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噺の話

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カテゴリ:今週の一冊、あるいは二冊。( 131 )

 BS時代劇『蛍草 奈々の剣』の六回目を見た。

 感想などは、日曜の再放送の後に書こう。

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ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人』

 このシリーズの最終回、五回目。

 本書初版は1984年に紀伊国屋書店から発行されているが、私が読んだのは、1991年の中公文庫版。副題は、「日本史に学ぶ軍縮」。

 なぜ17世紀、一時は世界でもっとも鉄砲を保有していた日本が、その“飛び道具”を捨てることになったのか。

 著者が指摘する五つの理由をご紹介。


①火器の統制がきかなくなってきたと感じる武士が大勢いたこと
  どの位、武士が多かったかについて、こう書いている。
 日本の武士団はヨーロッパのどの国の騎士団よりも規模が大きく、総人口のほぼ7~10パーセントをしめていた。
 豊臣政府は、1591年から人口調査を行ったものの、
侍を頭数の一つとして数えるのはその品位を貶めるものだとして武士を集計の手続きから除外
 したのだが、十九世紀の調査をもとに、16世紀末に約200万人、総人口のほぼ8パーセント、と試算している。
 対照的にイギリスでは、1597年において諸侯60、騎士500、地方名士(スクワイア)ならびにジェントルマン5800で、それらの家族と合わせて騎士階級は総計3万で、総人口の0.6パーセントをしめるにすぎない。ヨーロッパのどの国をとっても、騎士階級が優に1パーセントを越すような国はなかった。
 ということで、仮想敵があまりにも多い状況において、「このままでは、統制がきかなくなる・・・・・」という危惧を、多くの武士が共有していたことが、第一の理由と指摘する。
 あえて付け加えるなら、戦国の末期には、多くの武士に厭戦感が強かったと思われる。
 戦うことに疲れていたはずで、鉄砲など火器の軍備拡張合戦への動機づけも低かったと察する。

②侵略しにくい自然条件を含め、外敵に対する国家的統合の維持は通常兵器で可能だった
 加えて、ポルトガルやスペインが、日本を侵略しようとしたわけでもないし、秀吉の朝鮮出兵の記憶が残る朝鮮半島や明は、侵略することなど想像すらしなかった。

③刀剣が日本ではヨーロッパより大きな象徴的な意味をもっていた
 これは、意外に強い理由かもしれない。
 ペリンは、こう書いている。
 まず日本刀は単なる戦いの武器たるにとどまらず、プライドの物的な表現、日本流に言うならば、「武士の魂」であった。
 (中 略)
 また日本刀は、封建ヨーロッパよりもはるかに重要な社会的意味をもっていた。帯刀の権利がなければ、名字されもてなかったのである。封建日本にあっては農民、町人は帯刀の権利もなければ、名字もなかった。ときには農民や町人が出世して武士身分を許されることがあった。これは名字帯刀の特権といわれた。
 さらに日本の刀は通常の武器であるとともに代表的な美術品でもあった。
 著者はこの後、1607年に鉄砲鍛冶年寄四人が駿府に召出されて家康にお目通りを許され、帯刀まで許されたことを紹介している。

④キリスト教と商業に対する西洋人の態度への反動的な潮流の存在
 ヨーロッパの商人についてのある日本の将軍の言葉として、次の内容が紹介されている。
「利害を好み、欲ぼけの者どもである。かような唾棄すべき輩にはいずれ天罰が下るであろう」
 注には、「Boxer,Christian Century,p245」とあるが、誰の言葉かは分からない。とはいえ、当時の大半の武士にとって、ヨーロッパの商人は、武士道からはかけ離れた極悪人に映ったことは察することができる。

⑤日本刀が、日本的美学に結びついた、飛び道具よりも品位の高い武器と考えられていた
 “剣道”の名が示すように、そては、一つの哲学とも言えるだろう。
 ペリンは、その具体的な事例として、日本刀どころか鉄砲についてさえ、“作法(形、道)”が厳格にあったことを紹介している。ニューヨーク公立図書館に保蔵されている、1595年に河上茂介が著した『稲富流鉄砲伝書』の図、火縄銃を撃つ場合の姿勢についてこと細かに書かれた図を掲載しているのだが、なんと、三十二枚の図のうち、十枚も掲載しているのだ。
まことに日本人は鉄砲についてさえ、できうるかぎりの上品さを保とうとした観がある。

 私は、ペリンが挙げる五つの理由のうち、③と⑤に着目する。

 そこには、日本人の美学や哲学が存在する。

 美しくなければ、作法にのっとってなければ、道に反していたら、それは日本的ではない、ということなのではなかろうか。

 さて、今の日本に、そういった美学や哲学は残っているのだろうか。

 もちろん、徳川幕府が鉄砲、大砲の製造を制限するために鉄砲鍛冶を囲い込んだり、法的にも施策を進めたことも、大きな理由だが、著者ペリンは、日本人の美学、文化といった側面に強く魅かれたようだ。

 その美学、文化は、時代を経ても不変なものではなかろうか。

 そう思いたい。

 これにて、このシリーズはお開き。

 長々のお付き合い、誠にありがとうございます。
by kogotokoubei | 2019-08-30 22:27 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 仮想敵国北朝鮮、ということで、また日本はアメリカから武器を大量に買わされるようだ。
 AFPのニュースから。
AFPサイトの該当記事

米、日本への弾道弾迎撃ミサイル売却を承認
2019年8月28日 8:31 発信地:ワシントンD.C./米国 [ 米国, 北米, 日本, アジア・オセアニア, 北朝鮮, 韓国・北朝鮮 ]

【8月28日 AFP】北朝鮮が最近も新型弾道ミサイルの発射実験を繰り返し、日本に脅威が及ぶ恐れも生じている中、米政府は27日、弾道弾迎撃ミサイル33億ドル(約3500億円)相当の日本への売却を承認した。

 米国防総省によると、日本が購入するのは米防衛機器大手レイセオン(Raytheon)製の「SM3ブロック2A(SM-3 Block IIA)」最大73発で、艦載型イージスシステムから発射する設計。

 北朝鮮はミサイル攻撃能力を拡張しており、過去2年間、核弾頭を搭載して日米を攻撃できる中・長距離弾道ミサイルの発射能力を示してきた。

 また、北朝鮮が先月末から相次いで行った新型短距離弾道ミサイルの発射実験では、少なくとも1発が日本に届くだけの距離を飛行した。

 ほかにも国防総省は、ハンガリー、韓国、リトアニア、デンマークに対する計9億4300万ドル(約997億円)相当の兵器売却を承認した。(c)AFP

 もし、トランプが武力で半島の危機に対抗しようとしたら、それをやめさせる努力をすることこそ、同盟国の役割ではないのか。

 トランプは、さまざまな意味で、“死の商人”に見えてならない。

 日本政府は、出鱈目な調査結果を元に秋田や山口に配備を進めようとしたイージス・アショアについて、すでに1400億円ほどの契約をしているとも報じられている。

 とにかく、アメリカからの買い物に、大盤振る舞いなのだ。

 武器のみならず、中国に売れなくなったから、遺伝子組み換えのトウモロコシを日本が買うなんてこと、国民の多くは認めないぞ。
 「win-win」というのは、両者の利害が一致する、双方ともプラス、という意味だろうが、どこに日本のメリットがあるのだろうか。


 さて、ミサイルは、まさに“飛び道具”である。

 その飛び道具を一度は捨てた国が、いまは、どんどん買おうとしている。

 捨てた時代を、振り返ってみよう。


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ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人』

 このシリーズ、四回目。

 本書初版は1984年に紀伊国屋書店から発行されているが、私が読んだのは、1991年の中公文庫版。副題は、「日本史に学ぶ軍縮」。

 ペリンが分析する、江戸期に日本が鉄砲と捨てた理由の前に、日本にも鉄砲が普及していた事実も、念のため確認しておこう。

 「第三章 鉄砲の全盛時代」から。

 もちろん、その契機となったのは、長篠の合戦である。

 目標を定めた一千発の一斉射撃は、周章狼狽していようが泰然自若としていようが、敵とあれば見境いなく、相手を声も届かぬ離れた地点から撃ち殺した。鉄砲に立ちむかう場合、勇敢さはかえって不利となり、攻守ところを変えて自分が鉄砲隊となると、もはや相手の顔かたちは見分けがつかなくなったであろう。
 (中 略)
 ともあれ、鉄砲をもつ農民が最強の武士をいともたやすく撃ち殺せることを認めるのは、誰にとっても大きな衝撃であった。
 その結果、長篠の合戦後まもなく、鉄砲に対する二つの違った態度が現われはじめた。一方で、鉄砲は、遠く離れた敵を殺す武器としてその優秀性をだれにも認められるところとなり、戦国大名はこぞってこれを大量に注文したのであった。少なくとも鉄砲の絶対数では、十六世紀末の日本は、まりがいなく世界のどの国よりも大量にもっていた。

 われ先にと戦国大名が鉄砲を注文したのは、あの時代を考えたら、ごく当然のことだったろう。

 しかし、その武器を自らが使うか、ということになると、様子が変わってくる。

 他方で、正真正銘の軍人すなわち武士階級の者はだれもみずから鉄砲を使おうとする意思はなかった。かの織田信長でさえ、鉄砲をおのれの武器としては避けた。1582年信長は、死を招いた本能寺の変で、まず弓を用い、弦が切れたあとは槍で闘ったと言われる。


 このあたりの、武士の、いわゆる“美学”は、その後の歴史にも反映される。

 では、「第四章 日本はなぜ鉄砲を放棄したか」より。

 鉄砲の発明は、その後、大砲の製造につながった。

「大砲と火器は残忍で忌わしい機械です。それは悪魔がじかに手を下した仕業だと信じます」とマーティン・ルターは言った。しかるにルターのドイツは大砲鋳造の中心国へと歩みを進めていったのである。それに対し一方の日本はと言えば、十九世紀に入ってもなお甲冑作りを続けていた。
 (中 略)
 イギリス人はシェイクスピアの想像をも絶する破廉恥なる鉄砲をもって中国人を計略的に殺していた。ひるがえって日本をみれば江戸時代、その二世紀半という長期にわたり、飛び道具といえば弓矢という、旧式武器の復興期(ルネッサンス)を迎えていたのである。
 朝鮮の役が終わった頃から、ヨーロッパは急速に火器を発達させたのに、なぜ日本は火器から背をむけたのであろうか。これを説明する理由は少なくとも五つあると思われる。

 中略の部分には、シェイクスピアが『ヘンリー四世』で語らせた、次の科白も含まれている。

「あわれ、立派な勇士たちが、ごろごろ、卑怯な飛び道具で生命を落とさねばならぬ、なんという遺憾、・・・・・・こんな下等な鉄砲なんてものさえなけりゃ、拙者だとても立派な武人になっていましたように」

 “卑怯な飛び道具”“下等な鉄砲”という概念は、日本の武士にも共通するものだろう。
 騎士道、そして、武士道・・・・・・。


 さて、日本政府が懲りずにアメリカから“飛び道具”を買うニュースに少しスペースを割いたこともあり、今回はここまでとし、五つの理由は、次回最終回にてご紹介したい。
by kogotokoubei | 2019-08-28 21:27 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人』

 少し時間が空いたが、このシリーズ、三回目。

 本書初版は1984年に紀伊国屋書店から発行されているが、私が読んだのは、1991年の中公文庫版。副題は、「日本史に学ぶ軍縮」。

 ようやく、日本に鉄砲が伝来されたことへ。

 鉄砲は1543年に、日本に漂着した最初のヨーロッパ人がもたらした。それはたちどころに採用され、それから百年間、広く使用されたのである。ところがそれを過ぎると、徐々にではあるが、放棄されていった。鉄砲が採用されていったいきさつについては多くの史料がヨーロッパ側に残されている。だが、ことその放棄についてはそうではない。

 補足すると、種子島久時が薩摩国大竜寺の禅僧・南浦文之(玄昌)に編纂させた、鉄砲伝来に関わる歴史書『鉄炮記』によれば、天文十二(1543)年8月25日(西暦9月23日)に、種子島は西村の小浦に一艘のポルトガル船が漂着したことがきっかけ。

 あらためて、なぜ、鉄砲放棄の歴史が語られることがなかったか。

 その理由は単純で、以下の通りである。1543年から1615年の時期、ヨーロッパ人は日本国内を自由に通行することができた。最初ポルトガル人つづいてスペイン人、オランダ人そしてイギリス人が商館を開設した。ポルトガル人とスペイン人は日本のキリスト教改宗化をもくろんでいた(一方、オランダ人とイギリス人にはその意図はなかった)。ポルトガル人とスペイン人は当初は成功したが、最終的にはほぼ完全に失敗した。というのも日本政府が、宣教師はヨーロッパによる日本植民地化の前触れらしいと思い込んだからである。植民地化の企図を勘ぐった日本の統治者は、それゆえにまず宣教師に対し、やがては外国人のすべてに対して、一連の厳しい規制措置を次から次へと講じたのである。1616年以降、外国人の国内自由通行が禁じられた。ポルトガル人とスペイン人は長崎の居留地から一歩も外に出ることが許されず、オランダ人とイギリス人は狭い平戸港のみの活動は制限された。
 この外国人の居留地も長続きしなかった。1623年にはイギリス人が、損失続きのために、自発的に平戸の商館から立ち退いた。翌1624年にはスペイン人が長崎から追い払われた。これはスペイン人がフランシスコ会宣教師の活動を統制できなかったか、もしくは、しようとしなかったためである。1639年にはポルトガル人も追い払われた。こうして、日本人観察者として取り残されたのは、わずかな人数のオランダ人ばかりとなった。二年後には日本は鎖国をしてしまったので、オランダ人の日本観察も事実上ここの終わってしまう。オランダ人が国外退去を命ぜられなかったのは、オランダ東インド会社が行なっていた日本ー中国間の中継貿易が日本にとって有益であったからである。だが、当のオランダ人は、一種の拘禁状態におかれたようなものであった。1641年5月21日、オランダ人は平戸商館を立ち退き、小さな人工島の出島へ移るように命じられた。出島というのは縦約200ヤード、横約80ヤード、面積わずか3エーカー〔1エーカーは約4047平方メートル〕余りの島である。

 ということで、なぜ鉄砲を日本人が捨てたのかは、長らく語られることがなかった。

 また、あまり興味の対象ともならなかったのだろう。

 しかし、著者ノエル・ペリンは、その歴史に大いに関心を寄せたのである。

 それは、実に特異な歴史であり、また、軍縮につながる重要な知恵とも考えているからだ。

 第一回で引用したペリンの言葉を再度紹介したい。

 日本語版への序文に、このように書いている。
 日本はその昔、歴史にのこる未曾有のことをやってのけました。ほぼ四百年ほど前に日本は、火器に対する探求と開発を中途でやめ、徳川時代という世界の他の主導国がかつて経験したことのない長期にわたる平和な時代を築きあげたのです。わたくしの知るかぎり、その経緯はテクノロジーの歴史において特異な位置を占めています。人類はいま核兵器をコントロールしようと努力しているのですから、日本の示してくれた歴史的実験は、これを励みとして全世界が見習うべき模範たるものです。ささやかながら、本書もまた日本の経験をめぐって執筆したものです。
 この場をかりて敢えて希望を申し述べることが許されますならば、日本にいま一度新しい模範を示していただけないものか。日本が国の栄誉のために自衛隊の増強を決めたとしても、それはそれで仕方がありません。外部からとやかくいうべき筋合いのものではまったくないからです。それでもなおわたくしは、ワシントンの野心家の機嫌をとるだけのために日本が新式兵器に金をかけることのないよう、貴国に希望を託しています。

 1984年2月24日と記されている。

 しかし、この言葉は、残念ながら現在も妥当性がある。
 国と国との争いがある以上、武器を捨てるという発想には至らない。

 今日の米中や日韓の関係、G7の混乱・・・・・・。

 江戸時代に学ぶことは多い。

 それを、なんとアメリカ人が教えてくれているのが、本書だ。

 次回は、少し先に進めて、鉄砲を日本人が捨てた理由についてペリンの見解をご紹介。
by kogotokoubei | 2019-08-27 12:47 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人』

 このシリーズ、二回目。

 本書初版は1984年に紀伊国屋書店から発行されているが、私が読んだのは、1991年の中公文庫版。副題は、「日本史に学ぶ軍縮」。

 前回、著者の日本語版への序文から、反戦、反核の強い思いがあることを紹介した。
 また、日本と日本人への深い思い入れなしに、この本は存在しなかっただろう。

 その背景には、著者自身の朝鮮戦争での従軍体験がある。

 「文庫版への序文」からご紹介。

 もう遠い昔のことになりますが、まだ若かった頃、私は日本の美しい自然景観のとりこになりました。それは、朝鮮戦争が勃発し、私が青年士官の身分で交替要員として戦地に派遣されたときのことです。そのとき、戦地に直接送られるのではなく、まず横浜近くに上陸し、そこから軍用列車で一路佐世保に向かいました。佐世保からは小型の日本製の軍艦に乗りかえて釜山に渡りました。釜山から軍用列車で前線に送られ、そこで新しい部隊に組みいれられて、戦闘に従軍したのです。


 朝鮮戦争と聞いて、18日に見た、NHKのBS1スペシャル「隠された“戦争協力” 朝鮮戦争と日本人」を思い出す。
NHKサイトの該当ページ

 通訳などで米軍の支援をするという名目で半島に渡った日本人が、実は、武器を渡され戦闘に加わっていたという事実は、衝撃的だった。

 話を戻す。
 ノエル・ペリンは、半島に渡る前に立ち寄った日本の記憶を記している。


 いまでも覚えているのは、横浜から佐世保までの三十時間位の鉄道の旅のことです。あれからずいぶん年月が流れましたので、やや誇張したところがあるかもしれませんが、それが横浜発の夜行列車であったこと、そして、翌日も乗りっぱなしであったこと、夏の夜が短かったとはいえ、汽車に乗っている間中、一睡もしなかったことなど、鮮明に覚えています私は、生まれて初めて眼にする日本の自然の美しい光景にすっかり魅入られ、眼の前につぎつぎと繰りひろげられる光景をどれも見のがすまいとしていました。段々畑と松の生えた山々は見事な調和を見せ、谷が随所にあり、その形状は変化に富み、ある峡谷には小川が流れ、別の谷で上流が深い峡谷になっていました。


 著者ペリンは、最後部のデッキに立ったままで、そういった日本の光景を見続けた。
 二、三時間ごとに警備兵が来て車内に戻るようにと注意されたらしい。

 私はこう答えたものです。
「もし、私がここに立っていることで、貴官に迷惑がかかるようなことがあれば、私はもうすでに五度も車内に戻るように注意されているのに、私がその警告に従わなかったと説明します。ですから気にしないでいただきたい。ありがとう、伍長」
 それは、いまから四十年も前のことですが、私が初めて軍規に従わなかった出来事でした(もっとも、そのときの私は警備兵よりも身分の高い中尉でしたから、なんということもなかったのですが・・・・・・)。それは同時に美しいものを大切にしようとするその後の生活の始まりともなりました。


 著者ノエル・ペリンは、小さな農場で牛を飼いメイプルシロップなどを作るなどの田園生活を送ったのだが、その生活を題材にしたエッセイ集も出している。
 その出発点が、朝鮮戦争に従軍する際に経由した日本で見た田園風景だった、ということか。

 それでは、本編にそろそろ入ろう。

 「初めに 世に知られていない物語」から。

 本書が物語るのは、ほとんど世に知られていない歴史上の出来事である。高い技術をもった文明国が、自発的に高度な武器を捨てて、古くさい武器に逆戻りする道を選んだ。そしてその国日本はこの逆戻りの道を選びとって成功した。この物語は、核兵器についての今日のディレンマー核が人類の輝かしい科学技術の進歩の象徴であると同時に、人類の絶滅の象徴でもあるというディレンマーにそのまま通用するわかではないにしても、類推をたくましくすれば、核兵器の廃棄という類似の事態を考える余地は十分にある。それゆえ、この話はもっとよく知られる価値がある。
 読者がこの物語を理解するに当たっては、日本史のほんのわずかな知識があれば十分である。

 この“日本史のほんのわずかな知識”、それほど、“わずか”とは言えない。

 日本人は、西暦八世紀頃から高い文化と技術ーとはいっても工業化以前の技術だがーをもっていた。その頃から数えて八百五十年あまり、日本はヨーロッパから完全に独立した発達をとげた。しかし日本の歴史にはヨーロッパの歴史と似たところがあった。というのはその間に日本は、ヨーロッパの騎士に似た甲冑に身を固めた武士のいる、まぎれもない封建社会を生み出したのである。日本人の武器のなかにはヨーロッパ人の武器に優るものさえあった。騎士道に似た武士道も存在した。複雑な宗教制度と多数の寺院をもち、その多くは、ヨーロッパで言えば聖フランシスのリトル・ブラザーズの平和主義の伝統というよりも、むしろかのテンプル騎士団の戦闘的な伝統に近いものをもっていた。日本人は莫大な富ももっていた。しかし、こと鉄砲については、これを持っていなかったのである。


 次回は、ようやく(?)鉄砲伝来のことについて。

by kogotokoubei | 2019-08-21 12:47 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 三遊亭圓生の『江戸散歩』の川本三郎の解説の中で、ノエル・ペリンの『鉄砲を捨てた日本人』のことにふれていたことを以前紹介した。
2019年7月27日のブログ

 この本、久しぶりに再読。

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ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人』

 初版は1984年に紀伊国屋書店から発行されているが、私が読んだのは、1991年の中公文庫版。
 副題は、「日本史に学ぶ軍縮」。

 著者は、1927年ニューヨーク生まれで、ダートマス大学英米文学教授だった方。環境科学も教えていたらしい。
 小さな農場でメイプルシロップをつくるなどの田園生活は、エッセイにもなっているとのこと。

 本書の一部は、The New Yokerに最初掲載されたようだ。
 
 ちなみに翻訳は、現静岡県知事の川勝平太。

 著者は、日本語版への序文に、このように書いている。

 日本はその昔、歴史にのこる未曾有のことをやってのけました。ほぼ四百年ほど前に日本は、火器に対する探求と開発を中途でやめ、徳川時代という世界の他の主導国がかつて経験したことのない長期にわたる平和な時代を築きあげたのです。わたくしの知るかぎり、その経緯はテクノロジーの歴史において特異な位置を占めています。人類はいま核兵器をコントロールしようと努力しているのですから、日本の示してくれた歴史的実験は、これを励みとして全世界が見習うべき模範たるものです。ささやかながら、本書もまた日本の経験をめぐって執筆したものです。
 この場をかりて敢えて希望を申し述べることが許されますならば、日本にいま一度新しい模範を示していただけないものか。日本が国の栄誉のために自衛隊の増強を決めたとしても、それはそれで仕方がありません。外部からとやかくいうべき筋合いのものではまったくないからです。それでもなおわたくしは、ワシントンの野心家の機嫌をとるだけのために日本が新式兵器に金をかけることのないよう、貴国に希望を託しています。

 1984年2月24日と記されているが、この著者の願いは、今でも妥当性のあるものだ。

 8月6日と9日、広島、そして長崎でのこの国のリーダーの言葉は、残念ながらノエル・ペリンが託した希望に沿うものではなかった。

 なぜ、唯一の被爆国の責任者が、核兵器廃止を大きな声で叫ぶことができないのか。

 なぜ、いまだに“ワシントンの野心家”の機嫌をとって、新式兵器を購入するのだろうか。

 鉄砲を捨てたある国の歴史のことを、次回からご紹介したい。


by kogotokoubei | 2019-08-19 12:58 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

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森まゆみ著『明治東京畸人傳』(新潮文庫)
 その本は森まゆみさんの『明治東京畸人傳』。

 平成八年単行本、平成十一年の文庫化。森さんの住んでいる‘谷根千’近辺に縁のある人々について書かれた本。

 この本から、新宿・中村屋の創業者、相馬愛蔵と黒光夫妻について二回目。

 明治三十九年の暮れ、本郷で居抜きのパン屋を買い、屋号もそのまま中村屋として、なんら経験もないまま、二人が商売を始めた。

 研究熱心な愛蔵は理づめで商売を考える。先代中村萬一氏はなぜ失敗したのか。検討して次のような戒めとした。
  営業が相当目鼻がつくまでは衣服は新調しないこと。
  食事は主人も店員女中も同じものを摂ること。
  将来どのようなことがあっても、米相場や株には手を出さぬこと。
  原料の仕入れは現金値引きのこと。
 書生あがりのパン屋ということで、雑誌社の取材もあった。同じく女学生あがりの妻良は「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」がいえず、家の近くの太田ヶ原(旧太田摂津守邸跡)でひそかに声を出して練習したという。一高の茶話会の注文もあって商売は順調にのびていく。

 相馬愛蔵という人、なかな骨太な男だったようだ。

 この人は、古今亭志ん生が生れた明治23(1890)年に東京専門学校を卒業すると同時に北海道に渡り、札幌農学校で養蚕学を学んだ。
 その後、安曇野に帰郷し蚕種の製造を始め、『蚕種製造論』を書いて注目されたとのこと。
 また、禁酒会をつくって、地元の若者にキリスト教と禁酒を勧めたり、村に芸妓を置く計画に反対して廃娼運動も行うなど、社会運動家の顔も持つ。

 個人的には、その潔癖な姿勢に必ずしも好感が持てるわけではないが、自分の哲学を持ち、世間の風潮に染まらない姿勢は、見習うべき点だと思う。

 引用を続ける。
 愛蔵は「士農工商」の身分秩序や「うまくごまかして儲ける」という商売道に反抗し、「人格と道徳」を商売の基礎においた。リベートやコミッションの要求は拒否し、客に対しても対等に接し、客のわがままは許さなかった。店員を芝居や相撲につれていくときはかならず一等席とし、卑下した気持ちにさせなかった。禁酒運動に参加したくらいだから、もちろん店には酒類は置かない。こんなふうに商売を近代化したのである。

 こういった経営者、そうはいない。

 特に、飲食業でこのような経営方針を掲げることは、実に稀なことだと思う。

 今日の“ブラック”といわれる飲食業界のトップに、相馬愛蔵という経営者のことを知って欲しい。

 愛蔵、『私の小売商道』という文の中でこんなことを書いていると、森さんが紹介している。

「すべて日本人の弱点として、アメリカやイギリスを真似て得意がると同様に、地方ではやたらに『東京を真似る』ので地方の特色を失って行く。封建時代は地方地方の名産がまことに特色があり、如何にもその土地らしいにおいがして、ちょっと旅をしてもどんなに趣き深いことであったろう。それが現在では日本が一律に単調化し、平面化しますますその味わいを失って行く。文明、人物、みなこの名物の例に異らずである」

 昭和27年に書かれたもの。

 なお、『私の小売商道』は、青空文庫で読むことができる。
青空文庫・相馬愛蔵『私の小売商道』

 さて、愛蔵の経営哲学を土台にし、中村屋はどんなお店になっていくのか。

 さて本郷の中村屋は間口三間半、家賃十三円、一日の売上げは店売り八円、配達と卸売りで五円、合計十三円。つまり月の家賃は店の一日の売上げと同額なのが、商売の基本と愛蔵は考えた。そして三年目に、アンパンのあんをクリームに替えたクリームパン、ジャムとクリームに替えた「クリームワップル」を売り出して大当たり。そのため人手が目に立って、税務署のにらむところとなった。このとき売上げを正直に申告したため、また大変な税金を払わなくてはならなかった。
 中村屋は、日露戦争後の明治四十年、新開地の新宿に支店を出し、そちらを本拠地としていく。翌年、安曇野時代からの夫婦の友、荻原守衛(もりえ)が、ヨーロッパから帰り、新宿角筈(つのはず)にアトリエを建て毎日中村屋に通う。またその関係で中村彝(つね)、中原悌二郎、戸張孤雁(こがん)、柳敬助ら、新進美術家たちが中村屋に出入りするようになり、黒光も愛蔵も彼らを助けた。しかし四十三年までは、住いは本郷団子坂坂上であったようだ。

 この後、黒光は一存で娘俊子を亡命者ボーンに縁づけたことなどとともに、やや周囲に誤解を与える人物でもあったことが紹介され、森まゆみさんは、こう書いている。

 黒光は何か心に大きな空白感を抱いていた女性のように思われる。満たされぬものをつねに外に向う情熱としていった。
 (中 略)
 理知的で寛大な愛蔵、情熱的で唯我独尊の黒光。まさに反対だった。黒光の方がずっと有名だが、私はじつは愛蔵がエラかったのではないか、と思っている。

 “まさに反対”だったから、良かった、ということでもあろう。

 愛蔵は、今日の日本が、ますます一律に単調化、平面化が進んでいる状況を見たら、いったいなんと言うだろうか。

 昭和29(1954)年に、愛蔵は84歳で亡くなり、後を追うかのように、その翌年、黒光は79歳で旅立っている。

by kogotokoubei | 2019-05-24 21:18 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 NHKの朝の連続小説「なつぞら」で、新宿・川村屋というお店が舞台の一つとなっている。

 どう考えても、このお店のモデル(モチーフ?)は、新宿・中村屋。

 ある本に、中村屋の創業者のことが書かれていたことを思い出した。

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森まゆみ著『明治東京畸人傳』(新潮文庫)
 その本は森まゆみさんの『明治東京畸人傳』。

 平成八年単行本、平成十一年の文庫化。森さんの住んでいる‘谷根千’近辺に縁のある人々について書かれた本。

 この本からは、以前、圓朝作『松と藤芸妓の替紋』のことを紹介したことがある。この本を読んで、残念ながら行けなかったが、むかし家今松が独演会でこの噺をネタ出ししていたことを思い出して書いた記事だった。
2017年5月20日のブログ


 この本の中に、「相馬愛蔵・黒光夫妻の駒込千駄木林町十八番地」という章がある。

 冒頭部分から引用する。

 新宿中村屋のカリーライス、といえばいまも名物だが、戦前はとりわけハイカラでお洒落な食物だった。これは、絵描き中村彝(つね)や柳敬助、彫刻家荻原碌山らのパトロン、というか支援者であった中村屋の女主人相馬黒光が、インドの亡命者ラシュ・ビハリ・ボースのつてで純印度式を仕込んだものという。
 黒光はボースをかくまい、のちに娘俊子を彼に嫁がせている。また盲目のロシアの詩人エロシェンコの世話もしたが、その縁でボルシチをメニューに入れ、店員にルバシカを着せることを取り入れている。ピロシキも売り出した。しいていえば、こうした国際的な交友とその産み出す伝説で、ちゃんと商売のもとは取っていたといえるのだろう。ついでに、新宿中村屋では、いまも「碌山」「黒光」とい名付けた和菓子を売っている。
 上階のレストランには、先にあげた中村屋ゆかりの美術家の作品が飾られ、食事をしながら、絵を楽しむこともできる。

 カリー、ボルシチやピロシキなどのメニューには、中村屋の歴史が込められている、ということか。

 ホームページには、大正四年と五年に出来事として、ボース、エロシェンコのことも紹介されている。
新宿中村屋のサイト

 黒光の夫は、相馬愛蔵。

 ふたたび、引用。

 黒光は仙台藩の漢学者・星雄記の孫として明治八(1875)年、広瀬川の畔(ほとり)に生れた。本名を良(りょう)という。高等小学校時代にキリスト教に触れ、上京して横浜のフェリス女学校、そして麹町の明治女学校で学ぶ。このとき、すでに布施淡(あわし)という画家の恋人がいた。
 しかしこの恋は実らず、安曇野の旧家の生れで東京専門学校(いまの早稲田大学)を卒業した相馬愛蔵と結婚。このとき良は都会の生活に嫌気がさしていて、長野の自然の中での生活こそ、と小さなオルガンと柳行李一つで穂高に向かう。

 本書には出会いのことは書かれていないが、愛蔵が募金活動で仙台を訪ねた際に、二人は会ったようだ。

 本書掲載と同じ二人の写真をWikipediaで発見。
 すでに著作権切れとのことでお借りした。
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                相馬黒光
ウィキメディア・コモンズの該当ページ

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                相馬愛蔵
Wikipedia「相馬愛蔵」

 黒光、なかなかの美人。

 さて、都会を嫌い憧れた信濃での生活だったが、黒光は、農村の生活に馴染めず、健康も害して、仙台の実家で静養してから、愛蔵と二人、ふたたび上京。

 明治三十四年九月、二人で東京の土を踏んだとき、はじめて借りたのが、本郷団子坂上、駒込千駄木林町十八番地の借家であったという。

 ということで、著者森まゆみさんの守備範囲(?)になったということ。

 二人は、コーヒー店をやろうと思いついたのだが、近くの本郷五丁目には、淀見軒というミルク・ホールがすでにあったし、その前には森鴎外なども通った洋風喫茶・菓子店の青木堂もあり、断念。

 次に「パン屋」を思いつく。当時、パン屋は在留の外国人家庭から、次第にインテリ層の生活に入り込みつつあった。果して一時の流行か、食事として定着するのか。二人はさっそく、その日から、三食のうち二食をパンにしてみた。砂糖、胡麻汁、ジャムなどを副食とした、煮炊きの手間はかからぬし、「突然の来客の時など、ことに便利に感じられた」という。
 二人が東京帝国大学正門前の中村屋を譲り受けたのはその年の暮、十二月三十日である。試食のパンを買った店だし、立地は良い。繁盛していたからまさかと思ったが、主人が相場に手を出して失敗したのだという。さっそく居抜きを七百円で買う。屋号はそのまま引き継いだ。

 ということで、新宿に移っても、その屋号を継続したわけである。

 その新宿での出来事などは、次回。


by kogotokoubei | 2019-05-23 20:47 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(6)
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ドナルド・キーン著『二つの母国に生きて』

 ドナルド・キーン『二つの母国に生きて』は、初版が昭和62(1987)年の朝日新聞から単行本で発行され、平成27(2015)年に朝日文庫にて再刊。

 1980年代に書かれた文章を中心に編集された本。

 本書からの、二回目。

 「戦争犯罪を裁くことの意味」(1983・5・27)の章から。

 ドキュメント・フィルム『東京裁判』を見ながらさまざまの思い出が甦った。とはいえ、私は裁判と関係したわけではない。当時の占領軍の方針として宣教師や貿易商以外の外国人を日本に入国させなかったが、裁判の通訳は入国できたので、一日も早く日本へ行きたがっていた私は募集に応じた。しばらくして採用通知があったが、迷いに迷ったあげく、断りの電報を打った。日本へは行きたかったが、戦犯を裁くことについての疑問があまりにも深すぎたので、通訳としても参加したくなかったのだ。
 当時の私の考え方は終戦直後、友人に出した手紙の中に手短に書いてあるから引用する。
「日本の指導者たちを“戦争犯罪人”の名の下に処罰するのは、名目がいかに高尚な響きを持つものであっても、結局は、人類の歴史が始まって以来、多くの国々が行ってきたことを繰り返すことにすぎない。もし、征服された民族の犯罪のみならず、イギリス人がインドや香港で犯した罪、フランス人がシリアで犯した罪、ロシアが東ヨーロッパで犯した罪、そしてアメリカが無防備の住宅地に住む日本人たちに爆撃を浴びせたことなどが問われるのであれば、この戦争裁判は新しい時代の幕開けを象徴するものであるという言葉は、それなりの意味を持つ。しかし、今回の戦争裁判は、実際には終戦を祝う儀式として開かれるものであり、例によって敗戦国非難と自己満足の精神に満ち満ちているのだ」(1945年9月23日付の書簡。オーテス・ケーリ編『天皇の孤島』に収録。1977年、サイマル出版会)

 終戦直後に書かれた書簡の内容が、キーンさんの戦争への一貫した思いを表していると思う。

 なお、この書簡を含む本の編集者のオーテス・ケーリは、キーンさんアメリカ海軍日本語学校の同級生。二人は、通訳として従軍する戦友だった。
 書簡の宛先は、きっとケーリだったのだろう。
 ケーリは戦後、同志社大学で教授を務めた。
 ケーリも貴重な記録を著作で残している。後日、紹介したいと思っている。

 さて、本書からの引用を続ける。

 戦時中、私は日本軍が戦場に残した書類の翻訳をしていた。日記の中に、アメリカの飛行士が捕虜になった後、死刑に処されたという記入が時々あった。私はこうした事実を知った時、人道にそむく行為であり、明らかな犯罪だと信じていた。しかし、戦争末期、アメリカの飛行機が日本の都市の無差別攻撃を行うようになった段階、それも犯罪ではないかと思い、自分の正義感に迷いが生じた。

 この文章を読んで、私は数年前にCSで観た、ある映画を思い出した。
 藤田まことが主演の『明日への遺言』だ。大岡昇平の小説『ながい旅』を原作に、2007年に製作された映画。
 昭和20年5月14日の名古屋空襲の際に、撃墜され捕虜となったB29の搭乗員を処刑したため、B級戦犯となった軍人の裁判を中心とする物語だった。
 陸軍中将の岡田資(たすく)は、戦犯裁判において、米軍の空襲について「一般市民を無慈悲に殺傷しようとした無差別爆撃である」とし、「搭乗員はハーグ条約違反の戦犯であり、捕虜ではない」と徹底的に主張した。岡田は、これを『法戦』と呼び、検察や米軍関係者による爆撃の正当化を批判、捕虜虐待の罪に付いても全面的に争った。
 藤田まことが亡くなる二年前の迫真の演技が、印象に残っている。
 岡田資のことや、大岡昌平の本のことは、また後日書こうと思う。

 さて、キーンさんの本からの引用を続ける。

 人間の想像力には限界がある一人の軍人が敵の軍人を殺す、または同じ軍人が壁の前に立たされた何の防備も持たない民間人を銃剣で刺し殺すことを想像するのは、それほどむずかしくない。現に、終戦直後、私が中国の青島に駐在していた時、似た話を多き聞いた。日本の兵士の戦意を高めるために、何の罪もない中国人を逮捕し、銃剣の練習の対象とした日本軍人にも会い、号令をかけた海軍大尉をも尋問した(彼は、弾丸が足りなかったためそうさせたと私に語った)。殺された中国人の死体から肝を切り取って薬にした日本兵にも会った。
 これらの戦犯を調べていた時、何回もぞっとしたことがあるが、犯罪そのものは想像することができた。しかし、一万メートルの高度でハンドルを回して巨大な爆弾を投下する飛行士の犯罪の大きさは想像できなかった。数万人が焼死した場合でも、爆弾が目標をはずれて海に落ちた場合でも、殺戮を意図している以上、犯罪性は変わらないといえるかどうかーこれは並の想像力をはるかに超える難問である。

 上空から爆弾を投下することの犯罪の大きさを想像できないとしたキーンさん。
 では、あの湾岸戦争で、まるでテレビゲームのよう、と形容されたハイテク機器による戦争に、どんな感想を述べていらっしゃたのだろうか。

 ボタン一つで、何万、何十万人の生命を奪う時代。
 その危機は、まだ続いている。

 キーンさんは、この章を次のように締めくくっている。

 言うまでもなく、国家が存在する限り、国と国との摩擦が起ころうし、また、人間に攻撃性がなくなるまで“実力”で摩擦を解決しようとする傾向も残るだろう。しかし、攻撃性を法律で限定するように、戦犯裁判で戦争を政治手段として利用する指導者をある程度まで限定することもできるはずである。そして現在の日本における反戦思想が根強いのは東京裁判とも無関係ではなかろう。
 現在の私は、三十八年前の私ほど自分の見解に自信がない。今も一方的な裁判に深い疑問を抱き、『東京裁判』を見ながら、あらゆる偏見や政治的配慮が公平な裁判を妨げたことが改めてわかったが、欠点だらけの国連でも、あることがないよりはましだと思うと同様に、あの悪名高き裁判にも戦争を不法行為として告発しただけの意義はあると信じたいのである。

 “意義はあると信じたい”との思いを、残された日本人は、大事にしなくてはならないだろう。

 あの裁判を批判する人々は多い。
 もちろん、戦勝国による敗者への不公平な見せしめの行為、という側面はあるだろう。
 しかし、東京裁判で裁かれた日本の戦争指導者や、米軍捕虜への対応により戦犯となった岡田資のことなども含め、一連の戦犯裁判を明日につなげるためには、戦争そのものがすべての元凶であり、何としてても、戦争を起こしてはならない、ということだ。
 もちろん、何百万人という犠牲者のことを忘れず、反戦の声を上げ続けることが重要だ。

 キーンさんが、信じたかったのは、そういうことだったと思う。

by kogotokoubei | 2019-03-05 12:36 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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ドナルド・キーン著『二つの母国に生きて』

 ドナルド・キーン『二つの母国に生きて』は、初版が昭和62(1987)年の朝日新聞から単行本で発行され、平成27(2015)年に私が読んだ朝日文庫にて再刊された。

 1980年代に書かれたものを中心に編まれた本だ。

 最初の「なぜ日本へ?」-1985・4-からご紹介。

 一年のほぼ半分を東京で暮らすようになったのは、1971年以来のことである。それまでは、毎年、九月から五月までコロンビア大学で教鞭を執り、夏の間の約三ヵ月を日本で過ごしていた。初めのうちは京都に滞在したが、後には東京で暮らすようになった。しかし、やがて、日本の春や秋が味わえないことに苛立ちを覚えるようになった。いっそのことコロンビア大学で教えるのをやめてしまおうかとまず考えたが、そのうちに大学のほうで、一年のうち一月から五月にかけて教壇に立つだけでいいと言ってくれた。
 先生はなぜ、それほど多くの時間を日本で過ごしたいのですか、とよく訊かれる。
 (中 略)
 東京にいるときのほうがより幸福である理由を説明する際、私はまず幾つかの否定形を使った答えを並べ立てるのを常としている。すなわち、東京では、夜遅く暗い通りを独りで歩いても少しも心配する必要がない。東京の地下鉄は落書きで汚されているということもないし、乗客たちにしても、突如として暴力を振るいそうな不穏な様子はない(最近、日本では車内暴力が頻発しているようだが、そのスケールはニューヨークに遠く及ばない。ニューヨークでは凶悪な死傷事件が日常茶飯事なのである)。東京の冬はニューヨークの冬ほど寒くはないし、夏も、ニューヨークの夏と同じように暑いけれど、猛暑はそれほど長く続かない、等々。
 しかし、これら否定形を用いた答えは、苦痛がないことを示唆するものではあるが、積極的に喜びや楽しさを語るものではない。人々に得心してもらうためには、東京における生活の楽しさを語らなければならないだろう。

 この後、その東京、あるいは日本で暮らす楽しさとして、挙げられるのは、次のようなこと。

 ・たった一、二度しか会ったことのない人から親切にされること
 ・ニューヨークでは、銀行の現金自動支払機のトラブルで行列ができた際、行員に
  声をかけると「私の仕事にあれこれ口出ししないでほしい」と言われ、他の仕事を
  片づけるまで、機械を直そうとしなかった。それに比べて、数ヵ月前に日本の銀行で
  同じような機械の故障に遭遇した際、担当者が一生懸命に直そうとし、時間はかかった
  が、しきりに彼は客に詫びを言い、だれ一人として文句を言わなかった
  「この種のささやかな出来事も、日々繰り返されると、その都会の印象の一部として定着」
  すると述懐する。

 そして、その後、こう続けている。

 日本で暮らしたいと思う本当の理由は、自分の専門分野だけではなく、日本に関してできるだけ様々なことを学びたいという気持ちが依然として強いからである。

 あらためて確認するが、この文章が書かれたのは、1985年4月。

 「ドナルド・キーン・センター柏崎」のサイトにある年譜を引用する。
「ドナルド・キーン・センター柏崎」のサイト


1983年(61歳)
   山片蟠桃賞、国際交流基金賞受賞。
  (執筆)
   7月4日~1984年4月13日、「百代の過客 日記にみる日本人」朝日新聞・夕刊、(全185回)。
  (日本人の質問 』 朝日選書。

1984年(62歳)
 『百代の過客』により読売文学賞、日本文学大賞受賞。
  (執筆)
  『百代の過客 日記にみる日本人』朝日選書。
  英語版 "Travelers of a Hundred Ages" NewYork:Henry Holt and Company,1989。

1986年(64歳)
  コロンビア大学に「ドナルド・キーン日本文化センター」設立。
  アメリカン・アカデミー会員(文学部門)に選ばれる。
  春、米ニューヨーク市立図書館、「日本の美学」('Japanese Aesthetics')米カリフォルニア
  大学ロサンゼルス校、「日本の詩」('Japanese Poetry')、「日本の詩の有用性」
  ('TheUses of Japanese Poetry')。
  「日本の小説」('Japanese Fiction')
  8月7日、日本近代文学館主催「夏の文学教室」で「ローマ字でしか書けなかった啄木の真実」
  講演。
  10月8日、国際シンポジウムあまがさき(兵庫県尼崎市総合文化センター)
  「世界のなかの近松―悲劇の条件について」
  10月26日、愛媛県松山市立子規記念博物館開館五周年記念講演、「外国人と俳句」
  10月13日~1987年10月29日「続百代の過客 日記にみる日本人」朝日新聞・夕刊、(全234回)
  (執筆)
   『少し耳の痛くなる話』新潮社。


 前年に『百代の過客』が複数の賞を受賞し、翌年にはコロンビア大学に「ドナルド・キーン日本文化センター」ができるという、そんな研究者として絶頂に近い時期だ。

 年齢は、今の私とほぼ同じ、還暦を少し回った時期。

 そんな時期においても、

 “日本に関してできるだけ様々なことを学びたいという気持ちが依然として強い”キーンさんは、次第に生活の基本をアメリカからニューヨークに移していく。

 「文庫版あとがき」(2015年6月)から引用。

 約三十年ぶりで『二つの母国に生きる』を読み出した時、きっと私は日本がどんなに変わったかを発見するだろうと予想していた。無論、その間に目立った変化が充分にあったことは確かだが、この本を書いた今の“私”は、不思議にこの本を書いた頃の当時の“私”に似ていた。その時書いた冗談は現在でも通じそうで、読みながら笑った。
 しかし大きな変化もあった。この本を書いた頃、毎年の四、五カ月間をニューヨークで過ごし、コロンビア大学で教え、残りの月は東京に滞在していた。そしてニューヨークと東京両方に住居があることを喜んでいた。ところが、もしもなにかの理由で、どちらかにずっと十二ヵ月間を過ごすことを決める必要があったらどうしよう、と自問した。この本の中で私は、その場合東京にする、と書いた。そうしてその通りになった。
 今年はニューヨークに十日間程度しか滞在しなかった。三年前に日本の国籍を取得してからはニューヨークには家がない。このことを知った日本の友人は私に対する態度を変えた。以前は「何時(いつ)アメリカへ帰りますか」と問われたものだ。しかし、国籍を所得してからは私の住まいは東京だけなので、時折ニューヨークと東京を往復することはあるだろうが、帰る国は日本であると認めた。

 キーンさんが、日本国籍を取得したのは、2011年3月11日の後のこと。

 それ以前から、日本国籍を取得しようと思っていらっしゃったようだが、東日本大震災が、その行動を後押ししたようだ。

 震災後、日本国籍を取得した後に東北を訪れたキーンさんの言葉を、JIJI.COMより。
JIJI.COMの該当記事

 東日本大震災をきっかけに日本への移住を決めた日本文学研究の大家ドナルド・キーン米コロンビア大学名誉教授(89)が2011年10月19日、訪問先の仙台市内で記者会見し、「東北全体に美しい町をつくってほしい」と述べ、復興に期待感をにじませた。
 松尾芭蕉の「おくのほそ道」の英訳でも知られるキーン氏は、「東北に深い関心を持っている。仙台は『杜(もり)の都』という名前もあり、そうした伝統を復活させてほしい」と強調した。また、「災難に際して、日本人は落ち着いて、順序良く自分たちのやるべきことをやったということが世界的に知られるようになった。日本人への尊敬は以前に比べ何倍にもなった」と語った 【時事通信社】


 多くの海外からの駐在者などが、震災と原発事故の恐怖から日本を離れたことを考えると、キーンさんの行動の貴重さが分かる。
 
 第一回目は、これにてお開き。

by kogotokoubei | 2019-03-04 12:21 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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勝小吉『夢酔独言』

 勝小吉の自叙伝『夢酔独言』からの七回目、最終回。


 十四歳の時、家を飛び出した小吉。
 さまざまな体験をし、また、いろんなご縁に助けられ、四ケ月ぶりに帰宅。

 大事な所に怪我をしたこともあり、十日ばかり寝ていた。
 
 夫から親父が、おれの頭石川右近将監に、かへりし由をいって、「いかにも恐入る事故に小吉はいん居させ、外に養子にいたすべき」といったら、石川殿が、「今月かへらぬと月切れ故、家は断絶するが、まづゝゝかへって目出たい。夫には及ぬ。年取りて改心すれば、おやくにもたつべし。よくゝゝ手当してつかわすべし」とていわれた。夫で一同安心した、とみんなが咄した。

 小吉、結構締め切り寸前での帰宅だったようだ。
 また、頭(小普請支配)の石川が、寛容だったことにも救われたと言えるだろう。

 NHKのBS時代劇「小吉の女房」には、高橋和也演じる、小吉の幼なじみの石川太郎左衛門が登場するが、これは脚本家の創作だろう。

 小吉にとっての“石川”は、小普請支配だった石川右近将監のこと。
 ただし、右近ではなく、左近。

 本名は石川忠房で、宝暦五(1756)年生まれ。だから、享和二(1802)年に小吉が生まれた時、すでに四十六歳。
 数え十三での小吉の家出と想定すると、その時、石川はほぼ還暦。
 幼名は太郎右衛門。

 脚本家が、右を左に変えて、小吉の幼馴染という設定にしたのだろう。

 この人は、有能な旗本で、北海道の松前に派遣された時、ロシアに漂流しエカテリーナⅡ世に謁見した大黒屋光太夫を受取っている。
 歌人でもあり、北海道大学附属図書館に松前派遣時の和歌集がある。

 その後、勘定奉行なども務めた人だ。

 それだけの大物だから、小吉の不良ぶりも、広い心で許してあげたということか。
 しばらく後に、小吉は石川と対面することになる。

 十六の年には漸々しつも能(よく)なったから、出勤するがいゝといふから、逢対(あいたい)をつとめたが、頭の宅で帳面が出ているに銘々名を書くのだが、おれは手前の名がかけなくってこまった。人に頼んで書て貰た。
 石川が逢対の跡で、「こじきをした咄をかくさずしろ」といったから、はじめからのことをいったら、「能く修行した。今に御番入をさせてやるから心ぼうをしろ」といはれた。

 逢対とは、小普請組という無役の旗本が、御番入、役に就いて仕事をするために、支配や組頭が出勤するのを見送りに行ったり、御機嫌伺いをする、いわば、就職活動。

 「小吉の女房」でも、小吉が逢対に出かける場面があった。

 逢対で、石川忠房が小吉の旅の話を聞いてくれた時は、小吉もさぞ喜んだだろう。
 しかし、成果は、なかなか出なかった。
 石川は、松前では大黒屋光太夫から、ロシアの旅のことも聞いていたはずなので、ミニ光太夫と話すような興味本位の感覚だったのかもしれないねぇ。

 そういう石川の慈悲があったにもかかわらず、小吉の不良ぶりは、変わらない。
 十六で、吉原も初体験している。

 また、喧嘩にも精を出した(?)。

 これは、喧嘩の師匠に出会ったことも大きいかもしれない。

喧嘩の師匠・源兵衛

 或日、おれの従弟の処へいったら、其子の新太郎と忠次郎といふ兄弟があるが、一日いろいろのはなしをしていたが、そこの用人に源兵衛といふがいたが、剣術遣ゐだといふことだが、おのれにいふには、「お前さまはいろいろとおあばれなさり舛が、喧嘩はなしましたことがあり舛か。是は胆がなくってはできません」といふから、「おれは喧嘩は大好きだが、ちいさい内から度々したが、おもしろいものだ」といったら、「さやうで御座舛か。あさっては蔵前の八幡の祭があり舛が一喧嘩やしましやうから、一所にいらしゃっひまして、一勝負なさいまし」といったから、約束をして帰った。

 この“従弟”の子の新太郎が後の精一郎、「幕末の剣聖」と言われた男谷信友だろう。

 その信友は小吉の四歳年上、年齢も近く、少年時代は小吉と一緒に暴れていたわけだ。

 さて、八幡さまの祭での喧嘩のこと。

 其日になりて夕方より番場の男谷家へいったら、先の兄弟もまっていて、「よく来た。今、源兵衛が湯へいったから帰ったら出かけよふ」と支度をしていると、間もなく源兵衛が帰った。夫より道ゝ手はづをいゝ合て八幡へいったが、みんなつまらぬやつ斗りで、相手がなかったが、八幡へはゐると、向ふよりきいたふうのやつが二、三人で鼻歌をうたって来る故、一ばんに忠次郎がそゐつへ唾を顔へしかけったが、其野郎が腹を立て、下駄でぶってかゝりおった。そふするとおれがにぎりこぶしで横つらをなぐってやると、跡のやつらが総がかりにぶってかゝりおるから、目くらなぐりにしたら、みんなにげおったゆへに、八幡へいってぶらぶらしていると、二十人ばからい長鳶を持てきおった。
 「なんだ」と思っていると、壱人が、「あの野郎だ」とぬかして四人を取りまきおった。夫から刀をぬいて切りはらったら。源兵衛がいふには、「早く門の外へ出るがいゝ。門をしめると取りこになる:と大声でいふから、四人が並で切り立て、門の外へ出たら、そいつらが加勢と見へて、また三十人斗りとび口を持て出おったから、並木の入口の砂場蕎麦の格子を後ろにして、五十人斗を相手にしてたゝきあったが、一生けん命になった。
 四、五人ばかりきづを負はしたら、少し先がよわくなったゆへ、むやみにきりちらし、とび口を十本ほどもたゝき落した。そふするとまたゝゝ加勢が来たが、はしごを持て来た。
 其時源兵衛がいふには、「最早かなわぬから三人は吉原へにげろ。跡は私がきりはらい帰るから」と「早くゆけ」といったが、三人ながら源兵衛ひとりをおくを不憫におもひ、「一所におひまくって、一所ににげよふ」といったら、「おまへさん方は、けがゝ有ってはわるいから、是非早くにげろ」とひたすらいふゆへ、おれが源兵衛の刀がみぢかひからおれの刀を源兵衛のい渡して、直々に四人が大勢の中へ飛こんだら、先のやつはばらばらと少し跡へ引込だはづみに、にげだして、漸々浅草の雷門で三人一所になり、吉原へいったが、源兵衛がきづかはしいから引きもどして、番場へいって飯をくおふとおもっていったら源兵衛は内へ先へ帰って、玄関で酒を呑んでいたゆへに、三人が安心した。

 四人対五十人、の喧嘩。
 この後、小吉たちは源兵衛と八幡の前にある自身番に行ってみると、大勢の人が集って、喧嘩のことを話しているのを耳にする。
 
 そこへいって聞いたら、「八幡で大喧嘩があって、小揚の者をぶったがあじまりで、小あげの者が二、三十人、蔵前の仕事師が三十人ばかりで、相手をとれへんとしてさわいだが、とふゝゝ壱人もおさへずにがした。その上にこちらは十八人ばかり手負が出来た。今外科がきづを縫ている」といふから、四人ながら内へかへって、おれは亀沢丁へかへったが、あんなひどひことはなかったよ。

 “あんなひどひこと”とは、誰にとっての言葉なのか・・・・・・。

 この翌年、十七歳の時、小吉は新太郎と忠次郎の家へ行き、忠次郎と剣術の手合わせをしたら、「出会頭に胴をきられ」て、気が遠くなった。
 その後も、一本も忠次郎を打つことができず、「夫から忠次にきいて団野へ弟子入にいった」。

 この団野とは、団野源之進のこと。
 宝暦十一(1761)年生まれというから、小吉が入門した時は、五十も半ばだった。
 この人、終生浪人だった人で、直心影流五代の赤石郡司兵衛の弟子で、六代目を継いだ。
 安政元(1854)年に、道場を男谷精一郎(信友)に譲り、翌年没したとされる。
 九十歳を超えての往生。

 団野の道場で、腕を磨いた小吉は、数々の他流試合に挑んでいる。いわば、道場破り、だね。

 結局、本所では小吉にかなう者はいなくなった。

 その後の、小吉のしばらくの行動を、本書巻末の「夢酔年譜」から、拾ってみる。

文政元(1818) 十七歳 刀の鑑定を学ぶ。兄と信州へ行き、十一月江戸に帰る。

文政二(1819) 十八歳 信州の兄の所へ行く。実母没す。江戸へ帰る。兄と越後蒲原郡水原の
          陣屋へ行く。この年身代(世帯)を持ち兄の所は移る。

文政五(1822) 二十一歳 再び江戸を出奔、上方をさして東海道を行く。七月江戸へ帰り、
          父に檻に入れられる。

 なんと、十四の時に続き、二十一歳でも、家出をしているのだ。

 それは、小吉を慕う連中がいて、どうしても無理をしまったり、気晴らしに吉原へ通ったりするうち借金がかさみ、にっちもさっちも行かずに、父親から譲られた刀などを質に入れての旅だった。

 無役で、心理的にも、兄の家にはいずらい毎日を送ってもいたのだろう。

 この時は、まず最初に、小田原で十四の時の旅で世話になった喜平次に家に行ってご馳走になり、掛川では、江戸で世話をした息子のいる神主の家に逗留したり、また、途中の宿では、水戸藩侍と嘘をついてはただで泊まっていたので、七年前のように乞食をしながらの旅とはまったく違うのだが、帰った時に、さすがに父は怒った。
 
 小吉は、父の隠居所に呼ばれた。

 親父がいふには、「おぬしは度々不埒があるから先(まず)当分は逼塞して、始終の身の思案をしろ。しょせん直には了簡はつく物ではないから、一両年考て見て、身のおさまりをするがいゝ。兎角、仁は学問がなくってはならぬから、よく本でも見るがいい」といふから内へ帰ったら、座敷へ三畳のおりを拵え置て、おれをぶちこんだ。
 それから色々工夫をして一月もたゝぬうちおりの柱を二本ぬけるようにしておゐたが、能々(ようよう)考へたが、みんなおれがわりいから起きたことだ、と気がつゐたから、おりの中で手習を始めた。
 夫からいろゝゝ軍書の本も毎日見た。友立が尋ねてくるから、おりのそばへ呼で、世間の事を聞てたのしんでいたが、廿一の秋から廿四の冬迄、おりの中へはゐっていたが、くるしかった。

 “くるしかった”とあるが、麟太郎は、小吉が二十二の時に、生まれている。
 くるしいばかりでも、なかったのだろう。

 あらためて「夢酔年譜」より。

文政八(1925) 二十四歳 再び出勤する。外宅をして割下水天野左京の家を借りる。
          諸道具の売買をして内職とする。

文政十(1827) 二十六歳 六月九日、実父男谷平蔵没す。

文政十二(1829)二十八歳 行・水行・加持祈祷を試みる。刀剣の研ぎ・目利きを試み、
          刀剣講を催す。浅右衛門の弟子となり胴試しをする。

          長男麟太郎、御殿(西丸)に召され初之丞(家慶の五男慶昌)のお付きとなる。

天保元(1830) 二十九歳 入江町岡野孫一郎支配の地面へ移る。

天保二(1831) 三十歳 息子麟太郎御殿より下り家へ帰る。犬に噛まれ重傷。

 次回の「小吉の女房」は、天保二年、麟太郎を襲った災難のこと。
NHKサイトの該当ページ

 まだまだ、小吉のことでは紹介したいことがあるのだが、ドラマの筋書きに追いついたところで、このシリーズ、お開き。

 勝小吉、この男にとっては、生まれた時代が悪かった、とも言えるかもしれない。

 石川忠房は、記したように宝暦五(1756)年生まれ。
 以前、平岩弓枝の『橋の上の霜』から記事を書いた、蜀山人、大田直次郎は、寛延二(1749)年と、年齢が近い。

 大田直次郎も貧乏旗本の部類に入る人で、出世のために、登用試験を受けるなどした。江戸開府から百年以上も過ぎた徳川の世は、もはた「武」ではなく「文」の時代に移り変わっていた。

 そんな時代に、武ではひけをとらないものの、文はからきし苦手の小吉のような旗本は、なかなか生きていくのが、大変だったのである。

 その父親が、自分を反面教師とせよ、とばかりに書き残した自叙伝は、息子麟太郎が、勝海舟として幕末に精彩を放つために、十分、役立ったように察する。
 

 さぁ、ドラマも佳境を迎えている。

 このシリーズが、少しでも参考になったのなら、嬉しい限り。

 長々のお付き合い、誠にありがごうございます。

by kogotokoubei | 2019-01-30 12:58 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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by 小言幸兵衛