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噺の話

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カテゴリ:落語のネタ( 121 )


名人たちの『小言幸兵衛』(4)ー榎本滋民著『落語俗物園』などより。_e0337777_16371021.jpg


 榎本滋民さんが、『落語小劇場』の姉妹編として書いた『落語俗物園』から、私が名前をいただいたネタのことについて、最終四回目。

 ちなみに『落語小劇場』の初版は昭和45(1970)年に寿満書店から刊行、その後、私も持つ三樹書房で再刊されたが、『落語俗物園』は、その三樹書房から昭和51(1976)年に発行された。

 前回は、最初のべらんめぇ調の豆腐屋と好対照な、丁寧な口調の仕立て屋が、幸兵衛を訪ね、最初は幸兵衛も良い心持ちだったのだが、美男の独身の倅がいると聞いて、様子が急変。貸家の向かいの古着屋には、一人娘のお花がいるから、仕立て屋が越してきたら長屋に心中騒動が起きる、と言ったところまでだった。

 小円朝の演出の場面から、あらためてご紹介。

 退屈しのぎに針仕事をしていた娘が、うまくできない個所があって困ると謎をかけると、お教えしましょうと、倅が上がって行く。
 ここで突如、小円朝流では、
「なんだって上がるんだよ!」 
 と、叱りつけるのが、すてきにおかしい。
「上がるんだよとおっしゃいますが、まだ越してこないん・・・・・・」
「くれば、だ」
「ああ、くれば、ですか」
「ば、だよ」
 こうして、まあ、針の穴に糸が通る。原因があれば当然のことに結果があり、体の異変はおおいがたく、親に相手を問いつめられた娘は、実は仕立て屋の若旦那と、蚊の泣くような声で白状する。
 年は若いし仕事はできるし男はいいし、あの人なら上々の婿だと、古着屋は仕立て屋の倅をもらうことにする。
「話があったらどうする? ええ? 養子になるかい? おい!」
「へえ、どうも・・・・・・いろいろ御尽力にあずかりまして・・・・・・」
 という、小円朝流もおもしろいが、円生流になるともっとすさまじい。
「倅をやればものごとが丸くおさまる。ま、できたものはしょうがない。やんな、倅を、思い切って、おい、おやり」
「へえ・・・・・・まだわたくしは越してまいりませんので・・・・・・」
「越してくるもこないもないよ。他人(ひと)の娘を傷もんにして、今さらどうしようてんだ。え? やれ!」
 ここに至って仕立て屋もつい乗ってきて、当方は一人息子だから養子にやるわけには行かない、できたものはしかたがないから、それでは先方を嫁にもらうことにすると、真顔で答えるのが、落語のなんとも玄妙なおかしみである。

 榎本さんが玄妙と形容するやりとりのおかしみは、たとえば『粗忽長屋』などにも通じるものだ。
 普通なら「そんなことはないでしょう」と分りそうな荒唐無稽な話でも、相手の言い分に次第に引き摺りこまれ、いわば“催眠効果”によって、ありえない状況に踏み入ってしまう。
 熊に、お前はこの行き倒れだ、と信じ込ませる兄貴と、仕立て屋に対する幸兵衛は、どちらも腕のいい、イリュージョニストと言えるだろう。

 さて、そんな幸兵衛の空想と巧みな話芸(?)で、ようやく心中にたどり着く。
 双方の親が妥協しない以上、若い者同士の思案の行きつくところはきまっていると、前置きに戻る。
「しょせんこの世で添えないから、あの世で添いましょうと、ほら、ここで心中になるだろう?」
「はあ、なるほど、やはり心中になりますんですなあ。へえ、いろいろどうもお骨折りでございます」
「なにも別に骨を折ったわけじゃないが」
 大軍師の軍略や名探偵の推理もかくやの、掌(たなごころ)を指すがごとき展開である。
 (中 略)
「ま、心中といえば幕があく」
「うかがいますが、心中は幕があきますんで」
 心中の道行には、お定まりの舞台面がある。
 まず、引き幕があくと、浅葱(薄藍)幕が吊ってあり、この前に家主が長屋の者を大勢つれて、鉦や太鼓を鳴らしながら、迷い子やあいと出てくる。
 道に落ちていた書きつけを、なんだろうと拾い上げて読むと、これが
「浄瑠璃名題『梅柳中宵月(なかもよいづき)』、つとめまする役人(役者)、遊女十六夜(いざよい)、岩井粂三郎、所化(しょけ)清心、市川小団次、そのため口上さよう」
 といった触れ書き、すなわち浄瑠璃口上、つまり舞踏劇の地方(じかた、演奏者)・立方(たちかた、出演者)の紹介で、御苦労ながらもうひと回りと、迷い子をさがしながら去る。

 ついに、幕が開いた^^

 この後、柝頭(きがしら)がチョンと入って浅葱幕がパラっと落ちる、いわゆるチョンパラで、場面は、須崎堤や向島土手の人気のない夜景になる。

 置き浄瑠璃という導入がすむと、揚げ幕から手ぬぐいを吹き流しにかぶった女形が駆けてきて、花道の七三にころぶ。
 つづいて、対の衣装の尻をはしょり、手ぬぐいの頬かぶりに脇差の二枚目が出てきて、つまずいて先へ跳び越し、
「あとをこうふり返るやつが、せりふのかかりだ。“そこにいるのはお花じゃないか”てえと、“そういうお前は”・・・・・・。名前はなんてんだ、お前の倅は」
 女がお花なら、男は半七とか六三郎とかいうのが、心中する美男の相場なのに、なんとこれが、円生によれば中迫(なかせこ)杢太左衛門、小円朝によれば鷲塚与太左衛門というのだから、どうも色っぽくないことおびただしい。

 榎本さんが美男の“相場”として挙げている六三郎という名は、実際にこの噺を十八番としていた名人が使っていた名だ。

 大家を陽気な芝居好きに設定し、この噺を得意とした三代目柳家小さんが、仕立て屋の倅を六三郎としていたのである。

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麻生芳伸編『落語特選-上-』

 麻生芳伸さん編集の『落語特選』(上)には、その三代目小さんの型の完全(ノーカット)版が掲載されている。

 六三郎という名が、幸兵衛の妄想を一層掻き立てる、という設定でもあるので、名前は早い段階で明らかになる。

「鳶が鷹を・・・・・・うーん、よっぽど男っぷりがいいと見えるな。いや、あなだだって決してわるかあないよ。といって、別にいいってほどじゃあないけど」
「いま住んでおります近所のかたがたは仕立て屋の倅は、色は白いし、まるで役者のようだなんて申しますくらい・・・・・・」
「ま、ちょっと待ってくださいよ。ええと、ここんとこまでは、とんとんとんとほんとうによかったんだが、ここが面白くねえなあ」
「どうかしましたか?」
「どうもこうも・・・・・・年が二十二で、男っぷりなよくて、腕がいい。それで独身と来ちゃあ・・・・・・ばあさん、羊羹は少し見合わせなよ。どうも話がちょっと困ったことになってきた」
「いかがでございましょう、お長屋のほうは・・・・・・」
「それが困ったことになる・・・・・・。おまえさんの倅の名はなんというね」
「六三郎と申します」
「ああ、言わないこっちゃあない。なんだってそんな色男の名をつけたんだ。六三郎というと、昔からおその六三、かしく六三、みんな碌なことはしねえ、心中する」

 この後、小さんによる幸兵衛は、見事な舞台を演じるのだが、その当時は「おその六三」で、客席に十分に通じたからの名付けだったのだろう。

 この名は、大阪は南地福島屋の遊女お園と、大工の六三郎が心中した巷説を脚色した作品の通称。浄瑠璃なら「八重霞浪花浜荻(やえがすみなにわのはまおぎ)」、歌舞伎なら「三世相錦繡文章(さんぜそうにしきぶんしよう)」。

 円生や小円朝が、六三郎とせず、倅の名をあえて色男とは到底距離のある名前にして笑いをとる工夫をしたのは、当時、すでに「おその六三」が通じなくなったからであろうし、あるいは、最後の登場人物、鉄砲鍛冶のサゲ(「どうりでぽんぽん言い通しだ」)を嫌って、仕立て屋でもサゲられる内容にしたかったからかもしれない。

 なお、小さんは、仕立て屋の宗旨が法華と聞いて、「法華? 南無妙法蓮華経かい? おまえさんてえ人は、いちいち物事をぶち壊すなあ。そりゃ法華はありがてえ立派なお宗旨だよ。しかし、どうも心中するには陽気過ぎていけねえな」と真宗に宗旨変えさせる。

 ご存知のように、円生版は、仕立て屋は法華だが、古着屋のお花の家は梵語の真言宗としており、「おんあぼきゃべいいろしゃのう、まかぼだら、まにはんどまじんばら、はらばりたや」と幸兵衛に唱えさせ、笑いを招く。

 それぞれ、その時代を踏まえた、優れた演出と言えるだろう。

 榎本さんは、この噺について冒頭で、こう解説している。

 搗き米屋・豆腐屋・仕立て屋・鉄砲鍛冶とつづく長いはなしから、怪談じみた搗き米屋のくだりを除き、色気のある仕立て屋のくだりを音曲入りでふくらませたため、『道行き幸兵衛』『搗き屋幸兵衛』の二席になり、現在では普通『小言幸兵衛』というと『道行き幸兵衛』のほうを指すようになった。

 古今亭志ん生は『搗屋幸兵衛』のみを演じた。定評のある円生の『小言幸兵衛』と、住み分けていたとも言える。

 古今亭志ん朝は、親譲りの搗屋のみならず、道行きも演じたくなり、円生に稽古を願った。円生の指示で、弟子円弥から稽古をつけてもらったのだが、しばらくして、その志ん朝の『小言幸兵衛』を袖で聴いていた円生が、その経緯を忘れ「あれは、あたしの幸兵衛ですね」と、ことわりもなく演じていることへの苦情を言ったらしい。志ん朝がいきさつを話すと円生は思い出し、詫びた上で、所作などのアドバイスをしてくれたという逸話がある。

 さて、榎本さんは、三遊亭金馬の『小言念仏』を紹介し、この老人には名がないが、やはり幸兵衛のような気がすると記した後、この噺の章を、こう結んでいる。

 連想力が異常に発達していて、イメージがとめどもなくふくらんで行くため、つい相手の状況を一人ぎめにしてしまうのであり、理想の高い完全主義者であるため、他人のすぼらさまでが見のがせず、つい口やかましくなるのであって、むしろ潔癖なロマンチストだといっていい。
 それに『搗き屋幸兵衛』伝によると、女房に二人も先立たれているし、三人目ともなれば、最も身近な存在ではあっても、今の老妻とはあたたかい情も通い合わず、こまやかな語らいもないだろうし、どうせこんなてこでも動かない女には根負けして、先に死んで行くだろうと思うと、この爺さんのうるさい小言は、知己を渇望して得られない、孤独の悲鳴ともとれる。
「徳は孤ならず、必ず隣りあり」
 とは行かないのが、君子ならざるゆえんだが、小人であることをも含めて、私にはとても親しみがあり、わがあだ名も気に入っている。

 そうなのだよ。

 “潔癖なロマンチスト”だからこその、小言なのである^^

 私も自分の名前が、気に入っている。

 ということで、この噺への長らくのお付き合い、誠にありがとうございます。
by kogotokoubei | 2020-02-27 12:27 | 落語のネタ | Comments(2)
 
名人たちの『小言幸兵衛』(3)ー榎本滋民著『落語俗物園』などより。_e0337777_16371021.jpg


 榎本滋民さんが、『落語小劇場』の姉妹編として書いた『落語俗物園』から、私が名前をいただいたネタのことについて、三回目。

 なお『落語小劇場』の初版は昭和45(1970)年に寿満書店から刊行、その後、私も持つ三樹書房で再刊されたが、『落語俗物園』は、その三樹書房から昭和51(1976)年に発行された。

 さて、豆腐屋を撃退(?)した後のこと。

 べらんめい調の豆腐屋とは対照的な人物が登場。

 丁寧な言葉遣いで、借家のことを尋ねる仕立屋に感心する幸兵衛。

 幸兵衛の顔面筋肉が見る見るゆるんで、
「婆さん、布団をもっといで、布団を。さあさ、お当てなさい。どうも恐れ入ったねえ。結構なお借家とほめられるようなしろものじゃないが、ほめられて悪い気はしないものだ。この段をうかがいたいって、この段なんざ、なまやさしい学問でうかがえるもんじゃないよ」
 そういう行き届いた人になら、こちらからぜひ借りていただきたい気もちになる。つづいて職業をたずねれば、仕立て屋をいとなんでおりますとの答えなのだから、
「婆さん、茶を入れな、茶を」
 と、なるのも無理はない。
「わずかなことばで、意味がぴたりと通る。仕立て屋だからいと(糸)なむ。提灯屋ならはりなむてえとこだ。で、御家内は?」
「手前に妻(さい)に倅」
 ますます感心である。小円朝は以上三名、円生はこれに下職(したしょく)を加えて以上四名にしているが、倅は年も若くて、腕も得意先からの名指しの注文が親父より多いほどだという。
 しかも、器量はこの父親に似ず、鳶が鷹を生んだようだと評判されているそうである。結構ずくめではないか。
 ところが、その上まだ独身だと聞くに及んで、それまでじいんと涙ぐむようなうれしさにひたっていた幸兵衛は、やおらわれに帰って頭(かぶり)を横にふった。
「婆さん、茶は入れなくてもいい。羊羹も見合わせな。模様が変わったから」
 そんな人間が越してくると、この長屋に心中沙汰が起きるから、貸すわけには行かないという。

 ここからの幸兵衛の妄想、というか空想が、とにかくすごい。

 この人、どんな頭の構造をしているのだろうか^^

 越した空き家の向かいが古着屋で、そこには一人娘お花がいる。

 幸兵衛劇場の幕開きだ。

 ここへ美男が越してくる。仕立て屋と古着屋なら魚と水の商売、顔を合わせれば挨拶のことばくらいはいうだろう。
「ええ、それはいうのがあたりまえで」
「そのあたりまえてえのがよくないんだよ」
「さいですか・・・・・・」
 これは小円朝流。魚心と水心が動き出さずにはいない。
 それでも、腹の中で好いたらしく思い合っているうちはいいとして、
「お前のうちで酒なんぞ飲むことがあるかい? え? 親戚なぞがおりおり集りまして? それがいけない」
 これは円生流。酒が回れば三味線がほしくなる。向かいの娘が清元がうまいそうだからと、職人が頼みに行く。
 長屋のつき合いだと父親にいわれ、娘は喜んで出向く。清元の乙なところをちょいとやって、あとは都々逸の回し唄いになり、娘にすすめられて倅が、
〽竹ならば割って見せたい私の心、先へ届かぬふしあわせ」
 と、唄で恋文を送れば、娘が、
〽これほど思うにもし添われずば、実(じつ)も宝のもちぐされ」
 すぐ返事をする。
「いい仲になったのも知らねえで、やあどうも都々逸は陽気でおもしろいなんて、手前がそばでえへらえへら笑ってら。ばか野郎!」
「どうも相すみませんで」
 びくっと頭を下げる円生の息と顔がいい。

 円生流だと、その翌日倅が礼に行くのだが、小円朝流では、ある日古着屋の夫婦が寺まいりに出かけた留守をねらって、倅が行くようになっている。
 退屈しのぎに針仕事をしていた娘が、うまくできない個所があって困ると謎をかけると、お教え申しましょうと、倅が上がって行く。
 ここで突如、小円朝流では、
「なんだって上がるんだよ!」
 と叱りつけるのが、すてきにおかしい。

 こういう噺になると、都々逸で艶っぽくできるのは、さすがの円生。
 
 また、小円朝の、なんともとぼけた幸兵衛の科白も捨てがたい。
 
 この噺の楽しさの一つは、幸兵衛の止まることのない空想と、その話につい引き込まれてしまう、人の良い仕立て屋のやりとりと言ってよいだろう。

 用があるらしく早く立ち去りたい仕立て屋だが、心中事件の犯人にされながらその場を離れることができないのは、できることなら店子になりたい、という弱みもあるからか。

 「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」という江戸の長屋だ。
 もし縁があれば、親も同然の大家の話である。

 また、幸兵衛が、子供がいないことを自慢するような豆腐屋や、長屋に心中事件を巻き起こす(?)仕立て屋に部屋を貸さないというのも、大家としては的確な判断なのかもしれない。

 さて、この噺の山場は、このあとの心中の道行きになるのだが・・・次回のお楽しみということで、三回目はこれにてお開き。

by kogotokoubei | 2020-02-25 12:59 | 落語のネタ | Comments(0)

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 榎本滋民さんが、『落語小劇場』の姉妹編として書いた『落語俗物園』から、私が名前をいただいたネタのことについて、二回目。

 なお『落語小劇場』の初版は昭和45(1970)年に寿満書店から刊行、その後、私も持つ三樹書房で再刊されたが、『落語俗物園』は、その三樹書房から昭和51(1976)年に発行された。

 前回は、朝の町内一回りでの小言を、三代目小さんや志ん生、円生などの高座から合成した内容をご紹介した。

 さて、我が家へ帰ってからも、幸兵衛の小言が収まるはずがない。

 女房や猫に小言が続く。
 
 なおもぶつぶついいながら、熱い渋茶をすすっていると、
「まっぴら御免ねえ。ええ、ぴらめんねえ」
 と、威勢のいい男が入ってきた。
「今日(んち)は。お前(ま)はんかい、家主ってえのは。この先に二間半間口の空き家があるだろ?あいつを借りようてんだが、いくらだい、店賃は」
 早くも幸兵衛のこめかみがぴくぴくする。
 (中 略)
 豆腐屋だという相手は面食らいながら、家族はかかあが一人だと答えると、
「今までかみさんが二人か三人いたのか?」
「ふざけちゃいけねいやな。かかあってものは一人にきまってるじゃねえか」
「ならどうして一人だなんて、無駄なことをいう。子どもは?」
「食いもの商売はがきがあると、小ぎたなくて困るんだが、しあわせなことに、かかあのやつはがきを一匹もひり出さねえんで」
 その一言で貸せないといきり立つ、志ん生や円生のやりかたもいいが、老妻に金槌をもってこいといいつける、三代目三遊亭小円朝の怒りかたもいい。

 この豆腐屋とのやりとり、後からやって来る仕立て屋との好対照な前ふりという存在で、なかなか楽しい。

 榎本さんが書いている、小円朝の演出が気になった。

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金馬・小圓朝集

 ということで、この小円朝のこの場面を、「金馬・小円朝集」から、ご紹介。

「餓鬼はねえン、えェ、どうも食い物ですからね、餓鬼があっちゃ小汚なくてしょうがねえや、幸せなことにね、かかァの擂粉木(すりこぎ、<奴>の意)はまだ餓鬼を一匹もひり出さねえ」
「(上手後ろへ)婆ァさん、玄翁でも何でも持ってきてくれ、なんてことを言いやァる。この野郎の頭ァなぐってな、一遍、血ィ絞ってみてえんだ・・・・・・どんな血が出るか。・・・・・・酷(えら)いことを言いやがった馬鹿野郎ッ、なんだァ、餓鬼がァ無ェ?ェえ?馬鹿野郎。なァ、子供のねえのが自慢になるか。なあ?『三年経って子なきを去るべし』というくらいだ。三年添って子供が出来なきゃあ、どういうようにしてもいい、されても当り前ということになってるんだ。何年いるんだ?一緒に」
「ェェ、十年目です」
「十年も喰らいやがって子供が出来ねえ?(間)なあ、そんな冷えた女、よせよせッ、別れちまえ、追い出せッ。で、俺の長屋ィ越して来い。俺がもっと冷えていない、あったまって、体格のいい、四季に妊娠(はら)むような女房世話するから、独身(ひとりみ)になって俺の店(たな)に越してこい」

 こういった、今では確実にハラスメント(?)な内容は、落語ならでは^^

 なお、「金馬・小円朝集」の飯島友治さんの注に、江戸時代の離縁の「七去」が説明されている。

 ・両親に従順でないこと
 ・子の無いこと
 ・おしゃべりなこと
 ・盗癖のあること
 ・淫乱なこと
 ・嫉妬心の強いこと
 ・悪疾のあること

 飯島さんは、「当時は特に家系と先祖の祭祀が大切にされたので、親不孝と子宝のないのは重視された」と添えている。
 
 時代が違う・・・ねぇ。

 そして、落語は、本当に勉強になるねぇ。

 さて、榎本さんの本に戻って、豆腐屋が幸兵衛に別れろ、と言われた後。

「うちを借りるのに別れるような、あたしゃお安い仲じゃねえんだ、こちとらあ。お前さんといっしょにいられないぐらいなら、あたしゃいっそ死んだほうがいいってそいって・・・・・・」
「泣いてやがら」
「ほれてほれられて、ほれられてほれた仲なんだ。一つのものは半分ずつ、半分のものは四半分ずつ食ってらあ」
 ここで円生は、
「枝豆なんざ三つも入ってるから食いにくいや」
 志ん生は、
「ねえものは食わねえ」 
 甲乙つけがたい、しかも両者の特性のよく出た、すてきなギャグである。
 
 なるほど、今にも残るクスグリの作者が分かった。

 さて、豆腐屋が泣き泣き去った後については、次回。
by kogotokoubei | 2020-02-24 11:36 | 落語のネタ | Comments(0)

 いつか書こうと思っていた、私の名前をいただいたネタについて。

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 榎本滋民さんが、『落語小劇場』の姉妹編として書いた『落語俗物園』に、この噺が入っている。

 『落語小劇場』は、初版は昭和45(1970)年に寿満書店から発行され、その後、私も持つ三樹書房で再刊されたが、『落語俗物園』は、その三樹書房から昭和51(1976)年に発行された。

 まず、榎本さんは、こんなことを書いている。

 その場にいなかったら、なにをいわれているかわかったものではないのが、芝居という世界の恐ろしいところで、私などはかなりひどい陰口をきかれているらしく、その一つに小言幸兵衛なるあだ名もあるという。
 自分では少しもううすさくないつもりで、ただ正論と原則を明確にしようとつとめているだけなのだが、乱れた世並みでは、この筋を通すことほど、煙たがられることはない。
 多勢に無勢、いい加減くたびれもしたし、そろそろかわいがられる爺になろうかと思いかけたが、感じるところがあって気をとりなおし、まだ当分は幸兵衛に戻って小言をいうことにしたと、新しい芝居の稽古に入るときに冗談をいったら、ある若い俳優が私のことを、滋民が筆名で幸兵衛が本名なのだと思ったという、うそのような実話がある。
 小言幸兵衛の知名度も落ちたもので、これだから古典落語もやりにくくなる一方だが、陰で呼ばれるあな名のよしみもあって、この頑固爺、私には他人のような気がしない。

 榎本さんも、陰で言われていたんだねぇ、小言幸兵衛と。

 しかし、本名と思われていた、とは^^

 繰り返すが、この本は昭和51年発行なので、それから四十年余りを経た令和の時代、ほとんど、小言幸兵衛という言葉は死語になりつつあるのではなかろうか。

 ありがたいことに、落語としては、今も、聴くことができる。

 しかし、かつて落語の名人たちが語っていた内容と、今に残るものは、結構違っている。

 では、かつての名人たちは、この噺をどう演じてきたのか。
 冒頭の場面を、榎本さん、このように紹介してくれる。

 朝起きると長屋をひと回りして、小言をいって歩かなくては、腹の虫はおさまらない。
「井戸端を長々とふさぐんじゃねえ、その顔はいくら洗ったってだめだよ。あきらめが悪いな、ほんとに。歯をみがいたらさっさと掃除をしな。朝は掃除をするものときまってるんだ。そう焚き落としをばっぱと入れなさんな。そこいらじゅう灰になるじゃねえか。足袋屋の小僧さん、なんだって居眠りするんだ。朝っぱらから。居眠りてなあ夜遅くなってするもんだ。親方に叱られるぞ。またそこのがきもそうだ。朝というとぴいぴい泣いてばかりいる。親も悪い。ちょっと外へ目ざましにつれて行くとか、なんとかできそうなもんじゃねえか。これこれ、猫のひげをぬくんじゃねえ。鼠をとらなくなっちまうじゃねえか。どこのかみさんだい、ありゃあ。小間物屋の?大きな髷に結(い)ったねえ。いくら商売ものだって、狭え路地ならつかえちまわあ。あきれたもんだ。だれだい、便所(はばかり)ん中で唄あ唄ってるなあ。変な声を出しちぇいけねえよ。人殺しとまちがえらあ。おい、飯がこげてるぜ。そう毎日こげつかしちゃあしょうがねえ。釜癖がついたといいながら、やっぱり介錯のしようが悪いから、飯をこがしちまうんだ。そうしちゃあ、結んで飯前に三つも四つも食いやがって。けちなことをいうようだが、ものの冥利ということを知らねえから困る。おかねさんとこじゃねえのかい?知ってます?知ってるんなら早く火を引きなよ。洗濯してて手が離せません?それだ。なぜ飯をたいてから洗濯をしねんだよ。あくびをしながらものを噛もうたって、そうは行かねえんだ。ああ、ああ、こんな真ん中で犬がつるんでらあ。もっと端のほうで。ずうずうしい。恥じを知れってなあこのこった。どうも見るもの聞くもの、みんな気に入らねえな」
 小さんの幸兵衛か、幸兵衛の小さんかとうたわれた三代目柳家小さん(昭和五年没)をはじめ、五代目古今亭志ん生・当代三遊亭円生らによる、幸兵衛の小言を合成すると、こうなる。

 すごいな、この合成した内容。

 しかし、朝、近所を小言をのべつ言いながら一周りしてからが、幸兵衛さんの一日の始まり。

 帰宅してからの内容について、かつての名人たちのクスグリや演出を、次回ご紹介したい。
by kogotokoubei | 2020-02-23 17:47 | 落語のネタ | Comments(2)

『芝浜』の元となったらしい話のことー三田村鳶魚著『娯楽の江戸 江戸の食生活』より。_e0337777_11030703.jpg

三田村鳶魚著『江戸の娯楽 江戸の食生活』(鳶魚江戸文庫5)

 講談の起源のことなどを調べるため、「鳶魚江戸文庫」の中の『娯楽の江戸 江戸の食生活』をめくっていて、おもしろい文章に巡り合った。

 以前も読んでいたはずだが、忘れていたなぁ。

 『芝浜』は、円朝作で、三題噺から出来たもの、という説があるが、『円朝全集』には収録されておらず、疑問の声もある。

 鳶魚は、あの噺の元となったと思しき話を紹介している。

 少し長くなるが、引用する。
 なお、(中略)の部分では、『芝浜』のあらすじを説明している。

  芝浜の財布

 芝居の「芝浜の財布」は、落語で聞き慣れたものを脚色したものである。
 (中 略)
 不真面目な人間に僥倖ほど悪いものはない、あの時のあの金は荒廃に導く資本なのだが、今のこの小判は幸福の加畳(かじょう)だ、というので、心学らしい訓話であるが、芝へ魚の買出しに行くというので見れば、本船町・同横町・本小田原町・安針町、四組のほかに、新場・本芝・芝金杉の魚市場の出来たのは享保六年以降のことで、波打際で皮財布を拾ったといえば、本芝のことらしい。この心学を加味した落語は、享保時代の出来事を按排したものである。
 丹波の篠山侯の儒教臣、松崎堯臣が享保九年に書いた『窓のすさみ』の中に、最近の佳話として伝えたのによると、芝浦に年の若い大変に親孝行の魚売りがあった。毎日朝早く日本橋へ仕入れにゆき、終日売り回っていつでも夕暮に帰って来る。ある年の三月の初め、帰途の金杉通り黄昏頃の足許に蹴つけた紙包、披(ひら)いてみると、金二両と証文一通とがあった。証文を読むと、八王子の百姓が娘を奉公に出して得た給金なのが知れた、娘を江戸まで奉公に出す親の心を考えれば、この二両の悲しさは何程であろう、さてこそ、遺失者の身の上には二重の愁嘆があると思っては、居ても立っても済まされず、日頃の孝行者が、親にも告げず、その場から八王子へ立って、本人を探して術よく小判を還した、先方では、礼心で何の彼のと引き留めるのを、親に内緒で出て来たのだから、案じを掛けるのが心苦しいと、急いで芝へ戻ろうとする、八王子の者等も、それではというので、草刈馬に乗せ、二三人付いて来て一礼述べてきった、これで孝行魚屋は、その上にも正直者だと、近所の人達が感心の上塗りをした
 ということで、この話が『芝浜』の元になったのかと言うと、そうではなく、まだ続きがある。

その魚売りは、また四五日しての帰るさ、またしても紙包を足に掛けた、今度は十両あった、しかし白紙で包んであったから、落し主は知れない、尋ねようも届けようもないが、私すべき金ではないから、所の町役人に小判を渡して、本主(ほんしゅ)へ還るように頼んだ、町役人は、到底詮索の仕様もない金で見れば、天の与えであろう、拾い主が持って帰るがよいと言ったが、魚売りは自分のものにするほどならばお届けはしない、と言って帰宅してしまった、町役人も仕方がないから、委細を町奉行へ訴えて指揮を求めた、それから金十両の遺失について、本主は速やかに申し出よ、と三日間触れたが出て来ない、そこで町奉行は、魚売りを召して、日頃の篤実を賞し、本主の出ざる上は拾得金を老親の養い料にせよ、と申し渡したというので、本人の名さえ伝わらない話ではあるが、『窓のすさみ』の記載は、虚構仮設のないことを、幾多の例証が示している以上は、この篤実な魚売りの話も、たしかに当時の事実だと信ぜられる。それを、寛政以降に落語に仕立てる時、中沢道二の道話が大繁昌で、心学流行の勢いのあるのを見掛けて、巧みに訓戒を含め、特に女房を点出して婦女の働きを尊重すると共に、当該階級の家庭味を発揮した上に、話の色彩を加え、酔っぱらいの懶惰(らんだ)者の夢現(うつつ)に彷徨するさまを滑稽につかって、原話の乾燥を癒し、高座につきよいようにした。昔の思想家の宣伝として、あっぱれ秀逸なものである。ただ笑いを取るに急な一場の落語として芝浦の財布は現れたのではなく、本来立派な孝子の逸話を転化して、訓戒らしくない耳ざわりに改造したものなのである。

 鳶魚の文中には、円朝の“えの字”もない。
 
 『芝浜』の元となる実話は、芝に住んでいた、親孝行の魚売りだったのかぁ。

 円朝が、この話を知っていて、客席にサクラを仕込んで、三題噺という演出をいたのかどうかは、勉強不足で知らない。

 享保は、西暦1716年から始まっているので、松崎堯臣が『窓のすさみ』を書いた享保九年は、1724年。
 円朝は、天保十年、西暦1839年の生まれ。
 『窓のすさみ』は、円朝が生まれる百年以上も前に書かれている。

 この本には、『黄金餅』の元となる話もあるらしい。

 『芝浜』の原話を探る記事は、以前も書いている。
 中込重明さんの『落語の種あかし』からの引用を含め、列子にある「蕉鹿の夢」に起源があるのではないかという説を紹介した。
2018年12月2日のブログ

 中込さんは、鳶魚が『窓のすさみ』のこの話を起源としていることにもふれているが、この他にも土台となる説話がいくつかあって、そういう話全体から創作されたのではないかと推理している。

 ちなみに、宇井無愁は『落語のふるさと』で、この「芝浜の正直孝子」を取り上げているが、「実話だそうだがどこやらそらぞらしく、ツジツマの合わないふしが多い」と書いている。

 とはいえ、もし実話ではなくても、十分に、その後に落語『芝浜』につながる要素が、この話には詰まっていると思う。

 もちろん、「芝浜の正直孝子」を下敷きにしたとして、この話から今につながる『芝浜』にまで噺を磨いてきたとするなら、その歴史に携わってきた噺家たちの努力は賞賛に値するだろう。

 それにしても、松崎堯臣の『窓のすさみ』は、再刊してもらいたいものだ。

by kogotokoubei | 2020-02-07 20:47 | 落語のネタ | Comments(0)
 15日の真打昇進披露興行における、柳亭小痴楽の『宿屋の仇討』は、今でも、特筆すべき高座だったと思う。

 翌日の夜に書いた記事では、最後の方は両方の瞼がくっつきそうになって、詳しい設定などは割愛したが、高座の良さとは別に、舞台設定や人名について、誰に稽古してもらったのだろう、という疑問は残っていた。

 この噺は、元は上方のネタ『宿屋敵(仇)』を三代目柳家小さんが東京に移したものだが、この噺を上方で修行中に師匠二代目三木助から伝承され、さらに工夫を加えた三代目桂三木助の十八番としても有名。

 また、八代目林家正蔵もネタにしていたが、本人よりも弟子の六代目春風亭柳朝の方が、持ち味の江戸っ子の啖呵が生きていて、私も柳朝の音源は大好きだ。
 ちなみに、円生が柳朝の高座を聴いて、「師匠より、いいねぇ」と言ったことから、正蔵と円生との溝がいっそう深くなったとか、ならなかったとか。

『宿屋の仇討』のこと、いろいろ。_e0337777_15445911.jpg


 興津要さんの『古典落語』では「続々」に収録されており、巻末にこのように記されている。

 原話は、天保年間ごろ(1830年代)刊の笑話本「無塩諸美味」所収の「百物語」。
 別名を「宿屋敵」「万事世話九郎」といい、本書所収のそれは、上方種のものだが、江戸のそれは、「庚申待ち」「甲子待ち」といい、馬喰町の旅籠屋で、庚申の夜に寝ると、腹中の虫が昇天し、命がうばわれるというので、寝ずにすごした「庚申待ち」の晩には、とりとめのないはなしをしているうちに、仇討さわぎがおこるという設定になっている。
 いずれにしても、過大なるじまんから生まれた悲喜劇が中心になっている点においてはかわりはないが、上方種のほうが、にぎやかでおもしろいことは否定できない。

 『庚申待ち』は、志ん生の十八番。
 
 さて、この噺、人によって、舞台設定や人名に微妙に違いがある。
 
 源兵衛の“色事師”ばなしの舞台となった場所、そして侍の名で、違いを並べてみる。

 ちなみに、元の上方版(『宿屋敵(仇)』は、三人連れは兵庫出身、源兵衛(源やん)の色事師話の舞台は高槻の城下、侍の名は小柳彦九郎で、彼の弟の名は大造。

(1)五代目柳家小さん型
   場所は、川越。侍は小柳彦九郎、弟は大五郎。

(2)三代目桂三木助型
   場所は、川越。侍は石坂段右衛門、弟は大助。

(3)八代目林家正蔵型
   場所は高崎。侍は三浦忠太夫、弟は大造。

 小痴楽は、源兵衛のおじさんの居所は高崎、その妻と弟を斬って逐電したという侍の名を、三浦忠太夫、弟を大助としていた。

 これは、三木助型と正蔵型の折衷版、と言えるかもしれない。
 しかし、多分に、正蔵型と言えるだろう。

 柳亭、という亭号は、もちろん柳家由来。
 
 場所は川越でもなく、侍が小柳でもない、というのは、若干不思議ではある。
 
 実は、同じように柳家なのに、ほぼ正蔵の型で演じた高座を経験している。

 それは、七年余り前の、喜多八の博品館での高座だった。
2012年5月17日のブログ

 小痴楽の設定、この喜多八の高座と似ている。

 この記事にいただいたコメントで、師匠小三治は、その師匠小さんの型を踏襲しているとのこと。

 では、喜多八は、なぜ、大師匠の型ではなく、正蔵の型だったのか・・・・・・。

 また、後で、六代目柳朝の音源を聴いてみると、小痴楽は、どうも、この柳朝の音源を相当聴きこんでいるような気がした。設定のみならず、細かな科白回しなども、よく似ているのだ。

 柳朝のことや、彼のこの噺のことは、六年前の命日の記事で書いた。
2013年2月7日のブログ

 いいんだよね、この人の落語。
 江戸っ子の啖呵が利いて・・・そうか、小痴楽は、もしかすると、自分の持ち味を認識し、柳朝を意識して模範としているのかもしれないなぁ。

 父五代目痴楽が、もしかして、柳朝にこの噺の稽古をしてもらっていたのか。

 あるいは、小痴楽が、喜多八から稽古してもらった?


 15日の国立演芸場で、小痴楽の著書(『まくらばな』)をサイン入りで販売していたが、帰りがけに行列で出来ていたこともあり、購入しなかった。

 もしかすると、あの本に、この疑問への答えがあるのか、どうか。

 噺本来の楽しさは、紹介したような設定や人名には関係がなく、伝わる。

 設定などより、演者によって、違ってくる。

 とはいえ、小痴楽の『宿屋の仇討』が、どんな歴史を背景にしているのか、ちょっと、気になっている。

 いずれにしても、小痴楽の本、読まなきゃならないな。

by kogotokoubei | 2019-11-18 19:36 | 落語のネタ | Comments(2)
 「横浜 柳家小満んの会」は、『らくだ』で有終の美を飾った。

 元は上方の『駱駝の葬礼(そうれん)』で、四代目桂文吾が完成させた噺とのこと。

 この噺については、ずいぶん前に、志ん生を中心にした記事を書いた。
2012年6月27日のブログ

 あの記事は、大手町落語会で権太楼の見事な高座を聴いたこと、また、真打に昇進したばかりの一之輔が三田落語会でこのネタをかけた後、彼のブログで悩んでいる様子を目にしたことから書いたものだった。

 記事の中で、松鶴に代表される上方版のことや、八代目可楽の割愛の芸の魅力などにもふれたが、平岡正明の『志ん生的、文楽的』の次の文章なども紹介し、あえて東京版の、中でも志ん生のこの噺の良さを強調した。

あらためて、志ん生の『らくだ』について。_e0337777_12023567.jpg

平岡正明著『志ん生的、文楽的』(講談社文庫)

 文吾に対して三代目小さんと志ん生は、したがって剣術の小さんも可楽も、久蔵が泣き上戸であるという演出を採らない。小心で善良な屑屋の久蔵が、三碗の酒でトラになり、生傷男を圧倒するのだ。三碗にして岡を過ぎず。水滸伝の武松が景陽岡で、三碗呑んだら岡を越えられないという強いききめの「透瓶香」という酒(同じ銘柄の白酒が現在の景陽岡にある)をぐびぐび飲んで、ますます気宇壮大になって、虎が出るから夜間の山越え禁止という役所の高札を無視して岡を越え、あんのじょう人喰虎に出くわしたが、これを素手で殴り殺したとき、虎の魔性が武松にのりうつったことを感じる。同様に三杯の酒でらくだが久蔵にのりうつったのだ。三代目小さんが「らくだの葬礼」を東京に移植するにあたって、久蔵が三杯の酒でがらっと性格が変って関係が一気に逆転したほうがよく、屑屋の内心の変化を追う上方の演出はぬるいと感じただろうことを志ん生も感じているようだ。

 先日の小満んも、この三杯目からの激変を、見事に演じていたなぁ。

 その会の記事に、屑屋とらくだの兄貴分の主客逆転の後、らくだを弔うために坊主にする場面の演出について、コメントをいただいた。
 志ん生が、髪の毛を毟り取るようなことを、小満んはしなかったと記事で書いたのだが、志ん生がそんな演出をしていたことをご存知なかった、というコメントだった。

 少し、自分の記憶への疑問へのあり、あらためて志ん生の音源を聴き直したり、本を再読した。

 聴き直した音源は、こちら。
あらためて、志ん生の『らくだ』について。_e0337777_17431565.jpg

Amazon「五代目古今亭志ん生 らくだ 二階ぞめき」
 日本伝統文化振興財団(日本ビクター)から発売された、倒れた後の音源だが、私はこの高座のなんとも言えない味わい、好きだ。
 しっかり(?)、らくだの髪の毛を毟っている。

 ちなみに、Amazonには、こんなレビューも書いていた。
『らくだ』はサゲまで通しの長講。昭和40年の収録だから倒れてから4年後。
『二階ぞめき』は昭和39年の収録で、こちらも病後である。
志ん生の数あるCDを選ぶ際に昭和36年以前の作品を選ぶことは落語ファンの常識かもしれない。
しかし、昭和38年の東横落語会での『疝気の虫』のように、復帰後の何とも言えない味わいを好む人もいる。もちろん残された膨大な作品の中には、最盛期ですら必ずしも傑作ばかりとはいえないので、病後の作品を選ぶのは一層リスクが大きいのだが、この二作品は“当たり”だと思う。
元気な頃の同じ演題と聞き比べるのも一興だろう。

 私の持っている病気前の音源も良いのだが、短縮版なので、らくだを坊主にする場面は、ない。

 活字でも確認したが、その本は『志ん生 長屋ばなし』(立風書房)。

あらためて、志ん生の『らくだ』について。_e0337777_11103913.jpg


 この本は、その後、同じ立風書房の「志ん生文庫」版にもなり、ちくま文庫でも再刊されている。

 志ん生は、音源によっての違いもあるのだが、この本で小島貞二さんがラジオの音源を書き取った内容においては、屑屋久蔵の科白と行動、次のようになっている。

「な、こんなやつァ、どうせ、おめえ・・・・・・極楽に行ける野郎じゃないけどもよォ、な、ウン・・・・・・。おう、だからよォ、おめえ、そこいら少ぅし片づけろよ、おれ、坊主にしてやるから・・・・・・。え?なァに大丈夫だよ、こんなもの坊主にするくれえ・・・・・・エ、朝めし前よ、ウン・・・・・・。この野郎、ずいぶん毛がのびてやがる、えェ、こンちくしょうァ・・・・・・。
 おれがやるから、いいってことよ。・・・・・・どうでえ、うめえもんだろう。ウ、ウン、アハハハ。
 ガ、ガーッ、プッ、プーッ・・・・・・。(と、髪の毛を指に巻きつけてむしりとる。酒を口に含んで、プーッと霧にして、その頭に吹きつけ、またむしる。指先にからまった髪の毛を突ン出して)
 おう、これ・・・・・・やろう・・・・・・!」

 この本(初版の単行本)の冒頭に、志ん生自身の話(小島貞二さん聞き書き)で、こう記されている。ちなみにこの文章は、『志ん生芸談』(河出文庫)にも収録されている。

『らくだ』てえはなしの中で、はじめは気の弱い屑屋が、酒が入ると、だんだん気が強くなって、酒乱の本領をあらわし、らくだの兄貴分てえすごい野郎を、あべこべにおどかすでしょう。酒のみてえなァ、ああいうもんで、酔った勢いで、自分の立場なんざァ、忘れてしまって、天下ァ取ったような気になる。「べらぼうめ、矢でも鉄砲でも、持って来やがれッ」てえ、アレですよ。
 屑屋がらくだの頭の毛を、むしり取るでしょう。アレで特殊部落の人間だてえことがわかって、らくだの兄貴分がびっくりする。『らくだ』てえはなしは、なくなった可楽も売りものにしていたが、あの人もあたしの『らくだ』なんですよ。ただ、あの人ァ、頭の毛を剃刀でそぐようにした。その辺のところが研究なんですナ。

 志ん生は可楽が剃刀にしたことを“研究”と評したが、たしかに、あの場面、髪の毛を毟り取るという演出にすると、どぎつくなる。

 しかし、髪の毛毟りの場面があることにより、上方と東京とで、それぞれに兄貴分に与える効果があるということも考える必要がある。そして、その心理的な効果は、微妙に異なっている。

 四代目桂文吾が創った上方の『駱駝の葬礼(そうれん)』は、兄貴分の熊が隠亡と知り合いという設定。
 だから、らくだも兄貴分の熊も、そして隠亡もお仲間。
 剃れない剃刀を熊が借りてきたので久さんが髪の毛を毟り取ることで、熊は、きっと屑屋に親近感を抱いたはずだ。仲間意識、とでも言うべきものを感じたはず。

 対して東京版では、髪の毛毟りに加え久さんが火葬場の隠亡と知り合いであると告げることによって、兄貴分は、屑屋にある種の恐怖感を抱いたはず。上方版とは逆で、屑屋との距離感ができたと思う。


 東京の落語の過半数以上は、元ネタが上方にある。
 そして、三代目小さんや他の噺家さんにより、演じる場所に会わせ、また自分なりの解釈で脚色されて、今日に至っている。

 この『らくだ』という噺も、上方と東京では設定と演出の微妙な相違があること、そして、その違いが登場人物の心理的な位置関係を変えていることを思うと、落語というものの奥の深さをあらためて感じる。

 もちろん、小満んのように、あの場面を剃刀でさっと短く演じるのも、軽妙洒脱、品格を持ち味とする噺家さんらしく、良かった。

 そう、その噺家の持ち味、あるいは“らしさ”ってぇのは、大事だなぁ。

 そう思うと、志ん生だから、髪の毛を毟り取ってもいいのだろう。
 加えて、その演出の底流に流れているものを、志ん生はしっかり把握している。

 ぞろっぺいな面が強調されるが、実はその高座の背景には、噺の本質を捉えているからこその、志ん生なりの繊細な感性があるのだと私は思う。

by kogotokoubei | 2019-03-20 20:54 | 落語のネタ | Comments(4)
 昨日、今日と一泊二日でテニス仲間との合宿旅行だった。

 昨夜は、宴会の余興で、まず『真田小僧』を披露。
 大学の同期会の旅行でも演っていたので、結構、上手くできたと思う。
 仲間から、「もう一席」とのリクエスト。
 『崇徳院』をネタおろし。
 ところどころ言いよどんだが、なんとかこなすことができた。
 しかし、まだ改善の余地あり。

 さて、師走に入った。

 これから落語会や寄席での旬の噺の一つが『芝浜』。

 先週金曜の「昭和元禄落語心中」でも、物語の重要な素材として、与太郎あらため助六が、演じていたなぁ。
 また、鈴本の中席夜の部は、トリで『芝浜』と『柳田格之進』を聴く企画。
鈴本演芸場HPの該当ページ

 以前は『芝浜』だけのプログラムだった。

 『芝浜』という噺については、落語愛好家の方によっては、「名作!」「大作!」と言う声もあれば、「特に大袈裟に扱う噺ではない」「名作とは言えない」などの指摘もある。

 私は、それほど特別な噺とは言えなかったこのネタを、三代目桂三木助が磨き上げることで、一躍、存在感が大きくなったのだろうと思う。

 三木助がこの噺を稽古している様子を、アンツルさんの『三木助歳時記』から紹介したことがある。
2012年1月23日のブログ

 その昔の大川では白魚がよく獲れたという話をマクラでふることについて、三木助が銭湯で聞いた話が元となった、などの内容だった。

 さて、この噺、円朝の創作という説もあるが、円朝全集に載っていないので、異を唱える声も強い。
 また、その原話についても、いくつかの案がある。

「蕉鹿の夢」-『芝浜』の原話と言われるお話について。_e0337777_14542572.jpg

中込重明著『落語の種あかし』

 早世が悔やまれる中込重明さんの『落語の種あかし』(岩波書店、2004年6月初版)に、三代目三木助を元に粗筋を紹介した後に、こう書かれている。なお、武藤禎夫の「前著」とは、『落語三百題』のこと。
 さて、この「芝浜」の原拠に関することだが、武藤禎夫は前著の中で、「蕉鹿(しょうろく)の夢」の故事にふれている。これは森鴎外も「革財布の出典」の中で指摘している。「真(まこと)に鹿を得し傍(かたはら)なる人とその室人(つま)とその上を作り変へたものだろう」(『鴎外全集』第二十五巻、岩波書店)。そして、蕉鹿の夢の故事が載る『列子』の周王の項を鴎外は引用している・武藤はさらに、前著で「芝浜」の類話として、咄本『かの子ばなし』(元禄三年・1690刊)の中にある軽口咄を挙げている。日本橋で財布を拾った、越前より来た十介。宿に帰り畳に小判をひろげ寝る。その間、宿の主人にこの金を奪われる。起きた十介が言う、小判を並べた夢を見た、という話。

 この本を読んで、私は、列子にある「蕉鹿の夢」が、気になっていた。

 
 あらためて、検索してみたところ、原文と訳を含め、実に詳しく説明されているブログに巡り合った。

 そのブログ「人生朝露」さんの記事がこちら。
ブログ「人生朝露」さんの該当記事
 ブログ管理人さんに、コメントで引用のお願いをしたところ、ご快諾いただけたので、少し長くなるがご紹介したい。

鄭人有薪於野者、遇駭鹿、御而擊之、斃之。恐人見之也、遽而藏諸隍中、覆之以蕉、不勝其喜。俄而遺其所藏之處、遂以為夢焉。順塗而詠其事。傍人有聞者、用其言而取之。既歸、告其室人曰「向薪者夢得鹿而不知其處。吾今得之、彼直真夢者矣?」室人曰「若將是夢見薪者之得鹿邪?詎有薪者邪?今真得鹿、是若之夢真邪?」夫曰「吾據得鹿、何用知彼夢我夢邪?」薪者之歸、不厭失鹿、其夜真夢藏之之處、又夢得之之主。爽旦、案所夢而尋得之。遂訟而爭之、歸之士師。士師曰「若初真得鹿、妄謂之夢。真夢得鹿、妄謂之實。彼真取若鹿、而與若爭鹿。室人又謂夢仞人鹿、无人得鹿。今據有此鹿、請二分之。」以聞鄭君。鄭君曰「嘻!士師將復夢分人鹿乎?」訪之國相。國相曰「夢與不夢、臣所不能辨也。欲辨覺夢、唯黃帝、孔丘。今亡黃帝、孔丘、孰辨之哉?且恂士師之言可也。」
(『列子』周穆王 第三)
→鄭の国に原野で薪を拾う男がいた。男は原野でばったり鹿と出くわして、驚く鹿を擊ち倒した。男は仕留めた鹿が他人に盗まれはしないかと恐れ、干上がった池に隠し、芭蕉の葉で覆った。しめたものだと男は喜んだ。ところが、ふとしたことで、男は肝心の鹿を隠した場所を忘れてしまい、いつしか「あれは夢だったのではないか」と考えるようになった。家路に着くまでの間、鹿のことを順を追ってつぶやきながら帰った。そのつぶやきを盗み聞きした者がいて、その者がまんまと鹿をわがものとした。
 盗み聞きをした男は帰って妻に言った「薪拾いのヤツが鹿を獲って隠しておいたんだが、そいつは隠した場所を忘れてしまってな、「あれは夢だった」と考えたらしい。ところが、そいつのつぶやきどおりに探してみたら、ちゃんと鹿がありやがった。あいつは正夢をみたんだろうよ。」
 すると妻が答えた「お前さんこそ、薪拾いの男の夢をみていたかも知れないわ。その薪拾いはどこの誰なのさ?でも、鹿は確かにここにあるから、お前さんの方こそ正夢をみたかも知れないわ。」
 「目の前に鹿はあるじゃねえか。俺とあいつのどちらかが夢をみていたなんて考えることもあるめえ。」
 そのころ、薪拾いの男は、鹿をなくしたことをくやしがった末、ふてくされて眠っていた。その夜の夢で、男は例の鹿を隠した場所で、他人がその鹿を盗んでいる様子をまざまざと見た。
 翌朝、薪拾いの男は昨夜の夢の出来事を思い出し、鹿を盗んだ男を突き止めて裁判を起こした。
 判事はこう結論づけた「一方は現実に鹿を得たにもかかわらず、自分でそれを夢だとした。その後、夢の中で忘れた鹿の在処を知りながら、現実に鹿を盗まれたと主張している。相手方は、現実に鹿をせしめていて、現に争っているわけだが、相手方の妻によると、夢で鹿の在処を知ったのであり、誰からも盗んだわけではないと言う。今、現実に鹿がある。両名で分けるがよい。」
 鄭王がその話を耳にして「その判事も夢の中で鹿を二分したのではあるまいか?」といい、大臣に意見を求めると大臣はこう答えた「夢か夢ではないか、臣にはとてもその区別などできません。黄帝や孔子のような方ならばそれを分けたがったでしょうが、黄帝、孔子なきこの世において、だれがそれを区別しましょうや?この判決に従っておいてよいと思われます。」

・・・この「夢の中の鹿を巡る裁判」の証拠は、証言のみで物証がないので、今の裁判所ならば棄却判決ですかね(笑)。ま、古代中国であろうが、現代の裁判制度であろうが、裁判官という職業は「現実にその場に居合わせたわけでもないにもかかわらず、別の時間、別の場所で、そこにあったように推測される証拠から事実を認定する」のが仕事であることにかわりはありません。ただでさえ直接目で見たり、手に触って確認することのできない場所で事実を認定する作業なので、そこに「夢」がからんでしまうと、現代でも難問だと思います。

 実に懇切丁寧に、「蕉鹿の夢」について紹介してくれている。

 この逸話は、さまざまに解釈できる。
 損得に執着してはならない、という教訓としても解釈できるし、事実はなかなか判然としないものだ、という意味にも受け取れる。

 それにしても、もし、「蕉鹿の夢」が『芝浜』の原拠の一つだとして、この話からあの噺に昇華させるのは、並大抵の想像力、創作力ではない。

 私は、全集に入っていなくとも、やはり円朝が「蕉鹿の夢」や「かの子ばなし」の小咄など、いくつかの素材を元に創作したのではないか、と思っている。

 
by kogotokoubei | 2018-12-02 17:54 | 落語のネタ | Comments(0)
 先日、横浜にぎわい座の「名作落語の夕べ」で、桃月庵白酒の『宿屋の富』を聴いた。
 このネタ、元は上方の『高津の富』で、三代目柳家小さんが四代目桂文吾に習い東京に移したとされている。

 その三代目小さんが演じたこの噺は、先日の白酒はもちろん、現在多くの噺家さんが演じる内容とは、大きく違っていた。

三代目小さんの『宿屋の富』ー麻生芳伸編『落語特選』より。_e0337777_10331655.jpg

麻生芳伸編『落語特選-上-』
 
 麻生芳伸さん編集の『落語特選』の「上」にこの噺が載っているのだが、あとがきで麻生さんはこのように書いている。

 本篇は三代目小さんの改作当時の型で、冒頭の客が大金持ちだと法螺を吹く箇所に重点を置き、突富も終了した後の設定にした。そのほうが宿屋の主人も結果を見に行く距離感に現実性(リアリティ)がある。

 ということで、三代目小さんの型では、突富の前の喧騒の場面は登場しない。
 だから、二番富が当たることになっている男の、仕方ばなしも、ない。

 法螺吹き男の人物設定を含め、今日よく聴く“型”とは、相当違っている。

 冒頭の宿屋夫婦の会話から引用する。

「ちょいと、おまえさん」
「なんだい?」
「なんだいじゃないよ。二階のお客さまだよ。もう二十日も逗留してるよ」
「結構じゃねえか」
「喜んでちゃ困らあね、おまえさん。茶代ひとつ出さないじゃァないか。なんだか様子がおかしいよ。きっとないのかも知れないよ。深みィはまらないうちになんとかしたほうがいいんじゃァないかい?ねえ、おまえさん。様子ゥさぐっといでよ」

 落語ご愛好家の方は、「あれ、『抜け雀』や『竹の水仙』と似ているじゃないか」と思われるはず。

 この後、宿の主は二階の客に会いに行く。

「ごめんください。おいででござんしょうか?」
「はい、だれかね?・・・・・・おゥ、なんだ、この家(や)の主人(あるじ)どんだな。おら、泊まったときに顔を見たが、それっきり顔も合わせねえが・・・・・・なんだ?なんか用かね」
「どうもかけちがいまして、ご挨拶にも上がりませんで、まことにどうもお粗末ばかり申し上げておりまして申しわけございません」
「いやァ、結構だよ」
「じつは、お願いがございまして・・・・・・」
「なんだい?」
「お宿帳が願いたいと思いまして・・・・・・」
「宿帳?おかしいでねえか、おら、泊まったときに付けたでねえか」
「エエ、お処(ところ)とお名前は伺ってございますが、この節また、その筋のお調べが厳しゅうございまして、お身装(みなり)からお荷物、ご商売、悉く付けさして頂くようなことンなっております」
「ああそうかね・・・・・・身装たってこれェ着たっきりだい。荷物ってあすこにある小(ち)っけな包み、あれ一つだい・・・・・・商売って、おら商売ねえだよ」

 ということで、この男、田舎大尽、という設定なのである。

 泥棒が入ったという法螺ばなしの宿の主とのやりとりは、次のようになっている。

「それがおめえ、こねえだおもしれえことにな、泥棒が入(へえ)ってな」
「ほゥお、泥棒が・・・・・・お怪我はございません?」
「いや、怪我なんぞァねえだよ。何人いただかなァ・・・・・・十何人もいただかなァ。おらの寝てえる枕元へ光ったものを突きつけてな。命が惜しけりゃァ金ェ出せっちゅうでえ・・・・・・おら命は惜しい。金は惜しくはねえだから、いくらでも持ってってもれえてえ・・・・・・そいからおらァ蔵は案内ぶってやってな、蔵のはァ、扉ァ開けて、戸前開けて、さあさあ好きなだけ持ってきなせえ・・・・・・みんなぞろぞろぞろぞろ入って、出てくるときは千両箱ひとつっ担いで出つ来るでえ、なかには二ッつ担いだやつが二人べえいたかなあ。おら褒めてやっただ。汝(われ)力あるでねえか、えれえぞッつッてなあ。」

 この田舎大尽が本物なら、『お見立て』の杢兵衛さんだ。

 この後の法螺ばなしが、可笑しい。

「で、まあみんな出てって、しばらくすると、頭立(かしらだ)ったやつが戻って来て、表の門を開けてもらいてえ・・・・・・ばかなことを言うな。いくらなんでもな、泥棒野郎にな、表門から大手振って出られてたまるか。裏のほうから出ろッて・・・・・・野郎涙こぼしやがって、入(へえ)るときは裏から入って参(めえ)りましたと。だけどもはァ、これまで来るのに半月の旅ィしてやって参りましたと。また半月の旅ィして引っ返すのは大変でごぜえますから、どうぞひとつ表門から出してもらいてえ・・・・・・そう言われりゃもっともなことでな。そいから奉公人五十人べえ起こしてな、表の門を開いてやっただよ。そりゃ十人や二十人で開くような門でねえからな・・・・・・野郎喜びやがってはァ、みんなまた千両箱を担いでぞろぞろ出てくだから、まあこのままにしとくだよ、蔵のほうはァ、戸も開けっ放しにしとくだあ。またいつでもいいから来て持ってけやァ・・・・・・みんな喜んで出て行ったァ。しばらくすると、千両箱二っつ担いだやつが、一つ担いで戻って来てな、これお返しするてえ・・・・・・なに言っとるだあなあ。持ってけったら、いや、とても二つは担いで行かれねえ。どうぞ一つお返し申しますからって、そこへ千両箱を一つ置いて、そのまま帰(けえ)って、また来るかと思って待ってたが、といとうそれっきりやって来ねえ・・・・・・あれ考(かんげ)えてみると、正直な泥棒だ」

 三代目小さんが、上方から東京に移した当初は、こういった田舎大尽(風)の男の法螺ばなしが中心で、あの二番富が当たる夢を見た男の妄想ばなしは、登場しない。

 では、元ネタの上方『高津の富』はどうかと言うと、私が知る枝雀版では、法螺ふき男は、因州鳥取の在と語るが、田舎言葉を使うわけではない。また、二番富に当たるはずの男も、しっかり登場する。

 三代目小さんは、この噺を西から移すにあたって、まず、田舎者が法螺を吹く場面に中心を置いたのだが、その後、弟子や他の噺家の手にかかり、今のような型になってきたということか。

 江戸落語独特の田舎言葉の楽しさで、この噺を味付けしようとした試みは、理解できる。
 とはいえ、大店の主人として、その人物造形に疑問を抱いた噺家さんがいたことも察することができる。

 残念ながら音源は持っていないが、五代目小さんは、田舎出の男が何日も逗留しているという三代目からの柳家の型を踏襲していたようだ。

 今の柳家の噺家さんは、どうなのだろう。

 不勉強で、知らないが、もし誰か演っているのなら、聴いてみたいものだ。


by kogotokoubei | 2018-10-11 21:56 | 落語のネタ | Comments(4)
 今日は雨のため、日曜恒例のテニスは休み。

 ということで(?)、午前中に書いた記事に関連して、二本目の記事。

 午前中、柳家喬太郎の『ハンバーグができるまで』が舞台化されることを書いた。
 自分の過去のブログを検索して、関連する記事を眺めていたら、ある雑誌の落語企画の記事に行き着いた。

 それは、2014年3月号の『Switch』「進化する落語」という特集に関する記事。
 久しぶりに落語を取り上げた好企画として紹介した。
2014年2月22日のブログ

喬太郎の『ハンバーグができるまで』が、できるまでー『Switch』2014年3月号より。_e0337777_11114288.png

「Switch」2014年3月号

 四年前の記事では、喬太郎のこんな言葉を紹介していた。

喬太郎 五十歳を迎えて思ったことがあります。これまでに過ごしてきた時間はいっぱいある。でも、未来もまだまだいっぱいある。そういう場所に、今、僕はいるんだということです。ということは、その気になればいろんなものが作れるんだと思う。失敗してもいい。だって、昔もそうだったんだから。すごく楽しみですね。これからは、会によっては「コケまくりの喬太郎」、「笑いがおきない喬太郎」というのが増えてくるんじゃないかな、と。

 これが四年余り前の言葉。

 さて、その後、「コケまくりの喬太郎」や「笑いがおきない喬太郎」が増えたのかどうか。私はそれについた語れるほどは喬太郎を聴いていないので、コメントは慎む。

 この発言の少し前に、喬太郎は新作について、このように語っていた。

喬太郎 僕はね、ときどきスーパーに買い物に行くんですよ。夕暮れ時の商店街とか。その時間帯に行くと、そんなにきれいじゃないけど、一応夕焼けだったりする。晩御飯の買い物で、奥さんたちがいて。さびれた商店街が少しは活気づく時間帯に、普段着にサンダルでレジ袋下げて、「次はどの噺を稽古しようかな」なんて考える。というのも噺家だなよなって思うんですよね。道楽にうつつを抜かして、酒飲んでかみさん泣かせてみたいなのも噺家かもしれないし、売れっ子でいつも飛び回っているのも噺家かもしれない。でもそういった何気ない日常の中から、僕の場合はものが生まれると思うんです。そういうのはすご大事だなと思う。

 こんなことを、喬太郎は考えていたんだ。

 引用を続ける。
ー幅広いレパートリーの中で、五十歳を迎えて、この年齢になったからこそ新しくできる噺や、逆にやりにくくなった噺はありますか。
喬太郎 「純情日記横浜篇」や「すみれ荘二〇一号」はもうやりづらいですね。
ー八十年代の匂いがするんですね。
喬太郎 そう。80年代って一番浮ついた時代だと思うんですよ。でも僕はあの頃一番ダサいところで生きてきたから、シブカジ、ハマトラ、トレンディとか、ああいうものに若干の敵対心があるんです。戦後という時代があって、安保の時代があって、後にはバブルが弾けて若い子が苦労しはじめる時代の間で、俺らは一番チャラチャラしていた。僕は82年に大学に入って、89年に噺家になっていますから、80年代を引きずっているんですよ。

 たしかに、「純情日記横浜篇」や「すみれ荘二〇一号」は、聴いている方も、ちょっと辛いものがある。

 私は74年に大学に入り、78年に社会人になった。
 ほぼ喬太郎と一世代違う。
 さて、私は70年代を引きずっている、と言えるのかどうか。

 さらに、引用。

喬太郎 「江戸の風が吹く吹かない」みたいなことを家元(立川談志)が言い始めたでしょ。「喬太郎さんの古典は面白いけど、江戸の風が吹いてない」と言われることがあった。でもね、80年代の風を吹かせられる人はあんまりいないじゃないかと思うんです。俺は全噺家の中で80年代の風を吹かせられる稀有な例なんだぞ、と。それをお客さんが望んでいるかは別として。
ーそれも個性ですね。
喬太郎 もちろん古典落語家の側面としては、江戸の匂いが出せればいい。努力はします。だけどそれはとても大変な作業で、それをするがために、俺しかできないことをやらずにいたらもったいないと、また最近思いはじめたんです。
 二ツ目の頃は、俺しかできない噺をやりたいと思ってました。その若くて尖がっていた頃の気持ちを思い出したんです。後世の人に名人と思われなくてもいいし、忘れられても構わない。今、生きている俺が俺しかできない落語をやればいい。そういう意味では今の年齢の新作も作りたい。
ーその意味では「ハンバーグができるまで」は年齢的に合う作品ですよね。
喬太郎 「ハンバーグができるまで」を作った時は、中年の等身大の噺が作れたかなと思いました。中高年というと慈愛とかそんなイメージになるけど、そうじゃなくて自分と同世代のニュアンスを、自然体で、しかも面白い噺にすることができないかと思っていたんです。
ーさきほど師匠が大事にしたいとおっしゃった、日常生活の中にある夕方の商店街の情景と「ハンバーグができるまで」は繋がりますね。
喬太郎 本当ですね。発想のきっかけは、離婚した夫婦って何を話すのかなと思ったことなんです。下北沢にあるオオゼキというスーパー。あそこは道路から、お客さんが買ったものを袋に入れている姿が見えるんですよね。その景色がすごく印象に残って、ぼんやりとあったアイデアを練っていくうちに出来たんです。だから、やっぱり日常生活から作り出していったんです。

 今日は雨のおかげ(?)で連れ合いと外で昼食をとったが、その店の近くにも、オオゼキがあったことを思い出した^^

 そうか、『ハンバーグができるまで』から伝わるリアリズムは、喬太郎の日常生活の観察力と創作能力が融合したものだったんだなぁ。

 最初に大手町落語会で聴いてからほぼ一年後、喬太郎・文左衛門・扇辰の三人会でも聴く機会があったが、ブログにこう書いていた。
2011年2月16日のブログ
前回よりもネタとしての成熟度のようなものを感じた。20分に刈り込んでも、この噺としての訴求力は十分。それぞれに個性的な登場人物も楽しい。

 古典においても描かれる人間についてはそうなのだが、新作にはその舞台設定も含め“同時代性”が求められるだろう。

 舞台化のニュースを目にし、ある雑誌を読み直すことで、一つの新作落語ができる背景を確認することができた。

by kogotokoubei | 2018-09-02 21:13 | 落語のネタ | Comments(12)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛