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カテゴリ:今週の一冊、あるいは二冊。( 95 )

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今日出海著『悲劇の将軍』(中公文庫)

 さて、三回目。

 この本は、本間雅晴と山下奉文に関する短篇の他に四つの作品が収められているが、中心になるのは題の通り、二人の軍人のことだ。

 山下奉文のことを書いた文章に、こう書かれている。

 軍司令官の本間雅晴中将はあまりに占領地行政が寛大すぎるというので、東條派で憲兵出身の田中静壹中将に代えられてしまった。しかし田中軍司令官の時代から軍紀頽廃の兆候が現われ出したし、現地人の離反が目立ち始めた。

 本間のことを書いた短編には、次のように書かれている。

 さて本間中将はマニラに晴れて入城し、先に述べた官邸に入ると、司令部通いで、夕方帰邸すると、副官とテニスをしたり、夜は読書に明け暮れし、文化工作にも肩を入れて、親善を機会あるごとに力説していた。しかしこんな文化司令官は当時の硬論派には気に入らず、殊に東條首相はバタアンの作戦が長引いたことを理由にして、相合わぬ彼を首にしてしまった。
 ちょうど更迭の電報が来た日に、報道部長と私は官邸に用があって行くと、このことを副官に耳打ちされ、早々に引退ろうとすると、
「まァいいじゃないか、一緒に飯を食おう」
 といかにも寂しげに言うのに、すぐにも帰れず、大食堂で最後の晩餐を共にした。どうしたことか、その時停電になって、銀の燭台に蝋燭を立て、しめやかな食事をした。
「ロンドンで公式のリセプション(招宴)に呼ばれると、必ず蝋燭を食卓に灯したものだが、期せずして今日は、本格のリセプションになったね」
 と灯影がゆらめき、達磨のような像がうしろに映って、私は酒盃を手にしながらも少しも心が弾まなかった。

 先に述べたマニラの官邸というのは、米国の高等弁務官(総督)セイヤアの官邸で、わざわざマニラ湾を埋めたてて建てた豪奢なもの、という説明のこと。

 蝋燭の灯りだけの大食堂での最後の晩餐。
 今日出海にとって、揺れる焔に照らされた本間の表情は、きっと忘れることのできない思い出になったことだろう。

 本間は、イギリスの大使館附武官を務め、英語が堪能だった。バタアン半島の付け根の町サン・フェルナンドで民家を借りた家で、蝋燭の灯りで読んだ本には、マニラ官邸にあった総督セイヤア夫人の蔵書も多かったらしい。
 
 ヨーロッパ的文化性を身に備えたばかりに、軍部からは親英派と言われ、当時の国家主義的硬論派からも軟弱武士と嫌われた。

 このへんの軍の事情は、日清・日露の時からは、大きく変貌していると言えるだろう。
 そういう意味では、本間は少し生まれるのが遅かった、ということかもしれない。

 その本間の不幸について。

 軍刀組の秀才で、仕事ができるので中将まで昇進したが、軍の潮流は彼の如き文化人をむしろ排斥し続け、どこかで躓けば首になっている人だった。比島派遣軍の軍司令官になって初めて躓いたのである。バタアン作戦が延引したことも十分弁解が立つことだった。マニラに入城した途端、大本営は最精鋭の師団を他へ転出する命令を出し、老兵未教育兵のみの守備隊でバタアンの大軍に当らしめたことは、むしろ大本営の認識不足であり、失態であるのに、本間将軍の責任にして更迭させてしまった。
 命令一本で動く軍にあっては、どんなに口惜しいと思っても後の祭である。対比政策が軟弱であってということもその理由で、大本営から派遣された某参謀は無断で司令官の名を使い、ひそかに捕虜の虐殺をしたことが、昨今になって判明したが、これが米国では「死の行進」と言われて、本間将軍は鬼畜の如き人物として米人の憤激を買った原因をなしている。

 戦犯として再びマニラに呼び戻された本間を裁く法廷は、皮肉にも、あの高等弁務官セイヤアの官邸、つまり日本軍軍司令官の官邸だった。

 起訴状の内容は、ほとんど本間の知らないことばかり。

 今日出海は、本間を弁護する証人の一人として、この法廷に出向いている。
 
 弁護団側の一隅に白髪と化した本間中将は私服姿で黙然と坐っている。彼は東京拘置所にいた頃、解体前の陸軍省が省内戦犯を調査した、処置せよと占領軍から命を受けた時、予備役の本間中将一人を槍玉にあげ、位階勲等を剥奪し、中将でもない単なる戦犯者として拘置所に送り込んだのである。そのために法廷でも軍服を纏わず、白麻の背広を着ていなければならなかったのである。
 もはや崩壊した筈の軍部の残党達がこのような陰謀を企て、本間一人を犠牲者に祭り上げた事実は世間の誰も知るものはいない。

 私も、この本を読んで初めて、このことを知ったが、その時、なんとも言いようのない虚しさを抱いたものだ。
 戦争は、人の心をも蝕む。

 約五十日の論争の末、法廷は彼を銃殺と決めた。

 他のすべての司令官達は絞刑になった。絞刑とは米軍はその非人道的罪状により武人と認めぬものに死刑を科す時の刑で、本間雅晴は日本では武人と認められず牢獄の中で位階勲等を剥奪されたのに、皮肉にも彼だけはマッカーサー元帥の計らいで、罪一等を減じて、武人として認められ、銃殺されたのである。

 自国の軍隊には惨い仕打ちを受けた本間だが、マッカーサーは彼のことを十分に敬ったということか。
 略服とは言え、軍服を着て、最後を迎えることができたことは、本間にとっては最後の救いではなかっただろうか。

 本間夫人の富士子さんは、法廷に弁護側の一人として立つために、マニラを訪れていた。
 
 「鬼畜」と言われたホンマの夫人の世話をするのを、皆が嫌がった。

 ある中尉の看護婦がこの番に当り、いやいや夫人を迎えて、生活を共ににしたが、四十余日の滞在後、夫の銃殺の判決を聞いて帰国する時、この女中尉は夫人に対して涙を流して別れがつらいと述べたという。彼女は夫人の世話をやいているうちに、こだわりのない夫人の性格を理解し、彼女を好きになってしまったのだ。夫と共にロンドンにもいた。軍縮会議でジュネーブにもパリにもいた。確かに洗練された社交性を持っている筈だが、それよりも目立つのはまことに飾らぬ質素で素直な夫人の天性である。当時十八、九にしかならぬ令嬢の尚子さんは自作の和歌を綴じて小さい和本に作り、暗い牢獄で死を待つ父に僅かの慰めを贈った。
 戦後、今日出海は、主人のいなくなった本間家を訪れている。
 その文章からも、富士子夫人や尚子さんの人柄がしっかり伝わってきた。

 今日出海は、証人として訪れていたマニラから帰国する前日、本間に面会することができた。

 チョコレートの入った丸い缶が堆高く積んであった。監視のMPが自分の小遣いで買っては差入れしたものである。あるMPは私に言った。
「将軍と朝夕会っていると、どうして死刑に値する悪人と思えよう。あんな立派な人に接して俺は名誉だ」
 かくしてチョコレート缶が山と積まれたのだろう。
 本間将軍は今日の判決はすでに覚悟していたようだ。今さら何も言うことはない。
「ただ正しい日本を建設してくれ」とそれだけがわれわれに対する遺言だった。


 本間の遺言、「正しい日本」の建設は、果たして今進んでいるのか・・・・・・。
 

 今日は、八月十五日。

 落語愛好家仲間で、我らがリーダー佐平次さんのブログをきっかけに本棚なら取り出した本で、あらためて本間雅晴という軍人のこと、そして、戦争の悲惨さを振り返ることができた。


 海外事情に詳しい文人派の軍人、という意味で、本間雅晴と山本五十六は共通点がある。
 二人とも、客観的には日本の不利な戦いであることを分かっていながら、軍人として命に従い、できる限りの役割を果たしたのだと思う。

 しかし、彼らの知力やその命は、戦争ではなく、もっと別な道で生かすことができたのではないだろうか。

 まずは、山本の何百、いや何万分の一しか知られていない本間雅晴という軍人のことを、一人でも多くの日本人が知ることは、悪い事ではないと思う。


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by kogotokoubei | 2018-08-15 11:09 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
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今日出海著『悲劇の将軍』(中公文庫)

 さて、二回目。

 高雄からフィリピンに向かった船上で、今日出海は、本間雅晴と出会った場面の続き。

「君が今日出海君か・・・・・・」
 とすでに姓名を知っているような風だった。
「こんなひどい恰好を誰がさせたか」
「さア、広島で一様に着せられましたが・・・・・・」
「比島に着いてもそんな恰好をしていたら、笑われるぞ」

 
 この会話からも、本間雅晴という人物が、他の軍人とは少し違うな、ということを察することができる。

 日本軍は、昭和十七年正月二日に、マニラ市に入城した。
 マニラは、開戦と同時に開放都市を宣言したので、戦禍に見舞われず、実に簡単に入城することができた。

 米比聯合軍はバタアン半島に立て籠り、半島のつけ根にある町サン・フェルナンドに軍司令部を置き、本間中将始め、幕僚はここにいて、戦闘を指揮していた。
 バタアンの名が登場。本間雅晴とは、切り離すことのできない半島の名だ。

 さて、今日出海たちの仕事は、閉鎖された映画館を開いたり、競技場や劇場を開放し、音楽会を催すことだった。

 呑気な仕事のようで、これは大変な仕事だった。乱暴な兵隊は物資調達と称してフィルムや薬品は撮影所から持ち去るし、楽器は勝手にいじって打ち壊すし、映画館では館員を撲って無料入場するし、そのつど電話でとんで行かねばならぬ。それに何十となくマニラには映画館があり、地方や島々の映画館は破壊を受けたり、占領されたりしてその復旧やら、映画の配給は並大抵ではなかった。
 稀には部隊長に従って、バタアンの戦野にも随行しなかればならぬ。私はたびたびサン・フェルナンドに赴いて、軍司令官に会った。米比軍がバタアンに退く時、この辺は激戦地であったらしく、橋は落され、町も焼けて、古いスペイン風の教会堂の苔むしたドームが荒れ果てた町に聳えていた。
 戦線は膠着して、進むことも退くこともならず、飛行隊が到着するか、援軍が着くかしなければ戦況はいつまで経っても変るまい。軍司令官の宿舎も焼け残った民家で、マニラの一流ホテルに起居している私から見ればお話にならぬ粗末なものだった。この宿舎は軍司令官と副官と参謀長が住み、隣家に幕僚が住んでいた。
 苦労をしている部下の身を思うと、上の人は楽をすることを罪悪の如く思う日本人の習慣で、本間中将はドラム缶の風呂に入り、野戦食をとっていた。戦況の変化がなければ作戦も立たず、全く無聊な生活らしい。といって話相手はなし、読書好きと聞いていたが、夜分は電灯もない焼跡の町では本を読むこともできぬだろう。
「夜はお困りでしょう」
「いや蝋燭で読むことにしている」
 いずれバタアンの作戦が済んだら、マニラの官邸に入り、王侯の生活が待っているのだろうが、それもいつの日か知れたものではない。
 蝋燭のわずかな灯りを頼りに、本を読む男、それが本間雅晴だった。

 本間の敵将は、マッカーサーだった。

 マッカーサーの有名な言葉'I Shall Return'は、日本軍に攻められて、オーストラリアに一時逃亡した際に発した言葉。
 
 当時マッカーサー将軍は戦いに敗れて、潜水艦でコレヒドール島から豪州へ逃げた後なので、われわれは彼を名将とは思っていなかった。しかし本間中将は微細に敵将のいことを調べ、陸士陸大の卒業成績まで知っていた。
「文武両道の名将だね。文というのは文治の面もなかなかの政治家だ。この名将と戦ったことは僕の名誉だし、欣快だ」
 とさえ言っていた。


 1880年生まれのマッカーサーは、57歳で軍を引退して予備役となっていたが、2年後の1939年に第二次世界大戦が勃発。
 翌1940年に日本は日独伊三国同盟を締結。その翌年の1941年の7月、日米間の緊張が極度に高まる中でマッカーサーはフランクリン・ルーズベルト大統領の要請で中将として現役に復帰し、フィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官に就いていた。
 1942年、62歳。

 本間雅晴は明治二十年(1887)生まれ、昭和十七年時点で、五十五歳。

 数々の戦功を立て、予備役から復帰した名将マッカーサーについて、本間雅晴は尊敬の念を抱いていたと思う。

 そのマッカーサーと本間は、この後は対照的な道を進むことになる。

 その内容は、次の最終回にて。

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by kogotokoubei | 2018-08-14 10:54 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 我らが居残り会のリーダー佐平次さんのブログで、本間雅晴について書かれた本を紹介されていた。
「梟通信~ほんの戯言」の該当記事
 その本は角田房子著『いっさい夢にござ候  本間雅晴中将伝』(中公文庫)。
 この本は、まだ読んでいないが、ぜひ読むつもり。

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今日出海著『悲劇の将軍』(中公文庫)

 本棚から、ある文庫を取り出した。
 初版は文藝春秋から昭和二十七年発行、昭和六十三年に中公文庫に加わった、今日出海著の『悲劇の将軍』。

 こちらは、本間雅春のみならず、山下奉文のことなども書かれている。

 今日出海は、先日ドナルド・キーンの本から高見順の日記を引用した際、戦時中に政府の強い支援でできた日本文学報国会(文報)に高見を誘った人物として名があった。
 今日出海は、明治三十六年(1903)年生まれの小説家であり評論家で、元々は舞台演出家。初代文化庁長官。
 
 本書の「本間雅晴中将と夫人」から引用。
 昭和十六年(1941)、今日出海が三十八歳の時のことから。

 私は太平洋戦争が始まる一月前に、徴用令書を貰い、何ごとならんと芝の増上寺に集合すると、体格検査をし、その夜の汽車で広島へ連れて行かれ、御用船の船艙に叩き込まれると、台北に着いた。ここでいよいよ戦争が始まったら、われわれは比島げ行くのだということが判った。迂闊な話で、本当に戦争をするのかどうか、台北へ行くまで半信半疑だった。
 高雄から帝海丸という船に乗り込み、澎海島の沖合で開戦を待っていた。十二月八日、途切れ途切れだがラジオで宣戦の詔勅を聞いた兵隊は勇躍して戦地へ向うが、私達は身に寸鉄を帯びているわけではなく、広島で着ている服を剥ぎとられ、軍夫の作業着みたいなものを着せられたのだから、戦地へ行くにしても、何をしたらいいのか皆目見当がつかなかった。

 もうそろそろ四十になろうという作家の今日出海が、なぜ開戦直前に、フィリピンに徴用されることになったのか。

 ドイツの宣伝中隊(PK部隊)を真似て、同じ組織を急造したのはいいが、ドイツの宣伝中隊がどんな動きをしたのか部隊長自身知らぬにだから、大本営の編成案を首をひねっても考えつかぬ。作家としては尾崎士郎に石坂洋次郎と私の三人きりで、空中から落す宣伝ビラの文案を書けと言って、比島とは一体どんなところかも知らぬし、戦争を見物したこともなくては実際何を書いていいのか判ったものではない。

 いわゆる戦争プロパガンダ部隊として徴集された作家たちの一人が、今日出海だったということ。

 今は本間雅晴と船上で会っている。

 さて、比島派遣軍総司令官本間雅晴中将と初めて会ったのは、高雄で乗り込んだ帝海丸の甲板である。私達は船艙におり、軍司令官は上部の特別室にいるのだろうから、査閲というのか、船内を隈なく巡視された時、日の目を見ぬ船艙で私たちは軍司令官の顔を見た。ずんぐり肥って、丈は高く、猫背で、いかにも軍司令官という偉丈夫である。それよりも大きな眼で、眉毛が長く、達磨大師の顔そっくりである。
 私は船内にじっとしていると運動不足になり、食欲不振に陥った。戦争に行くのに病気しては、誰もかまってくれる人もあるまいし、兵隊以下の待遇では薬など当てがって貰えるとも思えない。そこで毎朝毎夕上甲板へのぼり、体操をしたり、お百度を踏むようにぐるぐる歩き廻っていると、軍司令官にばったり会ってしまった。私は直立不動の姿勢をとって敬礼をした。胸に幼稚園の生徒みたいに名前をはりつけてあるにを見て、
「君が今日出海君か・・・・・・」
 とすでに姓名を知っているような風だった。

 さて、艦上で本間と会った今日出海。
 そこで、どんな会話があったのか。
 また、その後、戦局がどう変わり、本間にはどんな運命が待ち受けていたのかは、次回。
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by kogotokoubei | 2018-08-13 09:18 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
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ドナルド・キーン著『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』

 ドナルド・キーン『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』から最終の四回目。

 先に、「あとがき」から、永井荷風の日記のことについてキーンの説明を引用したい。

 永井荷風の日記は戦後になって書き直した、殊に軍閥への憎悪や占領軍に対する好意を強調した、という意見が、かなり前から広く言われて来ました。しかし、どの点が書き直されたか証明できる訳ではありません。とは言え東都書房刊の「永井荷風日記」と、岩波書店から発行された「断腸亭日乗」は確かに相当違います。荷風自身か、荷風の名誉を重んじる編集者が、元の日記にかなり手を加えたに違いありません。
 例えば、昭和二十年九月二十八日の記載ですが、東都書房の本ではこうなっています。

   昨朝陛下徴服長徴行して赤坂霊南坂下なる米軍の本営に馬氏元帥を訪はせ給へりと云。

 一方、「断腸亭日乗」では、こう書かれています。

   昨朝天皇陛下モーニングコートを着侍従数人を従へ目立たぬ自動車にて、赤坂霊南坂下米軍
  の本営に至りマカサ元帥に会見せられしといふ事なり。

 意味は同じですが、東都書房のテキストにはいかにも荷風らしいエスプリがあります。徴服(一目につなかい粗末な服装)と徴行(身分の高い人が人目を忍んで外出する)といった皮肉が、岩波書店のテキストからは消えています。また、「馬氏元帥」も「マカサ元帥」より遥かに面白いでしょう。前者には政治的皮肉がはっきり現れ、大げさな言葉遣いが滑稽な雰囲気を醸し出すのに対し、後者からはユーモアが消され、事実を淡々と述べるに過ぎない調子になっています。

 キーンは、他の二つの日記の違いを紹介した上で、東都書房版の“原作”を本書では採用したと書いている。

 その荷風の日記のことを、「第五章 前夜」から。

 永井荷風にとっては、この戦争は軍部によって被った生活の不便以外の何物でもなかった。これまでずっとそう思ってきた荷風は、自分の屋敷が灰燼と帰した時、戦争が何かを初めて知ったのだった。荷風は仮の宿を転々とし、その三度とも焼け出された。今や、リプトンの紅茶がないどころの話ではなくて、荷風は本物の窮乏生活に苦しんでいた。五月一日、荷風は「水道涸渇す」と日記に書いている。ガスは、すでに先月十五日の空襲以来切れていて、「毎日炊事をなすに取壊し家屋の木屑を拾集めて燃やすなり。戦敗国の生活、水なく火なく、悲惨の極みに達したりと謂ふべし」。


 明治十二年(1879)生まれの荷風、昭和二十年は六十六歳。
 彼が『濹東綺譚』を発表したのは昭和十二年。戦前は印税などのおかげで、経済的に困っていたわけではなかった荷風にとって、あの戦争はまったく迷惑な出来事でしかなかった。
 荷風にとって、日本はすでに敗北していた。罹災免税の手続きをするために税務署へ行った荷風は、その手続きが煩雑なので諦めた。誰も、手を差し伸べる者とていなかった。荷風は、自分を見失ってしまったかのように見える。あらゆることが、荷風を苛立たせた。しかし荷風の憎悪の対象はあくまで憲兵であって、アメリカ人ではなかった。

   東京市街焦土となり戦争の前途を口にするもの、憲兵署に引致せられ、又郵書の検閲を受け
  罰せらるるゝ者甚多しと云。

 荷風が日記に記録していることの多くは、ただの風聞に過ぎなかった。しかし荷風は、目黒の祐天寺近くに住む占い師が、戦争は六月中に日本の勝利で突然の終局を迎えると予言したことを、日記に書き留めずにはいられなかった。新宿笹塚あたりでも、お地蔵さまのお告げとして、やはり戦争の六月終結という流言が流れていた。
 その六月になっても、一向に戦争の勢いは衰える様子がなかった。もっとも、東京の空襲は以前より少なくはなっていた。荷風は六月二日、友人と共に東京を離れる。神戸から遠くない明石にある友人の故郷に、一緒に疎開するよう勧められたからだ。しかし二人が到着した時には、すでに故郷の家は避難民で一杯で空き部屋がなかった。近くの寺や友人の家に仮寓して空襲に遭った後、二人は岡山に向かう。ここでも、まるで待ち受けていたかのように荷風は空襲に見舞われた。
 この時期、荷風は山間の小さな町勝山に疎開しているかつての弟子、谷崎潤一郎に手紙を書いている。谷崎は小包を送って寄越し、中には鋏、小刀、朱肉、半紙千余枚、浴衣一枚、角帯一本その他が入っていた。「感涙禁じがたし」と荷風は書いている。
 
 荷風は、よほど谷崎の気配りが嬉しかったのだろう。
 岡山で荷風は八月六日のことを知った。
 日記には八月十日に、「広島市が消滅したニュースが岡山の人々を戦々恐々とさせている」と書いている。
 谷崎は勝山に谷崎を訪ねる決心をした。
 荷風は、勝山で谷崎夫婦に手厚くもてなされた。

 岡山に仮寓先に戻ると、友人が言うには、今日の正午にラジオ放送があり、日米戦争が突然終わったことが公表されたという。「恰も好し」と荷風は日記に書き、日暮れには友人たちと「平和克復」の祝宴を張った。
 戦争が終わったというニュースに永井荷風は、信じられないような平静さで対応した。これで平和になり、白米を見て感涙にむせばなくてもいい戦前の生活が回復される、と荷風は思ったかもしれない。

 そんな荷風と対照的だったのは、山田風太郎だった。
 荷風が六十六歳だったのに対し、大正十一年生まれの山田は、この時、二十三歳。
 山田は、ヒットラーの死を知った時、日記でヒットラーを絶賛している。

   近来巨星しきるに堕つ。ヒトラーの死は予期の外にあらずといえども、吾らの心胸に実に
  いう能わざる感慨を起さずんばやまず、彼や実に英雄なりき!
   当分の歴史が何と断ずるにせよ、彼はまさしく、シーザー、チャールス十二世、ナポレオン、
   アレキサンダー、ピーター大帝らに匹敵する人類史上の超人なりき。
   
 そして、その山田や伊藤整など他の作家たちの原爆投下後の日記。

 山田は八月十四日、日記に書いている。

   日本は最後の関頭に立っている。まさに滅失の奈落を一歩の背に、闇黒の嵐のさけぶ断崖
  の上に追いつめられている。
   硫黄島を奪い、沖縄を屠ったアメリカ軍は、日夜瞬時の小止みもなく数千機の飛行機を
  飛ばし、厖大な艦隊を日本近海に遊弋(ゆうよく)せしめて、爆撃、銃撃、砲撃をくりかえし
  ている。都市の大半はすでに廃墟と化した。無数の民衆は地方に流鼠(りゅうざん)した。
  あまつさえこの敵は戦慄すべき原子爆弾を創造して、一瞬の間に広島を全滅せいめた。
   しかも唯一の盟邦ドイツを潰滅させた不死身のごときソビエトは、八月八日ついに日本に
  対して宣戦を布告したのである。
   怪物支那民族を相手に力闘することすでに八年、満身創痍の日本が、なおこの上米英ソを
  真正面に回し、全世界を敵として戦い得るか?

 伊藤整は八月十二日の日記で、空と海からの攻撃の下で祖国が絶体絶命の境に追い込まれたことを認めた。しかし伊藤は、なお戦闘が延々と続くと信じていた。

   大和民族はどういう境遇になっても、戦えるところまで戦うであろう。しかしその実力、
  最後の実力は国民にも分らず、敵にも分っていない。我々はまだまだ戦う力があると信じている。

 大佛次郎は八月十一日、政府がスイスとスウェーデンの公使を介して皇室は残すという了解のもとポツダムの提議に応ずる、と回答したことを友人から聞いた。大佛は、日記に書いている。

   結局無条件降服なのである。嘘に嘘を重ねて国民を瞞着し来たった後に遂に投げ出した
  というより他はない。国史始って以来の悲痛な瞬間が来たり、しかも人が何となくほっと
  安心を感じざるを得ぬということ!卑劣でしかも傲慢だった闇の行為が、これをもたらした 
  のである。

 海野十三は、八月九日にソ連が北満および朝鮮国境を越えたニュースを聞き、頭がふらつき、最悪の事態が起ったと思った。日本の強硬な反共姿勢にも拘らず、政府は不可侵条約を結んでいたソ連が戦争終結の仲介をしてくれるに違いないと信じていた。

 山田風太郎は、信じていた日本の勝利に疑いを抱き始めたことが、分かる。

 伊藤整は、不安ではあるものの、日本は負けるはずがない、という気持ちが、まだ敗戦の不安より勝っている。

 大佛次郎は、怒っている。

 「鞍馬天狗」や「赤穂浪士」で有名な大佛は、明治三十年(1897)生まれで昭和二十年当時は、四十八歳。玉音放送から四日後の八月十九日に、「英霊に詫びる」の第一回を朝日新聞に掲載した。(第二回以降は宍倉恒常、吉川英治、中村直勝)。東久邇宮内閣の参与に招聘されたので、治安維持法の廃止、世論調査所の設置、スポーツの振興などを提言するが、その内閣が一ヶ月半で総辞職してしまう。戦後は『パリ燃ゆ』『天皇の世紀』などノンフィクションライターとしても活躍した。

 海野十三は知らない方も多いと思う。
 Wikipediaから引用。
Wikipedia「海野十三」
海野 十三(うんの じゅうざまたはうんの じゅうぞう、1897年(明治30年)12月26日 - 1949年(昭和24年)5月17日)は、日本の小説家、SF作家、推理作家、漫画家、科学解説家。日本SFの始祖の一人と呼ばれる。本名は佐野 昌一(さの しょういち)。
来歴
徳島市安宅町生まれ。徳島市立福島小学校3年生の時、神戸に移住。神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)を卒業後、早稲田大学理工科で電気工学を専攻。逓信省電務局電気試験所に勤務しながら、機関紙などに短編探偵小説を発表。

1928年(昭和3年)、雑誌『新青年』から依頼を受け、探偵小説「電気風呂の怪死事件」を発表して本格的文壇デビュー。

太平洋戦争以前には軍事科学小説を量産していたが、開戦後はその方向の作品の発表をやめ、ユーモラスな金博士シリーズ等を執筆。1941年10月、海軍従軍作家として徴用令状が届き、1942年2月11日から3月28日まで当時南方ラバウル方面で活動していた青葉型重巡洋艦「青葉」に乗艦する。徴兵検査で第二乙種となり不合格だった海野は、軍艦に乗艦したことに感激。2月21日の妻への手紙に、極めて強い印象を受けたことを記している。健康を害し、4月30日帰国。その後、敗戦に大きな衝撃を受ける。

1946年(昭和21年)2月の友人小栗虫太郎の死が追い打ちをかけ、戦後を失意の内に過ごす。健康を害し、この時期しきりに喀血する。

1949年(昭和24年)5月17日、結核のため東京都世田谷区の自宅で死去。多磨霊園に葬られた。
 この内容から、正岡子規を思い浮かべていた。
 
 大佛と同じ明治三十年生まれなので、昭和二十年当時四十八歳。

 ソ連が宣戦布告したことを知ったときの日記の内容を含め引用したい。

 海野にとって、日本の勝利どころか戦争の平和的解決の望みさえ絶たれたことは明らかだった。海野は書いている。

   わが家族よ!
   (中 略)
   われらが斃れた後に、日本亡ぶか、興るか、その何れかに決まるであろうが、興れば本懐
  この上なし、たとえば亡ぶともわが日本民族の紀元二千六百五年の潔ぎよき最期は後世誰か
  が取上げてくれるであろうし、そして、それがまた日本民族の再起復興となり、吾ら幽界に
  浮沈せる者を清らかにして安らかな祠に迎えてくれる事になるかもしれないのである。
   此の期に至って、後世人に嗤わるるような見ぐるしき最期は遂げまい。
   わが祖先の諸霊よ!われらの上に来りて、俱に戦い、共に衛(まも)り給え。われら一家  
   七名の者に、無限不尽の力を与え給わんことを!

 他の多くの日本人と同じように、海野は戦に敗れた日本で生きていくことは想像できなかった。海野は死ぬ覚悟をし、家族も道連れにするつもりでいた。

 あの戦争の時代、作家に限らず国民は一人一人、違った思いで生活していたことだろう。
 海野は、ある典型的な日本人の心情を日記に残していたと言えなくもない。
 神国日本の敗戦などありえない、と思っていた人は少なくない。

 永井荷風のような人は、例外的だったと思う。
 もちろん、年齢などによっても、戦争への向き合い方は違っていただろう。
 六十台だった荷風、四十台だった大佛、海野、三十台の高見順、そして、まだ二十代を迎えたばかりだった山田風太郎。

 取り上げた日記は、山田風太郎は「戦中派不戦日記」と「戦中派焼け跡日記」、高見順は「高見順日記」、伊藤整「太平洋戦争日記」、大佛次郎「大佛次郎 敗戦日記」、そして永井荷風は東都書房の「永井荷風日記」。

 このシリーズで取り上げられなかった日記は多い。
 しかし、それぞれの作家たちの戦争への向き合い方があるが、それらの日記からひしひしと伝わるのは、戦争の空しさであり、悲惨さだ。

 物理的な面のみならず、精神面でも日本人が打ちのめされたのが、あの戦争だったことを伝えている。

 最後に、巻末の「文學界」2009年9月号に掲載されたドナルド・キーンと平野啓一郎の対談から、キーンの言葉を引用したい。
キーン 私が戦地で出会った兵たちの日記は、忘れがたいものでした。まだそういう日記があったら、どこまでも探しに行きたいほどです。南太平洋のどこかの島で食べ物がなくなって、マラリアに罹って、近いうちに死ぬだろうと予期した兵が、家族について書く。そして最後の一行は英語で、これを拾うアメリカの軍人は家族に返してくださいと書いている。そういうことが、私は忘れられないんですね。戦争のとき、私はアッツ島と沖縄にましたが、あのときのことを忘れません。そして、今度この本を書いたのはそのためです。あのとき読んだ日記、あるいは当時の日本の捕虜との付き合いは決して忘れられません。


 キーンは、二度、死んでもおかしくない体験をした、と語っている。
 一度目は沖縄に向かう洋上で、「カミカゼ」に襲われた時。特攻機操縦士のミスで助かった。
 もう一度は沖縄に上陸してから。「捕虜になったら殺される」と日本兵から脅されていた市民が隠れる洞穴でのこと。投降させようと洞穴に入ると、そこに機関銃を構えた日本兵がいた。驚いて飛んで逃げたが、なぜか日本兵が引き金を引かなかった。

 そんな体験をしたキーンは、今や日本人。
 九十歳を超える今も、憲法九条を守ること、そして反戦を力強く訴えている。

 八月六日の広島、そして、九日の長崎への原爆投下を経て、十五日を迎える。
 あれから、七十三年。

 今日、広島での平和記念式典で、安倍首相は「核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努め、国際社会の取り組みを主導していく決意だ」と言ったようだが、どんな“橋渡し”をすると言うのだ。
 相変らず、昨年7月に国連で採択された核兵器禁止条約には触れなかった。
 なぜ、唯一の被爆国が、「核廃絶」と言えないのか。

 まだ全国に十五万人を超える被爆者の方がいらっしゃる。
 放射能による染色体異常で、何十回となく手術を受けてきた被爆者の方がいらっしゃる。
 そういう人々に対し、国はどう向き合ってきたのか。

 そういう意味で、あの戦争はまだ終わっていない。
 
 愛国という言葉が、文字通りの意味では受け取られていない状況があるが、あえて書こう。
 敵国だったドナルド・キーンと、現在の日本政府の首脳の人々と、果たしてどちらが日本にとって愛国者と言えるのか。

 四回の記事で取り上げた日記は、本書の中のほんの一部。
 興味のある方は、ぜひお読みのほどを。
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by kogotokoubei | 2018-08-06 21:18 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(4)
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ドナルド・キーン著『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』

 ドナルド・キーン『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』から三回目。

 前回に続き、「第二章 『大東亜』の誕生」から、ガダルカナルの戦闘の頃。

 ガダルカナル戦は日本の知識人たちの日記では、主としてアメリカ(とオーストラリア)の軍艦を撃沈させたニュースに狂喜するという形で話題となった。遠方の島で命を落とした日本兵に対して、深い悲しみを表明した日記は驚くほどわずかだった。代わりに日記の筆者たちは、死んで神となった兵士たちを称揚した。
 ガダルカナルでの敗退にもかかわらず、戦争に勝てる見込みがある限り日本の大本営は死傷者の数を隠蔽したり、戦闘の結果を偽る必要を感じなかった。しかし、ほどなく大本営発表は当てにならなくなった。敵の損害を誇張するどころか捏造するようになり、逆に日本の損害は最小限に抑えて発表するようになった。大本営発表が明らかにしなかった事実については、風説がその代わりを務めた。伊藤整は、日記に書いている。

   昨夜実の話、満鉄調査部のニュース。ガタルカナルにあった海兵一万(?)は全滅しや由。
  その後の陸の揚兵三船の内二つは沈められ、一のみ上陸せるも苦戦にて、やっと上陸点を
  死守せる由。極秘の由。他言なし。

 満鉄調査部には、ガダルカナルの戦況が、正しく伝わっていた。
 しかし、国民のほとんどには、捏造された大本営発表しか、情報がなかった。
 だから、日記にも書きようがない。

 永井荷風の日記は、ガダルカナルのことに言及していない。南太平洋の島をめぐる戦闘より、荷風にとっては近所で見かける陰険な私服憲兵の方が気になるようだった。荷風は日記の中で、憲兵が自分の家を接収しようと企んでいるのではないかと憂慮している。荷風はまた、自分にとって極めて大事なジョニーウォーカーのような日用品が、目玉の飛び出るような値段になっている事実を報告している。戦時中の日記の筆者として一番勤勉なはずの高見順は、ことガダルカナルについては一切触れていない。

 戦時中に極めて詳細な日記(約三千ページ)をつけていたのが高見順だった。

 高見順は、昭和8(1933)年、治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されたが、「転向」を表明し、半年後に釈放された、という経歴をもつ。
 その高見には、戦時中に政府の強い支援でできた日本文学報国会(文報)への誘いがあった。

 文報に所属していた作家たちの長い名簿を見ると、すべての作家がこれに参加していたのではないかという印象を受ける。多くの作家が文報に入ったのは、戦争目的に賛同する真面目な考え方からか、あるいは、左翼系の作家たちにとっては文報に属することで過去の罪を水に流すことが出来たからだった。しかし、頑固に参加を拒絶した人々もいた。永井荷風は、再三にわたって入会を強要されたが、「打棄てゝ答へず」と日記に書いている。大空襲下の東京の生活を生き生きと描いた日記「東京焼盡」の筆者内田百閒(1889-1971)は、何度も勧められたが文報には最初から関係せずと心に決めていて、あくまで無関係を通した。百閒は、そもそも政治家とつき合う作家が嫌いだった。
 高見順は昭和二十年(1945)六月まで参加を拒否していて、当時の日記に次のように書いている。

   過日、今日出海君から文報入りを誘われたとき、迂闊にも「入ってもいい」と答えたので
  ある。今君は、再三説かれて遂に文報入りを承諾し、私にも一緒に入ってくれないかといった。
  久米さんも、入ってやれというので、ついうかうかと、ウンといった。あとで考えると、
  やはりいやだった。そこで文報から正式にいって来たら、断ろうと思っていたところだ。
  しかるに文報側は、今君から私の文報入り承諾を聞いて理事会にただちに掛けたらしい。
  -文報へ入ったっていいのだが、勉強の時間がなくなるのが辛いのだ。島木君の「独善主義」
  かもしれないが、私は「自己完成」に忙しのだ。だったら一切の外的活動は拒んだらよさそう
  なものだが、そうも行かない。そうも行かない範囲のことは、やる。それは一種の休息にも
  なる。精神的換気である。文報入りは換気ではすまされない。

 高見はそうは言っていないが、あるいは文報から受けとる手当てを歓迎したかもしれない。

 キーンは、憲兵に逮捕され拷問を受けている高見としては、文報入りは、共産主義者と見られないためでもあったのだろうと付け加えている。
 その後に、意外が人物の文報入りのことが書かれている。

 自他ともに認める共産主義者の宮本百合子(1899-1951)は、戦後になって夫の宮本顕治から文報入りを非難された。宮本顕治は当時、共産主義者として投獄されていた。百合子は、一人で外にいるのに耐えられなかった、と顕治に応えている。

 まさか、宮本百合子が文報に入っていたとは、知らなかった。

 以前、NHKの朝ドラ「花子とアン」について、村岡花子についてあのドラマで捏造があったことを書いた。
2012年12月24日のブログ
 文報のイベント・大東亜文学者大会で、花子は「子供たちの裡にこそ大東亜精神を築き上げるべき」と述べていた。
 そういう彼女の活動について、ドラマではまったく触れることはなく、別の出演者の愛国者の姿を投影していた。
 
 その文報は、どんな成果を出したのか。

 こう言っておけば間違いないのではないだろうか。ほとんどすべての作家が、自ら進んでかどうかは別にして文報の仕事に関わった、と。また同時に記しておかなければならないのは、それが存在した約四年間にわたって文報はなんら目覚ましい業績を挙げなかった。東京と南京で文学者大会を後援したほかには、「愛国百人一首」を昭和十八年に発行し、また芭蕉の死後二百五十年を記念して俳人たちが顕彰式典を行い、さらに軍艦建造のための献金運動をした。

 さて、戦況はますます悪化していく。

 次回の最終回は、昭和二十年の日記を中心に紹介するつもりだ。
 
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by kogotokoubei | 2018-08-05 17:07 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

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ドナルド・キーン著『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』

 ドナルド・キーン『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』から二回目。

 前回同様、まず「第一章 開戦の日」からの引用。ときに、章の名の範囲を超えた時期の日記もキーンは紹介している。

 戦時中、作家たちは元旦に新しい日記を書き始めるにあたって、そのつど予言したものだったー(どの年であれ)今年こそ日本の運命を決する年になるだろう、と。昭和二十年は、まさにその決定的な年だった。昭和二十年一月一日、当時医学部の学生だった山田風太郎(1922-2001)は、次のように日記に書く。

   ○運命の年明く。日本の存亡この一年にかかる。祈るらく、祖国のために生き、祖国の
  ために死なんのみ。
   ○昨夜十時、午前零時、黎明五時、三回にわたりてB29来襲。除夜の鐘は凄絶なる迎撃の
  砲音、清め火は炎々たる火の色なり。浅草蔵前附近に投弾ありし由。この一夜、焼けたる家
  千軒にちかしと。
 
 最初に東京が空襲を受けたのは、昭和十七年四月だった。ジェイムズ・ドゥーリトル中佐率いる十六機の中型爆撃機が、軍事的な標的と公式に認められていた東京の施設を爆撃した。もっとも、その成果を示す写真は小型の釣り船一隻の沈没を確認するにとどまった。爆撃機は航空母艦から発進したが、着艦に際して爆撃機の機体の重量があり過ぎたため、爆撃完了後は安全のため中国大陸へ向かった。これは見せしめのための空爆にすぎず、東京の標的に損害を与えることより、むしりアメリカ人の士気を高めることが目的だった。しかしながら、この爆撃は日本人の不安を煽ることになった。ドゥーリトル戦隊の急襲の翌日、伊藤整は灯りが外へ洩れないように窓の隙間に目張りをし、また身動きしやすいように着物をやめて洋服を着ることにした。永井荷風は、日記にこう書いている。

   四月十八日。(中略)哺下金兵衛に至り初めて此日の午後米国飛行機東京に来襲。爆弾投下の
  事を知る。火の起りし処早稲田下目黒三河島浅草田中町辺なりと云。歌舞伎座昼間より閉場。
  浅草興行物夕方六時打出し夜は無しと云。新聞紙号外を出さず。
   四月十九日。(中略)米機襲来以後世情騒然たるが如し。午睡の後金兵衛に至り人の語るを
  きくに大井町鉄道沿線の工場焼亡。男女職工死傷二三百人。浅草今戸辺に高射砲弾丸破片落下
  の為負傷せし者あり。小松川辺の工場にも被害ありと云。新聞紙ラヂオ共に沈黙せるを以て風説
  徒(いたずら)に紛々。確報知るべからず。

 信頼すべき情報の欠如が、この戦争の特徴だった。

 山田風太郎、本名山田誠也(せいや)は、兵庫で父母ともに医者の家系に生まれた。
 旧制高等学校の受験に失敗し、更に二年間浪人したが希望校に入れず、昭和十七年に家出同然に上京した。二十歳になっていたので徴兵検査を受けたが、肋膜炎のため丙種合格で入隊していない。昭和十九年、二十二歳で旧東京医学専門学校、現在の(世間を賑わわせている)東京医科大学に入学。入学後は、やや虚無的な青年として読書ばかりする日々を送った。戦争末期には学校ごと長野県飯田に疎開している。

 戦中の山田青年が、やや異常な精神状態となっていたことが、その日記からもうかがえる。

 一方、荷風の日記に登場する金兵衛は、彼の行きつけの新橋の小料理屋。日記に頻繁に名が出る。

 昭和十七年のドゥーリトル隊の空襲は、米軍が想定していた以上に、日本人に多大な恐怖心を植え付けた。
 その年以降、空襲が劇化する中、人心がどう変遷していったか、山田風太郎の日記で察することができる。

 アメリカの空襲が頻繁になり、アメリカ軍が昭和二十年三月に硫黄島を占領後、空爆はさらに激化した。日本の本土に近い基地を手に入れたことで、アメリカの爆撃機は日本列島に爆弾を落とした後、燃料を補給することなく基地に帰還できるようになった。事実上向かうところ敵なしのアメリカの爆撃機は、全国の大都市を広域にわたって破壊した。しかし多くの日本人は、この期に及んでなお最終的な日本の勝利を信じていた。
 山田風太郎は日記の中で、こうした日本人が抱く自信と、敵国の人々が抱く自信の性格を比較している。富強に頼るアメリカ、広大な領土に頼る中国、不敗の伝統に頼る英国と違って、日本人を支えていたのは日本魂に対する信仰だけだった。山田は、戦争のこの段階での日本人を夢遊病者に譬え、誰もが物に憑かれたように「凄烈暗澹たる日本の運命」を両手で支えている、と書いた。昔からゴシップ談義に花が咲く銭湯で耳にした話題について、山田は次のように記している。

   十七年はまだ戦争の話が多かったと憶えている。十八年には工場と食物の話が風呂談義の
  王座を占めていた。十九年は闇の話と、そして末期は空襲の話。(中略)今ではいくら前の
  晩に猛烈な空襲があっても、こそとも言わない。
   黙って、ぐったりとみな天井を見ている。疲れ切った顔である。それで、べつに恐怖とか
  厭戦とかの表情でもない。戦う、戦いぬくということは、この国に生まれた人間の宿命の
  ごとくである。(中略)壁の向うの女湯では、前にはべちゃくちゃと笑う声、叫ぶ声、子供のい
  泣く声など、その騒々しいこと六月の田園の夜の蛙のごとくであったものだが、今はひっそりと
  死のごとくである。女たちも疲れているのである。いや女こと、最も疲労困憊し切って
  いるのである。

 昭和二十年一月六日、山田は書く。

   過去のすべての正月は、個人国民ともにそれぞれ何らかの希望ありき。目算ありき。
  今年こそはあの仕事やらん、身体を鍛えん、怒らざらむ等々。よしそれの成らざるも、一年の
  計を元旦になすは、元旦の楽しみの一つなりき。しかも今年に限りてかかる目算立つる人
  一人もあらざべし。

 昭和二十年元日の山田の日記、また同じ日に書かれた他の筆者たちの日記にも戦争を楽観視する言葉は微塵も見られない。

 山田風太郎の日記から、戦局の悪化は、銭湯での笑い、そして会話を奪い取っていったことがよく分かる。

 昭和二十年元旦、ほとんどの作家が、暗澹たる気持ちで日記帳やノートを広げていたことも、伝わってくる。

 少し時期を戻して、「第二章 『大東亜』の誕生」から、ガダルカナルの戦闘の頃。

 昭和十七年(1942)八月から翌十八年二月まで続いたガダルカナルの戦闘は、開戦初年度に日本軍が占領した領土をアメリカ軍が奪還にかかった第一歩だった。戦闘は熾烈を極めた。多くの日本兵がアメリカ軍の銃弾のためだけでなく、飢餓によって死んだ。そのため、日本兵たちは自分の日記にガダルカナル島のことを「餓島」と記したものだった。戦場や海上で回収されたこれらの日記を、わたしは数週間後に真珠湾の海軍局で読んだ。飢えと病気に苦しむ男たちの話で満たされた日記を読んでわかったのは、これまで日本人の心理がわかると公言していた者たちが、日本人のことを普通の人間の弱さを持たない狂信者だと言っていたのが大変な間違いだということだった。

 遅ればせながら著者ドナルド・キーンのことを本書表紙裏からご紹介。

 1922年、米国ニューヨ。ーク生まれ。日本文学研究者、文芸評論家。
 コロンビア大学に学ぶ。米海軍日本語学校で学んだのち情報士官として海軍に属し、
 太平洋戦線で日本語の通訳官を務めた。戦後、ケンブリッジ大学、京都大学に留学。
 1955年からコロンビア大学助教授、教授を経て、同大学名誉教授。
 2008年に文化勲章受章。2011年、日本国籍を取得し日本に永住することを発表した。

 キーンが丹念に読んできた戦中の作家の日記について、もう一、二回は記事にするつもりでいる。

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by kogotokoubei | 2018-08-04 10:07 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 八月に入った。

 年中行事のように、メディアであの戦争に関する番組が組まれる。

 それはそれで、戦争というものを考える機会となるのは、良いことなのかもしれない。
 
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ドナルド・キーン著『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』
 ドナルド・キーンの『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』の初出は「文學界」の2009年2月号。単行本は同じ年の7月に発行されている。
 私は2011年に発行された文春文庫版で読んだ。

 序章に次のように書かれている。

 この本は、主に大東亜戦争が始まった昭和十六年(1941)後半から、連合軍の日本占領の最初の一年が終わる昭和二十一年(1946)後半まで、五年間にわたって日本の作家たちがつけていた日記の抜粋によって構成されている。ここに登場する日記作家は永井荷風を除いて外国では知られていないが、いずれも戦前ないしは戦後の日本でかなり知られた作家ばかりである。

 ということで、本書には実に多くの作家たちの日記が登場する。
 巻末の「参考文献」は、日本語の文献のみで約四頁、英語の文献がほぼ二頁並ぶ。

 まず、「第一章 開戦の日」から、キーンが外国でも知られているということで名を挙げた永井荷風の日記が登場する部分を引用したい。

 多くの人々、とりわけ軍の中枢を嫌っていた人々は、英米のような強敵と事を構えることが妥当かどうか、かねてから疑問に思っていた。しかしそうした疑問は、高まる愛国心の中で一掃された。開戦の年に日本の陸海軍が目覚ましい勝利を収めるごとに、人々の愛国心は強まっていった。相次ぐ勝利に国中が湧いた異常な興奮の中で、ごく少数の日記の筆者だけが冷静だった。中でも一番動じなかったのは、おそらく永井荷風(1879-1959)である。昭和十六年十二月八日、荷風は日記に書く。

  十二月初八。褥中(じょくちゅう、引用者注・寝床の中で)小説浮沈第一回起草。
  哺下(ほか、引用者注・夕暮れ)土州橋に至る。日米開戦の新聞号外出づ。帰途
  銀座食堂で食事中灯火管制となり街頭商店の灯追々消え行きしが電車自動車は
  灯を消さず。六本木行の電車に乗るに乗客押合ふが中に金切声を張上げて演説を
  なす愛国者あり。
 
 四日後、荷風は書いている。

  十二月十二日。開戦布告と共に街上電車飲食店其他到るところに掲示せられし
  ポスターを見るに「屠(ほふ)れ英米我等の敵だ。進め一億火の玉だ。」とあり。
  現代の人の作文には何だの彼だのと駄の字をつけて調子を取る癖あり。駄句駄字と
  謂ふべし。

 戦時を通じて荷風は、日々眼にする愛国主義の示威に侮蔑感を表明し続けた。荷風の日記は軍部について極めて厳しい調子で書いているが、戦局が進むにつれてその語調は強まっていく。荷風が特に苛立ったのは、愛国者たちの悪趣味と幼稚なスローガンだった。

 キーンは、荷風がアメリカやフランスで暮らした経験があり、とりわけフランス文学に愛着があったことから愛国的プロパガンダの影響を受けにくかったかもしれないが、海外滞在経験は必ずしも戦争賛否の態度に関係がなかった、として、荷風とは好対照な例を紹介している。

 戦争の熱烈な支持者の一人だった高村光太郎(1883-1956)は、かつてアメリカとフランスで彫刻を学んだことがあった。しかし真珠湾攻撃を賛美する高村の詩の語調には、荷風の不遜とも見える無関心の態度はまったくない。詩は、次のように始まる。

  記憶せよ、十二月八日。
  この日世界の歴史あらたまる。
  アングロ・サクソンの主権、
  この日東亜の陸と海とに否定さる。
  否定するものは彼等のジャパン、
  眇(びょう)たる東海の国にして
  また神の国たる日本なり。
  そを治(しろ)しめたまふ明津御神(あきつみかみ)なり。

 いわゆるアングロ・サクソンに対する高村の敵意は、ニューヨーク留学中に受けた人種差別に由来するものとされている。「ジャップ」と呼ばれ、自分の国を「にっぽん」の代わりに「ジャパン」と呼ばれるのを耳にして、高村は憤慨した。こうした体験は激しい憎悪とまでは行かなくても、高村が抱いた憎しみの理由とはなるかもしれない。

 私は、本書で初めて高村光太郎がこのような詩を書いていたことを知った。
 
 他にも、その作品からは想像できない戦争への向き合い方を日記に記した作家のことを知ることになった。

 たとえば、あの小説の翻訳で有名な人について。

 伊藤整(1905-69)は、日記とエッセイの両方で開戦を喜び、予想されるアングロサクソンの壊滅に期待をかけている。しかし、真珠湾攻撃を知った時点での伊藤の反応は意外なほど冷静だった。
 (中 略)
 伊藤は自分の高揚する気分を弁明する必要を認めなかったが、教師ならびに翻訳者として英語と身近な関係にあった人物が、幾分かの躊躇を感じることはなかったのだろうか。十二月八日、伊藤は日記に書く。

   感想ー我々は白人の第一級者と戦う外、世界一流人の自覚に立てない宿命を持っている。
   はじめて日本と日本人の姿の一つ一つの意味が現実感と限ないいとおしさで自分にわかって
   来た。

 十二月九日に書かれたエッセイは、さらに率直である。

   ・・・・・・昨日、日米英戦争が始まっている。今後何年続くかも知れぬ大和民族の
  歴史上はじめての、そして最大のこの戦争の・・・・・・。(中略)私は「ハワイ真珠湾
  軍港に決死の大空襲を敢行」という見出しを見て、全身が硬直し、眼が躍ってよく読めない
  のであった。(中略)
   そして、そのことを、私は、地下室の白い壁の凹みによりかかりながら、突然全身に水を
  かけられたように覚る思いであった。そうだ、民族の優越感の確保ということが我々を
  駆り立てる、これは絶対の行為だ、と私は思った。これは、政治の延長としての、または
  政治と表裏になった戦争ではない大和民族が、地球の上では、もっともすぐれた民族である
  ことを、自ら心底から確信するためには、いつか戦わなかればならない戦いであった。

 キーンの伊藤の日記の引用は、この後もまだ続いている。
 伊藤は、民族の優秀性を決定するために戦うのだ、と記している。


 本書で初めて知った作家たちの戦中の日記。

 あの作家がこんなことを、という驚きが読みながら途切れることがなかった。
 
 次回も、そんな内容を紹介するつもり。

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by kogotokoubei | 2018-08-02 12:29 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
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吉村昭著『彰義隊』(新潮文庫)

 吉村昭の『彰義隊』を元に、サッカーのポーランド戦が始まる前に書いた記事の、後半。

 それにしても、昨日の二試合が、いずれもPK戦になるとは。
 
 さぁ、ベルギー戦は、どうなるか。

 その前に、百五十年前の上野の戦いのこと。
 前回は、慶応四(1868)年の五月十五日の月の見えない、雨の中の一戦を前に、薩摩兵が黒門口を固めた、というところまでを書いた。

 ついに、戦いの火ぶたが切られた。
 大村益次郎からは、黒門口を突破せよという指令があって。薩摩藩兵の一隊は広小路を進み、黒門口の彰義隊に一斉に銃撃を開始した。六ツ半(午前七時)であった。
 その銃声に、湯島神社にあった本隊は、砲五門をひいた大砲隊を黒門口前面と御徒町方面へ、さらに小銃諸隊、遊撃隊がそれにつづいて押し出し、たちまち激烈な戦闘がくりひろげられた。

 上野戦争は、町人たちの生活にも、多大な被害をもたらしている。

 薩摩藩の大砲隊長は、黒門口をのぞむ会席料理の松源と仕出し料理店の雁鍋(がんなべ)の二階に砲をかつぎあげさせて、そこから砲撃させた。このことが後に江戸市民の批判を受け、人気のあった松源の客足は徐々に少なくなり、やがて廃業の憂き目にあった。

 東叡山を身近に感じていた上野の住人にしてみれば、官軍側に肩入れするような店は、許せなかったのだろう。

 しかし、松源も雁鍋も、薩摩藩兵が鉄砲掲げて「二階を貸せ」と言ってきたら、到底断ることはできなかったはずで、なんとも可愛そうである。

 大村益次郎は、戦略家で、根岸、日暮里方面には兵を配置せず、彰義隊の逃げ口として開けておいた。彰義隊も、それを知っていた。

 さて、戦闘はどんな様相となっていたのか。
 黒門口は、上野東叡山の南にあるが、北の谷中口方面には長州、肥前、筑後(久留米)、大村、佐土原の各藩の連合軍が、本郷の加賀藩邸から根津方面に出撃し、根津権現にいた彰義隊の一隊と遭遇してこれを撃退し、団子坂から谷中口方面に進んでいた。
 谷中口をかためていた彰義隊の諸隊は、それを知って出撃し、団子坂と善光寺坂の間の、水が満々とはられた水田をへだててはげしい銃砲撃戦となった。
 また、朝廷軍の諸藩兵は、穴稲荷門をはじめ諸門を守る彰義隊に砲弾を浴びせかけ、銃弾を連続的に撃ちこみ、これに対して彰義隊も必死に応戦し、樹木は吹き飛び、硝煙で視野は閉ざされた。
 双方の死傷者はおびただしく、時間の経過につれてその数は増していた。手足がちぎれて血を流し、頭部が砲弾で吹き飛んだ遺体が血に染まって降雨の中にころがっていた。

 あえて、おどろおどろしい表現の部分も引用したが、戦争とは、そういうものなのであって、湾岸戦争以降の風潮のように、決して、ゲーム感覚で捉えてはいけないと思う。戦地では、血が流れるのだ。

 黒門口では、もっとも激烈な戦闘が続けれらていた。

 薩摩藩兵の死傷者が増し、指揮者は、本陣で戦況を見守る大村益次郎のもとにおもむいて増援を要請した。しかし、大村は床几に座ったまま返事をしない。
 指揮者は怒り、
「薩摩藩兵をことごとく死なせるつもりですか」
 と、言った。
「もとより、その通りだ」
 大村は、冷ややかに答えた。
 この一言に、指揮者の怒りはさらにつのり、黒門口に駆けもどった。
 薩摩藩兵の背後の民家は火炎を噴き上げ、それがせまってきて、火熱が兵たちをおおうようになっていた。このままでは、陣地を撤去して敗退することになる。指揮者は、進む以外に活路は得られぬと決断し、全軍に突入を命令、藩兵たちは喊声をあげて銃を乱射しながら黒門口に突撃した。
 これを見た鳥取、藤堂藩の藩兵たちも、呼応して突き進み、これによって少しのゆるぎなく守られていた黒門口の陣地が突破された。
 薩摩藩兵は、後退する彰義隊員を追って進み、すぐにとって返して黒門口をかためた。
 彰義隊員たちは、黒門口を奪い返そうとして、後方にまわり、銃弾を放った。藩兵は応戦し、彰義隊員を追い払って、黒門口は朝廷軍の手に落ちた。時刻は、九ツ半(午後一時)すぎであった。

 この薩摩の指揮者と大村とのやりとりについては、吉村昭は裏が取れたのかもしれないが、諸説ある。

 一つは、作戦会議の段階で大村が示した薩摩軍の配置を見て、西郷隆盛が「薩摩兵を、皆殺しになさる気ですか」と問うと、大村が「そうです」とにべもなく答えたという説。また、大村を問い詰めたのは桐野利秋という説もある。しかし、もっとも激戦の予想された黒門口を受け持つことを薩摩が希望したという説もあるので、このあたりは、何とも言えない。
 しかし、西郷は大村に全権を委任したと思われるので、彼の発言とは思えない。

 いずれにしても、“背水の陣”ならぬ“背炎の陣”での薩摩藩兵の突破により、彰義隊は黒門口を失った。残された時間は多くはなかった。

 銃声は散発的に起こっていたが、戦いは、事実上終わっていた。七ツ半(午後五時)すぎであった。
 依然として雨は降りつづき、上野の山には死骸が累々と横たわっていた。朝廷軍の死傷者は約百二十名、彰義隊の死者じゃ、二百六十六人。彰義隊の死者が多かったのは、薩長両藩の使用したアームストロング砲をはじめとした最新鋭の銃砲の威力によるものであった。

 アームストロング砲については、佐賀藩の所有する同砲が活躍した、とも言われている。

 朝七時から、午後五時・・・約十時間の戦闘。

 戊辰戦争の局地戦の一つ、と数えることもできる上野戦争から百五十年。

 かつて、日本人同士内戦を行ったことは、次第に忘れられていく。

 明治という国をつくるための陣痛とも言える内戦は、なんとも痛ましい歴史だ。
 
 そして、戊辰戦争を含む多大な犠牲を払い出来た新たな日本は、日清、日露の勝利に奢り、あの大戦に向かって行く。

 
 内戦はもとより、戦争も、「なんとも、馬鹿なことをした」と振り返られるべきだ。
 決して、美化してはいけない。

 そんな思いがあって、旧暦五月十五日に、この記事を書き始めた。
 あの夜は見事な満月だったが、百五十年前の江戸は雨で、その雨は上野の山のあちこちで、血の色に染まったのだ。


 八月十五日近くにメディアはいろんな特集を組むかもしれないが、いわば年中行事化しているとも言えるだろう。

 「今そこにある戦争の危機」について、大手メディアは、ほとんど無視している。

 いろんな戦争の歴史を振り返るたびに、今そこにある危機が、もっと語られていいと思う。
 
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by kogotokoubei | 2018-07-02 12:27 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 今日は旧暦五月十五日。

 今から百五十年前、慶応四(1868)年の五月十五日に、あの上野戦争があった。

 天気が良ければ今夜のような満月が天空に輝いていたのだろうが、百五十年前は、そうではなかった。

 彰義隊、上野戦争については、以前、時代の波に飲み込まれた少年たちを描いた杉浦日向子さんの『合葬』が映画化されることを記事にした。そのすぐ後の記事でも『合葬』のことや、吉村昭の『彰義隊』、森まゆみさんの『彰義隊遺聞』についても、少しふれた。
2012年12月12日のブログ
2012年12月16日のブログ

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吉村昭著『彰義隊』(新潮文庫)
 あらためて吉村昭著『彰義隊』から、あの日のことを振り返りたい。


 まず、官軍側の主要人物、大村益次郎のことから。
 大村は、漢学を広瀬淡窓に、蘭学を緒方洪庵にまなび、兵学の修得につとめ、西洋学兵学教授となった。
 幕府の長州征伐の折には、石州(せきしゅう)口の総参謀として連勝し、洋式兵術に卓越した知識をそなえていることが広く認められていた。かれは、討幕軍進発にしたがって江戸に来て、親兵を編成していた。
 参謀の西郷隆盛は、兵術家として大村にまさる人物はいない、と高く評価し、今後の軍事に関する一切の権限を大村に託す、と公言していた。

 広瀬淡窓の名を目にすると、葉室麟の『霖雨』を思い出すなぁ。
 『霖雨』は、私の好きな葉室作品のベスト5に入る。

 さて、話は上野戦争。

 百五十年のこの時期の江戸は、雨続きだった。

 閏四月中旬から雨の日が多く、五月に入ると梅雨期とは言え、例のない異常な気象状況をしめしていた。
 五月一日から七日まで、わずかに二日間晴れ間がのぞいただけで雨がつづき、八日には豪雨があって江戸の町々は雨しぶきで白く煙った。
 九日は雨があがったが、十日からは連日絶え間なく雨が降りつづき、河川は急激に増水して堤をやぶり、濁水が町々を流れた。神田明神と湯島の後ろの崖が水をふくんでくずれ落ち、家々が破壊されて怪我人が出る騒ぎとなった。隅田川をはじめとした川には樹木や小屋などがうかぶ水が急流のように流れ、橋の上まで水に洗われて、押し流されぬように大きな石が橋の上にいくつも運ばれた。

 こんな悪天候の中、十五日を決戦の日と定めた大村は、攻撃のため諸藩の兵の配置を定めた。兵力は二万。
 対する彰義隊は、三千の隊員が上野に屯集。
 ところが、十五日の討伐決行を知った隊員の間には、動揺が広がった。

 江戸市内の家に帰っていた者たちの中には、戦を恐れて上野山中の陣営に姿を現さぬ者もいた。また陣営に行こうとしても、すでに進出した朝廷軍が市中に土塁をきずいていて交通を遮断していたため、もどれぬ者もいた。
 また、隊員の中には生きる糧を得るために隊に加わっていた者たちもいて、かれらはひそかに山をおりてのがれていた。
 残ったのは二千人足らずであったが、かれらはあくまで朝廷軍に死力をつくして戦おうと誓い合った幕臣たちで、その士気はたかかった。

 戊辰戦争の江戸局地戦と言える上野戦争は、大村益次郎率いる二万人と、幕臣たちを中心とする二千人、その差十倍の兵力差での戦争だった。

 さて、その決戦の日。
 翌十五日朝もはげしい雨が降りつづき、風も吹きつけていた。
 八つ半(午前三時)頃、雨に打たれながら諸藩の兵が砲をひき銃を手にして、江戸城大手門前に集結した。
 ただちに出撃命令が下され、各藩の者たちは総指揮者大村益次郎の指示にしたがってそれぞれの配置方面に進んでいった。 

 上野東叡山には正門が黒門、その他新黒門、穴稲荷門、清水門、車坂門、屏風坂門、谷中門、新門の七門があり、寛永寺を守護していた。
 正面からの攻撃をおこなうため黒門口にむかったのは、西郷隆盛指揮の薩摩藩兵一番、三番各小銃隊、一番遊撃隊、兵員一番隊、一番大砲隊、白砲隊であった。

 薩摩藩兵の黒門口での戦いについては、いろいろと逸話がある。

 ちなみに、彰義隊士たちは浅黄色の羽織に白い義経袴、朱鞘の刀を差し、髪は「講武所風」に結っていたといわれる。そのいでたちに憧れて入る者も少なくなかったとも言われるが、彼らはもてた。吉原でも、「情夫(いろ)にするなら彰義隊」と歓迎した。
 そうそう、『野ざらし』の先生こと尾形清十郎は、彰義隊の生き残りと、桂小文治が言っていたなぁ。

 江戸っ子たちにしてみれば、薩摩や長州の田舎者が朝廷を騙して、徳川様をお城から追い出した、と思っているから、多くの町人たちは彰義隊の味方だ。

 さて、この後、新政府軍と彰義隊との戦いは、どうなったのか。

 もうじき上野戦争が始まるわけであが、日本のサッカーチームの戦争(?)も始まるので、本日は、ここまで。


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by kogotokoubei | 2018-06-28 22:18 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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白洲正子著『西行』

 さて、この本から崇徳院と西行について、二回目の記事。

 少しおさらい。

 白洲さんがある本を元にした推理では、西行が出家を決断した背景にあると思われる失恋の相手は、鳥羽上皇の中宮(妻)となった待賢門院(たいけんもんいん) 璋子(たまこ)であるらしい。

 待賢門院は、白河法皇に幼い頃から可愛がられていた。その結果、二人の間に子供(崇徳院)ができてしまった。

 崇徳院は、父の鳥羽上皇の子ではなく、上皇の祖父白河法皇と母の待賢門院との間の不義の子であるために、上皇に疎まれていた。

 白河法皇の崩御をきっかけに、時代は不穏な空気に包まれていく。
 上皇は、寵愛していた美福門院得子との間にできた子の体仁(なりひと)親王を崇徳院の養子にさせることで、崇徳院が院政を執ることができないようにした。

 これは摂政藤原忠通の策謀といえた。

 待賢門院は心労もあって、崩御。

 と、ここまでが前の記事からのいきさつ。

 さて、それでは、あらためて本書から引用。

 生まれながらに暗い影を背負わされていた崇徳院には、悲しい歌が多いのであるが、その日その日を生きること自体が、薄氷を踏むおもいであったに違いない。

  早瀬川水脈(みを)さかのぼる鵜飼舟 
  まづこの世にもいかが苦しき

  (中 略)

  憎しむとて今宵かきおく言の葉や
  あやなく春のかたみなるべき

 最後の歌は詞花和歌集に、「三月尽の日、うへのをのこどもを御前に召して、春の暮れぬる心をよませさせ給ひけるに、よませ給ひける 新院御製」としてあり、いつ頃の作かはっきりしたことは知らないが、「今宵かきおく言の葉」が、いつ何時「かたみ」となるかも知れないことを、懼れていられたのではなかろうか。

        *

 やがて病弱な近衛天皇が夭折すると、崇徳院の同母弟の雅仁親王(後の後白河天皇)が即位され、「われても末にあわむとぞおもふ」望みはついに断たれてしまう。それと同時に頼長も、近衛天皇を呪詛したかどで宮廷から完全に閉めだされてしまった。実はそれだけの理由ではなく、長い時間をかけて忠通が裏でさまざまの工作をしたのであるが、それは歴史の本を読めばわかることだから触れずにおく。

 実は、崇徳院が、これほどまで不幸に見舞われた人だとは、本書を読むまで知らなかった。
 西行のことを知りたいと思って読んでみて、この本からは他にも多くのことを教えられている。
 肝腎の西行の歌は、あまり覚えることができていないんだけどね^^

 そうそう、その西行と崇徳院とのこと。
 再び、引用する。

 保元の乱が何日にはじまったか、はっきりしたことはいえないが、七月八日に天皇方が頼長の東三条邸を襲ったのが最初の合戦で、十一日の朝にはあっけなく終っていた。崇徳院は出家して、弟の覚性(かくしょう)法親王のいられる仁和寺へ逃亡し、頼長は流れ矢に当って死んだという。
 この時、西行は、いち早く仁和寺の崇徳院のもとは伺候した。

     世の中に大事いできて、新院あらぬ様にならせおはしまして、御髪(みぐし)
     おろして仁和寺の北院におはしましけるにまゐりて、兼賢阿闍梨(けんげん
     あざり)いであひたり、月明(あか)くてよみける
  かかる世にかげも変らずすむ月を
  見るわが身さへ恨めしきかな

 保元元年といえば、西行が高野山で修行していた時代で、鳥羽上皇の葬送に参列したばかりか、敗残の崇徳院のもとへも馳せ参じているのである。当時の情況としては、これは中々できにくいことで、まかりまちがえば殺されかねない。西行は覚悟の上で実行したのであろう。この歌にも、止むに止まれぬ崇徳院への思いがこもっており、世が世なれば自分も院に味方して、命を落したであろうにと、生きて今宵の月を見ることが悔まれたに相違ない。これで私たちははじめて崇徳院に対する西行の真情を知ることができるのであるが、それは単なる判官びいきとか、主従の情愛とかいうものではなくて、長年の間に育くまれた人間同士の理解の深さによるのではないかと思う。

 (中 略) 
 
 西行(1118生)と、崇徳院(1119生)は一つ違いで、頼長(1120生)ともほぼ同年輩であった。「悪左府(あくさふ)」と呼ばれた学者の頼長は、強い性格の持主で、欠点も多かった半面、情熱家であったことは、西行の出家を大げさに賛美したことでもわかるが、この三人に共通する性格は、「純粋」であったことだろう。政治家の中でもっとも悪辣な忠通と太刀打ちできる筈はなく、勝敗は保元の乱で戦う以前にきまっていた。その中で、西行は身分の低いためもあって、早くに自己に目覚めて出家することができたので、別に来たるべき惨事を予見していたわけではあるまい。が、詩人の敏感さから、世の中の趨勢に不安を感じ、安心を得たいと願っていたことは、左のような歌からも想像がつく。

   惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは
   身を捨ててこそ身をも助けめ

 これは出家するに当り、鳥羽院においとまを述べに行った時の歌であるが、年齢の近いせいもあって、西行が親近したのは、御子の崇徳院の方であったと思う。その上、崇徳院はすぐれた歌人であり、数奇の好みにおいても西行と共通するところが多かった。

 乱のあった保元元年(1156)、西行は四十八歳、崇徳院が四十七歳。

 寿命の短い時代とはいえ、本来であれば盛りと言える年齢において、二人は辛い出会いをしたのだろう。

 西行にとっては憧れの女性、崇徳院のとっては母であった待賢門院がつないだ縁。

 白洲さんが、“長年の間に育くまれた人間同士の理解の深さ”を物語る逸話が紹介されている。

 西行が崇徳院の知遇を得ていたのは、ただ和歌の上ではなかったように思われる。

      縁(ゆかり)有りける人の、新院の勘当なりけるを、許し給ふべき由、申し入れ
      たりける御返歌に
   最上川つなでひくともいな舟の
   しばしがほどはいかりおろさん  (崇徳院)

      御返(をんかへし)奉りける
   強く引く綱手と見せよ最上川
   そのいな舟のいかりをさめて   (西行)

 西行に縁のある人が、崇徳院に勘当されたので、その許しを願った時、院から御返事を頂いた。
 -最上川では上流へ遡る稲舟を綱で引くというが、もうしばらくの間はこのままで、いかりを下しておこう、という歌で、いな舟を「否」に、いかりを「怒り」にかけて、そなたがいくら取りなしてもまだ許しはしない、という意味である。「つなで」が「なべてひくらむ」となっている場合もあるが、これは綱手の方がわかりやすいし、似合ってもいる。
 それに対して西行は、-私が一生懸命お願いしていること(強く引く綱手)をお察し下さって、お怒りをおさめて下さいましと、たくみに言い返したのである。「かく申したりければ、許し給びてけり」と記してあり、崇徳院は西行の歌に免じて勅勘を解いたのであろう。「縁有りける人」は誰だかわからないが、一説には、俊成のことだともいわれており、崇徳院と俊成と西行の間には、和歌を通じて切っても切れぬ縁があったのである。それはとにかく、西行が縁者の赦免のために、直接崇徳院と交渉できるほど信頼されていたことは、心にとめておいていいことだ。


 この和歌による二人の会話の、なんとも雅で、かつ智に富んでいることか。


 待賢門院は、康和3年(1101)生まれなので、西行の十八も上だった。

 亡くなったのは、久安元年(1145)。

 保元の乱による崇徳院の無残な姿を見ることがなかったのは、もしかすると幸いだったのかもしれない。


 西行、そして、崇徳院。
 ある女性を媒介にして、また、和歌で通じ合っていた二人。

 よもや、後世に落語のネタにされるとは、想像していなかったに違いない。

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by kogotokoubei | 2018-05-31 12:36 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛