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噺の話

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カテゴリ:落語の本( 227 )

 イングランドは、強かった。
 タックルもラインアウトもスクラムも。
 オールブラックスが、あれほど押し込まれるとは。
 エディーの日本語の挨拶も、嬉しいじゃないか。

 さて、ウェールズ対南アフリカ戦の前に、この記事を書いておこう。

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 シリーズ五回目。
 本書は、「東京かわら版」で連載していた「噺の細道」が河出から書籍化されたもの。
 「東京かわら版」への連載が、平成十六年一月からの五年間。
 単行本は、十年前、平成二十一(2009)年の発行。


 一回目は、目次を全てご紹介。
 二回目に、六十ある項目のスタート、第一章の日本橋だった。
 三回目は、第二章から谷中全生庵を取り上げた。
 四回目は、第三章から、浅草酉の市をご紹介。

 今回は、「第四章 隅田川流域と向島」から、「佃島」を取り上げる。

 あまりにも有名な地だが、知らないことも少なくない、ということが本書を読んだ印象。
 まず、冒頭から。

  雪ふれば佃は古き江戸の島   北條秀司

 の句碑が、思わぬ春の雪に一段と興を添えてくれた。「渡船跡」の重厚な石碑から右へ目を移した処にあり、隣は佃煮の「田中屋」だ。もう一軒の佃煮屋「天安」も、今日の雪で表暖簾が見えない。北條秀司の芝居「佃の渡し」は残念ながら観ていないが、それにちなんだ小唄「雪ふれば」がある。

  雪ふれば 佃は古き江戸の島
  千鳥啼くなよ あの笛は
  今年限りの 渡し船
  わしとお前は 今日限り
  (昭和五十二年、北條秀司作詞、三世飯島ひろ子曲)

 劇作家の北條秀司は、新国劇で辰巳柳太郎主演で大ヒットした『王将』が有名。
 
 ずいぶん前に、佃島に行ったことがある。
 しかし、北條の句碑、記憶がないなぁ。次に行った時はしっかり見なきゃ。

 さて、このあとには佃島の歴史が説明されている。

 豊臣秀吉が天下人の頃、伏見城に上がることになった徳川家康が、途中、摂津の住吉神社へ詣でようとした。渡るべき船がなくて困っていると、佃村の漁父彦作が漁船を漕いで送ってくれた。以来、伏見城に居る時も、また大阪城西の丸に移ってからも御膳の魚を任されることになり、そのほか密使の御用も勤めるようになったという。その後、徳川家康の関東入国に従って、佃村の漁師たちが江戸へ召されたが、その辺りから若干事情の異なる話もあるので、ことのついでに御紹介しておく。
 実は彦作は、家康の御船手御番であった石川八右衛門を頼って、江戸へ下ったというのだ。石川八右衛門は高崎藩の下屋敷であった隅田川下流の鎧島を拝領し、高崎藩の下屋敷は対岸の鉄砲洲へ移った。以来、八右衛門の移り住んだ鎧島は八右衛門島とも石川島とも呼ばれるようになる。八右衛門の後を追って江戸へ下った彦作も、江戸城へお魚御用の願いが許され、摂州住吉神社の権宮司(ごんのぐうじ)と漁師三十三名が江戸へ呼ばれ、石川島の干潟、百間四方を賜り、ここを埋め立てて、故郷の名にちなんで佃島としたのである。

 話としては、前段の家康ゆかりという筋書きの方が、物語があって良いと思うが、現実は後段の石川八右衛門との縁、ということかもしれない。

 本書では、この後、石川島は、寛永二(1790)年に、火付盗賊改役長谷川平蔵によって罪人の人足寄場としたことにふれている。
 「鬼平」ファンは、もちろん、よくご存じのことだが、この寄場が、明治半ばに巣鴨監獄に移り、跡地に石川島造船所ができて、その名が残ったことも説明されている。

 佃島の渡し船の歴史は、次のように書かれている。

 佃の渡し船は明治以後も踏襲されたが、昭和二(1927)年からは発動機船での引船となって、昭和三十九(1964)年に佃大橋ができるまでは、無料の往復運航をしていた。そして、夜遅くなって島へ帰りそびれた人は、島人が「えど」と呼んだ対岸から、「時やァいッ・・・・・・」と、島の船頭さんに迎え船の催促をしたらしい。昔は、急を要することを「時の用」と言ったから、夜更けて船頭を呼ぶ声もそんな含みがあって、「時やァいッ・・・・・・」に、なったのかも知れない。

 さぁ、ウェールズと南アフリカの「時やーい!」


by kogotokoubei | 2019-10-27 17:54 | 落語の本 | Comments(0)
 ラグビーワールドカップに夢中で中休みだったシリーズの、四回目。

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 本書は、「東京かわら版」で連載していた「噺の細道」が河出から書籍化されたもの。
 「東京かわら版」への連載が、平成十六年一月からの五年間。
 単行本は、十年前、平成二十一(2009)年の発行。

 一回目は、目次を全てご紹介。
 二回目に、六十ある項目のスタート、第一章の日本橋だった。
 三回目は、第二章から谷中全生庵を取り上げた。

 さて、今回は、「第三章 浅草近辺」から、「浅草酉の市」をご紹介したい。
 来週は、もう十一月だ。旬のネタ、と言えるかもしれない。


  人波に高く漂ふ熊手かな 島田青峰

 酉の市の起こりは、葛飾花又村の大鷲(おおとり)神社に農民が収穫を感謝して鶏を奉納したことによるという。ところが、毎年十一月、酉の市の境内で売られる熊手が、「運を鷲(わし)掴みにする」と持て囃されるようになり、ようすが一変した。
 
  ぼんござへ木枯らしのする酉の町

 境内での野天博打が盛んになったのである。

  酉の町舟でもふせてゆくところ

 江戸から花又村へな綾瀬川を舟で行ったが、その舟中でも早々と壷皿博打が行われたのであろう。ちなみに酉の町とは、当日の賑わいを称した言葉である。

 浅草酉の市の起源が、葛飾花又村であることを知らない人は、少なくないだろう。

 花又村は、現在の足立区花畑地区。東京の北東、埼玉県のすぐ近くだ。

 では、なぜ、いつ頃、浅草に酉の市の舞台が移ったのか。

 安永二(1773)年、博打の取り締まりが強化されると、花又村の酉の市は急速に廃れてしまい、逆に浅草の鷲神社が賑わいを見せ始めた。

  お多福に熊手の客がひっかかり

 鷲神社の近くには吉原が控えていたからである。
 普段は大門よりほか出入りのできない廓も、この日ばかりは西側のお歯黒溝(どぶ)へ跳ね橋を下ろして、自由に出入りをさせた。当日は、そのくらいに人手が多かったということであろう。さらに明治の頃になると、酉の市の午前零時零分に、裏門を八文字に押っ開いて景気を煽ったという。同時刻に鷲神社のほうでは、大太鼓の音を合図に開運札を売り出し、その一番札に参詣人が殺到したのである。吉原の各店では、熊手を預かるために帳場の前に青竹を横に結び立てて、お酉様帰りのお客を待つ受けたものだという。ともあれ、まずは鷲神社へ参拝だ。

 時代劇映画で、酉の市の日の客が、熊手を吉原の店に預ける場面を見た記憶があるが、なんの映画か、忘れたなぁ。

 さて、落語との関係は。

 境内すぐ右側には、昔ながらに唐の芋を売っている店があって、これも嬉しいことだ。唐の芋は八つ頭の丸蒸を、五葉の笹(おかめ笹)に通したものである。「鰍沢」で、身延山御参詣の旅人が、吹雪の山家で出会ったのが、吉原の花魁月の兎(つきのと)で、そのいろり端での話に、この唐の芋が出てくる。
「やはり、花魁でッ・・・・・・、あれは、確か、先おととしの、二の酉の晩で、手前の連れが、大変に酔っぱらっておりまして、廊下で踊って、唐の芋を踏ンづけて、滑って転ぶやら、えらい騒ぎを、やらかしまして・・・・・・、その時、あたくしの相方に出て下さいましたのが、花魁で」
 と、噺の情景を思い出して戴きたい。

 熊蔵丸屋(くまぞうまるや)の月の兎花魁、落語の世界で、怪談の幽霊を別にすると、“恐い女性”の筆頭かもしれない。
 ちなみに、その発想や行動で“恐い”と思うのは、「品川心中」の、お染かな。
 そして、・・・いや、これ以上はやめておこう。現実世界の恐~い女性の犯罪などを知ると、落語の世界の女性は、可愛く思えるではないか。

 
 さて、今年の鷲神社の酉の市は、同神社のサイトに、11月 8日(金)が一の酉で、11月20日(水)が二の酉と案内されている。
浅草鷲神社のサイト

 引用を続ける。

 お詣りを済ませて、社務所で<かっこめ>と<福財布?を買う。<かっこめ>は最も小さな熊手で、稲穂と金箔、それに「開運之御守」札が付いている。

  掌の熊手の運を買ひにけり  荻原朋子

 鷲神社のサイトに、<かっこめ>は次のように説明されている。

鷲神社の熊手御守は開運・商売繁昌のお守りとして「酉の市」のみに授与されます。一般に「かっこめ」「はっこめ」といわれ神様の御分霊です。例祭日の午前零時を期して打ち鳴らされる一番太鼓と共に授与され、一番先に熊手御守を受けた人に「一番札」として神社の金小判が授けられます。

 あら、一番札を争う人がたくさんいるようだ。

 
 酉の市、久しぶりに行ってみようかな、などと思っている。

 <かっこめ>、買おうかな。

 しかし、人出はすごいのだろう。

 本書でも、正岡子規の次の句を紹介している。

  吉原ではぐれし人や酉の市

 いやいや、あっしは吉原に行くんじゃないですよ、あくまで酉の市^^

 
by kogotokoubei | 2019-10-24 14:07 | 落語の本 | Comments(0)
 台風19号の影響で、バイトのお店の営業時間が変更となり、シフト変更もあって、私は休みとなった。

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 ということで、このシリーズの三回目。

 柳家小満んが「東京かわら版」で連載していた「噺の細道」が河出から書籍化されたのが、『江戸東京落語散歩ー噺の細道を歩く』。

 「東京かわら版」への連載が、平成十六年一月からの五年間。
 本は、十年前、平成二十一(2009)年の発行。

 前回は、「日本橋」からご紹介した。第一章の最初の項目だった。

 今回は、「第二章 上野を中心に」から、「谷中全生庵」を歩く(?)ことにしよう。
 さっそく、冒頭から引用。

 新聞の催物案内に、「山岡鉄舟展」(谷中全生庵にて)とあって、出掛けることにした。
 不忍池通りの団子坂交差点は、二つの坂道の谷間にあたる。片方が文京区の団子坂で、片方は少し入った処で台東区の三崎坂(さんさきざか)となる。八代目桂文楽十八番「悋気の火の玉」で、火の玉を鎮めるお経を谷中の三崎、木蓮寺の和尚に頼むが、その架空の木蓮寺はこの辺りということになる。いや、それよりも、ここ三崎村は三遊亭円朝の名作「牡丹灯籠」の名場面として登場する。お盆の十三日、死んだはずのお露さんがカランコロンと、萩原新三郎の処へ訪ねて来て枕を交わす。人相見の白翁堂勇斎に諭されて、お露の住んでいるという谷中三崎村を尋ねてみるが、一向に知れない。その帰り道、新幡随院を通り抜けようとして目についたのが、新しい角塔婆に掛かった牡丹花の灯籠で、それは毎晩、お婆さんのお付きの女中お米が堤げてくる灯籠であったのだ。その新幡随院の跡地が現在の銭湯「朝日湯」で、三崎坂へ掛かってすぐの右側にある。
 江戸末期の古地図によると、新幡随院の隣のわずかな土地が三崎町で、さらにその隣には三軒の寺が並んでおり、その三軒目が現在もある天竜寺だ。この寺は「指物師名人長二」の、育ての親の菩提寺として出てくる。その天竜寺の前にあるのが、円朝の墓所のある全生庵だが、江戸の地図には載る由もない。すなわち、谷中全生庵は、明治十六(1883)年に山岡鉄舟が建立した寺なのである。

 この冒頭部分だけで、「悋気の火の玉」「牡丹灯籠」「名人長二」の三つの噺が登場だ。

 「名人長二」については、森まゆみさんの『円朝ざんまい』を元に、この噺について複数回に分けて紹介した。
 その中で、もちろん、天竜寺は登場する。
2013年8月28日のブログ
 森さんは天竜寺ではなく天龍院としていたが、どうも天龍院のほうが正しいようだ
 『円朝ざんまい』では、湯河原で出生の秘密を知った長二が、実の親達の無慈悲を嘆き、養父の供養をと、谷中三崎の天龍院へまいって、和尚に特別の回向をたのみ、丹精をこらして経机、磐台(きんだい)をつくって本堂に納め、両親の命日には、雨風をいとわず墓参りをするのだった、と書かれている。
 
 新幡随院跡地の朝日湯は、まだあるのかな。
 銭湯のことだから、佐平次さんにお聞きしなけりゃ^^

 山岡鉄舟のことは、あまりにもよく知られているので、本書には丁寧に説明もあるが、割愛。

 とはいえ、全生庵の名の由来は、外さないでおきたい。

 明治七(1874)年、鉄舟が淀橋に住んでいた頃、近所の菓子屋に全生庵と書かれた扁額があり、尋ねてみたところ、この額は鎌倉建長寺の開山大覚禅師の書で、禅師が船で難破をして漂着した谷中三崎に(ということは、当時は湾の岬だったのだろう)、茅堂を建て全生庵と名付けた。その頃、近くに住んで親しくしていた菓子屋の先祖が、その扁額を貰い受けて代々伝えられたものだという。菓子屋の当主はこの扁額を鉄舟に譲りたいと申し出たので、その好意を受けることにして鉄舟の自邸に保存をしていた。 その後、天皇の北陸御巡行に従って訪れた富山県で、名刹国泰寺の越叟和尚と知り合い、帰京後、屏風千二百双の揮毫をして、国泰寺の本堂修復を遂げさせた。明治十三年、山岡鉄舟は、維新の際に国事に殉じた霊を慰めるために、一寺の建立を思い立つ。越叟和尚に相談をすると、谷中三崎に国泰寺の末寺が廃院となっているとのことで、この寺を再興させることにした。明治十五年、寺の隣接地を入手したところ、ここがかの菓子屋の宅地であったので、廃院になっていた寺がすなわち、往時の全生庵の所在地であったことが判明した。この奇縁に驚いた鉄舟は、翌明治十六年一月に普門山全生庵の官許を得て、越叟和尚が国泰寺と住職を兼ねることになった。
 富山の国泰寺は、臨済宗の名刹。臨済宗国泰寺派の大本山。
 そのホームページの「国泰寺について」からは、全生庵へもリンクできる。
「大本山 國泰寺」のサイト

 栄西を開祖とする臨済宗は、禅問答(公案)が行われる。

 鉄舟と円朝との禅を通じたつながりは、つとに知られている。

 もちろん、小満んは、円朝が鉄舟との交流から、「無舌」の心境にいたったことを紹介している。「無舌居士」の号を天龍院の滴水禅師から授かったと書いた後、次の円朝の言葉で締めている。

  無舌の号を得て

 閻王に舌を抜かれて是からは
    心のままに偽も云はるる 三遊亭円朝 

 今ほどまで、MLBのナショナルリーグの優勝決定戦、第一戦を見ていた。

 アニバル・サンチェスという35歳の投手が、八回ツーアウトまでノーヒット・ノーランのピッチング。
 この記事を途中で書くのをやめて見ていたが、150キロには届かないスピードでも、淡々とコーナーをつくベテランの打たせて取るピッチングに、禅の悟りのようなものを感じた。

 ナショナルズ、強いなぁ。

 さぁ、次回は、どこを散歩しようか。

 まずは、三回目の記事、これにて、お開き。
by kogotokoubei | 2019-10-12 12:54 | 落語の本 | Comments(2)
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 さて、このシリーズの二回目。

 柳家小満んが「東京かわら版」で連載していた「噺の細道」が河出から書籍化されたのが、『江戸東京落語散歩ー噺の細道を歩く』。

 「東京かわら版」への連載が、平成十六年一月からの五年間。
 本は、十年前、平成二十一(2009)年の発行。

 第一回では六十の項目を含む目次をご紹介した。

 その最初は、「日本橋」。

 やはり、旅(?)の始まりは、ここからだろう。


一 日本橋

  道のりの総元締めは日本橋

 江戸時代、各街道には一里(約3.9キロメートル)ごとの一里塚があったが、その起点は日本橋である。現在の橋は石造の二連アーチで、明治四十四(1911)年に架けられたものだが、橋の中央には「日本国道路元標」があって、北は札幌、南は鹿児島までのキロ数が表示されている。「盃の殿様」のお国は「江戸よりおよそ三百里」ということであるが、はたしてどの辺であろうか。遠国から、江戸吉原の太夫へ盃を遣わせた、殿様の思いがいじらしい。


 本書にも写真が掲載されている、日本橋の「日本国道路元標(げんぴょう)」を、Wikipediaの「道路元標」から、拝借。
Wikipedia「道路元標」

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 「盃の殿様」の、江戸から三百里の地、ほぼ1200キロの場所はどこか。

 あの噺からは考えると、江戸から西にの地にある藩。
 ざっと距離計算をすると、日本橋から熊本城までが、ほぼ1200キロ。あのあたりと思って、噺を聴いている。

 小満んのこの噺は何度か聴いているし、喜多八の高座も懐かしい。

 さて、もう少しご紹介。

 江戸時代の日本橋は、幅四間三尺(約八メートル)、長さ二十八間(約五十メートル)で、欄干の柱頭には擬宝珠があったが、明暦三(1657)年の大火から安政二(1855)年の大地震まで、計九回も焼け落ちている。両国の江戸東京博物館には、檜造りの日本橋が半分だけ復元されているが、風雨に晒されていないのでちょっとよそよそしい。伊勢神宮の宇治橋の渡り心地と合わせて、日本橋を想像したことを思い出す。

  押送り日本と江戸の間に来る

 百万都市、江戸の魚河岸へは毎日数万尾からの魚が入荷したが、江戸前のものだけでは間に合わず、伊豆、相模、安房、上総、下総などからも、毎朝一斉に魚が届いた。船は江戸湾から大川へ、そして日本橋川に入り、江戸橋を潜って魚河岸へ着く。中でも威勢のいいのは、風を頼りにしない八丁櫓以上の櫓船で、これを押送船と言ったが、こうして運ばれた初鰹が高いのか当然であろう。

  初鰹むかでのよふな船に乗り

 現在の橋袂(たもと)には「日本橋魚市場発祥の地」の記念碑が乙姫像と共に建っているが、むろん往時の繁盛ぶりを偲ぶには物足りない。日本橋を貫く中央通りが江戸の通町で、道幅十間余(約十八メートル)だったというから、日本橋の橋幅から察しても広々と感じられたはずだ。

 幅四間三尺(約八メートル)の日本橋から、幅十間(約十八メートル)の中央通りに出たなら、たしかに、広々と感じたことだろう。

 この後は、こう続く。

 橋袂を右へ曲がり、江戸橋の交差点を少し行った処に、楊枝の「さるや」がある。宝永年間(1704~11)の創業で、都々逸付きの爪楊枝は色気があって楽しい。<大入>や<金千両>と書かれた楊枝箱も、景気がいい。職人技の変わり楊枝は額入りで飾られており、その何品かは商品化していた。記念に<鰻>と<櫂>を買う。江戸の歯ブラシ房楊枝も飾られていたが、これもぜひ噺の「明烏」のためにも商品化を、と願う次第である。
「・・・・・・、なにを言ってやがンでい、てめンとこなんざアもう、二度とフタタビ」
「おいおい、その房楊枝をどうにかおしよ、歯磨きがポロポロこぼれて汚ねえな、おい・・・・・・」
 甘納豆と共に、わが師八代目桂文楽十八番「明烏」の見せ場であった。
 こういう文章が、まさに小満んならでは。

 この楊枝の「さるや」は、今も営業している。
 ホームページのトップ画面に「ドラえもんコラボレーション」楊枝が紹介されているのが、なんとも可笑しい。
「日本橋さるや」ホームページ

 <大入>の楊枝箱を買って、小満んに差し入れしようかな^^

 本書では、このほかにも小網町から「宮戸川」、小網神社、別名、稲荷堀稲荷(とうかんぼりいなり)のことから「髪結新三」のことにも触れている。

 そこまで紹介すると、ほとんど引用することになってしまうので、日本橋からのご紹介、これにてお開き。

 さぁ、これからバイトに行かなきゃ^^
by kogotokoubei | 2019-10-09 14:27 | 落語の本 | Comments(0)
 ラグビーの記事は、いったんお休みして、本来の落語のこと。

 江戸落語に縁(ゆかり)のある場所に関する本は、数多く出版されている。
 
 その場所を歩いた上で書かれたものも多い。

 拙ブログで扱ったものだけでも、次のような書名が並ぶ。

  三遊亭圓生著『江戸散歩』
  田中敦著『落語と歩く』
  河合昌次著『江戸落語の舞台を歩く』
  佐藤光房著『東京落語地図』
  吉田章一著『東京落語散歩』
  北村一夫著『落語地名事典』
  池内紀著『はなしの名人-東京落語地誌』

 まだ、ご紹介していない大事な本があった。

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 柳家小満んが「東京かわら版」で連載していた「噺の細道」が河出から書籍化された、『江戸東京落語散歩ー噺の細道を歩く』。

 「東京かわら版」への連載が、平成十六年一月からの五年間。
 本は、十年前、平成二十一(2009)年の発行。

 「はじめに」で書かれているが、書籍化にあたっては、当時、木杳舎の編集者だった野口卓が仲介したとのこと。
 野口卓は、その後に『軍鶏侍』や『ご隠居さん』で人気作家となった。ちなみに、野口卓は小満んの独演会にもよくお見えになるようで、落語のネタが満載な『ご隠居さん』第一作の解説は、小満んが書いている。
 『ご隠居さん』のことは、そのうち記事にしようと思う。

 さて、この本のこと。
 せっかくなので(?)、目次を詳しくご紹介。

第一章 日本橋界隈とその周辺
   一  日本橋
   二  人形町
   三  柳橋
   四  日本橋三井越後屋
   五  霊岸島
   六  神田丹前風呂
   七  茅場町
   八  柳原
   九  石町
   十  浜町

第二章 上野を中心に
   一  上野東照宮
   二  湯島天神
   三  お富士さん(駒込富士神社)
   四  神田明神
   五  谷中全生庵
   六  小石川是照院
   七  上野蓮見茶屋
   八  上野芋坂
   九  下谷一葉記念館
   十  上野浄名院
   十一 下谷神社

第三章 浅草近辺
   一  浅草寺
   二  浅草酉の市
   三  浅草駒形堂
   四  浅草首尾の松
   五  山谷
   六  猿若町
   七  浅草三味線堀
   八  浅草富士横丁

第四章 隅田川周辺
   一  両国回向院
   二  向島
   三  深川小名木川
   四  佃島
   五  向島百花園
   六  新橋浜離宮
   七  深川清澄公園
   八  亀戸天神
   九  永代橋
   十  南千住
   十一 北千住

第五章 江戸近郊・一
   一  王子稲荷
   二  高田面影橋
   三  赤坂円通寺
   四  芝愛宕神社
   五  九段坂靖国神社
   六  神楽坂
   七  巣鴨
   八  内藤新宿
   九  芝大神宮
   十  板橋
   十一 神宮前
   十二 巣鴨鶏声が窪

第六章 江戸近郊・二
   一  目黒不動
   二  品川青物横丁
   三  川崎大師
   四  飛鳥山
   五  堀の内
   六  白金清正公様
   七  品川
   八  品川鈴ケ森


 目次を読むだけでも、結構、わくわくする。

 それぞれ落語に縁(ゆかり)の場所について、小満んならではの、川柳などを含む内容が、楽しいし、ためになる。

 関内ホールの小満んの会でマクラで聞いたことを思い出す内容も、いくつかある。

 目次だけでも長くなったので、内容のご紹介は、次回より。

 さて、どこを散歩しようか・・・・・・。


by kogotokoubei | 2019-10-08 20:54 | 落語の本 | Comments(4)
 8日に初めて天満天神繁昌亭に行くことができた。
 
 雀三郎と染二の落語を堪能。

 あらためて上方落語の素晴らしさを痛感した。

 しかし、その素晴らしさを感じない、東の落語愛好家の方も少なくないだろう。

 たとえば、『一人酒盛』という噺を語る時、その優れた演者として圓生の名を挙げる人は多い。たしかに、圓生のこの噺は、素晴らしい。

 しかし、私なら、迷うことなく六代目松鶴の名を挙げる。

 聞かず嫌いの方も多かろうなぁ、と思う。

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立川談志著『現代落語論』(三一新書)

 そんなことを考えながら、久しぶりに、談志の名著『現代落語論』をめくって、彼が上方落語について書いている章を読んでみた。

 「上方落語と大阪の寄席」の章からご紹介したい。

 よく寄席ファンの中で、落語は東京で、漫才は大阪だ、なんていってるのを聞くが、なるほど漫才はたしかに大阪に歩があるといっても間違いじゃなかろうが、落語は違う。上方はそれなりの伝統があり、けっして東京落語にヒケをとるわけではない。
 第一、東京の噺家が演じて、純粋無垢の江戸前の噺だと一般に思い込まれているような落語が、じつは上方落語のネタであり、焼き直しであるケースが多い。
 この後、『らくだ』が上方から東京に移されたものであることや、『宿屋の富』の元は『高津の富』、『長屋の花見』は『貧乏花見』がオリジナルであることなどを紹介している。

 その後、このように書いている。

 それに、東京落語はわかるけれど、大阪落語はわからないというお客さんも多い。
 上方落語は、騒々しくて、またしつっこいという感じを持っているんじゃなかろうか。
 上方落語の特徴は、お囃子とのコンビでできあがっているといってよいくらいだから、そんなところから、うるさくてかなわない、なんて思う人もいるだろうー。
 しつっこいというのも、上方落語の馬鹿の表現の一つに、ダミ声で、ダアダアのしゃべり方をし、馬鹿丸出しといったやり方をするのだ、与太郎風のサラッとした演出を聞きなれている東京の観客には、イャ味に聞こえるのかも知れない。そうでなくても、江戸弁と上方弁の口調に差があるのだから、なおさらだ。
 しかし、どっこい、本当に聞き込んでいったら、絶対に上方落語の虜になることわたしが請け合ってもいい。
 論より証拠で、ゆっくりと時間をかけ、たとえば松鶴さんの『高津の富』、桂米朝さんの『池田の猪買い』なんて話を聞いてみると、上方落語の本当の楽しさをみつけることができる。

 『現代落語論』は昭和四十(1965)年の発行。談志は、まだ二十歳台。
 真打になって、まだ二年。

 しかし、二ツ目、小ゑん時代から上方の若い噺家たちとの交流もあった。
 上方落語についても、十分に敬意を表していたことが、分る。

 上方落語への理解、若手上方落語家の成長のために、こう書いている。

 上方落語を東京で演じる、これがいいと思う。落語がプログラムの中心になっている東京の寄席は、坐っている演るようにできているから、だだっ広くもないし、大阪の若手にこの東京の寄席へきて、もまれ、芽をだしてゆく。苦しいかも知れないが、東京の若手といっしょになって、本当の上方の噺を残すべきだと思うが・・・・・・。が上方噺を東京でかりに成功したってしょうがない、やはり上方でなければ、というかも知れぬが、そんなことはどうでもいい。東京~大阪は、もはや三時間なのだ。

 良い提言だと思う。

 東京~大阪は、今は、三時間を切っている。

 東京落語大好き、上方は苦手という方、あの談志が、請け合っている。

 音源もたくさんあるし、最近では東京の寄席に上方からの出演も増えてきている。

 ぜひ、聞かず嫌いの方に、上方落語の楽しさを知って欲しい。
by kogotokoubei | 2019-09-18 12:36 | 落語の本 | Comments(4)
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三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)
 
 このシリーズ、最終の六回目。

 圓生と志ん生が満州に行っている間に、第三次落語研究会は短い歴史を閉じたことが、前回まで。
 では、その後。

 それから志ん生やあたくしが満州から帰ってきましてから、第四次落語研究会というものができました。これものちに出演料云々のことでもってつぶれてしまって、それで現在の落語研究会は第五次になります。今の国立劇場(こくりつ)でやっておりますが。

 あら、第四次については、ほとんどスルーか^^

 ということでWikipediaの助けを借りて、少し補足したい。
Wikipedia「落語研究会」

第四次

1948年~1958年
全115回開催
旗揚げ 1948年10月9日 千代田生命ビル[10]七階講堂

会場 千代田生命ビル
神田須田町 立花 (1954年廃業)
東京ヴィデオ・ホール(1954年12月~)[11]

最終興行 1958年4月19日

発起人 林家彦六
6代目春風亭柳橋
8代目桂文楽
5代目古今亭志ん生
3代目三遊亭金馬
2代目三遊亭円歌
6代目三遊亭圓生

賛助会員 7代目林家正蔵
5代目柳亭左楽
8代目桂文治
2代目桂小文治
6代目三升家小勝
3代目桂三木助
初代柳家権太楼
5代目古今亭今輔
3代目三遊亭小圓朝
8代目三笑亭可楽
5代目春風亭柳好
8代目春風亭柳枝

主事 今村信雄

解散の理由 発起人の中に、ギャラが安すぎるという理由で出演拒否する者が現れ、金銭関係で内部で衝突がおこったため。
 圓生自身も発起人の一人で、10年も続いた会だったのか。

 あくまで『江戸散歩』という本の「日本橋」の章での記述なので、第一次落語研究会が主体となっていることは分かるものの、第四次への記述の少なさは、疑問。

 引用した文の次に、今に続く第五次について圓生はこう書いている。

 これは本当のことを申しますと、あたくしは反対をしたんです。落語研究会という名前をつけるにはもっと若手の人を選(すぐ)ってですね、やはりこの人ならば将来伸びるという人を、落語研究会というものをばその若い人達にやらして、それからあと旧来、落語研究会に関係のあった者は代りばんこか何かで、一人ずつとか、あるいは二人ずつぐらい賛助という名目で出をして、若い人の手に委ねた方があたくしはいいという、論をはいたんですが、死んだ文楽さんが、「いやァ、どうせやるんならば落語研究会という立派な名があるんだから」それでやりたい、とこういうわけで。

 文楽には、圓生もさからえなかった、ということか。
 
 実は、この後、第四次についての批判が登場する。

 それは名前も立派で会も立派なんだけれども、第四次なんぞもやっぱりだらしのない事をした、いわば上部(うえ)の人があまりだらしのない事をしすぎたからつぶれてしまった、お客様もだんだん来なくなった・・・・・・。名目だけは会員になっていて、さらに出を演しないてェ者が多くなってきちまった。だからそのまた轍をふむのはあたしは厭だから、そういうふうに新たにやったらどうかと云うんですが、「そりゃやっぱり落語研究会と云えばお客様の方でも、古いかたは名前を知っているから」というわけで、それが現在の国立劇場(こくりつ)に残っておりますあの会なんですが。
 実際に会員の中の誰が出演せず、出演料をめぐる騒動の主も書かれていないが、圓生にとっては、それすら思い出すのも嫌だったのかもしれない。

 さて、つい長くなったシリーズ、圓生の言葉も借りて、お詫びしよう^^

 日本橋でやったという常磐木倶楽部がありますから、その話に触れたわけですが・・・・・・大分長くなってすみません。この辺で橋を渡ることにいたします、向うがわへ・・・・・・。

 来週23日、613回目の第五次落語研究会は、次のように案内されている。
「TBS落語研究会」のサイト

【演者】
三遊亭歌太郎   「磯の鮑」
林家たけ平    「扇の的」
柳家權太樓    「短命」
柳家小里ん    「一人酒盛」
古今亭志ん輔   「唐茄子屋政談」

 私は行かないが、なかなかの顔ぶれではないか。

 しかし、仲入りで帰るお客さんも少なくないからなぁ。

 志ん輔の唐茄子屋、通しに違いないから、ぜひ権太楼の後に帰ろうと思っている方もトリまで残って欲しいものだ。

 それだけ、落語研究会のトリが大事であることは、このシリーズでご紹介した通り。

 ということで、これにてこのシリーズお開き。
 長らくのお付き合い、ありがとうございます。

by kogotokoubei | 2019-07-20 09:07 | 落語の本 | Comments(0)
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三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)
 
 このシリーズ、五回目。

 第一次落語研究会が、明治三十八(1905)年に始まり大正12(1923)年の関東大震災で終了するまでの18年間には、若手や中堅の噺家さん達も台頭し、中には抜擢されて研究会に名を連ねる噺家さんもいた。

 当時の“若手”のことを、圓生はこう書いている。
 
 当時、若手、若手といいましてあたくしの父親ですね、それが圓窓時代。それから大阪へ行って三代目圓馬になりました七代目朝寝坊むらく。こないだ亡くなった志ん生の師匠だった、その前の志ん生。本名鶴本勝太郎といいました。馬生から志ん生になったんですが、その他八代目桂文治になった人、本名山路梅吉といった、こういう人がもうみんな、ばりばり売り出して、聞いておりましても実にお客様に受けるし、うまいなと思う人達ですが、相当みな腕を上げてきた。
 その時に、楽屋で幹部連中やまた先生方が、もうこの人達も相当にみんなよくなってきたから深いところへあげる・・・・・・深いところって、つまり幹部が二人あがりその間へ順々に入れて行くわけですね。交替で。それであとへ幹部が二人出るという事になっていた。次会からトリを取らしてもいいんじゃないかって事になった。
 トリというのは一番最後へ上げる事です。じゃァこれと、これとこれと、これと、トリを取らしてみようという事に決定した。そこでみんなトリを取るようにと云った時にいっせいに手をついて、研究会のトリだけはどうぞご勘弁を願いたいといってあやまったんですが。これはどうも実に偉いもんだと思います。やはりいかにできても若手であって、まだまだその幹部には及ばざるところは多々あるわけなんです。しかしみんな人間ですから、自惚れはありましょう。俺はまずいと思ったら高い所へ上がって喋っちゃいられないんだから。だから各自自惚れはあっても、なおかつ自分の芸は分っている。だから研究会のトリ席にまわってどうなるかてェ事を考える。できないとは思わないでしょうけれども、研究会のトリだけは勘弁していただきたいと云っていっせいに断っちまった。
 今の人間ならば「あァ。よろしゅうがす」てンんで、軽く引受けたでしょうけれども、やはりそれだけの芸に対する心掛けというものが昔と今とは時代も違い、変ったのかも知れませんが、なかなかやかましい会でした。
 第一次落語研究会が、どれほど権威のある会だったかが察せられる。

 三代目の圓馬は、八代目文楽の芸の上での師匠として有名。三代目金馬も、多くの噺を伝授された。その圓馬でさえ、朝寝坊むらく時代、研究会のトリだけは受けることができなかった、ということか。

 圓生が名を挙げた三代目圓馬や四代目の志ん生、八代目桂文治は、第一次落語研究会の準幹部に名を連ねていた人。準幹部の中で、圓生は名を挙げていない人に、三代目蝶花楼馬楽がいる。岡村柿紅の推薦で抜擢され出演し大絶賛された。一部の新聞は「名人馬楽」とまで誉めた。しかし、彼はそのチャンスを生かすことなく、四十歳台で病のため旅立った。馬楽の人生の頂点は、落語研究会に出た時だったかもしれない。

 さて、紹介した文の後、圓生はこう続けている。

まあそんな思い出がこの宮松の研究会にはずいぶんありました。こりゃ大正十二年八月まであって、あたくしもその研究会へずっと行ってたわけですが、それが九月に大地震があって、そしてこの第一次落語研究会というものがなくなります。

 ということで、そろそろ、第一次から第二次への“替り目”である。

 とはいえ、関東大震災のダメージは大きく、復興の声は、昭和も少し経ってからのこと。
 本書の著者、六代目圓生も、大いに関わることとなった。

 再興落語研究会 第二次は先代圓生、父親の希望でわたくしが八方先生がたにお願いしてやっと再興したのが、昭和三年三月十一日、茅場町薬師内宮松亭で開催、第二回より神田立花亭に移り、東宝に変り、さらに日本橋倶楽部(当時日本橋区浜町河岸)、それも空襲はげしきため、昭和十九年三月二十六日研究会臨時大会、お名残り公演、会費金二円税共。

 この昭和十九年三月二十六日の最終回の出演者が、紹介されている。
 代数と本名も記されている。
 春風亭柳枝を、七代目、としているには八代目の誤りと思うので修正したうえで引用。

 この時の出演順
  桂文雀(現橘家圓蔵 市原虎之助)
  柳家小三治(元協会事務員 高橋栄次郎)
  船勇亭志ん橋(故三代目三遊亭小圓朝 芳村幸太郎)
  桂右女助(故三升家小勝 吉田邦重)
  春風亭柳枝(故八代目 島田勝巳)
  三笑亭可楽(故七代目 玉井長之助)
  三遊亭金馬(故三代目 加藤専太郎)
  三遊亭圓生(著者 山崎松尾)
  三遊亭圓歌(故二代目 田中利助)
  桂文楽(故八代目 並河益義)
  柳家小さん(故四代目 平山菊松)
 以上をもって一時閉会となった。

 昭和三年から十九年まで16年間も続いた第二次落語研究会、その開催にご本人も奔走したようなのだが、この本で書かれているのは、これだけ。

 すぐ後、第三次について、こう書いている。

 第三次はあたくしは知らなかった・・・・・・。それはあの満州へ行きましてね。志ん生とあたくしと二人帰れなかった。その留守中に第三次落語研究会というものはできたんでございます。ところがこれは短命にして、五回か六回やってつぶれてしまった。
 だいたいこの落語研究会というものはこの人と、この人を、というんで初めから人選をして、ちゃんとまじめに噺をする人、本当の落語というものをやるべき本筋のものというのか規定でございます。
 ところが第三次の時にはそうではなくして、そういうふうな初めから制限をするてェ事はよろしくない。一般の噺家を入れてこそ、本来の落語研究会であるからその制限をして、初めから差別をしてやるてェ事はかしからんことであるという・・・・・・。
 論法はたいへんにお立派なんですがね、駄目なんです。誰でも彼でも出演(で)られるという、それでは本来の研究会にはならないわけで。だからどこへでもこれはあてはまるわけなんですね。政治でも、それから芸界でも。一般に平等に、こうこうやったらいいという・・・・・・いかに論法が立派であっても、やっぱり一つのちゃんと固まったもの、芯がなくちゃいけないんじゃないかと思います。
ですから第三次落語研究会というものは、五回か六回やったけどお客様もこない。ま、云っちゃ失礼だが、その人選は落語研究会へ出る噺家じゃないてェのが出演(で)ていたわけなんです・・・・・・。それがためにつぶれてしまった。

 ということなのだが・・・・・・。

 Wikipediaの「落語研究会」で確認すると、第三次は、会長に久保田万太郎、参与に正岡容と安藤鶴夫の名が並んでいる。顧問には、渋沢秀雄も登場。
Wikipedia「落語研究会」

 しかし、昭和21年2月から8月までと、たしかに短命であった。

 立派な論法が道を誤らせることがある・・・というのは、なかなかに奥深い指摘ではなかろうか。

 短命だったのは、圓生が指摘するがごとく、“芯”がなかったからか。

 その“芯”となるべき人が、満州に行っていて不在だったから、という声が、この文章からうっすら聞こえてもくるなぁ。

 というわけで、次の最終回では、第四次と第五次についてご紹介。

by kogotokoubei | 2019-07-18 12:54 | 落語の本 | Comments(0)
 昨日のアクセスランキングでも、志ん生と『替り目』について書いた過去の記事へのアクセスが100近かった。

 「いだてん」の影響なくしては、考えられない。

 14日の放送「替り目」には、三つの“替り目”の場面が登場した。

 一つ目は、ネタと同様に、若き志ん生が、自分では売れない納豆を女房のりんさんが売りに出かける、と言って出かけた(と思っていた)後、出来すぎた女房への感謝の思いを呟いていたら、まだ、りんさんがそこにいた・・・「元帳を見られた!?」という場面。

 そして、田畑政治が、金栗四三に三度出場したオリンピックでの一番の思い出は何かと質問したところ、紅茶と甘いお菓子が美味かったこと、という答えに呆れて、帰ってくれと追い出した(と思っていた)後、やはり日本人オリンピック出場第一号の四三は偉い、と呟いたところ、まだ、そこには四三がいたという、落語『替り目』へのオマージュ(決して、パクリではない^^)の場面。

 そして、三つ目は、田畑政治に向って「さよなら」と金栗四三が呟いたように、四三が熊本に帰ることになり、田畑が今後の主役になる、という“替り目”である。

 さすがのクドカン、やってくれる!

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三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)
 さて、このシリーズ、四回目。

 第一次落語研究会は明治三十八年に始まり、関東大震災の影響で終了する大正十二年まで続いたわけだが、後半、若き日の圓生(当時は、圓童)も、その権威ある会に接することができた。

 そして、得がたい体験をしている。

 いや怖い会だと思ったのは、当時の幹部は四人でした。圓喬、圓左の二人はもはや歿していたので、圓右、圓蔵、小圓朝、小さんの四人です。それに圓右は三遊派の最高幹部であり出演者の中でも権力がありました。その圓右の倅、小圓右(前名圓子)が春に真打昇進をして、圓右も倅をどうか出世をさしてやりたいという親心で、研究会へ出してやりたいというその心持は分りますが、あるとき研究会へ圓右が出て噺にかかる前に、
「さて、あたくしの倅小圓右でございますが、今年の秋頃より、当落語研究会へも出して頂くことに相成りましたので、その節はよろしくお引立てを願います・・・・・・」
 と云ったが、これはもし出演させるならば、前もっと相談をするべきなのです。そして一同が承知した上でお客様に口上を云うべき筈なのに、いきなり高座で喋ったので岡先生が客席で聞いていたが、いきなり楽屋へ入ってきて今村さんに、
「今の口上をあなた聞きましたか」
「いえ、何です」
「小圓右を秋から研究会へ出すというが」
「いえ、あたくしは全然知りませんが」
「そうですか。あんなものが出演(で)るなら、私は断然今日限り研究会から手を引きかすから」
 常にはやさしい先生が、いやたいへんな立腹です。圓右が高座から下りてくると今村さんが陰に呼んで、暫時、こそこそ話をしていたが、圓右はつまり倅を出してもらいたいと希望をのべたつもりだというが、希望だけでなく出して頂くと・・・・・・なってしまった。結局岡先生に圓右が詫びておさまったが、これは圓右師が悪いのだが、例のおっちょこちょいで、云わずもがなの事を云って失敗した。

 出来の悪い子ほど、親は可愛い・・・ということか。
 この小圓右は、大正13(1924)年に父が亡くなってすぐ、二代目圓右を継いだが、なかなか売れずに数年後に廃業し、郵便局に勤めたとのこと。

 なお、岡鬼太郎は、歌舞伎作家、劇評家で知られているが、三代目小さんのために創作した落語『意地くらべ』でも知られている。
 この噺、最近では、春風亭一之輔が、彼ならではの改作で口演しているらしいが、未見。そのうち、ぜひ聴きたいものだ。

 この後、圓生の師匠四代目圓蔵が、静岡に旅興行に出ていても、落語研究会には、その興行を休んで弟子に代演させて出演したと書かれている。

 師匠のフトコロではきっと損をしていたと思いますが、大切な会だから欠席はできないというので、旅興行を休んで帰ったのは偉いと思いますね。それに当時の師匠方は実にうまかったもんです。まだ十四か十五の子供時代に聞いていて、生涯に俺はこれだけうまくなれるのかしら、と考えたこともあり、悲観した事もありました。なかなかあのうまさなんてェものは頭へこびりついていますが。
 昼間の四時頃ですが、圓右の『真景累ヶ淵』を聞いていた時に「はッ」と云われた時にぞッとした。聞いていたら真ッ暗になっちゃったんで。あんまり恐いかたハッと後ろを向いたらお尻のところに夕日が当っていたんで。
 芸の力てェものは恐ろしいもので・・・・・・昼も夜も忘れてしまった。さもさも真っ暗な中を、おじさんと新吉が提灯をつけて歩いていると、もう聞いているうちに錯覚しちゃって昼ってことを忘れちゃったんですね。実にうまいもんだと思って感心した事がありました。

 圓喬の『鰍沢』を聴いていた志ん生が、その高座の世界にどっぷり入り込んで、急流の場面、外は晴れているのに雨が降ってきたと錯覚したという逸話を思い出させる、圓生がかたる圓右の高座だ。

 柳家から一人参加した三代目小さんの高座の思い出も語っている。

『猫久』 それから三代目柳家小さんの『猫久』なんてえ噺を・・・・・・こりゃ柳派の噺です。その当時はやはり柳派、三遊派といって二派ですから三遊でやっても柳の方ではやらない。柳でやって三遊派ではやらないという噺がありました。
 この『猫久』という噺はあたくしは初めて三代目小さんのを聞いたんです。あんまり聞いておかしいんで、大きな声で楽屋で笑ったんで怒られました。楽屋でそんな大きな声で笑っちゃいけないって叱られた。叱らたってしょうがない、おかしいんだから。どうにもしようがない。もう一言々々にそのまあおかしさなんてえものは、いやわたくしだって子供の頃からやってる噺家ですからね、噺を聞いたってそんなに素人のようにおかしくもないし、受けないわけですが。
 ところがあなたそれが、聞いていて、どうにもこうにもおかしくておかしくて声を出さずにはいられないてェ程・・・・・・実に大したもんでした。
 その『猫久』という噺はまあ、失礼ですがどなたのを聞いていも何ンかちっともおかしくないんです。その後も、この人は大看板と云われた人のを聞いたんだがまるっきりおかしくない。三代目小さんの『猫久』という噺のいかに優れていた事か。


 三代目の高座で、笑いを抑え切れなかったという『猫久』という“柳派”の噺は、五代目の小さんに、三代目小さんを尊敬していた七代目三笑亭可楽を通して伝わった。
 師匠四代目小さんが、自分の真似になることを嫌って稽古をつけないようになり、他の師匠からネタを教わっていた五代目は、この七代目可楽から多くの三代目十八番を継承している。

 そのことは、以前、記事にしたことがある。
2014年5月15日のブログ

 もちろん、五代目小さんの十八番でもあった。

 今につながる第五次の落語研究会は、昭和四十三(1968)年三月十四日に、国立劇場小劇場で始まったが、その時の五代目小さんのネタが、まさに『猫久』。
 
 あら、第五次の初回、なぜ、第一次と同じ三月二十一日ではなかったのだろうか・・・・・・。
 烏亭焉馬による「咄の会」由来の、「昔」という字を分解した「二十一日」に執着して欲しかったなぁ。

 さて『猫久』のことだが、今では、この噺を聴く機会は実に少ない。

 私は、ほぼ五年前、池袋の下席、柳亭燕路で聴いたっきりだ。

 たしかに、今ではあの噺の可笑しさは伝わりにくくなっているが、柳の噺家さん達にもっと演じて欲しい噺である。


 それにしても、名人たちの凄い高座を、若き日の圓生は体験していたんだねぇ。

 次回は、第二次落語研究会のことに“替り(目)”ます。


by kogotokoubei | 2019-07-16 21:18 | 落語の本 | Comments(0)
 昨日のアクセスランキングで、志ん生の『替り目』について書いた記事へのアクセスが急増した。
 間違いなく、「いだてん」の影響だろう。
 今年は、志ん生関係の記事のアクセスが、ときおり急増する。
 視聴率など関係なく、番組への強い視聴者の関わり方を感じる。

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三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)
 さて、このシリーズ、三回目。

 明治三十八年三月二十一日、常磐木倶楽部で第一次落語研究会が幕を開けたことまでを前回までにご紹介した。

 圓生は、その第一回のネタなどは記していないので、以前、暉峻康隆さんの『落語の年輪』から紹介した内容をを再度引用。
2017年1月29日のブログ

初席は圓左の「子別れ」、次席は小圓朝の「文違い」、続いて圓右の「妾馬」、圓喬の「茶金」、圓蔵の「田の久」、承知の上で欠席した圓遊に代わって、圓左が「富久」を再演、最後に小さんの「小言幸兵衛」で、いずれもそれまでのように端折らず、サゲまで演じて聴衆を堪能せしめた(「万朝報」)。これを第一回として、大正十二年(1923)九月の関東大震災で中絶するまで毎月開催し、東京落語の声価を高めた功績は大きい。

 圓遊にも声をかけていたんだねぇ。

 さて、開催は続いたのだが、途中で会場は変わっている。

 あらためてことわっておくが、『江戸散歩』は、さまざまな土地を訪ねて、それぞれにちなんだ話題、中でも落語に関わることが書かれている。
 第一次落語研究会のことは、「日本橋」の常磐木倶楽部をお題にして書かれ始めたもの。
 お題は、変わる。
 薬師の宮松亭 それからのちになって薬師の宮松、これは茅場町にあります。今でも薬師様がございますが、あの茅場町の境内に宮松亭という席がある。これは圓朝などはよくここで興行いたしました寄席でございます。
 ところがもうその時代になりますと落語というものはやりませんで、主に女義太夫・・・・・・たれぎだってェましたが、その義太夫ばかりをかけていたんですが、会場をこの宮松亭へ移すことになりました。
 それというのはやっぱり常磐木倶楽部で演っていたかったんですが、村井銀行という銀行がその倶楽部の前に建つわけで、鉄筋を打ち込む、どォん、どォん、という音、それが響いて噺の邪魔になってどうしても演れないんで、仕方がないから、じゃ会場をこりゃ移す事にするよりしょうがない、なかなか工事はお終いにならないからと云うので、そこでこの宮松の方へ落語研究会というものが引き移ったんです。

 第一回が開催された明治三十八(1905)年は、圓生が五歳だったが、大正十二(1923)年関東大震災まで続いた第一次落語研究会の十八年の歴史の中で、圓生自身と研究会との接点ができる。

 わたくしも十四歳ぐらいでしたか研究会へ・・・・・・と云ってもいきなり出演したわけじゃァないので、つまり前座になったわけですよ。ただし寄席ではわたくしは二ツ目で、前座がお茶を汲んで、「ご苦労さまです」と云って敬意を表して出してくれる。
 それが研究会へ行けばお茶を汲んで出し、下駄をそろえ、羽織をたたむ、前座通りの仕事をしなければなりませんが、それを無上の光栄だと思って本当に嬉しかった。何故かと云って研究会の前座になれば、かならず今に演らして。研究会へ出演できるということは将来を約束されたようなものですから、見込みのない者は絶対に出してくれません。
 もちろん、この前座になるには自分の師匠から「どうでしょう」といって推薦される、今村さんへ。すると、「ああ、あれならいいでしょう」
 もちろんその芸も聞き、人間も知っていての話ですが、ただし今村さんは玄関口でそれで決まるわけじゃァないので、岡先生に聞き、石谷、森、全部の先生がよろしい、と云って初めてゆるされるのですからたいへんに手数が掛かる。
 わたしは幸いと義太夫語りから転向して落語家になり、つまり普通の二ツ目よりと違い先生方も知っているのでスラスラとゆるされましたが。

 大阪で生まれた圓生は、五 ~六歳の頃から豊竹仮名太夫の元で義太夫の稽古を受けていた。生家の破産後に両親が離婚。三味線で生計を立てていた母と東京に移住し新宿角筈に居を構える。豊竹豆仮名太夫の名で子供義太夫の芸人として寄席に出演していた。
 その後、伊香保温泉の石段で転んで胸を打ち、医者から義太夫をやめるよう言われて、橘家圓蔵門下で落語家になった。

 最初に落語研究会の楽屋入りした時は、橘家圓童の頃だったと察する。

 若き圓生にとって、そこはどんな空間だったのかは、次回。

by kogotokoubei | 2019-07-15 08:45 | 落語の本 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛