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噺の話

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カテゴリ:落語の本( 210 )

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『歌丸 極上人生』

 『歌丸 極上人生』は、最初は平成18年に、うなぎ書房から『極上 歌丸ばなし』として発行され、平成27年に加筆・修正の上で、祥伝社黄金文庫で再刊。

 この本からの四回目。
 次第にホール落語会への出演が増えてきた歌丸。
 
 そんな時期、あるプロデューサーからの“無茶ぶり”が、あった。

 三吉演芸場の独演会を始めてからは、どんどん古典のほうへ傾いて行きまして、そのうちに圓朝ものに手を染めることになるんですが、その転機になったのが、平成六年七月の落語研究会でやった『栗橋宿』です。
 これは、前にもちょっとお話が出たTBS『落語研究会』の白井良幹さん、あのかたにやれって言われたんです。それまで白井さんがあれやれ、これやれって言ったことはありませんでした。ただ出てくださいっていうだけで、出し物はあたしのほうで、じゃァこれやりましょうって決めてたんですけど、このときから、いろいろ出し物の注文が来だしました。

 TBSの名プロデューサーと言われた白井良幹(よしもと)さん。
 その後を継いだのがイーストの今野徹さんだった。
 入社三年目から今野さんは白井さんのアシスタントプロデューサーを務めたが、2017年12月に五十代の若さで旅立ち、さて、今は誰がプロデュースをしているのかは知らない。

 白井さんの無茶ぶりのことを続ける。

 一番初めに、いきなり持ってこられたのが、圓朝作『怪談牡丹燈籠』の『栗橋宿』・・・・・・あたしはね、それまで圓朝ものはやったことはないし、まして、圓生師匠があれだけ得意にしていらしたものですから、とてもじゃない、勘弁してください、できませんって言ったんですよ。そしたら、できないって言ってちゃなんにもできない、できるできないはともかくも、やってごらんなさいって、前に圓生師匠が研究会でおやりになった『栗橋宿』のビデオテープを、無理矢理押しつけられちゃったんです。

 白井さんだから出来たことなのだろう。

 さて、名プロデューサーからのリクエストにどう応えたのか。

 あたしは、研究会でやるために地方で稽古したってのはこのときだけですね。地方の会で四、五回やりましたかね、それである程度固めてから、本番にぶつけたんです。

 これで思い出すのは、以前は柳家権太楼なども、落語研究会の前の落語会では、研究会のネタが多くなること。
 それだけ研究会の価値も高かったと言えるだろうが、今日では、はたしてどうだろう。
 出演者の顔ぶれやネタを眺めて、時代の変遷を感じるのは私だけではないだろうと思う。
 今も続く歴史あるホール落語は、大きな過渡期を迎えているように思う。

 さて、引用の続き。
 研究会で初めてやったときには、まず、終わってほっと一安心したってのが、正直なとこでしたね。あとで自分のビデオ見て、悪いところもずいぶんありました。でも、まァなんとかなるんじゃないか・・・・・・と思って、それから、その年の八月中席の国立演芸場ですね、あすこは昭和五十七年ころからずっと、八月中席は、あたしがトリを取らしてもらってますんで、十日間、毎日『栗橋宿』を出して勉強させてもらいました。ほかでも時どき出してみて、いくらかずつは自信らしいものがついてきましたけど、まさか、これがキッカケで、『牡丹燈籠』を全部やるようになろうとは思いませんでしたね。

 白井さんの無茶ぶりが、桂歌丸という噺家さんに、大きな芸の引き出しをつくることになったわけだ。

 この本には、聞き書きをした山本進さんとの対談も掲載されているのだが、その中で、柳家小三治の『小言念仏』も、白井さんが研究会のための無茶振りが最初らしい。

 今日、そんな無茶ぶりが許される人も、それを生かすだけの噺家も、いないような記がするが、はたしてどうなのだろうか。

 その後の歌丸の圓朝作品への挑戦については、次回。

by kogotokoubei | 2019-05-19 16:54 | 落語の本 | Comments(0)

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『歌丸 極上人生』

 『歌丸 極上人生』は、最初は平成18年に、うなぎ書房から『極上 歌丸ばなし』として発行され、平成27年に加筆・修正の上で、祥伝社黄金文庫で再刊。

 少し間が空いたが、この本からの三回目。
 
 これまでに、昭和49年、家の近くの三吉演芸場で歌丸が三十八歳の時に始めた独演会で、古典に挑戦していたことを紹介した。

 その独演会開始から十五年目、平成元年の芸術祭で、「桂歌丸独演会」の成果が認められて、演芸部門の芸術祭賞を受賞している。
 ちなみに、その前後における演芸部門で落語家の受賞は、昭和61年に雷門助六、62年に林家正雀、前年63年に三遊亭圓楽、翌平成2年が、小文枝時代の五代目桂文枝。

 さて、もっと前から、あるホール落語にも出演していた歌丸だが、三吉演芸場で古典に取り組み始めてから、他の伝統あるホール落語への出演要請が増えてきた。

 一番早かったのは、NHK東京落語会で、昭和40年7月、第79回公演に初めて出演しまして、その後の二年か三年にいっぺんづつ出さしてもらいましたが、当時はまだ新作専門のころですから、出し物も『乗車券』『京の舞妓』『時間売ります』『姓名判断』『新聞記事』といったような新作を出してます。昭和55年12月の公演で『おすわどん』を出しまして、以後は古典ものばかりになりました。
 その55年9月には三越落語会に初出演(『お茶汲み』)、58年12月にはTBS落語研究会(『三味年栗毛』)59年6月には紀伊国屋寄席(『鍋草履』)と、次々に定評のある落語会に出していただくようになり、このころには、もう逆に古典専門になってしまいました。
 『鍋草履』『三味線栗毛』は、両方とも春風亭の先生のものです。六代目の柳橋師匠・・・・・・このかただけは、「師匠」じゃなくて「先生」と言わないといけなかったんです。なにしろ昭和5年に芸術協会ができたときからの会長ですから、お稽古してもらうどころか、ぴょこぴょこの真打なんか、なかなか口をきいてももらえませんよ。

 意外に思うのは、東京落語会が、二ツ目時代の新作派の歌丸を出演させていたこと。
 「笑点」が始まるのは昭和41年だから、その前年に初出演。

 『鍋草履』『三味線栗毛』が、柳橋譲りとは知らなかった。とはいえ稽古をつけてもらったのではないけどね。どのように譲り受けたのかは、後でご紹介。

 歌丸の『鍋草履』は、2012年の新宿末広亭9月下席、十一代目桂文治の襲名披露興行で聴いている。
 その時の感想を、あらためて確認。
2012年9月27日のブログ

桂歌丸『鍋草履』 (15分)
 談志と同じ昭和11年生まれ、今年76歳になる芸協会長が健在で良かった。トリへの配慮がうかがえる軽い噺ではあるが、こういうネタをしっかり出来ることが、落語家にとって重要なのだと思う。口跡もはっきりしていて、聴いていて疲れない高座。ある意味で、落語の教科書とも言える内容に感じた。
 昨年末、この寄席の席亭が発した苦言を契機に、このところ芸協は頑張っているように思う。全員の実力が一気に上がることはありえないが、米助の古典への挑戦なども含め、背後に歌丸会長の思いが、良い方向に向かわせているような気がする。この席でも千秋楽に当代円楽が出演するようだが、それは披露目での特別なもの。定席では、他の一門の助けなど借りずに、客を呼べるだけの勢いがつきつつあるのではないだろうか。だから、会長にはまだまだ元気でいて欲しい、と思う。

 最近は、過去の記事を読み直して、ようやく少し記憶が甦る・・・のである。

 そうそう、この披露目は、前年末に席亭から苦言があった、その末広亭だった。

 ちなみに、この日は、口上でもなかなか味のある話をしてくれた鶴瓶が、『青木先生』を披露した。
 これまで私が聴いた、鶴瓶の唯一の高座。
 たしかに、十分ほどで客席をドカンドカンさせた話芸は、たいしたものではあった。
 トリ文治の十八番『源平盛衰記』も、大いに笑った。


 さて、歌丸は、どうやって「先生」と呼ばれた芸協のドン、柳橋からネタをもらうことができたのか。

 こっちがやっと少し認められるようになってから、あるとき楽屋で、春風亭の先生に謎をかけたんです。「先生、あの『鍋草履』は、先生はレコードにはお入れになってないんですか」って、あたしが聞いたら「いや、俺は『鍋草履』はレコードに入れてないぞ」「ああそうですか」「なんだ」「いや、いい噺だと思いまして」「なんだ、やりてえのか」「やりたいですねェ」ったら、「ふーん」って、その日はそれっきり。で、次の日に「『鍋草履』の音はNHKにあるぞ」って言ってくれたんですよ。NHKに音があるぞってえことは、こりゃァやってもいいって言ってくれたようなもんだと、こっちは解釈しますよ。
 それからNHKのプロデューサーのかたにお願いをして、まだカセットのないころ、オープンリールのテープにダビングしてもらった音をいただきました。それで春風亭の先生のところへ行って「先日はありがとうございました。NHKに音がありました。プロデューサーのかたからいただきました」って言ったら、「うん、そうか」って、それでおしまい。それ以後やらしていただいてます。

 なるほど、そういういきさつだったか。

 オープンリールですぜ。
 
 カセットでさえ知らない人のほうが多くなっただろう令和の時代、オープンリールなどは、もうじき死語になるのではなかろうか^^

 次回は、あるホール落語会のプロデューサーからの要請から、また一つ桂歌丸という噺家さんの引き出しが増えた、というお話。
 
by kogotokoubei | 2019-05-17 21:36 | 落語の本 | Comments(0)


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『歌丸 極上人生』

 『歌丸 極上人生』は、最初は平成18年に、うなぎ書房から『極上 歌丸ばなし』として発行され、平成27年に加筆・修正の上で、祥伝社黄金文庫で再刊。
 
 前回は、昭和49年1月31日、歌丸三十八歳の時に、家の近くの三吉演芸場で初の独演会を開催した、とご紹介した。

 では、どのようなネタに挑戦したのか。

 独演会をやるんだったら、古典で行こうと思いました。というのは、うちの師匠の米丸、圓歌(三代目)、金馬(四代目)、柳昇、それに三平(初代)、この五人グループが、月に一回、東宝名人会の昼席で「創作落語会」をやってました。ずーっと、だいぶ長いこと続けてましたね。それでみんな、えらい苦しんでたんですよ。誰か噺を作ってくれる人がいればいいけど、いないから自分で作るんですが、毎月一本新作を作っていくってのは、大変ですからね。
 そういう話を聞いてますから、自分で独演会をやるについては、新作だったらとても保たない、それなら古典だ、今輔師匠から、新作やるにしてもまず古典が土台だって言われて教わっているんだから、古典でやってみようと思ったのが、三吉の始まりなんです。

 なるほど、古典で独演会は、そういう理由だったんだ。
 
 この「創作落語会」、Wikipediaで調べてみた。
 芸術祭奨励賞を授賞した時の演目を引用する。
Wikipedia「創作落語会」

1963年11月30日の第14回創作落語会公演は、団体として以下のプログラムで芸術祭に参加した。
「表彰状」(作:大野桂)演:三遊亭小金馬
「遺言」(作:正岡容)演:三遊亭歌奴
「賢明な女性たち」(作:星新一)演:桂米丸
「一文笛」(作:中川清)演:3代目桂米朝
「義理固い男」(作:玉川一郎)演:春風亭柳昇
「時の氏神」(作:粕谷泰三)演:三遊亭圓右
「笑の表情」(作:はかま満緒)演:林家三平
特別出演:5代目古今亭志ん生
(中川清は米朝の本名である)
その結果、昭和38年度(第18回)の芸術祭奨励賞を受賞することとなった。
 あら、米朝の『一文笛』が入っている。
 作者の顔ぶれも、結構、凄い。

 歌丸の独演会のことに戻る。
 
 第一回の出し物が、『火焔太鼓』と『紺屋高尾』でした。『火焔太鼓』は、志ん朝さんにお断りしてやらしていただいて、『紺屋高尾』は、圓楽さんからもらってやりました。二席ともネタおろし(初演)です。

 最初に、ネタおろしでこの二席とは、凄い。

 例外的な年もあったが、平成16年の満30周年まで、ほぼ年五回、毎回二席ずつ続いた、三吉演芸場の歌丸独演会。
 その平成16年からは、歌丸一門会と名を変え、歌丸はトリの一席を演じるようになる。

 それから十年のあいだがんばりましたが、体がこんなですから、平成26年10月31日の第194回で終わりにしました。最終回はこういうわけでとお詫びをして、一門全員揃えて、最後に挨拶をし、それでお別れしました。やめないでくれって随分言われたんですけど、もう責任が持てないから、何かのときには呼んでくだされば、とは言いましたがね・・・・・・。
 最後の演目は『紙入れ』にしました。『紙入れ』は色っぽい噺であり、お別れのときにあんまりお涙ものをやりたくありません、自分が危なくなってきますのでね。
 初めのうちは、まだあたしの弟子はいませんから、米助さんとか、今の夢太朗さんとかに頼んだり、前座さんも、よその師匠のとこへ新しく入ってきた人に、二つ目になるまで、勉強のために出てくれないかって言って、出てもらいました。

 私が、この三吉演芸場の独演会の存在を知ったのは、つい数年前。
 その時には、まったく食指が動かなかった。
 聴かず嫌いだった・・・・・・。

 この独演会で披露し、その後、他の噺家さんに伝わったあるネタの逸話が明かされている。

 演目表を見ると、第二十回に『おすわどん』が出てますね。あれは、何か覚えなきゃならないって、昔の本を見てたら『おすわどん』があって、サゲに惚れ込んだんです。「そば粉を身代わりとっていかがいたす」「どうぞお手打ちになさいまし」という、あのサゲを言いたかったんです。だけど、前半があんまりにも陰惨なんでね、なんとか変えられないかと思って、『三年目』みたいにしてやってみたんですね。それで、あるとき、圓楽さんと一緒に、名古屋の放送局で録音があって、行ったときに、あたしがこの『おすわどん』をやったら、圓楽さんが聞いて、「歌さん、あれ、いいから、俺にくれよ」ってますからね、「いいですよ」って言って、それで『城木屋』と取りかえっこしたんです。

 へぇ、そうだったんだ。

 『おすわどん』は、三年前の5月上席の末広亭で、板付きで登場したご本人の高座で聴いたし、柳家小満んで同じ2016年の3月、関内ホールで聴いている。

 『城木屋』も、四年前の5月上席の末広亭で、板付きだった歌丸で聴いたし、これまた、小満んの会でも聴いている。

 末広亭で聴いた高座、四年前も三年前も、夜は真打昇進披露興行で、昼の部を歌丸が主任、という構成。あえて、客寄せパンダを自ら務めた、ということだろう。

 先日、4月29日の末広亭も大入りだったが、私が体験した、歌丸が昼のトリを務めた末広亭は、もっと凄い入りだったことを思い出す。

 もちろん、テレビの人気による効果も大きかったとは思う。

 しかし、桂歌丸という噺家さんが、決して、テレビの人気者で終わらなかったのは、紹介したような、三十台で始めた三吉演芸場での独演会で積み上げた古典のたくわえが、噺家としての強固な土台づくりとなったからだと思う。

 次回は、圓朝ものへの挑戦の経緯などについてご紹介するつもり。


by kogotokoubei | 2019-05-09 21:27 | 落語の本 | Comments(0)

 この本の紹介の前に、私が、長い間聴かず嫌いだった桂歌丸という噺家さんに驚かされた高座のこと。

 2012年4月国立演芸場中席の『双蝶々 雪の子別れ』について、こう書いていた。
2012年4月14日のブログ

桂歌丸『双蝶々 雪の子別れ』 (48分)
 どう言えばいいのだろう。なぜ今までこの人を聞かず嫌いでいたのかを、今は反省している。音源なら何と言っても円生になるが、最近は五街道雲助一門が、『長屋』~『定吉殺し』~『権九郎殺し』~『雪の子別れ』の通しで演じるなど、新たな試みもあって決して過去の噺ではなくなったが、歌丸の円朝もの(このネタは円朝作ではないという説もあるが)への取り組みは年季が入っているようだ。
 談志と同じ昭和11年生まれ今年76歳の歌丸の口跡ははっきりしているし、地の部分と登場人物が語る部分も流れるように展開されていく。たしかに、白酒が一門の会の楽屋ネタとして、この噺は病気の老人の噺でつまらない、という会話があったと言っていたが、本来『双蝶々』と言えば、この噺。終盤、雪に見立てた紙吹雪の演出と三味線も程よく効果的。この高座に出会えただけでもこの中席は満足である。もちろん、今年のマイベスト十席候補とする。


 終演後に玄関脇で一服していて思ったのが、下座さんの素晴らしさ。唄わないうめ吉の踊りに三味線と唄をつけ、歌丸の高座でも効果的な鳴物。出囃子はもちろん、曲芸でもその三味線が一味違っていた印象。

 歌丸会長の高座を見て、芸協の若手、中堅、そしてベテラン陣も何か考えることがあるはず。十日間通しの『雪の子別れ』、実は客のためだけに歌丸が演じているのではないのではないか、そんな気がした。

 補足すると、この日、うめ吉は風邪で喉の調子が悪く、踊りだけ6分の出番だった。

 この高座、結果としてはその年のマイベスト十席には選ばなかったものの、今でも強く印象に残っている。

 圓朝作品を手掛けるより前、テレビの人気者になった頃ではあったが、歌丸は噺家としての土台づくりとなったであろう独演会を開いていた。

 では、ようやく本の内容から。

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『歌丸 極上人生』

 『歌丸 極上人生』は、最初は平成18年に、うなぎ書房から『極上 歌丸ばなし』として発行され、平成27年に加筆・修正の上で、祥伝社黄金文庫で再刊。

 山本進さんの聞き書きが元となっている。

 第一回目は、三十歳台で始めた会のこと。

 あたしの住んでいる横浜の真金町のすぐ近く、中村川にかかっている三吉橋のたもとに三吉演芸場という、小劇場があります。昭和五年に開場したという建物が、戦災をのがれて、主に大衆演劇をかけていました。うちが近いもんですから、あたしも昔からときどき見に行ったこともあります。本田さんという方が持ち主なんですが、戦後長い間、別の興行主に貸していたんだそうです。それが立ちゆかなくなって、小屋が返ってきたのが昭和四十八年。それじゃァひとつ、自分たちでやってみゆかというんで、すっかり改装して再開場した、お披露目のパーティーがりまして、あたしも呼ばれました。
 そのときに、近所に住んでいるんだから、月の三十一日あたりを借りて、こういうところで独演会をやってみたいって、あたしのほうから言い出したのが、ことの始まりなんです。そしたら、本田さんのほうも、ぜひやってほしい、じゃァやりましょうって、急に話が決まって、翌年(昭和四十九年)の一月三十一日に第一回をやりました。

 前身の「金曜夜席」が、昭和40年(1965)年3月12日から昭和41(1966)年4月22日まで第2・第4金曜日の22時30分から放送され、その後、日曜夕方に「笑点」としてスタートしたのが昭和41(1966)年の5月15日。
 だから、三吉演芸場での独演会を始めた時は、約八年の月日が経っていた。

 その前は、独演会ってものはやった覚えは、あんまりありません。そのころあっとこっちで、いろんな人が独演会をやっていました。圓楽さんは、かなり前から上野の鈴本でやってましたし、談志さんが「ひとり会」ってのをやってました。確か小三治さん、志ん朝さんもやっていたと思います。だからあたしも独演会ってものを持ちたいなと、真打になってしばらくしてから、そういう気はありました。やっぱり、独演会をやらなきゃ噺は増えないと思いましてね。苦しまなきゃ増えない。そりゃ楽をしようと思えば勉強しないですむんですよ。でも、それきゃァ噺家になった意味がないと思ったんです。
 昭和四十九年、三十八歳での独演会の幕開け。

 その独演会で、どんなネタを披露していたのか、などは次回。

by kogotokoubei | 2019-05-08 12:36 | 落語の本 | Comments(0)
 「いだてん」では、古今亭志ん生のさまざまな逸話が、相当脚色されて表現されている。

 たしかに、高座で寝たことはあるが、まさか楽屋に師匠がいる前座時代に、『富久』を演じながら寝た、なんてぇことはない。

 「フィクション」とことわっているので、あまり「それは違う!」などとたてつくのも大人気ないとは思うが、その逸話の典拠(元号か^^)については、正しく知ってもらいたい、という思いがある。

 だから、前の記事で、高座で寝たという逸話について、その目撃者の言葉を紹介した。

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岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)

 その、先代圓歌の証言(?)を紹介したのが、この本。

 志ん生と、りんさんの実にいい写真がカバーとなった本、平成19(2007)年発行の岡本和明の『志ん生、語る。』は、平成6(1994)年から発行が始まった『これが志ん生だ』(三一書房、全十一巻)の月報の中から選んで編まれた本。
 つい、他のページも読んでいて、紹介したくなった内容が、いくつかある。
 今回は、榎本滋民さんの文から。
 お題は、「すぼらぶりのダンディズム」。

 上野の本牧亭は、私がよく通い、舞台劇『孤塁』(唱和三十六年九月初演)のモデルにもした寄席だが、夏の昼下がり、なにかの会の中入りで、寄席の後部から階下の手洗いへ下りると、部屋で一人、将棋盤を前に座っている古今亭志ん生の背中が見える。
 彼の起伏に富む半生の前半を(当時朝太の)志ん朝、後半を故・馬生がドキュメンタリータッチで演じるテレビドラマ(唱和三十五年三月放送)を書いたばかりの時期でもあり、一番好きな寄席で一番好きな咄家を見かけたうれしさに、声をかけようとして、危うくやめた。
 偶然にも、彼の読みふけっていた本が、定跡の棋譜や詰め将棋の出題ではなく、明治二十二年創刊の落語講談速記雑誌『百花園』から、私が黄金時代の名演を選んで編集解説した、全五巻の落語全集の一巻であることが、ちらりと見えた表紙でわかったからである。
 と、そのとき遅くかのとき早く、人気配を背中に感じたらしい彼が、本を閉じざま座布団の下へ隠した。当時すでに定着し、多くの熱烈なファンを酔わせていた、晩期の春風駘蕩たる高座ぶりとはまるでちがう、つばめ返しのように俊敏な動作である。その直後、盤面をのぞきこんで。、将棋の工夫をこらすふりをした彼から、私は忍び足で遠ざかった。
 修行時代に敬仰(けいぎょう)した、四代目橘家園喬をはじめとする先輩たちの所演速記が、彼にとって聖典にひとしいものであるとしても、それに正対している彼の真摯きわまる姿勢は、「無頓着」「八方破れ」「出た床とこ勝負」「変転自在」などと伝えられてきたイメージとはおよそかけ離れたもので、図らずも特級の企業秘密にふれた私が、さすがにほんもののプロだ、掛け値なしの巨匠だと、なおさら志ん生が好きになったのは、おいうまでもない。
 もう一つ、後ろめたい悪事を働いていた場合でもないのに、人の気配にさっと本を隠してとぼける反射神経がうれしかった。とにかく、芸熱心をひけらかす努力型の芸人ほど、野暮で甘い批評家にかわいがられる中で、不断の刻苦勉励全くしていないふりをするシャイネスは、実は裏返しのダンディズムであることが、よくわかったからである。
 このダンディズムは、江戸芸人の心意気であったばかりか、彼の血脈に流れ入っていたという直参侍の士魂(さむらいだましい)でもあったろう。天馬空を往くがごとき縦横無尽の芸境は、ひそかなきびしい鍛錬の積み重ねによって築かれたものにほかならないと、私は確信している。

 榎本さんならではの、得がたい逸話。

 志ん生には、すぼらでいい加減、というイメージが元々あるのに加え、「いだてん」がそれに拍車をかけているように思えてならない。

 とんでもない。

 紹介したような、江戸っ子のダンディズムに溢れた芸人さんである。

 たしかに、終戦直前に、日本にいるより酒が飲めるだろう、などと思って満州に渡ったりする面もある。

 しかし、こと落語に関しては、志ん生はいたって真面目に取り組んでいた。
 とはいえ、そんな自分の姿を曝け出すことには注意し、すぼらな志ん生像を、あえて演じていたように思う。

 「いだてん」では、ずいぶん誤解されるような描かれ方をしている。
 それは、金栗四三のマラソンと、『富久』での幇間久蔵の“いだてん”ぶりを重ね合わせようとする脚本家くどかんの演出の無理がもたらしている面も多い。

 その着眼は悪くないとは思うが、志ん生という稀代の噺家について、誤解が広まるのは、残念だ。

 せめて、拙ブログでは、志ん生の実像について少しでも補足したい、などど偉そうに思っているが、ご容赦のほどを。

 次回「いだてん」では、圓喬の元を離れ、地方回りが始まるようだ。
 元号も、今の世と同じように、明治から大正に変わる。
 いろんな逸話も登場することだろう。
 楽しみでもあり、少し、不安もあるなぁ。

by kogotokoubei | 2019-04-03 21:21 | 落語の本 | Comments(2)
 先日、矢野誠一さんの『人生読本 落語版』から、いくつか記事を書いた。

 その中で、『唐茄子屋政談』など、若旦那が勘当されるネタについて、「久離」という言葉の由来について、矢野さんが三笑亭夢樂に、まんまとかつがれた、という逸話を紹介した。
2019年2月23日のブログ

 その際、夢樂のことをWikipediaで紹介したのだが、「永井荷風を通じて正岡容を知り、その紹介で、1949年3月に5代目古今亭今輔に入門」という説明に関し、どこで、夢樂と永井荷風がつながっていたのか不明、と書いていた。

 最近、ある本を再読していて、その糸口が見つかった。

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大西信行著『落語無頼語録』

 その本とは、大西信行さんの『落語無頼語録』。
 元は「話の特集」での連載で、昭和49年に芸術生活社から発行され、その二年後には角川文庫の一冊となった。
 私は、初版の単行本を読んでいたが、最近、古書店で文庫も手に入れ、再読していた。

 「可楽と夢樂」の章に、夢樂の入門場面に大西さんが偶然居合わせたことが書かれていたのだ。

 夢樂は可樂の弟子になる前、古今亭今輔の弟子で今夫といっていた。
 かれが落語家になるそもそもに、ぼくは偶然立合っている。
 思えば、あの場に居合わせていた人はみな死んでしまって、夢樂とぼくと二人だけになった。
 二十五年も前のことだ・・・・・・。
 市川の菅野というところに長唄の三味線弾きで杵家五叟という人がいた。戦後永井荷風がこの五叟の家に寄宿していて、荷風の没後に五叟の次男が荷風の著作権者になったりしているのだかで、荷風の縁戚なのだろう。その五叟がおなじ市川の真間にいた正岡容の家へ、夢樂を連れて来た。満州の北京大学を出たとかで、夢樂は海軍将校の着るような黒っぽい外套を着ていて、あれはいったいいつのことだったろうと聞いてみたら昭和二十四年の三月だったそうだ。
 落語家の弟子になろうというなら少しは粋なところもありそうなものだのに、五叟の連れて来た渋谷滉と名乗る青年は体ばかりやけにがっしりといかつくて、むしろ講釈師になら向いていそうだなと、そんなことを考えながら部屋の隅に坐って黙って話を聞いていると、正岡は今輔という人が弟子の育て方にも新しい考え方を持っていて、それを実行するだけの力もあるからとすすめて、夢樂の渋谷滉は今輔の弟子になった。

 その後、古典がやりたい夢樂は、今輔が一升瓶を下げて可樂の家を訪ねて弟子入りを願い、その後、可樂が一升瓶を下げて今輔を訪ね「たしかに今夫は私がひきうけました」と、無事、夢樂の移籍(?)が成立。
 夢樂は、「つまり私は酒一升でトレードされたようなものでして・・・・・・」と大西さんに笑って言っていたらしい。

 少し調べてみたら、杵家五叟は荷風の従弟のようだ。

 縁戚が正岡容の元に夢樂を連れて行ったことは、分かった。

 しかし、なぜ、その五叟と夢樂との縁があったのかが、まだ、謎ではある。

by kogotokoubei | 2019-03-08 20:27 | 落語の本 | Comments(2)
 笑福亭松之助さんが亡くなり、その後、ドナルド・キーンさんの訃報にも接することに。

 お二人について書きたいことはあるが、まず、このシリーズを完結させてからとしよう。

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矢野誠一著『人生読本 落語版』(岩波新書)

 矢野誠一さんの『人生読本 落語版』(岩波新書)から最終の五回目。

 「第五章 遊びをせんとや」の「遊郭」をご紹介。

 冒頭から引用。

 あまり学校じゃ教えてくれないたくさんのことを、寄席という教室で学んだわが身が、こればっかりは落語以外に手本がなかったと、こころの底から思うのが、廓の世界のあれこれである。無論、1958年3月31日の、俗のいう「売春防止法」の施行前にすべりこめた口だから、べつに威張るほどのことじゃないが、私にだって一応の廓体験ぐらいはある。だが廓とは名ばかりの、単に御婦人相手に遊べる特殊飲食店のそれで、だから伝えられる綿綿たる廓情緒は、落語の廓ばなしから感じとるほかになかった。

 まさに「こんなこと学校じゃ教えない」ことの筆頭が、廓ばなしの世界。

 矢野さんは、昭和33年3月31日という、よく落語のマクラで、親の命日は忘れてもこの日は忘れない、という期限には間に合ったんだが、それは、落語の世界ではなかった、というわけだ。

 この後、その廓ばなしの名手のことが紹介される。

 二十七歳で腰が抜け、三十で失明、失明後はかつて吉原でお職をはった恋女房のおときに背負われて楽屋入りして高座をつづけた名手もいた。この能脊髄梅毒症に白内障をおこし、三十七年の短かすぎる生涯を終えた廓ばなしの名手が初代柳家小せん。ひと呼んで盲目の小せん。

 初代柳家小せんについては、これまでにも何度か拙ブログの記事で紹介している。
 当代の小せんが襲名することになった時に書いた記事でも、廓ばなしの名手として、多くの当時の若手に十八番を伝授したことなどを紹介した。
2010年2月17日のブログ

 初代小せんの教えは、当代の噺家さんにも引き継がれており、立川左談次を偲ぶ会で、五街道雲助が演じた『付き馬』は、雲助が初代小せんの速記を元にしたと、プログラムに記されていた。

 矢野さんは小せん廓ばなしの中から『五人廻し』を取り上げ、大正8(1919)年発行の『廓なばし小せん十八番』から、最初に登場する威勢のいい職人の科白を引用している。

 「三ツの時から大門をまたいで」という、あの啖呵だ。

 矢野さん、このくだりを「吉原概論」と名づけたが、なるほどぴったり。

 そして、この小せんの創作の背景に、話が及んでいる。

 後世の落語家の規範ともなっている小せんによる『五人廻し』の「吉原概論」だが、若い衆相手にとうとうとまくしたてる前の職人がどうしていたかというと、これが、やって来ない花魁を待ちくたびれて、
「オヤ、足音は何処へ行っちまったんだい、其の儘(まま)立消えは心細いぜ、オヤオヤ、今度は又階段(はしご)を早足にトントン、トントントントン向ふの部屋だ。廊下バタバタ胸ドキドキ、三度の神は正直といふ、今度は上草履を引摺りながらバタバタやって来たな、待てよ、此奴は起きて居るてえ奴も宣(い)いやうで悪いねぇ、考へもんだ」
 などとひとりごちていたのである。
 ところがこのくだり、かの寺門静軒センセイが名著『江戸繁昌記』(東洋文庫)は「吉原」の項に記された、
   乍(たちま)ち聞く長廊上履(ウハゾウリ)の声、遠々恐(きょう)然として
   漸く近し。意(おも)ふに敵娼(あいかた)来り到ると。急に衾(ふすま)を
   蒙(おお)ふて睡を粧(よそお)ふ。何ぞ意(おも)はんと足音の之を隣房に
   失はんとは。
 なんて嫖客(ひょうかく)の無聊をかこつさまの、まことたくみなアレンジなのである。
 失明する以前の柳家小せんが無類の読書家で、江戸文藝や漢籍に通じていたことはつとに知られるところだから、『江戸繁昌記』にもオリジナルの狂体漢文で接していたことは間違いなく、あの時代の落語家の教養にいまさらながら畏敬の念を払わずにはいられない。

 初代小せん、実地の勉強のみならず、書籍からもいろいろ学んでいたわけだ。

 なお『江戸繁昌記』を著した寺門静軒という人も、なかなか興味深い人物。
 Wikipediaから、引用したい。
Wikipedia「寺門静軒」
水戸藩御家人であった寺門勝春の子として生まれ(生母は河合氏)、13歳で父が死ぬが、彼は本妻の子ではなかったために後を継いで仕官する事が許されなかった。放蕩無頼の生活に身をゆだね、19歳の時に腹違いの兄が水戸家の禄を離れたために父から受け継いだ別宅を売って一時の生計に充てる。その頃から折衷学派山本緑陰の食客・門人となった。文政13年(1830年)、水戸藩の新しい藩主となった徳川斉昭が藩政を一新し有為の人材を広く登用する趣意に応えて、再度上書して黙殺され藩邸の門前で請願を試みることまであえてしたが仕官はかなわなかった。それからは駒込で塾を開いていたが、天保2年(1831年)より、江戸の風俗を記した『江戸繁昌記』を執筆する。
 (中 略)
天保13年(1842年)には江戸南町奉行・鳥居甲斐守(鳥居耀蔵)に召喚され、第五篇まで書いていた『江戸繁昌記』は「風俗俚談を漢文に書き綴り鄙淫猥雑を極めその間に聖賢の語を引証…聖賢の道を穢し」たと判断され「武家奉公御構」(奉公禁止)という処分を受けた。この際鳥居は、儒学者の旨とするところは何かと問い、静軒が「孔孟の道に拠って己を正し、人を正すところにある」と答えると、すかさず『江戸繁昌記』を突きつけ、「この書のどこに孔孟の道が説かれているか答えよ」と迫り、返す答えのない静軒は罪に服した、と木村芥舟が随筆に記している。

以後、自らを「無用之人」と称して越後国や北関東を放浪する。やがて武蔵国妻沼(現在の埼玉県熊谷市)に私塾を開いて晩年を過ごした。

 仕官がかなわず、放蕩無頼の生活に身をゆだねたというあたりは、勝小吉を連想してしまった。
 その体験を生かして執筆した『江戸繁昌記』が、いわゆる天保の改革で槍玉になったことから、晩年を放浪、そして、私塾を開くことで過ごした寺門静軒という人、誰か小説にでも書いていないかしら。
 
 寺門静軒が、江戸の風俗を伝える貴重な書を遺してくれたからこそ、初代小せんの廓ばなしもよりリアリティが増し傑作に仕上がったのであろう。

 興味あるなぁ、この寺門静軒という人。

 話を本書に戻す。

 矢野さん、吉原の大門について、このように書いている。

 いつの世にも文化、風俗、流行の発祥地であった吉原で、大門はやはりあの地を象徴するものだった。四囲をかこまれた廓の唯一の出入りのかなう一方口で、どこの廓にもあったこの正面口に地名を冠すことなく、ただ「大門」と称したならば、それは吉原大門のことだった。1881年(明治14)四月、門柱が石製から鉄製に改められたのを機に、その左右の柱に、「春夢正濃満街櫻雲」「秋信先通両行燈影」の漢詩が装飾されている。作詩と揮毫は「東京日日新聞」主筆の福地櫻痴によるものだが、その福地櫻痴が、「吉原に在って藝妓の膝に枕し乍ら日々新聞の社説を草して新聞社に送るのを常にしてゐた」のを「快」とした高浜虚子は、「どうかさういふ真似をやってみたい」と、京都の高等中学校に退学届を出し、小説家たらんと上京するのだ。
 今の時代に、新聞社の主筆が、風俗店から社説を送るなんてぇことは、到底想像できないが、世も違えば、人間のスケールも違う。

 少し、福地について紹介したい。

 福地櫻痴、本名福地源一郎は、天保二(1841)年に長崎で生まれた。
 江戸に出て、英語などを学び、慶応四(1868)閏4月に「江湖新聞」を創刊。
 そこで彼が書いた内容が凄い。
 「明治の御一新などというが、幕府から薩長に政権が移ったに過ぎない。薩長幕府が生まれただけではないか」と痛烈に新政府を批判したのだ。新政府の怒りを買って新聞は発禁となり、源一郎は逮捕されるのだが、木戸孝允の取り成しで事なきを得た。
 これが明治時代最初の言論弾圧と言われている。源一郎は士籍を奉還して平民となり、英語とフランス語の私塾「日新舎」を開く。塾は福澤の慶応義塾、中村敬宇の同人社と並んで「東京の三大学塾」とまで称せられ、門人には中江兆民もいた。
 しかし新聞を失った源一郎は、悶々として、吉原通いを始めることになったとのこと。
 その後、岩倉使節団の一員として明治三(1870)年にアメリカとヨーロッパを訪問するのだが、そのきっかけは、吉原で渋沢栄一と知り合ったからと言われている。

 寺門静軒が、仕官して報われない中で吉原通いをし、『江戸繁昌記』がお上の怒りにふれて罪を受け、晩年は私塾を開いていたのと、順番は逆だが、福地櫻痴との共通点が、あるなぁ。
 なお、福地櫻痴は馴染みの花魁を身請けして妾としていたから、小せんと相通じるものもある。

 ともかく、自分の生命と引き換えにそこに入り浸っていた初代小せんも、その体験を本に著した寺門静軒も、そして、そこで仕事をしていた福地櫻痴も、皆、吉原が好きだったのである。
 
 矢野さん、こんな言葉でこの話を締めくくっている。

 吉原ならずとも廓を舞台にした、あやしい危険をともなった擬似恋愛の世界から、すぐれた作品の世に出た例に、いまさら京傳、荷風、淳之介の名を持ち出すこともあるまい。
 ふりかえって思うに、辛うじてすべりこめたわが廓体験の、なんとまあみすぼらしかったことよ。絢爛たる文化や情緒の薬にしたくも無い、けばけばしいネオン街の、ただただ隠微な彷徨にすぎなかった。だが、たとえ隠微な彷徨ではあっても、やはりあの地にはなんとなく胸をときめかすものがあったし、そこに身を置くかぎり、自分にも大先達のいだいた詩人のこころが宿るような気がしたものだ。
 だからやっぱり間にあってよかった。

 間に合うはずもなかった者に、そんな自慢をしてくれる大人も、次第に減っていくばかり。

 平成の世の晩年を迎えているが、昭和世代としては、実に複雑な思いがする。

 まだ、昭和には江戸や明治、大正の頃とは違っていようとも、吉原が存在していた。そんな時代が、ずいぶん遠くに過ぎ去っていく。

 だからなおさら、学校じゃ教えないことを、落語から学ばなきゃならないなぁ。

 このシリーズ、これにてお開き。

by kogotokoubei | 2019-02-25 21:18 | 落語の本 | Comments(0)
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矢野誠一著『人生読本 落語版』(岩波新書)

 矢野誠一さんの『人生読本 落語版』(岩波新書)から四回目。

 「第三章 金は天下の」の「時刻」から。

 『時そば』のあらすじを紹介した後、矢野さん、こう書いている。

 この『時そば』流勘定支払法による悪戯は、『饅頭こわい』の「こんどは何何がこわい」式の言い方とともに、ついこのあいだまで暮しのなかに生き残っていた。

 たしかに、会話の途中で「今なんどきだい?」なんて科白を挟む人、今やどんどん減っているよねぇ。

 この後に、「岩波国語辞典」の裏表紙の見返し(いわゆる、表3)にある、江戸時代の「不定時法」の図解が掲載されている。
 この図は丸いのだが、その伝えることは、江戸時代は夜明け、夕暮れという自然実態に沿って明六ツ、暮六ツと時刻を定めるので、夏は昼の時間が長く、冬はその逆という時刻の数え方になるということ。

 参考のために、私が以前にサマータイムより江戸の不定時法はすごかったという記事を書いた際に、エクセルで作った図を載せる。
2015年11月4日のブログ
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 不定時法について、矢野さん丁寧に説明してくれる。

 明け六ツつまりは夜明けと、暮六ツ即ち日没を昼夜の境として、それぞれ六等分して一刻とするのが不定時法だから、一刻は現在の二時間と単純計算してみても、昼の一刻と夜の一刻の長さが一年中一定していないことが、白(昼)黒(夜)色分けして示されているから、夏至時の昼の一刻など夜の一刻の倍近くあったことがよくわかる。
 不定時法では明け六ツの次が五ツになり、四つとつづいて正午が九ツ、以下八ツ、七ツで暮六ツである。暮六ツの次が五ツで四ツときて、その一刻後の子の刻、ただいまの午前零時で九ツに戻る。それから八ツ、七ツで明け六ツとなるから一ツ、二ツ、三ツがない。
 だから『時そば』のぼおっとした男は、九ツ即ち深夜の十二時に出かけるべきを、四ツの十時に出てしまったために、一文かすめるつもりが逆に四文も多く、それも不味い蕎麦に支払ってしまったことになる。

 この後、テレビの時代劇で、江戸の不定時法の沿わない科白、たとえば「だいぶ日が長くなったね。さっき六つ打ったのにまだ明るい」なんて表現の間違いを指摘するのだが、実は、矢野さんも、あるミスをしたことを告白(?)している。

 1967年に協同企画出版部から『落語遊歩道』という本を出してもらった。「東京中日新聞」に週一回連載して「落語散歩」をまとめたもので、落語の名作に描かれた場所の現在を訪ねながら、その落語の世界を紹介しようというものだ。なかに『品川心中』の項があって、八ツ山についてこう書いている。
  八ツ山は「江戸百景」にも描かれるところだが八つに重なっているので八ツ山。一説には、
  お江戸日本橋を七ツだちとすると、このへんで八ツになるので八ツ山。
 じつを申すと「このへんで八ツになるので八ツ山」というくだりは、旅のガイドブックで知られる老舗の某出版社から出た「東京案内」にあったのを、そのまま引きうつしたものだが。そう、江戸時代の不定時法で七ツの次は明け六ツでなければならない。案内書の記述をそのまま引いた、言いわけのきかない私のミスだ。

 あの矢野さんにして、このミス・・・・・・。

 それも、別にカミングアウト(?)する必要はないのに。

 そして、この話は、次のように締められている。

 お江戸日本橋を七ツ立ちするときは、たとえ夏でも真暗で提灯がいった。だからこそ唄の文句にも「こちゃ高輪提灯消す」と、高輪つまりは八ツ山あたりで明け六ツをむかえると、ちゃんとある。その唄の文句を知っていながら「八ツになるので八ツ山」なんて、かえすがえすも恥しい。
 活字を単純に信じてはいけません。

 だったら、ブログなどは、まず、疑ってかかる必要がある。特に、このブログなどはね^^
by kogotokoubei | 2019-02-24 17:27 | 落語の本 | Comments(0)
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矢野誠一著『人生読本 落語版』(岩波新書)

 矢野誠一さんの『人生読本 落語版』(岩波新書)から三回目。

 「第二章 渡る世間に」の「勘当」から。

 さっそく、冒頭から引用。

 道楽が過ぎて勘当された若旦那が主役の落語がたくさんある。
 その勘当という言葉を、近頃あまりきかない。手もとの「国語辞典」で「勘当」をひいたら、
   悪行をして親や師が、子や弟子の縁を切ること。義絶。▽罪を勘(かんが)え、
   おきてに当てる意から。
 とあった。ちなみに「勘」には「罪を問いただす。実情を糾明して責める」の語意がある。
 へぇ、「勘」にそんな意味があるんだね。
 
 この後、矢野さんはある言葉の謎解きに関して、こう書いている。

 若旦那が勘当されるくだりで使われる落語のくすぐりに、
   久離(きゅり)切っての勘当。どうも勘当というと胡瓜を切りますようで、
   あまり茄子や南瓜は切りません。
 というのがあるが、あの久離というのは久離と書くのが本当なのか、それとも旧離と書くほうがいいのか、落語家のなかでも博識で知られる三笑亭夢樂師匠にたずねたことがあった。かれこれ三十年以上むかしのはなしである。夢樂の答はこうだった。
「あれは久離でも旧離でもいいように字引には出てるけど、ほんとうは胡瓜なんだ。むかしは親が子を勘当するとき、胡瓜を半分に切って持たせる習慣があったの。お前に与えるのはこれっきりだというわけだ。いまでこそ一年中いつでも手にはいる胡瓜だけど、むかしは夏のものだったろう。だから勘当は夏ときまってたんだ。それが証拠に若旦那が勘当される落語は『唐茄子屋』にしても『船徳』『湯屋番』だって、季節はみんな夏じゃないか。胡瓜切っての勘当、あまり茄子や南瓜は切りませんようでってくすぐりにも、ちゃんとそれなりの意味があるのさ」
 なるほどなあと思った。

 三笑亭夢樂、なつかしいねぇ。よく、テレビで拝見したものだ。
 夢樂について、Wikipediaから引用する。
Wikipedia「三笑亭夢樂」

幼少時代に馬賊に憧れていたことから、1942年より単身中国北京へ移住。敗戦後帰国し、農林省開拓局に入局。
永井荷風を通じて正岡容を知り、その紹介で、1949年3月に5代目古今亭今輔に入門する。前座名は「今夫」。しかし、当の本人は新作落語、古典落語の概念をあまり知らずとりあえず今輔から提供を受けた新作の台本をやっていたが、ある日柳家金語楼から渡された新作の台本を「八っつぁん」「熊さん」に書き換えたことで今輔から叱責され古典路線の道に転向、1951年4月に新作中心の今輔門下から8代目三笑亭可楽門下へ円満移籍。翌5月、二つ目に昇進し「夢楽」と改名。1958年9月、真打に昇進。

『寄合酒』『三方一両損』『妾馬』などの長屋物を得意ネタとし、明るく軽妙で当意即妙な芸風から大喜利も得意とした。また、『お笑いタッグマッチ』(フジテレビ)、『ばつぐんジョッキー』(CBCラジオ)などのテレビ番組・ラジオ番組にも出演し、人気を集めた。

2005年10月28日、肺不全のため死去。80歳没。

 どこで永井荷風と縁があったのだろうか。
 五代目今輔門下から移籍(?)という経歴は、歌丸さんと共通している。
 私が大好きな八代目可樂の弟子。
 テレビやラジオのぼんやりとした記憶だが、たしかに、博識だったのだろうと思わせる。
 笑顔が印象的な人だった。
 長年「若手落語会」を開催し、志ん朝や談志も重要な修行の場となっていた。

 その夢樂の謎解き、矢野さんが信じたのも、むべなるかな、なのだが、後日談。

 奥が深いと思って風俗史に関するいろいろの本をあたって勘当のことを調べてみたのだが、どこを探しても胡瓜を半分に切って渡す風習についての記述は見当たらない。思いあぐねて藝能と民俗学に関する篤学の士、日大教授永井啓夫にたずねてみたら、言下に、
「矢野さん、そりゃあ夢樂さんにからかわれたんですよ」
 ときたもんだ。

 矢野さん、まんまとかつがれたのだが、「不愉快な思いがまったくなかったばかりか、むしろ不思議な爽快感を覚えた」と書いている。

 それにもしからかわれなかったら、なんの役にもたたない勘当の風習について、あんなに調べることもなかったはずだ。
 勘当されると、奉行所や代官所に届出されて人別帳から除籍されるが、これはいわゆる本勘当というやつで、単に口頭や文章で言い渡されるのは内緒勘当と言って、法的効力はなかった。落語の若旦那のされる勘当は、たいていこれだ。勘当すると親のほうは、子供のしでかした不始末に関して、一切の責務をまぬかれた。問題の胡瓜ならぬ久離あるいは旧離だが、これは失踪中や別居中の子供との関係を断絶することで、欠落久離として勘当とは区別されていた。新時代明治をむかえて法的には廃止された勘当だが、法的に根拠のない私的な勘当は、いまでもまったく姿を消したわけではない。

 こうやって勘当の種類や久離のことを、矢野さんから教わることができるのも、夢樂が矢野さんを見事にからかってくれたからと言えるだろう。

 この後、道楽が過ぎて勘当された若旦那の噺の多くで若旦那に反省の色が見えないのだが、『唐茄子屋』だけは違う、としてそのあらすじの一部を紹介している。

「お天道様と米のめしはついてまわる」
 と威勢のいい啖呵をきって家をとび出したまではよかったが、たよりにしていた吉原(なか)の花魁にはそでにされ、あっちへ二日、こっちに三日の居候も実家のほうから手がまわってながくはつづかず、二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなって、二日三日と食うや食わずでほっつき歩いた身に、ついてきたのはお天道さまばかり。暑い土用の日盛りの大川に、とびこんじまえと佇んだところに出くわした叔父さんに助けられる。この叔父さんなる者が、若旦那の了見を入れかえてやろうと思ってことにあたるから、なかなかに手きびしい。

 この若旦那、その本気度には疑問もあるが、一度、死を覚悟しているという点で、確かに他の若旦那勘当ばなしとは、違うなぁ。

 そして、あの叔父さんの存在も大きい。

 あくる朝は、はやくからたたき起して、薄ぎたないなりで天秤棒肩に唐茄子売りに歩かせる。なにせ箸より重いものは持ったことがなく、茶屋酒のしみこんだ身に、いきなりこういうつらい仕事をさせて、根性をたたきなおそうという荒療治でもって、働くことの尊さを教えるのである。

 叔父さんが登場してから、この噺は、骨格がしっかりしてくるように思う。
 
 矢野さん、もう一人、この噺の登場人物のことを書いている。
 
 落語には本筋に直接かかわりを持たない、たくみなエピソードが用意され、作品の効果を高めてくれる例が多いのだが、この『唐茄子屋』に出てくるお節介やきの職人などは、そんなエピソードのにない手として、じつにいい役どころをつとめている。姓名のほどは不詳だが、数ある落語の登場人物のなかでも私の好きな男のうち、五本の指にいれたい存在だ。

 まったく同感。
 唐茄子を積んだ天秤棒をかついでやって来た田原町。つまづいて転んだ若旦那から事情を聞いて、長屋の連中に唐茄子を売ってくれるあの男、好きだなぁ。
 
 矢野さん、この話を、こう結んでいる。
 勘当されたことによって、若旦那はひとの情を知ったわけで、言い変えれば初めてほんとうの世のなかに出たことになる。荒療治ではあるが、勘当もときには人生のお役に立つのだ。

 たしかに、一人で暮らし、社会の厳しさを経験することは、重要だ。
 私も、大学入学から一人暮らしをすることで、親の有難さを身に染みて感じた。
 勘当、ではなかったけどね^^
 
 もし、親の手に余る子供が、今の世で勘当されたら・・・・・・。

 田原町のあの男や、あえて厳しく働くことの価値を教えてくれる叔父さんのいない現代では、なかなか難しい問題ではある。

by kogotokoubei | 2019-02-23 18:20 | 落語の本 | Comments(6)
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矢野誠一著『人生読本 落語版』(岩波新書)

 矢野誠一さんの『人生読本 落語版』(岩波新書)から二回目。

 本書は大きく次の四つの章がある。
 1.命あっての
 2.渡る世間に
 3.金は天下の
 4.遊びをせんとや

 各章に、七つから八つの話がある。
 その話に登場する落語のネタは、巻末の索引によると、約八十。

 では、「第一章 命あっての」の中から、「墓碑銘」の内容をご紹介。

 乱雑をきわめた仕事机の片隅に、窮屈そうにファクシミリ兼用の電話器が置かれている。それでなくても機械音痴のアナログ人間といたしましては、ずいぶんと長いあいだダイヤル式の電話器を愛用していたのだが、必要にせまられてファクシミリを購入したのを機に、居間にあった電話器を仕事机に移したわけだが、おかげで仕事中に電話が鳴ってもいちいち机から離れる手間がなくなった。
 その仕事中にかかってくる電話だが、ご多分にもれず勧誘、宣伝、セールスに関するものがすこぶる多い。やれ資産運用だの、不動産だのと、縁なき衆生にいくら甘い言葉をささやいても、効果のないことがわかっていそうなものなのに、どこの名簿で調べたか、ちゃんとこちらのフルネームなど呼称して電話の相手をたしかめるあたり、ご苦労さまなことである。

 いまや、携帯あるいはスマホの時代だが、本書の書かれた2008年頃を考えると、たしかに、宅内の電話に時たまかかるのは、セールス関連がなんと多かったことか。
 そのセールスの中でも、私の経験でも、マンションの次に多かったのが、矢野さんが次に書いている、ある商品(?)についてであった。
 
 そんな電話のなかで、近頃めっきり増えてきたのが墓の勧誘である。先様の商売とあって、当方が相応の年齢になっていることまで、先刻調査済みなのである。せっかく調査してくださったお墓の業者には申し訳ないが、自分の墓と言い切るほどのものではないにしろ、一応私と私の配偶者には死んでから入れる場所がある。
 入会している日本文藝家協会の「文学者之墓」というのが富士霊園にあって、そこに江國滋といっしょに生前手続きをすまでたのが1991年のことだった。「文学者之墓」というのは、日本文藝家協会員のお墓のアパートみたいなもので、埋葬者名と代表作、死亡年月日と年齢が刻字されるのもで、江國滋とならんでわが名が赤字で刻まれている。隣人ともいうべき江國滋は97年8月に世を去って、赤い碑銘が黒になった。

 落語評論で私が敬愛する江國滋さんと矢野誠一さんのお墓が、隣同士なんだぁ。

 さて、この後に落語『お見立て』のあらすじが簡潔に紹介された後をご紹介。

 喜助が杢兵衛に「お見立て」を願った墓碑には、もっぱら戒名だの俗名だのが刻られていて、最近ではこの国の墓地でもしばしば目にするようになった墓碑銘の記されたものはない。
 その墓碑銘だが、ハンフリー・ボガートの墓石には、「おれに用があるときは口笛を吹いてくれ」と記されているそうだ。いかにもハードボイルド・タッチの映画でならした彼らしく、他人が選んだにせよ、生前自分できめていたにせよ、こんなにふさわしい墓碑銘はないと、そう思った。
 ところがこれが嘘なのである。嘘というのは、都筑道夫に「寄席番組の変った楽しみ方に関するささやかな報告」というエッセイがあって、このなかで、伝えられているような墓碑銘がボギーの墓には記されていないことを、実際に墓地まで足をはこぶことなく、日本で手にいれたさまざまな資料にあたって考証するのだ。
 都築道夫の調査によると、なんでもボガートの愛西ローレン・バコールが、ボギーからプレゼントされた純金製の呼子笛を、涙ながらに骨壷におさめたはなしが誤り伝えられたものだという。呼子笛には「なにか用があったら、これを吹くだけでいいのよ」の文字が刻まれていたというのだが、それがくだんの墓碑銘にすりかえられたのがことの次第だそうだ。
 嘘ではあっても、この「おれに用があるときは口笛を吹いてくれ」という墓碑銘は、いかにもハンフリー・ボガートにふさわしく、この役者の風姿をしっかりとらえて離さない。

 たしかに、ボギーにふさわしく、まんまと騙されるネタである。

 ローレン・バコールのデビュー作『脱出』(1945)で、ボギーとバコールは初共演しているが、この映画では、バコールがボギーに口笛の吹き方を教えるという場面のことが有名らしい。

 墓碑銘の風説は、そういう背景も含めて、広まったのかもしれない。

 それにしても、今のようにネットでいろいろ調べることの出来ない時代に、都筑道夫は、現地へ行かず、どうやって風評の誤りについて調べることができたのか。
 そのエッセイを、ぜひ読みたくなったなぁ。

 ちなみに、都筑道夫については、昨年7月に、『志ん生長屋ばなし』(立風書房)の解説から、兄の鶯春亭梅橋のことも含めて紹介した。
2018年7月11日のブログ

 
 
 さて、このあと矢野さんは、日本文藝家協会の墓に刻字できる代表作の名を明らかにしている。

 どの作品かは、実際にこの本でお確かめのほどを。


 この話からは、まことしやかな話も、実は自然と出来上がった風評や、巧妙な嘘の場合がある、ということがボギーの墓碑銘のことで学べる。

 そして、二人とも大好きな落語評論家でもあり名エッセイストでもある矢野さんと江國さんのお墓が、隣同士であるということを知ったことも収穫だった。


 私を富士霊園に行く気にさせないよう、矢野さんのお墓の名が赤いままで長く続くことを祈っている。
by kogotokoubei | 2019-02-22 12:36 | 落語の本 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛