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噺の話

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カテゴリ:今週の一冊、あるいは二冊。( 126 )


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森まゆみ著『明治東京畸人傳』(新潮文庫)
 その本は森まゆみさんの『明治東京畸人傳』。

 平成八年単行本、平成十一年の文庫化。森さんの住んでいる‘谷根千’近辺に縁のある人々について書かれた本。

 この本から、新宿・中村屋の創業者、相馬愛蔵と黒光夫妻について二回目。

 明治三十九年の暮れ、本郷で居抜きのパン屋を買い、屋号もそのまま中村屋として、なんら経験もないまま、二人が商売を始めた。

 研究熱心な愛蔵は理づめで商売を考える。先代中村萬一氏はなぜ失敗したのか。検討して次のような戒めとした。
  営業が相当目鼻がつくまでは衣服は新調しないこと。
  食事は主人も店員女中も同じものを摂ること。
  将来どのようなことがあっても、米相場や株には手を出さぬこと。
  原料の仕入れは現金値引きのこと。
 書生あがりのパン屋ということで、雑誌社の取材もあった。同じく女学生あがりの妻良は「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」がいえず、家の近くの太田ヶ原(旧太田摂津守邸跡)でひそかに声を出して練習したという。一高の茶話会の注文もあって商売は順調にのびていく。

 相馬愛蔵という人、なかな骨太な男だったようだ。

 この人は、古今亭志ん生が生れた明治23(1890)年に東京専門学校を卒業すると同時に北海道に渡り、札幌農学校で養蚕学を学んだ。
 その後、安曇野に帰郷し蚕種の製造を始め、『蚕種製造論』を書いて注目されたとのこと。
 また、禁酒会をつくって、地元の若者にキリスト教と禁酒を勧めたり、村に芸妓を置く計画に反対して廃娼運動も行うなど、社会運動家の顔も持つ。

 個人的には、その潔癖な姿勢に必ずしも好感が持てるわけではないが、自分の哲学を持ち、世間の風潮に染まらない姿勢は、見習うべき点だと思う。

 引用を続ける。
 愛蔵は「士農工商」の身分秩序や「うまくごまかして儲ける」という商売道に反抗し、「人格と道徳」を商売の基礎においた。リベートやコミッションの要求は拒否し、客に対しても対等に接し、客のわがままは許さなかった。店員を芝居や相撲につれていくときはかならず一等席とし、卑下した気持ちにさせなかった。禁酒運動に参加したくらいだから、もちろん店には酒類は置かない。こんなふうに商売を近代化したのである。

 こういった経営者、そうはいない。

 特に、飲食業でこのような経営方針を掲げることは、実に稀なことだと思う。

 今日の“ブラック”といわれる飲食業界のトップに、相馬愛蔵という経営者のことを知って欲しい。

 愛蔵、『私の小売商道』という文の中でこんなことを書いていると、森さんが紹介している。

「すべて日本人の弱点として、アメリカやイギリスを真似て得意がると同様に、地方ではやたらに『東京を真似る』ので地方の特色を失って行く。封建時代は地方地方の名産がまことに特色があり、如何にもその土地らしいにおいがして、ちょっと旅をしてもどんなに趣き深いことであったろう。それが現在では日本が一律に単調化し、平面化しますますその味わいを失って行く。文明、人物、みなこの名物の例に異らずである」

 昭和27年に書かれたもの。

 なお、『私の小売商道』は、青空文庫で読むことができる。
青空文庫・相馬愛蔵『私の小売商道』

 さて、愛蔵の経営哲学を土台にし、中村屋はどんなお店になっていくのか。

 さて本郷の中村屋は間口三間半、家賃十三円、一日の売上げは店売り八円、配達と卸売りで五円、合計十三円。つまり月の家賃は店の一日の売上げと同額なのが、商売の基本と愛蔵は考えた。そして三年目に、アンパンのあんをクリームに替えたクリームパン、ジャムとクリームに替えた「クリームワップル」を売り出して大当たり。そのため人手が目に立って、税務署のにらむところとなった。このとき売上げを正直に申告したため、また大変な税金を払わなくてはならなかった。
 中村屋は、日露戦争後の明治四十年、新開地の新宿に支店を出し、そちらを本拠地としていく。翌年、安曇野時代からの夫婦の友、荻原守衛(もりえ)が、ヨーロッパから帰り、新宿角筈(つのはず)にアトリエを建て毎日中村屋に通う。またその関係で中村彝(つね)、中原悌二郎、戸張孤雁(こがん)、柳敬助ら、新進美術家たちが中村屋に出入りするようになり、黒光も愛蔵も彼らを助けた。しかし四十三年までは、住いは本郷団子坂坂上であったようだ。

 この後、黒光は一存で娘俊子を亡命者ボーンに縁づけたことなどとともに、やや周囲に誤解を与える人物でもあったことが紹介され、森まゆみさんは、こう書いている。

 黒光は何か心に大きな空白感を抱いていた女性のように思われる。満たされぬものをつねに外に向う情熱としていった。
 (中 略)
 理知的で寛大な愛蔵、情熱的で唯我独尊の黒光。まさに反対だった。黒光の方がずっと有名だが、私はじつは愛蔵がエラかったのではないか、と思っている。

 “まさに反対”だったから、良かった、ということでもあろう。

 愛蔵は、今日の日本が、ますます一律に単調化、平面化が進んでいる状況を見たら、いったいなんと言うだろうか。

 昭和29(1954)年に、愛蔵は84歳で亡くなり、後を追うかのように、その翌年、黒光は79歳で旅立っている。

by kogotokoubei | 2019-05-24 21:18 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 NHKの朝の連続小説「なつぞら」で、新宿・川村屋というお店が舞台の一つとなっている。

 どう考えても、このお店のモデル(モチーフ?)は、新宿・中村屋。

 ある本に、中村屋の創業者のことが書かれていたことを思い出した。

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森まゆみ著『明治東京畸人傳』(新潮文庫)
 その本は森まゆみさんの『明治東京畸人傳』。

 平成八年単行本、平成十一年の文庫化。森さんの住んでいる‘谷根千’近辺に縁のある人々について書かれた本。

 この本からは、以前、圓朝作『松と藤芸妓の替紋』のことを紹介したことがある。この本を読んで、残念ながら行けなかったが、むかし家今松が独演会でこの噺をネタ出ししていたことを思い出して書いた記事だった。
2017年5月20日のブログ


 この本の中に、「相馬愛蔵・黒光夫妻の駒込千駄木林町十八番地」という章がある。

 冒頭部分から引用する。

 新宿中村屋のカリーライス、といえばいまも名物だが、戦前はとりわけハイカラでお洒落な食物だった。これは、絵描き中村彝(つね)や柳敬助、彫刻家荻原碌山らのパトロン、というか支援者であった中村屋の女主人相馬黒光が、インドの亡命者ラシュ・ビハリ・ボースのつてで純印度式を仕込んだものという。
 黒光はボースをかくまい、のちに娘俊子を彼に嫁がせている。また盲目のロシアの詩人エロシェンコの世話もしたが、その縁でボルシチをメニューに入れ、店員にルバシカを着せることを取り入れている。ピロシキも売り出した。しいていえば、こうした国際的な交友とその産み出す伝説で、ちゃんと商売のもとは取っていたといえるのだろう。ついでに、新宿中村屋では、いまも「碌山」「黒光」とい名付けた和菓子を売っている。
 上階のレストランには、先にあげた中村屋ゆかりの美術家の作品が飾られ、食事をしながら、絵を楽しむこともできる。

 カリーも、ボルシチやピロシキなどのメニューには、中村屋の歴史が込められている、ということか。

 ホームページには、大正四年と五年に出来事として、ボース、エロシェンコのことも紹介されている。
新宿中村屋のサイト

 黒光の夫は、相馬愛蔵。

 ふたたび、引用。

 黒光は仙台藩の漢学者・星雄記の孫として明治八(1875)年、広瀬川の畔(ほとり)に生れた。本名を良(りょう)という。高等小学校時代にキリスト教に触れ、上京して横浜のフェリス女学校、そして麹町の明治女学校で学ぶ。このとき、すでに布施淡(あわし)という画家の恋人がいた。
 しかしこの恋は実らず、安曇野の旧家の生れで東京専門学校(いまの早稲田大学)を卒業した相馬愛蔵と結婚。このとき良は都会の生活に嫌気がさしていて、長野の自然の中での生活こそ、と小さなオルガンと柳行李一つで穂高に向かう。

 本書には出会いのことは書かれていないが、愛蔵が募金活動で仙台を訪ねた際に、二人は会ったようだ。

 本書掲載と同じ二人の写真をWikipediaで発見。
 すでに著作権切れとのことでお借りした。
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                相馬黒光
ウィキメディア・コモンズの該当ページ

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                相馬愛蔵
Wikipedia「相馬愛蔵」

 黒光、なかなかの美人。

 さて、都会を嫌い憧れた信濃での生活だったが、黒光は、農村の生活に馴染めず、健康も害して、仙台の実家で静養してから、愛蔵と二人、ふたたび上京。

 明治三十四年九月、二人で東京の土を踏んだとき、はじめて借りたのが、本郷団子坂上、駒込千駄木林町十八番地の借家であったという。

 ということで、著者森まゆみさんの守備範囲(?)になったということ。

 二人は、コーヒー店をやろうと思いついたのだが、近くの本郷五丁目には、淀見軒というミルク・ホールがすでにあったし、その前には森鴎外なども通った洋風喫茶・菓子店の青木堂もあり、断念。

 次に「パン屋」を思いつく。当時、パン屋は在留の外国人家庭から、次第にインテリ層の生活に入り込みつつあった。果して一時の流行か、食事として定着するのか。二人はさっそく、その日から、三食のうち二食をパンにしてみた。砂糖、胡麻汁、ジャムなどを副食とした、煮炊きの手間はかからぬし、「突然の来客の時など、ことに便利に感じられた」という。
 二人が東京帝国大学正門前の中村屋を譲り受けたのはその年の暮、十二月三十日である。試食のパンを買った店だし、立地は良い。繁盛していたからまさかと思ったが、主人が相場に手を出して失敗したのだという。さっそく居抜きを七百円で買う。屋号はそのまま引き継いだ。

 ということで、新宿に移っても、その屋号を継続したわけである。

 その新宿での出来事などは、次回。


by kogotokoubei | 2019-05-23 20:47 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(6)
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ドナルド・キーン著『二つの母国に生きて』

 ドナルド・キーン『二つの母国に生きて』は、初版が昭和62(1987)年の朝日新聞から単行本で発行され、平成27(2015)年に朝日文庫にて再刊。

 1980年代に書かれた文章を中心に編集された本。

 本書からの、二回目。

 「戦争犯罪を裁くことの意味」(1983・5・27)の章から。

 ドキュメント・フィルム『東京裁判』を見ながらさまざまの思い出が甦った。とはいえ、私は裁判と関係したわけではない。当時の占領軍の方針として宣教師や貿易商以外の外国人を日本に入国させなかったが、裁判の通訳は入国できたので、一日も早く日本へ行きたがっていた私は募集に応じた。しばらくして採用通知があったが、迷いに迷ったあげく、断りの電報を打った。日本へは行きたかったが、戦犯を裁くことについての疑問があまりにも深すぎたので、通訳としても参加したくなかったのだ。
 当時の私の考え方は終戦直後、友人に出した手紙の中に手短に書いてあるから引用する。
「日本の指導者たちを“戦争犯罪人”の名の下に処罰するのは、名目がいかに高尚な響きを持つものであっても、結局は、人類の歴史が始まって以来、多くの国々が行ってきたことを繰り返すことにすぎない。もし、征服された民族の犯罪のみならず、イギリス人がインドや香港で犯した罪、フランス人がシリアで犯した罪、ロシアが東ヨーロッパで犯した罪、そしてアメリカが無防備の住宅地に住む日本人たちに爆撃を浴びせたことなどが問われるのであれば、この戦争裁判は新しい時代の幕開けを象徴するものであるという言葉は、それなりの意味を持つ。しかし、今回の戦争裁判は、実際には終戦を祝う儀式として開かれるものであり、例によって敗戦国非難と自己満足の精神に満ち満ちているのだ」(1945年9月23日付の書簡。オーテス・ケーリ編『天皇の孤島』に収録。1977年、サイマル出版会)

 終戦直後に書かれた書簡の内容が、キーンさんの戦争への一貫した思いを表していると思う。

 なお、この書簡を含む本の編集者のオーテス・ケーリは、キーンさんアメリカ海軍日本語学校の同級生。二人は、通訳として従軍する戦友だった。
 書簡の宛先は、きっとケーリだったのだろう。
 ケーリは戦後、同志社大学で教授を務めた。
 ケーリも貴重な記録を著作で残している。後日、紹介したいと思っている。

 さて、本書からの引用を続ける。

 戦時中、私は日本軍が戦場に残した書類の翻訳をしていた。日記の中に、アメリカの飛行士が捕虜になった後、死刑に処されたという記入が時々あった。私はこうした事実を知った時、人道にそむく行為であり、明らかな犯罪だと信じていた。しかし、戦争末期、アメリカの飛行機が日本の都市の無差別攻撃を行うようになった段階、それも犯罪ではないかと思い、自分の正義感に迷いが生じた。

 この文章を読んで、私は数年前にCSで観た、ある映画を思い出した。
 藤田まことが主演の『明日への遺言』だ。大岡昇平の小説『ながい旅』を原作に、2007年に製作された映画。
 昭和20年5月14日の名古屋空襲の際に、撃墜され捕虜となったB29の搭乗員を処刑したため、B級戦犯となった軍人の裁判を中心とする物語だった。
 陸軍中将の岡田資(たすく)は、戦犯裁判において、米軍の空襲について「一般市民を無慈悲に殺傷しようとした無差別爆撃である」とし、「搭乗員はハーグ条約違反の戦犯であり、捕虜ではない」と徹底的に主張した。岡田は、これを『法戦』と呼び、検察や米軍関係者による爆撃の正当化を批判、捕虜虐待の罪に付いても全面的に争った。
 藤田まことが亡くなる二年前の迫真の演技が、印象に残っている。
 岡田資のことや、大岡昌平の本のことは、また後日書こうと思う。

 さて、キーンさんの本からの引用を続ける。

 人間の想像力には限界がある一人の軍人が敵の軍人を殺す、または同じ軍人が壁の前に立たされた何の防備も持たない民間人を銃剣で刺し殺すことを想像するのは、それほどむずかしくない。現に、終戦直後、私が中国の青島に駐在していた時、似た話を多き聞いた。日本の兵士の戦意を高めるために、何の罪もない中国人を逮捕し、銃剣の練習の対象とした日本軍人にも会い、号令をかけた海軍大尉をも尋問した(彼は、弾丸が足りなかったためそうさせたと私に語った)。殺された中国人の死体から肝を切り取って薬にした日本兵にも会った。
 これらの戦犯を調べていた時、何回もぞっとしたことがあるが、犯罪そのものは想像することができた。しかし、一万メートルの高度でハンドルを回して巨大な爆弾を投下する飛行士の犯罪の大きさは想像できなかった。数万人が焼死した場合でも、爆弾が目標をはずれて海に落ちた場合でも、殺戮を意図している以上、犯罪性は変わらないといえるかどうかーこれは並の想像力をはるかに超える難問である。

 上空から爆弾を投下することの犯罪の大きさを想像できないとしたキーンさん。
 では、あの湾岸戦争で、まるでテレビゲームのよう、と形容されたハイテク機器による戦争に、どんな感想を述べていらっしゃたのだろうか。

 ボタン一つで、何万、何十万人の生命を奪う時代。
 その危機は、まだ続いている。

 キーンさんは、この章を次のように締めくくっている。

 言うまでもなく、国家が存在する限り、国と国との摩擦が起ころうし、また、人間に攻撃性がなくなるまで“実力”で摩擦を解決しようとする傾向も残るだろう。しかし、攻撃性を法律で限定するように、戦犯裁判で戦争を政治手段として利用する指導者をある程度まで限定することもできるはずである。そして現在の日本における反戦思想が根強いのは東京裁判とも無関係ではなかろう。
 現在の私は、三十八年前の私ほど自分の見解に自信がない。今も一方的な裁判に深い疑問を抱き、『東京裁判』を見ながら、あらゆる偏見や政治的配慮が公平な裁判を妨げたことが改めてわかったが、欠点だらけの国連でも、あることがないよりはましだと思うと同様に、あの悪名高き裁判にも戦争を不法行為として告発しただけの意義はあると信じたいのである。

 “意義はあると信じたい”との思いを、残された日本人は、大事にしなくてはならないだろう。

 あの裁判を批判する人々は多い。
 もちろん、戦勝国による敗者への不公平な見せしめの行為、という側面はあるだろう。
 しかし、東京裁判で裁かれた日本の戦争指導者や、米軍捕虜への対応により戦犯となった岡田資のことなども含め、一連の戦犯裁判を明日につなげるためには、戦争そのものがすべての元凶であり、何としてても、戦争を起こしてはならない、ということだ。
 もちろん、何百万人という犠牲者のことを忘れず、反戦の声を上げ続けることが重要だ。

 キーンさんが、信じたかったのは、そういうことだったと思う。

by kogotokoubei | 2019-03-05 12:36 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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ドナルド・キーン著『二つの母国に生きて』

 ドナルド・キーン『二つの母国に生きて』は、初版が昭和62(1987)年の朝日新聞から単行本で発行され、平成27(2015)年に私が読んだ朝日文庫にて再刊された。

 1980年代に書かれたものを中心に編まれた本だ。

 最初の「なぜ日本へ?」-1985・4-からご紹介。

 一年のほぼ半分を東京で暮らすようになったのは、1971年以来のことである。それまでは、毎年、九月から五月までコロンビア大学で教鞭を執り、夏の間の約三ヵ月を日本で過ごしていた。初めのうちは京都に滞在したが、後には東京で暮らすようになった。しかし、やがて、日本の春や秋が味わえないことに苛立ちを覚えるようになった。いっそのことコロンビア大学で教えるのをやめてしまおうかとまず考えたが、そのうちに大学のほうで、一年のうち一月から五月にかけて教壇に立つだけでいいと言ってくれた。
 先生はなぜ、それほど多くの時間を日本で過ごしたいのですか、とよく訊かれる。
 (中 略)
 東京にいるときのほうがより幸福である理由を説明する際、私はまず幾つかの否定形を使った答えを並べ立てるのを常としている。すなわち、東京では、夜遅く暗い通りを独りで歩いても少しも心配する必要がない。東京の地下鉄は落書きで汚されているということもないし、乗客たちにしても、突如として暴力を振るいそうな不穏な様子はない(最近、日本では車内暴力が頻発しているようだが、そのスケールはニューヨークに遠く及ばない。ニューヨークでは凶悪な死傷事件が日常茶飯事なのである)。東京の冬はニューヨークの冬ほど寒くはないし、夏も、ニューヨークの夏と同じように暑いけれど、猛暑はそれほど長く続かない、等々。
 しかし、これら否定形を用いた答えは、苦痛がないことを示唆するものではあるが、積極的に喜びや楽しさを語るものではない。人々に得心してもらうためには、東京における生活の楽しさを語らなければならないだろう。

 この後、その東京、あるいは日本で暮らす楽しさとして、挙げられるのは、次のようなこと。

 ・たった一、二度しか会ったことのない人から親切にされること
 ・ニューヨークでは、銀行の現金自動支払機のトラブルで行列ができた際、行員に
  声をかけると「私の仕事にあれこれ口出ししないでほしい」と言われ、他の仕事を
  片づけるまで、機械を直そうとしなかった。それに比べて、数ヵ月前に日本の銀行で
  同じような機械の故障に遭遇した際、担当者が一生懸命に直そうとし、時間はかかった
  が、しきりに彼は客に詫びを言い、だれ一人として文句を言わなかった
  「この種のささやかな出来事も、日々繰り返されると、その都会の印象の一部として定着」
  すると述懐する。

 そして、その後、こう続けている。

 日本で暮らしたいと思う本当の理由は、自分の専門分野だけではなく、日本に関してできるだけ様々なことを学びたいという気持ちが依然として強いからである。

 あらためて確認するが、この文章が書かれたのは、1985年4月。

 「ドナルド・キーン・センター柏崎」のサイトにある年譜を引用する。
「ドナルド・キーン・センター柏崎」のサイト


1983年(61歳)
   山片蟠桃賞、国際交流基金賞受賞。
  (執筆)
   7月4日~1984年4月13日、「百代の過客 日記にみる日本人」朝日新聞・夕刊、(全185回)。
  (日本人の質問 』 朝日選書。

1984年(62歳)
 『百代の過客』により読売文学賞、日本文学大賞受賞。
  (執筆)
  『百代の過客 日記にみる日本人』朝日選書。
  英語版 "Travelers of a Hundred Ages" NewYork:Henry Holt and Company,1989。

1986年(64歳)
  コロンビア大学に「ドナルド・キーン日本文化センター」設立。
  アメリカン・アカデミー会員(文学部門)に選ばれる。
  春、米ニューヨーク市立図書館、「日本の美学」('Japanese Aesthetics')米カリフォルニア
  大学ロサンゼルス校、「日本の詩」('Japanese Poetry')、「日本の詩の有用性」
  ('TheUses of Japanese Poetry')。
  「日本の小説」('Japanese Fiction')
  8月7日、日本近代文学館主催「夏の文学教室」で「ローマ字でしか書けなかった啄木の真実」
  講演。
  10月8日、国際シンポジウムあまがさき(兵庫県尼崎市総合文化センター)
  「世界のなかの近松―悲劇の条件について」
  10月26日、愛媛県松山市立子規記念博物館開館五周年記念講演、「外国人と俳句」
  10月13日~1987年10月29日「続百代の過客 日記にみる日本人」朝日新聞・夕刊、(全234回)
  (執筆)
   『少し耳の痛くなる話』新潮社。


 前年に『百代の過客』が複数の賞を受賞し、翌年にはコロンビア大学に「ドナルド・キーン日本文化センター」ができるという、そんな研究者として絶頂に近い時期だ。

 年齢は、今の私とほぼ同じ、還暦を少し回った時期。

 そんな時期においても、

 “日本に関してできるだけ様々なことを学びたいという気持ちが依然として強い”キーンさんは、次第に生活の基本をアメリカからニューヨークに移していく。

 「文庫版あとがき」(2015年6月)から引用。

 約三十年ぶりで『二つの母国に生きる』を読み出した時、きっと私は日本がどんなに変わったかを発見するだろうと予想していた。無論、その間に目立った変化が充分にあったことは確かだが、この本を書いた今の“私”は、不思議にこの本を書いた頃の当時の“私”に似ていた。その時書いた冗談は現在でも通じそうで、読みながら笑った。
 しかし大きな変化もあった。この本を書いた頃、毎年の四、五カ月間をニューヨークで過ごし、コロンビア大学で教え、残りの月は東京に滞在していた。そしてニューヨークと東京両方に住居があることを喜んでいた。ところが、もしもなにかの理由で、どちらかにずっと十二ヵ月間を過ごすことを決める必要があったらどうしよう、と自問した。この本の中で私は、その場合東京にする、と書いた。そうしてその通りになった。
 今年はニューヨークに十日間程度しか滞在しなかった。三年前に日本の国籍を取得してからはニューヨークには家がない。このことを知った日本の友人は私に対する態度を変えた。以前は「何時(いつ)アメリカへ帰りますか」と問われたものだ。しかし、国籍を所得してからは私の住まいは東京だけなので、時折ニューヨークと東京を往復することはあるだろうが、帰る国は日本であると認めた。

 キーンさんが、日本国籍を取得したのは、2011年3月11日の後のこと。

 それ以前から、日本国籍を取得しようと思っていらっしゃったようだが、東日本大震災が、その行動を後押ししたようだ。

 震災後、日本国籍を取得した後に東北を訪れたキーンさんの言葉を、JIJI.COMより。
JIJI.COMの該当記事

 東日本大震災をきっかけに日本への移住を決めた日本文学研究の大家ドナルド・キーン米コロンビア大学名誉教授(89)が2011年10月19日、訪問先の仙台市内で記者会見し、「東北全体に美しい町をつくってほしい」と述べ、復興に期待感をにじませた。
 松尾芭蕉の「おくのほそ道」の英訳でも知られるキーン氏は、「東北に深い関心を持っている。仙台は『杜(もり)の都』という名前もあり、そうした伝統を復活させてほしい」と強調した。また、「災難に際して、日本人は落ち着いて、順序良く自分たちのやるべきことをやったということが世界的に知られるようになった。日本人への尊敬は以前に比べ何倍にもなった」と語った 【時事通信社】


 多くの海外からの駐在者などが、震災と原発事故の恐怖から日本を離れたことを考えると、キーンさんの行動の貴重さが分かる。
 
 第一回目は、これにてお開き。

by kogotokoubei | 2019-03-04 12:21 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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勝小吉『夢酔独言』

 勝小吉の自叙伝『夢酔独言』からの七回目、最終回。


 十四歳の時、家を飛び出した小吉。
 さまざまな体験をし、また、いろんなご縁に助けられ、四ケ月ぶりに帰宅。

 大事な所に怪我をしたこともあり、十日ばかり寝ていた。
 
 夫から親父が、おれの頭石川右近将監に、かへりし由をいって、「いかにも恐入る事故に小吉はいん居させ、外に養子にいたすべき」といったら、石川殿が、「今月かへらぬと月切れ故、家は断絶するが、まづゝゝかへって目出たい。夫には及ぬ。年取りて改心すれば、おやくにもたつべし。よくゝゝ手当してつかわすべし」とていわれた。夫で一同安心した、とみんなが咄した。

 小吉、結構締め切り寸前での帰宅だったようだ。
 また、頭(小普請支配)の石川が、寛容だったことにも救われたと言えるだろう。

 NHKのBS時代劇「小吉の女房」には、高橋和也演じる、小吉の幼なじみの石川太郎左衛門が登場するが、これは脚本家の創作だろう。

 小吉にとっての“石川”は、小普請支配だった石川右近将監のこと。
 ただし、右近ではなく、左近。

 本名は石川忠房で、宝暦五(1756)年生まれ。だから、享和二(1802)年に小吉が生まれた時、すでに四十六歳。
 数え十三での小吉の家出と想定すると、その時、石川はほぼ還暦。
 幼名は太郎右衛門。

 脚本家が、右を左に変えて、小吉の幼馴染という設定にしたのだろう。

 この人は、有能な旗本で、北海道の松前に派遣された時、ロシアに漂流しエカテリーナⅡ世に謁見した大黒屋光太夫を受取っている。
 歌人でもあり、北海道大学附属図書館に松前派遣時の和歌集がある。

 その後、勘定奉行なども務めた人だ。

 それだけの大物だから、小吉の不良ぶりも、広い心で許してあげたということか。
 しばらく後に、小吉は石川と対面することになる。

 十六の年には漸々しつも能(よく)なったから、出勤するがいゝといふから、逢対(あいたい)をつとめたが、頭の宅で帳面が出ているに銘々名を書くのだが、おれは手前の名がかけなくってこまった。人に頼んで書て貰た。
 石川が逢対の跡で、「こじきをした咄をかくさずしろ」といったから、はじめからのことをいったら、「能く修行した。今に御番入をさせてやるから心ぼうをしろ」といはれた。

 逢対とは、小普請組という無役の旗本が、御番入、役に就いて仕事をするために、支配や組頭が出勤するのを見送りに行ったり、御機嫌伺いをする、いわば、就職活動。

 「小吉の女房」でも、小吉が逢対に出かける場面があった。

 逢対で、石川忠房が小吉の旅の話を聞いてくれた時は、小吉もさぞ喜んだだろう。
 しかし、成果は、なかなか出なかった。
 石川は、松前では大黒屋光太夫から、ロシアの旅のことも聞いていたはずなので、ミニ光太夫と話すような興味本位の感覚だったのかもしれないねぇ。

 そういう石川の慈悲があったにもかかわらず、小吉の不良ぶりは、変わらない。
 十六で、吉原も初体験している。

 また、喧嘩にも精を出した(?)。

 これは、喧嘩の師匠に出会ったことも大きいかもしれない。

喧嘩の師匠・源兵衛

 或日、おれの従弟の処へいったら、其子の新太郎と忠次郎といふ兄弟があるが、一日いろいろのはなしをしていたが、そこの用人に源兵衛といふがいたが、剣術遣ゐだといふことだが、おのれにいふには、「お前さまはいろいろとおあばれなさり舛が、喧嘩はなしましたことがあり舛か。是は胆がなくってはできません」といふから、「おれは喧嘩は大好きだが、ちいさい内から度々したが、おもしろいものだ」といったら、「さやうで御座舛か。あさっては蔵前の八幡の祭があり舛が一喧嘩やしましやうから、一所にいらしゃっひまして、一勝負なさいまし」といったから、約束をして帰った。

 この“従弟”の子の新太郎が後の精一郎、「幕末の剣聖」と言われた男谷信友だろう。

 その信友は小吉の四歳年上、年齢も近く、少年時代は小吉と一緒に暴れていたわけだ。

 さて、八幡さまの祭での喧嘩のこと。

 其日になりて夕方より番場の男谷家へいったら、先の兄弟もまっていて、「よく来た。今、源兵衛が湯へいったから帰ったら出かけよふ」と支度をしていると、間もなく源兵衛が帰った。夫より道ゝ手はづをいゝ合て八幡へいったが、みんなつまらぬやつ斗りで、相手がなかったが、八幡へはゐると、向ふよりきいたふうのやつが二、三人で鼻歌をうたって来る故、一ばんに忠次郎がそゐつへ唾を顔へしかけったが、其野郎が腹を立て、下駄でぶってかゝりおった。そふするとおれがにぎりこぶしで横つらをなぐってやると、跡のやつらが総がかりにぶってかゝりおるから、目くらなぐりにしたら、みんなにげおったゆへに、八幡へいってぶらぶらしていると、二十人ばからい長鳶を持てきおった。
 「なんだ」と思っていると、壱人が、「あの野郎だ」とぬかして四人を取りまきおった。夫から刀をぬいて切りはらったら。源兵衛がいふには、「早く門の外へ出るがいゝ。門をしめると取りこになる:と大声でいふから、四人が並で切り立て、門の外へ出たら、そいつらが加勢と見へて、また三十人斗りとび口を持て出おったから、並木の入口の砂場蕎麦の格子を後ろにして、五十人斗を相手にしてたゝきあったが、一生けん命になった。
 四、五人ばかりきづを負はしたら、少し先がよわくなったゆへ、むやみにきりちらし、とび口を十本ほどもたゝき落した。そふするとまたゝゝ加勢が来たが、はしごを持て来た。
 其時源兵衛がいふには、「最早かなわぬから三人は吉原へにげろ。跡は私がきりはらい帰るから」と「早くゆけ」といったが、三人ながら源兵衛ひとりをおくを不憫におもひ、「一所におひまくって、一所ににげよふ」といったら、「おまへさん方は、けがゝ有ってはわるいから、是非早くにげろ」とひたすらいふゆへ、おれが源兵衛の刀がみぢかひからおれの刀を源兵衛のい渡して、直々に四人が大勢の中へ飛こんだら、先のやつはばらばらと少し跡へ引込だはづみに、にげだして、漸々浅草の雷門で三人一所になり、吉原へいったが、源兵衛がきづかはしいから引きもどして、番場へいって飯をくおふとおもっていったら源兵衛は内へ先へ帰って、玄関で酒を呑んでいたゆへに、三人が安心した。

 四人対五十人、の喧嘩。
 この後、小吉たちは源兵衛と八幡の前にある自身番に行ってみると、大勢の人が集って、喧嘩のことを話しているのを耳にする。
 
 そこへいって聞いたら、「八幡で大喧嘩があって、小揚の者をぶったがあじまりで、小あげの者が二、三十人、蔵前の仕事師が三十人ばかりで、相手をとれへんとしてさわいだが、とふゝゝ壱人もおさへずにがした。その上にこちらは十八人ばかり手負が出来た。今外科がきづを縫ている」といふから、四人ながら内へかへって、おれは亀沢丁へかへったが、あんなひどひことはなかったよ。

 “あんなひどひこと”とは、誰にとっての言葉なのか・・・・・・。

 この翌年、十七歳の時、小吉は新太郎と忠次郎の家へ行き、忠次郎と剣術の手合わせをしたら、「出会頭に胴をきられ」て、気が遠くなった。
 その後も、一本も忠次郎を打つことができず、「夫から忠次にきいて団野へ弟子入にいった」。

 この団野とは、団野源之進のこと。
 宝暦十一(1761)年生まれというから、小吉が入門した時は、五十も半ばだった。
 この人、終生浪人だった人で、直心影流五代の赤石郡司兵衛の弟子で、六代目を継いだ。
 安政元(1854)年に、道場を男谷精一郎(信友)に譲り、翌年没したとされる。
 九十歳を超えての往生。

 団野の道場で、腕を磨いた小吉は、数々の他流試合に挑んでいる。いわば、道場破り、だね。

 結局、本所では小吉にかなう者はいなくなった。

 その後の、小吉のしばらくの行動を、本書巻末の「夢酔年譜」から、拾ってみる。

文政元(1818) 十七歳 刀の鑑定を学ぶ。兄と信州へ行き、十一月江戸に帰る。

文政二(1819) 十八歳 信州の兄の所へ行く。実母没す。江戸へ帰る。兄と越後蒲原郡水原の
          陣屋へ行く。この年身代(世帯)を持ち兄の所は移る。

文政五(1822) 二十一歳 再び江戸を出奔、上方をさして東海道を行く。七月江戸へ帰り、
          父に檻に入れられる。

 なんと、十四の時に続き、二十一歳でも、家出をしているのだ。

 それは、小吉を慕う連中がいて、どうしても無理をしまったり、気晴らしに吉原へ通ったりするうち借金がかさみ、にっちもさっちも行かずに、父親から譲られた刀などを質に入れての旅だった。

 無役で、心理的にも、兄の家にはいずらい毎日を送ってもいたのだろう。

 この時は、まず最初に、小田原で十四の時の旅で世話になった喜平次に家に行ってご馳走になり、掛川では、江戸で世話をした息子のいる神主の家に逗留したり、また、途中の宿では、水戸藩侍と嘘をついてはただで泊まっていたので、七年前のように乞食をしながらの旅とはまったく違うのだが、帰った時に、さすがに父は怒った。
 
 小吉は、父の隠居所に呼ばれた。

 親父がいふには、「おぬしは度々不埒があるから先(まず)当分は逼塞して、始終の身の思案をしろ。しょせん直には了簡はつく物ではないから、一両年考て見て、身のおさまりをするがいゝ。兎角、仁は学問がなくってはならぬから、よく本でも見るがいい」といふから内へ帰ったら、座敷へ三畳のおりを拵え置て、おれをぶちこんだ。
 それから色々工夫をして一月もたゝぬうちおりの柱を二本ぬけるようにしておゐたが、能々(ようよう)考へたが、みんなおれがわりいから起きたことだ、と気がつゐたから、おりの中で手習を始めた。
 夫からいろゝゝ軍書の本も毎日見た。友立が尋ねてくるから、おりのそばへ呼で、世間の事を聞てたのしんでいたが、廿一の秋から廿四の冬迄、おりの中へはゐっていたが、くるしかった。

 “くるしかった”とあるが、麟太郎は、小吉が二十二の時に、生まれている。
 くるしいばかりでも、なかったのだろう。

 あらためて「夢酔年譜」より。

文政八(1925) 二十四歳 再び出勤する。外宅をして割下水天野左京の家を借りる。
          諸道具の売買をして内職とする。

文政十(1827) 二十六歳 六月九日、実父男谷平蔵没す。

文政十二(1829)二十八歳 行・水行・加持祈祷を試みる。刀剣の研ぎ・目利きを試み、
          刀剣講を催す。浅右衛門の弟子となり胴試しをする。

          長男麟太郎、御殿(西丸)に召され初之丞(家慶の五男慶昌)のお付きとなる。

天保元(1830) 二十九歳 入江町岡野孫一郎支配の地面へ移る。

天保二(1831) 三十歳 息子麟太郎御殿より下り家へ帰る。犬に噛まれ重傷。

 次回の「小吉の女房」は、天保二年、麟太郎を襲った災難のこと。
NHKサイトの該当ページ

 まだまだ、小吉のことでは紹介したいことがあるのだが、ドラマの筋書きに追いついたところで、このシリーズ、お開き。

 勝小吉、この男にとっては、生まれた時代が悪かった、とも言えるかもしれない。

 石川忠房は、記したように宝暦五(1756)年生まれ。
 以前、平岩弓枝の『橋の上の霜』から記事を書いた、蜀山人、大田直次郎は、寛延二(1749)年と、年齢が近い。

 大田直次郎も貧乏旗本の部類に入る人で、出世のために、登用試験を受けるなどした。江戸開府から百年以上も過ぎた徳川の世は、もはた「武」ではなく「文」の時代に移り変わっていた。

 そんな時代に、武ではひけをとらないものの、文はからきし苦手の小吉のような旗本は、なかなか生きていくのが、大変だったのである。

 その父親が、自分を反面教師とせよ、とばかりに書き残した自叙伝は、息子麟太郎が、勝海舟として幕末に精彩を放つために、十分、役立ったように察する。
 

 さぁ、ドラマも佳境を迎えている。

 このシリーズが、少しでも参考になったのなら、嬉しい限り。

 長々のお付き合い、誠にありがごうございます。

by kogotokoubei | 2019-01-30 12:58 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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勝小吉『夢酔独言』

 自叙伝『夢酔独言』からの、六回目。
 長くなったけど、七回でお開きの予定。

 前回は、野宿をして、がけでから落ちてしまい、大事なところを打った、という話までだった。

 さぁ、大変。その後、どうなったのか。

 二、三日過ぎると、少しづゝよかったから、そろゝゝとあるきながら貰っていったが、箱根へかゝってきん玉がはれて、うみがしたゝか出たが、がまんをして其あくる日、二子山まであるいたが、日が暮れるから、そこに其晩は寝ていたが、夜の明方、三度飛脚が通りて、おれにいふには、「手前ゆふべこゝに寝たか」といふゆへ「あい」といったら、「つよひやつだ。よく狼に食われなんだ。こんどから山へは寝るな」といって、銭を百文斗り呉た。
 夫から三枚橋へきて、茶屋の脇に寝ていたら、人足が五、六人来て、「子蔵や。なぜ寝ている」といゝおるから、「腹がはってならぬから寝ている」といったら、飯を一ぱゐくれた。

 飛脚も、人足も、優しいのである。

 文化庁が運営する「文化遺産オンライン」に、三枚橋の写真がある。
文化遺産オンラインの該当ページ

 キャプションに、こう書かれている。
明治43年の早川洪水の後に再建された、吊橋の三枚橋です。橋の向こうに並ぶ建物は江戸時代から続く茶店で、「七軒屋」と呼ばれました。

 小吉が、脇で寝ていた、という茶屋が、この「七軒屋」なのだろう。

 ちなみに、約五十年後の慶応三(1867)年五月の「戊辰箱根の役」で、旧幕府遊撃隊伊庭八郎が斬られたのが、この三枚橋の松並木の下だった。

 さて、その三枚橋の茶店で飯を食わせてくれた人足の一人が、小吉に、声をかける。

 其中に四十くらいの男が云には、「おれの所へきて奉公しやれ。飯は沢山くわれるから」といふゆえ、一所にいったら、小田原の城下のはづれの横丁に、漁師町にて喜平次といふ男だ。
 おれを内へいれて、女房や娘に、「奉公につれてきたから、かわひがってやれ」といった。女房むすめもやれこれといって、「飯をくへ」といふ故、飯を食ったらきらずめしだ。魚は沢山あって、やひてくれた。

 小吉の旅の記録を読むと、あらためてあの時代の日本人の優しさが伝わってくる。
 小田原の喜平次の家で、翌日から小吉は毎日海へ出るようになった。
 漁師たちは、亀と名乗った小吉の姿を見て「亀があるくなりはおかしい」と言う。そりゃあそうだ。まだ、あそこの怪我は治っていないから、かくしてはいても、はれた急所をかばいながら歩いていたのである。

 それでも、仕事はしっかりやってようだ。

 毎日、朝四つ(十時)時分には沖より帰って、船をおかへ三、四町ひき上げ、あみをほして、少しづゝ魚を貰って帰って、小田原の町へ売りにいった。
 夫から内へかへって、きらずをかって来て、四人の飯をたくし、近所のつかひをして二文、三文づゝ貰った。内の娘は三十斗りだが、いゝやつで、ときどきすゐくわん(すいか)なぞを買ってくれた。女房はやかましくって、よくこきつかった。
 喜平は人足故、内はは夜ばかりゐたが、是はやさしいおやぢで、時々くわしなんぞ持って来て呉た。十四、五日ばかりいると、子のよふにしおった。

 よほど喜平に気に入られたのだろう、「おらが所の子になれ」と言われたが、「こんなことをして一生いてもつまらねへ」と、小吉は、閏八月の二日、喜平次の家から銭三百文を戸棚から盗んで、飯を弁当に詰めて、「浜へ行く」と言って、逃げたのであった。

 それから、江戸に戻り、鈴が森で犬に追われたり、高輪の漁師の家の裏で船をひっくり返して寝ていたのを見つかって、叱られたりした。

 四ヶ月、家出をしていたので、なかなかすぐには帰りづらかったのだろう、しばらく回向院の墓場に隠れたりして人目を忍んでいたが、銭も尽きて、亀沢町の家に帰る。

 内中、「小吉が帰った」といって大さわぎをし、おれが部屋にはいって寝たが、十日ばかりは寝どふしをした。
 おれがいなゐ内は、加持祈祷いろゝゝとして従弟女の恵山といふ比丘は上方まで尋ねて登たとではなした。
 夫から医者がきて、「腰下に何と仔細あろふ」とていろゝゝいったが、其時はまたきん玉がくづれていたが、強情に、「ない」といってかくしてしまったが、三月ばかり立つと、湿ができてだんゝゝ大そふになった。起居もいできぬよふになって、二年ばかりはそとへもいかず、内すまいをしたよ。

 十四歳の小吉の大冒険は、少し痛いお土産を伴って、終わった。

 四ヶ月のこの体験は、彼にとって生涯忘れることのできないものだったのだろう。

 『夢酔独言』を書いたのが、四十過ぎなのだが、ご紹介したように、それぞれの出来事が、つい少し前のことのように細かな点も含め書かれているのに驚く。

 次回最終回では、その後の“不良”ぶりについて、ご紹介したい。

by kogotokoubei | 2019-01-29 06:45 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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勝小吉『夢酔独言』

 自叙伝『夢酔独言』から勝小吉の不良ぶりについて、五回目。

 前回に続き、十四歳の勝小吉の旅での出来事。

 紹介した内容を、少し復習。

 (1)十四の時、「男は何をしても一生くわれるから」と思い、家を出て上方へ向かった
 (2)浜松で、二人連れの男の“ごまのはゐ”に、有り金全部を盗まれる
 (3)宿の主人の薦めで、伊勢参りをすることにし、主人に貰ったひしゃくを持って
    街を回って、何がしかの銭を得て旅を再開
 (4)伊勢で会った乞食仲間から、御使龍太夫のことを教えてもらい、一泊させて
    もらった上で、銭壱貫文を得る
 (5)その金も使いきって府中まで戻って来て、ある寺で寝ていると、侍が近くの馬場で
    馬術の稽古をしていたが、あまりに下手で笑ってしまったことからぶたれたが、
    馬に乗って見せると侍(与力か?)が家に招いて泊めてくれ、自分の子供のように六、七日も
    面倒をみてくれたが、そこを抜け出す


 というところまでだった。

 小吉、あらためて上方で公家の侍を目指そうと、行き先を西にとった。
 ふたたび、乞食をしながらある地蔵堂で寝ていたら、そこに思わぬ訪問者。

 其夜五つ(八時)時分に、堂の椽がわにどんとおとがする故、其おとにて目がさめたが、人がいるよふす故、せきばらいをしたら、其人が、「そこにいるのはなんだ」といゝおるから、「伊勢参りだ」といったら、「おれはこの先の宿へばくちにゆくが、此銭を手前かつゐでゆけ。御伊勢さまへ御さいせんを上るから」といゝおる故、起出て其銭をかつゐでゆくと、たしか鞠子の入口かとおもったが、普請小屋ははゐりしが、おれもつづゐて入りしが、三十日斗り車座になおって、おれを見て、「そのこじきめはなせここへはゐった」と親方らしい者がいふと、連の人が、「こひつは伊勢参りだからおれが連れて来た」といふと、「そんなら手前はめしでもくってまっていろ。今に御伊勢様へ御初穂上げるから」とて飲酒を沢山ふるまった。
 少し過ぎる都、連れて来た人が銭を三百文斗紙にまいてくれた。外のものも五十、百、廿四文、十二文てんでんに呉たが、九百斗貰った。みんながいゝおるには、「はyたく地蔵さまへいって寝ろ」といふ故、礼をいふて此の小屋を出ると、ひとりがよびとめて、大きなむすびを三つ呉た。
 うれしくって又半道斗りの所をもどって、地蔵へさいせん上げて寝たが、夫よりふらふら壱文づつ貰い、四日市までいくと、先ごろ龍太夫をおしへた男に逢った。其時の礼をいって百文斗り礼をやったならば、其男がうれしがって、「ひさしく飯をはら一ぱゐくわぬから飯をくおふ」とて、二人で飯を買て、松原にねころんで食った。
 別れてより互ひにいろいろなめにあったはなしをして、其の日は一所に松原に寝たが、こじきの交りは別なものだ。

 「こじきの交わり」か・・・・・・。
 たしかに、常人には分からない、深い交わりなのであろう。
 
 紹介した内容は、「鞠子の賭場」という章の文章だ。

 鞠子宿は、丸子とも書かれるが、東海道五十三次の二十番目の宿で、五十三の中でもっとも小さな宿場だ。

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 この歌川広重が描いた「鞠子」には、丁子屋という店が描かれている。
 今でも丁子屋はあって、名物のとろろ汁を食べることができるらしい。

 小吉、この鞠子では博打打たちから、銭と握り飯を恵んでもらったわけだ。
 当時、伊勢参りという信心について、世間の人の思いがどういうものであったかがうかがえる逸話。

 四日市で、御使龍太夫のことを教えてくれた乞食と再会した小吉だったが、その男は四国の金比羅様は行くため伊勢山田で二人は別れた。

 その後、小吉は、病に苦しめられる。
 頭痛がして、熱が出た。

 翌日には何事もしらずして松原に寝ていたが、二日ばかり立ちて漸々人心地が出て、往来の人に壱文づゝ貰ひ、そこに倒れて七日斗り水を呑んで、よふゝゝに腹をこやしていたが、其の脇に半町斗り引きこんだ寺があったが、そこの坊主が見付て毎日ゝゝ麦の粥を呉た故、よふゝゝ力がつゐた。

 ということで、道々、さまざまな人に助けられながらの、小吉の旅。

 この後にも、また体調を壊すのだが、乞食仲間の友情に救われる。
 とはいえ、まだ本調子ではなく、杖をついての旅。
 
 結局、上方へ行こうとしていたものの、また駿府へ戻って、二丁町の廓の客に出会う。

 まがり角の女郎屋で、客がさわゐでいたが、おれにいふには、「手前は子蔵のくせ、なぜそんな二本杖であるく。わずらったか」といふ。「さようふでござり舛」といったら、「そふであろふ。よく死なゝかった。どれ飯をやろふ」とて、飯や肴やいろゝゝのさいを竹の皮につゝませ、銭を三百文つけて呉た。
 おれは地ごくで地蔵に逢ったよふだと思って、土へ手をつゐて礼をいったら、其客が、「手前は江戸のよふだが、ほんのこじきでは有まい。どこかの侍の子だろふ」とて女郎にいろいろはなしおるが、ひぢりめんお袖口の付た白地のゆかたとこんちりめんのふんどしを呉れたが、うれしかった。
「今晩は木賃宿へ留って畳の上で寝るがいゝ」といったゆへ、厚く礼をいって、夫から伝馬町の横丁の木賃宿へいって留ったが、毎日ゝゝ府中のうちを貰って歩行たが、夫より木賃宿へ夜になると留ったが、しまへには宿せんやら食物代がたまって、はらいにしかたがないから、単物を六百文の質に入れて貰って、そふゝゝそこのうちを立って、残りの銭をもって、上方へ又志してゆくに、石部までいったら、或る日宿のはづれの茶屋の脇に寝ていたら、九州の秋月といふ大名の長持が二棹きたが、その茶屋へ休んでゐると、長持の親方が二人来て、おなじく床机に腰をかけて、酒を呑んで居たが、おれにいふには、「手前はわづらったな。どこへ行く」といふから、「上方へ行く」といったら、「あてがるのか」といふ。「あてはないがゆく」といったら、「それはよせ、上方はいかぬ所だ。それより江戸へ帰るがいゝ。おれがつれていってやらふから、まづ髪さかやきをしろ」とて向ふの髪結所で連れていって、させて、「そのなりでは外聞がわるゐ」とてきれいなゆかたをくれて、三尺手拭を呉れた。

 女郎屋の客に、飯を食わしてもらい、宿代までもらった小吉。

 とはいえ、その金も、すぐに宿賃などでなくなるのは道理。

 その後、秋月藩の長持の親方と出会った、というわけだ。

 親方たち、小吉が上方へ行くことをやめさせ、江戸に帰るようにと、床屋に行かせてもらい、ゆかたと手拭を恵んでくれた。
 杖なしでは歩けない小吉を駕籠にまで乗せてくれた。

 しかし、この秋月藩の長持の親方の一人が、「ばくちのけんくわで大さわぎができて」国へ帰ることになり、「くれた単物を取り返して木綿の古じゅばんを呉れて」すぐに出て行ったた。もう一人も一緒に江戸へは行けないからと五十文ほどくれて、別れることになった。

 江戸へ帰る一人旅となった小吉なのだが、とんでもないことになる。

 しかたがないからまたこじきをしてぶらゝゝ来て、所はわすれたが、或がけのところに其ばんは寝たが、どういふわけか、がけより下へ落ちた。
 岩のかどにてきん玉を打ったが、気絶していたと見へて、翌日漸々人らしくなったが、きん玉が痛んであるくことがならなんだ。

 次回の「小吉の女房」では、息子の麟太郎が、ある災難に遭遇するのだが、その伏線(?)とも言えるような、小吉の悲劇・・・・・・。

 この後、どうやって江戸に辿りついたのかについては、次回。


by kogotokoubei | 2019-01-28 12:27 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 昨夜の「小吉の女房」も、なかなか面白かった。

 小吉とあの女性との出会い方やお信の書置きの内容などは脚色だろうが、小吉がある女性に惚れた時、女房のお信が気丈な態度を示したことは、『夢酔独言』にも「女難剣難」という題で、短いながら記されている。


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勝小吉『夢酔独言』

 では、その『夢酔独言』から勝小吉の不良ぶりについて、四回目。

 前回は、勝小吉が十四の時、家出をして上方へ向かっていた途中、親切にしてくれた男連れが、実は“ごまのはゐ”で、浜松で有り金全部盗まれた、という災難があったことをご紹介した。

 実は、この旅は四ケ月にもおよび、その間にいろんなことがあった。

 そして、いろんな人の助けを得た旅でもあった。
 まず、“ごまのはゐ”が逃げて一人残された浜松の宿の主人が親切だった。

 十方(とほう)にくれたが、亭主がひしゃくを壱本くれて、「是まで江戸っ子が、此海道にてはまゝそんなことが有から、おまへも此ひしゃくをもって、浜松の御城下・在とも壱文づゝ貰ってこひ」とおしへたから、漸々思ひ直して、一日方ゝ貰っ歩行たが、米や麦や五升ばかりに、銭を百二、三十文貰って帰った。
 亭主、いゝものにて、其ばんはとめて呉た。翌日、「先づ伊勢へ行って、身の上を祈りてくるがよかろふ」といふ故、貰った米と麦とを三升斗りに銭五十文ほど、亭主に礼心にやって、夫から毎日ゝゝこじきをして、伊勢大神宮へ参ったが、夜は松原又川原或は辻堂へ寝たが、蚊にせめられてろくに寝ることも出来ず、つまらぬざまだった。

 なるほど、乞食は三日やったらやめられない、と言うが、ひしゃく一つで、何とかなるものだ。
 
 なんのつてもなく上方を目指そうと家出した小吉だったが、浜松の宿の亭主の助言から、伊勢へ向かうことになったわけだ。
 
 その伊勢では、乞食仲間から、ある所へ行くように助言を受ける。

 それ行き先とは、「御師龍太夫」。

 後で調べてみると、御師とは「御祈祷師」の略称。
 特定の寺社に属して、参詣者をその寺社に誘導し、祈祷、宿泊の世話をするものをいうらしい。
 一般には「おし」と発音するが、伊勢神宮のみ「おんし」といったという。
 御師龍太夫の看板が、伊勢和紙館にあるようだ。なぜなた伊勢和紙館は、龍太夫邸跡に建てられたのだ。
 豊受大神をお祀りしている外宮周辺の山田の御師の中でも龍大夫は有力であたとのことで、明治十三年(1880)には、明治天皇が行幸されている。

 昨年の大学の同期会の旅行で伊勢神宮へ行ったものの、豪雨のため内宮にしか寄れなかった。だから和紙館にも行けなかったのが、今になって残念。

 その御師龍太夫で、小吉は、久しぶりに風呂に入り、腹いっぱいの食事にありつくことができた。

 少し過て、龍太夫がかり衣にて来おって、「能こそ御参詣なされた」とて、「明日は御ふだ上げませう」といふ故、おれはただ、「はゐゝゝ」といってじぎばかりしていた。夫から夜具蚊やなどを出して、「お休みなされ」といふから、寝たが、こゝろもちがよかった。翌日は又々馳走をして御礼を呉た。
 小吉、甘えついでに、浜松での出来事を話し、図々しくも路銀を二両ほど貸して欲しい、と頼んだところ、壱貫文をくれた。
 一両を四寛文、現在の価値で12万円とすると一貫文は約3万円になる。
 それだけあれば、伊勢から上方まで行けそうな気がするが、そこは小吉のこと。

 夫から方々へ参ったが、銭はあるし、うまゐものを食いどふしだから、元のもくあみになった。

 それから小吉は、もはや上方へ行こうという元々あてのない目的は捨て、また乞食となって東上し、駿河の府中にやって来た。

 ここでは、好きだった馬術の芸が、身をたすけた。
 ある日、府中城下の寺で寝ていたら、すぐ近くの馬場に侍が十四、五人来て乗馬の稽古をしている。
 
 馬乗を見たが、あんまりへたがおゝひからわらったら、馬喰共が三、四人でしたゝかおれをぶつのめして外へ引づり出しおった。おれがいふには、「みんなへただからへただといったがわるいか」と大声でがなったらば、四十ばかりの侍が出おって、「これ、こじき。手前はどこのやつだ。子蔵のくせに、侍の馬に乗るのをさっきからいろいろといふ。国はどこだ。いへ」といふから、おれが、「国は江戸だ。それに元からこじきではない」といったら、「馬はすきか」といふ故、「すきだ」といったら、「ひとくら乗れ」といゝおる故、じゅばん一枚で乗ってみせたら、みんながいゝおるには、「この子蔵めは侍の子だろふ」といゝおって、せんの四十ばかりの男が、「おれの内へ一所にこひ。めしをやろふ」というから、けいこをしまひ、帰るとき、其侍の跡につゐていったら、町奉行屋敷の横丁のかぶき門の屋敷へはゐり、おれをよんで台所に上りだんでしたゝか飯と汁をふるまったがうまかった。
 其侍も奥の方で飯をくってしまひおって又台所へ出てきて、おれの名、又親の名をきゝおるから、いゝかげんにうそをいったら、「なんにしろ不便だからおれが所にいろ」とて単物を呉た。そこの女房も、おれがかみを結って呉た。行水をつかへとて湯をくんでくれるやら、いろいろとかわゐがった。今かんがへると与力とおもふよ。
 (中 略)
夜も、おれを居間へよんでいろいろ身の上の事をきいたから、「町人の子だ」といってかくしていたら、「いまに大小とはかまをこしらいてやるからここにししんぼうしろ」といゝおる。六、七日もいたが、子のよふにして呉た。

 馬術好きだったことによる僥倖。

 ここまでの旅でも、ごまのはゐの災難もあり、乞食もしながら、野宿をし大変ではあったであろう。

 とはいえ、その道中で、いろんな人に助けられている小吉。
 浜松の宿の主人、伊勢の御師龍太夫、そして、府中の与力(?)・・・・・・。

 しかし、まだまだ十四歳の小吉の旅では、さまざまな出来事があるのだが、それは次回。

by kogotokoubei | 2019-01-26 09:27 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

 本書の紹介に入る前に、ある映画のこと。
 いただいたコメントで、『あばれ獅子』という、小吉を主人公にした阪東妻三郎主演の映画があると教えていただいた。

 どうしても気になって、検索。
 moviewalkerで確認した。
 昭和28年の松竹映画だった。
 
 サイトから引用する。
movieewalkerplusサイトの該当ページ

作品情報
日本経済新聞に三年間連載された子母沢寛の「勝海舟」より「腕くらべ千両役者」の八住利雄が脚色し、「闘魂」の大曾根辰夫が監督に当る時代劇で、先頃急逝した阪東妻三郎(丹下左膳)最後の出演映画である。(後略)

 原作は、子母澤寛の『勝海舟』で、残念ながら『夢酔独言』ではなかった。

 コメントでも、バンツマは途中で役を降り、他の俳優さんの後姿が使われたとご指摘いただいたが、なるほど、バンツマの遺作。

 せっかくなので(?)、ストーリーも引用。

映画のストーリー
十二代将軍家慶の頃。四十石の旗本勝小吉は剣に秀れ覇気もある男だったが、太平の世の中では彼の評価も薄く、放蕩無頼の生活で鬱憤を晴らして居たのがたたって三十五歳の若さで隠居を命ぜられた。が、苦しい中にも一子麟太郎だけは江戸随一の剣客島田虎之助の門で修業させて居た。或夜麟太郎から新しい学問、蘭学を勉強したい旨を聞いた小吉は「お前のお袋に楽しい日を送らせてやってくれ」としみじみ云い、女房のお信を泣かせた。一夜明けると昨夜の事はけろりと忘れ、相変らず暴れ廻る小吉はごろつき侍であっても、悪侍小林隼太を懲し、妙見の禰宜や隣家の岡野家を救うという侠気に、江戸庶民の人気は素晴らしかった。その間、麟太郎は虎之助から免許皆伝を得、蘭学を永井青崖から教えられたが、やはり当時の時勢に入れられなかった。その麟太郎がひょんな事から恋をした。相手は炭屋の娘、辰巳芸者の君江で、彼女が深川の鳶の者にからまれているのを救った事がキッカケだったが、めったにしたことのない麟太郎の喧嘩も小吉とは又違った立派なものだった。以来、君江と麟太郎は時たまの逢瀬を楽しんでいた。小吉は烈火の如く怒ったが、美しくやさしく而もシャンとした彼女の人物に惚れてしまった。(後略)

 前半から中盤までは小吉が中心、後半は、小吉と麟太郎親子の物語、ということだね。麟太郎の恋の物語も、映画に艶を与えているようだ。

 子母澤寛も、『父子鷹』などの作品があるので、間違いなく『夢酔独言』は、海舟ものを書くにしても参考にしているはず。

 この映画、なんとか見たいものだ。

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勝小吉『夢酔独言』

 では、あらためて『夢酔独言』から三回目。

 前回は、八歳の時、八人対四・五十人の喧嘩をして、父親に三十日押し込めの罰を受けたこと、九歳では、柔術の道場仲間に縛られて天井につらされたが、ただでは負けなかった、ということなどをご紹介した。

 さて、その後の小吉。

 柔術の稽古や剣術の稽古もしていたが、馬に乗ることも大好きな小吉だった。
 もちろん、喧嘩はもっと好き。

 しかし、父親、そして兄は、そんな小吉の将来のため腐心する。

 兄の男谷思考(ひろたか)は、信濃国天領中之条陣屋の代官を勤めていたので、たびたび江戸と信州を行き来していた。
 その兄が、いる時は、そうは遊んでばかりもいられない。

 十二の年、兄きが世話をして学問をはじめたが、林大学頭の所へ連れ行きやったが、夫より聖堂の寄宿部屋保木(ほき)巳之吉と佐野郡左衛門といふきもいりの処へいって、大学をおしへて貰ったが、学問はきらい故、や。毎日ゝゝさくらの馬場へ垣根をくぐりていって、馬ばかり乗っていた。「大学」五、六枚も覚えしや。両人より断りし故に、うれしかった。

 せっかく学問所に通っても、こういう始末。

 兄きが御代官を勤めたが、信州へ五ケ年つめきりをしたが、三ケ年目に御機げん窺に江戸へ出たが、そのときおれが馬ばかりかゝっていて銭金をつかふゆ故、馬の稽古をやめろとて、先生へ断の手紙をやった。其上にておれをひどくしかって、禁足をしろといゝおった。夫から当分内に居たがこまったよ。

 押し込めや禁足、そんな罰を受けて困っただろうが、それでひるむような小吉ではない。

 では、そろそろ今回の主要テーマ、旅に出た小吉のこと。

 十四の年、おれがおもふには、男は何をしても一生くわれるから、上方当(あた)りへかけおちをして、一生いようふとおもって、五月の廿八日に、もゝ引をはいて内を出たが、世間の中は一向しらず、かねも七、八両斗りぬすみ出して、腹に巻付て、先づ品川まで道をきゝきゝして来たが、なんだかこゝろぼそかった。
 夫からむやみに歩行て、其日は藤沢へとまったが、翌日はやく起きて宿を出たが、どふしたらとかろふと、ふらゝゝゆくと、町人の二人連の男が跡よりきて、おれに、「どこへゆく」と聞くから、「あてはなゐが上方へゆく」といったら、「わしも上方まで行くから一所にゆけ」といゝおった故、おれも力を得て、一所にいって、小田原へとまった。其時、「あしたは御関所だが、手形はもっているか」といふ故、「そんな物しらぬ」といったら、「銭を弐百文だせ。手形を宿で貰ってやる」といふから、そいつがいふとおりにして関所も越したが、油断はしなかったが、浜松で留った時は、二人が道々よくせわをして呉たから、少し心がゆるんで、はだかで寝たが、其晩にきものも大小も腹にくゝしつけた金もみんな取られた。
 朝、目がさめた故、枕元を見たらなんにもなゐから、きもがつぶれた。宿やの亭主に聞いたら、二人は、「尾張の津島祭りにまに合わないから、先へゆくから、跡よりこひ」といって立おったといふから、おれも途方にくれて、なゐていたよ。
 亭主がいふには、「夫は道中のごまのはゐというふ物だ。わたしは江戸からの御連れとおもったが、何しろきのどくなことだ。どこを志してゆかしやる」とて、じつに世話をしてくれた。

 あら、小吉、“ごまのはゐ”に、やられてしまったのだ。

 さすがの小吉も、十四歳で遭遇した災難に、“なゐていた”んだ。

 さて、この後、小吉はどうやってこの苦難を脱したのかについては、次回。

by kogotokoubei | 2019-01-25 08:54 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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勝小吉『夢酔独言』

 『夢酔独言』から、勝小吉の半生を辿るシリーズの二回目。

 前回ご紹介した五歳の時の喧嘩は、相手は一人。

 ところが、この男、その二年後に、とんでもないことをしている。

 おれが名は亀松と云。養子にいって小吉となった。夫れから養家には祖母がひとり、孫娘がひとり。両親は死んだのちで、不レ残深川へ引取り、親父が世話をしたが、おれはなんにもしらずに遊んでばかりいた。この年に凧にて前丁(まえちょう)と大喧嘩をして、先は二、三十人ばかり。おれはひとりでたゝき合、打合せしが、ついにかなわず、干かば(鰯場)の石の上におゐ上げられて、長棹でしたゝかたゝかれて、ちらしかみ(髪)になったが、なきながら脇差を抜て、きりちらし、所(しょ)せんかなわなくおもったから、腹をきらんとおもひ、はだをぬいで石の上にすわったら、其脇にいた白子やといふ米やがとめて、内へおくってくれた。夫よりしては近所の子供が、みんなおれが手下になったよ。おれが七つの時だ。

 絵に描いたような、ガキ大将の誕生^^

 七歳にして、喧嘩に負けそうになって腹を切ろうとするあたりが、なんとも凄い。
 命などいつでも捨ててやる、という精神、生涯変わらなかったのではなかろうか。

 「小吉の女房」で江波杏子さん演じる義理の祖母は、こういう子供時代からの小吉の不良ぶりを知っているのだ。だから、この婿には厳しい対応となるのも、むべなるかな。

 さて、勝家の祖母と孫娘(後の小吉の女房)も預かった男谷家は、深川から本所に引っ越す。
 その理由が「たびゝの津波故」と書いている。

 少し調べてみると、小吉が生まれる十年ほど前、寛政三年(1791)の9月4日に、深川洲崎一帯を突然の大津波が襲い、あっという間に三百数十軒の人家と住人たちが飲み込まれたという記録がある。
 深川という場所では、いつどんな津波の被害に遭遇するか分からない、だから、内陸に引越したのだろう。

 さて、その引越し後のこと。

 翌年、よふゝ本所のふしんが出来て、引越したが、おれがいる処は表のほふだが、はじめてばゝどのと一所になった。そふすると毎日やかましいことばかりいゝおったが、おれもこまったよ。不断の食ものも、おれにはまづいもの斗(ばか)りくわして、にくいばゝあだとおもっていた。

 深川の家よりも、本所の引越し先は広かったに違いない。
 そのために、八歳で、初めて、養家の義理の祖母と一緒に暮らすようになった。
 「食いもの」への不満が書かれているが、なるほど、「小吉の女房」における、食事時の小吉(古田新太)と登勢(江波杏子さん)とのにらみ合いには、長~い歴史があるわけだ。

 この義理の祖母と毎日顔を合わせる生活で、小吉の無鉄砲さに拍車がかかったかもしれない。とんでもない、大喧嘩をしでかす。

 おれは毎日ゝそとへ斗(ばか)り出て遊んで、けんくわばかりしていたが、或時亀沢町の犬が、おれのかっておゐた犬と食い合って、大げんくわになった。そのときは、おれがほふは、隣の安西養次郎と云ふ十四斗(ばかり)のがかしらで、近所の黒部金太郎、同(おなじく)兼吉、篠木大次郎、青木七五三之助(しめのすけ)と高浜彦三郎におれが弟の鉄朔(てつさく)と云ふのと八人にて、おれの門のまへで、町の野郎たちとたゝき合をした。亀沢町は、緑町の子供を頼んで、四、五十人ばかりだが、竹やりをもって来た。こちらは六尺棒・木刀・しなゐにてまくり合しが、とふゝ町のやつらをおゐかひした。二度目には、向ふにはおとながまじり、又ゝたゝき合しが、おれが方がまけて、八人ながら隣の滝川の門の内へはいり、息をつきしが、町方には勝に乗て、門を丸太にてたたきおる故、またゝ八人が一生けん命になって、こんどはなまくら脇差を抜いて、門を開いて、不レ残切って出たが、其いきおいにおそれ、大勢がにげおった。こちらは勝に乗って切立しが、おれが弟は七つ斗りだがつよかった。いちばんにおっかけたが、前町の仕立やのがきに弁次といふやつが引返して来て、弟のむねを竹やりでつきおった。その時おれがかけ付て、弁次のみけんを切ったが、弁次めがしりもちをつき、どぶのなかへおちおった故、つづけうちにつらを切ってやった。前町より子供のおやぢがでゝくるやら、大さわぎさ。夫から八人が勝どきを揚て引返し、滝川の内へはゐり、互ひによろこんだ。そのさわぎを、おやぢが長屋の窓より見ていて、おこって、おれは三十日斗り目通止られ、おしこめにあった。弟は蔵の中へ五、六日おしこめられた。

 七人の侍、ならぬ、八人のガキ大将が、相手、四、五十人と戦ったというのだから、なんとも。

 五歳の時も、八歳のこの大立ち回りも、なぜか父親は現場を近くで見ているので、どちらも現行犯逮捕だ。

 三十日ほど、誰とも会えず部屋におしこめられた小吉だが、その数年後、それよりずっと長いお仕置きを受ける日がやって来る。それは、少し後の回で書くことにしよう。

 とにかく、喧嘩は好きで、強かった、小吉。
 
 無手勝流のストリートファイトでは困る、と思ったのだろう、親の薦めで稽古に行ったこともある。
 九つの時、養家の親類に、鈴木清兵衛といふ御細工所頭を勤める仁、柔術の先生にて、一橋殿・田安殿始諸大名、大勢弟子をもっている先生が横綱町と云ふ所にいる故、弟子になりにゆくべしと、親父が云ふ故いったが、三、八、五、十がけいこ日にて、はじめて稽古場へ出て見た。

 この、三、八、五、十がけいこ日、という表現は原文のママなのだが、たぶん、五と八が入れ違っているのだろう。
 
 この稽古で、多勢に無勢で思うようにならなかったこともある。
 とはいえ、ただでは負けないのが、小吉なのだ。

 柔術のけいこばで、みんながおれをにくがって、寒げいこの夜つぶしと云ふ事をする日、師匠からゆるしがでゝ、出席の者が食いものをてんでんにもち寄って食うが、おれも重箱へまんぢうをいれていたが、夜の九つ時分(十二時)になると、けいこをやすみ、みなゝ持参のものをだしてくうが、おれもうまひものをくってやろうとおもっていると、みんなが寄って、おれを帯にてしばって天上へくゝし上げおった。其下で不レ残寄りおって、おれがまんぢうまでくゐおる故、上よりしたゝかおれが小便をしてやったが、取りちらした食べものへ小便がはねおった故、不レ残捨ててしまいおったが、その時はいゝきびだとおもったよ。

 あまり想像したくない場面^^

 さて、そんな小吉が、旅に出るのだが、そのお話は次回。
by kogotokoubei | 2019-01-24 08:47 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛