噺の話

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カテゴリ:落語の本( 189 )

 私の読書や、このブログの記事は、芋づる式になることが多い。

 先日の鈴本夏まつりの終演後の居残り会で、さん喬の『五人廻し』のことから、喜多八のことに話題がつながり、私が、喜多八は師匠小三治と同じ親が教育者という共通点があり、入門がすんなり決まったという話をした。
 その話の出典は浜美雪著『師匠噺』だったのだが、居残り会では、それを小三治の奥さん、郡山和世さんの著書と勘違いしていた。

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郡山和世『噺家カミサン繁盛記』

 そんなこともあって、『噺家カミサン繁盛記』の中で喜多八について書いている内容を探しているうちに、ほとんど全編を再読していた。

 何度読んでも、楽しい本だ。

 今回は、弟子のことではなく、オカミサンついて。

 お題は「オカミサン三人寄れば・・・・・・」

 小三治の弟弟子、さん喬師のカミサン、玲子ちゃん。
 もう三十路をいくつか過ぎただろうに、いつ会っても女学生のようにかわいらしい。

 ことわっておくが、この本の初版は1990年。文藝春秋からの単行本。数編書き加わって講談社文庫から発行されたのが1999年。
 ちなみに、私はどちらも持っている。
 
 引用続き。

 噺家のカミサンの鑑、いえ、女房族の鑑と言えるような女性。若い噺家達にもずい分とファンがいるようだ。
 去年の秋、先輩、扇橋師のオカミサンと私と彼女で京都へ三人旅をした。
 だいたい、噺家になろう・・・・・・なんて人は、すべからく奇人、変人の少なくとも親類筋になる方ばかりだから、その女房に志願する女性ともなれば、その上を行くんじゃないかな。
 自分はごく、普通人と思っているけど、どうしてどうして、私を含めて皆クセのある人と思って間違いない。
 扇橋師のオカミサンは、一見、日本の母の代表選手みたいな方だけど、長年お付き合いしていると、ほんとうに嬉しくなっちゃう程、嬉しい方だ。

 こういった文章が、著者の持ち味で、つい、「おいおい、どんな嬉しい方なんだ!?」と興味が湧くのである。

 青梅出身の方と伺っているけど、その体に流れる血は、どうみても江戸下町のオカミサン。働きもので、その上、器用。和裁、洋裁なんでもござれ。
 独特の口調で、
「イヤ~だヨォ!」
 なんてセリフを言うのだが、私達にとっては、たまらなく嬉しい。
 小三治が、落語に登場するオカミサンの口調のモデルにしたほどだ。
 三人旅をしている間に、私もさん喬師のオカミサンも、すっかりその口調がうつってしまった。三人して「イヤ~だヨォ!」の連発をしながら、嬉々として初旅に挑戦。

 小三治の落語のオカミサンのモデルが、盟友扇橋のオカミサンだったとはねぇ。
 この三人旅、なかなか楽しそうではないか。

 扇橋師のオカミサンは、名前がサチコさんなので、私達は「サッチャンネェちゃん」と呼んでいる(噺家社会では、どんなに年をとっても先輩女性はお姐さん)。
 サッチャンネエちゃんは、初旅にあたって、大張り切りで、早起きして、ゆで玉子とおにぎりを沢山作って持ってきてくれた。おせんべいやバナナもボストンバッグに詰め込んで、さしずめ部隊の兵糧係。私ァ、口先ばかりの斬り込み隊長。
 さて、サッチャンネエちゃんがせっかく作った、ゆで玉子とおにぎりは、どうなったのか。

 京都に到着後、喰い意地の張っている私は、あっちへ行っても、こっちは行っても、名物を口にほうばる。南禅寺の湯どうふ、嵐山ではニシンそば。先斗町の懐石膳。八坂神社近くのいもぼう。太巻寿司・・・・・・。
 で、ハッと思い出した。サッチャンネエちゃんのゆで玉子とおにぎり。どうしよう。いい気になって食べすぎて、夜食等、もうとても入らぬほど、詰めこんじまった。「全く、和世ちゃんは良く食べるべェ・・・・・・」とサッチャンネエちゃんは言いながら、きっと、ゆで玉子とおにぎりを気にしていたに違いない。どうしよう。そっと玲子ちゃんに訊いてみる。
「私も、もう入りません・・・・・・。でも今日中に食べなきゃ、サッチャンネエちゃん気を悪くしますヨ・・・・・・。和世姐さん、頑張って下さい!」
「頑張ってったって・・・・・・」
 そんな私達の気配を感じとったのか、サッチャンネエちゃんは、
「ゆで玉子とおにぎり、もう食べらンないだろ。いいよ気にしなくとも」
 と言ってくれた。
「ごめんネ。明日の朝、食べるから・・・・・・」
 結局、翌朝、いくつか食べたが、あらかた処分するハメに。ほんとの申し訳ございませんでした・・・・・・と、うなだれる後輩二人に、「いいよオ~、気にしないでよオ~」と、いつものように明るい笑顔、ホッ!

 サッチャンネエちゃん、ほんと、嬉しくなる人だなぁ。

 この三人旅、落語に負けないカミサン三人の珍道中。

 京都見物は、さん喬カミサンが案内係。
 もっとも、性格的に正反対の私と扇橋師のオカミサンの間に挟まって、さぞや、さん喬師のオカミサンは疲れたことだろう。
 私は、自分で言うのも何だが、極く、気が短い。その上気性が人一倍激しい。すぐケンカ腰になる。 
 扇橋師のオカミサンは、苦労人ゆえ、おっとり、さわがず、どちらかと言えば気の長いおヒト。
 さん喬カミサン「お姐さん方、これからどちらへ行きましょうか?」
 扇橋カミサン「どこでも良いよ。なんでもいいから良いようにしてくれよ」
 小三治かみさん「早く決めちゃおうヨ!ヨシ、こっちにしよう!ネッ?いいよネ?」
 さん喬カミサン「ハッ、アッ、よろしいんですか?ハイッ!アッ!そうですか?」

 まるで、『長短』の主人公二人の間に、人の良い甚兵衛さんが加わったような、会話^^
 買い物にしても、こんな感じ。

 小三治カミサン「ワッ!これいいねェ。買っちゃおうかな」
 扇橋カミサン「およしヨ、もったいない。そんなの買ったって、結局無駄だヨ。おやめヨ!高いじゃないかヨ。その茶碗。一個の値段だよ。やっぱり高いですヨ!」
 小三治カミサン「いいじゃない。私が買うんだからァ。お姐さんに迷惑かかるわけじゃないんだからァ」
 扇橋カミサン「でも、もったいないヨ。それよか、こっちにある漬物でも買いなヨ。亭主がよろこぶヨ。うまそうだし」
 小三治カミサン「いいの!この際亭主は関係ないの!亭主喜ばせるために旅してんじゃないもんネ」
 扇橋カミサン「まったく和世ちゃんは強情なんだから。そういう調子で亭主をやりこめてんだろ」(図星です)
 さん喬カミサン「まアまアお姐さま方、ネッ?ハツ?イエ、そうそう、アッ!そうですか?ハッ!アア・・・・・・ネエ~?」
 これでどっか気が合うんだなァ。なんてネ。

 「これでどっか気が合う」・・・やはり『長短』だ^^

 その後、再びこの「三人旅」が実現したかどうかは不明だが、きっとどっかに行ってることでしょう。

 この本、何度読んでも、楽しい。

 小三治と三歳違いの昭和十七年生まれの和世さん、今もお元気で亭主をやりこめているのかどうか。

 できるものなら、続編を書いていただきたいものだ。
 噺家本人が書いた本は少なくないが、オカミサンが書いた本は、実に貴重なのである。


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by kogotokoubei | 2018-08-23 12:33 | 落語の本 | Comments(6)
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『古典落語 正蔵・三木助集』(飯島友治編・ちくま文庫)

 白洲正子さんの本『西行』から、西行と崇徳院の関係について記事を書いた。

 落語の『崇徳院』について、『古典落語 正蔵・三木助集』をめくった。
 もちろん、三木助。

 飯島友治さんの冒頭の文章から、この噺の作者のことをご紹介。

 原作は上方落語中興の祖ともいわれる、桂派の創始者、初代桂文治(1815没、四十二歳、異説あり)である。文治は『崇徳院』のほか『竜田川』『口合小町』『反古染め(ほうごぞめ)』『昆布巻芝居』『按摩芝居』を初め、多くの制作と改作をつくり、また『臍の宿替』『道具太平記』『大開好色合戦』以下、落語本もたくさん残している。

 『竜田川』は、『千早ふる』のこと。
 あらためて、初代文治の偉大さが、分るね。
 引用を続ける。

 大阪の『崇徳院』とは別に、東京にも『皿屋』『花見扇』の名で、古くから同工の噺があった。これは人情噺『三年目』の発端ともいわれているが、現在は殆んど演(や)り手がなく、湮滅したも同然である。

 『皿屋』に『花見扇』か・・・・・・。
 誰か復活させてくれないものだろうか。

 噺の梗概について飯島さんは、今我々が知っている内容とは違うサゲを紹介してくれる。なお、捜索担当(?)は、若旦那側が本屋の金兵衛、お嬢さん側は、鳶頭(かしら)である。

 ある日披露困憊し、髪結床の羽目にもたれて、ついうとうとしていると、これもまたお嬢さんの親に懸賞付で頼まれた鳶頭が飛び込んできて、床屋の親方に、一部始終を話しているのを小耳にした金兵衛は、しめたとばかりその胸倉をとらえ「・・・・・・この扇子(おうぎ)に歌が書いてある。瀬をはやみ岩にせかるる滝川の、唐桟の上着に更紗の下着、燻んだ羽織に博多の帯、紙入れの中へ金が五十両!・・・・・・」と夢中にまくしたて、はては「うゥッもう目が見えぬ、うゥゥん」と気絶したが、それでも鳶頭の胸から手を離さない。そこで鳶頭が「おいッいいかげんにしろッ苦しくてならねえ、ここォ放せ」ようやく気のついた金兵衛は「いいや、放すんじゃァねえ、合わせ(結婚)て貰うんだ」というのである。
 上方の古い型は、舞台を京都の清水観音堂にとり、なれそめは、双方が供に連れて来た小僧同士が喧嘩を始め、仲裁に入った若旦那に、お嬢さんがぽォッと赤くなって礼を言い、扇子の上の句を達筆にすらすらと書いて渡すのが、きっかけとなる。

 原作は、ずいぶん筋書きもサゲも違っていたんだねぇ。

 「放せ」と「合わせ」、その「合わせ」で「結婚」を意味するサゲ・・・・・・。
 今では、さすがに通じにくい。
 
 だから、三木助は、筋書きもサゲも工夫し、また、独自のクスグリによって、十八番のネタとして練り上げた。

 その三木助のクスグリについて、なかなか興味深いことが書いてあった。

 お嬢さん側鳶頭に「一昨日(おととい)の朝、北海道代表が発ちましてねェ、昨日の朝九州代表が発ってねえ、あたしが四国代表でね」「都市対抗だね、まるで・・・・・・」のやりとり〔本文では削除〕は、楽しく聞けるに相違ないが、それは生前に、一部から批判された。しかし師匠はその演出については、大変な自信をもっており、筆者がその間の事情を問いただしたところ、次のような比喩をもって答えた。「こっちにくさやの干物があって、板わさがあって、ちょいとチーズのあるのが好きで・・・・・・」というのである。

 今日の噺家さんなら、旬のネタで「一昨日の朝、コロンビア代表が発ちましてね、昨日の朝セネガル代表が発ってねえ、今朝はポーランド代表が発った」「サッカーワールドカップだね、まるで・・・・・・」とでも言いそうだ。


 最後のたとえは、なかなか深~い言葉。

 くさやの干物があって、板わさがあって、ちょいと○○○があるのが好き。

 噺家さんによって、この○○○の中に入るものは違うだろう。

 もちろん、好みによる。

 私は、チーズ、いいと思う。

 アボカドは、遠慮する。

 この噺、今では東京の多くの噺家さんも演じる。

 私が、忘れられない高座は、生で一度だけ出会うことができた、2012年8月の、六代目笑福亭松喬、JAL名人会の高座だ。

2012年8月29日のブログ

 音源は、三木助はもちろん良いのだが、志ん朝もこれまた名演。

 実は、9月の同期会、12月のテニス合宿、この『崇徳院』に挑戦しようかと、思っている。

 でも、まだ分からない。

 くさやと板わさに合う、クスグリも考えなければ^^

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by kogotokoubei | 2018-06-03 18:45 | 落語の本 | Comments(4)
 落語の舞台を巡ることをテーマにした本は、結構多い。

 先月紹介した、「はなしの名どころ」管理人さん田中敦さんの『落語と歩く』もそうだし、落語ファンの多くがお世話になっていると思われるサイト「落語の舞台を歩く」(サイト『吟醸の館』内)を運営している河合昌次さんによる『江戸落語の舞台を歩く』もある。また、朝日新聞の記者だった佐藤光房さんが同紙に掲載していた内容が『東京落語地図』として出版されている。
 落語家が案内人になっている本も、円生のものや、三代目と四代目の三遊亭金馬による本、柳家小満んが「東京かわら版」に連載していた内容も、出版されている。

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吉田章一著『東京落語散歩』(角川文庫)

 吉田章一さんの『東京落語散歩』も忘れてはならないだろう。
 著者の吉田章一さんは、昭和8年生まれで、東大落語会の一員。

 以前紹介した『正蔵一代』(青蛙房)は東大落語会の編集で、監修と“動き”の記録を吉田章一さん、演目解説のまとめを保田武宏さん、芸談・身の上ばなしを山本進さん、という分担だったとのこと。

 この『東京落語散歩』も最初は平成9(1997)年に青蛙房から単行本で発行され、平成21(2009)年に角川文庫として再刊。

 コンパクトなのだが、結構中身は、濃い。

 再読していて、最初気が付かなかった発見が多い。

 たとえば、「浜町」の章に、このような姉妹のことが書かれていた。

 靖国通りを横切ると、もとも米沢町になる。女悦道具の店四ツ目屋(東人本橋二ー18-4)が江戸期から明治末まで営業した。小咄甚五郎の作に登場する張形は、名作すぎて人を妊娠させてしまう。
 明治五年から震災まで営業した有数の寄席「立花家」(東人橋二ー13-7)もあった。ここは二階の正面に桟敷があり、四〇〇~五〇〇人はいれた。こけら落としに出演を予定していた圓朝は、門下の三代目圓生に芝居噺の道具一式を譲って代演させ、自らは素噺に転向したという。「立花家」の向かいにあった「初音」という寿司屋の娘の、姉つねが四代目古今亭右女助の、1886~1935)と一緒になり、次の千代は八代目桂文楽(1892~1971)と駆け落ちし、下の妹マキが林家彦六(1895~1982)の妻になった。近くに太平記場跡(東人本橋二ー6-8薬研堀不動院内)、講釈場「福本」(同二ー19-6)もあった。

 四ツ目屋のことから引用したのは、文章の流れを踏まえたもので、どうしても紹介したかったわけではないので、誤解(?)なきよう。

 寿司屋「初音屋」姉妹のこと、知らなかった。

 この文を読んでから検索すると、千代は、文楽の妻とはなっていないようだ。
 
 寄席の近くの寿司屋の姉妹・・・なるほど出会うのは自然の成り行きかもしれない。

 以前読んだ本をあらためてめくると、最初は読み飛ばしていて記憶に残っていない、こういう発見があるのが、読書の一つの楽しみと言えるのだろう。


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by kogotokoubei | 2018-04-29 18:21 | 落語の本 | Comments(4)
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田中敦著『落語と歩く』(岩波新書)

 この本から、四つ目の記事。

 落語を調べる際に度々お世話になる「はなしの名どころ」の管理人さん、田中敦さんの本。
「はなしの名どころ」
 
 円朝の「上野下野道の記」について書いているので、やはり、同時代に円朝と対抗していた談洲楼燕枝についても、本書からご紹介しておきたい。

  「第4章 三遊亭圓朝と人情噺」より。

 初代談洲楼燕枝

 初代談洲楼燕枝は、三遊亭圓朝とならび称される落語家です。亡くなった年も圓朝と同じ明治三十三年(1900)でした。市川團十郎と親交が深かったことから、柳亭燕枝から談洲楼に亭号を改めました。今でも作品が演じられる圓朝にくれべて、残念ながら燕枝の作品を耳にする機会はほとんどありません。

 本書の発行は、2017年1月。
 著者田中さんにしては、柳家三三が『嶋鵆沖白浪』を口演していることをご存知ないのかなぁ、とこの部分を読んで不思議に感じた。

 とはいえ、円朝作品に比べれば、あまりにも燕枝作品は知られることがないのは事実だ。

 著者は、書籍やネットで知ることのできる燕枝の作品を紹介してくれる。

 現在、手軽に読むことができる燕枝の作品は、『名人名演落語全集』第一巻(立風書房、1982年)に掲載された「西海屋騒動」の一部、「続噺柳糸筋(やなぎのいとすじ)」の長編人情噺と数題の落語に過ぎません。よく筆が立つ人で、速記者を頼まず自分で原稿を書きました。そのためか、修辞に富んだ文語的な表現が多く、今の感覚では読みにくいと感じられます。演題のんみが伝わっている作品を含め、『名人名演落語全集』に燕枝の全作品リスおTが載っています。
 なお、下記の燕枝作品については、インターネットを通じて読むことができます。
「島鵆沖白浪(佐原の喜三郎)」「善悪草園生咲分(よしあしぐさそのうのさきわけ)」「墨絵之富士」「仏国三人男」(フランスの翻案もので、地名の一部が二本のものに置きかえられている)。また、雑誌『百花園』には、しばらく客演のように三題噺を連載していましたが、三十一号からは、「海気の蝙蝠」「元旦の怪談」(『クリスマス・キャロル』の翻案)、「痴情の迷」「函館三人情死(しんじゅう)」「怪談 浮船」「和尚次郎心の毛毬栗(いがぐり)」と次々と作品を発表しています。
 へぇ、『クリスマス・キャロル』の翻案まで演っていたんだ。

 この後、「函館三人情死」のあらすじと、その舞台への旅の思い出がつづく。

 それにしても、燕枝のネタ、島鵆と西海屋以外、知らなかったなぁ。

 ぜひ、ネットで読むつもりだ。

 さて、本書の最終章に移る。

 「第5章 失われゆくもの 残す力」から。 

 著者田中さんならではの提言が語られている。

 何千とある落語名所との出会いは、個人にとっては一期一会。ほとんどが二度と訪れることのない場所でしょう。ところが、誰も来ないと思うような山奥に入っても、誰かしらの踏み分け道があるものです。どんな場所でも、一年を通してみれば、何十人、何百人という人がその地を訪れているはずです。一人ではできないことも、多くの人の経験が寄せ集まると、自然と大きな残す力になると考えます。

 「上野下野道の記」の旅で紹介したように、田中さんは、すでに今は幹線道路ではない山道も辿って、落語の舞台を探索している。

 きっと、こんなところに来るのは自分一人だろう、と思える場所も多かっただろうが、たびたび「えっ、こんなところにも来ている人がいる!?」と、驚かれたのに違いない。

 道や橋や昔の味わいのある地名などが、時の移ろいの中で失われていくことへの憂いから、なんとかならないか、と思う気持ちには共感できる。
 
 落語の速記として残されたものもあるが、演目のみは残っていて、その中身は謎のものだって多い。

 数多くの速記本に目を通し、日本全国の落語の舞台を訪ねた著者田中さんは、消えて行く落語、そしてその舞台のことを、大いに案じている。

 そこで、提言。

 落語の文庫(アーカイブ)
 
 すでに演芸関係の図書館・資料館が、関連図書や演者の愛蔵品などの収蔵を行っています。ここで保存しておこうと提案しているのは、個人でもできる範囲のものです。たとえば、落語名所の写真や土地にまつわる聞き書きといった、もっとバーチャルなものになります。
 取り壊されてしまった建物や、変わってしまった風景などが、古い絵はがきに写真として残されていることがあります。名所旧跡にくらべて、むしろ、ありふれた路地のたたずまいなどの方が、写真に残っていないのかもしれません。残らないものは、残すしかありません。持っていないならば、集めることです。まずは、失われてしまわないうちに収集・保存しておくことが先決でしょう。

 読んでいて、田中さんが、あの「はなしの名どころ」という膨大な落語情報のサイトをつくった動機が、分かったような気がした。

 田中さんは「文庫(アーカイブ)」以外に、「籾蔵(レポジトリ)」という言葉も使っている。

 落語の籾蔵(レピジトリ)

 江戸時代には、飢饉のときなどに備えて籾すりしていない米を備蓄する籾蔵というものが設けられていました。「梅若礼三郎」では、寝たきりの亭主を抱えた夫人が幕府に籾蔵の配給を願うくだりがあります。上方落語の衰退を愁いて、五代目松鶴らが四十九冊の雑誌『上方はなし』を出版したことは、第3章に書きました。先人が籾蔵に残した種籾が、蒔かれ育てられ、今の上方落語の美田につながっているのです。
 落語の文庫は、それを公開し、利用してもらうことで、将来的には籾蔵になるかもしれません。もちろん、権利関係の問題など、解決すべき課題はあるでしょう。遺伝子資源の宝庫である世界中の植物の種子は、国家間の難問を乗り越え、実際にノルウェーの極寒の島の地下深くの種子貯蔵庫に保存されていると聞きます。公開の時が来るまで、奥蔵に眠らせておくのでも構わないと思います。また、落語の知恵だけでなく、愛好家の本業の知恵を集めれば、技術的な面も運用面もきっとクリアできると期待しています。
 
 籾蔵、という言葉、なかなか味わい深い。

 膨大な落語速記本に目を通し、その多くの舞台を踏破してきた著者だからこその提言なのかもしれない。

 このあと、著者田中さんは、自分たちで落語の名所をつくろう、という提案をしている。
 コイン程度の小さなプレートでもいいから、落語の名所に、そっと置いてみましょう、というのだ。

 なるほど、それは、楽しそうだ。

 これにて、このシリーズは、お開き。

 ぜひ、私も、小さい旅でもよいから、落語と歩いてみようと思う。

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by kogotokoubei | 2018-04-08 15:50 | 落語の本 | Comments(2)
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田中敦著『落語と歩く』(岩波新書)

 この本から、三つ目の記事。

 落語を調べる際にお世話になるあのサイト「はなしの名どころ」の管理人さんの本。

 あのサイトで、とにかく落語の舞台を丹念に歩いていることに驚いていたが、その旅の背景に、どれほどの準備があるのか、この本を読んで分かった。
「はなしの名どころ」
 とはいえ、著者田中さんが訪ねたくても、それが叶わないこともある。

 時代の流れの中で、落語の舞台だった地名が、今はなくなっていることも少なくない。

 そんな地名のことについて、「第3章 まだ見ぬ落語をたずねて」から紹介したい。

 失われた地名

 すでに無くなってしまった場所も訪問しようがありません。大規模なものでは城や川、小さなものでは橋や路地、旅館や飲食店などです。市町村合併や住居表示の実施により、地図から消えてしまった地名もあります。
 旧地名や跡などについては、近ごろ自治体が説明板を建てるようになったり、親柱を保存展示したりするようになってきました。個人・団体が地名を表示してくれていることもあります。
 (中 略)
 本所達磨横町は、二席の落語にとって、とても大事な地名です。「文七元結」の長兵衛親方の住まい、「唐茄子屋政談」の酸いも甘いもかみ分けた叔父さんの家が、達磨横町にあります。昭和五十八年(1983)に、江戸本所郷土史研究会が墨田区東駒形一丁目に木製の立て札を建てています。区画整理によって道筋が変わっていますので、多少場所はずれているようですが、本当にありがたいことです。写真では文字が見えませんので、一部を引用します。

    旧本所達磨横町の由来

  江戸時代から関東大震災後の区劃整理まで此の辺りを本所表町番場町と
  謂い紙製の達磨を座職(座って仕事をする)で作っていた家が多かった
  ので、番場では座禅で達磨出来るとこ と川柳で詠まれ有名であり天保
  十年(1839)葛飾北斎(画家)が八十一歳で達磨横町で火災に遭ったと
  謂われる。
  初代三遊亭円朝口演の「人情噺 文七元結」は六代目尾上菊五郎丈の
  当り狂言で(中略:文七元結の梗概)文七とお久は偕白髪まで仲良く
  添い遂げたと謂う。(後略)

 風情ある立て札でしたが、墨色は次第にあせてきており、ついには木札が朽ちてしまったのでしょうか。今は、区の教育委員会が建てた将棋の木村義雄名人の生誕地を示す金属製のプレートに置きかわっています。

 
 本書には、「旧本所達磨横町の由来」の立て札の写真も掲載されている。

 その写真は、「はなしの名どころ」サイトの「墨田区」のページで確認できる。
 「はなしの名どころ」サイトの該当ページ

 しかし、この立て札は、もうないんだね・・・残念。

 本書は、コラムも楽しい。
 この章の最後には「刻まれた名店」というコラムがある。
 大阪の料亭「網彦」、そして、品川の「島崎楼」の後、懐かしい寄席のことについて、旅で見つけた、その名が刻まれたある物について紹介されている。

【神田立花】戦前、時局にそぐわない五十三種の落語を禁演落語と定め、浅草本法寺に“はなし塚”を建てて封印しました。戦後、それらの禁演落語は法要が執り行われて復活し、代わって戦時の落語が封印されました。その本法寺のの石積み塀に、噺家の名前や、東京各地の寄席の名前が朱色の文字で刻まれています。神田立花演藝場、麻布十番倶楽部、人形町末廣、上野本牧亭、川崎演藝場、昔の池袋演藝場・・・・・・、今は営業をしていない寄席の名がここに眠っています。

 私は、関東地域で住み始めたのは、昭和の晩年なので、人形町末廣も、昔の池袋演藝場も、知らない。

 はなし塚のある本法寺には、そのうち行ってみたいと思っていたので、ぜひ、これらの寄席の名が刻まれている石積みの塀も見てこよう。

 この本を読みながら、著田中さんのように、現存する地、そして、失われた地名の現在地を含め、ぜひ落語と歩く旅をしたくなってきた。

 また、田中さんには到底及ばないが、書籍の“山脈”のほんの一部にも、登りたいと思っている。

 次回は、著者の熱い思いをご紹介して、最終回とするつもりだ。


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by kogotokoubei | 2018-04-06 12:21 | 落語の本 | Comments(0)
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田中敦著『落語と歩く』(岩波新書)

 この本から、二つ目。

 「第4章 三遊亭圓朝と人情噺」より。

 著者田中敦さんが管理人のサイト「はなしの名どころ」には、圓朝作品を調べる際に、何度もお世話になっているが、あのサイトがどのように出来上がったかが、この本を読んで、よくわかった。
「はなしの名どころ」

 とにかく、圓朝作品の舞台を、数多く実地検証している。

 そのきっかけにもなった全集のこと、そして、サイト以外にも成果を発表する場があったことをご紹介。

 2012年から、岩波書店より全15冊の『円朝全集』が出版されています。かくいう私も、縁あって『円朝全集』の月報に「円朝を歩く」を担当するにあたり、自分の中で三点の制約を設けることにしました。

 1 該当する巻に登場する噺の舞台を取り上げる
 2 日帰りで訪問する
 3 公共交通機関のみを利用する

 「円朝を歩く」で訪れた十五地点は以下のようになりました。

 十郎ヶ峰の謎(栃木県)        怪談牡丹燈篭
 榛名山裏表(群馬県)         安中草三・塩原多助一代記
 浦賀の奇人(神奈川県)        松の操美人の生埋
 宇津ノ谷峠三往復(静岡県)      鶴殺疾刃庖刀
 夜歩く累ケ淵(茨城県)         真景累ケ淵
 筑波山むかし道(茨城県)       緑林門松竹
 国府台の断崖(千葉県)        粟田口霑笛竹
 熱海の軽井沢(静岡県)        熱海土産温泉利書
 多摩川一日遡行(東京都・山梨県)   荻の若葉
 宮脇志摩と四人の死(大阪府・東京都) 名人くらべ
 一行庵と戊辰戦争(北海道)      蝦夷なまり
 円朝登場(静岡県・山梨県)      火中の蓮華・鰍沢
 歩きつかれて湯につかれ(東京都)   年始まわり
 二居峠雪中行(新潟県)        後の業平文治
 ウェインランドの鍛冶場(新潟県)   英国女王イリザベス伝

 細かなことですが、「蝦夷なまり」については2、「英国女王イリザベス伝」では2と3のマイルールから外れてしまいました。

 なるほど、『円朝全集』の月報で連載があったのか。

 マイルールを外れたことに関するおことわりには、著者田中さんの律儀さが表われている。

 それぞれの巻の中から一席を選んでの旅だったようなので、ご本人としては、他にも行きたかった円朝落語の舞台があったようだ。

 本書には、月報に収めることのできなかった紀行文「上野下野(こうずけしもつけ)道の記」への旅が紹介されている。
 では、その「上野下野道の記」の旅を引用。

 圓朝が越えた峠道

 「上野下野道の記」と題された紀行文は、まだ鉄道もバスもなかった明治九年(1876)に、宇都宮から山深い奥日光を抜け、沼田を経て東京へ戻ってくる十六日間の旅日記です。柴田是真翁から聞いた、江戸の豪商寿炭屋塩原に伝わる怪談に触発されたものでしたが、取材するうちに、塩原太助の立身出世譚へのテーマが変わり、「塩原多助一代記」として結実しました。
 地元で評判のよくない居酒屋へ行ってみたところ、噂どおりで閉口したこと、宇都宮での旧友との偶然の出会い、山中の温泉場に蛇が出て往生したさまなどを、俳句や狂歌を織りこみながらつづっています。圓朝作品のなかでも、とりわけ味わい深く、第一級の紀行文です。

 ということで、あの、名作『塩原多助一代記』を作る元となったのが、この圓朝の旅だったということ。

 では、『塩原多助一代記』冒頭の、幼い多助が沼田の塩原家に預けられるいきさつのヒントとなった数坂(かつさか)峠の風景を著者の田中さんと一緒に辿ろうではないか。

 消えた数坂峠ー上野下野道の記

 沼田から奥日光へ抜ける国道120号。日本ロマンチック街道やとうもろこし街道などという愛称がつけられている。車道である椎坂峠越えが大きく南に迂回して勾配を避けている。椎坂峠は峠と言うよりは山の端までぐるっと巻いて行き、最後は切り通しで向こう側へ抜けたような地形になっている。それに対して、地形図に歩道として描かれている旧道は、数坂峠を直線的に越えている。ということはいかに急坂なのか想像に難くない。
 2012年10月に、五十二年ぶりに歌舞伎『塩原多助一代記』が国立劇場で上演された。冒頭の数坂峠、クライマックスの“青の別れ”から、多助が成功した本所相生町の炭屋店の場まで通しで演じている。第一幕、上州数坂峠谷間の場は、岩山を貫いて杉木立が生え、谷川の流れの向こうに山々が霞む書き割りだった。圓朝の眼から見た数坂峠の描写はこんな感じだ。

  数坂(すさか)〔数坂-かずさか-〕峠にかかる南は赤城山北には火打山西には
  保高(ほかう)〔武尊-ほたか-〕山東は荒山なり 実に山また山の数坂道にして
  小山には畑(はた)を開き粟、稗、黍、大豆、小豆、蕎麦なり そばの花処々に
  見ゆる 其風景尤もよし
    何処えほどして蒔(まい)て蕎麦の花
     (『円朝全集』別巻二、「沼田の道の記」明治九年九月七日、岩波書店、2016年)

 以前の数坂峠への挑戦では、GPSのような便利な道具を持っていなかったため、途中で道を見失ってしまい、峠と思える鞍部によじ登って引き返してきた。うかうかしているうちに、新しいトンネルが2012年に開通してしまい、車道の椎坂峠ですらバスも通らない過去の道になってしまった。

 落語の舞台も、時代の波には逆らえないのは、都会に限らなくなってきた、ということか。
 
 なお、2012年の歌舞伎興行については、文化デジタルライブラリーのサイトに、演者など詳しい情報が載っている。ご興味のある方は、ご覧のほどを。
「文化デジタルライブラリー」の該当ページ


 この後、沼田から尾瀬方面行のバスに乗り、新しいトンネルの直前の観音寺前で下車して、旧道となった椎名峠への分岐点から、徒歩での旅が記されている。

 こんな具合だ。

 小さな沢の左側が旧道だろう。真ん中がUの字型にくぼんだ、ひと尋(ひろ)ほどの道がずっと続いている。あたりはスギと広葉樹の混交林だ。ふかふかの落ち葉に埋もれてはいるが、明らかに人馬が通った道の跡だ。
 150メートルほど行くと、首のとれた一体の石仏が現れた。蓮華座の上に立っており、手に瓶子(へいし)か花のようなものを持っていたらしく、その下部だけが残っている。裏面には馬頭観世音と彫られている。峠道を通る旅人を見つめて来た石仏は、ここが街道だった証だ。

 圓朝の紀行文も名作だが、その舞台をたどる著者の紀行文も、なんとも味わい深い。

 もっと先を辿りたいお気持ちもわかりながら、今回はこのへんでお開き。

 旅の続きに興味のある方は、ぜひ本書をお読みのほどを。

 まだまだ、紹介したいことが、本書には多い。

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by kogotokoubei | 2018-04-05 12:57 | 落語の本 | Comments(0)
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田中敦著『落語と歩く』(岩波新書)

 昨年一月岩波新書で発行された本『落語と歩く』を、つい最近読んだ。

 著者の田中敦さんは、円朝ネタなどをはじめ、落語を調べる際にたびたびお世話になる「はなしの名どころ」というサイトの管理人さんだ。
「はなしの名どころ」のサイト

 この本の著者があのサイトの管理人さんと分かり、読んでみてその統計データに圧倒され、あのサイトの情報量の凄さにも、むべなるかなと納得。

 著者の田中さんは、落語速記本に収録されている落語のネタや、その中に登場する膨大な地名を丹念に拾っている。

 それらの調査を元にして、「計量落語学」「落語地理学」という分野があってもいいのではないか、と提唱している。

 なるほど、これだけの調査をしていると、一つの学問になるなぁ、と思わざるを得ない。

 たとえば、「第2章 ぐぐっと落語と歩こう」には、次のような観点で作成した表を掲載されている。

 長井好弘の『新宿末広亭のネタ帳』(アスペクト、2008年)は、計量落語学のはしりとも言える本です。寄席では毎日演じられた演目は、ネタ帳と呼ばれる和綴じの帳面に記録されます。『新宿末広亭のネタ帳』は、その名のとおり、新宿末広亭に保存されたネタ帳の内容を、七年間にわたってデータベース化したものです。七年間で演じられた落語の総数は、6万1775件にもなります。これだけの数があると、演目別、演者別など、さまざまな切り口で料理することができます。ここでは、口演数の多いベスト30を、書籍での収録数とくらべてみたいと思います(表1)。なお、おもに東京落語がかかる新宿末広亭の口演数とくらべるため、上方落語は表の集計から除いています。

 この圧倒的なデータベースに基づくランキング、ベスト10のみ抜粋し引用したい。
----------------------------------------------------------------------------------------
      書籍での収録数            寄席での口演数
 (1945-2000)     (2001-2015)       (2001-2007)
  演 題   件数   演題   件数     演題   件数  
1.粗忽長屋    64  饅頭怖い   42    子ほめ   1486
2.王子の狐    56  寿限無    40    替り目   1350
3.芝浜      53  芝浜     32    たらちね   950
4.船徳      52  時そば    31    真田小僧   950
5.饅頭怖い    52  死神     27    初天神    886
6.粗忽の使者   49  粗忽長屋   23    桃太郎    794
7.道具屋     49  猫の茶碗   22    親子酒    739
8.小言幸兵衛   44  目黒のさんま 20    手紙無筆   706
9.出来心     44  転失気    19    長短     646
10.明烏      43  あくび指南  17    転失気    643
 (全1782題9216件)  (全1062題2736件)       (全61775件)
----------------------------------------------------------------------------------------
 寄席の上位演目は、なるほど、寄席のネタだなぁ、と思うが、速記本の上位のネタは、意外な印象。 
 

 2000年までの速記本ではトップ10入りしていた「小言幸兵衛」は、2001年~2015年発行の速記本で、トップ10どころか30からも姿を消しているのが、残念・・・・・・。

 長井さんの末広亭のネタ帳集計の努力もすごいが、田中さんの膨大な速記本を元にした統計づくりも、並大抵じゃないね。

 ちなみに、長井さんの『新宿末広亭のネタ帳』は、以前に紹介したことがある。
2009年7月16日のブログ

 本書では、統計数値がいくつか並ぶが、決してお堅い本ではない。
 いくつかのネタを元に、筆者が実際に舞台を歩く様子が、切絵図を元に落語が作れらた頃の地名と現在の地名などもわかり易く説明された、旅の楽しいガイドとしても優れている。

 たとえば、『黄金餅』の道中付けをなぞって、ハロウィンの夜に歩いた内容。

 下谷の山崎町の最寄りは上野駅。スタートするまでは「黄金餅」のルートに触れたくないので、山崎町と逆側の公園口から両大師橋を渡り、首都高上野線をくぐって東上野へ着きました。時刻はちょうど午前零時。重い荷を担いだと思い、ハロウィンの晩の様子を観察しながらゆっくりと歩き、夜明けまでには桐ケ谷に入る予定です。昼間の散歩と違って、細かいものを見るのはあきらめ、できるだけ「黄金餅」のルートに寄りそうことを心がけたいと思います。
 東上野はバイクショップが目立つ町。銀座線が車庫へ向かうためにある、地下鉄には珍しい踏切を通り過ぎ、城壁のようにそびえる上野駅に沿って南へ向かいます。日付が変わるのを待ちかねたように、道路工事や鉄道の作業員が繰りだしてきました。地面に坐りこんでいるのは、路上生活者とおぼしき女性です。ハロウィンなどとは無関係に、日々を生きています。
 上野駅の正面口あたりが、上野山下。ぐっと曲がって、三橋(口演では三枚橋)の跡をいつの間にか越え、上野広小路を進みます。深夜にもかかわらず人通りは多く、すさんだ感じがただよいます。立ったままカップ麺を食っている巨漢がいます。「ねえ、朝まで飲まない」と声をかけてくる女性をいなします。

 その夜の情景が浮かぶ、なかなか味わい深い文章。
 私なら、朝まで飲まない、と声をかけた女性を、いなすことができたかどうか^^

 また、膨大な落語の速記本を読みこなしている筆者なので、こんなことも教えてくれる。
 現行の「黄金餅」では、すぐに桐ケ谷の場面になりますが、四代目橘家圓蔵の速記では、もういちど道中付けが出てきます。

 二度目の道中付け

 同じことを二階繰り返すのはいただけないと考えたのでしょう、現代の演出では、このくだりをやりません。しかし、桐ケ谷までのルートを知る上では、大変ありがたい言い手たてです。そのルートは以下んぽようです。絶口ー相模殿橋ー右へ曲がり、日限(ひぎり)地蔵、大久保彦左衛門様の墓地ー突きあたって右、白金の清正公様の前ー瑞聖寺(ずいしょうじ)の前をまっすぐー桐ケ谷の焼き場(四代目橘家圓蔵、『文芸倶楽部』大正二年一月定期増刊号“出世かがみ”)
 これだけ書いてあれば、迷いません。四之橋(しのはし、相模殿橋)で古川を渡り、四之橋商店街からくねくねとした道を、大久保彦左衛門の墓地のある立行寺(りゅうぎょうじ)から、日限地蔵の松秀寺の前を通って桜田通りへ出ます。「井戸の茶碗」の舞台である白金の清正公こと、覚林寺に寄り道し、目黒通りの日吉坂を登って進むと目黒駅。行人坂の方へ道をとり、太鼓橋で目黒川を渡った先は、もはや当時の田舎道をトレースできませんから、適当に歩いて桐ケ谷斎場へ着きました。午前五時十五分。つごう十七キロほどの夜間散歩でした。東の空は、わずかに白んできているようですが、東京の街の灯りに負けていました。

 この、桐ケ谷までのもう一つの道中付けは、知らなかった。
 
 この本を読むと、これまでメールでやりとりをしたことはあるが、より身近に「はなしの名どころ」の管理人さんを感じることができる。


 次回は、圓朝ネタの旅をご紹介するつもり。

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by kogotokoubei | 2018-04-03 20:25 | 落語の本 | Comments(2)
 昭和53年に、六代目円生一門が落語協会を脱退する騒動があったことは、落語愛好家の方は、もちろんご存知。

 あの騒動について噺家さんが書いた本が、二冊ある。

 一冊は、平成16(2004)年に発行された、金原亭伯楽の『小説 落語協団騒動記』(本阿弥書店)。
 「小説」の体裁をとっており、登場する落語家の名は仮名。

 8年前の5月、ご紹介したことがある。
2010年5月24日のブログ

 そして、もう一冊は、昭和61(1986)年に発行された、三遊亭円丈による『御乱心』(主婦の友社)。

 こちらは、すべて実名で書かれ、暴露本として大いに注目を集めたものだ。

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三遊亭円丈著『師匠、御乱心!』(小学館文庫)

 その本が、『師匠、御乱心!』と名を変え、加筆、修正の上、新たな原稿と語りおろしの鼎談、解説を加えて小学校文庫で再刊された。

 加筆と鼎談に惹かれ、つい、買ってしまった。

 初版の内容やその落語界に与えたインパクトについては、今更私が書くことでもないだろう。

 巻末の「ドキュメント 落語協会分裂から三遊協会設立の軌跡」に、昭和61年単行本発行後の“軌跡”が追加されている。

 その中に、このようにある。

平成20年      円楽が自身の一番弟子、鳳楽に七代目円生の名跡を襲がせる意向
          を示したことから、円生門下の円窓、直弟子の円丈が、円生襲名に
          名乗りを上げる(円生襲名問題)。
平成21年10月29日 三遊亭円楽(5代目)死去。
平成22年3月 1日 三遊亭楽太郎が、6代目円楽を襲名。
平成23年11月21日 立川談志死去。
平成26年3月    6代目円楽と円丈が、合同落語会「三遊ゆきどけの会」を
          立ち上げる(平成28年からは「三遊落語祭」)。
平成27年9月3日  円生襲名問題、候補3名が白紙撤回。

 円生襲名に関しては、何度か記事にしている。

 しかし、紹介した中の最後、平成27年に三人が白紙撤回した、ということは、実は知らなかった。

 三人とも襲名を断念したということか、それとも、仕切り直しなのか。

 私は、もっと、グレーなままで、一時中断していたのか、と思っていた。

 円生襲名問題について書いた中で、円窓のブログを引用したことがある。
2009年11月12日のブログ

 重複するが、あらためて2008年5月2日のブログの一部を引用したい。
三遊亭円窓師匠のブログ
*「圓」は「円」に統一した。

 夜分、ソニーの京須さんより電話。
「今日の朝日新聞の夕刊に『円楽(5)の談で、〈鳳楽の円生(7)、楽太郎の円楽(6)の襲名〉が載っていた』」と。
楽太郎の円楽(6)の襲名は問題はないのだが、鳳楽の円生の襲名は横暴の一語に尽きる。
そもそも、円生の名は、6代目の死後、稲葉修大臣、円生(6)の未亡人、山本進(NHK)、京須偕充(ソニー)、それに円楽(5)の五人が連名して、「円生の名前はもう誰にも継がせない」という意をこめて「止め名」にした のである。
 この企画に奔走したのが、円楽(5)である。
 五人のうち、稲葉修大臣、円生(6)の未亡人は他界したが、他の3人はまだ生存しているし、その文書もちゃんと現存している。

 五代目円楽もその後亡くなり、今、止め名について連名した五人のうちで生存しているのは、京須さんと山本さんの二名。

 さて、今後、どんな動きがあるのやら、ないのやら。

 そして、紹介した円窓のブログの中で、“楽太郎の円楽は問題ないのだが、鳳楽の円生の襲名は横暴の一語”と、ある。

 この表現をあらためて読むと、あの林家九蔵襲名騒動を思い出す。

 根岸以外が、正蔵を勝手に継ごうとしたら、それは、横暴に違いない。
 しかし、九蔵は、目くじら立てて反対する名跡ですか・・・・・・。

 なんてことを、また思ってしまうのだよね^^

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by kogotokoubei | 2018-04-01 16:07 | 落語の本 | Comments(8)
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 青蛙房『林家正蔵全集』別巻の『正蔵一代』から、五つ目の記事。

 戦中の慰問活動は、『芸の話』から紹介したので、割愛。
 戦後しばらくして正蔵を襲名するのだが、ご承知のように、襲名前ひと騒動あったのである。

 正蔵襲名

 あたしが馬楽から林家正蔵を襲いだのが、昭和二十五年の六月です。
 あの時は、その、五代目小さんの襲名にからんで、世間でもいろいろ言われましたけど、今日では、もう差障りもなくなった事ですから、本当のところを申し上げときますがね。
 あれァその、四代目未亡人が、「小さん」てえ名前を、自分の手に握っていたいと、ひとつの財産みたいな見かたをして、それには弟子の小三治、今の五代目小さんですね、あれに襲がせておけばいい、という考えで、黒門町の文楽さんのところへ行って、
「弟子同様に引き立ててやってください」
 って頼んだ。それから小三治夫婦も、文楽さんのところへ頼って、一生懸命伺いにも行くし、文楽さんのほうでもしきりに可愛がって、ゆくゆくは夫婦養子に貰おう、なんてえところまで気に入ったんですね。
 だからそもそもの発頭人は、四代目のおかみさんで、ものも言わずにそれに加担しちまったのが文楽さんなんです。

 未亡人が、旦那の名跡を自分の財産みたいに思っていた・・・なんとも似たようなことが、襲名では繰り返されるのだなぁ、と思わずにはいられない。

 歴史は繰り返す、ということか。

 しかし、四代目は馬楽から小さんになった人だ。そして、前回の記事で紹介したように、昭和三年の落語研究会において、師匠の小さん襲名と、正蔵の馬楽襲名のダブル襲名の披露目とも言える会が催されていた。

 正蔵は、晩年ではあったが三代目門下としても旅興行に随行するなど、小さん一門とは縁が深い。

 だから、そう簡単にことは進まないのである。
 この襲名における騒動は、正蔵の兄貴分の登場で大きくなる。

 ところが、文楽さんなんぞは、あたしが上野(三代目小さん)のうちへ預けられたってえことは知りませんから、代々の小さんに関係のない、部外者だと思って、あたしにはいっさいのことを言わないで、小さん襲名の準備を始めちまった。そうすると、あの“山春”がまだ生きてましたから、
「それじゃァあんまり筋が立たないし、かりにも、四代目だって馬楽から小さんになった人だから、今の馬楽・・・・・・つまりあたしですね・・・・・・馬楽をなんとかしなくちゃいけない」
 って、黒門町へ話し合いに行ってくれたんですよ。そしたら、その時分の文楽さんてえ人は、もの判ったような判らなねえようなことを言って、
「馬楽さんには、新しくできる小さんの“おじさん”になってもらいたい」
 てったんで、“山春”が怒った。
「われわれのほうの業体(ぎょうてい)では、“おじさん”てえのは大変に重きをなしている敬称だけど、噺家のほうで“おじさん”て言やァ碌なもんじゃァない。そんな扱いかたってえのァないだろう」
 って言ったもんです。

 あの“山春”登場、である。

 三福の家の押入れの上と下とで寝ていた兄弟分のために、浅草の顔役が黒門町に駈け込んだのであった。
 それで一方、五代目小さんになったご当人てえものは、あのとおり大人(だいじん)ですから、
「あたしが辞退をして、馬楽さんにゆずるべきだ・・・・・・」
 ってことは・・・・・・言わないんですよね。大きいところがあるんですよ、あれァ、とど、
「じゃァまァ、馬楽さんのほうに、いい名前を先に襲いでもらって、そのあとから小さんをこしらえたい」
 つまり、あたしがそのまンまでいると、馬楽の名前が、小さんの上席へ、いやが応でもすわることになりましょう?だから、そういうことのないようにしておこう、という、ひとつの配慮といいますか、筋道ですよね。そういうことで妥協しましてね、さて、それではってんで、あたしに襲げそうな名前を探してみるってえと、その時分にあいてたのは、圓蔵、圓右、小勝・・・・・・というようなところですね。だけど、考えるとどれもこれもみんな、大したよりどころのある名前でしょう?圓蔵、圓右はもちろんのこと、小勝だってそうですからねェ。
 もっとも、小勝という名前は、あたしァ好きなんですよ。小勝のじいさん(五代目・加藤金之助)の行状には、倣っているつもりでもあり、また、小さんほどえらくなれなくとも、小勝にはなれそうだという気持ちもあって、かたがた好きなんですけどもねェ、どうもその、先代があんまり売れちまった名前はやっぱりいけませんでね、名前負けがして、四代目の小さんがそうですからねェ。馬楽でいた時分にゃァ評判はよかったんですよ。それが小さんになったら、やはり先代と比較されるから、知らない者はあんまり香(かん)ばしいことは言いませんよ。

 五代目小さんが、“あのとおり大人(だいじん)ですから”という表現は、なかなかに深いねぇ。

 ま、そんなことで考いているうちに、「じゃァ竹さんの名前を襲いでみたら」ってえことに思い当たった。
 竹さんてえのは、海老名竹三郎、今の林家三平のおとっつァんの林家正蔵・・・・・・この人が昭和二十四年に亡くなったんで、正蔵があいたんですね。竹さんは小三治から正蔵になった人だし、
「怪談噺を演るんだから、正蔵のほうがいいだろう」
 てえ意見もあって、急速にきまっちゃった。
 で、その時に、三平のうちへ正蔵の名前を貰いに行ってくれたのが、五代目の柳亭左楽(中山千太郎)さんと、死んだ紙切りの林家正楽(一柳金次郎)さん、このふたりがいっしょに行ってくれましたよ。竹さんが小三治から正蔵になるときにも、五代目の左楽さんが今西の家へ貰い行った因縁がありますし、正楽さんは今西さんのお弟子さんで、その辺のいきさつも知ってますから、それで行ってくれたわけなんです。
 
 当時の東京落語界の重鎮が五代目左楽。いきさつから左楽が行くのは道理かと思うが、初代正楽も同行してくれたんだねぇ。
 初代正楽については、貴重な戦争の記録である日記のことを含め記事にしたことがあるので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2017年8月21日のブログ
2017年8月22日のブログ
2017年11月13日のブログ

 さて、七代目正蔵未亡人との交渉は、どうなったのか。

 そしたら、未亡人、つまり今の三平のおっかさんが、やっぱり執着もあるしするから、
「うちには倅がいるし、いずれおとっつァんの名前を襲がせたいと思うから、正蔵の名前は、馬楽さん一代で返してほしい」
 まァつまり、貸す、という意味ですよね。前の時のいきさつを知ってる五代目や正楽さんは、
「それァ法にない事(こつ)で、納得の行かないとこだけど、まァまァ女の言う事(こつ)たし、いいじゃァないか」
 というようなわけで、五代目も、もう年齢(とし)で、折れてますから理屈は言わない。それで、あたしァ原稿紙へ借用書を書いて渡した、と、まァこれが一件の真相なんです。

 大きな名のまま旦那が亡くなると、その未亡人は、その名前を自分の財産だと思い、なんとか自分の子や可愛い弟子に継がせたいと思うのは、やはり人情なのだろうねぇ。

 しかし、紹介した内容にあるように、七代目正蔵の未亡人が、一代限りで返して欲しい、という言い分は、道理にかなうとは言いにくい。
 しかし、なんとか早く事を収束したかったのだろう、五代目左楽が七代目未亡人の希望を呑むと言ったのでは、正蔵も従わないわけにはいかなかったわけだ。

 とはいえ、“山春”は、こんなことを言っていた。

 その時に、あたしが、
「どうも借りたものは責任があっていけねえ」
ってったら、“山春”が、
「もう借りちまやァこっちのもんだよ」
「だって、一札、証文がはいってる」
「どんな神で書きゃァがったか知らねえが、今の上なんざァ、おめえ、十年もたちゃァもう書いたものは判らなくなるし、二十年たちゃァ紙のほうでぼろぼろンなる」
「そうは言っちゃァいられない」
 ってったんですがね。

 その後のなりゆきは、落語愛好家の皆さん、ご存知の通り。

 正蔵は、三平が存命中に、正蔵の名を返して、おじいさんの名、一朝を名乗ろうかとしたことがあるようだが、三平のとこから、「今、急に名前替えないで、よろしいまで正蔵でいてください」と言ってきたとのこと。

 しかし、まさか、あんなに早くその三平が亡くなるとは、正蔵も含め誰も思わなかっただろう。

 本書では、「正蔵代々」として、七代目から過去にさかのぼって、それぞれの正蔵のことが書かれている。

 せっかくなので(?)、代々の正蔵を並べてみたい。
 『古今東西落語家事典』なども参考にした。

    初代三笑亭可楽
       |
       |
   初代林屋正蔵
   *「可楽十哲」の一人
       |
       |----------------------------
       |             |
   二代目林屋正蔵          |
    *母が初代の後妻        |
     通称「沢善の正蔵」      |
       |       三代目林屋正蔵
       |        *初代の娘の養子
|---------------|         後の二代目柳亭左楽
|        |
|  四代目林屋正蔵
| *一時「二木家(ふたぎや)正蔵」と名乗る
|
|
---------------|
      |           二代目談洲楼燕枝
       |               |
      |               |
  五代目林家正蔵              |---------------------------
  *二代目門下。             |            |
   享年百歳           六代目林家正蔵          |
   通称「沼津の師匠」       *沼津の五代目の許しを得て  |
                    六代目を襲名        |
                                  |
                           ------------------|
                          |
                          |
                       初代柳家三語楼
                       *一時、二代目燕枝門下
                          |
                          |
                      七代目林家正蔵
                       *六代目の未亡人の
                        許しを得て襲名
 八代目林家正蔵                  |
  *師匠は、二代目三遊亭三福           |
  (後の三代目三遊亭圓遊)-            |
   四代目橘家圓蔵-                |
   三代目柳家小さん-               |
   四代目蝶花楼馬楽(後の四代目柳家小さん)   |             
  *七代目未亡人の許しを得て           |
   一代限りで名跡を借用             |
                       九代目林家正蔵
                      *七代目の孫。

 結構、縦の線を合わせるのに、苦労する^^

 初代からの筋で、正蔵の本家として継承されてきたと言えるのは、五代目までと言えるだろう。

 六代目、七代目、そして八代目は、先代の家族に了解を得ての襲名。
 九代目は七代目の血縁ではあるが、初代からの師弟関係は、すでに途切れている。

 だから、今の九代目を、林家の本家であるなどという指摘については、私は与しない。

 いろいろあった今回の三代目林家九蔵襲名騒動については・・・もうふれない。
 

 さて、『正蔵一代』からは、他にも紹介したいことはあるが、今回のシリーズとしては、お開き。

 長々のお付き合い、ありがとうございます。

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by kogotokoubei | 2018-03-30 12:18 | 落語の本 | Comments(0)
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 青蛙房『林家正蔵全集』別巻の『正蔵一代』から、四つ目の記事。

 三遊亭三福に入門した福よしが、旅で当時朝太と名乗っていた志ん生と出会ったことを、前回はご紹介した。

 さて、時代は、少し先に飛ぶ。

 「圓楽時代」から、“とんがり由来”をご紹介。

 とんがり由来

 あたしの“とんがり”って、あだ名もね、あれァ四代目が言いだしたんじゃァなかったかと思いますよ。
 もっとも、自分(てめえ)で言っちゃァおかしいが、あたしァ自分の事(こツ)で苦情を言ったことァあンまりなくて、おもに他人(ひと)のことでもって、とんがっちゃうんです。
 いつかもねェ、去年故人になった吉原の幇間の忠七、あの人をあたしがなぐっちまおうてえさわぎを仕でかしたことがある。

 四代目は、四代目小さん。

 この“さわぎ”は、忠七の幇間の師匠、桜川三孝が主催した温習会(おさらいかい)での出来事に端を発する。
 
 その時分のおさらいなんてえものは、朝の十時から始まって、まる一日ぶッとおして、夜の八時、九時までやって、手をしめてお開きにする。と、その開場まぎわになって、楽屋に弁当がない・・・・・・ってことンなった。そんな時にゃァ、それこそ天丼でもライスカレーでも、そういって取り寄せりゃァいいのに、そいつをその、忠七が、わざわざ弁松へ弁当を誂いたもんです。一百(いっそく)誂えた。そいつが届くうちにゃァもう、みんな帰っちゃうから、足りる足りないじゃァない、もう余りに余っちゃった。そしたらその、おだやかでものの判った三孝さんが、
「これァ無駄だなァ・・・・・・」
 って、そう言いましたよ。そィからあたしが承知をしない。忠七をなぐっちまおうってんで、吉原ィはいってった。もっともこっちァべろべろに酔ってたんですから、碌なもんじゃァない。すると、
「おいおい」
 って呼んだのが、浅草のやくざの山春で、それから、大慶という、吉原のやくざの溜り場みたいになってるすし屋へ行って、
「そんなに酔ってどこィ行く」
「酔ってるたってなんだって、忠七ってやつァふてえ野郎だ、弁当をあんなに誂えやがって・・・・・・これから行ってなぐっちまう」
「だけど、なぐたってしょうがねえ」
「どうしてもおれァやっちまう」
 って、そのすし屋の丸い小さな腰掛けをぶらさげて、戸外(おもて)へ出た。で、酔ってるもんだから、すぐ隣りのうちへ入(へえ)っちゃったんですよ。そのうちじゃァ驚いたってねェ。そうでしょう、べろべろに酔ったやつが椅子ゥひっさげてはいってきたんだから。
 とうとう忠七の居所ァ判らずじまいで、あとから心配して来てくれた人やなんかがあって、まァ当人にも会わないからなぐりもせず、ものもこわさず納まったんですがね。あくる日、そのすし屋の隣りのうちへ、最中の折かなんか持って詫びに行きましたよ。だから腹ァ立てると入費がかかるんです。そのくらいなら腹ァ立てなきゃよさそうなもんだが時々それをやるんですねェ。そんなとこから“とんがり”なんて言われたんでしょうね。

 弁松の弁当を誂えること自体は、決して忠七を責めることはできないだろうが、間に合わないことには、しょうがない。

 それにしても、当時の正蔵の勇ましい姿には、驚く。

 晩年、彦六のイメージから、酔って殴り込みをかける姿など想像し難いのだが、若き日々には、こんな威勢のいい江戸っ子だったんだねぇ。

 それにしても、すし屋のお隣は、びっくりしたことだろう。
 見知らぬ男が酔っ払いって、椅子持って乗りこんできたんだから^^

 さて、もう少し時間を進める。
 圓楽から蝶花楼馬楽を襲いだ時のこと。

 馬楽襲名

 あたしのうちに、馬楽になってからこしらいたワリを入れる財布があって、それに昭和四年としてあるんで、圓楽から馬楽に改名したのは、昭和四年だと思ってたんです。そうしたら、先日あるかたが、第二次落語研究会の番組のビラを見せてくれました。それをちょっとここへ写します。
 そうしてみると、あたしが馬楽になったのは、昭和三年五月てえことになります。

 その写しを、下に私も写す。
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落語研究会第二次第三回 
演 芸 会 番 組

    弥次郎       柳家小ゑん
    浮世床       柳家小せん
    竃怪談       三笑亭可楽
    岸柳島  圓楽改  蝶花楼馬楽
    松山鏡       三遊亭圓生
    居残佐平次     橘家 圓蔵
    粗忽の釘      春風亭柳橋
    ろくろ首 馬楽改  柳家小さん
    心眼        桂  文楽
    法華長屋      林家 正蔵

昭和三年五月第二日曜日(十三日)午前十一時半開場

   開場(神田区通新石町)  立 花 亭
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 先代の蝶花楼馬楽が四代目の柳家小さんとなり、空いた馬楽を圓楽だった正蔵が襲名、というダブル襲名だったことが、これで分かる。

 なお、トリの正蔵は、六代目の「今西の正蔵」。
 文楽は、もちろん大正九年には襲名していた八代目だが、すでに、評価が高かったことが、この出番からもうかがえる。
 圓蔵は、のちの六代目圓生で、義父であった五代目の後に出演していたんだね。
 可楽は七代目、「玉井の可楽」。

 ちなみに、小せんは二代目で、その後廃業し、落語協会の事務などを勤めた人。
 開口一番の小ゑんは、その後八代目の小三治。この人もその後、落語協会の事務になった。
  

 この「馬楽時代」に、あの人について、詳しく紹介がある。
 
 山春のこと

 空襲で死んだってえと、思い出すのは六代目一龍斎貞山ですねェ。大震災の少ゥしあとから、もうずっと、講釈師でありながら、落語界のほうに君臨して、席亭でもなんでも、ものの見事に押さえてたんですから、まァ政治力があったんでしょうが、寄席の講談としちゃァ芸もよかったてえことは事実です。
 昭和二十年三月十日の東京大空襲でやられて、隅田川へ落っこった死骸が、漂流したのを、人足が上げてトラックへ積んで、これを上野の山へ持ってって並べたもんです。そこへ、前にちょっと話が出た、浅草の顔役の“山春”が、焼け出されて上野の山へ逃げてって、つまずいたものがあるから、ひょいと懐中電灯を見たらば、貞山さんの死骸だってんですね。“山春”と貞山さんは仲がよくなかったんだが、ああいう場合には何か因縁ばなしみたいになっちゃうもんで、仲の悪いやつが見つけるってのァおもしろいもんです。

 この浅草の顔役“山春”は、五代目小さん襲名騒動の際に、活躍(?)することになる。

 正蔵によると、こんな人だ。

 この人は、本名を山田鉱次郎・・・・・・ペンネームみたいなもんで、山田春雄といったんで、“山春”ってのが通り名になったんです。芝に永寿亭という寄席がありまして、これァ落語の席じゃァなくて、浪花節(ふし)かなんかやってたらしんですね。そこの倅に生まれて、物ごころついてからお約束の道楽を始めたんで、株屋へ奉公にやらされた。そこをとび出してきて、今度ァあの、飯島という、露店商・・・・・・・デキヤですよね、その大親分のとこへ養子にやられたんですけども、そこも出ちゃって、浅草になんとなく居ついちゃった。
 テキヤのとこへ養子に行ってたから顔は広いでしょう。だから、浅草でも屋根屋の弥吉とかいう親分から何から残らず知ってるから、まァどこの身内というんでもなく、一匹狼みたいなもんですけども、人あたりはいいし、“ポンチ絵の羽左衛門”つったかなァ、ちょいと十五代目(たちばなや)にも似て見場はいいし、頭ァ切れるしで、そのうちに子分が大勢できて、かなり羽振りがよくなったわけです。

 株屋とテキヤをやっていた山春は、とにかくいろんなことを知っていたらしい。
 『牡丹燈籠』の「関口屋のゆすり」で、ゆすりに来た宮野辺源次郎を、逆に伴蔵がおどす時の啖呵、「おれなんぞァ悪いという悪いことは、二三の水出し、やらずの最中、野天丁半ぶったくり、ヤアのトハまで逐(お)って来たんだ」の意味を、すべて知っていたと正蔵は回想する。

 ちなみに、それぞれ次のような内容。
 “二三の水出し”は、白紙を水へつけて文字が出るようになっていて、二とか三とか決まった数字が出ると景品がつく、“やらずの最中”は、最中のからに数字がはいっている、どちらも、客から金を取って、決して勝たせない、いかさま。
 “野天丁半ぶったくり”は、祭りなどで野天でばくちをして、「おいおい、役人が来たぞ」と茣蓙(ござ)を引っ張って場銭(ばせん)をばらばらにして、あとでかき集める、という技(?)のこと。
 “ヤアのトハ”は、“ヤア”はヤァさまのことで、“トハ”は鳩のこと。鳩は人が来ると散るので、仲間が客が集まるまで人寄せをすること。

 正蔵いわく、うえつがたのことは知らなかったが、そういうことは、何でも知っていたとのこと。

 この山春、のちには、横田千之助という政治家や神田伯山の用心棒もしたらしい。

 ですから、浅草へ検事やなんかが視察にくるなんてときには、“山春”を通じて、新門の親分と会わせる。それから芸人が浅草で興行をやるときに、“山春”のうちの者が行ってる、と、あとから来た者ァ決して因縁をつけない、というような按配で。
 伯山さんなんかも、明治座とか、ああいう大きなところで独演会ばッかりよくやってましたから、“山春”はあれでずいぶん役に立ったんですね。

 正蔵と山春との付き合いは、師匠であった三福を山春が贔屓にしていた関係で、山春が株屋を飛び出した際、師匠の家にころがりこんだことから始まった。
 狭い師匠の家の押入れの上と下で寝ていた仲。
 山春は、正蔵を弟のように可愛がり、そのおかげで、長年浅草での仕事では、ゆすりやたかりの被害に遭わずにすんだ。

 山春は、その弟分のために、五代目小さん襲名の騒動で活躍(?)することになる。

 今回は、正蔵自身が威勢のいい喧嘩ッぱやい時分の逸話と、馬楽襲名の時のこと、そして“山春”のご紹介までで、お開き。


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by kogotokoubei | 2018-03-29 12:27 | 落語の本 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛