噺の話

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カテゴリ:落語の本( 202 )

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矢野誠一著『人生読本 落語版』(岩波新書)

 矢野誠一さんの『人生読本 落語版』(岩波新書)から三回目。

 「第二章 渡る世間に」の「勘当」から。

 さっそく、冒頭から引用。

 道楽が過ぎて勘当された若旦那が主役の落語がたくさんある。
 その勘当という言葉を、近頃あまりきかない。手もとの「国語辞典」で「勘当」をひいたら、
   悪行をして親や師が、子や弟子の縁を切ること。義絶。▽罪を勘(かんが)え、
   おきてに当てる意から。
 とあった。ちなみに「勘」には「罪を問いただす。実情を糾明して責める」の語意がある。
 へぇ、「勘」にそんな意味があるんだね。
 罪を考え(勘)、おそれを当てる、から「勘当」なんだ。
 
 この後、矢野さんはある言葉の謎解きに関して、こう書いている。

 若旦那が勘当されるくだりで使われる落語のくすぐりに、
   久離(きゅり)切っての勘当。どうも勘当というと胡瓜を切sますようで、
   あまり茄子や南瓜は切りません。
 というのがあるが、あの久離というのは久離と書くのが本当なのか、それとも旧離と書くほうがいいのか、落語家のなかでも博識で知られる三笑亭夢樂師匠にたずねたことがあった。かれこれ三十年以上むかしのはなしである。夢樂の答はこうだった。
「あれは久離でも旧離でもいいように字引には出てるけど、ほんとうは胡瓜なんだ。むかしは親が子を勘当するとき、胡瓜を半分に切って持たせる習慣があったの。お前に与えるのはこれっきりだというわけだ。いまでこそ一年中いつでも手にはいる胡瓜だけど、むかしは夏のものだったろう。だから勘当は夏ときまってたんだ。それが証拠に若旦那が勘当される落語は『唐茄子屋』にしても『船徳』『湯屋番』だって、季節はみんな夏じゃないか。胡瓜切っての勘当、あまり茄子や南瓜は切りませんようでってくすぐりにも、ちゃんとそれなりの意味があるのさ」
 なるほどなあと思った。

 三笑亭夢樂、なつかしいねぇ。よく、テレビで拝見したものだ。
 夢樂について、Wikipediaから引用する。
Wikipedia「三笑亭夢樂」

幼少時代に馬賊に憧れていたことから、1942年より単身中国北京へ移住。敗戦後帰国し、農林省開拓局に入局。
永井荷風を通じて正岡容を知り、その紹介で、1949年3月に5代目古今亭今輔に入門する。前座名は「今夫」。しかし、当の本人は新作落語、古典落語の概念をあまり知らずとりあえず今輔から提供を受けた新作の台本をやっていたが、ある日柳家金語楼から渡された新作の台本を「八っつぁん」「熊さん」に書き換えたことで今輔から叱責され古典路線の道に転向、1951年4月に新作中心の今輔門下から8代目三笑亭可楽門下へ円満移籍。翌5月、二つ目に昇進し「夢楽」と改名。1958年9月、真打に昇進。

『寄合酒』『三方一両損』『妾馬』などの長屋物を得意ネタとし、明るく軽妙で当意即妙な芸風から大喜利も得意とした。また、『お笑いタッグマッチ』(フジテレビ)、『ばつぐんジョッキー』(CBCラジオ)などのテレビ番組・ラジオ番組にも出演し、人気を集めた。

2005年10月28日、肺不全のため死去。80歳没。

 どこで永井荷風と縁があったのだろうか。
 五代目今輔門下から移籍(?)という経歴は、歌丸さんと共通している。
 私が大好きな八代目可樂の弟子。
 テレビやラジオのぼんやりとした記憶だが、たしかに、博識だったのだろうと思わせる。
 笑顔が印象的な人だった。
 長年「若手落語会」を開催し、志ん朝や談志も重要な修行の場となっていた。

 その夢樂の謎解き、矢野さんが信じたのも、むべなるかな、なのだが、後日談。

 奥が深いと思って風俗史に関するいろいろの本をあたって勘当のことを調べてみたのだが、どこを探しても胡瓜を半分に切って渡す風習についての記述は見当たらない。思いあぐねて藝能と民俗学に関する篤学の士、日大教授永井啓夫にたずねてみたら、言下に、
「矢野さん、そりゃあ夢樂さんにからかわれたんですよ」
 ときたもんだ。

 矢野さん、まんまとかつがれたのだが、「不愉快な思いがまったくなかったばかりか、むしろ不思議な爽快感を覚えた」と書いている。

 それにもしからかわれなかったら、なんの役にもたたない勘当の風習について、あんなに調べることもなかったはずだ。
 勘当されると、奉行所や代官所に届出されて人別帳から除籍されるが、これはいわゆる本勘当というやつで、単に口頭や文章で言い渡されるのは内緒勘当と言って、法的効力はなかった。落語の若旦那のされる勘当は、たいていこれだ。勘当すると親のほうは、子供のしでかした不始末に関して、一切の責務をまぬかれた。問題の胡瓜ならぬ久離あるいは旧離だが、これは失踪中や別居中の子供との関係を断絶することで、欠落久離として勘当とは区別されていた。新時代明治をむかえて法的には廃止された勘当だが、法的に根拠のない私的な勘当は、いまでもまったく姿を消したわけではない。

 こうやって勘当の種類や久離のことを、矢野さんから教わることができるのも、夢樂が矢野さんを見事にからかってくれたからと言えるだろう。

 この後、道楽が過ぎて勘当された若旦那の噺の多くで若旦那に反省の色が見えないのだが、『唐茄子屋』だけは違う、としてそのあらすじの一部を紹介している。

「お天道様と米のめしはついてまわる」
 と威勢のいい啖呵をきって家をとび出したまではよかったが、たよりにしていた吉原(なか)の花魁にはそでにされ、あっちへ二日、こっちに三日の居候も実家のほうから手がまわってながくはつづかず、二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなって、二日三日と食うや食わずでほっつき歩いた身に、ついてきたのはお天道さまばかり。暑い土用の日盛りの大川に、とびこんじまえと佇んだところに出くわした叔父さんに助けられる。この叔父さんなる者が、若旦那の了見を入れかえてやろうと思ってことにあたるから、なかなかに手きびしい。

 この若旦那、その本気度には疑問もあるが、一度、死を覚悟しているという点で、確かに他の若旦那勘当ばなしとは、違うなぁ。

 そして、あの叔父さんの存在も大きい。

 あくる朝は、はやくからたたき起して、薄ぎたないなりで天秤棒肩に唐茄子売りに歩かせる。なにせ箸より重いものは持ったことがなく、茶屋酒のしみこんだ身に、いきなりこういうつらい仕事をさせて、根性をたたきなおそうという荒療治でもって、働くことの尊さを教えるのである。

 叔父さんが登場してから、この噺は、骨格がしっかりしてくるように思う。
 
 矢野さん、もう一人、この噺の登場人物のことを書いている。
 
 落語には本筋に直接かかわりを持たない、たくみなエピソードが用意され、作品の効果を高めてくれる例が多いのだが、この『唐茄子屋』に出てくるお節介やきの職人などは、そんなエピソードのにない手として、じつにいい役どころをつとめている。姓名のほどは不詳だが、数ある落語の登場人物のなかでも私の好きな男のうち、五本の指にいれたい存在だ。

 まったく同感。
 唐茄子を積んだ天秤棒をかついでやって来た田原町。つまづいて転んだ若旦那から事情を聞いて、長屋の連中に唐茄子を売ってくれるあの男、好きだなぁ。
 
 矢野さん、この話を、こう結んでいる。
 勘当されたことによって、若旦那はひとの情を知ったわけで、言い変えれば初めてほんとうの世のなかに出たことになる。荒療治ではあるが、勘当もときには人生のお役に立つのだ。

 たしかに、一人で暮らし、社会の厳しさを経験することは、重要だ。
 私も、大学入学から一人暮らしをすることで、親の有難さを身に染みて感じた。
 勘当、ではなかったけどね^^
 
 もし、親の手に余る子供が、今の世で勘当されたら・・・・・・。

 田原町のあの男や、あえて厳しく働くことの価値を教えてくれる叔父さんのいない現代では、なかなか難しい問題ではある。

by kogotokoubei | 2019-02-23 18:20 | 落語の本 | Comments(0)
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矢野誠一著『人生読本 落語版』(岩波新書)

 矢野誠一さんの『人生読本 落語版』(岩波新書)から二回目。

 本書は大きく次の四つの章がある。
 1.命あっての
 2.渡る世間に
 3.金は天下の
 4.遊びをせんとや

 各章に、七つから八つの話がある。
 その話に登場する落語のネタは、巻末の索引によると、約八十。

 では、「第一章 命あっての」の中から、「墓碑銘」の内容をご紹介。

 乱雑をきわめた仕事机の片隅に、窮屈そうにファクシミリ兼用の電話器が置かれている。それでなくても機械音痴のアナログ人間といたしましては、ずいぶんと長いあいだダイヤル式の電話器を愛用していたのだが、必要にせまられてファクシミリを購入したのを機に、居間にあった電話器を仕事机に移したわけだが、おかげで仕事中に電話が鳴ってもいちいち机から離れる手間がなくなった。
 その仕事中にかかってくる電話だが、ご多分にもれず勧誘、宣伝、セールスに関するものがすこぶる多い。やれ資産運用だの、不動産だのと、縁なき衆生にいくら甘い言葉をささやいても、効果のないことがわかっていそうなものなのに、どこの名簿で調べたか、ちゃんとこちらのフルネームなど呼称して電話の相手をたしかめるあたり、ご苦労さまなことである。

 いまや、携帯あるいはスマホの時代だが、本書の書かれた2008年頃を考えると、たしかに、宅内の電話に時たまかかるのは、セールス関連がなんと多かったことか。
 そのセールスの中でも、私の経験でも、マンションの次に多かったのが、矢野さんが次に書いている、ある商品(?)についてであった。
 
 そんな電話のなかで、近頃めっきり増えてきたのが墓の勧誘である。先様の商売とあって、当方が相応の年齢になっていることまで、先刻調査済みなのである。せっかく調査してくださったお墓の業者には申し訳ないが、自分の墓と言い切るほどのものではないにしろ、一応私と私の配偶者には死んでから入れる場所がある。
 入会している日本文藝家協会の「文学者之墓」というのが富士霊園にあって、そこに江國滋といっしょに生前手続きをすまでたのが1991年のことだった。「文学者之墓」というのは、日本文藝家協会員のお墓のアパートみたいなもので、埋葬者名と代表作、死亡年月日と年齢が刻字されるのもで、江國滋とならんでわが名が赤字で刻まれている。隣人ともいうべき江國滋は97年8月に世を去って、赤い碑銘が黒になった。

 落語評論で私が敬愛する江國滋さんと矢野誠一さんのお墓が、隣同士なんだぁ。

 さて、この後に落語『お見立て』のあらすじが簡潔に紹介された後をご紹介。

 喜助が杢兵衛に「お見立て」を願った墓碑には、もっぱら戒名だの俗名だのが刻られていて、最近ではこの国の墓地でもしばしば目にするようになった墓碑銘の記されたものはない。
 その墓碑銘だが、ハンフリー・ボガートの墓石には、「おれに用があるときは口笛を吹いてくれ」と記されているそうだ。いかにもハードボイルド・タッチの映画でならした彼らしく、他人が選んだにせよ、生前自分できめていたにせよ、こんなにふさわしい墓碑銘はないと、そう思った。
 ところがこれが嘘なのである。嘘というのは、都筑道夫に「寄席番組の変った楽しみ方に関するささやかな報告」というエッセイがあって、このなかで、伝えられているような墓碑銘がボギーの墓には記されていないことを、実際に墓地まで足をはこぶことなく、日本で手にいれたさまざまな資料にあたって考証するのだ。
 都築道夫の調査によると、なんでもボガートの愛西ローレン・バコールが、ボギーからプレゼントされた純金製の呼子笛を、涙ながらに骨壷におさめたはなしが誤り伝えられたものだという。呼子笛には「なにか用があったら、これを吹くだけでいいのよ」の文字が刻まれていたというのだが、それがくだんの墓碑銘にすりかえられたのがことの次第だそうだ。
 嘘ではあっても、この「おれに用があるときは口笛を吹いてくれ」という墓碑銘は、いかにもハンフリー・ボガートにふさわしく、この役者の風姿をしっかりとらえて離さない。

 たしかに、ボギーにふさわしく、まんまと騙されるネタである。

 ローレン・バコールのデビュー作『脱出』(1945)で、ボギーとバコールは初共演しているが、この映画では、バコールがボギーに口笛の吹き方を教えるという場面のことが有名らしい。

 墓碑銘の風説は、そういう背景も含めて、広まったのかもしれない。

 それにしても、今のようにネットでいろいろ調べることの出来ない時代に、都筑道夫は、現地へ行かず、どうやって風評の誤りについて調べることができたのか。
 そのエッセイを、ぜひ読みたくなったなぁ。

 ちなみに、都筑道夫については、昨年7月に、『志ん生長屋ばなし』(立風書房)の解説から、兄の鶯春亭梅橋のことも含めて紹介した。
2018年7月11日のブログ

 
 
 さて、このあと矢野さんは、日本文藝家協会の墓に刻字できる代表作の名を明らかにしている。

 どの作品かは、実際にこの本でお確かめのほどを。


 この話からは、まことしやかな話も、実は自然と出来上がった風評や、巧妙な嘘の場合がある、ということがボギーの墓碑銘のことで学べる。

 そして、二人とも大好きな落語評論家でもあり名エッセイストでもある矢野さんと江國さんのお墓が、隣同士であるということを知ったことも収穫だった。


 私を富士霊園に行く気にさせないよう、矢野さんのお墓の名が赤いままで長く続くことを祈っている。
by kogotokoubei | 2019-02-22 12:36 | 落語の本 | Comments(0)

 すでに記事で紹介したつもりでいたが、まだだった、と最近になって気づいた本がある。

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矢野誠一著『人生読本 落語版』(岩波新書)

 矢野誠一さんの『人生読本 落語版』は、岩波新書から2008年に発行された。
 Amazonのレビューも最初に書いたし、当然、拙ブログでも紹介済みと思っていたが、まだだった。

 ということで、遅ればせながら、この本より、いくつか紹介したい。

 まずは、第一回目なので、マクラ的な内容を紹介する。

 「あとがき」で、矢野さんが、岩波の編集者との酒席で、この本の企画について話したのが、発行の七年前のことだったと振り返っている。
 酒席で「どんなに遅くなっても来年には」と2001年の秋に口約束していたものの、その後に芝居を観るために費やす時間が増えたりし、つい、七年の年月を経て、ようやく、『エノケン・ロッパの時代』に続く岩波新書の矢野さんの本が、陽の目を見たとのこと。

 「はじめに」から。

 若い頃、ずいぶんたくさんの本を読んだ。古今東西の名著をかたっぱしからという感じで、高校を卒業するまでに、岩波文庫緑帯(近代・現代日本文学)を全巻読破する計画をたてたりして、七割方達成したのではなかったか。
 それだけ乱読していながら、思想書、哲学書、なかんずく人生論にはまったく目を通さなかった。小説でも、人生論じみたテーマのものは最初から敬遠してきた。生きることなんて、誰もがやっているし、誰にでもできることだから、ことさらそれを論じるまでもないだろうという、若さゆえの不遜な考えをいだいていたようだ。若さゆえと、たったいま書いておきながら、気がついてみれば私はいまだにそんな思いを持ちつづけている。要するに人生論がきらいで、考えなしのその日その日を過ごしながら、この年齢(とし)まできてしまったことになる。
 だからと言って、時世時節移り変りの激しいひとの世から、なにも学んでこなかったわけではない。乱読してきた書物は無論だが、夢中になってた芝居と映画、それに多くの師や先輩、友人、知己とのつきあいなど、学校の教室以外のところで、どれだけたくさんの、それもきわめて大切なことを教えられたか、はかり知れない。小むずかしい人生論など読まなくても、身につくものはいくらでもある。

 矢野さんは、昭和10(1935)年生まれ。
 ちなみに、麻布中学から麻布高校を卒業し、大学受験に失敗した後、文化学院に進んだ。

 岩波文庫緑帯の七割・・・凄いねぇ。

 引用を続ける。
 そんな、私にとってのほんとうの人生の教師役をいま思いかえして、まだ若くて感受性のゆたかだった時代に出会うことのできた落語の影響を無視するわけにいかない。まだ若くて感受性のゆたかだった時代というのか、ものごとに影響されやすい時代でもあって、その意味で言うならば、私は落語の世界を、しごく単純、率直、そして無批判に受けいれてしまったような気がする。受けいれっぱなしでここまできてしまった。

 これ、私も同じような思いがある。

 小学生の頃から、テレビ、ラジオの漫才、落語なごが好きで、高校で興津要さんの『古典落語』に遭遇し、続編の発行を心待ちにしていた。
 
 高校の運動部の先輩が卒業する際の予餞会では、落語を披露していた。

 大学受験勉強はラジオの深夜放送を聞きながらだったが、落語が始まると、手が止まってしまい、笑いっぱなし。
 特に、金馬、志ん生が好きで、圓生は、どうも苦手だった。

 私も、落語を目一杯、“受けいれっぱなし”だったなぁ。

 最後に、このシリーズのお題の由来を含む部分を、引用。

 私は落語から多くのことを教えられた。けっして世のため、ひとのためにはならないが、貧しいながら楽しく人生を送るすべを学んできた。古今亭志ん生がしばしば口にした、
「こんなこと学校じゃ教えない」
 のひと言は、まさに教育の妙諦で、その意味でも八代目桂文楽、五代目柳家小さんなどなど綺羅星のごとくにならんだあの時代の寄席は、私にとって最高の教室だった。春風亭小朝が麒麟児よろしく颯爽と登場してきたとき、「小朝をどう思いますか」と訊ねられ、「文楽・志ん生から人生を教わった者が、いまさら小朝ごときから人生を教わりたくない」と答えて顰蹙を買い、いささか反省もしたが、本音だったことにお間違いはない。
 それにつてもと思うのだ。
 大世紀末を、前倒しならぬ後倒ししたような、昨今の地に堕ちた世情を見せつけられると、石油を使うことなく、テレビとも、パソコンとも、携帯とも無縁の、不便で貧しくはあってもこころ豊かだった落語の世界から、あらためて人生を学びなおしてもいいのではあるまいか。

 志ん生の名科白、廓ばなしのマクラなどで、よく使っている。

 すでに書いたように、本書の発行は、2008年。
 それから、十年余が経過した。

 “大世紀末”を“後倒し”したような“地に堕ちた世情”は、変らない。

 いや、悪化するばかりではないか。

 ということで、次回より、本書を元に、あらためで落語から人生を学びなおそうと思う。
by kogotokoubei | 2019-02-20 21:27 | 落語の本 | Comments(2)
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春風亭栄枝著『蜀山人狂歌ばなし』
 
 平成9(1997)年、三一書房から初版発行の、春風亭栄枝著『蜀山人狂歌ばなし-江戸のギャグ、パロディーの発信源-』から三回目。

 蜀山人は、山東京伝と、同時代の人である。
 山東京伝は宝暦11(1761)年生まれだから、寛延2(1749)年生まれの大田直次郎は、ちょうど一回り上。
 栄枝は、この二人の逸話を紹介してくれている。

 ある時、大田南畝が山東京伝を訪ねた時のことでした。
 京伝がまだ二十二歳という青年時代に、自分の作品を南畝に絶賛され流行作家としてデビューしているのです。もちろん、南畝の訪問を受けた京伝は酒と肴でもてなしたのはいうまでもありません。
 この時、酒の肴に出てきたのが、茄子のしん焼きです。茄子に油をつけて焼いたものですが、味噌がぬってあり、これに串を刺してあります。この茄子の形をよく見ると、シギという鳥に似ているので、「茄子の鴫(しぎ)焼き」などといいます。しかし江戸風の言い方では、「茄子のしん焼き」、江戸料理では有名なものだといいます。

 ところで南畝先生は、はしを持ってじーっと見つめていましたが、「どうでしょうね・・・・・・この茄子のしん焼きで、ひとつ狂歌を詠んでみましょう」とおっしゃいました。

  小娘も はやこの頃は 色気付き
    油つけたり 櫛(串)をさしたり

 閃きです。こういう風に閃いたのです。
 ところが、ところがどうして、相手をしていた山東京伝はこれ以上にもっと閃いたのです。

  油つけ 櫛(串)をさしたは よけれども
    色が黒くて 味噌をつけたり

 才人同士の、なんとも見事な応酬ではないか。

 この本の著者の栄枝も、なかなかの才人と思った部分をご紹介。

 以前、私は自分の落語会で、「自分史」を漫談風に演ってみたことがありました。
 この時、この漫談風自分史にどういう題をつけようかといろいろ考えたあげく、どうせなら面白い題をつけてプログラムに載せようと思いました。
 そうしてできあがったのが、『ぼくの細道』。
 われながら実にいい題だと思ったし、他人もまたほめてくれました。

 もちろんこれは、「奥の細道」のパロディ。
 なかなかのものだ。

 まだ、栄枝の『ぼくの細道』を聴いたことがない。ぜひ、どんな道だったか、聴いてみたいものだ。

 蜀山人も、パロディの大家。
 有名な和歌などを見事に料理してみせる。

 次によく知られている歌をご紹介します。

  夕されば 野辺の秋風 身にしみて
    うずら鳴くなり 深草の里

 これは和歌の神様ともいわれ、また藤原定家の父親である藤原俊成の有名な歌です。
 なんともの寂しくなる歌ではありませんか。夕方が過ぎ、うずらの鳴き声を聞く頃、いっそう秋風が身にしみてくる、といったような意味なんでしょうか。
 これを、さっそく大田南畝先生はパロっちゃいました。まあ、見て下さい。

  ひとつとり ふたつとりては 焼いて食ふ
    鶉なくなる  深草の里

 こっちの南畝先生のほうは、うずらを一つ二つと焼き鳥にして食べてしまい、だんだん無くなっちゃったという意味でしょう。俊成のほうは、「鶉が鳴く」、南畝は「鶉が無く」と変えてしまっているのです。
 いかにも南畝先生の面目躍如といったところです。


 こういう遊び心、好きだなぁ。

 無理を承知で、南畝の作を元に、こんなのを作ってみた。

  ひとつとり ふたつとりては 眠るフリ
    譲らなくなる 電車の座席

 日光の手前か^^

今回はこれにてお開き。
by kogotokoubei | 2018-12-04 20:27 | 落語の本 | Comments(0)

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春風亭栄枝著『蜀山人狂歌ばなし』
 
 平成9(1997)年、三一書房から初版発行の、春風亭栄枝の『蜀山人狂歌ばなし-江戸のギャグ、パロディーの発信源-』から二回目。

 栄枝が、落語に魅了されていた頃のことから。

 それはもう、三、四十年前のことになります。
 昭和三十年代の頃は、私はすでに、落語、落語・・・・・・落語でなければ夜も日も明けない毎日でした。
 朝から晩まで、もう頭の中は落語一筋の落語のことだらけ。落語家にどうしてもなりたくて、あちこちの寄席ばかりに行っていました。
 当時、地元の巣鴨の高校に通っていた私は、学校が終わるとカバンを家に放り出して、入場料が五十円の池袋の演芸場や上野の鈴本演芸場にすっとんでいったものです。
 その後、親のすすめで大学に通うのですが、これも数ヵ月籍を置き、教室で先生の講義も聴いたが、どうも耐えられないものでした。
 ところで当時の寄席は、後に昭和の落語史に名を残すような大看板が出て、強烈な個性で高座が賑わっていました。
 例えば、私を弟子にしてくれた春風てい柳枝、さらに古今亭志ん生、桂文楽、三遊亭圓生・・・・・・。
 そしてそこで私はいろいろと感じたことの一つに、日本語はこうも面白く話すことのできる言語なのかと、ついつい大学の先生の話と比較してしまったりしたものです。どだいそんな比較のナンセンスなことは承知していますが・・・・・・。大学の先生ごめんなさい!

 この本では書かれていないが、栄枝の父親は、苦学して師範学校に行き教員となって、校長まで務めた方で、栄枝が落語家になりたいと言うと、大反対したらしい。

 大学をすぐに中退した時は、結構、大変な騒ぎになったと察する。
 
 昨年、産経の「父の教え」というシリーズで栄枝の記事が掲載された。
産経ニュースの該当記事

 少し引用。
明治生まれの父は、幼い頃からしつけに厳しかった。書道で栄枝さんの筆に癖を発見すると、容赦なく鞭を振るって矯正した。儒学者、頼山陽の漢詩を口ずさみ、新渡戸稲造の教育論を熱く語り、常日頃から「学問が大事」と言い続ける厳格な父は、大きく怖い存在。反発するというより、落語やロックが好きな自分が認められるはずはないと思い込んだ。

 結構、長い記事なので、ご興味のある方は、ご覧のほどを。
 最初反対したものの、その後、お父上は、栄枝をさまざまな形で強力に支援することになるのだが、いいんだよね、この明治生まれのお父さんが。

 産経、こういう記事は、悪くないんだけどなぁ。

 本書からの引用を続ける。

 落語のマクラで、川柳や諺、語呂合わせの洒落、都々逸、小唄・端歌の文句にいたるまでが自在に飛び出して、それが私には実に新鮮に聞こえてくるのがとても不思議でした。
 ある師匠などは、高座に座ってペコリと頭を下げてから、「ええ、蜀山人の戯れ歌に・・・・・・」といってしゃべり出します。「なんだろう・・・・・・しょくさんじんって?」「ざれ歌?って、一体なんだろう?」。家のい帰ってからも、「しょくさんじん」「ざれ歌」がいつまでも頭にひっかかって離れないのです。それに、「しょくさんじん」という音も耳に響く感じからすると、きっと一日中、洒落や冗談を喋ってばかりいて、いつもみんなを笑わせている愉快なおじいさんなのかもしれない、と考えたりする日が続くのでした。

 たしかに、「しょくさんじん」という言葉の響きは、仙人や高齢の隠居をイメージさせるものがある。
 ちなみに、私は魯山人と蜀山人を一時混同していた頃がある^^

 さて、落語に魅入られた十代の若者は、大学を中退し、落語の世界に飛び込んだ。

 やっと入門できたのが、八代目春風亭柳枝師匠だったのです。
 持ちネタの中に、「野ざらし」や「花色木綿」は大爆笑をとったものです。それに「狂歌家主」という噺があります。私は大好きでした。暮れになって家賃が払えなくなった八っつぁんが、一計を案じました。日頃、狂歌が好きで好きでたまらない大家さんに、自分も狂歌が好きになったと言い訳すれば、家賃を待ってくれるに違いないと思い、とてもメチャクチャな言い訳をするという噺で、年の瀬の雰囲気がよく出ていました。
 この噺のマクラに次のような狂歌があります。

   味噌濾しの 底にたまりし 大晦日
     越すに越されず 越されずに越す

 「狂歌家主」は、「掛け取り」の狂歌の部分を独立させた噺。
 そろそろ、聴く季節になってきたねぇ。

 私は、八代目柳枝が大好きなので、この本を読んで、栄枝も好きになってしまった^^
 また、柳亭小痴楽が、落語家になったきっかけに、柳枝の「花色木綿」を聴いたからと知って、小痴楽を一層応援したくなった。

 なお、八代目柳枝については、拙ブログ開始間もない頃に、談志の本の引用を含め、記事を書いた。ご興味のある方は、ご覧のほどを。
2008年6月27日のブログ

 柳枝に入門した栄枝は、落語に限らず(それ以上に?)、狂歌を深く知ろうとするのだった。

 今回は、このへんでお開き。

by kogotokoubei | 2018-11-30 12:58 | 落語の本 | Comments(4)

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春風亭栄枝著『蜀山人狂歌ばなし』
 平岩弓枝の『橋の上の霜』との関連から二度記事にしたが、あらためて、狂歌、なかでも蜀山人が大好きな落語家、春風亭栄枝の『蜀山人狂歌ばなし-江戸のギャグ、パロディーの発信源-』を紹介したい。

 平成9(1997)年、三一書房から初版発行。

 もう少し後で記事にしようと思っていたが、再読したら、早く記事にしたくなった。

 「まえがき」から。

 振り返ってみると、落語家になってから、アッという間に三十数年がたってしまった。
 その長い年月の間に、寄席で多くの先輩や大看板の師匠連に接することができたのは、なんともありがたいことであった。今、こうしていても、あれも聞いておきたかった、それからこれも聞いておきたかったと思うことしきりである。 
 そんなことを考えたりしていると、寄席の楽屋でお茶を出していた前座や二つ目の頃が、つい昨日のように錯覚してしまいそうだ。

 前後するが、巻末などを元にプロフィールをご紹介。
 栄枝は、昭和13年、東京は豊島区の生まれ。昭和32年に高校卒業後、八代目春風亭柳枝に入門。
 この生年と入門年、古今亭志ん朝と、同じだ。
 柳枝没後、八代目正蔵に師事。林家枝二と名乗る。昭和48年に枝二で真打昇進。
 ちなみに、志ん朝は、入門から5年、昭和37年に抜擢され真打昇進していた。
 昭和57年に彦六没し、翌年、七代目春風亭栄二を襲名。
 ライフワークとして、海外の日系人に落語を語りながらの「落語大使の旅」を続けている、と巻末にあるが、今も続いているかは不明。
 この「落語大使の旅」の途中、アメリカで百栄は栄枝と出会っている。

 「まえがき」の引用を続ける。

 私は今でも、修行中の身なのだが、もっと若かった修行時代に、落語のマクラで狂歌の存在を知り、それから狂歌が頭から出ていかないのである。その狂歌も、私は江戸の天明の狂歌こそが、落語にもっとも近い文芸だと思っている。
 幸い?にも私は、人気落語家でもなく、けっこう暇があるので、あまり多くの人の目に触れないような些細な文にまでも、狂歌にぶつかった時は、こまめみ書きためておいた。
 ところで、狂歌といえば、どうしても蜀山人ということになってしまう。
 なぜだろうか?
 たいがい、傑作でかわりやすい狂歌には、必ずといっていいほど「・・・・・・と蜀山人が詠んだ・・・・・・」となってしまうのである。
 私は、こうしたことに多少の疑問を持ち、いろいろ調べ始めた。調べ始めると狂歌や蜀山人への興味がふくれあがってきた。そして、蜀山人とその時代をどうしても書いてみたくなってしまった。なっていったが、喋ることさえ十分でない私にとって、まさに大それたことなのであった。

 この「喋ることさえ十分でない私」という部分、笑ってしまう。

 私が栄枝を最初に聴いたのは、2011年9月の末広亭。
2011年9月17日のブログ
 長めのマクラと『鼓ケ滝』。なんとも、飄々とした高座だった。

 そして、昨年、二代目志ん五の浅草での襲名披露興行での『都々逸坊扇歌物語』は、最初の印象を覆す、好高座だった。
2017年10月16日のブログ
 狂歌のみならず、川柳も、そして都々逸にも興味があるからこその、あの高座だったのだと思う。

 さて、「まえがき」の後半。

 江戸の文学を語る上で、どうしても避けて通ることのできないのが蜀山人。
 つまり、大田南畝なのである。
 (中 略)
 私は、蜀山人の狂歌こそが、江戸人のユーモアと反骨、洒落と滑稽、機知と頓智の発信源ではにかと思っている。
 本書は、この南畝・蜀山人とその狂歌にまつわる話を中心にしながら、私の修行時代のこと、また私が日頃あれこれ思っていることなどをまじえながらまとめたものである。
 どうか最後までおつき合いのほどを願います。

 初回は、これにてお開き。

 この記事も何回になるか、まったく分からないが、どうぞ、おつき合いのほどを。
by kogotokoubei | 2018-11-29 12:47 | 落語の本 | Comments(0)
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 少し間が空いたが、和田誠さんの『落語横車』から三回目。

 和田さんは映画についてのエッセイで有名。

 「落語と映画・芝居など」の章から、私の大好きな「幕末太陽伝」に関する部分をご紹介。この本、初版は昭和55年。

 数人の若手落語家と「幕末太陽伝」の話をしたことがある。みんな観ていたし、それぞれに感心したらしい。中には「あの映画を観て、落語が好きになったんです」と言った人もいた。ただし、別の機会に立川談志さんに、「『幕末太陽伝』よかったね」と言ったら、「へえ?そうかい」と言われてしまった。その日はすぐ別の話になったので、へえ、そうかいの意味をきくヒマがなかった。別の話というのはアメリカのミュージカル談義で、談志という人物は、こと「芸」に関してなら落語に限らず、日本の芸能に限らず、フレッド・アステアのタップからドナルド・オコーナーのとんぼ返りに至るまで、とにかく好きで、好きというより惚れ込んでいて、夢中になって語るのだ。
 いずれチャンスがあったら「幕末太陽伝」の話の続きをしたいと思うが、今、ぼくはぼくなりに談志さんの言ったことを勝手に解釈してみよう。

 いったん、休憩。
 川島雄三生誕百年ということで、さまざまなイベントがある中で「幕末太陽伝」に縁のある噺の落語会があることを、6月に拙ブログでお知らせした。

 11月4日までの開催だったが、結果として、私は行かなかった。

 プレゼント付きとはいえ、4,800円と木戸銭が高いと思ったことと、川島雄三が空の上で喜ぶのかどうか疑問を感じたこと、加えて、スケジュールが合わせにくなかったということもある。

 さて本書に戻る。
 和田さんは同じ昭和11年生まれの談志の思いを、どう解釈したのか。

 つまり、彼は落語が好きだ。落語に惚れ込んでいる。たった今、落語に限らず「芸」なら何でも好きだと書いたばかりだけれど、中でもとりわけ落語には心底惚れ込んでいると断じていい。すると、「幕末太陽伝」がどんなによく出来ていようと、例えば三遊亭円生が「居残り佐平次」をやり、古今亭志ん生が「三枚起請」をやり、三笑亭可楽が「品川心中」をやり、それが一度に聴ける高座があったとしたら、それは映画を観るより余程いいじゃねえか、と言うのじゃないかしら。もしそう言われたら、いや、やっぱり映画がいいぜとぼくには反論できないのである。そう言っちゃミもフタもないとおっしゃる人もいるかも知れないが、やはり落語はそれほど大きなものだろう。

 和田さんの推測は、たぶん半分当っているように思う。
 私が思う、もう半分の理由は、談志が川島雄三という映画監督にあまり良い印象を抱いていなかったのではないか、ということ。

 正岡容に代表されるが、川島雄三を、落語界から桂小金治さんを奪い去った憎い男、と思っている人は少なくなかっただろう。

 そんな思いも、「へえ?そうかい」という言葉の背景にあったのではなかろうか。
 円生も志ん生も可楽もいない平成の落語界だが、この度の企画では、誰がどんな噺を演じたのか。
 「お江戸@マーク」のサイトを見ると、噺家さんの演じたネタは、次の通りだったらしい。
「お江戸@マーク」のサイト

 
柳家喬太郎 「品川心中」「文七元結」
春風亭一之輔 「五人廻し」「付き馬」「お見立て」「居残り佐平次」
桃月庵白酒「文違い」「付き馬」「明烏」
立川志らく「品川心中」
立川志らら「お見立て」
橘家文蔵「文七元結」
柳家わさび「亀田鵬斎」
神田松之丞 天保水滸伝より「潮来の遊び」「青龍刀権次」

 
 この映画については、ずいぶん前、二谷英明の訃報をきっかけに記事を書いた。
2012年1月9日のブログ
 
 その際に、私が記した、あの映画に登場するネタは次の通り。

(1)居残り佐平次
(2)船徳*相模屋の倅の名が徳三郎、ということで。
(3)明烏
(4)品川心中
(5)三枚起請
(6)文七元結
(7)五人廻し
(8)お茶汲み*こはるが客を騙す“うそ泣き”をする
(9)付き馬
(10)お見立て
(11)たちきり*相模屋の若旦那徳が座敷牢に入れられる

 あら、「文違い」が入っていない。
 う~ん、どこにあの噺を連想する場面があったっけ。
 佐平次が花魁たちの手紙の代書をするというのも、居残り、と言えるだろうし。

 もしかすると、廓噺ということでの選択かもしれないが、「文違い」の舞台は、品川ではなく新宿だなぁ。

 また、今回の企画では、「文七元結」「品川心中」「お見立て」「付き馬」が重複しているのだが、「お茶汲み」と「たちきり」はともかく、「三枚起請」がない。
 これは、残念だ。

 また、松之丞の天保水滸伝が、どうこの映画につながるのだろうか。
 
 江戸の元号でつながっているが、藤本義一さんの『生きいそぎの記』に関する記事で、川島とフランキーが、写楽を主人公として「寛政太陽傳」を作る約束をしていながら叶わず、川島の遺志をフランキーが継いだことを紹介した。
 あくまで、写楽の映画。

 そういった構成への疑問も、俳優座に足を運ぼうとしなかった理由の一つかな。

 行かなかったくせに、小言を書いていることは、平にご容赦のほどを。

 さて、和田さんの本に戻る。
 落語と音楽のことから。

 音楽の世界では、「たらちね」がオペラになっているそうだが、ぼくは聴いていない。デュークエイセスが「寿限無」「長屋の花見」などを歌にして歌っている。出来のいいのは「長屋の花見」で、リーダーが大家、ほかの三人が店子に扮し、いくらかセリフも混えながら、もちろん主としてはコーラスによって組曲ふうに綴って行く。コーラス・グループが落語に取り組んだ実験精神を大いに買いたい。しかし、やはり落語のような笑いは取れないのがちょっとつらいところ。

 デュークエイセス、懐かしい。
 結成は、私が生まれた昭和30年。昨年、惜しまれながら解散。一昨年にはダークダックスも解散しているので、残るは、ボニージャックスのみ。
 
 引用を続ける。

 ミュージカルでは「死神」があった。これは「今村昌平台本のオペラによる」というサブタイトルが付されていたと思う。オペラの方が上演されたかどうか、ぼくは知らない。こちらはいずみ・たく作曲によるミュージカルで、西村晃、今陽子などの出演。歌の中で記憶に残るいい曲が一つあったけれど、長丁場の舞台にするにはいろいろなエピソードをつけ加えなければならず、落語が本来持つ引き締まった面白さが、どうしても水増しされる結果になった。それに、全体に暗いムードのい舞台になってしまった。落語の「死神」はブラック・ユーモアだが、ユーモアが欠落してブラックだけが残ったという印象。「死」を相手にしても底抜けに明るい、というのが落語の持っている良さの筈だと思うのだが。落語を素材にしながら暗い部分が強調されるのは真面目さのなせるわざだろう。演劇人(映画もテレビも含めて)に共通な感覚として、大作に取り組む時はたいてい、素材を深刻な方にとり込んでしまうようだ。
 そう考えて思い返すと、「幕末太陽伝」の主人公にも死の匂いがつきまとっていた。「居残り佐平次」には確かに「俺はこのあいだからどうも身体の具合が悪い」というセリフがあり、それで療養のつもりで海辺の品川遊郭に泊り込むわけだが、落語では、そのことについてはそれ以上は出てこない。映画の佐平次は完全に労咳という設定で、死と直面しているために居直った人物という解釈があったような気がする。
 あら、また「幕末太陽伝」に戻ってしまった。
 
 少し検索してみたら、今村昌平作のオペラ「死神」は、あちこちで上演されているようだ。
 オペラのみならず、ミュージカル「死神」もあったんだねぇ。
 暗~い、ミュージカルって、あまり観たいとは思わない^^

 しかし、NHKの「昭和元禄落語心中」で、菊比古(ハ代目八雲)の「死神」を知った若い落語愛好家も多いかもしれないから、今なら、ミュージカル「死神」当たるかも!

 明日16日(金)は、その「昭和元禄落語心中」が一つのヤマを迎える。

 これまで、原作の漫画も読んでいず、昨年放送されたアニメも観ていない私だが、今回のドラマは都合よく毎週観ている。

 NHK大河と比べることに無理があるとは思うが、あちらも実在の人物をモチーフにしたフィクションドラマとするなら、ドラマとしての魅力は、格段と「昭和元禄落語心中」が上である。
 
 そのうち、あのドラマについて何か書こうと思っている。

 ちょっと話があっちこっちに発散してしまったなぁ。

by kogotokoubei | 2018-11-15 12:47 | 落語の本 | Comments(4)
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 和田誠さんの『落語横車』から二回目。

 初版は講談社から昭和55年発行で、私が読んだのは昭和59年の講談社文庫。

 前回と同じ「落語とジャズ」の章。

 今回は、家元がジャズ好きになった背景に、和田さんの存在があったという話から。
 談志さんがディキシー・キングスと知り合ったいきさつについては、ほんのちょっぴりだがぼくにも関りがある。1960年頃、草月会館ホールでは毎月「草月ミュージック・イン」というジャズの会が開かれていた。ぼくはこの会のポスターをデザインしていた。学校を卒業して間もない頃の話である。ぼくはジャズが好きだったので、ポスターを作るだけでなく、企画そのものに少々口出しをしたこともあった。「ブルースの継承」という題のジャズの歴史に関する催しが好評で、この企画が労音に買われて関西でも上演された。草月ホールではごく地味にやったのだが、大劇場の乗るのだから少し規模も大きくしよう、それに構成台本が必要だ、ということになった。プロデューサーとの打合せで、ぼくはポスターを作る以外に、舞台で映されるスライドの絵を描くことになったのだが、構成者を誰にしようかという話になり、ぼくは谷川俊太郎さんを推薦した。その案が通って谷川さんに話を持って行くと、谷川さんは、自分はジャズは詳しくないから引き受けないけれど、代りに推薦する人がいる、と言って都筑道夫さんを指名した。都筑さんはすでに作家として知られていたけれど、ぼくたちにとっては「EQミステリ・マガジン」の名編集長としての印象の方が強かった頃である。台本は都筑さんが書くことになった。
 都筑さんの台本では司会者が必要で、その司会者は落語調でしゃべることになっていて、できれば本物の落語家がいいという。
 ぼくは当時は落語とジャズの結びつきを考えたこともなかったから、たいそう意外に思えたものだった。都筑さんは、ジャズについて語るのだから落語家でも若手がいい。今優秀な若手が二人いて、一人は古今亭朝太、一人は柳家小ゑん、どちらかに頼もう、と言った。詳しいんだなぁ、とぼくは思った。しばらくしてわかったことだが、都筑さんのお兄さんは、若くして亡くなった鶯春亭梅橋という落語家だったのだ。
 言うまでもなく、朝太は後の志ん朝、小ゑんは後の談志である。

 少し長くなったが、和田さん、若くしてポスターのみならず、ジャズ・イベントの企画にまで関わっていたんだなぁ。

 草月ホールで思い出すのは、ずいぶん前だが、ぴあの主催する「マクラ王」なる落語会に行ったことがある。
2011年7月16日のブログ
 「rakugo オルタナティブ」という企画の一つで、次のような構成だった。
-----------------------------------------
(開口一番 立川こしら マクラ&『王子の狐』)
三遊亭兼好 マクラ&『蛇含草』
三遊亭歌之介 マクラ&『お父さんのハンディ』
(仲入り)
桃月庵白酒  マクラ&『松曳き』
座談会
-----------------------------------------
 主催ぴあ、制作は立川企画だったが、とにかく不思議な会だった。

 さて、都筑道夫さんといえば、今年7月に、『志ん生長屋ばなし』(立風書房)の都筑さんの解説を紹介したことがある。二十九歳で亡くなったお兄さんのことも書かれていた。
2018年7月11日のブログ


 さて、その都筑さんが推薦した二人について、その後、どうなったのか。

 プロデューサーはたまたま朝太より先に小ゑんに会った。ぼくはどういうわけか、都筑さんに依頼に行く時も、小ゑんに会った時も、プロデューサーを同席していた。小ゑんはジャズが好きだからと言って乗ってきたのですぐ話が決まった。その時点で言えば、小ゑんが本当にジャズが好きだったかどうか、よくはわからない。彼はジャズに限らず落語以外のジャンルに仕事を拡げようという欲を持っていたのではないか。しかしいずれにしろ、その仕事以来、彼はジャズが好きになっている。その催しにはいろいろなジャズメンが登場したが、小ゑんが意気投合したのはディキシー・キングスだった。と、こういういきさつである。

 ということで、もし、朝太に先に話を持って行ったら、家元とディキシー・キングスとの出会いはなかった、かもしれないなぁ。

 さぁ、次は、私が大好きな、駄洒落のお話。

 ジャズメンには駄洒落の上手な人が多い。駄洒落というよりも聞こえをよくすれば、「言葉遊び」ですね。ぼくは彼らから、ずいぶん言葉遊びの楽しさを教わった。噺家も特有の符牒を使うが、ジャズメンも符牒が好きだ。ジャズに限らずクラシックの人たちもそうだが、数字に音階表わす記号と当てる。「一万五千円」を「ツェー・ゲー」というように。それから言葉をひっくり返して使う、つまり「彼女」を「ジョノカ」と言ったりする。これは芸能人一般に見られることだが、特にジャズの人たちにこの傾向が強いようだ。
 ジャズメンの言葉遊びの例。
 レイ・ブラウンが運転していた車がエンコした。彼は同乗者に言った。「押すか?ピーターソン」
 デイヴ・ブルーベック・トリオが来日して、旅館に泊った。夜、マッサージ師がきて、「頼んだのはどなたでしょう」ときいた。一人が言った。「ポールデス。モンドくれ」
 MJQが住んでいたアパートに、人が訪ねてきた。ドアをノックして、「ジョージ、ルイス(留守)かい?」中から声あり「こっちコニー・ケイ(こないかい)」。「何だ、見ルトジャクソンかと思ったら、やっパシ・ヒースじゃないか」
 ジャズに詳しくないと何のことやらわからなず面白くないけれど、これらはジャズ仲間で可笑しがっていた地口である。この手はもっとたくさんあるらしいが、ぼくは部外者なのでそれほど多くは知らない。

 このジャズに関する駄洒落ネタ、好きだなぁ。

 私は、社会人一年目に新潟市のあるジャズ喫茶に入り浸りになり、一年でバーボンのボトルを50本キープするほどだった。マスター、ママとも懇意になり、他のジャズ好きな仲間も交え閉店後に店でマージャンをすることが、しばしばあった。

 ジャズメンの地口が、ポンポン飛び出すマージャンだった。

 リーチする時は、「マックス・リーチ(ローチ)!」
 他の打ち手は、「トミー・フラナガン!」
 相手にふってしまった時は、「マイルス・デイビス」
 なんてね^^

 そのお店もなくなったし、その後に長岡に転勤になり行きつけだったジャズ喫茶も、とうに姿を消した。

 懐かしい、思い出である。

 さて、拙ブログでも「落語とジャズ」というカテゴリーでいくつか書いている。
 ご興味のある方は、ご覧のほどを。
拙ブログ「落語とジャズ」

 この本からは、まだ紹介したい内容があるが、いったんお休みしようと思う。

by kogotokoubei | 2018-11-10 09:18 | 落語の本 | Comments(6)

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 本棚で、先日紹介した長部日出雄さんの『笑いの狩人-江戸落語家伝-』の隣にあったこの本を、読み返していた。

 初版は講談社から昭和55年発行で、私が読んだのは昭和59年の講談社文庫。


 著者の和田誠さんは、昭和11年生まれ。
 和田誠さんと言うと、今では奥さんの平野レミさんの方が有名かもしれないが、広告デザインの世界では、伝説的とも言える方で、日本を代表するイラストレーターであるし、幅広くクリエイターとして活躍されてきた方ある。

 Wikipediaから、少し引用。
 Wikipedia「和田誠」

1959年(昭和34年)に広告制作プロダクションライトパブリシティにデザイナーとして入社し、同年、日本専売公社が発売予定の新商品の紙巻きたばこ「ハイライト」のパッケージデザインコンペに参加し採用される。ちなみに、同製品のデザインは、1964年開業の東海道新幹線の車体の色を決めるときに配色の参考にされたといわれている。他にも自社のライトパブリシティ及び、社会党のロゴマークを手掛け、キヤノンや東レといった国内有数の企業の広告デザインを長らく担当した後、1968年(昭和43年)退社。

退社後はフリーランスとなり、「週刊文春」の表紙、星新一著作の挿絵などを手掛けたり、他にも、星新一・丸谷才一の一連の作品や村上春樹の『アフターダーク』、三谷幸喜、阿川佐和子作品を始め、数多くの装丁を担当する。通常、書籍のバーコードは裏表紙のカバーに直接印刷されるが、これを嫌い、ISBNの数字のみが表示されたデザインを採り入れている。結果、バーコードは帯に印刷されることが多い。

映画にも造詣が深く、1984年(昭和59年)に「角川映画」として初監督作品である真田広之主演『麻雀放浪記』を手掛けた後は、小泉今日子主演の『快盗ルビイ』など数作品でメガホンをとった。ちなみに、他分野出身の監督が第一、二作連続でキネマ旬報ベストテン入りを果たしたのは、後にも先にも和田一人である。監督業以外にも『お楽しみはこれからだ』等、映画がテーマのエッセイ集を出している。

 なんと、多彩な方であることか。

 本書は、映画をテーマにしたエッセイではなく、落語をテーマにしたエッセイ。

 この本、久しぶりに読んで、私が落語と負けない位好きなある音楽と落語について書かれた章があるのに気がついた。忘れていたなぁ。
 
 落語とジャズ

 ぼくがよくジャズを聴きに行く六本木のライブハウスのオーナー、Tさんは、こよなく落語が好きだ。ジャズが好きだからジャズの店を経営しているのだが、どうやらジャズと同じくらい落語が好きであるらしい。話をしているうちに相手も落語が好きだとわかると、ジャズメンについて語るよりさらに熱をこめて噺家を語る、前座時代から小朝を買っていて、彼が真打になったのを、わがことのように喜んでいる。

 この本の初版は、前述のように昭和55年。まさに小朝が三十六人抜きで真打に昇進した年。
 引用を続ける。

 新宿のジャズバーのオーナー、Nさんも落語ファンだ。彼とその店で落語の話をしたことがある。その日はほとんど夜を明かしてしまった。Nさんはぼくと同じ年だが、典型的な古典派で、往年の名人について語らせたら尽きることがない。

 和田さんもジャズと落語が大好きなのなことが、伝わる。
 このあと、ジャズメンで代表的な落語好きとして北村英治さん佐藤允彦さんのことが書かれている。
 また、同じ業界の方も登場する。

 写真家では落語と関係が深いのは篠山紀信である。円生の写真を撮り続けたことは有名だが、中学時代に落語を習っていたことはあまり知られていない。彼の写真家としてのデビュー当初、ぼくと同じデザイン会社に勤めていたことがある。あの頃は会社の忘年会などで、彼は一席演じたものだった。立て板に水の如き「雑俳」をぼくはよく覚えている。

 これは意外。そうだったんだぁ。
 テニス仲間や同期会の旅行での宴会、また、落語好きの居残り会の皆さんとの居残り会などでも一席披露してしまう私は、一気に篠山さんに愛着をおぼえるのだ。

 和田さんは、ジャズと落語について、共通点をこう記している。

 ジャズには、おおむねテーマがありアドリブがある。同じ曲でもこう演奏しなければならないというきまりはない。演奏者の感性が尊重される。さりとて勝手放題どうやってもいいというわけでもなく、おおよそのルール、望ましき枠というものはある。演奏時間はかなり自由である。プレーヤーが乗れば演奏は長くなる。また放送などの関係で演奏時間を指定されればそれに合わせることもできる。
 こういうジャズの特徴は、かなり落語にも当てはまるのだ。落語には演目がある。しかし台本に忠実に演じる必要はない。演者の個性を生かしたアドリブが投入される。同じ噺でも、滑稽味を強く出す人がいてもいいし、人情味を強く出す人がいてもいい。さりとて噺を目茶苦茶に作り変えていいと言うものではない。時間もかなり自由がきく。演者が乗れば噺は長く、そして面白くなる。時間に制限が加えられることもまた可能。

 まったく同感。

 居残り会仲間のYさんは、私と同じように、落語もジャズも大好きで、会うと話が尽きない。
 実は、居残りメンバーとの忘年会を予定していて、昨日メールで、Yさんとある噺をリレーで演じることを決めた。他のメンバーには、まだ内緒^^

 ある音源を元にこれから稽古しなければならないが、その内容をなぞるのが精一杯になりそうで、どこまで個性を盛り込めることやら。
 音源の時間は長い。どこを短縮するか、これからしばらく楽しい悩みが続くなぁ。

 とても篠山さんのようには出来ないだろう・・・・・・。

 この本から、あと何度か紹介するつもり。

 実は、居残り忘年会の前の週が、テニス仲間との合宿旅行。
 こちらの演目も稽古しなくてはならないのだ。しかし、居残り忘年会と同じネタは、所要時間を考えると、難しい。
 以前は、音源を何度か聴いていると、結構自然に覚えることもできたが、最近はなかなか・・・・・・。加齢のせいか。

 本も読み返して忘れていたことに気づくことが、なんと多いことか。
 これも加齢のせいか。

by kogotokoubei | 2018-11-09 12:27 | 落語の本 | Comments(2)

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長部日出雄著『笑いの狩人-江戸落語家伝-』

 長部日出雄さんの『笑いの狩人-江戸落語家伝-』(新潮文庫)の解説を、矢野誠一さんが書いている。

 長部さんに関し興味深い内容だったので、紹介したい。

 文庫発行の昭和五十八年に書かれたもの。

 もうかれこれ二十年にはなる。
「キネマ旬報」あたりが、かなり意識的に使い出した「ショー。ビジネス」という目新しい言葉が、やっと定着しかかっていた。そのショー・ビジネスの世界の一端に身を置いたひとたちがかならず顔を出している酒場が新宿に何軒かあって、そんな酒場のどこかで長部日出雄さんを知った。まだ「週刊読売」の記者だった長部さんは、たいてい同僚の大沼正氏といっしょだった。定年退職するまで読売にいた大沼氏は、その後音楽評論家として独立すると間もなく、あっ気なく逝ってしまった。どちらかというとかまえの姿勢が目立ち、ぼそぼそと達観しているかのごときことを口にする大沼氏と、熱っぽくストレートに、見てきた舞台や映画に対する不満をぶちまけている長部さんの対照は、はたできいているだけでこちらを堪能させてくれたもので、目指す酒場に長部さんの姿が見えないと、なんとなくあてがはずれたような気分を味わうのだった。

 昭和9(1934)年生まれの長部さんは、弘前高等学校を卒業し早稲田大学文学部哲学科に入学したが中退後、昭和32(1957)年に『週刊読売』記者となった。
 矢野さんが新宿の酒場で長部さんに出会ったのは、そんな時期のことになる。

 引用を続ける。

 その時分の新宿松竹の地下に、文化演芸場という小劇場があった。ストリップ劇場の幕間狂言で活躍していたコメディアンたちによる軽演劇が、週がわりでかかっていたが、突如として手織座が室生犀星の『あにいもうと』を大真面目に上演してみたり、いまから考えると妙な劇場であった。この劇場には、南風カオル、財津一郎、石田英二、死んだ戸塚睦夫など、なかなか個性的な役者が出ていたのだが、満員の客を集めたことなどついぞなかった。その少ない客を相手に、いつもエネルギッシュな舞台を展開していたのが石井均の一座で、この石井均のことをいちばん最初に認め活字にしたのが長部日出雄さんであった。長部さんは、活字で石井均の舞台をほめるばかりではなく、しばしば楽屋にトリスの壜を差し入れたり、芝居がはねてから一座の連中をひき連れてのみ歩きながら、さかんに激励していた。つまり批評家と役者の関係を通りこし、いれあげていたのである。つい最近、清水邦夫さんが早稲田の学生時代、この石井均の芝居に通いつめていたときいて、見るべきひとはちゃんと見ていたのだなと、ある感慨を持ったばかりだ。

 長部さんは、石井均に限らず、記者時代に無名の多くの人をいち早く評価していた。
 私がその著作を愛読する筒井康隆や小林信彦も、長部さんという“見るべき人”に見出された人のリストに入る。

 矢野さんは、この本との出合いを次のように書いている。

 さて、『笑いの狩人-江戸落語家伝-』なのだが、1980年9月に実業之日本社から出たこの本を著者から寄贈され、一読したときのおどろきが忘れられない。「江戸落語事始」「落語復興」「幽霊出現」「天保浮かれ節」「円朝登場」の五篇からなるこの小説は、1976年8月から翌年の10月にかけて、あいだを置いて「週刊小説」に掲載されたものなのだが、本を頂戴するまで長部さんがそんな仕事をしていたことを知らないでいた僕は、通読して、ただでさえ複雑な江戸の落語史を、このひとが見事に把握していることに、まず感嘆してしまったのである。

 この思い、よく分かる。
 私も、読後に感嘆した。

 引用を続ける。

 もちろん新宿の酒場のカウンターで肩をならべながら、何度も落語や落語家のはなしに興じたことがあって、長部さんがかなりの落語好きで、この芸に精通していることは知っていた。だが、その話題は、桂文楽の『素人鰻』に出てくる神田川の金なる職人の酒乱ぶりについてであったり、古今亭志ん生の『品川心中』の貸本屋の金蔵と、川島雄三の傑作『幕末太陽伝』で小沢昭一が扮した金蔵との比較であったり、もっぱら当代の落語に限られていた。ブルドックが風邪をひいたようなと、その風貌を形容され、渋い芸が一部から熱狂的な支持を得ていた八代目の三笑亭可楽を、学生時代に都電のなかで見かけたときのことを、
「和服の膝に、きちんと鞄を置いてすわっているのはいいんだけど、その底にマジックインキかなんかで、ケー・エー・アール・エー・ケー・ユーって書いてあるんで、思わずふき出しそうになったな」
 なんてはなしてくれたことはよく覚えているが、江戸における寄席の元祖とされている京屋又三郎の初代三笑亭可楽のことなど、ついぞ話題にならなかったのである。

 酒場で、文楽の『素人鰻』の金の酒乱ぶりを、もしかすると八代目可楽の金と比べていたのかもしれないなぁ。私は、あの噺、可楽の音源が好きだ。

 我が居残り会もそうだが、好きな落語のことを同好の士と一杯やりながら語り合うのは、実に楽しいものだ。

 きっと、新宿の酒場での長部さんや矢野さんたちも、そういった時間と空間を共有していたのだろう。

 この解説は、次のように〆られている。

 かつて、新宿の石井均にいれあげた長部日出雄さんが、遠い江戸の芸人たちに真底いれあげてみせたのが、『笑いの狩人-江戸落語家伝-』なのだと、僕は勝手にそう思いこんでいる。

 その後、矢野さんが長部さんに会って、じかにこの本のことを語り合う機会があったのかどうかは、分からない。
 もし、その機会がなかったとしても、すでに遠くへ旅立った長部さんに会うことも、『笑いの狩人』の続編を読むこともできなくなってしまった。
 得がたい、芸能の目利きとしても、大きな存在を失ったのだと思う。


 果たして、当代の落語家の中で、どれほど、“いれあげる”ことができ、酒場の落語談義の素材となり得る噺家がいるのだろうか・・・・・・。

 矢野さんの解説を読み、昨日のNHK新人落語大賞を見て、やや寂しい思いがするのは、否めないなぁ。


by kogotokoubei | 2018-11-05 12:54 | 落語の本 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛