噺の話

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カテゴリ:落語のネタ( 113 )

 先日、横浜にぎわい座の「名作落語の夕べ」で、桃月庵白酒の『宿屋の富』を聴いた。
 このネタ、元は上方の『高津の富』で、三代目柳家小さんが四代目桂文吾に習い東京に移したとされている。

 その三代目小さんが演じたこの噺は、先日の白酒はもちろん、現在多くの噺家さんが演じる内容とは、大きく違っていた。

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麻生芳伸編『落語特選-上-』
 
 麻生芳伸さん編集の『落語特選』の「上」にこの噺が載っているのだが、あとがきで麻生さんはこのように書いている。

 本篇は三代目小さんの改作当時の型で、冒頭の客が大金持ちだと法螺を吹く箇所に重点を置き、突富も終了した後の設定にした。そのほうが宿屋の主人も結果を見に行く距離感に現実性(リアリティ)がある。

 ということで、三代目小さんの型では、突富の前の喧騒の場面は登場しない。
 だから、二番富が当たることになっている男の、仕方ばなしも、ない。

 法螺吹き男の人物設定を含め、今日よく聴く“型”とは、相当違っている。

 冒頭の宿屋夫婦の会話から引用する。

「ちょいと、おまえさん」
「なんだい?」
「なんだいじゃないよ。二階のお客さまだよ。もう二十日も逗留してるよ」
「結構じゃねえか」
「喜んでちゃ困らあね、おまえさん。茶代ひとつ出さないじゃァないか。なんだか様子がおかしいよ。きっとないのかも知れないよ。深みィはまらないうちになんとかしたほうがいいんじゃァないかい?ねえ、おまえさん。様子ゥさぐっといでよ」

 落語ご愛好家の方は、「あれ、『抜け雀』や『竹の水仙』と似ているじゃないか」と思われるはず。

 この後、宿の主は二階の客に会いに行く。

「ごめんください。おいででござんしょうか?」
「はい、だれかね?・・・・・・おゥ、なんだ、この家(や)の主人(あるじ)どんだな。おら、泊まったときに顔を見たが、それっきり顔も合わせねえが・・・・・・なんだ?なんか用かね」
「どうもかけちがいまして、ご挨拶にも上がりませんで、まことにどうもお粗末ばかり申し上げておりまして申しわけございません」
「いやァ、結構だよ」
「じつは、お願いがございまして・・・・・・」
「なんだい?」
「お宿帳が願いたいと思いまして・・・・・・」
「宿帳?おかしいでねえか、おら、泊まったときに付けたでねえか」
「エエ、お処(ところ)とお名前は伺ってございますが、この節また、その筋のお調べが厳しゅうございまして、お身装(みなり)からお荷物、ご商売、悉く付けさして頂くようなことンなっております」
「ああそうかね・・・・・・身装たってこれェ着たっきりだい。荷物ってあすこにある小(ち)っけな包み、あれ一つだい・・・・・・商売って、おら商売ねえだよ」

 ということで、この男、田舎大尽、という設定なのである。

 泥棒が入ったという法螺ばなしの宿の主とのやりとりは、次のようになっている。

「それがおめえ、こねえだおもしれえことにな、泥棒が入(へえ)ってな」
「ほゥお、泥棒が・・・・・・お怪我はございません?」
「いや、怪我なんぞァねえだよ。何人いただかなァ・・・・・・十何人もいただかなァ。おらの寝てえる枕元へ光ったものを突きつけてな。命が惜しけりゃァ金ェ出せっちゅうでえ・・・・・・おら命は惜しい。金は惜しくはねえだから、いくらでも持ってってもれえてえ・・・・・・そいからおらァ蔵は案内ぶってやってな、蔵のはァ、扉ァ開けて、戸前開けて、さあさあ好きなだけ持ってきなせえ・・・・・・みんなぞろぞろぞろぞろ入って、出てくるときは千両箱ひとつっ担いで出つ来るでえ、なかには二ッつ担いだやつが二人べえいたかなあ。おら褒めてやっただ。汝(われ)力あるでねえか、えれえぞッつッてなあ。」

 この田舎大尽が本物なら、『お見立て』の杢兵衛さんだ。

 この後の法螺ばなしが、可笑しい。

「で、まあみんな出てって、しばらくすると、頭立(かしらだ)ったやつが戻って来て、表の門を開けてもらいてえ・・・・・・ばかなことを言うな。いくらなんでもな、泥棒野郎にな、表門から大手振って出られてたまるか。裏のほうから出ろッて・・・・・・野郎涙こぼしやがって、入(へえ)るときは裏から入って参(めえ)りましたと。だけどもはァ、これまで来るのに半月の旅ィしてやって参りましたと。また半月の旅ィして引っ返すのは大変でごぜえますから、どうぞひとつ表門から出してもらいてえ・・・・・・そう言われりゃもっともなことでな。そいから奉公人五十人べえ起こしてな、表の門を開いてやっただよ。そりゃ十人や二十人で開くような門でねえからな・・・・・・野郎喜びやがってはァ、みんなまた千両箱を担いでぞろぞろ出てくだから、まあこのままにしとくだよ、蔵のほうはァ、戸も開けっ放しにしとくだあ。またいつでもいいから来て持ってけやァ・・・・・・みんな喜んで出て行ったァ。しばらくすると、千両箱二っつ担いだやつが、一つ担いで戻って来てな、これお返しするてえ・・・・・・なに言っとるだあなあ。持ってけったら、いや、とても二つは担いで行かれねえ。どうぞ一つお返し申しますからって、そこへ千両箱を一つ置いて、そのまま帰(けえ)って、また来るかと思って待ってたが、といとうそれっきりやって来ねえ・・・・・・あれ考(かんげ)えてみると、正直な泥棒だ」

 三代目小さんが、上方から東京に移した当初は、こういった田舎大尽(風)の男の法螺ばなしが中心で、あの二番富が当たる夢を見た男の妄想ばなしは、登場しない。

 では、元ネタの上方『高津の富』はどうかと言うと、私が知る枝雀版では、法螺ふき男は、因州鳥取の在と語るが、田舎言葉を使うわけではない。また、二番富に当たるはずの男も、しっかり登場する。

 三代目小さんは、この噺を西から移すにあたって、まず、田舎者が法螺を吹く場面に中心を置いたのだが、その後、弟子や他の噺家の手にかかり、今のような型になってきたということか。

 江戸落語独特の田舎言葉の楽しさで、この噺を味付けしようとした試みは、理解できる。
 とはいえ、大店の主人として、その人物造形に疑問を抱いた噺家さんがいたことも察することができる。

 残念ながら音源は持っていないが、五代目小さんは、田舎出の男が何日も逗留しているという三代目からの柳家の型を踏襲していたようだ。

 今の柳家の噺家さんは、どうなのだろう。

 不勉強で、知らないが、もし誰か演っているのなら、聴いてみたいものだ。


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by kogotokoubei | 2018-10-11 21:56 | 落語のネタ | Comments(4)
 今日は雨のため、日曜恒例のテニスは休み。

 ということで(?)、午前中に書いた記事に関連して、二本目の記事。

 午前中、柳家喬太郎の『ハンバーグができるまで』が舞台化されることを書いた。
 自分の過去のブログを検索して、関連する記事を眺めていたら、ある雑誌の落語企画の記事に行き着いた。

 それは、2014年3月号の『Switch』「進化する落語」という特集に関する記事。
 久しぶりに落語を取り上げた好企画として紹介した。
2014年2月22日のブログ

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「Switch」2014年3月号

 四年前の記事では、喬太郎のこんな言葉を紹介していた。

喬太郎 五十歳を迎えて思ったことがあります。これまでに過ごしてきた時間はいっぱいある。でも、未来もまだまだいっぱいある。そういう場所に、今、僕はいるんだということです。ということは、その気になればいろんなものが作れるんだと思う。失敗してもいい。だって、昔もそうだったんだから。すごく楽しみですね。これからは、会によっては「コケまくりの喬太郎」、「笑いがおきない喬太郎」というのが増えてくるんじゃないかな、と。

 これが四年余り前の言葉。

 さて、その後、「コケまくりの喬太郎」や「笑いがおきない喬太郎」が増えたのかどうか。私はそれについた語れるほどは喬太郎を聴いていないので、コメントは慎む。

 この発言の少し前に、喬太郎は新作について、このように語っていた。

喬太郎 僕はね、ときどきスーパーに買い物に行くんですよ。夕暮れ時の商店街とか。その時間帯に行くと、そんなにきれいじゃないけど、一応夕焼けだったりする。晩御飯の買い物で、奥さんたちがいて。さびれた商店街が少しは活気づく時間帯に、普段着にサンダルでレジ袋下げて、「次はどの噺を稽古しようかな」なんて考える。というのも噺家だなよなって思うんですよね。道楽にうつつを抜かして、酒飲んでかみさん泣かせてみたいなのも噺家かもしれないし、売れっ子でいつも飛び回っているのも噺家かもしれない。でもそういった何気ない日常の中から、僕の場合はものが生まれると思うんです。そういうのはすご大事だなと思う。

 こんなことを、喬太郎は考えていたんだ。

 引用を続ける。
ー幅広いレパートリーの中で、五十歳を迎えて、この年齢になったからこそ新しくできる噺や、逆にやりにくくなった噺はありますか。
喬太郎 「純情日記横浜篇」や「すみれ荘二〇一号」はもうやりづらいですね。
ー八十年代の匂いがするんですね。
喬太郎 そう。80年代って一番浮ついた時代だと思うんですよ。でも僕はあの頃一番ダサいところで生きてきたから、シブカジ、ハマトラ、トレンディとか、ああいうものに若干の敵対心があるんです。戦後という時代があって、安保の時代があって、後にはバブルが弾けて若い子が苦労しはじめる時代の間で、俺らは一番チャラチャラしていた。僕は82年に大学に入って、89年に噺家になっていますから、80年代を引きずっているんですよ。

 たしかに、「純情日記横浜篇」や「すみれ荘二〇一号」は、聴いている方も、ちょっと辛いものがある。

 私は74年に大学に入り、78年に社会人になった。
 ほぼ喬太郎と一世代違う。
 さて、私は70年代を引きずっている、と言えるのかどうか。

 さらに、引用。

喬太郎 「江戸の風が吹く吹かない」みたいなことを家元(立川談志)が言い始めたでしょ。「喬太郎さんの古典は面白いけど、江戸の風が吹いてない」と言われることがあった。でもね、80年代の風を吹かせられる人はあんまりいないじゃないかと思うんです。俺は全噺家の中で80年代の風を吹かせられる稀有な例なんだぞ、と。それをお客さんが望んでいるかは別として。
ーそれも個性ですね。
喬太郎 もちろん古典落語家の側面としては、江戸の匂いが出せればいい。努力はします。だけどそれはとても大変な作業で、それをするがために、俺しかできないことをやらずにいたらもったいないと、また最近思いはじめたんです。
 二ツ目の頃は、俺しかできない噺をやりたいと思ってました。その若くて尖がっていた頃の気持ちを思い出したんです。後世の人に名人と思われなくてもいいし、忘れられても構わない。今、生きている俺が俺しかできない落語をやればいい。そういう意味では今の年齢の新作も作りたい。
ーその意味では「ハンバーグができるまで」は年齢的に合う作品ですよね。
喬太郎 「ハンバーグができるまで」を作った時は、中年の等身大の噺が作れたかなと思いました。中高年というと慈愛とかそんなイメージになるけど、そうじゃなくて自分と同世代のニュアンスを、自然体で、しかも面白い噺にすることができないかと思っていたんです。
ーさきほど師匠が大事にしたいとおっしゃった、日常生活の中にある夕方の商店街の情景と「ハンバーグができるまで」は繋がりますね。
喬太郎 本当ですね。発想のきっかけは、離婚した夫婦って何を話すのかなと思ったことなんです。下北沢にあるオオゼキというスーパー。あそこは道路から、お客さんが買ったものを袋に入れている姿が見えるんですよね。その景色がすごく印象に残って、ぼんやりとあったアイデアを練っていくうちに出来たんです。だから、やっぱり日常生活から作り出していったんです。

 今日は雨のおかげ(?)で連れ合いと外で昼食をとったが、その店の近くにも、オオゼキがあったことを思い出した^^

 そうか、『ハンバーグができるまで』から伝わるリアリズムは、喬太郎の日常生活の観察力と創作能力が融合したものだったんだなぁ。

 最初に大手町落語会で聴いてからほぼ一年後、喬太郎・文左衛門・扇辰の三人会でも聴く機会があったが、ブログにこう書いていた。
2011年2月16日のブログ
前回よりもネタとしての成熟度のようなものを感じた。20分に刈り込んでも、この噺としての訴求力は十分。それぞれに個性的な登場人物も楽しい。

 古典においても描かれる人間についてはそうなのだが、新作にはその舞台設定も含め“同時代性”が求められるだろう。

 舞台化のニュースを目にし、ある雑誌を読み直すことで、一つの新作落語ができる背景を確認することができた。

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by kogotokoubei | 2018-09-02 21:13 | 落語のネタ | Comments(12)
 朝日の記事を見て、少し驚いた。
 なんと、柳家喬太郎の新作落語『ハンバーグができるまで』が、舞台化されるらしい。
 引用する。
朝日新聞の該当記事

【「ハンバーグができるまで」舞台化について】
稀代の落語家、柳家喬太郎。本格本寸法の古典落語はもちろん、観客を爆笑の渦にまく、多彩な新作落語も人気、今、最もチケットの取れない落語家の一人です。その柳家喬太郎の新作落語の中でも特に人気のある「ハンバーグができるまで」の舞台化が決定し、来年2019年3月に銀座の博品館劇場にて、全8公演上演されます。
主演であるマモル役には、唯一無二の存在感で、今や、日本映画界に欠かせなくなった俳優、渋川清彦を舞台主演に抜擢。そのマモルの元妻サトミ役を、テレビや映画、舞台など経験豊富な実力派女優、馬渕英里何が演じ、2018年で結成23年を迎える劇団ペテカンがその脇をかためます。脚本・演出は映画そして舞台 柳家喬太郎出演作「スプリング・ハズ・カム」に続き、本田誠人が務めます。

 へぇ、なんとまぁ・・・・・・。

 私が『ハンバーグができるまで』を最初に聴いたのは、ずいぶん前になる。
 2010年2月の、第一回大手町落語会だった。
2010年2月27日のブログ
 今では、あのような大ホールの落語会には行っていないので、「あぁ、行ってたんだなぁ・・・・・・」なんて、ちょっと懐かしい思いもある。
 その高座に、こんな感想を書いていた。

まず最初にSWA仲間である白鳥の噺のサゲを解説してくれた。それも、この人らしさで。そして、白鳥のネタと同様にプログラムに「お楽しみ」となっていた噺は白鳥に対抗するかのような新作。喬太郎らしい。このネタを聞くのは初めてなのだが、以前に他の方のブログで読んでいた内容からは、部分的に演出が変わっていたように思う。それは喬太郎落語が生きている証拠なのだろう。男と女の物語に味付けされた笑いとペーソス、そして必ずしもハッピーエンドではないリアリズム。彼の新作の中でもこの噺は異質な魅力ももっているように思う。サゲもなかなか洒落ている。発表されてから5年位はたつようなので十分に練れていながらも演出への工夫や演技時間による構成の変化があるのだろう。上手いし強い、というのが今日の喬太郎の印象。

 ちなみに白鳥のネタは『はじめてのフライト』。結構大笑いした。

 この時書いたとおりで、喬太郎の新作の中でも、少し異質な作品だと思う。
 そのリアリズム、ペーソス、なるほど舞台には向いているかもしれない。

 先日、AERAの円丈と喬太郎の対談について書いたが、新作落語におけるこの二人の存在は大きい。
 そして、白鳥も重要な新作作者で、三三が『任侠流れの豚次伝』を全国で連続口演することも紹介した。

 そのネタを他の噺家が演じたくなるような魅力は、舞台や映画にしたくなる作品にまで今後発展していくのかもしれない。

 会場の博品館の名を聞くと、どうしても喜多八を思い出す。

 さて、博品館が今後は落語の舞台化の定席になるのかどうか。

 落語ブームは、新たな次元を迎えた・・・と言うと大げさかな。
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by kogotokoubei | 2018-09-02 11:43 | 落語のネタ | Comments(2)

『お盆』という噺。

 今日は旧暦七月一日。
 昨日が、夏越の祓の日だったことになる。

 すっかり新暦が当たり前になったお盆の民族大移動が始まった。

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関山和夫著『落語風俗帳』(白水Uブックス)

 関山和夫著『落語風俗帳』に、まさに『お盆』という噺があるのを発見。
 さて、どんな噺なのか。

 
お盆

 この咄、別名を『巣鴨の狐』という。今では、めったに聴かれないが、むかしは二代目三遊亭小圓朝や五代目三升家小勝が得意だったそうである。
 この咄には「法印」と呼ばれる祈祷師が登場する。法印というのは、本来は仏教のはたじるし、標識、特質、仏教あることを証明する規準をいうのであるが、これが僧位に用いられ、「法印大和尚位」となり、中世までは僧綱の最上位を示した。それが近世に入り、時代が下るにしたがって貫録がなくなり、下賤な僧でも法印といった。祈祷というのは、インドで密教が起こって盛んとなり、中国でも盛行した。日本では、古代から神に祈る風習はあったが、仏教が伝来して一段と発展した。真言宗、天台宗はいうに及ばず、禅宗や日蓮宗にも入り、浄土宗でも祈祷を行うに至った。その点では日本仏教各宗とも密教化した部分がある。真宗は祈祷を行わないことを旨とする。

 登場した宗派の開祖は、真言宗は空海、天台宗は最澄、禅宗は曹洞宗が道元、臨済宗は栄西、日蓮宗は書くまでもなく、浄土宗は法然、(浄土)真宗は、親鸞。
 さて、ということでどんな筋書きなのか、というと。

 貧乏な法印(祈祷師)が、一人の下男と、ひっそりと淋しい生活を送っていた。ある日、下男がお使いに行くといって出て行ったが、なかなか帰ってこない。やっと帰ってきたので聞くと、「王子で子狐をつかまえた。そいつを狐汁にしようと思って、いろいろやっているうちに遅くなった」という。法印が「とんでもないことだ。狐は王子稲荷さまのお使いであるぞ」と説諭しているときに、巣鴨傾城ケ池からやってきたという商人が「主人の娘にキツネがついたので、なんとかそれをご祈祷で落としていただきたい」と頼んだ。
 法印は、「そのためにはお金が七両二分かかるが、うまくキツネが離れたら、それをつかまえてあなたに渡しましょう」という。商人はそれを承知して、手付けに一両置いていきたいので、お盆を拝借したいという。下男はお盆がなかったので箱膳のふたを出す。そこで法印が、「物を畳の上などへ、じかに出すのは失礼なので、お盆の上に乗せて出すのが礼儀だ」と下男に教える。
 商人が帰ったあとで、法印は下男に王子まで行って狐をとってこいを命ずる。一両をもらって下男は、狐を三味線箱に入れてくる。法印は巣鴨へ行って、キツネ落としのご祈祷を行う。狐を箱から出そうとすると、狐は死んでいた。
「死んでもいいから狐を出せ」
「そうか、そんなら台所へ行ってお盆を借りてくる」

 数ある落語の中でも珍しいものであるが、サゲがややしまらないのが欠点だ。

 う~ん、サゲのみならず全体が、どうもしまらない。

 お盆は、季節のそれではなく、あのお盆だった。

 この噺、著者の関山さんは、「祈り」の咄を二席、として『藁人形』とこのネタを紹介している。

 祈祷師の法印が登場するこの噺、やはり、その後封印されるのも、やむなしかな。

 つい題に誘われてみたものの、がっかりした感覚を、読者の皆さんにも味わっていたでけたかな^^

 何百とある噺で、今日ほとんど聴くことのできないものもある。

 復活して欲しいネタもあるが、消えてしまったのもやむなし、という噺もある、ということか。

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by kogotokoubei | 2018-08-11 11:13 | 落語のネタ | Comments(0)

大山は、本日夏山開き。

 先日、中込重明さんの本から『大山詣り』の原話について書いて記事で紹介したように、今日は、大山の夏山開き。

 前の記事でも引用したが、神奈川県のサイトの観光情報のページから、伊勢原市観光協会のフライヤーをダウンロードできる。
神奈川県サイトの該当ページ

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 暑い山開きの日となったが、台風による雨予報の明日よりは、ましだろう。

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 榎本滋民さんの『落語小劇場』(下)では、この噺が最初に載っている。

 夏山にも、登る時期で名前がついている。

 六月二十六日から七月七日までを初山、八日から十三日までを間(あい)の山、十四日から十七までを盆山。旧暦だから盛夏から初秋である。
 2014年7月17日、私が初めて行った柳家小満んの会でこの噺が演じられたが、その日いただいた栞には、間の山、盆の山の期間は同じだが、初山は七月一日から七日、と書かれているなぁ。
2014年7月18日のブログ
 あの日は、とにかく『有馬のおふじ』が素晴らしかったことを思い出す。
 同じ山岳信仰にまつわるネタだが、富士が大山に勝ったなぁ^^

 伊勢原市のサイトには、夏山の区分が新暦で紹介されている。
伊勢原市のサイトの該当ページ

 その内容によると、7月27日から31日を初山、8月1日から7日を七日堂、8日から12日を間の山、13日から17日を盆山と言うらしい。
 
 七日堂というのもあるんだね。

 旧暦の行事を新暦に替えているので、微妙なズレがあるのは、しょうがないか。

 しかし、やはり、こういった年中行事は、旧暦で行なって欲しいと思う。
 旧暦なら今日は六月十五日。
 山開きは、まだ先だ。

 江戸の長屋の連中の楽しみであった大山詣りは、多くの川柳からも庶民に身近なものだったことが伝わる。

 小満んの会でいただいた栞にも、「盆山の坂を掛念仏で越え」などの川柳が紹介されている。

 では、出発前の準備を含め、『落語小劇場』から。

 両国橋東詰め(小石川関口にもあった)の垢離場で水垢離を七日間とって精進潔斎する。
 罪障懺悔の唱えごとを一千回くり返すので千垢離というが、数を忘れないように緡(さし)を一本一本川に流す。よく流れるか渋滞するかで吉凶を占った。 
  百度目のさしは目より高く上げ
  投げるさし十九本目に土左衛門
  屋根船の唄垢離場につぶされる
  清浄なへのこ南無帰命頂礼
  屋形をみまいおえるぞざんげざんげ
 涼み船の美女を見るな、へのこ(男根)がおえる(勃起する)とどなっているのだから、どんな野郎たちか想像できるだろう。
 上がると、伊達染めの浴衣か白い行衣の揃いで、納め太刀と称する七八寸から一丈あまりの木刀をかつぎ、いよいよ夜中に江戸を立つ。中には当時年二期(盆と暮れ)だった勘定の清算がつかず、借金とりを避けるために大山まいりに加わる者も多かった。
  盆前の借り太刀先で切り抜ける
  納まらぬ頭でかつぐ納め太刀
  十四日抜き身を背負って夜這する
  所詮足りないと大山さして行き
  十四日末は野のなれ山へ逃げ
 この連中は借金のがれではなく、名人四代目橘家円喬以後この落語を演じて絶品とうたわれた四代目橘家円蔵は十三人、近年では第一人者六代目三遊亭円生は十八人としているが、とにかく十数人の職人の楽しい団体旅行である。
 
 江戸時代のこの時期の気候はどうだったのかはよく分らないが、猛暑での山登りは辛かったに違いない。

 しかし、登った後の楽しみが多かったからなんとか我慢できたのな。

 さて、現代では、山詣りの風習も、その後の楽しみもほなくなった。
 
 私にとっての楽しみは、落語を聴くことと、その後の居残り会が、関の山^^
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by kogotokoubei | 2018-07-27 12:53 | 落語のネタ | Comments(0)
 来週7月27日は、大山の夏山開きだ。

 神奈川県のサイトの観光情報のページから、伊勢原市観光協会のフライヤーをダウンロードできる。
 その中の夏山開きの案内部分をご紹介しよう。
神奈川県サイトの該当ページ

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 「お花講」とは、なんとも可愛い名前だこと。

 落語の『大山詣り』(上方では『百人坊主』)については、ブログを始めて間もなく、記事を書いた。
2008年7月25日のブログ
 
 あらためて『大山詣り』に関して棚の本をめくっていて、あの噺の元ネタについて認識を新たにした。

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中込重明著『落語の種あかし』(岩波書店)

 中込重明さんの著『落語の種あかし』は、岩波書店から2004年6月に発行された。
 しかし、著者の中込さんは、本書の発行を待つことなく、同年4月に三十九歳の若さで旅立っている。
 中込さんには、他にもう一冊、亡くなる直前に書かれた『明治文芸と薔薇』という著作がある。
 どちらも、延広真治さんの支援によるものだ。
 
 他に新書版の入門書的な本、「落語で読み解く『お江戸』の事情」(青春出版社)があって、同書からは拙ブログで何度か引用している。

 田中優子著『江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか?』と比較した記事を書いたこともある。
2010年6月12日のブログ
 杉浦日向子さんの著作も含め、江戸時代にどれくらいご飯を食べていたか、なんて記事も書いた。
2017年9月16日のブログ

 さて、『落語の種あかし』は、中込さんの遺作と言ってよいと思うが、その内容には、落語の原話を探るための、著者の執念のようなものを感じてしまう。

 では、もうじき夏山開きとなる『大山詣り』は、どんなルーツを持っているのか、本書から引用したい。
 さて、落語「大山詣り」の原話だが、他の落語に較べて、これまで諸書に指摘が見られ、広く知られている。その一つ、興津要『日本文学と落語』(1970、桜楓社)の「西鶴と落語」では、典拠を狂言「六人僧」として、これから、井原西鶴の浮世草子『西鶴諸国ばなし』(貞享二年・1685刊)巻一・七「狐四天王」へ、さらに滝亭鯉丈の滑稽本『大山道中膝栗毛』をはさんで、現行の上方落語「百人坊主」・東京落語「大山詣り」へ、という系譜を説明している。他の文献でも一様に、「百人坊主」の出典同様、「大山詣り」の原話を狂言「六人僧」としている。現在考えられるところで最も古い、この種の話柄である「六人僧」から、順に見てゆくことにした。古川久他編『狂言辞典』(東京堂出版)事項編より、その梗概を引用する。
   諸国仏詣を思い立ち、同行二人を誘って旅に出た男(シテ)が、仮にも怒る心など
   持つまいと提案し、互いに誓い合う。途中辻堂で一休みし男が寝入ると、他の二人が
   男の髪の毛を剃り落としてしまう。目をさまし驚くが誓言の手前怒れない男は、このような
   姿では具合が悪いからと一人別れて帰宅し、妻たちを呼び集めると、高野への途中紀ノ川で
   二人が溺れ死んだので、一人残った申し訳なさに僧形になって戻ったと言う。二人の妻は
   夫の菩提を弔おうと尼になるので、男はその髪を高野山へ納めようと再び旅立つ。そして
   高野山で同行の二人に出会うと、三人の仏詣をなじみの女に会いにいったと諫言する者が
   あって、二人は妻のさし違えて死んだと言い、証拠だと髪を見せる。二人は妻のあとを
   弔おうと剃髪する。さて帰郷すると、二組の夫婦は互いの生存を驚き喜び、男に詰め寄る。
   そこへ男の妻も尼になって出てくるので、これも仏の導きであろうと、出家三人・尼三人、
   男女別々に霊場を巡り後世(ごせ)を願おうと、名残りを惜しみ謡留めにする。(三百番)

 ここに引いた文字が示すとおり、ほぼ「大山詣り」の原形が完成されてしまっている。

 狂言に似た話がある、ということは薄々知ってはいたのだが、その内容までは知らなかった。

 中込さんのこの本、一度はざっと読んでいたはずなのだが、狂言の内容までは覚えていなかった。

 中込さんが偉いのは、実に粘り強く、一つの落語ネタのルーツを探ろうとしていること。
 この後、『西鶴諸国ばなし』の「狐四天王」と「お霜月の作り髭」の紹介が続いて、同じく西鶴の浮世草子『懐硯』の「水浴の涙川」の考察もしている。
 しかし、これらの話は、寝ている間に悪戯をする、という点で「六人僧」との類似点はあるものの、仲間の女房までを巻き込んでの復讐ネタとしての趣きはない。

 中込さん、まだまだ負けず(?)、十返舎一九の黄表紙『滑稽しつこなし』(文化二年・1805刊)の挿話に『大山詣り』の原形を見出そうとする。

 この挿話は、神田八丁堀の長屋に住む左次兵衛・太郎兵衛・権兵衛が江の島参詣に行って、という設定だが、ほとんど「六人僧」と同じ筋書き。

 結論として、狂言「六人僧」から着想を得た一九の『滑稽しつこなし』の挿話を母体として、落語「大山詣り」が産声をあげたとする見解を、「大山詣り」成立の主流としたい。
 ところで、一九よりも古い談義本に「六人僧」を生かし、さらに「大山詣り」の趣向にきわめて類似した説話があるので、その粗筋を引いておきたい。滑稽本『俗談唐詩選』(宝暦十三年・1763成立)巻之一「飲中八仙は口頭の交り」がそれである。

 「飲中八仙は口頭の交り」は、江戸橋辺の両替店の主人・知無多屋上戸郎(ちんたやじょうごろう)と酒飲み仲間の他の七人と屋形船に乗って・・・という設定で、上戸郎が髪の毛を剃られた後は、こちらも「六人僧」とほぼ同じ内容。

 『俗談唐詩選』の方が、一九の『滑稽しつこなし』より古いのだが、中込さん、このように書いている。

 これは、『滑稽しつこなし』に先行する、「大山まいり」と同趣向の説話として位置づけられる。ただ、一九と落語との深い関係を考えれば、『俗談唐詩選』から落語への直接的影響について、一九からの影響以上に強く言うわけにはいかないであろう。

 なるほど、十返舎一九と落語との深い関係、か。

 一九のことを、もう少し知りたくなった。

 この後、注記が二頁半続く。
 なにごとも疎かにできない、著者の個性が察せられる。

 「六人僧」から「滑稽しつこない」への飛躍、そして「大山詣り」という傑作落語への発展を知ることは、実に楽しい読書体験だった。

 もちろん、その噺を、多くの名人上手だちが、高座で磨いてきたからこそ、今も、我々が楽しむことができるわけだ。

 音源では、迷うことなく古今亭志ん朝。
 「志ん朝十八番」に、私はこの噺を入れている。
2012年2月3日のブログ

 現役では、多くの噺家さんが演じるが、なかでも春風亭一之輔が出色。

 まさに、この噺の似合う季節になってきたなぁ。

 もう少し、暑さがやわらいだら、寄席か落語会で出会いたいものだ。


 最後に本書の延広真治さんの「あとがき」から、少し引用。

 なお、文中の『会報』は、諸芸懇話会のそれである。

 『会報』二百三十六号(平成十三年十一月刊)に「追悼・古今亭志ん朝」を草して中込君は、悲嘆に打ちひしがれながらも次のように結ぶ。
   やはり、ここで、落語を見捨てるわけにはいかない。だから、精一杯力の限り新しい
   落語家に期待しよう。再び落語の黄金時代の到来が来ることを信じて、その日まで
   生きてゆこう。
 なんと子供たちが、毎朝「寿限無~」を唱える日がやって来たではないか。この寿限無世代が十年たてば木戸銭を持って寄席に通いだす。君の信じたとおり、「黄金時代の到来が来る」(管理人注:“到来が来る”に傍点)のは必至である。どうかその日を中込君、双眼で見定めてくれたまえ。そして傍点部のような表現が本文にも見受けられた場合には、手直ししたことを許してくれたまえ。

 四月二十一日 中込君三十九歳の誕生日に

 追記 四月三十日、中込重明君は白玉楼中の人となりました。奇しくも『明治文芸と薔薇』上梓の日でした。
 
 中込さんは昭和四十年の生まれ。延広さんは昭和十四年生まれなので、二回り以上も上なのだが、あとがきからは、同じ落語という芸を愛する同士としての熱い思いを感じる。

 残念ながら、中込さんの著作は、多いとは言えない。

 本書の内容は、今後も紹介していくつもりだ。

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by kogotokoubei | 2018-07-19 21:18 | 落語のネタ | Comments(0)
 夏の噺のことについて、何気なく矢野誠一さんの本をめくっていて発見(?)があった。

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 その本は『落語長屋の四季の味』。私が持っているのは、平成14(2002)年9月発行の文春文庫だが、初版は、その十年前の平成4(1992)に、『落語食譜』の題で発行された青蛙房版。

 この本の「茗荷」の章から。

 茗 荷

         「・・・・・・だから、あの客に茗荷を喰べさせようじゃないか。
          むやみに忘れるように、おまんまに炊きこんで茗荷飯・・・・・・」
                                    『茗荷宿』
 
 寄席の高座にかけられる演目にも、これで流行りすたりみたいなものがあるらしい。いっときは、のべつ幕なしに出ていた演目が、さっぱりきかれなくなっちゃったなんてことが、よくあるのだ。ついこの間も、落語の好きな何人かが、入船亭扇橋さんをかこんで、あまり世のなかのためになりそうもないはなしに興じていたとき、誰かがぽつりといった。
 「そういえば、近頃『茗荷宿』なんてはなし、きかないね。誰か演る?」
「そうですね。ひと頃は志ん朝さんなんか、よく演ってましたがね」
 と、扇橋さんが答えた。

 えっ、志ん朝の『茗荷宿』!?

 最近では、寄席で桃月庵白酒の十八番、という印象のネタだが、まさか、志ん朝も演っていたんだ。
 
 私が調べた主なホール落語会では、もちろん一席も記録はない。

 本書からあらすじ引用。

 神奈川宿にあった茗荷屋なる料理屋。養子が道楽者で身上をつぶしてしまう。しかたなく宿屋を出したもののあまり流行らない。
 むかしなじみの飛脚屋が、百両の金を帳場へ預けて泊った。この金に目のくらんだ亭主が、眠っている飛脚ののどに出刃包丁を突きつけたとき、女房が乳を突かれた夢で目を覚ます。ことの次第を知った女房は、飛脚に茗荷ばかり食べさせれば、百両の金を置き忘れていくにちがいないと、茗荷づくしの食事を出す。
 うまくことがはこんで、飛脚は預けた百両を忘れて宿を発つ。夫婦が喜んでいるとkろへ、この飛脚が戻ってきて、帳場に百両預けたのを途中で思い出したことを告げ、受けとったうえ再び宿を出る。
「ほら、思い出してしまったじゃねえか」
「怒ったってしょうがないよ。なにかほかに忘れたものはないかい」
「ううん・・・・・・夕べの旅籠銭をもらうのを忘れた」

 白酒のこの噺は、大師匠の十代目馬生を元にしていると思うが、茗荷料理には、白酒らしい楽しいクスグリが満載。
 みそ汁はもちろん、焼き茗荷に、刺身、煮茗荷に茗荷の開き、半熟茗荷だってある。しかし、なぜ天麩羅がないのかと飛脚が聞くと「面倒だから」^^

 この後、矢野さんは茗荷を食べると物忘れする、という言い伝えの由来を説明してくれる。

 釈迦に、周梨槃特(しゅりはんどく)という弟子がいたが、この男、生まれつき物忘れが激しく、自分の名前すら忘れてしまう。心配した釈迦が、彼の名を大書して自分の身につけておくようにと与え、槃特はそれを背に負うて歩いた。やがて世を去った槃特の墓所に、名の知れぬ草が生え出したので、自分の名を背負って歩いた故事にちなんで「茗荷」と名づけられたというのである。

 だから、茗荷を食べると物忘れをする、というのは科学的な根拠は、ない。
 とはいえ、茗荷は高齢者が好むから、そういう言い伝えが信じられてきたのでもあろう。
 たしかに、私も若い頃にはあまり茗荷を好んだわけではなかったが、今は夏場、茗荷の味噌汁などを、とりわけ好むようになった。

 矢野さんも、次のような内容で、この章を締めている。

 いつであったか、街なかで急にビールでとんかつがやりたくなり、手近な店を見つけてとびこんだ。きれいにあがったロースかつに、たっぷりとそえられた例のキャベツの千切りに、なんと茗荷がまぜられている。これがまた、キャベツ独特の甘味に、ほどよいアクセントになって結構なのである。いらい、わが家でも夏場のキャベツの千切りには茗荷を加えることにしているのだが、さて、そのアイディアを教えられたとんかつ屋が、どうしても思い出せないのである。
 茗荷を食べすぎたせいであろうか。

 こういう文章は、矢野さんならでは。

 そうか、キャベツに茗荷か。
 さっそく試してみよう。

 それにしても、志ん朝の『茗荷宿』を寄席で聴きたかったものだ。

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by kogotokoubei | 2018-06-16 14:22 | 落語のネタ | Comments(2)
 今日6月14日は、旧暦五月一日。

 旧暦では、一月~三月が春、四月~六月が夏、七月~九月が秋、十月~十二月が冬、というわかり易い区分だから、まさに、夏の真っ盛りをこれから迎えようとしているわけだ。

 ということで、「夏の噺」について。

 
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麻生芳伸編『落語百選ー夏ー』


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矢野誠一著『落語讀本』(文春文庫)

 秋や冬についても、同じようなことをしているが、麻生芳伸さんの『落語百選ー夏ー』にある二十五のネタについて、矢野誠一さんの『落語讀本』ではどう分類されているか、という比較をしてみる。


  落語百選ー夏ー    落語讀本
(1)出来心        春
(2)道灌         春
(3)狸賽         秋
(4)笠碁         
(5)金明竹        春
(6)鹿政談        秋
(7)しわい屋       春
(8)百川         春
(9)青菜         
(10)一眼国       秋
(11)素人鰻       
(12)二十四孝      
(13)売り声       なし
(14)船徳        
(15)お化け長屋     
(16)たが屋       
(17)夏の医者      
(18)佃祭        
(19)あくび指南     
(20)水屋の富      
(21)紙入れ       秋
(22)千両みかん     
(23)麻のれん      
(24)三年目       秋
(25)唐茄子屋      

 ちなみに、唐茄子屋は唐茄子屋政談のこと。

 二十五席のうち、二つの本で「夏」という分類で合致したのは、十四。

 秋の噺では九、冬の噺で十二だったので、季節がはっきりしているだけ、夏は両著での一致が多いのだろう。

 なお、「売り声」は小咄で、「うどん屋」や「孝行糖」などのマクラでよく使われる短いネタだが、麻生さんは、あえて二十五席の中に加えたのだと思う。

 豆腐や納豆、たまご、大根、牛蒡や金魚などの売り声が楽しめる、好きなネタだ、

 麻生さんの本から、サゲ前の部分をご紹介。

「オーイワシッコオ、オーイワシッコオ」
 と、魚屋が向こう鉢巻で威勢よく売り歩いていると、すぐあとから、
「フルイ、フルイ、フルイー」
「おい、おい、よせやいっ、人の商売へケチをつけるね。てめえ、うしろからつけてきやがって、古い古いってやがら、魚河岸から買い出してきたばっかりで、ぴんぴんしている魚だ。こん畜生っ、おれの鰯が売れねえじゃねえか。もっと裏のほうから行ってやれ」
「そうはいきませんよ。あたしだってこれ商売ですからね。篩屋なんだから。裏のほうなんざだめですよ。やっぱりこれ表通りでなきゃこういう物は買ってくれるところはないんだから。あたしも商売・・・・・・」

 いいでしょう、こういうネタ。

 篩(ふるい)なんて言葉も、死語になりつつあるなぁ。

 サゲは、こうなる。

 魚屋と篩屋と喧嘩になった。そこへ古金屋(ふるがねや)が仲裁に入った。
「お待ち、お待ち、なんだって商人(あきんど)が喧嘩してんだ。どっちも商売だ。出商人が往来で喧嘩すりゃお互いにお得意さまを一軒ずつでも損するじゃないか。あたしが仲人(ちゅうにん)になって仲を扱う、悪いようにはしないから・・・・・・まあ、魚屋さん、おまえさん、先へ立ってやんな、篩屋さんも・・・・・・あたしがそのあとを行くから・・・・・・」
「じゃ、まあお願いします」
「オーイワシッコオッ」
「フルイー、フルイー」
 そのあとから古金屋が、
「フルカネー、フルカネー」

 よく出来ているねぇ。

 芸協には、江戸売り声の宮田章司さんという貴重な色物さんがいる。


 実生活では、売り声で季節を感じることのできない時代。
 せめて、落語だけでも、季節感のある噺を聴かせて欲しい。
 

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by kogotokoubei | 2018-06-14 12:42 | 落語のネタ | Comments(6)

 先日の横浜にぎわい座で、三遊亭円馬の『蒟蒻問答』を聴いた。
 
 この噺は、瀧川鯉昇をはじめ、何度も聴いている。

 永平寺の雲水、沙弥托善と蒟蒻屋の六兵衛との問答があの噺の中核。

 托善の問いに答えない六兵衛を見て、托善は「無言の行」と思い、手を使って問う。
 沙弥托善が出した問いと、彼が六兵衛の答えを勘違いした内容は、仏教用語なのだが、いったいどんな意味なのか。

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関山和夫著『落語風俗帳』(白水Uブックス)

 関山和夫著『落語風俗帳』から、引用。

 まず、噺のその問答と托善の誤解、六兵衛の言い分の部分を引用。

 托善は、両手の人さし指と親指で丸い形を作って示す。六兵衛が両手で大きな輪を作ると托善は平伏する。ついで托善が十本の指を出すと六兵衛は五本の指を出す。托善は、また平伏し、指を三本出すと六兵衛は右の人差し指を目の下に当てる。托善は、あわてて逃げ出す。八五郎が追いかけて聞くと、
「大和尚のご胸中はとおたずねいたしましたるところ、大海のごとしとのお答え。二度目に十方世界はときけば、五戒で保つ。三尊の弥陀は、と聞けば、目の下にありとのお答え、とうてい及ぶところではございません」
 一方、六兵衛は怒って、
「なぜ坊主を逃がした。あいつは、おれの商売を知ってやがって、手前(てめい)んとこのこんにゃくは、これっばかりだって小さな丸をこしらえたから、こんなに大きいぞと両手で輪をこしらえたところ、十でいくらだって値をきいた。少し高いが五百文だといったら、しみったれな坊主よ、三百文にまけろてえから、赤んべえをしたやったんだ」

 よく出来た噺だなぁ、と思うが、では「十方世界」とか「五戒」、「三尊の弥陀」って何だ、という疑問が浮かぶ。

 あらためて、引用。

 仕草で落とす(サゲる)技巧は落語として申しぶんのない卓抜なものである。禅問答を熟知していることや「無言の行」「十方世界(インド仏教以来、方角を東・西・南・北の四方に東南・西南・西北・東北を加えた八方、さらに上・下を加えた十方を説く。十方世界、十方諸仏などは十方で全体を代表させる表現である」「五戒(在家信者のために制せられた戒。不殺生(ふせっしょう)戒・不偸盗(ふちゅうとう)戒・不邪淫(ふじゃいん)戒・不妄語(ふもうご)戒・不飲酒(ふおんじゅ)戒)で保つ」「三尊の弥陀(中尊は阿弥陀仏、左右の脇侍は観世音菩薩と勢至菩薩)」「目の下にあり」という専門用語の扱い方に仏教落語の真価を見ることができる。

 最後の「目の下」は、仏教は自分の足元にある、という意味のようだ。

 『野ざらし』とともに、托善正蔵と言われた二代目林屋正蔵による傑作も、こういう内容を知っていると、もっと高座を楽しめるように思う。

 
 落語って、ためになるんだよねぇ。

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by kogotokoubei | 2018-05-08 12:27 | 落語のネタ | Comments(0)
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矢野誠一_落語歳時記
 今日二月十八日は、旧暦の正月三日。

 旬の噺、『蔵前駕籠』のことを矢野誠一さんの『落語歳時記』で読んでいて、関連した逸話に目が止まった。

 幕末のある正月の出来事、という噺。
 まず、この本の冒頭部分を、ご紹介。

 三日 無精ひげさまになりたる三日かな

蔵前駕籠(くらまえかご)

    慶応四年という年は、不思議な年で、正月の三日から鳥羽と伏見の
    戦いが始まりました。
      *
 物情騒然という言葉があるが、三百年の歴史を誇った徳川幕府が、いまや瓦解しようという時期の江戸市中などまさにそれであろう。とくに慶応四年(明治元年)の正月は、お屠蘇気分も抜けない三日に、「鳥羽伏見の戦い」が始まったのだから、これはたいへんなことであった。林家正蔵(彦六)の十八番として知られ、古今亭志ん生の飄逸味がなつかしい『蔵前駕籠』は、小品ながら優れた落語感覚の横溢した、洒落たはなしだが、この騒然たる江戸が背景になっている。

 この後、あらすじが説明されている。

 ご存知のように、当時、吉原通いの駕籠を蔵前通りで止めて追剥を働く者がいた。
 由緒あって徳川家へお味方する浪士と名乗り、軍用金が不足しているから、という理屈で駕籠の客の身ぐるみ脱がす、という事件が勃発した。
 駕籠屋も、だから吉原方面には夕方以降は駕籠を出さない。
 しかし、世の中には「女郎買いの決死隊」がいて、無理を言って吉原まで乗ったのだが・・・という筋書き。

 矢野さんの本では、この章の後半、ある小説家の逸話が紹介されていた。

 江藤淳による『漱石とその時代』(新潮社)の冒頭は、夏目漱石が生まれた慶応三年(1867)年の、ということは、『蔵前駕籠』の背景になっている時代の、江戸のありさまがかなり克明に書かれていて興味ぶかい。面白いことに、漱石の生家に、この頃流行りの強盗がおしいっていて、江藤淳はこう書いている。
  「牛込馬場下の夏目小兵衛の家に、軍用金調達と称する抜身をひっ下げた黒装束の八人
  組が押し入って、五十両あまりの小判を強奪して行ったのはこの頃のことである。幕府
  は旗本に命じて諸隊を編成させ、市中の巡回にあたらせたがあまり効果がなかった。警
  察力に期待できないことを知った夏目家では、それ以来柱を切り組にしてその中に有り
  金を隠すことにした」
 まったく駕籠屋と同じ被害にあっているわけで、黒装束の八人組などというのも『蔵前駕籠』をほうふつさせる。
 のちには、正岡子規と連れだって、さかんに寄席通いをするようになり、その作品に、落語からの影響が少なからず認められる漱石だけに、『蔵前駕籠』に接していないはずはなく、自分の生まれた年に生家で起こった事件と落語とのつながりにどんなものが去来したか、文豪の胸のうち、興味ぶかくもある。

 へぇ、蔵前駕籠に登場するような物騒な連中が、なんと漱石の生家を襲っていたんだねぇ。

 矢野誠一さんが『落語讀本』で明かしていることだが、実は、漱石自身が作品に、この強盗騒ぎのことを書いている。
 青空文庫の『硝子戸の中』から、引用する。
青空文庫「硝子戸の中」(夏目漱石著)
ついこの間昔私の家へ泥棒の入った時の話を比較的詳く聞いた。
 姉がまだ二人とも嫁かたづかずにいた時分の事だというから、年代にすると、多分私の生れる前後に当るのだろう、何しろ勤王とか佐幕とかいう荒々しい言葉の流行たやかましい頃なのである。
 ある夜一番目の姉が、夜中に小用に起きた後、手を洗うために、潜戸を開けると、狭い中庭の隅に、壁を圧るような勢いで立っている梅の古木の根方が、かっと明るく見えた。姉は思慮をめぐらす暇もないうちに、すぐ潜戸を締めてしまったが、締めたあとで、今目前に見た不思議な明るさをそこに立ちながら考えたのである。
 私の幼心に映ったこの姉の顔は、いまだに思い起そうとすれば、いつでも眼の前に浮ぶくらい鮮やかである。しかしその幻像はすでに嫁に行って歯を染めたあとの姿であるから、その時縁側に立って考えていた娘盛りの彼女を、今胸のうちに描き出す事はちょっと困難である。
 広い額、浅黒い皮膚、小さいけれども明確はっきりした輪廓を具えている鼻、人並より大きい二重瞼の眼、それから御沢という優しい名、――私はただこれらを綜合して、その場合における姉の姿を想像するだけである。
 しばらく立ったまま考えていた彼女の頭に、この時もしかすると火事じゃないかという懸念が起った。それで彼女は思い切ってまた切戸を開けて外を覗こうとする途端に、一本の光る抜身が、闇の中から、四角に切った潜戸の中へすうと出た。姉は驚いて身を後へ退いた。その隙に、覆面をした、龕灯提灯を提さげた男が、抜刀のまま、小さい潜戸から大勢家の中へ入って来たのだそうである。泥棒の人数はたしか八人とか聞いた。
 彼らは、他を殺めるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、その代り軍用金を借かせと云って、父に迫った。父はないと断った。しかし泥棒はなかなか承知しなかった。今角の小倉屋という酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動かなかった。父は不精無性に、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。彼らは金額があまり少な過ぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい」と忠告した。その紙入の中には五十両ばかりあったとかいう話である。
 泥棒が出て行ったあとで、「余計な事をいう女だ」と云って、父は母を叱りつけたそうである。その事があって以来、私の家では柱を切り組くみにして、その中へあり金を隠す方法を講じたが、隠すほどの財産もできず、また黒装束を着けた泥棒も、それぎり来ないので、私の生長する時分には、どれが切組にしてある柱かまるで分らなくなっていた。
 泥棒が出て行く時、「この家は大変締まりの好い宅だ」と云って賞めたそうだが、その締りの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日から擦傷がいくつとなくできた。これは金はありませんと断わるたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと云っては、抜身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしても宅にはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情を張り通して、とうとう金は一文も奪られずにしまった。
 私はこの話を妻から聞いた。妻はまたそれを私の兄から茶受話ちゃうけばなしに聞いたのである。

 江藤淳も、この作品から知ったことだったのだろう、きっと。

 漱石の父と母のやりとりは、結構、可笑しい。

 また、小倉屋の半兵衛さんが、なんとも可愛そうだ。

 その時のご当人たちは、文字通り必死だったとは思うが、こういう後日談になると、つい笑ってしまう。

 それにしても、漱石は、この話、直接親兄弟から聞いたのではなかったんだ。

 ほぼ漱石が生まれた頃の夏目家の一大事件だったはず。
 普通の家なら、親子、兄弟姉妹で、「徳川様の終わる頃、おまえが生まれる前に、大変なことがあったんだよ」などと聞いていても不思議のないことなのだが。

 実は、夏目金之助(漱石の本名)は、波乱の幼少期を送っている。

 生後すぐに里子に出されたり、八歳で養子に出されたりしていたからね。
 実父と養父の中が悪く、夏目家に復籍したのは、二十一歳の時だ。

 だから、大好きな落語の『蔵前駕籠』のような強盗が生家に押し入ったということを、長らく肉親から聞くことはなく、妻から兄の話として伝達されたということなのだろう。

 『蔵前駕籠』のことを矢野さんの本で読んで夏目家の事件を知り、そこから漱石の書まで辿って行った結果、夏目金之助の幼少期の寂しさに思いがいたることになった。

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by kogotokoubei | 2018-02-18 17:11 | 落語のネタ | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛