噺の話

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カテゴリ:今週の一冊、あるいは二冊。( 122 )


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勝小吉『夢酔独言』

 勝小吉の自叙伝『夢酔独言』からの七回目、最終回。


 十四歳の時、家を飛び出した小吉。
 さまざまな体験をし、また、いろんなご縁に助けられ、四ケ月ぶりに帰宅。

 大事な所に怪我をしたこともあり、十日ばかり寝ていた。
 
 夫から親父が、おれの頭石川右近将監に、かへりし由をいって、「いかにも恐入る事故に小吉はいん居させ、外に養子にいたすべき」といったら、石川殿が、「今月かへらぬと月切れ故、家は断絶するが、まづゝゝかへって目出たい。夫には及ぬ。年取りて改心すれば、おやくにもたつべし。よくゝゝ手当してつかわすべし」とていわれた。夫で一同安心した、とみんなが咄した。

 小吉、結構締め切り寸前での帰宅だったようだ。
 また、頭(小普請支配)の石川が、寛容だったことにも救われたと言えるだろう。

 NHKのBS時代劇「小吉の女房」には、高橋和也演じる、小吉の幼なじみの石川太郎左衛門が登場するが、これは脚本家の創作だろう。

 小吉にとっての“石川”は、小普請支配だった石川右近将監のこと。
 ただし、右近ではなく、左近。

 本名は石川忠房で、宝暦五(1756)年生まれ。だから、享和二(1802)年に小吉が生まれた時、すでに四十六歳。
 数え十三での小吉の家出と想定すると、その時、石川はほぼ還暦。
 幼名は太郎右衛門。

 脚本家が、右を左に変えて、小吉の幼馴染という設定にしたのだろう。

 この人は、有能な旗本で、北海道の松前に派遣された時、ロシアに漂流しエカテリーナⅡ世に謁見した大黒屋光太夫を受取っている。
 歌人でもあり、北海道大学附属図書館に松前派遣時の和歌集がある。

 その後、勘定奉行なども務めた人だ。

 それだけの大物だから、小吉の不良ぶりも、広い心で許してあげたということか。
 しばらく後に、小吉は石川と対面することになる。

 十六の年には漸々しつも能(よく)なったから、出勤するがいゝといふから、逢対(あいたい)をつとめたが、頭の宅で帳面が出ているに銘々名を書くのだが、おれは手前の名がかけなくってこまった。人に頼んで書て貰た。
 石川が逢対の跡で、「こじきをした咄をかくさずしろ」といったから、はじめからのことをいったら、「能く修行した。今に御番入をさせてやるから心ぼうをしろ」といはれた。

 逢対とは、小普請組という無役の旗本が、御番入、役に就いて仕事をするために、支配や組頭が出勤するのを見送りに行ったり、御機嫌伺いをする、いわば、就職活動。

 「小吉の女房」でも、小吉が逢対に出かける場面があった。

 逢対で、石川忠房が小吉の旅の話を聞いてくれた時は、小吉もさぞ喜んだだろう。
 しかし、成果は、なかなか出なかった。
 石川は、松前では大黒屋光太夫から、ロシアの旅のことも聞いていたはずなので、ミニ光太夫と話すような興味本位の感覚だったのかもしれないねぇ。

 そういう石川の慈悲があったにもかかわらず、小吉の不良ぶりは、変わらない。
 十六で、吉原も初体験している。

 また、喧嘩にも精を出した(?)。

 これは、喧嘩の師匠に出会ったことも大きいかもしれない。

喧嘩の師匠・源兵衛

 或日、おれの従弟の処へいったら、其子の新太郎と忠次郎といふ兄弟があるが、一日いろいろのはなしをしていたが、そこの用人に源兵衛といふがいたが、剣術遣ゐだといふことだが、おのれにいふには、「お前さまはいろいろとおあばれなさり舛が、喧嘩はなしましたことがあり舛か。是は胆がなくってはできません」といふから、「おれは喧嘩は大好きだが、ちいさい内から度々したが、おもしろいものだ」といったら、「さやうで御座舛か。あさっては蔵前の八幡の祭があり舛が一喧嘩やしましやうから、一所にいらしゃっひまして、一勝負なさいまし」といったから、約束をして帰った。

 この“従弟”の子の新太郎が後の精一郎、「幕末の剣聖」と言われた男谷信友だろう。

 その信友は小吉の四歳年上、年齢も近く、少年時代は小吉と一緒に暴れていたわけだ。

 さて、八幡さまの祭での喧嘩のこと。

 其日になりて夕方より番場の男谷家へいったら、先の兄弟もまっていて、「よく来た。今、源兵衛が湯へいったから帰ったら出かけよふ」と支度をしていると、間もなく源兵衛が帰った。夫より道ゝ手はづをいゝ合て八幡へいったが、みんなつまらぬやつ斗りで、相手がなかったが、八幡へはゐると、向ふよりきいたふうのやつが二、三人で鼻歌をうたって来る故、一ばんに忠次郎がそゐつへ唾を顔へしかけったが、其野郎が腹を立て、下駄でぶってかゝりおった。そふするとおれがにぎりこぶしで横つらをなぐってやると、跡のやつらが総がかりにぶってかゝりおるから、目くらなぐりにしたら、みんなにげおったゆへに、八幡へいってぶらぶらしていると、二十人ばからい長鳶を持てきおった。
 「なんだ」と思っていると、壱人が、「あの野郎だ」とぬかして四人を取りまきおった。夫から刀をぬいて切りはらったら。源兵衛がいふには、「早く門の外へ出るがいゝ。門をしめると取りこになる:と大声でいふから、四人が並で切り立て、門の外へ出たら、そいつらが加勢と見へて、また三十人斗りとび口を持て出おったから、並木の入口の砂場蕎麦の格子を後ろにして、五十人斗を相手にしてたゝきあったが、一生けん命になった。
 四、五人ばかりきづを負はしたら、少し先がよわくなったゆへ、むやみにきりちらし、とび口を十本ほどもたゝき落した。そふするとまたゝゝ加勢が来たが、はしごを持て来た。
 其時源兵衛がいふには、「最早かなわぬから三人は吉原へにげろ。跡は私がきりはらい帰るから」と「早くゆけ」といったが、三人ながら源兵衛ひとりをおくを不憫におもひ、「一所におひまくって、一所ににげよふ」といったら、「おまへさん方は、けがゝ有ってはわるいから、是非早くにげろ」とひたすらいふゆへ、おれが源兵衛の刀がみぢかひからおれの刀を源兵衛のい渡して、直々に四人が大勢の中へ飛こんだら、先のやつはばらばらと少し跡へ引込だはづみに、にげだして、漸々浅草の雷門で三人一所になり、吉原へいったが、源兵衛がきづかはしいから引きもどして、番場へいって飯をくおふとおもっていったら源兵衛は内へ先へ帰って、玄関で酒を呑んでいたゆへに、三人が安心した。

 四人対五十人、の喧嘩。
 この後、小吉たちは源兵衛と八幡の前にある自身番に行ってみると、大勢の人が集って、喧嘩のことを話しているのを耳にする。
 
 そこへいって聞いたら、「八幡で大喧嘩があって、小揚の者をぶったがあじまりで、小あげの者が二、三十人、蔵前の仕事師が三十人ばかりで、相手をとれへんとしてさわいだが、とふゝゝ壱人もおさへずにがした。その上にこちらは十八人ばかり手負が出来た。今外科がきづを縫ている」といふから、四人ながら内へかへって、おれは亀沢丁へかへったが、あんなひどひことはなかったよ。

 “あんなひどひこと”とは、誰にとっての言葉なのか・・・・・・。

 この翌年、十七歳の時、小吉は新太郎と忠次郎の家へ行き、忠次郎と剣術の手合わせをしたら、「出会頭に胴をきられ」て、気が遠くなった。
 その後も、一本も忠次郎を打つことができず、「夫から忠次にきいて団野へ弟子入にいった」。

 この団野とは、団野源之進のこと。
 宝暦十一(1761)年生まれというから、小吉が入門した時は、五十も半ばだった。
 この人、終生浪人だった人で、直心影流五代の赤石郡司兵衛の弟子で、六代目を継いだ。
 安政元(1854)年に、道場を男谷精一郎(信友)に譲り、翌年没したとされる。
 九十歳を超えての往生。

 団野の道場で、腕を磨いた小吉は、数々の他流試合に挑んでいる。いわば、道場破り、だね。

 結局、本所では小吉にかなう者はいなくなった。

 その後の、小吉のしばらくの行動を、本書巻末の「夢酔年譜」から、拾ってみる。

文政元(1818) 十七歳 刀の鑑定を学ぶ。兄と信州へ行き、十一月江戸に帰る。

文政二(1819) 十八歳 信州の兄の所へ行く。実母没す。江戸へ帰る。兄と越後蒲原郡水原の
          陣屋へ行く。この年身代(世帯)を持ち兄の所は移る。

文政五(1822) 二十一歳 再び江戸を出奔、上方をさして東海道を行く。七月江戸へ帰り、
          父に檻に入れられる。

 なんと、十四の時に続き、二十一歳でも、家出をしているのだ。

 それは、小吉を慕う連中がいて、どうしても無理をしまったり、気晴らしに吉原へ通ったりするうち借金がかさみ、にっちもさっちも行かずに、父親から譲られた刀などを質に入れての旅だった。

 無役で、心理的にも、兄の家にはいずらい毎日を送ってもいたのだろう。

 この時は、まず最初に、小田原で十四の時の旅で世話になった喜平次に家に行ってご馳走になり、掛川では、江戸で世話をした息子のいる神主の家に逗留したり、また、途中の宿では、水戸藩侍と嘘をついてはただで泊まっていたので、七年前のように乞食をしながらの旅とはまったく違うのだが、帰った時に、さすがに父は怒った。
 
 小吉は、父の隠居所に呼ばれた。

 親父がいふには、「おぬしは度々不埒があるから先(まず)当分は逼塞して、始終の身の思案をしろ。しょせん直には了簡はつく物ではないから、一両年考て見て、身のおさまりをするがいゝ。兎角、仁は学問がなくってはならぬから、よく本でも見るがいい」といふから内へ帰ったら、座敷へ三畳のおりを拵え置て、おれをぶちこんだ。
 それから色々工夫をして一月もたゝぬうちおりの柱を二本ぬけるようにしておゐたが、能々(ようよう)考へたが、みんなおれがわりいから起きたことだ、と気がつゐたから、おりの中で手習を始めた。
 夫からいろゝゝ軍書の本も毎日見た。友立が尋ねてくるから、おりのそばへ呼で、世間の事を聞てたのしんでいたが、廿一の秋から廿四の冬迄、おりの中へはゐっていたが、くるしかった。

 “くるしかった”とあるが、麟太郎は、小吉が二十二の時に、生まれている。
 くるしいばかりでも、なかったのだろう。

 あらためて「夢酔年譜」より。

文政八(1925) 二十四歳 再び出勤する。外宅をして割下水天野左京の家を借りる。
          諸道具の売買をして内職とする。

文政十(1827) 二十六歳 六月九日、実父男谷平蔵没す。

文政十二(1829)二十八歳 行・水行・加持祈祷を試みる。刀剣の研ぎ・目利きを試み、
          刀剣講を催す。浅右衛門の弟子となり胴試しをする。

          長男麟太郎、御殿(西丸)に召され初之丞(家慶の五男慶昌)のお付きとなる。

天保元(1830) 二十九歳 入江町岡野孫一郎支配の地面へ移る。

天保二(1831) 三十歳 息子麟太郎御殿より下り家へ帰る。犬に噛まれ重傷。

 次回の「小吉の女房」は、天保二年、麟太郎を襲った災難のこと。
NHKサイトの該当ページ

 まだまだ、小吉のことでは紹介したいことがあるのだが、ドラマの筋書きに追いついたところで、このシリーズ、お開き。

 勝小吉、この男にとっては、生まれた時代が悪かった、とも言えるかもしれない。

 石川忠房は、記したように宝暦五(1756)年生まれ。
 以前、平岩弓枝の『橋の上の霜』から記事を書いた、蜀山人、大田直次郎は、寛延二(1749)年と、年齢が近い。

 大田直次郎も貧乏旗本の部類に入る人で、出世のために、登用試験を受けるなどした。江戸開府から百年以上も過ぎた徳川の世は、もはた「武」ではなく「文」の時代に移り変わっていた。

 そんな時代に、武ではひけをとらないものの、文はからきし苦手の小吉のような旗本は、なかなか生きていくのが、大変だったのである。

 その父親が、自分を反面教師とせよ、とばかりに書き残した自叙伝は、息子麟太郎が、勝海舟として幕末に精彩を放つために、十分、役立ったように察する。
 

 さぁ、ドラマも佳境を迎えている。

 このシリーズが、少しでも参考になったのなら、嬉しい限り。

 長々のお付き合い、誠にありがごうございます。

by kogotokoubei | 2019-01-30 12:58 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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勝小吉『夢酔独言』

 自叙伝『夢酔独言』からの、六回目。
 長くなったけど、七回でお開きの予定。

 前回は、野宿をして、がけでから落ちてしまい、大事なところを打った、という話までだった。

 さぁ、大変。その後、どうなったのか。

 二、三日過ぎると、少しづゝよかったから、そろゝゝとあるきながら貰っていったが、箱根へかゝってきん玉がはれて、うみがしたゝか出たが、がまんをして其あくる日、二子山まであるいたが、日が暮れるから、そこに其晩は寝ていたが、夜の明方、三度飛脚が通りて、おれにいふには、「手前ゆふべこゝに寝たか」といふゆへ「あい」といったら、「つよひやつだ。よく狼に食われなんだ。こんどから山へは寝るな」といって、銭を百文斗り呉た。
 夫から三枚橋へきて、茶屋の脇に寝ていたら、人足が五、六人来て、「子蔵や。なぜ寝ている」といゝおるから、「腹がはってならぬから寝ている」といったら、飯を一ぱゐくれた。

 飛脚も、人足も、優しいのである。

 文化庁が運営する「文化遺産オンライン」に、三枚橋の写真がある。
文化遺産オンラインの該当ページ

 キャプションに、こう書かれている。
明治43年の早川洪水の後に再建された、吊橋の三枚橋です。橋の向こうに並ぶ建物は江戸時代から続く茶店で、「七軒屋」と呼ばれました。

 小吉が、脇で寝ていた、という茶屋が、この「七軒屋」なのだろう。

 ちなみに、約五十年後の慶応三(1867)年五月の「戊辰箱根の役」で、旧幕府遊撃隊伊庭八郎が斬られたのが、この三枚橋の松並木の下だった。

 さて、その三枚橋の茶店で飯を食わせてくれた人足の一人が、小吉に、声をかける。

 其中に四十くらいの男が云には、「おれの所へきて奉公しやれ。飯は沢山くわれるから」といふゆえ、一所にいったら、小田原の城下のはづれの横丁に、漁師町にて喜平次といふ男だ。
 おれを内へいれて、女房や娘に、「奉公につれてきたから、かわひがってやれ」といった。女房むすめもやれこれといって、「飯をくへ」といふ故、飯を食ったらきらずめしだ。魚は沢山あって、やひてくれた。

 小吉の旅の記録を読むと、あらためてあの時代の日本人の優しさが伝わってくる。
 小田原の喜平次の家で、翌日から小吉は毎日海へ出るようになった。
 漁師たちは、亀と名乗った小吉の姿を見て「亀があるくなりはおかしい」と言う。そりゃあそうだ。まだ、あそこの怪我は治っていないから、かくしてはいても、はれた急所をかばいながら歩いていたのである。

 それでも、仕事はしっかりやってようだ。

 毎日、朝四つ(十時)時分には沖より帰って、船をおかへ三、四町ひき上げ、あみをほして、少しづゝ魚を貰って帰って、小田原の町へ売りにいった。
 夫から内へかへって、きらずをかって来て、四人の飯をたくし、近所のつかひをして二文、三文づゝ貰った。内の娘は三十斗りだが、いゝやつで、ときどきすゐくわん(すいか)なぞを買ってくれた。女房はやかましくって、よくこきつかった。
 喜平は人足故、内はは夜ばかりゐたが、是はやさしいおやぢで、時々くわしなんぞ持って来て呉た。十四、五日ばかりいると、子のよふにしおった。

 よほど喜平に気に入られたのだろう、「おらが所の子になれ」と言われたが、「こんなことをして一生いてもつまらねへ」と、小吉は、閏八月の二日、喜平次の家から銭三百文を戸棚から盗んで、飯を弁当に詰めて、「浜へ行く」と言って、逃げたのであった。

 それから、江戸に戻り、鈴が森で犬に追われたり、高輪の漁師の家の裏で船をひっくり返して寝ていたのを見つかって、叱られたりした。

 四ヶ月、家出をしていたので、なかなかすぐには帰りづらかったのだろう、しばらく回向院の墓場に隠れたりして人目を忍んでいたが、銭も尽きて、亀沢町の家に帰る。

 内中、「小吉が帰った」といって大さわぎをし、おれが部屋にはいって寝たが、十日ばかりは寝どふしをした。
 おれがいなゐ内は、加持祈祷いろゝゝとして従弟女の恵山といふ比丘は上方まで尋ねて登たとではなした。
 夫から医者がきて、「腰下に何と仔細あろふ」とていろゝゝいったが、其時はまたきん玉がくづれていたが、強情に、「ない」といってかくしてしまったが、三月ばかり立つと、湿ができてだんゝゝ大そふになった。起居もいできぬよふになって、二年ばかりはそとへもいかず、内すまいをしたよ。

 十四歳の小吉の大冒険は、少し痛いお土産を伴って、終わった。

 四ヶ月のこの体験は、彼にとって生涯忘れることのできないものだったのだろう。

 『夢酔独言』を書いたのが、四十過ぎなのだが、ご紹介したように、それぞれの出来事が、つい少し前のことのように細かな点も含め書かれているのに驚く。

 次回最終回では、その後の“不良”ぶりについて、ご紹介したい。

by kogotokoubei | 2019-01-29 06:45 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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勝小吉『夢酔独言』

 自叙伝『夢酔独言』から勝小吉の不良ぶりについて、五回目。

 前回に続き、十四歳の勝小吉の旅での出来事。

 紹介した内容を、少し復習。

 (1)十四の時、「男は何をしても一生くわれるから」と思い、家を出て上方へ向かった
 (2)浜松で、二人連れの男の“ごまのはゐ”に、有り金全部を盗まれる
 (3)宿の主人の薦めで、伊勢参りをすることにし、主人に貰ったひしゃくを持って
    街を回って、何がしかの銭を得て旅を再開
 (4)伊勢で会った乞食仲間から、御使龍太夫のことを教えてもらい、一泊させて
    もらった上で、銭壱貫文を得る
 (5)その金も使いきって府中まで戻って来て、ある寺で寝ていると、侍が近くの馬場で
    馬術の稽古をしていたが、あまりに下手で笑ってしまったことからぶたれたが、
    馬に乗って見せると侍(与力か?)が家に招いて泊めてくれ、自分の子供のように六、七日も
    面倒をみてくれたが、そこを抜け出す


 というところまでだった。

 小吉、あらためて上方で公家の侍を目指そうと、行き先を西にとった。
 ふたたび、乞食をしながらある地蔵堂で寝ていたら、そこに思わぬ訪問者。

 其夜五つ(八時)時分に、堂の椽がわにどんとおとがする故、其おとにて目がさめたが、人がいるよふす故、せきばらいをしたら、其人が、「そこにいるのはなんだ」といゝおるから、「伊勢参りだ」といったら、「おれはこの先の宿へばくちにゆくが、此銭を手前かつゐでゆけ。御伊勢さまへ御さいせんを上るから」といゝおる故、起出て其銭をかつゐでゆくと、たしか鞠子の入口かとおもったが、普請小屋ははゐりしが、おれもつづゐて入りしが、三十日斗り車座になおって、おれを見て、「そのこじきめはなせここへはゐった」と親方らしい者がいふと、連の人が、「こひつは伊勢参りだからおれが連れて来た」といふと、「そんなら手前はめしでもくってまっていろ。今に御伊勢様へ御初穂上げるから」とて飲酒を沢山ふるまった。
 少し過ぎる都、連れて来た人が銭を三百文斗紙にまいてくれた。外のものも五十、百、廿四文、十二文てんでんに呉たが、九百斗貰った。みんながいゝおるには、「はyたく地蔵さまへいって寝ろ」といふ故、礼をいふて此の小屋を出ると、ひとりがよびとめて、大きなむすびを三つ呉た。
 うれしくって又半道斗りの所をもどって、地蔵へさいせん上げて寝たが、夫よりふらふら壱文づつ貰い、四日市までいくと、先ごろ龍太夫をおしへた男に逢った。其時の礼をいって百文斗り礼をやったならば、其男がうれしがって、「ひさしく飯をはら一ぱゐくわぬから飯をくおふ」とて、二人で飯を買て、松原にねころんで食った。
 別れてより互ひにいろいろなめにあったはなしをして、其の日は一所に松原に寝たが、こじきの交りは別なものだ。

 「こじきの交わり」か・・・・・・。
 たしかに、常人には分からない、深い交わりなのであろう。
 
 紹介した内容は、「鞠子の賭場」という章の文章だ。

 鞠子宿は、丸子とも書かれるが、東海道五十三次の二十番目の宿で、五十三の中でもっとも小さな宿場だ。

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 この歌川広重が描いた「鞠子」には、丁子屋という店が描かれている。
 今でも丁子屋はあって、名物のとろろ汁を食べることができるらしい。

 小吉、この鞠子では博打打たちから、銭と握り飯を恵んでもらったわけだ。
 当時、伊勢参りという信心について、世間の人の思いがどういうものであったかがうかがえる逸話。

 四日市で、御使龍太夫のことを教えてくれた乞食と再会した小吉だったが、その男は四国の金比羅様は行くため伊勢山田で二人は別れた。

 その後、小吉は、病に苦しめられる。
 頭痛がして、熱が出た。

 翌日には何事もしらずして松原に寝ていたが、二日ばかり立ちて漸々人心地が出て、往来の人に壱文づゝ貰ひ、そこに倒れて七日斗り水を呑んで、よふゝゝに腹をこやしていたが、其の脇に半町斗り引きこんだ寺があったが、そこの坊主が見付て毎日ゝゝ麦の粥を呉た故、よふゝゝ力がつゐた。

 ということで、道々、さまざまな人に助けられながらの、小吉の旅。

 この後にも、また体調を壊すのだが、乞食仲間の友情に救われる。
 とはいえ、まだ本調子ではなく、杖をついての旅。
 
 結局、上方へ行こうとしていたものの、また駿府へ戻って、二丁町の廓の客に出会う。

 まがり角の女郎屋で、客がさわゐでいたが、おれにいふには、「手前は子蔵のくせ、なぜそんな二本杖であるく。わずらったか」といふ。「さようふでござり舛」といったら、「そふであろふ。よく死なゝかった。どれ飯をやろふ」とて、飯や肴やいろゝゝのさいを竹の皮につゝませ、銭を三百文つけて呉た。
 おれは地ごくで地蔵に逢ったよふだと思って、土へ手をつゐて礼をいったら、其客が、「手前は江戸のよふだが、ほんのこじきでは有まい。どこかの侍の子だろふ」とて女郎にいろいろはなしおるが、ひぢりめんお袖口の付た白地のゆかたとこんちりめんのふんどしを呉れたが、うれしかった。
「今晩は木賃宿へ留って畳の上で寝るがいゝ」といったゆへ、厚く礼をいって、夫から伝馬町の横丁の木賃宿へいって留ったが、毎日ゝゝ府中のうちを貰って歩行たが、夫より木賃宿へ夜になると留ったが、しまへには宿せんやら食物代がたまって、はらいにしかたがないから、単物を六百文の質に入れて貰って、そふゝゝそこのうちを立って、残りの銭をもって、上方へ又志してゆくに、石部までいったら、或る日宿のはづれの茶屋の脇に寝ていたら、九州の秋月といふ大名の長持が二棹きたが、その茶屋へ休んでゐると、長持の親方が二人来て、おなじく床机に腰をかけて、酒を呑んで居たが、おれにいふには、「手前はわづらったな。どこへ行く」といふから、「上方へ行く」といったら、「あてがるのか」といふ。「あてはないがゆく」といったら、「それはよせ、上方はいかぬ所だ。それより江戸へ帰るがいゝ。おれがつれていってやらふから、まづ髪さかやきをしろ」とて向ふの髪結所で連れていって、させて、「そのなりでは外聞がわるゐ」とてきれいなゆかたをくれて、三尺手拭を呉れた。

 女郎屋の客に、飯を食わしてもらい、宿代までもらった小吉。

 とはいえ、その金も、すぐに宿賃などでなくなるのは道理。

 その後、秋月藩の長持の親方と出会った、というわけだ。

 親方たち、小吉が上方へ行くことをやめさせ、江戸に帰るようにと、床屋に行かせてもらい、ゆかたと手拭を恵んでくれた。
 杖なしでは歩けない小吉を駕籠にまで乗せてくれた。

 しかし、この秋月藩の長持の親方の一人が、「ばくちのけんくわで大さわぎができて」国へ帰ることになり、「くれた単物を取り返して木綿の古じゅばんを呉れて」すぐに出て行ったた。もう一人も一緒に江戸へは行けないからと五十文ほどくれて、別れることになった。

 江戸へ帰る一人旅となった小吉なのだが、とんでもないことになる。

 しかたがないからまたこじきをしてぶらゝゝ来て、所はわすれたが、或がけのところに其ばんは寝たが、どういふわけか、がけより下へ落ちた。
 岩のかどにてきん玉を打ったが、気絶していたと見へて、翌日漸々人らしくなったが、きん玉が痛んであるくことがならなんだ。

 次回の「小吉の女房」では、息子の麟太郎が、ある災難に遭遇するのだが、その伏線(?)とも言えるような、小吉の悲劇・・・・・・。

 この後、どうやって江戸に辿りついたのかについては、次回。


by kogotokoubei | 2019-01-28 12:27 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 昨夜の「小吉の女房」も、なかなか面白かった。

 小吉とあの女性との出会い方やお信の書置きの内容などは脚色だろうが、小吉がある女性に惚れた時、女房のお信が気丈な態度を示したことは、『夢酔独言』にも「女難剣難」という題で、短いながら記されている。


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勝小吉『夢酔独言』

 では、その『夢酔独言』から勝小吉の不良ぶりについて、四回目。

 前回は、勝小吉が十四の時、家出をして上方へ向かっていた途中、親切にしてくれた男連れが、実は“ごまのはゐ”で、浜松で有り金全部盗まれた、という災難があったことをご紹介した。

 実は、この旅は四ケ月にもおよび、その間にいろんなことがあった。

 そして、いろんな人の助けを得た旅でもあった。
 まず、“ごまのはゐ”が逃げて一人残された浜松の宿の主人が親切だった。

 十方(とほう)にくれたが、亭主がひしゃくを壱本くれて、「是まで江戸っ子が、此海道にてはまゝそんなことが有から、おまへも此ひしゃくをもって、浜松の御城下・在とも壱文づゝ貰ってこひ」とおしへたから、漸々思ひ直して、一日方ゝ貰っ歩行たが、米や麦や五升ばかりに、銭を百二、三十文貰って帰った。
 亭主、いゝものにて、其ばんはとめて呉た。翌日、「先づ伊勢へ行って、身の上を祈りてくるがよかろふ」といふ故、貰った米と麦とを三升斗りに銭五十文ほど、亭主に礼心にやって、夫から毎日ゝゝこじきをして、伊勢大神宮へ参ったが、夜は松原又川原或は辻堂へ寝たが、蚊にせめられてろくに寝ることも出来ず、つまらぬざまだった。

 なるほど、乞食は三日やったらやめられない、と言うが、ひしゃく一つで、何とかなるものだ。
 
 なんのつてもなく上方を目指そうと家出した小吉だったが、浜松の宿の亭主の助言から、伊勢へ向かうことになったわけだ。
 
 その伊勢では、乞食仲間から、ある所へ行くように助言を受ける。

 それ行き先とは、「御師龍太夫」。

 後で調べてみると、御師とは「御祈祷師」の略称。
 特定の寺社に属して、参詣者をその寺社に誘導し、祈祷、宿泊の世話をするものをいうらしい。
 一般には「おし」と発音するが、伊勢神宮のみ「おんし」といったという。
 御師龍太夫の看板が、伊勢和紙館にあるようだ。なぜなた伊勢和紙館は、龍太夫邸跡に建てられたのだ。
 豊受大神をお祀りしている外宮周辺の山田の御師の中でも龍大夫は有力であたとのことで、明治十三年(1880)には、明治天皇が行幸されている。

 昨年の大学の同期会の旅行で伊勢神宮へ行ったものの、豪雨のため内宮にしか寄れなかった。だから和紙館にも行けなかったのが、今になって残念。

 その御師龍太夫で、小吉は、久しぶりに風呂に入り、腹いっぱいの食事にありつくことができた。

 少し過て、龍太夫がかり衣にて来おって、「能こそ御参詣なされた」とて、「明日は御ふだ上げませう」といふ故、おれはただ、「はゐゝゝ」といってじぎばかりしていた。夫から夜具蚊やなどを出して、「お休みなされ」といふから、寝たが、こゝろもちがよかった。翌日は又々馳走をして御礼を呉た。
 小吉、甘えついでに、浜松での出来事を話し、図々しくも路銀を二両ほど貸して欲しい、と頼んだところ、壱貫文をくれた。
 一両を四寛文、現在の価値で12万円とすると一貫文は約3万円になる。
 それだけあれば、伊勢から上方まで行けそうな気がするが、そこは小吉のこと。

 夫から方々へ参ったが、銭はあるし、うまゐものを食いどふしだから、元のもくあみになった。

 それから小吉は、もはや上方へ行こうという元々あてのない目的は捨て、また乞食となって東上し、駿河の府中にやって来た。

 ここでは、好きだった馬術の芸が、身をたすけた。
 ある日、府中城下の寺で寝ていたら、すぐ近くの馬場に侍が十四、五人来て乗馬の稽古をしている。
 
 馬乗を見たが、あんまりへたがおゝひからわらったら、馬喰共が三、四人でしたゝかおれをぶつのめして外へ引づり出しおった。おれがいふには、「みんなへただからへただといったがわるいか」と大声でがなったらば、四十ばかりの侍が出おって、「これ、こじき。手前はどこのやつだ。子蔵のくせに、侍の馬に乗るのをさっきからいろいろといふ。国はどこだ。いへ」といふから、おれが、「国は江戸だ。それに元からこじきではない」といったら、「馬はすきか」といふ故、「すきだ」といったら、「ひとくら乗れ」といゝおる故、じゅばん一枚で乗ってみせたら、みんながいゝおるには、「この子蔵めは侍の子だろふ」といゝおって、せんの四十ばかりの男が、「おれの内へ一所にこひ。めしをやろふ」というから、けいこをしまひ、帰るとき、其侍の跡につゐていったら、町奉行屋敷の横丁のかぶき門の屋敷へはゐり、おれをよんで台所に上りだんでしたゝか飯と汁をふるまったがうまかった。
 其侍も奥の方で飯をくってしまひおって又台所へ出てきて、おれの名、又親の名をきゝおるから、いゝかげんにうそをいったら、「なんにしろ不便だからおれが所にいろ」とて単物を呉た。そこの女房も、おれがかみを結って呉た。行水をつかへとて湯をくんでくれるやら、いろいろとかわゐがった。今かんがへると与力とおもふよ。
 (中 略)
夜も、おれを居間へよんでいろいろ身の上の事をきいたから、「町人の子だ」といってかくしていたら、「いまに大小とはかまをこしらいてやるからここにししんぼうしろ」といゝおる。六、七日もいたが、子のよふにして呉た。

 馬術好きだったことによる僥倖。

 ここまでの旅でも、ごまのはゐの災難もあり、乞食もしながら、野宿をし大変ではあったであろう。

 とはいえ、その道中で、いろんな人に助けられている小吉。
 浜松の宿の主人、伊勢の御師龍太夫、そして、府中の与力(?)・・・・・・。

 しかし、まだまだ十四歳の小吉の旅では、さまざまな出来事があるのだが、それは次回。

by kogotokoubei | 2019-01-26 09:27 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

 本書の紹介に入る前に、ある映画のこと。
 いただいたコメントで、『あばれ獅子』という、小吉を主人公にした阪東妻三郎主演の映画があると教えていただいた。

 どうしても気になって、検索。
 moviewalkerで確認した。
 昭和28年の松竹映画だった。
 
 サイトから引用する。
movieewalkerplusサイトの該当ページ

作品情報
日本経済新聞に三年間連載された子母沢寛の「勝海舟」より「腕くらべ千両役者」の八住利雄が脚色し、「闘魂」の大曾根辰夫が監督に当る時代劇で、先頃急逝した阪東妻三郎(丹下左膳)最後の出演映画である。(後略)

 原作は、子母澤寛の『勝海舟』で、残念ながら『夢酔独言』ではなかった。

 コメントでも、バンツマは途中で役を降り、他の俳優さんの後姿が使われたとご指摘いただいたが、なるほど、バンツマの遺作。

 せっかくなので(?)、ストーリーも引用。

映画のストーリー
十二代将軍家慶の頃。四十石の旗本勝小吉は剣に秀れ覇気もある男だったが、太平の世の中では彼の評価も薄く、放蕩無頼の生活で鬱憤を晴らして居たのがたたって三十五歳の若さで隠居を命ぜられた。が、苦しい中にも一子麟太郎だけは江戸随一の剣客島田虎之助の門で修業させて居た。或夜麟太郎から新しい学問、蘭学を勉強したい旨を聞いた小吉は「お前のお袋に楽しい日を送らせてやってくれ」としみじみ云い、女房のお信を泣かせた。一夜明けると昨夜の事はけろりと忘れ、相変らず暴れ廻る小吉はごろつき侍であっても、悪侍小林隼太を懲し、妙見の禰宜や隣家の岡野家を救うという侠気に、江戸庶民の人気は素晴らしかった。その間、麟太郎は虎之助から免許皆伝を得、蘭学を永井青崖から教えられたが、やはり当時の時勢に入れられなかった。その麟太郎がひょんな事から恋をした。相手は炭屋の娘、辰巳芸者の君江で、彼女が深川の鳶の者にからまれているのを救った事がキッカケだったが、めったにしたことのない麟太郎の喧嘩も小吉とは又違った立派なものだった。以来、君江と麟太郎は時たまの逢瀬を楽しんでいた。小吉は烈火の如く怒ったが、美しくやさしく而もシャンとした彼女の人物に惚れてしまった。(後略)

 前半から中盤までは小吉が中心、後半は、小吉と麟太郎親子の物語、ということだね。麟太郎の恋の物語も、映画に艶を与えているようだ。

 子母澤寛も、『父子鷹』などの作品があるので、間違いなく『夢酔独言』は、海舟ものを書くにしても参考にしているはず。

 この映画、なんとか見たいものだ。

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勝小吉『夢酔独言』

 では、あらためて『夢酔独言』から三回目。

 前回は、八歳の時、八人対四・五十人の喧嘩をして、父親に三十日押し込めの罰を受けたこと、九歳では、柔術の道場仲間に縛られて天井につらされたが、ただでは負けなかった、ということなどをご紹介した。

 さて、その後の小吉。

 柔術の稽古や剣術の稽古もしていたが、馬に乗ることも大好きな小吉だった。
 もちろん、喧嘩はもっと好き。

 しかし、父親、そして兄は、そんな小吉の将来のため腐心する。

 兄の男谷思考(ひろたか)は、信濃国天領中之条陣屋の代官を勤めていたので、たびたび江戸と信州を行き来していた。
 その兄が、いる時は、そうは遊んでばかりもいられない。

 十二の年、兄きが世話をして学問をはじめたが、林大学頭の所へ連れ行きやったが、夫より聖堂の寄宿部屋保木(ほき)巳之吉と佐野郡左衛門といふきもいりの処へいって、大学をおしへて貰ったが、学問はきらい故、や。毎日ゝゝさくらの馬場へ垣根をくぐりていって、馬ばかり乗っていた。「大学」五、六枚も覚えしや。両人より断りし故に、うれしかった。

 せっかく学問所に通っても、こういう始末。

 兄きが御代官を勤めたが、信州へ五ケ年つめきりをしたが、三ケ年目に御機げん窺に江戸へ出たが、そのときおれが馬ばかりかゝっていて銭金をつかふゆ故、馬の稽古をやめろとて、先生へ断の手紙をやった。其上にておれをひどくしかって、禁足をしろといゝおった。夫から当分内に居たがこまったよ。

 押し込めや禁足、そんな罰を受けて困っただろうが、それでひるむような小吉ではない。

 では、そろそろ今回の主要テーマ、旅に出た小吉のこと。

 十四の年、おれがおもふには、男は何をしても一生くわれるから、上方当(あた)りへかけおちをして、一生いようふとおもって、五月の廿八日に、もゝ引をはいて内を出たが、世間の中は一向しらず、かねも七、八両斗りぬすみ出して、腹に巻付て、先づ品川まで道をきゝきゝして来たが、なんだかこゝろぼそかった。
 夫からむやみに歩行て、其日は藤沢へとまったが、翌日はやく起きて宿を出たが、どふしたらとかろふと、ふらゝゝゆくと、町人の二人連の男が跡よりきて、おれに、「どこへゆく」と聞くから、「あてはなゐが上方へゆく」といったら、「わしも上方まで行くから一所にゆけ」といゝおった故、おれも力を得て、一所にいって、小田原へとまった。其時、「あしたは御関所だが、手形はもっているか」といふ故、「そんな物しらぬ」といったら、「銭を弐百文だせ。手形を宿で貰ってやる」といふから、そいつがいふとおりにして関所も越したが、油断はしなかったが、浜松で留った時は、二人が道々よくせわをして呉たから、少し心がゆるんで、はだかで寝たが、其晩にきものも大小も腹にくゝしつけた金もみんな取られた。
 朝、目がさめた故、枕元を見たらなんにもなゐから、きもがつぶれた。宿やの亭主に聞いたら、二人は、「尾張の津島祭りにまに合わないから、先へゆくから、跡よりこひ」といって立おったといふから、おれも途方にくれて、なゐていたよ。
 亭主がいふには、「夫は道中のごまのはゐというふ物だ。わたしは江戸からの御連れとおもったが、何しろきのどくなことだ。どこを志してゆかしやる」とて、じつに世話をしてくれた。

 あら、小吉、“ごまのはゐ”に、やられてしまったのだ。

 さすがの小吉も、十四歳で遭遇した災難に、“なゐていた”んだ。

 さて、この後、小吉はどうやってこの苦難を脱したのかについては、次回。

by kogotokoubei | 2019-01-25 08:54 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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勝小吉『夢酔独言』

 『夢酔独言』から、勝小吉の半生を辿るシリーズの二回目。

 前回ご紹介した五歳の時の喧嘩は、相手は一人。

 ところが、この男、その二年後に、とんでもないことをしている。

 おれが名は亀松と云。養子にいって小吉となった。夫れから養家には祖母がひとり、孫娘がひとり。両親は死んだのちで、不レ残深川へ引取り、親父が世話をしたが、おれはなんにもしらずに遊んでばかりいた。この年に凧にて前丁(まえちょう)と大喧嘩をして、先は二、三十人ばかり。おれはひとりでたゝき合、打合せしが、ついにかなわず、干かば(鰯場)の石の上におゐ上げられて、長棹でしたゝかたゝかれて、ちらしかみ(髪)になったが、なきながら脇差を抜て、きりちらし、所(しょ)せんかなわなくおもったから、腹をきらんとおもひ、はだをぬいで石の上にすわったら、其脇にいた白子やといふ米やがとめて、内へおくってくれた。夫よりしては近所の子供が、みんなおれが手下になったよ。おれが七つの時だ。

 絵に描いたような、ガキ大将の誕生^^

 七歳にして、喧嘩に負けそうになって腹を切ろうとするあたりが、なんとも凄い。
 命などいつでも捨ててやる、という精神、生涯変わらなかったのではなかろうか。

 「小吉の女房」で江波杏子さん演じる義理の祖母は、こういう子供時代からの小吉の不良ぶりを知っているのだ。だから、この婿には厳しい対応となるのも、むべなるかな。

 さて、勝家の祖母と孫娘(後の小吉の女房)も預かった男谷家は、深川から本所に引っ越す。
 その理由が「たびゝの津波故」と書いている。

 少し調べてみると、小吉が生まれる十年ほど前、寛政三年(1791)の9月4日に、深川洲崎一帯を突然の大津波が襲い、あっという間に三百数十軒の人家と住人たちが飲み込まれたという記録がある。
 深川という場所では、いつどんな津波の被害に遭遇するか分からない、だから、内陸に引越したのだろう。

 さて、その引越し後のこと。

 翌年、よふゝ本所のふしんが出来て、引越したが、おれがいる処は表のほふだが、はじめてばゝどのと一所になった。そふすると毎日やかましいことばかりいゝおったが、おれもこまったよ。不断の食ものも、おれにはまづいもの斗(ばか)りくわして、にくいばゝあだとおもっていた。

 深川の家よりも、本所の引越し先は広かったに違いない。
 そのために、八歳で、初めて、養家の義理の祖母と一緒に暮らすようになった。
 「食いもの」への不満が書かれているが、なるほど、「小吉の女房」における、食事時の小吉(古田新太)と登勢(江波杏子さん)とのにらみ合いには、長~い歴史があるわけだ。

 この義理の祖母と毎日顔を合わせる生活で、小吉の無鉄砲さに拍車がかかったかもしれない。とんでもない、大喧嘩をしでかす。

 おれは毎日ゝそとへ斗(ばか)り出て遊んで、けんくわばかりしていたが、或時亀沢町の犬が、おれのかっておゐた犬と食い合って、大げんくわになった。そのときは、おれがほふは、隣の安西養次郎と云ふ十四斗(ばかり)のがかしらで、近所の黒部金太郎、同(おなじく)兼吉、篠木大次郎、青木七五三之助(しめのすけ)と高浜彦三郎におれが弟の鉄朔(てつさく)と云ふのと八人にて、おれの門のまへで、町の野郎たちとたゝき合をした。亀沢町は、緑町の子供を頼んで、四、五十人ばかりだが、竹やりをもって来た。こちらは六尺棒・木刀・しなゐにてまくり合しが、とふゝ町のやつらをおゐかひした。二度目には、向ふにはおとながまじり、又ゝたゝき合しが、おれが方がまけて、八人ながら隣の滝川の門の内へはいり、息をつきしが、町方には勝に乗て、門を丸太にてたたきおる故、またゝ八人が一生けん命になって、こんどはなまくら脇差を抜いて、門を開いて、不レ残切って出たが、其いきおいにおそれ、大勢がにげおった。こちらは勝に乗って切立しが、おれが弟は七つ斗りだがつよかった。いちばんにおっかけたが、前町の仕立やのがきに弁次といふやつが引返して来て、弟のむねを竹やりでつきおった。その時おれがかけ付て、弁次のみけんを切ったが、弁次めがしりもちをつき、どぶのなかへおちおった故、つづけうちにつらを切ってやった。前町より子供のおやぢがでゝくるやら、大さわぎさ。夫から八人が勝どきを揚て引返し、滝川の内へはゐり、互ひによろこんだ。そのさわぎを、おやぢが長屋の窓より見ていて、おこって、おれは三十日斗り目通止られ、おしこめにあった。弟は蔵の中へ五、六日おしこめられた。

 七人の侍、ならぬ、八人のガキ大将が、相手、四、五十人と戦ったというのだから、なんとも。

 五歳の時も、八歳のこの大立ち回りも、なぜか父親は現場を近くで見ているので、どちらも現行犯逮捕だ。

 三十日ほど、誰とも会えず部屋におしこめられた小吉だが、その数年後、それよりずっと長いお仕置きを受ける日がやって来る。それは、少し後の回で書くことにしよう。

 とにかく、喧嘩は好きで、強かった、小吉。
 
 無手勝流のストリートファイトでは困る、と思ったのだろう、親の薦めで稽古に行ったこともある。
 九つの時、養家の親類に、鈴木清兵衛といふ御細工所頭を勤める仁、柔術の先生にて、一橋殿・田安殿始諸大名、大勢弟子をもっている先生が横綱町と云ふ所にいる故、弟子になりにゆくべしと、親父が云ふ故いったが、三、八、五、十がけいこ日にて、はじめて稽古場へ出て見た。

 この、三、八、五、十がけいこ日、という表現は原文のママなのだが、たぶん、五と八が入れ違っているのだろう。
 
 この稽古で、多勢に無勢で思うようにならなかったこともある。
 とはいえ、ただでは負けないのが、小吉なのだ。

 柔術のけいこばで、みんながおれをにくがって、寒げいこの夜つぶしと云ふ事をする日、師匠からゆるしがでゝ、出席の者が食いものをてんでんにもち寄って食うが、おれも重箱へまんぢうをいれていたが、夜の九つ時分(十二時)になると、けいこをやすみ、みなゝ持参のものをだしてくうが、おれもうまひものをくってやろうとおもっていると、みんなが寄って、おれを帯にてしばって天上へくゝし上げおった。其下で不レ残寄りおって、おれがまんぢうまでくゐおる故、上よりしたゝかおれが小便をしてやったが、取りちらした食べものへ小便がはねおった故、不レ残捨ててしまいおったが、その時はいゝきびだとおもったよ。

 あまり想像したくない場面^^

 さて、そんな小吉が、旅に出るのだが、そのお話は次回。
by kogotokoubei | 2019-01-24 08:47 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 NHKのBS時代劇『小吉の女房』を、楽しく見ている。
NHKサイトの「小吉の女房」のページ

 ドラマはすでに麟太郎(後の海舟)が生まれている時期で、題名のように女房を主役とする内容。
 だから、勝小吉の若かりし日々の不良ぶりは、義理の祖母役の江波杏子さんが、小吉への小言と一緒に振り返る程度。

 では、どんな少年期、青年期を、勝小吉という男は送ってきたのか。


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勝小吉『夢酔独言』

 勝小吉のことを知るには、やはり、本人の自伝『夢酔独言』を元にすべきだろう。
 私は2015年発行の講談社学術文庫で読んだが、この本の原本は1969年刊行の平凡社東洋文庫。勝部真長(みたけ)さんの編集。

 これだけ、あけすけに自分の失敗を記した自伝は、他にないだろう。

 また、あまり字をよく知らないので、この本はかなが多いので、結果として、原文のままでも、結構よく分かるのだ。ほぼ、口語。

 この本から、ドラマでは割愛されている、勝小吉の少年時代、青年時代のことをご紹介するつもり。

 「まえがき」では、坂口安吾の『青春論』で小吉のことが記されていることが紹介されている。実に興味深い内容なので、引用する。

 坂口安吾の『青春論』に次のような一節がある。

  僕は先日勝海舟の伝記を読んだ。ところが海舟の親父の勝夢酔という先生が、
  奇々怪々な先生で、不良少年、不良青年、不良老年と生涯不良で一貫した御家人
  くずれの武芸者であった。尤も夢酔は武芸者などと尤もらしいことを言わず剣術
  使いと自称しているが、老年に及んで自分の一生をふりかえり、あんまり下らない
  生涯だから子々孫々のいましめの為に自分の自叙伝を書く気になって「夢酔独言」
  という珍重すべき一書を遺した。

 ということで、このシリーズのお題にある「生涯不良」は、坂口安吾の上の言葉から拝借した。
 安吾の勝小吉(夢酔)への興味は尽きなかったようで、「安吾史譚」に「勝夢酔」という一節がある。
 こちらは、青空文庫で読むことができるので、ご興味のある方は、ご覧のほどを。br>
青空文庫「安吾史譚 勝夢酔」

 さて、『夢酔独言』は、安吾もふれている冒頭の次の文章が有名。

 おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有るまいとおもふ。故に孫やひこのために、はなしてきかせるが、能(よく)ゝ不法もの、馬鹿者のいましめにするがいゝぜ。

 自伝を書くにあたり、こんなことを書く人、いない。

 実は、この冒頭の文の前には、「鶯谷庵(おうこくあん)独言」という文章がある。
 まぁ、「はじめに」という内容と言えるのだが、自分の人生を振り返る前に、今の自分が子孫に言い残す、あえて真面目な遺言を、先に書いておいた、という内容。

 そこからも、少し引用する。

 男子は五体を強くして、そじきをして、武芸骨をおり、一芸は諸人にぬきん出、ていをたくましくして、旦那の為には極忠をつくし、親の為には孝道を専らにして、妻子にはじあいし、下人には仁慈をかけて使ゐ、勤をば固くして、友達には信義をもって交り、専らにけんやくしておごらず、そふく(粗服)して、益友には厚くしたゐて道を聞き、師匠をとるなら、業はすこし次にても、道に明らかにして俊ぼくの仁をゑらみて入門すべし。

 ねぇ、ずいぶん固いことを言っているでしょう。

 きっと、自分の「生涯不良」の人生を書き綴った後では、こういうことを書いても伝わらないと思って、先に書いておいた、と私は察する。

 では、あらためて、子供の頃の悪事(?)の回想をご紹介。
 
 先に紹介した「いましめにするがいゝぜ」の後から。

 おれは妾の子で、はゝおやがおやぢの気にちがって、おふくろの内で生れた。夫(それ)を本とふのおふくろが引きとって、うばでそだてゝくれたが、がきのじぶんよりわるさばかりして、おふくろもこまったといふことだ。


 と書かれているように、勝小吉は、幼名を亀松といい、享和二年(1802)に、旗本・男谷平蔵忠恕の三男(庶子)として生まれた。ちなみに、男谷平蔵は、越後は刈羽郡長島村字平沢、現在の柏崎市出身の盲人で、江戸に出て鍼医をして財をなし、大名貸しなどもするほどになってから旗本株を買って武士になった、米山検校の子である。
 小吉、そして海舟には、この米山検校の血が、流れている。

 さて、小吉の不良話の、最初を飾る喧嘩のこと。

 おれが五つの年、前町の仕ごと師の子の長吉といふやつと凧喧嘩をしたが、向ふは年もおれより三つばかりおふきいゆへ、おれが凧をとって破り、糸も取りおつた故、むなぐらをとって、切り石で長吉のつらをぶった故、くちべろをぶちこはして、血が大そう流れてなきおった。そのときおれの親父が、庭の垣ねから見ておって、侍を迎によこしたから、内へかへったら、親父がおこって、「人の子に疵をつけてすむか、すまぬか。おのれのよふなやつはすておかれず」とて、縁のはしらにおれをくゝして、庭下駄であたまをぶちやぶられた。いまにどのきずがはげて、くぼんでいるが、さかやきをする時は、いつにてもかすりきずがひっかゝって、血が出る。そのたび長吉の事をおもひ出す。

 不良少年の記録、第一弾、というところか。

 凧上げをきっかけに喧嘩をして相手の顔を小石でなぐり、父親からは下駄であたまを「ぶちやぶられた」。その傷は、「小吉の女房」では、古田新太の頭にも残っているかな^^

 第一回は、このへんでお開き。

 次回は、もっと凄い喧嘩のお話。

by kogotokoubei | 2019-01-23 12:54 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 本日12月21日は、旧暦で十一月十五日。
 坂本龍馬の命日である。
 実は、誕生日も同じ十一月十五日。

 慶応三(1867)年十一月十五日、京都の近江屋で、何者かに斬殺された。

 その犯人には、いくつもの説がある。

 命日に、その犯人を探る本をあらためて読んだ。

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磯田道史著『龍馬史』(文春文庫)
 いまや、テレビでも引っ張りだこの磯田道史の『龍馬史』は、2010年に単行本で初版、2013年の文庫化された。

 結論から先に書こう。

 著者は、龍馬の手紙などを精査することで、さまざまな他の犯人説を否定し、見廻組が犯人であることに疑問がないとしている。

 まず、見廻組以外の犯人説とはどのようなものか。
 その黒幕については、次のような説が紹介されている。

 (1)新撰組黒幕説
 (2)紀州藩黒幕説
 (3)土佐藩黒幕説
 (4)薩摩藩黒幕説

 それぞれの説の疑問や反証について、本書「第三章 龍馬暗殺に謎なし」からご紹介。

(1)新撰組黒幕説への疑問

 龍馬が殺された後に、真っ先に犯人として疑われたのが、新撰組。
 本書では、このようにこの説に疑問を呈す。

 新撰組説は成り立ちません。戊辰戦争で敗れ、新政府に捕らえられた元隊士たちは一様に、龍馬暗殺について尋問を受け、その取調べ調書が残っています。なかでも横倉甚五郎という元隊士の供述は重要です。彼はこう言っています。
 坂本龍馬を討った(暗殺した)かどうかということじゃ一向に知らない。しかし、事件後、近藤勇が龍馬を討ったものは「先方にては」新撰組だと騒いでいる。おまえらは油断するなといったのをきいた。「先方」というのは土佐藩や海援隊のことです。
 また最後の新撰組隊長だった相馬主計(かずえ)の供述では「隊中で龍馬暗殺の嫌疑が晴れたという回し文があった」とも言っています。近藤の口ぶりからして、どうも新撰組はやっていないようです。このような証言がある上、そもそも新撰組の実行を裏付ける直接証言は、何一つありません。

 ということで、新撰組黒幕説は、消去。


(2)紀州藩黒幕説

 なぜ、紀州藩が疑われてのか。

 それは、慶応三(1867)年の四月、海援隊が四国の大洲藩に出資してもらって運用していた船「いろは丸」が、紀州藩の船に衝突して沈没するという事件(「いろは丸事件」)に起因する。
 この事件で、龍馬は紀州藩を相手取って、莫大な賠償金をせしめたのだった。
 また、海援隊に元紀州藩士の陸奥陽之助(宗光)がいて、紀州藩の弱みを熟知していたことも、龍馬の交渉を有利にした。

 龍馬というと「颯爽としてイメージ」がありますが、こういう交渉事になったときは、颯爽どころかじゃなりあくどい。沈没した直後、原因が分からない状況で「万国公法」を持ち出したのです。
 紀州藩は、御三家のひとつで、おおらかな人が多い藩ですから、こういう交渉事にあまり慣れていません。なにより体面を傷つけられることを非常に嫌っていました。龍馬は「お金よりは体面が大切だ」という紀州藩の基本方針を見極めて、次第にそこにつけ込んでいきます。

 多額な賠償金をせしめるため、龍馬は「いろは丸」の積荷が米や砂糖だったのに、銃を積んでいたと偽り、あげくには現金を何万両も積んでいたとして紀州藩に迫った。
 結果として、七万両の賠償金を大洲藩と海援隊は獲得する。現在価値で数百億円にのぼる額。
 龍馬というタフネゴシエーターに丸め込まれた紀州藩が龍馬暗殺の黒幕とされるのは、この「いろは丸」事件の恨み、という理由。
 この説について、磯田は、こう指摘する。

 しかし、紀州藩が龍馬を「殺す」という命令を出したり、実行部隊を動かした形跡は全くありません。少しでも実行に移していれば、証言や史料という形で残るのでしょうが何も残されていないのです。

 事件直後に紀州藩黒幕説が叫ばれたが、明治になるとこの説は消える。


(3)土佐藩黒幕説

 比較的多くささやかれるのが土佐藩説です。黒幕は後藤象二郎説と岩崎弥太郎説の二説あります。しかし、龍馬が殺された時点で、土佐藩ほど龍馬を必要としていた藩はありませんでした。特に後藤象二郎説というのは、動機に無理があります。
 磯田は、龍馬が音頭をとった大政奉還により、後藤や土佐藩の京都での地位が上昇したことや、慶応三(1867)年正月に長崎で後藤と会った龍馬は意気投合し、同志への手紙に、「後藤は近頃の人物だ」と書いていることを反証材料として挙げている。
 また、岩崎弥太郎と龍馬は、テレビドラマのように幼友達ということではなく、龍馬が亡くなるほんの数ヵ月前に対面したという説が有力で、岩崎が龍馬の利権を奪うために暗殺の黒幕となることも考えられない、と指摘する。


(4)薩摩藩黒幕説

 磯田は、京都において、薩摩と会津が、田舎者として嫌われていたことも、薩摩藩黒幕説の背景にあると指摘する。
 しかし、この説には相当無理があると次のように書いている。
 龍馬暗殺について薩摩藩犯行説がありますが、この説で一番妙なのは、実行自体は見廻組であるとする人が多いことです。見廻組は会津藩の支配下です。それなのに薩摩藩がわざわざ見廻組をつかって龍馬を殺させたというのです。
 こんな馬鹿なことはありません。薩摩は龍馬と親しいので当然、龍馬の居所も知っていました。
 もし薩摩が龍馬を殺したいなら、回りくどいことをする必要はありません。呼べば竜馬は来ますから、薩摩藩邸に呼び出して帰りのい闇討ちにすれば、証拠も残さず簡単に殺すことができるのです。薩摩藩には人斬り半次郎と呼ばれた中村半次郎(桐野利秋など、剣の達人がいくらでもいます。敵対している見廻組に龍馬を殺させる必要はないのです。
 第一、土佐藩邸の目の前の近江屋に滞在中の龍馬を狙うということは、救援が駆けつける可能性もあってリスクが大きい。

 ということで、薩摩藩黒幕説も消去。


 では、見廻組犯行説はどのように裏づけられるのか。

 龍馬が暗殺される直前の数日、龍馬は、ある人物の家を度々訪れている。

 相手は、なんと幕府の大目付、永井玄蕃。

 永井は小さな旗本から異例の出世を遂げたリアリストです。彼の諱(いみな)は「なおのぶ」とか「なおむね」と訓じられますが、永井家では「なおゆき」といっていたようです。この時期は大目付の職からさらに出世し、旗本の最高位ともいうべき若年寄格となっていました(慶応三年十二月には正式に若年寄就任)。戊辰戦争後は投獄されますが、許されたのち元老院権大書記官(ごんのだいしょきかん)になっています。彼の玄孫(やしゃご)にあたるのが作家の三島由紀夫です。
 龍馬暗殺を辿っていて、なんと、三島由紀夫の家系を知ることになった。

 死の五日前の十一月十一日、龍馬は同じ土佐藩の福岡孝弟と一緒に永井玄蕃を訪ねています。永井は二条城近くの「大和郡山藩」の屋敷に下宿していました。龍馬の下宿のあった四条河原町の近江屋から三キロ以上の距離があります。ここに一日で二度いった説まであるのです。

 本書には、関連する地域の地図も掲載されている。

 永井が下宿していた大和郡山藩の屋敷の近くに住んでいた人物に、実は、龍馬暗殺実行犯を解く鍵があった。

 この永井の下宿の隣には「やす寺(松林寺)」という寺がありました。そこには見廻組の佐々木只三郎が下宿していたのです。四日後の龍馬暗殺の実行指揮官です。佐々木は、旗本で剣客としても知られていました。倒幕勢力の糾合を目論んでいた、清河八郎という志士を暗殺したことでも知られています。
 龍馬はこの人の下宿の横に平気でずかずかと入っていきました。この一帯は完璧に幕府方のテリトリーですから、大声の土佐藩士が日に何度も現れて、ついには永井の屋敷に入って行ったという話を見廻組は簡単に掴むことができたはずです。ほぼ隣に住んでいた佐々木が直接見た可能性さえ否定できません。

 磯田は、なぜ危険な幕府テリトリーに出向いてまで龍馬が永井を訪れた理由は、慶喜の処遇についての話し合いと、土佐出身の宮川助五郎という男の釈放を依頼していた可能性が高いと推理している。宮川は、大政奉還の後、三条大橋にあった幕府の高札を何度も抜いて川に投げ捨てたため、捕まっていた。

 ともかく、見廻組の佐々木只三郎の下宿先の隣にいた人物をたびたび訪ねたことを、見廻組犯人説の有力な裏づけと考えることは不思議がない。

 もちろん、後年、襲撃犯たち自身が証言している。

 龍馬襲撃に参加した顔ぶれに関しては証言者によって若干の相違があります。
 「龍馬を斬った男」とされた今井信郎は、襲撃に参加した人間として佐々木只三郎、桂隼(早)之助、渡辺吉太郎、高橋安次郎、土肥仲蔵、桜井大三郎の七名を挙げています。しかし佐々木をはじめ、彼らのほとんどは鳥羽伏見の戦いで戦死しています。
 見廻組は、士気の高い佐幕派ですが、みな戦死というのは、やはり不自然です。龍馬襲撃犯をかばうために、戦死者の名前をわざと言った可能性が高い。今井は自分のことについては正直に供述していますが、他人のことについては信用できない部分もあります。

 同じ渡辺でも渡辺篤という人物が、襲撃メンバーの一人だったと自ら証言していて、当事者しか知りえないような細かい内容を明かしているのだが、今井はその渡辺篤のことを隠すために、死んだ吉太郎の名を出したのではないか、と磯田は察している。

 佐々木らは、下宿先である尼寺「やす寺」から出発し、各々を訪ね、襲撃者を一人ずつ呼び集めていったようです。これについては、今井信郎の家に口伝が残っていて、孫の今井幸彦が『坂本龍馬を斬った男』としてまとめています。
 それによると渡辺という隊士が今出川千本の今井の仮寓を訪れ、奥でしばらくヒソヒソ話をしていた。しばらくすると、「ちょっとでてくる」と言って二人連れ立って出て行った。今井の妻は「また斬り込みだ」と直感したと、のちに語っています。

 さまざまな説があるなか、この本を読むと、見廻組の犯行説は動かしがたいようだ。

 では、黒幕は・・・・・・。

 京都守護に当る会津藩支配下の見廻組である。

 今井信郎と渡辺篤の証言は、どちらも、京都守護職、松平容保からの命令(御差図)であったとしている。

 私は、長岡に住んだこともあり、河井継之助が好きなので、自然、会津藩にも好意を持っている。

 松平容保という人にも悪い印象はないし、戊辰戦争での会津の悲惨な姿にも心が痛む。

 だから、歴史上の人物の中ではきわめて人気の高い龍馬だが、彼を暗殺した見廻組、そしてその指令を発した松平容保を、そうは憎めない気持ちがある。

 あくまで、自分の生まれ育った場所や環境、そして歴史上の役割として、それぞれに定められた運命であった、としか言えないのだろう。


 今、もし、龍馬が日本の姿を見たら、果たしてどう思うだろうか。
 
上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事

 有名な「船中八策」の中の、議会開設に関する文面。

 二院制による議会制民主主義は、形式だけは存在している。

 しかし、その形が、龍馬が理想とした内容を伴っているとは、思わないに違いない。
 民主主義が、今の日本で機能しているとは、彼も思えないだろう。

 長州出身の国のリーダーを見て、龍馬は彼が会った長州の志士たちの面影を見つけることは、到底できないはずだ。

by kogotokoubei | 2018-12-21 12:27 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

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春風亭栄枝著『蜀山人狂歌ばなし』
 蜀山人が大好きな落語家春風亭栄枝の『蜀山人狂歌ばなし-江戸のギャグ、パロディーの発信源-』からの二回目。

 平成9(1997)年、三一書房から初版発行。

 この本に、大田直次郎が狂歌名四方赤良や蜀山人を名乗る背景が書かれているので、ご紹介。

 蜀山人、四方赤良ペンネームの由来

 蜀山人というペンネームは、彼が五十代の時、大坂銅座役人として出張中にこの名前を使い出したといわれます。銅の異名を蜀山居士というらしいので、後の世までこの蜀山人がポピュラーな愛称として使われました。しかしそれ以前は、「四方赤良」で、これは日本橋の酒屋で売り出している味噌“四方の赤”から自分の筆名にしたそうです。つまり、いまでいうところの“タイアップ広告”のはしりといえそうです。

 こんな由来があったんだね。

 蜀山人の狂歌をいくつかご紹介。

 来週から師走。すぐに正月だ。
 有名な狂歌がある。
 
 大田直次郎は、駿河台に引越したことがある。

 この駿河台の緇林楼(しりんろう)、つまり南畝の新居には、来客が引きも切らなかったといいます。というのも、南畝は温厚な人柄に加えて、町人とも喜んで交わり、上下のへだてなく長屋の八っつぁん熊さんにまで慕われたためといいます。狂歌をはじめとする文人仲間や、その他大勢がこの新居にやってきます。特に、正月の年始客の多さに閉口したといいます。
 ところで南畝は、自作の狂歌を門口に書いて貼って置きました。
 
  初春は 他人の来るこそ うれしけれ
   とは言うものの お前ではなし

 こんな歌を読まされたら、訪問客だって入っていいかどうか迷ってしまうに違いありません。後年、名随筆家であり、漱石門下内田百閒氏がこの歌を一部変えて、

  初春は 他人の来るこそ うるさけれ
   とは言うものの お前ではなし

 この百閒先生もかなり変人ーいや、奇人的な印象を、私は持っています。
 黒澤明の『まあだだよ』は、内田百閒を主人公とした作品だったが、松村達雄扮する百閒先生が、この歌を玄関に貼っていた映像を思い出す。

 栄枝は、落語家らしく、あの落語中興の人物に関わる話も登場する。

 さて、焉馬が初めて開いたという第一回の落とし噺会に続く第二回は、鹿都部真顔、竹杖為軽、宿屋飯盛らと一緒に南畝=蜀山人も参加したといいます。このように回を重ねるうちに、寛政の改革で禁止令が下って中断してしまいましたが、焉馬にとっては最後になる落とし噺会が、文政三年(1820)、亀井戸の藤屋で開かれました。焉馬にとっては一世一代の華やかなリサイタルであったに違いありません。
 この時、焉馬、七十八歳というから死の二年前のことでした。
 この落とし噺会を大田南畝は、はっきりこう詠んでいます。

  万年の 亀井戸なれば おはなしの
   七十八と 聞くはうそかえ

 七十八歳という高齢にもかかわらず、これほど盛会な落とし噺会を催す焉馬に拍手を送り、七十八歳なんて嘘じゃないかなどと、場所が亀井戸だけに、「うそ替え神事」に引っかけて歌っています。

 なかなか洒落ている。

 しかし、南畝も寛延二年(1749)生まれなので、この時七十一。
 三年後、文政六年に亡くなっている。

 この本からは、落語の本、として、後日あらためて紹介するつもり。

by kogotokoubei | 2018-11-27 12:36 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
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平岩弓枝著『橋の上の霜』

 春風亭栄枝の本を挟んで、この本から五回目。

 前回は、直次郎、狂歌名四方赤良が、吉原は松葉屋の新造、三穂崎を身請けしようとしていた、ところまでだった。

 この後、直次郎は妻の理世から、高木市太郎の家に、三穂崎と同衾していて亡くなった隠居の幽霊が出るという噂があることを聞く。

 高木市太郎が三穂崎を身請けし、尼にして隠居を弔おうとしているのは、そういうこともあってのことか、と直次郎の気が重くなるのだった。
 

 ある五月雨の日、内藤新宿の平秩東作の家で月末の狂歌会があるので、直次郎は出かけた。
 そこには、あの唐衣橘洲が来ていた。
 隠居を弔うために、三穂崎を身請けし尼にしようとしている旗本高木市太郎の肩を持つ橘洲は、最近の高木家の幽霊ばなしのことを話題にするのだった。

「神楽坂のさる旗本の隠居が、吉原の振袖新造に入れあげて、そいつの腹の上で極楽往生を遂げたそうな」
 菅江と木網が制したが、橘洲はかまわず続けて。
「女に未練が残って、隠居はどうにも行くべきところにたどりつけぬ、幽霊になってまで三保の松、三保の松とわめき散らし、あげくの果は、その女の情夫にたたろうという勢いなそうな」
「およしなされませ、橘洲先生」
 ぴしっと遮ったのは元木網で、
「お若い先生をおからかいなさるのも、よい加減になさいませ。四方先生には奥様もお子もおありのこと、なんで、そのような女子とかかわりをお持ちなさいますものか」
 橘洲が高笑いをした。
「そうともよ、四方どののお内儀は良妻賢母、それに四方どのに優るとも劣らぬ策士じゃでな」
 腹の虫を押さえていた直次郎が、橘洲の言葉に眉を上げた。
「我が家の女房が策士とな」
「はてさて、まことに騙されたか」
 いよいよ面白そうな橘洲が、
「幽霊ばなしを信じたのか」
 がんと横面をひっぱたかれたような気がした。
「戯作者は高木どのの妹、七江どのじゃ。それに、貴公のお内儀が一役、買って、女と貴公が手を切るようにもちかけた。流石、四方どののお内儀、近頃、評判の山東京伝よりも役者が上じゃよ」
 雨の中を直次郎はとび出した。

 ずぶぬれになって帰宅した直次郎は、妻を殴った。

 父の吉左衛門が息子を奥へやって、母が着がえの世話を焼いているところへ、駕籠で浜辺黒人がかけつけて来た。
 直次郎は会わなかったが、吉左衛門に今日の顛末を語って戻って行ったらしい。
 やがて、直次郎の書斎へ吉左衛門が利世と里世を伴って入って来た。
「浜辺黒人どのから話はきいた。実は、わたしも知っていたのだ」
 思いがけない父の言葉に、直次郎は再び、かっとなった。
「こんなことになるのではないかと、女どもをとめたのだが、それ以外に、そなたを三穂崎という女から遠ざける法はあるまいといわれてな。止むなく、知らぬふりをして居ったのだ」
 直次郎が打ちのめされたのは、妻も両親も三穂崎の名を知っていたことである。

 直次郎の心中、いかばかりか。
 
 おろおろと母が泣いた。
「今度のことは、高木様からきいて来たのは里世さんだが、そうするように勧めたのは、この私なのですよ。母がこうしてあやまります。許してたもれ」
 父の吉左衛門も息子をなだめた。
「女子の無分別とは思うが、里世の気持ちも察してやれ、女子は夫だけが頼りなのだ。お前に女が出来たと知って、どのように苦しんだか・・・・・・」
 なにをいわれても、直次郎の怒りは鎮まらなかった。
「ともかくも、手前は三穂崎を身請けいたします。こうなっては、あとにはひけません」

 直次郎の揺れる思いに、この幽霊騒動が背中を押した、ということか。
 
 翌朝、直次郎は松葉屋を訪ねた。
 そこには、偶然にも高木市太郎の妹、この度の幽霊騒動の仕掛け人と言える七江も来ていた。三穂崎の妊娠の噂を聞きつけて確認に来たのだった。
 追って、大文字屋の主人、加保茶元成や蔦屋重三郎も集る。
 
 七江に直次郎は、三穂崎の子は必ずしも直次郎の子とは言えないが、それでも身請けするかと聞かれた。直次郎、「幽霊ばなしに騙されて、惚れた女を断念したとあっては、手前の男が立ちません。この上は刀にかけても三穂崎は手前の手活けの花とします」と、七江に向かって言い放つ。
 七江も高木家で身請けすることを、諦めざるを得なかった。

 身請けの金大半は、作品の前金ということで蔦屋重三郎が出してくれることになった。
 三穂崎は、引き続き加保茶元成の別荘、逍遥亭に留まることとなり、直次郎は、三穂崎を身請けすることができた。

 しかし、この身請けが、先々直次郎の身に大きな不幸を呼び込むことになる。

 直次郎は、三穂崎のいる逍遥亭に入り浸りとなり、自宅にはほとんど帰らなくなった。
 妻の里世は、精神状態に狂いが生じ、とうとう、近くの神社の楠の大木に丑の刻まいりをすると願いが叶うという噂を聞き、毎夜、藁人形に釘を打ち付けるという行動に出た。
 平秩東作がその姿を確認し直次郎に告げる。
 直次郎が深夜その里世の姿を認め、家に連れ帰り、深く里世に謝り、ようやく自宅に戻るのだった。

 しかし、そうなると、三穂崎が、直次郎を憎むのも必然。
 その心労もあったのだろう、三穂崎は流産。

 直次郎の弟、金次郎の進言もあり、家を増築し、三穂崎を引越しさせた。

 妻妾同居は、当時はそれほど珍しいこととは言えないが、それは、大店で、妻もよく知る女中などが妾となって同居し、仕事も助け合うなどの場合はともかく、貧乏侍の家に吉原の元新造が同居するのであるから、決して平穏な同居とは言えない。

 自業自得とは言え、直次郎は不安を抱えながらの生活を送ることになる。

 そして、世は将軍家治から家斉の時代に。
 田沼意次は失脚し、倹約と文武が奨励される、住みにくい時代が到来した。

 そんな時、ある落首が、江戸のみならz、上方にまで流行った。

   世の中にかほど(蚊ほど)うるさきものはなし
         ぶんぶぶんぶというて身を責めるなり

   まがりても杓子は物をすくうなり
         すぐなようでも潰すすりこぎ

   孫の手のかゆい所へとどきすぎ
         足のうらまでかきさがすなり

 中でも、最初の落首は、女こどもも口にするほどになった。

 そして、この落首が、直次郎、四方赤良の作という噂が広まったのだった。

 狂歌と落首はまったく違うものとして、落首は作ったことのない直次郎。
 訊ねられる都度、否定はするが、噂とは怖ろしいもの。

 ついに、上司から呼び出しがあった。

 さあ、その後、直次郎はどうなったのか・・・・・・。

 それは、ぜひ、本書を読んでご確認のほどを。
 

 大田直次郎、号は南畝、狂歌名の四方赤良、後の蜀山人。

 後世に残る数々の狂歌や戯作で有名なこの人物、決して順風満帆な人生を歩んだとは言えない。

 話半ばながら、このシリーズこれにて、お開き。


 さて、本日は日曜だが、恒例のテニスは都合の悪い人が多いため人数が揃わず休みとなった。
 そうなれば、落語だ。

 末広亭の昼夜居続けに、これから出向く予定。

by kogotokoubei | 2018-11-25 09:36 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛