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噺の話

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カテゴリ:落語家( 79 )

 またか、という声が聞こえてきそうなのですが、古今亭志ん生の最初の師匠のこと。

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矢野誠一著『志ん生のいる風景』

 本件について書くにあたって、矢野誠一さんの『志ん生のいる風景』を忘れかけていた。
 本棚の奥に、横積みにした数冊の文庫の下の方に、カバー付きで置かれていたので、見逃していた。

 志ん生について語るなら、避けて通れない本だよねぇ。

 初版が昭和58年の青蛙房刊、昭和62年に文春文庫で再刊。私はこの文春文庫を読んでいる。なお、今年、河出文庫でも発行されたが、「いだてん」の影響だろう。

 本書に、「ひとりの師」という章があった。
 
 小島貞二さんの『びんぼう自慢』の中の「円喬師匠のところへ弟子入りして、最初につけてもらった名前が三遊亭朝太」という志ん生自身の言葉があることや、昭和46年の「文藝春秋」掲載の対談でも、志ん生が円喬に最初に入門したと語っていることを紹介した後、このように矢野さんは書いている。

 いずれにしても、落語家古今亭志ん生の最初の師が、四代目橘家円喬であるというのは、当の志ん生没後もしばらくのあいだは定説であった。その定説を否定して、志ん生の最初の師を、二代目三遊亭小円朝であると記したのが、結城昌治『志ん生一代』で、「週刊朝日」連載第一回、まさに発端の章にこう書かれている。

<その志ん生が三遊亭小円朝(二代目)に弟子入りして、朝太の名をもらったのは明治四十三年(1910)、ちょうど二十歳のときである。>

 結城昌治さんが、古今亭志ん生の最初の師匠を、三遊亭小円朝で橘家円喬ではないと推断した最大の根拠は、三遊亭朝太という志ん生に与えられた前座名にある。志ん生自身が、『びんぼう自慢』で、「円喬師匠が若いころやっぱりこの名前をつかっていたそうでありまして」と語っているように、橘家円喬は八歳のとき三遊亭円朝に入門して、三遊亭朝太を名乗っている。しかしこれは、三遊亭円朝の「朝」の字をとった命名で、円喬となってから自分の弟子に「朝」の字のついた名を与えている例がないことなどから推しはかっても、二代目小円朝の弟子で朝太と考えるほうが自然である。橘家円喬が、四十七歳という若さで逝ったのは1912(大正1)十一月二十二日のことなのだが、当時の新聞や雑誌に載った訃報や追悼の記事をさがしてみても、朝太という弟子がいたという記録はない。

 そうそう、結城昌治さんの『志ん生一代』では、疑いもなく二代目小円朝の弟子、としてあった。
 ちなみに、結城さんに志ん生の本を書くよう勧めたのは、立川談志らしい。

 さて、結城昌治さんの本、小説ではあるが、本人聞き書きによらない一代記として志ん生を知る上での必読書だ。
 今年、小学館文庫で再刊されたのは、「いだてん」効果だろう。

 これまでにも、何度かこの本から記事を書いている。
2008年10月13日のブログ
2012年9月1日のブログ
2012年9月22日のブログ
2013年9月21日のブログ
2017年7月21日のブログ

 さて、矢野さんの本に戻る。

 矢野さんは、小島貞二さんの『びんぼう自慢』本文の内容と年表の矛盾を見逃さなかった。

 『志ん生一代』で結城昌治さんが、志ん生の橘家円喬門下説を否定したことは、故人の周辺にはまったくといっていいくらい影響を与えなかった。誰の弟子であろうと、古今亭志ん生は古今亭志ん生なので、その後すぐれた落語家としての名跡は、師匠筋が誤り伝えられたくらいのことでは、びくともするものじゃない。
 波紋は、むしろべつの方面に及んだ。たとえば。1970年(昭和45)に刊行された『志ん生廓ばなし』(立風書房)についている年表で、
 <明治四十年  十七歳
  浅草富士横丁のモーロー俥夫の家に居候しているとき、すすめられてはなし家を志し、運よく“名人”といわれた橘家円喬門下となり、三遊亭朝太の名をもらう。>
 と、している小島貞二は、『志ん生一代』が公にされたあとの、1977年(昭和52)に出た文庫版の『びんぼう自慢』(立風書房)の年表を、

<明治四十一年(1908) 十八歳
 四月二十三日、兄(二男)益没、二十九歳。あとの兄弟はみな夭折して、五男の孝蔵のみのこる。
 円盛のひきで、円盛の師匠初代(正しくは二代目だが芸界では初代)三遊亭小円朝門下に転じ、朝太の名をもらう。「名人四代目円喬の弟子になった」と志ん生本人は語っているが、師匠筋とすると小円朝が正しい。同門に二代目小円朝(初代の実子、当時朝松)、それにのちの講談師田辺南鶴(当時一朝)がいた。>

 と、訂正した上、「楽屋帳(あとがきにかえて)」と題する末尾の文章で、こうのべている。
<年譜を対比しながら、この本を読んだ方は、「生年月日から違ってるではないか」「両親の名前も違うのは、どうしたことだ」などなど、さまざまな疑問を感じられるに違いない。
 実は、私は、そういうことを、随分取材の折り、念を押した。
 放浪時代の入墨のことも、最初の師のイカタチの円盛のことも、そして小円朝のことも、それとなく伺ってみたのだが、その辺のところは触れるのを嫌うように、志ん生師は話題をすぐ別のほうへ動かした。
 (中 略)
 志ん生という人を、本人の談話を忠実に、活字の中に生かすことが、与えられた私の仕事で、何もかもすべてをすっぱ抜き、大上段に人物論を展開するのが目的ではない。本人の語らない・・・・・・無理に語ろうとしない面は、そのままにしておくことが、やはりこうした読物のとるべき態度であろうと、私は今も信じている。>

 この矢野さんの引用を読んで『びんぼう自慢』文庫版の年表を確認した。
 たしかに、「楽屋帳」の「四」に、この通りに記されている。

 小島さんも、苦渋の決断での「聞き書き」であったのだろう。
 矢野さんは、この楽屋帳の内容について、「なんとも歯切れのよくない」印象としている。

 そして、こう書いている。
自分の師を橘家円喬だとする発言が、戦後満州から引きあげてきてからのものと思われるところに興味がわく。

 その後、正岡容が『當代志ん生の味』という文章で、正岡も最初の師匠を小円朝と書いていることを紹介した後で、このように、この問題(?)への考察を締めている。

 戦前の、赤貧洗うがごとき暮しをしていた落語家の時代には、その経歴に注目するひとなどそういなかった。だが、満州から帰国していらい、たちまち時代の寵児のあつかいを受け、東京落語界の指導的地位に立たされてしまった志ん生には、自分の経歴をかざることも必要になってきたのである。三遊亭小円朝よりも橘家円喬のほうが師としてふさわしいというより、橘家円喬でなければならない理由が、志ん生にはあった。

 なるほど・・・なのである。

 結城昌治さんは、小説でありながら実証的な推理を元に最初の師匠を小円朝とし、小島貞二さんは、その本人の言葉を疑いながらも円喬としながら、結城さんの本の出版後、文庫の年表では、正しいと思われる内容を補足した。

 そして、なぜ本人は「円喬の弟子」を強調したのか・・・は、矢野さんの書く通りなのだろう。

 前の記事で、小島貞二さんの『志ん生の忘れもの』に、この問題(?)は、「幻の中」にある、という記述を紹介した。

 小島さんの気持ちも、よく分かる。

 とはいえ、矢野さんの指摘で、「幻」の霧が晴れたのも事実。

 この件、これにてようやくお開き。
 
by kogotokoubei | 2019-04-11 22:27 | 落語家 | Comments(2)
 先日、古今亭志ん生の最初の師匠は、「いだてん」が描くように四代目橘家圓喬ではないだろう、と書いた。

 あくまで、憧れの師匠が圓喬であり、ご本人が圓喬に入門したとおっしゃっているのは、願望する余りの思い込みではないか、と書いた。

 実は、あの記事で、小島貞二さん聞き書きの『びんぼう自慢』の内容は、あえて引用しなかった。

 なぜなら、あの本では、明確に最初の師匠は円喬と紹介されており、「いだてん」も、たぶんに『びんぼう自慢』を土台にしていると思えたからだ。

 しかし、前回の記事を書いてから、小島さんの本で、見逃せないものがあったことを思い出した。

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小島貞二著『志ん生の忘れもの』(うなぎ書房)

 その本は、『志ん生の忘れもの』(うなぎ書房)。
 平成11(1999)年の発行。
 同じ書店から出ている小島さんの『こんな落語家(はなしか)がいた-戦中・戦後の演芸視-』は、何度か紹介している。

 小島貞二さんと志ん生とのお付き合いは長く、深い。

 その二人の出会いのおかげで、落語愛好家のとって宝物とも言える多くの志ん生に関する作品が残された。

 最初、『サンデー毎日』の連載企画のために小島さんによる志ん生の聞き書きが始まり、その内容から『びんぼう自慢』が生まれた。

 毎日新聞から立風書房に移ってから、その『びんぼう自慢』の再刊に続いて、「志ん生○○○ばなし」シリーズが発行された。

 ちなみに、この本の発行元うなぎ書房は、その立風書房を退社された方が創業した会社。

 「まえがき」から、まずご紹介。

 志ん生さんとのやりとりは、普通のインタビューとは違っていた。
 普通は、一問一答の形で進む。話のキャッチボールで会話が弾むものであるが、志ん生さんの場合は違う。
 一つテーマを示す。「きょうは、子どもの時分のことを・・・・・・」と注文すると、「えー、あたしのガキの時分の、上野、浅草なんてえものは・・・・・・」ともう始まっている。
 あくる日、酒についての注文を出す。「酒えてことになると、あたしは、どうも、ダラシがなくなっていけませんや・・・・・・」、その次は旅、その次はバクチ。「ひとり高座」が十五分も二十分も続く。その日の気分で、いつ、どこから、どっちへつながるのかわからない。
 時には同じ話が二度、三度と返ってくるかと思うと、その同じことのある部分が拡大され、そこから新しい話がまた始まる。無尽蔵の宝庫の中で、しばし迷子になるような気分であった。底の知れない穴蔵に、腕を突っ込んで、埋もれた金塊を探す光景にも似ていた。

 なんとも、贅沢なインタビューだろう。
 
 小島さんというたった一人の客に向かっての、志ん生の高座、とでも言うべきか。

 そんな長時間の聞き書きを、「思い出すままを記した」のが本書、と説明されている。

 本書の「朝太ひとり旅」より引用。

 志ん生さんにきいた、もっともいい話、もっともドラマテックな話を一つ。
 若いころ・・・・・・おそらく朝太の時代であろう。小円朝一座で旅に出た。
 小円朝は当時、三遊派の頭取をつとめた大看板であったが、ちょっと協会にごたごたがあり、責任をとっての旅回りということらしい。前座がひとり足りないからと、朝太がかり出されたのである。
 旅先で、師匠円喬の訃を知り、体中の水分がなくなるほど泣く。旅が一年半ほど続くが、ドサ回りはどこも客が入るとは限らない。ご難が続く。
 そのうちに、「いい加減に、東京に戻っておいでよ」の手紙が来て、小円朝一行は帰京ときまる。朝太も、「お前も、一緒に帰るんだろうね」ときかれる。朝太は考える。
 帰っても師匠(円喬)はいない。このまま小円朝の弟子になる気が向かない。多少芸に自信みたいなものも生まれて来ている。ここでひとり旅をして、いよいよ困ったら東京に戻ればいい。
 友達の窓朝に相談してみると、「ひとり旅も面白いもんだぜ。でも大変だけどもなァ・・・・・・」という。「面白いもんだぜ」と「大変だけどもなァ・・・・・・」を両天秤に掛けて前者を選ぶ。
「それじゃァね、しっかりおやりよ。でもね、身分が前座のままでは通りもわるかろうから、わたしが許すから、これからどこへ行っても、東京の二ツ目ってえことにしたらいいよ」
 と、小円朝から餞別と一緒に、特別に「二ツ目」をもらう。こうして、朝太ひとり旅がはじまる。

 ということで、この文章からは、志ん生が円喬の弟子だったことを、まったく疑う様子が見えない。

 あまりに、志ん生と近づきすぎたことによる、錯覚の共有なのか・・・・・・。

 それとも、小島さんが何度も聞く中で、志ん生ご本人が語る円喬の思い出話から、弟子であったことの信頼性が高いと、判断したのか・・・・・・。

 などと思っていたら、この章のしばらく後に、種明かしのような章があった。

 その名も、「最初の師匠」から引用。

「あたしは、はじめ円盛のとこにいたんですよ」
「えッ、あの、イカタチの円盛の?」
「うん・・・・・・」
 私が飛び上がるほどおどろいたというのは、全くの初耳で、円盛は“奇人”で知られてはいるものの、二流の落語家で、ほとんど無名といってよい。
 志ん生さんは『びんぼう自慢』の中でも、名人といわれた橘家円喬(四代目)の弟子だといっている。最初の名が三遊亭朝太であったこともはっきり語っている。朝太は円喬の最初の名。出世名前である。
 私も、最初の『びんぼう自慢』取材の折、そこのところを二、三度確かめたが、忘れてしまったのか、思い出したくないのか、多くを語ることはなかった。
 志ん生さんのいう「名人円喬の弟子」で、そのときには原稿を統一したいきさつがある。自伝の聞き書きは、誰の場合でもそうであるが、ご本人や記録を大事にしなければならない。
 そこは、いきなり奇人円盛“が、最初の師匠として飛び出した。それもこちらが何も聞かないのに、志ん生さんがポツリと告白のようなひとことだから、驚いて当り前だ。

 このポツリの述懐は、信憑性がありそうだ。

 だから、まずは最初、円盛の弟子、というのは動かせないだろう。

 小島さんは、美濃部孝蔵少年の家出以降を、このように推測している。
 毎日遊んでばかりにはゆかない。さほどの期間ではないが、御徒町の鼻緒屋に奉公したことがある。そのころ芸事に夢中になり、天狗連(アマチュア、セミプロごっちゃの芸自慢)に入り、そういうグループを仕切る三遊亭円盛の内輪になる。そのときの芸名は盛朝。かなり達者で評判もいい。本格的にプロの道に入りたいと願うようになり、円盛に相談すると、
「じゃあ、ウチの師匠に頼んでみよう」
 と、円盛の師匠、小円朝に紹介され、そこに入門する。
 入ってみたが、師匠との折り合いがあまりよくない。寄席できく円喬の名人芸に惚れ込んで、「師匠はこの人だ」とのめり込む。
 あるいは、小円朝の許しを得て、人形町の玄冶店に住む円喬のとろろに通い、身の回りの世話をしながら、稽古を受けたことが、一時期あったのかもしれない。円喬の没は大正元年十一月二十二日、四十八歳だから、志ん生さんが円喬に接したのは、さほど長くはない計算になる。円喬没後改めて小円朝門下に転じたのかもしれない。
 のちの九代目土橋亭里う馬は、その円喬の最晩年の弟子で、初名を喬松といった。
「志ん生さんは、円喬の弟子だったことがあるんですか」
 と生前、里う馬に聞いてみたが、笑ってイエスともノーともいってくれなかった。
 三代目の三遊亭小円朝は、二代目小円朝の実子。志ん生より二つ年下で、十六歳でg父に入門、初名を朝松という。
「志ん生さんは、円喬の弟子だったといってますが、本当は、お父さんの弟子で、師匠とは兄弟弟子でしょう」
 と、きいたことがあるが、これもはっきりと返事をしてもらえなかった。
 功なり名を遂げた“天下の志ん生”に対し、仲間うちで否定的なことは絶対のタブーと、私は理解した。
 志ん生さんのプロとしての最初の師匠は円喬なのか小円朝なのか、幻の中にある。

 この、円喬の弟子だった土橋亭里う馬と、三代目小円朝の小島さんの質問への態度に、事実が隠されているようにも思う。
 なるほど、あの時代の噺家さんは、小島さんの質問に軽々しく答えるようなことはなかった、ということか。

 志ん生が、生涯「円喬の弟子」と言い続けた気持ちも、汲み取ってあげる必要があるのだろう。

 実際に、円喬宅を訪れ、稽古をつけてもらった可能性も、ある。
 師匠の乗った人力車をひいた、というのは、考えにくいのだけどね^^


 さて、あらためて、志ん生の師匠は誰だったか。

 小島さんの言うように、その答えは幻の中にそっと閉じ込めておくのが、よさそうだ。

by kogotokoubei | 2019-04-08 21:36 | 落語家 | Comments(0)
 「いだてん」では、古今亭志ん生が、名人の誉れ高い四代目橘家圓喬の弟子として描かれている。

 しかし、落語愛好家の方はご存知のように、本人はそう言っているが、たぶんに疑わしい。

 今回は、そのあたりについて、少し。

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 『古今東西落語家事典』では、こうなっている。

 出生日には六月五日、六月十日の異説がある。
 三遊亭圓盛(いかたちの)門人の天狗連で盛朝を名乗ったが、明治四十三年ごろ二代目三遊亭小圓朝門下となり朝太と名づけられた。大正五年ごろ三遊亭圓菊で二ツ目に昇進、さらに馬生(のち四代目古今亭志ん生)門に移って金原亭馬太郎、さらに金原亭武生と改名、同十年九月、金原亭馬きんで真打に昇進した。

 圓喬に入門、とは書かれていない。

 しかし、圓喬の名は次のような文脈で登場する。

 晩年売れたのも、崇拝していた四代目橘家圓喬などの本格的な噺を身につけた上で、柳家三語楼の明るい話し口を加えた独特の芸風が迎えられたものである。

 この事典の執筆者の一人の本にもあたってみた。


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保田武宏著『志ん生の昭和』

 保田武宏さんの『志ん生の昭和』(アスキー新書)だ。
 著者の保田さんは志ん生のCDとDVDの全作品691のガイドブックも書いているし、志ん生のことを知るには、保田さんの著作に当るべきだろう。

 もしかすると、事典とは違う沿革が書かれているかもしれないと思ったが、本書でも、このように記されている。

 放蕩生活を続けたあと、明治三十八年に天狗連に加わる。天狗連というのは、素人の落語家の集りで、当時たくさんあった端席の寄席などで高座に上がっていた。その仲間に入って、三遊亭圓盛(堀善太郎)のもとで三遊亭盛朝と名のった。この圓盛という人は、二代目三遊亭小圓朝(芳村忠次郎)門下のプロの落語家で、背が低くて頭が大きく、イカが立って歩いているようだというので「イカタチの圓盛」と呼ばれていた。芸はまずかったが、奇人として有名だった。
 この圓盛の師匠である小圓朝に入門したのが明治四十三年、数え二十一のときだといわれている。三遊亭朝太の名前をつけられ、プロの落語家としてのスタートをきった。
 このように、圓喬の名は、まったく出てこない。

 では、珍しい親子の会話もご紹介。

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『志ん生芸談』(河出文庫)

 『志ん生芸談』は、本人が落語集のために語り下ろした言葉や、雑誌に掲載された対談などが収められている。

 その中に、昭和36(1961)年12月4日号の『週刊文春』の記事がある。
 記者が日暮里の志ん生宅を訪問して書かれたもののようだ。
 
 日付は昭和36年11月19日、倒れるほぼ一ヶ月前になっている。

 真打昇進の一年前で、まだ朝太の志ん朝が、志ん生のネタ帳を見ての親子の会話。

「“和歌三神”か・・・・・・父チャン、これできねえだろう?」
「できるよ。圓喬さんがうまかったネ・・・・・・。“鰍沢”なんてえのは、天下一品だったネ、楽屋で聞いてて、柱に頭ぶつけて、目ェまわしたことあるんんだもんネ・・・・・・」
「その名人の圓喬さんの噺てえのを聞いてみたいもんだネ」
「円喬さんを知ってえるのは、アタシと文楽さんだけだ」
「父チャン、圓喬さんの弟子だたってえけど、掃除なんかしにいったの?」
「そりゃ、もうオメエ、朝早く出かけてくてえと、もうチャンと起きてるからネ、そいでもって、きせる掃除したりなんかしたん・・・・・・」
「じゃあ、ほんとのお弟子さんだったん?・・・・・・なァんて、父チャン疑ぐられちゃってんだ」

 この志ん生の言葉を信じるならば、圓喬の弟子だったことになるが・・・・・・。
 崇拝していた圓喬の弟子だったことにしたい、という願望が、弟子だった、と自分も思い込むほどの錯覚につながったのかもしれない。

 志ん生が圓喬の弟子だったのかどうかは、結構、大きな落語界のミステリーと言えるかもしれない。

 くどかんは、弟子だった、ということで脚本を構成しているが、なかなかに微妙なのである。

 私は、あくまで憧れだったのが圓喬であり、弟子ではなかった、と思っている。

 次回「いだてん」では、小圓朝門下として旅に出る場面が描かれそうだ。

 地方回りでの逸話も多いので、いろんな事件(?)が描かれるだろう。

 松尾スズキの出番は、今後減っていくのは残念だが、小圓朝や他のドサ回り仲間がどう描かれるのかは、楽しみにしたい。

 余談だが、引用した昭和36年11月の出来事の中で、11月17日には、東京落語会で『火焔太鼓』の後、新宿末広亭で『寝床』をかけている。
 71歳だったが、まだまだ元気だったことが分かる。
 翌月12月15日が、巨人の祝勝会だ。

 私は、志ん生が倒れた原因を知ることで、アンチジャイアンツの度合いが増した。

 
by kogotokoubei | 2019-04-04 12:53 | 落語家 | Comments(0)
 一昨日の「いだてん」は、落語愛好家の方には、さまざまな感想を抱きそうな内容だった。

 それは、若き日の志ん生の高座。

 朝太(志ん生)が、師匠橘家圓喬が稽古するのを人力車をひきながら聴いて耳で覚えた『富久』を、その師匠が楽屋で聴いている中で演じ、酒がまわってきて途中で寝てしまうという、なんとも大胆な演出だった。

 前座が、『富久』・・・ありえないなぁ。

 とはいえ、高座で寝たという逸話は、事実。

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岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)

 平成19(2007)年発行の岡本和明の『志ん生、語る。』は、平成6(1994)年から発行が始まった『これが志ん生だ』(三一書房、全十一巻)の月報の中から選んで編まれた本。

 その中に、先代圓歌の貴重な話がある。

 志ん生師匠が高座で寝ちゃったって話、よく他の咄家がしますけど、あれを実際に見ている人間は今じゃ僕くらいしかいないんです。
 今はもうなくなっちゃったけど、新富町に「新富演芸場」ってのがあったんです。ここは楽屋が高座の下にあったんですが、僕は志ん生師匠が好きだったから、志ん生師匠が高座に上がるとぼーっと見ているわけですよ。
 で、その日は楽屋にいる時からうつら、うつらしていましてね、もちろんいつもお酒を呑んでから楽屋へ入りますけど、でも、<あれ?志ん生師匠、珍しくうつら、うつらしてるな>って思ってたんです。すると前座が、
「師匠、出番です」
 で、出囃子が鳴ると芸人根性ですからね、すっと高座へ上ってったんですよ。あの方は、
「昔はってえと・・・・・・」
 と言った瞬間に、もう、自分が江戸時代を出せる人でしたからね。それは、他の人間がどんなことをしたってできやしないし、あそこまで行けないですよ。僕はその突っ込みが好きですし、尊敬もしていましたから、その日も見ていたんです。志ん生師匠は高座に上ると、座ってお辞儀を一回したんです。で、
「昔はってえと・・・・・・」
 と言って噺に入ったんですが、そのうちにおとなしくなっちゃった。<何だろうな?>と思って見ていると、「がー」って鼾が聞こえてくるんですよ。そしたら前にいたお客の、
「寝てるよ・・・・・・寝てるよ」
 って声がこっちにも聞こえてくるんですよ、小っちゃな声だけど。で、前座がすーっと出てきたんです。すると前にいたお客が、
「おい、いいよ、いいよ。寝かせといてやれよ」
 って小さな声で言ったんですが、まさか寝かせとくわけにもいかないんで、その時、楽屋にいた小圓朝師匠だったかな、誰かが、
「いいよ、俺が上るから」
 ってんで、出囃子が鳴ったとたん、志ん生師匠はすーっと目を覚ましたんです。僕が高座で話す時はここまでで終わりにしちゃうんですけど、実際には演りました。
「俺、寝ちゃって・・・・・・」
 みたいなことを言ってから、噺に入っていきましたよ。その時、もうお亡くなりになった“へたり”(前座のまんまでいる咄家のこと)で「圓福」って人がいたんですがね、その時は五十か六十だったと思いますが、そのお父っつぁんが言ってましたよ、
「疲れてんだねえ・・・・・・」
 って。その後、志ん生師匠が寝たって話は聞かなかったから、たぶん、その一回だけだと思うんですよね、志ん生師匠が高座で寝たのは。よくいろんな人間が、
「志ん生師匠が高座で寝たのを見た」
 なんて言ってるけど、そんなこと言ってたら志ん生師匠は一年中高座で寝てなくちゃなんない。

 そうなんだ、寝っぱなしじゃなかったんだ・・・・・・。

 ちなみに、起きてから演じたネタは、何だったのだろう。

 もはや、それを確認することのできる人は、一人もいない。

 圓歌さん、どこかで書いたり話してくれていたのだろうか。

 その名跡も、代が替わる。

 元号も変わる五月には、新たな圓歌に会いに行きたいと思っている。

by kogotokoubei | 2019-04-02 08:45 | 落語家 | Comments(4)
 両協会からの訃報が続いた。

 お二人のことを、同じ記事で並べて書く無礼を、先におことわりしたい。

 私にとっては共通点があるので、お許しのほどを願いたい。

 落語協会は、金原亭馬好。
 3月19日に旅立ったとのこと。
 この日は、米朝の命日でもあるし、ちょうど一年前は、立川左談次が彼岸の人となっている。特異日か・・・・・・。
 昭和二十三(1948)年生まれで、満年齢なら七十歳。

 芸協は、三遊亭金遊。
 3月24日に、仕事先の岡山で亡くなったとのこと。
 昭和二十六(1951)年生まれ、まだ六十台だ。
 前日、弟子の落語会に出演したのが最後となったという。
 同じ四代目円遊の兄弟子だった小円遊も、仕事先だったなぁ、などと思い出す。
 ちなみに、その小円遊が前座、二ツ目時代名乗っていたのが、金遊。


 お二人とも、平均寿命で考えても、惜しみある早い旅立ちだ。


 相変らず、落語協会ホームページの訃報は、味気ない。
落語協会HPの該当ページ
 対照的に、落語芸術協会の内容には、人の情けを感じる。
落語芸術協会HPの該当ページ


 私にとって、馬好、金遊のお二人に関して共通しているのは、一度だけ聴くことができた、ということだ。

 いや、一度しか聴けなかった、というべきだろう。


 馬好は、五年前、末広亭での先代馬生三十三回忌追善興行だった。
2014年9月15日のブログ

 こんなことを、書いていた。

金原亭馬好『初天神』  (10分)
 初である。金坊を連れて初天神に行く場面からだが、その独特の展開が楽しかった。
 七色(七味)唐辛子屋→占い→飴屋、とそれぞれの商売の口上をしっかり演じてみせた。私はこういう噺、好きだなァ。
 仲入り後の座談で、雲助が名前をつける際、師匠は「お前ならいいだろう」と許してくれたが、たとえば馬好のように見た目が雲助のようなら許さなかった、と笑い話をしていたが、なるほど迫力ある見た目である^^
 本来は、このように演出されていたのだろう、と思わせる、今では聴くことのできない『初天神』だった。

 金遊は、昨年11月、同じく末広亭の下席。昼夜居続けの昼の部だった。
201811月26日のブログ

 こう書いていた。

三遊亭金遊『開帳の雪隠』 (13分)
 未見で、楽しみにしていた人の一人。
 『心眼』は、当代一、と評する落語愛好家もいらっしゃるようだ。
 さすがに寄席での尺、そんな大ネタはかかるはずもないが、この珍しい噺を、小気味良く演じた。
 声が良い。アナウンサーにでもなれそうな声質。
 回向院の前にある駄菓子屋さんの老夫婦が主人公の、地味な噺だが、味わい深く聴かせてもらった。
 この噺は、四年前の鈴本夏祭りで、三三で聴いて以来。
2014年8月21日のブログ
 寄席ならではのネタ、とも言えるだろう。 
 寄席の逸品賞候補としたい。
 寄席の逸品賞は、同じ席での三遊亭萬橘『紀州』があまりにも良かったので、受賞(?)は逃したが、印象深い高座だった。

 
 持ち味は対照的に違うのだが、落語本来の楽しさを充分に引き出すことのできる巧者だと思ったし、またぜひ聴きたいと思っていた噺家さんたち。

 こういう悲しい報せに接すると、やはり、まだ聴いていない噺家さんに会いに行かなきゃなぁ、と思う。

 合掌


by kogotokoubei | 2019-03-27 19:11 | 落語家 | Comments(8)
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 これは、16日に開催された横浜での柳家小満んの会の千秋楽でいただいた、「全百五十回 演目控え」の表紙だ。

 これが、最初のページ。
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 内容をエクセルにしてみた。

 これが、その表の抜粋。

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              ・
              ・
              ・

 毎回三席、計450席のうち、どれほど重複があるか、数えてみた。

 なんと、開始から十七年後の平成23年五月、第104回の『猫の災難』まで、重複なし。
 
 隔月開催で、連続三百席以上も、違うネタを演じ続けていた、ということになる。

 その後は、さすがに演じていないネタは少なくなり、全百五十回で、重複した噺の合計は77席あるが、それにしても450席から77を引いて、373席もの演目を演じてきたことになる・・・・・・。

 私がこの会に最初に行ったのは、平成26年七月の第123回。
 会の存在は知っていたが、強く動機づけられたのは、佐平次さんからのお勧めだった。
 初めて聴く『有馬のおふじ』を堪能。
2014年7月18日のブログ

 その次の九月の124回では、文楽譲りの絶品『寝床』に酔った。

 そして、佐平次さんが事前の散歩で目をつけていたお店、団欒での最初の居残り会は、その夜のことだった。
2014年9月27日のブログ

 懐かしいなぁ。

あらためて私が行けた回は、次の通り。

第123回 平成26(2014)年7月
第124回 平成26(2014)年9月
第125回 平成26(2014)年11月
第126回 平成27(2015)年3月
第127回 平成27(2015)年5月
第128回 平成27(2015)年7月
第129回 平成27(2015)年9月
第130回 平成27(2015)年11月
第131回 平成28(2016)年1月
第132回 平成28(2016)年3月
第133回 平成28(2016)年5月
第134回 平成28(2016)年7月
第135回 平成28(2016)年9月
第136回 平成28(2016)年11月
第137回 平成29(2017)年1月
第138回 平成29(2017)年3月

 ここまでは、16回、皆勤だった。
 その後。

第140回 平成29(2017)年7月
第142回 平成29(2017)年11月
第145回 平成30(2018)5月
第149回 平成31(2019)年1月
第150回 平成31(2019)年3月

 平成29年11月第142回から翌年11月の148回まで、関内ホールが改装のため会場が吉野町市民プラザに移ったので、やはり行きにくくなった。

 ということで、通算21回、通ったことになる。

 いただいた演目控えを見ても、また、自分のブログを読んでも、それぞれの高座が脳裏に蘇る。 

 この会は、関内ホールが相応しく、だからこそ、落語会とすぐ近くの常盤町にある団欒での居残り会が、強く結びついて記憶にある。

 居残り会は、いろんな噺家さんの会の後で開かれてきたが、関内小満んの会後の団欒での会は、特別なものだった。

 昨年の忘年会も今年の新年会も、落語会がない場合でも、最近では団欒で居残り会が開催されるようになった。

 昨年、団欒のご主人が病気から快復されてお店が再開されてから、なおさら特別の思いで開催されている。

 そのご縁も、お店から徒歩五分の小満んの会との縁だったことを、あらためて感じる。

 二十五年に渡り四百席近い演目を披露してきた柳家小満んという噺家さんと、関内で四十年続く老舗への思いは深く結びついている。

 四百五十席の演目を眺めて、その高座とその後の旨い酒、楽しい会話を思い出す。
by kogotokoubei | 2019-03-19 21:18 | 落語家 | Comments(4)

 昨日は、二十五年続いてきた横浜の柳家小満んの会が、百五十回にて最終回。

 
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 終演後、師匠にお願いして、著作の表紙裏に、こんな素敵な言葉を書いていただきました。
 私のガラケーのせいと、撮影が下手なのでボケておりますが、これは、宝物になります。

 この内容や、落語会、そして居残り会については、次の記事にて!
by kogotokoubei | 2019-03-17 09:35 | 落語家 | Comments(5)
 また、左談次の記事か、の声が聞こえそうだが、ご容赦のほどを。

 11日の偲ぶ会でも、左談次に酒癖のことが語られたが、以前に、談四楼の『談志が死んだ』からその酒癖に関する逸話を紹介していた。

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立川談四楼著『談志が死んだ』(新潮文庫)

 2016年の11月21日、談志の命日に書いた記事と重複するが、ぜひあらためて紹介したい。
2016年11月21日のブログ

 談志が亡くなった直後の、一門のこと。

 こんなのべつに通夜をやる一門はねえなと言いつつ、兄弟弟子は事あるごとに師匠を肴にして酒を飲んだ。談志のネタは山ほどある。あんなこともあった、こんなこともあったとそれぞれのエピソードを出し合い、笑い、みな安心して談志を血祭りに上げるのだった。

 “血祭り”は言葉のアヤだろうが、とにかく、夜な夜な弟子たちは集まっていた。

 そして、その“通夜”では、晩年の談志の不可解な言動が明かされることもあった。

 左談次の逸話を引用。
 酒癖と言えば左談次。いやむしろ私は陽気ないい酒だと思っているのだが、談志がそう思ってなかったという話なのだ。
 入門早々、左談次は渋谷にある談志の書斎で小言を食った。帰れと促され、少しムッとしたらしい。私も知っているが、あのマンションのドアは鉄製で重かった。左談次がそれを閉めようというとき突風が襲い、ドアがガッチャーンと凄まじい音を立てて閉まった。左談次が階段を降りかけた時、そのドアから談志が飛び出して来た。
「ごめん山岡クン、言い過ぎた、ヤケになるな」。
 以来、キレると何をするかわからないと談志はインプットされたらしい。何か仕出かす前に帰そう。それには酒癖が悪いという口実がいい。おそらくそんな回路を経て、左談次は酒癖が悪いことになったのだ。新年会など、一門の折々の宴席で談志は言い続けた。「おい、左談次はそろそろ帰せ。あいつは酒癖が悪いんだから」。

 突風のことは、左談次も、あえて言わなかった、ということか。

 左談次が入門したのが昭和43(1968)年だから、昭和11(1936)年生まれの談志は、32歳。
 「笑点」の初代司会者を昭和41(1966)年5月から昭和44(1969)年11月まで三年半務めている、まさにその時期。
 ちなみに、あの『現代落語論』は昭和40(1965)年上梓している。二十代で書いた本なのだ。
 そんな若くて、仕事にもノリノリの時期、たまたま突風のせいで重たいドアが音を立てて閉まったのを勘違いし、本名で「ごめん山岡クン、言い過ぎた、ヤケになるな」という談志の姿を思い浮かべると、なんとも可笑しい。

 その左談次が、談志の異変について語った言葉も引用。
「オレたち近過ぎてわからねえんだよ。数年ぶりに会った人が、師匠おかしいと気がつくんだ」
 左談次はそんな前フリから話を始めたのだが、晩年、旅のお供をしたらしい。“ひとり会”と銘打ったのに声が出ないから二席はきつく、サポート役として真打が一人同道した。その打ち上げの席だったという。
「師匠は打ち上げの席は好きだからさ、ウーロン茶を飲んでた。声も出ねえし、こっちはそれが務めだと思うから、飲みながらパアパア言ってたよ。ふと家元の視線に気づいたんだ。オレの手元のグラスを見てんだよ。で言ったんだ、左談次、おまえ酒飲めるのかって。いや、イスから転げ落ちるかと思った。驚いたねえ。じゃ今までの酒癖が悪いから帰れってのは何だったんだよってなもんさ」

 若い時分にインプットされていた「左談次=酒癖が悪い」という情報が、晩年、まったく消えていた・・・・・・。

 それも病による影響であろう。


 左談次自身は、最後の最後まで、結構、記憶などはしっかりしていたように思う。

 晩年、彼のブログをよく見ていたので、そう思うのだ。
「さだやんのほろ酔い日記」

 今も見ることのできるブログ、昨年2月10日、亡くなるほぼ一か月前の記事を紹介したい。
落語で衝撃を受けたベスト3。
先ずは小学6年生初めて行った寄席末廣での師匠談志の「源平」
コレで噺家になろうと決めた一席。
中1雨の鈴本夜円生師「妾馬」帰り道の気持ちよかった事。
噺家になってから楽屋で小さん師「道灌」の凄みと面白さに改めて震えた。
 12歳で、談志の『源平』の良さが分かったんだ・・・・・・。
 円生『妾馬』、小さん『道灌』。
 

 左談次という噺家さんは、落語が心底好きだったんだなぁ、と知らされる、三席。

by kogotokoubei | 2019-02-17 16:36 | 落語家 | Comments(6)
 歌丸のことを書いた後、最初の師匠、五代目今輔について書かれた本をめくっていた。
 本名鈴木五郎、明治31(1898)年生まれ、昭和51年(1976)没。
 群馬県佐波郡境町(現、伊勢崎市)の出身で、「お婆さん落語」で売り出し、「お婆さんの今輔」と呼ばれた。曲芸師の鏡味健二郎は実子。

 ちなみに、歌丸は、今輔門下にあって、当時若手の寄席の出番が少ないなどについて、他の若手と一緒に待遇改善を訴えたことから今輔の逆鱗の触れ、一時落語界を離れている。
 二年ほど化粧品のセールスなどをした後、兄弟子米丸の仲介で戻り、米丸の弟子として再出発した経緯がある。
 
 今輔の前名も、米丸。

 
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宇野信夫著『私の出会った落語家たち』

 宇野信夫著『私の出会った落語家たち-昭和名人奇人伝-』は、2007年河出文庫の発行だが、1986年に同じ河出文庫発行『今はむかしの噺家のはなし』を底本にして、一部を割愛、いくつかの章を他の本から追加したもの。

 この本に、米丸時代のことが書かれているので、紹介したい。

 米丸になってからの今輔は少しは売れてきた。昭和十年の一月に「吹雪峠」という私の作が二代目左団次によって東劇に、九月に六代目菊五郎によって「巷談宵宮雨」が歌舞伎座に上演された。この二作とも、米丸は文都(里う馬)柳楽(可楽)馬の助、甚語楼(志ん生)と一緒に見物してくれた。但し私の作だけを、三階の一幕見の立見席で見てくれた。もちろん、普通の入場料を払うほど楽ではなかったからである。しかし、これがほんとうの「惣見」だと言っていた。

 里う馬は、九代目。本名黒柳吉之助で、“吉ッつあんの里う馬”と呼ばれた人。明治25生まれだから、志ん生の二歳下。あの名人四代目橘家円喬に入門したものの半年ほどで師匠が亡くなり、出鼻をくじかれて活弁に転向した。それも半年でやめ、四代目円蔵門下から六代目馬生(四代目小さん)門下となったものの、師匠の妹さんとの不祥事から北海道にドロンした後は、一時幇間になった、というなんとも波乱の半生を送った人。
 馬の助は、亭号は蝶花楼で、明治29年生まれ、後に八代目金原亭馬生になった人。本名小西万之助。志ん生とは若い頃いちばんの友人。
 その二人とは里う馬になった文都も仲が良く、頻繁に橋場の宇野邸を訪ねては、ご馳走になっていた。
 八代目の可楽になった柳楽は、志ん生の口ききであの世界に入った人で、明治31年生まれ。
 そういった兄貴分志ん生を中心にした悪友たちの中に、米丸時代の今輔も加わっていたのは、いささか意外であった。
 橋場の旦那、さすがに多くの噺家に慕われていたということか。

 引用を続ける。

 米丸の芸風は、前述の通りぶッきら棒でそっけなく、義理にもうまい噺家とはいえなかったが、その人がらが堅実で、しっかりした見識をもっていた。
「私のことを仲間が上州だ、群馬県だ、と言うから、こっちから先に、私は群馬県だからね、私は上州だからね、と何かにつけて先廻りして言ってやると、この頃は私のことを誰も群馬県だ、上州だ、と言わなくなっちまいましたよ」そんなことを私に言ったことがある。

 訛りについて思い出すのは、初代正楽が信州出身、二代目正楽が春日部出身で訛りに苦労して噺家から紙切りに転身したことは有名。
 しかし、米丸は、その出身による言葉のハンデを、新作落語によって克服した。
 戦後、今輔になってから、新作では第一人者になった。今輔は自分の芸風が古典落語ににむかないことをよく知っていた。自分に生きる道は新作にあると、早いうちから悟っていた。私の「霜夜狸」を誰より先に高座にかけたのは、今輔である。
 鈴木通夫という私の友人が、今輔の理解者で、「おばあさん」を主人公とする落語を何篇か書いた。今輔はそれを生かして高座にかけて大いに迎えられ、「今輔のおばあさん」で通るようになった。今輔は鈴木氏にしんから感謝したに違いない。
 鈴木氏がこんなことを私に話したことがある。
「大晦日の晩、今さんがわざわざ鎌倉の私の家をたづねてくれた。誰でもいそがしい大晦日に、なんの用だろうと思っていると、私の原稿料をもってきてくれた。苦労をしたんだから、私の懐を考えてくれたんだろうと思って、ほんとうに有難かった」 
 里う馬の生活を思いやって、まとまった金を出して、
「返すときがあったら返してくれ、返さなくても結構」今輔さんこそ男の中の男だ、里う馬は古風なことを言って、涙をこぼしていた。

 いい話ではないですか。

 このあと、押しもおされもしない人気者になった今輔は、宇野信夫が高齢者を対象に開催していた「敬老会」に、安い謝礼金にも文句を言わず、毎年出演してくれたことが明かされている。

 今輔の人柄の良さ、仲間思いで義理堅い人だったことがうかがえる。

 たぶんにそれは、上州生まれであることを周囲からもからかわれ、自分もその訛りに苦労してきた若い頃の我慢の日々が。土台にあるのだろう。

 だから、弟子だった歌丸(当時は、今児)たちの行動が、我がままな振る舞いとしか思えなかったのかもしれない。

 歌丸のことから、最初の師匠今輔の人となりを思い返すことになった。
 
 晩年、志ん生とは、きっと協会などの縛りなどを越えた交流もあったのではないだろうか。

by kogotokoubei | 2018-07-07 11:57 | 落語家 | Comments(2)
 昨日、過去の記事へのアクセスが急増している。

 それは、三遊亭小円遊について書いた、2013年10月の記事。

 談志の本を元に、「笑点」でつくられた“キザな男”というレッテルが、あの噺家さんの重荷になった、ということを書いたものだ。
 
 これまでにも、桂歌丸が入院するとか、あの番組を降板するなどで話題になると、この記事のアクセスが急に増えていたが、今回は尋常じゃない。

 やはり、歌丸という噺家さんの影響力は大きいと痛感。

 私が体験した歌丸の高座で印象深いのは、何と言っても一昨年の末広亭5月上席の二日目。

 あれは、副鼻腔炎の手術から退院してから行った、昼夜居続けの日で、昼の主任で『おすわどん』を聴いた。前の年と同様、板付きだった。
 ちなみに、夜の部は真打昇進披露興行。
2016年5月3日のブログ

 あの日が、私が体験した末広亭の最多来場者数日だ。

 ブログの内容を少し振り返ってみる。

 まだ午後1時を少し回ったばかりなのに、「立ち見」とのこと。
 五日までの昼の部の主任が、桂歌丸・・・あの、笑点降板発表効果、ということもあるか。

 どこかでお茶でもしようか、と思わないでもなかったが、覚悟(?)を決めて会場に入る。
 立ち見を含め、とにかく、凄い入りだ。
 昨年も同じ五月上席の真打昇進披露も歌丸が昼の主任で立ち見だったが、それ以上。
 桂竹丸の高座の途中だったが、立ち見のお客さんを含め、彼の漫談で笑いの渦、という状態。
 笑いたい人、あるいは、寄席初体験のお客さんも多そうだ。
 しばらく後ろで聴いていた。

 二階に上がる階段にも、座っているお客さんがいたので、その横に腰を掛けていた。
 小南治の高座が始まった。

 そうそう、あの番組の降板を発表したばかりの主任の高座だったなぁ。
 
 その一年前には、やはり板付きで『城木屋』を、二重に取り巻く立ち見の客の一人として聴いた。
2015年5月6日のブログ

 晩年積極的に歌丸が取り組んだ円朝作品については、聞かず嫌いを後悔した高座が、2012年の国立演芸場の『双蝶々 雪の子別れ』だった。
2012年4月14日のブログ
 その時は、次のように書いている。

桂歌丸『双蝶々 雪の子別れ』 (48分)
 どう言えばいいのだろう。なぜ今までこの人を聞かず嫌いでいたのかを、今は反省している。音源なら何と言っても円生になるが、最近は五街道雲助一門が、『長屋』~『定吉殺し』~『権九郎殺し』~『雪の子別れ』の通しで演じるなど、新たな試みもあって決して過去の噺ではなくなったが、歌丸の円朝もの(このネタは円朝作ではないという説もあるが)への取り組みは年季が入っているようだ。
 談志と同じ昭和11年生まれ今年76歳の歌丸の口跡ははっきりしているし、地の部分と登場人物が語る部分も流れるように展開されていく。たしかに、白酒が一門の会の楽屋ネタとして、この噺は病気の老人の噺でつまらない、という会話があったと言っていたが、本来『双蝶々』と言えば、この噺。終盤、雪に見立てた紙吹雪の演出と三味線も程よく効果的。この高座に出会えただけでもこの中席は満足である。もちろん、今年のマイベスト十席候補とする。

 結果としてその年のマイベスト十席には選ばなかったが、歌丸という噺家さんの認識を新たにした高座だった。

 談志との関係や「笑点」のこと、実家のこと、奥さんのことなどは、多くのメディアで取り上げているので私が紹介するまでもない。

 私にとっては、末広亭を階段まで含め超満員にする動員力を持った噺家さんであったことが、何と言っても思い出深い。

 そして、明解な口調が地を中心にした内容との相性の良さもあって、円朝の怪談噺で新境地を開いた噺家さんであったことも記憶されるべきだろう。

 
 世の中には、大喜利が落語だと思っている人が、少なからずいらっしゃる。
 それも、あの番組の影響力の凄さと言えるだろう。
 
 柳家小満んが、関内ホールの小ホールで独演会をする同じ日、大ホールで歌丸独演会があり、多くの方が並んでいたのを思い出す。

 テレビの人気者だったからと言って、桂歌丸の噺家としての実力は表層的なものではない。

 落語芸術協会の会長として、末広亭の席亭から客の入りの少なさに苦言を呈されたこともある。

 今思うと、末広亭に板付きで出演していた時、歌丸の目には二階までぎっしり埋まった客席は、どう映っていたのだろうか。


 小円遊について書いた五年前の記事に、こんなことを書いていた。
2013年10月5日のブログ

 小円遊が亡くなった時、番組では喧嘩相手という役割にあった歌丸が号泣したと言われている。同じ芸術協会の仲間として、きっと小円遊を心配する思いも強かったに違いないし、高座に上がるよう忠告したこともあるだろう。
 そして、何より本人の持ち味に近かったのかもしれないが、“キザな小円遊”というテレビ向けのキャラクターで人気は出たものの、落語を磨く上で、その虚像が大きな障害になっていたことを、歌丸が十分すぎるほど分っていたからこその、涙であったように思う。

 その小円遊と再会し、さてどんな思い出話にふけっているのやら。

by kogotokoubei | 2018-07-03 21:28 | 落語家 | Comments(12)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛