噺の話

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カテゴリ:今週の一冊、あるいは二冊。( 79 )

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池内紀著『二列目の人生-隠れた異才たちー』(集英社文庫)

 池内紀さんのこの本から、三人目のご紹介。

 その名は、高頭式(たかとう しょく)。

 実はこの本で初めて知ったのだが、私が六年住んだことのある、越後長岡出身だ。
 同じ姓のお店などがあるのは知っていたが、この人のことは知らなかった。

 ちょうど、富士山が舞台のブラタモリの再放送を観たところだが、この高頭式、山に深く関係のある異才だ。

 まず、本書の冒頭から引用。

 東京・市ヶ谷の閑静な一角、少し古びたビルの中に日本山岳会の本部がある。玄関を入った左手がフロアになっていて、壁にずらりと顔写真が並んでいる。歴代の山岳会会長というといかめしい。むしろ人一倍、山好きだった面々のポートレート集といっていい。初代の小島鳥水にはじまって、木暮理太郎、槇有恒、松方三郎・・・・・・。槇隊長によるマナスル初登頂をはじめとして、日本山岳会は数々の輝かしい偉業をなしとげた。あるいは遠征にあたり背後から強力に支援した。
 歴代の「顔」のなかに見慣れぬ一つがまじっている。二代目の位置にあって、ツルリとした頭にまん丸い童顔、きちんとした和服姿だが、病床にあったものか、うしろに枕のようなものが見える。名前まで風変わりだーつまり、高頭式。
 槇有恒(まき ありつね)の名は、マナスル初登頂を成し遂げた日本隊の隊長として、教科書で習った。その名は、まきゆうこう、と覚えている。

 他の会長の名は、正直なところ知らない。
 もちろん、高頭式も。 

 どんな人だったのか。

 明治三十八(1905)年の日本山岳会発足時の規則に、こんな内容が記されている。

 「高頭氏は山岳会の会計に欠損ある場合、向う十年間、毎年千円(会費千人分)を提供する」

 この文の前に、当時の東京帝国大学文科大学講師夏目金之助の年俸が八百円、啄木石川一(はじめ)の岩手の尋常小学校代用教員の月俸が八円、と紹介されている。

 山岳会が赤字なら、毎年千円、それを十年続けると規定された高頭式という人間は、なぜ、そんな大金を拠出できたのだろう。

 その生い立ちについて、ご紹介。

 『越後豪農めぐり』(新潟日報事業社)といった本によると、県内関川村の渡辺家は江戸末期には三千八百石規模の大地主だった。豊浦町の市島家は最盛期には田地二千町歩を数えた。そして高頭式の生家はそんな一つで、長岡郊外深沢村の豪農だった。
 明治十年(1877)の生まれ。本名式次郎。二十歳のとき父が亡くなって家督を継ぎ、家名仁兵衛を名のった。自分では式、あるいは義明を使った。
 
 長岡に六年住んでいた頃、渡辺家は、訪れたことがある。
 しかし、深沢村の豪農高頭家のことは、まったく知らなかったなぁ。
 
 式、あるいは義明は、豪農の家を継ぎながら、何がきっかけで山岳会に関わることになったのか。

 高頭式は十三のとき弥彦山に登って山に開眼した。そのときの体験があずかっていたのかもしれない。のちに『日本山獄志』を著したとき、標高はたいしてないが眺望の大きいことを力説した。『・・・・・・眼界忽ち開けて、北に佐渡島を望み、陸・羽の遠山は模糊として水天髣髴の間に在り』。十三歳の少年はきっと、ひたすら目を輝かせて周りの景観に見入っていたのだろう。『天気晴朗』の日の山頂を述べて、「其爽快なること言語に堪えず」と書きそえている。

 この『日本山獄志』という本が凄い。
 全千ページをこえ、厚さ十五センチ、六十点にあまる写真図版と数十のペン画山岳図、加えて二色刷り・百三十ページに「山獄表」つき、とのこと。

 原稿はすべて和紙に毛筆で書かれていた。積み上げると、まさしく天にとどいただろう。二十世紀初頭に、一国の山を収めて、これだけ完璧な山岳事典が世界のどこかにあったものか。少なくとも、もっとも早い、もっともすぐれた一つだったにちがいない。発行は博文館となっているが、出版費用の全額を高頭式自身が負った。

 有志と一緒に日本山岳会を発足させた翌年の明治三十九年に、この本が、山岳会誌『山岳』と一緒に、世に出された。 
 その後、日本山岳会の運営に、高頭の財力は、欠かせないものとなっていた。

 昭和八年(1933)、小島鳥水のあとを受けて日本山岳会第二代会長につく。ながらくの援助に対する山岳会からの返礼であって、高頭式自身には意にそわない役まわりだったらしく、二年後に早々と退いた。役員の一人が回想している。「・・・・・・いつも高頭さんは役員会に出席しておられた。他の会合でもそうであったように、いつも黙々として語られるところは極めて寡く、談論風発すり若い者の言葉を専らに聴き入って、会が終ると音もなく静かに帰って行かれるのであった」。
 大半が名士の息子たちで、その都会っ子の自慢話を、高頭式がどんな思いで聞いていたのかはわからない。戦後の「農地解放」で大地主があわてふためくなか、彼は自邸を開放して旅館にした。宿の名を「山岳」といって、玄関に高島北海画の槍・穂高屏風、次の間に中村清太郎筆「伯耆大山」、廊下には木下藤次郎の水彩「中禅寺湖」が飾られていた。奥の間は二十畳敷き。昭和二十九年(1954)に訪れた槇有恒が報告しているが。「旅館は御令息夫妻と、令嬢とによって営まれているが、全く旅館といった空気など微塵もない」。
 来迎寺駅を唯一の連絡場所とするその旅館は、世に知られることもなく、近在の者がたまに泊まる、贅沢な空間だった。

 槇がその「山岳」を訪ねた同じ年、高頭式は中風で倒れた。
 日本山岳会のロビーに飾られている写真は。この前後のようだ。

 昭和三十三年(1958)四月没、享年八十一。

 越後の豪農の倅が、酒や博打、女道楽にうつつを抜かすのではなく、日本山岳会という組織のために、家を危うくしてしまった。しかし、彼は“山岳”だけに家財を投入したわけではなかった。

 長岡の日本山岳会事務所を預かる室賀さんや、弥彦山岳会の渡辺さんの回想で、それは証明されている。

 生家跡には背をこす草が茂っていた。昔の写真では松林ごしに冠木門が見え、その奥に白壁をめぐらして堂々とした屋敷が控えていた。今はただ、うっそうと影をつくった藪があるばかり。
「度量の大きな人でしたね」
 室賀さのことばに渡辺さんが無言のまま何度もうなずいた。地区の学校、組合、山の手入れ、道路づくり。一人で費用のおおかたをまかなった。支配人がしぶるのを押しきって、たのまれるとこころよく請け判を捺した。その好人物ぶりを笑う人がいたのだろう、高頭式は大正十四年(1925)に出した『御国の咄し』のはじまりに自分の生い立ちをつづり、そのなかで「馬鹿」といわれたことについて触れている。いかにも自分はノロマで、ボンヤリで、安本丹(アンポンタン)であるが、だからといって馬でも鹿でもない。むしろ「先祖から伝わりました家宝を売りましたり、家屋を壊しましたり致しまするから、それが訛りまして破家(ばか)となりましたものと確信を致して居りまする」。
 大正デモクラシーと労働争議の高まりのなかで、地方では小作争議が頻発していた。隣県富山からはじまった米騒動が、またたくまに全国に波及する。そんな時代相を見つめながら、この「越後の旦那様」は、大地主といったものの行く末をはっきり見定めていたのではあるまいか。

 どんな豪農も、時代の流れには逆らえなかったかもしれない。

 しかし、その趨勢の中で、自分の趣味から大きく発展させて、高頭式は、二列目ではあったが、独力でつくった山岳大辞典とも言える著書を著し名を残した。

 高頭式を知っていたら、もう少し、長岡時代に訪ねるべき場所や人もいたのに、と悔やむ。

 このシリーズ、これにてお開き。
 他の異才たちについては、ぜひ、実際に本書をお読みのほどを。
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by kogotokoubei | 2018-01-02 09:37 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
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池内紀著『二列目の人生-隠れた異才たちー』(集英社文庫)

 落語の『二番煎じ』をはさみ、この本からの、二番煎じ。

 ご紹介するのは、福田蘭童。

 一回目の記事に、取り上げられた人で知っている名は橋爪四郎のみ、と書いたところ、佐平次さんからこの人も知っているでしょう、とコメントを頂戴したが、実は、知らなかった。

 この方の父親とご長男は、知っていた。

 まず、お父上のことから。

 画家青木繁の評価はとっくに定まっている。伝記、評論、画集など、いろいろとある。その年譜には東京美術学校卒業と同じ年に、こんな記述があるはずだ。
「房州布良へ写生旅行(坂本繁二郎、森田恒友、福田たね同行)。『海の幸』『海景』など制作」
 天才画家がはじめて自分の天分を作品にした意味深い旅行だった。だが、つづく翌年の出来事には、さして注意が払われない。
「明治三十八年(1905)、一子幸彦(のちの福田蘭童)誕生」
 福田の姓からもわかるように福田たねとのあいだにできた。房州布良が二人を結びつけた。海彦の里にちなみ、ついては「幸」を念じて「幸彦」と名づけたのだろう。このとき父親青木繁は二十四歳、福田たねは二十一歳。
 青木繁の名は、知っていた。
 しかし、その長男のことは、この本で初めて知った。
 佐平次さんの年代よりは少しだけ若いので、笛吹童子は知っていて、♪ヒャラーリ、ヒャラリーコ、という笛のテーマソングも聞いたことはあるが、その音楽を担当した人の名をそらんじることができる同時代のラジオを聞いた世代ではないのですよ^^

 昭和15年生まれの著者は、もちろん同時代で、あのラジオを聞いていた。

 番組のはじめにスタッフの紹介があった。そのはずである。というのは「作・北村壽夫(ひさお)」を記憶のはしにとどめているのだから。しかし、ほかは何一つ覚えていない。ただし、「音楽・福田蘭童」を除いてのこと。そして、この「音楽・福田蘭童」は「作・北村壽夫」よりも何倍か強く印象づけられた。蘭童というナゾめいた名前が呪文のようにある世代を呪縛した。

 このナゾめいた名の持主のご長男は、よく知っている。
 福田蘭童の長男、石橋エータローが「笛吹童子」のころを回想したなかで述べているが、NHKに父親を訪ねたとき、ちょうど主題歌の録音中で、尺八を片手にオーケストラの指揮をしていた。横笛もいろいろ工夫して、自分でつくって吹いていたそうだ。曲の最後が中途半端だというと、蘭童は答えた。
「まだ何かありそうな気分にしたかった。おまえのやっているジャズとはちがうからな」
 石橋エータローは本名英市、姓が福田ではなく石橋なのは母親が離婚をしたからだ。

 父親の天才画家と言われる青木繁、そして、ご長男の石橋エータローの名を知っていたのだが、蘭童はこの本で初めて知った。

 エータローにとって父蘭童は、「物心ついた頃からオヤジは死んだことになっていた」とのこと。
 十七、八歳の時に生きていると分かり、母親の禁令を無視して蘭童に会いに湯河原まで行ったと回想している。

 その蘭童も、親の愛には恵まれない少年だった。

 青木繁は一子誕生の翌年、わが子を恋人の両親に押しつけて郷里へ帰ってしまった。娘の「不始末」に困惑したのだろう、その両親は預かった子供を養子として入籍した。ために母と子は、戸籍の上では姉と弟になっている。

 預けられた栃木から上京して小石川の中学に通った蘭童は、知り合いの先生宅を訪ねて、床の間にあった尺八をいじってこっぴどく叱られたことがくやしくて、本格的に尺八を習うようになる。
 琴古流荒木派の関口月童、月童が倒れた後、水野呂童についての猛稽古の末、次のような逸話まであった。

 井伏鱒二はまた人からの話だがと断った上で、「福田蘭童は指先で紙に触ってみて、その紙の色彩を云いあてることが出来る」と述べている。机の上のマッチ箱を指でおさえ、下側のレッテルの色をいいあてたこともある。

 中学生で、すでに師範格、同時にピアノを習い、洋楽を学んだとのこと。

 独立したのち一派をおこして、これまで秘伝扱いされていた尺八に五線譜を導入した。晩年の弟子である横山勝也は「修行帖」のなかで「今でこそ誰でも使う奏法である、タンキングや情感の表現としてのポルタメントやレガート奏法、甲ツのメリを四と五孔開けの替え運指で出したり、の技法を、いち早くわがものにしていた若い蘭童の天才ぶりをあげている。

 蘭童がその名を残したのは、尺八ばかりではない。
 きっと、栃木での少年時代の川釣りからの発展なのだろう、釣りの名人とも言われた。

 西園寺公一の『釣魚迷』には釣り三昧だった蘭童の日常が語られている。「-日本が真珠湾の奇襲から太平洋戦争に突入する少し前の頃だ」と書き添えてある。人みなが好むと好まざるとにかかわらず軍国主義に流されていくなかで、そんな時代相をいっさい黙殺するかのように釣り糸を垂れたいた。
「魚釣りはたのしい。釣れないときより釣れたときのほうが嬉しいにきまっているが、釣れた魚をその場で、調理して食べるのはまた格別である」
 蘭童は開高健のように『釣魚大全』などといった大げさなタイトルはつけなかった。その著書はまったく、これ以上ないほど自然な名づけ方で、『釣った魚はこうして料理』。

 渋谷に、数年前、居残り会メンバーで忘年会を開催した三漁洞がある。

 佐平次さんから、石橋エータローの奥さんのお店とお聞きしていたが、その元は蘭童だったんだなぁ。エータロー亡き後は、奥さんが仕切っている。

 「三漁洞」では調理室に入ることはせず、そっと店に顔を出して、片隅で酒を飲んでいた。味見をすると、たいていはほめた。おりおり、何げない口ぶりで魚の特長や料理法のコツを洩らしたりした。いつもきちんとスーツを着て、ネクタイをしている。年をとっても独特にイロ気があって、若い嫁は義父と顔が合うたびに胸がドキドキしたそうだ。

 嫁の胸をときめかせる、粋でダンディで、かっこいい義父だったということか。
 
 本書では、その蘭童が、父青木繁に対して、複雑な思いを抱いていたことが、久留米に父の墓詣りをした時の逸話からうかがえる。

 天才画家の子をして生まれ、尺八、釣りで名を残した福田蘭童を、恥ずかしながら、この本で初めて知ることができた。
 
 もう一人位、本書から紹介したいが、他の記事を挟むかもしれない。

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by kogotokoubei | 2017-12-29 12:21 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 23日に葉室麟が亡くなっていたことを知り、ただただ意気消沈。

 最近も、織田信長の娘の数奇な人生、そして、その夫、蒲生氏郷という武将の健気な姿が描かれた『冬姫』を読んだばかり。

 名作『銀漢の賦』が『風の峠ー銀漢の賦ー』という題でNHKで放送された時、いくつか記事を書いた。
2015年1月30日のブログ
2015年2月6日のブログ
2015年2月20日のブログ


 直木賞受賞作の『蜩の記』は、もちろん、数多くの良質な時代小説を楽しみにしていたし、今後も多くの傑作を著してくれるものと期待していたのに。

 まだ、六十六・・・・・・。

 葉室麟のことは、別途書くとして、今回の記事のこと。

 今日12月25日は、大正天皇の祥月命日。

 期せずして、その大正天皇と深い関係のあった人に関する記事になった。

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池内紀著『二列目の人生-隠れた異才たちー』(集英社文庫)

 この本は、昨年、NHK FMラジオの「日曜喫茶室」の過去の放送の中で、著者池内紀さんが、当時の「近刊」として説明していらしたのを聴いて知っていた。
 最近になって古書店で文庫を見つけ迷わず購入。
 記憶が曖昧だが、「日曜喫茶室」で池内紀さんは、トップランナーではなく、その後ろを走ってきた人にも、さまざまな人生があって、それに興味を持って調べ始めた、というようなことをおっしゃっていたと思う。

 本書は、2003年に晶文社から単行本として発行され、五年後に集英社文庫入り。

 取り上げられた人物を目次から拾ってみる。

  大上宇市  もうひとりの熊楠
  島 成園  松園のライバル
  モラエス  ハーンにならない
  中谷巳次郎 無口な魯山人
  西川義方  天皇のおそばで
  高頭 式  先ズ照ラス最高ノ山
  秦 豊吉  鴎外の双曲線
  篁 牛人  志巧を見返す
  尾形亀之助 賢治の隣人
  福田蘭童  尺八と釣り竿
  小野忠重  版の人
  中尾佐助  種から胃袋まで
  早川良一郎 けむりのゆくえ
  槁爪四郎  もうひとりのトビウオ

 私が知っていたのは、橋爪四郎のみ・・・・・・。

 本編の紹介の前に、印象に残る言葉「記憶の訪問」について、「はじめに」からご紹介。

  はじめにー「記憶の訪問」のこと

 幸田文(あや)は父の露伴から家事その他きびしい躾を受けた。二十四のときに嫁いで十年後に離婚。だから「結婚雑談」というエッセイのはじめに、自分は離婚した経験をもつ女だから、結婚について満足なことは何一つ言えそうにない。もし言うとすると、「いびつな過去」を思い返して、「いびつなままの現在」から話すしかない。と断っている。
 この場合の「いびつな」は謙虚さから出た言葉だろう。大きな経験を、よく耐えた人に特有の意味深いことがつづられている。
 二十代のはじめから何度か見合いをした。そのうちの一つが結ばれて、あとは流れてしまったわけだが、流れ去ってあとかたもなくなるはずのものに、流れてもなお余情のあるものがある。恋ではなく特別な事件でもなく、なんとなく心に残る人のおもかげといったもの。だからこそ結婚というのが大きな事柄であることに、あらためて気がついた。
「結ばない縁のはしばしにも忘れないものがあって、こうして三十年過ぎた今も記憶の訪問に逢うからである」
 ちょうどこの『二列目の人生』を書いているときだった。「記憶の訪問」という言葉がひとしお身にしみた。まさにそんな気持ちで一人、また一人と対面していたからである。
 何か一つのことに打ち込んだ人は、たいていの場合、独自のルールをもっている。そのためしばしば世間から変わり者扱いされたりした。
 (中 略)
 あきらかに、その人でなくてはありえないエピソードなのに、なぜか誰にあってもあかしくないようでもある。どうやら夢のありかを伝えているせいらしい。
 
 「記憶の訪問」とは、なんとも味わい深い言葉だと思う。

 そうそう、ふいに、過去の記憶の訪問を受けることがある。

 この中から、もうじき祥月命日を迎える大正天皇の侍医でありった西川義方について、紹介したい。
 ちなみに大正天皇は、明治12(1979)年8月31日に生まれ、大正15(1926)年12月25日の崩御。だから、昭和元年は、たった六日しかなった。

 西川義方の凄さは、彼が残した医者にとって大事にされていた書物が物語っている。

 もしかすると、ちいさいときに目にしたことがあったかもしれない。腹痛で近所の医者にいった。老先生が診てくれた。白い髪に鼻ひげ、ズボンつりをつけた腹がまん丸い。聴診器を胸にあてられると、くすぐったいのだ。からだをよじらせているうちに、いつのまにか腹痛が消えていた。
 生水は飲まない。ご飯をよく噛んで食べる。食事のすぐあと駆け出さないー老先生はそんなことをいった。いちいち思い当たる。神妙な顔で聞いている間、目は一心にあたりをながめていた。不思議な形の瓶や皿、瓶のレッテル。ガーゼの束、消毒液。ガラス戸棚に大きな本が並んでいる。見なれない漢字のせいで魔法の書物のようだった。はしに一つの青い本があって、背が低いわりに厚ぼったい。のべつ開かれるらしく、はしが手ずれでほつれている。
 西川義方著『内科診療の実際』といった。刊行は南山堂。古い医家にはきっと一冊そなわっていたはずだ。表紙の色のせいで通称「青本」。大正十一年(1922)に世に出て以来、半世紀あまりにわたり、たえず版を改めた。途中に息子が手助けして、西川義方・西川一郎著となって、役割を終えた最後の版が昭和五十年(1975)の改訂七十版。総部数はいったい、どれほど数えたものか。
 途方もない著書である。手にとると、だれだってそんなふうに思うだろう。三千ページちかくに及んで「医」にかかわるあらゆる情報がつまっている。著者はその世界を大都に見立てたようだ。そこに入るべき二つの門を考えた。つまり、
  第一門 治療門
  第二門 診察門
 門が編に分かれ、編が章に細分化され、章が節で区分され、節が第一、第二、第三と分岐し、それがさらに一、二、三に分けられ、これをまた其一、其二、あるいは①②③が補っていく。

 私も、池内さんと同じような体験がある。

 子どもの頃、風邪をひいたり、腹をこわすと、近所の町医者に連れて行かれた。
 すでにご子息が病院を継いではいたが、大先生も健在で、子供はだいたい大先生が診ていたように思う。
 白髪で、鼻ひげ。
 あの頃は、とにかく注射が嫌いで、太い注射針を見ただけで泣いていたような気がする。だから、大先生は、正直、怖かった。
 しかし、その先生に注射を打ってもらったり、いただいた薬を飲むと、風邪も腹痛の治った記憶がある。名医だったのだろう、きっと。

 その病院の棚には、たしかにいろんな瓶やらの隣の本棚に洋書と並んでぶ暑い青い本があったはずだ。
 北海道の片田舎の先生も、きっと『内科診療の実際』は必読書だったに違いない。
 だから、先生が名医だったのではなく、その本が優れていたのかもしれない。

 こんな凄い本を書いた西川義方とは、どんな人物なのか。

 西川義方は明治十三年(1880)六月、和歌山県海草郡雑賀村に生まれた。父は村長をしていたので、その支援があったのだろう。三高より東大医学部に進学。卒業してすぐに和歌山の新宮病院に赴任。弟の学資稼ぎの意味もあった。数年で東京にもどり、日本医大で教えていた。そのままいけば勉強好きで学生おもいの医学部の先生の一生だったはずである。学界のボスになったりせず、新発見もしなかったが、町医者の六法全書ともいうべきありがたい本をのこしていったー。
 大正八年(1919)、西川義方は大正天皇の侍医に任じられた。入沢侍医長が東大のときの恩師にあたり、その縁で人選が進められていたらしい。当時、天皇の侍医は四人いて、そのうちの一人である。

 侍医になったのは、西川義方、三十九歳の時だ。
 しかし、大正天皇に初めてお会いした際、天皇から「西川、いくつになります」と問われて、西川は「こればかりは御許しを願います」と答えている。
 「言ってもよいではないか」とさらに天皇から問われ、「それではどうか御許しを得まして申し上げまする。西川は三十でございます」と嘘をついている。
 大正天皇は、ひとりごとのように「そんな筈はなかろうに」と呟かれてらしい。

 なぜ、西川は九つもサバを読んだのか。
 彼は、なんでも人間は三十が生命の盛りであって、これをこえると十二分の活躍がむずかしい、と考えていた。だから、いつも三十歳の意気でいたかったかららしい。

 大正天皇は、時に冗談を言って、西方たち侍医を笑わせるような人だったようだが、次第に病魔が襲ってきた。

 侍医に任官した翌年のこと。

 同年七月、宮内省発表。
「・・・・・・御発語に御障害起り明亮を欠くことあり。厳粛なる御儀式の臨御、内外臣僚の引見は御見合せ相成る旨・・・・・・」
 大正十年十一月二十五日、皇太子裕仁が摂政となった。以後は天皇の代理をする。その三日前、宮内省は大正天皇の幼時にさかのぼり、理由をくわしく発表した。
「天皇陛下には御降誕後三週目を出ざるに脳膜炎様の御疾患に罹らせられ、御心身の発達に於て、幾分後れさせらる、所ありしか・・・・・・」
 ために政務においては日夜、ひとしおの苦労があった。目下のところ、おからだにはお変わりはないのだが、「御脳力漸次御衰えさせられ特に御発語の御障害あらはるるため御意志の御表現甚だ御困難に拝し奉る・・・・・・」
 表現がまわりくどく、敬語がのさばっているが、しかし、伝えるべき情報はきちんと伝えてある。何一つ隠しだてせず、言い換えたりも、言いつくろったりもしていない。発表は「まことに恐懼に堪えざる所なり」で結ばれているが、それは自分の年齢を仕事ざかりの三十歳と思いさだめて、専心任務にはげんでいた侍医の思いでもあったに相違ない。

 大正天皇がまだご健在な間に、皇太子裕仁が摂政となって代理をしている、という事実を知り、この度の今上天皇の生前退位問題を思い出した。
 今上天皇は、父が摂政となって健康がすぐれない大正天皇の代理を務めたことを知りながらも、皇太子を摂政とするのではなく、自分が退位する道を選んだ、ということか。
 天皇という名である以上は、どうしても無理をせざるを得ない、ということなのだろうな。
 
 さて、発語障害などの悪化に伴い、なんとか最新医療を知ることで対策を打てないか、ということもあったのだろう、西川義方は、大正十五年(1926)二月に、新医学見聞の公務でヨーロッパに向かった。

 ドイツ語がよくできたし、自分もドイツ医学畑出身なので、旅のコースからもわかるように、ドイツが中心だった。しかし、本になったときは、なぜか北欧にはじまって、イタリア、フランス、イギリスのあと、ようやくドイツが出てくる。実際は一度ドイツを離れてから、イタリア巡歴中に遠路をおしてベルリンにもどった。そしてベルリン郊外ダンドルフの精神病院へ行った。
 プロフェッサー・シュスターに会うためだった。彼から「アルツハイメル氏病」について、くわしく聞いた。ふつう、ブラウスラウ大学教授アロイス・アルツハイマーの発見といわれているが、ダルドルフのシュスター氏が早々と病理解剖をしていた。
 (中 略)
 その臨床報告によると、ある女教師だが、読むこと、書くことができなくなり、何をいっても定まった一語しか発しない。この病は四十五歳から五十五歳に発病して、確実に進行する。西川義方はつけ加えている。「氏によると本病の病理は特定せる局所がない。浸潤もなく又滲出もない」。
 経過は短く、おおかたは数年にして死亡する。数カ月の短い経過で終わったケースもある。
 パリに着くと大使館員より封書を手渡された。入沢侍医長よりの電報が封じ手あった。
「至急御帰朝相成度ー」
 ただちに旅装をととのえ、シベリア鉄道経由で帰国。十二月五日、下関。翌日、葉山着。同月大正天皇没。四十七歳だった。

 内科医の百科辞書ともいえる大著をものにした西川義方も、大正天皇の病を治すことは、かなわなかった。

 西川は、『温泉と健康』という、四百頁、図版が四百五十あまりという本も著している。日本の温泉は、妻と二人で訪れ、「共著たるべきもの」をつくるつもりだったという。
 昭和六年(1931)、妻を病で失った。『温泉と健康』の序に、いかにも明治人間の語彙で、ともあれ青年のような初々しさで述べている。
「一時は、こいしさ、なつかしさ、かなしさ、やる瀬なさの涙に金泥にして、紺紙に写経でもものして、悶々の情を医(いや)さんとも考えた」
 だが、せっかく妻と二人して集めた資料である。約束を果たしてやらなくてはかわいそうだ。「夢見る人の心で、ある時はうれしく、なつかしく、またある時は狂おしく迸る心に鞭をあてて」、ペンを走らせたという。

最後に、大正天皇の微笑ましいお話を。

 宮中には独特の言い方があって、日常の食べ物でも名前がちがう。西川義方は、お得意の図表形式で品目と特別の呼び名の一覧をつくっているが、たとえば葱は「ひともじ」、ソバは「そもじ」、エビは「えもじ」、タコは「たもじ」、タイは「おひら」、イワシは「おむら」。
 大正天皇が元気なころ、京都府舞鶴に赴いたことがあった。大森という知事が説明役で近くの水産講習所に話が及んだ際、知事は「おむら」を知っているかとたずねられた。
「水産講習所を建てながら、魚の名のおむらも知らぬとは」
 と天皇は笑った。
 そのあと天橋立で網を引くと、大量のイワシがかかった。知事が水産講習所長に「おむら」のことをたずねると、所長は首をひねった。専門家も知らぬ魚を、知事が承知していなくてもやむをえないー。一件を紹介したあと西川義方は書いている。「大森はずるいぞ」といって天皇は大いに笑った。
 休憩のあと成相山登山が予定に入っていた。二十町の急坂に先導役の肥っちょ知事があえいでいる。痩せ形の天皇が声をかけた。
「大森、押してやろうか」
 その人が日々、休息に衰えていく。
  
 大正天皇のお人柄が伝わる、逸話。

 この部分前半の“宮中の符牒”の、葱が「ひともじ」で、つい、落語の『たらちね』を思い出してしまった。

 昭和四十三年に八十八歳で亡くなった西川義方という医者の存在を、この本で初めて知ることができた。

 本書からは、あと二、三人、異才をご紹介するつもり。

 ところで、この本の題、「二列目の人生」は、葉室麟作品の主人公と相通じるものがあるような気がしていた。
 葉室麟は、歴史上の人物を題材にする場合、いわば“一列目”で名の通った人はほとんど選ばない。
 そんな気がしながら、この記事を書いていた。
 まだまだ書いて欲しかったなぁ。


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by kogotokoubei | 2017-12-25 23:45 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
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磯田道史著『殿様の通信簿』(新潮文庫)

 さて、このシリーズの三回目、最終回。

 お猿と呼ばれた幼少時の前田利常の人生の転機はいくつかあるが、その一つは「人質」となったことだ。

 『殿様の通信簿』より、兄の利長が関ケ原の戦いで、三州割拠の戦略のもとに中立を保っていた時の話をご紹介。

 この関ケ原の戦いのなかで、「お猿」こと前田利常が、重要な役割を演じている。
 -人質
 になったのである。もっとも、この時代、人質という言葉はつかわない。もっぱら「証人」といった。
 前田家の領地の南には小松城主・丹羽長重がいた。前田家が南下するには、丹羽領を通らねばならない。丹羽は西軍・石田方に与していたから。その領内を通れば、当然いくさになる。丹羽の領地は二十万石にすぎず、百万石の前田の敵ではない。たちまち破った。しかし、丹羽長重は丹羽長秀の子であり、もともと信長の家中であったから、前田家とは親しい。利長は丹羽に対して、これ以上ないというほどの寛大さを示した。
 関ケ原で東軍・徳川方が大勝利したとの一報に接し、負け組に入ってはならぬと思ったのであろう、それまで煮えきらぬ態度をみせてきた丹羽はあわてて講和に応じてきた。利長は、この虫のよい申し出をうけたばかりか、ともに手をたずさえ軍勢をそろえて、徳川家康の陣に向かうことまで約束した。まず丹羽の軍勢を先に歩かせ、その背中に前田の軍勢が火縄銃をつきつけながら、ともに行軍して京都に向かった。ただし、たがいに裏切らぬよう人質が交わされた。丹羽側は長重の弟長紹(ながつぐ)を人質によこし、そのかわりとして、前田側は利長の弟お猿(利常)が人質に遣わされることになった。

 丹羽長重の所領は、空港のある小松。那谷寺も小松にある。

 この丹羽長重という人、結構苦労してきた。
 Wikipediaから引用したい。
 まず、関ケ原以前のこと。
Wikipedia「丹羽長重」

元亀2年(1571年)、織田氏の家臣・丹羽長秀の長男として生まれる。

主君・織田信長の死後は、父・長秀と共に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いや天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い(病床にあった父の代理)に出陣した。

天正13年(1585年)、秀吉から羽柴姓の名字を与えられた。 同年に父が死去し、越前国・若狭国・加賀国2郡123万石を相続した。ところが、同年の佐々成政の越中征伐に従軍した際、家臣に成政に内応した者がいたとの疑いをかけられ、羽柴秀吉によって越前国・加賀国を召し上げられ、若狭1国15万石となり、さらに重臣の長束正家や溝口秀勝、村上頼勝らも召し上げられた。さらに天正15年(1587年)の九州征伐の際にも家臣の狼藉を理由に若狭国も取り上げられ、わずかに加賀松任4万石の小大名に成り下がった。これは、秀吉が丹羽氏の勢力を削ぐために行った処置であるといわれている。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。

その後、秀吉による小田原征伐に従軍した功によって、加賀国小松12万石に加増移封され、このときに従三位、参議・加賀守に叙位・任官されたため、小松宰相と称された。慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、徳川家康から前田利長監視の密命を受けている。
 結構、浮き沈みの激しい半生ではないか。
 たとえば石数は、123万石->15万石->4万石->12万石、と度々の変遷。

 そして、関ケ原以降。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に与して東軍の前田利長と戦ったため(浅井畷の戦い)、戦後に一旦改易となる。慶長8年(1603年)に常陸国古渡1万石を与えられて大名に復帰し、慶長19年(1614年)からの大坂の陣では武功を挙げたため、1617年、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の御伽衆として、細川興元、佐久間安政、立花宗茂らと共に抜擢される(この3名は長重より年長で、武功の実績も多かった)。その後、元和5年(1619年)に常陸国江戸崎2万石、元和8年(1622年)には陸奥国棚倉5万石にそれぞれ加増移封される(なお、前棚倉藩主は、長重と共に秀忠の御伽衆である立花宗茂)。

 最終的には白河に落ち着き小峰城を築く。築城の名手と呼ばれた。
 白河小峰城は日本百名城の一つ。

 関ヶ原の戦いで西軍に与し領土を失った大名の中で、その後返り咲いて最終的に十万石以上を領したのは長重と立花宗茂のみ。

 あぁ、宗茂の名を見ると、今のNHK大河が、史料のほとんど存在しない人物を題材とするのではなく、同じ女城主ならば宗茂の妻、誾千代の物語りであったなら、と思わずにはいられない。
 葉室麟に『無双の花』という宗茂夫婦を素材にした名作もある。

 大河に関しては、ご興味のある方は昨年末の記事をご覧いただくとして、これ位で。
2016年12月19日のブログ


 さて、その丹羽長重は、人質にとった利常をどう扱ったのか。
 おかしなことであるが、人質となったお猿は、生まれてはじめて、まわりから大切にされた。前田家にいたときには、たいして可愛がられていなかったが、丹羽家ではお猿を下にもおかぬように扱った。話がのこっている。お猿が小松城にはいると、当主の丹羽長重がじきじきに出てきて、梨を食べさせてくれた。
 -自身、梨子の皮など取り進ぜられ候(『松梅語園』)
 とあるから、丹羽長重は八歳のお猿をみて、
「梨をむいてあげよう」
 といい、長重自身が小刀で梨の皮をむいてお猿に食べさせたことがわかる。利常はこのことをのちのちまで覚えていて、梨を食べるたびに、家来たちに語った。
 丹羽長重という人の優しさを物語る逸話だ。
 そして、長重には、人を見る目があった。
 お猿の非凡さをはじめに見ぬいたのは、どうもこの丹羽長重であったらしい。何を思ったのか、長重はお猿の顔を見るごとに、
「利長公はまだ若くて、これから子供も出来るだろうけれど、お前さんは何があっても最後には、三カ国を手にするだろう」
 八歳の子どもをまえにして、そういうことをいった(『耳底記』)。
 (中 略)
 八歳のお猿の心に、丹羽長重は、
(前田家の総大将になるかもしれない)
 という希望の種を植えた。
 この“希望の種”というのが、利常のその後の人生には大きかったように思う。

 後々まで梨を自ら皮をむいて食べさせてくれた丹羽長重のことを忘れなかった利常は、長重を父親のように慕っていたのだろう。
 利常が、寛永16(1639)年に、小松城を隠居城として再築していることからも、丹羽長重の存在は、利常には小さくなかったと察する。

 その人質生活を終えてからのこと。
 前田家では、関ケ原の貢献によって所領を加増された祝いがあった。

 当時、祝いといえば、能見物で、前田家一門の子どもたちが一堂にあつまっていた。ところが、どうもお猿だけは、他の子どもと異なっていた。まず、これから能がはじまるというのに、ちっとも落ち着いておらず、乳母につれられて、座敷のあちらこちらを遊びまわっている変な子どもが一人いた。お猿であった。生田四郎兵衛という侍が気づいて、乳母のほうに声をかけた。
「この子は誰の子ですかな。目のうちと、骨柄が、余人と違う」
 前田家の重臣の子どもとでも思ったのであろう。生田は重ねて、
「これは、ただの人の子ではない」 
 といった。
 (中 略)
「眼の見入りが、他に異なる。大名の子に見える。いい器量じゃ」
「ええ。越中守山で育ったお猿様です」
 そこで乳母は子どもの正体を明かした。生田は一瞬、驚いたような顔をして、それから破顔一笑して手をつくり、
「ただ者ではないはずじゃ。珍しい殿様ですなあ。そういう弟君がいるとは聞いていましたが、お目見えしたのは初めてです。今年でおいくつになられます」
 と急に丁寧な口調になった。生田はよほど感動したらしく、お猿を肩に抱き上げた。そして居並ぶ子どもたちの席をじっと見回し、一番、上座の席にお猿を置き、
「ここに座って、能見物をしなさい」
 と丁寧に言った。驚くべきことに、このときまでお猿は家来筋の子どもたちよりもずっと下座に座らされていたのである。これが、お猿こと利常が家来にまともに扱われた最初であった。
 この生田四郎兵衛の行動も、また、お猿の人生の転機と言えるのかもしれない。
 ちょうどそこに、利長がはいってきた。一番の上座に見慣れない子が座っている。
「あれは誰の子か」
 利長はいった。誰の子ではない。このお猿が人質になったおかげで、前田家は関ケ原合戦後、後顧の憂いなく、残敵をみな召し連れて、徳川家康のもとに上洛できたのである。今回んぽ加増もその功によるところが大きいのであるが、利長は本当にこの弟の顔を知らなかった。生田はあわてて、利長に、
「お猿様でございます」
 と耳打ちした。
 利長はすぐにお猿を側によび、その顔をまじまじとみた。お猿もじっと利長をみた。最初に、口をひらいたのは、利長のほうであった。
「大きくなったな。眼が大きい」(『三壺記』)、「おまえは目のうちが良い」(『微妙公(みみょうこう)夜話異本』)。
 そういった。利長が何より驚いたのは、お猿の体格であった。当座としては、異常な大男であった父・利家の体つきに、瓜二つなのである。
「骨組み、たくましく、一段の生まれつきかな」
 とため息をついた。利長は、
(どうも、この子は、たくさん飯を喰いそうだ)
 と思ったのであろう。すぐに上木半兵衛をいう侍をよんで、怒鳴った。
「おい。おまえ。今日からこの子に付いて、朝夕に飯をしっかり食べさせてやれ。ちゃんと育てろ。へまをするな」
 養育係の侍二人と、権内という草履取もつけてくれた。お猿の暮らしぶりは、それまで悲惨であったから、かたわらにいた乳母の目には、涙が浮かんだと、記録にはある。

 この時から、お猿の運命が大きく変わったわけだ。
 
 利長には子がいなかったので、前田家の永続のためには、養子をとらなければならなかった。利長には他にも弟がいたのだが、その誰も養子にする決心がつきかねていた。
 
 あるとき、友人の浅野弾正・蒲生秀行・細川忠興らが前田屋敷にやってきて食事をした。そのとき、浅野と細川が、思い切って利長にいったらしい。
「あなた様には実子がない。誰か養子を決めておいたほうがよいのではないか」
 利長も心配であったらしい。こう答えた。
「内々、そう思っている。しかし、弟の大和(利孝五男)は公家のようで色が白くやわらかな男。ほかに七佐衛門(知好・同三男)とか七兵衛(利貞・同六男)というのがいるが、どちらも馬鹿なので、私は気に入っていない」(『三壺記』)
 あまりに弟たちを悪くいうので、浅野も細川も困った顔をして聞いていたのだろう。利長は言葉を続けた。
「ただ、猿という弟が一人いる。色が黒く、目玉が大きく、おおいに骨太な子。姉に養育させていますが、これを養子にしたい」
 いかなる気基準で、利長が前田家の跡継ぎをえらんだのかよくわかる。
 (中 略)
 こうして、お猿はあっという間に、
 -前田家の世子
 となった。越中の片田舎で暮らしていたときには考えられないことであり、
「まさか、あのお猿が・・・・・・」 
 と、人々は驚いた。世子になると、名前も変わる。利家公の輝かしい幼名、
 -犬千代
 を名乗ることがゆるされた。とうとう、猿が犬になるというあり得ないことがおきた。「猿」ではなく「犬」とよばれたこの瞬間から、利常の殿様らしい人生がはじまった。

 磯田道史の本には、その後の大坂夏の陣での利常の活躍なども記されている。
 武にも秀でていたが、この人、頭も良かった。
 家光の代には、廃藩につながるようなことはもちろんしないが、笑えるような小さな、そして無邪気な抵抗を利常は行って、「加賀様は、しょうがない。ほうっておけ」というムードをつくることに成功している。

 その後の代々の藩主や側近の努力も、加賀藩が江戸の世を生き延びた大きな要因ではあるだろう。

 利家の妻まつが、長きに渡って徳川家の人質になったことも、前田家存続の礎にはなった。
 
 なんといっても、利長は、藩のために自らの命を捨てたと言われる。
 家康に睨まれていた利長は、秀忠の娘を嫁にもらった利常に、いち早く藩主の座を譲るため、自ら毒を飲んだと金沢では信じられている。

 なにより、加賀藩が、もっとも存続の危機にあった家康、秀忠、家光の代において、利常という人材を得たことが、存続につながる大きな要因なのだと思う。

 利長は、利常なら加賀藩、前田家を任せられる、と考えたに違いない。

 利常が前田家三代目になったことこそ、徳川家最大の仮想敵であった百二十万石の加賀藩が、生き残った大きな理由であると、私は思う。

 ということで、このシリーズのお開き。

 つい、加賀への旅がきっかけで、長々と書いてしまいましたが、お付き合いいただき、ありがとうございます。


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by kogotokoubei | 2017-09-13 12:59 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
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磯田道史著『殿様の通信簿』(新潮文庫)

 さて、加賀前田藩が、なぜ江戸時代を生き延びることができたのか、磯田道史著『殿様の通信簿』を元に振り返る記事の二回目。

 前回の記事では、利家の長男で二代目の利長が、その客観的な自己分析や「三州割拠」という戦略で前田家の存続を図ったことを紹介した。

 今回は、利長の異母弟であり、利長の後を継いだ利常について。

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 写真は、那谷寺の「奇岩遊仙境」。

 利常の名は、この度の同期会加賀の旅の最終日に訪れた那谷寺で目にした。
那谷寺のサイト
 那谷寺のサイトには、寛永年間に、火災で衰退していた那谷寺を利常が鷹狩りの時に見つけて、本殿、唐門、拝殿などを造ったと紹介されている。
 利常は、この那谷寺がある那谷村付近を自身の隠居領としたほどだった。

 さて、その利常、すんなりと兄の利長の後を継いだわけではない。

 『殿様の通信簿』には、その出生につながる出来事について次のように書かれている。
 そもそも、この前田利常という男、その生い立ちからして、歴史に登場するはずの人物ではなかった。産声をあげ、へその緒を切ったときには、誰も、その赤ん坊が加賀百二十万石の太守になる、とは思っていなかった。前田利家の胤(たね)ではあったけれども、あまりにも、母親の身分が低すぎた。
 天正二十(1592)年、豊臣秀吉は朝鮮への出兵をはかり、日本中の大名を九州に集めた。
 -肥前名護屋
 というところに築城し、男くさい武将たちをそっくり集めたのである。陣中だから、当然、女はいない。女がいなければ、男の不満はつのる。それでなくても、朝鮮への出兵には異論が多いのに、女もいない、となれば、まったく目もあてられないことになる。喧嘩狼藉さもなくば脱走がはじまる。そのあたり、さすがに秀吉は人物のい機微に通じている。一つの命令を下した。
「陣中では、さぞ不自由であろう。ここで洗濯女を雇うように、国元から下女を呼び寄せるのも勝手次第」
 秀吉は機智がはたらく、そう言っておいて、次の一言を付け加えるのを忘れなかった。
「嫉妬するような妻で、下女を遣わさないようなところは、妻本人が来なさい」
 こういわれると、妻は来られない。のこのこ出て行けば「私は嫉妬する妻」ということになり、物笑いの種になる。それをいいことに、武将たちはこぞって、妻よりも若く見目の良い女を洗濯女として呼び寄せはじめた。

 あの朝鮮出兵が、前田利常の出生に関係していたのだ。
 戦地での大名たちの気を紛らわすための秀吉の知恵が、妻ではなく洗濯女呼び寄せだったのだが、前田家でもその洗濯女の“応募”が始まった。

 しかし、前田家では困ったことになった。前田利家の妻まつは、まさに「嫉妬するような妻」で、気が強い。ほかの女が夫に近づくなど許せないたちである。しかし、秀吉に言われ、下女を肥前名護屋に送らぬわけにはいかなくなった。『残嚢拾玉集』という古書によれば、金沢城にあって、まつは下女たちに言ったらしい。
「誰か、肥前名護屋に下るものはいないか」
 ところが、女たちは誰一人として、声をあげるものがいない。まつの性格のきつさは天下に知れ渡っている。
(下手のことをいいだせば、まつ様に殺される)
 そのぐらいに思っていたのであろう。


 前田利家の正室、まつ。その後の芳春院は、NHKの大河「利家とまつ」でも描かれたように、実に気丈な女。いくつも逸話は残っているが、たとえば天正十一(1583)年、あの賤ヶ岳の戦いで柴田勝家方に与した利家が敗走した危機一髪の時に、越前府中で羽柴秀吉に会って和議を講じ、夫利家の危機を救ったことは有名。また、翌天正十二年には、佐々成政に末森城を強襲された際、蓄財に努めていた利家に対し「金銀を召し連れて槍を突かせたら」と皮肉って鼓舞したと言われている。
 利家の出世、いわば加賀百二十万石には、まつの存在が大きい。
 
 誰も肥前名護屋に行くとは、言い出しかねる状況であったことは、十分に察することができる。
 しかし・・・だった。

 しばらく、沈黙が流れた。末席から声がした。
「私が行きましょうか(私、まかり下るべきや)」
 という二十二歳の娘があらわれた。名を「ちよ」。皆は「ちよぼ。ちよぼ」とゆんでいた。下女である。
 まつは表向き喜んだふりをして、
「それならば、名護屋陣中に下っておくれ」
 といったが、その内心は穏やかではなかった。ちよに対して、まつが笑顔をみせたのは、この日一日だけであり、その後、何十年にもわたって、無視しつづけ、無言の苛めをやりつくし、最後に、再会したときには、
「おまえ!いざという時は前田家の為に死になさい。それを言いたかっただけ」
 そうピシリといって、さっさと対面をきりあげたと記録にはある。
 まさに、恐れ知らずの行動。
 著者磯田道史は、その強烈な遺伝子こそが、その後の前田家の運命を左右することになる、と書いている。

 そう、この下女ちよこそが、前田利常の母。
 文禄二(1593)年、ちよは名護屋の陣中で利家の子をひっそりと産み落とす。
 利家とまつの間には多くの子が産まれ、男の子も多かったから、下女の産んだ子はまったく大事にされることはなかった。
 だが、この子に転機が訪れる。とはいっても、利常には何度も運命を変える“あの時”があるのだが、その最初の転機は、怖い存在である、まつのいる加賀の地から離れたことだと思う。
 この赤子は母親のちよと、ひっそりと暮らしていた。ところが、だいぶん育ってきて、かわいくなってきた盛りに、突然、父の利家がこういった。
「この子は越中の前田対馬に預ける」
 この一言で、母親と引き離された。当時、大名の子が、里子に出されるのは、珍しいことではなかったが、城下の家臣のところに遣るのが普通で、遠い隣国に遣るのはめずらしかった。一説によると、利家がまつに遠慮したため、そんな遠くへ遣ったのだという。
 まつが利常の母ちよに最後に語った言葉から察しても、もし、金沢城下に母子が住んでいたなら、利常が前田家の三代目の太守になることはありえなかったと思う。
 
 そもそも、利常の幼年期につけられた名が、当時の利常への扱い方を示していた。
 このとき、利常は「お猿」とよばれていた。誰がそう名づけたのかはわからない。父・利家の幼名は「犬千代」であって「お犬」とよばれていた。大名の子どもの幼名は、そのまま身分をあらわす。徳川家では家康の幼名「竹千代」が、前田家では利家の幼名「犬千代」が重んぜられた。家をうけぐ嫡子には、必ずといってよいほど、この名がつけられた。実際、幕末まで、前田家では嫡子には「犬千代」とつけ、「高徳院(利家)様のようにおなりなさいませ」
 と、奥の女たちに常に言われながら育てられた。だから、前田家の奥向きでは「犬」とよばれている子どもだけが特別の存在で、それ以外は、どうでもよい子どもであった。犬とは疎遠の「猿」などと名づけられ利常のような子は、生きようが死のうがどうでもよいあつかいであった。

 では、越中で暮らす「猿」に、その後なにが起こったのか。

 六歳になったとき、急に、父の利家が「会いたい」といってきた。慶長三(1598)年三月下旬のことである。
「これから草津の湯に入りに行く。越中を通るから、お猿を宿につれてこい」 
 利家はそういい、にわかに親子の対面がきまった。「御成人にて初で大納言(利家)様に御対面」(『陳善録』)とあるから、それまで一度も会っていなかったのは確かである。お猿をみて、利家は大層よろこんだらしい。
 -ご機嫌よく、御いとおしがり、大方ならず
 と伝わっている。利家はお猿の姿をみるや、大声でいった。
「刀と脇差を持ってまいれ!」
 利家はお猿に与える刀と脇差を用意していた。運ばれてきた刀が豪華なものであった。金箔が打ってあって、金色にピカピカ光っていた。お猿(利常)はのどをゴクリとならし、夢心地でその刀を父の手から受け取っている。

 
 この内容からしても、利家は、たんに思い付きで、草津に湯治に行くついでに「お札」に会おうとしていたわけではないような気がする。
 女房まつの性格を思い、遠く越中に遣ったものの、寂しく暮らす子への思いが日々募っていたのではなかろうか。


 そうそう、この後に、今回の旅行でも箔座本店を訪ねたが、加賀の金への執着のルーツについて記されているのでご紹介。

 前田家には、信長ゆずりの華美な家風がある。信長の家中は武具が派手で、赤や金色の刀や槍で衆目を驚かした。前田家中は信長軍団の「破片(はへん)」といってよい。信長の残した軍団がそのまま北国の地に根付いたもので、思想も、美意識も、信長の好みを受け継ぎ、金箔の文化もその一つであった。信長は居城安土城の屋根に金箔を貼りまくったように異様に金を好んだ。金を愛でる美意識は、信長・秀吉・利家ときて、利常とうけつがれていく。ともかくも、幼い日、利常の目に焼きついた金箔の光はのちのちまで加賀の文化に影響した。


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      *箔座本店の「金の茶室」

 箔座本店には、上のような「金の茶室」があって、つい、「秀吉と箔座さんだけですねぇ」なんて軽口をたたいたのだが、あくまで、前田家の金の伝統は、織田信長譲り、ということだね。
 箔座では金箔入りのお茶をいただき、金粉を手や顔に塗り、金箔で表面を覆ったチョコレートケーキを土産に買った。なかなか美味かったよ、あのケーキ。

 さて、「お猿」と呼ばれていた利常に初めて対面した利家は、ただ、刀や脇差を与えただけではなかった。

 このとき、利家は、余程、お猿が気に入ったらしく、思わず抱きついたらしい。面白いのは、現代の我々のように、ただ抱きついただけではないことである。戦国武将らしく、我が子の肉付きをみた。
 -ふところまでも御さすり御覧なされ候
 利家はお猿のふところに手を入れ、丈夫な子であるかどうか、肉を触ってみたのである。戦国の武士にとって、筋肉は死活をわけるこのであり、我が子の肉付きをみて、その戦士としての性能をみるという究極のリアリズムが利家にはあった。
 事実、お猿は、どの子よりも利家の体つきをよく受け継いでいた。六歳にしては異様に体が大きく、頑強にみえる。利家がお猿をみて、はしゃいだのは。そのせいもあった。利家が死んだのは、そのちょうど一年後のことであった。

 利家の妻、怖い怖いまつに恐れることなく、肥前名護屋に洗濯女として利家の寵愛を受けることになった、母ちよの豪胆さ。
 その妻まつから遠ざけるため、越中で母ちよと暮すことになった、お猿と呼ばれた利常。
 そして、草津の湯治の通り道ということで、その頑強な体を見た利家が喜んだ初の対面。

 そういった幼少年期を過ごした利常が、加賀藩三代目太守となるその後のいきさつは、次の三回目の記事でご紹介することにしよう。

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by kogotokoubei | 2017-09-12 12:47 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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磯田道史著『殿様の通信簿』(新潮文庫)

 同期会加賀の旅から帰って思い出した本を、棚から引っ張り出した。

 磯田道史の『殿様の通信簿』は、多くの古文書を元に書かれた本だが、その中でも特筆すべきなのが、元禄期に書かれた『土芥寇讎記(どかい こうしゅうき)』だ。
 同書は、謎の本と言われており、幕府隠密による秘密諜報の記録で、諸大名の内情を幕府高官がまとめたものという説がある、と著者は解説している。
 とにかく、貴重な本であることは、「はじめに」で次のように書かれていることでも分かる。
書き写すことが、よほど厳しく禁じられていたようで伝来する写本が極めて少ない。かつては二冊の写本が残っていて、東京大学史料編纂所に一冊、旧広島藩主浅野侯爵家にもう一冊あったが、浅野本家は原爆で焼かれてしまい、今では、この世に一冊しか存在しない。

 この世に、ただ一冊、なのだ。
 戦争、あるいは原爆は、いろんな日本の宝を焼き尽くしてしまったのだなぁ。
 「はじめに」のこの続きをご紹介。
 この書物を世に出したのは、東京大学史料編纂所の金井圓(まどか)教授(当時)であった。金井教授は、この書物が、
①おそらく幕府高官が隠密の「探索」に基づいて書いたものであること、
②元禄三(1690)年ごろに書かれたもので、当時の大名二百四十三人の人物評価を載せた稀有な書物であること、
③現存するのは東京大学史料編纂所の一冊だけであること、
 などを明らかにし、昭和四十二(1967)年に、みずから原文を解読されて、この書物を活字化された。これが校注・金井圓『土芥寇讎記』である。

 金井教授の努力によって、貴重な記録が発掘された、ということか。
 この後に、「土芥寇讎」の意味についても、説明がある。

 「土芥寇讎」とは聞きなれない言葉だが、『孟子』にその出典がある。
「君の臣をみること、土芥のごとければ、すなわち、臣の君をみること寇讎のごとし」
「殿様が家来をゴミのように扱えば、家来は殿様を仇のようにみる」
 そういう意味である。江戸時代には「四書五経」を、そらんじているのが、教養人の基準になっていたから、『孟子』のなかにある「土芥寇讎」という言葉は江戸の士人にとっては、ごくありふれた言葉であった。
 殿様が家来をゴミのように扱うと、家来は殿様を仇(かたき)のようにみる・・・か。
 今の日本がそうだ、と言うと言い過ぎかな。

 あらためて江戸時代の教育と現在のそれと、果たしてどちらが正しいのか、という疑問が浮かぶ。
 「四書五経」などと言うと、現在では右がかったかのような印象を与えるが、かつては寺子屋で子供たちが学んでいたのだ。
 平成の世と江戸時代を比べるのは無理があるのは承知だが、読み書き算盤が男の子への教育の基本であり、武家屋敷や商家への奉公のために女の子は裁縫などを習い行儀見習いに出ていた江戸時代の教育事情は、あらためて見直されて然るべきではなかろうか。

 そして、敗戦後、学ぶべき相手が中国からアメリカに変わってから、果たしてどれほど日本は大きなものを失ってきたか、と思わないではいられない。これ以上この件について考えると『日本辺境論』(内田樹著)のことを書くことになるので、ここまで。

 『土芥寇讎』に登場する水戸黄門や浅野内匠頭などの中から何名か選び、他の史料も最大限に参照して書かれたのが、本書だ。
 
 その中に、「前田利常」の章がある。
 もっとも多くの頁が割かれており、「その壱」「その弐」「その三」合わせて約九十頁に及ぶ。

 まず、冒頭から引用。
 徳川幕府が三百年ちかく続いたその理由について考えたい。それを考えていくと、結局徳川に謀反する大名が出てこなかったのは、なぜか、という話になっていく。徳川時代、最大の大名は加賀の前田家であって、謀反をおこし、徳川にとってかわるとすれば、まずはこの家であった。

 そうなのだ。
 織田信長に仕えた後、盟友の秀吉を支えた前田家が、なぜ、徳川の世を生き延びたのかは、疑問だ。
 次のように、利家が長子の利長に言い残した言葉だって、決して、その後の安泰につながるものではない。

 いまわのきわに、利家は利長を枕元によび、
「おれが死んでも三年は金沢に帰るな。大坂城にいて、秀頼公をお守りせよ」 
 と厳命している。
ー守りに入るな。徳川と対決せよ。中央に出て、あわよくば、天下に号令せよ
 というのが、利家の一貫した外交方針であり、中央にあって天下に号令する夢を捨てていなかった。
 この父、利家の遺言に対して、利長をどう考え行動したのか。
 引用を続ける。
 だが利長はさっさと金沢に帰って城に引き籠ってしまう。この時点で、前田家は「守り」にはいったといっていい。家老たちは「これで前田家も終わりだ」と不平を口にしたが、利長には利長なりの考えがあった。のちに、
 ー三州割拠
 とよばれるようになる独特の外交戦略である。第一に、中央での政権争いには加わらない。第二に、穴熊になったつもりで加賀・越中・能登の三カ国に立て籠もり、ひたすら時を待つ。そのうち、中央での政権争いで、覇者たちが疲れるから、そこに出て行って、漁夫の利をしめる。そういう一種の持久戦法であった。結局、これが、明治維新にいたるまで、前田家の伝統的な外交方針になる。利長は一見、愚鈍にみえて、実は賢い。常に偉大な父を仰ぎみながら育っただけに、なによりも、自分の力の限界を知り尽くしていた。目から鼻に抜けるほど賢く、下手に才のある石田三成のように、無理をするところがなかった。

 利長が、自分の能力を実に客観的に評価するだけ賢明であったこと、そして、この「三州割拠」という戦略が、加賀藩存続のために重要だったわけだ。
 
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 同期会加賀の旅で、初日に宿のすぐ近くの尾山神社に行った。その記事と重複するが、神社のサイトからの引用を再度ご紹介。
尾山神社のサイト
尾山神社の歴史

慶長4年(1599)閏3月3日、利家公が薨去します。その後、二代利長公は、利家公を仰ぎ神として祀ろうとしました。しかし、当時、前田家は、なんといっても外様大名の立場です。徳川幕府の許可なくして、勝手なことはできません。利長公とて、徳川幕府をはばかり、公然と神社創建に踏み切ることができませんでした。

そこで利長公は、守護神としていた物部八幡宮ならびに榊葉神明宮を遷座する名目で、卯辰山麓に社殿を建立し、利家公の神霊を合祀しました。これが、卯辰八幡宮です。むろん藩あげて、厚く祭儀を執り行い、尊崇しました。

ちなみに、物部八幡宮は、もと東海老坂村の鎮座です。利長公が、越中国の守山城におられたとき、守護神としていました。榊葉神明宮は、もと越中国阿尾の鎮座です。

加賀藩祖前田利家公と正室お松の方を祀る

さて、廃藩置県後、旧加賀藩士等は祭祀を継続し、利家公の功績を不朽に伝えんと、明治6年旧金谷御殿の跡地である現在の社地に社殿を新築しました。尾山神社と称して、郷社に列せられます。翌明治7年には県社に昇格、そののち明治35年には別格官幣社に列せられました。また、平成10年には正室であるお松の方も合祀されました。

 もし、利長が公然と利家を祀る神社を建立していたら、家康が前田家を取り潰す格好のネタになったことだろう。

 利長が関ケ原でとった行動も、見事に彼ならではの戦略に基づくものだった。

家康は利長に猛烈に書状を送り、「前田南下」作戦を実行するように求めた。利長の弱点は母のまつを人質にとられていることであった。利長は母親のまつが、たまらなく好きであった。前田家にとって、まつの存在は大きく、家康は、
(まつさえおさえておけば、前田はどうにでもなる)
 とみていた。事実、それは正しい。この時期に、家康が利長に送った書状ほど、いやらしいものはない。家康は「まつ殿が、まつ殿が・・・・・・」と、人質にとったまつの近況をやたらと書状にしたためて送り、
(忘れるな。いつでもお前の母親は殺せるぞ)
 ということを示した。
 この家康のもとめに応じて、利長は二万五千人の軍勢を率いて、南下をはじめた。だが、まじめに南下作戦をやらない。福井方面にむかって南下するのだが、小さな勝利を得ると、さっさと兵を返して、金沢城に戻って休んだ。そして、しばらくすると、また金沢から出てきて、南下をはじめる。そういう奇妙な軍事行動おとった。
 ー関ケ原の混乱に乗じて前田家の領地を拡大する
 利長にしてみれば、これが唯一の軍事目的である。
(まじめに南下すれば、家康を大勝利させてしまうだけである)
 そういう考えがあった。しかし、家康にしてみれば、これだけでも有り難い。前田の大軍が相手方に加わらず、実質的中立をたもってくれれば、それでよかった。
 なるほど、なかなか、微妙な駆け引きがあったんだねぇ。

 加賀藩が江戸時代を生き延びた理由の一つは、この利長の慎重な姿勢、三州割拠という戦略によるところが大であろう。
 
 そして、利長の後を継いだ利常の功績も大きいのだが、それは次回としたい。

 子どもの頃「猿」と言われた利常が、父利家の幼名と同じ「犬」千代となるまでには、なかなか興味深いいきさつがあるのだが、それは、次の記事までお待ちのほどを。


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by kogotokoubei | 2017-09-11 12:54 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

 前の記事で、吉村昭の『東京の戦争』について書いたが、つい、前日に見たNHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」のことにも、ふれてしまった。

 あの作戦について、ずいぶん前に読んだ本をあらためて読み直した。

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『失敗の本質』

 その本は、『失敗の本質』。
 私が本棚から引っ張り出したのは、昭和59(1984)年に発行されたダイヤモンド社の単行本。単行本もよく売れたようだが、平成3(1991)年に中公文庫で再刊されてからも、ベストセラーになっている。

 執筆者は次の六名。( )内は、生年と単行本発行当時昭和59年の職務。

 戸部 良一(昭和23年、防衛大学校助教授)
 寺本 義也(昭和17年、明治学院大学教授)
 鎌田 伸一(昭和22年、防衛大学校助教授)
 杉之尾孝生(昭和11年、防衛大学校助教授)
 村井 友秀(昭和25年、防衛大学校講師)
 野中郁次郎(昭和11年、一橋大学教授)


 購入当時、野中郁次郎の名だけは、知っていた。
 その野中も、本書執筆に至る研究会が発足した昭和55年当時には防大に籍を置老いていたので、防衛大学の四十歳前後の先生たちが中心になって出来上がった本と言えるだろう。

 牟田口第十五軍司令官の無謀なインド侵攻作戦が、なぜ組織の中で止めることができなかったのか。

 当時の牟田口の上下の組織は次のようになっている。

・大本営参謀本部 参謀本部総長 杉山  元元帥(陸軍士官学校12期)
・南方軍総司令官        寺内 寿一元帥(陸軍士官学校11期)
・ビルマ方面軍司令官      河辺 正三中将(陸軍士官学校19期)
・第十五軍司令官        牟田口廉也中将(陸軍士官学校22期)

 まず、直属の上司がどうであったか、本書から引用したい。
 部下の反論に耳をかさない牟田口の積極論を現地で制止しうるのは、河辺方面軍司令官のみであった。しかも河辺は蘆溝橋事件当時、連隊長牟田口の直属の上司たる旅団長であり、それ以来両者はとくに親しい間柄であった。しかし牟田口がインパール攻略論を唱えたとき、河辺は「何とかして牟田口の意見を通してやりたい」と語り、方面軍高級参謀片倉衷少将の言葉を借りれば、軍司令官は私情に動かされて牟田口の行動を抑制しようとしなかった。

 では、河辺の上司、寺内はどうだったのか。ほとんど、寺内は黙認に近い状況であった。
 そして、大本営の判断はどうなったのか。
 文中の綾部は南方軍司令部総参謀副長の綾部中将のことであり、「ウ号作戦」はインパール作戦のこと。

 大本営の中枢、参謀本部作戦部長真田穣一郎少将は、ビルマ防衛は戦略的持久作戦によるべきであり、危険なインパール作戦のような賭に出るべきではないとみなしていた。したがって昭和十九年一月初旬、綾部が上京して「ウ号作戦」決行の許可を求めたときにも、真田は、補給および制空権の不利と南部ビルマの憂慮すべき事態を指摘して作戦発動不可を唱えた。綾部は、この作戦は戦局全般の不利を打開するために光明を求めたものであり、寺内南方軍司令官自身の強い要望によるものである、と大本営の許可を懇請したが、真田はそれに答えて、戦局全般の指導は南方軍ではなく大本営の考慮すべき任務であると反論した。ちょうどそのとき、杉山元参謀総長は、寺内のたっての希望であるならば南方軍のできる範囲で作戦を決行させてもよいではないか、と真田の翻意を促し、ついに真田も杉山の「人情論」に屈してしまう。


 この後、東条首相から補給問題などいくつか質問を受けても、すでに決行を決めた大本営は、問題なし、として無謀な作戦が実施された。

 インパール作戦の失敗については牟田口一人にばかり矛先が向かうように思うが、その上司たちや、ブレーンであるべき参謀の責任者たちにも、次のような犠牲に対して責任がある。

 戦死または行方不明2万 2100人,戦病死 8400人,戦傷者約3万人。
 まったくの、無駄死にだ。

 『失敗の本質』では、組織が「人情」に流されてしまった、という指摘をしている。
 それも大きな原因だろうが、私は、理性的に考えれば不合理である部下の判断を、人情に流されて許してしまった、その誤った判断の背景も考えるべきだと思う。

 それこそが、戦争が人間を狂わせる、ということであり、私が反戦を訴える、もっとも根底にあることだ。

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by kogotokoubei | 2017-08-19 10:35 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 昨夜は、NHKスペシャルの「戦慄の記録 インパール」を見た。
NHKサイトの同番組のページ

 詳細は記さないが、戦争というものが、人の心を変貌させることが、その戦争の首謀者や戦地の指揮官を中心に描かれていた。

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吉村昭著『東京の戦争』(ちくま文庫)
 
 2001年に筑摩書房で発行され2005年に文庫化された『東京の戦争』で、昭和2年生まれの吉村昭は、執筆の動機を次のように書いている。

 数年前から、しきりに思うことがある。それは、東京というこの都会で「大東亜戦争」と称されたあの戦争に一個の人間として直接経験したことが珍しい経験なのかも知れぬ、と思うようになったのである。

 この“経験”の中には、戦争が戦地のみならず、市井の人々の心をも大きく変貌させることが語られている。

 「歪んだ生活」から引用。

 戦争が末期に近づくにつれて、人の心はすさんできた。
 手近なところでは、商人の変貌に驚きというより薄気味悪さを感じた。
 長年親しくしていた八百屋があった。私の家は大家族で、毎日のように店主が大きな笊に野菜を入れて持って来て、時には私も母に命じられて自転車でその店に買いに行った。店主もかれの妻も、いつも笑みを絶やさず、まことに愛想がよかった。
 それが、野菜類が不足しはじめると、態度が一変した。店主が家に運んでくることなどなくなり、店に買いに行くと、全く面変りした夫婦の顔があった。
 店頭に並ぶ野菜を買おうとすると、
「あんたの家に売る物はないよ」
 と、店主が追い払うように手を振る。
 野菜を買える客は、なにか眼にできなくなった生活必需品を店主に渡していて、その上で金を払って買っている。私の家ではそのようなことはせず、長年のなじみ客であるかは無関係で私に荒々しい声を浴びせるのである。
 それを帰って母に告げると、母はうなずき黙っていた。
 八百屋だけではなく、食料品を扱う店は大同小異で食料品が全く枯渇すると、売る物がないためそれらの店は戸をとざした。

 吉村の話を聞いた母親が、ただうなずき黙っていたのは、八百屋を責めることができないと思っていたからだろうが、とはいえ、長年のお付き合いがある八百屋の態度からは、実に空虚感が漂ったにちがいない。

 八百屋が悪い、とはいえない。もちろん、何か特別な生活必需品を代金に上乗せして野菜を買う客も、責めることはできない。
 戦争が、悪いのだ。

 著者は、この後、次のような思い出も綴っている。

 集団化した人たちの中には、権力を手にしたと思うらしく、威丈高になる人もいた。
 隣組の防空訓練に病弱のため参加しなかった主婦を、組長がその家に行って非国民とののしった。五十年輩のその男の顔には、独裁者のような傲慢な表情が浮んでいた。

 吉村に限らず、このような“集団化した人たち”の行動の恐ろしさは、戦争を経験した多くの人が伝えてきたはずだ。

 しかし、今まさに、日本の政治状況はそういった独裁者の顔を持つ“集団化した人たち”が権力を握っている。

 前防衛大臣は、何ら反省の色も見せず、昨日、靖国神社に参拝した。

 靖国神社は、元々、戊辰戦争による官軍の戦没者のためにつくられた、
 しかし、明治維新の立役者の西郷隆盛は、その後の西南戦争で政府に敵対することになったので、靖国にいない。
 近頃、その西郷を靖国に、という動きがあるらしい。
 西郷は、そんなことは、まったく望んでいないだろうに。

 靖国神社については、兄弟ブログ「幸兵衛の小言」に、二年余り前に二度記事を書いたことがある。ご興味のある方は、ご覧のほどを。

2015年4月21日のブログ
2015年4月22日のブログ


 「戦慄の記録 インパール」の最後、実に貴重な記録を遺した齋藤博圀元少尉が、車椅子で登場した時は、少し驚いた。
 ご生存だったのだ。
 96歳の齋藤さんが、途切れ途切れに語った言葉。

「自分たちが計画した戦が成功した・・・・・・」
「日本の軍隊の上層部が・・・・・・」
「悔しいけれど兵隊に対する考えはそんなものです」
「知っちゃったら辛いです」

 齋藤さんは、泣いていた。

 三万人の犠牲者のほとんどは、戦闘ではなく、餓死や病死。

 戦地では、「大和魂」の名で狂気の沙汰が繰り広げられ、国内では、物資不足の中、人々の心が荒んでいく。

 それもこれも、戦争がもたらしたものである。
 どちらにも、“日常”はない。
 まさに、歪んでいる。

 平和な“日常”を暮らすことのできる幸福を、この時期につくづく感じる。

 しかし、その平和を乱そうとする、権力をもっていると錯覚している“集団化した”人たちの存在を、忘れてはならないだろう。

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by kogotokoubei | 2017-08-16 11:05 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 積ん読状態で、最近になって読んだ本について。

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吉村昭著『東京の戦争』(ちくま文庫)
 
 吉村昭の『東京の戦争』は、2001年に筑摩書房で発行され、2005年に文庫化された。

 昭和2年生まれの吉村は、執筆の動機を次のように書いている。

 数年前から、しきりに思うことがある。それは、東京というこの都会で「大東亜戦争」と称されたあの戦争に一個の人間として直接経験したことが珍しい経験なのかも知れぬ、と思うようになったのである。

 この本で有名(?)なのは、ノースアメリカンB25による東京への初空襲の思い出かもしれない。
 
 しかし、私はどうしても、落語や寄席に関わる部分が印象に残る。

 吉村昭の落語好きは有名で、学習院時代の昭和26年10月に 所属した文芸部の部費を稼ぐために大学寄席を企画し、志ん生・柳好二人会を開いたほどだ。
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 本書には、あの戦争の最中でも、落語好きな吉村の姿を偲ばせる思い出が語られている。

 「ひそかな楽しみ」の章から引用。
 戦争が激化するにつれて食料品をはじめ生活用品が欠乏し、まさに暗黒時代であったのに、旧制中学生であった私は、私なりのひそかな楽しみを見出していた。思い返してみると、不思議なことに妙に明るい気分で日を過していたような気さえする。
 四年前、中学生時代の思い出を集めた同級生たちの文集が、有志によって編まれたが、友人たちの文章を読むと、私のように映画館、寄席、劇場に足しげく通っていた生徒は稀であったのを知った。東大出身の安村正雄先生という恩師をかこんだ同級生の座談会も収録されていて、戦時下の辛かった思い出が語られているが、
「君たちがそんな辛い思いをしていた頃、吉村はせっせと寄席通いをしていたんだな」
 と、先生が笑いながら話したことも活字にされていた。
 私は、教師に知られぬように細心の注意をはらって寄席通いをしていたつもりであったが、先生はそれに気づいていたらしい。思い返してみると、悠揚とした感じがしながら何事も見ぬいているような、一瞬鋭い眼をする先生であった。

 吉村少年の寄席通いを知っていたにも関わらず、それを明らかにすることも、本人を叱ることもなかった恩師の安村先生の姿に、戦時下ならではの先生の配慮や、人間としての度量の大きさを感じる。

 生徒たちの身も明日どうなるか分からないだろう戦時下で、寄席好きな吉村少年の楽しみ奪ってはかわいそう、と先生は思われたのかもしれない。
 
 “悠揚とした感じがしながら何事も見ぬいているような、一瞬鋭い眼をする”先生という言葉からは、私の昭和30年代から40年代における小学校や中学校時代においても、一人か二人の先生の顔を思い出す。

 かつて、教師は尊敬されていたし、威厳があった。

 さて、教師論が主題ではないので、本書の引用を続ける。

 帰宅して制服、制帽をぬいで映画館にむかい、よく学校からの帰途、足をむけた上野の寄席「鈴本」へ行く時も、上野駅の一時預り所に制服、制帽、布製の肩からさげる鞄をあずけ、「鈴本」の木戸をくぐった。
 当然のことだが私が入るのは昼席で、客の入りはさすがに少く、それも老人ばかりであった。
 寄席は畳敷きで、木製の箱枕が所々に置かれていて、それに頭をのせて横になっている人もいる。噺に興味がないわけでなく、横になったままくすりと笑ったりしている。さすがに噺のうまい落語家が高座にあがると、体を起して聴いていた。
 文楽、金馬、柳好、文治、柳橋や林家三平のお父さんの正蔵などが出ていた。正蔵は派手な着物を着ていて噺も華やかで、私はその個性が好きであった。志ん生、円生は見たことがなく、どこか他の地に行っていたのだろうか。

 きっと志ん生と円生が満州に言っている時期なのだろう。
 
 私は、都内の寄席四席の中で、昔の佇まいを残している新宿末広亭がもっとも好きだ。次に、池袋の、高座と一体感のある空間が好みであり、鈴本は三番目。
 残念ながら、今の鈴本には吉村昭の思い出の中にある、古き良き寄席の空気がない。
 それは、時代の流れとして当然のことかもしれないが・・・・・・。

 さて、そのかつての鈴本での思い出について引用を続ける。

 若い落語家が噺を終った後、両手をついて、
「召集令状を頂戴いたしまして、明日出征ということになりました。拙い芸で長い間御贔屓にあずかり、心より御礼申し上げます」
 と、頭を深くさげた。
 寄席の老人たちが、
「体に気をつけてな」
「また、ここに戻ってこいよ」
 と、声をかける。
 落語家は何度も頭をさげ、腰をかがめて高座をおりていった。

 吉村は、この落語家の名も、戦後の安否などにもふれていないので、詳しいことは分からない。

 しかし、この高座のことが目に焼き付いているからこそ、書き残すことになったのだろう。

 私もこの文章から、その情景が目に浮かぶ。
 若手の高座では箱枕に頭を乗せて横になっていたはずの鈴本の落語通の老人たちが、この出征の挨拶の時には、きっと起き上がって声をかけたであろうことが察せられるのだ。
 
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by kogotokoubei | 2017-08-13 20:22 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(4)
 一昨日、NHKのBSプレミアムで、長岡花火大会の生放送を見た。
 
 最初の三尺玉が、ナイアガラと一緒に三発とは、豪勢。
 三つとも無事に上がって、良かった。

 フェニックスも良かったし、米百俵にちなむ百連発も凄いねぇ。

 BSとはいえNHKでの生放送、長岡花火も、ついに全国区になったものだ^^

 その長岡には、二十代の後半、六年住んだことがある。

 花火は、最初の年だけ、知り合いと河川敷で見たものの、翌年以降は居酒屋で飲みながら、音だけを聞いていた。
 サイレンが聞こえると「三尺玉だねぇ」と耳を澄まし、殿町で飲んでいても腹に響く音を楽しんだ(?)ものだ。

 年によっては、三尺玉が不発だったり、地上すれすれで開いたりしたこともあったなぁ。見てはいなくても、音で分かった。


 NHKの番組でも触れていたが、戦後の長岡花火は、長岡市戦災復興祭という意味合いで開催された長岡まつりのメインイベントとして位置づけられている。

 「長岡まつり」のサイトから、引用する。
「長岡まつり」サイトの該当ページ

まず、長岡まつり、について。
毎年華やかに繰り広げられる「長岡まつり」
その起源は、長岡の歴史に刻み込まれた、
最も痛ましい、あの夏の日に発しています。

今から72年前の昭和20年8月1日。
その夜、闇の空におびただしい数の黒い影
―B29大型爆撃機が来襲し、午後10時30分から1時間40分もの間にわたって市街地を爆撃。
旧市街地の8割が焼け野原と変貌し、
燃え盛る炎の中に1,486名の尊い命が失われました。

見渡す限りが悪夢のような惨状。
言い尽くしがたい悲しみと憤りに打ち震える人々。
そんな折、空襲から1年後の21年8月1日に開催されたのが、
長岡まつりの前身である「長岡復興祭」です。
この祭によって長岡市民は心を慰められ、
励まされ、固く手を取り合いながら、
不撓不屈の精神でまちの復興に臨んだのでした。

 次に、長岡花火について。
昭和20年8月1日の長岡空襲の翌年、長岡市民が復興に立ち上がり、8月1日に「長岡復興祭」を開催、昭和22年に花火大会が復活して今年で70年を迎えました。
「長岡花火」の歴史を振り返ると、先人たちがつないできた、「慰霊」、「復興」、「平和への祈り」の想いが息づいています。
長岡花火に込められた強い想いは、70年を経てもなお変わることなく、今を生きる私たちの中にもしっかりと受け継がれています。


 まつりと花火は、このように戦争の大きな傷を癒すためでもあった。
 では、昭和20年8月1日から2日にかけての長岡空襲を体験した人による文章を紹介したい。

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半藤末利子著『夏目家の糠みそ』(PHP文庫)

 夏目漱石の孫娘、半藤末利子さんの『夏目家の糠みそ』は、PHPより2000年に単行本、2003年に文庫で発行された。

 単行本発行の五年前から、小冊子「味覚春秋」に毎月掲載された内容が元である。

 半藤末利子さんは、長岡出身で漱石門下の松岡譲を父とし、夏目家の長女の筆子を母として昭和10年に生まれた。ご主人は、半藤一利。

 末利子さんは、父の実家の長岡鷺巣町(当時は古志郡石坂村)に疎開していて、長岡空襲に遭遇した。
 
 「長岡についての三話」から、引用する。

 まず、子供の頃に二度、あくまで旅行として長岡に行ったことのある末利子さんの、三度目の訪問について。

 私も体験した、越後の冬の描写がある。

 三度目は昭和十九年十一月である。旅行者としてではなく住人になるためであった。一家を挙げて疎開者として移り住んだのだが、まさかそれから十年余りも住みつき、長岡が私の第二の故郷になろうとはそのときは思いもしなかった。
 みぞれまじりの冷たい雨が降り続き、来る日も来る日も太陽を拝めない、一年中で一番嫌な季節であった。十二月の半ばに降った雪はそのまま根雪となり、翌二十年にかけては記録に残る豪雪となった。四メートルを超す積雪は、私達が借りていた二階家をすっぽり埋めてしまった。村のお年寄りが「何か悪いことが起る前兆だ」と言ったが、なるほど二十年八月一日には長岡市は空襲を受けて全焼し、十五日に日本は敗戦国となった。


 私が住んでいた六年間でも、大豪雪の年があった。
 年によっては十一月下旬に雪が降り始め、それが根雪となる。
 感覚的には、十一月から三月位までは、太陽を拝める日がほとんどないというのが、越後長岡周辺の冬なのである。

 テレビで見る冬の天気予報は、東京など東日本に晴れマーク、越後は曇りか雪が毎日のように続く。
 「裏日本」という言葉の意味するものを、私は体感を踏まえて納得した。

 では越後の冬は、暗~い毎日が続くのか。
 引用した部分の少し後に、楽しい、美味しい越後のことも書かれているのでご紹介。

 今でも東京での雪のない正月を身に染みてありがたいと思う。たまに訪れる長岡を決して魅力的な街とは思わない。にもかかわらじ、ノッペ(里芋など様々な根菜を煮て葛でとろみをつけた煮物又は汁)などを突つきながら、
「酒は辛口に限る」
 と、「越の寒梅」や「八海山」や「久保田」や「吉乃川」で一杯やる時、具沢山の雑煮で祝う正月を迎える時、そして越後以外の土地で越後訛りの人に出遭って言い知れぬ懐かしさを覚える時、私は沁み沁み思うのである。
 私の故郷は越後なのかしらと・・・・・・。

 まったく、同感だ。
 
 ノッペは、酒の肴でもあり、立派なご飯のおかずでもある。
 そして、越後(中越?)の雑煮も、ノッペの中に餅を言えたような具沢山。
 畑の収穫をまとめていただこうとするような、あの料理にも、長い冬を過ごすための知恵が隠されているのかもしれない。

 もちろん、お日様が顔を出さない冬は、辛口の酒を楽しむしかやることはない^^


 さて、豪雪が暗示した“悪いこと”、長岡空襲について引用する。
大空襲の夜
 
 その日、父母と私は父の生家、村松の本覚寺を訪れていた。盆参という寺としては一年中で一番大きな行事が催され、本堂やそれに続く座敷からあふれた檀家の人たちが、回廊までも埋め尽くしていた。庫裏も手伝いの人たちでごった返していた。戸は開け放れていたが、容赦なく上る気温と人いきれでむせ返るように暑かった。
 夕方になると人の波が引き、暑さも幾分しのぎやすくなった。夕食後、父は一人で帰宅した。当時中学生だった兄は勤労動員で、その夜、北長岡の軍需工場で働いていた。夜勤明けで帰宅する兄を出迎える者がいなくてはかわいそうだと、一里の道を歩いて父は曲新町の自宅に帰ったのだと思う。
 その夜、私たち三人は早々に眠ってしまった。どこくらいたったころか周囲が騒がしくて目は覚めた。田舎のことだから人家もまばらで、そのうえ、寺の境内は広い。日が沈むとカエルの鳴き声しか耳に入らぬほどに静まり返ってしまうのが常であった。空襲警報のサイレンや飛行機のごう音で目覚めた、という記憶はない。
 窓を開けると、やみ夜を旋回している色とりどりの電光がまず目に入った。色鮮やかな電光は星の数ほど無数に見えた。時々赤い火を噴いて焼夷弾が、自在に飛び交う電光から降ってくるのが見えた。なぜ爆撃機B29が赤青黄緑とさまざまな色の光を放ちながら爆撃していたのか、今もってわからない。私にはB29がお祭り気分で楽しげに焼夷弾をまき散らしているように見えた。地上からはめらめらと燃えたつ巨大な炎の柱が天を射るようにそびえ立ち、やみ夜を真っ赤に染め上げる。街全体が炎に包まれるのを私は初めて見た。あの大空襲で命を落とされた方、命からがら逃げまどっていた方を思えば甚だ不謹慎なことだが、その規模といい、華やかさといい、後にも先にもあれほど壮観な光景を私は見たことがない。息をのむほどに美しい眺めであった。
「きっと新ちゃん(兄のこと)死んじゃったわねえ。あの火の中で」と母がぽつんと呟いたが、だれも悲しいとは思わなかった。肉親の死にも麻痺して何も感じない異常な時代であった。私は別に怖いとも悲しいとも思わなかったが、歯の根が合わず全身が小刻みに震えていつまでも止まらなかったのをおぼえている。
 間もなく階下の勝手に、昼間手伝いに来ていた村人たちが再び集まって、祖母の陣頭指揮のもと長岡への炊き出しが始まった。お供え物として本堂に積まれた米が次々と下ろされ、炊かれ、握り飯の山ができた。
 昭和二十年八月一日のこと、私が十一歳の時であった。

 B29による空爆の光景について、なんとも印象深い記述と言える。

 この文章を読んで、私は湾岸戦争のテレビ映像を連想した。
 夜間にミサイルで攻撃する映像からは、まるで、花火のスターマインのような印象を受けたものだ。

 長岡空襲について、長岡市のサイトから引用する。
長岡市サイトの該当ページ

長岡空襲について
最終更新日 2017年4月1日

 1945(昭和20)年7月20日、左近地内に1発の爆弾が投下されました。長岡に投下された初めての爆弾でした。
 その12日後、8月1日の午後9時6分、長岡の夜空に警戒警報のサイレンが鳴り響きました。続いて午後10時26分、警戒警報は空襲警報に変わり、直後の10時30分にB29による焼夷弾(しょういだん)爆撃(ばくげき)が始まりました。

 B29は一機また一機と焼夷弾を投下しました。夜間低空からの容赦無い無差別爆撃によって、長岡のまちは瞬(またた)く間に炎に包まれていきました。
 猛火の中を、母の名を呼び、子の名を叫んで逃げ惑う人びと。多くの人が炎に飲み込まれていく様子は、地獄絵さながらだったといいます。
 空襲は、8月2日の午前0時10分まで続きました。1時間40分に及ぶ空襲で、市街地の8割が焼け野原となり、1,486人の尊(とうと)い生命が失われました。
 925トンものE46集束(しゅうそく)焼夷弾等が投下され、163,000発余りの焼夷爆弾や子弾(しだん)が豪雨のように降りそそぎ、長岡を焼き払ったのです。当時の市域で、焼夷弾の落ちなかった町内はないといってよいほどすさまじい空襲でした。
 その凄まじさは、半藤末利子さんの“色”の記憶で裏付けされているように思う。

 空襲が始まったのは八月一日で終わったのが二日だったので、毎年、長岡まつりの前夜祭が一日、長岡花火が二日と三日に開催されている。

 その花火大会に関する部分を含め、本書からの引用を続ける。

 パールハーバーを奇襲攻撃した山本五十六の生地だから長岡が爆撃された、ということを後で聞かされ、アメリカ人の執念深さに驚かされた。
 翌朝、父が宮内駅付近まで様子を見に行くと、焼け跡の中からふらふらと兄が帰ってきたという。無事な兄の姿を見て父はどんなにほっとし、うれしかったことであろう。
 今の八月の長岡まつりは、もともと長岡空襲の悲しい日を長岡市復興へのバネにするため、長岡市戦災復興祭として始まったと聞いている。戦争で中断していた長岡の花火も、空襲の翌年にはもう再開されたように思う。それから毎年夜空を飾って、いまはすっかり名物になっている。
 長岡にいたころ、私も何回か夜空に開く華を見た。しかし三尺玉であろうとスターマインであろうと、あの空襲の夜の強烈な華やかさには遠く及ばない。アメリカの怨念と、と貴い命を奪われつつある長岡市民のうめき声とが、たがいにぶつかり合う緊張を、あの異常な時代の異様な美しさに感じ取ったわけではない。しかし、長岡まつりになると、私は花火よりも先に大空襲の夜の悲しい美しさを思い起こしてしまう。戦後四十余年もたったいまも、それが悲惨な戦争を経験した者のつらい性ということなのであろうか。
 
 一昨日、昨日と開催された長岡花火大会を、著者のような思いで眺める人が、年々少なくなっている。

 今では、中越地震からの復興祈念という意味も込められている。

 また、長い冬を耐えて生きる越後の人々の浄化(カタルシス)の宴が、あの祭りや花火ではないかと思う。
 阿波踊りなど、他の地域の祭りにも、浄化的な色彩は強いだろうが、冬に心身ともに膝を曲げ、縮こまっていた越後の人々にとって、夏の最後に一気に精神を解放する宴は、特別の意味があるように思う。


 もちろん、人それぞれ、あの花火を見ながら思うことは違うだろう。
 
 しかし、この時期に長岡まつりが開かれ花火が打ち上げられるのは、紛れもなくあの戦争によるあの空襲からの復興を祈念するものであるということは、振り返られるべきかもしれない。

 結果として、前の記事と“漱石つながり”になったが、生誕150年記念ということで、お許しのほどを。

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by kogotokoubei | 2017-08-04 12:44 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

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by 小言幸兵衛