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噺の話

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カテゴリ:落語家( 86 )

 先月二度行った寄席で、二度とも聴くことのできた柳亭小燕枝。

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 先日、『落語界』の第24号、昭和54(1979)年11月号から、笑福亭松之助に関する記事を紹介した。
2019年6月21日のブログ

 同誌に、当時の二ツ目、小三太の記事が載っていたことを思い出した。

 これが、「若手ずうむあっぷ」という連載記事で掲載されていた写真。若い!

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 昭和20年生まれなので、当時はまだ、34歳。

 真打昇進を目前に控えた小三太を取り上げていたのだ。
 筆者は、演芸評論家の中野良介さん。

 ご紹介する。

「人間辛抱だ」の十五年選手

 小さん一門といえば落語界の最大所帯。孫弟子まで数えると五十人近い。小三太は、その十六番目。真ん中より少々上の十五年選手である。

 あら、先日の池袋の高座では、十八番目、とおっしゃっていたなぁ。
 まぁ、細かい(?)点は、よしとしよう。
 小団治が今秋の真打昇進のあとは一門の域にとどまらず落語協会の二ツ目勢筆頭を占める。いいかえれば真打への最短地点に到達したといえる。ここで年功序列やランクをどうこうするつもりはないのだがー。
 この数年の春秋に、とかくの批評を浴びながら続いた“集団真打昇進”が今回で終わるという。あとは実力・人気重点に戻って「二年後、小三太と春風亭小朝を昇進させる」という噂について確かめたいと思う。
「どうなりますか、正直いってそれは気にしてないンです。師匠から何もきいていないし、一人で思ってもどうなるもンじゃないしネ。好きなことをやってるンですから、それで充分」というのが当人の心境。

 結果として、小三太は、翌昭和55年に真打昇進し七代目小燕枝を襲名。
 とはいえ、小朝の三十六人抜きがあったので、話題はそっちに持っていかれたと思う。 
 小三太時代、昭和47(1972)年の第一回NHK新人落語コンクールで優勝している。
 小朝が優勝する六年も前のことだ。

 香盤順だけでなく、実力もしっかりあった若手だったということ。

 この記事では、一度はお姉さんが勤務していた百貨店に勤めたものの、落語家を目指して辞めたことや、そのお姉さんが彼の給料を天引きで貯めていてくれたことや、奥さんのことなどが書かれている。

 そして、最後の部分。

ー最近仕込んだネタは?
「小さいのが多く『麻のれん』『元犬』『阿武松』あたり」
 一方、大ネタ専門に挑戦しているのが馬太呂(現馬好)ぬう生(現圓丈)と組んで四年目の「とんでけ!御三家の会」(次回十月二十五日・大山落語亭)なのだ。
 私が一度だけ聴けた(一度しか聴けなかった)馬好の名も出てきた。
2019年3月27日のブログ

 圓丈が昭和53年、馬好が翌54年、そして、小燕枝が55年の真打昇進。
 三遊亭、柳家、金原亭だから、“御三家”か。
 

 この記事を読んで、“好きなことやってるンですから、それで充分”という言葉は、きっと、その後も変らぬ彼の心境ではないかと思った。

 なかなか、そういう了見にはなれないものだ。

 今年七十四歳。

 今後もぜひ聴き続けたい噺家さんだ。

by kogotokoubei | 2019-07-03 21:36 | 落語家 | Comments(4)
 何気なく、書棚に数冊並んだ『落語界』(深川書房)をめくっていて、今年亡くなった笑福亭松之助に関する記事に目が留まった。

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 昭和五十四年十一月一日発行の第24号、「創刊六周年記念特大号」とのこと。
 表紙のイラストは柳橋で、「大特集/春風亭柳橋を偲んで」「志ん朝落語の魅力・榎本滋民」「追悼/三遊亭圓生、突然逝く!」と並んでいる。

 多くの連載企画がある中に、相羽秋夫さんの「上方落語界の人たち」があって、その第十八回が今年二月に亡くなった笑福亭松之助。

 お題が、「さあこれからと晴れの出番を松之助」となっている。

 五代目松鶴門下で、六代目と兄弟弟子だったが、残念ながら松之助の落語は聴いたことがない。
 俳優としての姿は、何度かテレビで観ている。

 松之助が、どんな噺家さんだったか、なかなか興味深い内容なので紹介したい。
 冒頭は、酒にまつわる武勇伝が紹介されている。
 
 笑福亭松之助も、兄弟子松鶴に負けず劣らず酒にまつわる失敗談が多い。
 自ら語った武勇伝を紹介してみたい。(ABC“なにわ寄席”プログラムより)
 四代目米団治、つまり米朝の師匠が亡くなった時のことである。通夜の輪から抜け出した松之助と、米団治門下の米之助の助助コンビは酒の勢いを借りてとんでもないことを考え出した。「らくだ」よろしく、こともあろうに師匠の屍体でカンカン踊りをやろうというのである棺桶のふたを開けてまさに米団治をひうぱり出そうとした瞬間に、二人のワルがいないことに気がついた一同が見つけ出して事なきを得た。

 四代目米団治が亡くなったのは、昭和26(1951)年のことだから、大正14(1925)年生まれの松之助が26歳、米之助(三代目)は昭和3(1928)年生れなので23歳での、武勇伝。
 ちなみに、米之助は、落語家でありながらも定年まで大阪市交通局に勤めた異色の人。落語に関する知識も豊富で、米朝も頼りにしていたほど。

 さて、松之助。
 どんな噺家さんだったのか。

 彼の口演する演目の速記は、全て自筆で原稿用紙にていねいに書き連ねてあり、その原稿用紙の下四分の一ぐらいが余白になっている。ここに、何年何月何日初演。客層がこうこうの場合は、こういう演出をたてる方が良策、といった調子の反省点がびっしりと書き込まれている。これだけで上方落語の貴重な資料である。彼はこのような手間ひまのかかることを平気でやる人である。

 当時なので、自筆原稿ということにはそれほど驚かないが、この書き込みは、なかなか出来るものではない。
 
 筆まめである松之助の別な逸話もご紹介。

 ある会に一緒に出演した若手の高座の正すべき点を指摘した封書が数日後くだんの落語家に郵送されてきたりする。何通ももらって彼に傾倒している後輩がたくさんいる。口では注意出来ても手紙に認(したた)めることはなかなか出来ることではない。ましてや一門ではない他人の弟子に対してそうであるから、頭の下がる思いがする。
 こうした行動を見てくると、彼の落語に対する厳しい見方、対処の仕方が必然的に浮かび上がってこよう。

 この逸話には、驚いた。
 たしかに、なかなか出来ることではない。

 松之助の高座について。

 松之助の高座は、八方破れの飛躍の大きいマクラから始まる。勉強熱心であり皮相に物事を斬るギャグがまず何よりも楽しい。渡したちがすっかり彼のペースにはまった頃、やおら彼の信奉する古典に入る。そうすると、やにわに、きっちりと演出された一言一句おろそかにしない言葉の運びにびっくりさせられるのである。草書から楷書への突然の移行に驚くようなものだ。
 この落差が松之助落語の大きな特徴だ。『あくびの稽古』『おしの魚つり』『軽業』『くっしゃみ講釈』といった、ジェスチャーの入る古典に、彼は際立った手際を発揮する。
 あるいは、『くやみ』『黄金の大黒』のような切り口の会話が出てくる噺などは、松之助のニンが出てきて良い出来栄えを見せるのである。
 もちろん新作もやる。ほとんどが自作で、シェイクスピア劇を翻案した『じゃじゃ馬馴し』は異色中の異色である。落語に横文字の名前の人物が登場するのだから、初演の頃は聞き手がまずびっくりした。
 他に『仮面ライダー』『女の一生』『女房の飼い方教えます』など、タイトルを読んだだけでおもしろそうなものが並んでいる。

 この後、松之助のプロフィールが紹介されていて、五年前に入門した明石家さんまのことにも、少しふれている。

 ちなみに、明石家は、松之助の本名、明石徳三に由来。


 俳優としては何度かテレビでお目にかかっているが、その高座はまったく聴いたことも見たこともない。

 紹介した内容から、五代目松鶴の落語を継承する得がたい噺家さんだったことが分かるなぁ。

 談志は、六代目松鶴と松之助の噺家としての力量が拮抗している、と言っていたらしい。

 数少ない記録として平成紅梅亭のDVDがあるようなので、遅ればせながら聴いてみようか、などど思っている。

by kogotokoubei | 2019-06-21 12:36 | 落語家 | Comments(4)
 5月19日の「いだてん」で、森山未來が馬生と志ん朝(朝太)の高座を演じ分けた芸に感心した。

 ビートたけしの志ん生も、最初の頃ほど抵抗感はなくなってきた。

 というか、金栗四三、田畑政治、そして志ん生の三人の物語と思って、楽しんでいる。

 その志ん生が、記録的な改名の歴史を誇る(?)ことは、有名。

 しかし、いつどの名跡を名乗っていたかは、部分的にはご本人の記憶も曖昧で、確たる説はない。

 どんな説があるのかを、ある本から紹介したい。

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保田武宏著『志ん生の昭和』

 その本は、保田武宏さんの『志ん生の昭和』(アスキー新書)。
 著者の保田さんは志ん生のCDとDVDの全作品691のガイドブックも書いているし、志ん生のことを知るには、保田さんの著作に当るべきだろう。

 「第一章 なめくじ長屋」から引用。

 ここで五代目古今亭志ん生の改名について記しておこう。度重なる改名で、本人もはっきり覚えていないほどだが、三つの説がある。
[小島貞二説] まず『びんぼう自慢』を聞き書き、アレンジした小島貞二の説。
   三遊亭盛朝(明治四十年)-三遊亭朝太(明治四十一年)-三遊亭圓菊(大正五年)-
   金原亭馬太郎(大正七年)-全亭武生-吉原朝馬-隅田川馬石-金原亭馬きん(大正十年)-
   古今亭志ん馬-小金井芦風-古今亭馬生(大正十五年)-柳家東三楼(昭和二年)-
   柳家ぎん馬-柳家甚語楼-古今亭志ん馬(昭和七年)-金原亭馬生(昭和九年)-
   古今亭志ん生(昭和十四年)
 馬太郎と馬ぎんのあいだに全亭武生、吉原朝馬、隅田川馬石をまとめて入れているが、年代の裏づけはない。

 古今亭志ん馬を二度名乗っているので、名跡の数は十六。
 保田さんが小島さん以外に紹介しているのは、結城昌治さんと、斎藤忠市郎さんの説。

[結城昌治説] 小説『志ん生一代』の作者の説。
   三遊亭朝太(明治四十三年)-三遊亭圓菊(大正五年)-金原亭馬太郎(大正七年)-
   吉原朝馬(大正八年)-全亭武生(大正九年)-金原亭馬きん(大正十年)-
   古今亭志ん馬(大正十二年)-小金井芦風(大正十三年)-古今亭馬生(大正十五年)-
   古今亭ぎん馬(大正十五年)-柳家東三楼(昭和二年)-柳家甚語楼(昭和二年)-
   隅田川馬石(昭和五年)-柳家甚語楼(昭和五年)-古今亭志ん馬(昭和七年)-
   金原亭馬生(昭和九年)-古今亭志ん生(昭和十四年)
 隅田川馬石を昭和へもってきているが、ぎん馬を古今亭にして柳家東三楼の前にしている。最初の盛朝は入れていない。
 すべてに襲名の時期がある。大正十二年と昭和五年は、同じ年での二度改名していることになる。
 盛朝がなく、古今亭志ん馬と柳家甚語楼が二度あって、名跡は十五種類。

 さて、三っめの説。

[斎藤忠市郎説] 落語史研究家が、新聞、雑誌などの資料にあたって、調べあげた説。筆者も調査してみて、この説が一番正確だと判断した。したがって本書はこの説によっている。
   三遊亭盛朝(明治三十八年)-三遊亭朝太(明治四十三年)-三遊亭圓菊(大正六年)-
   金原亭馬太郎(大正七年)-金原亭武生(大正九年)-金原亭馬きん(大正十年)-
   古今亭志ん馬(大正十三年)-小金井芦風(大正十四年・志ん馬と併用)-
   古今亭馬きん(大正十四年)-古今亭馬生(大正十五年)-柳家東三楼(昭和二年)-
   柳家ぎん馬(昭和二年)-柳家甚語楼(昭和三年)-隅田川馬石(昭和五年)-
   柳家甚語楼(昭和五年)-古今亭志ん馬(昭和七年)-金原亭馬生(昭和九年)-
   古今亭志ん生(昭和十四年)
 吉原朝馬が入っていない。これを名乗のった形跡がないのである。武生は前二説と違って金原亭であり、馬きんは金原亭と古今亭の二度名のっている。ぎん馬は名前から判断すると古今亭のように思えるが、これは三語楼門下になってからであり、柳家で間違いない。

 古今亭志ん馬と柳家甚語楼を二度名乗っているので、名跡の数は十六。

 
 26日の放送では、アントワープオリンピックのマラソンで16位と低迷した金栗四三が、他のメンバーと一緒に帰国せず、ヨーロッパを旅していた。

 アントワープオリンピックの開催は1920年、大正九年。
 斎藤忠市郎説で、志ん生は金原亭馬太郎から金原亭武生に改名した年だ。

 ちなみに、本書で保田さんが書いているが、隅田川馬石の名は、三語楼協会を出てフリーになった時に名乗ったのだが、結局は泣かず飛ばずで、ほぼ一ヶ月後に三語楼に頭を下げて復帰し、再び甚語楼に戻っているとのこと。

 借金取りから逃げるため、と改名の理由を志ん生は語っているが、それだけではない歴史も背後には存在する。
 
 今後、「いだてん」で、若き志ん生にどんな出来事があり、いつどんな名跡を名乗るのか、なんてことも楽しみである。

by kogotokoubei | 2019-05-30 12:59 | 落語家 | Comments(0)
 先月行った末広亭のプログラムから。
 
 四代目圓歌の襲名パーティー(3月5日 帝国ホテル)では三遊亭金馬師匠が手締めの音頭をとった。3月で満90歳。NHK「お笑い三人組」の江戸家猫八(三代目)は01年に80歳で、一龍斎貞鳳(今泉良夫)は16年12月に90歳で亡くなっている。

 芸協は大正十四年生まれの米丸が最高齢。
 落語協会では、金馬だ。

 NHKの「お笑い三人組」の印象が強過ぎて、落語家としてのイメージがあまりないのだが、何度か高座を拝見している。

 しかし、若い頃の落語家としての姿は知らない。
 
 そんな時代の金馬の奮闘ぶりが、ある本に書かれていたので紹介したい。

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大西信行著『落語無頼語録』

 それは、大西信行さんの『落語無頼語録』。
 何度か紹介している本だが、昭和48年に「話の特集」に連載され、昭和49年に芸術生活者から単行本として発行されたものだ。
 ちなみに、この単行本のAmazonのレビュー(一件)は、私が書いたもの。
 なお、昭和51年には、角川文庫で再刊されている。
 
 本書「じり脚の・・・・・・金馬」から、引用。

 十年続いた『お笑い三人組』が終了して、幸か不幸かテレビの演芸番組も一時ほどのもてはやされ方はしなくなっていた。金馬も落語家金馬としての自分をつくり上げようと覚悟をしなければならなかった。「金馬いななく会」という勉強会をつくった。先代金馬の家の電話番号が1779番でイナナクと読ませていたことによるものだろう。現在もコツコツと会を続けていて、送られて来るハガキに刷られた金馬の演題の意欲がうかがわれて、聴きたいなァと思って予定は空けるのだが、なぜかその都度こちらの仕事とぶつかる羽目になって聴けないでいる。
 そのために金馬の芸がどれほどのモノに成長したかをぼくは知らず、『三人組』の印象から落語は下手だという世間の噂を鵜のみにはしないまでも、滑稽ばなしにのみ力を発揮できる人だと思い込んでいた。

 金馬は昭和4(1929)年3月19日生まれ、『お笑い三人組』の終了が昭和41(1966)年3月なので、終了時は、満三十七歳。

 独演会で“いななき”始めて数年後のこと。

 昭和四十五年、芸術祭参加の三越劇場での「精選落語会」のプログラムになにか書くようにと頼まれた。それを引きうけるについて出演者と演題をきくと、その中に三遊亭金馬の名がって、演題は『淀五郎』ということだった。
 ぼくは金馬に電話をした。
 芸術祭というものに対する批評は別にして、参加する以上は受賞するつもりで参加してほしい。受賞に価する得意に演(だ)しもので参加すべきではないのかという電話だった。
「いけませんかねェ、『淀五郎』じゃ・・・・・・」
 と、金馬は電話の向うで当惑げに言った。
「自分の会でやってみて、評判もネ、意外とよかったんですがね」
「まあ、それならそれでいいけど・・・・・・」
 と、こっちも金馬の『淀五郎』を自分で聞いていない弱味で、あいまいな言い方になる。
「今年はともかく、来年度はハッキリ受賞に狙いをつけてやるように、頼むよ」
 と、わかったようなわからないような、まことに煮えきらない調子で言って、電話を切った。
 ところが皮肉にもこれが芸術祭優秀賞を受賞してしまったのだから、こっちの面目はまる潰れだ。面目は潰れたが金馬が人情ばなしの『淀五郎』で賞を受けるまでのはなし家に成長しおおせたということは、ぼくにとってもまことに嬉しいことだった。ぼくはまた金馬に電話して、心からおめでとうと言った。
 
 四十一歳で、『淀五郎』で芸術祭の優秀賞を受賞していたのだ。
 そして、二年後には『品川心中-通し-』で、あらためて芸術祭に挑んだ。
 その演出において、大西さんがプログラムに書いた助言を活かし、審査員の永井啓夫さんが褒める高座だったが、以前受賞しているということで、授賞は見送られた。
 『お笑い三人組』で目立ち過ぎる場に十年もいたかれが、それからの七年間、こんどは目立たない場所でコツコツと努力を積みかさねて来て、いつの間にかそういう落語家になったのだろう。そのことに敬意を表したいと思う。

 この金馬の独演会のことを知り、私は桂歌丸が、すでに「笑点」が始まってテレビの人気者だった頃に始めた、三吉演芸場の独演会のことを思い浮かべた。
 昭和49年の一月が第一回なので、三十八歳で始めた独演会。
 ほぼ隔月での開催だったが、古典のみでほぼネタおろしの会と言ってよく、後に圓朝ものを手がける前の、噺家としての土台づくりができた独演会と言ってよいと思う。

 あらためて、金馬。

 中堅と言える頃、テレビタレントではなく、落語家として成長すべく“いなない”ていた時代があることは、私も含め、その時代の生の高座を知らない落語愛好家にとっては、覚えておいて良いことだと思う。

 なんとか、高座での元気な姿に、今後も出会いたいと思っている。

by kogotokoubei | 2019-05-05 19:36 | 落語家 | Comments(8)
 今夜の「いだてん」では、志ん生の無銭飲食事件が描かれていたが、さすがに借りていた宿代は、先日の記事で『正蔵一代』から紹介したように、寄席の席亭が払っていたなぁ。
 『びんぼう自慢』で志ん生の語るような、検事の支払いではなく、正蔵が語っていた説(事実かな)を、クドカンも採用したわけだが、妥当だと思う。

 それにしても、留置場での一席で、『文七元結』が登場するとは思わなかった。

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矢野誠一著『志ん生のいる風景』

 さて、矢野誠一さんの『志ん生のいる風景』から、戦前の速記に関する記事、第二回。

 講談社が発行した戦前の雑誌に掲載された落語の速記を集め、『昭和戦前傑作落語全集』が全六巻で発行されることになり、矢野さんが解説を引き受けることになった。
 もっとも多く収録された志ん生の口演の数々を、矢野さんは、半ば驚きを交えて紹介している。

 年代順に編纂された『昭和戦前傑作落語全集』に、志ん生の速記が初登場するのは第三巻で、この巻には、『円タクの恋』『悋気の見本』『長命』『代り目』『桃太郎』『ぞろぞろ』の六本が載っている。
 前の二本が五代目古今亭志ん馬で、残りの四本は七代目金原亭馬生の名になっている。時代区分でいうなら、いちばん早い『円タクの恋』が1934年(昭和9)の「講談倶楽部」八月号で、『ぞろぞろ』が1935年(昭和10)十二月号のやはり「講談倶楽部」である。わずか一年半のあいだに六本の速記を雑誌に発表している計算になるのだが、このほか全集におさめられていない作品もあるわけで、単純に数だけから判断するならば、かなり多いといえるだろう。

 志ん生を襲名する前の、志ん馬、馬生時代でも、他の人より多くの速記が雑誌に掲載される落語家だったということは、意外に知られていないと思う。私も、知らなかった。

 矢野さんは、それらの速記を読んで、このように書いている。

 こうした雑誌の速記にたくして、志ん生という落語家は思いきった独自の色彩を打ち出してみせている。新作を手がけたり、自身の大胆なアレンジをほどこすなど、他人とおなじ演り方はしたくないといった感じがはっきりと見てとれる。

 では、今では聴くことのできない『円タクの恋』が紹介されているので、紹介したい。
 この噺は、二代目円歌の『社長の電話』などの作者、鈴木みちをが、橘ノ百円時代の七代目の橘家円太郎のために作った『恋の円タク』が元らしい。晩年は音曲ばなし手がけた円太郎は、百円時代に新作を積極的に手がけた人だったようだ。
 その百円の演目だったものを、志ん生は、どう演じたのか。

 おどろくべきことは、鈴木みちをという作者の介在している作品でありながら、すでに志ん生独特の口調が全篇に脈打っていることである、

<ああそうですか・・・・・・向うなら向うといってくれるがいいじゃないか・・・・・・あああの紳士が、手を上げたよ・・・・・・へェお待ち遠さま・・・・・・へェ乗らないんですか、いま手を上げたでしょう・・・・・・ああワイシャツのぼたんが取れたので、ああそうですか・・・・・・なんだ、あんなやつワイシャツなどと着る柄じゃァない、新聞紙に穴でもあけて被ってろよ・・・・・・ああどこかのお嬢さんがパラソルを持って立っている。自動車を待っているに違いない・・・・・・へェ、お嬢さん、参りましょう・・・・・・ェッ、乗らないんですか、人を待っているんで、へッ、いい男でしょうね・・・・・・なーンだ、人の恋路の邪魔までできるか。>

 なんて運転手のモノローグなど、声を出して読んでみるとあの志ん生の語り口が彷彿としてくる。


 昭和9年の『講談倶楽部』に載った、志ん馬時代の口演。
 “パラソル”なんて科白を口にしていたと思うと、なんとも楽しくなる。


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保田武宏著『志ん生の昭和』

 なお、保田武宏さんは『志ん生の昭和』の中で、『円タクの恋』について、こう解説してくれている。

 円タクは一円タクシーの略で、長距離でなければ一円均一で客を乗せたタクシーである。
 (中 略)
 噺は、タクシーの運転手が、ガソリンスタンドに勤めるお君ちゃんという女性に恋をして、夜の十時に逢う約束をする。それまで二時間あるから稼ごうと町を流すと、普段は少ない客がこんなときにかぎってたくさんいて、やっとの思いで十時過ぎにすべり込みセーフで間に合う。ところがお君ちゃん、母親がうるさいから十時を過ぎたら帰らなければならないという。仕方なく明日改めてということにして、お君ちゃんと送っていく。家に帰ったお君ちゃん、母親に「遅いじゃないか。お友達のところへでも行っていたのかい」「いいえ、油を売っていたの」という噺だ。
 ところどころに「おまえなんか円タクに乗る柄じゃねえ。もっこに乗る柄だ」とか、「あんな奴ワイシャツを着る柄じゃない、新聞紙に穴でもあけてかぶっていろ」とか、後の志ん生らしいギャグが入っていておもしろい。これなら編集者も、続けて使う気になる。

 
 保田さんは、一席掲載されると三十円になり、サラリーマンの月給の半分位に相当し、これで、家計は多いに助けられた、と説明している。

 さて、あらためて矢野さんの本から、同じ志ん馬時代のネタ『悋気の見本』。

 矢野さんによるとこんな噺。
 
 『悋気の見本』は他愛ない小品といってしまえばそれまでだが、志ん生でなければ出せない味だけはちゃんとそなわっていることに感心する。
 (中 略)
 全然やきもちをやかない夫人を、友人のなみはずれて嫉妬深い夫人のところへ連れて行き、やき方を覚えさせるというナンセンスなものだ。

 ということで、どんな“味”わいがあるか、引用。

 掲載は昭和12年『キング』四月増刊号で、ちょうど名古屋城の金の鯱(しゃちほこ)がはがされるという事件があった頃とのこと。

<どうかすると手の届かないような所へ手を伸ばして、物を盗ろうなんてんで、名古屋城のしゃちの鱗(こけら)を持って行っちゃったりなんかします。あのしゃちは夫婦ですからな、細君の方が驚いて、
妻「本当にあきれっちまうよ。人間なんて本当に油断がならない。とうとうあなたわたしの鱗を持って行っちゃったわよ。本当に、この分じゃ、みんな鱗を持って行っちゃうよ。こんな思いをするくらいならば、いっそのこと、わたし生きているのがいやだから、お前さんと二人、猫いらずを服んで死にましょうか」
夫「馬鹿なことをいうな。夫婦で猫いらずなど服んでみろ、長年の間、名古屋のしゃちほこは金であると思われていたのを、二人で猫いらずを服んで死んでみろ、金と人は思わねえぞ」
妻「思わないことはありませんよ」
夫「イヤ思わねえ。二人で死んでみろ、あれは真鍮(しんちゅう)だなどといわれらァ」
 しゃちが洒落を言っております。>

 時局にあったエピソードを、たくみなくすぐりや小咄にアレンジしてみせることを、志ん生は晩年まで得意にしていたが、この名古屋城の金の鱗の小咄など、すでにその萌芽がうかがえるのである。

 説明するまでもないが、「真鍮」は「心中」の洒落。蛇足^^

 なお、名古屋城の金の鯱の鱗の盗難は、昭和12(1937)年1月6日に発覚した事件のようで、金の鱗が58枚盗まれていたらしい。

 明治二十三(1890)年生まれの志ん生なので、志ん馬の口演が雑誌に掲載された昭和十年前後は、四十歳半ば。
 貧乏のどん底から、雑誌への口演の掲載を弾みに経済状態も少しづつ改善され、その名も馬生から昭和14年、五代目の志ん生となる。

 その後、名前に負けない昭和の名人になる大きな要因が、戦前の口演にもみられる高い創作力にあったのだと、あらためて思う。

by kogotokoubei | 2019-04-28 20:57 | 落語家 | Comments(0)
 「いだてん」で志ん生に関する検索が増えたこともあるのだろう、過去の記事のアクセス数が増えている。

 私は、若い人も含め、ドラマをきっかけに古今亭志ん生という稀代の噺家さんのことを知る人が増えることは、良いことだと思っている。

 拙ブログでも志ん生のことは何度か書いてきた。
 しかし、持っている本から考えてみると、まだまだ紹介し足りないなぁ、などとも思う。

 あのドラマは、あくまで実在の人物をモチーフとしたフィクションとうたっているので、やや誤解を招くな内容もないわけではない。

 また、あのドラマでは描かれることのない一面も数多くあると思う。主役じゃないんだし^^

 ということで、今回再読した本の中からご紹介。
 志ん生は『火焔太鼓』などを代表として、元々ある噺を自分なりの工夫で磨き上げ代表作に仕上げる能力が高しい。
 そして、その創作力は、戦前、まだ売れる前から発揮されていたことを、ある本から紹介したい。

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矢野誠一著『志ん生のいる風景』

 矢野誠一さんの『志ん生のいる風景』は、初版が昭和58年の青蛙房刊、昭和62年に文春文庫で再刊。私はこの文春文庫を読んでいる。
 なお、今年、河出文庫でも発行されたが、「いだてん」の影響だろう。

 「曙光がさす」の章から、矢野さんがある落語集の解説を引き受けたことが書かれている。

 1981年(昭和56)の、たしか六月頃ではなかったか。突然という感じで、講談社文芸局の駒井皓二さんから電話があった。「お目にかかって、相談したいことがある」というのだ。駒井さんがまだ「小説現代」だったか、「現代」であったか、とにかく月刊誌の編集部にいた十数年前に仕事をさせてもらっていらいの久方振りの電話であった。
 有楽町の喫茶店で落ちあって、とにかくはなしをきいた。こんど講談社で、『昭和戦前傑作落語全集』というのを全六巻の構成で出すのだが、その全巻解説をやらないかというのである。この全集は、1926年(昭和1)から1941年(昭和16)まで、いわゆる昭和戦前期に刊行された講談社の雑誌「講談倶楽部」「重城倶楽部」「キング」「富士」が掲載した落語の速記六百二十篇のなかから、すぐれた口演を選りすぐって復元しようというもので、すでにリストアップされた案がコピイになっていた。
 なお、この全集の一部は、2013年の講談社学芸文庫から『昭和戦前傑作落語選集』として発行されている。

 さて、矢野さんは、芸の記録という意義のみならず、「まったく別種の落語」としての存在意義があると考え、この全集の解説を「一も二もなく」引き受けた。

 『昭和戦前傑作落語全集』の全巻解説という役目を、その場で引き受けたについては、もうひとつ理由がある。この全集に、古今亭志ん生の速記が二十一本も収録され、柳家金語楼の十八本、三代目三遊亭金馬の十六本をしのいで断然トップをしめていたからである。
 この解説を引き受けたときすでに、僕は少しずつ古今亭志ん生について書き始めており、まったくといっていいくらいに資料的な文献のとぼしい五代目古今亭志ん馬、七代目金原亭馬生、そして五代目古今亭志ん生を襲名するという、「昭和戦前」期におけるこのひとの仕事ぶりに、より以上の関心があった。

 志ん生は、昭和五年に笹塚から、あの業平の“なめくじ長屋”に引越し、この年だけでも、柳家東三楼から柳家ぎん馬、そして柳家甚語楼と名を替えている。
 古今亭志ん馬を名乗ったのは、昭和七年。
 金原亭馬生の七代目になったのが、昭和九年。

 改名の理由は、半ば冗談半ば本気で借金取りから逃げるため、と語る時代。
 その時代の高座の記録に出会った矢野さんの喜びが察せられる。

 また、当時、雑誌に速記が出る、ということについて、矢野さんは次のように書いている。

 寄席へ出るだけでおのれの生活をまかなっていた落語家がそう大勢はいなかったであろうことも、昨今の演藝事情とさしたるちがいはなかったはずで、ラジオに出ることや、雑誌に速記の載ることが、贔屓客の座敷と同様の重さを持っていた。
 つまり落語家にとって、「売れている」ということは、何軒もの寄席をかけもつことばかりはなくて、ラジオに出たり、雑誌に自分の速記が載ることでもあったのだ。

 戦前、改名を続けていた時分において、高座の速記が載ることに関して、志ん生が特別の思いを抱いていたはず、と矢野さんは洞察する。

 その矢野さんが解説を担当した本のネタの前に、志ん生の戦前の記録に関する、あの方の文章を引用。

 正岡容に、『増訂明治大正昭和新作略史』という文章があって、そのなかの昭和の落語家による新作落語の動きにふれた部分に、志ん生についての記述もある。

<古今亭志ん生のしん馬時代、「電車」「夕立勘五郎」の作があり、新体制以後「館林」を改作して、侠客とやくざものの解釈などを盛り込んだ一作がある。(題名を失念した)「電車」は幼児を枷にインチキな乗り方を試みる男の可笑しさ、「夕立勘五郎」は田舎廻りの訛りだらけのの浪曲師の素描である。
「電車」は譲り受けて故柳枝も演じたが、貧乏臭いこすっからさうな柄がしん生の方がピッタリ嵌って可笑しかった。柳枝が此を放送したときは左翼思想横行期で車掌たちから忽ち抗議を申込まれた。>
 
 志ん生に、いうところの新作があるというはなしはあまり知られていないから、1942年(昭和18)に書かれたこの文章におどろくむきがあるかもしれない。

  「電車」についての記録は残っていないようだが、矢野さんは当時流行った権太楼の「満員電車」や三代目柳好の「電車風景」と同工異曲だろうと察している。
 かたや、「夕立勘五郎」は、初代の馬の助もしばしば高座にかけており「あれはおやじの作なんです」と言っていたらしい。
 今でも、しっかり古今亭に残っていて、私は志ん輔のこの噺を末広亭で初めて聴いて、大笑いしたものだ。

 正岡容の文を紹介した後、矢野さんはこう書いている。

 いずれにしても、あまり自作があるとは思われていなかったこのひとに、いくつかの作品があったらしい事実は、意外な一面と受けとれなくもない。『昭和戦前傑作落語全集』に載っている志ん生口演の速記には、志ん生という落語家のそうした知られざる才能の発揮されているものが何本かあって、それがこの時代のこのひとの落語家としての活動のある一面をのぞかせてくれるのだ。

 では、その全集のこと。
 矢野さんは、戦前の講談社の雑誌に掲載され、全集に収められる予定の作品リストを見た。

 全部で二十一本収められている『昭和戦前傑作落語全集』の志ん生の演目をながめて、面白いことの気がつく。それでなくても、演目の決して少なくないひとではあったが、雑誌に載せる速記の性格をつねに考慮していて、多少とも毛色の変った演目を提供しようという意識が、ほかの落語家よりも強くはたらいているようにうかがえるのだ。もちろん、『長命』『代り目』『桃太郎』『ぞろぞろ』『お灸』『つもり泥』『犬の災難』『鯉のぼり』『百年目』『そば清』『淀五郎』『搗屋幸兵衛』と、半分以上は晩年までしばしば高座にかけていた演目の速記なのだが、おなじみのはなしであるはずのこの種の速記にも、志ん生ならではなお色彩はかなり濃厚に投影されている。
 どうやら雑誌に掲載される落語の速記は、高座の記録というよりも、独立した読物としての価値がなければならないという考えを、すでにこの時代の志ん生はいだいていたようで、そうした考えが、雑誌の速記もお座敷のひとつといった姿勢を表面上はとりつくろいながらも、ほかの落語家とはひと味ちがった速記を提供することにつとめていた気味があるのだ。そして、そのことが、この時代の志ん生にとっての精一杯の商売感覚なのであった。
 (中 略)
 寄席というところは、落語家にとって家庭のような意味あいが多分にあって、そういう場所では仲間うちでの評価、評判が必要以上に左右する。仲間うちでの評判の決していいとはいえなかった志ん生が、そうした評価の及ばない、放送、レコード、速記といった、寄席をはなれた場に於て活路をひらいていこうとはかったとしてもべつに不思議なことはない。

 まだ売れる前、雑誌から声がかかった時、一つの勝負の場を志ん生は思ったことだろう。
 いつも寄席でかける噺にしても工夫を加え、あるいは、当時でも珍しい噺(『円タクの恋』など)を意識的に速記の素材とした志ん生。

 どんな内容だったのかなども、次回はご紹介する予定。

by kogotokoubei | 2019-04-26 21:27 | 落語家 | Comments(0)

 昨日、ある記事へのアクセスが100を超えていた。

 それは、昨年3月28日の、「『正蔵一代』より(3)ー旅で出会った、志ん生の思い出。」という記事。
2018年3月28日のブログ

 「いだてん」の影響以外は、ちょっと考えられない。

 昨夜は、志ん生(朝太)が旅回りで浜松の寄席「勝鬨亭」に出ていたことが描かれていた。

 重複するが、昨年の記事は、こういう内容。

 なお、「いだてん」の朝太の旅の筋書きにおいて、来週の先取りになるということを、お断りしておく。

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 青蛙房『林家正蔵全集』別巻の『正蔵一代』から、三本目の記事。

 数え年十八で、三遊亭三福に弟子入りし、福よしとなった岡本義少年。

 前回ご紹介したように、三福は桂小南などがいる三遊分派に属していたが、この一派は長続きしなかった。

 そこで、福よしは、旅興行に参加した。
 
 もちろん大真打なんぞァいやしません。一番の頭株が、数年前に亡くなった立川ぜん馬(鳥井兼吉)さんです。
 あの人は、もともとは“鼻”の圓遊さんの弟子で、そのころは遊福でしたかねェ、旅のあいだは右圓遊っていってたかなァ。それから本名を川崎仙太郎といって、のちに橘家花圓蔵となりましたが、その時分に三遊亭遊橋といってましてね、もともと芝の薪屋のあるじで、川柳なんぞもうまくって、世事には大変長(た)けてる人なんで、これがまァ参謀格なんですよ。
 (中 略)
 まァそういう一座にあたしも入れてもらって、静岡だとか浜松とかをまわるんですけども、途中で抜けるやつもあるし、また、何処かから駈けこんできて仲間にはいるやつもいるし・・・・・・というような按配で、だんだん打って行って、焼津から浜松の勝鬨亭って小屋へあがったもんです。
 そン時に、こないだ亡くなった志ん生と、初めて出会ったんです。

 本書の発行が昭和49年9月。志ん生は、この発行日から、ほぼ一年前に亡くなっている。東大落語会のメンバーが稲荷町で正蔵に話を聞いた時点では、たしかに“こないだ”のことだったのだろう。

 どんな出会いだったのか。

 そのころは朝太といってたでしょうね。やっぱり旅まわりでほうぼうを歩いていて、落語の一座があったらとび込もうと思ってたんでしょうが、それもないんで、しょうがなくて、一文なしで宿屋へ泊まったんですね。それで無銭飲食のかどで警察へ突き出されたってんです。と、その時分ですから、区裁判所かなんかへ送られたんじゃないんですかね・・・・・・途中で、われわれ一行のビラを見たんです。それでその検事って人が大変情けのある人で、
「おまい噺家だな」
 ってんで、今、道で見た勝鬨亭のあの一行を知ってるって奴が言ったもんだから、勝鬨亭のほうへ、だれか出頭してくれって差紙が来たんです。
 するとこの勝鬨亭のあるじってえのが馬淵さんてえまして、まァ田舎政治家といったようなもんで、そういうことには慣れてるから、おめず臆せず出頭して行ったならば、その件なんで、
「この噺家が、おまえンとこにかかってる芸人の中へはいりたいと言ってる。宿屋の代金を払えば潔白な身の上になる、疵をつけなくないから、なんとか協力してくれないか」
 代金ったって大した金じゃァないんですよ。で、馬淵さんが即金で上納して、やつを引き取ってきて、ま、われわれの仲間へ入れてくれってわけなんで。

 以上が、『正蔵一代』における、朝太の無銭飲食による投獄(?)から脱出のいきさつ。

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古今亭志ん生『びんぼう自慢』(ちくま文庫)

 ところが、小島貞二さん聞き書きによる『びんぼう自慢』では、難を逃れた件、ご本人はこう語っている。

 小円朝一行は、東京に帰ることになったのだが、朝太は、帰っても尊敬してやまない円喬は亡くなってしまったこともあり、一人残って旅を続けることにした。

 ひとり旅の苦労なんてえものは、そりゃァお話にもなにもなりゃァしません。
 あたしゃ一文なしで、名古屋から静岡県の掛川まで歩いたことがあるんです。いま汽車で通るてえと、ほんの一時間ばかりだが、さて、歩くてえのはヒマがかかるもんですよ。
 名古屋を発って二日目かなんかに、弁天島のとこまで来るてえと、渡しがあって「渡し賃八銭」と書いてある。弱ったなァと思いながらひょいとわきを見るてえと、めし屋があって、そこで酒ェ呑んで陽気にさわいでいる奴がいる。
「すみませんが、ひとつ都々逸かなんか歌わせてください」
 と声をかけたら、「あァ、いいよ」というから二つばかりトーンと歌ったら、十銭くれた。
 天の助けとばかり、舟ェのったんです。舟の中では向こう岸につく前に、渡し賃を集めに来るんだが、また天の助けという奴なんでしょうね、あたしのとこだけ来るのを忘れて、スーッといっちゃった。
「ありがてえな、どうも・・・・・・」
 てんで、芋を二銭、せんべいを二銭買って、そいつをかじりながら浜松まで歩いて、そこに知った勝鬨亭という寄席があったから、いくらか貸してもらって、また掛川まで歩いたんですが、何しろ焼けつくような炎天の下を、腹をすかして歩くんだから、マラソンの選手よりなおひどいです。

 おや、期せずしてマラソンなんて言葉が登場^^

 そして、あえてこの浜名湖の南、弁天島の渡しの場面から引用したのは、「いだてん」の筋書きにも関係してくるからである。

 弁天島は、ドラマの二人目の主役田畑政治と、縁(ゆかり)のある場所なのである。
 昨夜は、“河童”たちが、弁天島の海水浴場で泳いでいたよね。

 舞阪町観光協会のホームページに、田畑政治の特別ページがあり、浜松中学時代に弁天島海水浴場で泳いでいたことが紹介されているので、ご紹介。
舞阪町観光協会のホームページ

田畑氏が進学した浜松中学校の水泳部が、弁天島で水泳訓練を行っていた際の合宿先。田畑氏は水泳大会があると茗荷屋に宿泊していた。茗荷屋旅館の子息・堀江耕造氏は水泳部の中心人物で田畑氏の大先輩。水泳部の本部は舞阪町の宝珠院に置かれていたが、参加者が増えたため茗荷屋に移転した。
(旅館は現存しておらず、別荘跡から西隣3軒目に位置していたと思われる弁天島海浜公園内東側に看板がある。)

 茗荷屋旅館、というのが、落語愛好家にとっては、なんとも楽しいなぁ。

 さて、朝太の旅の話に戻ろう。

 宿があったから、そこへとび込んで、夕飯をガーッとかっ込んで、死んだように寝ちまった。ふところには一文もねえことを、ちゃァんと心得ての上だから、考えてみりゃァ向こう見ずの話だが、一応の心づもりはあるんです。
 朝になって食事が出る。一粒のこらず平らげて、そこで腹のできたところで肝ッ玉ァきめて、宿の主のとことへ行って、
「実は、そのォ、おあしがないんですが、あたしゃ東京のもんだけど、帰ったらじきにお届けにあがりますから、しばらく貸しといてください」
 と頼んだんだが、こんどばっかりは天の助けてえわけには参りません。警察へつき出されて、留置場てえのにぶち込まれてしまったんです。
 そのこと、東海道に宿屋荒らしがあって、警察じゃァ、手ぐすねひいて待ってるところへ、あたしが来たから、「こいつだッ!」てんで、ボーンとほうり込んだんですね。何しろ、毎日炎天を歩いているから色はまっ黒けだし、食うものだって満足にゃ食ってねえから、目ばかり光って人相はわるい。そうにらまれたってしょうがなかったのかもしれません。
 ちっとも出してくれねえから、弁当の来るのを待って、食っちゃァ寝、食っちゃァ寝して、小さな声でモソモソとはなしの稽古をしてるところへ、一人凄そうなのが入って来た。何でも土地のやくざの親分で、喧嘩かなんかしたらしい。
 差し入れがウンとあるから、一人じゃァとても食べ切れやしません。あたしに余りをくれる。そんなことですっかり心安くなっちまった。
「おめえ、いったい商売(しょうべい)は何だい?」
 ときくから、
「へえ、あたしやァ東京のはなし家で、実はこうこう・・・・・」
 と宿でのいきさつを話すと、
「ふーん、そんな大物とまちがえられちゃァ気の毒だな。どうだい、はなし家なら、一つおれにきあkせろ」
 てえから、あたしも退屈しのぎに二席ばかりやったら、手は叩かねえけど、親分スッカリよろこんじまった。
 親分のほうは、うらから手を回したかなんかで、先に出て行ってあたしのほうがあとになっちまって、しばらくたって無銭飲食とかなんとかで、裁判所へ回されたんです。

 親分が、助けてくれたわけではなかった。
 さて、この先の内容が、正蔵とご本人とで、違ってくる。

 検事が出て来て、ひょいとあたしの顔ォ見て、
「おう、お前は東京の芸人だな」
「へえ、そうです」
「お前は、近ごろ東海道を股にかける宿屋荒らしの一味ではないかという容疑がかかっとるが、どうも、そうではないようじゃ」
「わかりますか」
「私は、以前、東京でお前の落語をきいた覚えがある・・・・・・」
 あたしは、あのときほど芸人のありがたさを感じたこたァありませんね。結局、宿料一円三十銭を、その検事さんが立て替えて、ミッチリ意見をされて、あたしは助かりましたが、なにしろわるい奴には有無をいわさなかった時代でありますから、あの検事さんと出っくわさなかったら、それこそどうなっていたかわかりゃしません。
 あたしも、その後どうにかなるようになってから、一度、その検事さんに会って礼の一つも言いたいと思って、随分捜したんですが、とうとう会えません。

 あら、宿屋の借りを払ったのが、なんと、検事と回想している・・・・・・。

 冒頭に紹介したように、正蔵は、勝鬨亭のあるじの馬淵さんが支払った、と語っている。

 志ん生の話も、話としてはよく出来ている(?)のだが、これ、正蔵の記憶が正しいのだろうねぇ。

 次回の「いだてん」では、果たして、どう描くのだろうか。
 
 ちなみに、『正蔵一代』では、留置場から出た朝太との最初の出会いが、次のように書かれている。
 あくる朝になってね。どうせわれわれァみんな楽屋へ泊まってるんですから、田舎の寄席で、戸外(おもて)に水道があって、そこィバケツを持ち出して顔を洗うんです。で、やつとあたしと顔を洗っちゃってから、あいつが、
「おい、ちょいとまんだら貸してくンねえか」
 まんだらてえのをあたしがまだ知らないんですねェ、噺家になりたてだから・・・・・・。
「おゥ、手拭いだよ」
 って言われて、手拭い貸してやった、というような仲なんで・・・・・・。ですから彼とはずいぶん古くから知り合ってるんですよ。

 志ん生のほうは、『びんぼう自慢』を含め、留置場を出た後のことや正蔵との最初の出会いのことを語った形跡が見当たらない。

 記憶が薄らいでいたのかもしれないが、自分の惨めな姿を知られている他人の存在を、あえて公表したくなかったのか・・・・・・。


 さて、「いだてん」も新たな局面を迎えている。 
 なかなか、面白くなってきた。
 なかでも、大竹しのぶの演技、光っているねぇ。

 制作スタッフは、視聴率なんてぇものは気にしないで欲しい。

 今後も、金栗四三、田畑政治、古今亭志ん生の物語を楽しみたい。
 
by kogotokoubei | 2019-04-22 12:36 | 落語家 | Comments(0)
 またか、という声が聞こえてきそうなのですが、古今亭志ん生の最初の師匠のこと。

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矢野誠一著『志ん生のいる風景』

 本件について書くにあたって、矢野誠一さんの『志ん生のいる風景』を忘れかけていた。
 本棚の奥に、横積みにした数冊の文庫の下の方に、カバー付きで置かれていたので、見逃していた。

 志ん生について語るなら、避けて通れない本だよねぇ。

 初版が昭和58年の青蛙房刊、昭和62年に文春文庫で再刊。私はこの文春文庫を読んでいる。なお、今年、河出文庫でも発行されたが、「いだてん」の影響だろう。

 本書に、「ひとりの師」という章があった。
 
 小島貞二さんの『びんぼう自慢』の中の「円喬師匠のところへ弟子入りして、最初につけてもらった名前が三遊亭朝太」という志ん生自身の言葉があることや、昭和46年の「文藝春秋」掲載の対談でも、志ん生が円喬に最初に入門したと語っていることを紹介した後、このように矢野さんは書いている。

 いずれにしても、落語家古今亭志ん生の最初の師が、四代目橘家円喬であるというのは、当の志ん生没後もしばらくのあいだは定説であった。その定説を否定して、志ん生の最初の師を、二代目三遊亭小円朝であると記したのが、結城昌治『志ん生一代』で、「週刊朝日」連載第一回、まさに発端の章にこう書かれている。

<その志ん生が三遊亭小円朝(二代目)に弟子入りして、朝太の名をもらったのは明治四十三年(1910)、ちょうど二十歳のときである。>

 結城昌治さんが、古今亭志ん生の最初の師匠を、三遊亭小円朝で橘家円喬ではないと推断した最大の根拠は、三遊亭朝太という志ん生に与えられた前座名にある。志ん生自身が、『びんぼう自慢』で、「円喬師匠が若いころやっぱりこの名前をつかっていたそうでありまして」と語っているように、橘家円喬は八歳のとき三遊亭円朝に入門して、三遊亭朝太を名乗っている。しかしこれは、三遊亭円朝の「朝」の字をとった命名で、円喬となってから自分の弟子に「朝」の字のついた名を与えている例がないことなどから推しはかっても、二代目小円朝の弟子で朝太と考えるほうが自然である。橘家円喬が、四十七歳という若さで逝ったのは1912(大正1)十一月二十二日のことなのだが、当時の新聞や雑誌に載った訃報や追悼の記事をさがしてみても、朝太という弟子がいたという記録はない。

 そうそう、結城昌治さんの『志ん生一代』では、疑いもなく二代目小円朝の弟子、としてあった。
 ちなみに、結城さんに志ん生の本を書くよう勧めたのは、立川談志らしい。

 さて、結城昌治さんの本、小説ではあるが、本人聞き書きによらない一代記として志ん生を知る上での必読書だ。
 今年、小学館文庫で再刊されたのは、「いだてん」効果だろう。

 これまでにも、何度かこの本から記事を書いている。
2008年10月13日のブログ
2012年9月1日のブログ
2012年9月22日のブログ
2013年9月21日のブログ
2017年7月21日のブログ

 さて、矢野さんの本に戻る。

 矢野さんは、小島貞二さんの『びんぼう自慢』本文の内容と年表の矛盾を見逃さなかった。

 『志ん生一代』で結城昌治さんが、志ん生の橘家円喬門下説を否定したことは、故人の周辺にはまったくといっていいくらい影響を与えなかった。誰の弟子であろうと、古今亭志ん生は古今亭志ん生なので、その後すぐれた落語家としての名跡は、師匠筋が誤り伝えられたくらいのことでは、びくともするものじゃない。
 波紋は、むしろべつの方面に及んだ。たとえば。1970年(昭和45)に刊行された『志ん生廓ばなし』(立風書房)についている年表で、
 <明治四十年  十七歳
  浅草富士横丁のモーロー俥夫の家に居候しているとき、すすめられてはなし家を志し、運よく“名人”といわれた橘家円喬門下となり、三遊亭朝太の名をもらう。>
 と、している小島貞二は、『志ん生一代』が公にされたあとの、1977年(昭和52)に出た文庫版の『びんぼう自慢』(立風書房)の年表を、

<明治四十一年(1908) 十八歳
 四月二十三日、兄(二男)益没、二十九歳。あとの兄弟はみな夭折して、五男の孝蔵のみのこる。
 円盛のひきで、円盛の師匠初代(正しくは二代目だが芸界では初代)三遊亭小円朝門下に転じ、朝太の名をもらう。「名人四代目円喬の弟子になった」と志ん生本人は語っているが、師匠筋とすると小円朝が正しい。同門に二代目小円朝(初代の実子、当時朝松)、それにのちの講談師田辺南鶴(当時一朝)がいた。>

 と、訂正した上、「楽屋帳(あとがきにかえて)」と題する末尾の文章で、こうのべている。
<年譜を対比しながら、この本を読んだ方は、「生年月日から違ってるではないか」「両親の名前も違うのは、どうしたことだ」などなど、さまざまな疑問を感じられるに違いない。
 実は、私は、そういうことを、随分取材の折り、念を押した。
 放浪時代の入墨のことも、最初の師のイカタチの円盛のことも、そして小円朝のことも、それとなく伺ってみたのだが、その辺のところは触れるのを嫌うように、志ん生師は話題をすぐ別のほうへ動かした。
 (中 略)
 志ん生という人を、本人の談話を忠実に、活字の中に生かすことが、与えられた私の仕事で、何もかもすべてをすっぱ抜き、大上段に人物論を展開するのが目的ではない。本人の語らない・・・・・・無理に語ろうとしない面は、そのままにしておくことが、やはりこうした読物のとるべき態度であろうと、私は今も信じている。>

 この矢野さんの引用を読んで『びんぼう自慢』文庫版の年表を確認した。
 たしかに、「楽屋帳」の「四」に、この通りに記されている。

 小島さんも、苦渋の決断での「聞き書き」であったのだろう。
 矢野さんは、この楽屋帳の内容について、「なんとも歯切れのよくない」印象としている。

 そして、こう書いている。
自分の師を橘家円喬だとする発言が、戦後満州から引きあげてきてからのものと思われるところに興味がわく。

 その後、正岡容が『當代志ん生の味』という文章で、正岡も最初の師匠を小円朝と書いていることを紹介した後で、このように、この問題(?)への考察を締めている。

 戦前の、赤貧洗うがごとき暮しをしていた落語家の時代には、その経歴に注目するひとなどそういなかった。だが、満州から帰国していらい、たちまち時代の寵児のあつかいを受け、東京落語界の指導的地位に立たされてしまった志ん生には、自分の経歴をかざることも必要になってきたのである。三遊亭小円朝よりも橘家円喬のほうが師としてふさわしいというより、橘家円喬でなければならない理由が、志ん生にはあった。

 なるほど・・・なのである。

 結城昌治さんは、小説でありながら実証的な推理を元に最初の師匠を小円朝とし、小島貞二さんは、その本人の言葉を疑いながらも円喬としながら、結城さんの本の出版後、文庫の年表では、正しいと思われる内容を補足した。

 そして、なぜ本人は「円喬の弟子」を強調したのか・・・は、矢野さんの書く通りなのだろう。

 前の記事で、小島貞二さんの『志ん生の忘れもの』に、この問題(?)は、「幻の中」にある、という記述を紹介した。

 小島さんの気持ちも、よく分かる。

 とはいえ、矢野さんの指摘で、「幻」の霧が晴れたのも事実。

 この件、これにてようやくお開き。
 
by kogotokoubei | 2019-04-11 22:27 | 落語家 | Comments(2)
 先日、古今亭志ん生の最初の師匠は、「いだてん」が描くように四代目橘家圓喬ではないだろう、と書いた。

 あくまで、憧れの師匠が圓喬であり、ご本人が圓喬に入門したとおっしゃっているのは、願望する余りの思い込みではないか、と書いた。

 実は、あの記事で、小島貞二さん聞き書きの『びんぼう自慢』の内容は、あえて引用しなかった。

 なぜなら、あの本では、明確に最初の師匠は円喬と紹介されており、「いだてん」も、たぶんに『びんぼう自慢』を土台にしていると思えたからだ。

 しかし、前回の記事を書いてから、小島さんの本で、見逃せないものがあったことを思い出した。

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小島貞二著『志ん生の忘れもの』(うなぎ書房)

 その本は、『志ん生の忘れもの』(うなぎ書房)。
 平成11(1999)年の発行。
 同じ書店から出ている小島さんの『こんな落語家(はなしか)がいた-戦中・戦後の演芸視-』は、何度か紹介している。

 小島貞二さんと志ん生とのお付き合いは長く、深い。

 その二人の出会いのおかげで、落語愛好家のとって宝物とも言える多くの志ん生に関する作品が残された。

 最初、『サンデー毎日』の連載企画のために小島さんによる志ん生の聞き書きが始まり、その内容から『びんぼう自慢』が生まれた。

 毎日新聞から立風書房に移ってから、その『びんぼう自慢』の再刊に続いて、「志ん生○○○ばなし」シリーズが発行された。

 ちなみに、この本の発行元うなぎ書房は、その立風書房を退社された方が創業した会社。

 「まえがき」から、まずご紹介。

 志ん生さんとのやりとりは、普通のインタビューとは違っていた。
 普通は、一問一答の形で進む。話のキャッチボールで会話が弾むものであるが、志ん生さんの場合は違う。
 一つテーマを示す。「きょうは、子どもの時分のことを・・・・・・」と注文すると、「えー、あたしのガキの時分の、上野、浅草なんてえものは・・・・・・」ともう始まっている。
 あくる日、酒についての注文を出す。「酒えてことになると、あたしは、どうも、ダラシがなくなっていけませんや・・・・・・」、その次は旅、その次はバクチ。「ひとり高座」が十五分も二十分も続く。その日の気分で、いつ、どこから、どっちへつながるのかわからない。
 時には同じ話が二度、三度と返ってくるかと思うと、その同じことのある部分が拡大され、そこから新しい話がまた始まる。無尽蔵の宝庫の中で、しばし迷子になるような気分であった。底の知れない穴蔵に、腕を突っ込んで、埋もれた金塊を探す光景にも似ていた。

 なんとも、贅沢なインタビューだろう。
 
 小島さんというたった一人の客に向かっての、志ん生の高座、とでも言うべきか。

 そんな長時間の聞き書きを、「思い出すままを記した」のが本書、と説明されている。

 本書の「朝太ひとり旅」より引用。

 志ん生さんにきいた、もっともいい話、もっともドラマテックな話を一つ。
 若いころ・・・・・・おそらく朝太の時代であろう。小円朝一座で旅に出た。
 小円朝は当時、三遊派の頭取をつとめた大看板であったが、ちょっと協会にごたごたがあり、責任をとっての旅回りということらしい。前座がひとり足りないからと、朝太がかり出されたのである。
 旅先で、師匠円喬の訃を知り、体中の水分がなくなるほど泣く。旅が一年半ほど続くが、ドサ回りはどこも客が入るとは限らない。ご難が続く。
 そのうちに、「いい加減に、東京に戻っておいでよ」の手紙が来て、小円朝一行は帰京ときまる。朝太も、「お前も、一緒に帰るんだろうね」ときかれる。朝太は考える。
 帰っても師匠(円喬)はいない。このまま小円朝の弟子になる気が向かない。多少芸に自信みたいなものも生まれて来ている。ここでひとり旅をして、いよいよ困ったら東京に戻ればいい。
 友達の窓朝に相談してみると、「ひとり旅も面白いもんだぜ。でも大変だけどもなァ・・・・・・」という。「面白いもんだぜ」と「大変だけどもなァ・・・・・・」を両天秤に掛けて前者を選ぶ。
「それじゃァね、しっかりおやりよ。でもね、身分が前座のままでは通りもわるかろうから、わたしが許すから、これからどこへ行っても、東京の二ツ目ってえことにしたらいいよ」
 と、小円朝から餞別と一緒に、特別に「二ツ目」をもらう。こうして、朝太ひとり旅がはじまる。

 ということで、この文章からは、志ん生が円喬の弟子だったことを、まったく疑う様子が見えない。

 あまりに、志ん生と近づきすぎたことによる、錯覚の共有なのか・・・・・・。

 それとも、小島さんが何度も聞く中で、志ん生ご本人が語る円喬の思い出話から、弟子であったことの信頼性が高いと、判断したのか・・・・・・。

 などと思っていたら、この章のしばらく後に、種明かしのような章があった。

 その名も、「最初の師匠」から引用。

「あたしは、はじめ円盛のとこにいたんですよ」
「えッ、あの、イカタチの円盛の?」
「うん・・・・・・」
 私が飛び上がるほどおどろいたというのは、全くの初耳で、円盛は“奇人”で知られてはいるものの、二流の落語家で、ほとんど無名といってよい。
 志ん生さんは『びんぼう自慢』の中でも、名人といわれた橘家円喬(四代目)の弟子だといっている。最初の名が三遊亭朝太であったこともはっきり語っている。朝太は円喬の最初の名。出世名前である。
 私も、最初の『びんぼう自慢』取材の折、そこのところを二、三度確かめたが、忘れてしまったのか、思い出したくないのか、多くを語ることはなかった。
 志ん生さんのいう「名人円喬の弟子」で、そのときには原稿を統一したいきさつがある。自伝の聞き書きは、誰の場合でもそうであるが、ご本人や記録を大事にしなければならない。
 そこは、いきなり奇人円盛“が、最初の師匠として飛び出した。それもこちらが何も聞かないのに、志ん生さんがポツリと告白のようなひとことだから、驚いて当り前だ。

 このポツリの述懐は、信憑性がありそうだ。

 だから、まずは最初、円盛の弟子、というのは動かせないだろう。

 小島さんは、美濃部孝蔵少年の家出以降を、このように推測している。
 毎日遊んでばかりにはゆかない。さほどの期間ではないが、御徒町の鼻緒屋に奉公したことがある。そのころ芸事に夢中になり、天狗連(アマチュア、セミプロごっちゃの芸自慢)に入り、そういうグループを仕切る三遊亭円盛の内輪になる。そのときの芸名は盛朝。かなり達者で評判もいい。本格的にプロの道に入りたいと願うようになり、円盛に相談すると、
「じゃあ、ウチの師匠に頼んでみよう」
 と、円盛の師匠、小円朝に紹介され、そこに入門する。
 入ってみたが、師匠との折り合いがあまりよくない。寄席できく円喬の名人芸に惚れ込んで、「師匠はこの人だ」とのめり込む。
 あるいは、小円朝の許しを得て、人形町の玄冶店に住む円喬のとろろに通い、身の回りの世話をしながら、稽古を受けたことが、一時期あったのかもしれない。円喬の没は大正元年十一月二十二日、四十八歳だから、志ん生さんが円喬に接したのは、さほど長くはない計算になる。円喬没後改めて小円朝門下に転じたのかもしれない。
 のちの九代目土橋亭里う馬は、その円喬の最晩年の弟子で、初名を喬松といった。
「志ん生さんは、円喬の弟子だったことがあるんですか」
 と生前、里う馬に聞いてみたが、笑ってイエスともノーともいってくれなかった。
 三代目の三遊亭小円朝は、二代目小円朝の実子。志ん生より二つ年下で、十六歳でg父に入門、初名を朝松という。
「志ん生さんは、円喬の弟子だったといってますが、本当は、お父さんの弟子で、師匠とは兄弟弟子でしょう」
 と、きいたことがあるが、これもはっきりと返事をしてもらえなかった。
 功なり名を遂げた“天下の志ん生”に対し、仲間うちで否定的なことは絶対のタブーと、私は理解した。
 志ん生さんのプロとしての最初の師匠は円喬なのか小円朝なのか、幻の中にある。

 この、円喬の弟子だった土橋亭里う馬と、三代目小円朝の小島さんの質問への態度に、事実が隠されているようにも思う。
 なるほど、あの時代の噺家さんは、小島さんの質問に軽々しく答えるようなことはなかった、ということか。

 志ん生が、生涯「円喬の弟子」と言い続けた気持ちも、汲み取ってあげる必要があるのだろう。

 実際に、円喬宅を訪れ、稽古をつけてもらった可能性も、ある。
 師匠の乗った人力車をひいた、というのは、考えにくいのだけどね^^


 さて、あらためて、志ん生の師匠は誰だったか。

 小島さんの言うように、その答えは幻の中にそっと閉じ込めておくのが、よさそうだ。

by kogotokoubei | 2019-04-08 21:36 | 落語家 | Comments(0)
 「いだてん」では、古今亭志ん生が、名人の誉れ高い四代目橘家圓喬の弟子として描かれている。

 しかし、落語愛好家の方はご存知のように、本人はそう言っているが、たぶんに疑わしい。

 今回は、そのあたりについて、少し。

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 『古今東西落語家事典』では、こうなっている。

 出生日には六月五日、六月十日の異説がある。
 三遊亭圓盛(いかたちの)門人の天狗連で盛朝を名乗ったが、明治四十三年ごろ二代目三遊亭小圓朝門下となり朝太と名づけられた。大正五年ごろ三遊亭圓菊で二ツ目に昇進、さらに馬生(のち四代目古今亭志ん生)門に移って金原亭馬太郎、さらに金原亭武生と改名、同十年九月、金原亭馬きんで真打に昇進した。

 圓喬に入門、とは書かれていない。

 しかし、圓喬の名は次のような文脈で登場する。

 晩年売れたのも、崇拝していた四代目橘家圓喬などの本格的な噺を身につけた上で、柳家三語楼の明るい話し口を加えた独特の芸風が迎えられたものである。

 この事典の執筆者の一人の本にもあたってみた。


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保田武宏著『志ん生の昭和』

 保田武宏さんの『志ん生の昭和』(アスキー新書)だ。
 著者の保田さんは志ん生のCDとDVDの全作品691のガイドブックも書いているし、志ん生のことを知るには、保田さんの著作に当るべきだろう。

 もしかすると、事典とは違う沿革が書かれているかもしれないと思ったが、本書でも、このように記されている。

 放蕩生活を続けたあと、明治三十八年に天狗連に加わる。天狗連というのは、素人の落語家の集りで、当時たくさんあった端席の寄席などで高座に上がっていた。その仲間に入って、三遊亭圓盛(堀善太郎)のもとで三遊亭盛朝と名のった。この圓盛という人は、二代目三遊亭小圓朝(芳村忠次郎)門下のプロの落語家で、背が低くて頭が大きく、イカが立って歩いているようだというので「イカタチの圓盛」と呼ばれていた。芸はまずかったが、奇人として有名だった。
 この圓盛の師匠である小圓朝に入門したのが明治四十三年、数え二十一のときだといわれている。三遊亭朝太の名前をつけられ、プロの落語家としてのスタートをきった。
 このように、圓喬の名は、まったく出てこない。

 では、珍しい親子の会話もご紹介。

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『志ん生芸談』(河出文庫)

 『志ん生芸談』は、本人が落語集のために語り下ろした言葉や、雑誌に掲載された対談などが収められている。

 その中に、昭和36(1961)年12月4日号の『週刊文春』の記事がある。
 記者が日暮里の志ん生宅を訪問して書かれたもののようだ。
 
 日付は昭和36年11月19日、倒れるほぼ一ヶ月前になっている。

 真打昇進の一年前で、まだ朝太の志ん朝が、志ん生のネタ帳を見ての親子の会話。

「“和歌三神”か・・・・・・父チャン、これできねえだろう?」
「できるよ。圓喬さんがうまかったネ・・・・・・。“鰍沢”なんてえのは、天下一品だったネ、楽屋で聞いてて、柱に頭ぶつけて、目ェまわしたことあるんんだもんネ・・・・・・」
「その名人の圓喬さんの噺てえのを聞いてみたいもんだネ」
「円喬さんを知ってえるのは、アタシと文楽さんだけだ」
「父チャン、圓喬さんの弟子だたってえけど、掃除なんかしにいったの?」
「そりゃ、もうオメエ、朝早く出かけてくてえと、もうチャンと起きてるからネ、そいでもって、きせる掃除したりなんかしたん・・・・・・」
「じゃあ、ほんとのお弟子さんだったん?・・・・・・なァんて、父チャン疑ぐられちゃってんだ」

 この志ん生の言葉を信じるならば、圓喬の弟子だったことになるが・・・・・・。
 崇拝していた圓喬の弟子だったことにしたい、という願望が、弟子だった、と自分も思い込むほどの錯覚につながったのかもしれない。

 志ん生が圓喬の弟子だったのかどうかは、結構、大きな落語界のミステリーと言えるかもしれない。

 くどかんは、弟子だった、ということで脚本を構成しているが、なかなかに微妙なのである。

 私は、あくまで憧れだったのが圓喬であり、弟子ではなかった、と思っている。

 次回「いだてん」では、小圓朝門下として旅に出る場面が描かれそうだ。

 地方回りでの逸話も多いので、いろんな事件(?)が描かれるだろう。

 松尾スズキの出番は、今後減っていくのは残念だが、小圓朝や他のドサ回り仲間がどう描かれるのかは、楽しみにしたい。

 余談だが、引用した昭和36年11月の出来事の中で、11月17日には、東京落語会で『火焔太鼓』の後、新宿末広亭で『寝床』をかけている。
 71歳だったが、まだまだ元気だったことが分かる。
 翌月12月15日が、巨人の祝勝会だ。

 私は、志ん生が倒れた原因を知ることで、アンチジャイアンツの度合いが増した。

 
by kogotokoubei | 2019-04-04 12:53 | 落語家 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛