噺の話

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カテゴリ:落語家( 69 )


 闘病中だった立川左談次の訃報を目にした。

 朝日新聞から、引用する。
朝日新聞の該当記事

落語家の立川左談次さん死去 67歳、8日前まで高座に
2018年3月20日23時12分

立川左談次さん(たてかわ・さだんじ=落語家、本名山岡通之〈やまおか・みちゆき〉)が19日、食道がんで死去、67歳。通夜は25日午後6時、葬儀は26日午前11時から東京都荒川区町屋1の23の4の3の町屋斎場で。喪主は妻光子さん。

 68年に立川談志に入門し、82年に真打ち昇進。16年にがんであることを公表し、治療を続けながら、今月11日まで高座に上がっていた。

 実は、ぜひ聴きたかったので、来月の渋谷での雲助との二人会のチケットを取ろうとしていた矢先だった。

 残念、無念だ。

 最後のブログの記事は、2月16日付け、20日間休まず通院して治療した後のもので、「褒めてつかわす」と題するものだった。
立川左談次のブログ

副作用も辛いけど、仲間の笑顔の為ならなんのその
 の言葉が印象的だ。

 ツイッターは3月5日が最後で、体調最悪、とあった。

 こまめに一門の人の近況を綴っている談四楼のツィッターを見ても、予期していなかったことがうかがわれる。
立川談四楼のツィッター

 昨年11月のNHK BSプレミアム「アナザーストーリーズ」で志ん朝を取り上げた番組に登場していたことを思い出す。
2017年11月1日のブログ


 やはり、もっと早くに、聴きに行くんだったなぁ、と悔やまれる。

 合掌

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by kogotokoubei | 2018-03-22 12:17 | 落語家 | Comments(4)
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暉峻康隆『落語藝談』(小学館ライブラリー)

 長々と二代目桂小南の『落語案内』より、小南の半生について書いてきたら、どうしても、初代小南のことが気になってきた。

 まず、当時の金太郎に二代目襲名を許した文楽が、その師匠のことを語っている本を読むことにした。

 では、暉峻康隆さんとの対談集『落語藝談』より。

文楽 父が亡くなったので、私は小学校を三年でやめたんです。九つか十でしたろうか。しばらくボンヤリ家で暮らしていると、おふくろの二度目の、つまりコレ(亭主)ですめ。コレなるものが昔でいう次男、三男ですよ。道楽者で、三味線の一つも弾いて、頭がはげている、はげているけれども、鼓の一つも打ったりなんかするという道楽者ですよ。それと古着屋をしている私の知り合いの人がいて、それが落語のほうの縁引きー落語界に商いに行って出入りしていた。はなし家のみなさんの寄り合いがあると、そこへ「いかがでしょう」というやつですよ。そうすると、それがいまの小円朝さんのおとっつぁんが会長している時分ですから。
暉峻 先代小円朝さん(大12・8・13没。円朝門の古老、三遊派頭取)は頭取でした。
文楽 そうでした。その時分「頭取」といっていました。その縁引きで、大阪から来たばかりの桂小南(昭22・11・21没)というはなし家に、その人と親父の世話で、あたくしは弟子入りしてはなし家になったというわけです。どうです、筋が通っていましょう(笑)
 なるほど、こういう背景、いきさつがあったんだ。
 それにしても、“はげているけれども”鼓や三味線をたしなむことに文楽が疑問を抱いているようなのは、果たして“筋が通って”いるのかどうか^^

暉峻 大正六年ですね。落語睦会(大6・8・1結成。五代目柳枝が会長、五代目左楽が副会長)が桂小南を迎えたのは。
文楽 その睦会へ迎えた前です。あたくしが弟子になったのは。-睦会じゃないでしょう。
暉峻 東京寄席演芸株式会社(大6・8神田の立花、人形町鈴本など寄席二十八軒と小さん、円右、燕枝、円蔵らを株主として発足。月給制を志向する)というのがあって・・・・・・。
文楽 睦会かな。とにかく小南さんがそのときによしましたんです。睦会ができる前に。自分が営業をよしちゃった。小南さんはいいお客さんがありましたから。

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 文楽の記憶が曖昧なようなので、『古今東西落語家事典』を開いて確認。

 文楽については、こうなっている。

 明治四十一年初代桂小南に入門し小莚の名を与えられた。同四十三年二ツ目に昇進したが、その後小南が大阪に帰ったことから旅廻りをし、一時名古屋の三遊亭円都門で小円都を名乗った。


 次に初代小南。
 ちなみに、上方ではなく「江戸・東京」の落語家として載っている。

 小南は、明治三十八年に師匠の南光(二代目、のちの桂仁左衛門)のあとを追って上京したが、その後のこと。
 
 羽振りがよかった野心家の小南は、三代目三遊亭円橘(塚本伊勢吉)、月の家円鏡(伊藤金三)らとともに三遊派を脱し、三遊分派をつくったが、座組(出演者の顔触れ)に変化がないので、しだいに客に飽きられ、仲間の信用を失ない、多額の借金を背負い、追われるように地方巡業に出た。旅は失敗の連続で、小南は大阪に帰った。
 しかし、大正時代に席亭と噺家が東京寄席演芸株式会社を設立した際には、小南の人気は魅力があり、反対派の睦会に呼ばれている。その後も、ほぼ東京に在住して、新睦、扇風会などと転々とし、震災後も睦会から東京落語協会へ移るなどしているうちに、だんだんと看板も下がり、晩年は人気がすたれ、不遇のうちに歿した。

 となっている。

 だから、睦会も寄席演芸株式会社も大正に入ってからであって、文楽の入門は、それ以前の明治末。

 文楽も暉峻さんも、やや勘違いしたままの会話だったようだ。

 さて、『落語藝談』に戻る。

暉峻 ところで最初のお師匠さんの桂小南さん、この人は電気踊りの「奴凧」で売り出した。
文楽 ええ、「奴凧」の電気踊り、「夜這星(よばいぼし)」、それから獅子頭をもって踊る「勢獅子(きおいじし)」。獅子の頭へ豆電球をつけて、踏み線といいまして、今から見るとなんでもないことなんですが、その時分、実にたくさん客を取りましたね。足袋の裏底に、こういう横の線が縫いつけてあって、舞台にも線が引いてある。舞台の線とこの線とがこう合うとパッと電気がつくわけです。
暉峻 そうすると、踊りながらピカピカするわけですね。
文楽 ちょうどサワリのところへきて、見えになるところで踏むとパッとつく。これでどのくらい客を取ったか。それも素人で、研究心があるんですね。そういうような頭があった人ですよ。なるほど、東京へきて売れるわけだということは、わかりました。
暉峻 咄はどうなんですか。
文楽 咄は、今でいえばたいした人ですね。つまり、大阪でふつうの修業をしたはなし家ですよ。けれども踊りで売り出した。「松づくし」をやって、一尺ぐらいの一本歯の下駄をはいて、碁盤の上へその一本歯でこういうふうにして(立ちあがってしぐさをする)足の親指と人差指のあいだに扇子をはさんで、はち巻きして、ここへもはさんで、こうもって「松づくし」を踊る。それから「与三郎」とか、そういう粋なものね。それからまた二枚扇を使う、上品な踊りも心得ているし、第一芝居咄がうもうございましたね。だから鳴りものがそっくりはいっている。
暉峻 鳴りもの入り芝居咄ですね。
文楽 だから連れ下座していました。お囃は東京のお囃じゃ勤まらない。だから大阪から連れてきた。それでずいぶん客を取りました。それでふしぎに、これがいけないことだったんでしょうけれども、その時分の芸能人というものは、俳優といい、なんといい、みんなそのたぐいでした。
暉峻 やっぱりね、咄だけではなくて。
文楽 まあ、いえば、名利の悪いことばかりでしたよ。ですから、それをあたくしはお手本にしていました。ああ、いくら自分が出世しても、こういうことはいかんことだと。
暉峻 つまり、一種のゲテものだということですか。
文楽 つまり一種の横暴ですね。横車。横車でも、すべてが通っちまうんですから。
暉峻 うぬぼれですか。
文楽 ですから、いくらあたくしが世の中へ出ようが、この真似だけはしたくないと思っていました。いまだにそのとおりいっていますよ。
暉峻 ところでね、小南さんに前座ではいったとき、文楽さんの芸名は小莚(こえん)ですね。小南さんが小円朝さんと旅回りに出て、そのあいだ文楽さんは、名古屋に行ったことあるでしょう。名古屋の橘の円都(大阪の落語家。橘の円の門人)さんを頼って。
文楽 それはね、つまり小南さんがよしちゃったわけです。会社ができたために。いままで売れていて・・・・・・月給取りになるのはばかばかしいでしょう。そうなると自分はよしたいというので、いいお客もあったしするから、大阪へ帰っちゃった。弟子はみんなクビですよ。それであたくしが名古屋へはじめて旅に出たわけです。
 
 やはり、文楽の話は、寄席演芸株式会社発足が、大阪へ帰った理由となっているが、それは、文楽が名古屋に旅に出た時期より後のことなのだ。

 まぁ、そういう記憶違いは、さておいて、ここでも橘ノ円都の名が出てきた。
 とはいえ、この名古屋への旅で円都との詳しい交流は書かれていない。
 名古屋では、小金井蘆洲の名人芸に触れたことが、文楽の芸に大きな影響を与えたようだ。

 いずれにしても、初代小南という人は、一時期爆発的な人気を得、多くの固定客がいたようだが、いわば、うぬぼれが強すぎて、所属も頻繁に替え、最後はあまり幸せとは言えなかったようだ。

 歴史に名を残す名跡ではあるが、高座の話芸ではなく、電気踊りなどの演出の妙で特筆される芸人さん、ということか。

 文楽は、最初の師匠小南には、結構複雑な思いがあったかもしれない。
 早い話が、弟子を見捨てる師匠だったのだから。

 とはいえ、一時は「八丁あらし」と言われた人だ、尊敬もしただろう。

 では、なぜ、その名を協会も違う金馬門下の山遊亭金太郎のい与えたのか。

 初代小南は、上方出身で東京で活躍した。
 同じような経歴を持つ金太郎に相応しいと考え、名を譲ったのではなかろうか。

 そんな気がしている。

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by kogotokoubei | 2018-02-07 12:27 | 落語家 | Comments(0)
 少し前に、『子別れ』について書いた。

 この噺の作者と言われている初代春風亭柳枝のことについては何度か書いているが、ある本で新たな発見があったのでご紹介。

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野村無名庵『本朝話人伝』
 その本とは、野村無名庵の『本朝話人伝』。
 私が持っているのは中公文庫だが、2005年には中公文庫BIBLIOで復刊されていて、Amazonには私がレビューを書いている。名前は、ドートマンダーで、幸兵衛ではない。

 初版は、昭和19(1944)年、協栄出版社刊。その翌年の5月25日の空襲で、無名庵は亡くなっている。
 
 初代柳枝の師匠柳橋と柳枝について、「柳橋と柳枝」と題して(一)(二)(三)に分けて書かれている。

 その(一)より引用。
 柳橋と柳枝(一)
 当今でこそ、所属の会派を異にするだけで、落語家は柳連も三遊連も一緒になりましたが、明治から大正初年(厳密に言えば大正六年に寄席演芸会社が出来るまで)にわたる永い間、三遊と柳とははっきり別々になっておりました。その昔話柳連の元祖になりましたのは前にもちょっと述べましたごとく、初代扇橋の弟子の初代柳橋であります。
 この初代柳橋は亭号を麗々亭柳橋と申し、芝金杉の人で、俳名は亀好(きこう)と号しました。扇橋の弟子になって初めの名を橋蝶といい、一時師の許を退いて柳好と称したこともありましたのは、生来柳を好んだからだとのこと、その後また師の許へ帰って柳橋と名のり、人情噺の創始者となりましたが、この柳橋が即ち柳連の開祖であります。


 柳の開祖が、この麗々亭柳橋であることは、ベテランの落語愛好家の方にも意外と知られていないような気がする。
 無名庵が、次のように続けているように、細かな情報が残されていないせいかもしれない。

 門下に柳馬、柳朝、柳枝、柳里、柳佐、柳舎、柳太、柳治、柳花等の弟子があり、天保十一年四月二十一日没、青山持法寺に葬るとのみ、伝記の細かいことはわかりません。

 ご覧のように、弟子に柳枝の名がある。
 はたして、どんな噺家だったのか。
 この人の門人に初代の柳枝が出まして、亭号を春風亭と申しました。春の風に柳の枝、まことに優美な芸名であります。両国米沢町に住み、幼名を亀吉といい、十六の時から柳橋の弟子になって前席を勤め、次第に巧くなるに従って、人情咄のやり方にも新機軸を出しましたのは、ちょうど講釈の馬琴が今までの棒読みを改めて、男女の声調を使い分けたのと同様、柳枝もそれまでの筋だけ運ぶ素噺を、大人は大人、小児は小児、声音を分けて身振りも入れて演じましたのが、情態真に迫って妙を極め、例の「九州吹戻し」や縮屋新助の三代吉殺しなど、最も得意に話したとのこと、非常に酒の好きだった人で、醒めれば飲み、醒めれば飲み、片時も酒の気が離れなかったが泥のように酔って舌ももつれ、歩行(ある)くことさえ出来ないようになりながらも、それで一たび高座に上れば別人のようにハッキリして、少しも正気の時と違わなかったといいます。
 その名が亀吉だったので、『子別れ』の子どもの名も亀吉、という説がある。一方、改作した春錦亭柳桜(三代目麗々亭柳橋の隠居名)の長男(四代目麗々亭柳橋)の名の亀吉が由来、という説もある。
 今なら、大人なら大人のように、子供なら子供、そして男は男、女は女らしい語り分けは、当たり前だが、初代柳枝以前の落語は、そうではなかったということか。

 そして、無類の酒好きだったことが、戒名にまで表れている。
 本来、師名をついで、二代目柳橋ともなるべき位置なのですが、春風亭柳枝という名の方が、自分の好みに合っているからとて、終生これを名乗ってその初代になりました次第、明治三年七月十七日没、残念にもその行年がわかりませんが、寺は麻布今井町妙縁寺に葬り(初代燕枝の日記には浅草田圃翻竜寺とあり)、法号を酒遊院日酒柳枝居士と申します。
 戒名にまで酒という字が、御丁寧に二つまで入っているところ、よほど大酒家であったものと思われますが、この柳枝の弟子に、栄枝と伝枝がありました。もちろんその他にも多勢いたのですが、まずこの二人が弟子頭で、その中の伝枝は後に初代談洲楼燕枝となり、この人のことは後に述べます。兄弟子の栄枝が春風亭柳朝からさらに師匠の名を相続して二代目柳枝、落語系図を見ると「おとわ丹七」得意としてあります。

 戒名を、再確認。

 遊院日柳枝居士

 なかなか、お目にかかれない戒名と言えるだろう。

 『子別れ』の「上」と「中」までの熊さん、作者が大の酒好きだったことが反映されているのかもしれないなぁ。

 なお、弟子の伝枝、後の初代談洲楼燕枝については、以前書いている。
2010年11月19日のブログ
 柳家三三が復活させた『嶋鵆沖白浪』の作者であり、同時代の三遊亭円朝の好敵手だった噺家。

 その燕枝も、初代柳枝の弟子だったのだ。

 初代麗々亭柳橋->初代春風亭柳枝->初代談洲楼燕枝、という流れが、柳派の今日の隆盛につながっているということだろう。


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by kogotokoubei | 2018-01-24 19:54 | 落語家 | Comments(0)

古今亭志ん駒のこと。

 古今亭志ん駒の訃報に接した。
 新聞などで、志ん生最後の弟子、とか、海上自衛隊出身などのプロフィールが紹介されている。

 ところで、Googleで検索しようとして、「古今亭志ん」まで入れると、志ん生、志ん朝はもちろん、志ん五も選択肢として出て来るが、「駒」は登場しない。

 それだけ、ここ数年静養していた、ということを物語る。

 残念ながら、たった一人の弟子である駒次の9月の真打昇進披露興行に、間に合わなかった。

 私の生で出会った志ん駒の高座は、同じ2010年の近い期間に二度。

 どちらも、弟子の駒次が付き添って高座に上がっていた光景を思い出す。

 一つは、厚木。
2010年7月24日のブログ
 「志ん生落語の四季」と題した会。
 漫談で、最後の弟子として志ん生の思い出を語り、「落語はこの後で権ちゃんが、ちゃんと締めてくれますから」という、言葉を残し、登場の際と同様に弟子の駒次に助けられて高座を後にした。
 その時の記事。

昭和12年1月生まれの73歳。助六、権太楼の10歳年上だから、かつてテレビの時代劇で「瓦版屋」を演じた時のイメージからは、当り前だが時の流れを感じる。
しかし、“口”は見た目と違って若々しく、海上自衛隊時代の思い出話や、巻紙に自ら書いてきた志ん生の略歴を読みながら語るエピソードは、なかなか楽しかった。「落語はこの後で権ちゃんが、ちゃんと締めてくれますから。もう名人だね!ご馳走になってるからヨイショしないとね」というところが、この人の本領発揮なのだろう。
まだまだ元気に古今亭の歴史を語り残していただきたい。

 もう一回は、横浜にぎわい座で、三三の会での客演。
2010年9月2日のブログ
 この会は「柳家さんと○○さん」と題して、三三が昭和の名人と近しい噺家をゲストに招く企画の一つだった。志ん生最後の弟子として三三の指名を受けた志ん駒が、楽しそうに語る姿が印象に残る。

 厚木の時よりは元気な高座だった。

 ブログには、次のように書いていた。
前半は“あつぎ寄席”とほぼ同じ。覚悟していたので落胆はなかったが、体調も出来も客の反応も今夜の方が数段良かったようだ。途中で「志ん生を見たことがある人?」という会場への質問に、隣の席のご高齢の男性が即応して手を上げた。少しだけ、嫉妬した。
杉良太郎の遠山の金さんの舞台を再現をしたあたりでやや息切れしたようで前座さんを呼び出し、「まだ時間あんのぉ、一緒になぞかけでもするか!」と始まり、慌てたように三三が登場。前座さんが下がり急遽対談モードに入った。たぶん、本来の予定は中入り後に対談だったのだろうが、流れを読んでの変更だろう。結果はオーライだった。厚木では志ん駒師匠が会場に「何か質問ある~?」とばかり尋ねたのだが、大ホールである。なかなか盛り上がらなかった。しかし、三三はツボを押さえて志ん生との思い出を志ん駒師匠から手繰り寄せる。「志ん生とかけて?」のお題でのなぞかけの解き方を含め、三三の如才なさが光った。志ん駒師匠が同じこをを何度も繰り返すところも、結構楽しい演出になったほどだ。

 残念ながら、元気な時の高座には巡り合っていない。

 しかし、弟子の駒次が甲斐甲斐しく師匠に肩を貸していた姿が、この師匠と弟子の信頼関係の深さを目の当たりにするようで、嬉しかった。

 昭和12年生まれは、談志より一年若く、志ん朝より一歳上になる。

 12日に42歳という若さで亡くなった柳家小蝠に続く訃報。

 比べてはいけないことだろうが、志ん駒の傘寿を過ぎての旅立ちは、往生と言って良いのかもしれない。

 「ヨイショの志ん駒」の、ご冥福をお祈りします。

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by kogotokoubei | 2018-01-23 08:05 | 落語家 | Comments(4)
 昨日の午後九時から、NHK BSプレミアムは立川談志を取り上げた。

 NHKのサイトから引用する。
NHKサイトの該当ページ

ザ・プロファイラー~夢と野望の人生~「落語界の風雲児~立川談志~」

岡田准一がMCを務める歴史エンターテインメント。「百年に一度の天才」とも言われる落語家・立川談志。早くから売れっ子となり、「笑点」を企画・司会したり、政治家になったりもした。そして落語協会と決裂。その生き方は、型破りで破天荒、「落語会の風雲児」と呼ばれるほどだった。一方、古典落語を現代の客に楽しんでもらうため、さまざまな努力を続け、落語界に革命を起こす。天才・立川談志の実像に迫る。

【司会】岡田准一,【ゲスト】立川志の輔,大林宣彦,ラサール石井

 談志没後、数多の番組が放送されている。
 また、数多くのご本人の著書や、談志を含めた、四天王の時代について書かれた本も少なくない。
 だから、それほど新たな発見があることを期待しないで見ていたが、結構、嬉しい発見があった。

 それは、談志の妻となった女性への、数多くのラブレターだ。

 談志は、愛妻則子さんを、「ノンくん」と呼んでいた。

 その、ノンくんへのラブレターが公開されたのは、私の記憶では初めてだ。

 お嬢さんが、そのラブレターを見て母則子さんに、「結婚前、そんなに会えなかったの?」と聞くと、「いえ、毎日のように会っていたわよ」と答えた。
 「電話は使わなかったの」と聞くと、「毎日のように電話もあったよ」とのこと。

 会って、電話で話をしていても、談志はラブレターをまめに書き綴っていたのだ。
 そんな姿を想像するだけでも、結構、微笑ましいではないか。

 放送での内容を正確に覚えていないが、談志は、自分はまともな人生を送れる気がしないが、ノンくんと結婚できれば、まともになれると思う、というようなことを言ったり、書いたりしていたらしい。

 それだけ、惚れていたんだね。

 その愛妻、則子さんについては、拙ブログを初めて間もない頃、ある本を読んで書いている。

2008年6月20日のブログ

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『人生、成り行き-談志一代記-』
 『人生、成り行き-立川談志一代記-』は、「小説新潮」に連載された、吉川潮の聞き書きが本になったもの。

 自分の記事からの引用になるが、このノンくんが、実に楽しい個性の持ち主。

『小説新潮』に連載された回数がそのまま章の名前に使われているが、「第四回 結婚、そして先を越された真打昇進」の章にある、おかみさん則子(ノンくん)のことは、たぶん書物としては初登場であろう。

 ノンくんは素晴らしい、そしてユニークな女性である。「則子(ノンくん)語録」から少しだけご紹介しよう。

・ある友人のことを「竹馬の友」と言われ、「違うわよ。だって、あの人と一緒に竹馬乗ったことないもん」

・「あたしはペットなの。でもいいペットでしょ。トイレも自分で行けるし、ラーメンも作れるし」

・師匠が癇(ひきつけ)を起こした時、なぜか真っ先にガスを止めた。「地震じゃねえや」と突っ込んだのは言うまでもない。


 なんとウィットに富んだ語録であろうか。このおかみさんだからこそ、家元が現役で今も活躍できるのだと確信した。本書には家元24歳、則子さん22歳の新婚時代の写真が掲載されている。とってもチャーミングな方だ。きっと今でも素敵な女性なのだろう。

 この本は、今では文庫にもなっているが、単行本で読んで、Amazonのレビューも書いた。

 読み返してみたら、則子さんとの出会いなどについては、こう書かれている。

ー二つ目時代で一番大事な出来事は、やはり則子夫人との結婚だと思います。昭和三十五年、談志師匠が二十四歳で・・・・・・。
談志 向こうが二十二かな。暮れに結婚したんですよ。つまり税金対策で、扶養家族として年内に届けを出したほうが得だって言うんで慌てて出して、年が明けてから結婚式を挙げたのを覚えています。落語家が素人娘と結婚するのがまだ珍しかった時代です。
ー当時、落語家の結婚相手というと、寄席の従業員のおねえさんとか、いわば身内の女性が多かったですものね。
談志 師匠の家(うち)の女中をカイちゃって、結婚したとかネ、芸人なんか、ちょっとかわいい女と見ると見境なくカイちゃうからね。うちの弟子なんか、おれのとこに来てたファンまでカイちゃった。その娘と結婚したけどね。
 だから、吉川さんの女房(音曲の柳家小菊)に昔、「気をつけろよ」って言ったんだ。「おい、気をつけろよ、こいつら何するかわからねえからな」って。
ーはい、そのことはよく覚えていると家内が言ってました。談志師匠に「芸人には気をつけろ」と言われたって。肝に銘じたそうですが、結局所帯を持ったのがこの程度ですから、まあ。
談志 訊いたら「若い作家と一緒になった」というから良かったと思って。あんなかわいい顔して、変な芸人とくっついたら可哀相だし、おれもイヤだしね。
ーうちのことはともかく、師匠が出会われた時、則子夫人は第一生命ホールで案内嬢をされてたとか。
談志 案内だけでなく、事務のほうもやってたらしいけどね。最初に言った、湯浅がやっていた「若手落語会」の会場が第一生命ホールで、そこで会ってね、かわいい子だなと思ってーそれじゃあ、ほかの落語家と同じだよなァ。
 ある時、おれが何かで怒ったんだよ。そしたら、「怒られちゃった・・・・・・」って呟いたんです。そ様子にネ、ほう、これはいいな、かわいいな、こいつは大事にしとかなきゃと思った。向こうには結婚を約束した人があったらしいんだけど、おれ、そこへ談判しに行って。それで、鵜の木の実家を出て、彼女の中野のアパートに半月くらいいたのかな。何も台所用品がなくて、ビールとクッキーだけで暮したことを覚えてます。それから、当時の収入からしては家賃が高かったんだけど、目黒の元競馬場に越した。同じアパートに画家の長尾みのるさんが住んでいて、その縁で、のちに『現代落語論』(昭和四十年、三一書房)のカバーやカットを描いてくれました。

 先約(?)がありながらの略奪婚だったことは、昨夜の放送でも紹介されていた。
 映画「卒業」か^^

 よほど、惚れていたということだ。


 談志自筆の大量のラブレターを見たい方、あるいは、大林宣彦と談志の意外な(?)交流を知りたい人、そして、井上ひさし作の舞台「円生と志ん生」で志ん生に扮するために、青々と頭を剃ったラサール石井を見たい人、再放送は、12月27日(水) 午後6時00分からとのことです。

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by kogotokoubei | 2017-12-22 12:18 | 落語家 | Comments(4)

桂春団治と吉本せい(3)

 このシリーズ三回目。

 少し復習と補足。

 春団治は、先妻と別れ、彼の後ろ盾になった岩井志うと一緒になるが、志うは大阪道修町の薬問屋の岩井松商店の後家だ。
 ちなみに、奈良出身の志うは、岩井松商店の女中だったのだが、主人の岩井松之助が前妻を失った後に後妻となっていた。

 志うが岩井家の蓄財を湯水のように使うので岩井家は絶縁を迫り、手切れ金を支払った。その金額は諸説あるが、もっとも少ない六万円としても、現在の貨幣価値で四千万ほどになる。

 その金を元に、浪花亭という席を本拠として春団治は自分の一派を立ち上げたものの、春団治も志うも、とにかく締まりのない夫婦で、上がりで連日のようにドンチャン騒ぎ。そのあげくに浪花亭を失い、旅興行に出るが金を貯めるどころではなく連夜の宴会で、元手となった手切れ金は三年ほどで使い尽くしたと言われる。
 
 吉本せいは、そうなることを見越して、月給七百円と借金の肩代わりをして、大看板の春団治を吉本興行部の専属にした。

 この七百円は、当時のサラリーマンの月給が四十円から五十円、千円あれば家が建つと言われる時代だったので、破格だ。

 しかし、春団治夫婦の金遣いの荒っぽさは変わらず、財布の中身が少なくなったことも、あの事件につながっていたのは、間違いないだろう。


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富士正晴_桂春団治

 まず、富士正晴の『桂春団治』から、その事件の背景について。

 昭和も五年となってくると、ラジオの普及ははなはだしく、丁度、映画界がテレビに対して抱いたような恐怖を持つようになって来ていた。それで、落語家のラジオ出演を吉本興行を通じての許可制にして制限した。その制限に対してJOBKの方が面白くない感情を持つのも当然であった。その上、吉本興行部を通じて落語家をBKに出演させると、そのギャラを吉本興行部が受けとり、その何割かを落語家の前借の返済金として差し引き、残りを落語家に渡すというふうなやり方で、BK側の若いディレクターなどの目には不快に映ったことであろう。結局、吉本興行部のこの仲介が、何はともあれ、芸人側にとっても、JOBK側にとっても、感覚的にも実質的にも、はなはだ不都合に見えたのであろう。芸人側にとっては圧政に見えたし、また、出番表の横に「無断休席は容赦なく下記の如く給料より差し引くことを厳守いたします」といったきつく感じられる注意書きをそえるようであれば、ラジオ無断出演を禁止する文体も高圧的峻厳な文体であって、芸人に恐喝と共に反感の念も与えたと思われる。そこでBK側の反感と芸人側の反感との握手がこの春団治の無断出演であったと見てよく、そのやり口には幾分感情的なからかいの気分が見られる。

 吉本せいの、ラジオへの恐怖感は実に強いもので、その思いがラジオ出演への許可制となり、加えて、出演した場合でも、そのギャラを芸人の前借りへの返済に充てるという処置になったわけだ。
 
 そして、ついに、春団治の反抗(?)となる。

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山崎豊子著『花のれん』

 吉本せいに関わることを書くのなら、やはりこの『花のれん』を外すわけにはいかない。
 昭和33年上半期の直木賞受賞作である。

 吉本せいは、本書で多加と名を替えている。
 花月亭は、花菱亭である。
 ちなみに、姉と弟の三人きょうだい。

 春団治のラジオ出演による騒動の部分を引用する。

 多加が太夫元になり花菱亭に出演している芸人は、ラジオに出られない約束になっている。ラジオで寄席演芸を聞けるなら、わざわざ寄席まで足を運ばさず、家でお茶漬けでもかき込みながら聞く客が多くなる。そうなると誰よりも大阪、京都に十六軒の寄席(こや)を持ち、寄席一本でたっている自分が真っ先に参るというのが、多加の考え方であった。
 ガマ口が春団治のラジオ出演を知って、三津寺筋の多加の家へ駆け込んで来たのは、その日の四時過ぎであった。多加は大学の春休みで帰省している久男と向い合って夕食をしていたが、知らせを聞くなり、
「しもた!」
 男のような声で、手に持っていた箸を刃物のように食卓の上に突ったて、敷居際にたって息を切らしているガマ口に、
「あこぎなこと(むごいこと)しはるやないか!それほんまか」
 眼を血走らせて憤りながら、まだ半信半疑で、もう一度、ガマ口に念を押した。
「今、人に聞いたとこだす、間違いおまへん」
「ラジオなんかで落語(はなし)されたら、花菱亭(うち)が一番こたえるのや、あんなお客の顔を伺えんようなところで、ろくな芸が出けるもんか、春団治はんは、みすみす、花菱亭との一礼を破りはったわけやな」
 多加はこれからの寄席(こや)の入りを考えると、体が細って行きそうだった。
「お母はん、そやけど、ラジオの落語もなかなかいけるで、そない血相変えんときいな」
 紺絣の着物を着た久男が、上目遣いの気弱な笑い顔で、多加のいきりたった気を柔らげるように云った。
「あんたは何も知らんのや、黙っていなはれ、寄席商ひはそんななまやさしいもんやあらへん」

 ガマ口は、吉本吉兵衛(本書では河島吉三郎)が贔屓にし、また遊び相手にしていた剣舞士で、吉兵衛とせい夫婦が寄席商売を始める際に、何かと奔走してくれて、開場後は番頭役となった男。久男は、吉三郎と多加の長男。

 主人公や家族の名は替えているが、芸人の名は、そのままになっている。

 さて、この後、多加とガマ口は春団治の家に乗り込んだ。
 そこで、ガマ口が、活躍(?)する。

「夜分に御無礼さんでござります」
 くそ丁寧なあ挨拶をした。
「なんや、お前、ぬうっと入って来て、まるで居坐り強盗やないか。それにしては修繕のきかんガマ口みない何時見ても面白い面さらしとるな、これでは威しも利きまへんわい。ヒヒ・・・・・・」
 春団治は、黄八丈の丹前の膝に酒をこぼしてせせら笑い、銚子を持った手を宙に浮かせている女房に、酌を促した。ガマ口は、その間に割って入り、女房の手から銚子を奪い取り、火鉢に際へ膝を寄せて、春団治の盃に一杯、お酌をした。
「師匠、夜分、居坐り強盗みたいに参上致しましたのは、今日、師匠が出はったラジオ出演のことだす、あれは、ちゃんと一本、約束が入ってるやおまへんか、これでは約束を反故にして、花菱亭の首絞めはったのと同じや、師匠が、そんな気でいてはるなら、花菱亭(こっち)も、その気で勘定さして貰いまっさ」
 と云うなり、皮の手提げ袋の止め金をはずし、中から白い紙片を出したかと思うと、紫色の長い舌で唾をつけ、眼の前の長火鉢の上でペタリと貼り付けた。幅八分、縦一寸五分位の長方形の和紙に、花菱亭と墨で記した上から、印肉の判を捺している封印であった。
「ガマ口はん、一体、これなんやねん」
「へへ・・・・・・、高利貸しやおまへんけど、貸金と損害賠償の抵当(かた)に、家財道具を差押えさして貰う次第でおますわ」
「そんなえげつない!御寮人(ごりょん)さん、何とかー」
 春団治は、一言も口をきかないでいる多加の方へ向いた。多加は無表情な顔で、春団治の眼をじろっと一瞥しただけで、答えなかった。
 (中 略)
「御寮人さん、これで家財道具一切、差押えだす、あとは三度のご飯を食べる鍋、釜と茶碗だけということですわ、宜しおますか」
 ガマ口が帳面を多加に示すようにして、尋ねた。
「ご苦労さん」
 と頷きながら、多加はいきなり、つかつかと長火鉢の傍まで近付いた。多加の白い手が大きく伸びたかと思うと、寝そべりかけている春団治の口の上へ、ピタリと封印紙を貼りつけた。春団治は跳ね起きざまに自分の口に手を当てた。
「殺生な!口まで差押えせんかて借金は返したるで」
 封印紙が下唇だけはずれて、春団治の上唇の上でヒラヒラした。
「師匠、わては借金の一寸の証文が三寸になるより、ラジオが一番こわい、家財道具より師匠の口を、差押えさして貰いまっさ」

 春団治のラジオ出演の後に、吉本せいが自ら春団治の家に乗り込んで差押えをした、というのは山崎豊子の脚色だ。
 実際には、ラジオ出演の翌日、吉本興業が訴えて財産差し押さえの仮執行が行われたが、家に乗り込んで家財道具に封印紙を貼ったのは、執行官である。
 そして、口に貼ったのは、春団治自身。差押えの紙を奪って、「もしもし、この口押えはらしまへんのか。これあったら何ぼでもしゃべりまっせ。」と自分の口へ貼り付けた一件は、次のように、写真付きで新聞に大きく取り扱われた。

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(Wikipedia「桂春団治」より)
Wikipedia「桂春団治」

 山崎豊子の吉本せいと番頭のガマ口が直接春団治の家に乗り込んで差押えをしたという脚色は、私は“あり”だと思う。
 許容できる脚色と、できないそれがあるが、“史伝”ではなく“小説”として、実によく出来ている。さすが、直木賞受賞作。

 舞台にもなったし、昭和34(1959)年に映画化されているが、主人公の河島多加役は淡島千景、ガマ口役が花菱アチャコ、吉三郎は森繁久弥が演じた。

 『花のれん』の多加には弟がいるものの、実際の林正之助のように、姉と一緒に吉本の経営に携わる役としては描かれていない。
 その点に関しては、私は脚色の行き過ぎだと感じているが、主役を中心にするためには、小説やドラマは、そういうオミット(省略)をすることが少なくない。

 NHKの『わろてんか』も、オミットだらけ。主人公には弟すら、いない。

 小説もドラマも、史実では重要な“脇役”を外す傾向があるが、その“脇役”も、見方によっては“主役”なのであるんだがなぁ。

 「わろてんか」の主人公が、女学校に通っているお嬢さんで、いいとこのボンと見合いする展開になっている今、私はこのドラマを見る気力を失いつつある。
 奉公に出ているのだよ、吉本せいは。

 繰り返しになるが、あのドラマは決して吉本せいの人生を語っていない。

 つい、朝ドラのことに脱線してしまったが、それは、あの番組の主人公が吉本せいであると勘違いする人が多いだろうから、あえてこのシリーズを書いたのでもある。

 それほど裕福とはいえなかった幼年期や、吉本の発展のためには、いわゆる裏社会との接点も必要であったこと、春団治などの芸人を縛り付けるため、雇用契約として労働者には酷な条件なども、吉本せいの姿を知る上で欠かせない要素なのである。

 史実は、そんなに「わろてんか」とは言えないことが多いのだよ。

 まだ、『花のれん』の方が、はるかにモデルの人生と相似している。
 また、この本は小説としても良く出来ているし、当時の大阪の庶民生活や、上方演芸界を知る上でも貴重な本だと思うので、別途記事を書くつもりだ。


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by kogotokoubei | 2017-10-10 12:54 | 落語家 | Comments(0)

桂春団治と吉本せい(2)

 さて、このシリーズの二回目。

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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)
 矢野誠一さんのこの本から、大正十年に、初めて南地花月に春団治が出演した時のことの、続き。

 その少し前、春団治が、ある寄席を本拠として自らの一門である浪花派を立ち上げたものの一年ほどしか続かず借金を残して旅興行に出たが、放蕩の結果、借金まみれで窮地に追い込まれていたことは、前回紹介した通り。

 吉本せいは、春団治がそうなることを読み切っており、まさに、その時期が到来したところで、吉本専属の話を持ちかけた。
 まず高額な月給を提示。
 そして、借金の肩代わりを申し出た。

 芸人への月給制は、当時は珍しいことだったが、吉本せいは、どうしても花月に出て欲しい芸人を、高い月給で勧誘した。
 たとえば、春団治の前に、三升家紋右衛門を月給五百円で専属にした。

 富士正晴の『桂春団治』では、吉本の月給七百円のことは書かれていたが、借金の肩代りのことは、あくまで空想するにとどまり、金額なども記されていなかった。
 矢野さんは、その肩代わりの金額を明らかにしている。
 しかし、富士正晴の作品の価値が下がることはない。
 矢野さんは、この本を書くための取材で、『桂春団治』を持ち歩いていた。また、矢野さんの本では、同書から数多く引用があり、まるで、二冊の本を楽しめて徳した感じがする。
 では、矢野さんの本から、引用。

 前貸金二万円、それに月給七百円、これが桂春団治が吉本興行部に身を投ずるにあたっての条件であった。三升家紋右衛門を二百円上まわる七百円という月給もさることながら、二万円の前貸金というには破天荒な金額であった。春団治が、浪花派でこしらえた借金の肩がわりだが、これだけの大金をいかに春団治といえどもおいそれと返金できるはずもなく、いわばこの二百円は春団治をしばりつけておくための身代金であった。
 桂春団治と、吉本せいのあいだをとりもった人物がいたとして、その人物が、
(栗岡百貫ではあるまいかという感じを持っている)
 と、富士正晴は『桂春団治』に書いている。「並々ならぬ業師」だといわれる栗岡百貫なる人物は、
(南に事務所兼住所をもち、若い者を数人ごろごろさせ、三百代言のようなことや、金融の世話のようなことに関係していて、後に出て来る吉本興行部の紅梅亭乗っ取りにも、裏でゆっくり工作したようにも見える一種の怪物)
 で、春団治の、
 (大口の借金が栗岡百貫の手を通じてなされており、それがかねがね、吉本に線が通じていたのではないかというふうに、これは空想だが、思われてならない)
 と、いうのである。
 富士正晴の「空想」は、空想として、かなりいい線をついているように思われる。

 私も、富士正晴の「空想」は、当たる確率が高いように思う。
 引用を続ける。

 びっくりするくらい短い期間に、吉本吉兵衛が沢山の寄席を手中にしていくには、かなり危ない橋も渡ったものに相違なく、その過程でうさんくさい人物や、いうところの怪物が介在してきたのは充分考えられることである。そうした人物との交際が、決してきらいではなかったように思われる吉本せいが、なんとしても手に入れたい桂春団治を引き抜くために、それを利用しなかったわけがない。だいいち、大阪の演藝界を席巻していた桂春団治という超大物が、いかに急激に勢力をのばしつつあったとはいえ、この世界ではまだかけ出しの吉本せい個人のちからで、どうにかなるというものではあるまい。まして春団治の目から見たら、そこらの小僧っ子にすぎなかった林正之助のはたらきなど、取るに足らないものであったと考えるほうが自然だろう。


 当時の“超大物”春団治と、新興勢力吉本の関係を考えると、やはり、何らかの仲介者の存在は疑いようがないだろう。

 そういう力も利用し、ついに春団治の看板を南地花月に掲げることができた吉本せい。
 その後のこと。

 春団治を得てからの吉本花月連の勢いは、まさに一気呵成であった。大正十一年(1922)八月には、ついに三友派の牙城法善寺裏の紅梅亭が傘下に身を投じ、大阪の寄席はほとんど花月一色にぬりつぶされたことは前章で記した。この年九月一日からの「花月連・三友派合同連名」というのが『大坂百年史』に載っていて、得意の演目なども記されているのだが、まさに壮観というほかにない。
 直営席亭、提携演藝場が、大阪十八、堺一、京都五、神戸一、三宮一、名古屋一、東京一の計二十八軒。連名にある落語家七十三名、色物十四名と二十組、ほかに東京交代連として八名の名があがっている。まさに吉本は大阪の演藝を支配したといっていい。この連名で見ると桂春団治は正式に「2代」と記してあり、得意の演目として『いらち車』と『金の大黒』が載っている。
 こうした一覧表を見てすぐ気がつくことだが、この時代の大阪の寄席演藝はまだまだ落語が主体であった。


 春団治を得、順風満帆だった、吉本せいと吉本興行部。

 しかし、この二人の間には、その後に有名な事件が起こる。

 最終回では、その件について書くつもり。

 
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by kogotokoubei | 2017-10-08 17:31 | 落語家 | Comments(0)

桂春団治と吉本せい(1)

 今日十月六日は、初代(正確には二代目)桂春団治の祥月命日。
 明治十一年八月四日生まれで、昭和九年十月六日に旅立った。享年五十七歳。

 「わろてんか」のチェックポイント、という題で矢野誠一さんの『女興行師 吉本せい』を元に記事を書いたが、吉本せい、あるいは吉本興業にとって、春団治は実に重要な芸人さんだった。

 命日を機に(?)、春団治と吉本せいに関し、少し振り返ってみたい。
 
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富士正晴_桂春団治

 矢野さんも、あの本の中で、富士正晴の『桂春団治』から何度も引用している。
 その引用は、本文のみならず、貴重な上方落語界の史料である「桂春団治を書くために出来上った上方落語年表」も多い。

 その年表の大正十年の部分から、まず、引用したい。

吉本派(南地花月亭ヲハジメトシテ二十ノ席)
 春団治の出演歴で、吉本の名が出る最初である。

 その前後のことを、富士正晴はこう書いている。

 『落語系図』174頁に「大正十年九月十一日浪花三友派出番表の写し」というのがある。克明に見ると、三代目円馬の前名の川柳があり、また大正十年には二代目小春団治となっている筈の子遊の名がある。円馬の川柳時代は大正五年(月不詳)より、大正七年五月までなので、これは大正十年ではなく、大正五、六年の浪花三友派の出番表とわかるが、そこに挙げられている浪花三友派の席は紅梅亭、瓢亭、延命館、あやめ館、松島文芸館、堺寿館、京都芦辺館の七つである。これが浪花三友派の勢力範囲なのだろう。
 これを吉本興行部は次々に食っていった。先ず真打連を浪花三友派よりもぎとっていき、大正十年には春団治一門も加わっている。春団治は月給七百円という約束で、吉本の花月連というのに加わったというが、その他にそれまでの借金を吉本に肩がわりしてもらったのであるまいか。大口の借金が栗岡百貫の手を通じてなされており、それがかねがね、吉本に線が通じていたのではないかというふうに、これは空想だが、思われてならない。
 
 富士正晴の空想は、まさに事実だったということだろう。

 春団治を獲得するための高い月給も借金の肩がわりも、吉本せいの計らいである。
 
 せいは、とにかく春団治が欲しかった。
 そのチャンスをじっと待っていた。

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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)

 その当時、吉本せいの春団治攻略までのことを、矢野さんの本から引用したい。

 春団治は、贔屓の後家、岩井志う(じゅう)の資金によって、元第一文芸館であった内本町演芸場を借り浪花亭と名づけて、自らの一派を立ち上げたのだが、毎夜のごとくのドンチャン騒ぎなどの浪費により、浪花亭は一年ともたなかった。

 本拠地を失った春団治の一行は旅に出た。二十数人の一座で、中国筋から九州にかけて約一年の巡業である。春団治の名前で、充分商売になったはずだが、なにせ湯水の如くに金を使うことを覚えた座長の一行である。行く先々で派手な遊びをくりかえし、結局莫大な借金だけが残った。
 こうして桂春団治が無一文になるのを、吉本せいはじっと待っていた。金のあるうちは、どんな大金をつんでみたところで、天下の春団治、それほど有難がるわけじゃない。春団治という大きな看板だけが残って、しかも無一文、のどから手が出るほど金がほしい・・・・・・そういう状態になる日がいずれきっと来る、とふんだせいは、いささか無分別にすぎた春団治の浪花派の旗あげを、醒めた目で見つめていたのである。
 大正十年(1921)初席、桂春団治の看板が、南地花月の木戸口の上にかかげられた。木戸銭は、なんと一円である。十銭の木戸銭で出発したのがわずか三年前であったことが、せいには信じられないような気分であった。それよりなにより、「花月派 桂春団治」と、大阪を代表する落語家を自分の傘下におさめた事実が、大阪の落語そのものを手にいれたような気がして、満足であった。それは、何軒もの寄席を手にいれたことより、もっともっと大きな意味があるように思われた。

 ついに、吉本せいは、春団治という大看板を手に入れる。

 春団治と吉本せいについては、もう少し書きたいので、これにて前篇の、惜しい切れ場^^

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by kogotokoubei | 2017-10-06 22:40 | 落語家 | Comments(0)

桂文字助のこと。

 桂文字助のことが、ニュースになっていた。

 スポニチから引用。

スポニチの該当記事
「笑点」初代・座布団運びを務めた落語家の現在…酒に溺れ、生活保護に

 国民的人気番組「笑点」の初代座布団運びを務めた桂文字助(もじのすけ、71)が22日放送の「爆報!THEフライデーSP」(金曜後7・00)に出演。笑点から降板した後に、落語界から“追放”された理由を告白した。

 46年生まれの文字助は18歳で落語の道へと進み、20歳のときに師匠・立川談志さんと運命的な出会いを果たす。気配り屋の文字助はある日、打ち合わせ中の師匠のもとへお茶を運ぶと「こいつを座布団運びにどうだい?」と談志さんの声が。このときの打ち合わせが、笑点の番組構成会議だった。異例の抜てきに喜び、芸に精進する文字助だったが1年半後、師匠に突然呼ばれて「毒蝮三太夫にやってもらうことになったから」と降板の宣告を受けることに。

 降板に納得がいかない文字助は酒に逃げ、借金は気づけば数百万円に。愛想を尽かした妻も出ていき、どん底の日々を過ごすようになる。酒量は増えて感情のコントロールができなくなる“異常酩酊”になり、些細な事でケンカをしては警察に連行された。悪評は広がり営業の数は激減。ついには談志さんにも喧嘩を売ってしまう。落語界で師匠に逆らうことはご法度。居場所がなくなり、落語から離れていった。

 現在の生活について尋ねると、自宅に番組スタッフを招待。家賃5万6千円というが「俺は払っていない。生活保護を受けているんだよ」と明かした。月に12、13万円の支給で、家賃や光熱費が引かれて手元に残る6万円で生活。5年前から近所の公園で毎朝掃除をし、近隣の人々から食料品や生活品をもらっているという。

 だが、酒量は今も減らず1日1升。飲酒中には“異常酩酊”になり、撮影する番組スタッフに突っかかることも。すると、文字助の話を聞いた2代目座布団運びの毒蝮が、番組にサプライズ出演。後輩にあたる文字助と久々の対面を果たした。思い出話に盛り上がるも、酒を飲もうとする文字助を見た毒蝮は「生活保護受けてんだろ!」「文句がくるぞ。生活保護を受けてるのになんで酒を飲んでいるんだと」と説教。“兄弟子”の言葉が効いたのか、文字助は神妙な表情を見せた。

 その後、毒蝮との再会に刺激を受けたのか、5年ぶりに高座へ。長年、談志さんに鍛えられた落語は錆びついておらず、客の笑いを誘って場を盛り上げていた。
[ 2017年9月22日 21:26 ]

 残念ながら、このテレビ放送は見逃した。

 しかし、文字助の日常は、立川談四楼のツィッターで適宜(?)報告されており、よく目にする。
 公園の清掃のことや、近所の人々との交流なども書かれていて、談四楼のツイッターの重要な登場人物^^

 結構、近所では人気者になっているようだ。家財道具は、ほとんど拾った物か、もらい物。
 たまに電話に出ないので談四楼が心配し、共通の友人が様子を見に行く、なども少なくない。

 「だんしろう商店」から「談四楼の日々のつぶやき」にリンクされている。
立川談四楼オフィシャルサイト「だんしろう商店」

 あら、ツイッター見たら、しっかりこのテレビのこと案内されていたなぁ。
 読み忘れていて録画もしていない。まぁ、しょうがない。

 談四楼の著作にも、たまに文字助は登場するが、正直なところ、あまり良いことは書かれたいない。とにかく、酒が好きで、飲むと喧嘩を売るのである。
 
 『古今東西落語家事典』から引用。
【桂文字助】
 松田治彦。昭和21年2月13日生まれ。昭和39年4月六代目三升家小勝に入門して勝松。43年5月同名で二ツ目。46年の師匠没後、立川談志門に移り談平と改名。55年9月四代目桂文字助を襲名して真打。

 私が持っているのは平成元(1989)年4月7日発行の初版第一刷。

 もちろん、生活保護を受けている現在の生活は、この事典には書かれていない。

 
 今の文字助が幸せなのかどうか・・・・・・。
 大好きな菊正宗で一杯やっている時は、間違いなく、幸せなのなのだろう。

 文字助が相撲噺の名手なので、談志が相撲噺を演らなくなった、と言われる。

 残念ながら、生の高座に出会っていない。

 談四楼の4月の独演会に助演したようだ。
 また出演の予定があれば、なんとか駆けつけたいものだ。
 
 今では、ほとんど見当たらない、貴重な(?)無頼派芸人の姿、それが文字助と言える。

 テレビに出たことで、生活保護が停止されるようなことがないことを祈る。
 保護の必要のない人を選ぶより、彼こそ、無形文化財の候補ではないか、などど思っている。

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by kogotokoubei | 2017-09-23 10:43 | 落語家 | Comments(6)
 亡くなった円歌の享年がメディアによって違っているので、実際の生年月日がいつだったのかネットで調べてみた。

 一昨年、円蔵が亡くなった際に円歌に取材したスポニチの記事があったので、引用。
スポニチの該当記事

 落語協会のホームページには「1932年1月10日」と表記されているが、以前に取材をした際「終戦のときは国鉄の社員で、東京で駅員をしていた」と語っていた。

 表記の通りなら、圓歌さんは13歳で当時の国鉄に勤めていたことになる。東京は相次ぐ空襲で混乱を極め、成年男性の多くが兵隊にとられていたとはいえ、13歳の少年が国鉄に就職できるのだろうか。

 いぶかしく思い、もう一度、本人に連絡をしてみると「実は1929年なんだよ。戸籍のあった役所が空襲で焼けちゃったんです。それで再度届けたときに家族が間違えちゃって。だから戸籍上は3歳若くなっちゃった」と少し笑いながら答えてくれた。度重なる空襲をかいくぐった生粋の江戸っ子らしいエピソードだった。

 頭を低くして、ただただ恐怖におびえながら戦争末期を生き延びたわけではない。

 「上野の鈴本演芸場には防空帽をかぶってよく通いましたねえ。寄席で笑ってると空襲警報が鳴るんですよ。そしたらみんな、サァーっと引けて防空壕や安全そうな所に向かう。サイレンが鳴り止むとまたみんな寄席に戻ってくる。そんなことばかりしてました」

 圓歌さんの思い出話は実に貴重だ。戦争に日常性を奪われることに抗い、戦争を笑い飛ばしてやろうというたくましい江戸っ子はたくさんいたのだ。

 戦後70年。そしてまた、師匠も芸能生活70年。終戦と同時に鉄道員を辞め、落語家に転身した。当然ながら親は猛反対。ついには勘当される。戦争が終わり、誰もが定職を探している中で、いとも簡単に最も安定していると思われた職を捨てる息子の気持ちは、親に理解できるはずもなかった。しかし、空襲の中でも命がけで笑い続けた寄席での強烈な体験は、思春期の青年の将来像に劇的な影響を与えたのだろう。

 ということで、昭和四年生まれが正解のようだ。
 朝日新聞の訃報も、届け出の間違いのことを踏まえ、昭和四年生まれとしている。
朝日新聞の該当記事

 落語協会のホームページは、前最高顧問の生年月日を間違えたまま。

 これは修正すべきではないか、と思う。
 その内容を含め、相変わらず事務的で愛想のないものだが、ホームページの小言を書き始めたら終わらなくなるので、これ位で。


 さて、円歌の国鉄勤務は、数年のことだ。
 その短い体験から「新大久保~」の名調子が出来たわけで、創作力の高さは凄いと思う。

 『授業中』も『中沢家の人々』も、傑作。

 しかし、円歌は古典もしっかり演じていた。

 今年の旧暦の西行忌の日、『西行』について書いた。
2017年3月13日のブログ


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矢野誠一_落語歳時記

 その記事と重複するが、矢野誠一さんの『落語歳時記』から、このネタについて書かれた部分を引用する。
 旧暦二月二十六日、西行法師の忌日。建久元(1190)年のこの日、河内弘川寺に入寂した。「願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」という歌は有名。釈尊入滅の日に死ぬことを願っていたのである。二十三歳出家してより諸国行脚して歌道にその名を知られた。家集『山家集』のほか、その歌を集めた『聞書集』『聞書残集』がある。

    *
 あの西行法師が未だ佐藤兵衛之丞則清といった北面の武士時代のエピソードを綴ったのが、地ばなしによる『西行』で、故柳亭痴楽や三遊亭円歌などがしばしば高座にかける。昔、摂津泉つまりいまの大阪近辺から千人の美女を選び、さらにそのなかの一人選び抜かれたという染園内侍に、佐藤兵衛之丞則清が恋をしたはなすだが、落語では、この恋に破れたため、かざりをおろし、名も西へ行くべき西行と改めることになっている。
 
 『西行』の代表的演者、三遊亭円歌という名前の前にも、「故」がつくことになってしまった・・・・・・。

 北面の武士から出家した西行。
 噺家から出家した円歌には、西行への思い入れがあったのではなかろうか。

 この噺、あらすじやサゲから、現代では演じられにくいネタではあるが、佐藤則清という武士のことや、「阿漕」という言葉の意味などをたどるきっかけにもなる噺。
 
 音源を師匠円歌は残してくれている。
 ぜひ、一門の人に継いで欲しいと思う。

 『授業中』や『中沢家の人々』は、本人限りのネタ。
 しかし、円歌が手掛けた古典は、後世に伝えることが出来る。


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by kogotokoubei | 2017-04-27 12:41 | 落語家 | Comments(8)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛