噺の話

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カテゴリ:落語の本( 199 )

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春風亭栄枝著『蜀山人狂歌ばなし』
 
 平成9(1997)年、三一書房から初版発行の、春風亭栄枝著『蜀山人狂歌ばなし-江戸のギャグ、パロディーの発信源-』から三回目。

 蜀山人は、山東京伝と、同時代の人である。
 山東京伝は宝暦11(1761)年生まれだから、寛延2(1749)年生まれの大田直次郎は、ちょうど一回り上。
 栄枝は、この二人の逸話を紹介してくれている。

 ある時、大田南畝が山東京伝を訪ねた時のことでした。
 京伝がまだ二十二歳という青年時代に、自分の作品を南畝に絶賛され流行作家としてデビューしているのです。もちろん、南畝の訪問を受けた京伝は酒と肴でもてなしたのはいうまでもありません。
 この時、酒の肴に出てきたのが、茄子のしん焼きです。茄子に油をつけて焼いたものですが、味噌がぬってあり、これに串を刺してあります。この茄子の形をよく見ると、シギという鳥に似ているので、「茄子の鴫(しぎ)焼き」などといいます。しかし江戸風の言い方では、「茄子のしん焼き」、江戸料理では有名なものだといいます。

 ところで南畝先生は、はしを持ってじーっと見つめていましたが、「どうでしょうね・・・・・・この茄子のしん焼きで、ひとつ狂歌を詠んでみましょう」とおっしゃいました。

  小娘も はやこの頃は 色気付き
    油つけたり 櫛(串)をさしたり

 閃きです。こういう風に閃いたのです。
 ところが、ところがどうして、相手をしていた山東京伝はこれ以上にもっと閃いたのです。

  油つけ 櫛(串)をさしたは よけれども
    色が黒くて 味噌をつけたり

 才人同士の、なんとも見事な応酬ではないか。

 この本の著者の栄枝も、なかなかの才人と思った部分をご紹介。

 以前、私は自分の落語会で、「自分史」を漫談風に演ってみたことがありました。
 この時、この漫談風自分史にどういう題をつけようかといろいろ考えたあげく、どうせなら面白い題をつけてプログラムに載せようと思いました。
 そうしてできあがったのが、『ぼくの細道』。
 われながら実にいい題だと思ったし、他人もまたほめてくれました。

 もちろんこれは、「奥の細道」のパロディ。
 なかなかのものだ。

 まだ、栄枝の『ぼくの細道』を聴いたことがない。ぜひ、どんな道だったか、聴いてみたいものだ。

 蜀山人も、パロディの大家。
 有名な和歌などを見事に料理してみせる。

 次によく知られている歌をご紹介します。

  夕されば 野辺の秋風 身にしみて
    うずら鳴くなり 深草の里

 これは和歌の神様ともいわれ、また藤原定家の父親である藤原俊成の有名な歌です。
 なんともの寂しくなる歌ではありませんか。夕方が過ぎ、うずらの鳴き声を聞く頃、いっそう秋風が身にしみてくる、といったような意味なんでしょうか。
 これを、さっそく大田南畝先生はパロっちゃいました。まあ、見て下さい。

  ひとつとり ふたつとりては 焼いて食ふ
    鶉なくなる  深草の里

 こっちの南畝先生のほうは、うずらを一つ二つと焼き鳥にして食べてしまい、だんだん無くなっちゃったという意味でしょう。俊成のほうは、「鶉が鳴く」、南畝は「鶉が無く」と変えてしまっているのです。
 いかにも南畝先生の面目躍如といったところです。


 こういう遊び心、好きだなぁ。

 無理を承知で、南畝の作を元に、こんなのを作ってみた。

  ひとつとり ふたつとりては 眠るフリ
    譲らなくなる 電車の座席

 日光の手前か^^

今回はこれにてお開き。
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by kogotokoubei | 2018-12-04 20:27 | 落語の本 | Comments(0)

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春風亭栄枝著『蜀山人狂歌ばなし』
 
 平成9(1997)年、三一書房から初版発行の、春風亭栄枝の『蜀山人狂歌ばなし-江戸のギャグ、パロディーの発信源-』から二回目。

 栄枝が、落語に魅了されていた頃のことから。

 それはもう、三、四十年前のことになります。
 昭和三十年代の頃は、私はすでに、落語、落語・・・・・・落語でなければ夜も日も明けない毎日でした。
 朝から晩まで、もう頭の中は落語一筋の落語のことだらけ。落語家にどうしてもなりたくて、あちこちの寄席ばかりに行っていました。
 当時、地元の巣鴨の高校に通っていた私は、学校が終わるとカバンを家に放り出して、入場料が五十円の池袋の演芸場や上野の鈴本演芸場にすっとんでいったものです。
 その後、親のすすめで大学に通うのですが、これも数ヵ月籍を置き、教室で先生の講義も聴いたが、どうも耐えられないものでした。
 ところで当時の寄席は、後に昭和の落語史に名を残すような大看板が出て、強烈な個性で高座が賑わっていました。
 例えば、私を弟子にしてくれた春風てい柳枝、さらに古今亭志ん生、桂文楽、三遊亭圓生・・・・・・。
 そしてそこで私はいろいろと感じたことの一つに、日本語はこうも面白く話すことのできる言語なのかと、ついつい大学の先生の話と比較してしまったりしたものです。どだいそんな比較のナンセンスなことは承知していますが・・・・・・。大学の先生ごめんなさい!

 この本では書かれていないが、栄枝の父親は、苦学して師範学校に行き教員となって、校長まで務めた方で、栄枝が落語家になりたいと言うと、大反対したらしい。

 大学をすぐに中退した時は、結構、大変な騒ぎになったと察する。
 
 昨年、産経の「父の教え」というシリーズで栄枝の記事が掲載された。
産経ニュースの該当記事

 少し引用。
明治生まれの父は、幼い頃からしつけに厳しかった。書道で栄枝さんの筆に癖を発見すると、容赦なく鞭を振るって矯正した。儒学者、頼山陽の漢詩を口ずさみ、新渡戸稲造の教育論を熱く語り、常日頃から「学問が大事」と言い続ける厳格な父は、大きく怖い存在。反発するというより、落語やロックが好きな自分が認められるはずはないと思い込んだ。

 結構、長い記事なので、ご興味のある方は、ご覧のほどを。
 最初反対したものの、その後、お父上は、栄枝をさまざまな形で強力に支援することになるのだが、いいんだよね、この明治生まれのお父さんが。

 産経、こういう記事は、悪くないんだけどなぁ。

 本書からの引用を続ける。

 落語のマクラで、川柳や諺、語呂合わせの洒落、都々逸、小唄・端歌の文句にいたるまでが自在に飛び出して、それが私には実に新鮮に聞こえてくるのがとても不思議でした。
 ある師匠などは、高座に座ってペコリと頭を下げてから、「ええ、蜀山人の戯れ歌に・・・・・・」といってしゃべり出します。「なんだろう・・・・・・しょくさんじんって?」「ざれ歌?って、一体なんだろう?」。家のい帰ってからも、「しょくさんじん」「ざれ歌」がいつまでも頭にひっかかって離れないのです。それに、「しょくさんじん」という音も耳に響く感じからすると、きっと一日中、洒落や冗談を喋ってばかりいて、いつもみんなを笑わせている愉快なおじいさんなのかもしれない、と考えたりする日が続くのでした。

 たしかに、「しょくさんじん」という言葉の響きは、仙人や高齢の隠居をイメージさせるものがある。
 ちなみに、私は魯山人と蜀山人を一時混同していた頃がある^^

 さて、落語に魅入られた十代の若者は、大学を中退し、落語の世界に飛び込んだ。

 やっと入門できたのが、八代目春風亭柳枝師匠だったのです。
 持ちネタの中に、「野ざらし」や「花色木綿」は大爆笑をとったものです。それに「狂歌家主」という噺があります。私は大好きでした。暮れになって家賃が払えなくなった八っつぁんが、一計を案じました。日頃、狂歌が好きで好きでたまらない大家さんに、自分も狂歌が好きになったと言い訳すれば、家賃を待ってくれるに違いないと思い、とてもメチャクチャな言い訳をするという噺で、年の瀬の雰囲気がよく出ていました。
 この噺のマクラに次のような狂歌があります。

   味噌濾しの 底にたまりし 大晦日
     越すに越されず 越されずに越す

 「狂歌家主」は、「掛け取り」の狂歌の部分を独立させた噺。
 そろそろ、聴く季節になってきたねぇ。

 私は、八代目柳枝が大好きなので、この本を読んで、栄枝も好きになってしまった^^
 また、柳亭小痴楽が、落語家になったきっかけに、柳枝の「花色木綿」を聴いたからと知って、小痴楽を一層応援したくなった。

 なお、八代目柳枝については、拙ブログ開始間もない頃に、談志の本の引用を含め、記事を書いた。ご興味のある方は、ご覧のほどを。
2008年6月27日のブログ

 柳枝に入門した栄枝は、落語に限らず(それ以上に?)、狂歌を深く知ろうとするのだった。

 今回は、このへんでお開き。

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by kogotokoubei | 2018-11-30 12:58 | 落語の本 | Comments(4)

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春風亭栄枝著『蜀山人狂歌ばなし』
 平岩弓枝の『橋の上の霜』との関連から二度記事にしたが、あらためて、狂歌、なかでも蜀山人が大好きな落語家、春風亭栄枝の『蜀山人狂歌ばなし-江戸のギャグ、パロディーの発信源-』を紹介したい。

 平成9(1997)年、三一書房から初版発行。

 もう少し後で記事にしようと思っていたが、再読したら、早く記事にしたくなった。

 「まえがき」から。

 振り返ってみると、落語家になってから、アッという間に三十数年がたってしまった。
 その長い年月の間に、寄席で多くの先輩や大看板の師匠連に接することができたのは、なんともありがたいことであった。今、こうしていても、あれも聞いておきたかった、それからこれも聞いておきたかったと思うことしきりである。 
 そんなことを考えたりしていると、寄席の楽屋でお茶を出していた前座や二つ目の頃が、つい昨日のように錯覚してしまいそうだ。

 前後するが、巻末などを元にプロフィールをご紹介。
 栄枝は、昭和13年、東京は豊島区の生まれ。昭和32年に高校卒業後、八代目春風亭柳枝に入門。
 この生年と入門年、古今亭志ん朝と、同じだ。
 柳枝没後、八代目正蔵に師事。林家枝二と名乗る。昭和48年に枝二で真打昇進。
 ちなみに、志ん朝は、入門から5年、昭和37年に抜擢され真打昇進していた。
 昭和57年に彦六没し、翌年、七代目春風亭栄二を襲名。
 ライフワークとして、海外の日系人に落語を語りながらの「落語大使の旅」を続けている、と巻末にあるが、今も続いているかは不明。
 この「落語大使の旅」の途中、アメリカで百栄は栄枝と出会っている。

 「まえがき」の引用を続ける。

 私は今でも、修行中の身なのだが、もっと若かった修行時代に、落語のマクラで狂歌の存在を知り、それから狂歌が頭から出ていかないのである。その狂歌も、私は江戸の天明の狂歌こそが、落語にもっとも近い文芸だと思っている。
 幸い?にも私は、人気落語家でもなく、けっこう暇があるので、あまり多くの人の目に触れないような些細な文にまでも、狂歌にぶつかった時は、こまめみ書きためておいた。
 ところで、狂歌といえば、どうしても蜀山人ということになってしまう。
 なぜだろうか?
 たいがい、傑作でかわりやすい狂歌には、必ずといっていいほど「・・・・・・と蜀山人が詠んだ・・・・・・」となってしまうのである。
 私は、こうしたことに多少の疑問を持ち、いろいろ調べ始めた。調べ始めると狂歌や蜀山人への興味がふくれあがってきた。そして、蜀山人とその時代をどうしても書いてみたくなってしまった。なっていったが、喋ることさえ十分でない私にとって、まさに大それたことなのであった。

 この「喋ることさえ十分でない私」という部分、笑ってしまう。

 私が栄枝を最初に聴いたのは、2011年9月の末広亭。
2011年9月17日のブログ
 長めのマクラと『鼓ケ滝』。なんとも、飄々とした高座だった。

 そして、昨年、二代目志ん五の浅草での襲名披露興行での『都々逸坊扇歌物語』は、最初の印象を覆す、好高座だった。
2017年10月16日のブログ
 狂歌のみならず、川柳も、そして都々逸にも興味があるからこその、あの高座だったのだと思う。

 さて、「まえがき」の後半。

 江戸の文学を語る上で、どうしても避けて通ることのできないのが蜀山人。
 つまり、大田南畝なのである。
 (中 略)
 私は、蜀山人の狂歌こそが、江戸人のユーモアと反骨、洒落と滑稽、機知と頓智の発信源ではにかと思っている。
 本書は、この南畝・蜀山人とその狂歌にまつわる話を中心にしながら、私の修行時代のこと、また私が日頃あれこれ思っていることなどをまじえながらまとめたものである。
 どうか最後までおつき合いのほどを願います。

 初回は、これにてお開き。

 この記事も何回になるか、まったく分からないが、どうぞ、おつき合いのほどを。
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by kogotokoubei | 2018-11-29 12:47 | 落語の本 | Comments(0)
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 少し間が空いたが、和田誠さんの『落語横車』から三回目。

 和田さんは映画についてのエッセイで有名。

 「落語と映画・芝居など」の章から、私の大好きな「幕末太陽伝」に関する部分をご紹介。この本、初版は昭和55年。

 数人の若手落語家と「幕末太陽伝」の話をしたことがある。みんな観ていたし、それぞれに感心したらしい。中には「あの映画を観て、落語が好きになったんです」と言った人もいた。ただし、別の機会に立川談志さんに、「『幕末太陽伝』よかったね」と言ったら、「へえ?そうかい」と言われてしまった。その日はすぐ別の話になったので、へえ、そうかいの意味をきくヒマがなかった。別の話というのはアメリカのミュージカル談義で、談志という人物は、こと「芸」に関してなら落語に限らず、日本の芸能に限らず、フレッド・アステアのタップからドナルド・オコーナーのとんぼ返りに至るまで、とにかく好きで、好きというより惚れ込んでいて、夢中になって語るのだ。
 いずれチャンスがあったら「幕末太陽伝」の話の続きをしたいと思うが、今、ぼくはぼくなりに談志さんの言ったことを勝手に解釈してみよう。

 いったん、休憩。
 川島雄三生誕百年ということで、さまざまなイベントがある中で「幕末太陽伝」に縁のある噺の落語会があることを、6月に拙ブログでお知らせした。

 11月4日までの開催だったが、結果として、私は行かなかった。

 プレゼント付きとはいえ、4,800円と木戸銭が高いと思ったことと、川島雄三が空の上で喜ぶのかどうか疑問を感じたこと、加えて、スケジュールが合わせにくなかったということもある。

 さて本書に戻る。
 和田さんは同じ昭和11年生まれの談志の思いを、どう解釈したのか。

 つまり、彼は落語が好きだ。落語に惚れ込んでいる。たった今、落語に限らず「芸」なら何でも好きだと書いたばかりだけれど、中でもとりわけ落語には心底惚れ込んでいると断じていい。すると、「幕末太陽伝」がどんなによく出来ていようと、例えば三遊亭円生が「居残り佐平次」をやり、古今亭志ん生が「三枚起請」をやり、三笑亭可楽が「品川心中」をやり、それが一度に聴ける高座があったとしたら、それは映画を観るより余程いいじゃねえか、と言うのじゃないかしら。もしそう言われたら、いや、やっぱり映画がいいぜとぼくには反論できないのである。そう言っちゃミもフタもないとおっしゃる人もいるかも知れないが、やはり落語はそれほど大きなものだろう。

 和田さんの推測は、たぶん半分当っているように思う。
 私が思う、もう半分の理由は、談志が川島雄三という映画監督にあまり良い印象を抱いていなかったのではないか、ということ。

 正岡容に代表されるが、川島雄三を、落語界から桂小金治さんを奪い去った憎い男、と思っている人は少なくなかっただろう。

 そんな思いも、「へえ?そうかい」という言葉の背景にあったのではなかろうか。
 円生も志ん生も可楽もいない平成の落語界だが、この度の企画では、誰がどんな噺を演じたのか。
 「お江戸@マーク」のサイトを見ると、噺家さんの演じたネタは、次の通りだったらしい。
「お江戸@マーク」のサイト

 
柳家喬太郎 「品川心中」「文七元結」
春風亭一之輔 「五人廻し」「付き馬」「お見立て」「居残り佐平次」
桃月庵白酒「文違い」「付き馬」「明烏」
立川志らく「品川心中」
立川志らら「お見立て」
橘家文蔵「文七元結」
柳家わさび「亀田鵬斎」
神田松之丞 天保水滸伝より「潮来の遊び」「青龍刀権次」

 
 この映画については、ずいぶん前、二谷英明の訃報をきっかけに記事を書いた。
2012年1月9日のブログ
 
 その際に、私が記した、あの映画に登場するネタは次の通り。

(1)居残り佐平次
(2)船徳*相模屋の倅の名が徳三郎、ということで。
(3)明烏
(4)品川心中
(5)三枚起請
(6)文七元結
(7)五人廻し
(8)お茶汲み*こはるが客を騙す“うそ泣き”をする
(9)付き馬
(10)お見立て
(11)たちきり*相模屋の若旦那徳が座敷牢に入れられる

 あら、「文違い」が入っていない。
 う~ん、どこにあの噺を連想する場面があったっけ。
 佐平次が花魁たちの手紙の代書をするというのも、居残り、と言えるだろうし。

 もしかすると、廓噺ということでの選択かもしれないが、「文違い」の舞台は、品川ではなく新宿だなぁ。

 また、今回の企画では、「文七元結」「品川心中」「お見立て」「付き馬」が重複しているのだが、「お茶汲み」と「たちきり」はともかく、「三枚起請」がない。
 これは、残念だ。

 また、松之丞の天保水滸伝が、どうこの映画につながるのだろうか。
 
 江戸の元号でつながっているが、藤本義一さんの『生きいそぎの記』に関する記事で、川島とフランキーが、写楽を主人公として「寛政太陽傳」を作る約束をしていながら叶わず、川島の遺志をフランキーが継いだことを紹介した。
 あくまで、写楽の映画。

 そういった構成への疑問も、俳優座に足を運ぼうとしなかった理由の一つかな。

 行かなかったくせに、小言を書いていることは、平にご容赦のほどを。

 さて、和田さんの本に戻る。
 落語と音楽のことから。

 音楽の世界では、「たらちね」がオペラになっているそうだが、ぼくは聴いていない。デュークエイセスが「寿限無」「長屋の花見」などを歌にして歌っている。出来のいいのは「長屋の花見」で、リーダーが大家、ほかの三人が店子に扮し、いくらかセリフも混えながら、もちろん主としてはコーラスによって組曲ふうに綴って行く。コーラス・グループが落語に取り組んだ実験精神を大いに買いたい。しかし、やはり落語のような笑いは取れないのがちょっとつらいところ。

 デュークエイセス、懐かしい。
 結成は、私が生まれた昭和30年。昨年、惜しまれながら解散。一昨年にはダークダックスも解散しているので、残るは、ボニージャックスのみ。
 
 引用を続ける。

 ミュージカルでは「死神」があった。これは「今村昌平台本のオペラによる」というサブタイトルが付されていたと思う。オペラの方が上演されたかどうか、ぼくは知らない。こちらはいずみ・たく作曲によるミュージカルで、西村晃、今陽子などの出演。歌の中で記憶に残るいい曲が一つあったけれど、長丁場の舞台にするにはいろいろなエピソードをつけ加えなければならず、落語が本来持つ引き締まった面白さが、どうしても水増しされる結果になった。それに、全体に暗いムードのい舞台になってしまった。落語の「死神」はブラック・ユーモアだが、ユーモアが欠落してブラックだけが残ったという印象。「死」を相手にしても底抜けに明るい、というのが落語の持っている良さの筈だと思うのだが。落語を素材にしながら暗い部分が強調されるのは真面目さのなせるわざだろう。演劇人(映画もテレビも含めて)に共通な感覚として、大作に取り組む時はたいてい、素材を深刻な方にとり込んでしまうようだ。
 そう考えて思い返すと、「幕末太陽伝」の主人公にも死の匂いがつきまとっていた。「居残り佐平次」には確かに「俺はこのあいだからどうも身体の具合が悪い」というセリフがあり、それで療養のつもりで海辺の品川遊郭に泊り込むわけだが、落語では、そのことについてはそれ以上は出てこない。映画の佐平次は完全に労咳という設定で、死と直面しているために居直った人物という解釈があったような気がする。
 あら、また「幕末太陽伝」に戻ってしまった。
 
 少し検索してみたら、今村昌平作のオペラ「死神」は、あちこちで上演されているようだ。
 オペラのみならず、ミュージカル「死神」もあったんだねぇ。
 暗~い、ミュージカルって、あまり観たいとは思わない^^

 しかし、NHKの「昭和元禄落語心中」で、菊比古(ハ代目八雲)の「死神」を知った若い落語愛好家も多いかもしれないから、今なら、ミュージカル「死神」当たるかも!

 明日16日(金)は、その「昭和元禄落語心中」が一つのヤマを迎える。

 これまで、原作の漫画も読んでいず、昨年放送されたアニメも観ていない私だが、今回のドラマは都合よく毎週観ている。

 NHK大河と比べることに無理があるとは思うが、あちらも実在の人物をモチーフにしたフィクションドラマとするなら、ドラマとしての魅力は、格段と「昭和元禄落語心中」が上である。
 
 そのうち、あのドラマについて何か書こうと思っている。

 ちょっと話があっちこっちに発散してしまったなぁ。

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by kogotokoubei | 2018-11-15 12:47 | 落語の本 | Comments(4)
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 和田誠さんの『落語横車』から二回目。

 初版は講談社から昭和55年発行で、私が読んだのは昭和59年の講談社文庫。

 前回と同じ「落語とジャズ」の章。

 今回は、家元がジャズ好きになった背景に、和田さんの存在があったという話から。
 談志さんがディキシー・キングスと知り合ったいきさつについては、ほんのちょっぴりだがぼくにも関りがある。1960年頃、草月会館ホールでは毎月「草月ミュージック・イン」というジャズの会が開かれていた。ぼくはこの会のポスターをデザインしていた。学校を卒業して間もない頃の話である。ぼくはジャズが好きだったので、ポスターを作るだけでなく、企画そのものに少々口出しをしたこともあった。「ブルースの継承」という題のジャズの歴史に関する催しが好評で、この企画が労音に買われて関西でも上演された。草月ホールではごく地味にやったのだが、大劇場の乗るのだから少し規模も大きくしよう、それに構成台本が必要だ、ということになった。プロデューサーとの打合せで、ぼくはポスターを作る以外に、舞台で映されるスライドの絵を描くことになったのだが、構成者を誰にしようかという話になり、ぼくは谷川俊太郎さんを推薦した。その案が通って谷川さんに話を持って行くと、谷川さんは、自分はジャズは詳しくないから引き受けないけれど、代りに推薦する人がいる、と言って都筑道夫さんを指名した。都筑さんはすでに作家として知られていたけれど、ぼくたちにとっては「EQミステリ・マガジン」の名編集長としての印象の方が強かった頃である。台本は都筑さんが書くことになった。
 都筑さんの台本では司会者が必要で、その司会者は落語調でしゃべることになっていて、できれば本物の落語家がいいという。
 ぼくは当時は落語とジャズの結びつきを考えたこともなかったから、たいそう意外に思えたものだった。都筑さんは、ジャズについて語るのだから落語家でも若手がいい。今優秀な若手が二人いて、一人は古今亭朝太、一人は柳家小ゑん、どちらかに頼もう、と言った。詳しいんだなぁ、とぼくは思った。しばらくしてわかったことだが、都筑さんのお兄さんは、若くして亡くなった鶯春亭梅橋という落語家だったのだ。
 言うまでもなく、朝太は後の志ん朝、小ゑんは後の談志である。

 少し長くなったが、和田さん、若くしてポスターのみならず、ジャズ・イベントの企画にまで関わっていたんだなぁ。

 草月ホールで思い出すのは、ずいぶん前だが、ぴあの主催する「マクラ王」なる落語会に行ったことがある。
2011年7月16日のブログ
 「rakugo オルタナティブ」という企画の一つで、次のような構成だった。
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(開口一番 立川こしら マクラ&『王子の狐』)
三遊亭兼好 マクラ&『蛇含草』
三遊亭歌之介 マクラ&『お父さんのハンディ』
(仲入り)
桃月庵白酒  マクラ&『松曳き』
座談会
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 主催ぴあ、制作は立川企画だったが、とにかく不思議な会だった。

 さて、都筑道夫さんといえば、今年7月に、『志ん生長屋ばなし』(立風書房)の都筑さんの解説を紹介したことがある。二十九歳で亡くなったお兄さんのことも書かれていた。
2018年7月11日のブログ


 さて、その都筑さんが推薦した二人について、その後、どうなったのか。

 プロデューサーはたまたま朝太より先に小ゑんに会った。ぼくはどういうわけか、都筑さんに依頼に行く時も、小ゑんに会った時も、プロデューサーを同席していた。小ゑんはジャズが好きだからと言って乗ってきたのですぐ話が決まった。その時点で言えば、小ゑんが本当にジャズが好きだったかどうか、よくはわからない。彼はジャズに限らず落語以外のジャンルに仕事を拡げようという欲を持っていたのではないか。しかしいずれにしろ、その仕事以来、彼はジャズが好きになっている。その催しにはいろいろなジャズメンが登場したが、小ゑんが意気投合したのはディキシー・キングスだった。と、こういういきさつである。

 ということで、もし、朝太に先に話を持って行ったら、家元とディキシー・キングスとの出会いはなかった、かもしれないなぁ。

 さぁ、次は、私が大好きな、駄洒落のお話。

 ジャズメンには駄洒落の上手な人が多い。駄洒落というよりも聞こえをよくすれば、「言葉遊び」ですね。ぼくは彼らから、ずいぶん言葉遊びの楽しさを教わった。噺家も特有の符牒を使うが、ジャズメンも符牒が好きだ。ジャズに限らずクラシックの人たちもそうだが、数字に音階表わす記号と当てる。「一万五千円」を「ツェー・ゲー」というように。それから言葉をひっくり返して使う、つまり「彼女」を「ジョノカ」と言ったりする。これは芸能人一般に見られることだが、特にジャズの人たちにこの傾向が強いようだ。
 ジャズメンの言葉遊びの例。
 レイ・ブラウンが運転していた車がエンコした。彼は同乗者に言った。「押すか?ピーターソン」
 デイヴ・ブルーベック・トリオが来日して、旅館に泊った。夜、マッサージ師がきて、「頼んだのはどなたでしょう」ときいた。一人が言った。「ポールデス。モンドくれ」
 MJQが住んでいたアパートに、人が訪ねてきた。ドアをノックして、「ジョージ、ルイス(留守)かい?」中から声あり「こっちコニー・ケイ(こないかい)」。「何だ、見ルトジャクソンかと思ったら、やっパシ・ヒースじゃないか」
 ジャズに詳しくないと何のことやらわからなず面白くないけれど、これらはジャズ仲間で可笑しがっていた地口である。この手はもっとたくさんあるらしいが、ぼくは部外者なのでそれほど多くは知らない。

 このジャズに関する駄洒落ネタ、好きだなぁ。

 私は、社会人一年目に新潟市のあるジャズ喫茶に入り浸りになり、一年でバーボンのボトルを50本キープするほどだった。マスター、ママとも懇意になり、他のジャズ好きな仲間も交え閉店後に店でマージャンをすることが、しばしばあった。

 ジャズメンの地口が、ポンポン飛び出すマージャンだった。

 リーチする時は、「マックス・リーチ(ローチ)!」
 他の打ち手は、「トミー・フラナガン!」
 相手にふってしまった時は、「マイルス・デイビス」
 なんてね^^

 そのお店もなくなったし、その後に長岡に転勤になり行きつけだったジャズ喫茶も、とうに姿を消した。

 懐かしい、思い出である。

 さて、拙ブログでも「落語とジャズ」というカテゴリーでいくつか書いている。
 ご興味のある方は、ご覧のほどを。
拙ブログ「落語とジャズ」

 この本からは、まだ紹介したい内容があるが、いったんお休みしようと思う。

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by kogotokoubei | 2018-11-10 09:18 | 落語の本 | Comments(6)

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 本棚で、先日紹介した長部日出雄さんの『笑いの狩人-江戸落語家伝-』の隣にあったこの本を、読み返していた。

 初版は講談社から昭和55年発行で、私が読んだのは昭和59年の講談社文庫。


 著者の和田誠さんは、昭和11年生まれ。
 和田誠さんと言うと、今では奥さんの平野レミさんの方が有名かもしれないが、広告デザインの世界では、伝説的とも言える方で、日本を代表するイラストレーターであるし、幅広くクリエイターとして活躍されてきた方ある。

 Wikipediaから、少し引用。
 Wikipedia「和田誠」

1959年(昭和34年)に広告制作プロダクションライトパブリシティにデザイナーとして入社し、同年、日本専売公社が発売予定の新商品の紙巻きたばこ「ハイライト」のパッケージデザインコンペに参加し採用される。ちなみに、同製品のデザインは、1964年開業の東海道新幹線の車体の色を決めるときに配色の参考にされたといわれている。他にも自社のライトパブリシティ及び、社会党のロゴマークを手掛け、キヤノンや東レといった国内有数の企業の広告デザインを長らく担当した後、1968年(昭和43年)退社。

退社後はフリーランスとなり、「週刊文春」の表紙、星新一著作の挿絵などを手掛けたり、他にも、星新一・丸谷才一の一連の作品や村上春樹の『アフターダーク』、三谷幸喜、阿川佐和子作品を始め、数多くの装丁を担当する。通常、書籍のバーコードは裏表紙のカバーに直接印刷されるが、これを嫌い、ISBNの数字のみが表示されたデザインを採り入れている。結果、バーコードは帯に印刷されることが多い。

映画にも造詣が深く、1984年(昭和59年)に「角川映画」として初監督作品である真田広之主演『麻雀放浪記』を手掛けた後は、小泉今日子主演の『快盗ルビイ』など数作品でメガホンをとった。ちなみに、他分野出身の監督が第一、二作連続でキネマ旬報ベストテン入りを果たしたのは、後にも先にも和田一人である。監督業以外にも『お楽しみはこれからだ』等、映画がテーマのエッセイ集を出している。

 なんと、多彩な方であることか。

 本書は、映画をテーマにしたエッセイではなく、落語をテーマにしたエッセイ。

 この本、久しぶりに読んで、私が落語と負けない位好きなある音楽と落語について書かれた章があるのに気がついた。忘れていたなぁ。
 
 落語とジャズ

 ぼくがよくジャズを聴きに行く六本木のライブハウスのオーナー、Tさんは、こよなく落語が好きだ。ジャズが好きだからジャズの店を経営しているのだが、どうやらジャズと同じくらい落語が好きであるらしい。話をしているうちに相手も落語が好きだとわかると、ジャズメンについて語るよりさらに熱をこめて噺家を語る、前座時代から小朝を買っていて、彼が真打になったのを、わがことのように喜んでいる。

 この本の初版は、前述のように昭和55年。まさに小朝が三十六人抜きで真打に昇進した年。
 引用を続ける。

 新宿のジャズバーのオーナー、Nさんも落語ファンだ。彼とその店で落語の話をしたことがある。その日はほとんど夜を明かしてしまった。Nさんはぼくと同じ年だが、典型的な古典派で、往年の名人について語らせたら尽きることがない。

 和田さんもジャズと落語が大好きなのなことが、伝わる。
 このあと、ジャズメンで代表的な落語好きとして北村英治さん佐藤允彦さんのことが書かれている。
 また、同じ業界の方も登場する。

 写真家では落語と関係が深いのは篠山紀信である。円生の写真を撮り続けたことは有名だが、中学時代に落語を習っていたことはあまり知られていない。彼の写真家としてのデビュー当初、ぼくと同じデザイン会社に勤めていたことがある。あの頃は会社の忘年会などで、彼は一席演じたものだった。立て板に水の如き「雑俳」をぼくはよく覚えている。

 これは意外。そうだったんだぁ。
 テニス仲間や同期会の旅行での宴会、また、落語好きの居残り会の皆さんとの居残り会などでも一席披露してしまう私は、一気に篠山さんに愛着をおぼえるのだ。

 和田さんは、ジャズと落語について、共通点をこう記している。

 ジャズには、おおむねテーマがありアドリブがある。同じ曲でもこう演奏しなければならないというきまりはない。演奏者の感性が尊重される。さりとて勝手放題どうやってもいいというわけでもなく、おおよそのルール、望ましき枠というものはある。演奏時間はかなり自由である。プレーヤーが乗れば演奏は長くなる。また放送などの関係で演奏時間を指定されればそれに合わせることもできる。
 こういうジャズの特徴は、かなり落語にも当てはまるのだ。落語には演目がある。しかし台本に忠実に演じる必要はない。演者の個性を生かしたアドリブが投入される。同じ噺でも、滑稽味を強く出す人がいてもいいし、人情味を強く出す人がいてもいい。さりとて噺を目茶苦茶に作り変えていいと言うものではない。時間もかなり自由がきく。演者が乗れば噺は長く、そして面白くなる。時間に制限が加えられることもまた可能。

 まったく同感。

 居残り会仲間のYさんは、私と同じように、落語もジャズも大好きで、会うと話が尽きない。
 実は、居残りメンバーとの忘年会を予定していて、昨日メールで、Yさんとある噺をリレーで演じることを決めた。他のメンバーには、まだ内緒^^

 ある音源を元にこれから稽古しなければならないが、その内容をなぞるのが精一杯になりそうで、どこまで個性を盛り込めることやら。
 音源の時間は長い。どこを短縮するか、これからしばらく楽しい悩みが続くなぁ。

 とても篠山さんのようには出来ないだろう・・・・・・。

 この本から、あと何度か紹介するつもり。

 実は、居残り忘年会の前の週が、テニス仲間との合宿旅行。
 こちらの演目も稽古しなくてはならないのだ。しかし、居残り忘年会と同じネタは、所要時間を考えると、難しい。
 以前は、音源を何度か聴いていると、結構自然に覚えることもできたが、最近はなかなか・・・・・・。加齢のせいか。

 本も読み返して忘れていたことに気づくことが、なんと多いことか。
 これも加齢のせいか。

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by kogotokoubei | 2018-11-09 12:27 | 落語の本 | Comments(2)

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長部日出雄著『笑いの狩人-江戸落語家伝-』

 長部日出雄さんの『笑いの狩人-江戸落語家伝-』(新潮文庫)の解説を、矢野誠一さんが書いている。

 長部さんに関し興味深い内容だったので、紹介したい。

 文庫発行の昭和五十八年に書かれたもの。

 もうかれこれ二十年にはなる。
「キネマ旬報」あたりが、かなり意識的に使い出した「ショー。ビジネス」という目新しい言葉が、やっと定着しかかっていた。そのショー・ビジネスの世界の一端に身を置いたひとたちがかならず顔を出している酒場が新宿に何軒かあって、そんな酒場のどこかで長部日出雄さんを知った。まだ「週刊読売」の記者だった長部さんは、たいてい同僚の大沼正氏といっしょだった。定年退職するまで読売にいた大沼氏は、その後音楽評論家として独立すると間もなく、あっ気なく逝ってしまった。どちらかというとかまえの姿勢が目立ち、ぼそぼそと達観しているかのごときことを口にする大沼氏と、熱っぽくストレートに、見てきた舞台や映画に対する不満をぶちまけている長部さんの対照は、はたできいているだけでこちらを堪能させてくれたもので、目指す酒場に長部さんの姿が見えないと、なんとなくあてがはずれたような気分を味わうのだった。

 昭和9(1934)年生まれの長部さんは、弘前高等学校を卒業し早稲田大学文学部哲学科に入学したが中退後、昭和32(1957)年に『週刊読売』記者となった。
 矢野さんが新宿の酒場で長部さんに出会ったのは、そんな時期のことになる。

 引用を続ける。

 その時分の新宿松竹の地下に、文化演芸場という小劇場があった。ストリップ劇場の幕間狂言で活躍していたコメディアンたちによる軽演劇が、週がわりでかかっていたが、突如として手織座が室生犀星の『あにいもうと』を大真面目に上演してみたり、いまから考えると妙な劇場であった。この劇場には、南風カオル、財津一郎、石田英二、死んだ戸塚睦夫など、なかなか個性的な役者が出ていたのだが、満員の客を集めたことなどついぞなかった。その少ない客を相手に、いつもエネルギッシュな舞台を展開していたのが石井均の一座で、この石井均のことをいちばん最初に認め活字にしたのが長部日出雄さんであった。長部さんは、活字で石井均の舞台をほめるばかりではなく、しばしば楽屋にトリスの壜を差し入れたり、芝居がはねてから一座の連中をひき連れてのみ歩きながら、さかんに激励していた。つまり批評家と役者の関係を通りこし、いれあげていたのである。つい最近、清水邦夫さんが早稲田の学生時代、この石井均の芝居に通いつめていたときいて、見るべきひとはちゃんと見ていたのだなと、ある感慨を持ったばかりだ。

 長部さんは、石井均に限らず、記者時代に無名の多くの人をいち早く評価していた。
 私がその著作を愛読する筒井康隆や小林信彦も、長部さんという“見るべき人”に見出された人のリストに入る。

 矢野さんは、この本との出合いを次のように書いている。

 さて、『笑いの狩人-江戸落語家伝-』なのだが、1980年9月に実業之日本社から出たこの本を著者から寄贈され、一読したときのおどろきが忘れられない。「江戸落語事始」「落語復興」「幽霊出現」「天保浮かれ節」「円朝登場」の五篇からなるこの小説は、1976年8月から翌年の10月にかけて、あいだを置いて「週刊小説」に掲載されたものなのだが、本を頂戴するまで長部さんがそんな仕事をしていたことを知らないでいた僕は、通読して、ただでさえ複雑な江戸の落語史を、このひとが見事に把握していることに、まず感嘆してしまったのである。

 この思い、よく分かる。
 私も、読後に感嘆した。

 引用を続ける。

 もちろん新宿の酒場のカウンターで肩をならべながら、何度も落語や落語家のはなしに興じたことがあって、長部さんがかなりの落語好きで、この芸に精通していることは知っていた。だが、その話題は、桂文楽の『素人鰻』に出てくる神田川の金なる職人の酒乱ぶりについてであったり、古今亭志ん生の『品川心中』の貸本屋の金蔵と、川島雄三の傑作『幕末太陽伝』で小沢昭一が扮した金蔵との比較であったり、もっぱら当代の落語に限られていた。ブルドックが風邪をひいたようなと、その風貌を形容され、渋い芸が一部から熱狂的な支持を得ていた八代目の三笑亭可楽を、学生時代に都電のなかで見かけたときのことを、
「和服の膝に、きちんと鞄を置いてすわっているのはいいんだけど、その底にマジックインキかなんかで、ケー・エー・アール・エー・ケー・ユーって書いてあるんで、思わずふき出しそうになったな」
 なんてはなしてくれたことはよく覚えているが、江戸における寄席の元祖とされている京屋又三郎の初代三笑亭可楽のことなど、ついぞ話題にならなかったのである。

 酒場で、文楽の『素人鰻』の金の酒乱ぶりを、もしかすると八代目可楽の金と比べていたのかもしれないなぁ。私は、あの噺、可楽の音源が好きだ。

 我が居残り会もそうだが、好きな落語のことを同好の士と一杯やりながら語り合うのは、実に楽しいものだ。

 きっと、新宿の酒場での長部さんや矢野さんたちも、そういった時間と空間を共有していたのだろう。

 この解説は、次のように〆られている。

 かつて、新宿の石井均にいれあげた長部日出雄さんが、遠い江戸の芸人たちに真底いれあげてみせたのが、『笑いの狩人-江戸落語家伝-』なのだと、僕は勝手にそう思いこんでいる。

 その後、矢野さんが長部さんに会って、じかにこの本のことを語り合う機会があったのかどうかは、分からない。
 もし、その機会がなかったとしても、すでに遠くへ旅立った長部さんに会うことも、『笑いの狩人』の続編を読むこともできなくなってしまった。
 得がたい、芸能の目利きとしても、大きな存在を失ったのだと思う。


 果たして、当代の落語家の中で、どれほど、“いれあげる”ことができ、酒場の落語談義の素材となり得る噺家がいるのだろうか・・・・・・。

 矢野さんの解説を読み、昨日のNHK新人落語大賞を見て、やや寂しい思いがするのは、否めないなぁ。


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by kogotokoubei | 2018-11-05 12:54 | 落語の本 | Comments(2)
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長部日出雄著『笑いの狩人-江戸落語家伝-』

 『笑いの狩人-江戸落語家伝-』の最初のお話「江戸落語事始」からの、最終四回目。

 石川流宣の後押しもあって、長谷川町に住む塗師の安次郎は、鹿野武左衛門という名で江戸の咄職の先駆となり、人気者となった。

 しかし、武左衛門に、とんでもない災難が待っていた。

 その災難につながるのが、五代将軍綱吉の『生類憐れみの令』だった。

 綱吉の一子徳松が亡くなって以降、正室にも側室にも子が生まれないことを案じた綱吉の母である桂昌院に、僧の隆光が「前世の殺生の報い」であるからかたく殺生を禁じること、中でも綱吉は戌年生まれなので犬を大切にせよ、と進言したことから、天下の悪法が施行された。

 さて、そんな時代に、ある疫病が蔓延した。

 その年の四月ー。
 江戸にはソロリコロリという原因不明の奇病が蔓延して、沢山の人が死にはじめた。幕府では官医の余語古庵に命じて、治療法を研究させたが、悪疫の猖獗は一向にやまなかった。そのうちに奇妙な噂と、『病除(やまおよけ)の方書(ほうがき)』と称する小冊子が、巷に流れ出した。それによれば、あるところの馬が人語を発して、
ーこの病を防ぐためには、南天の実と梅干を煎じて服すれば即効あり。
 といったというのである。南天の実を乾燥させたものは、古来、咳どめの薬とされており、梅干は毒消し、または下痢どめの薬として知られている。ソロリコロリの主な症状は激しい嘔吐と下痢で、しかもその処方を馬が口にした、ということが、いかにも奇跡的な著効があるようにおもわせたのか、その小冊子は飛ぶように売れ、南天の実と梅干の値段は、平常の二十倍から三十倍にまで暴騰した。

 この事態を解決すべく、南町奉行の能勢出雲守頼相によって、流言蜚語の出所を確かめるために、一町ごとに人別改めが行われた。
 
 鹿野武左衛門と石川流宣は、「どこのだれか知らねえが、薬の方書なんか書かせておくのは勿体ねえ、咄職になったほうがいい」などど冗談を言い合っていた。

 ところが、とんでもないことが起こった。

 武左衛門の家へ二度目にやって来た町役人は、いきなりかれを縛って、呉服橋の南町奉行所に引っ立てた。
 奉行所の吟味場の砂利に敷かれた荒筵(あらむしろ)のうえに、縄つきで引き据えられた武左衛門に向かって、板の間を隔てた上段の畳敷きの部屋から、二人の吟味方与力のうちの一人が、怖ろしい形相でこういった。
「そのほう、よくも馬が物をいったなどと、不埒なことを申したな」
「め、めっそうもない」
 まるっきり身に覚えのない嫌疑に、武左衛門は動転して問い返した。「一体なにを証拠にそのようなことを・・・・・・」
「なにを証拠に?」尻上がりにそういって「白白しいことを申すなッ。ここに、ちゃんとこのように確かな証拠があるではないか!」
 吟味方与力は、持っていた一冊の書物を手で叩いた。それは確かに武左衛門の著書であった。かれは自分の話を集めて、十年まえに『武左衛門口伝はなし』、七年まえに『鹿の巻筆』という本を出していたのだが、与力が手にしていたのは、そのうちで一年まえに再刊された『鹿の巻筆』の一巻だった。
「ああ、それは・・・・・・」
 武左衛門は、ようやく事の次第を理解した。その一巻のなかには、『堺町馬の顔みせ』という話がある。

 この『堺町馬の顔みせ』という話は、現在『武助馬』として伝わるネタの原話。
 米河岸で刻み煙草を売っていた芝居好きの斎藤甚五兵衛という男が、念願かなって市村座の芝居に出ることになり、米河岸の仲間にぜひ総見し祝儀を上げてくれと頼んだ。とこどが、自分の役は、馬の後ろ足。それに気づいた仲間たちが「イヨーッ、馬さま、馬さま」と声をかけると、甚五兵衛も黙っていられなくなり、馬の尻のほうから「いいん、いいん」と嘶き、舞台を跳ね回った、というお話。

 与力の話では、江戸中を詮索した結果、『病除の方書』を書いたのは、浪人の筑紫団右衛門と判明したとのころ。彼が自分の本のみならず、南天の実と梅干を高値で売るために神田須田町の八百屋惣右衛門と共謀したのだが、この二人を取り調べた結果、馬がソロリコロリの処方を喋ったという話を、武左衛門から聞いたと白状したと言う。

 もちろん、武左衛門は否定し、反論した。
 
「それは嘘でございます」
 武左衛門は怒りと恐怖で身を震わせながら叫んだ。「だいいち、その筑紫団右衛門と申す浪人者やら、八百屋惣右衛門なる者、会ったこともございませぬ。さきほども申しました通り、わたくしめが喋りましたのは、馬の足の役者がなき声を真似たという話で、だいたい馬が人の言葉を喋るなどということは・・・・・・」
 (中 略)
「そのほう、いかにもまことしやかに、根も葉もないつくり話などして、おのれの名を売ったり、多額の金を儲けたり、それでこの世の中が通るとおもっておるのか!」
 与力の眼の色には、高名で実入りの多い武左衛門に対する深い憎悪と嫉みも籠められているようであった。

 武左衛門は、いわゆる“スケープゴート”にされたのであった。

 その後、穿鑿所(せんさくじょ)に連れて行かれた武左衛門は、尖った薪の上に座らされ、膝の上に思い石版を乗せる拷問を受けた。
 この様子は、読んでいるだけで痛くなる(?)ので、割愛。

 ついに、拷問の恐ろしさに耐えかねて、嘘の自白をすることになる。

 南町奉行能勢出雲守は、浪人筑紫団右衛門に斬罪、八百屋惣右衛門と鹿野武左衛門には流罪、板木元の弥吉には江戸追放を申しつけた。『鹿の巻筆』と『病除の方書』は、板木を焼き捨てられた。
 武左衛門は伊豆の大島に流された。命は助けられたものの、人に話を聞かせることを禁じられたかれは、死んだも同然であった。大島における武左衛門は、いつも無患子(むくろじ)の皮を煎じた汁をつけた葭の茎から、小さな泡のような水玉を吹き飛ばして見せては、島の子供たちの喝采を浴びていたという・・・・・・。
 幕府の狙いは、当ったともいえるし、当らなかったともいえる。鹿野武左衛門は、五年目の元禄十二年の四月に許されて江戸に帰り、八月に死んだ。五十一歳だった。かれの死後、どんな軽口や小咄も、幕府の怒りに触れるということで、江戸の落語は、すっかり廃れてしまった。

 とんだ、とばっちりを受けたものだ。

 しかし、鹿野武左衛門が本当に流罪になったかどうかについては、異説もある。
 延広真治さんが疑問を呈していることを、以前の記事で紹介した。『武助馬』として伝わる、問題となったネタ『堺町馬の顔見世』についても関山和夫さんの『落語名人伝』の引用で紹介した。
2014年1月12日のブログ

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延広真治著『江戸落語』(講談社学術文庫)

 重複するが、その記事から延広真治さんの『江戸落語』の内容を引用する。

大島遠島も証となるべき『流人帳』は現存せず(立木猛治『伊豆大島志考』、昭和三十六年)、赦免も、『旧幕府引継書』中の『赦帳』が、『正徳四年より享保九辰迄 御仕置ニ成候者此度赦ニ可罷成分窺帳』に始まるため、確認できない。八丈島遠島は、宇喜多秀家以来の『流人明細帳』により確認しうるが、武左衛門は不登場。したがって大島遠島に関しては確かめえないが、『延元年間秘事』も「板刻ハ焼捨」が、正徳六年(1716)板『鹿の巻筆』の存在により否定された以上、遠島も疑うべきであり、しかも無削除であるから、『鹿の巻筆』筆禍説は成り立つまい。


 このように、武左衛門が流罪になったことを裏付ける証拠に乏しいのである。

 しかし、武左衛門のつくった滑稽噺が、江戸の詐欺事件と結び付けられ、彼がとばっちりを受けたこと、そして、その結果、江戸の落語の火が消えたことは事実なのではなかろうか。

 長部さんの本から、鹿野武左衛門に関する「江戸落語事始」の記事、これにてお開き。
 他の話も紹介しようかとは思っているが、別な記事を挟んでからになる予定。

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by kogotokoubei | 2018-10-31 12:47 | 落語の本 | Comments(4)

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長部日出雄著『笑いの狩人-江戸落語家伝-』

 『笑いの狩人-江戸落語家伝-』の最初のお話「江戸落語事始」からの二回目。

 長谷川町に住む塗師の安次郎は、得意がって町の住人に聞かせていた話を、絵師の石川流宣から批判される。
 安次郎は、ある話を思いつき、流宣の家へ駆け込んだ。

 安次郎はなにかに憑かれたような足どりで、石川流宣の家に行った。流宣は数人の弟子と一緒に絵草紙の制作をしていた。話を聞いて貰いたいんだ、と安次郎はいった。弟子たちは露骨にうんざりした顔つきをした。安次郎はまえにもこの家で何度か話をしたのだが、そのたびに、まるで面白くない、と弟子のあいだからは笑い声ひとつ起こらなかったのである。だが、流宣だけはいつもと違った気配を感じとった表情で、「いいよ、やってみねい」といった。

 この石川流宣という絵師、どんな人か知りたくなった。
 
 Wikipedia「石川流宣(いしかわ とものぶ)」を参照。

Wikipedia「石川流宣」
 この人、「生没年不詳」とのこと。
 「来歴」を引用。

師系不明。作は菱川師宣または杉村治兵衛の画風とされている。姓は石川、名は俊之。俗称伊左衛門。画俳軒、河末軒流舟と号す。戯作名は踊鶯軒。『江戸図鑑綱目 乾』(元禄2年〈1689年〉刊行)の「浮世絵師」の項に「浅草 石川伊左衛門俊之」としてその名が見え、浅草に住んでいたことが知られる。作画期は貞享から正徳の頃にかけてで、元禄期の主要な絵師の一人といわれている。作は主に好色本、地誌など版本の挿絵を描き、戯作も執筆する。また日本図、世界図、江戸図の木版地図の作画を手がけており、それらは「流宣図」と呼ばれている。一枚絵はあまりないが、『増訂浮世絵』によれば流宣の一枚絵で「元禄頃と思はれる単純素朴な傘をさした版画」があるという。

 結構、謎の人。

 だから、長部さんもこの話に登場させやすかったのかもしれない。

 さて、その流宣の好意で、新作を披露することになった安次郎。

 その話とは。

ーある人、座敷を建て直しましてな。近所の人を新宅に招いて振舞いをいたしました。酒のなかばに内儀が出て「なにもございませぬが、新宅を馳走に酒をまいりませ」というに、一座の者「さりとては物入りでござりましたろうが、結構なご普請でござる」といえば、内儀「うちの力ばかりではござりませぬ。みんな近所の衆のおかげじゃ」というた。 これを聞いた与茂作、家に帰って「あの家のご内儀は、実に利発なお方じゃ。あの身代で、だれの力を借りた筈もないのに、こうこういうた」と褒めて話せば、女房「それしきのことが、わしにもいえぬものか」というたが、それから十四、五日ほどして、この女房が出産をいたしまして、七夜の祝いに招ばれた近所の者が亭主に「きょうはまことにめでたい。ご内儀もお喜びでござろう。やすやすとご安産。しかも男子でござるによって」といえば、女房まかり出て「亭主の力ばかりで出来たのではござらぬ。これもみんな、近所の衆のおかげじゃ」・・・・・・。

 ご存知、寄席でもよく出会う噺、『町内の若い衆』だ。
 
 私の持っている本『落語の鑑賞 201』では、『枝珊瑚珠』(元禄三・1690年刊)巻五「人の情」に原型が見られる、と書かれているが、作者については説明がない。

 さて、この新作を聞いた、絵師たちの反応は、どうだったのか。

 話し終わったとき、一座はしんとしていた。やっぱり駄目だったのか・・・・・・と安次郎は気を落としかけたが、ほんの一瞬の間をおいて、爆笑が起こった。話があまりにおかしすぎたときには、笑い出すまでに、すこし間があくものらしい。そのかわり、いったん笑い出すと最早とまらぬ様子で、弟子たちは体をまえに折って笑い転げた。「これはおかしい」と流宣は涙を手で拭いながらいった。「これなら露の五郎兵衛にも負けぬ。いや、露の五郎兵衛の話でも、これほど笑ったことはない。よくできた。よくできたぞ、安次郎・・・・・・」
 初めて流宣に激賞されて、安次郎は眼に涙が滲むのを感じたが、「では、もうひとつ・・・・・・」と、笑いの余韻が静まるのを待って、次の話を始めた。

 次の話は、艶笑(バレ)ネタの小咄。割愛する。

 勢いに乗った安次郎は、その後も話し続けた。
 いや、そろそろ噺を続けた、と言ったほうが良いかな。
 これらの噺の評価が、安次郎の人生の転機になった。

「安次郎さん・・・・・・」
 石川流宣は深い感動を現していった。
「おまえさんの芸は、もう露の五郎兵衛に引けをとらねえよ。おれの考えじゃ、それ以上かも知れねえ。どうだ、ここでひとつ、噺職になってみる気はないかね」

 さて、石川流宣という大きな支えを得て、安次郎の将来は、この後どう変わっていくのか。

 それは、次回のお楽しみということで、今回はお開き。


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by kogotokoubei | 2018-10-27 13:27 | 落語の本 | Comments(0)

 長部日出雄さんが亡くなった。

 実は、直木賞作家である長部さんの本は、次の一冊しか読んでいない。

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長部日出雄著『笑いの狩人-江戸落語家伝-』

 『笑いの狩人-江戸落語家伝-』は昭和55年に実業之日本社から初版、昭和58年に新潮文庫で再刊され、私はその文庫版で読んだ。

 次の五篇が含まれている。

 「江戸落語事始」「落語復興」「幽霊出現」「天然浮かれ節」「円朝登場」

 訃報に接して、再読した。

 「江戸落語事始」から、紹介したい。

 あの、鹿野武左衛門の話。

 主人公塗師職人の安次郎が住む長谷川町とは、どんな所だったのか。
 安次郎が可楽になるには、この町も大きな要因だったと思われる。

 長谷川町から人形丁通りを隔てた向う側には、堺町と葺屋町の芝居町がある。長谷川町の横丁の裏店には、職人や振売りの商人のほかに、芝居者や絵草紙屋なども大勢住んでいた。場所が場所だけに、このあたりには芝居町や吉原の噂話が、飯よりも好きな連中が多く、なかでも話好きな安次郎は、数日まえから聞き集めた噂話を虚実とりまとめて、小出兵助吉原出陣の一件を、長屋の涼み台に集まっていた連中に聞かせていたのだった。

 安次郎は、旗本の小出兵助が、夏の土用に虫干しだと言って鎧兜を身につけ、家来を引き連れて吉原に繰り出した際の騒動を、近所の住人に面白おかしく聴かせたのだった。

 その話を側で聞いていた男が、安次郎に声をかけた。

「安次郎さんとやら・・・・・・おまえさんの話、あまり面白くないね」
 安次郎はむっとした。現にいままで聞いていた連中は、自分の話の面白さに、手を拍って笑い転げていたのである。それを、あまり面白くないね、というのは、「どこがどう、面白くないんです」と、安次郎は聞き返した。

 その男は、安次郎の話のサゲの拙さを指摘し、京都で人気を博している露の五郎兵衛のことを口にした。

「たとえばね、こんな話をするんだ」 
 男はそういって話し始めた。
ー江戸と大坂と京の者がね、一隻の渡し舟に乗り合わせたというんだよ。そこでそれぞれ在所の話が始まって、江戸の者がいうには「江戸のほうじゃあ、何でも流行るものには、山号寺号をつけます。江戸でも評判の福安殿という名医がござってな、この人を医王山薬師寺と申して、ことのほか流行りまする」。それを聞いた大坂の人が「なるほど、いずかたもおなじことでございますな。大坂の芝居には四十三字平次という役者がおりまする」というのを聞いて京の人が「いや、別に珍しいことではない。京の島原には、皆さんご存じという太夫がござる」・・・・・・。
「ワハハハ」安次郎はおもわず哄笑した。

 この男は、菱川師宣の弟子で、石川流宣という絵師だった。

 流宣は、安次郎に言った。

「おれは話の一が落ち、二が弁舌、三が仕方と考えているんだが、おまえさんの落ちは、どうもあまりうまくねえ。だが、弁舌と仕方は、なかなかのものだ。おまえさん、中山喜雲の『私可多咄』は読んだことがあるのか」
「へえ」安次郎は頷いた。
 医師でもあり俳諧師である中川喜雲は、仕方咄の元祖でもあって、その『私可多咄』という本のなかの、-あるいは都人とかこち、あるいは鄙人とつくる。されば、わかちめ、あざやかならねば、しかたばなしになんしける。・・・・・・つまり、話し方よって、町育ちの者であるか田舎者であるか、はっきり演じ分けなければ仕方咄にはならない、という教えにしたがって、安次郎は身振り手振りに声色までまじえた自分なりの話し方を工夫していたのだ。
「そうだろうな。さっきおまえさんの話で、さむらいと傾き者の仕分けは、よくできた。けれど、何度もいうように落ちがうまくねえ。あの話の落ちは・・・・・・そうだ、こうしたらどうだ」

 安次郎にとって、石川流宣は実に重要な存在になってくる。

 さて、今回は、このへんでお開き。



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by kogotokoubei | 2018-10-26 12:38 | 落語の本 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛