、原文(Giving up the Gun: Japan's Reversion to the Sword,1979)でトランプさん、文庫で安倍さん。

 朝日新聞の「GLOVE +」のサイトに、昨年8月14日、こんな記事があった。
朝日新聞「GLOBE+」の該当記事
 記事のタイトルは「戦略から決めるべき防衛費 なぜGDP比で語る」で。執筆者は軍事社会学者の北村淳。

ビジネスマン出身のトランプ大統領は、国防費のGDP比に拘泥している。しかし、NATO諸国はもとより、アメリカの軍事専門家たちの間にも、国防費をGDP比で決定する方針には強い批判がある。

それらの中でも軍関係者や軍事戦略家たちの間で最も目立って主張されているのが、「国防費は軍事的能力を基準として策定されるべきものであるから、軍事的能力ベースの評価が最優先されるべきであり、それ以前に『GDP比2%』といった数字ありきというのは全く誤った方針である」といったものである。

 日本のテレビで、こういう正論を主張するコメンテーターも、いわゆる“専門家”もいなかろう。

 日本の防衛費はここ数年増え続け、五兆円を超えている。
 
 なぜ、北朝鮮や中国が危険であると煽り、欠陥戦闘機のF-35やオスプレイを大量に買わなければならないのか。

 江戸時代、内戦という戦争をしないという戦略が、鉄砲を捨てさせたことを学ぶことは、重要だ。
 平和な世の中でなければ、あれだけ豊かな文化は育たなかった。

 軟弱で結構、鉄砲を捨てた江戸に学ぼうじゃないか。

by kogotokoubei | 2019-07-27 14:36 | 江戸関連 | Comments(0)
 さて、旧暦十二月十四日が、あと二日後に迫った。

 夜、月を見ると、赤穂浪士が、月明かりも味方につけて討ち入りを成就できたことが、よく分かる。

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「忠臣蔵事件」の真相(佐藤孔亮著・平凡社新書)

 ということで(?)、佐藤孔亮著「『忠臣蔵事件』の真相」(平凡社新書)を元にしたシリーズも、ついに最終回。

 江戸城における元禄十四年三月十四日に起こった、刃傷事件の後、浅野長矩の取調べを行った目付の一人、多門伝八郎が残した覚書には、いくつも不審な点があることを、紹介してきた。

 あらためて並べてみる。

 (1)浅野長矩の辞世の歌の紹介
 (2)介錯の刀に自分の差料を使ってくれと長矩が頼んだ、という逸話
 (3)切腹の場所が庭先であることについて、上司の大目付に抗議したという記述
 (4)幕府の裁定について抗議し、老中上座柳沢吉保の怒りを買ったという記述

 これらのことは、田村家関連の三つの記録を含め、他の史料には、いっさい存在しない。

 なぜ、多門伝八郎は、そんな記録を残したのか・・・・・・。

 本書は、この人自身の人生から、その理由を探ろうとする。

『覚書』は失意の中で書かれたか

 それにしても、どうして多門はこのようなことを書くのだろうか。
 ほかにも奇妙な記述は『多門覚書』にいくらもある。切腹の上意を長矩がうけたまわったとき、「切腹を仰せ付けられありがたき仕合せ」との御請の言葉を言った後で、吉良の様子を尋ねるのである。そこで多門と大久保の両人が口をそろえて言う。
「傷は二箇所あり、浅手だが、老人のことであり、急所を強く突いたこともあり養生のほどはおぼつかない」
 すると長矩は「落涙の体(てい)にてにっこと笑い」切腹の場所に着いた、という。何か芝居の脚本を読んでいるような気がする。
 お城を出て田村邸へ向かうところも大時代的である。
「お城より一統罷り出(いづ)べく候ところもはや三月十四日夕七つ時二分廻りなり・・・・・・」
 小説を読んでいるような気がする。
 『多門覚書』は読めば読むほど作りごとめいて見える。これは多門が見たものを書き記そうとした記録ではなく、何かすでにある事件の中で自分の立場を書き残そうとした記録ではないか。一つは徹底した浅野寄りのスタンスで書いた事件報告である。そしてその中で多門伝八郎はまことかっこいい。

 ということで、著者は、この多門伝八郎の人生を追ってみるのだった。

本名、多門伝八郎重共(しげとも)。万治二年(1659)生まれ。
寛文六年(1666)、十月八日、将軍に拝謁(八歳)。
延宝四年(1676)七月十二日、遺跡を継ぐ(十八歳)。
延宝五年(1677)五月十日、御書院番(十九歳)。
元禄九年(1696)四月二十三日、小十人頭(こじゅうにんがしら)(三十八歳)。
元禄十年(1697)二月十五日、目付。
同年七月二十六日、三百石増で計七百石(三十九歳)。
元禄十六年(1703)十月二十三日、加役(かやく)として火の元改(四十五歳)。
宝永元年(1704)六月二十六日、火の元改を許される。
同年八月二日、小普請(こぶしん)に貶(おと)される(四十六歳)。
享保八年(1723)年六月二十二日、死去(六十五歳)。

 この経歴を眺めていて、どうしても、四十六歳での降格、そして、その後の約二十年間、そのままの無役であったことが、気になる。

 本書の著者も、その点に着目していた。
 
 言うまでもなく「小普請組入り」とは旗本にとって無役ということである。多門伝八郎の身にいったい何があったと言うのか。なんらかの失態を演じた、と想像できる。

 無役の旗本、となると、先日から始まったNHK BS時代劇の勝小吉を思い浮かべる。
 しかし、小吉は、刀の目利きをしたり、町の人々に慕われていたので顔役として小遣いを稼ぎ、なんとか糊口を凌いでいた。

 多門は、いったいどんな苦労をしていたものか。

 無役になった理由としては、この経歴から察するに、火の元改を首になったことに訳がありそうだ。

 実は元禄十六年(1703)十一月、江戸に大火があり、江戸城内にも火が入ったことがあった。そのとき、伝八郎は加役として火の元改の役にあった。加役というのは目付の職はそのままで別の役を兼ねるということである。火の元改としての責任をとらされたのではないか、というのが私の見方である。
 これは伝八郎にとって思ってもない災難だったと思われる。目付として実績を積み、いよいよこれからが出世コースの後半戦に入るときだった。まさか四十六歳で、以後二十年間、役に就けないまま人生を終わるとは思ってもみなかったに違いない。
 元禄十六年の大火は、水戸上屋敷からの出火で別名「水戸様火事」と呼ばれている。
 水戸藩上屋敷の場所は、今の小石川後楽園。
 発生した火事は、本郷、浅草から隅田川を越え本所、深川方面まで類焼し、湯島天神や湯島聖堂なども焼失したと言われる。
 この火事における火の元改としての失態が、降格につながったと言うのは、経歴から察してあり得ることだろう。

 そして、著者は、伝八郎が無役になった不幸こそが、「忠臣蔵」創作につながったのではないかと推理するのである。

 エリート旗本の挫折。私はこの失意の二十年間が多門にこの『覚書』を書かせたのではないかと推測している。小普請に入ってみれば、目付として働いていた頃が一番自分が輝いていた頃なのだ。そしてその時に遭遇したのがあの赤穂事件だった。浅野長矩には取り調べもした。討ち入りの四十七士に入った片岡源五右衛門は田村邸に遺骸を引き取りに来たそうだが、自分は城に帰った後で会っていない。しかし浅野長矩が言付けを託した人物だ。吉良もよく知っている。
 多門伝八郎の頭の中で、あの事件の記憶がゆっくり回りだした。時間はたっぷりある。思い出しながらあの事件を書き残そう。と、考えても不思議ではないのではないか。

 たしかに、時間はたっぷりあっただろう。

 そして、つい、空想も筋書きに紛れ込んだかもしれない。
 あるいは、それが思い込みになった可能性も、なきにしもあらず。

 著者は、『多門覚書』に細かい人名の間違いが多く、たとえば柳沢吉保を松平美濃守と後の名前で書いていることなども指摘。よって、この覚書が、事件からだいぶたった後に書いたものと推測している。

 著者は、当時の多門の心理を、次のように推理する。

 刃傷事件当時は浅野には厳しい裁定だったが、討ち入りの後、世間の評判は圧倒的に浅野びいきである。自分なら書ける、自分にしか書けぬこともある。という気持ちもあっただろう。多少フィクションが入っても、当時の目付が書いたものと知られればみんな信用するに相違ない。別にこれで金儲けするわけではないのだ。書こう。

 そして、当時、実際には上司である大目付の庄田に反抗したり、老中上座の柳沢に食ってかかるなどはあり得なかっただろうが、書き出すうちに、どんどん自分がヒーローになっていったのではないか、と推察している。

 本書の「第四章 忠臣蔵を作った男・多門伝八郎」は、次のように締めくくられる。

 エリート旗本の二十年間の失意。それが『多門伝八郎覚書』を生んだに違いない。それは事実であって事実でない。挫折した男の夢が入り混じった話である。
 しかし、それらは「風さそう」の辞世の歌になり、片岡源五の暇乞いとなり、無数の芝居や映画、ドラマの筋の原型となって後世の人に夢を与えた。そのことを思うと、私は多門伝八郎をけっして非難しようとは思わない。

 たしかに、多門伝八郎が、無役の辛い日々の中で昔のことを思い、結果としてもっとも自分が輝いていた時の出来事を書き綴る中で、つい、自分をかっこよく描いたとするなら、それを責めるのは酷かもしれない。


 『仮名手本忠臣蔵』の初演は、多門伝八郎没後、二十五年後の寛延元年(1748)年。
 刃傷事件があった元禄十四年から、四十七年後のことだった。


 このシリーズ、これにてお開き。

 長らくお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

by kogotokoubei | 2019-01-17 21:27 | 江戸関連 | Comments(0)
 11日(金)から始まり、私が13日に再放送で見たNHK BS時代劇「小吉の女房」について、短い記事を書いた。

 勝小吉という魅力的な人物が登場することに加え、主役も脇役も小劇団で腕を磨いてきた俳優さんなど芸達者なキャスティングで、今後も楽しみだ。

 勝小吉は自伝『夢酔独言』で、自分の失敗もあからさまに書き残し、子孫への「いましめ」にせよ、いわば、反面教師にせよ、と言い残している。

 小吉は、生涯を通してガキ大将として生きたような人で、喧嘩も大好きだった。

 すでに息子の海舟に家督を譲った後に書かれた自伝には、そこまで書くか、という失敗談が多い。

 その内容には、自分を良くみせようなどという虚飾性は、微塵もない。

 そういう意味で、小吉の自伝と、このシリーズで取り上げているある人物の覚書は、好対照と言えるかもしれない。

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「忠臣蔵事件」の真相(佐藤孔亮著・平凡社新書)

 佐藤孔亮著「『忠臣蔵事件』の真相」(平凡社新書)を元に、このシリーズの四回目。

 浅野長矩を刃傷事件の後に取り調べた目付の多門(おかど)伝八郎が残した覚書には、いろいろ疑問が多く、伝八郎の創作と思われることを本書の著者は指摘しているが、中でも自分自身のことを偽って劇的に描いたと思しき点について今回はご紹介。

 長矩の切腹場所が庭先であると大目付の庄田下総守が言うので、上司の庄田に対し自分が抗議したと、伝八郎は『多門覚書』に記している。

 しかし、田村家の記録の一つ『杢助手控』には、この切腹の場所は老中の指示であり、庄田と多門との口論があったことなど、まったく書かれてはいない。

 本書から、引用。

「柳沢吉保に抗議した」話

 多門は検使として田村邸に赴く前に柳沢吉保の勘気を受け、控え部屋に控えていた、ということになっている。だから私は役目のことを直接伺っていないので、大目付の庄田に落ち度がないようお願いし念を押しているのだと言う。
 これも変な話だ。一種の責任逃れにも見える。自分は聞いていない、当地(田村邸)へ行けばやり方がおかしい、責任は大目付の庄田にある。では同役の大久保左衛門はどうか。大久保は控え部屋にいたわけでもなく、きちんと仕事をこなして田村邸に行ったはずだ。ところが『多門覚書』では彼も多門と一緒に庄田に向かって抗議をしていることになっている。これが本当だとしたらこんな無能な目付もいないものだ。

 多門の覚書では、長矩の切腹の場所が庭先であることについて、大目付の庄田がそれが老中の指示であると明確に答えていないため、多門が大名には相応しくない、と抗議したと書かれているが、やはり、これは不自然だ。もちろん、紹介したように、同役の目付が二人して上司に抗議するなども、あり得ないことだと思う。

 本書では、多門の覚書では、庄田も大久保も、長矩を預かった田村も、みなおかしい、と指摘する。

 多門の批判を受けて言い訳も説明もせず、ただ威張っている庄田、終始無言で時々多門と行動を共にする大久保、多門に言われて立腹し、じっくり聞くと感心してしまう田村。多門を主役とするとみんな脇役か悪役である。

 そして何と言っても不思議なのは、多門が柳沢吉保の勘気を受けていた、という点なのだが、その理由が、多門のとんでもない行動によるものだと、本人が記しているのだ。

 『多門覚書』では刃傷事件の後、その裁定をめぐって多門が異議を申し上げ、なんと当時側用人から老中上座に上り、将軍綱吉の信頼を集め、権勢を誇った柳沢吉保の怒りを買って部屋の控えさせられた、と書いているのである。
 多門は刃傷事件の後の浅野長矩を取り調べた。浅野長矩が言うには、「お上に対して恨みはない、吉良には宿意をもって前後を忘れ刃傷に及んだ。打ち損じたことは残念だが、この上はどのよう裁きを受けてもかまわない」ということだった。
 ところが、幕府の裁定は浅野は切腹、吉良はお構いなし、であった。多門は若年寄(目付は若年寄の支配下にあった)に面談を求め、ここで抗議する。「五万石の大名が家名を捨て、場所柄も忘れて刃傷に及ぶほどの恨み」である。吉良に落ち度があるかもしれず、それを吟味しないで切腹を言い渡すとはあまりにお手軽な取り計らいではないか、というのだ。いかにも多門が言いそうな論理である。ただし『覚書』によると多門はじめ目付両人の訴えとなっている。
 これに対し、若年寄は「もっともなことだ。老中に申し上げよう」と言うので、多門たちが控えていたら、若年寄の稲垣対馬守と加藤越中守が、もうすでに柳沢吉保(ここでも『多門覚書』は「松平美濃守」と書いているが、柳沢がこの名前を賜ったのは八ヶ月後の元禄十四年十一月のことである)が決着したことだ、と伝えてきた。
 そこで多門はひとりになって食い下がる。柳沢ご一存(原文は「美濃守殿ご一存」と書かれている)の決着であれば(つまり将軍の裁定に達していないのであれば)もう一度お願いしたい、という。これを伝え聞いた柳沢が立腹した。執政の者に何度も異議を申し立てるとは心得がたい、とのことで多門はついに差し控えの部屋で控えておれ、との仕置きを受けたのである。

 この日の江戸城の様子を察すると、こんなことはとても考えられない。

 勅使への対応で忙しい中に刃傷事件発生。
 その裁定をめぐって目付が若年寄に抗議し、若年寄が実力者の老中上座の柳沢に取り次ぐなんてことが、あり得るだろうか。

 柳沢吉保の短い日記には、「目付両人参る」とだけ書かれており、多門の名も残されていない。
 『徳川実紀』にも、何らこの抗議のことは書かれていない。

 『多門覚書』だけが、本人が裁定に抗議したことを記しているのだ。

 どう考えても、不思議なのだ。

 多門伝八郎の覚書は、終始、浅野贔屓であるとともに、自分が浅野を援護するあまり上司や若年寄にまで抗議する姿が描かれている。

 これまで紹介してきた、多門伝八郎の覚書への疑問は、次のような点。

 (1)浅野長矩の辞世の歌の紹介
 (2)介錯の刀に自分の差料を使ってくれと長矩が頼んだ、という逸話
 (3)切腹の場所が庭先であることについて、上司の大目付に抗議したという記述
 (4)幕府の裁定について抗議し、老中上座柳沢吉保の怒りを買ったという記述

 これらのことは、田村家関連の三つの記録を含め、他の史料には、いっさい存在しない。


 なぜ、多門伝八郎は、そんな記録を残したのか・・・・・・。

 その謎についての本書の推理は、最終回のお楽しみ。

 旧暦十二月十四日まで、あと四日だ。


by kogotokoubei | 2019-01-15 12:27 | 江戸関連 | Comments(0)
 昨日のアクセスランキングで、『談志楽屋噺』を元に書いた“キザな小円遊”に関する記事(2013年10月)へのアクセスが急増していた。

 この記事は安定的にアクセスがあり、「笑点」関連のニュースがある際には増えるのだが、昨日のアクセス数は約150もあった。

 きっと、BS笑点ドラマスペシャルの影響かとは思うが、昨夜午後七時からの五代目圓楽を主人公としたドラマは、野暮用のため見ることができなかった。

 歌丸さんのドラマが予想外に良かったので、なんとか見たかったが残念。録画もしなかった。まぁ、こういうことも、よくある。

 ということで、そのドラマのことではなく、このシリーズの続編。

 旧暦十二月十四日は、1月19日。あと、六日だ。

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「忠臣蔵事件」の真相(佐藤孔亮著・平凡社新書)

 佐藤孔亮著「『忠臣蔵事件』の真相」(平凡社新書)を元に、このシリーズの三回目。

 一回目は、浅野長矩作とされる辞世、「風さそう花よりもなお我はまた春の名残をいかにとかせん」は、浅野長矩の取調べをした目付、多門(おかど)伝八郎の覚書にしか存在しないものであること、二回目は、長矩が介錯に使う刀として自分の差料を望んだことも、同じように伝八郎のみが伝えていることを紹介した。

 三回目は、その後創作された「忠臣蔵」で重要な場面の元となったとされる、あの話について。

 「多門伝八郎覚書」より。

 ちなみに、この逸話の前には、多門が上司である大目付の庄田下総守と、切腹の場所について衝突していたことが紹介されている。

「片岡源五右衛門の暇乞い」というフィクション

 もう一つ、重要なことがある。田村邸で浅野長矩が切腹をしたときに、片岡源五右衛門が田村邸を訪れ、主君に一目逢いたいと言って暇乞いが許された、という話である。これは映画やドラマにもなっている有名な場面である。しかしこれまた、首をひねらざるを得ないことなのである。さきほど庭先の切腹をめぐる正使(大目付)庄田下総守と副使(目付)多門伝八郎との衝突について考えたが、『多門覚書』によるとその騒ぎが終わる頃である。田村右京太夫が伝えるところによると、「ただ今、浅野内匠頭家来片岡源五右衛門と申す者が来て、主人がお宅で切腹を仰せ付けられていると聞いて主従の暇乞いに一目主人に逢わせてもらいたい、と言っている。断ったところ、一度検使の方にお願いしたいと、顔色を変えて言っているが、どうしたものか」というのである。
 庄田下総守は「それしきのこと、大検使に言うまでもないことだ」と言って、いいとも悪いとも言わない。多門は「差し支えないではないか、長矩切腹の場所に出て、間を隔てて無刀にして、警護をすれば、家来は大勢いるし、主人を助けようと飛びかかってきても取り押さえられるだろう。一目くらいは慈悲である」と認める考えである。これを聞いて庄田は「思うようにされたらいい」と認めた。
 田村右京太夫が多門伝八郎の一存で許された旨を片岡へ伝えると、ことのほか喜んだという。そして小書院次の間に無刀で控えさせて、大勢の家来で警護させる、と多門に伝えた。こうして「片岡源五右衛門、主君への暇乞い」が叶ったというわけだ。
 「仮名手本忠臣蔵」での主従の最後の対面など、この片岡源五右衛門の暇乞いがネタ元となっているわけだが、本当にこんな場面があったのかどうか・・・・・・。

 片岡源五右衛門は、九歳にして片岡家百石の家督を相続し、小姓として浅野長矩に仕えた。長矩とは同い年で、信任が厚かったと言われている。

 この片岡暇乞いについて、田村家の三つの史料には何ら記述はない。
 いろいろ疑わしい点が、ある。
 多門覚書には、翌日十五日、片岡が多門に家を訪れて主人との対面の礼を述べたとも記されている。
 また、その年の十一月にも片岡が再び訪ねてきたとされている。
 本書での見解。

 この話はどうだろうか。まず、田村邸での切腹の場に現れてきたということ。一度来て断られて、再度来たときは検使にもお願いする、ということで多門の出番となった。
 ふつう切腹の場は非公開である。その場にいるのは検使のほかは当家の主人と世子、他は介錯人などの役人にすぎない。そこへ切腹する当人の家来が「一目だけでも」と暇乞いをお願いするというのは、講談・浪曲の世界であって、いくら警護を大勢つけたといって、にわかには信じがたい。
 なにしろ少し前まで主君の死には殉死が一般的だった時代である。殉死は前代将軍の家綱時代に禁じられていたが、それにしても何が起きるかわからない。切腹する当人は大名とはいえ殿中で刃傷に及んだ者である。もし暇乞いのような願いが出されたとしても、断固としてはねつけるのが検使の役目であろう。もしこれが事実ならば、それこそ検使としてこれが落ち度にならなかったことが不思議である。
 田村右京太夫もおかしい。『多門覚書』では田村が片岡と多門の取次ぎをしているのある。片岡は感謝しております、などということを三万石の大名が、検使の目付にわざわざ報告に来るだろうか。相手は罪人の家来である。
 翌日の話もおかしい。片岡はお礼に多門の屋敷を訪れたという。しかし片岡は同日の十四日、主人内匠頭長矩の遺骸を泉岳寺に葬り、墓前で磯貝十郎左衛門、田中貞四郎、中村清右衛門と四人で主君に殉じて落髪している。そんな状態の者がいくらお礼が言いたいといって、目付の屋敷へ出かかていくだろうか。はなはだ疑問である。

 ということで、劇的な主従の別れのの対面も、多門伝八郎の創作と考えられるのだ。
 では、最後に長矩と家来との何らかのコミュニケーションはなかったのか、というと、田村家の記録の一つ『長岡記録』には、長矩が切腹する前に、家来への伝言があったことが記述されている。
 最初、手紙を遣わしたいと長矩が言ったら、番人が伺いを立てなければならないと答えたので、それでは口上にて伝えたいと言って残した言葉がある。

 宛て先は「田中源五左衛門」と「磯田七郎左衛門」となっているが、おそらく片岡源五右衛門と磯貝十郎左衛門のことではないかと思われる。

   此の段兼ねて知らせ申すべく候えども、今日やむを得ざること候ゆえ
   知らせ申さず候、不審に存ずべく候由」という内容。

 このことはかねてから知らせておくべきだったが、今日となってはもはや知らせることはできなくなった、さぞ不審に思うことだろう、ということだが、さっぱり要領を得ない文章だ。あえていえば、吉良との確執とか、胸にしまっておいた思いがあるのだろうが、とうという言えずに終わってしまった、らしいことがわかる。
 私はこの言付けは信用できると思う。これは番人が「伺いを立てなければならない」と言っていることから、検使の役人には聞こえない範囲で言ったことだろう。本当に最後に言った言葉というのはこんなものかもしれない。長矩は従容としてその場についた、と思われる。
 
 なんとも劇的ではない、長矩最後の言葉、と言えるなぁ。

 本書の著者は、この最後の言葉の宛先が片岡源五右衛門であると想定し、実際に遺骸を引き取りに彼が来たことから、暇乞いというフィクションを創作したと推理している。
 では、なぜ、多門伝八郎は、そんな作り話を後世に残したのか・・・・・・。

 謎は深まる。

 次回は、他にもある多門覚書の不思議について。

by kogotokoubei | 2019-01-13 17:27 | 江戸関連 | Comments(2)
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「忠臣蔵事件」の真相(佐藤孔亮著・平凡社新書)

 佐藤孔亮著「『忠臣蔵事件』の真相」(平凡社新書)を元に、このシリーズの二回目。

 前回は、浅野長矩の有名な辞世は、刃傷事件の後に長矩を取り調べた目付の一人、多門(おかど)伝八郎が残した覚書にしか書かれていないことを紹介した。

 長矩が預けられ切腹の場となった田村家の関係者が残した三つの記録には、辞世についての記載がまったくない。よって、地元赤穂市の記録においても、あの辞世が長矩が実際に詠んだものかは疑わしいと指摘しているのだ。

 どうも、多門の創作ではないかという説が、現在では有力となってきている。

 また、多門は、他にも創作している可能性がある。

介錯の刀をめぐる重大な疑問

 辞世の歌の他にも多門の『覚書』には首をひねらざるを得ない箇所がいくつもある。
 第二点は介錯の刀である。先にも紹介した多門の『覚書』には辞世の歌の直前にこのような場面がある。
 六つ過ぎ、長矩が切腹の座に着くと、御検使衆に一つ願いがある、と言って「拙者の差料をお預けしたはずだが、その刀で介錯してもらいたい。その刀は後で介錯人にお渡しいたしたい」というのである。大検使の庄田下総守は副使である目付二人、つまり大久保権左衛門、多門伝八郎と相談した上、願いのとおり預かりの刀を取り寄せることにした。そして長矩が辞世の歌を詠んでいる間にそれが届いた。
 はたして切腹する当人が、自分の刀で介錯して欲しい、と願い出ることは実際にあることだろうか。疑問である。しかもその刀を介錯人に与える、という。何のために、という疑問がわく。

 介錯に、自分の刀を使って欲しい・・・と願う感覚、なんともつかみ難い。

 この件についても、切腹の場、田村家の記録が多門への反証となる。

 介錯の刀に関しては『杢助手控』に詳しい。大名切腹の介錯の刀ということから、殿様の御腰の物から下げ渡しを戴きたいと、小姓頭が吟味した上、「美濃千寿院の刀」が一枚五両の札が付いているのをどうか、と伺ったところ、殿様の田村右京太夫は「この刀はそのようなことに使うものではない。誰がそのようなことを言ったのか」と叱ったという。そのため加賀清光(長さ二尺一寸)を下され、袋箱がなかったので相応なる袋箱を用意する、というバタバタぶりである。
 一方、三方に載せ、長矩が切腹で用いる小脇差は長光の小脇差を使った。由緒あるもので、使用後に研ぎなおし、鞘なども作り変えて納め置いたという。
 これによると、あれこれ吟味した上、殿様の意向もあって、介錯の刀は加賀清光、小脇差は長光に決まったというのである。五万石の大名を急に預かり、その切腹にあたって短時間での田村家の準備がいかに大変だったのか、よくわかる話である。

 田村右京太夫、右京太夫は官位、本名は田村建顕(たむらたつあき)で、陸奥岩沼藩第二代藩主にして、のちに田村家一関藩初代藩主となった人。

 前回、田村家の記録が三種類のあると紹介したが、その一つは『一関藩家中(かちゅう)長岡七郎兵衛記録』(以下『長岡記録』)。一関藩、となっているのは、田村家が初代藩主であったからなのだ。
 『杢助手控』も、正式には『一関藩家中北郷(きたざと)杢助手控(もくすけてびかえ)』なのを短縮したもの。もう一つの田村家の記録は、『三月十四日御用留書抜』(以下『御用留書抜』)だが、『杢助手控』以外の二つの記録には、刀について詳しいことは書かれていない。

 では、『多門伝八郎覚書』と『杢助手控』のどちらが、正しいのか。

 筆者も、そして私も、『杢助手控』に軍配を上げる。
 
 その内容が、現場に居た者でしか書けないリアリティがあるのだ。

 反して多門の覚書には、まるで小説のような、創作された痕跡がある。

 また、浅野長矩という大名の振る舞いとしても、多門が残した記録には疑問が消えない。

 筆者の見解を引用。

 私は史料を読み解くことによって、従来言われてきた浅野長矩像を見直していきたいと思っているが、切腹の場における長矩は、従容として潔く最期の場に臨んだのではないか。五万石の大名として、よけいな振る舞いはなかった、と思いたい。
 『多門覚書』は最初から最後まで浅野びいきの立場で書かれている史料である。その意図が何であるのか知らないが、ときにこうしたひいきの引き倒しにも見える記述がある。

 辞世の歌、介錯の刀、そして、他にも『多門覚書』には、他の記録にはない劇的とも言える記述があるが、それは、次回のお楽しみ。
 
by kogotokoubei | 2019-01-12 10:36 | 江戸関連 | Comments(2)
 今年の旧暦十二月十四日は、1月19日の土曜日。

 元禄十四年の十二月十四日、あの有名な事件があった。

 その日までに何回かに分けて、このシリーズを書くつもり。

 「忠臣蔵」については、2013年の旧暦十二月十四日に書いたことがある。
2013年1月25日のブログ

 樋口清之さんの本『江戸と東京』を引用した短い記事だった。
 引用部分を再度ご紹介。
嘘忠臣蔵

 元禄の快挙として、忠臣蔵程芝居講談で人気のあったものはなく、又、それだけに脚色に脚色が加えられて真実の誤りを伝えられているものも少くありません。
 殊に「仮名手本忠臣蔵」をはじめ、戯曲の忠臣蔵類は、芝居としての舞台変化と、ストーリーの曲折をねらって、良くもあんな嘘が言えたものと思う程に、色々と妙な話が附随してしまいました。いわゆる赤穂浪士には私も十分の同情と、理解を持っているつもりですが、それだけに、俗説忠臣蔵には一方甚だ憤りを感じています。今後機会を得てできるだけその真相を詳しくお話申し上げたいと存じます。
 第一堀部安兵衛高田馬場の仇討も十八人斬どころか相手は僅かに五人、味方は四人でありましたし、討入りにつきものの山鹿流の陣太鼓も実はただの銅鑼でありましたし、上野介が斬られたのは松の廊下ではなく大廊下でした。豪酒家といわれる赤垣源蔵は全然酒を飲みませんし、本所松坂町などという名の町は討入りの頃にはまだありません。一行が勢揃いした楠屋というそば屋はなく、勢揃いしたのは実は堀部安兵衛の私宅でした。それに第一討入りの正確な日は元禄十五年十二月十五日午前四時で、十四日ではなく、かつ雪等は降らず月夜でした。天野屋利兵衛は義士と何の関係もなく、忠僕直助等は実在しません。

 史実と俗説や芝居(ドラマ)の大いなるギャップは、現代でも頻繁に散見されるが、「忠臣蔵」ほどその乖離が大きいものはないかもしれない。

 樋口さんが指摘するように、あの事件はあまりにも脚色されてしまった。

 言い換えれば、あまりにも“劇化”された、とも言える。

 それは、江戸の町人たちが、それを期待したという社会情勢もあっただろうが、“劇化”を促す情報が背景にあった。

 今回は、ある本を元に、あの事件を劇化させることに大きな貢献(?)をしたある人物のことを紹介したい。

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「忠臣蔵事件」の真相(佐藤孔亮著・平凡社新書)

 「『忠臣蔵事件』の真相」は2003年に平凡社新書で発行されたもので、作者の佐藤孔亮(こうすけ)という人は、出版社勤務を経てフリーライターになった方で、年齢は私とほぼ同じだ。
 本書巻末のプロフィールには、次のように紹介されている。

歌舞伎、落語など古典芸能に造詣が深く、また独自の視点から忠臣蔵の史料に取り組み、芝居と史実の両面からアプローチを試みている。川柳作家、都々逸作家でもある。

 この内容を読んで、少なからず親近感が湧いてきた。

 さて、「忠臣蔵」が創られる背景には、さまざまな要因があるのだが、この人の残したものは実に重要だなぁ、と思えるのが、目付の多門伝八郎。

 本書の「第四章 忠臣蔵を作った男・多門伝八郎」より引用。

 まず、あの辞世への疑問から。

辞世の歌は別人の作か

  風さそう花よりもなお我はまた春の名残をいかにとかせん

 浅野長矩の辞世として知られている歌だ。あまりにも有名である。JR播州赤穂駅の構内ロビーに書家によって大きく書かれているのもこの歌だ。しかしこの歌は本当に長矩の辞世だろうか。いや、本人が本当に詠んだ歌なのだろうか、という疑問の声が多いのである。
 この歌が記されているのは『多門伝八郎覚書(おかどでんぱちろうおぼえがき)』という幕府目付多門伝八郎の書いたものである。他には記されていない。まず第一にこれがおかしい。浅野長矩は刃傷事件を起こした後、田村右京太夫建顕(たけあき)の屋敷に預けられ、そこで切腹を仰せ付けられた。元禄十四年(1701)三月十四日、事件を起こしたその日の六つ過ぎ(午後六時過ぎ)である。
 『多門伝八郎覚書』にはこうある。
 長矩が切腹の座について、「自分の差料(さしりょう)を介錯の刀として使ってもらいたい」との願いが許され(この話もおかしいが後述)、その後に硯箱と紙を所望するので差し出すと、長矩は硯箱を引き寄せ、ゆるゆる墨を摺り、筆を取り、「風さそう花よりもなお我はまた春の名残をいかにとかせん」と書いて、墨を摺っているうちに届いた刀(自分の差料)を介錯人磯田武太夫に渡し、辞世の歌は御徒付目付水野杢左衛門が受け取って「田村左京太夫」(多門は田村右京太夫を間違えてこう書いている)へ渡した、という。

 多門伝八郎は、刃傷沙汰の後に、浅野長矩を取り調べた目付。
 だから、彼が残した覚書は、信頼できるものとしえ当時は受け入れられたのだと思うが、それ以外に存在する史料には、辞世の句のことは、まったく残されていない。

 引用を続ける。

 ところが他の史料ではどうか。この切腹に関して田村家の記録は三種類ある。『一関藩家中(かちゅう)長岡七郎兵衛記録』(以下『長岡記録』)は、江戸城へ赴き長矩の身柄を預かるところから切腹までをもっとも細かく記している。『一関藩家中北郷(きたざと)杢助手控(もくすけてびかえ)』(以下『杢助手控』)は介錯の刀や切腹の場所をめぐる話が細かく書かれていて面白い。『三月十四日御用留書抜』(以下『御用留書抜』)は要点のみを書き記している。いずれも田村家がどのように対応したかについて書き残しており、貴重な記録になっている。
 『長岡記録』では切腹の場面はこう書かれている。
 大目付庄田下総守が上意の趣、すなわち「その方儀、意趣ある由にて吉良上野介を理不尽に切り付け殿中を憚らず時節柄と申し重畳不届至極に候、よって切腹仰せ付けられ候由」と申し渡す。それを受けて長矩は、「今日不調法なる仕方如何様にも仰せ付けらる儀を切腹と仰せ付けられ有難く存じ奉り候」と述べる。
 それが終わると御徒目付が左右後ろに付き添い、障子を開けて庭へ降り、毛氈の上に着き、小脇差を三方に載せ、中小姓(愛沢惣右衛門麻上下を着す)が三方を持って前に差し置く。介錯の磯田武太夫がただちに仕舞い、首を差し上げて検使に見せる。
 実に淡々とした様子で、辞世の歌などどこにも出てこない。

 田村家の他の記録にも、辞世のことは書かれていない。
 なんと、赤穂市刊行の『忠臣蔵』第一巻にも辞世の歌については他の史料で確認できず、「偽に近いようにも思われる」と指摘していると本書では説明されている。

 そして、辞世に限らず、多門伝八郎の覚書には、いくつも疑問があることを本書は指摘する。

 それらの問題点については、次回。

 講釈師見てきたような嘘をつき、なんて言葉があるが、伝八郎は講釈師ではなく、旗本であり、目付なのだ。

 なぜ、彼が残した覚書が、「忠臣蔵」というフィクションにつながっていくのか、なかなかに興味深いテーマなのである。


by kogotokoubei | 2019-01-10 12:50 | 江戸関連 | Comments(2)
 また、JR山手線の新駅に関連したこと。

 「高輪」という地名の由来を、ちょっと調べてみた。

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大石学著『地名で読む江戸の町』

 大石学著『地名で読む江戸の町』(PHP新書、2001年3月発行)の、「高輪」の章より。

 高輪(港区)

 赤穂浪士と泉岳寺

 高輪付近には、「高輪台」「三田台」「白金台」など、台のつく地名が多い。その名の通り、この付近は台地であった。
『新編武蔵風土記稿』によると、高輪という地名の由来は「土地往還の縄手道(なわてみち)にして頗(すこぶる)高き所なれば高輪と唱へし」とある。つまり、高台に通っていた縄手道(直線状の道)に由来するということである。「高縄手」の下の一文字が省略され、「高縄」となり、「高輪」と変わった。高輪が台地であったがゆえについた地名と言える。

 「高」い「縄手道」--->「高縄手」--->「高縄」--->「高輪」

 ということだったわけだ。
 
 引用を続ける。
 大木戸は、江戸の府内と府外を区別する門のことである。高輪大木戸は東海道の江戸の入口である。現在残っている大木戸は、ほかに甲州街道・青梅街道の入口である四谷大木戸がある。全国測量を行った伊能忠敬は、高輪大木戸を基点としたと言われる。

 大木戸のこと、そして、伊能忠敬との関係も、しっかり説明されている。

 次に、この近くの史跡といえば、あのお寺のことになる。

 港区高輪二丁目にある泉岳寺には、浅野内匠頭長矩と、吉良邸(隅田区両国)に討ち入った四十七名の浪士の墓がある。泉岳寺は徳川三代将軍家光の命により、浅野家と縁故を結んだと言われる。
 赤穂浪士は討ち入り後、四大名家に預けられ切腹した。すなわち、伊予松山藩松平隠岐守の中屋敷(港区三田、現イタリア大使館)には、大石主税ら十名、岡崎藩水野監物の中屋敷(港区芝)には、間重次郎ら九名、熊本藩細川越中守下屋敷(港区高輪)には大石内蔵助ら十七名、また長州藩毛利甲斐守上屋敷(港区六本木)には、岡嶋八十右衛門ら十名が、それぞれ預けられ切腹した。切腹の地は、いずれもこの近くであった。なお、寺坂吉右衛門は討ち入り後に離脱し、八十三歳で天寿をまっとうしたと言われる。

 泉岳寺をはじめ、新駅近くが、忠臣蔵ゆかりの地であるのは、すでに周知のこと。
 また、伊予松山藩松平隠岐守の中屋敷が、現在イタリア大使館であるように、港区には大使館が多い。

 森ビルの入居者を会員とするeHills Clubが運営している「HILLS CLUB」という、六本木ヒルズ・赤坂・虎ノ門周辺のタウンガイドのサイトに、港区にある大使館の一覧が掲載されている。HILLS CLUBのサイト

 なんと、高輪や西麻布、六本木や白金台などに約90の大使館がある。

 これは、江戸時代に大名屋敷の多くが現在の港区にあったため、明治新政府が土地を没収し、“グローバル化”のために数多くの国の公使館を立てる土地にあてがったことが始まり、と下記のように港区のサイト(KIDS SQUAREの「まちなみ探検」)にも書かれている。
港区サイトの該当ページ

はじまりは江戸時代(えどじだい)に置か(おか)れた最初(さいしょ)の外国公使館(こうしかん)

 現在(げんざい)、日本には約(やく)140カ国(かこく)の大使館(たいしかん)があり、その約半数が港区(みなとく)にあります。
 江戸時代末期(えどじだいまっき)に日本が世界(せかい)へ国際交流(こくさいこうりゅう)の門戸を開き(ひらき)、最初(さいしょ)の外国公使館(こうしかん)がアメリカは善福寺(ぜんぷくじ)に、イギリスは東禅寺(とうぜんじ)に、フランスは済海寺(さいかいじ)に、オランダは西応寺(さいおうじ)に置か(おか)れました。
 明治維新(めいじいしん)後、政府(せいふ)は旧(きゅう)大名家から没収(ぼっしゅう)していた屋敷(やしき)の跡地(あとち)を大使館用地として各国(かっこく)に提供(ていきょう)しました。このような経緯(けいい)により、大名屋敷が多くあった港区に大使館が集まっ(あつまっ)たのです。

 現在多くの外国大使館が港区に置かれているのも、こうした歴史的(れきしてき)な背景(はいけい)があるからでしょう。

 すでに幕末から、この一帯は、国際的だったと言えなくもない。

 そういう点からも、「高輪ゲートウェイ」という名称、まんざら当っていないとも言えないのだが、JRの命名の理由に、大使館のことは含まれていない。

 それにしても、やはり「高輪大木戸」にして欲しかった。
by kogotokoubei | 2018-12-06 12:47 | 江戸関連 | Comments(2)

江戸庶民と、ご飯。

 明日は、旧暦の八月一日、八朔。

 六年前の新暦の8月1日に、八朔については記事を書いた。
2011年8月1日のブログ

 江戸では、家康が江戸城入りした日という記念日。
 吉原では紋日であることなども紹介したので、興味のある方はご覧のほどを。

 この時期に早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を贈る風習があったので、“田の実の節句”ともいう。
 「たのみ」を「頼み」にかけて、武家や公家の間でも、日頃お世話になっている人に、感謝の意味で贈り物をするようになった、と言われる。

 私は“田の実”からご飯を連想してしまうのだが、それは前回の記事で、江戸時代には一日ご飯を五合食べていた、ということを紹介したからかな。

 もうじき、今年の新米も出回るだろう。

 そこで、ご飯シリーズ。

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永山久夫著『大江戸食べもの歳時記』(新潮文庫)

 まず、最初はこの本から。

 食文化の研究者で、江戸時代の食事などに関し多数の著書がある永山久夫さんの『大江戸食べもの歳時記』からは、以前に蕎麦のことで引用したことがある。
2015年12月11日のブログ

  今回は、ご飯のことで、前回の記事の裏付け(?)的に、江戸時代にどれだけご飯を食べていたかについて引用。

現代人の二倍の米を食べていた 
 
 日本人は、昔から一人当り一年間に一石(150キロ)の米を食べてきた。江戸初期のの日本人の人口は3000万人で、米は3000万石生産されていた。
 明治になって、人口が5000万人になったとき、米は5000万石とれていた。大正末期に6000万人となったが、米の生産量は6000万石に達していた。米の生産量が、人口を増やしていたのである。
 一年に一石というと、一日には約410グラムになる。現在の日本人が食べている量は200グラム弱だから、江戸時代の人たちの半分以下。
 日本人が現在と同じように、一日に三回食事をするようになったのは、江戸時代の初期で、大人で一日ざっと五合(750グラム)の米を食べていた。
 三回になる前の時代は、ずっと朝と夕の二回食であり、一食分が二合五勺(約375グラム)。江戸時代には二合五勺の升があったが、二食時代の名残りである。

 ほらね、こっちの本でも、一日五合、でした。

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永山久夫著『江戸めしのスゝメ』(メディアファクトリー新書)


 こちらも永山久夫さんの本、『江戸めしのスゝメ』。
 一日二食から三食に替わったのはいつの頃か、ということについて。

 『おあむ物語』という江戸時代の書物には、それまで永らく一日二食だった人々が三度の習慣を新鮮に受け止めていた様子がわかる、興味深い記述がある。この本は石田三成の家臣として大垣城に仕えていた武士の娘が晩年、子どもたちに語った話を記録したもので、彼女は慶長五(1600)年の関ケ原の戦の後、父に従って土佐に趣き、寛文(1661~73)の頃に80歳前後で亡くなったとされている。
「私の父は知行300石をとっていたが、その頃は戦が多くて何事も不自由だった。朝夕には雑炊を食べていた。(中略)13歳のときに持っていた着物は手作りの帷子(ひとえの着物)が一着だけ。それを十七歳まで着ていたので、すねが出てしまい困り果てた。このように昔は物事が不自由だった。昼めしを食べるなんて夢にも思わなかったし、夜食もなかった。最近の若い者は服が好きだし、お金を使う。いろいろと食べ物の好みもある」 江戸後期の国学者、喜多村信節(のぶよ)はまた、庶民社会の風俗を記した『瓦礫雑考』のなかで「古くより朝餉夕餉といって、昼餉ということは聞かず、中食(昼食)は後世のことなるべし」と記している。
 もっとも、一日二食の習慣が長かったのは上流階級や武士だけで、農民や職人など労役者は古くから間食を自由にとっていた。江戸の庶民たちのあいだにも比較的、早い時期から三食の習慣が定着していたと考えられる。

 引用されている「おあむ物語」について、少し調べてみた。
 国立公文書館のサイトに、創立40周年記念貴重資料展「歴史と物語」のページがあり、その中で「おあむ物語」が紹介されていた。国立公文書館ができたのが昭和46(1971)年7月だから、六年前のイベントだ。
「国立公文書館」サイトの該当ページ

 引用する。

36.おあむ物語
おあんものがたり

戦国時代といえども、さすがに女性がいくさの前面に出て戦うということはめったにありません。しかし、血を見るのも怖い、と恐れるようなことは言っていられませんでした。
ここで取り上げた資料は、青春時代を戦国の混乱の中で過ごした女性の思い出話。主人公の「おあむ」は、石田三成の家臣の娘で、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのおり、石田方の美濃大垣城に入ります。そこで待ちかまえていたのは、味方の獲ってきた敵方武将の首の処理。

みかたへ、とった首を、天守へあつめられて、札をつけて覚えおき、さいさい、くびにおはぐろを付ておじゃる・・・くびもこはいものではあらない。その首どもの血くさき中に、寝たことでおじゃった。

戦後の恩賞のため、少しでも綺麗に見栄え良く化粧することが求められました。しかし、凄まじいのはこれから。「おあむ」は、目の前で実弟が射殺され、冷たくなっていくのを目の当たりにします。また、闇に紛れて城から逃げる際には、身重の母親が急に産気づき、田んぼの水を産湯代わりに妹を出産。すぐに父親が母親を肩にかけて落ち延びていきます。

「おあむ」の語りの言葉に、凄まじいまでの戦国の世の実像が感じとれます。

展示資料は、享保初年(1716)頃までに成立か。天保8年(1837)刊。全1冊。
 戦国の世の実態を物語る、なかなか貴重な記録であることが分かる。

 その貴重な記録、永山さんだから、食に関する部分に焦点を当てるのであって、磯田道史なら、この本をどう紹介してくれるかなぁ、などと思う。

 つい最近、CSで『殿、利息でござる』を観た。
 磯田道史の『無私の日本人』所収の「穀田屋十三郎」が原本。
 タイトルから、内容がお茶らけになっているのを危惧したが、そうではなかった。とはいえ、もう少しシリアスな描き方があったように思うが、それでは観客がついてこないのかもしれないなぁ。難しいところだ。

 『無私の日本人』には、他にも、「こんな人がいたのか!」と驚く日本人が紹介されていて、そのうち記事にしたいと思っている。
 磯田の本は結構読んでいる。読むうちに、彼のように古文書が読めるってぇのが、羨ましく思える。

 さて、永山さんの本にあった『瓦礫雑考』の著者である喜多村信節は、江戸後期の風俗百科事典と言える『嬉遊笑覧』の著者でもあり、喜多村筠庭(きたむら いんてい)という名の方が有名だろう。

 庶民が武士や公家などよりいち早く一日三食になっていたとはいえ、白米を食べるようになったのは、それほど早い時期ではない。

 永山さんの本から、引用。

 食卓への白米の定着を促した要因として真っ先に特筆すべきは、農業機具の発達だろう。たとえば水車が広まったことで玄米を搗くのが容易になり、大量の玄米が精白できるようになった。またこの時期、財政難に悩み始めた徳川幕府が新田開発などで米の増産を後押しする政策に力を入れたことの影響も大きい。
 白米の生産量が伸びた結果、供給量に余剰が生まれ、米の値段が下がっていった。これにより、いままで高価で手が出なかった町人たちでも白米を購入できるようになったのである。しばらくすると「米搗き屋」という精米所が江戸や大坂の都市部に広まり、やがて各地に普及していった。

 「搗き米屋」は、落語の『幾代餅』や『搗屋幸兵衛』に登場するから、落語愛好家にとっては馴染み深いね。
 
 では、いつ頃から白米が庶民の間に普及したのか。

 元禄の少し前の時代まで、白米を日常的に食べることができたのは将軍及び一部の特権階級だけであったが、1800年代に入る頃までに、江戸では下級階層まで日に三度の白米食が当たり前となった。「将軍さまと同じものを食べるんだ」という江戸っ子のプライド、あるいは意地のようなものが、白米の流行と浸透を助長した可能性は小さくない。

 なるほど。たしかに、「将軍さまと同じものを食べる」という意識は、江戸っ子にとっては、実に気持ちのいい感覚だったのだろう。
 そして、できるものなら将軍さまよりも美味く食べてやろう、という思いもあるから、白米を食べる方法にしても、江戸っ子は知恵を働かせるのだ。

 白米に熱中する庶民の様子は、米の炊き方一つとってみてもよくわかる。
 米は前の晩のうちにとぎ、朝まで水に浸けておいた。こうすることで芯まで熱が通り、ふっくらと炊けることを知っていたからだ。栄養学的にいえば、水に浸けておくことによって、能の血行をよくするギャバという成分が増える。
 江戸時代後期の国語辞典『俚言集覧』(太田全斎・著)には、こんな一文がある。
「ドウドウ火ニ チョロチョロ火 三尺サガッテ 猿ネムリ 親が死ストモ 蓋トルナ」
 まるで呪文のようだが、当時の米の炊き方をい教える遊び唄である。
 羽釜(はがま)に入れた米を最初は強火で炊く。それから弱火に変えて、猿が火の前で居眠りするくらいの、ほんのり温かい余熱で蒸らしていく。炊飯中は何が起きようとも絶対に蓋を取ってはいけない。
 沸騰中に米から出るオリゴ糖は水分中に流れ出る性質をもっており、このオリゴ糖が少ないと甘みのないまずい米になってしまう。外に出たオリゴ糖をもう一度米に吸収させるには充分に蒸らす必要がある。江戸の庶民が実践していたのは、とても的を射た炊飯方法だったわけだ。

 ギャバですよ、ギャバ!

 遊び唄は、その後、落語『権助芝居(一分茶番)』で飯炊きの権助が言う、次の歌詞(?)に変わっていったのだろう。

 169.pngはじめちょろちょろ中ぱっぱ ぶつぶついう頃火を引いて ひと握りのわら燃やし 赤子泣いても蓋とるな

 あらためて、思う。

 日本人は、ご飯だよなぁ。

by kogotokoubei | 2017-09-19 18:54 | 江戸関連 | Comments(0)
 食欲の秋、である。
 
 先日の同期会加賀の旅、山中温泉で夕食後の幹事部屋での仲間との会話で、私が春の合宿の朝食で、どんぶり飯を七杯食べたことも、ちょっとしたネタになった。

 そうそう。
 三杯目からは、仲間が食べない漬物などのおかずを集めて食べたものだ。

 それでも、午前中の練習後に、しっかり昼飯を食べることができたからねぇ。
 
 まぁ、四十年以上前のお話。

 今はどうか。
 日頃、私は一日の食事の中で、昼食でもっとも多い量のご飯を食べる。
 平日の外食の場合、おかわりをしたり、大盛りを食べる時も多い。

 最近、外食の際に気になるのが、若い男たちが少食であること。
 「ご飯少な目」なんて注文する人が、なんと多いことか。

 そんな思いがあるので、江戸や落語関連の本から江戸時代の食生活のことを知ると、あまりにも現代と違うことに驚くのだ。

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中込重明著「落語で読み解く『お江戸』の事情」

 まず、何度も引用しているこの本から。
 中込重明さんが若くして旅立ったことは、惜しんで余りある。

 『目黒のさんま』の章を読んでいて、あらためて江戸時代の食生活について再確認した。
 引用したい。

 『目黒のさんま』では、殿様ははじめてさんまを食したことになっている。寛永、宝暦から文化年間(1804~1817)頃までの、世情、売り物などに関する随筆『続飛鳥川』にも、さんまは下の魚だから、下々の者しか食べなかった、寛政の頃から追々食用になったと記されている。
 当時の庶民の食卓には、他にどんなものが上っていたのだろうか。『目黒のさんま』は江戸郊外の農家が舞台になっているが、江戸の長屋住まいの人々を基本に考えてみたい。『守貞謾稿(もりさだまんこう)』によると、庶民の食事は一般に以下の通りということになる。朝、飯を炊き、味噌汁を合わせる。昼と夜は冷や飯。ただし昼食は野菜か魚のおかずを一品添える。夕飯はお茶漬けと漬物を食べる。
 また、『文政年間漫録』に記されている大工の一家の場合、夫婦に子供一人で、年間に米を三石五斗四升食したとある。これを手がかりに算出してみると、江戸では大人一人あたり一日に四合近くの米を食べていたことになる。出職の職人や棒手振などが持っていく手弁当も、握り飯にたくわんか梅干というのが定番だった。
 以上の情報をもとに推測すると、江戸の人々は現代に比べると米中心の食事であったと考えられる。

 もう一冊。


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『杉浦日向子の江戸塾』

 七年余り前の記事と重複するが、『杉浦日向子の江戸塾』(PHP文庫)からも、江戸時代の食生活についてご紹介。
2010年7月22日のブログ
 日本橋生まれの杉浦さんと、深川育ちの宮部みゆきとの対談から。

宮部 江戸時代は初期から一日三食だったんですか。
杉浦 中期以降ですね。初期は二食です。
宮部 小説のなかで食事の回数を書くとき、いつも迷うんですよね。
杉浦 その家の風習にもよるんです。江戸の中期以降でも、二食で通して
   いた家もありました。
宮部 決まった時間に食べてはいなかったんですか。
杉浦 腹が減った時が食べる時。日に六度飯の人もいれば、一日一回、
   ドカ食いする人もいる。商家のように大人数を抱えているところ
   では、食べる時間が決まっていましたけどね。
宮部 朝昼晩で、どの食事が一番豪勢だったんでしょう。
杉浦 それはお昼。昼には焼き魚がつきましたから。ご飯は冷や飯
   だけどね。午前中でほぼ仕事が終わってしまう河岸の衆などは、
   酒も付けてまるまる一刻(二時間)かけて食べるんですよ。
宮部 ラテン系の人たちみたい。
杉浦 そう。それで夜はお茶漬けでさらさらっと。
宮部 たりない分は夜食で補う。
杉浦 そうなんです。
宮部 当時の人はたちは、お米をたくさん食べていたんですよね。
杉浦 一日五合が基準。二食のときは一食で二合半です。だからどこの
   家庭にも、二合半の升が必ずあった。一人前の分量ということで。
   それで、一人前じゃない人に対して「この一合野郎」という罵り
   言葉があったほどです。半人前以下ってことですね。
宮部 一合野郎か、今度使ってみよう。

 中込さんの本はある史料から一日約四合と記されていたが、杉浦さんは、一日五合と説明。

 二合半の升、という裏付けからも、一日五合に説得力があるなぁ。

 あっしも一日五合は、食べない。
 八っつぁんや熊さんから、「この一合野郎」と罵倒されるだろう^^
 
 こういう話を知って、すぐこう反応する人は少なくないだろう。
「だから、寿命が短かったんだ」。

 大きな誤解だ。江戸時代の統計として寿命が短かった大きな理由は、乳幼児死亡率が高かったからで、長生きした人はいくらでもいる。

 葛飾北斎などは九十まで生きた。

  炭水化物->血糖値上昇->糖尿病

 というイメージが、あまりにも沁みついていることもあるのだろうが、現代の日本人は、あまりにも米を食べなくなった。

 ご飯をよく噛むことで、栄養にもなり、満腹感も得られる。

 あのタニタの食堂だって、白米や玄米は重要な主食。

 二十代の二割の人が、一ヶ月に一度もご飯を食べていない、という統計もある。
 
 代わりに、お菓子にコーラ、サプリメント・・・・・・。

 日本の将来を考えると、この若者の食生活の問題、結構大きな危険性を孕んでいると思うなぁ。
 米をもっと食べないとねぇ。

 さぁ、これからご飯、米を食べよう!

by kogotokoubei | 2017-09-16 11:30 | 江戸関連 | Comments(2)
 16日の夜10時から、NHKのEテレで放送された「先人たちの底力 知恵泉」を見た。
 あの遠山の金さんは、実は大変な上司のために苦労した、というお話。
 NHKのサイトから引用。
NHKサイトの該当ページ

先人たちの底力 知恵泉「遠山金四郎 一件落着!苦手な上司対処法」

「この桜吹雪をよ~く見ろぃ!」実は遠山の金さんは上司に悩んでいた?「ワンマン」「ムチャぶり」「職場いじめ」…現代もいる迷惑上司に向きあう、一件落着!の知恵とは?

「お前の所業は、この桜吹雪がすべてお見通しだ!」と、嫌な上司に言えたらいいのに…。実は「遠山の金さん」こと遠山金四郎(景元)は、苦手な上司との関係に悩んでいた。上司は「天保の改革」で有名な老中・水野忠邦。江戸が衰退しかねない強引な改革を進める水野は、「ワンマン」「ムチャぶり」「職場いじめ」と3拍子そろった迷惑上司。庶民の笑顔を守るため金さんが駆使した、人づきあい全般にも使える、みごとな知恵とは?

 番組で「天保の改革」で、水野が寄席全廃を主張したが、遠山が意見書を出して、なんとか十五軒の寄席を残すことができたと紹介されていたが、たしかに、幅広い芸能に関して、あの改革は「改悪」でしかなかった。

 天保の改革においては、水野の方針のために八丁堀の同心たちも、大いに苦労した。

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林美一著『江戸の二十四時間』(河出文庫)

 時代考証家の林美一さんの著書『江戸の二十四時間』には、江戸時代の庶民や旗本、殿様や同心などのある一日の模様を描いていて、実に興味深い。

 本書の「定町廻同心の二十四時間」は、天保十二年(1842)に絵草紙、人情本、好色本等の取締りのために右往左往する定町廻同心、飯尾藤十郎の一日を描いたものだが、その行動の後の実際の裁きの経緯について書かれた部分をご紹介しよう。

 押収品をもとに、改めて版元の洗い直しがなされ、作者や絵師の身元の割出しが急がれたが、人情本はともかく、春画本の作者や絵師は、署名を欠いたり、わざと隠号を使ったりしているので、なかなか摑めず、嬌訓亭腎水・大鼻山人・女好菴主人・好色山人・淫斎白水・百垣千研・桃草山人・好色外史・悪疾兵衛景筆・猿猴坊月成(以上作者)、婦喜用又平・一秒開程芳・艶川好信・淫乱斎(以上絵師)などと多数の人名が挙がったが、結局、作者としては人情本の元祖と自称する「春色梅児誉美」の作者・狂訓亭為永春水が、嬌訓亭腎水なる似通った隠号から春本作者でもあったことが明らかとなり、かつ最も多作でもあるところから代表的人物として槍玉に挙げられ、浮世絵師では、これも婦喜用又平なる隠号で、最も多作、かつ代表的人気浮世絵師であった歌川国貞が、一月下旬に版元ら七人とともに北町奉行所から差紙を立てられて、奉行遠山左衛門尉じきじきの調べを受けることになった。

 遠山の金さんじきじきのお調べとは、大事だ。
 
 ところが、春水は出頭したが、国貞は事前に察したのだろう、門人を連れて伊勢参りに出かけて裁きの日になっても帰って来なかった。
 その代わりに召喚されて被害に遭ったのが、同じ豊国門下の弟弟子で一秒開程芳の名を高めていた国芳だった。
 彼は、二日間牢に入った後、春水と同様に吟味中に手鎖の刑になってしまい、両手が使えないから絵を描けず飯の食い上げ。

 特に国芳は、人一倍向う意気の強い男だが、二日間の入牢はさすがにこたえた。彼は憤懣の余り、判決後、水野の改革を諷刺した錦絵「源頼光公館土蜘作妖怪図」を発表し、江戸っ子たちの喝采を浴びるのだが・・・・・・。

 その後、伊勢に逃げた国貞が捕えられることはなかった。
 
 金さんが水野に進言して春画、枕絵の作者や絵師を裁かないよう仕向けることができず、自らお白洲で春水や国芳を罰したのだから、逃げた国貞も江戸に戻った後で裁くべきだったと思うなぁ。金さん、ちょっと片手落ちでしょう。

 その逃げた国貞について、林一美さんは、こんな譬えをしている。
 何だかロッキード事件で、すぐアメリカへ飛んでしまった容疑者たちと似たような話
 この本の単行本での初版は平成元年(1989年)。

 ロッキード疑惑が明らかになったのは昭和51(1976)年だ。

 十年以上を経ても作者林さんが譬えにしただけの大事件だったということだろう。

 私は学生時代で、結構テレビに釘付けになったものだ。

 結果としては総理の犯罪として田中角栄の退陣につながるのだが、あの事件を巡っては、周囲で不審な関係者の死が続いた。
 まず、ロッキード事件を追っていた日本経済新聞の高松康雄記者が昭和51(1976)年2月14日、児玉誉士夫の元通訳の福田太郎が同年6月9日、さらに田中元首相の運転手である笠原正則が同年8月2日と立て続けに急死している。

 証拠隠滅のため、何者かの手によって抹殺されたのではないかとの疑念を呼んだ。

 この度の加計学園疑惑のことに思いが至る。
 ようやく全国紙やテレビも思い腰を上げたように思う。
 森友とは比較にならない「総理の犯罪」の匂いがプンプンするじゃないか。

 周囲で不自然なことが起こらないことを祈るばかりだ。


 水野忠邦という暴君とも言える上司に知恵と行動で対処した遠山の金さんのような奉行が、今まさに求められているなぁ。

 遠山の金さんや天保の改革のことから、つい、現実に戻ってしまった。

 「改革」という名で「改悪」をしようとする権力者は、いつの世にもいる、ということか。

by kogotokoubei | 2017-05-18 12:47 | 江戸関連 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


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