噺の話

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カテゴリ:落語のネタ( 110 )

『お盆』という噺。

 今日は旧暦七月一日。
 昨日が、夏越の祓の日だったことになる。

 すっかり新暦が当たり前になったお盆の民族大移動が始まった。

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関山和夫著『落語風俗帳』(白水Uブックス)

 関山和夫著『落語風俗帳』に、まさに『お盆』という噺があるのを発見。
 さて、どんな噺なのか。

 
お盆

 この咄、別名を『巣鴨の狐』という。今では、めったに聴かれないが、むかしは二代目三遊亭小圓朝や五代目三升家小勝が得意だったそうである。
 この咄には「法印」と呼ばれる祈祷師が登場する。法印というのは、本来は仏教のはたじるし、標識、特質、仏教あることを証明する規準をいうのであるが、これが僧位に用いられ、「法印大和尚位」となり、中世までは僧綱の最上位を示した。それが近世に入り、時代が下るにしたがって貫録がなくなり、下賤な僧でも法印といった。祈祷というのは、インドで密教が起こって盛んとなり、中国でも盛行した。日本では、古代から神に祈る風習はあったが、仏教が伝来して一段と発展した。真言宗、天台宗はいうに及ばず、禅宗や日蓮宗にも入り、浄土宗でも祈祷を行うに至った。その点では日本仏教各宗とも密教化した部分がある。真宗は祈祷を行わないことを旨とする。

 登場した宗派の開祖は、真言宗は空海、天台宗は最澄、禅宗は曹洞宗が道元、臨済宗は栄西、日蓮宗は書くまでもなく、浄土宗は法然、(浄土)真宗は、親鸞。
 さて、ということでどんな筋書きなのか、というと。

 貧乏な法印(祈祷師)が、一人の下男と、ひっそりと淋しい生活を送っていた。ある日、下男がお使いに行くといって出て行ったが、なかなか帰ってこない。やっと帰ってきたので聞くと、「王子で子狐をつかまえた。そいつを狐汁にしようと思って、いろいろやっているうちに遅くなった」という。法印が「とんでもないことだ。狐は王子稲荷さまのお使いであるぞ」と説諭しているときに、巣鴨傾城ケ池からやってきたという商人が「主人の娘にキツネがついたので、なんとかそれをご祈祷で落としていただきたい」と頼んだ。
 法印は、「そのためにはお金が七両二分かかるが、うまくキツネが離れたら、それをつかまえてあなたに渡しましょう」という。商人はそれを承知して、手付けに一両置いていきたいので、お盆を拝借したいという。下男はお盆がなかったので箱膳のふたを出す。そこで法印が、「物を畳の上などへ、じかに出すのは失礼なので、お盆の上に乗せて出すのが礼儀だ」と下男に教える。
 商人が帰ったあとで、法印は下男に王子まで行って狐をとってこいを命ずる。一両をもらって下男は、狐を三味線箱に入れてくる。法印は巣鴨へ行って、キツネ落としのご祈祷を行う。狐を箱から出そうとすると、狐は死んでいた。
「死んでもいいから狐を出せ」
「そうか、そんなら台所へ行ってお盆を借りてくる」

 数ある落語の中でも珍しいものであるが、サゲがややしまらないのが欠点だ。

 う~ん、サゲのみならず全体が、どうもしまらない。

 お盆は、季節のそれではなく、あのお盆だった。

 この噺、著者の関山さんは、「祈り」の咄を二席、として『藁人形』とこのネタを紹介している。

 祈祷師の法印が登場するこの噺、やはり、その後封印されるのも、やむなしかな。

 つい題に誘われてみたものの、がっかりした感覚を、読者の皆さんにも味わっていたでけたかな^^

 何百とある噺で、今日ほとんど聴くことのできないものもある。

 復活して欲しいネタもあるが、消えてしまったのもやむなし、という噺もある、ということか。

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by kogotokoubei | 2018-08-11 11:13 | 落語のネタ | Comments(0)

大山は、本日夏山開き。

 先日、中込重明さんの本から『大山詣り』の原話について書いて記事で紹介したように、今日は、大山の夏山開き。

 前の記事でも引用したが、神奈川県のサイトの観光情報のページから、伊勢原市観光協会のフライヤーをダウンロードできる。
神奈川県サイトの該当ページ

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 暑い山開きの日となったが、台風による雨予報の明日よりは、ましだろう。

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 榎本滋民さんの『落語小劇場』(下)では、この噺が最初に載っている。

 夏山にも、登る時期で名前がついている。

 六月二十六日から七月七日までを初山、八日から十三日までを間(あい)の山、十四日から十七までを盆山。旧暦だから盛夏から初秋である。
 2014年7月17日、私が初めて行った柳家小満んの会でこの噺が演じられたが、その日いただいた栞には、間の山、盆の山の期間は同じだが、初山は七月一日から七日、と書かれているなぁ。
2014年7月18日のブログ
 あの日は、とにかく『有馬のおふじ』が素晴らしかったことを思い出す。
 同じ山岳信仰にまつわるネタだが、富士が大山に勝ったなぁ^^

 伊勢原市のサイトには、夏山の区分が新暦で紹介されている。
伊勢原市のサイトの該当ページ

 その内容によると、7月27日から31日を初山、8月1日から7日を七日堂、8日から12日を間の山、13日から17日を盆山と言うらしい。
 
 七日堂というのもあるんだね。

 旧暦の行事を新暦に替えているので、微妙なズレがあるのは、しょうがないか。

 しかし、やはり、こういった年中行事は、旧暦で行なって欲しいと思う。
 旧暦なら今日は六月十五日。
 山開きは、まだ先だ。

 江戸の長屋の連中の楽しみであった大山詣りは、多くの川柳からも庶民に身近なものだったことが伝わる。

 小満んの会でいただいた栞にも、「盆山の坂を掛念仏で越え」などの川柳が紹介されている。

 では、出発前の準備を含め、『落語小劇場』から。

 両国橋東詰め(小石川関口にもあった)の垢離場で水垢離を七日間とって精進潔斎する。
 罪障懺悔の唱えごとを一千回くり返すので千垢離というが、数を忘れないように緡(さし)を一本一本川に流す。よく流れるか渋滞するかで吉凶を占った。 
  百度目のさしは目より高く上げ
  投げるさし十九本目に土左衛門
  屋根船の唄垢離場につぶされる
  清浄なへのこ南無帰命頂礼
  屋形をみまいおえるぞざんげざんげ
 涼み船の美女を見るな、へのこ(男根)がおえる(勃起する)とどなっているのだから、どんな野郎たちか想像できるだろう。
 上がると、伊達染めの浴衣か白い行衣の揃いで、納め太刀と称する七八寸から一丈あまりの木刀をかつぎ、いよいよ夜中に江戸を立つ。中には当時年二期(盆と暮れ)だった勘定の清算がつかず、借金とりを避けるために大山まいりに加わる者も多かった。
  盆前の借り太刀先で切り抜ける
  納まらぬ頭でかつぐ納め太刀
  十四日抜き身を背負って夜這する
  所詮足りないと大山さして行き
  十四日末は野のなれ山へ逃げ
 この連中は借金のがれではなく、名人四代目橘家円喬以後この落語を演じて絶品とうたわれた四代目橘家円蔵は十三人、近年では第一人者六代目三遊亭円生は十八人としているが、とにかく十数人の職人の楽しい団体旅行である。
 
 江戸時代のこの時期の気候はどうだったのかはよく分らないが、猛暑での山登りは辛かったに違いない。

 しかし、登った後の楽しみが多かったからなんとか我慢できたのな。

 さて、現代では、山詣りの風習も、その後の楽しみもほなくなった。
 
 私にとっての楽しみは、落語を聴くことと、その後の居残り会が、関の山^^
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by kogotokoubei | 2018-07-27 12:53 | 落語のネタ | Comments(0)
 来週7月27日は、大山の夏山開きだ。

 神奈川県のサイトの観光情報のページから、伊勢原市観光協会のフライヤーをダウンロードできる。
 その中の夏山開きの案内部分をご紹介しよう。
神奈川県サイトの該当ページ

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 「お花講」とは、なんとも可愛い名前だこと。

 落語の『大山詣り』(上方では『百人坊主』)については、ブログを始めて間もなく、記事を書いた。
2008年7月25日のブログ
 
 あらためて『大山詣り』に関して棚の本をめくっていて、あの噺の元ネタについて認識を新たにした。

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中込重明著『落語の種あかし』(岩波書店)

 中込重明さんの著『落語の種あかし』は、岩波書店から2004年6月に発行された。
 しかし、著者の中込さんは、本書の発行を待つことなく、同年4月に三十九歳の若さで旅立っている。
 中込さんには、他にもう一冊、亡くなる直前に書かれた『明治文芸と薔薇』という著作がある。
 どちらも、延広真治さんの支援によるものだ。
 
 他に新書版の入門書的な本、「落語で読み解く『お江戸』の事情」(青春出版社)があって、同書からは拙ブログで何度か引用している。

 田中優子著『江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか?』と比較した記事を書いたこともある。
2010年6月12日のブログ
 杉浦日向子さんの著作も含め、江戸時代にどれくらいご飯を食べていたか、なんて記事も書いた。
2017年9月16日のブログ

 さて、『落語の種あかし』は、中込さんの遺作と言ってよいと思うが、その内容には、落語の原話を探るための、著者の執念のようなものを感じてしまう。

 では、もうじき夏山開きとなる『大山詣り』は、どんなルーツを持っているのか、本書から引用したい。
 さて、落語「大山詣り」の原話だが、他の落語に較べて、これまで諸書に指摘が見られ、広く知られている。その一つ、興津要『日本文学と落語』(1970、桜楓社)の「西鶴と落語」では、典拠を狂言「六人僧」として、これから、井原西鶴の浮世草子『西鶴諸国ばなし』(貞享二年・1685刊)巻一・七「狐四天王」へ、さらに滝亭鯉丈の滑稽本『大山道中膝栗毛』をはさんで、現行の上方落語「百人坊主」・東京落語「大山詣り」へ、という系譜を説明している。他の文献でも一様に、「百人坊主」の出典同様、「大山詣り」の原話を狂言「六人僧」としている。現在考えられるところで最も古い、この種の話柄である「六人僧」から、順に見てゆくことにした。古川久他編『狂言辞典』(東京堂出版)事項編より、その梗概を引用する。
   諸国仏詣を思い立ち、同行二人を誘って旅に出た男(シテ)が、仮にも怒る心など
   持つまいと提案し、互いに誓い合う。途中辻堂で一休みし男が寝入ると、他の二人が
   男の髪の毛を剃り落としてしまう。目をさまし驚くが誓言の手前怒れない男は、このような
   姿では具合が悪いからと一人別れて帰宅し、妻たちを呼び集めると、高野への途中紀ノ川で
   二人が溺れ死んだので、一人残った申し訳なさに僧形になって戻ったと言う。二人の妻は
   夫の菩提を弔おうと尼になるので、男はその髪を高野山へ納めようと再び旅立つ。そして
   高野山で同行の二人に出会うと、三人の仏詣をなじみの女に会いにいったと諫言する者が
   あって、二人は妻のさし違えて死んだと言い、証拠だと髪を見せる。二人は妻のあとを
   弔おうと剃髪する。さて帰郷すると、二組の夫婦は互いの生存を驚き喜び、男に詰め寄る。
   そこへ男の妻も尼になって出てくるので、これも仏の導きであろうと、出家三人・尼三人、
   男女別々に霊場を巡り後世(ごせ)を願おうと、名残りを惜しみ謡留めにする。(三百番)

 ここに引いた文字が示すとおり、ほぼ「大山詣り」の原形が完成されてしまっている。

 狂言に似た話がある、ということは薄々知ってはいたのだが、その内容までは知らなかった。

 中込さんのこの本、一度はざっと読んでいたはずなのだが、狂言の内容までは覚えていなかった。

 中込さんが偉いのは、実に粘り強く、一つの落語ネタのルーツを探ろうとしていること。
 この後、『西鶴諸国ばなし』の「狐四天王」と「お霜月の作り髭」の紹介が続いて、同じく西鶴の浮世草子『懐硯』の「水浴の涙川」の考察もしている。
 しかし、これらの話は、寝ている間に悪戯をする、という点で「六人僧」との類似点はあるものの、仲間の女房までを巻き込んでの復讐ネタとしての趣きはない。

 中込さん、まだまだ負けず(?)、十返舎一九の黄表紙『滑稽しつこなし』(文化二年・1805刊)の挿話に『大山詣り』の原形を見出そうとする。

 この挿話は、神田八丁堀の長屋に住む左次兵衛・太郎兵衛・権兵衛が江の島参詣に行って、という設定だが、ほとんど「六人僧」と同じ筋書き。

 結論として、狂言「六人僧」から着想を得た一九の『滑稽しつこなし』の挿話を母体として、落語「大山詣り」が産声をあげたとする見解を、「大山詣り」成立の主流としたい。
 ところで、一九よりも古い談義本に「六人僧」を生かし、さらに「大山詣り」の趣向にきわめて類似した説話があるので、その粗筋を引いておきたい。滑稽本『俗談唐詩選』(宝暦十三年・1763成立)巻之一「飲中八仙は口頭の交り」がそれである。

 「飲中八仙は口頭の交り」は、江戸橋辺の両替店の主人・知無多屋上戸郎(ちんたやじょうごろう)と酒飲み仲間の他の七人と屋形船に乗って・・・という設定で、上戸郎が髪の毛を剃られた後は、こちらも「六人僧」とほぼ同じ内容。

 『俗談唐詩選』の方が、一九の『滑稽しつこなし』より古いのだが、中込さん、このように書いている。

 これは、『滑稽しつこなし』に先行する、「大山まいり」と同趣向の説話として位置づけられる。ただ、一九と落語との深い関係を考えれば、『俗談唐詩選』から落語への直接的影響について、一九からの影響以上に強く言うわけにはいかないであろう。

 なるほど、十返舎一九と落語との深い関係、か。

 一九のことを、もう少し知りたくなった。

 この後、注記が二頁半続く。
 なにごとも疎かにできない、著者の個性が察せられる。

 「六人僧」から「滑稽しつこない」への飛躍、そして「大山詣り」という傑作落語への発展を知ることは、実に楽しい読書体験だった。

 もちろん、その噺を、多くの名人上手だちが、高座で磨いてきたからこそ、今も、我々が楽しむことができるわけだ。

 音源では、迷うことなく古今亭志ん朝。
 「志ん朝十八番」に、私はこの噺を入れている。
2012年2月3日のブログ

 現役では、多くの噺家さんが演じるが、なかでも春風亭一之輔が出色。

 まさに、この噺の似合う季節になってきたなぁ。

 もう少し、暑さがやわらいだら、寄席か落語会で出会いたいものだ。


 最後に本書の延広真治さんの「あとがき」から、少し引用。

 なお、文中の『会報』は、諸芸懇話会のそれである。

 『会報』二百三十六号(平成十三年十一月刊)に「追悼・古今亭志ん朝」を草して中込君は、悲嘆に打ちひしがれながらも次のように結ぶ。
   やはり、ここで、落語を見捨てるわけにはいかない。だから、精一杯力の限り新しい
   落語家に期待しよう。再び落語の黄金時代の到来が来ることを信じて、その日まで
   生きてゆこう。
 なんと子供たちが、毎朝「寿限無~」を唱える日がやって来たではないか。この寿限無世代が十年たてば木戸銭を持って寄席に通いだす。君の信じたとおり、「黄金時代の到来が来る」(管理人注:“到来が来る”に傍点)のは必至である。どうかその日を中込君、双眼で見定めてくれたまえ。そして傍点部のような表現が本文にも見受けられた場合には、手直ししたことを許してくれたまえ。

 四月二十一日 中込君三十九歳の誕生日に

 追記 四月三十日、中込重明君は白玉楼中の人となりました。奇しくも『明治文芸と薔薇』上梓の日でした。
 
 中込さんは昭和四十年の生まれ。延広さんは昭和十四年生まれなので、二回り以上も上なのだが、あとがきからは、同じ落語という芸を愛する同士としての熱い思いを感じる。

 残念ながら、中込さんの著作は、多いとは言えない。

 本書の内容は、今後も紹介していくつもりだ。

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by kogotokoubei | 2018-07-19 21:18 | 落語のネタ | Comments(0)
 夏の噺のことについて、何気なく矢野誠一さんの本をめくっていて発見(?)があった。

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 その本は『落語長屋の四季の味』。私が持っているのは、平成14(2002)年9月発行の文春文庫だが、初版は、その十年前の平成4(1992)に、『落語食譜』の題で発行された青蛙房版。

 この本の「茗荷」の章から。

 茗 荷

         「・・・・・・だから、あの客に茗荷を喰べさせようじゃないか。
          むやみに忘れるように、おまんまに炊きこんで茗荷飯・・・・・・」
                                    『茗荷宿』
 
 寄席の高座にかけられる演目にも、これで流行りすたりみたいなものがあるらしい。いっときは、のべつ幕なしに出ていた演目が、さっぱりきかれなくなっちゃったなんてことが、よくあるのだ。ついこの間も、落語の好きな何人かが、入船亭扇橋さんをかこんで、あまり世のなかのためになりそうもないはなしに興じていたとき、誰かがぽつりといった。
 「そういえば、近頃『茗荷宿』なんてはなし、きかないね。誰か演る?」
「そうですね。ひと頃は志ん朝さんなんか、よく演ってましたがね」
 と、扇橋さんが答えた。

 えっ、志ん朝の『茗荷宿』!?

 最近では、寄席で桃月庵白酒の十八番、という印象のネタだが、まさか、志ん朝も演っていたんだ。
 
 私が調べた主なホール落語会では、もちろん一席も記録はない。

 本書からあらすじ引用。

 神奈川宿にあった茗荷屋なる料理屋。養子が道楽者で身上をつぶしてしまう。しかたなく宿屋を出したもののあまり流行らない。
 むかしなじみの飛脚屋が、百両の金を帳場へ預けて泊った。この金に目のくらんだ亭主が、眠っている飛脚ののどに出刃包丁を突きつけたとき、女房が乳を突かれた夢で目を覚ます。ことの次第を知った女房は、飛脚に茗荷ばかり食べさせれば、百両の金を置き忘れていくにちがいないと、茗荷づくしの食事を出す。
 うまくことがはこんで、飛脚は預けた百両を忘れて宿を発つ。夫婦が喜んでいるとkろへ、この飛脚が戻ってきて、帳場に百両預けたのを途中で思い出したことを告げ、受けとったうえ再び宿を出る。
「ほら、思い出してしまったじゃねえか」
「怒ったってしょうがないよ。なにかほかに忘れたものはないかい」
「ううん・・・・・・夕べの旅籠銭をもらうのを忘れた」

 白酒のこの噺は、大師匠の十代目馬生を元にしていると思うが、茗荷料理には、白酒らしい楽しいクスグリが満載。
 みそ汁はもちろん、焼き茗荷に、刺身、煮茗荷に茗荷の開き、半熟茗荷だってある。しかし、なぜ天麩羅がないのかと飛脚が聞くと「面倒だから」^^

 この後、矢野さんは茗荷を食べると物忘れする、という言い伝えの由来を説明してくれる。

 釈迦に、周梨槃特(しゅりはんどく)という弟子がいたが、この男、生まれつき物忘れが激しく、自分の名前すら忘れてしまう。心配した釈迦が、彼の名を大書して自分の身につけておくようにと与え、槃特はそれを背に負うて歩いた。やがて世を去った槃特の墓所に、名の知れぬ草が生え出したので、自分の名を背負って歩いた故事にちなんで「茗荷」と名づけられたというのである。

 だから、茗荷を食べると物忘れをする、というのは科学的な根拠は、ない。
 とはいえ、茗荷は高齢者が好むから、そういう言い伝えが信じられてきたのでもあろう。
 たしかに、私も若い頃にはあまり茗荷を好んだわけではなかったが、今は夏場、茗荷の味噌汁などを、とりわけ好むようになった。

 矢野さんも、次のような内容で、この章を締めている。

 いつであったか、街なかで急にビールでとんかつがやりたくなり、手近な店を見つけてとびこんだ。きれいにあがったロースかつに、たっぷりとそえられた例のキャベツの千切りに、なんと茗荷がまぜられている。これがまた、キャベツ独特の甘味に、ほどよいアクセントになって結構なのである。いらい、わが家でも夏場のキャベツの千切りには茗荷を加えることにしているのだが、さて、そのアイディアを教えられたとんかつ屋が、どうしても思い出せないのである。
 茗荷を食べすぎたせいであろうか。

 こういう文章は、矢野さんならでは。

 そうか、キャベツに茗荷か。
 さっそく試してみよう。

 それにしても、志ん朝の『茗荷宿』を寄席で聴きたかったものだ。

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by kogotokoubei | 2018-06-16 14:22 | 落語のネタ | Comments(2)
 今日6月14日は、旧暦五月一日。

 旧暦では、一月~三月が春、四月~六月が夏、七月~九月が秋、十月~十二月が冬、というわかり易い区分だから、まさに、夏の真っ盛りをこれから迎えようとしているわけだ。

 ということで、「夏の噺」について。

 
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麻生芳伸編『落語百選ー夏ー』


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矢野誠一著『落語讀本』(文春文庫)

 秋や冬についても、同じようなことをしているが、麻生芳伸さんの『落語百選ー夏ー』にある二十五のネタについて、矢野誠一さんの『落語讀本』ではどう分類されているか、という比較をしてみる。


  落語百選ー夏ー    落語讀本
(1)出来心        春
(2)道灌         春
(3)狸賽         秋
(4)笠碁         
(5)金明竹        春
(6)鹿政談        秋
(7)しわい屋       春
(8)百川         春
(9)青菜         
(10)一眼国       秋
(11)素人鰻       
(12)二十四孝      
(13)売り声       なし
(14)船徳        
(15)お化け長屋     
(16)たが屋       
(17)夏の医者      
(18)佃祭        
(19)あくび指南     
(20)水屋の富      
(21)紙入れ       秋
(22)千両みかん     
(23)麻のれん      
(24)三年目       秋
(25)唐茄子屋      

 ちなみに、唐茄子屋は唐茄子屋政談のこと。

 二十五席のうち、二つの本で「夏」という分類で合致したのは、十四。

 秋の噺では九、冬の噺で十二だったので、季節がはっきりしているだけ、夏は両著での一致が多いのだろう。

 なお、「売り声」は小咄で、「うどん屋」や「孝行糖」などのマクラでよく使われる短いネタだが、麻生さんは、あえて二十五席の中に加えたのだと思う。

 豆腐や納豆、たまご、大根、牛蒡や金魚などの売り声が楽しめる、好きなネタだ、

 麻生さんの本から、サゲ前の部分をご紹介。

「オーイワシッコオ、オーイワシッコオ」
 と、魚屋が向こう鉢巻で威勢よく売り歩いていると、すぐあとから、
「フルイ、フルイ、フルイー」
「おい、おい、よせやいっ、人の商売へケチをつけるね。てめえ、うしろからつけてきやがって、古い古いってやがら、魚河岸から買い出してきたばっかりで、ぴんぴんしている魚だ。こん畜生っ、おれの鰯が売れねえじゃねえか。もっと裏のほうから行ってやれ」
「そうはいきませんよ。あたしだってこれ商売ですからね。篩屋なんだから。裏のほうなんざだめですよ。やっぱりこれ表通りでなきゃこういう物は買ってくれるところはないんだから。あたしも商売・・・・・・」

 いいでしょう、こういうネタ。

 篩(ふるい)なんて言葉も、死語になりつつあるなぁ。

 サゲは、こうなる。

 魚屋と篩屋と喧嘩になった。そこへ古金屋(ふるがねや)が仲裁に入った。
「お待ち、お待ち、なんだって商人(あきんど)が喧嘩してんだ。どっちも商売だ。出商人が往来で喧嘩すりゃお互いにお得意さまを一軒ずつでも損するじゃないか。あたしが仲人(ちゅうにん)になって仲を扱う、悪いようにはしないから・・・・・・まあ、魚屋さん、おまえさん、先へ立ってやんな、篩屋さんも・・・・・・あたしがそのあとを行くから・・・・・・」
「じゃ、まあお願いします」
「オーイワシッコオッ」
「フルイー、フルイー」
 そのあとから古金屋が、
「フルカネー、フルカネー」

 よく出来ているねぇ。

 芸協には、江戸売り声の宮田章司さんという貴重な色物さんがいる。


 実生活では、売り声で季節を感じることのできない時代。
 せめて、落語だけでも、季節感のある噺を聴かせて欲しい。
 

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by kogotokoubei | 2018-06-14 12:42 | 落語のネタ | Comments(6)

 先日の横浜にぎわい座で、三遊亭円馬の『蒟蒻問答』を聴いた。
 
 この噺は、瀧川鯉昇をはじめ、何度も聴いている。

 永平寺の雲水、沙弥托善と蒟蒻屋の六兵衛との問答があの噺の中核。

 托善の問いに答えない六兵衛を見て、托善は「無言の行」と思い、手を使って問う。
 沙弥托善が出した問いと、彼が六兵衛の答えを勘違いした内容は、仏教用語なのだが、いったいどんな意味なのか。

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関山和夫著『落語風俗帳』(白水Uブックス)

 関山和夫著『落語風俗帳』から、引用。

 まず、噺のその問答と托善の誤解、六兵衛の言い分の部分を引用。

 托善は、両手の人さし指と親指で丸い形を作って示す。六兵衛が両手で大きな輪を作ると托善は平伏する。ついで托善が十本の指を出すと六兵衛は五本の指を出す。托善は、また平伏し、指を三本出すと六兵衛は右の人差し指を目の下に当てる。托善は、あわてて逃げ出す。八五郎が追いかけて聞くと、
「大和尚のご胸中はとおたずねいたしましたるところ、大海のごとしとのお答え。二度目に十方世界はときけば、五戒で保つ。三尊の弥陀は、と聞けば、目の下にありとのお答え、とうてい及ぶところではございません」
 一方、六兵衛は怒って、
「なぜ坊主を逃がした。あいつは、おれの商売を知ってやがって、手前(てめい)んとこのこんにゃくは、これっばかりだって小さな丸をこしらえたから、こんなに大きいぞと両手で輪をこしらえたところ、十でいくらだって値をきいた。少し高いが五百文だといったら、しみったれな坊主よ、三百文にまけろてえから、赤んべえをしたやったんだ」

 よく出来た噺だなぁ、と思うが、では「十方世界」とか「五戒」、「三尊の弥陀」って何だ、という疑問が浮かぶ。

 あらためて、引用。

 仕草で落とす(サゲる)技巧は落語として申しぶんのない卓抜なものである。禅問答を熟知していることや「無言の行」「十方世界(インド仏教以来、方角を東・西・南・北の四方に東南・西南・西北・東北を加えた八方、さらに上・下を加えた十方を説く。十方世界、十方諸仏などは十方で全体を代表させる表現である」「五戒(在家信者のために制せられた戒。不殺生(ふせっしょう)戒・不偸盗(ふちゅうとう)戒・不邪淫(ふじゃいん)戒・不妄語(ふもうご)戒・不飲酒(ふおんじゅ)戒)で保つ」「三尊の弥陀(中尊は阿弥陀仏、左右の脇侍は観世音菩薩と勢至菩薩)」「目の下にあり」という専門用語の扱い方に仏教落語の真価を見ることができる。

 最後の「目の下」は、仏教は自分の足元にある、という意味のようだ。

 『野ざらし』とともに、托善正蔵と言われた二代目林屋正蔵による傑作も、こういう内容を知っていると、もっと高座を楽しめるように思う。

 
 落語って、ためになるんだよねぇ。

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by kogotokoubei | 2018-05-08 12:27 | 落語のネタ | Comments(0)
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矢野誠一_落語歳時記
 今日二月十八日は、旧暦の正月三日。

 旬の噺、『蔵前駕籠』のことを矢野誠一さんの『落語歳時記』で読んでいて、関連した逸話に目が止まった。

 幕末のある正月の出来事、という噺。
 まず、この本の冒頭部分を、ご紹介。

 三日 無精ひげさまになりたる三日かな

蔵前駕籠(くらまえかご)

    慶応四年という年は、不思議な年で、正月の三日から鳥羽と伏見の
    戦いが始まりました。
      *
 物情騒然という言葉があるが、三百年の歴史を誇った徳川幕府が、いまや瓦解しようという時期の江戸市中などまさにそれであろう。とくに慶応四年(明治元年)の正月は、お屠蘇気分も抜けない三日に、「鳥羽伏見の戦い」が始まったのだから、これはたいへんなことであった。林家正蔵(彦六)の十八番として知られ、古今亭志ん生の飄逸味がなつかしい『蔵前駕籠』は、小品ながら優れた落語感覚の横溢した、洒落たはなしだが、この騒然たる江戸が背景になっている。

 この後、あらすじが説明されている。

 ご存知のように、当時、吉原通いの駕籠を蔵前通りで止めて追剥を働く者がいた。
 由緒あって徳川家へお味方する浪士と名乗り、軍用金が不足しているから、という理屈で駕籠の客の身ぐるみ脱がす、という事件が勃発した。
 駕籠屋も、だから吉原方面には夕方以降は駕籠を出さない。
 しかし、世の中には「女郎買いの決死隊」がいて、無理を言って吉原まで乗ったのだが・・・という筋書き。

 矢野さんの本では、この章の後半、ある小説家の逸話が紹介されていた。

 江藤淳による『漱石とその時代』(新潮社)の冒頭は、夏目漱石が生まれた慶応三年(1867)年の、ということは、『蔵前駕籠』の背景になっている時代の、江戸のありさまがかなり克明に書かれていて興味ぶかい。面白いことに、漱石の生家に、この頃流行りの強盗がおしいっていて、江藤淳はこう書いている。
  「牛込馬場下の夏目小兵衛の家に、軍用金調達と称する抜身をひっ下げた黒装束の八人
  組が押し入って、五十両あまりの小判を強奪して行ったのはこの頃のことである。幕府
  は旗本に命じて諸隊を編成させ、市中の巡回にあたらせたがあまり効果がなかった。警
  察力に期待できないことを知った夏目家では、それ以来柱を切り組にしてその中に有り
  金を隠すことにした」
 まったく駕籠屋と同じ被害にあっているわけで、黒装束の八人組などというのも『蔵前駕籠』をほうふつさせる。
 のちには、正岡子規と連れだって、さかんに寄席通いをするようになり、その作品に、落語からの影響が少なからず認められる漱石だけに、『蔵前駕籠』に接していないはずはなく、自分の生まれた年に生家で起こった事件と落語とのつながりにどんなものが去来したか、文豪の胸のうち、興味ぶかくもある。

 へぇ、蔵前駕籠に登場するような物騒な連中が、なんと漱石の生家を襲っていたんだねぇ。

 矢野誠一さんが『落語讀本』で明かしていることだが、実は、漱石自身が作品に、この強盗騒ぎのことを書いている。
 青空文庫の『硝子戸の中』から、引用する。
青空文庫「硝子戸の中」(夏目漱石著)
ついこの間昔私の家へ泥棒の入った時の話を比較的詳く聞いた。
 姉がまだ二人とも嫁かたづかずにいた時分の事だというから、年代にすると、多分私の生れる前後に当るのだろう、何しろ勤王とか佐幕とかいう荒々しい言葉の流行たやかましい頃なのである。
 ある夜一番目の姉が、夜中に小用に起きた後、手を洗うために、潜戸を開けると、狭い中庭の隅に、壁を圧るような勢いで立っている梅の古木の根方が、かっと明るく見えた。姉は思慮をめぐらす暇もないうちに、すぐ潜戸を締めてしまったが、締めたあとで、今目前に見た不思議な明るさをそこに立ちながら考えたのである。
 私の幼心に映ったこの姉の顔は、いまだに思い起そうとすれば、いつでも眼の前に浮ぶくらい鮮やかである。しかしその幻像はすでに嫁に行って歯を染めたあとの姿であるから、その時縁側に立って考えていた娘盛りの彼女を、今胸のうちに描き出す事はちょっと困難である。
 広い額、浅黒い皮膚、小さいけれども明確はっきりした輪廓を具えている鼻、人並より大きい二重瞼の眼、それから御沢という優しい名、――私はただこれらを綜合して、その場合における姉の姿を想像するだけである。
 しばらく立ったまま考えていた彼女の頭に、この時もしかすると火事じゃないかという懸念が起った。それで彼女は思い切ってまた切戸を開けて外を覗こうとする途端に、一本の光る抜身が、闇の中から、四角に切った潜戸の中へすうと出た。姉は驚いて身を後へ退いた。その隙に、覆面をした、龕灯提灯を提さげた男が、抜刀のまま、小さい潜戸から大勢家の中へ入って来たのだそうである。泥棒の人数はたしか八人とか聞いた。
 彼らは、他を殺めるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、その代り軍用金を借かせと云って、父に迫った。父はないと断った。しかし泥棒はなかなか承知しなかった。今角の小倉屋という酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動かなかった。父は不精無性に、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。彼らは金額があまり少な過ぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい」と忠告した。その紙入の中には五十両ばかりあったとかいう話である。
 泥棒が出て行ったあとで、「余計な事をいう女だ」と云って、父は母を叱りつけたそうである。その事があって以来、私の家では柱を切り組くみにして、その中へあり金を隠す方法を講じたが、隠すほどの財産もできず、また黒装束を着けた泥棒も、それぎり来ないので、私の生長する時分には、どれが切組にしてある柱かまるで分らなくなっていた。
 泥棒が出て行く時、「この家は大変締まりの好い宅だ」と云って賞めたそうだが、その締りの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日から擦傷がいくつとなくできた。これは金はありませんと断わるたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと云っては、抜身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしても宅にはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情を張り通して、とうとう金は一文も奪られずにしまった。
 私はこの話を妻から聞いた。妻はまたそれを私の兄から茶受話ちゃうけばなしに聞いたのである。

 江藤淳も、この作品から知ったことだったのだろう、きっと。

 漱石の父と母のやりとりは、結構、可笑しい。

 また、小倉屋の半兵衛さんが、なんとも可愛そうだ。

 その時のご当人たちは、文字通り必死だったとは思うが、こういう後日談になると、つい笑ってしまう。

 それにしても、漱石は、この話、直接親兄弟から聞いたのではなかったんだ。

 ほぼ漱石が生まれた頃の夏目家の一大事件だったはず。
 普通の家なら、親子、兄弟姉妹で、「徳川様の終わる頃、おまえが生まれる前に、大変なことがあったんだよ」などと聞いていても不思議のないことなのだが。

 実は、夏目金之助(漱石の本名)は、波乱の幼少期を送っている。

 生後すぐに里子に出されたり、八歳で養子に出されたりしていたからね。
 実父と養父の中が悪く、夏目家に復籍したのは、二十一歳の時だ。

 だから、大好きな落語の『蔵前駕籠』のような強盗が生家に押し入ったということを、長らく肉親から聞くことはなく、妻から兄の話として伝達されたということなのだろう。

 『蔵前駕籠』のことを矢野さんの本で読んで夏目家の事件を知り、そこから漱石の書まで辿って行った結果、夏目金之助の幼少期の寂しさに思いがいたることになった。

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by kogotokoubei | 2018-02-18 17:11 | 落語のネタ | Comments(0)
 先日、三遊亭兼好の『品川心中』の通しを聴いて、その舞台である品川のことやサゲのことなど、いろいろと思うことがあった。

 まず、兼好がマクラでふった「品川の客 ニンベンありとなし」の川柳のこと。

 この“あり”は「侍」、“なし”は、「寺」。

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 日本近代史研究家、西山松之助の対談集『江戸っ子と江戸文化』(小学館創造選書)は、昭和57(1982)年に発行された本。
 以前、下町とはどこなのか、ということについて、引用したことがある。
2015年6月23日の該当ブログ
 紹介したのは、「第一章 江戸っ子のくらし」、池田弥三郎さんとの対談だった。

 江戸時代史専攻の竹内誠との対談の章「廓の悪所と出会い茶屋」に、品川のことで、次のように紹介されている。

竹内 いわゆる四宿といわれる内藤新宿・板橋・品川・千住などには、江戸からだけではなく、周辺の農村からも遊びにくる連中がいたようですよ。四宿は、ちょうど農村との接点になりますからね。
西山 それはいたでしょうね。品川の場合などは「品川の儲け七分は芝の金」といわれたように、増上寺からあのあたりにかけて寺がいっぱいありましたし、また増上寺のお坊さんの数はいまと違って莫大なものでしたからね。坊さんはいちおう品行方正を建前としてはいますけれど、じっさいは、むかしから坊さんはなまぐさいものと決まっている。だから、彼らはよく品川へ出かけていったようですよ。
竹内 品川にはもう一つ薩摩の藩邸がありますね。
西山 それと 鍋島があります。で、薩摩の紋が丸に十の字で泡盛が有名でしょう。鍋島は抱茗荷なんですが、川柳に「泡盛も茗荷もわっちは好きんせん」というようなのがある(笑)。これはやはり、九州からきた荒武者どもがしょっちゅう品川へいっていた証拠でしょうね。
竹内 いわゆる「浅黄裏」といわれたヤボな田舎武士、そういう人たちが常連だたんでしょうね。

 なるほど、「品川の客 ニンベンありとなし」なわけだ。
 薩摩の浅黄色、で思い出すのは、『棒鱈』。
 あの噺の中で、芸者が薩摩の田舎武士に、「最近、お見限りじゃないですか、品川の方でお遊びと聞いておりますよ」などと言うが、彼らにとって品川は、ホームグラウンドということだね。

 さて、先日の兼好の“通し”の「下」は、通常とは違っていた。
 お染に突き落とされた品川の海で死装束をずぶ濡れにさせ、犬に吠えられながらも親分の家にたどり着いた金蔵。博打の最中での突然の訪問者に慌てる例のドタバタ騒ぎ。親分は金蔵の話を聞き、一同は金蔵がお染に復習するのを手伝うのだが、彼らは金蔵を早桶に乗せて白木屋に連れて行く、という設定。
 この場面で、私は『幕末太陽傳』で金蔵に扮した小沢昭一さんの映像を思い浮かべていた。

 小沢さん扮するアバタの金蔵、“アバ金”のあの姿である^^

 『幕末太陽傳』については、ずいぶん前だが書いている。
 落語を素材にした、川島雄三監督の大傑作。
2012年1月9日のブログ
 
 兼好の「下」は、本人の工夫なのかどうか知らないが、『幕末太陽傳』に影響を受けたのではないか、と思った。

 そして、その改作も悪くないと感じた。

 ただ、サゲにはもう一工夫欲しいように思う。
 この噺や、『居残り佐平次』のサゲは、今では通じにくいので、噺家がいろいろと工夫している。
 兼好のサゲは明かさないが、あの筋書きなら、こんなサゲもあると思う。

親分 金蔵、お染が出てこねぇのなら、お前が乗りこんで脅かしてやれ。
金蔵 あっしが、いえそりゃぁ、できません。
親分 どうしてできねぇんだ。その立派な足があるじゃねぇか。
金蔵 いえいえ、昨日の飲み食いのオアシが、ありません。

 今ひとつか・・・・・・。
 では、こういうのはどう。

親分 金蔵、お染が出てこねぇのなら、お前が乗りこんで脅かしてやれ。
金蔵 へぇ、あの野郎(と言って、お染の部屋へ)
   こら、なんてぇ薄情な女だ!
お染 なんだい、幽霊だって言うけど、オアシがあるじゃないか。
   だったら、昨日の飲み食いの勘定も払っておくれ。
金蔵 えっ(と、驚いて)そっちの、オアシはない。

 どっちも、日光の手前(いまいち)かな。

 今後、別なサゲを思いついたら、ご紹介するつもり。

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by kogotokoubei | 2018-02-16 20:54 | 落語のネタ | Comments(2)
 現在、『子別れ』と言えば、「下」に当たる「子は鎹」を指すと言える。

 寄席では、トリでもなければ、通しはできないし、「子は鎹」なら、それだけで一つの噺として通用するからね。

 筋書きは、ざっとこんな感じ。
(1)吉原の女郎が出て行った後、酒をやめ仕事に精進する熊五郎の元に、
   茶室を普請中のお店(たな)の番頭が訪ねてくる。
(2)番頭によれば、茶室は左官仕事の途中なのだが、主人がせっかちで木口を
   選んで来いと言われ、熊に木場まで付き合ってくれ、とのこと。
(3)お隣に留守をする旨を告げて、番頭と一緒に出かけた熊。
   道すがらの会話となり、番頭が熊に、最初の女房は、いい女性(ひと)だった、
   どうして別れた、などと言うが、熊は自分の非を認めるしかない。
   別れた女房に会いたいか聞かれた熊、女房より、倅の亀のことを思うと、
   つい泣けてくる、と話す。
(4)ちょうどその時、番頭が、亀に似た子が向うから歩いて来る、と熊に告げる。
   熊が「そんなことはない」と注視すると、本当に亀だった。
   番頭は、亀に会って話しておやり、と熊をおいて一人で木場へ向かう。
(5)三年ぶりの親子の対面。
   亀によると、女房は再婚せず、針仕事や洗い物の手伝いなどをして生計を
   立てているとのこと。
   時折、熊の話になり、「お父っつァんは悪い人じゃない、悪いのは、お酒だ」
   と言っていると聞く。
   熊は、女郎は追い出して、それからは酒もやめて仕事に精進している、と告げる。
   亀が近所のお金持ちの子にいじめられて額に疵をつくっていることから、熊の
   胸には、申し訳ない思いが募る。
   熊は小遣を渡し、鰻屋で明日の今頃また会って、うなぎを食べようと約束し、
   亀は喜んで帰る。
(6)亀が帰ると、ちょうど糸が届いたから、糸巻を手伝ってくれ、と母に言われ、
   熊からもらった五十銭を握りしめたままで腕を差し出した亀だが、ついその手
   の中から五十銭が転げ落ちた。
   そのお金はどうした、と聞く母親に、「知らないおじさんから、もらった」
   と熊と約束した科白を繰り返す亀。母は、亀が家を出る時に持ち出した熊の
   大工道具の玄能を持ち出し、「本当のことを言わないと、この玄能でぶつよ。
   これは、お父っつァがぶつのと同じだよ」と涙ながらに言うと、亀もつい、
   熊にもらったことを白状。
(7)翌日、鰻屋に行く亀を送り出した母親は、落ち着かず、自分も鰻屋へ。
   亀が、「お母っつァんもおいでよ」と二人を引き合わせる。亀に、また
   三人で暮らそうよとせがまれた熊、女房に頭を下げて、よりを戻してくれ、
   と頼み、女房も受諾。
   その女房が「子はかすがいって言うけど、本当だねぇ」の言葉に亀が、
   「鎹、あっ、それでお母っつァんが玄能でぶつって言ったんだ」で、サゲ。

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 聞かせどころは、やはり熊と亀の三年ぶりの対面シーンだろう。

 榎本滋民さんは、『落語小劇場』で、次のように書いている。

 熊五郎の最初に発した質問が、あとからできたお父っつァんはかわいがってくれるかということであるのは、いかにも人情ばなしらしい人間描写の妙味で、この男の昨今の心境が端的に表われているが、一笑に付される。
「子どもが先にできて親があとからできるなんてことがあるかい」
 昔の寄席はちゃんとした性教育の場だった。
 お住はこの先の荒物屋と豆腐屋のあいだを入った路地の奥で、賃縫いの針仕事をしながら亀吉を養っているという。なるほど、亀の絣の着物は洗いざらしながら見すぼらしくはない。
 しかも、近所の人の再縁のすすめには、亭主はあの飲んだくれでこりごりだと女やもめに花を咲かせず、亀吉に対しては、屋敷奉公をしていたころ出入り大工の熊五郎が半襟や前掛けを買ってくれた馴れそめを語って聞かせ、酒で魔がさしたけれどもほんとはいい人なのだといっているらしいのである。
「へへ、おっ母さん、だいぶお父っつァんに未練があらあ」 
 こまっちゃくれた口のききようのおかしさで親子対面のぎこちない緊張をほぐしてから、演者は子どもの額の傷の一件で急にしんみりとさせる。

 亀の年齢は、演者それぞれで違う。
 小三治の音源では、九歳。
 榎本さんも、八つか九つぐらいがいい、と書かれている。
 さん喬は、年齢を明確にしていないが、学校へ通う年になった、としている。
 ちなみに、大須の志ん朝の音源では、七つだ。
 
 さて、額の傷のことについて、引用を続ける。
 榎本さんの、この噺に関する、熱い思いの伝わる文章が最後に登場する。

 傷は独楽回しの勝負判定で対立した大家(たいけ)の坊ちゃんに独楽の芯でぶたれたもので、泣いて帰ったときは、いくら男親のない子だってこんなことされて黙っていられないとお住は大いに怒ったが、相手の名前をいったら急に勢いをなくして、あそこからはよくお仕事も坊ちゃんの古着もいただいているから、遊びのけんかぐらいで気まずくなっては親子二人路頭に迷うから、痛くても我慢しろとさとした。
 ぼくはこのくだりでいつもじいんとくる。親子ドラマのお涙頂戴は大きらいだが、貧乏の悲しさ、くやしさがこたえるのである。こうした体験によって、昔の貧乏人の子は世間のむごたらしい仕組みを覚え、それにつぶされずに生きる力を鍛えて行った。長編『子別れ』を名作たらしめている眼目はこの社会性にある。ここがなければ、ただの笑いと涙の封建道徳教科書に堕してしまうとまで、ぼくは極言したい。
 たしかに、分かっていても、この場面を芸達者な演者に語られると、私の涙腺もゆるくなるなぁ。
 榎本さんが説く、落語の社会性、という言葉は結構重要だと思う。
 その時代背景や、その社会に生きた庶民の生活を反映しているということ、そして、その人間の心情や営みの本質のところは時代を超えても変わらないものがあるからこそ、落語は長く生き残っているのであって、そうじゃなければ、とうに博物館入りだったことだろう。

 そして、この『子別れ』は、「上」では大いに笑わせ、「中」では女房に感情移入して怒らせ、「下」では聴く者を泣かせる、という見事な舞台転換が計られている。
 「下」には、もう一つ大きな、泣き、の場面がある。
 亀が帰宅してから、お父っつァんに貰った五十銭の小遣を、母親が盗んだものと勘違いしてからの場面だ。
 榎本さんの文章が、見事に母親のその時の心のあり様を言い表している。

 両の手首に糸束をかけさせて糸を巻きとっているうちに、拳に握りっぱなしの銭を見とがめて尋ねると、子どもは言を左右にする。お住は表をしめさせて引きすえ、
「なぜそんな情ない了見を出すんだ。おっ母さんは三度のものを一度しかたべなくったって、お前に不自由をさせたことがあるか」
 と涙声を出す。ここもあわれに悲しい。とうとう盗みまでするようになってしまったのかという憤激、女手一つでは所詮まっすぐに育てられないのかという絶望、誠実勤勉の生き方はこうももろく踏みにじられるほど無力なものでしかないのかという恐怖ー。お住のまだ十分に若い乳房は衝撃に鳥肌立った。
 噺家が、この場面を、母親になり切って演じることができるのかどうか、が聴く者に「あわれで悲し」くさせるか、あるいは、安直な泣かせの演技と映るのかの分かれ目だ。
 どうしても、五十銭くれた相手を白状しない亀に、熊が使っていた玄能(あるいは、金槌)を取り出してぶつ仕草をして、亀はついにこう叫ぶ。

 「盗んだんじゃねえやい。お父っつァんにもらったんだい」
 「お父っつァんに・・・・・・逢ったのかい?」
 息をつめて、
 「なんだい、お父っつァんてったら乗り出しゃァがって」
 この場面転換も、重要だ。
 泣かせどころばかりではない、というのも落語の味わい深いところ。
 
 翌日の鰻屋の場面は、まさか逢うとは思っていない元女房と再会し、熊が動揺して、つい、同じ科白を何度も繰り返す場面が可笑しい。

 人によっては、この再会場面にお店の番頭を登場させる。
 冒頭での熊と亀の再開から番頭が作ったシナリオ、という設定の場合もある。

 そのあたりは、それぞれの噺家さんの工夫として悪いことではなく、噺全体に無理がなければ、それで構わないと思う。
 ちなみに、さん喬は、サゲ直前の鰻屋に番頭を登場させる。
 好みではあるが、私は、熊と亀の再会は偶然であって、番頭の作為という設定はいかがなものか、と思う。

 また、小三治もそうしているが、熊と亀の再会場面に、近くで盗み聞きしている八百屋を登場させる場合がある。これも、噺の流のアクセントとして不自然でなければ、悪い演出とはいえないだろう。

 以前の記事で書いた通り、この噺は初代春風亭柳枝の作と伝えられ、三代目の柳橋(後の初代春錦亭柳桜)が現在に近い型に改作し、あの名人三代目小さんらに受け継がれた、柳派の十八番。
2009年4月18日のブログ
 
 しかし、あの円朝が柳派に対抗して、「下」を改作したことがある。
 榎本さんの本から。

 三遊亭円朝が柳派の向うを張って下の部分を改作した『女の子別れ』というのがあり、『円朝全集』にものっている。
 女房が一人で出て行き、以前のつてでお屋敷に奉公しているうちに子ども(金太)に道で出会う設定で、子どもは父親と同居していて父親に小づかいをとがめられるわけだから、金槌のおどしも自然だという一種の合理化なのだが、さすがの大円朝の才能をもってしても、これは初代柳枝以来の柳派演出には遠く及ばない。

 残念ながら、まだ三遊亭の『女の子別れ』は、聴いたことがない。

 榎本さんは、この噺について、次のように締めている。

 亭主は女郎を引っぱりこんだ上で後悔して立ちなおり、女房は頼り少ない母子家庭を支えながら一時の軽率を反省している。ここにこそ試行錯誤の連続の人生というもののいじらしさもあるのではないか。
  かくばかりいつわり多き世の中に
    子のかわいさはまことなりけり
 よく引用されるこの道歌がぼくは大きらいだし、親心なるものの完璧な純粋さなども信じていない。純粋と思いこんでいる人たちの実態に目をこらすと、子どもが自分のヴィジョンどおりにあるいはイメージから大きくはずれない程度に育ってくれることを前提に愛情を注いでいる、そうした身勝手な欺瞞が見えすく。決して無償の行為ではないので、期待が裏切られれば断絶だなどとうろたえるのである。
 だから、『子別れ』の題名に幻惑されて、この人情ばなしを“子ゆえの春”式に親心美談として語ってもらいたくないと思う。親子の愛情を無条件の絶対正義と認めて疑わないほど、古典落語のエスプリは薄手なものではないはずだし、そんな体制的な民衆教化に奉仕させられるくらいなら滅び去った方がいい。
 これは“夫婦別れ”。つまり男女という横の関係のドラマとしてとらえられるべきだろう。そこではじめて二人をつなぐかすがいの亀坊と夫婦双方との縦の関係もとらえなおさえ、長編が豊かな奥行きをもつのである。
 「そのもと儀、われら勝手につき」の理由だけで慰謝料なんか払わずに女房をたたき出すことのできた時代も、思えば遠くなったがー。
 なんとも、榎本さんらしい、表現ではないか。
 「試行錯誤の連続の人生」なんて言葉、胸に“どん”と突き当たる。
 また、「古典落語のエスプリは薄手なものではないはず」という表現や、「そんな体制的な民衆教化に奉仕させられるくらいなら滅び去った方がいい」という言葉に、落語というものに真摯に向き合ってきた人の深い洞察力を見る。

 榎本さんは、落語をこよなく愛しており、古典落語は上から授かるののではなく、あくまで庶民の側にあるからこそ、三百年の間生き続けてきた、ということをおっしゃりたいのだろう。


 さて、ついつい、この噺のことを書いていたら、やはり、次の自分の高座のことを考えないわけにはいかなくなった。

 とはいえ、素人がリレーで演じるのだから、聴く方の負担(?)を考えると、せいぜい通しでも25分位が上限だろう。

 まず覚えることが先で、次に、どこをどう割愛するかを考える必要がある。

 ある程度の輪郭が出来たところで、相棒のYさんと、前後半のどっちを担当するか、相談しなけりゃ。

 生で聴いた“通し”の一つは、練馬から座間まで遠征(?)してくれたYさんと一緒に聴いた、むかし家今松による2012年2月「ざま昼席落語会」の名高座。
2012年2月12日のブログ
 そして、珍しく日曜の昼開催で、テニスを途中で抜け出して駆けつけた、2016年11月関内ホール(小ホール)での柳家小満ん。
2016年11月28日のブログ

 それぞれ、その年のマイベスト十席に選んでいる。

 珍しかったのは、立川龍志が、志ん輔との二人会で、「上」と「中」を演じた高座。
2015年4月30日のブログ

 「下」を聴いたことのある落語愛好家は多かろうから、という思いでの選択だったと思うが、なかなか得難いものだった。所要時間は、43分。
 
 今松は、「中」を端折ってはいたものの、休みなしで一時間の長講。

 小満んは、「上」「中」「下」を、しっかり分けた三高座。
 ブログの記録では、それぞれが、33分、29分、30分とほぼ均等の配分だった。

 持っている音源では、小三治は、「上」42分8秒、「中」40分26秒、「下」38分53秒と、それぞれが・・・長い。

 権太楼・さん喬のリレーは、「上」「中」で38分40秒、「下」が41分15秒。

 志ん朝の大須は「中」を地で説明した通しで、57分38秒。基本的な構成も含め、今松は、ほぼ志ん朝に近い。
 
 できるものなら、「中」もなんとか少しでも盛り込んでみたいと思っている。
 小三治の「中」は、聴けば聴くほど、いいんだよねぇ。
 というか、全体に小三治の下北沢の高座は、素晴らしいのだ。

 思い出した。昨年11月に成瀬の東雲寺寄席で、さん喬が酔っぱらった熊の帰宅から始まる、短縮版の「中」から始まる「子は鎹」を演じた。しかし、やや違和感があったなぁ。
 家に帰る熊は、そんなに酔っていてはいけないと思う。逡巡もあって、小さくなって帰るところから始めなければ、熊のその時の姿には近づかないだろう。
 さん喬が、『子別れ』の題の元となる「中」の喧嘩別れから始めたかった気持ちは、よく分かる。しかし、彼のような芸達者でも、無理な短縮を行うと、本来の噺の骨格が崩れてしまうのである。

 『子は鎹』として独立した「下」は、そうなるだけの内容として多くの噺家が練りに練ってきた結果なのだろう。
 通しでこそ生きるのが「上」や「中」。「下」なしでは存在しにくいのだが、そういう意味で、龍志の試みは得難い。


 笑いの多い「上」の後に、あの暗い別れの場面があり、最後の「下」による出会いでほっとさせる、という優れた構成がこの噺の基本なのだなぁ、とあらためて思う。

 とはいえ、素人の、“なんちゃって落語”なのだ。
 各パートの肝腎な部分を中心に、他は地で説明し、なんとか25分から20分にできないかなぁ、なんてことを考えている。

 聴きたい、とか、期待する、とおっしゃる方は気楽かもしれませんがねぇ、そんな簡単なもんじゃないんですよ145.png

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by kogotokoubei | 2018-01-16 12:45 | 落語のネタ | Comments(4)
 さて、次は、単独で演じられることは滅多にない、『子別れ』の「中」。

 吉原に居続け、四日ぶりに帰宅した熊さんと女房の会話が中心。

 女房に詰問された挙句、熊さんが吉原で品川にいた時分に馴染みだった女郎と出会って、つい長逗留になったと白状。
 そこで、謝ればまだ良かったものを、つい、のろけ話になってしまい、出来た女房の堪忍袋の緒が切れ、売り言葉に買い言葉、熊さんが「出て行け」の一言を発してしまう。

 最後は別れ話になることや、父に「謝っちまいなよ」と懇願しながらも母親と一緒に家を出て行くことになる亀ちゃんの寂しそうな姿もあって、笑いが少なく、また、救いのない筋書きでもある。
 
 前の記事でリンクした記事で紹介したように、柳家権太楼が、東京落語会で「中」だけを演じた高座が「日本の話芸」で放送されたのを見た。馴染みの女郎の名をお勝としていて、題は「浮名のお勝」。
 やはりこれだけを演じるのは、全体があって初めて噺としての骨格が出来上がるので、演る方も聴く方も、どこか物足りなさを感じるように思う。
 なお、権太楼も通しで演じたことはあって、三田落語会の前身、ビクター落語会の高座がDVDで発売されているが、私は持っていない。

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 榎本滋民さんの『落語小劇場』で、「中」の内容を確認。

 熊さんの女房が、「ふだん亭主の帰りがどんなに遅くても起きていて、路地の木戸をたたく音に『熊さんかい?』と開けに行く早さは、とんとんまでたたかせない、とん熊さんというぐらいのよくできた女」と説明しておいて、こう続けている。

 だから、ひと晩泊まりの朝帰りならお目こぼしもあろうに、三日四日と居続けのあとでは神田竪大工町のわが家の敷居は高く、のぞいてみれば女房はふて寝もせずにせっせと針仕事の最中とあっては、
「ええ、少々うかがいます。大工の熊五郎さんのお住まいはこちらでござんしょうか」
 ふざけてみせでもしなければ、うしろめたくてとても入れない。

 小三治も、熊さんを、この科白で帰宅させているが、その前に、
  朝帰り だんだん家が 近くなり
 の川柳を挟む。
 そして、「おかみさんがいる方でないと、その怖さは伝わってこないかもしれませんね」と付け加えている。実体験に基づいているのかどうかは、不明^^

 女房から、「どこへ行ってたんだい」と聞かれて熊さん、小さな消え入るような声で、「とむらい・・・・・・」と答える。「お店(たな)の旦那の弔いに行ったのは知ってるよ。弔いってのは、三日も四日もかかるのかい」と突っ込まれるが、なかなか本当のことを明かすことができない。
 小三治の音源では、焼き場にまで付き合ったものの、96で亡くなった伊勢六の旦那の亡きがらが、ほとんど油っ気がない。旦那の遺言で、よ~く焼いてくれとあったので、薪をさんざん燃やして、三日目の朝にようやく焼け落ちた、などと嘘をつく。
 しかし、女房が紙屑屋の長さんから熊と一緒に吉原に行ったことを聞いたことを知り、熊も観念し、吉原での成り行きを白状するのだが・・・・・・。

 のろけから、女房の堪忍袋の緒が切れる場面について、榎本さんの本より。榎本さんは、女房の名を、お住としている。

 敵娼(あいかた)にきまった女郎のひどさにやけのがぶ飲みから便所へ行っての帰り、廊下でいきなり胸ぐらをとられて、
「男なんて薄情なもんだねえ。わちきの顔をよくごらん」
 涙ぐんだ女は、もと品川でなじんだお松。
 ひところは、やらずの雨に降りこめられて仕事を休んでしまい、たのしみ鍋の差し向かいで飲んだ朝もあるほどの仲で、わちきがいくらのぼせてもお前(ま)はんにはかわいいおかみさんや子どもがあるんだからどうせ末のとげられる見こみはないと泣くのを、合わせものは離れもの、かかあなんぞたたき出してみせると喜ばせたこともある。
 もとより出まかせの口約束、一人息子の亀坊が回らない舌で、
「とっちゃん、お仕事(ちごと)かい。とんとんかい」
 とかなんとかいうようになったかわいさにとりまぎれ、いつかすっかり忘れていたのを、お松の方では真(ま)に受けて、熊に会いたさに方々鞍替えしながら尋ねていたとのこと。
「あんな気休めをどの口でおいいなんだよ」
 と責められて、
「ほかにもち合わせはござんせんから、多分この口でござんしょう」
 顔を突き出したら思いっきりつねり上げられたー。
 こうべらべらいってのけた上に、
「どうかなってやしねえか?こう、見つくて。よ、おっかあ」
 ほっぺたを向ける色男ぶり、たまりかねたお住はいきなり平手打ちを食わせて離縁を望む。
 やらずの雨、鍋の差し向かい、という表現で、『唐茄子屋政談』の徳の回想場面を思い出す落語愛好家の方も多いだろう。

 それにしても、熊の話、いくら出来た女房でも、怒るのは道理。
 
 そうなると、熊も居直る。
「あとがつけえてらあ。裏のどぶじゃねえがな、かかあだのぼうふらなんてものァ棒を突っこんでかき回しゃァいくらだって出てくるんだ。気に入らなけりゃとっとと出て行け!」
 名調子である。さすがに女性上位時代のマイホーム亭主なんかとはオクタン価がちがう。くやしかったら今夜にでも早速やってみるがいい。こっちのいうせりふなんてどなられて、うなだれるのが落ちだろう。

 榎本さんも、なかなかの名調子^^
 この後に、当時の夫婦のことについて、三行半を含め解説されている。
 江戸時代の夫婦関係を律する法的観念は夫権絶対だった。どれほど夫が横暴でも、妻の側から離婚を宣言することはできない。
 そのために、縁切り榎に願をかけるせつねい俗信も行なわれたし、鎌倉松ケ岡の東慶寺へ駈けこんで三年間(実際には二十四カ月すなわり足かけ三年)の有髪(うはつ)の尼僧生活を送れば認められる救済便法も存在したのだが、この場合ですら最終的には亭主が離縁状を発行しなければ離縁は成立せず、里で逃げ帰ったところで再縁もできないので、
「出て行くから、仲人にどういうわけで出てきたと聞かれたとき証拠になるように、去り状を一本書いとくれ、たった今、目の前で、さあ」
 という請求がせめてもの主張なのである。去り状・退(の)き状・離縁状などともいう縁切り証文は、こんな文言を三行半に書く。
   そのもと儀、われら勝手につき離縁
   いたし候上は、何方(いずかた)へ縁づき候とも
   われら方にては一切差し構え御座な
   く候。仍(よっ)て件(くだん)の如し。
 三下り半の俗称はこれによる。

 江戸時代の男尊女卑が離縁状の背景にあったのかもしれないが、当時は、女性人口が少なかったことも、一つの仕組みとして、三行半につながったように思う。
 簡単には、離縁させない。もし、離縁されても、女性がすぐ再婚できやすい仕組み、ということではなかろうか。

 なお、小三治は、かな文字しか書けない熊なので、四下り半になった、と笑わせる。
 隣りに住んでいる住人が仲裁に入るが、熊も一度上げた拳を下げることができない。

 ついに離縁か、という時の亀の言葉は、なんともせつない。
 榎本さんの本から、ご紹介。
「お父っつァん、お前(めい)が悪いんだ。あやまっちゃいなよ。おいらだのおっかあだのがいなくなると、お酒を買いに行く者ァなくなっちゃうぜ。今あやまるんなら、おいらもともに口をそえるからさ」
 これをたしなめてお住は、男の子は男親につくのが法だろうけれど、お前さんのところへ残して行くのは心配でたまらないからとむせび泣いて、
「さあ、亀坊。ながなか御厄介になりましたってお父っつァんに御挨拶をおし」
「いやだなぁ。するよ。ながなが・・・・・・ながなが亭主にわずらわれ・・・・・・」
 と青っぱなをこする亀坊の手を引き、小さい風呂敷包み一つもって、世帯やつれした薄い肩を路地口に消した。
 この場面は、亀の言葉にどんなクスグリを入れても、そうは笑えない。
 やはり、切ない、暗い話なのだ。

 その後、熊は吉原通いを続け、年季が空けた馴染み女郎をうちへ引っぱりこんだのだが・・・・・・。
 ここでお決まりの句が挟まれる。
 「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」
 この句、調べてみると、遊女を身うけしようとした人をいさめて、播磨の瓢水(ひようすい)という人が作ったといわれている。
 「れんげ草のような野の花は、やはり野原に咲いているのが似つかわしい。ものには、本来それにふさわしい場所というものがある。取らずともやはり野に置け蓮華草」という意。
 手に取ってしまった蓮華草が、いったいどんなものだったか。

 朝寝をして昼寝をした上に宵寝までするネゴイストで、せめて飯でも炊かせようと思えば、
「おまんまが炊けるくらいなら、お前(ま)はんとこへきやしないよ。吉ちゃんとこへ行きたかったんだけども、お前はんがおまんまなんぞおれが炊くってえからきたんじゃないの」
 はじめて目がさめたら、追い出すまでもなく女は出て行った。ここまでが中、『子別れ』の題名のよってきたるくだりである。

 中、やはり暗い噺なのだ。

 もちろん、暗いなりに聴かせどころはある。
 熊と女房の会話、亀のなんとも切ない言葉などに、演者の技量が問われる。

 さて、上とつなぐべきか、それとも、下の前に短めに演じるべきか。

 書きながら、次の口演(?)への悩みが増してきたではないか^^

 次回は、お馴染み「下」の「子は鎹」。

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by kogotokoubei | 2018-01-15 12:33 | 落語のネタ | Comments(4)

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