噺の話

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カテゴリ:ドラマや時代劇( 45 )


 NHKの朝のドラマ「まんぷく」について、やはり小言を書かないわけにはいかない。

 実在の人物を“モチーフ”にした“フィクション”ということなのだろうが、気になることが多すぎる。


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『転んでもただでは起きるな!-定本・安藤百福-』
 中公文庫の『転んでもただでは起きるな!-定本・安藤百福-』は、安藤百福発明記念館の編集による本。

 実際の安藤百福の歩んだ人生や環境などの違いを指摘すると、生まれが当時の日本の植民地であった台湾であるとか、その台湾の地で祖父の経営する織物業を手伝っていたことなどがスルーされていることをはじめ、いくらでもあるのだが、まずは、最近の内容について。
  
 ようやく萬平や従業員の若者たちが進駐軍から解放されて、物語は次の段階に進んでいるが、あの事件、事実とは大きく違っている。

 まず、巻末の年譜から、1946(昭和21)年の出来事を引用。

 1946(昭和21)年・・・・・・36歳

   4月 泉大津の旧造幣廠跡地の払い下げを受け、復員軍人などの若者に仕事を
      与えるため製塩事業(1949年3月まで)を始める。

 だから、あの製塩事業は事実。

 また、翌昭和22年に、国民栄養科学研究所設立(1951年3月まで)し、栄養食品(名称は「ビセイクル」)を開発したのも、事実。

 しかし、ドラマのように萬平(百福)や従業員たちは、その後、手榴弾を海に投げたのから逮捕されたのではないし、捕まったのは百福だけである。

 1948(昭和23)年のクリスマスの夜だった。GHQ(連合国軍総司令部)の大阪文軍政部長が転勤するというので、安藤の経営する貿易会館(大阪府北区)で赤間文三大阪府知事や杉道助大阪商工会議所会頭らを招待して送別会を開いた。会が終わり、正面玄関から客を送り出したあと、会館の裏手に停めてあった車に乗ろうとすると、2人のMP(米国陸軍の憲兵)が安藤の身体を両側から抱え込んだ。有無を言わさずジープに押し込んだ。安藤には何が起こったか分からなかった。
 容疑は脱税だという。泉大津の若者達に渡していた小遣いが給与とみなされ、源泉徴収して納めるべき税金を納めていないというのだ。寝耳に水とはこのことである。善意が踏みにじられた思いだった。

 次に紹介するように、みせしめ、とも言える逮捕だった。
 
 GHQは、国の深刻な歳入不足を解消するために徴税を強める必要があるとして、日本の財務当局を奨励した。これを受けて税務署は厳しく徴収した結果、国民の間から激しい反税運動が起きている最中だった。新しく着任した軍政部長が新聞談話を発表していた。「アメリカでは税金を払うのは国民の義務である。日本人も納税義務を果たすべきであり、違反者は懲罰に処す方針」という。記事の中で安藤が名指しされていた。どうやらみせしめに使われたようだった。

 百福は、提訴に踏み切る。
 京都大学方角部長を務めた黒田覚博士ら6人の弁護団を組織した。

 収監されたのは、あの巣鴨プリズン。

 裁判が進むうち、税務当局の役人が「訴えを取り下げてくれないか」と言ってきた。取り下げるなら、即刻自由の身にしてもいいという。もし裁判で負ければ、反税運動を勢いづかせることにもなりかねない。旗色が悪くなったので、妥協を迫ってきたのだ。

 しかし、百福は、そんな誘いにも応じず、訴訟を継続。
 巣鴨には二年近く収監されていた。

 安藤が折れたのは、仁(まさ)子が息子の宏基の手を引き、まだ一歳半の娘の明美を抱いて面会に来た日だった。大阪から11時の夜行列車に乗り、翌朝東京に着く。朝に事務手続きを済ませて、午後一時からようやく面会が始まる。時間はたった45分しかない。金網を挟んで話をする。仁子は離ればなれになった寂しい生活の苦労を伝えようとうる。あっという間に時間がきて、また家族と引き裂かれる。
 小さな手を振って帰っていく幼い子供達の後姿を見て、さすがの安藤も「もうこのへんが潮時かもしれないな」という気持ちになった。

 私は、ドラマ以上に紹介した事実のほうがドラマチックに思えてならない。

 なぜ、みせしめの脱税容疑で逮捕されたことや、収監先が巣鴨プリズンであったことを、ドラマでは変えたのか・・・・・・。

 まさに、消費税アップを目の前にして、なんとも複雑な制度を導入しようとしている政府への忖度、と言うと大袈裟だろうか。

 筋書きにも閉口するが、期待した安藤サクラも、あの『百円の恋』や『万引き家族』の彼女は、あのドラマにはいない。
 夫を支える明るい妻、というステロタイプな役として、なんとも奥行きのない姿が求められているようだ。

 また、これまで書いてこなかかったが、あえて書こう。

 松坂慶子を、NHKは使いすぎである。

 「西郷どん」の母親役でもがっかりしたが、朝も、然り。

 なんというか、人間が見えてこないのだ、この女優の演技からは。

 そこには、歴史上の人物がいるのではなくて、松坂慶子といういつもの女優がいるのみ。

 別な女優はいくらでもいるだろうに。


 まだ、しばらくは見るつもりだが、少し期待が大きすぎたようだ。

 まぁ、それもいつものことだが。
 
 このドラマ、脚色の仕方、俳優の演技、それぞれが軽いのだ。

 題は「まんぷく」だが、とても、腹にはたまらない。
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by kogotokoubei | 2018-12-13 12:36 | ドラマや時代劇 | Comments(2)

 NHKの大河「西郷どん」は、西郷と大久保役の俳優がそう悪くないと思い見続けてきたが、そろそろかな、と思っている。

 先週は、沖永良部島から戻った西郷が京に出向く場面だった。

 たしかに、久光は西郷嫌いであるが、あの煙管を噛む場面、多すぎる。

 史実では、あの後、久光は薩摩の京都藩邸の体制改革で西郷を軍賦役に登用している。
 そういったことも、しっかり表現すべきだろう。

 時代考証を担当する人も、史実とは違うことを認めているのだが、それって何か変でしょう。

 SmartFLASHの記事から引用する。
SmartFLASHの該当記事

 明治維新の英雄・西郷隆盛を鈴木亮平(34)が演じるが、「史実との違いを探せばきりがありません」と語るのは、鹿児島・志學館大学の原口泉教授(70)だ。
 『翔ぶが如く』(1990年)、『篤姫』(2008年)などの大河に携わり、『西郷どん』でも時代考証を担当。その原口教授自ら、史実との違いをツッコんでくれた。
 ということで、次のように史実と違う項目(フェイク)をあげている。

【フェイク1】西郷隆盛と主君の出会い
「第1回の放送で藩主・島津斉彬(渡辺謙)がお忍びで薩摩へ帰り、幼少期の西郷隆盛と出会います。しかし、当時斉彬が住む江戸から幕府の許可を得ずに帰るのは、不可能に近い。
 史実ではないので、『天狗』に化けて子供の西郷に会う、というような演出になっています。誤解がないように、番組の最後で、『このとき斉彬が薩摩に来た記録はありません』とナレーションを入れてもらっています」

【フェイク2】西郷は下戸
 主君・斉彬と西郷が飲み明かすシーンもあるが、「西郷は下戸です」。

【フェイク3】西郷家と大久保家の場所
 大河では、西郷家と盟友・大久保利通(瑛太)の家が隣同士という設定だ。
「実際には、150メートルほど離れていました」

【フェイク4】「妙円寺詣り」は夜
 島津義弘の武勇を偲ぶ地元行事、「妙円寺詣り」も描かれている。
「これは本来であれば、夜間におこなわれる行事です。キャストの小学生が夜のロケに出られないので、昼間に撮り終えたと聞いています」

【フェイク5】糸子は幼馴染みではない
 西郷は3人の妻を娶っている。3番めの妻が糸子(黒木華)だ。
「2人が幼馴染みという設定も史実に反します。脚本の中園ミホさんが『2人は子供のときに会わせたい』との希望でしたので、『まあ、いいでしょう』と」

【フェイク6】月照と西郷の関係
 林真理子氏の原作で、話題を呼んだのは僧・月照と西郷の関係だ。主君の斉彬を亡くし、絶望のあまり切腹を図る西郷を、月照が夜具に誘って慰める。尾上菊之助が演じる月照とのシーンは、どう描かれるのか……。
「2人の関係を、林さんは『ボーイズラブ』とおっしゃっていますが、私は月照と西郷は『一心同体』だったと思います。斉彬の君命を受けた西郷と、孝明天皇の勅命を受けた月照は、まさに志をひとつにしていた。男と男、男と女の愛など超えていたのです」

【フェイク7】糸子の奄美大島訪問
 物語の中盤で、妻・糸子が奄美大島に渡り、西郷の2番めの妻・愛加那(二階堂ふみ)とその息子・菊次郎と会う場面がある。
「時代考証の立場からは史実と違うと言いました。ですが、林さんはドラマ上、糸子と愛加那に、女同士で話をさせたかったと。これは歴史小説やドキュメンタリーではなく、新しいジャンルの物語だと思っています。あくまで西郷という人間を描いているのです」

 物語のプロット作りから参加した原口教授は、『西郷どん』で新しい西郷像を描こうと試みた。

 なんと、時代考証家が史実との違いを指摘してはいても、作家の意向で、ありえない出会いを捏造することを許しているということか。

 “新しいジャンルの物語”って、いったい何・・・・・・。

 朝の連続ドラマは、“特定の人物をモチーフとしたフィクション”と、嘘であると宣言している。まぁ、我慢しよう。

 しかし、大河は違うんじゃないの、と思っていたのだが。

 この時代考証家は、こう言っている。

「ぜひ、そういう番組を観ている若い人に観てもらって、新しい国づくりに役立ててほしいですね」

 嘘の歴史を押し付けておいて、何が“新しい国づくり”だろうか?

 そろそろ、このドラマからは撤退かな、と思っている。

 史実との明らかな違いが多いし、西郷隆盛を描くにあたっては不可欠な人物が登場しないなど、納得できないことが多すぎる。

 磯田道史も時代考証に名を連ねているのに、なぜそうなっているのか。
 彼もNHKの番組への出演が多いから、最近は人気タレントとして、了見が変ってきたのかもしれない。

 前半で一番ひっかかったのは、藤田東湖が登場しなかったこと。
 
 西郷にとって、斉彬を別とした恩師を二人あげるなら、橋本左内と、藤田東湖と言われる。

 ちなみに、「翔ぶが如く」では、元新国劇の大山克巳(旧芸名は大山勝巳)が藤田東湖を演じた。

 そして、「西郷どん」で配役でもがっかりしたのは、岩倉具視役。
 鶴瓶では、ちがうんだよねぇ、イメージが。第一に、私は彼を役者とは思っていない。
 ちなみに「翔ぶが如く」では、小林稔侍。

 15日の第二十六回「西郷、京へ」は、岩倉以外にも、いろいろと気になったなぁ。
 慶喜と久光の場面も、ああではないだろうと思う。

 そして、慶喜の側室が、あの女性とは・・・・・・。

 どうしても、女性を中心とするドラマにしようとする無理がある。

 特別番組に「翔ぶが如く」で西郷を演じ、「西郷どん」でナレーションをしている西田敏行が出演していた。鈴木亮平が映像で語っていたが、彼は「翔ぶが如く」の映像を見て、西郷役西田に政治的な長科白が多く、それをしっかり薩摩弁でこなしていたのことに驚いた、というようなことを言っていた。

 ということは、「西郷どん」には、政治的な科白が、ないということか。

 あの時期、登場人物に政治的な話がないはずはないが、それをあまり語らせていない、ということは間違いなかろう。

 妙に、間が多いのも気になる。

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海音寺潮五郎著『西郷隆盛』

 海音寺潮五郎の『西郷隆盛』を、読み返している。

 京に上った西郷と大久保の会話について。

「わしにも茶を下され。酒はあまり好きではなかのに、宴席となると、つい過ごしてしまう」
 と、西郷が言うと、大久保はみずから急須の茶を新たにして、ものなれた手で、淹れてくれた。
「ああ、うまい。もう一ぱい」
 重ねて所望してのんだ。
「京は茶もようごわすが、水がようごわすので、一しお茶がようごわすな」
 と、大久保もまたのんだ。
「菓子もうもうごわすな」
 むしゃむしゃと饅頭を、忽ち二つも食った。大久保は微笑してそれを見ていたが、西郷が三つ目に手を出したところで言う。
「食べながらでようごわす。用談にかかりもす」
「ああ、言うて下され」
 饅頭を食いながら、聞いている。
 大久保は極度に低い声になっている。それは久光のことであった。大久保の言うところによれば、薩摩の癌は久光である、頑迷で、まことにこまる、しかしながら、我々が多年の希望を達成するためには、藩の力を利用することは絶対に必要であるから、久光の機嫌を損なわないようにするしかない、それを考えたから、こうして特別に会うことにした云々・・・・・・。
「なるほど、わしがまたご機嫌を損ずるようなことをしはせんかと思われたわけでごわすな」
 と、西郷は笑った。
 (中 略)
「オマンサアは直情怪行、いつも信じるところを堂々と押して行くお人でごわすが、こんどはそれではいかんのでごわす。こまかな芸当が必要なのでごわす」
 西郷は瞑目して考えこんだ。しかし、これはやらなければならないことだ。この三、四年の間に幕府を倒し、日本の姿勢を立て直さなければ、日本は外国の餌食になってしまうことは確実なのだ。
「よろしい。やりもそ!」
 と、大きくうなずいた。

 
 この会話には、西郷と大久保の個性が、なかなか見事に描かれているように思う。

 「西郷どん」の中では、西郷も大久保も、あまりに表面的な人物としか描かれていないように思う。
 西郷には二枚腰、三枚腰のしぶとさがあることや、大久保は策士として西郷に大きな影響力があったことなど、もっともっと彼らを描くのなら、やり方があると思うなぁ。

 さて、大久保の助言を胸に西郷は久光との対面を終え、久光は在京の幹部を集めて、京都藩邸の組織を改造した。藩主名代は三男の薩摩図書、家老は小松帯刀、軍賦役を西郷が担うことになった。
 西郷の任ぜられた「軍賦役」の「賦」は「くばる」という意味だ。すなわち、軍事司令官の役目である。西郷ははじめて、天下第一の精兵をもって自任する薩摩藩兵の京都における総司令官になったのである。

 西郷に天が活躍する場を与えた京都で、これから内戦が始まる。

 さて、次週、禁門の変までは見ようか・・・・・・。

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by kogotokoubei | 2018-07-17 12:54 | ドラマや時代劇 | Comments(6)
 NHKの朝ドラ「わろてんか」は、とても私には笑えないドラマになっている。

 “モチーフ”である吉本せいも夫も、あまりにも実際の彼らとはかけ離れすぎているし、フィクションとしても、このドラマはつまらない。

 主役夫婦を含め、人間の描き方が、なんとも薄っぺらなのだ。
 
 当時の大阪の空気、上方芸能界の息吹きを、感じることができない。
 

 これまで、このドラマの「チェックポイント」という記事を三回と、関連する記事を三回書いた。
2017年9月25日のブログ
2017年9月27日のブログ
2017年9月28日のブログ
2017年10月5日のブログ
2017年10月21日のブログ
2017年10月29日のブログ

 また、初代桂春団治と吉本せい、という題でも三回記事を書いた。
2017年10月6日のブログ
2017年10月8日のブログ
2017年10月10日のブログ

 矢野誠一さんの本、富士正晴の本、そして山崎豊子の本、などを頼りに書いた記事である。
 それらは、当時の上方の大衆芸能界、落語界の姿を少しでも分かりたいという思いで読んだ本である。

 まったくそういった内容の片鱗をも伝わらないドラマが、「わろてんか」である。
 あるいは、脚色の度が過ぎて、史実や人物の実際の姿を歪曲しているとも思え、誤解を与えかねないドラマになっている。

 たとえば、チェックポイントの三回目、9月28日の記事では、吉本吉兵衛(泰三)とせい夫婦の寄席経営にとって重要な支援者であった、浪速反対派の岡田政太郎がどう描かれるかがポイント、と書いた。

 岡田政太郎を“モチーフ”にしているのは、寺ギンという「オチャラケ派」の大夫元だろう。

 その名も、「オチャラケ派」・・・・・・。

 対するのは、「伝統派」とは、なんとも直球の酷いネーミング。

 実際は、伝統のある古典重視の桂派と、元桂派にいた噺家によって組織された、笑いを優先する三友派の二大派閥があって、その二つに岡田の浪花反対派安い木戸銭で対抗しようとしていた。

 寄席を手にした吉本夫婦は、その反対派の岡田と手を組んだのである。

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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)

 あらためて、矢野誠一さんの本から、そのへんのところを確認したい。

 吉本吉兵衛とせい夫婦が第二文藝館を手に入れて寄席経営を始めた頃の、大阪の落語界の勢力関係について。

 当時の大阪寄席演藝界は、両立する落語の桂派・三友派に対して、上本町富貴席の太夫元岡田政太郎の浪花反対派が、その勢力を競うというよりのばしつつあるといった状況にあった。
 吉本せいと吉兵衛夫妻の手になる第二文藝館は、この浪花反対派との提携で出発したのだが、このときの顔ぶれを、『大阪百年史』は、
<落語には桂輔六・桂金之助・桂花団治・立花家円好、色物に物真似の友浦庵三尺坊・女講談の青柳華嬢、音曲の久の家登美嬢、剣舞の有村謹吾、曲芸の春本助次(ママ)郎、琵琶の旭花月、怪力の明治金時、新内の鶴賀呂光・若呂光・富士松高蝶・小高、軽口の鶴屋団七・団鶴、義太夫の竹本巴麻吉・巴津昇、女道楽の桐家友吉・福助らであった>
 と記している。
 無論、開場興行にこれらの藝人全員が顔をそろえたというわけではなく、岡田政太郎の浪花反対派との提携によって、これだけの顔ぶれが用意されたという意味であろう。のちに、ひとつ毬の名人といわれ、むしろ東京で活躍した春本助治郎の名を見出したりするものの、一流とはいいかねる顔ぶれである。

 桂派と三友派については、ほぼ六年ほど前に初代春団治のことを書く中でふれた。
2011年10月6日のブログ

 桂派は、初代桂文枝の流れを引き継ぐ一派。

 その初代桂文枝の弟子が二代目文枝襲名を競う中で、文三に敗れた文都(のちの月亭文都)が桂派を抜けて出来たのが、三友派である。

 そういった、上方落語界が脈々と胎動していたダイナミズムなども、あのドラマからはまったく伝わることがない。

 三友派ができて二十年近く後に、吉本せいと吉兵衛夫妻は第二文藝館を手に入れたのだが、当時の桂派と三友派を向こうに回して、まったくの端席であったから、岡田の反対派との提携は、吉本せいと吉兵衛夫婦にとって生き残りを賭けた重要な転機であった。


 そして、時は流れ、隆盛を誇った桂派は次第に人気が陰って三友派に吸収される形となった。
 そして、勢力を伸ばした吉本は、ついに、その三友派を代表する桂春団治を陣営に取り込むことになる。

 だから、単純に「伝統派」と「オチャラケ派」の対立構造ではない。

 その後、岡田の事業も、吉本興行は吸収することになる。

 寺ギンが元僧侶という設定も、なんとも無理があるなぁ。

 岡田政太郎と同じ、風呂屋の倅でもいいじゃないか。

 “モチーフ”のある“フィクション”と謳っているがために、無理に設定を変えているような、そんな気がしてならない。

 たまには、史実通りの設定でも、いいじゃないか。

 そもそも、「オチャラケ派」という名前を聞いた段階で、私は気が抜けた。

 そして、寺ギンと吉本夫婦との取り分をめぐるギスギスした関係が描かれるのを見て、「これじゃだめだ。吉本夫婦も岡田政太郎も浮かばれない」と思った。

 あの当時、桂派と三友派に対抗するには、売れない落語家や若手、そして、たくさんの色物さんで顔付けした、木戸銭の安い寄席で勝負するしかなく、吉本夫婦にとって、岡田の反対派は、重要なパートナーであっても、敵対する間ではない。

 ある特定の人物を“モチーフ”とするフィクションとことわっているが、その“モチーフ”を描く上で、変えてはいけない部分もあると思う。

 生家の場所の脚色(大阪ではなく京都)、家族構成の脚色(後に事業を手伝う弟たちの不在)も、史実と変える必然性をまったく感じないが、寄席経営の最初の一歩に関し、ここまで“オチャラケ”にされたんでは、ついていけない。

 上方芸能にとって重要な人物たち、そしてその歴史まで“オチャラケ”にされている気がして、見ていてストレスがたまるようになった。

 それでは、健康にも良くない^^

 今週は、落語『堪忍袋』を“モチーフ”にした筋書きのようだが、見ている方の堪忍袋も破れる寸前なのである。

 ということで、さよなら、とても笑えない「わろてんか」!


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by kogotokoubei | 2017-11-28 21:47 | ドラマや時代劇 | Comments(0)
 雨で、今週もテニスは休み。

 ワールドシリーズの第四戦を見ていた。
 これで、2勝2敗か。
 昨日のダルビッシュは残念だったが、前田は良く投げたなぁ。

 今日の9回のドジャーズの攻撃を見ると、このシリーズは、まったく予想できなくなった。
 ベリンジャーの復活は、大きいなぁ。
 しかし、両チームとも、クローザーに信頼が置けない。
 もし、七戦まで行って、果たしてダルビッシュに登板のチャンスが残っているのか、どうか。
  
 などなども考えながら、NHKの「わろてんか」のこと。

 まだ、なんとか、見続けている。

 嫌なら見なきゃいいのに、の声が聞こえて来るが、どこまで脚色し、「モチーフ」の人物や時代背景を逸脱するか、しばらく見てみようと思っている。

 藤岡てんが、駆け落ちした北村藤吉の実家の米穀商で、ほとんど女中奉公をするという筋書きの中で、機転をきかせる場面があった。

 北村屋では、食事する際に、わざと漬物樽の臭いにおいのするようにして、使用人がたくさん食事をしないよう図って(?)いた。
 それを、主人公てんの機転で解決したことが描かれた。

 この話には「モチーフ」である吉本せいの実体験に、ネタ元がある。

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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)
 矢野さんの本から、引用する。

 せいの奉公先は、月一円五十銭の給金をくれたが、船場でも有名なしまつ屋であった。「身体は労働をいとわず、心は正直に」
 という母親の信条が身についていた幼いせいだが、なにごとも節倹だいいちというこの船場の実業家の家風には苦労させられた。
 大勢の奉公先や女中の食が、あまりすすんではいけないと、漬物樽をわざわざ土蔵のわきの雨のかかる場所に出し、食事中に悪臭がただようようにしたという。
 たまりかねたせいが、朋輩の女中たちにはかった。
「明日から、毎日一銭ずつ出しおうて、土生姜買わへん?それ刻んでかけたら、少しは臭みも消えるやろ・・・・・・」
 これが家老の耳にはいり、せいはひどい叱責を受けた。この叱責は、かなりこたえたらしく、後年機嫌のいいときなど親しいひとに何度も語っているのだが、悪臭をはなつ漬物に生姜を刻むことを提案した、幼からざる才覚を自慢している気味もあった。

 ということで、あの逸話は、せいが奉公していた頃のことを、彼女があとで述懐したものが下敷きになっている。

 次に、「わろてんか」で、北村家にいるてんを母親が訪ね、藤吉の母親にしっかりと釘を刺した後、てんに白い喪服を渡す件があったが、あのネタ元は何か、ということ。


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山崎豊子著『花のれん』

 『花のれん』から引用。
 夫吉兵衛が妾の家で亡くなった後、通夜の最中の出来事。

 多加は、するっと小柄な体を四畳半ほどの納戸の中へ辷(すべ)り込ませ、電燈をつけると、引戸の左側の古い箪笥に手をかけた。赤錆びた鋲の引手が、きしみをたて、折り畳まれた絹々しい衣服の間から、樟脳の臭いが眼にしみた。三段目の引出しに手を入れ、一枚、二枚と着物の裾をはね、一番底になった白い衣服を引き摺出した。強い樟脳の臭気が納戸一杯にたち籠め、白い衣服が多加の肩に載った。白い帯がくるくると胴に巻きつけられ、おたいこの垂れをきゅうきゅっと押え込んで、白羽二重の帯〆めを結ぶと、多加は再びふらふらと、もと来た暗い廊下を伝って奥座敷へ引っ返した。
 「あっ、白い喪服を・・・・・・」
 と、最初に声を上げて腰を浮かせたのは、多加の伯母であった。伯母の横で膝を崩さず、硬い姿勢で通夜酒を含んでいた父の孫一も、体を前のめりにして、狼狽した。座敷一杯の坐った弔問客が、一斉に多加を見守った。
 多加は、初めて自分が、白い喪服を着てしまったことに気付いた。それは多加が堀江中通りの米屋から二十一歳で、西船場の河島屋呉服店に嫁いで来る時、ほかの嫁入り荷物をは別に、父が定紋入りの風呂敷に包んで多加に手渡した着物である。真っ白な重みのある綸子(りんず)に、墨色で陰紋をぬいた白い喪服であった。白繻子の帯と帯〆めを重ねて、無骨な父が、口ごもりながら、
「船場の商家で夫に先だたれ、一生二夫に真見えぬ御寮人さんは、白い喪服を着てこころの証をたてるしきたりがある。お前が小学校へ入った年に死んだ母親が、もし将来、船場に嫁ぐような縁があったら、何をおいても白の喪服だけは、持たしてやっておくなはれと、これだけ頼んで死によったもんや」
 と前置きして、手渡ししてくれた白い喪服である。

 矢野さんが前掲の著書で何度か触れているが、晩年の吉本せいは、自分の体験、逸話をやや過剰に脚色しているふしがある。

 だから、せいの思い出話を、そのまま受け取ることは危険な面もあるのだが、奉公時代の漬物の臭い対策、夫の葬式での白い喪服の逸話は、信用できそうだ。

 それにしても、矢野さんが丹念な調査を踏まえた史伝や、山崎豊子の小説とは、設定なども含め、あのドラマの脚色には理解できにくい面が多い。

 落語で言うなら、本来の古典落語の筋から、あまりにも自分なりにいじり過ぎている、そんな印象。

 そもそも夫の実家に、許嫁(いいなずけ)がいた、なんて設定、どこから引っ張り出したのだろうか。

 そして、もっとも不思議なのは、『花のれん』も同様なのだが、せいの弟が登場しないこと。

 吉本という企業の発展に、林正之助や、林勝(弘高)は大いに貢献した。

 彼らが生存中には、ありえない脚色の実話からの逸脱なのである。

 なんと、山崎豊子は、その弟たちが生存中に『花のれん』を書いている・・・・・・。

 あの作家には、モデル(モチーフ)となった人物からの抗議などが少なくないが、それもむべなるかな、か。

 ある人物や事象に光を当てると、周辺の人物や事象がその影になってしまったり、あるいは、存在そのものが“亡き者(物、事)”となることもあるが、それは結構危ういことではないかと、思うのだ。

 
 「わろてんか」、なんだかんだ小言を言いながら、もう少し見てしまうかもしれないなぁ。
 しかし、とても、わらって見ているわけではないのだ。

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by kogotokoubei | 2017-10-29 14:38 | ドラマや時代劇 | Comments(0)
 自分で、“怒涛の一週間”と呼んでいる日々が、なんとか無事に終わった。
 
 ということで、久々のブログは、つい、先ほどしばらくぶりに見てしまった「わろてんか」のこと。

 ある人物を「モチーフ」とした「フィクション」とことわっているとはいえ、どうしても「モチーフ」となっている人物と、ドラマの人物との違いに、首を傾げざるを得ない。

 吉本吉兵衛(泰三)を「モチーフ」とする北村藤吉の描き方には、その脚色の逸脱ぶりが、気に障る。

 今日の「わろてんか」では、吉本せいを「モチーフ」とする、藤岡てんを嫁にもらいたいため、藤岡家の家族の前で、芸道の遊びはこれきりやめると宣言し、最後の芸として太神楽の升の傘回しを披露した。

 違うのだよ、吉本吉兵衛が好きで、自分でも演じた芸は。
 そして、その芸の違いは、その人物の個性の違いでもあるのだ。

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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)

 たびたび紹介している、矢野誠一さんの『女興行師 吉本せい』から引用する。

 昭和37年に歿した大阪の漫談家花月亭九里丸は、東京に出てくると神田伯山、徳川夢声との三人看板で売れた人だが、芸のほうははなはだしく言語不明瞭であまり面白くなかった。終生、吉本興業の禄をはんだことを誇りにしていて、上方演芸の研究家としても確固たる足跡を残している。その編著『大坂を土台とした寄席楽屋事典』(渡辺力蔵刊)で、吉本吉兵衛のことを、
<だらしない極道者ではない>
 としながら、こう書いている。
<好きな道としてその頃大流行の剣舞を旦那芸として覚えたのが病みつきとなって、その芸を大勢の人達に見せたさに、女賊島津お政本人出演のざんげ芝居の大夫元になって、地方巡業をして、泰三自身が幕間に出て、黒の紋付小倉の袴、白鉢巻に白だすき、長い刀を腰にぶち込んで、詩吟につれて、鞭声粛粛夜渡河、暁見千兵擁大牙で飛んだり跳ねたり。少年団結白虎隊、国歩艱難戍堡塞で女の子に手を叩かせたりしてゐたのはよかったが、興行にはズブの素人の悲しさ、狡猾な地方興行師の悪辣なわなに陥されて散々の大失敗。これがため家業の荒物問屋が二度までも差押えの憂き目を見た>
 ここには、大店の若旦那のひとつのタイプがうかがえる。落語家に、縮緬の座布団を贈ったり、高座着をこしらえてやったりしているうちはよかったが、好きが昂じて自分も舞台にといった旦那衆は、よくある型で、その時分は少なくなかったのである。

 このように、実際の吉本吉兵衛は、あくまで、当時の若旦那の遊びとして、自らは詩吟をバックに剣舞を演じ、趣味が昂じて一座を持って失敗した男だ。

「わろてんか」の藤吉のように、芸人に憧れて、一芸人として旅興行に付いて行ったような人物ではないし、自ら演じた芸は、藤吉の傘回しと吉兵衛の剣舞では、あまりにも違う。

 吉本せいの実家の大阪の米穀商、藤岡てんの実家の京都の薬問屋、吉本吉兵衛の実家の荒物問屋と北村藤吉の実家の米穀商、といった設定の違いは許せるが、重要な登場人物は、「モチーフ」とする人物の個性、持ち味を生かして欲しいものだ。

 そろそろ、あのドラマからは退散の時期が近いが、もう少しだけ我慢(?)するつもりだ。
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by kogotokoubei | 2017-10-21 10:32 | ドラマや時代劇 | Comments(0)
 矢野誠一さんの『女興行師 吉本せい』を踏まえ、NHKの「わろてんか」のチェックポイントと題して記事を三つ書いた。

 第二のチェックポイントは、せいのきょうだいは、どう描かれるか、だった。
2017年9月27日のブログ

 見ている方はご存じの通りで、NHKサイトの同ドラマのページでも確認できるように、主人公藤岡せいには、兄一人、妹一人という設定。。
NHKサイトの「わろてんか」のページ

 年齢順に並べると、こうなる。

   藤岡新一
    |
   藤岡てん
    |
   藤岡りん

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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)

 あらためて矢野誠一さんの本から、確認の意味で引用。
 せいの父、林豊次郎は文久元年(1861)十二月十日生まれ、母ちよは、元治元年(1864)三月十二日生まれとある。父二十七歳、母二十五歳のときの子になるせいは三女で、せいが生まれたとき、すでに明治十六年(1883)生まれの長男信之助、二十年(1887)生まれの次姉きくがいた。むかしのひとの例にもれず、豊次郎とちよの夫婦には子供が多かった。せいの生まれたあとも、千之助、正之助、勝、治雄という四人の弟と、ふみ、はな、ヨネ、富子のこれまた四人の妹ができている。死亡した長女をふくめ、十二人のきょうだいである。
 この十二人のきょうだいのなかで、明治三十二年(1899)年一月二十三日に生まれた三男の正之助と、明治四十年(1907)二月一日生まれの四男勝のふたりの弟が、後年のせいの仕事に大きな役割を果たすことになる。四男の勝は、昭和十四年に、その名を正式にそれまで通称として用いていた弘高と変更している。

 亡くなった長女も含め、十二人きょうだい。

 弟や妹の正確な順番は分からないので、弟四人、妹四人の順で並べるてみる。

   林信之助
    |
   林きく
    |
   林せい
    |
   林千之助
    |
   林正之助
    |
   林勝(弘高)
    |
   林治雄
    |
   林ふみ
    |
   林はな
    |
   林ヨネ
    |
   林富子   

 家族構成が、藤岡はなと吉本せいでは、あまりにも違う。

 そして、吉本興行というお笑いの一大帝国を築いた吉本せいを“モデル”にするなら、弟の正之助と勝(弘高)を描かないのは、まったくの片手落ち。

 しかし、“モチーフ”にした“フィクション”だから許されるのだろう^^

 今後、幼馴染の武井風太が正之助を“モチーフ”として、てんを支えるようになるのかもしれないが、「わろてんか」のシナリオなどを調べていないので、どうなるかは分からない。
 もし、そうだとしても、身内と幼馴染とでは、まったく意味合いが違う。

 せいの夫吉本吉兵衛が亡くなる少し前から、吉本せいは、頼りになるのは身内だけとばかりに、正之助を、その後に勝を自分の商売に引っ張り込んだ。

 弟だからこそ姉の意を受けて可能だった面があったはずで、幼馴染では、肉親との関係性に大きな違いがある。

 
 第一週を見ているだけでも、ドラマは、“モチーフ”とは、あまりにかけ離れている印象だ。
 生家の大阪と京都の違い、米問屋と薬問屋の違い、きょうだい構成や富裕度を含めた幼少期の家庭環境の違いなど、フィクションであると強調せんがための設定変更の努力と思えて、ハハハ・・・・・・と笑ってしまえる。

 後に夫となる人物との出会いも、吉本せいと吉兵衛とのそれとは、あまりにもかけ離れた“物語(フィクション)”。

 今後登場する、実際には存在しなかったはずのイケ面俳優演じる人物の登場なども含め、もはや、“モチーフ”という言葉すら相応しくないと思われる設定変更。

 すでに、明白だ。「わろてんか」は、吉本せいの物語ではない。

 チェックポイントの一番目や三番目の検証は、まだ先のことになるが、見続けることができるかどうか・・・・・・。

 チェックポイントの四番目には桂春団治のことを想定していたが、その記事を書くかどうか、思案中。

 ドラマが進むにつれて、吉本せいのドラマとして見ている視聴者の誤解は、どんどん拡大しそうで、それこそ、わろてんか、である。

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by kogotokoubei | 2017-10-05 12:36 | ドラマや時代劇 | Comments(0)

 このシリーズ三回目。

 NHKが“フィクション”と謳って、事実との違いについて批判されることから逃げて(?)いる、と前の記事で書いた。

 NHKサイトの「わろてんか」のページの「ドラマについて」にある注(*)をご紹介。
NHKサイトの「わろてんか」のページ
※ドラマは実在の人物群をモチーフにしていますが、その物語は一人の女性が愛と笑いと勇気をもって懸命に生きる一代記として大胆に再構成し、フィクションとしてお届けします。

 書いてましたね、小さな文字で^^
 “大胆に再構成”した“フィクション”なのだ。

 だから、実際の“モチーフ”(“モデル”ではない^^)となった人物のこととは違うかもしれないよ、ということ。

 しかし、視聴者の中には、“大胆に再構成”する前の、よりノンフィクションに近いドラマを期待する人だって少なくない、と私は思うなぁ。

 また、こうやって注意書きをしていようと、その“モチーフ”となった人が、ドラマのような人生を送ったのだろうと誤解することは、十分にありえる。

 制作者側は、そういう誤解は、あくまで視聴者側の責任と考えるのだろうが、ドラマというモノづくりをする側には、責任はないのだろうか・・・・・・。

 なんてことを思いながら、だったら、どこまでモチーフの人間の人生と、このドラマが違うことを「わろうたる」か、チェックポイントを探ることにしよう。


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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)

 吉本吉兵衛とせい夫婦が第二文藝館を手に入れて寄席経営を始めた頃の、大阪の落語界の勢力関係について、矢野さんの本からご紹介。

 当時の大阪寄席演藝界は、両立する落語の桂派・三友派に対して、上本町富貴席の太夫元岡田政太郎の浪花反対派が、その勢力を競うというよりのばしつつあるといった状況にあった。
 吉本せいと吉兵衛夫妻の手になる第二文藝館は、この浪花反対派との提携で出発したのだが、このときの顔ぶれを、『大阪百年史』は、
<落語には桂輔六・桂金之助・桂花団治・立花家円好、色物に物真似の友浦庵三尺坊・女講談の青柳華嬢、音曲の久の家登美嬢、剣舞の有村謹吾、曲芸の春本助次(ママ)郎、琵琶の旭花月、怪力の明治金時、新内の鶴賀呂光・若呂光・富士松高蝶・小高、軽口の鶴屋団七・団鶴、義太夫の竹本巴麻吉・巴津昇、女道楽の桐家友吉・福助らであった>
 と記している。
 無論、開場興行にこれらの藝人全員が顔をそろえたというわけではなく、岡田政太郎の浪花反対派との提携によって、これだけの顔ぶれが用意されたという意味であろう。のちに、ひとつ毬の名人といわれ、むしろ東京で活躍した春本助治郎の名を見出したりするものの、一流とはいいかねる顔ぶれである。

 桂派と三友派については、ほぼ六年ほど前に初代春団治のことを書く中でふれた。
2011年10月6日のブログ

 桂派は、初代桂文枝の一門中心の一派。
 その初代桂文枝の弟子が二代目文枝襲名を競う中で、文三に敗れた文都(のちの月亭文都)が桂派を抜けて出来たのが、三友派である。

 以前の記事と重複するが、関山和夫著『落語名人伝』から、桂派を抜けた文都と三友派設立の件を紹介したい。
関山和夫著『落語名人伝』(白水Uブックス)
 二代目文枝襲名に敗れた月亭文都のファイトは、すさまじものであった。どうしても桂派に対抗して、一旗あげたかったのである。明治25年は、二代目文枝、月亭文都ともに49歳で、人生の峠を登りつめたころである。文都は明治25年4月に三代目笑福亭松鶴と手を握った。三代目松鶴は、二代目文枝の社中に入った恰好で、数年前から文枝の根城である金沢亭で真打ちをつとめていたのだが、文都と通じているということで文枝からにらまれていたようである。かくして松鶴は文枝と訣別した。さらに文都はこの年の10月になって二代目桂文団治とも手を握ることができた。桂文枝にとっては、次から次へといやらしい事件がおこったのである。続いて文都は笑福亭福松というすばらしい噺家を味方にする。
 「浪花三友派」という名が起こったのは、明治26年のことで、明治27年正月興行には大阪南地法善寺内の紅梅亭と松屋町神明社内の吉福亭などに「浪花三友派」の看板があがった。浪花三友派の三巨頭といわれるのは、月亭文都、笑福亭福松、二代目桂文団治の三人だが、三代目笑福亭松鶴、五代目笑福亭吾竹、桂文我も加入していた。
 初代文枝の偉大さ、そして、文枝という名跡の大きさをあらためて感じるねぇ。

 三友派ができて二十年近く後に、吉本せいと吉兵衛夫妻は第二文藝館を手に入れたことになる。
 さすがに、両派にも勢いが落ちてきたからこそ、浪花反対派という新勢力が対抗することになったのだろう。

 吉本せいと吉兵衛が、浪花反対派を頼らざるを得なかったのは、第二文藝館の“格”の低さも大きな理由だった。

 矢野さんの本に戻る。
 だいたい、第二文藝館なるものが、天満天神裏という当時の大阪きっての繁華街に位置しながら、寄席の格からいえば最下級の、いわゆる端席であった。いきおい木戸銭のほうも、そう高くはとれず、ふつうの寄席が十五銭の時代に、五銭で出発せざるを得なかった。「五銭ばなし」とよばれるこうした端席に、一流の落語家などはめったに顔を出さない。木戸銭は五銭でも、さらに一銭が下足代に消えるので、実質六銭で落語をきかせるわけである。客のほうは、六銭で落語がきけるとありがたがっても、落語家のほうには、「俺の落語が五銭か」という頭がある。それに、こうした端席ばかり歩いて「端席の藝人」としての評価が下されてしまうことを、腕のある藝人は喜ばなかった。

 第二文藝館は、とても、桂派や三友派の人気者を呼べるような寄席ではなかった、ということ。

 そういう状況において、反対派との提携は、吉本せいと吉兵衛夫婦にとって、飛躍の大きな要因となった。

 第二文藝館の家賃は百円だったというのだが、木戸銭五銭の端席のそれとしては決して安くはない。それでも一晩に七円、旗日といわれる祭日や、天神祭の当日などは三十五円のあがりがあったという。
 この小屋の収容人員が、どのくらいのものであったのか定かではないのだが、わずか五千の木戸銭で三十五円のあがりというのが、尋常な数字でないことはよくわかる。もちろん、当時の寄席にはこんにち見られるような指定席の制度はないし、いうところの入替なしの出入り自由といった畳敷のつめ込み方式で、定員をはるかに上まわる延人員が入場したことは想像に難くない。それにしても、三十五円という金額は、単純計算で五銭の木戸銭を支払った客七百人分のあがり高である。どうつめこんでも、七百人はいらない小屋に、七百人の客をつめこむ方策を生み出したのが、吉本せいの才覚で、後年これがいわゆる吉本商法の基本になったといわれるのだが、果たしてこれもせい個人の考え出した商法であるのか、疑問がないわけではない。この世界のからくりや裏表に精通していたのは、むしろ夫の吉兵衛であったはずで、吉兵衛による入れ知恵のようなものが、まったくなかったとは、ちょっと信じ難い気がするのである。

 本書で著者の矢野さんは、後年、吉本せい自らが、夫の吉兵衛が吉本興行の仕事はそっちのけで、せいが孤軍奮闘していたようなニュアンスで語っているが、実態は違うのではないか、吉兵衛の存在も大きかったのではないか、と度々疑問を呈している。

 吉兵衛については、また今後ふれることとして、「わろてんか」を見る上での三つ目のチェックポイント。

「わろてんか」のチェックポイント(3)
岡田政太郎の浪花反対派は、どう描かれるか


 吉本せいと吉兵衛夫妻にとって、端席の第二文藝館を運営していく上で大きな助けとなった反対派との提携。

 これを、ドラマでは、どう扱うのか。

 あるいは“大胆な再構成”の結果、扱わないのか。

 ドラマを見る上で、これは実に重要なポイントだと思う。

 もし、岡田政太郎を“モチーフ”にした人物が登場せず、よって反対派のような存在も登場しないとしたら、いくらフィクションだと言っても、「それはないよ^^」と、わろてやろうと思っている。

 このシリーズ、ドラマが始まる前に突っ走ってもしょうがないので、今回はここまで。

 始まってから、チェックポイントの最初の三つについて“復習”をし、次のチェックポイントも書くつもり。

 さて、「わろてんか」は、その大胆な再構成で、笑わせてくれるかな^^


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by kogotokoubei | 2017-09-28 00:27 | ドラマや時代劇 | Comments(0)
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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)


 さて、このシリーズ(?)の第二弾。

 今回は、まず、吉本せいの生家について。

 著者の矢野誠一さんは、明石生まれという説もある吉本せいのことを調べるため、明石や大阪の役所に出向いている。
 調べてはみたものの、せいの生まれた土地や、生年月日については、結構、謎が多いのだった。

 吉本せいの父親林豊次郎が明石から大阪に出て、天神橋五丁目で米穀商を営んだことはよく知られていて、せいはこの大阪時代に生まれたのだというひともいる。ものごころついた頃のせいは、すでにこの天神橋に住んでいたといわれているので、林豊次郎が大阪に出たのは、明石から転籍した明治三十二年(1899)よりも早い時期であることは確かなようだ。明石市役所にあった戸籍に記されている、明治三十一年一月五日生まれの五女はなの死亡届が、明治三十一年一月十一日付で「大阪府大阪市北区西成川崎」から出ていることでもそれがわかる。
 吉本せいを明石生まれと伝えるのは、父親が明石出身で、せい自身も幼少の頃病を得た際に明石で療養したことがあるからにすぎないというむきもある。事実、一代で巨額の産を成した吉本せいは、いろいろなところに多額の寄附を好んでしたが、明石に関した施設や団体にそうしたことをした形跡がない。もし本当に明石生まれだとしたら、故郷に対して多少ともいい顔をしたがったはずだというのである。いずれにしても、明治二十二年(1889)十二月五日というせいの出生当時は、戸籍に出生地の記載がないから、正確なところはよくわからない。


 当時は、他人の戸籍を調べることができたのだ。
 今思うと、ぞっとするねぇ。
 矢野さんは調査を元に、吉本せいは、どうも父親が明石から大阪に出た後に生まれたのだろうと推察している。

 NHKの「わろてんか」のサイトを見ると、主人公は、京都の老舗薬種問屋「藤岡屋」の長女、という設定。
NHKサイトの「わろてんか」のページ
 明石はともかく、少なくとも、大阪にして欲しかった。

 まぁ、このあたりから小言を書いているときりがない^^

 次に、せいの家族構成について。

 せいの父、林豊次郎は文久元年(1861)十二月十日生まれ、母ちよは、元治元年(1864)三月十二日生まれとある。父二十七歳、母二十五歳のときの子になるせいは三女で、せいが生まれたとき、すでに明治十六年(1883)生まれの長男信之助、二十年(1887)生まれの次姉きくがいた。むかしのひとの例にもれず、豊次郎とちよの夫婦には子供が多かった。せいの生まれたあとも、千之助、正之助、勝、治雄という四人の弟と、ふみ、はな、ヨネ、富子のこれまた四人の妹ができている。死亡した長女をふくめ、十二人のきょうだいである。
 この十二人のきょうだいのなかで、明治三十二年(1899)年一月二十三日に生まれた三男の正之助と、明治四十年(1907)二月一日生まれの四男勝のふたりの弟が、後年のせいの仕事に大きな役割を果たすことになる。四男の勝は、昭和十四年に、その名を正式にそれまで通称として用いていた弘高と変更している。 
 米穀商としての林家は、決して富裕とはいえなかったが、世間的にかなりの信用を得ていた。その時分の大会社天満合同紡績などにも精米を納めていた。ただ、なにぶんにも十二人きょうだいとあって、幼い頃のせいは、弟や妹の子守りで明け暮れたのも当然であろう。勉強が好きで、またよく出来たから上の学校へ進みたい希望を持っていたのだが、当時の義務教育たる尋常科四年で、その先を断念しなければならなかった事情も、そのあたりにあった。

 十二人きょうだい。

 たしかに、昔は子どもが多かった。
 ちなみに、私の父は十一人、母は十三人きょうだい。

 「わろてんか」では、まさか、名前は替えるとしても、三男の正之助、四男の勝(その後の弘高)は登場すると思うのだが、他の兄弟、姉妹は、結構割愛される可能性がある。

 よって、二つ目のチェックポイント。

「わろてんか」のチェックポイント(2)
せいのきょうだいは、どう描かれるか


 このテーマは、弟、妹が多く子守りに明け暮れていたことが描かれるかどうか、ということも含むテーマ設定。

 すでに、生家の商売は実際の米穀商から薬種問屋に、その場所も大阪から京都に替えている。

 さて、どこまで、家族構成を脚色(?)くれるだろうか。

 どれほど変えてくれても、今回は、笑って見ているつもりだ。

 

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by kogotokoubei | 2017-09-27 08:49 | ドラマや時代劇 | Comments(0)
 来週からNHKの朝のドラマは「わろてんか」になる。

 「ひよっこ」については、トランジスタ・ガールのことについて、一度だけ記事を書いた。
2017年5月6日のブログ

 後半は、どうも馴染めないままだった。
 
 主人公の父親の記憶喪失という設定に違和感があったし、登場人物に、ほとんど感情移入ができない。
 全体的に、軽い、のだ。

 やはり、モデルのいないドラマは、当たり前とはいえ、リアリティに欠ける。
 

 では、モデルがいる場合は、どうか。

 これまた、ドラマでの脚色が許容範囲を超えるように感じると、がっかりする。

 また、主人公のネガティブな面が割愛されることは、これまでも拙ブログで書いている通り。
 「花燃ゆ」のように、重要な人物の存在が無視されたこともある。
 ご興味のある方は、拙ブログの「歴史ドラマや時代劇」のカテゴリーをご覧のほどを。
「歴史ドラマや時代劇」のカテゴリー

 さて、来週から始まるNHKの連続ドラマ「わろてんか」は、どうなることやら。

 NHKの同番組のサイトを見ると、原作の名は見当たらず、脚本家の名だけがある。
NHKサイトの「わろてんか」のページ

 これは、昨今の流行(?)のようで、いわゆる「実在の人物を“モデル”とする、フィクション」であるということを言いたいのだろう。

 だから、モデルは存在するのに、事実と相違していると批判されても、「フィクションですから」と、逃げられると考えているのだろう。しかし、それって、誤魔化しだよね^^

 とはいえ、また、ドラマを見ながら「違う!」と小言を書くのも飽きてきたので(拙ブログの読者のほうが飽きたかな^^)、少し、考え方を変えようと思う。

 「実在の人物を“モデル”とする、フィクション」という設定なら、こっちも事実とのギャップに怒るより、「ほう、そう変えましたか^^」と、わろうてやろうじゃないか。
 お題が「わろてんか」だしね。

 そこで、ある本を元に、いくつかチェックポイントを提示したいと思う。

 偉そうに言えば、「わろてんか」の、一つの見方を示すことになればいいのだが、というシリーズ。


 さて、「わろてんか」のモデルは、吉本せい。

 なぜ、この時期に彼女を取り上げるのかは、どうもNHKの吉本への“忖度”があるような気がするのは、私だけだろうか。
 
 まぁ、それは置いといて(?)、吉本せいとは、どんな人なのか。

 吉本興業のコーポレートサイトに、「吉本興業ヒストリー」という沿革紹介がある。
吉本興業のコーポレートサイト

 創業年、明治45(大正元)年の内容は、次のようになっている。

4月1日 吉本吉兵衛(通称・泰三)・せい夫婦が、天満天神近くの寄席「第二文芸館」で、寄席経営の第一歩を踏み出す

 そう、明治の最後の年、7月30日から始まる大正の最初の年から、吉本吉兵衛とせい夫妻の寄席経営が始まったのである。
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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)

 ある本、とはこの本である。

 矢野誠一さんの『女興行師 吉本せい』は、1987年に中央公論社から刊行され、1992年に中公文庫、2005年にちくま文庫で再刊された。そして、朝ドラ放送に合わせてということだろう、9月10日付けで、ちくま文庫の新版が発行された。

 私は、ずいぶん前に中公文庫で最初に読んでいるが、あらためてこの新版で再読。

 NHKのドラマの脚本家は、この本を読んでいないはずはないのだが、さて、いったいどれだけの脚色を施すのやら。

 本書から、上述の第二文藝館に関わる部分を引用したい。

 この第二文藝館のあったという、天満天神の裏門付近を、初めて訪れたのはもう何年前のことになるか。
 京阪電車に、天満橋という駅があるから、そこでおりればすぐわかると判断したのが、東京者の大阪知らずで、ことはさほど簡単ではなかった。造営された天暦三年(949)の頃は天神の森なる鬱蒼とした地であったのだろうが、なにしろ当節のこと、高速道路は頭上を走り、小さなビルは乱立し、とても学問の神様の住む風情などない。それでも、そんな雑然たる街なみを、右に左にしているうちに、ほんとに忽然と眼前に権現づくりの本殿がとびこんでくるあたり、なんだか狐につままれたような気がしないでもないが、ここは正しく天満の天神様で、お稲荷さんではないのである。
 学問の神様には申し訳ないが、学業成就のお詣りはごく安直にすませて、かつて第二文藝館が位置したという裏側に出てみるとこれがなかなかいい。しっとりとしたたたずまいの、薬屋だの、寿司屋だのが目につくだけで、べつにこれといった特徴もない、ごくごくふつうの靜かな文字どおりの裏道なのだが、いかにもむかしさかえた門前町らしい雰囲気が残っていて、ほかにもいろいろな寄席が軒をならべた繁華街であった面影をわずかながら残してくれているのだ。
 この文章は、第一章の「第二文藝館」からの引用だが、矢野さんが天満を取材のため訪れたのは、当時持ち歩いていたとされる富士正晴著『桂春団治』に挟まれていたメモから、1974(昭和49)年頃と察することができる。

 引用を続ける。

 『百年の大阪2』(浪速社)という本に、この地の古老たちが復元してくれたという、明治三十年(1897)から四十年(1907)頃にかけての「新門通り界わい」なる地図が載っているのだが、それによると鰻屋やカレーライス屋、すき焼屋、寿司屋、梅鉢まんじゅうの店などにはさまれて、有名な浪花節の国光席のほか、第二文藝館、万歳の吉川館、芝居の天満座、色物の朝日席、杉の木亭、女義太夫の南歌久、講釈の八重山席などが軒をならべていた。第二文藝館は、浪花節の国光館と、すき焼の千成のあいだの小さな席であった。

 さて、ここで、チェックポイントが思い浮かぶ。

「わろてんか」のチェックポイント(1)
最初の寄席、第二文藝館界隈の様子はどう描かれるか


 吉本吉兵衛&せい夫妻の創業の地をドラマが描かないはずがないので、名前は替えるだろうが、この第二文藝館のあった天満界隈の様子がどう描かれるか、ドラマを見る上で需要なチェックポイントとなるように思う。

 脚本家が見逃しても、時代考証担当が、『百年の大阪2』を調べていないはずはあるまい。しかし、分からないのだよ、最近の時代考証は。考証じゃなく“哄笑”の場合が少なくない。

 せっかく、その昔に古老たちが遺してくれた明治末期の大阪の姿、ぜひ大事に扱って欲しい。

 どんな街並が描かれるのかなぁ。

 今回は、ご挨拶代わり(?)に、ここまで。

 次回は、吉本せいの生家について、矢野さんの本から紹介するつもり。


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by kogotokoubei | 2017-09-25 21:45 | ドラマや時代劇 | Comments(0)
 能村庸一さんの訃報に接した。

 全国紙にも載っているが、「時代劇専門チャンネル」のサイトがもっとも詳しく業績などを紹介しているので、引用したい。

「時代劇専門チャンネル」サイトの該当ページ

お知らせ詳細
2017.05.22

【訃報】★・・時代劇プロデューサーの能村庸一さんがお亡くなりになりました(享年76)・・★

「鬼平犯科帳」を手がけられた時代劇プロデューサーの能村庸一さんが5月13日にお亡くなりになりました。76歳でした。

1941年東京生まれ。'63年フジテレビ入社。アナウンサーとして舞台中継などを担当した後、編成企画部へ。数々の番組に携わるなかとりわけ時代劇の制作に強くひかれ、「鬼平犯科帳」(中村吉右衛門主演)、「剣客商売」(藤田まこと主演)、「御家人斬九郎」(渡辺謙主演)、「八丁堀捕物ばなし」(役所広司主演)、「忠臣蔵」(北大路欣也主演)などレギュラー番組で20本、単発作品では映画も含め100本に及ぶ時代劇を手がけました。いずれもテレビ時代劇史に燦然と輝く名作です。

受賞も多数。
第20回ギャラクシー賞月間賞 「丹下左膳-剣風!百万両の壷-」('82年)
第31回ギャラクシー賞選奨 「八丁堀捕物ばなし」('93年)
第33回ギャラクシー賞奨励賞 「阿部一族」('95年)
など作品に対する受賞のほか、個人としても90年代・フジテレビ時代劇の企画・プロデュースに対して1999年には第36回ギャラクシー賞テレビ部門特別賞を受賞。執筆活動も行い、2000年にはテレビ時代劇の歴史をまとめた著書「実録・テレビ時代劇史」(東京新聞出版局)で第13回尾崎秀樹記念・大衆文学研究賞を受賞しました。

時代劇専門チャンネルには「時代劇ニュース オニワバン!」など情報番組・解説番組への出演から「鬼平外伝」シリーズをはじめとしたオリジナル時代劇の監修に至るまで大変なお力添えを賜りました。

深く感謝するとともに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

時代劇専門チャンネルでは能村庸一さん最後のプロデュース作品となった「鬼平犯科帳 THE FINAL」を放送します。
〈放送スケジュール〉
7月29日(土)よる8:00「鬼平犯科帳 THE FINAL 前編 五年目の客」  
8月5日(土)よる8:00「鬼平犯科帳 THE FINAL 後編 雲竜剣」


 「時代劇ニュース オニワバン!」の最終回に関するサイト内のページで、能村さんの、あの笑顔を拝むことができる。
「時代劇専門チャンネル」サイトの該当ページ

 「鬼平」「剣客商売」を代表とする能村さんプロデュースの作品は、多くの池波正太郎ファン、そして時代劇ファンにとって、大いなる楽しみであったと思う。

 「時代劇ニュース オニワバン」が昨年終了したのが能村さんの体調に関係したのかどうかは、詳しくは知らない。
 あの番組も、結構好きだった。
 えなりかずきや春風亭三朝(当時は朝也)と能村さんとの楽しいやりとりなども思い出す。

 不定期の放送だったが、「能村庸一がこっそり教える時代劇スターが愛した場所」なども楽しかった。


 自宅近所に高層マンションが建つことにより工事費無料で入会したケーブルテレビのおかげ(?)で、「時代劇専門チャンネル」が、テレビで私がもっとも好きなチャンネルになった。

 「鬼平」は、何度も繰り返し見て飽きない。
 また、池波に限らず、藤沢周平原作のドラマも好きだ。
 仲代の作品がまとめる放送されたりもしている。
 
 
 現在の地上波テレビはスポーツ、ニュースとドキュメンタリー、良質な歴史ドラマや時代劇以外は、滅多に見ない。見るに堪えない、と言った方が良いだろう。
 特に、一山いくらというお笑い芸人が出るバラエティ番組には辟易する。
 また、コメンテーターなどと称して、何ら専門的な知識を持たないタレントが時事問題やら、芸人のスキャンダルに物申すのは、目にするだけで嫌になる。

 要するに、今のテレビの現場には本物のプロがほとんんどいないと思う。
 そして、彼らは、視聴率は気にするが、視聴“質”には無頓着なのだ。

 過去に能村さんがプロデュースしたドラマが今でも鑑賞に耐えるのは、スタッフも俳優も皆がプロフェッショナルの仕事だったからだと思う。
 その現場を離れても、“御意見番”として存在感のあった能村さんだった。

 テレビが、そして時代劇が輝いていた頃のプロフェッショナルが、また一人去った。

 能村庸一さんのご冥福を、心よりお祈りする。

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by kogotokoubei | 2017-05-22 21:17 | ドラマや時代劇 | Comments(0)

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by 小言幸兵衛