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カテゴリ:大相撲のことなど( 8 )

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中島隆信著『大相撲の経済学』(ちくま文庫)

 さて、シリーズの三回目、最終回。

 関取の給与は、どうなっているのか、『大相撲の経済学』の「第2章 力士は能力給か」から紹介。

 なお、本書序章でことわっているように、数字は平成20年春場所時点。

 日本相撲協会は力士個人の給与を明らかにしていないが、給与体系については情報公開している。その情報をもとに年俸を推定することができる。すると、概算で白鵬は4000万円、玉春日は2000万円、幕内力士の平均は2000万円である。相撲社会の頂点を極めた横綱にしては、年収の点で他の力士と実力ほどの格差はついていないことがわかる。なぜこうしたことが起こるのだろうか。

 ここで、情報公開している、というその情報については、注記で「日本相撲協会寄附行為施行細則」を参照、と書かれている。
 この「寄附行為施行細則」という名前の規則で、力士の給与が定められているということには違和感があるが、それはおいておこう。

 推定することができる、についての注記には、月給を12倍、褒賞金を6倍して加算したもので、懸賞金や本場所特別手当は含まれていない、と説明されている。

 では、この続き。

 大相撲の給与は「二階建て」
 その理由は大相撲の独特な給与体系にある。プロ・スポーツの場合、給与は契約制による場合がほとんどである。実績に照らして契約内容を更新していくことで能力が給与に反映されるしくみである。
 大相撲の場合は、番付と呼ばれる一種の職階が給与のい一部を規定する。本場所の成績を反映して番付が上下すると、それにともなって給与も増減する。
 番付は本場所後に開かれる番付編成会議において決められる。会議のメンバーは審判部に属する親方衆が中心で、力士たちはそこでの議論に参加することができない。また、会議の結果も大関や横綱昇進などの特殊な場合を除いては次の場所の直前まで公開されない。このように、協会サイドが一方的な権限を握ってはいるものの、番付上の地位によって決まる給与はプロ・スポーツにおいては一般的に見られる能力給と見なすことができる。
                  <番付による給与月額>
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 表は平成20年時点における番付地位別の給与月額を示したものである。この表には三つの注目すべき点がある。第一に十両より上か下かで天地ほどの開きがある。十両に昇進しないことに月給は一銭ももらえない。第二に、階級があまり細かく分かれていない。たとえば、幕下以下はすべて無給、関脇と小結は同じ給与、平幕と十両の中では上位も下位も関係なく同一の給与である。番付の多少の変動は給与に影響を与えないことがわかる。第三に、関脇から大関への昇進では70万円、大関から横綱では50万円程度の昇給に過ぎない。
 なぜ、横綱と大関とでも給与額がそれほど大きくないのか、また、平幕や十両では、皆が同一給与なのか、という疑問について、もう一つの給与といえる「力士褒賞金」が、次のように説明されている。

 大相撲では番付に応じた給与とは別に、「力士褒賞金」という給与がある。俗に「持ち給金」とも呼ばれるこの給与の最大の特徴は、「成績が良ければ増えるが悪くても減らない」という点である。褒賞金は本場所の成績に応じて、
 ①勝ち越しの数(勝ち数マイナス負け数)でプラスの場合、その数一つにつき五十銭(0.5円)
 ②平幕力士が横綱に勝った場合(金星)につき十円
 ③幕内優勝すると三十円、全勝の場合五十円
 というように加算されていく。興味深いのは負け越しても、時間が経過しても減額されないことである。実際は、この褒賞金を4000倍した額が十両と幕内力士に限って年六回の本場所ごとに支給される。
  (注)より厳密には、褒賞金は番付上の地位に応じて最低支給額が定められている。
   横綱は150円、大関100円、幕内60円、十両40円、幕下以下3円で、昇進時それに
   満たない力士は最低支給額までアップされ、そこから再び加算される。

 この褒賞金は、あくまで十両以上の力士(関取)にのみ支給される。
 それまでは、褒賞金をひたすら積み上げ、貯める時期なのである。

 本書では、この当時の現役力士中の最多褒賞金は、横綱朝青龍の985円と紹介されている。
 では、今日の現役力士ではどうか。
 少し古くなるが、昨年1月のNEWSポストセブンに、力士の給与の仕組みを含め、歴代の褒賞金上位者に関する記事があったので、引用したい。

NEWSポストセブンの該当記事

「力士報奨金」 大鵬の歴代最高額を軽々塗り替えた白鵬
2016.01.19 07:00

 「土俵にはカネが埋まっている」とは、元横綱・若乃花(故・二子山親方)が遺した言葉だ。その言葉通り、角界は出世を果たすたび、一般人では考えられない凄まじい金額を稼ぎ出せる仕組みになっている。力士の収入を大別すると、月給、力士報奨金(給金)、懸賞金という3本柱に分けられる。ここでは「力士報奨金」について解説しよう。

 月給と違って力士によって大きく変わってくるのが「力士報奨金」である。これはいわば力士の能力給といえるもので、好成績を上げるごとに額が増えていく仕組みになっている。

 力士はすべて、序ノ口でデビューした際に「持ち給金」として1人当たり3円が与えられる。以降、本場所での勝ち越し1勝につき0.5円が加算され、他にも金星1個につき10円、優勝1回につき30円、全勝優勝は50円を加算。そしてこの合計を4000倍した金額が、本場所ごとに引退するまで支給される。

「番付は上位陣の多くが勝ち越すなどして三役に昇進できなかったり、上位が詰まっていて上がれないようなこともあり得る。内規に照らせば条件を満たしているものの、横綱や大関への昇進が見送られることも多い。番付にはこうした不平等があるため、給料の能力指数として万全ではないという見方があり、その不備を補うために考案されたのが力士報奨金だといわれています」(角界関係者)

 現役で持ち給金が最も多いのは横綱・白鵬で1691円。これを4000倍した676.4万円×年6回=4058.4万円が、基本給にプラスして支給される(支給金額は推定)。これまで持ち給金の最高額は大鵬の1489.5円だったが、白鵬はこれを軽々塗り替えてしまった(ちなみに千代の富士は1447.5円、貴乃花は1060円)。

 白鵬が持ち給金を増やせた理由は全勝優勝の多さにある。全勝優勝すれば50円に加え、15勝の勝ち越しなので7.5円加算され、合計で57.5円(一場所あたり23万円)。これが14勝1敗の優勝なら優勝の30円と勝ち越しの6.5円で36.5円(同14万6000円)と全勝優勝の約半分となる。白鵬は35回の優勝のうち、歴代1位となる11回が全勝優勝。最多額をたたき出しているのも頷ける。

 白鳳は、その後も優勝を含めて褒賞金を積み上げているので、史上最高額を更新し続けているわけだ。
 番付だけの給与のみではなく、褒賞金による給与の「二階建て」制度は、『大相撲の経済学』で著者が次のように書いているように、妥当性があるのだろう。

 実力主義が当たり前のスポーツ界においてこうした収入の安定性や年功賃金的要素を取り入れることのの道理性はどこにあるのだろう。
 まず、収入の安定化にはメリットがある。人間は誰しもリスクを嫌う。時々の調子の良し悪しで収入が乱高下するよりも、その平均値を安定的に支払ってくれた方が力士にとってより望ましいといえる。ただ、完全な固定給にしてしまうと、今度は力士が稽古をしなくなり、相撲の質の低下を招くおそれがある。そこで十両と幕下の間に禁止的ともいえる格差をつけ、努力を怠ると幕下に陥落し、積み上げた褒賞金も給与も一切もらえなくなるようにする一方、稽古に励んだ結果、大勝ちしたり金星をあげたりすれば給与が上がるというインセンティブを同時に与えている。

 こういう仕組みを考えても、やはり、大相撲はスポーツとは言えないだろう。
 他のプロスポーツで、選手が加入する年金などのセーフネットの仕組みを除けば、副業を除く競技による報酬は、あくまで成績によって決まる。

 さて、横綱審議委員会のことなど、まだ紹介したい内容もあるのだが、そろそろ、相撲への「取組み」は、今回にて終わりとしたい。


 メディアは、まだ相撲協会側に寄った貴乃花親方批判で賑わっている。

 あえて書くが、白鳳の年収は、今回の記事でお察しの通り、決して少なくない。

 アーセナルのベンゲル監督が、日本滞在中に好きになった相撲の姿、横綱の気品を、彼は備えているのか。

 勝負の判定に抗議する姿、優勝して万歳を強要する姿勢に、横綱の姿はあるのか。

 そして、あの鳥取の夜の事件現場で、なぜ、彼は同じ横綱による常識を超えた暴力をすぐに止めなかったのか。
 私は、彼は共犯と言えるのではないか、という疑惑をずっと持ち続けている。

 『大相撲の経済学』では、横綱は興行上の看板であるとともに、奉納相撲なども行う公共財でもあるから、なかなか辞めさせることが難しいと説明する。

 経済学的な視点では、その通りかもしれない。

 しかしだ、世の中、経済の論理だけで考えてはいけないだろう。

 以前も引用したが、落語の『二十四孝』の科白に次のようなものがある。

「おまえの親父は、食べる道は教えたが、人間の道というものを教えないから、貴様のようなべらぼうものができたんだ。ええ?」

 協会、そして横綱審議委員会が、「食べる道」という経済学のみならず、「人間の道」に立って考えるなら、白鳳の横綱としての適性を、もっと論じるべきではないか。

 彼は、教わった「食べる道」のおかげで、給与も褒賞金も溢れるほど積み立てることはできただろう。

 しかし、「人間の道」については、どれほどの積み立てがあるのか、疑問だ。

 最後には、こんな小言になり、これにてこのシリーズ「千秋~楽」でございます。

 
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by kogotokoubei | 2017-12-16 12:12 | 大相撲のことなど | Comments(0)
 今日は午前中休みをとっているので、つい二本目の記事。

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中島隆信著『大相撲の経済学』(ちくま文庫)

 さて、シリーズの二回目。

 前回、大相撲は個人競技でありながら、「部屋別総当たり制」という対戦方式の制限があることが、他のスポーツとは大きな違いであると書いた。

 では、この「部屋」のこと、および「部屋」と「協会」との関係について、本書の「第5章 相撲部屋の経済学」から紹介したい。

 相撲部屋の役割
 力士は日本相撲協会に所属し、場所手当や給与などの報酬を受け取るが、稽古や寝食などは基本的な活動の場は部屋が中心となる。部屋は力士の面倒を見ると同時に、彼らを育成する」という責務を負う。
 入門した力士は六カ月間、協会の付属機関である相撲教習所に通い、相撲実技の指導を受け、教養講座(相撲の歴史、運動医学、スポーツ生理学、書道、一般社会、詩吟など)を履修することが義務付けられている。足を左右に180度近くまで開いた上で胸を床につける「股割り」と呼ばれる角界独特の柔軟体操もこの教習所で兄弟子たちから習う。しかし、協会サイドで行う指導は基本的にこれだけである。その後の育成はすべて師匠(部屋持ち年寄)と部屋に所属する年寄(部屋付き年寄)に一任されている。
 部屋に所属しているのは力士だけではない。行司、呼出し、床山、世話人、若者頭といった協会員はすべて相撲部屋に配属されている。
 (中 略)
 こうしてみると、相撲協会は持ち株会社で相撲部屋はそこにぶら下がっている子会社のようにも見える。たとえるならば、協会は各相撲部屋に出資し、相撲部屋はその資本金をもとに力士育成事業を行い、その成果として関取という配当を協会に渡すといった感じだろうか。しかし、後で見るように実際のしくみはそうした資本関係とは大きく異なるものである。

 私は、力士のみならず行司から床山、呼出しまでが部屋に所属していることから、サーカス団のようなイメージを浮かべる。

 あくまで、スポーツではなく、興行。芸人も裏方さんも一緒に移動し、行き先々で興行を打つ、という感じ。

 では、力士をはじめ、相撲興行を行うための多くの関係者が属する部屋は、どうやって団員(?)たちを食べさせているのか。

 相撲部屋の収支
 相撲部屋はどのようにして運営されているのだろうか。まず、相撲部屋を開設する際にかかる費用はすべて親方の自己資金で賄われる。協会がそのために出資したり補助金を出したりすることはない。したがって、部屋の財産はすべて部屋持ち年寄の私有物である。
 部屋は弟子を入門させてはじめて協会から補助金を給付される。補助金には、部屋維持費、稽古場経費、力士養成費の三種類がある。はじめの二つは、場所ごと弟子一人につき11万5000円と4万5000円給付され、あとの一つは幕下以下の力士一人につき毎月7万円の給付である。これらを合計すると取的一人を入門させると年間180万円の収入になる計算だ。
 そして彼らを無事に関取に育て上げるとそのご褒美として養成奨励金が給付される。これは、階級が上がるごとに増えるしくみになっていて、十両ならば一人につき年額114万円、平幕なら126万円、三役156万円、大関216万円、横綱276万円である。これは師匠に対して強い力士を育てるインセンティブを与える制度と解釈できるだろう。
 他方、支出に関して、その額の大きさは部屋の規模によって異なるが、その内訳は基本的に大部分が力士たちの食費と住居費によって占められている。あとは電気代やガス代などの光熱費、浴衣や下駄などの消耗品費、さらに部屋によっては専門のトレーナーからトレーニング指導を受けるための費用などがかかる。
 しかし、こうした費用には規模の経済性が働く。規模の経済性とは規模が拡大するほど単位当たりコストが下がることをいう。ここでは、力士の数が増えるほど力士一人を養成するためにかかる費用が少なくてすむということを意味する。その理由は明らかだろう。たとえば食事を例にとれば、力士が一人でも十人でも一定の支度は必要となるわけだし、大勢の方がむしろ材料などを効率的に使用できるからである。
 収入が人数に関して比例的である一方、支出面において規模の経済性が働くならば、人数を増やせば増やすほど経営は楽になるはずである。しかし、実際はもう少し複雑である。
 このように、相撲部屋は、取的(入門した力士の呼称)がいて、初めて協会からの補助を与えられる。
 そして、協会は金は出すが、力士の管理、育成内容については、口を出さない。

 協会と部屋の関係について、もう少し詳しく紹介したい。

 協会と相撲部屋の関係
 相撲部屋と協会の関係はきわめて奇妙なものである。表は両者の役割分担を整理したものである。

                <協会と部屋の権限の配分>
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 これを見ると、まず協会は力士の採用と育成に関しては部屋に「丸投げ」状態であることがわかる。しかし、力士と年寄は部屋ではなく協会に所属し、協会がその昇進を決定し、給与、部屋への補助金などを払っている。
 協会は部屋にすべての権限を与えているわけではなく、肝心なところは押さえているというべきだろう。師匠は弟子がよく頑張ったからといって勝手に昇進させてやるわけにもいかず、給与を増やしてやることもできない。協会からもらえる補助金の額はルールで決まっているから部屋は無制限に支出を増やせない。すなわち、支出にキャップがかけられている。
 一方、力士の育成に関しては完全に部屋の自由だ。どのようなタイプの力士を育てようと協会が口出しをすることはない。指導方針も任されている。ただ、協会としては部屋には相撲道を発展させ、観客を魅了する関取を育ててもらいたい。そのためには部屋に関取育成のインセンティブを与える必要がある。
 そこで、協会は、関取に昇進した力士には給与を与えて経済的に自立させるとともに、番付に大きな字で名前を載せて権威付けをし、華やかな土俵入りをさせてやり、NHKの相撲中継に映って目立たせることで、関取を持つ部屋が後援会のサポートを受けやすいように便宜を図る。こうして関取を育てた部屋の経済的負担が軽くなるようにしているのである。

 こういう関係なのである。

 今回の騒動でも明白なように、協会が過去の賭博事件や八百長事件を踏まえ、危機管理委員会なんて仰々しい組織をつくったところで、所属する力士を指導、育成する役割を部屋の年寄(親方)に丸投げしている構造が、問題解決への道を遠くさせてもいる。

 この協会と部屋との関係を考えても、やはり、他のスポーツとはあまりにも違うのである。

 加えて、協会の理事長や理事という幹部は、年寄しかなれない。

 外部から理事などになることはないのだ。

 まさに、閉じられた世界で、相撲という伝統ある興行を守ってきたわけだ。

 著者は、この後に、こう続けている。
 ここで一つの疑問に突き当たるだろう。なぜ協会は、本場所や巡業など全体活動を除くすべての部分に関する資源配分を部屋に任せてしまわないのだろうか。たとえば、力士の番付に対応する給与額を定め、各部屋には所属力士の番付に従って給付した上でその配分は部屋の年寄に任せてもよいように思える。そうすれば関取を育成することのさらに強い金銭的インセンティブが生まれるのではないだろうか。
 その理由は簡単である。協会は相撲部屋同士での過激な競争を望まないのだ。相撲部屋に高い自由度を与えることはそれだけ部屋同士の競争の余地を増やすことになる。第1章で述べたように、競争はシステムを変えるエネルギーを生み出す。相撲のように伝統を保持することを目的とする組織にとってシステムの変更を誘発するようなことは御法度なのである。

 “伝統を保持することを目的”とする組織である角界は、今、その伝統の破壊にもつながりかねない難題に直面している、と言ってよいかもしれない。

 協会が望まない、“相撲部屋同士の過激な競争”も起こりそうな気配がする。

 貴乃花親方が、協会と部屋の関係をも含む変革を目指しているのなら、それは、協会の大多数の理事(年寄たち)による保守派の厚い壁にぶち当たるだろう。

 他のスポーツと同様にオープンに、という考えを貴乃花が付き進めて行くと、部屋別総当たり制から、同部屋同士の戦いまでを含む個人別総当たり制まで行きつくが、そこまでは考えていないと思う。

 あくまで、協会、一門、部屋という構造における「部屋」の発言力を、今までより一層高めたいのではなかろうか。

 彼の懸念は、協会-一門-部屋という伝統的な構造に、新たに“モンゴル力士会”という組織が割り込んできて、その組織によって、彼の考える相撲の伝統とは違う文化や権威が持ち込まれたことにあるのだと思う。


 貴乃花は、検察の判断が示されてから、何を語るのか。

 その変革の目論見も、伝統に基づく旧来の大相撲の経済学と、深く関係しているはずだ。
 
 次の最終回は、伝統的な方法による、関取の給金のことについて紹介したい。
 
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by kogotokoubei | 2017-12-14 11:57 | 大相撲のことなど | Comments(0)

 日本では大相撲に関し、なんとも批判的な声がメディアに溢れている今、海外のサッカー界から賛美する声が届いたので、「あらためて、大相撲を考える」シリーズの関連として、この件を紹介したい。

 マンチェスターダービー後のトラブルについて、1995年と1996年に名古屋グランパスエイトの指揮官だったアーセナルのベンゲル監督が、相撲を模範とせよと苦言を呈したのである。

 日刊スポーツから引用する。
日刊スポーツの該当記事

ベンゲル監督、相撲を引き合いに乱闘騒ぎに言及
[2017年12月13日19時23分]

 マンチェスターダービー後にマンチェスター・ユナイテッドとマンチェスター・シティーの選手らがトンネル内で起こした乱闘騒ぎについて、アーセナルのアーセン・ベンゲル監督が相撲を引き合いに出してコメントしたと、13日に英国複数メディアが報じた。

 ベンゲル監督は名古屋グランパスエイトを率いた2年間で相撲のファンになった。同監督は試合後に両チームの間に起こったことに驚かなかった。「ビッグゲームに負けたとき、受け入れるのは難しい。100%相手チームは勝利のお祝いをしている。少し無礼だと感じるものだ」とコメントした。「だからこそ私は相撲が好きなんだ。対戦相手をリスペクする意味から、試合後にどっちの力士が勝ったのか表情からは分からない。名古屋にいたとき、いつも観にいっていた。でも最も興味深かったのは横綱審議委員会だ。良い態度をとっていなかったり、尊敬する心を持ち合わせていなかったら、毎回勝利していたとしても横綱にはなれない」と相撲について説明した。

 ベンゲルが日本にいた2年間、1995年と1996年の名古屋場所の幕内優勝は、貴乃花。
 その2年とも、年間最多勝利は、貴乃花。

 ベンゲルが日本で相撲を観て、相撲における「対戦相手をリスペクト」する姿、横綱の「良い態度」「尊敬する心」に強く印象を受けたその対象は、間違いなく貴乃花だったと察する。

 今、一部のメディアでは、検察と警察を勘違いした詫びをFaxで送るのは非常識だ、とか貴乃花批判の声が続いている。

 私は、たしかに、検察と警察とを間違えたのだろう、と思う。

 検察がどう判断するかで、貴乃花の次の一手が変わるのは当然だ。

 本質から離れた、協会側に立つメディアによる貴乃花バッシングは、止まらないなぁ。

 そもそも、危機管理部長なる年寄が、わざわざ作業服のようなものを着て、会うはずもないことを分かっていながら部屋を訪問することこそが、演出の一つではないか。

 おい、被害者はどっちだ?
 
 加害者は、ベンゲルがかつてその姿、態度を賞賛した、「横綱」だ!

 ベンゲルが賞賛する、勝っても表情を変えることのない「良い態度」で対戦相手を「尊敬する心」を持つ横綱が、今の角界にいるのか?!

 ベンゲルが好きになった相撲の姿が失われていることこそが、今回の傷害事件につながる、今日の角界の構造的な問題ではないのか。

 このベンゲルの発言は、今の横綱のあり方を考えるためにも、もっと取り上げられるべきだと思う。

 Faxがどうのこうの、言っている場合ではないのだよ、メディアの皆さん。
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by kogotokoubei | 2017-12-14 10:58 | 大相撲のことなど | Comments(0)
 元横綱日馬富士傷害事件の話題が、まだメディアを賑わわせている。
 
 他のスポーツのように透明性を、などと指摘をする人たちは、あの興行と他のスポーツの違いについて、どこまで分かった上で発言しているのだろうか。

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中島隆信著『大相撲の経済学』(ちくま文庫)

 中島隆信という人や著書『大相撲の経済学』については、2011年の八百長事件の際に、その名にふれたことがある。

 2月10日の記事は、中島氏が出演したNHKスペシャルの感想、翌11日の記事は、「日刊ゲンダイ」が、中島氏の著者を引用し「八百長擁護派」とレッテルを付けた記事への小言だ。
2011年2月10日のブログ
2011年2月11日のブログ

 あの記事を書いた後に『大相撲の経済学』を入手し読んでいたが、まだ紹介したことがなかった。
 この本は、2003年に東洋経済新報社より単行本が発行され、2008年にちくま文庫に加わった。
 私が読んだ文庫の記述は、平成20年初場所時点と「序章」で記されている。

 同書を元に、まず、大相撲と他のスポーツとの大きな違いを中心に、紹介したいと思う。

 大相撲は、個人の総当たり制ではない「部屋別総当たり制」である、ということ。

 「第一章 力士は会社人間」から、引用。

 総当たりではない
 相撲は個人競技だが、個人別総当たりではない。、力士は日本相撲協会の一員であると同時に相撲部屋に所属している。相撲部屋には指導にあたる親方衆と先輩力士の兄弟子、後輩の弟弟子がいる、本場所の取組では、同じ部屋の兄弟弟子とは割が組まれない。つまり、対戦がない。このシステムを「部屋別総当たり制」と呼び、昭和40年から採用されている。
 それ以前に採用されていたシステムは、「一門系統別総当たり制」といって、同じ一門に所属する相撲部屋の力士同士は本場所での対戦がなかった。さらに昭和22年までは基本的に「東西制」で、力士が東方と西方に別れて対戦するというものであった。

 このことからも、大相撲は、あくまで興行であって、他のスポーツとは大きな違いがあることは明白だ。

 他の個人同士が対戦するスポーツ、テニスやバドミントンや卓球といった球技でも、柔道や空手でも、公式競技で、同じ会社や学校や道場などに所属する選手同士が対戦しない、などというルールのある競技は存在しない。
 
 大相撲の「部屋別」総当たり制は、次のような現象をもたらす。
 グループ内の取組がなければ、それだけ対戦の組み合わせの数は少なくなり、競争の程度が軽減されることは明らかだ。たとえば、平成13年春場所では、横綱、大関七人のうち、武蔵川部屋が四人(横綱一人、大関三人)を占めていた。個人別総当たりならば横綱、大関同士で21あるはずの取組が、部屋別総当たりのときは15に減ってしまう。また、武蔵川部屋に属さない幕内上位力士は横綱、大関七人全員と取組があるのに対し、武蔵川部屋の力士はそのうちの三人とだけ対戦すればよいのである。

 ちなみに、平成13年春場所は、横綱が貴乃花と武蔵丸(武蔵川部屋)、大関が魁皇、千代大海に加え、武蔵川部屋の武双山、出島、雅山という顔ぶれだった。
 この場所では、千秋楽に魁皇が武双山を下して、13勝2敗で二度目の優勝を果たしている。

 部屋別総当たり戦での例外は、同部屋同士が同じ勝ち星で優勝決定戦を争う場合。

 記憶に残る、あの一戦。

 平成7年九州場所千秋楽の優勝決定戦、横綱貴乃花と大関若乃花のあいだで、同部屋力士による史上初の兄弟対決という取組が実現した。このときにおテレビ視聴率は58%を記録したという。完全個人別総当たりを望む声は強い。

 しかし、大相撲の協会と部屋の関係は、個人別総当たり制の実現を難しくしている。
 大相撲では衣食住の日常生活は部屋単位、鍛錬のための稽古は一門単位でなされることが多い。かつて一門別から部屋別総当たり制に変更した際にも、「一門でいつもけいこをやっていたし、地方場所では宿舎も一緒だった」(出羽海・元理事長談)仲間と本場所では対戦しづらかったようだ。
 第5章で詳しく述べるが、日本相撲協会は力士の育成に関して各相撲部屋にほぼ「丸投げ」の状況である。力士育成にかかわる補助金や奨励金の類はすべて部屋単位ないし部屋を所有する年寄単位で支給される。つまり、弟子を鍛えるインセンティブは各部屋に与えられているのである。
 こうした状況にあって個人別総当たり制を採用することは「合理的」どころかむしろ非合理である。同じ部屋に所属する力士同士が対戦するようになれば、部屋の親方は力士を鍛えることよりむしろ、弟子たちの間での白星と黒星の配分の方に気を遣うようになるだろう。昇進のかかった力士の対戦相手が同部屋だったりすれば、勝ったとしても裏で星のやりとりがあったのではないかと疑われよう。真剣勝負は減少し、角界にとってもファンにとっても決してプラスとはいえない。

 たしかに、同じ部屋の力士が、千秋楽で対戦することになり、かたやすでに勝ち越し、もう一方が七勝七敗なら、その結果がどうなりそうか推測できる。

 今回の騒動で、他のスポーツと同一視して発言している人は、この「部屋別総当たり制」という仕組みを充分に認識しているのかどうか、怪しいものだ。

 では、その部屋と協会は、どんな関係にあるのか・・・・・・。

 次回は、そのあたりについて、ふれるつもり。

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by kogotokoubei | 2017-12-13 12:18 | 大相撲のことなど | Comments(0)
 今回の相撲界の騒動について、先にオチャラケ版の記事をマクラ(?)でふったが、それでは本編を。

 落語の『二十四孝』の科白に次のようなものがある。

「おまえの親父は、食べる道は教えたが、人間の道というものを教えないから、貴様のようなべらぼうものができたんだ。ええ?」

 今回の相撲界の事件で、この科白を思い出した。

 この「人間の道」という言葉は、やや重すぎて、言ってみれば、生涯かかって教わり、教えるものかと思う。これは、一生続く授業なのかな。

 常識や礼儀、礼節なども、この「人間の道」という授業の重要教科となるだろう。

 日馬富士の引退会見で、彼は貴ノ岩に暴行を働いた理由について、「礼儀と礼節がなってないと、ただしてあげたかった」と言った。

 加害者である日馬富士から、「礼儀」「礼節」という言葉が出るあたりに、あの世界の特殊性がかいま見える。

 あの世界での常識は、外の世界のそれとは、違うのだ。

 日馬富士は、三十路を少し過ぎたばかりの、べらぼうものであることは間違いない。

 あの引退会見で、傷害事件の被害者貴ノ岩への詫びがあったとは思えない。

 それは、次のような本音が、腹の底に渦巻いていたからだろう。

 「なぜ、こんなに大袈裟になったのか・・・・・・」
 「内々に済ませられたはずなのに・・・・・・」

 本人も親方も、これが本音だろう。
 
 それにしても、今回の騒動において、これまでの不祥事の時と同様に、メディアやコメンテーターなる人々が、相撲界に透明性を求めたり、他のスポーツと同じように扱う発言には、閉口する。

 コメンテータなる人たちが、「なぜ同じ過ちを繰り返すのか」という言葉は、彼らにこそ突きつけたい。

 興行の場所の名に「国技館」とつけたがために、「国技」として論じられるのには、閉口する。
 日本は、法令で国技を定めているわけではない。
 また、国民にもっとも普及しているスポーツでもない。
 そもそも、スポーツではなく、興行なのである。

 七年前に野球賭博事件が起こった際、記事を書いた。
2010年7月8日のブログ
 実は、ここ数日、この記事へのアクセスが急増している。

 同記事は、朝日新聞の2010年7月7日付け朝刊の特集に、小沢昭一さんの「正論」と言うべきコメントが掲載されたことがきっかけで書いた。

 あらためて、小沢さんの主張の一部を紹介したい。

 特集ページのタイトルは「大相撲は何に負けたのか」、となっていて大学教授などのコメントなどと併せて、小沢さんのまっとうなお話が次のように載っていた。
 神事から始まった相撲は江戸の終わり、両国の回向院で常打ちが行われるようになる。両国というのは、見世物小屋や大道芸が盛んなところです。このころ現在の興行に近い形ができあがりました。
 明治になりますと、断髪例でみんな髷を落としました。だけど相撲の世界では、ちょんまげに裸で取っ組み合うなんて文明開化の世に通用しない、てなことは考えない。通用しないことをやってやろうじゃないか、と言ったかどうか分かりませんけど、とにかくそれが許された。そういう伝統芸能の世界。やぐらに登って太鼓をたたいてお客を集めるというのも芝居小屋の流儀でしょう。成り立ち、仕組みが非常に芸能的。どうみても大相撲は芸能、見せ物でスタートしているんです。
 芸能の魅力というのは、一般の常識社会と離れたところの、遊びとしての魅力じゃないでしょうか。そんな中世的な価値観をまとった由緒正しい芸能。僕は、そんな魅力の方が自然に受け入れられるんです。
 美空ひばりという大歌手がおりました。黒い関係で世間から糾弾されて、テレビ局から出演を拒否された。ただ、彼女には、世間に有無を言わせない圧倒的な芸があった。亡くなって20年になります。そんな価値観が許された最後の時代、そして彼女は最後の由緒正しい芸能人だったんでしょう。
 昨今のいろんな問題について、大相撲という興行の本質を知らない方が、スポーツとか国技とかいう観点からいろいろとおっしゃる。今や僕の思う由緒の正しさを認めようという価値観は、ずいぶんと薄くなった。清く正しく、すべからくクリーンで、大相撲は公明なスポーツとして社会の範たれと、みなさん言う。
 しかし、翻って考えると、昔から大相撲も歌舞伎も日本の伝統文化はすべて閉じられた社会で磨き上げられ、鍛えられてきたものじゃないですか。閉鎖社会なればこそ、独自に磨き上げられた文化であるのに、今や開かれた社会が素晴らしいんだ、もっと開け、と求められる。大相撲も問題が起こるたんびに少しずつ扉が開いて、一般社会に近づいている。文化としての独自性を考えると、それは良い方向なのか、疑問です。

 どうです、この本質を突いた発言。

 他のスポーツと大相撲は、成り立ちからして違うのである。

 地方の興行では、暴力団、今で言う反社会的組織の力を借りるのが当たり前だったし、かつてのタニマチには、その筋の人も多かった。
 
 相撲が閉じられた世界であり、興行、もっと言うなら、見世物としての歴史を刻んできたのは、紛れもない事実だ。

 閉じられた世界、という表現はネガティブな印象を与えるかもしれないが、言い換えれば、その組織が共通の価値観を元に強く結びついている、とも言えるわけで、外とは分離された固有の世界なのだ。

 だから、あの世界での常識が、世の中一般の常識とは限らない。
 
 しかし、そういう固有の世界は、必ずしも悪い面ばかりがあるわけではない。

 その固有の世界にいる人たちだからこそ、伝え続けることができることがある。

 たとえば、「可愛いがる」という名での稽古は、まさに伝統である。

 その激しい稽古については、誰も「暴力」とは言わない。

 “教育”や“指導”はどのスポーツの世界にもあるが、かつては竹刀で叩かれながら稽古で鍛えられてきた相撲は、やはり、他のスポーツとは異質なのだ。

 まさに、閉じられた世界だからこそ、相撲という興行は伝統をつないできた。

 今回の事件、“閉じられた世界”の人々は、できれば内々に処理したかった。

 もし、被害者が貴乃花部屋の力士じゃなければ、今回の件は、公けにはならなかったかもしれない。

 協会幹部側の最初の貴乃花批判は、警察への被害届の前に、協会に届けるべきだった、ということ。

 その背景にある本音は、あくまで内々に処理したかったということであり、決して、再発防止対策を検討するためではない。

 私は、協会側、貴乃花、どちらの味方でもない。
 
 あえて言えば、客観的にこの事件を眺めている。

 相撲という世界は、好き嫌いは別にして、閉じられたままでいいと思う。
 というか、そうじゃなければ、あの興行は成り立たないとも思う。

 問題は、その伝統の世界が閉じられているかどうかではない。

 若くしてあの世界に入り、稽古して、食べて、眠って・・・という特異な日常を送ってきた、十代、二十代の若者に、「食べる道」のみならず、「人間の道」を叩き込むことが、今の相撲界ではできていない、ということが問題なのである。

 そうした、「食べる道」は身についたものの、常識や礼節など「人間の道」には疎いままの若者が、番付が上がり周囲からチヤホヤされて、勘違いしたままで精神的には未成熟な人間になってしまう。

 スポーツや芸能の世界である程度の活躍をした人の不祥事は、人間的に未成熟なままに周囲に甘やかされて、「何やっても許される」と勘違いした結果であることが多い。

 これは、どの世界でも同じだろう。

 相撲界において、その勘違いを正し、世間一般の常識や礼儀を教えるべきなのは、親方や女将さん、タニマチなどの役割になるはずなのだが、残念ながら、そういう環境にはなかったことが、問題の根源にある。

 親方を含め、部屋の関係者にとって、横綱、大関などは大事な稼ぎ頭であるので、つい甘やかす。

 加えて、部屋のみならず、相撲界全体でも、幕内上位の力士を甘やかす体質になっているのが、現状ではないか。

 伊勢ヶ浜親方は、日馬富士の酒癖の悪さを知らなかったと言う。
 そりゃあ、自分の前では、大人しくしているだろう。
 親方が嘘をついているのではなくて、自分がいない酒席や飲み会での横綱の酒癖の悪さが親方の耳に入らなかったとするなら、本来は通じているべき、閉じられた世界のコミュニケーションのパイプが詰まっているということだろう。
 タニマチは、知っていても忖度したのか。
 女将さんは、悪い噂を、本当に耳にしなかったのか。

 日馬富士にしろ、白鵬にしろ、まだ三十歳を少し過ぎたばかりの、若者なのである。
 スポーツと同一視して透明性を求めることなどは、何ら解決の道につながらない。
 
 親方はもちろん、女将さん、タニマチなど周囲が、彼らに「食べる道」のみならず、「人間の道」を教える努力をしていたかが、問われるべきだ。

 たまには、『二十四孝』など落語を聴かせるのも、大事ではないかな^^

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by kogotokoubei | 2017-12-07 12:36 | 大相撲のことなど | Comments(4)
2月9日のNHKスペシャルに出演した慶大の中島教授について、その著書『大相撲の経済学』の一部引用を含め、日刊ゲンダイという夕刊紙が、なんとも情けない非論理的な“イジメ”記事を掲載している。少し長くなるが、あえて引用する。
日刊ゲンダイのサイト

 協会は不祥事発覚のたびに外部の有識者を入れ、改革をアピールしてきた。しかし、彼らの中にも八百長に寛容な人がいるのだから、実態の解明などまったく期待できない。
 相撲協会に公益財団法人認定のための改革案を提言する「ガバナンス(統治)の整備に関する独立委員会」。賭博問題などの不祥事発覚後の昨年7月にできたものだが、その副座長で慶大教授の中島隆信氏は、著書「大相撲の経済学」(筑摩書房)でびっくりの主張を展開している。
〈仲間うちで結束を固め、組織を防衛しようとする角界にあって、力士たちがガチンコ相撲をしていないと非難するのは、組織を守ろうとする会社で社員たちが互いに真剣に競争していないことを非難するのと同じではないだろうか。組織を守る仲間であれば、自分が困っているときは助けてもらい、次に相手が困っているときは助けてあげるという相互扶助的な星のやり取りが自発的に起こったとしても何ら不思議ではない〉
〈現状以上に真剣勝負を増やすことが相撲のパフォーマンス向上にそれほど効果があるわけでもなく、かえって怪我人が増えたり、勝つことだけを目的とするような相撲が横行したりするのであれば、部外者が八百長の問題にそれほど目くじらを立てて非難する必要もないだろう〉
 これは街の好角家のヨタ話ではないのだ。中島氏は、9日のNHKスペシャル「八百長はなぜ起きたのか~揺れる“国技”大相撲~」にも出演し、あれこれ話していた。そんな人が「八百長で騒ぐな」のスタンスだから、ウミを出し切れるわけがない。
 早くもウヤムヤな幕引きが見えてきた。



 この本、まだ読んでいないが、ますます読みたくなった。なぜなら、そこに“本当のこと”が書いてあるように思えるからだ。だから、ひとまず日刊ゲンダイには、本の引用については、小さな声で、ありがとう、と言おう。そして、息を吸い込んで大きな声で、「馬鹿!」と言わせてもらおう。

 引用した部分だけを読んだって、それが「八百長擁護」とは到底思えないではないか。組織、そして経済的な観点から、一つの組織内構成員の行動力学や心理学を説明しているわけで、まったく妥当な指摘。そして、事実でもあろう。問題の背景にある人間心理の本質を分からずして、この問題の解決策は考えられないだろう。変えるべき点もあれば、変えてはいけない、あるいは変えることのできないこともある。日刊ゲンダイは、単に「八百長は悪いことだからやめよう!」と叫び続けてさえいれば解決するとでも思っているのだろうか。もっとも、解決など期待してはいないだろう。なぜなら、記事になるネタが一つ消えるからね。

 扇情を旨とする夕刊紙の記事に、いちいち腹を立てているわけにはいかないし、中島教授だって大人の対応として無視するだろうが、ヤダねぇ、こういう記事は。こういった夕刊紙や週刊誌などが、“中島教授は八百長を擁護”なんてわめいているうちに、訳のわからない人の中で、そう思ってしまうん人もいるんだろうなぁ・・・・・・。

 この夕刊紙、発刊当時は、もっと外の権力に向かっていくパワーも記事の妥当性もあったように思うが、今日の日刊ゲンダイでは、記者(ライター)同士で常に身内のガチンコ競争ばかりで疲弊しているらしく、外の権力に向かう余力も、問題の本質を見る気力も残っていないらしい。
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by kogotokoubei | 2011-02-11 15:25 | 大相撲のことなど | Comments(2)
昨夜10時からこの番組を見た。サブタイトルまで含めると、「八百長はなぜ起きたのか~揺れる“国技”大相撲~」。

 出演は、NHKの記者(名前は忘れた)、コラムニストの天野祐吉さん, 慶応義塾大学教授の中島隆信,さん、司会が鎌田靖という方。
*録画をせず、酒を飲んでいたせいもあって、ところどころうろ覚え。記者以外の名前はNHKのサイトで確認した次第。ご容赦あれ。

 まず印象に残っているのが、初代若乃花、当時の二子山親方が親方全員を集めて八百長(無気力)相撲について厳重注意、というか“檄”を飛ばしている音声。こういう音源が残っているあたりが、まぁNHKならではかな。
 “土俵の鬼”と言われた二子山勝治という人が、「このままだと、文部省の支援がなくなり、相撲は潰れる!」というような内容を熱く語っていた。あの頃は、こういう親方を含め、まだギリギリの自浄能力があった、ということだろう。

 若い記者が「全容解明・・・」などと力んだところで、中島さんが、それよりも今後のことが大事、というニュアンスのことを言っていたが、私の持論に近いものを感じた。ネットで調べたところ、『大相撲の経済学』(ちくま文庫)という本も出している経済学者らしい。この本、おもしろそうなので読んでみようと思う。

 天野祐吉さんは今年で喜寿を迎える方なので、かつてキラリと光った切れ味が・・・・・・。
 くどいとご指摘を覚悟で、あの席に杉浦日向子さんがいれば、と思う。しかし、番組の主旨を聞いた時点で出演を辞退したかもしれないなぁ。“国技”なんて言葉がタイトルにあることにも抵抗があっただろう。杉浦さんなら、もっと別なアプローチがあることを十分承知していたから。

 なんと言ってもこの番組で光ったのは、二子山親方。そして、次が中島隆信さん。

 花田勝治少年が入門した時代は、激しい稽古に耐えながら、親方や先輩たちの「土俵に金が埋まっている」という言葉を励みに精進したのだろう。そういった精神論だけでは管理統制がとれない時代になったことは間違いがない。中島教授のような人なら、少しは改革について今日でも妥当性のある提言が期待できるかもしれない。そんな印象を受けた。
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by kogotokoubei | 2011-02-10 09:26 | 大相撲のことなど | Comments(4)
 正直なところ、それほど相撲が好きというわけでもなく、今回の問題ならびにマスコミの行き過ぎた騒ぎ方には嫌な思いがしていたが、ブログに何か書くつもりはなかった。
 しかし、昨日付けの朝日新聞でNHKの大相撲の放送に関するニュースを目にしたことと、同じ紙面の特集で小沢昭一さんのコメントを読んで、書くことにした。

 NHKは妙な対応をするらしい。受信料支払者の理解が得られないので生中継はしないが、相撲ファンのために幕内の取組を収録してダイジェスト版を放送する、とのこと。なんとも中途半端な・・・・・・。

 法律で定めたわけでもないのに「国技館」という建物の名称が一人歩きして「国技だ!」などと祭りたてられてしまったあたりから、この芸能は本来の単なる娯楽のための興行と相反する捉え方をされてきたと思う。
 早い話が、一般庶民の平均からは並外れて大きい体をしていたり、凄い腕力や突進力のある者同士が、闘犬や闘牛のように見物人の注目の中で闘う興行でしかない。「NHKが放送しているから」、とか「国技だから」といった余計な荷物を背負ったために「清潔さ」やら「スポーツマンシップ」などを求める間違いが起こり、今回のようにジャーナリズムのかけらもなくなってきたマスコミが一斉に騒ぎ出す始末。

 「江戸関連」として本件を取り上げたのは、相撲という興行が江戸時代に始まった芸能だからであり、そのことは7月7日付け朝日新聞の特集の中で、小沢昭一さんの「正論」と言うべきコメントでも説明されている。
特集ページのタイトルは「大相撲は何に負けたのか」、となっていて大学教授などのコメントなどと併せて“我らが”(!?)小沢さんのまっとうなお話が次のように載っていた。少し長くなるが全文の八割ほどを引用する。
 神事から始まった相撲は江戸の終わり、両国の回向院で常打ちが行われるようになる。両国というのは、見世物小屋や大道芸が盛んなところです。このころ現在の興行に近い形ができあがりました。
 明治になりますと、断髪例でみんな髷を落としました。だけど相撲の世界では、ちょんまげに裸で取っ組み合うなんて文明開化の世に通用しない、てなことは考えない。通用しないことをやってやろうじゃないか、と言ったかどうか分かりませんけど、とにかくそれが許された。そういう伝統芸能の世界。やぐらに登って太鼓をたたいてお客を集めるというのも芝居小屋の流儀でしょう。成り立ち、仕組みが非常に芸能的。どうみても大相撲は芸能、見せ物でスタートしているんです。
 芸能の魅力というのは、一般の常識社会と離れたところの、遊びとしての魅力じゃないでしょうか。そんな中世的な価値観をまとった由緒正しい芸能。僕は、そんな魅力の方が自然に受け入れられるんです。
 美空ひばりという大歌手がおりました。黒い関係で世間から糾弾されて、テレビ局から出演を拒否された。ただ、彼女には、世間に有無を言わせない圧倒的な芸があった。亡くなって20年になります。そんな価値観が許された最後の時代、そして彼女は最後の由緒正しい芸能人だったんでしょう。
 昨今のいろんな問題について、大相撲という興行の本質を知らない方が、スポーツとか国技とかいう観点からいろいろとおっしゃる。今や僕の思う由緒の正しさを認めようという価値観は、ずいぶんと薄くなった。清く正しく、すべからくクリーンで、大相撲は公明なスポーツとして社会の範たれと、みなさん言う。
 しかし、翻って考えると、昔から大相撲も歌舞伎も日本の伝統文化はすべて閉じられた社会で磨き上げられ、鍛えられてきたものじゃないですか。閉鎖社会なればこそ、独自に磨き上げられた文化であるのに、今や開かれた社会が素晴らしいんだ、もっと開け、と求められる。大相撲も問題が起こるたんびに少しずつ扉が開いて、一般社会に近づいている。文化としての独自性を考えると、それは良い方向なのか、疑問です。


 まったく同感! 
 次に、江戸時代に相撲がどんな興行であり、そして力士がどのように見られていたか、杉浦日向子さんが監修した『お江戸でござる』(新潮文庫)から紹介。
杉浦日向子監修 『お江戸でござる』
 力士、与力、火消しの頭が「江戸の三男」といわれ、女性にたいへんもてます。でも残念なことに、女性は相撲見物ができません。女性が見ることができるようになったのは、明治以降になってからです。今でも土俵に上がれないのは、その名残でしょう。
「大関」に昇進すると、部屋から引き抜かれ、大名のお抱えになる力士もいて、侍の身分になり禄(給料)をもらいます。二本差しを許され、家来も与えられます。お抱え力士になると、大名の面子がかかってくるので、土俵上は、真剣勝負で燃え上がることになります。
「相撲見物に行って痣のひとつもこさえてこないような奴は男じゃない」と血気盛んな江戸っ子はいいます。喧嘩になって死亡することもあって、何度か禁令も出ました。
 土俵の柱には、数本の刀がくくりつけてあります。喧嘩が起きた時は、親方たちが、これを引き抜いて仲裁しに行くのです。
 刀を差している行司もいます。これは、肝心な取り組みの時に出てくる「立行司」で、刀を差しているのは、大名の名誉に関わるお抱え力士同士の対戦時、判定を間違えたら切腹してお詫びするためです。行司も命がけなのです。
 相撲は、屋外での晴天興行です。「よしず掛け」で、リオのカーニバルのスタンド席のようになっていて、興行が終わると、取り壊します。
 雨が降ると取り組みが行われないので、雨が多い季節だと、何カ月もかかることがあります。
「一年を二十日で暮らす良い男」という言葉がありますが、本当に二十日間の興行で終わります。「十両」と呼ばれるお相撲さんは、一年で十両もらいます。年俸制なのです。
 小柄で技のある力士もいますが、大きな力士もいます。どこまで信憑性のあるデータかわかりませんが、身長二メートル三十五センチの力士もいたそうです。黒船がやって来た時、港に力士をズラリと並べて、米俵を運ばせました。「こんなに強い大きな日本人もいるんだぞ」と、体格の大きい外国人に示したのです。

 この本はNHKが放送していた「コメディーお江戸でござる」の中で杉浦日向子さんが担当していたコーナー「おもしろ江戸ばなし」をベースにしている。あの番組はコントも含めて江戸のことを楽しみながら知ることができる好企画だった。同じ杉浦日向子さんの『一日江戸人』(新潮文庫)からも引用したい。
杉浦日向子 『一日江戸人』
 少し前、元大関・小錦が「スモーはケンカだ」という名言を吐いたのがモンダイになって「そういう認識でスモーをとるとはケシカラン」とか「しょせんガイジンには神聖な国技がわからないのだ」とかやっつけられていましたが、江戸では、ケンカどころか、スモーあるところに血の雨が降るような風潮があり、そして庶民もまた、それをあおっていました。しかし、こんな乱痴気騒ぎは、いくらなんでもお上がだまっちゃいません。
 ですから、相撲にはたびたび禁令が出ています。そのうち、風紀もおさまり、相撲協会のような「相撲会所」という営業体制も整い、現在の形に近いものになりました。
 整ったとはいえ、幕末に近い天保時代でさえ「今じゃ見物も、ただ喧嘩の下稽古でもする気で見る様子だね」(『愚者論記』より)というぐらいで、ケンカがしたくってスモーに出かける野郎もいました。
 どうするかというと、ケンカ相手にちょうどよさそうな奴の隣にぐいっと押しわって座る。はじめは黙って酒なんか飲みながら見ている。で、相手が声援するやいなや、その敵方の力士の名を、倍くらいの大声で応援する。これでもう、ケンカの火ぶたは切って落とされるんです。
「スモー見物に行って、五体満足で帰るくらいだらしのねえ奴ァねえやッ」なんてえわけのわからないタンカを切って、仲間に青あざや引っかき傷を自慢したんだそうです。


 今回の騒動、杉浦さんだったらどうコメントしただろうか。もちろん、杉浦さんも小沢さんの言う「由緒正しい」芸能であり、あくまで興行であることことを前提に、的確な指摘をしてくれただろうと思う。

 力士だろうと何だろうと法を犯すことは犯罪として罰せられる。しかし、庶民の遊びの延長線上にある賭け事までを弾劾する勢いで力士たちの行為を糾弾するマスコミには閉口する。相撲の生い立ちを振り返り、あくまで芸能であり興行なのだ、という前提から報道をして欲しいと思う。それともマスコミで仕事する方々は、一切賭け麻雀も、ワールドカップのトトカルチョもしていないと主張するのだろうか・・・・・・。

 今は後援会と形を変えたが、かつては個人のタニマチが大勢いて、力士を金銭的にも支援していたしいろんな相談に乗ってあげたのだろう。取組みに勝って花道を引きあげる力士の汗ばむ背中に“聖徳太子”を祝儀として貼ってあげるお客さんの姿も、最近は減った。
NHKが、もしタニマチとしての気概を持っているなら、堂々と生中継するか、あるいは毅然とした親の気持に立って興行そのものを中止するよう協会に進言するかの二者択一ではなかろうか。

 高等教育を受ける前の子ども時代に体の大きさを見込まれスカウトされ、ただ食べて稽古して寝るだけの毎日を過ごし、三十台にして“年寄り”などと呼ばれ、決して健康的な生活を重ねてはきていないので寿命も長いとは言えない力士という名の芸能人。タニマチという言葉の語源は、大阪谷町のお医者さんが大の相撲好きで、力士の治療代を取らなかったという説があるらしい。昔の落語家ならこういう人を「旦那」とか「お旦」などと呼んでいただろう。
 相撲の訓練は重ねてきても“心の訓練”が不足したまま育った力士や年寄。金と時間をもてあまし度を越した行為をすることなく第二の人生をまっとうに進むためには、指南役として、あらためて本来のタニマチ役や大人の旦那が必要なのかもしれない。そしてファッショ的な報道しかできないマスコミや一般庶民は、小沢さんの指摘するように「由緒正しい芸能」として相撲を見守る姿勢が必要だろう。

 芸能の分野は本来“閉鎖”された世界で、一般庶民が立ち入ってはいけない部分があっていいのだ。「開かれた社会」という言葉は耳ざわりが良さそうだが、一歩間違えば「暴露社会」となり、他人の家に土足で上がりこむことを是認する社会になるのではなかろうか。もちろん、昔の寄席の楽屋のようにヒロポンを堂々と打つような時代ではないから、相撲部屋も今風になる必要はあるだろうが、芸能であり興行であり人気商売である以上、一般庶民と同じ視線でその行動を規定するのには無理がある。

 今回の騒動に関するマスコミ報道の中で落語愛好家にとってあえて利点をあげれば、『阿武松』の読み方が世間に広まったことだけだ。あの噺における阿武松にとっての錣山のような親方が、今日の相撲という芸能の世界にも必要なのは言うまでもない。加えて芸の世界だからこそ、抱えている芸者の躾から始まり親代わりとして愛情ある鞭と飴を操ることのできる置屋の女将さんのような、腹の据わった相撲部屋の女将さんも求められるだろう。もし、そういった芸人としての力士を育てる環境が今日の日本ではつくれないとすれば、相撲は博物館に行くかモンゴルにでも場所を移してもらおう。ウランバートルで堂々と“ケンカ”の興行をしてもらえばいい。瀧川鯉昇演じる『千早ふる』の龍田川なら、きっと弁当のおかずに“豆腐”の出前をしてくれるだろう。(鯉昇のこの噺を知らない人には失礼!)
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by kogotokoubei | 2010-07-08 08:17 | 大相撲のことなど | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛