噺の話

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 落語『堪忍袋』を元に、実際に「堪忍袋」を作って参詣者に配るお寺のニュースを福井新聞からご紹介。
福井新聞の該当記事
新聞記事がヒント、参詣者に堪忍袋 鯖江市の寺、不満解消効果に期待
(2015年9月24日午前7時10分)

 ストレスや鬱憤(うっぷん)をため込まず現代社会を明るく生きてもらおうと、福井県鯖江市小泉町の盛隆寺が、不満を入れる「堪忍袋」を千袋作った。同寺の檀家と住職が福井新聞の記事からひらめいたもので、10月4日に同寺で行われる「九月講大法要」で参詣者に配る。堀智泰住職(68)は「持ち歩いて心の平静を保つのに役立ててもらえれば」と効果に期待を寄せる。

 きっかけは、3月19日付の1面コラム「越山若水」。けんかばかりしている夫婦が堪忍袋に不満を吐き出して円満になる落語を通じて、怒りを抑える「アンガーマネジメント」を紹介した。

 堀住職と檀家が集まった際、この記事が話題になった。同じ時期、丹南地域の法華宗10カ寺が毎年持ち回りで行う「九月講大法要」がことし同寺に回ってきており、参詣者に配る記念品を考えていた。

 檀家代表の秋澤敬徳さん(72)は「現代は怒りや不満の行き場がなく心がすさみがち。堪忍袋があれば明るく優しい心で過ごせる」と選んだ理由を語る。

 袋は同県坂井市の縫製会社に製作を依頼。色とりどりの帯生地を使い、持ち歩けるよう縦横各約10センチの巾着にした。表は「堪忍袋」、裏には「御守」と金糸で刺しゅうを施し、中に法華経の世界を表現した「法華曼陀羅(まんだら)」を焼き印した木片を入れた。

 16日は町内の檀家13人が同寺で、袋をひとつずつ箱に詰め丁寧にのしをつけていった。堀住職は「つらい思いは袋に吐き出して心安らかな日々を送ってほしい」と話していた。

 これは、なかなか洒落た企画だと思う。


 兄弟ブログの「幸兵衛の小言」で、先日、コンラート・ローレンツの『攻撃ー悪の自然誌』に関する記事を書いた。
「幸兵衛の小言」の該当記事。

 数多くの動物行動を観察した動物心理学者で、ノーベル医学生理学賞受賞者のローレンツは次のような主張をしている。

 生物は本来、同じ種の仲間に対する闘争の衝動があり、人間の場合それが理性で抑制されている。
 理性で抑制されているからストレスが生じる
 そのストレスを解放するために、スポーツなどへの「熱狂」と、緊張を解きほぐす「笑い」が有効である、と彼は述べている。

 そして、ローレンツは「笑いは熱狂よりもっと高尚な意味で人間固有のもの」であり、「吠える犬は噛みつくことも多かろうが、笑っている人間が発砲することは決してない」と言う。

 闘争の衝動を理性で抑制している日本人は、今、いつになく多いのではなかろうか。
 
 だから、ストレスが結構たまっているように思う。

 私はラグビーワールドカップを見ることで、最近たまったストレスを解放しようとして、南アフリカ戦は実に効果があったが、スコットランド戦では、またストレスがたまってしまった(^^)
 今週末のサモア戦は、ぜひ、ストレスが発散できる試合を期待したいものだ。

 さて、ローレンツが指摘するように、ストレスを笑いで解放することは、結構、高尚な人間としての活動なのだろう。

 そういった笑いでのストレス解放ということで、この「堪忍袋」の企画は、なかなか洒落ている。

 そう、あくまで、「洒落」なのである。

 いや、もしかすると、本当に「堪忍袋」に怒りや不満の言葉がたまったりしてね。
 袋の限界を超えて緒が切れたら、さて、日本中で、どんな怒り、不満の声が吹き出すのやら・・・・・・。

 洒落ですよ、洒落(^^)


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by kogotokoubei | 2015-10-01 12:48 | 落語のネタ | Comments(2)
 
 さて、この噺について、トリ(?)の三回目。

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永井啓夫著『新版 三遊亭円朝』(青蛙選書)

 円朝ものであるので、永井啓夫さんの『三遊亭円朝』からも紹介しなくてはいけないなぁ、と思う。
 
 この噺の〔梗概〕から引用したい。

〔梗概〕
 安永年間、本所業平村に浪島文治郎という浪人が母と住んでいた。七人力で真影流に秀で、侠客として盛名があった。
 文治は中の郷杉の湯で、ゆすりを働こうとした浮草お浪と夫まかなの国蔵うぃこらしめ、改心をさせる。
 また業平天神前で雪中百度詣りをしていたおまちを救い、父の浪人小野庄左衛門を見舞う。そしておまちを妻にしようとする大伴蟠竜軒の門弟をこらしめる。
 両国の芸妓おむらは、芝紀伊国屋手代友之助と心中し、二人は文治に救われる。
 文治は豊島町左官亥太郎と喧嘩し、これが縁で交誼を結ぶ。おむらは文治に不貞の心を見破られ、逆に怨みの心を抱く。
 浪人藤原喜代之助の妻おあさの不貞と不孝を知った文治は、折檻を加え、あばら骨を折って殺す。
 文治の母は絶食して意見をする。大伴蟠竜軒兄弟はいつわって友之助からおむらをうばい、友之助は自殺を計る。
 文治は大伴の道場へ乗り込むが、面部に負傷して帰る。
 兄の蟠竜軒は小野庄左衛門を連れ出し、お茶の水で殺害する。
 文治はおまちと結婚し、その夜、斬り込んで弟の蟠作おむらを斬る。

 はじめ「侠客業平格子」と題されて、素噺転向後の明治初年、大いに評判になった作である。
 業平文治という主人公の名からの着想で、作中の人物が六歌仙などの歌人になぞらえてあるのもおもしろい。
 小野の娘お町(小野小町)、紀伊国屋友之助(紀友則)、大伴蟠竜軒(大伴黒主)、おむら、おさき(紫式部)、藤原喜代之助(藤原清輔)、また、まかなの国蔵、浮草のお浪は「まかなくに何を種とや浮草」の歌からとったのであろう。

 引用されている歌のことを調べた。
 「まかなくに 何を種とて浮き草の 波のうねうね生ひ茂るらん」というのが小町の歌で、この歌を題材として能の「草子洗小町(そうしあらいこまち)」(流派により「草紙洗」「草紙洗小町」とも)が出来たようだ。
 大伴黒主が、小野小町との歌合戦を控え、とても小町には勝てそうに思えないので、小町の家に忍び込んで「まかなくに~」の歌を盗み聞き、それを「万葉集」に書き込んでおいて、小町に恥をかかせようとしたが・・・という筋書きらしい。

 流石、円朝、登場人物の名付けから、凝っている。
 お町は文治の女房になるので、業平と小町で美男美女の夫婦、ということだねぇ。

 永井啓夫さんは、簡略に全十七話を紹介しているが、『円朝ざんまい』のお題を拝借すると、大きく次の五つの話になる。

 「本所中の郷杉の湯の場」
 「天神の雪女郎」
 「柳橋芸者お村の話」
 「神田の勇亥太郎の話」
 「おあさ殺し」

 これらの話は、十七話それぞれで完結するわけではなく、入り混じって語られるし、それぞれの登場人物がいろいろと関わってもくる。円朝ならでは(?)の、複雑な構成なのである。


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森まゆみ著『円朝ざんまい』(文春文庫)

 志ん生が語らなかった話の中から「天神の雪女郎」について、『円朝ざんまい』から紹介したい。お町が登場するからね。

 原作の引用から、始まる。

    男達(おとこだて)と云ふものは寛永年間の頃から貞享元禄あたり
   まではチラチラありました。それに町奴とか云ひまして幡随院長兵衛、
   又は花川戸の戸沢助六、夢の市郎兵衛、唐犬権兵衛などと云ふ者が
   ありまして、其の町内々々を持って居て、喧嘩があれば直ぐ出て裁判
   を致し、非常の時には出て人を助けるやうなものがございましたが
   ・・・・・・
 
 一種の自治組織でもあろうが、業平文治は町奴ではない。町奴には徒党を組んで市中を横行する悪い奴もいた。主家を持たない浪人ではなるが身代もあり、人を助けるのがごく好き。
 さて十二月三日の夜、文治が浅草でご馳走になって業平橋まで帰る途中、ちらちら雪が降り出す。
「雪が降りますと貧乏人は難渋しますなァ」
「雪は豊年の貢といって、雪の沢山降る年は必ず豊年だそうだ」
 お供は番場の森松という、これも改心した賭博兇状持ち。番場も本所の地名である。
「森松や、あすこに女が居るようななァ」
「へー雪女郎じゃァありませんかえ」
「天神様へお百度でも上げているんだろう」
「寝小便か何かして縁付く事が出来ないから」 
 縁遠いのは寝小便のせい、も江戸の常套句である。そのうち娘が倒れる。侠気の文治は女を軽々抱いて、近くの小料理屋立花屋に運び込む。

    年頃十六七で、目元に愛嬌のある色の白い別嬪ですが、髪などは
   先々月の六日に結った儘で・・・・・・湯にも入らぬと見えて襟垢
   だらけで、素袷一つに結つ玉の幾つもある細帯に、焼穴だれけの前掛
   を締めて、穢ないとも何とも云ひやうのない姿だが、生れ付の品と
   愛嬌があって見惚れるやうな女です。

 江戸の女は、日髪を結うのが夢。なのに先々月の六日に結ったままとはかわいそうに。森松の見たところでは、
「二月しばり位(ぐれえ)で妾にでも出たらば好さそうなものですがなァ」
 とつい口に出るが、文治はもちろんそんなことはいません。娘に向かって、
「姉さん心配しちゃァいけません。介抱した効(しるし)があって漸々気がついて私も悦ばしゅうございますが、決して心配をなさいますなよ」
 とくるから、いい男ですねえ。
 娘はお町といって本所松倉町二丁目に住まう、もと中川山城守の藩中小野庄左衛門の娘。父一人、娘一人、その父が年老いて眼病にかかり、薬効甲斐なくので三十日間、毎晩お百度参りをしているという。同情した文治は四十金と恵もうとするが、娘が受け取らないので、立花屋の茶受けの菓子を持たせ、松倉町の家まで送ってゆく。
「どうも屋敷育ちは違うなァ」 
 と戻ってくると、業平橋でドロンケンの町人が武士にを除けようとして泥はねをあげ、無礼至極といいがかりをつけられている。ドロンケンはdrunken、すなわち泥酔状態。
「雪へ紅葉を散らしてやりましょう」
 と武士が意気がる所に文治、乗り込み、
「そんなに人を無闇に切るものではありません。弱い者を助けるのが真の武士」
「不届至極な奴、素町人を切るより此奴を切ろう」
 と切りかかるが、もちろん文治、素手で片付ける。
「そんな鈍刀(なまくら)では人は斬れません」
 助けられた町人は上州前橋堅町の松屋新兵衛といい、山の宿の山形屋に泊まっているので、お礼をさしあげたい、と申し出る。
 翌日、文治はお町の父小野庄左衛門を見舞い、一軒おいて隣りにまかなの国蔵が越したのを知り、寄ってそばを食べているうち、割下水の剣術遣い大伴蟠竜軒の門弟がお町を御新造に貰いうけたいと掛け合いに来て、怒った庄左衛門と立ち合いになる。
 もちろん文治、短いのを一本差して乗り込み、門弟らを割下水の溝の中へ投(ほう)り込む。
「茶などを呑ませてたまるものか、彼奴等(あいつら)は溝の水で沢山だ」

 ぽん太と二人、浅草で一杯ひっかけ、吾妻橋を渡り、お町のいた松倉町(いまの東駒形三丁目)から文治のいた業平橋へと千鳥足で歩いてみた。
「あんないい男に家まで送られてみたいわン」
「とぽん太はいったと書いておく」
「やだァ、といい女がいったと書いといて」
「私と一緒で悪かったね」
「そんなあ。でも文治さん、やたら金を恵みすぎですよ」

 一帯、戦災で焼けたので、区画整理がなされ、変哲もない四角い街区だが、それでもモルタルの壁に瓦屋根がのり、植木鉢を並べたような下町らしさのにじむ家が多い。星の湯、人参湯など銭湯の煙突が健在で、大横川親水公園沿いに業平橋に到着、商店街を歩く。業平橋駅や業平公園、業平小学校もあったが、ゆかりの在原業平を祀ったという天神はみつからなかった。

 お町が父の眼病の治癒を祈りお百度参りをした天神、いつなくなったのだろう。

 業平天神をことを調べていて見つけた「わたし彩の『江戸名所図会』-大人の塗り絵-」のサイトから、「業平天神祠」を拝借した。
「わたし彩の『江戸名所図会』-大人の塗り絵-」の該当ページ
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 間違いなく、業平天神は、あったのだ。

 文中の「ドロンケン」、原作でもそう書いてある。へぇ、英語だよ!

 『円朝ざんまい』は、最初2002年4月から翌年にかけて平凡社の月刊「百科」に掲載され、2006年に単行本、そして2011年に文庫化された。
 森さんは文庫のあとがきで、東駒形の人参湯はなくなった、と書いている。
 調べてみると、星の湯も昨年廃業しコインランドリーになっていたが、それもいったん閉めて、敷地には新たに三階建て共同住宅に保育園を併設、コインランドリーもある新たな建物が今秋に竣工予定らしい。

 銭湯、どんどん消えているねぇ。
 
 さて、お町の話のこと。
 文治がお町を助けたのが原作の二話の後半。文治がお町の家を訪ねたのが三話。
 大伴蟠竜軒の門弟和田原八十兵衞を溝に放り込むのが四話の冒頭。
 蟠竜軒一味がお町の父小野庄左衛門を殺すのが十三話の最後。
 文治が母に勧められてお町を妻にするのが十四話。

 そして最終十七話。
 文治は、蟠竜軒の悪事にほとほと腹が立ち、道場へ乗り込もうとしている。
 しかし、まだ、お町の父庄左衛門までもが蟠竜軒に殺されたことは知らない。

 少し長くなるが、十七話の冒頭から、ご紹介。
青空文庫『業平文治漂流奇談』


十七

 文治は予(かね)て大伴の道場に斬入(きりい)るは義によっての事でございまして、身を棄て、義を採ります。命を棄てゝも信を全くする其の志がどう云う所から起りましたか、文治郎は何か学問が横へ這入り過ぎた処があるのではないかと或る物識(ものしり)が仰しゃったことがございます、余り人の為の情(なさけ)と云うものが深くなると、人を害することがあります[#欄外に「玉葉集巻十八、雑五、従三位爲子」の校注あり]「心ひく方(かた)ばかりにてなべて世の人に情(なさけ)のある人ぞなき」と云う歌の通り「情(なさけ)を介(さしはさ)んで害を為(な)す」と云う古語がございます。大伴を討って衆人を助け、殊には友之助を欺いて女房を奪い、百両の金も取上げて仕舞い、彼を割下水の溝(どぶ)の中へ打込み、半殺しにしたは実に大逆非道な奴で、捨置かれぬと云う其の癇癖を耐(こら)え/\て六月の晦日(みそか)まで待ちました。昼の程から様子を聞くと、今日は大伴兄弟も他(た)へ用達(ようたし)に行(ゆ)くことなし、晦日のことで用もあるから払方(はらいかた)を済ませ、家(うち)で一杯飲むということを聞きましたから、今宵(こよい)こそ彼を討たんと、昼の中(うち)から徐々(そろ/\)身支度を致します。お町は其の様子を知って居りますから、暮方(くれがた)になると段々胸が塞(ふさが)りまして、はら/\致し、文治郎の側に附いて居りました。四(よ)つを打つと只今の十時でございますから、何所(どこ)でも退(ひ)けます。母にもお酒を飲ませ、安心させるよう寝かし付け、彼是(かれこれ)九つと思う時刻になると、読みかけた本を投げ棄て、風呂敷包みを持出しましたから、お町はあゝ又風呂敷包みが出たかと思うと、包を解(ほど)いて前(ぜん)申し上げた通り南蛮鍛えの鎖帷子、筋金の入(い)ったる鉢巻を致しまして、無地の眼立たぬ単衣(ひとえもの)に献上の帯をしめて、其の上から上締(うわじめ)を固く致して端折(はしおり)を高く取りまして、藤四郎吉光の一刀に兼元の差添(さしぞえ)をさし、國俊(くにとし)の合口(あいくち)を懐に呑み、覗き手拭で面部を深く包みまして、ぴったりと床(とこ)の上へ坐りまして、
「お町やこれへお出で」
「はい、お呼び遊ばしましたか」
「毎夜云う通り今晩は愈々(いよ/\)行(ゆ)かんければならぬことになりました、多分今宵は本意(ほんい)を遂(と)げて立帰る心得、明け方までには帰るから、どうか頼むぞよ、若し帰らぬことがあったらば文治郎亡き者と思い、私(わし)に成り代って一人のお母様(っかさま)へ孝行を頼みますぞよ」
「はい、旦那様、私(わたくし)が此方(こちら)へ縁付いて参りましてから、毎夜々々荒々しいお身姿(みなり)でお出向(でむき)になりますが、どうしてのことか、余程深い御遺恨でもありますことか、果し合とやら云うようなお身姿でございますが、お出(で)遊ばすかと思えば又直ぐお早くお帰りのこともあり、誠に私(わたくし)には少しも理由(わけ)が分りません、元より此方(こちら)へ嫁に参りたいと願いました訳でもございませず、どうか便り少い者ゆえ貴方様へ御飯炊奉公(ごぜんたきぼうこう)に参って居りますれば、不調法を致しましても、お情深い旦那様、行(ゆ)き所もない者と無理に出て行(ゆ)けとお暇(いとま)も出まいと思い、旦那様をお力に親の亡い後(のち)には唯(た)だ此方様(こなたさま)ばかりを命の綱と取縋(とりすが)って、御無理を願いましたことで、思い掛けなくお母様が嫁にと御意遊ばして、冥加に余ったことなれど、実は旦那様は嘸(さぞ)お嫌(いや)であろうと存じて居りました処が、御孝心深いあなた様、お母様の云うことをお背き遊ばさずに、親が云うからと不束(ふつゝか)な私(わたくし)を嫁にと仰しゃって下さりまして、私(わたくし)は実に心が切のうございます、何卒(どうぞ)女房と思し召さず御飯炊の奉公人と思召してお置き遊ばして下さるよう願いとう存じます」
「それはお前分らぬことを云う、いやならいやと男だから云います、又気に入らぬ女房は持っている訳にはいかぬもの、一旦婚姻を致したからには決して飯炊奉公人とは思いません、文治郎何処(どこ)までも女房と心得ればこそ母の身の上を頼むではないか、何(な)ぜ左様なことを云う」
「ひょっと旦那様は他(ほか)にお母様に御内々(ごない/\)でお約束遊ばした御婦人でもございまして、お母様の前をお出(で)遊ばすにお間(ま)が悪いから、私(わたくし)のようなものでも嫁と定(き)めれば、まさか打明けて斯(こ)うだとお話も出来ないから、其の御婦人の方(かた)へお逢い遊ばしに夜分お出向(でむき)になる事ではないかと、私(わたくし)は悋気(りんき)ではございませんけれども、貴方のお身をお案じ申しますから、思い違えを致すこともございます、何卒(どうぞ)そう云う事でございますならばお母様に知れませぬように、どのようにも私(わたくし)が執(と)り繕いますから、其の女中をお部屋までお呼び遊ばすようになすって下されば、お母様に知れないよう計(はから)います、実は斯うと打明けて御意(ぎょい)遊ばして下さる方が却(かえ)って私(わたくし)は有難いと存じます」
「つまらぬことを云うね、妾や手掛の所へ行(ゆ)くに鎖帷子を着て行(ゆ)く者はありません、併(しか)しお前が来てから盃をしたばかりで一度も添寝(そいね)をせぬから、それで嫌うのだと思いなさるだろうが、なか/\左様な女狂いなどをして家を明けるような人間ではございません、言うに云われぬ深い理由(わけ)があって、どうも棄て置かれぬ、お前が左様に疑(うた)ぐるから話すが、私は義に依(よ)って夜(よ)な/\忍び込んで、若し其の悪人を討てば、幾千人の人助けになる、天下のお為になる事もあろう、それ故に母に心配を掛けないよう隠して斯うやって参る、文治郎元より一命を抛(なげう)っても人の為だ、私(わし)がお前と一度でも添臥(そいぶし)すればお前はもう他(た)へ縁付くことは出来ぬ、十七八の若い者、生先(おいさき)永き身の上で後家を立てるようなことがあっては如何(いか)にも気の毒、私(わし)が死んでお母様がお前に養子なさると云えば、一旦文治郎の女房になったと他人(ひと)は思おうとも、お前の身に私(わし)と添臥(そえぶし)をせぬと云う心に力があるから、どのような養子も出来る、添寝をせぬのは実は文治郎がお前を思う故に、情(なさけ)の心からだ、又首尾能(よ)く為終(しおお)した上では、縁あって来た者故添い遂げらるゝこともあろうかと考える、何事も右京太夫の家来の藤原と相談してお母様を頼む、何卒(どうぞ)情(つれ)ない男と思いなさるな、天下のため命を棄てるかも知れぬから」
「はい能く打明けて仰しゃって下すった」
 と袖(そで)を噛んだなりで泣き倒れましたが、暫くあって漸々(よう/\)顔を上げまして、
「旦那様、そう云うことなら決してお止め申しませんが、何卒(どうぞ)私(わたくし)の申しますこともお聞き遊ばして下さいまし」
「何(なん)でも聞きます、どう云うこと」
「はい、私(わたくし)が此方(こちら)へ参りましてから、貴方はお癇癖が起って居(お)る御様子、寛々(ゆる/\)お話も出来ませんが、貴方にお恵みを受けました親父(ちゝ)庄左衞門は桜の馬場で何者とも知れず斬殺(きりころ)されましたことは御存じございますまい」
「えー……それは知らねど……どうも思い掛けない、何時(いつ)のことで……フーン後月(あとげつ)二十七日の夜(よ)に桜の馬場に於(おい)て何者に」
「はい、何者とも知れません、お検死の仰しゃるには余程手者(てしゃ)が斬ったのであろうと、それに親父(ちゝ)がたしなみの脇差を佩(さ)して出ましたが、其の脇差は貞宗でございますから、それを盗取(ぬすみと)りました者を探(たず)ねましたら讐(かたき)の様子も分ろうかと存じますが、仮令(たとえ)讐が知れましてもかぼそい私(わたくし)が親の讐を討つことは出来ませんから、旦那様へ御奉公に上って居りましたら、讐の知れた時はお助太刀も願われようかと存じ、御飯炊の御奉公に願いましたことでございます、貴方のお身の上に若しもの事がありますれば、親の讐を討ちます望(のぞみ)も遂げられまいかと存じます……そればっかりが残念でございます」
「フーン、能く親の讐を討ちたいと云った、流石(さすが)は武士の娘だ、あゝそれでこそ文治郎の女房だ、宜しい、私(わし)が附いていて、探(さが)し当て屹度(きっと)討たせます、仮令(たとえ)今晩為終(しおお)せて来ようとも、窃(ひそ)かに立帰ってお前の親の讐を討ったる上で名告(なの)って出ても宜(い)い……併(しか)し直ぐと手掛りもなかろう、彦四郎の刀を取られたのを手掛りとしても、それさえ他(た)に類のあるものでもあり、脇差の拵(こしら)えや何かも女のことだから知るまい」
「いゝえ、親父(おやじ)が自慢に人様が来ると常々見せましたが、縁頭(ふちがしら)は赤銅七子(しゃくどうなゝこ)に金の三羽千鳥が附きまして、目貫(めぬき)も金の三羽千鳥、これは後藤宗乘の作で出来の好(よ)いのだそうで、鰐(さめ)はチャンパン、柄糸(つかいと)は濃茶(こいちゃ)でございます、鍔(つば)は伏見の金家(かねいえ)の作で山水に釣(つり)をして居(お)る人物が出て居ります、鞘は蝋色(ろいろ)でございまして、小柄(こづか)は浪人中困りまして払いましたが、中身は彦四郎貞宗でございます」
「能く覚えて居(お)る、それが手掛りになりますから心配せぬが宜しい、屹度(きっと)敵(かたき)を討たせましょうが……今夜はどうしても私(わし)は行(ゆ)かなければならぬ、お母様に何卒(どうぞ)知れぬようにして下さい、決して心配するな、直(じ)き往って来るから」
「はい、お止め申しませぬ……御機嫌宜しゅうお帰り遊ばして」
 と縁側まで送り出し、御機嫌宜しゅうと袖に縋(すが)って文治郎の顔を見上げる。文治郎は情深い者でございますから、あゝ可愛そうに、己は帰れるやら帰れぬやら知れぬに、気の毒なことゝ思うが、仕方がないから袖を払って三尺の開きをあけて、庭から出まして、これから北割下水へ掛って来ますると、夜(よ)は森々(しん/\)と致して鼻を抓(つま)まれるのも知れません。大伴蟠龍軒の門前まで来ると、締りは厳重で中へ這入る事は出来ません、文治郎は細竹を以(もっ)てズーッと突きさえすれば、ヒラリと高い屋根へ飛上(とびあが)る妙術のある人でございますから、何(なん)ぞ竹はないかと四辺(あたり)を見ると、蚊を取ります袋の付きました竹の棒がある「本所に蚊が無くなれば師走(しわす)かな」と云う川柳の通り、長柄(ながえ)に袋を付けて蚊を取りますが、仲間衆(ちゅうげんしゅう)が忘れでもしたか、そこに置いてありましたから、其の袋を取ってぱっと投げますると、風が這入って袋の拈(より)が戻ったから、中からブウンと蚊が飛び出しました。文治郎は情深い人で、蚊まで助けましたから、今でもブウン/\と云って忘れずに文治郎の名を呼んで飛んで居ります。

 この文治とお町の会話、結構、聴かせどころだと思う。

 蚊までブウンと名を呼んでいる、なんてぇのもいいねぇ。

 この後、蟠竜軒の道場での立ち回りとサゲまでを十七話から引用。
 この中の登場人物を補足する。
 お村は元柳橋の芸者。母親のお崎は欲深婆ァ。お村は以前、袋物屋紀伊国屋の番頭の友之助と惚れあい心中を計ったが、お村は文治に助けられた。友之助も助かり、文治に店を出してもらった。
 しかし、友之助が蟠竜軒の策略で賭け碁の借金のカタとしてお村を蟠作の妾にとられた。
 文治が蟠竜軒の道場に乗り込もうとしたのは、まずは友之助の仇を取ることだったのは、紹介した原作からもお分かりの通り。
 なお、和田原‘安’兵衛となっているが、これは、前半も登場する和田原‘八十’兵衛の誤りかと思う。


「早くお休みなさいよ、お願いでございますよ、お母(ふくろ)も眠がって居りますから旦那」
 と云うのが庭へ響きます女の声、はア此処(こゝ)にいるのはお村母子(おやこ)だが、此奴(こいつ)を逃してはならぬと藤四郎吉光の鞘を払って物をも云わずつか/\と来て、誰(たれ)かと眼を着けるとお村ですから「友之助ならば斯(かく)の如く」とポーンと足を斬りました。
「人殺し/\」
 と言いながら前へ倒れる。其の刀でえいと斬るとバラリッとお母(ふくろ)の首が落ちました。随竜垣に手を掛けて土庇(どびさし)の上へ飛上って、文治郎鍔元(つばもと)へ垂れる血(のり)を振(ふる)いながら下をこう見ると、腕が良いのに切物(きれもの)が良いから、すぱり、きゃっと云うばかりで何(なん)の事か奥では酒を飲んでいて分りません。
「何(なん)だ/\」
「人殺し/\」
「それは飛んだこと」
 とひょろ/\よろけながら和田原安兵衞が来て、
「どう遊ばした、お母様(ふくろさま)も怪(け)しからぬ……何者でござる、確(しっか)り遊ばして」
 と言いながらお村を抱き起そうとする時、後(うしろ)から飛下りながら文治郎がプツリッと拝み討ちに斬りますと、脳をかすり耳を斬落(きりおと)し、肩へ深く斬り込みましたから、あっと仰様(のけざま)に安兵衞が倒れました。蟠作は賊ありと知って討とうと思いましたが、慌(あわ)てる時は往(ゆ)かぬもので、剣術の代稽古をもする位だから、刀を持って出れば宜(よ)いに、慌てゝ居りますから心得のない槍の鞘を払って「賊め」と突き掛る処を、はっと手元へ繰込(くりこ)み、一足踏込んでプツリと斬りましたが、殺しは致しませんで、蟠作の髻(たぶさ)とお村の髻とを結び、庭の花崗岩(みかげいし)の飛石の上へ押据(おしす)えて、
「やい蟠作、能くも汝(われ)は大小を差す身の上でありながら、町人風情(ふぜい)の友之助を賭碁に事寄せ金を奪い、お村まで貪(むさぼ)り取ったな、大悪非道な奴である…お村、汝(われ)は友之助と心中致す処を此の文治郎が助け、駒形へ世帯を持たせて遣(や)ったに、汝(なんじ)友之助に意地をつけ、文治郎に無沙汰で銀座三丁目へ引越(ひっこ)し、剰(あまつさ)え蟠龍軒の襟元に付き心中までしようと思った友之助を袖にして、斯様(かよう)な非道なことをしたな、汝(なんじ)は文治郎が掛合に参った時悪口(あっこう)を吐(つ)き、能くも面体(めんてい)へ疵を付けたな、汝(おの)れ」
 と七人力の力で庭の飛石へ摩(こす)り付け、友之助が居(お)ればこうであろうと、和田原安兵衞の差していた脇差を取って蟠作の顔を十文字に斬り、汝(われ)は此の口で友之助を騙(だま)したか、此の色目で男を悩(なやま)したかとお村をズタ/\に斬り、汝(われ)は此の口で文治郎に悪口を吐(つ)いたかと嬲殺(なぶりごろ)しにして、其の儘脇差を投(ほう)り出し、藤四郎吉光の一刀を提(さ)げて「蟠龍軒は何処(どこ)に居(お)るか、隠れずに出ろ、友之助になり代って己が斬るから此処(こゝ)へ出ろ」と云いながら何処を探してもいないから、台所へ来て男部屋を開けますると、紙帳(しちょう)の中へゴソ/\と潜(もぐ)って、頭の上へ手を上げて一生懸命に拝んで、
「何卒(どうぞ)お助け下さい、何も心得ません、命計(ばか)りはお助けなすって、御入用なれば何(なん)でも差上げます」
「己は賊ではない、汝(てまえ)は奉公人か、当家の家来か」
「へえ先月奉公に這入った何も心得ませんもので」
「蟠龍軒は何処に隠れて居(お)るかそれを教えろ、蟠龍軒は何処に隠れて居るかそれを言え」
「何処だか存じませんが、今朝程築地(つきじ)のお屋敷へ往って浮田金太夫(うきたきんだゆう)様の処へ、竹次郎というお弟子と今一人を連れて参りました」
「嘘を云え、何処に隠れているか云え」
「嘘ではございません、主人の煙草盆に手紙が挿してあります、浮田金太夫様からのお手紙が参って居ります」
「じゃア全く居(お)らぬか……残念な事を致したな、大伴兄弟が居(お)ると思ったに蟠龍軒だけ築地の屋敷へ参ったか……あゝ残念な事をした」
 と云いながらプツーリと癇癪紛れに下男の首を討落(うちおと)しました。奉公人はいゝ面の皮で、悪い所へ奉公をすると此様(こん)な目に遇います。文治郎は刀をさげ、隠れて居(お)るかと戸棚(とだな)を開けたり、押入を引開けて見たが、居りません。座敷の真中(まんなか)に投(ほう)り出してありますは結構な脇差で、只(と)見ると赤銅七子に金の三羽千鳥の縁頭、はてなと取上げて見ると、鍔は金家の作、目貫は三羽千鳥、是は彼(か)のお茶の水で失ったる彦四郎貞宗ではないか、中身はと抜いて見ると紛(まご)う方なき貞宗だから、あゝ残念な事をした庄左衞門を殺害(せつがい)したのは彼等兄弟の所業(しわざ)に相違ないが、是を己が持って帰れば盗賊に陥り、言訳が付かぬ、却(かえ)って刀は此所(こゝ)に置く方が調べの手懸りにもなろうと思い、此の事を早くお町にも話したいと血(のり)を拭(ぬぐ)って鞘に納め、塀を乗越えて立帰りましたが、これから災難で此の罪が友之助に係りまして、忽(たちま)ちにお役所へ引かれますのを見て、文治郎自(みず)から名告(なの)って出て、徒罪(とざい)を仰付(おおせつ)けられ、遂に小笠原島へ漂着致し、七ヶ年の間、無人島(むにんとう)に居りまして、後(のち)帰国の上、お町を連れて大伴蟠龍軒を討ち、舅(しゅうと)の無念を晴すと云う、文治郎漂流奇談のお話も楽(らく)でございます。

 文治、いったい何人斬ったの・・・・・・。
 蟠作、和田原八十兵衛、お崎、お村、下男・・・五人だ。

 国立国会図書館サイトにある「近代デジタルライブラリー」で、明治二十二年刊『業平文治漂流奇談』を見ることができる。
国立国会図書館Wbサイト_近代ライブラリーの該当ページ
 画像転載には、申請して許可が必要だが、リンクは自由なので、ご覧のほどを。
 ちなみに、28ページに、文治が雪の降る中お町に出会う場面、そして203ページに文治の刀と蟠作の槍の一戦場面がある。
 
 前回の記事で、森まゆみさんとぽん太さんが、酔うほどに「あんな簡単に人をぶったり殺しちゃいけない」と呟くの、分からないでもないねぇ。

 志ん生が、「杉の湯」と「亥太郎」の二つの話に絞って高座にかけたのは、理解できる。
 この両方とも、文治は懲らしめた二人に金を渡し、国蔵も亥太郎も子分のように文治を慕うようになる。
 人を殺める場面もない。

 きっと、今松も、あの二つの噺を中心に、地で他の逸話なども盛り込んで演じるのだろう。
 そうは思うが、意外な話を披露してくれないかと、淡い期待もある。お町が登場するとかね。

 九月の独演会が、楽しみだ。
 
 これにて、『業平文治漂流奇談』の一席(三席?)、お開き!

 長々のお付き合い、誠にありがごうございます。

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by kogotokoubei | 2015-07-10 21:22 | 落語のネタ | Comments(0)
 さて、この噺の二回目。
 志ん生の音源後半の③④⑤は、『円朝ざんまい』の題で言えば「神田の勇亥太郎の話」だ。
 NHKの15分づつの連続ラジオのため、毎回、文治の説明、前回の内容の要約が入るので、通しならば30~35分ほどになるかと思う。

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森まゆみ著『円朝ざんまい』(文春文庫)

 『円朝ざんまい』から引用。

   其頃婀娜(あだ)は深川、勇みは神田と端唄の文句にも唄ひ
   まして、婀娜は深川と云ふのは、其頃深川で繁昌で芸妓が
   沢山居りました。夏向座敷へ出ます姿(なり)は絽でも縮緬
   でも襦袢なしの素肌へ着まして、汗でビショ濡になりますと、
   直ぐに脱ぎ、一度切りで後は着ないのが見えでございました
   ・・・・・・
 
 すけすけルック(あ、古いか)というわけね、よほど体の線に自信がないとできないこと。深川芸者は白粉気なしで、潰しの島田に新藁か丈長を掛け、笄(こうがい)は昔風に幅八分長さ一尺もあり、狭い路地は頭を横にしなければ通れないくらい。
 一方、神田の勇みの男たちは皆腕力がある。ワン力といっても犬の力ではない。

    腕を突張り己(おれ)は強いと云ふ者が、開けない野蛮の
   世の中には流行ましたもので、神田の十二人の勇(いさお)は
   皆十二支を其の名前に付けて十二支の刺青(ほりもの)をいた
   しました。

 その中でも一番強いのが神田豊島町に住む左官の亥太郎。馬喰町四丁目に吉川という居酒屋があって、そこで「名前にハバをきかせて食い逃げしよう」としたところから悶着となり、また業平文治が柔術で取り抑え、「覚えていろ」と亥太郎は浅草見附へ駆け込む。

 う~ん、森まゆみさんにしては、ちょっと亥太郎が「食い逃げ」という部分、ひっかかるなぁ。
 原作にあるが、亥太郎は十四日晦日に左官仕事の手間賃が入ると、飲み屋のつけをきちんと払っている固い男。あくまで、つけ、なのである。ここは訂正させていただく。

 それにしても、深川芸者の‘すけすけ’姿、見たかった(^^)

 「婀娜」なんて言葉、死語だなぁ。「新明解国語辞典」では、「婀」も「娜」も美しい意で、〔女性が〕性的魅力をからだ全体から発散する様子、と説明している。この魅力、‘すけすけ’だからいいのであって、今の時代のように、なんでもかんでもあけっぴろげでは、とても「婀娜」とは言えない。だから、こういう言葉自体が滅びてしまう、ということだろう。

 「婀娜」に対する「勇」は、男(の色)気たっぷり、ということだ。
 そんな勇の代表格、亥太郎と文治の一戦、原作から紹介。騒ぎを知った文治は、子分である番場の森松に、亥太郎の飲み代を建て替えさせようとする。しかし、亥太郎は後で払うつもりだし、勇の江戸っ子、受け取るはずもない。そして、文治が七人力なら、亥太郎は二十人力という腕力の持ち主。
青空文庫『業平文治漂流奇談』


「おや生意気な事を云うな、銭がねえってから己が払ってやろうってんだ、何(なん)でえ」
「なに此の野郎め」
 と力に任せてポーンと森松の横面(よこっつら)を打(ぶ)ちましたから、森松はひょろ/\石垣の所へ転がりました。文治は見兼てツカ/\とそれへ参り、
「これ/\何(なん)だ、何も此の者を打擲する事はない、これは己の子分だ、少しの云い損いがあったればとて、手前が喧嘩をしている処へ仲人に入った者を無闇に打擲すると云うのは無法ではないか、今日(こんにち)の処は許すが以後は気を注(つ)けろ、さっさと行(ゆ)け」
「なに手前(てめえ)なんだ、これ己の名前目(なめえもく)を聞いて肝っ玉を天上へ飛ばせるな、神田豊島町の左官の亥太郎だ、己を知らねえかい」
「そんな奴は知らん、己は業平橋の文治郎を知らんか」
「なにそんな奴は知らねえ、此の野郎」
 と文治郎の胸ぐらを取って浅草見附の処へとつゝゝゝゝと押して行(ゆ)きました。廿人力ある奴が力を入れて押したから流石(さすが)の文治も踉(よろ)めきながら石垣の処へ押付けられましたが、そこは文治郎柔術(やわら)を心得て居りますから少しも騒がず、懐中から取出した銀の延煙管(のべぎせる)を以て胸ぐらを取っている亥太郎の手の上へ当てゝ、ヤッと声を掛けて逆に捻(ねじ)ると、力を入れる程腕の折れるようになるのが柔術(じゅうじゅつ)の妙でありますから、亥太郎は脆(もろ)くもばらりっと手を放すや否や、何(ど)ういう機(はずみ)か其処(そこ)へドーンと投げられました。力があるだけに尚(な)お強く投げられましたが、柔術で投げられたから起ることが出来ません。流石の亥太郎も息が止ったと見えましたが、暫(しばら)くすると、
「此の野郎、己を投げやアがったな、覚えていろ」
 と云いながら立上ってばら/\/\と駈出しましたから、彼奴(あいつ)逃げるかと思って見て居りますと、亥太郎は浅草見附へ駈込みました。

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古今亭志ん生_業平文治漂流奇談

 志ん生の音源では、亥太郎が行った居酒屋を浅草見附の吉田、としているが、それはその後の展開につながりやすいからかもしれない。あるいは、実際に行きつけの店でもあったのかな(^^)

 さぁ、亥太郎は、浅草見附で何をしようとしたのか。『円朝ざんまい』では原作を引用して次のように書いている。

    只今見附はございませんが、其頃は立派なもので、見張所には幕を
   張り、鉄砲が十挺、槍が十本ぐらゐ立て並べてありまして、此処は
   市ヶ谷長円寺谷の中根守様御出役になり・・・・・・

 そこへ亥太郎がとびこんで、いきなり鉄砲を持ち出す。これを無鉄砲といいます。見附に詰め合わせた役人が追いかけてきて、天下の飾り道具を持ち出した廉(かど)で入牢申しつけられる。

 下記の写真は、PORTAL TOKYO「東京ガイド」から借用したが、『円朝ざんまい』にも、この浅草見附跡に建つ石碑の写真が掲載されている。
PORTAL TOKYO「東京ガイド」サイトの該当ページ

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 明暦の大火では、ここが閉ざされて多くの死者を出すことになったんだねぇ。

 よくお世話になる「落語の舞台を歩く」のこの噺のページからは、江戸時代の浅草見附の様子を拝借。
「落語の舞台を歩く」の該当ページ

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 志ん生の音源③は、亥太郎が浅草見附から奪った鉄砲を文治に向けた、という場面で終わっていて、④の冒頭で地の語りで亥太郎が入牢したと説明している。

 文治は、亥太郎が入牢した二日後、病身の父親がいると聞く亥太郎の家に見舞金十両を持って訪ねる。
 父の長蔵は、日々食べるものにも困り、首でもくくろうかと思っていたと話す。文治、なんとか人助けができた。
 この場面、長蔵が耳が遠いので、森松、文治と長蔵との会話が可笑しく、この噺では少ない笑いが起こる場面。
 志ん生の音源④は、文治が長蔵に十両を渡すまで。
 では、最終の⑤は、どうなるのか。

 亥太郎が入牢したのが師走二十六日。鉄砲を持ち出しただけの罪なので、二か月の牢暮らしで二月二十六日には解放されるのだが、その際、「百叩き」の刑を受けなければならない。
 しかし、勇の亥太郎、二十人力の亥太郎である。彼が、そんな罰はものともしない様子以降を原作からご紹介。
翌年の二月二十六日に出牢致しましたが、別に科(とが)はないから牢舎(ろうや)の表門で一百の重打(おもたゝ)きと云うので、莚(むしろ)を敷き、腹這(はらんばい)に寝かして箒尻(ほうきじり)で脊中を打(ぶ)つのです。其の打人(うちて)は打(たゝ)き役小市(こいち)と云う人が上手です。此の人の打(う)つのは痛くって身体に障らんように打ちますが、刺青(ほりもの)のある者は何(ど)うしても強そうに見えるから苛(ひど)く打ちまして、弱そうな者は柔かに打(ぶ)ちます。亥太郎は少しも恐れないで「早く打(ぶ)ってお呉(く)んねえ」などと云い、脊中に猪の刺青が刺(ほ)ってあり、悪々(にく/\)しいからぴしーり/\と打(う)ちます。大概(たいがい)の者なら一百打つとうーんと云って死んで仕舞うから五十打つと気付けを飲まして、又後(あと)を五十打つが、亥太郎は少しも痛がらんから、
獄吏「気付けを戴くか」
「気付なんざア入らねえ、さっさとやって仕舞ってくんねえ」
 と云うから尚お強く打つが、少しも疲(よわ)りませんで、打って仕舞うとずーっと立って衣服(きもの)をぽん/\とはたいて、
「小市さん誠にお蔭様で肩の凝(こり)が癒(なお)りました」
 と云ったが、脊中の刺青が腫(は)れまして猪(しゝ)が滅茶(めっちゃ)になりましたから、直ぐ帰りに刺青師(ほりものし)へ寄って熊に刺(ほり)かえて貰い、これから猪(い)の熊(くま)の亥太郎と云われました。

 百叩きの後「お陰様で肩の凝りが治りました」とは、なんともすごい勇の亥太郎だ。
 胴体は猪、頭は熊なんてぇ刺青も、凄いねぇ。

 志ん生は、牢の近くに酒屋があって、百叩きに遭った囚人が出てくると、焼酎を背中にかけてやった、と説明する。
  
 さて、牢を出た亥太郎、次の行動を原作から引用。
牢から出ると、喧嘩の相手の文治郎のどてっ腹を抉(えぐ)らなければならんと云うので胴金(どうがね)造りの脇差を差して直ぐに往(ゆ)こうと思ったが、そんな乱暴の男でも親の事が気に掛ると見えまして、家(うち)へ帰って見ると、親父はすや/\と能く寝て居りますから、
「爺(ちゃん)能く寝ているな、勘忍してくんねえ、己(おら)ア復(ま)た牢へ往(ゆ)くかも知れねえ、業平橋の文治を殺して亥太郎の面(つら)を磨くから、己(おれ)が牢へ往って不自由だろうが勘忍して呉んねえ」
 と云われ長藏は目を覚し、
「手前(てめえ)は牢から出て来ても家(うち)に一日も落付いていず、やれ相談だの、やれ何(なん)だのと云ってひょこ/\出歩きやアがって、何(なん)だ権幕(けんまく)を変えて脇差なんどを提(さ)げて、また喧嘩に往(ゆ)くのだろうが、喧嘩に往くと今度は助かりゃアしねえぞ、喧嘩に往くのなら己(おら)ア見るのが辛(つれ)えから、手前(てめえ)今度出たら再び生きて帰(けえ)るな」
「爺(ちゃん)、己(おら)ア了簡があって業平橋の文治郎のどてっ腹を抉って腹癒(はらい)せをして来るのだ」
「何だ、腹が痛(いて)えと」
「そうじゃアねえ、業平橋の文治郎を打(たゝ)っ斬って仕舞うのだ」
「此の野郎とんでもねえ奴だ、業平橋の文治郎様の所へは己(おれ)がやらねえ、死んでもやらねえ、業平文治郎さまと云うのは見附前(めえ)の喧嘩の相手だろう、其の方(かた)を斬りに往(ゆ)くんなら己を殺して往け」
「なんだって文治郎を殺すのにお前(めえ)を殺して往くのだ」
「何もあるものか、手前(てめえ)は知るめえが、去年の暮の廿六日に手前(てめえ)が牢へ往って其の留守に、忘れもしねえ廿八日、業平橋の文治郎様が来て金を十両見舞に持って来てくれた、手前(てめえ)が牢へ往って己が煩っていて気の毒だ、勘忍してくれと云って十両の金をくれた、其の金があったればこそ己が今まで斯うやって露命を繋(つな)いで来た、其の大恩ある文治郎様に刃物を向けて済もうと思うか、さア往(ゆ)くなら己の首を斬って往け、殺して往け、恩を仇(あだ)で返(けえ)すのは済まねえから殺して往け、さア殺せ」
「待ちねえ爺(ちゃん)、何か全く文治郎さんがお前(めえ)の所へ金を持って来てくれたに違(ちげ)えねえか、爺」
「暮になって何(ど)うも仕様のねえ所へ十両の金をくれて、それで己が今まで食っていたのだよ」
「そうとは知らずにどてっ腹をえぐろうと思っていた」

 (中 略)

「直ぐに詫に往くよ」
「嘘をつけ、そんなことを云ってまた喧嘩に往くんだろう、己やらねえ」
「大丈夫だよ、案じねえように脇差をお前(めえ)に預けるから」
「何処(どこ)でこんな物を買って来(き)やがった、詫に往かなければ己を殺せ」
「何か土産を持って往きてえが何がいゝだろう、本所は酒がよくねえから鎌倉河岸(かまくらがし)の豐島屋(としまや)で酒を半駄(かたうま)買って往こう」
「なんだ、年増と酒を飲みに往く、そんなことはしねえでもいゝ」
「そうじゃアねえ、済まねえから詫に行(ゆ)くのだ、安心して寝ていねえ」
「己も往きてえが腰が立たねえからとそう云ってくれ」
「それじゃア往って来るよ」
 と正直の男だから鎌倉川岸(がし)の豐島屋へ往って銘酒を一樽(たる)買って、力があるから人に持たせずに自分で担(かつ)いで本所業平橋の文治の宅へ参り、玄関口から、
「御免なせえ/\」
「おゝ、こりゃアお出(いで)なせえ」
「いやなんとか云ったっけ、森松さんか、誠に面目ねえ」
「己の所の旦那が阿兄(あにき)のことを彼(あ)ア云う気性だから大丈夫だと安心していたがねえ、まア出牢で目出度(めでてえ)や」
「去年の暮お前(めえ)を手込(てごめ)にして済まなかった、面目次第もねえ、勘忍してくんねえ、己(おら)ア知らねえで旦那のどてっ腹をえぐりに来(き)ようと思ったら、己の所(とこ)の爺(とっ)さんの所(ところ)へ旦那が見舞(みめえ)をくれたと云うことを聞いて面目次第もねえ、旦那にそう云ってくんねえ、土産を持って来るのだが、本所には碌(ろく)な酒はあるめえと思って」
「酷(ひど)い事を云うぜ」
「豐島屋の酒を持って来た、旦那に一杯(ぺい)上げて盃を貰(もれ)えてえってそう云ってくんねえ」
「少し待っていねえ、お母様(ふくろさん)に喧嘩の事なんぞを云うと善(よ)くねえから、旦那に内証(ないしょ)で話して来るから」
 と森松は奥へ往きますと、文治は母親に孝行を尽して居りますから、森松はそっと、
「旦那え/\」
「何(なん)だ」
「見附前(めえ)の鉄砲が来ましたよ」
「亥太郎が来たか」

 (中 略)

「私(わし)も衆人(しゅうじん)と附合うが、お前のような強い人に出会ったことはない、どうも強いねえ」
「私(わっち)も旦那のような強い人に出会ったことはねえ、初めてだ」
「見張所の鉄砲を持ち出したのはえらい」
「どうも面目もございません、旦那は喧嘩の相手を憎いとも思わず、私(わっち)の爺(ちゃん)の所へ金を十両持って来てくれたそうで、随分牢へは差入物をよこす人もあるが、爺の所へ見舞(みめえ)に来て下すったはお前(めえ)さんばかりで、私(わっち)のような乱暴な人間でも恩を忘れたことはねえから、旦那え、これから出入(でいり)の左官と思って末長く目をかけておくんなせえ、お前(めえ)さんに金を貰ったから有難いのじゃアねえ、お前(めえ)さんの志に感じたからどうか末長く願います」
 と云うので、文治郎が盃を取って亥太郎に献(さ)して、主(しゅう)家来同様の固めの盃を致しましたが、人は助けておきたいもので、後に此の亥太郎が文治の見替りに立ってお奉行と論をすると云うお話でありますが、次回(つぎ)にたっぷり演(の)べましょう。

 ここで、原作の七話が終了。

 志ん生の音源では、亥太郎が父の長蔵に諌められて、酒を買って業平の文治の家に向う、というところまでで、その後、文治が亥太郎のお蔭で命を助けられる、とサゲている。
 だから、文治の家の場面は割愛。

 ちなみに、亥太郎が酒を‘半駄(かたうま)’買う、と言っているが、片駄、片馬とも書き、酒の取引用語で、四斗樽一本のこと。酒が四斗樽詰めで取引されていたころ、四斗樽二本を一駄という単位で呼んだ。四斗樽二本を振り分けにして馬の背に積んだのが由来。そこから片馬は四斗樽一本ということになる。
 それにしても、たいそうな土産だ。
 亥太郎がその酒を買った鎌倉河岸の豊島屋について、Wikipedia「豊島屋本店」から引用。
Wikipedia「豊島屋本店」
創業
慶長元年(1596年)、常陸国出身の初代豊島屋十右衛門が鎌倉河岸神田橋辺、現在の内神田二丁目2-1で酒屋を創業した。

鎌倉河岸は江戸城普請のための荷揚場として建造され、石材が鎌倉を経由して運び込まれた、或いは普請の職人に鎌倉出身者が多かったことから名付けられた。豊島屋はこうした普請に関わる職人などを対象に下り酒を安価で提供した。

 ひな祭りに飲む白酒は豊島屋が発祥。主人豊島十右衛門の夢枕に紙雛が現れて、白酒の製法を伝授された、という由来がある。「山なれば富士、白酒ならば豊島屋」と謳われた。
 長谷川雪旦の「江戸名所図会」にも「鎌倉町豊島屋酒店白酒を商ふ図」がある。
 「落語の舞台を歩く」に、この豊島屋の絵があるので、ご覧のほどを。

 なんと、この豊島屋は、今もある。詳しくは豊島屋のサイトでご確認を。
豊島屋のサイト

 『円朝ざんまい』では、森まゆみさんと相棒のぽん太さんが噺の舞台を歩いて、豊島屋の酒ではないが、旨い酒と肴を楽しみ、次のようにこの章を締めている。

 私とぽん太は半日、神田、浅草、本所を歩き回り、結局、三ツ目通りと春日通りの角にある大好きなW亭にふたたび沈没した。
「あわびと三ツ葉のおひたし、ほや、エリンギのにんにく焼き・・・・・・」
「ネギ玉、塩らっきょう、いわしのたたき・・・・・・」
 と三つずつ好きなつまみをたのみ、ぽん太いわく、
「お酒は『美少年』がいいですかね、文治にちなんで」
 飲むほどに、
「ちょっとお金を恵みすぎですよう」
 酔うほどに、
「あんな簡単に人をぶったり殺しちゃいけない」
 と気焔をあげて寒い夜は更けていった。
 芥川龍之介は「本所両国」(『大東京繁盛記』下町篇)で次のように書いている。
「明治二、三十年代の本所は今日のような工業地帯ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者が比較的多数住んでいた町である」
 浪人文治もそういう意味で、幕藩体制の落伍者であったかもしれない。しかしそういう暇も金もある義の人こそ、社会がまともに回っていくための潤滑油であった。
 芥川の叔父は神道無念流の剣客で、戊辰の年には彰義隊に加わる志を持っていた。維新後は大小を差して本所の堀で釣竿を垂れ、さいごは猫背の測量技師となり、大正の末年に食道癌で死んだという。業平文治はいくつまで、いつごろまで生きたのだろうか。
  -知らず、生れ死ぬる人、何方より来りて、何方へか去る(「方丈記」)

 あらっ?
 本書で「きわめつき、すっきりしたいい男」と副題をつけたほどの文治なのに、アルコールが入ってからのお二人が、なんとも文治にきついこと。
 たしかに、紹介した「杉の湯の場」で浮草のお浪を七人力で二度ぶったり、紹介しなかったが、おあさという女は、あばら骨を折って殺してしまうのだよ、文治は。
 
 だから、高座で文治を描く際、その剛腕ぶりを強調すると、決して‘いい男’と伝わらないかもしれない。これは、演者の力が試されるところだなぁ。

 森さんが、芥川龍之介の文章からかつての本所の姿を紹介したのは、剛腕な文治という男の存在意義を、当時の環境を踏まえて見出したかったからなのだと思う。

 志ん生も演じた「亥太郎」の話については、これにてお開き。

 志ん生が演じなかった他の話も、少しは最終回で紹介予定。

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by kogotokoubei | 2015-07-09 21:22 | 落語のネタ | Comments(4)

 九月に行われる、むかし家今松の独演会(国立演芸場)で、『へっつい幽霊』とともに、『業平文治漂流奇談』がネタ出しされている。

 一昨年、今松や雲助が同じような時期に『名人長二』を演じることを知って、拙ブログで、四回に分けてあの噺について書いた。ご興味のある方は、ご覧のほどを。
2013年8月27日のブログ
2013年8月28日のブログ
2013年9月2日のブログ
2013年9月3日のブログ

 2013年11月の今松独演会について書いた記事は、こちら。
2013年11月7日のブログ

 今回は、三回くらいにまとめてみようと思う。
 なお、九月の今松の独演会には、あえて筋書きを知らずに行きたい、という方は、ここから先は独演会の後にご覧のほどを。


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古今亭志ん生_業平文治漂流奇談

まず、音源として貴重なのがキングから発売されている、‘昭和の名人~古典落語名演集’『五代目古今亭志ん生(十二)』だ。
 このCDに入っている保田武宏さんの解説から引用。
 三遊亭圓朝作の長編人情噺の抜き読みである。原題は「業平文治漂流奇談」といい、明治十八年に速記本が刊行された。しかし、この速記には「漂流奇談」といっておきながら、漂流する部分がない。圓朝は最後の部分で「・・・・・・文治郎みずから名のって出て、徒罪を仰せつけられ、ついに小笠原島へ漂着いたし、七か年の間、無人島におりました、のち帰国のうえ、お町を連れて大伴蟠竜軒を討ち、舅の無念を晴らすという、文治郎漂流奇談のお話も楽でございます」と語っている。「楽」は千秋楽のこと。これで終わっているということは、近く続編を発表する予定だったからだが、それを果たせなかった。
 この続きの部分は、弟子の二代目三遊亭圓橘が口演し、「時事新報」に速記を載せた。明治三十六年一月十三日から、二月二十六日までの四十五回で完結している。この一回は、圓朝の「業平文治漂流奇談」の一回より短い。文治郎が、大伴蟠竜軒屋敷での大量殺人の罪を引き受け、三宅島へ流される。まもなく許されて帰国し、蟠竜軒を討つために新潟へ行ったが、船が遭難して小笠原の無人島で暮らし、帰国してお町とともに、舅の仇蟠竜軒を討つという噺になっている。この速記も、「業平文治漂流奇談」とともに、角川書店版『圓朝全集』第三巻に収録されている。
 今回使用した志ん生の音は、NHKラジオ昭和三十二年七月二十二日から二十六日まで、十五分番組で五回連続で放送されたものである。以前キングからLPレコードで発売されたときは、五席を一席につなぎ合わせたものだったが、今回原型に復元した。志ん生は東横落語会でも二回やっているが、音は残っていない。
 志ん生と同世代では、八代目林家正蔵がやっていたが、これも音が残っていないのは残念だ。
 ということで、音源としては、この志ん生のNHKラジオ版しか残っていない(はず)。
 この後、保田さんは、志ん生は圓朝原作の一席目、二席目と六、七席目の一部分を演じており、これは全十七席のうちのほんの一部分に過ぎないが、このネタを演じるには登場人物が複雑なままでは聞く者も理解できないので、単純化する必要が大いにある、と説明している。
 弟子の圓橘が、時事新報に書いた内容は『後の業平文治』と題されている。

 今松が、この大作をどうまとめてくれるのか楽しみだが、志ん生の音源が土台になるのは間違いないだろう。

 志ん生の音源の①から⑤では、二つの噺が語られている。

 どんな噺なのか、概要を知るにはうってつけの本がある。

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森まゆみ著『円朝ざんまい』(文春文庫)

 『名人長二』でもお世話になったが、やはり、森まゆみさんの『円朝ざんまい』が頼りになる。
 第十章のこの噺の副題が「きわめつき、すっきりしたいい男」となっている。
 ちなみに、『名人長二』の副題は「江戸屈指の男ぶり」だった。 

 本書の冒頭部分から、主人公文治とは、どんな男なのかを紹介したい。

 円朝を読む楽しみは、江戸前のすっきりしたいい男が出てくることである。きわめつきが、『業平文治漂流奇談』。明治十八年(1885)、若林玵蔵の速記法研究会から発刊されたが、これは、「侠客業平格子」という題で高座にかかっている。

    文治は年廿四歳で男の好(よろ)しいことは役者で申さば
    左団次と宗十郎を一緒にして、訥升(とつしょう)の品があって、
    可愛いらしい処が家橘と小団冶で、我童兄弟と福助の愛敬を
    衣に振り掛けて、気の利いた所が菊五郎で、確(しっか)りした
    処が団十郎で、その上芝翫の物覚えのよいときてゐるから実に
    申し分ございません。

 さぞかし江戸の町娘をキャアキャアいわせたでしょうねェ。業平文治、頃は安永年中(1772~80)、本所業平村にいた侠客、父は下谷御成街道の堀丹波守様の御家来で三百八十石頂戴した浪島文吾、仔細あって親諸共に浪人するが、本所業平に田地を買い裕福に暮らす。父亡きあとは母に孝行をつくし、剣術は真影流の極意をきわめ、力は七人力。悪人は懲らし、困っている人には恵んでやり、弱きを助け強きを挫くを地でいく。もちろん、

  名にしおはばいざ言問はむ都鳥
     わが思ふ人はありやなしやと


 という在原業平の歌を敷く。六歌仙の一人、業平もまた美男のきこえが高かったが、后に恋をして東下りを余儀なくされた。
 一貫した筋はなく、いってみれば「水戸黄門」か「必殺仕置人」か、次々と事件が起こっては文治が胸のすく活躍を見せる。

 補足すると、本名は浪島文治郎。あまりにいい男なので、業平文治が通称となった次第。
 この後、本書では五つの話の概要が紹介され、森さんと連れのぽん太さんは、この噺の舞台を巡っている。
 その五つの話は、次の通り。
  第一話 本所中の郷杉の湯の場
  第二話 天神の雪女郎
  第三話 柳橋芸者お村の話
  第四話 神田の勇亥太郎の話
  第五話 おあさ殺し

 志ん生の音源は、この中の第一話と第四話になる。
 15分づつの5回に分けて放送されたうち、一回目と二回目が「杉の湯」で、三回目から五回目が「亥太郎」。
 なお、音源は観客のいないスタジオで収録されたようで、拍手や笑いがない。
 また、毎回、文治のことを説明し、二回目からは前回の要約もするので、通しで演じる場合は、もっと短縮できるだろう。
 
 では、『円朝ざんまい』から、志ん生も演じている第一話について紹介。

 そのころ場末の湯屋は入れ込みで、小股が切れ上がった女が来るので、男たちは気になってしょうがない。

   左の方を見たいと思ふと右の頬ばかり洗って居りますゆゑ、片面
 (かたッつら)が垢で斑(ぶち)になってゐるお人があります。

 堺屋重兵衛という薬種屋(きぐすりや)の番頭九兵衛が、お尻をつねったりしてこの女にちょっかいをかける。女は悪党なので、得たりとばかり、もうもうたる湯煙の中、その手拭いをひったくって先に上がり、「私に悪戯をする奴があるよ。亭主もあるからそんな事をされては亭主に対して済みません。手拭いのない奴をここへ引きずり出しておくれ」
 この女は浮草のお浪といってまかなの国蔵の女房、お尻をつねるのは江戸では求愛のしるしだそうですが、このいたずらをいいがかりに、堺屋に掛け合って五十両ばかりゆすろうという魂胆。
 そこへ文治が登場する。
 「おいおい姉さん何だか悉(くわ)しい訳は知りませんが、成り替って私(わし)が詫びましょうから、勘弁してこの人を帰してください」
 と丁寧にわびるが、あんまりお浪が居丈高なので態度を変え、
 「これ、手前の亭主はお構い者で、聞けば商人や豪家へ入り、強請騙りをして衆人を苦しめるとは」
 とお浪をぶつ。

 ‘ぶつ’とあるが、文治は七人力である。原作も志ん生の音源でも二回ぶっており、七人力で二回、十四人力、と言っている。
 また、円朝の原作にはないが、文治に突き飛ばされたお浪はどぶに落ち、はい上がってきた時には、鼻から泥鰌が二匹ぶら下がっていた、という志ん生らしい創作がある。これでは、まるで『品川心中』の貸本屋の金蔵だ(^^)

 志ん生の音源の①は、お浪が家に帰ったが、夫の国蔵は帰っていなかった、というところまで。
 
 そして、音源の②において、冒頭で再び文治のことを手短に紹介し前回の要約をした後、お浪と国蔵との会話になる。事情をお浪に聞いた国蔵、文治から金をむしり取ろうと、お浪に膏薬を貼りまくって、文治の家へ。
 五十両よこせ、と迫るのだが、その後は、青空文庫の原作からご紹介。
青空文庫『業平文治漂流奇談』


「五十両でいゝかえ」
「宜しゅうございます/\」
 と云うと文治は座を正して大声(たいせい)に、
「黙れ悪人、其の方(ほう)は此の文治を欺き五十両強請ろうとして参ったか、其の方は市中お構(かまい)の身の上で肩書のある悪人でありながら、夫婦連(づれ)にて此の近傍(かいわい)の堅気の商家(あきんど)へ立入り、強請騙りをして人を悩ます奴、何処(どこ)ぞで逢ったら懲(こら)してくれんと思っていた処、幸い昨夜其の方の女房に出会いしにより打殺そうと思ったが、お浪を助けて帰したは手前を此の家(うち)に引出さん為であるぞ、其の罠(わな)へ入って能くノメ/\と文治郎の宅へ来たな、さア五十両の金を騙り取ろうなどとは申そうようなき大悪人、兎(と)や角(かく)申さば立処(たちどころ)に拈(ひね)り潰して仕舞うぞ」
 と打(う)って変った文治郎の権幕(けんまく)は、肝に響いて、流石(さすが)の國藏も恟(びっく)り致しましたが、
「もし旦那え、それじゃア、からどうも弱い者いじめじゃアありませんか、私(わっち)の方で金をくれろと云ったわけじゃアありません、お前(めえ)さんの方で懇意ずくになって金を貸すと云うから借りようと云うのだが、又亭主に無沙汰(ぶさた)で人の女房を打(ぶ)って済みますかえ、其の上私(わっち)を打殺すと云やア面白い、さアお打ちなせえ、私(わっち)も國藏だア、打殺すと云うならお殺しなせえ」
「不届き至極な奴だ」
 と云いながら、突然(いきなり)國藏の胸(むな)ぐらを取って、奥座敷の小間へ引摺り込みましたが、此の跡はどう相成りましょうか、明晩申し上げます。

 ということで、十七話の最初を、ここを切れ場としている。

 さて、原作の第二話から、文治の啖呵をご紹介。

「やい國藏、汝(われ)は不届な奴である、これ能(よ)く承われ、手前(てめえ)も見た処は立派な男で、今盛りの年頃でありながら、心得違いをいたし、人の物を貪(むさぼ)り取り、強請騙りをして道に背き、それで良いものと思うか、官(かみ)の御法を破り兇状を持つ身の上なれば此の土地へ立廻る事はなるまい、然(しか)るに此の界隈で悪い事を働き、官の目に留れば重き処刑になる奴だに依(よ)って、官の手を待たずして此の文治郎が立所(たちどころ)に打殺(うちころ)すが、汝(われ)は親兄弟もあるだろうが、これ手前(てまえ)の親達(おやたち)は左様な悪人に産み付けはせまい、どうか良い心掛けにしたい、善人にしたいと丹誠(たんせい)して育てたろうが、汝(わりゃ)ア何か親はないかえ、汝(われ)は天下の御法を破り、強請騙りを致すのをよも善い事とは心得まいがな、手前のような奴は、何を申し聞かせても馬の耳に念仏同様で益(やく)に立たんから、死んで生れ替って今度は善人に成れ、汝(われ)は下駄屋職人だそうだが、下駄を削って生計(くらし)を立てゝも其の日/\に困り、どうか旦那食えないから助けて下さいと云って己(おれ)の処へ来れば米の一俵位は恵んでやる、然(しか)るを五十両強請(ゆすろ)うなどとは虫よりも悪い奴である、汝(われ)の親に成代(なりかわ)って意見をするから左様心得ろ、人間の形をしている手前だから親が腹を立てゝ打(ぶ)つ事があろう、其の代りに折檻(せっかん)してやる」
 と云いながら拳骨を固め急所を除(よ)けてコーンと打(ぶ)ちました。
「あゝ痛(いた)た」
「さア改心しなければ立所に打殺(ぶちころ)すぞ、どうだ」
「どうか助けて下さいまし」

 志ん生は、今度は文治が五度拳固で国蔵をぶった、五七で三十五人分、とクスグリを入れた。

  『円朝ざんまい』から引用。

尽くした説教に、
「そりゃァきっと善人になりやす」
 下駄職人として真面目に生きることを誓うと、文治は二十両を恵み、
「うっかり持って往(ゆ)くな、香典にやるのだ、手前の命の手付にやるのだからそう心得ろ」
 このセリフがニクいね。杉の湯のあった「中の郷」の地名は信用金庫の名に残っていた。

 原作では、この後、『円朝ざんまい』における「天神の雪女郎」に続き、志ん生の音源は「亥太郎」に替わるのだが、今回は、これにてお開き。

 この噺、昨年九月の人形町での雲助独演会、私は行けなかったが、「杉の湯」の場を「発端」として演じたようだ。
 また、もっと以前には、雲助が「杉の湯」を「上」、当代の馬生が「亥太郎」を「下」として演じたという記録もある。
 今松も、志ん生の音源を元に、「杉の湯」と「亥太郎」を演じるような気がするが、さて、どうするのか。

 これは、あくまで個人的な希望なのだが、「天神の雪女郎」を聴きたい。この場面、季節は合わないが、文治の女房となるお町が登場する。
 また、圓橘が演じた「後の業平文治」から、「漂流奇談」の題を重視し、漂流の場に挑戦するというのも一興だなぁ。

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by kogotokoubei | 2015-07-08 21:11 | 落語のネタ | Comments(2)
 先日、三代目桂春蝶が、「特攻」をテーマにした『明日ある君へ〜知覧特攻物語』という噺を手がけていることを書いた。
 一昨日6月3日、「天満天神繁昌亭」で春蝶がこの噺が披露したことを、NHK(関西)がWebニュースで、動画付きで伝えているので紹介したい。
NHKニュースの該当記事
落語で戦争の悲惨さ伝える
06月04日 05時30分

 特攻隊員をテーマにした創作落語で戦争の悲惨さや命の大切さを伝える活動を続けている落語家の桂春蝶さんの公演が大阪で行われました。
公演は戦後70年にあわせて、3日夜、大阪・北区の「天満天神繁昌亭」で行われました。
 3代目、桂春蝶さんは鹿児島県の知覧特攻平和会館を訪れたことをきっかけに、特攻隊をテーマにした創作落語をつくり、2年前から全国で公演する活動を続けています。
 内容は現代に生きる主人公が終戦間際の昭和20年の知覧にタイムスリップして、特攻隊の祖父と出会い、隊員の使命感や国のために犠牲になる葛藤などを知って戦争の悲惨さや命の大切さを理解していくというものです。
 会場には仕事帰りのサラリーマンや学生など、およそ250人が訪れ時折、笑いを誘う場面もありましたが特攻隊が家族にあてた手紙を読む場面では、涙を流す人もいました。
公演のあと50代の男性は、「落語で戦争の話をするとは、驚きましたが、春蝶さんの演技力に引き込まれとても良かったと思います」と話していました。
 また、10代の女性は、「戦争については、教科書でしか知らなかったのでどれだけ残酷だったか知りました。本当に、あすがあることを大切に生きていきたいと思いました」と話していました。

 この記事を読む限り、なかなか良い高座だったようだ。

 戦後70年ということや、戦争法案の審議などが背景にあるのだろうが、定席寄席の特定の高座のことを関西ローカルとはいえNHKが取り上げるのは、珍しいのではなかろうか。


 春蝶が、この噺を創作するきっかけとなったのは「知覧特攻平和会館」を訪ねたことだった。
 この会館のサイトに「特攻作戦に至る経緯」が説明されているので、引用したい。
知覧特攻平和会館のサイト


特攻作戦に至る経緯

 大東亜戦争(戦後は太平洋戦争ともいう)は、1941年(昭和16年)12月8日、ハワイの オアフ島真珠湾にあるアメリカ海軍基地への奇襲攻撃によって開始されました。 日本の陸・海軍主力は、真珠湾攻撃の後、東南アジアに進攻しました。先に述べたように、当時東南アジアのほとんどの国々が欧米列強の植民地となっており、現地守備隊しか残っていなかったこともあって、奇襲攻撃が成功し瞬く間にオーストラリア北側の線まで進出しました。

 ところが、1942年(昭和17年)8月になるとアメリカを中心とする連合軍が態勢を回復し反撃に転じました。その後の日本軍は連合軍の強大な戦力に押され防戦一方になり、開戦から3年後の1945年(昭和20年)初頭になると、沖縄はもちろん日本本土も空襲を受けるようになりました。特に1945年(昭和20年)5月7日、同盟国であったドイツが降伏すると、連合軍の攻勢は日本だけに集中するようになり、日本全土が苦戦を強いられるようになったのです。

 当時、日本政府は沖縄を本土の最前線と考えていましたので、その最前線を守るために採られたのが、特攻作戦でした。

 この段階では、圧倒的な物的戦闘力に勝るアメリカの進攻を阻止する日本軍としては、兵士一人一人の精神力を武器とした特攻戦法しか他に手段がないとの結論に達したのでした。

 つまり、日本の軍人が命を懸けた特攻を重ねることで、アメリカ軍にも大きな被害を与え、そうなると嫌戦気運(戦争を嫌がる気持ち)が広がっていき、お互いに損害を出したくないから、そのうち停戦になるのではないか・・・という期待を、政府はしていたのではないでしょうか。

 あの戦争を起こしたのも、そして、特攻という暴挙を国民に強いたのも、政府の愚行と言うより他にない。

 そして、70年という月日の経過がそうさせるのか、一人の軍国主義首相が、この国に歴史の間違いを繰り返させようとしている。

 落語という芸能が、戦争を知らない世代を含め、戦争のない平和な暮らしを希求するきっかけとなることができるなら、それは素晴らしいことかもしれない。

 ますます、一度聴かねば、と思う。

 
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by kogotokoubei | 2015-06-05 20:45 | 落語のネタ | Comments(6)

 三代目桂春蝶が、「特攻」をテーマにした新作落語を演じているらしい。
 毎日の記事から引用する。
毎日新聞の該当記事

桂春蝶、特攻をテーマにした創作落語を口演 父の死が影響
2015年06月02日

 落語家の桂春蝶さん(40)が「明日ある君へ〜知覧特攻物語」という落語を手がけている。鹿児島県南九州市にある知覧特攻平和会館を訪れ、この創作落語を思いついたという春蝶さんに、なぜ特攻隊員を落語で取り上げようと思ったのかを聞いた。

 春蝶さんの名を聞いて、阪神ファンでタレント活動も多かった、父親の先代、二代目春蝶さん(1993年に51歳で死去)を覚えている方もいるかもしれない。春蝶さんは保育士を目指していたが、父の死を機に落語家になろうと決め、父と同じ三代目桂春団治さんに入門。2009年、三代目春蝶を襲名。11年からは東京に住み、東西を往復する日々だ。ちなみに先代同様に阪神ファン。

 春蝶さんは上方落語の古典を演じるだけでなく、「落語で伝えたい想い」というシリーズで、特攻隊員に続いて、1890(明治23)年にオスマン帝国の軍艦「エルトゥールル」が和歌山県の潮岬沖で遭難し、地元の人々が救助に当たった事件をもとにした「約束の海〜エルトゥールル号物語」などを手がけてきた。

 「なぜ、こういう話にトライしてきたかというと、知覧もエルトゥールル号も、実は、人の生死をめぐる話なんです。なぜか興味をひかれるんです」

 その理由は、自身の少年期にあるという。高校卒業の直前、父の先代春蝶さんが亡くなった。晩年は体調を崩していたが、関西では人気落語家で、タレントとしても知名度が高かった。

 春蝶さんは振り返る。「今でいううつに近いものが父にあったんでしょうね。酒を飲み、食事も取らず、死にたいと。業界ではゆるやかな自殺ではないかと言われたりしました。それを見て、生きてることって、人生を終えることって、どういうことなのかを考える少年期を送ってしまった」

 その後、落語家として、そして子を持つ親として「生きてることはものすごくありがたいこと。この生命をどうやって使っていったらいいのか、と思うようになった。そこで、落語を通じて表現したいという気持ちが強くなった」という。

 そんな頃、知覧平和会館に行った。「あっ、これを落語にしたら、自分の思いが伝わるのではないかと思ったんです」

 「明日ある君へ〜知覧特攻物語」は、初演から好評を得た。特攻隊員をテーマに春蝶さんが考えた展開は、新しい人情噺(ばなし)へとつながった。だが実は、初演をすると発表した直後から「なんで特攻隊をやるんですか」という批判的な意見も春蝶さんのもとには届いていた。

 「こうしたデリケートな作品を扱う時に、自分の中でちょっとしたルールみたいなものがあるんです。世の中の人は、さまざまな思想をお持ちじゃないですか。僕の条件は、どの人に見ていただいても納得していただけるような作品にしないといけないということ。イデオロギーを伝えたいということは全くない。どちらかといえば、そういう時代は終わらせて、もっと一人一人がそれぞれの思考をしていこうよと思うんです」

 春蝶は、今後、 ハンナ・アーレントをテーマにした落語も作りたいらしい。
 ハンナ・アーレントの名を、噺家さんから聞くなんて・・・なぜか嬉しい。

 三代目春蝶、寅さんなら、
 「おまえさん、さしずめ、インテリだね」と言いそうではないか(^^)

 彼の父は、上の記事でも紹介されているが、大の酒好き、そして虎キチとして知られた二代目春蝶。健康診断でドクターストップがかかっても酒を止めず、ほとんど食事も食べずに飲み続けたと伝わっている。51歳で肝硬変で亡くなっている。

 二代目の持ちネタにも、新作落語はあった。枝雀の実質的には最初の弟子であり、アナウンサーでもあった桂音也が作った『昭和任侠伝』が、二代目の十八番だったが、このネタは三代目も継いでいるらしい。

 さて、三代目春蝶の「特攻」ネタのこと。
 まだ聴いたことのないネタなので、内容について語ることはできない。
 あくまでも、その素材と、上記記事からの印象を元に思うこと。

 「特攻」と言うと、先頃亡くなった俳優の舞台や、NHKの経営委員を務めていた男のゼロ戦を主題にした小説などを、一瞬、思い浮かべる。

 どちらの人も、やや戦争を美化しているむきがあるのは否めないだろう。

 だからと言って、春蝶が特攻を素材にすること自体が、戦争美化とは到底思わない。

 たしかに、人によっていろんな意見はあると思う。
 落語、それも上方落語は、爆笑ネタこそ大事、とする風潮も強い。
 「なんで、特攻隊なんや!?」という批判めいた声は、間違いなくあると思う。

 しかし、「落語家は世情のアラで飯を食い」という言葉の‘世情のアラ’の中に、戦争という“アラ”があっても不思議ではない。マクラやネタに反戦的要素が含まれても良いだろうし、特に今日の政治状況からは、噺家にだって他人ごとにはできない重要なことだと思う。

 マクラで時事的な話題を取り上げ、世情を批判的に語る噺家さんもいる。
 最近聴いた高座では、まず、桂文我。ざま昼席落語会や、かつて国立演芸場での会で聴く文我のマクラは、他の噺家さんと一線を画している。
 時事問題を、真正面から取り上げ、自分の考えを堂々と主張する。もちろん、笑わせながら、である。
 そして、私が最近になって驚いたのが、むかし家今松の座間での高座におけるマクラだ。
 歯に衣着せず、政府を批判する主張を堂々と展開していた。

 反権力的なメッセージを、直球ではなく、笑いに包んで伝えることこそ、落語家の姿なのだと思う。
 
 以前、CSスカイAの「らくごくら」という番組だったと思うが、桂春菜時代の高座を見たことはあるが、印象は悪くない。

 彼の言葉、‘イデオロギーを伝えたいということは全くない。どちらかといえば、そういう時代は終わらせて、もっと一人一人がそれぞれの思考をしていこうよと思う’は、結構大事なことを言っているように思う。

‘イデオロギー’ではなく、あくまでネタとして伝わり、聴く側が笑いながら、戦争のない平和な社会の良さを尊ぶことになるなら、それも、落語という芸能が持つ姿の一面でもあろう。

 また、落語が“生きた”芸能である以上、江戸や明治、大正だけを舞台とするのではなく、平成につながる昭和の特定時期と場所を舞台に設定しても良いはずだ。

 新聞の記事にあるように、現在は東京住まいで、落語会もよく開いているようだ。

 この噺はまだ聴いたことがないので、そのうちぜひ聴きたいものだ。


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by kogotokoubei | 2015-06-03 21:37 | 落語のネタ | Comments(4)
 
 昨日は、落語会に行くつもりが野暮用のため行けなかった、と書いた。
 その行けなかった落語会は「花形演芸会」で、お目当ては桂吉坊の『冬の遊び』だった。

 悔しさはあるが、この噺のことは、やはり書いておきたい。

 この噺は、ある本で知った。
 その本のことは、かなり前になるが、記事で書いたことがある。
2008年10月4日のブログ



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『小沢昭一がめぐる寄席の世界』
 
 その本とは、『小沢昭一がめぐる寄席の世界』である。
  
 以前のブログと重複するが、紹介したい。

 この本での落語家との対談のトップは、同じ正岡容門下生の桂米朝師匠。
 米朝師匠が4つ年上。この二人の付き合いは長い。
 対談の中で「スケールの大きな落語とは」というテーマでの会話。

米朝 スケールの大きい落語というのは、どんなもんがあるかなと思って考えたんやけれども、案外ないんでね。「盃の殿様」というのが東京にありますけど、あれなんかは江戸の落語には珍しく、えらい大きな噺やな。・・・・・・・
小沢 いい噺ですね。
米朝 ・・・・・・大きい噺ですよ。長い噺ではないんやけどね。こういうもんは大きいなと思うんですよ。大坂落語でいろいろ考えたら「冬の遊び」というええ噺があってね。

 本書を元に、「冬の遊び」の内容を説明すると、こうである。
(1)なにかの事情で奉行所ににらまれ、夏の真っ盛りに花魁道中をやる
  ことになった。
(2)堂島の米相場町の連中が遊郭のある新町にやって来てお目当ての
  栴檀太夫を呼んでくれと言ったが、道中のさなかなので、と断られる。
(3)堂島の衆、「えっ、道中、聞いたか」「いや俺は知らん」と、事前に
  挨拶がなかったことが面白くない。
(4)堂島衆が帰ろうとすると、仲居のお富があわてて押しとどめ、急いで
  道中に栴檀太夫を探しに行く。
(5)お富が道中の見物客をかき分け「新町の一大事」と叫び、相談の結果、
  役人をお茶屋に連れて行っている隙に栴檀太夫を急病と偽って連れ出した。
(6)新町に戻ってくると、道中で歌舞伎の服装をしていたため、栴檀太夫も
  「船弁慶」の知盛の格好をしているのを堂島衆が見て、みんなで冬の袷を
  着て、襟巻きをして「冬の遊び」をすることになった。
(7)そこへ幇間が「暑いこったんなー」と入ってきた。店の主人に着ぶくれ
  姿にされた幇間が暑さに辛抱できなくなって着ているものを脱いで庭に
  飛び降り、井戸の水を浴び出す。
(8)「冬の遊びなのになにしてんねん」「寒行のまねをしています」・・・
  がサゲ。

 昨日の吉坊が、この筋書きの通りか、何か工夫をしたのかは、聴いていないので分からない007.gif
 
 米朝師匠は、この噺に当時米相場を舞台に勢力のあった堂島衆の影響の強さや、夏真っ盛りに「冬の遊び」に興じる洒落っ気を含め「スケール」が大きいと評しているのだろう。

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『米朝ばなし』(講談社文庫)

 『米朝ばなし』では、「新町」の章で、次のように書かれており、大夫道中の時期が変わったことの、補足となっている。


 大夫の道中、これは大変金がかかるものですが、ふつうは花見どきにやったものらしい。しかし、たびたびのご法度や禁制で、いろいろ変転もあって、お上のご威光で花どきにはやってはならんということになって、これが真夏に変更になった。群衆が雑踏してけが人か死人でも出たんでしょうか。これは幕末のことで、明治になるとまた花どきに戻った。『冬の遊び』という話は、この幕末の真夏のころの九軒あたりが舞台です。


 さて、実際に吉坊の高座をお聴きになった方は、どんなご感想をお持ちだろうか。

 私は、そのうち、誰かのこの噺の高座を聴く思いを捨てないぞ!


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by kogotokoubei | 2015-05-31 20:59 | 落語のネタ | Comments(2)
 当代文枝が『抜け雀』を演じるということについて記事を書いたが、この噺のサゲについては、悩ましい問題(?)がある。


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小佐田定雄著『米朝らくごの舞台裏』(ちくま新書)

 『米朝らくごの舞台裏』のこの噺の章、あらすじの後半から引用。


止まり木と鳥籠のいきさつを聞くと、屏風の前に座り「重なる父親不孝をお許しください」と涙をこぼす。訳を聞いてみると、鳥籠を描いたのは絵師の父親とのこと。宿屋の亭主が「絵に描いた雀が飛んで出るというような名人におなりになって、何の親不孝なことがございますかいな」となぐさめると。絵師「いや、親不孝ではあるまいか。現在親にカゴをかかせたわい」
       ◎
 サゲは義太夫の『双蝶々曲輪日記』橋本の段の名文句。「現在親に駕籠かかせ」を踏まえている・・・・・・。といっても肝心の橋本がめったに出ないので、難解になってしまった。
 吾妻という傾城が駕籠に乗ったところ、その駕籠を担いでいたのが幼いころに生き別れた実の父だったことがわかって、吾妻が「いかに知らぬと云ふとても、現在親に駕籠かかせ乗った私に神様や仏様が罰当てて」と嘆くわけである。
 東京落語ではいつの時代からか「親を駕籠かきにした」という意味不明のサゲにしてしまっている。このサゲを言うために、わざわざマクラで「駕籠かきというのは最下級の職業で」と説明したり、冒頭に無礼な駕籠かきを特別出演させて「駕籠かきというものは、しょうのないものだ」などと言わせたり苦労している。
 上方では四代目文枝師から受け継いだままのサゲ「「現在親に駕籠をかかせた」で演じているが、中途半端な改定をするよりはわからないままで置いて、疑問を持った聞き手が調べて納得して笑うというサゲが一つぐらいあってもいいと思う。
 そうでなかったら、父親に鳥籠を描かせるというあたりから改造して全く新たなサゲを考えるべきだ・・・・・・と思って、最近、桂南光さんに新しいサゲを提供させてもらった。

 実は、この本を読むまで、東京落語の「駕籠かきにした」というサゲに、なんら疑問を感じていなかった。
 この噺の起源が、江戸なのか上方なのか、どうもはっきりしないようだが、上方でも古くから伝えられてきたようなので、この浄瑠璃を元にしたサゲは、知っておく必要があったなぁ。

 そうか、本来は義太夫を踏まえたサゲだったんだ・・・・・・。

 これは悩ましいなぁ。
 たしかに、小佐田さんが主張するように、本来の「駕籠をかかせた」にして、興味を抱いた聞き手が調べるのに任せる、というのも一案だ。
 しかし、東京落語では、すでに「駕籠かきにした」が事実上の標準(いわゆる、デファクト・スタンダード)化していると、言えなくもない。
 
 そんなことを思いながら、調べていたら、あの三遊亭圓窓の「五百噺ダイジェスト」のこの噺のページにたどり着き、柳家つば女の指摘に基づく、鳥籠ではなく、竹の止まり木を描く筋書きと、それに対応するサゲを発見した。
圓窓五百噺ダイジェストの該当ページ
 圓窓さん、本来のサゲを知っており、このように主張されている。

〔双蝶々曲輪日記 六冊目 橋本の段〕の吾妻の口説き句に「現在、親に駕篭かかせ、乗ったあたしに神様や仏様が罰あてて――――」というのがある。
[抜け雀]を演るほうにも聞くほうにもその知識があったので、落ちは一段と受け入れられたものと思われる。本来の落ちには隠し味ならぬ、隠し洒落があるのが、嬉しい。
 知識として、その文句のない現代のほとんどの落語好きは、ただ単に「親を駕篭かきにしたから、親不孝だ」と解釈をしてるにすぎない。
 胡麻の蠅と駕籠かきは旅人に嫌われていた。その「駕籠かき」から「親不孝」と連想させての落ちになるのだが、悪の胡麻の蝿と同じような悪の駕篭かきもいただろうが、いとも簡単に駕篭かきを悪として扱うのはどうかと思う。
 だから、浄瑠璃の文句の知識を念頭に入れない「駕篭かき」の落ちの解釈は危険そのものなのである。
 なんとも、真っ当なご指摘。さすが、圓窓師匠である。

 たしかに、本来のサゲを知っていて「駕籠かき」にしているのか、知らないで、「駕籠かき」=「雲助」=「悪者」のサゲにしているのかは、噺家が高座に臨む姿勢としては、大きな違いだろう。

 しかし、小佐田さんの、‘「親を駕籠かきにした」という意味不明のサゲにしてしまっている’という主張には、もろ手を挙げて賛同、というわけにはいかない。

 私にとってこの噺は、古今亭志ん生、そして古今亭志ん朝を代表的な音源と思っているので、サゲのみを取り上げて、あの親子の作品の評価を下げるわけにはいかないのだ。

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矢野誠一 『新版 落語手帖』

 矢野誠一著『落語手帖』では、『古典落語大系』(三一書房)の永井啓夫の次の言葉を「鑑賞」で紹介している。

 『抜け雀』はどうも上方種の作らしい。竹田出雲の浄瑠璃『双蝶々曲輪日記』橋本の段で、傾城吾妻が「現在親に駕籠かかせ・・・・・・」とかきくどくくだりがサゲになっているのも上方落語らしいテクニックである。この話に登場する父子の画伯の名は、宿帳につけ忘れたらしく今日に至るまでついにわからないことになっている。しかし、どこそこの誰を無用に名をつけておかなかったこところが作者のじょうずなところといえよう。古今亭志ん生のレパートリーには『抜け雀』とともに『浜野矩随』のような名匠伝もある。しかし『抜け雀』がずば抜けて生き生きとしているのは、お得意の宿屋の夫婦の好人物ぶりもさることながら、いかにも身なりをかまわない名人気質が無理なく描かれているからである。つまり、その天衣無縫な名人ぶりが志ん生に一脈通ずるからなのだろう。

 浄瑠璃を踏まえたサゲから上方落語が元にあるようだと指摘するが、決して志ん生のこの噺を貶めることはない。
 噺は生きものであり、噺家によって新たな生命を吹き込まれることもあるのだから。
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『落語の鑑賞 201』(新書館、二村文人・中込重明著、延広真治編集)

 また、落語のネタで困った時に頼る本、『落語の鑑賞 201』でも調べてみた。
 「鑑賞」をご紹介。

 酒呑みが宿代が払えなくて、その代わりに鶴の絵を描いたら、それが飛び出したという中国説話の黄鶴楼の故事が、この話の骨格に一致する。絵に描いた、あるいは木に彫った動物がそこから飛び出したというのは、巨勢金岡(こせのかなおか)、土佐光起(とさのみつおき)、雪舟などの逸話にあり、生き絵奇瑞譚と言う。『竹の水仙』や講談『狩野探幽』にも近い。サゲの言葉は、駕籠かきは強悪という共通認識があればこそ生きてくるので、今ではマクラで、昔は駕籠かきが悪く言われていたということを振っておかねばならない。サゲの言葉は米沢彦八『軽口御前男』(元禄13・1703年刊)「山水の掛物」にあり、また、直接的には、浄瑠璃『双蝶蝶曲輪日記』(寛延2・1749初演)の橋本の段にある「現在親に籠かかせ・・・・・・」という文句に拠っている。「親を駕籠かきにした」と言ってサゲる落語家も増えてしまったが、これでは浄瑠璃の文句が生きてこない。
 古今亭志ん生の十八番であったが、宿の主人と、その女房のやりとりにクスグリをふんだんに入れて、面白かった。
 放浪の画家山下清を主人公とした人気テレビ番組『裸の大将』は、無価値と思われた旅人が、実は大変な芸術家だと分かって周囲の態度が手のひらを返し変わるという展開を必ず踏む。これは『抜け雀』同様、左甚五郎の名人譚の型を踏襲している。
 
 中国説話から、生き絵奇瑞譚など、丁寧にこの噺の背景を説明してくれている。この本は、貴重だ。

 結局、私はこう思う。

 上方では浄瑠璃『双蝶々曲輪日記』を生かし、「親に駕籠をかかせた」というサゲを踏襲してもらいたい。
 そして、東京においては、志ん生からの、これまた‘伝統’を生かして、「駕籠かきにした」で、良いのではなかろうか。もちろん、上方のサゲも分かった上で、演じて欲しい。

 補足するが、私が試行錯誤して選んだ‘古今亭十八番’にだって、この噺を選んでいるのだ。
2013年10月1日のブログ

-古今亭十八番(改訂版)-
(1)火焔太鼓 (2)黄金餅 (3)幾代餅 (4)柳田格之進 (5)井戸の茶碗 (6)抜け雀
(7)風呂敷 (8)替り目 (9)鮑のし (10)搗屋幸兵衛 (11)富久 (12)品川心中
(13)お直し (14)唐茄子屋政談 (15)お見立て (16)文違い (17)化け物使い (18)今戸の狐


 鼠ならぬ雀の噺、大山鳴動したわりには、なんとも八方美人のサゲであった。

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by kogotokoubei | 2015-05-15 07:38 | 落語のネタ | Comments(2)
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小佐田定雄著『米朝らくごの舞台裏』(ちくま新書)

 この本は、とても一度紹介するだけでは足らない。それだけ、貴重な情報、新たな発見などが満載である。

 たとえば、ゴールデンウィークには混んだであろうし、つい最近は猿の名付けで話題になった動物園。
 それにしても、シャーロットという名について、テレビで街頭インタビューを受けた中年女性が「失礼よ!」と言っているのを見て、私は、あぁこういう人が美術館で鏡を見て、「あぁ、これ知っているは、ひどい顔ね、ピカソでしょ」と言うのだろうと思ったなぁ。
 あるいは、自分の顔が少しでも引き立つように狐の襟巻きをする人かもしれない。
 

 さて、落語の『動物園』のこと。
 今では、東西どちらでも演じられるこの噺、現在の型にしたのが米朝であった、と知っている人は少ないかもしれない。そして、その元には私が大好きな八代目春風亭柳枝の噺があった。
 本書から引用したい。

 もともとはイギリス種の小咄といわれているが、これを落語にしたのは京都の文之助茶屋の主でもあった二代目桂文之助師である。米朝師が手がけるまでは、『軽業』の口上のように、司会者が「東西」と言うと柝が入るという古風な演出を取っていたらしいが、戦後に移動動物園ができたことで、それを採り入れて現在のような型にした。米朝師がお手本にしたのは東京の八代目春風亭柳枝師だそうだ。
「柳枝師が来阪したおり、松葉屋という旅館の二階で教えてもろたんや。同じときに、『普段の袴』という噺も習うたんやけど、こっちはピンとこなんだんで演らなんだんやけどね。柳枝さんに習うた噺の前に(柳家)金語楼作の『アドバルーン』という噺の前半をくっつけて一席のものにしたんや。子どもが虎にパンをやるくだりは柳枝さんのにはなかったんやけど、後に元落語家の漫才の人・・・・・・都家文雄さんやったかに教えてもろうた。ライオンが檻の中に入って来てうろたえる虎の様子を見た子どもが母親に『おかあちゃん、この虎弱いなあ』と言うのに対しておかあちゃんが『そら弱いわいな。パン食べるような虎、強いはずがない』というギャグは私がプラスした。虎の歩き方にも口伝があって、京都の中井吉太郎さんという人が世話をしてくれた落語会の楽屋で後に三代目福松になった文の家かしく師に教えてもろたんや。かしく師匠ご自身は持ちネタにしてなかったけど、お父さんに二代目桂文之助師匠の作でもあり、ご本人も踊りの素養があったこともあって教えてくれたんやね」

 今日の『動物園』への変遷を米朝の言葉から書くならば、

 イギリス小咄→二代目桂文之助→八代目春風亭柳枝+柳家金語楼→桂米朝→現在

 となるだろうか。

 米朝落語と言うと、どうしても『地獄八景亡者戯』や『算段の平兵衛』、『天狗裁き』などの大作を思い起こしがちなのだが、『動物園』のような小品も米朝落語と言えるということを、私はこの本で初めて知った。
 今日、前座さんから真打まで東西で幅ひろく演じられるこの噺を今に残した米朝の功績は、長編大作と比べて小さい、とは言えないだろう。

 本書では、次に虎の歩き方に関する文の家かしく師匠からの「口伝」が、詳しく書かれている。
 ぜひ、お読みいただきながら、皆さんも練習していただきたい。
 虎の歩き方の「口伝」は、右手を前から左手の左側にクロスさせてトンと突く。次に左手を上げて右手の左がわにトンと置く。そして、次に右手を上げて左手の後ろにチョンと置く。この時、右手はまっすぐ下ろすのではなく小指の横を床に着けて、頭をグーッと右に動かす。今度は左手を前から右手の右側にクロスさせて置き、右手を上げて左手の右横に置く。そして、左手を上げて右手の後ろにチョンと添えてから、頭を左に動かす。最初の右手を左手の左側に置く動きに戻る。頭はまっすぐではなく「∞」の型に動かすのが口伝である。
  出来ましたか?

 これをマスターすれば、あなたも動物園で虎になれます。
 名前は、オスなら“ジョージ”、メスなら、もちろん“シャーロット”です^^


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by kogotokoubei | 2015-05-09 09:26 | 落語のネタ | Comments(4)

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佐藤光房著『合本 東京落語地図』(朝日文庫)

 朝日新聞の編集委員であった著者による『合本 東京落語地図』(朝日文庫)は、座右の書の一つ。今では古書でしか入手できないが、この本、落語愛好家にとっては実に有益なのだ再刊を期待したい。

 立川龍志の『花見の仇討ち』が実に良かった。
 帰宅してこの本のこの噺の部分を開いてみたら、おもしろいことが書いてあったので紹介したい。


六十六部を知ってるのは16パーセント

 「六部」には説明が必要なようだ。演芸評論家の中野良介さんが以前、落語に出てくる言葉の理解度を調べるため、首都圏の百人を無作為に抽出してアンケートをとった。「六十六部または六部」を知っているのはわずか16.1パーセントに過ぎなかった。ついでに紹介すると、「半ドン」は80.6パーセント、「廓」は83.9パーセントが知っていたが、「舫(もや)う」は71パーセント、「幇間」は61.3パーセントの人が知らなかった。
「六部」は「六十六部」の略。書写した六十六部の法華経を全国六十六カ所の霊場に一部ずつ納める回国巡礼僧、ねずみ木綿の着物で、笈という衣服や経典を入れた箱を背負い、鈴を振って家ごとに銭を乞い歩いた。広辞苑に挿絵がある。

 補足すると、後に六部の多くは、物乞いの聖になったのだが、いずれにしても、今では落語の世界、それもこの噺にしか残っていないのではないかとも思われる言葉だろう。

 この本は、1988年1月、90年2月に朝日新聞社から刊行された正編と続編に、その後、「朝日新聞」東京版(90年8月~91年8月)に連載したものを加え、92年6月に発行されたもの。

 アンケートの時期が定かではないが、少なくとも今から30年近い前のことだろう。

 だから、もし今、「六十六部」「六部」を知っているかとアンケートをしたら、知っている人は一桁台に違いない。

 もちろん、知っていたから“偉い”、というわけではないが、知っていることでより一層落語や江戸時代のことがを楽しくなると思う。
 どんどんかつての文化や風俗を表す言葉が死語になりつつある。
 そういう意味でも、落語の「学校じゃ教えない」‘古い’ことを伝える役割は、重要だと思う。
 この私の思いへの賛同者は、四分か六分か、できれば六分であって欲しい^^


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by kogotokoubei | 2015-05-01 08:16 | 落語のネタ | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛