噺の話

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カテゴリ:落語のネタ( 107 )

 夏の噺のことについて、何気なく矢野誠一さんの本をめくっていて発見(?)があった。

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 その本は『落語長屋の四季の味』。私が持っているのは、平成14(2002)年9月発行の文春文庫だが、初版は、その十年前の平成4(1992)に、『落語食譜』の題で発行された青蛙房版。

 この本の「茗荷」の章から。

 茗 荷

         「・・・・・・だから、あの客に茗荷を喰べさせようじゃないか。
          むやみに忘れるように、おまんまに炊きこんで茗荷飯・・・・・・」
                                    『茗荷宿』
 
 寄席の高座にかけられる演目にも、これで流行りすたりみたいなものがあるらしい。いっときは、のべつ幕なしに出ていた演目が、さっぱりきかれなくなっちゃったなんてことが、よくあるのだ。ついこの間も、落語の好きな何人かが、入船亭扇橋さんをかこんで、あまり世のなかのためになりそうもないはなしに興じていたとき、誰かがぽつりといった。
 「そういえば、近頃『茗荷宿』なんてはなし、きかないね。誰か演る?」
「そうですね。ひと頃は志ん朝さんなんか、よく演ってましたがね」
 と、扇橋さんが答えた。

 えっ、志ん朝の『茗荷宿』!?

 最近では、寄席で桃月庵白酒の十八番、という印象のネタだが、まさか、志ん朝も演っていたんだ。
 
 私が調べた主なホール落語会では、もちろん一席も記録はない。

 本書からあらすじ引用。

 神奈川宿にあった茗荷屋なる料理屋。養子が道楽者で身上をつぶしてしまう。しかたなく宿屋を出したもののあまり流行らない。
 むかしなじみの飛脚屋が、百両の金を帳場へ預けて泊った。この金に目のくらんだ亭主が、眠っている飛脚ののどに出刃包丁を突きつけたとき、女房が乳を突かれた夢で目を覚ます。ことの次第を知った女房は、飛脚に茗荷ばかり食べさせれば、百両の金を置き忘れていくにちがいないと、茗荷づくしの食事を出す。
 うまくことがはこんで、飛脚は預けた百両を忘れて宿を発つ。夫婦が喜んでいるとkろへ、この飛脚が戻ってきて、帳場に百両預けたのを途中で思い出したことを告げ、受けとったうえ再び宿を出る。
「ほら、思い出してしまったじゃねえか」
「怒ったってしょうがないよ。なにかほかに忘れたものはないかい」
「ううん・・・・・・夕べの旅籠銭をもらうのを忘れた」

 白酒のこの噺は、大師匠の十代目馬生を元にしていると思うが、茗荷料理には、白酒らしい楽しいクスグリが満載。
 みそ汁はもちろん、焼き茗荷に、刺身、煮茗荷に茗荷の開き、半熟茗荷だってある。しかし、なぜ天麩羅がないのかと飛脚が聞くと「面倒だから」^^

 この後、矢野さんは茗荷を食べると物忘れする、という言い伝えの由来を説明してくれる。

 釈迦に、周梨槃特(しゅりはんどく)という弟子がいたが、この男、生まれつき物忘れが激しく、自分の名前すら忘れてしまう。心配した釈迦が、彼の名を大書して自分の身につけておくようにと与え、槃特はそれを背に負うて歩いた。やがて世を去った槃特の墓所に、名の知れぬ草が生え出したので、自分の名を背負って歩いた故事にちなんで「茗荷」と名づけられたというのである。

 だから、茗荷を食べると物忘れをする、というのは科学的な根拠は、ない。
 とはいえ、茗荷は高齢者が好むから、そういう言い伝えが信じられてきたのでもあろう。
 たしかに、私も若い頃にはあまり茗荷を好んだわけではなかったが、今は夏場、茗荷の味噌汁などを、とりわけ好むようになった。

 矢野さんも、次のような内容で、この章を締めている。

 いつであったか、街なかで急にビールでとんかつがやりたくなり、手近な店を見つけてとびこんだ。きれいにあがったロースかつに、たっぷりとそえられた例のキャベツの千切りに、なんと茗荷がまぜられている。これがまた、キャベツ独特の甘味に、ほどよいアクセントになって結構なのである。いらい、わが家でも夏場のキャベツの千切りには茗荷を加えることにしているのだが、さて、そのアイディアを教えられたとんかつ屋が、どうしても思い出せないのである。
 茗荷を食べすぎたせいであろうか。

 こういう文章は、矢野さんならでは。

 そうか、キャベツに茗荷か。
 さっそく試してみよう。

 それにしても、志ん朝の『茗荷宿』を寄席で聴きたかったものだ。

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by kogotokoubei | 2018-06-16 14:22 | 落語のネタ | Comments(2)
 今日6月14日は、旧暦五月一日。

 旧暦では、一月~三月が春、四月~六月が夏、七月~九月が秋、十月~十二月が冬、というわかり易い区分だから、まさに、夏の真っ盛りをこれから迎えようとしているわけだ。

 ということで、「夏の噺」について。

 
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麻生芳伸編『落語百選ー夏ー』


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矢野誠一著『落語讀本』(文春文庫)

 秋や冬についても、同じようなことをしているが、麻生芳伸さんの『落語百選ー夏ー』にある二十五のネタについて、矢野誠一さんの『落語讀本』ではどう分類されているか、という比較をしてみる。


  落語百選ー夏ー    落語讀本
(1)出来心        春
(2)道灌         春
(3)狸賽         秋
(4)笠碁         
(5)金明竹        春
(6)鹿政談        秋
(7)しわい屋       春
(8)百川         春
(9)青菜         
(10)一眼国       秋
(11)素人鰻       
(12)二十四孝      
(13)売り声       なし
(14)船徳        
(15)お化け長屋     
(16)たが屋       
(17)夏の医者      
(18)佃祭        
(19)あくび指南     
(20)水屋の富      
(21)紙入れ       秋
(22)千両みかん     
(23)麻のれん      
(24)三年目       秋
(25)唐茄子屋      

 ちなみに、唐茄子屋は唐茄子屋政談のこと。

 二十五席のうち、二つの本で「夏」という分類で合致したのは、十四。

 秋の噺では九、冬の噺で十二だったので、季節がはっきりしているだけ、夏は両著での一致が多いのだろう。

 なお、「売り声」は小咄で、「うどん屋」や「孝行糖」などのマクラでよく使われる短いネタだが、麻生さんは、あえて二十五席の中に加えたのだと思う。

 豆腐や納豆、たまご、大根、牛蒡や金魚などの売り声が楽しめる、好きなネタだ、

 麻生さんの本から、サゲ前の部分をご紹介。

「オーイワシッコオ、オーイワシッコオ」
 と、魚屋が向こう鉢巻で威勢よく売り歩いていると、すぐあとから、
「フルイ、フルイ、フルイー」
「おい、おい、よせやいっ、人の商売へケチをつけるね。てめえ、うしろからつけてきやがって、古い古いってやがら、魚河岸から買い出してきたばっかりで、ぴんぴんしている魚だ。こん畜生っ、おれの鰯が売れねえじゃねえか。もっと裏のほうから行ってやれ」
「そうはいきませんよ。あたしだってこれ商売ですからね。篩屋なんだから。裏のほうなんざだめですよ。やっぱりこれ表通りでなきゃこういう物は買ってくれるところはないんだから。あたしも商売・・・・・・」

 いいでしょう、こういうネタ。

 篩(ふるい)なんて言葉も、死語になりつつあるなぁ。

 サゲは、こうなる。

 魚屋と篩屋と喧嘩になった。そこへ古金屋(ふるがねや)が仲裁に入った。
「お待ち、お待ち、なんだって商人(あきんど)が喧嘩してんだ。どっちも商売だ。出商人が往来で喧嘩すりゃお互いにお得意さまを一軒ずつでも損するじゃないか。あたしが仲人(ちゅうにん)になって仲を扱う、悪いようにはしないから・・・・・・まあ、魚屋さん、おまえさん、先へ立ってやんな、篩屋さんも・・・・・・あたしがそのあとを行くから・・・・・・」
「じゃ、まあお願いします」
「オーイワシッコオッ」
「フルイー、フルイー」
 そのあとから古金屋が、
「フルカネー、フルカネー」

 よく出来ているねぇ。

 芸協には、江戸売り声の宮田章司さんという貴重な色物さんがいる。


 実生活では、売り声で季節を感じることのできない時代。
 せめて、落語だけでも、季節感のある噺を聴かせて欲しい。
 

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by kogotokoubei | 2018-06-14 12:42 | 落語のネタ | Comments(6)

 先日の横浜にぎわい座で、三遊亭円馬の『蒟蒻問答』を聴いた。
 
 この噺は、瀧川鯉昇をはじめ、何度も聴いている。

 永平寺の雲水、沙弥托善と蒟蒻屋の六兵衛との問答があの噺の中核。

 托善の問いに答えない六兵衛を見て、托善は「無言の行」と思い、手を使って問う。
 沙弥托善が出した問いと、彼が六兵衛の答えを勘違いした内容は、仏教用語なのだが、いったいどんな意味なのか。

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関山和夫著『落語風俗帳』(白水Uブックス)

 関山和夫著『落語風俗帳』から、引用。

 まず、噺のその問答と托善の誤解、六兵衛の言い分の部分を引用。

 托善は、両手の人さし指と親指で丸い形を作って示す。六兵衛が両手で大きな輪を作ると托善は平伏する。ついで托善が十本の指を出すと六兵衛は五本の指を出す。托善は、また平伏し、指を三本出すと六兵衛は右の人差し指を目の下に当てる。托善は、あわてて逃げ出す。八五郎が追いかけて聞くと、
「大和尚のご胸中はとおたずねいたしましたるところ、大海のごとしとのお答え。二度目に十方世界はときけば、五戒で保つ。三尊の弥陀は、と聞けば、目の下にありとのお答え、とうてい及ぶところではございません」
 一方、六兵衛は怒って、
「なぜ坊主を逃がした。あいつは、おれの商売を知ってやがって、手前(てめい)んとこのこんにゃくは、これっばかりだって小さな丸をこしらえたから、こんなに大きいぞと両手で輪をこしらえたところ、十でいくらだって値をきいた。少し高いが五百文だといったら、しみったれな坊主よ、三百文にまけろてえから、赤んべえをしたやったんだ」

 よく出来た噺だなぁ、と思うが、では「十方世界」とか「五戒」、「三尊の弥陀」って何だ、という疑問が浮かぶ。

 あらためて、引用。

 仕草で落とす(サゲる)技巧は落語として申しぶんのない卓抜なものである。禅問答を熟知していることや「無言の行」「十方世界(インド仏教以来、方角を東・西・南・北の四方に東南・西南・西北・東北を加えた八方、さらに上・下を加えた十方を説く。十方世界、十方諸仏などは十方で全体を代表させる表現である」「五戒(在家信者のために制せられた戒。不殺生(ふせっしょう)戒・不偸盗(ふちゅうとう)戒・不邪淫(ふじゃいん)戒・不妄語(ふもうご)戒・不飲酒(ふおんじゅ)戒)で保つ」「三尊の弥陀(中尊は阿弥陀仏、左右の脇侍は観世音菩薩と勢至菩薩)」「目の下にあり」という専門用語の扱い方に仏教落語の真価を見ることができる。

 最後の「目の下」は、仏教は自分の足元にある、という意味のようだ。

 『野ざらし』とともに、托善正蔵と言われた二代目林屋正蔵による傑作も、こういう内容を知っていると、もっと高座を楽しめるように思う。

 
 落語って、ためになるんだよねぇ。

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by kogotokoubei | 2018-05-08 12:27 | 落語のネタ | Comments(0)
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矢野誠一_落語歳時記
 今日二月十八日は、旧暦の正月三日。

 旬の噺、『蔵前駕籠』のことを矢野誠一さんの『落語歳時記』で読んでいて、関連した逸話に目が止まった。

 幕末のある正月の出来事、という噺。
 まず、この本の冒頭部分を、ご紹介。

 三日 無精ひげさまになりたる三日かな

蔵前駕籠(くらまえかご)

    慶応四年という年は、不思議な年で、正月の三日から鳥羽と伏見の
    戦いが始まりました。
      *
 物情騒然という言葉があるが、三百年の歴史を誇った徳川幕府が、いまや瓦解しようという時期の江戸市中などまさにそれであろう。とくに慶応四年(明治元年)の正月は、お屠蘇気分も抜けない三日に、「鳥羽伏見の戦い」が始まったのだから、これはたいへんなことであった。林家正蔵(彦六)の十八番として知られ、古今亭志ん生の飄逸味がなつかしい『蔵前駕籠』は、小品ながら優れた落語感覚の横溢した、洒落たはなしだが、この騒然たる江戸が背景になっている。

 この後、あらすじが説明されている。

 ご存知のように、当時、吉原通いの駕籠を蔵前通りで止めて追剥を働く者がいた。
 由緒あって徳川家へお味方する浪士と名乗り、軍用金が不足しているから、という理屈で駕籠の客の身ぐるみ脱がす、という事件が勃発した。
 駕籠屋も、だから吉原方面には夕方以降は駕籠を出さない。
 しかし、世の中には「女郎買いの決死隊」がいて、無理を言って吉原まで乗ったのだが・・・という筋書き。

 矢野さんの本では、この章の後半、ある小説家の逸話が紹介されていた。

 江藤淳による『漱石とその時代』(新潮社)の冒頭は、夏目漱石が生まれた慶応三年(1867)年の、ということは、『蔵前駕籠』の背景になっている時代の、江戸のありさまがかなり克明に書かれていて興味ぶかい。面白いことに、漱石の生家に、この頃流行りの強盗がおしいっていて、江藤淳はこう書いている。
  「牛込馬場下の夏目小兵衛の家に、軍用金調達と称する抜身をひっ下げた黒装束の八人
  組が押し入って、五十両あまりの小判を強奪して行ったのはこの頃のことである。幕府
  は旗本に命じて諸隊を編成させ、市中の巡回にあたらせたがあまり効果がなかった。警
  察力に期待できないことを知った夏目家では、それ以来柱を切り組にしてその中に有り
  金を隠すことにした」
 まったく駕籠屋と同じ被害にあっているわけで、黒装束の八人組などというのも『蔵前駕籠』をほうふつさせる。
 のちには、正岡子規と連れだって、さかんに寄席通いをするようになり、その作品に、落語からの影響が少なからず認められる漱石だけに、『蔵前駕籠』に接していないはずはなく、自分の生まれた年に生家で起こった事件と落語とのつながりにどんなものが去来したか、文豪の胸のうち、興味ぶかくもある。

 へぇ、蔵前駕籠に登場するような物騒な連中が、なんと漱石の生家を襲っていたんだねぇ。

 矢野誠一さんが『落語讀本』で明かしていることだが、実は、漱石自身が作品に、この強盗騒ぎのことを書いている。
 青空文庫の『硝子戸の中』から、引用する。
青空文庫「硝子戸の中」(夏目漱石著)
ついこの間昔私の家へ泥棒の入った時の話を比較的詳く聞いた。
 姉がまだ二人とも嫁かたづかずにいた時分の事だというから、年代にすると、多分私の生れる前後に当るのだろう、何しろ勤王とか佐幕とかいう荒々しい言葉の流行たやかましい頃なのである。
 ある夜一番目の姉が、夜中に小用に起きた後、手を洗うために、潜戸を開けると、狭い中庭の隅に、壁を圧るような勢いで立っている梅の古木の根方が、かっと明るく見えた。姉は思慮をめぐらす暇もないうちに、すぐ潜戸を締めてしまったが、締めたあとで、今目前に見た不思議な明るさをそこに立ちながら考えたのである。
 私の幼心に映ったこの姉の顔は、いまだに思い起そうとすれば、いつでも眼の前に浮ぶくらい鮮やかである。しかしその幻像はすでに嫁に行って歯を染めたあとの姿であるから、その時縁側に立って考えていた娘盛りの彼女を、今胸のうちに描き出す事はちょっと困難である。
 広い額、浅黒い皮膚、小さいけれども明確はっきりした輪廓を具えている鼻、人並より大きい二重瞼の眼、それから御沢という優しい名、――私はただこれらを綜合して、その場合における姉の姿を想像するだけである。
 しばらく立ったまま考えていた彼女の頭に、この時もしかすると火事じゃないかという懸念が起った。それで彼女は思い切ってまた切戸を開けて外を覗こうとする途端に、一本の光る抜身が、闇の中から、四角に切った潜戸の中へすうと出た。姉は驚いて身を後へ退いた。その隙に、覆面をした、龕灯提灯を提さげた男が、抜刀のまま、小さい潜戸から大勢家の中へ入って来たのだそうである。泥棒の人数はたしか八人とか聞いた。
 彼らは、他を殺めるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、その代り軍用金を借かせと云って、父に迫った。父はないと断った。しかし泥棒はなかなか承知しなかった。今角の小倉屋という酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動かなかった。父は不精無性に、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。彼らは金額があまり少な過ぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい」と忠告した。その紙入の中には五十両ばかりあったとかいう話である。
 泥棒が出て行ったあとで、「余計な事をいう女だ」と云って、父は母を叱りつけたそうである。その事があって以来、私の家では柱を切り組くみにして、その中へあり金を隠す方法を講じたが、隠すほどの財産もできず、また黒装束を着けた泥棒も、それぎり来ないので、私の生長する時分には、どれが切組にしてある柱かまるで分らなくなっていた。
 泥棒が出て行く時、「この家は大変締まりの好い宅だ」と云って賞めたそうだが、その締りの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日から擦傷がいくつとなくできた。これは金はありませんと断わるたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと云っては、抜身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしても宅にはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情を張り通して、とうとう金は一文も奪られずにしまった。
 私はこの話を妻から聞いた。妻はまたそれを私の兄から茶受話ちゃうけばなしに聞いたのである。

 江藤淳も、この作品から知ったことだったのだろう、きっと。

 漱石の父と母のやりとりは、結構、可笑しい。

 また、小倉屋の半兵衛さんが、なんとも可愛そうだ。

 その時のご当人たちは、文字通り必死だったとは思うが、こういう後日談になると、つい笑ってしまう。

 それにしても、漱石は、この話、直接親兄弟から聞いたのではなかったんだ。

 ほぼ漱石が生まれた頃の夏目家の一大事件だったはず。
 普通の家なら、親子、兄弟姉妹で、「徳川様の終わる頃、おまえが生まれる前に、大変なことがあったんだよ」などと聞いていても不思議のないことなのだが。

 実は、夏目金之助(漱石の本名)は、波乱の幼少期を送っている。

 生後すぐに里子に出されたり、八歳で養子に出されたりしていたからね。
 実父と養父の中が悪く、夏目家に復籍したのは、二十一歳の時だ。

 だから、大好きな落語の『蔵前駕籠』のような強盗が生家に押し入ったということを、長らく肉親から聞くことはなく、妻から兄の話として伝達されたということなのだろう。

 『蔵前駕籠』のことを矢野さんの本で読んで夏目家の事件を知り、そこから漱石の書まで辿って行った結果、夏目金之助の幼少期の寂しさに思いがいたることになった。

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by kogotokoubei | 2018-02-18 17:11 | 落語のネタ | Comments(0)
 先日、三遊亭兼好の『品川心中』の通しを聴いて、その舞台である品川のことやサゲのことなど、いろいろと思うことがあった。

 まず、兼好がマクラでふった「品川の客 ニンベンありとなし」の川柳のこと。

 この“あり”は「侍」、“なし”は、「寺」。

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 日本近代史研究家、西山松之助の対談集『江戸っ子と江戸文化』(小学館創造選書)は、昭和57(1982)年に発行された本。
 以前、下町とはどこなのか、ということについて、引用したことがある。
2015年6月23日の該当ブログ
 紹介したのは、「第一章 江戸っ子のくらし」、池田弥三郎さんとの対談だった。

 江戸時代史専攻の竹内誠との対談の章「廓の悪所と出会い茶屋」に、品川のことで、次のように紹介されている。

竹内 いわゆる四宿といわれる内藤新宿・板橋・品川・千住などには、江戸からだけではなく、周辺の農村からも遊びにくる連中がいたようですよ。四宿は、ちょうど農村との接点になりますからね。
西山 それはいたでしょうね。品川の場合などは「品川の儲け七分は芝の金」といわれたように、増上寺からあのあたりにかけて寺がいっぱいありましたし、また増上寺のお坊さんの数はいまと違って莫大なものでしたからね。坊さんはいちおう品行方正を建前としてはいますけれど、じっさいは、むかしから坊さんはなまぐさいものと決まっている。だから、彼らはよく品川へ出かけていったようですよ。
竹内 品川にはもう一つ薩摩の藩邸がありますね。
西山 それと 鍋島があります。で、薩摩の紋が丸に十の字で泡盛が有名でしょう。鍋島は抱茗荷なんですが、川柳に「泡盛も茗荷もわっちは好きんせん」というようなのがある(笑)。これはやはり、九州からきた荒武者どもがしょっちゅう品川へいっていた証拠でしょうね。
竹内 いわゆる「浅黄裏」といわれたヤボな田舎武士、そういう人たちが常連だたんでしょうね。

 なるほど、「品川の客 ニンベンありとなし」なわけだ。
 薩摩の浅黄色、で思い出すのは、『棒鱈』。
 あの噺の中で、芸者が薩摩の田舎武士に、「最近、お見限りじゃないですか、品川の方でお遊びと聞いておりますよ」などと言うが、彼らにとって品川は、ホームグラウンドということだね。

 さて、先日の兼好の“通し”の「下」は、通常とは違っていた。
 お染に突き落とされた品川の海で死装束をずぶ濡れにさせ、犬に吠えられながらも親分の家にたどり着いた金蔵。博打の最中での突然の訪問者に慌てる例のドタバタ騒ぎ。親分は金蔵の話を聞き、一同は金蔵がお染に復習するのを手伝うのだが、彼らは金蔵を早桶に乗せて白木屋に連れて行く、という設定。
 この場面で、私は『幕末太陽傳』で金蔵に扮した小沢昭一さんの映像を思い浮かべていた。

 小沢さん扮するアバタの金蔵、“アバ金”のあの姿である^^

 『幕末太陽傳』については、ずいぶん前だが書いている。
 落語を素材にした、川島雄三監督の大傑作。
2012年1月9日のブログ
 
 兼好の「下」は、本人の工夫なのかどうか知らないが、『幕末太陽傳』に影響を受けたのではないか、と思った。

 そして、その改作も悪くないと感じた。

 ただ、サゲにはもう一工夫欲しいように思う。
 この噺や、『居残り佐平次』のサゲは、今では通じにくいので、噺家がいろいろと工夫している。
 兼好のサゲは明かさないが、あの筋書きなら、こんなサゲもあると思う。

親分 金蔵、お染が出てこねぇのなら、お前が乗りこんで脅かしてやれ。
金蔵 あっしが、いえそりゃぁ、できません。
親分 どうしてできねぇんだ。その立派な足があるじゃねぇか。
金蔵 いえいえ、昨日の飲み食いのオアシが、ありません。

 今ひとつか・・・・・・。
 では、こういうのはどう。

親分 金蔵、お染が出てこねぇのなら、お前が乗りこんで脅かしてやれ。
金蔵 へぇ、あの野郎(と言って、お染の部屋へ)
   こら、なんてぇ薄情な女だ!
お染 なんだい、幽霊だって言うけど、オアシがあるじゃないか。
   だったら、昨日の飲み食いの勘定も払っておくれ。
金蔵 えっ(と、驚いて)そっちの、オアシはない。

 どっちも、日光の手前(いまいち)かな。

 今後、別なサゲを思いついたら、ご紹介するつもり。

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by kogotokoubei | 2018-02-16 20:54 | 落語のネタ | Comments(2)
 現在、『子別れ』と言えば、「下」に当たる「子は鎹」を指すと言える。

 寄席では、トリでもなければ、通しはできないし、「子は鎹」なら、それだけで一つの噺として通用するからね。

 筋書きは、ざっとこんな感じ。
(1)吉原の女郎が出て行った後、酒をやめ仕事に精進する熊五郎の元に、
   茶室を普請中のお店(たな)の番頭が訪ねてくる。
(2)番頭によれば、茶室は左官仕事の途中なのだが、主人がせっかちで木口を
   選んで来いと言われ、熊に木場まで付き合ってくれ、とのこと。
(3)お隣に留守をする旨を告げて、番頭と一緒に出かけた熊。
   道すがらの会話となり、番頭が熊に、最初の女房は、いい女性(ひと)だった、
   どうして別れた、などと言うが、熊は自分の非を認めるしかない。
   別れた女房に会いたいか聞かれた熊、女房より、倅の亀のことを思うと、
   つい泣けてくる、と話す。
(4)ちょうどその時、番頭が、亀に似た子が向うから歩いて来る、と熊に告げる。
   熊が「そんなことはない」と注視すると、本当に亀だった。
   番頭は、亀に会って話しておやり、と熊をおいて一人で木場へ向かう。
(5)三年ぶりの親子の対面。
   亀によると、女房は再婚せず、針仕事や洗い物の手伝いなどをして生計を
   立てているとのこと。
   時折、熊の話になり、「お父っつァんは悪い人じゃない、悪いのは、お酒だ」
   と言っていると聞く。
   熊は、女郎は追い出して、それからは酒もやめて仕事に精進している、と告げる。
   亀が近所のお金持ちの子にいじめられて額に疵をつくっていることから、熊の
   胸には、申し訳ない思いが募る。
   熊は小遣を渡し、鰻屋で明日の今頃また会って、うなぎを食べようと約束し、
   亀は喜んで帰る。
(6)亀が帰ると、ちょうど糸が届いたから、糸巻を手伝ってくれ、と母に言われ、
   熊からもらった五十銭を握りしめたままで腕を差し出した亀だが、ついその手
   の中から五十銭が転げ落ちた。
   そのお金はどうした、と聞く母親に、「知らないおじさんから、もらった」
   と熊と約束した科白を繰り返す亀。母は、亀が家を出る時に持ち出した熊の
   大工道具の玄能を持ち出し、「本当のことを言わないと、この玄能でぶつよ。
   これは、お父っつァがぶつのと同じだよ」と涙ながらに言うと、亀もつい、
   熊にもらったことを白状。
(7)翌日、鰻屋に行く亀を送り出した母親は、落ち着かず、自分も鰻屋へ。
   亀が、「お母っつァんもおいでよ」と二人を引き合わせる。亀に、また
   三人で暮らそうよとせがまれた熊、女房に頭を下げて、よりを戻してくれ、
   と頼み、女房も受諾。
   その女房が「子はかすがいって言うけど、本当だねぇ」の言葉に亀が、
   「鎹、あっ、それでお母っつァんが玄能でぶつって言ったんだ」で、サゲ。

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 聞かせどころは、やはり熊と亀の三年ぶりの対面シーンだろう。

 榎本滋民さんは、『落語小劇場』で、次のように書いている。

 熊五郎の最初に発した質問が、あとからできたお父っつァんはかわいがってくれるかということであるのは、いかにも人情ばなしらしい人間描写の妙味で、この男の昨今の心境が端的に表われているが、一笑に付される。
「子どもが先にできて親があとからできるなんてことがあるかい」
 昔の寄席はちゃんとした性教育の場だった。
 お住はこの先の荒物屋と豆腐屋のあいだを入った路地の奥で、賃縫いの針仕事をしながら亀吉を養っているという。なるほど、亀の絣の着物は洗いざらしながら見すぼらしくはない。
 しかも、近所の人の再縁のすすめには、亭主はあの飲んだくれでこりごりだと女やもめに花を咲かせず、亀吉に対しては、屋敷奉公をしていたころ出入り大工の熊五郎が半襟や前掛けを買ってくれた馴れそめを語って聞かせ、酒で魔がさしたけれどもほんとはいい人なのだといっているらしいのである。
「へへ、おっ母さん、だいぶお父っつァんに未練があらあ」 
 こまっちゃくれた口のききようのおかしさで親子対面のぎこちない緊張をほぐしてから、演者は子どもの額の傷の一件で急にしんみりとさせる。

 亀の年齢は、演者それぞれで違う。
 小三治の音源では、九歳。
 榎本さんも、八つか九つぐらいがいい、と書かれている。
 さん喬は、年齢を明確にしていないが、学校へ通う年になった、としている。
 ちなみに、大須の志ん朝の音源では、七つだ。
 
 さて、額の傷のことについて、引用を続ける。
 榎本さんの、この噺に関する、熱い思いの伝わる文章が最後に登場する。

 傷は独楽回しの勝負判定で対立した大家(たいけ)の坊ちゃんに独楽の芯でぶたれたもので、泣いて帰ったときは、いくら男親のない子だってこんなことされて黙っていられないとお住は大いに怒ったが、相手の名前をいったら急に勢いをなくして、あそこからはよくお仕事も坊ちゃんの古着もいただいているから、遊びのけんかぐらいで気まずくなっては親子二人路頭に迷うから、痛くても我慢しろとさとした。
 ぼくはこのくだりでいつもじいんとくる。親子ドラマのお涙頂戴は大きらいだが、貧乏の悲しさ、くやしさがこたえるのである。こうした体験によって、昔の貧乏人の子は世間のむごたらしい仕組みを覚え、それにつぶされずに生きる力を鍛えて行った。長編『子別れ』を名作たらしめている眼目はこの社会性にある。ここがなければ、ただの笑いと涙の封建道徳教科書に堕してしまうとまで、ぼくは極言したい。
 たしかに、分かっていても、この場面を芸達者な演者に語られると、私の涙腺もゆるくなるなぁ。
 榎本さんが説く、落語の社会性、という言葉は結構重要だと思う。
 その時代背景や、その社会に生きた庶民の生活を反映しているということ、そして、その人間の心情や営みの本質のところは時代を超えても変わらないものがあるからこそ、落語は長く生き残っているのであって、そうじゃなければ、とうに博物館入りだったことだろう。

 そして、この『子別れ』は、「上」では大いに笑わせ、「中」では女房に感情移入して怒らせ、「下」では聴く者を泣かせる、という見事な舞台転換が計られている。
 「下」には、もう一つ大きな、泣き、の場面がある。
 亀が帰宅してから、お父っつァんに貰った五十銭の小遣を、母親が盗んだものと勘違いしてからの場面だ。
 榎本さんの文章が、見事に母親のその時の心のあり様を言い表している。

 両の手首に糸束をかけさせて糸を巻きとっているうちに、拳に握りっぱなしの銭を見とがめて尋ねると、子どもは言を左右にする。お住は表をしめさせて引きすえ、
「なぜそんな情ない了見を出すんだ。おっ母さんは三度のものを一度しかたべなくったって、お前に不自由をさせたことがあるか」
 と涙声を出す。ここもあわれに悲しい。とうとう盗みまでするようになってしまったのかという憤激、女手一つでは所詮まっすぐに育てられないのかという絶望、誠実勤勉の生き方はこうももろく踏みにじられるほど無力なものでしかないのかという恐怖ー。お住のまだ十分に若い乳房は衝撃に鳥肌立った。
 噺家が、この場面を、母親になり切って演じることができるのかどうか、が聴く者に「あわれで悲し」くさせるか、あるいは、安直な泣かせの演技と映るのかの分かれ目だ。
 どうしても、五十銭くれた相手を白状しない亀に、熊が使っていた玄能(あるいは、金槌)を取り出してぶつ仕草をして、亀はついにこう叫ぶ。

 「盗んだんじゃねえやい。お父っつァんにもらったんだい」
 「お父っつァんに・・・・・・逢ったのかい?」
 息をつめて、
 「なんだい、お父っつァんてったら乗り出しゃァがって」
 この場面転換も、重要だ。
 泣かせどころばかりではない、というのも落語の味わい深いところ。
 
 翌日の鰻屋の場面は、まさか逢うとは思っていない元女房と再会し、熊が動揺して、つい、同じ科白を何度も繰り返す場面が可笑しい。

 人によっては、この再会場面にお店の番頭を登場させる。
 冒頭での熊と亀の再開から番頭が作ったシナリオ、という設定の場合もある。

 そのあたりは、それぞれの噺家さんの工夫として悪いことではなく、噺全体に無理がなければ、それで構わないと思う。
 ちなみに、さん喬は、サゲ直前の鰻屋に番頭を登場させる。
 好みではあるが、私は、熊と亀の再会は偶然であって、番頭の作為という設定はいかがなものか、と思う。

 また、小三治もそうしているが、熊と亀の再会場面に、近くで盗み聞きしている八百屋を登場させる場合がある。これも、噺の流のアクセントとして不自然でなければ、悪い演出とはいえないだろう。

 以前の記事で書いた通り、この噺は初代春風亭柳枝の作と伝えられ、三代目の柳橋(後の初代春錦亭柳桜)が現在に近い型に改作し、あの名人三代目小さんらに受け継がれた、柳派の十八番。
2009年4月18日のブログ
 
 しかし、あの円朝が柳派に対抗して、「下」を改作したことがある。
 榎本さんの本から。

 三遊亭円朝が柳派の向うを張って下の部分を改作した『女の子別れ』というのがあり、『円朝全集』にものっている。
 女房が一人で出て行き、以前のつてでお屋敷に奉公しているうちに子ども(金太)に道で出会う設定で、子どもは父親と同居していて父親に小づかいをとがめられるわけだから、金槌のおどしも自然だという一種の合理化なのだが、さすがの大円朝の才能をもってしても、これは初代柳枝以来の柳派演出には遠く及ばない。

 残念ながら、まだ三遊亭の『女の子別れ』は、聴いたことがない。

 榎本さんは、この噺について、次のように締めている。

 亭主は女郎を引っぱりこんだ上で後悔して立ちなおり、女房は頼り少ない母子家庭を支えながら一時の軽率を反省している。ここにこそ試行錯誤の連続の人生というもののいじらしさもあるのではないか。
  かくばかりいつわり多き世の中に
    子のかわいさはまことなりけり
 よく引用されるこの道歌がぼくは大きらいだし、親心なるものの完璧な純粋さなども信じていない。純粋と思いこんでいる人たちの実態に目をこらすと、子どもが自分のヴィジョンどおりにあるいはイメージから大きくはずれない程度に育ってくれることを前提に愛情を注いでいる、そうした身勝手な欺瞞が見えすく。決して無償の行為ではないので、期待が裏切られれば断絶だなどとうろたえるのである。
 だから、『子別れ』の題名に幻惑されて、この人情ばなしを“子ゆえの春”式に親心美談として語ってもらいたくないと思う。親子の愛情を無条件の絶対正義と認めて疑わないほど、古典落語のエスプリは薄手なものではないはずだし、そんな体制的な民衆教化に奉仕させられるくらいなら滅び去った方がいい。
 これは“夫婦別れ”。つまり男女という横の関係のドラマとしてとらえられるべきだろう。そこではじめて二人をつなぐかすがいの亀坊と夫婦双方との縦の関係もとらえなおさえ、長編が豊かな奥行きをもつのである。
 「そのもと儀、われら勝手につき」の理由だけで慰謝料なんか払わずに女房をたたき出すことのできた時代も、思えば遠くなったがー。
 なんとも、榎本さんらしい、表現ではないか。
 「試行錯誤の連続の人生」なんて言葉、胸に“どん”と突き当たる。
 また、「古典落語のエスプリは薄手なものではないはず」という表現や、「そんな体制的な民衆教化に奉仕させられるくらいなら滅び去った方がいい」という言葉に、落語というものに真摯に向き合ってきた人の深い洞察力を見る。

 榎本さんは、落語をこよなく愛しており、古典落語は上から授かるののではなく、あくまで庶民の側にあるからこそ、三百年の間生き続けてきた、ということをおっしゃりたいのだろう。


 さて、ついつい、この噺のことを書いていたら、やはり、次の自分の高座のことを考えないわけにはいかなくなった。

 とはいえ、素人がリレーで演じるのだから、聴く方の負担(?)を考えると、せいぜい通しでも25分位が上限だろう。

 まず覚えることが先で、次に、どこをどう割愛するかを考える必要がある。

 ある程度の輪郭が出来たところで、相棒のYさんと、前後半のどっちを担当するか、相談しなけりゃ。

 生で聴いた“通し”の一つは、練馬から座間まで遠征(?)してくれたYさんと一緒に聴いた、むかし家今松による2012年2月「ざま昼席落語会」の名高座。
2012年2月12日のブログ
 そして、珍しく日曜の昼開催で、テニスを途中で抜け出して駆けつけた、2016年11月関内ホール(小ホール)での柳家小満ん。
2016年11月28日のブログ

 それぞれ、その年のマイベスト十席に選んでいる。

 珍しかったのは、立川龍志が、志ん輔との二人会で、「上」と「中」を演じた高座。
2015年4月30日のブログ

 「下」を聴いたことのある落語愛好家は多かろうから、という思いでの選択だったと思うが、なかなか得難いものだった。所要時間は、43分。
 
 今松は、「中」を端折ってはいたものの、休みなしで一時間の長講。

 小満んは、「上」「中」「下」を、しっかり分けた三高座。
 ブログの記録では、それぞれが、33分、29分、30分とほぼ均等の配分だった。

 持っている音源では、小三治は、「上」42分8秒、「中」40分26秒、「下」38分53秒と、それぞれが・・・長い。

 権太楼・さん喬のリレーは、「上」「中」で38分40秒、「下」が41分15秒。

 志ん朝の大須は「中」を地で説明した通しで、57分38秒。基本的な構成も含め、今松は、ほぼ志ん朝に近い。
 
 できるものなら、「中」もなんとか少しでも盛り込んでみたいと思っている。
 小三治の「中」は、聴けば聴くほど、いいんだよねぇ。
 というか、全体に小三治の下北沢の高座は、素晴らしいのだ。

 思い出した。昨年11月に成瀬の東雲寺寄席で、さん喬が酔っぱらった熊の帰宅から始まる、短縮版の「中」から始まる「子は鎹」を演じた。しかし、やや違和感があったなぁ。
 家に帰る熊は、そんなに酔っていてはいけないと思う。逡巡もあって、小さくなって帰るところから始めなければ、熊のその時の姿には近づかないだろう。
 さん喬が、『子別れ』の題の元となる「中」の喧嘩別れから始めたかった気持ちは、よく分かる。しかし、彼のような芸達者でも、無理な短縮を行うと、本来の噺の骨格が崩れてしまうのである。

 『子は鎹』として独立した「下」は、そうなるだけの内容として多くの噺家が練りに練ってきた結果なのだろう。
 通しでこそ生きるのが「上」や「中」。「下」なしでは存在しにくいのだが、そういう意味で、龍志の試みは得難い。


 笑いの多い「上」の後に、あの暗い別れの場面があり、最後の「下」による出会いでほっとさせる、という優れた構成がこの噺の基本なのだなぁ、とあらためて思う。

 とはいえ、素人の、“なんちゃって落語”なのだ。
 各パートの肝腎な部分を中心に、他は地で説明し、なんとか25分から20分にできないかなぁ、なんてことを考えている。

 聴きたい、とか、期待する、とおっしゃる方は気楽かもしれませんがねぇ、そんな簡単なもんじゃないんですよ145.png

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by kogotokoubei | 2018-01-16 12:45 | 落語のネタ | Comments(4)
 さて、次は、単独で演じられることは滅多にない、『子別れ』の「中」。

 吉原に居続け、四日ぶりに帰宅した熊さんと女房の会話が中心。

 女房に詰問された挙句、熊さんが吉原で品川にいた時分に馴染みだった女郎と出会って、つい長逗留になったと白状。
 そこで、謝ればまだ良かったものを、つい、のろけ話になってしまい、出来た女房の堪忍袋の緒が切れ、売り言葉に買い言葉、熊さんが「出て行け」の一言を発してしまう。

 最後は別れ話になることや、父に「謝っちまいなよ」と懇願しながらも母親と一緒に家を出て行くことになる亀ちゃんの寂しそうな姿もあって、笑いが少なく、また、救いのない筋書きでもある。
 
 前の記事でリンクした記事で紹介したように、柳家権太楼が、東京落語会で「中」だけを演じた高座が「日本の話芸」で放送されたのを見た。馴染みの女郎の名をお勝としていて、題は「浮名のお勝」。
 やはりこれだけを演じるのは、全体があって初めて噺としての骨格が出来上がるので、演る方も聴く方も、どこか物足りなさを感じるように思う。
 なお、権太楼も通しで演じたことはあって、三田落語会の前身、ビクター落語会の高座がDVDで発売されているが、私は持っていない。

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 榎本滋民さんの『落語小劇場』で、「中」の内容を確認。

 熊さんの女房が、「ふだん亭主の帰りがどんなに遅くても起きていて、路地の木戸をたたく音に『熊さんかい?』と開けに行く早さは、とんとんまでたたかせない、とん熊さんというぐらいのよくできた女」と説明しておいて、こう続けている。

 だから、ひと晩泊まりの朝帰りならお目こぼしもあろうに、三日四日と居続けのあとでは神田竪大工町のわが家の敷居は高く、のぞいてみれば女房はふて寝もせずにせっせと針仕事の最中とあっては、
「ええ、少々うかがいます。大工の熊五郎さんのお住まいはこちらでござんしょうか」
 ふざけてみせでもしなければ、うしろめたくてとても入れない。

 小三治も、熊さんを、この科白で帰宅させているが、その前に、
  朝帰り だんだん家が 近くなり
 の川柳を挟む。
 そして、「おかみさんがいる方でないと、その怖さは伝わってこないかもしれませんね」と付け加えている。実体験に基づいているのかどうかは、不明^^

 女房から、「どこへ行ってたんだい」と聞かれて熊さん、小さな消え入るような声で、「とむらい・・・・・・」と答える。「お店(たな)の旦那の弔いに行ったのは知ってるよ。弔いってのは、三日も四日もかかるのかい」と突っ込まれるが、なかなか本当のことを明かすことができない。
 小三治の音源では、焼き場にまで付き合ったものの、96で亡くなった伊勢六の旦那の亡きがらが、ほとんど油っ気がない。旦那の遺言で、よ~く焼いてくれとあったので、薪をさんざん燃やして、三日目の朝にようやく焼け落ちた、などと嘘をつく。
 しかし、女房が紙屑屋の長さんから熊と一緒に吉原に行ったことを聞いたことを知り、熊も観念し、吉原での成り行きを白状するのだが・・・・・・。

 のろけから、女房の堪忍袋の緒が切れる場面について、榎本さんの本より。榎本さんは、女房の名を、お住としている。

 敵娼(あいかた)にきまった女郎のひどさにやけのがぶ飲みから便所へ行っての帰り、廊下でいきなり胸ぐらをとられて、
「男なんて薄情なもんだねえ。わちきの顔をよくごらん」
 涙ぐんだ女は、もと品川でなじんだお松。
 ひところは、やらずの雨に降りこめられて仕事を休んでしまい、たのしみ鍋の差し向かいで飲んだ朝もあるほどの仲で、わちきがいくらのぼせてもお前(ま)はんにはかわいいおかみさんや子どもがあるんだからどうせ末のとげられる見こみはないと泣くのを、合わせものは離れもの、かかあなんぞたたき出してみせると喜ばせたこともある。
 もとより出まかせの口約束、一人息子の亀坊が回らない舌で、
「とっちゃん、お仕事(ちごと)かい。とんとんかい」
 とかなんとかいうようになったかわいさにとりまぎれ、いつかすっかり忘れていたのを、お松の方では真(ま)に受けて、熊に会いたさに方々鞍替えしながら尋ねていたとのこと。
「あんな気休めをどの口でおいいなんだよ」
 と責められて、
「ほかにもち合わせはござんせんから、多分この口でござんしょう」
 顔を突き出したら思いっきりつねり上げられたー。
 こうべらべらいってのけた上に、
「どうかなってやしねえか?こう、見つくて。よ、おっかあ」
 ほっぺたを向ける色男ぶり、たまりかねたお住はいきなり平手打ちを食わせて離縁を望む。
 やらずの雨、鍋の差し向かい、という表現で、『唐茄子屋政談』の徳の回想場面を思い出す落語愛好家の方も多いだろう。

 それにしても、熊の話、いくら出来た女房でも、怒るのは道理。
 
 そうなると、熊も居直る。
「あとがつけえてらあ。裏のどぶじゃねえがな、かかあだのぼうふらなんてものァ棒を突っこんでかき回しゃァいくらだって出てくるんだ。気に入らなけりゃとっとと出て行け!」
 名調子である。さすがに女性上位時代のマイホーム亭主なんかとはオクタン価がちがう。くやしかったら今夜にでも早速やってみるがいい。こっちのいうせりふなんてどなられて、うなだれるのが落ちだろう。

 榎本さんも、なかなかの名調子^^
 この後に、当時の夫婦のことについて、三行半を含め解説されている。
 江戸時代の夫婦関係を律する法的観念は夫権絶対だった。どれほど夫が横暴でも、妻の側から離婚を宣言することはできない。
 そのために、縁切り榎に願をかけるせつねい俗信も行なわれたし、鎌倉松ケ岡の東慶寺へ駈けこんで三年間(実際には二十四カ月すなわり足かけ三年)の有髪(うはつ)の尼僧生活を送れば認められる救済便法も存在したのだが、この場合ですら最終的には亭主が離縁状を発行しなければ離縁は成立せず、里で逃げ帰ったところで再縁もできないので、
「出て行くから、仲人にどういうわけで出てきたと聞かれたとき証拠になるように、去り状を一本書いとくれ、たった今、目の前で、さあ」
 という請求がせめてもの主張なのである。去り状・退(の)き状・離縁状などともいう縁切り証文は、こんな文言を三行半に書く。
   そのもと儀、われら勝手につき離縁
   いたし候上は、何方(いずかた)へ縁づき候とも
   われら方にては一切差し構え御座な
   く候。仍(よっ)て件(くだん)の如し。
 三下り半の俗称はこれによる。

 江戸時代の男尊女卑が離縁状の背景にあったのかもしれないが、当時は、女性人口が少なかったことも、一つの仕組みとして、三行半につながったように思う。
 簡単には、離縁させない。もし、離縁されても、女性がすぐ再婚できやすい仕組み、ということではなかろうか。

 なお、小三治は、かな文字しか書けない熊なので、四下り半になった、と笑わせる。
 隣りに住んでいる住人が仲裁に入るが、熊も一度上げた拳を下げることができない。

 ついに離縁か、という時の亀の言葉は、なんともせつない。
 榎本さんの本から、ご紹介。
「お父っつァん、お前(めい)が悪いんだ。あやまっちゃいなよ。おいらだのおっかあだのがいなくなると、お酒を買いに行く者ァなくなっちゃうぜ。今あやまるんなら、おいらもともに口をそえるからさ」
 これをたしなめてお住は、男の子は男親につくのが法だろうけれど、お前さんのところへ残して行くのは心配でたまらないからとむせび泣いて、
「さあ、亀坊。ながなか御厄介になりましたってお父っつァんに御挨拶をおし」
「いやだなぁ。するよ。ながなが・・・・・・ながなが亭主にわずらわれ・・・・・・」
 と青っぱなをこする亀坊の手を引き、小さい風呂敷包み一つもって、世帯やつれした薄い肩を路地口に消した。
 この場面は、亀の言葉にどんなクスグリを入れても、そうは笑えない。
 やはり、切ない、暗い話なのだ。

 その後、熊は吉原通いを続け、年季が空けた馴染み女郎をうちへ引っぱりこんだのだが・・・・・・。
 ここでお決まりの句が挟まれる。
 「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」
 この句、調べてみると、遊女を身うけしようとした人をいさめて、播磨の瓢水(ひようすい)という人が作ったといわれている。
 「れんげ草のような野の花は、やはり野原に咲いているのが似つかわしい。ものには、本来それにふさわしい場所というものがある。取らずともやはり野に置け蓮華草」という意。
 手に取ってしまった蓮華草が、いったいどんなものだったか。

 朝寝をして昼寝をした上に宵寝までするネゴイストで、せめて飯でも炊かせようと思えば、
「おまんまが炊けるくらいなら、お前(ま)はんとこへきやしないよ。吉ちゃんとこへ行きたかったんだけども、お前はんがおまんまなんぞおれが炊くってえからきたんじゃないの」
 はじめて目がさめたら、追い出すまでもなく女は出て行った。ここまでが中、『子別れ』の題名のよってきたるくだりである。

 中、やはり暗い噺なのだ。

 もちろん、暗いなりに聴かせどころはある。
 熊と女房の会話、亀のなんとも切ない言葉などに、演者の技量が問われる。

 さて、上とつなぐべきか、それとも、下の前に短めに演じるべきか。

 書きながら、次の口演(?)への悩みが増してきたではないか^^

 次回は、お馴染み「下」の「子は鎹」。

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by kogotokoubei | 2018-01-15 12:33 | 落語のネタ | Comments(4)
 次の「居残り会座付き芸人」のネタは、『子別れ』とのご注文。
 前の記事に続き、この噺のことについて、

 別に今から稽古しよう、ということではない^^
 何かの機会に、落語家や落語のネタについて少し考えてみるのは、拙ブログの常。

 前の記事では、柳家小三治が、ネタおろしで「通し」をするために山籠りまでしたことを以前の記事から紹介したが、その少し前に、権太楼の『子別れー中(浮名のお勝)ー』をテレビで観たことから、この噺の作者、初代春風亭柳枝のことなどについて、記事を書いた。
2009年4月18日のブログ

 柳家の御本家とも言える初代柳枝の作品であるから、もちろん、柳家の噺家にとっては大事なネタだ。

 とはいえ、今日では、「上(強飯の女郎買い)」「中(浮名のお勝)」「下(子は鎹)」のうち、「下」を演じることが中心で、なかなか通しで聴くことはできない。

 私が、生の高座で聴けたのは、むかし家今松と柳家小満んの二人。
 持っている音源は、あの小三治の高座と、鈴本での権太楼(上と中)・さん喬(下)のリレー。
 ちなみに権太楼・さん喬のリレーは、2006年8月、恒例の二人が交互にトリを取る「鈴本夏祭り」で、8月19日が、上と中を権太楼、下、さん喬、翌20日はその逆で演じられたものの収録。よって、私が所有しているのは、19日のもの。
 ちなみに、古今亭志ん朝の大須の「上」「下」を持っているが、ほとんど「中」は割愛といった内容なので、今回は、本家の柳家の音源二つを元に辿りたい。

 さて、生でも音源でも、通しとなると珍しいが、落語関連の本でも、あるようでないのが、通しについて詳しく書かれた本。

 本棚を探して、見つけた。

 榎本滋民著『落語小劇場』(上)だ。
 私の持っているのは、上と下の二巻になっている、三樹書房発行の昭和58年版。
 ご覧のように、目次にしっかり入っていた。

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 さっそく、冒頭からご紹介。

 ■子別れ
 
 告別式会場へちょっと行くだけですむ今の安直システムとつがって、昔の会葬は丁寧なものだったから、新仏(にいぼとけ)の菩提寺が遠いと半日一日つぶれてしまう。職人や零細商人には大恐慌で、
  弔いが麻布と聞いて人頼み
 香莫を託して御免こうむる。ところが、
  弔いが山谷と聞いて親父行き
 今はもう「山谷」は堀と橋ぐらいに名残りをとどめるあわれな末路だが、以前はずいぶん広い地域を指していた。吉原通いのことを山谷通いともいったほどで、あの歓楽街を連想しない男はいない。
  こりゃ事だ寺は山谷で七つ(四時)過ぎ
 大勢ならなお行きやすいから、「弱ったね」などとにやにやする。
  吉原へ回らぬ者は施主ばかり
 このとっかかりのところを読んで、はた、と思った。

 私が持っている通しの音源で引っかかった部分があるのだ。

 「弔いを山谷と聞いて親父行き」の川柳は、小三治も権太楼も使っているが、二人とも、若い者を行かせて間違いがあってはいけないから、という解釈を語っている。

 えっ?親父自身が行きたいからなんじゃないの?

 と聞いていて思ったのだが、榎本さんの文章は、私の見解の正しさを裏付けてくれているような気がして、少し嬉しかった^^

 山谷の近くに、あの原っぱがあるから、親父が行きたいということだろう。
 
 もちろん、どちらともとれるのではある。

 また、この章、榎本さんは、あえて『子別れー通しー』とはせず、単に『子別れ』としている。
 本来は、上・中・下と全部で一つの噺、ということなのだろう。

 あらためて、その「上」「中」「下」のそれぞれの噺の山場と思しき部分を、榎本さんの本で確認したい。

 まず、「上」。別名「強飯の女郎買い」。
 大往生した大店の大旦那の葬式に参列した熊五郎が、しこたま般若湯を飲んで酔っ払う。
 冒頭は、この熊の酔っ払いぶりが聴かせどころ。

 榎本さんの本から。

 酔えばまるで分別を失う飲んだくれなのを心配した年寄りが、無駄遣いする金があるのなら、かみさんにうまいもんでも食わせるか子どもに着るもんの一枚でも着せるかしておやりとたしなめれば、
「きいたふうなことをいうねえ。かかあを屋根へ上げて風を食わせとこうと、餓鬼を叺(かます)へ入れてぶらさげようと、手前の世話になんぞなるか。この赤茄子」
 という勢いである。
 叺なんてのも、落語でしか聞かない言葉になってきたなぁ。
 亡くなった大旦那の年齢は、小三治が96歳、権太楼では94歳。
 どちらにしても、あの時代では、大往生だ。

 さて、酔った勢いで外に出た熊は、出会った紙屑屋の長さんと一緒に、吉原へ。
 葬式で出た弁松の弁当を、たんまりと持ち帰っていることが、笑いを呼び込む道具立てである。

 気前がよかった仏の遺言で弁松に別あしらえした強飯の上弁当が出た。強飯すなわちおこわで、不祝儀のときは黒豆が入る。たっぷり汁を含んだがんもどきもそえてある特製が寺の庫裡に残っていたのを、背中に七つ、左右の袂に五つ、懐中に三つ、七五三の形で失敬している。
 落語に登場する江戸時代のお店の中で、弁松は、今でも営業している貴重な存在。
 ホームページには、しっかりと「赤飯弁当」が載っているので、ご確認のほどを。
弁松総本店のサイト

 この弁当、小三治は、榎本さんの本と同様に、背中に七つ、袂に五つ、懐中に三つ持って帰っており、「七五三の、担ぎ分け」と言って笑わせる。
 ちなみに、権太楼は、背中に七つのみ。

 紙屑屋の長さんは、途中で買い物をしたので、三銭しか持ち合わせがない。
 対して熊は、仕事の前受け金の五十円が懐にあるので、気が大きい。奢ってやるからと、この二人が吉原へ行く道すがらの会話が、なんとも可笑しい。

 熊は、何度も「紙屑屋!」と長さんを呼んで、からかいっぱなし。
 榎本さんの本では、こういう科白が紹介されている。
 「お前が紙屑屋だから紙屑屋ってんだ。不思議はねえだろ。それとも気に入らねえのか、紙屑屋。大きに悪かったな、紙屑屋。じゃァ紙屑屋といわねえから行け、紙屑屋」
 さて、たどり着いた吉原。
 
 そこで出会た、客引きをしていた妓夫(牛)太郎。
 
 抹香くさい寺帰りだと断っても、
「手前どもは果(はか、墓)行きがいいお客さまだと喜びますぐらいで、へへ、どうぞお上がりを願います。宵見世のお徳用で御愉快をいかがさま。棟梁。色男。おいらん殺し。よっ」
 なんてんで離すもんじゃない。
 弁松の弁当を妓夫に祝儀に渡して、店に上るまでが、「強飯の女郎買い」。

 切れ場は、小三治では、こんな感じ。
 店に上がると花魁見習いの豆どん(禿)がいて、居眠りして花魁につねられた痣があるのを見た熊が、弁松の弁当をあげようとすると、豆どんが断る。怒った熊が大きな声を出すと、さっきの妓夫が出てきて、彼女たちは客からもらい物をしてはいけないと躾られていると詫び、代りに私がもらいましょう、と言う。「おめぇさっき二つやったじゃねえか」「ご馳走さまで。へい、美味しく頂戴しました。ただ、がんもどきの汁が少なかったような・・・」「そうだろう、さっきこいつ(紙屑屋)に背中を押されて汁が褌に染み込んだんだ。こっちへ持って来い」「取り替えていただけるんで」「いや、褌、絞ってやる」「冗談言っちゃいけない」で、サゲ。

 実際に、小三治は、ここでいったん高座を後にする。

 権太楼は、「上」と「中」を続けているので、この後に、居続けした熊が、遣り手婆さんに体よく追い返されたと地で説明して「中」につなげている。

 「上」「中」「下」のうち、しっかり演じることができれば、もっとも笑いが多いのが、この「上」だろう。

 では、「中」は、どんな噺なのか・・・は次回。

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by kogotokoubei | 2018-01-14 18:18 | 落語のネタ | Comments(10)
 11日の落語愛好家仲間との新年会で、リクエストに応え(?)、『二番煎じ』をYさんとリレーで演じた。
 元は、忘年会で、つい『井戸の茶碗』をご披露したところ、望外に好評で、次は冬に相応しい噺を、となってしまった次第。

 前半の火の廻りを私、番小屋に帰ってからの後半をYさんが担当。

 二人とも、志ん朝の大須の音源を聴いて練習した結果、皆さんからの評価も悪くなかった。

 ひと安心して熱燗を飲み、美味い焼き鳥をいただいていたら、なんと、次回は『子別れ』の通しをリレーで、とリクエスト。

 いつになるかはともかく、結構、大変なネタをふられたものだ。

 これまで、通しで聴いたのは、むかし家今松(ざま昼席落語会)、柳家小満ん(独演会、関内ホール)かな。

 この噺の通しでは柳家小三治が有名だが、なんと口演に至るには、壮絶なドラマがあったことを以前紹介している。

2009年4月21日のブログ
 以前の記事と重複するが、『子別れー通しー』というネタの重さ、難しさを知るに相応しい逸話を、再確認したい。

 1982年に下北沢に本多劇場がオープンし、「本多寄席」と銘打った落語会が開催されるようになった。第一回として、その年の12月13日に「古今亭志ん朝独演会」が開催された。『寝床』と『文七元結』の二席が演じられ、ソニーのプロデューサーであった京須偕充さんは、出色の出来だった『文七元結』のレコード(CD)の収録に成功した。そして明けて1983年。京須さんは、長年に渡って慎重に交渉を進めてきた柳家小三治の本多寄席での独演会と録音の約束をとりつけた。小三治師匠、44歳の上げ潮といえる頃である。しかし、どのネタにするかは、まだ小三治も迷っていた、そんな時の状況を、『落語名人会 夢の勢揃い』京須偕充著(文春新書)より引用する。

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京須偕充著『落語名人会 夢の勢揃い』


 小三治という人は誰よりも個性的だが、奇を衒うことを好まない。個性たしかだから奇を衒う必要がない。それをしかと自覚している。他のジャンルとのセッションなどという、誰にでも考えられて、しばしば線香花火に終わる企画をもちかけても、おいそれと乗る人ではない。
 とにかく九月一日の独演会とその録音については合意している。会って、相談をして、その演目構成に何か一工夫をしよう。初夏の宵、かつて新宿副都心にいちばん早くオープンしたホテルで待ち合わせた。83年の副都心はまだ意外に空が大きく見えると思うくらい、高層ビルはそれほど林立していなかった。柳家小三治はオートバイで姿を現した。

 京須さんと小三治の立場の違いなどから、二人の会話はスムーズに進まなかったようだ。

 ついに柳家小三治が独演会をやるのなら、待ちに待った録音をスタートするのなら、そして誰よりも個性派の小三治なのだから、せめて演目構成で落語ファンをあっと言わせる企画を実現したい。それが制作者である私の考えだ。しかし小三治本人は、演目を決めることさえ渋るのである。独演会に応じていながら何をいまさらと言えなくもないが、まずは年来の主張を前提に掲げ続ける小三治だった。

 京須さんの粘りに負けてほぼ観念し始めた小三治に、ついに京須さんは提案する。
 雑談にも疲れたところで、ふっとひらめくものがあった。蹴られるかもしれないが、とにかく口に出す。
 『子別れ』どうです。一晩で上・中・下の通し口演ってのは。
 柳家小三治は一瞬、息を呑むようにした。目がギロリと動く。
 「ああ・・・・・・。それなら、ねえ。・・・・・・うん」これ、やっていそうであまりやられていない、と私は付け加えた。ラジオで、五代目古今亭志ん生が至極かいつまんで簡略にやったことはあったが、独演会でじっくり通し口演したのは六代目三遊亭圓生しかいない。これは実質があって、しかも話題になる企画ではないか、とさらに添えた。言いながら、私にもだんだん確信のようなものが生まれてきた。
 「うん、じゃ、それで行きましょう」
 柳家小三治はきっぱり言った。
 
 京須さんの読み通り、この企画はマスコミにも注目された。そして、「山篭り」である。
 いくつかの新聞が柳家小三治にインタビューし、予告記事を書いた。インタビューでは、さァどうなることか自分でもわかりませんと他人事のように言っていた小三治の目の色が変わってきたのは八月のなかば近くになってからだ。やがて小三治山篭りの噂が立った。
『子別れ』に関する、ありとあらゆる資料、録音テープや先輩の速記本を抱えて旅立ったというのだ。帰京予定日は九月一日、独演会の当日という。
 九月一日の独演会当日になった。夕方、早目に楽屋入りした弟子に聞くと師匠小三治は帰京したが、髭が伸び放題だったという。剃る間も惜しんで構成と稽古に没頭していたらしい。やがて楽屋入りした本人にもう髭はなかったが、いつも以上に目がくぼみ、少し青白かった。
 どうしていいかわからない、えらいことを引き受けたと後悔したけど、もうどうにもならない、としきりに悲観的な見通しを述べた。
 どんよりと空気が淀んだ、薄日の蒸し暑い日だった。いっそ天変地異でも起こらないかなァと小三治は穏やかならぬことを言う。それで独演会が中止になれば命拾いをするという、テストを逃れたい少年のような考えだ。その日九月一日はちょうど六十年前の1923(大正12)年に関東大震災が起きた日付けではある。


 あの小三治が、「山籠り」までして稽古に没頭したのが、『子別れー通しー』なのである。

 私は、この小三治の音源も持っている。
 この「山籠り」のことを知って聴くと、なおさらその高座の凄かったことを察することができる。
 いわゆる、「ゾーンに入った」高座だったことが、聴いていて伝わるのだ。


 新年会の後のメールのやりとりの中で、I女史によると、Yさんと私は「座付きの芸人」なんだそうな^^

 今後、無茶ぶりの落語披露が恒例となりそうな・・・予感。

 Yさんも私も、さん喬・権太楼のリレーの音源を持っているので、お手本はその音源になりそうだ。

 さて、これから我々は、山に籠もらなけりゃ^^

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by kogotokoubei | 2018-01-13 11:54 | 落語のネタ | Comments(6)
 『二番煎じ』について記事を書いている中で、さて、他に冬の噺にはどんなものがあるか、ということで、懲りずに二冊の本を比べてみた。

 昨年9月に、同じ二冊を元に、秋の噺のことを調べて記事を書いた。
2016年9月21日のブログ

 比べたのは、次の二冊。

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矢野誠一著『落語讀本』(文春文庫)

 まず、一冊目は矢野誠一さんの『落語讀本』(文春文庫、1989年初版発行)。
 副題にあるように三百三席のネタが紹介されている中で、冬として分類されているのは、35席。
 ちなみに、正月のネタが7席、春が100席、夏66席、秋が95席なので、冬に分類されているネタは、もっとも少ない。


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麻生芳伸編『落語百選ー冬ー』

 次に、麻生芳伸さんの『落語百選-冬-』(ちくま文庫)。初版は1976年に三省堂から発行され、その後に社会思想社の現代教養文庫で1980年に再版。ちくま文庫では1999年の初版。

 百席を四季ごとに同数づつに分けて掲載しているので、冬篇は25席。

 秋の噺の時と同様、『落語百選』を元にネタを並べて、『落語讀本』ではどう分類されているかを調べてみた。
 両方で冬の噺として分類されているネタにをつけた。
 なお、『落語讀本』では、正月の噺を「年の始めの・・・・・・」として、別分類しているので、こちたも冬の噺を考える。


    落語百選 <冬>   落語讀本<冬ざれの>
(1)うどんや       冬
(2)牛ほめ        夏
(3)弥次郎        春
(4)寝床         秋
(5)火焔太鼓       秋   
(6)首提灯        秋
(7)勘定板        なし
(8)鼠穴         なし
(9)二番煎じ       冬
(10)火事息子      冬
(11)按摩の炬燵     冬
(12)大仏餅       春
(13)文七元結      冬
(14)芝浜        冬
(15)掛取万歳      冬
(16)御慶       *年の初めの・・・・・・
(17)かつぎや     *年の初めの・・・・・・
(18)千早振る     *年の初めの・・・・・・
(19)藪入り      *年の初めの・・・・・・
(20)阿武松       なし
(21)初天神      *年の初めの・・・・・・
(22)妾馬        春
(23)雪てん       なし
(24)雪の瀬川      なし
(25)粗忽長屋      春


 二冊とも挙がったネタは、半数以下の十二席。

 秋の噺の時にも感じたことだが、噺は必ずしも季節が明確ではないものもあるので、そういう噺の分類は、結構難しいと思う。
 加えて、麻生芳伸さんの『落語百選』は、四季それぞれに分けて二十五席ということなので、他の季節では選ばなかったが、取り上げたネタを別な季節の巻に入れる、ということはありえる。
 そして、春夏秋冬の百席以外のネタは、「特選」として「上」「下」の二冊に収められたことは、落語愛好家の方はご存知の通り。

 よって、「冬」に収めることができなかった『富久』などは「特選・下」に載っている。

 矢野さんの本では正月を別の枠にしている。もちろん冬の噺。
 その特別なネタを別にして、冬の噺としてこの二冊で合致しているのは、次のものだった。

 ◇うどんや
 ◇二番煎じ
 ◇火事息子
 ◇按摩の炬燵
 ◇文七元結
 ◇芝浜 
 ◇掛取万歳

 結構、大ネタが並んだと思う。
 
 さて、年が明けて平成30年一月一日は、旧暦の十一月、霜月の十五日。
 まだまだ冬の噺に出会えそうだ。

 本年の記事は、ここまで。
 拙ブログにお立ち寄りの皆さん、良いお年をお迎えください。
 来年も、皆さん、よろしくお願いします。


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by kogotokoubei | 2017-12-31 18:17 | 落語のネタ | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛