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噺の話

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カテゴリ:落語の本( 220 )

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三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)
 
 このシリーズ、五回目。

 第一次落語研究会が、明治三十八(1905)年に始まり大正12(1923)年の関東大震災で終了するまでの18年間には、若手や中堅の噺家さん達も台頭し、中には抜擢されて研究会に名を連ねる噺家さんもいた。

 当時の“若手”のことを、圓生はこう書いている。
 
 当時、若手、若手といいましてあたくしの父親ですね、それが圓窓時代。それから大阪へ行って三代目圓馬になりました七代目朝寝坊むらく。こないだ亡くなった志ん生の師匠だった、その前の志ん生。本名鶴本勝太郎といいました。馬生から志ん生になったんですが、その他八代目桂文治になった人、本名山路梅吉といった、こういう人がもうみんな、ばりばり売り出して、聞いておりましても実にお客様に受けるし、うまいなと思う人達ですが、相当みな腕を上げてきた。
 その時に、楽屋で幹部連中やまた先生方が、もうこの人達も相当にみんなよくなってきたから深いところへあげる・・・・・・深いところって、つまり幹部が二人あがりその間へ順々に入れて行くわけですね。交替で。それであとへ幹部が二人出るという事になっていた。次会からトリを取らしてもいいんじゃないかって事になった。
 トリというのは一番最後へ上げる事です。じゃァこれと、これとこれと、これと、トリを取らしてみようという事に決定した。そこでみんなトリを取るようにと云った時にいっせいに手をついて、研究会のトリだけはどうぞご勘弁を願いたいといってあやまったんですが。これはどうも実に偉いもんだと思います。やはりいかにできても若手であって、まだまだその幹部には及ばざるところは多々あるわけなんです。しかしみんな人間ですから、自惚れはありましょう。俺はまずいと思ったら高い所へ上がって喋っちゃいられないんだから。だから各自自惚れはあっても、なおかつ自分の芸は分っている。だから研究会のトリ席にまわってどうなるかてェ事を考える。できないとは思わないでしょうけれども、研究会のトリだけは勘弁していただきたいと云っていっせいに断っちまった。
 今の人間ならば「あァ。よろしゅうがす」てンんで、軽く引受けたでしょうけれども、やはりそれだけの芸に対する心掛けというものが昔と今とは時代も違い、変ったのかも知れませんが、なかなかやかましい会でした。
 第一次落語研究会が、どれほど権威のある会だったかが察せられる。

 三代目の圓馬は、八代目文楽の芸の上での師匠として有名。三代目金馬も、多くの噺を伝授された。その圓馬でさえ、朝寝坊むらく時代、研究会のトリだけは受けることができなかった、ということか。

 圓生が名を挙げた三代目圓馬や四代目の志ん生、八代目桂文治は、第一次落語研究会の準幹部に名を連ねていた人。準幹部の中で、圓生は名を挙げていない人に、三代目蝶花楼馬楽がいる。岡村柿紅の推薦で抜擢され出演し大絶賛された。一部の新聞は「名人馬楽」とまで誉めた。しかし、彼はそのチャンスを生かすことなく、四十歳台で病のため旅立った。馬楽の人生の頂点は、落語研究会に出た時だったかもしれない。

 さて、紹介した文の後、圓生はこう続けている。

まあそんな思い出がこの宮松の研究会にはずいぶんありました。こりゃ大正十二年八月まであって、あたくしもその研究会へずっと行ってたわけですが、それが九月に大地震があって、そしてこの第一次落語研究会というものがなくなります。

 ということで、そろそろ、第一次から第二次への“替り目”である。

 とはいえ、関東大震災のダメージは大きく、復興の声は、昭和も少し経ってからのこと。
 本書の著者、六代目圓生も、大いに関わることとなった。

 再興落語研究会 第二次は先代圓生、父親の希望でわたくしが八方先生がたにお願いしてやっと再興したのが、昭和三年三月十一日、茅場町薬師内宮松亭で開催、第二回より神田立花亭に移り、東宝に変り、さらに日本橋倶楽部(当時日本橋区浜町河岸)、それも空襲はげしきため、昭和十九年三月二十六日研究会臨時大会、お名残り公演、会費金二円税共。

 この昭和十九年三月二十六日の最終回の出演者が、紹介されている。
 代数と本名も記されている。
 春風亭柳枝を、七代目、としているには八代目の誤りと思うので修正したうえで引用。

 この時の出演順
  桂文雀(現橘家圓蔵 市原虎之助)
  柳家小三治(元協会事務員 高橋栄次郎)
  船勇亭志ん橋(故三代目三遊亭小圓朝 芳村幸太郎)
  桂右女助(故三升家小勝 吉田邦重)
  春風亭柳枝(故八代目 島田勝巳)
  三笑亭可楽(故七代目 玉井長之助)
  三遊亭金馬(故三代目 加藤専太郎)
  三遊亭圓生(著者 山崎松尾)
  三遊亭圓歌(故二代目 田中利助)
  桂文楽(故八代目 並河益義)
  柳家小さん(故四代目 平山菊松)
 以上をもって一時閉会となった。

 昭和三年から十九年まで16年間も続いた第二次落語研究会、その開催にご本人も奔走したようなのだが、この本で書かれているのは、これだけ。

 すぐ後、第三次について、こう書いている。

 第三次はあたくしは知らなかった・・・・・・。それはあの満州へ行きましてね。志ん生とあたくしと二人帰れなかった。その留守中に第三次落語研究会というものはできたんでございます。ところがこれは短命にして、五回か六回やってつぶれてしまった。
 だいたいこの落語研究会というものはこの人と、この人を、というんで初めから人選をして、ちゃんとまじめに噺をする人、本当の落語というものをやるべき本筋のものというのか規定でございます。
 ところが第三次の時にはそうではなくして、そういうふうな初めから制限をするてェ事はよろしくない。一般の噺家を入れてこそ、本来の落語研究会であるからその制限をして、初めから差別をしてやるてェ事はかしからんことであるという・・・・・・。
 論法はたいへんにお立派なんですがね、駄目なんです。誰でも彼でも出演(で)られるという、それでは本来の研究会にはならないわけで。だからどこへでもこれはあてはまるわけなんですね。政治でも、それから芸界でも。一般に平等に、こうこうやったらいいという・・・・・・いかに論法が立派であっても、やっぱり一つのちゃんと固まったもの、芯がなくちゃいけないんじゃないかと思います。
ですから第三次落語研究会というものは、五回か六回やったけどお客様もこない。ま、云っちゃ失礼だが、その人選は落語研究会へ出る噺家じゃないてェのが出演(で)ていたわけなんです・・・・・・。それがためにつぶれてしまった。

 ということなのだが・・・・・・。

 Wikipediaの「落語研究会」で確認すると、第三次は、会長に久保田万太郎、参与に正岡容と安藤鶴夫の名が並んでいる。顧問には、渋沢秀雄も登場。
Wikipedia「落語研究会」

 しかし、昭和21年2月から8月までと、たしかに短命であった。

 立派な論法が道を誤らせることがある・・・というのは、なかなかに奥深い指摘ではなかろうか。

 短命だったのは、圓生が指摘するがごとく、“芯”がなかったからか。

 その“芯”となるべき人が、満州に行っていて不在だったから、という声が、この文章からうっすら聞こえてもくるなぁ。

 というわけで、次の最終回では、第四次と第五次についてご紹介。

by kogotokoubei | 2019-07-18 12:54 | 落語の本 | Comments(0)
 昨日のアクセスランキングでも、志ん生と『替り目』について書いた過去の記事へのアクセスが100近かった。

 「いだてん」の影響なくしては、考えられない。

 14日の放送「替り目」には、三つの“替り目”の場面が登場した。

 一つ目は、ネタと同様に、若き志ん生が、自分では売れない納豆を女房のりんさんが売りに出かける、と言って出かけた(と思っていた)後、出来すぎた女房への感謝の思いを呟いていたら、まだ、りんさんがそこにいた・・・「元帳を見られた!?」という場面。

 そして、田畑政治が、金栗四三に三度出場したオリンピックでの一番の思い出は何かと質問したところ、紅茶と甘いお菓子が美味かったこと、という答えに呆れて、帰ってくれと追い出した(と思っていた)後、やはり日本人オリンピック出場第一号の四三は偉い、と呟いたところ、まだ、そこには四三がいたという、落語『替り目』へのオマージュ(決して、パクリではない^^)の場面。

 そして、三つ目は、田畑政治に向って「さよなら」と金栗四三が呟いたように、四三が熊本に帰ることになり、田畑が今後の主役になる、という“替り目”である。

 さすがのクドカン、やってくれる!

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三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)
 さて、このシリーズ、四回目。

 第一次落語研究会は明治三十八年に始まり、関東大震災の影響で終了する大正十二年まで続いたわけだが、後半、若き日の圓生(当時は、圓童)も、その権威ある会に接することができた。

 そして、得がたい体験をしている。

 いや怖い会だと思ったのは、当時の幹部は四人でした。圓喬、圓左の二人はもはや歿していたので、圓右、圓蔵、小圓朝、小さんの四人です。それに圓右は三遊派の最高幹部であり出演者の中でも権力がありました。その圓右の倅、小圓右(前名圓子)が春に真打昇進をして、圓右も倅をどうか出世をさしてやりたいという親心で、研究会へ出してやりたいというその心持は分りますが、あるとき研究会へ圓右が出て噺にかかる前に、
「さて、あたくしの倅小圓右でございますが、今年の秋頃より、当落語研究会へも出して頂くことに相成りましたので、その節はよろしくお引立てを願います・・・・・・」
 と云ったが、これはもし出演させるならば、前もっと相談をするべきなのです。そして一同が承知した上でお客様に口上を云うべき筈なのに、いきなり高座で喋ったので岡先生が客席で聞いていたが、いきなり楽屋へ入ってきて今村さんに、
「今の口上をあなた聞きましたか」
「いえ、何です」
「小圓右を秋から研究会へ出すというが」
「いえ、あたくしは全然知りませんが」
「そうですか。あんなものが出演(で)るなら、私は断然今日限り研究会から手を引きかすから」
 常にはやさしい先生が、いやたいへんな立腹です。圓右が高座から下りてくると今村さんが陰に呼んで、暫時、こそこそ話をしていたが、圓右はつまり倅を出してもらいたいと希望をのべたつもりだというが、希望だけでなく出して頂くと・・・・・・なってしまった。結局岡先生に圓右が詫びておさまったが、これは圓右師が悪いのだが、例のおっちょこちょいで、云わずもがなの事を云って失敗した。

 出来の悪い子ほど、親は可愛い・・・ということか。
 この小圓右は、大正13(1924)年に父が亡くなってすぐ、二代目圓右を継いだが、なかなか売れずに数年後に廃業し、郵便局に勤めたとのこと。

 なお、岡鬼太郎は、歌舞伎作家、劇評家で知られているが、三代目小さんのために創作した落語『意地くらべ』でも知られている。
 この噺、最近では、春風亭一之輔が、彼ならではの改作で口演しているらしいが、未見。そのうち、ぜひ聴きたいものだ。

 この後、圓生の師匠四代目圓蔵が、静岡に旅興行に出ていても、落語研究会には、その興行を休んで弟子に代演させて出演したと書かれている。

 師匠のフトコロではきっと損をしていたと思いますが、大切な会だから欠席はできないというので、旅興行を休んで帰ったのは偉いと思いますね。それに当時の師匠方は実にうまかったもんです。まだ十四か十五の子供時代に聞いていて、生涯に俺はこれだけうまくなれるのかしら、と考えたこともあり、悲観した事もありました。なかなかあのうまさなんてェものは頭へこびりついていますが。
 昼間の四時頃ですが、圓右の『真景累ヶ淵』を聞いていた時に「はッ」と云われた時にぞッとした。聞いていたら真ッ暗になっちゃったんで。あんまり恐いかたハッと後ろを向いたらお尻のところに夕日が当っていたんで。
 芸の力てェものは恐ろしいもので・・・・・・昼も夜も忘れてしまった。さもさも真っ暗な中を、おじさんと新吉が提灯をつけて歩いていると、もう聞いているうちに錯覚しちゃって昼ってことを忘れちゃったんですね。実にうまいもんだと思って感心した事がありました。

 圓喬の『鰍沢』を聴いていた志ん生が、その高座の世界にどっぷり入り込んで、急流の場面、外は晴れているのに雨が降ってきたと錯覚したという逸話を思い出させる、圓生がかたる圓右の高座だ。

 柳家から一人参加した三代目小さんの高座の思い出も語っている。

『猫久』 それから三代目柳家小さんの『猫久』なんてえ噺を・・・・・・こりゃ柳派の噺です。その当時はやはり柳派、三遊派といって二派ですから三遊でやっても柳の方ではやらない。柳でやって三遊派ではやらないという噺がありました。
 この『猫久』という噺はあたくしは初めて三代目小さんのを聞いたんです。あんまり聞いておかしいんで、大きな声で楽屋で笑ったんで怒られました。楽屋でそんな大きな声で笑っちゃいけないって叱られた。叱らたってしょうがない、おかしいんだから。どうにもしようがない。もう一言々々にそのまあおかしさなんてえものは、いやわたくしだって子供の頃からやってる噺家ですからね、噺を聞いたってそんなに素人のようにおかしくもないし、受けないわけですが。
 ところがあなたそれが、聞いていて、どうにもこうにもおかしくておかしくて声を出さずにはいられないてェ程・・・・・・実に大したもんでした。
 その『猫久』という噺はまあ、失礼ですがどなたのを聞いていも何ンかちっともおかしくないんです。その後も、この人は大看板と云われた人のを聞いたんだがまるっきりおかしくない。三代目小さんの『猫久』という噺のいかに優れていた事か。


 三代目の高座で、笑いを抑え切れなかったという『猫久』という“柳派”の噺は、五代目の小さんに、三代目小さんを尊敬していた七代目三笑亭可楽を通して伝わった。
 師匠四代目小さんが、自分の真似になることを嫌って稽古をつけないようになり、他の師匠からネタを教わっていた五代目は、この七代目可楽から多くの三代目十八番を継承している。

 そのことは、以前、記事にしたことがある。
2014年5月15日のブログ

 もちろん、五代目小さんの十八番でもあった。

 今につながる第五次の落語研究会は、昭和四十三(1968)年三月十四日に、国立劇場小劇場で始まったが、その時の五代目小さんのネタが、まさに『猫久』。
 
 あら、第五次の初回、なぜ、第一次と同じ三月二十一日ではなかったのだろうか・・・・・・。
 烏亭焉馬による「咄の会」由来の、「昔」という字を分解した「二十一日」に執着して欲しかったなぁ。

 さて『猫久』のことだが、今では、この噺を聴く機会は実に少ない。

 私は、ほぼ五年前、池袋の下席、柳亭燕路で聴いたっきりだ。

 たしかに、今ではあの噺の可笑しさは伝わりにくくなっているが、柳の噺家さん達にもっと演じて欲しい噺である。


 それにしても、名人たちの凄い高座を、若き日の圓生は体験していたんだねぇ。

 次回は、第二次落語研究会のことに“替り(目)”ます。


by kogotokoubei | 2019-07-16 21:18 | 落語の本 | Comments(0)
 昨日のアクセスランキングで、志ん生の『替り目』について書いた記事へのアクセスが急増した。
 間違いなく、「いだてん」の影響だろう。
 今年は、志ん生関係の記事のアクセスが、ときおり急増する。
 視聴率など関係なく、番組への強い視聴者の関わり方を感じる。

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三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)
 さて、このシリーズ、三回目。

 明治三十八年三月二十一日、常磐木倶楽部で第一次落語研究会が幕を開けたことまでを前回までにご紹介した。

 圓生は、その第一回のネタなどは記していないので、以前、暉峻康隆さんの『落語の年輪』から紹介した内容をを再度引用。
2017年1月29日のブログ

初席は圓左の「子別れ」、次席は小圓朝の「文違い」、続いて圓右の「妾馬」、圓喬の「茶金」、圓蔵の「田の久」、承知の上で欠席した圓遊に代わって、圓左が「富久」を再演、最後に小さんの「小言幸兵衛」で、いずれもそれまでのように端折らず、サゲまで演じて聴衆を堪能せしめた(「万朝報」)。これを第一回として、大正十二年(1923)九月の関東大震災で中絶するまで毎月開催し、東京落語の声価を高めた功績は大きい。

 圓遊にも声をかけていたんだねぇ。

 さて、開催は続いたのだが、途中で会場は変わっている。

 あらためてことわっておくが、『江戸散歩』は、さまざまな土地を訪ねて、それぞれにちなんだ話題、中でも落語に関わることが書かれている。
 第一次落語研究会のことは、「日本橋」の常磐木倶楽部をお題にして書かれ始めたもの。
 お題は、変わる。
 薬師の宮松亭 それからのちになって薬師の宮松、これは茅場町にあります。今でも薬師様がございますが、あの茅場町の境内に宮松亭という席がある。これは圓朝などはよくここで興行いたしました寄席でございます。
 ところがもうその時代になりますと落語というものはやりませんで、主に女義太夫・・・・・・たれぎだってェましたが、その義太夫ばかりをかけていたんですが、会場をこの宮松亭へ移すことになりました。
 それというのはやっぱり常磐木倶楽部で演っていたかったんですが、村井銀行という銀行がその倶楽部の前に建つわけで、鉄筋を打ち込む、どォん、どォん、という音、それが響いて噺の邪魔になってどうしても演れないんで、仕方がないから、じゃ会場をこりゃ移す事にするよりしょうがない、なかなか工事はお終いにならないからと云うので、そこでこの宮松の方へ落語研究会というものが引き移ったんです。

 第一回が開催された明治三十八(1905)年は、圓生が五歳だったが、大正十二(1923)年関東大震災まで続いた第一次落語研究会の十八年の歴史の中で、圓生自身と研究会との接点ができる。

 わたくしも十四歳ぐらいでしたか研究会へ・・・・・・と云ってもいきなり出演したわけじゃァないので、つまり前座になったわけですよ。ただし寄席ではわたくしは二ツ目で、前座がお茶を汲んで、「ご苦労さまです」と云って敬意を表して出してくれる。
 それが研究会へ行けばお茶を汲んで出し、下駄をそろえ、羽織をたたむ、前座通りの仕事をしなければなりませんが、それを無上の光栄だと思って本当に嬉しかった。何故かと云って研究会の前座になれば、かならず今に演らして。研究会へ出演できるということは将来を約束されたようなものですから、見込みのない者は絶対に出してくれません。
 もちろん、この前座になるには自分の師匠から「どうでしょう」といって推薦される、今村さんへ。すると、「ああ、あれならいいでしょう」
 もちろんその芸も聞き、人間も知っていての話ですが、ただし今村さんは玄関口でそれで決まるわけじゃァないので、岡先生に聞き、石谷、森、全部の先生がよろしい、と云って初めてゆるされるのですからたいへんに手数が掛かる。
 わたしは幸いと義太夫語りから転向して落語家になり、つまり普通の二ツ目よりと違い先生方も知っているのでスラスラとゆるされましたが。

 大阪で生まれた圓生は、五 ~六歳の頃から豊竹仮名太夫の元で義太夫の稽古を受けていた。生家の破産後に両親が離婚。三味線で生計を立てていた母と東京に移住し新宿角筈に居を構える。豊竹豆仮名太夫の名で子供義太夫の芸人として寄席に出演していた。
 その後、伊香保温泉の石段で転んで胸を打ち、医者から義太夫をやめるよう言われて、橘家圓蔵門下で落語家になった。

 最初に落語研究会の楽屋入りした時は、橘家圓童の頃だったと察する。

 若き圓生にとって、そこはどんな空間だったのかは、次回。

by kogotokoubei | 2019-07-15 08:45 | 落語の本 | Comments(0)
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三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)

 このシリーズ、二回目。

 前回は、明治三十八年、三遊亭圓左が今村次郎に相談したことから第一次落語研究会が始まることになったことを紹介した。
 圓遊人気に沸く寄席の様子に、落語の将来への危機感を圓左が抱いたわけだが、その思いは、速記者として落語、講談界で大きな権力を持っていた今村のみならず、顧問として名を連ねた岡鬼太郎、森暁紅、石谷(いしがや)華堤らも同感だった。

 さて、それでは、どんな噺家を出演させるか、ということになった。

 落語研究会の名人たち その当時、まず選ばれましたのが三遊派の橘家圓喬という、あたしども聞きました噺家の中で、まあそれ以上うまい噺家というのは今もって聞いたことありません。あたしが十二の年まででしたが、聞いたのは。こりゃまあ圓朝の直門でございますけれども大した芸の人でした。
 それから三遊亭圓右、橘家圓蔵・・・・・・私の師匠で。それから三遊亭小圓朝。この間亡くなりました小圓朝、あの人は本名芳村幸太郎という、そのお父っつぁん・・・・・・芳村忠次郎といいました。それから発起人である三遊亭圓左、この五人。全部三遊派の者でございまして。その当時は柳、三遊に分かれておりました。三遊派が五人でて柳の方からは柳家小さん。これは三代目でございますが・・・・・・一人だけ、六人・・・・・・。これが発起人としてスタートをしたわけで、明治三十八年の三月でございます。
 凄い顔ぶれだ。
 それにしても、当時の落語界における三遊派の充実ぶりは、現在の状況とはあまりにも、対照的。

 圓遊調が流行る時勢、客は入らないかもしれないが、なんとか続けようということで、この六人が、一人五円ずつ出して始めることになった。

 一カ月に一回の会で五円。と、六人いるんですから三十円の金が集るわけで、まだあなた、明治の三十年代に三十円の金というのはたいへんなものです。だから諸経費、それから会場費、それらのものを全部払ったところで三十円あれば立派にできるわけなんです。だからそれだけの金を出そうじゃないかという相談の上でやったわけです。

 明治三十年代、小学校教員の初任給が八~九円という記録がある。

 また、明治後半の寄席の木戸銭は十銭の時期が長く、大正になって十三銭に上ったとのこと。
 当時の一円の価値、現在なら二万円~三万円だろうか。

 ざっくり、六人の発起人(噺家)が、一人十万円ずつ拠出したと考えて、そう間違いはなさそうだ。
 それだけ、客の入りが悪かろうと思っていたわけだが。

 ふたをあけてみると予想に反してお客様がたいへんにおいでになった。一同、もうびっくりするぐらい。十二時から開演というんですが、もう十一時過ぎてお客様はどんどん入ってくる。
 (中 略)
 開演時間までこの入ったお客様をただ待たしておいては悪いからというので、その時にどうしようって事になって・・・・・・、小圓朝の弟子で、のちに二代目の金馬になりましたこの人が来ていたので、まだ当時二ツ目だったんです、圓流といった。これが楽屋にいたもんですから、「じゃァ何だ、おまえちょいと、お客様のお集りのあいだ十二時まで演って、それからあとは全員の者があがるようにするから」というようなわけで、急に臨時がとび出すというわけで。

 あら、二代目金馬の名が登場。
 
 常磐木倶楽部での初開催は、明治三十八年の三月二十一日。
 とかく、この二十一日は、「昔」を分解する字ということもあり、江戸落語中興の祖と言われる烏亭焉馬が「咄の会」を開いた日でもあり、縁起の良い日。

 予想以上のお客様が集まり、終演後には出演者、当時の大看板たちが、下足番を手伝ったという。

 さて、こうやって始まった第一次落語研究会は、会場を替えて長く続くことになる。
 その歴史の中に若かりし頃の圓生自身も、関わっていくのだが・・・・・・。

 今回は、これにてお開き。

 三週続いて、雨でテニスが休みになった。
 さて、どこへ行こうか。
by kogotokoubei | 2019-07-14 09:47 | 落語の本 | Comments(2)
 三遊亭圓生に『江戸散歩』という著作がある。

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 初版は昭和53年、あの騒動がある直前に、集英社から上下二冊の単行本として発行された。

 私は、昭和61年の朝日文庫版(上の画像)を持っている。


 なんと、三年前、小学館から、紙の書籍と電子書籍を同時発行する「P+D BOOKS」で再刊されていた。
三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)

 この本、必ずしも土地や建物だけのことではなく、縁のある落語のこともいろいろ書かれていて興味深い。

 それらの貴重性もあって、P+D BOOKS化されたのかとも思う。

 その中で、伝統ある落語研究会の歴史を、自分が見聞した内容を含め書かれている部分をご紹介したい。

 なぜ、落語研究会のことか、というと・・・・・・。

 今、TBSが主催している第五次落語協会が、大きな曲がり角にきているように思うからである。

 TBS落語研究会は、昭和43年、今年三月十一日に亡くなった川戸貞吉さんの発案で始まった。
 川戸さんの訃報に接して、著作からの引用を含め記事を書いた。
2019年3月13日のブログ

 昭和33年に第四次が終了していたから、十年ぶりの再開になるが、その運営形態は、大きく変わった。

 それまでのように落語家が会の運営にタッチすることのない、テレビ局主導の会のため、プロデューサーの力量が物をいう会となった。

 名プロデューサーの言われた白井良幹さんのアドバイスで、桂歌丸さんが圓朝ものを演り始めたことは、以前、『歌丸 極上人生』から紹介した。
2019年5月19日のブログ

 その白井さん亡き後、何人かのプロデューサーが携わってきたが、白井さんの下で薫陶を受けた今野徹さんが旅立ってから、この会の将来は結構危うくなっていると思う。

 居残り会仲間の数名の方は、大変な努力をして、年間会員となったことをお聞きした。
 私も、そのご縁で二度聴く機会があった。
2012年11月1日のブログ
2014年11月26日のブログ

 今、その時の記事を読み返してみて、あまり楽しんでいなかったことが、分かる。

 TBSは、毎年、欠員となった方の席の年間会員権を売り出しているが、年々その席数は増えている。居残り会で会員をやめた方もいらっしゃる。

 もちろん、ご高齢によるものもあるが、会そものものに魅力がなっくなってきたことも、要因の一つに違いない。

 演者の選定とネタ選びに「えっ!?」「おやっ!?」と思うことが少なくない。

 そこで、あらためて落語研究会の歴史を確認するには、実に相応しい内容を、圓生は残してくれたことを思い出したのである。

 それでは、「日本橋」の中での記述からご紹介。

 常磐木倶楽部 それから大震災までは、あの榛原(はいばら)という紙屋さんは橋のちょいど前のところにございました。となり・・・・・・角が西川という蒲団屋さんで。そのとなりが榛原。そのとなりに常磐木倶楽部という貸席。ここで落語研究会というものをばやりました。明治三十八年の三月でございますが、これが第一回で。
 当時落語というものが非常に乱れてきた。というのは、初代と称します、これは本当は三代目になるんですが、あまりに人気があり、明治時代にこの、圓遊という人が落語界を風靡いたしました。
 三遊亭圓朝というような大名人ができまして、その弟子でございますが明治調で、非常に時代に合った、噺をくずして面白くした人ですが、けれども圓遊調は落語本来のものではない。けれども圓遊という人はそれだけ功があって、圓遊は圓遊の値打ちがあるわけですが、ところがその弟子なんかは圓遊のただ本当の物真似にすぎないというので・・・・・・。ただし、これがまた時代ですね、物真似でも何でも当時はうけたわけなんです。
 (中 略)
 それを当時、三遊亭圓左といいいまして、やはり圓朝の弟子でございますが、この人は非常な芸熱心で、どうかして本当の落語というものをば存続させるのは今である。時期がおそいてェと落語というものはこんなだらしのない、下らないものかというように世間から馬鹿にされて捨てられてしまってからではもはやじたばたしてもしょうがない。今ならばまだいい噺家も残っているんだから、ここで立て直そうというんで。当時、速記者というものがございまして。今でもまあ速記というものは議会やなにかで使います。落語を初めて速記というものに掛けて、口演したのは圓朝だそうでございます。それからまァおいおいに速記をやる者もふえましたが。
 今村次郎という、この方はずいぶん古いかたでございまして落語、講談界に対して隠然たる勢力を持っていた。というのは、今の講談社でしょうな、そのほか本屋さんの大きいところ・・・・・・ま、落語、講談なんてえものを掲載する雑誌、そういうところの権力はこの今村次郎という人が一人で握っていたわけで、だから噺家が真打になりますと必ずこの今村さんのところへ、まず顔出しをしなくちゃいけない。

 今村次郎は、当時、講談落語の世界で最も有名な速記者で、『講談倶楽部』に掲載される原稿は彼から提供されるものが少なくなかったし、もともと浪花節を載せていない『講談世界』にいたっては、掲載原稿のほとんどすべてを彼に頼っていたとのこと。

 この今村次郎のご子息が、『落語の世界』などの著者、今村信雄。

 さて、圓遊人気に落語の将来を危惧する三遊亭圓左は、その今村次郎を訪ねる。

 この人にまず頼んで落語研究会・・・・・・こういうものをやってみたいという話をした。それならばというので、当時批評家でありました岡鬼太郎、森暁紅、石谷(いしがや)華堤という、この三人の先生がたに話をしたところが、「まことに結構である。このままではいかんからぜひとも、ちゃんとした噺を残すようにしてもらいたい。じゃあ私たちが顧問になろう」というわけで、三人が落語研究会顧問。今村次郎が万事一般の事務のこと、会計から何から引きうけようという事でできましたが・・・・・・これが明治三十八年でございました。

 明治三十八年、圓生は、まだ五歳。

 さて、第一次落語研究会の始まりなのだが、どんな運営形態だったのかなどについては、次回。

 
by kogotokoubei | 2019-07-12 12:36 | 落語の本 | Comments(0)
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岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)

 このシリーズの最終四回目。

 岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)は、平成19(2007)年の発行で、内容は平成6(1994)年から発行が始まった『これが志ん生だ』(三一書房、全十一巻)の月報の中から選んで編まれている。
 副題が「家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔」とあるように、志ん生 “が” 語るのではなく、志ん生 “を” 語っている本。

 志ん生の師匠は・・・ということではいろんな人の名が登場するが、馬生は、こう語っている。

 オヤジさんの師匠は“イカタチ”の圓盛がいて、小圓朝がいて、鶴本の志ん生(四代目)、三語楼(初代)がいたわけなんですがオヤジさんが一番影響を受けたのは、“めくら”の小せん(初代)だそうですね。
 あたしは知らないけれど、速記を読むとよくわかる。うちのオヤジさんに、
「めくらの小せんはどういうしゃべりかたをしてたの?」
 って聞いたら、
「俺と同じだよ」
 って言ってました。
「女郎買いってのは難しいもんでしてな。寄席ぇ終わって、うちへ帰って、茶漬けを食う。腹が減っちゃあ何もできませんからな。で、表へ出ると灯りがある。人力があるけど高いから尻ぱしょりして歩きだす。女郎買いか、火事場へ行くんだかわかりませんな・・・・・・」
 って調子が同じなんです。で、そう演(や)っていって『とんちき』なんかに綺麗に入っていくんですよ。だからオヤジさんは、柳家小せんを襲名するべきだったくらい似ていたらしんです。鶴本さんとは似てなかった。

 “二十七歳で腰が抜け、三十歳にして失明し、三十七歳で没した“”初代柳家小せんについては、『居残り佐平次』を中心に以前書いたことがある。
2014年1月23日のブログ
 馬生は、憧れの圓喬とともに影響を受けたもう一人が、初代小せんであり、当時仲間内で高く評価されていなかった小圓朝の弟子だったことは、あまり言わなかったと語る。
 
 しかし、圓喬や小せんを真似るだけではなかった。
 マクラだって、自分なりの工夫をすることに努めていた。馬生が語る。

 うちのオヤジさんは、マクラは勉強してましたよ。『江戸小咄』の本を宝物みたいにして、そいつを読んじゃあクスグリを拵えてたんですよ。で、お客さんも待ってるわけですよ。例えば
「えー、カストロなんてえ人がいまして、焼酎の親方みたいな名前で・・・・・」
 こんなことは普通の人が言ったって、おかしくも何ともないんですよ。でも、、引っくり返るんですから。お客の方も<面白んだ。面白いんだ>って先入観で聞いてますからね。だからそれだけで笑うっちゃう。

 この“カストロ”のマクラ、私の持っている音源でも聴いている。
 
 当代の噺家さんで、マクラがマンネリ化している人が、少なくない。
 一つのネタにまでなっているのならまだしも、つまらないマクラを聴くと、本編を聴く前に、がっかりしてしまう。
 ネタのみならず、名人と言われる地位においても志ん生がマクラを磨いていた了見も、見習うべきだろう。

 馬生も、そんな志ん生を見習っていたのだが。

 最初の頃はあたしもオヤジさんのような感じの噺をしていたんですが、途中でこれじゃあいけないってんで、変えたんです。まあ、そう思ったのは二十年くらい前なんですがね。そうしたらオヤジさんが、
「何だ、お前の噺はちっとも面白くねええじゃないか」
 って言うんです。
「これからはお父っつぁんと違う演りかたをしないと、俺、駄目になっちゃうから・・・・・・」
「何言ってんだ。俺が演りゃあ客がわーっと笑うんだから、俺の言う通りにやれっ」
 もう喧嘩別れになっちゃってね。今、どうやらこうやら食べられるのは、あの時オヤジさんとああなったけど、自分なりに変えたからだと思うんです。

 たしかに、馬生は、芸の上では父から離れたからこそ、独自の芸風を築くことができたんだろう。

 それは、持ち味の違いなどもあるが、父とは好対照な馬生の“理詰め”の性格にもよるのだと思う。
 たとえば、『火焔太鼓』について馬生はこう語る。
 あの噺は全然でたらめな噺。一文で買ったんだからね。だいたい“火焔太鼓”というようなものを市で買ってこられるわけがない。それに“火焔太鼓”ってのは大きいんですよ。ヒョイヒョイと担いで行けるようなものじゃないんです。オヤジさんはそんなことはいっさい構わないで演っちゃう。こっちはそのまま演ったら大変だと思ってね。だからできるだけオヤジさんとは違う噺を選んで演ってたんです。

 この馬生の“理詰め”の姿勢は、弟子たち、なかでも、むかし家今松に継承されていると思う。
 それは、たとえば師匠の『大坂屋花鳥』を拡大して語る『嶋鵆沖白浪』の花鳥が島流しになった舞台を、作者談洲楼燕枝の創作三宅島ではなく、事実に基づき八丈島に改定するなどが物語る。

 今回、この本を再読して、あらためて感じたのは、同じ人間同士に、師匠と弟子、そして父と子という別の関係が内包している難しさだ。

 十代目金原亭馬生にとっての師匠・五代目古今亭志ん生と、美濃部清にとっての父・美濃部孝蔵との関係の、なんとも複雑なパラレルワールド、とでも言おうか。

 きっと、志ん生には、それほど気にしないことだったのだろうが、子の馬生にとって、それは、なかなか割り切れないジレンマが一生つきまとってような気がする。

 甘えたい時に甘えることができず、頼りたい時に父がいなかった、馬生。しかし、周囲からは、親の七光り、という視線が絶えず感じられたのだろう。

 短い生涯だったのは、そんな彼の精神的な苦難が影響しているような気がしてしょうがない。
 
 さて、長男馬生が語る志ん生のシリーズは、これにてお開き。
 
by kogotokoubei | 2019-06-19 12:47 | 落語の本 | Comments(6)
 昨日の記事の“マクラ”でリンクしたのだが、2012年9月1日の「関東大震災と、志ん生」という記事へのアクセスが、百を大きく超えていた。

 どう考えても「いだてん」効果と言えるだろう。
 
 視聴率ではなく、視聴“質”の高いドラマは、観る人もドラマに登場する内容への関心が極めて高いのだろう。

 クドカンが、実に的確にあの震災を描いたことを、しっかり受け止めている視聴者がいるのだ。

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岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)

 さて、このシリーズの三回目。

 岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)は、平成19(2007)年の発行で、内容は平成6(1994)年から発行が始まった『これが志ん生だ』(三一書房、全十一巻)の月報の中から選んで編まれている。
 副題が「家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔」とあるように、志ん生 “が” 語るのではなく、志ん生 “を” 語っている本。

 前回は、馬生が、家ではちっとも面白くないから、志ん生の高座が面白い、なんて話していることをご紹介。
 では、家ではどんな親子の関係だったのか。馬生は、こう語っている。

 あたしはオヤジさんとは酒の呑みかたがちっとも合わないんですよ。だから、誰かが、
「お父さんと呑んだ時のことを」
 なんて聞くんだけれども、思い出しても何もない、思い出がないの。
 うちのオヤジさんてえのは、例えば湯豆腐をグツグツと煮てて、酒をグッと呑んじゃうと、その湯豆腐ですぐ飯を食っちゃう。わたしは、トロトロ、トロトロ呑んですよ。するとオヤジさんが、
「手前(てめい)みてえなヤツと酒を呑むのは嫌だっ」 
 だからほとんど一緒に呑んだことがない。

 酒呑みの印象が強い志ん生だが、家での酒は、実に大人しかった。
 昨日の「いだてん」では、関東大震災で酒屋の四斗樽から一気に一升五号の酒を呑んだ、というのは、いわば“火事場の馬鹿力”で、例外。
 また、あの双葉山と呑み比べをして二升呑んだが、さすがに横綱には勝てなかったという逸話もあるが、これまた例外と言えるだろう。

 じっくり呑む酒が好きな馬生は、父の晩酌の友とはなれなかったようだが、若い時分には、様子が少し違っていたようだ。

 酒は二ツ目の頃のほうが一緒に呑むことが多かったですね。二ツ目の頃は、こっとはついて歩いてましたからね。そうすると、
「お前の今の噺はこうだ」
「これはいけねえ」
 とか、
「あの師匠はこうやってたぞ。俺はこうやるけど」
 というようなことを教えてくれましたね。例えば、細かいことですけど、
「お前、碁を習え。俺は知たねえから『傘碁』はできないし、『碁泥』はできない。で、『雨の将棋』って将棋で演(や)ってるけど、あの噺は将棋じゃ駄目だ」
 とか。だいたい自分の欠点もそのまま言ってましたね。
「俺は“間”を持ってジーッとしゃべってるよりも、ある程度スーッとしゃべってるほうが自分も心持ちがいい」
 って言ってましたね。マクラのうちは、
「えーえ・・・・・・」
 なんて言っても、噺に入るとトントン、トントンっていくリズム感が何とも言えませんでしたね。

 二ツ目の頃には、なかなか好ましい親子の会話があったじゃないか。
 私は、馬生の『笠碁』の音源が好きで、五代目小さんよりも良いと思っている。
 その十八番の背景には、父・志ん生の助言があったとは、嬉しいじゃないか。

 馬生は、志ん生が、橘家圓喬の弟子だった、と主張することなどについて、こう語っている。

 うちのオヤジさんが、圓喬の弟子だって言ってましたけど、それは一つの見栄でいいじゃないですか。
 最初は圓盛(三遊亭)、“イカタチ”の圓盛さんの弟子で・・・・・・弟子っていうか、あの頃は、とにかく咄家になれればよかったわけです。師匠は誰でもかまわなかったんです。で、咄家になってその後、小圓朝(二代目)さんの所へ自然と吸収されていくわけです。
 で、一時、圓喬師の弟子が足りなくなっちゃんで、小圓朝さんの所へ、
「誰か若い者を貸してくれよ」
 って言ってきたんで、オヤジさんが行ったらしいんですね。
 今は何かと詮索して楽しむようなところがあるでしょう。情報化社会だから。
「馬生は志ん生によって不幸になった」
 って余計なことを言う人がいる。
「志ん朝は、志ん生によって幸福になった」
 なんて。何だっていいんですよ。そんなことは大きなお世話なんです。そういうことでみんな腐っちゃうんだよね。私は圓右(二代目)のことをずいぶん細かに調べてるけど、かなり上手かったらしいですよ。それをね、徹底的に黒門町(八代目文楽)がけなしましてね。
「あれは馬鹿でした。馬鹿松でした。本当に馬鹿でしたね。それが証拠に掃除夫になって終えました」
 って言ってましたけど。圓右さんが、<落語界がみんなでぶったたいてくるなら、俺はやめちゃおう>って、掃除夫になって晩年をおくたってのは本人にとってよかったと思うんですよ。大成しないで、高座をやんないで、楽屋の隅で割り(給金)をもらって生きていくより手前でもって掃除夫になって、誰の世話にもならないで、誰も知らないうちに死んじゃう・・・・・・。あたしなんか、そっちをとりますね。
 だから、小圓朝さんだって、本当の意味で先代の倅っていう色メガネで見られなかったら、もう一段大きな咄家になったと思いますね。

 
 馬生、志ん生本人が「圓喬の弟子だった」と言っているんだから、それでいいじゃないか、それ以上詮索するのは野暮だ、と言っているのだろう。
 いろいろ詮索してその本人の言葉を否定しにかかっている私なんぞは、馬生からは、野暮の固まりに思えることだろう^^

 また、二代目の圓右(本名沢木松太郎)、三代目の小圓朝に関する言葉は、同じ咄家の倅という立場、いわば“同志”としての思いが吐露されたと思う。

 今回は、これにてお開き。

by kogotokoubei | 2019-06-17 12:57 | 落語の本 | Comments(4)
 今夜の「いだてん」は、志ん生一家の引っ越し、そして、関東大震災・・・・・・。

 大震災と志ん生のことについては、以前書いたことがあるので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2012年9月1日のブログ

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岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)

 さて、このシリーズの二回目。

 岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)は、平成19(2007)年の発行で、内容は平成6(1994)年から発行が始まった『これが志ん生だ』(三一書房、全十一巻)の月報の中から選んで編まれている。
 副題が「家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔」とあるように、志ん生 “が” 語るのではなく、志ん生 “を” 語っている本。
 
 前回は、馬生が、父と母の生前中に、六代目志ん生は弟の志ん朝に継がせると約束していた話をご紹介。

 さて、今回は。

 馬生にとって、父はどんな存在だったのか。

 この聞き書きでは、珍しくこんなことを言っている。
 この頃よく<つまんねえなあ・・・・・・>と、考える。とにかく人の面倒ばかり見てきた。物心ついた時から親の手伝いでしょ。それから戦争に入って、咄家になって、・・・・・・咄家も一番悪い道をずーっと歩いてきて、やっとどうにかなった時には、志ん生の倅ってことで、つまり、“咄家の倅いじめ”ってのがあってね。志ん朝はあたしが防波堤になったから、まあ、ぶつからなかったんですけどね、それをやられて、ようやっと振りきってやってきたんです。

 これだけ泣き言を言うのは、珍しいのではなかろうか。

 昭和三年生まれの馬生。
 笹塚の家を夜逃げ同然に引っ越して業平の“なめくじ長屋”で暮らすようになったのが二歳の時だ。
 予科練を志していたが、腸の病気で大手術を受けることになり、断念。 落語家になろうと思い立って昭和17(1942)年、十四の時に父に入門し、四代目むかし家今松を名乗った。ちなみに、当代は七代目。
 当時は落語家が足りなかったため、二ツ目からのスタート。昭和十九(1944)年頃、初代古今亭志ん朝と改名。昭和二十(1945)年四月、終戦直前になって父・志ん生が満州慰問に出てしまったため、苦労を重ねた。 
 だから、志ん生没後、父について語ることには、積極的と言えなかった。

 オヤジさんの話をするってのは本当は嫌なんです。それはね、志ん生というとみんなが綺麗な印象を持ってる。それをどうしたって一つづつはがしていくことになるでしょ。
 まあ、あたしなんか志ん生を偲ぶってのを何十回とやってきた。だから、
「もう勘弁してぃださいっ。うちのオヤジさんは名人だったんです。で、非常に楽しい芸人だったんです。それでいいじゃないですか。みなさんが頭の中で描いている志ん生像が一番なんです。それぞれがこしらえてる志ん生像がある。それを何もほうぼうからはがすことはないんだから、もうよしましょうよ」
 って今まで言ってきたの。

 志ん生を高座や音源でしか知らない人に、その家族がイメージを壊しかねない姿を暴露することへの遠慮、気配り、ということもあろうが、馬生にとっては、長男として抱く父、美濃部孝蔵への複雑な思いもあっただろう。

 馬生、いや、美濃部清にとって、父の孝蔵とはどんな存在だったのか。

 まあね、うちのオヤジさんは内側だとちっとも面白くないんですね。面白くないからこそ、高座が面白かったんですよ。楽屋でやたらと面白い人がいるんですよ。楽屋でやたらと面白いんだけど、高座に上ると面白くないの。うちのオヤジさんなんて楽屋でブスっとしている。前座に、
「何が出てるぅ?」
 って聞いて、で、
「・・・・・・うん・・・・・・」
 って言って、高座に上る。そこで一席演って、下りてきて、次へ行っちゃう。皆さんが期待するようなことは何もないんです。これだけの話だからね。

 それでも、家では親子の会話だってあっただろうにと思うのだが、それについては、次回。
by kogotokoubei | 2019-06-16 21:05 | 落語の本 | Comments(0)
 古今亭志ん生について書かれた本は、たくさんある。

 その中には、私と同様、生の志ん生の高座を知らない著者による本もあった。

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岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)

 岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)が、それだ。

 志ん生と、りんさんの実にいい写真がカバーとなった本は、平成19(2007)年の発行で、内容は平成6(1994)年から発行が始まった『これが志ん生だ』(三一書房、全十一巻)の月報の中から選んで編まれている。

 この本、副題が「家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔」とあるように、志ん生 “が” 語るのではなく、志ん生 “を” 語っている本。

 まだ、「いだてん」を充分には楽しめなかった頃、志ん生についての誤解(?)を解くべく、本書から二度、記事にした。

 一つは、先代圓歌による、高座で寝た志ん生の目撃談。
2019年4月2日のブログ

 もう一つは、榎本滋民さんが証言する、志ん生の“ダンディズム”について。
2019年4月3日のブログ

 昭和二十七年生まれで、私と同世代の著者の「あとがき」から、ご紹介。

 『これが志ん生だ!』(全十一巻・三一書房)の第一巻が出たのは平成六年(1994年)の九月だからもう十三年、準備の段階から入れると十六、七年の歳月が流れている。
 当時、私は落語というより、五代目古今亭志ん生の熱烈なファンだったが、生で志ん生を見たことは一度もないのである。

 生で高座を見たことはなかったが、著者は志ん生について書かれた本を読み漁り、LPやカセットを聴きまくり、ますます志ん生への思いが募る。
 その結果、志ん生の本を出版することになるのだが、そのため多くの関係者に取材することになった。

 その取材対象者の中には、もちろん、家族も含まれる。

 先日、『柳田格之進』を楽しませてくれた、むかし家今松の師匠十代目金原亭馬生は、父志ん生についてどんなことを語っているか、ご紹介したい。

 題は、「ふだんちっとも面白くないからこそ、高座が面白かったんですよ」となっている。
 冒頭から引用。
 オヤジさんが死んでからも、いろんな人にオヤジさんのことを聞かれますけど、人について語るなんておこがましいですよね。まして、オヤジのこととなると、そうでしょ?だから、できるだけオヤジさんのことは話さないようにしてるんですけどね。その点、
「名人です。うちのオヤジは名人です」
 って言ってる志ん朝のほうが利口ですね。だから、
「オヤジさんは面白い人でした」
 それでいいんです、それは。でも、みなさんは納得しないで、何かと聞くわけです。だからここで、まあ、これが最後ってわけじゃないと思うんですけど、あたしなりのオヤジさんの話をしてみようと思うんです。

 ということで、実に貴重な記録と言えるだろう。

 この後、すぐ、襲名のことに話が及んでいる。

 みなさんが気になっているのは、あたしが六代目を継ぐかどうかっていうことなんですけど、これはもう志ん朝に継がせることに決めたんです。別に誰に言われたってわけじゃなくて、あたしが自分で決めたんです。オヤジさんの遺言じゃない。
 オヤジさんはもう志ん朝がかわいくて、かわいくてしょうがないんですよ。歳をとってからの子供でしょ。それがパーッと素直に育って、パーッと売れたでしょ。だから嬉しくてしょうがないわけです。だけど、あたしという者がいるから、心配なわけですよ、もう。そこになると単なる世間のお父っつぁんになっちゃうですね。ええ。だから、生前、
「安心しなよ。志ん生は志ん朝に襲名させるから」
 って言ったら、もう、涙と洟(はなみず)でクシャクシャになって、
「ありがとう・・・・・・ありがとう」
 って。で、おふくろからも、
「お願いします」
 って両手をつけられて、それじゃあしょうがないでしょう。わずらってるおふくろに、
「お願いします」
 って、手をつかれちゃったら。・・・・・・それであたしが志ん生になったら馬鹿ですよ。

 ということで、せっかく兄が気配りして父、そして母に約束した弟の六代目襲名だったが、それは、結果として実現しなかった。

 本書の馬生の聞き書き、ご本人の生きた言葉が聞こえるようで、なかなかいいのだよ。

 初回は、このへんでお開き。
by kogotokoubei | 2019-06-14 12:47 | 落語の本 | Comments(0)
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『歌丸 極上人生』

 『歌丸 極上人生』は、最初は平成18年に、うなぎ書房から『極上 歌丸ばなし』として発行され、平成27年に加筆・修正の上で、祥伝社黄金文庫で再刊。

 この本からの五回目。

 落語研究会の白井プロデューサーからの“無茶ぶり”で、圓朝作『牡丹燈籠』の『栗橋宿』を演じた歌丸。

 白井さんからは、また依頼があった。

 研究会で『栗橋宿』をやって、しばらくしてから、今度は『真景累ヶ淵』をやったらどうだって、持ち掛けられました。白井さんもしばらく様子を見てたんじゅないですか?その間二年ほどありましたから、で、あたしも『牡丹燈籠』のほうは、ともかく『栗橋宿』をやったんだから、いったん脇に置いといて、じゃァ今度は『累ヶ淵』に手を伸ばしてみようかな、と思っんです。

 なるほど、そういうことだったか。
 
 今度は、歌丸も初めから乗り気だったようだ。

 圓朝師匠の『真実累ヶ淵』は、本当だったら、発端の『宗悦殺し』からやらなくちゃいけないんでしょうけども、初めに見せられたのが、やはり圓生師匠の『深見新五郎』のビデオだったんです。そうするとね、その前の『宗悦殺し』からやると、馬鹿に長くなっちゃって、くどくなると思ったんです。『深見新五郎』をやれば、そのマクラで、それまでのあらすじをずーっと言わなくちゃいけませんよね?あたしはそれでいいんじゃないかって思ったんです。それで、平成八年の八月、国立演芸場で十日間やったうえで、十一月の研究会にかけました。それ以後、毎年、国立の八月中席の十日間で、一話ずつこしらえていって、五年がかりで五席にまとめたと、こういうえわけです。
 なにしろ長い噺ですから、全部片付けるには、あまりに時間がかかるために、あたしとして、深見新五郎の一件と、あとは新吉とお賎のスジだけに絞ろうと考えたんですね。それで、『深見新五郎』のあとは『勘蔵の死』『お累の自害』『湯灌場から聖天山』『お熊の懺悔』と、結局この五席でまとめることにしたんです。
 『豊志賀の死』とか『お久殺し』は、ほかにもやる人があるし、とりわけ『豊志賀の死』は、もうみなさんがおやりになってますから・・・・・・みんながやってるところをやってもつまらない、と思いました。それに『勘蔵の死』をやっとけば、マクラっていうか、初めのスジの説明で、豊志賀、お久のほうあ一言で片が付いちゃうから、もういいんじゃないかって・・・・・・。

 なるほど、いろいろ考えて歌丸版の『真景累ヶ淵』が出来上がっていったわけだ。

 「真景」は当時の流行語だった「神経」のもじりで、漢学者の信夫恕軒の発案と言われている。
 
 とにかく、登場人物も多く、その因果関係も複雑な噺。

 圓朝作品についてしばしなお世話になる、「はなしの名どころ」さんから、図をお借りした。
「はなしの名どころ」サイトの該当ページ
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 同サイトでは、この噺を次の九つに分けて紹介している。

①宗悦殺し ②松倉町の捕物 ③豊志賀の死 ④お久殺し ⑤迷いの駕籠
⑥お累の死 ⑦聖天山 ⑧麹屋のお隈 ⑨明神山の仇討

 ②松倉町の捕物、が『深見新五郎』に該当するのだろう。

 たしかに、『豊志賀の死』は、多くの噺家さんが演じる。』

 なお、「はなしの名どころ」管理人さんが書いた『落語と歩く』について、昨年四回に分けて紹介した。この本、まだ読んでらっしゃらない方に、ぜひお勧めします。
2018年4月3日のブログ
2018年4月5日のブログ
2018年4月6日のブログ
2018年4月8日のブログ

 話を戻す。
 『真景累ヶ淵』、そう簡単に出来る噺ではない。
 歌丸が悩んでいた時、ある噺家さんが助け船を出してくれたようだ。

 『お累の自害』のときは、林家正雀さんと話し合ったことがあるんですよ。あの人も、稲荷町の正蔵師匠の系統の『累ヶ淵』をやっていますからね。で、あたしの場合は、圓生師匠のおやりになったのをもとにしているんですが、圓生師匠のでいくと、あすこで新吉がお累をいじめ抜きますね、蚊帳を持って行かれては赤ん坊がかわいそうだからと、放さないのを無理に引っ張って生爪をはがしたり、赤ん坊に煮えくるかえっている薬缶の湯をかけて殺したり、あまりにも残酷で、あたしは凄く抵抗を感じちゃって、これはできない、あすことどうにかしたいっていうようなことを、正雀さんを話し合ったんです。そうしたら正雀さんが一言、「そいじゃァ四谷様へもってちゃったらどうです?」って・・・・・・つまり、『四谷怪談』のお岩と伊右衛門の型ですね、そっちにしたらどうですって言われて、ああそうかと思って、赤ん坊を抱いたお累が、蚊帳をを放さないのを、委細構わず蚊帳ごとずるずる引きずってきて、上がり框(がまち)のとこで、いきなり引ったくると、患っているお累は力がないから、思わず抱いている赤ん坊を落とす、打ち所が悪くて・・・・・・という具合に持ってくようにしたんです。

 なるほど、圓朝作品に挑戦する、良い仲間がいたねぇ。

 林家正雀の圓朝ものは、2015年の8月下席の主任で『牡丹燈籠ーお札はがし』を聴いている。
2015年8月30日のブログ

 その際、柳家小袁治師匠のブログから九日間のネタ帳の写真をお借りし掲載した。

 最初の四日間が『真景お類ヶ淵』で『深見新五郎』『豊志賀』『お久と新吉』『お累の婚礼』の四席。

 どの人物、どの筋書きを取り上げるかは、噺家さんそれぞれに思いがあるだろう。
 ちなみに、歌丸が演じた『お熊の懺悔』は、圓生も正蔵も手がけていない。

 また、歌丸は、最初は割愛した『豊志賀』をやってみて、やはり発端の『宗悦殺し』から始める必要を感じたという。
 その結果、「語り直して三遊亭圓朝作 怪談真景累ヶ淵」では、『宗悦殺し』から、始め、『深見新五郎』『豊志賀』『勘蔵の死』『お累の自害』『湯灌場から聖天山』、最後『お熊の懺悔』と全七話で構成している。

 なお、白井プロデューサーの“無茶ぶり”は、その後も続き、『髪結新三』(河竹黙阿弥作)に歌丸は挑戦することになる。

 その内容については・・・この本でご確認のほどを。

 なんとか、今になって、桂歌丸という噺家さんが、テレビの人気者で終わらないために精進していた姿を知ることになった。
 
 もっとその高座を聴くべきだったと、悔やむばかり。

 このシリーズ、これにてお開き。


by kogotokoubei | 2019-05-22 21:27 | 落語の本 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛