噺の話

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カテゴリ:今週の一冊、あるいは二冊。( 86 )


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白洲正子著『西行』

 さて、この本から崇徳院と西行について、二回目の記事。

 少しおさらい。

 白洲さんがある本を元にした推理では、西行が出家を決断した背景にあると思われる失恋の相手は、鳥羽上皇の中宮(妻)となった待賢門院(たいけんもんいん) 璋子(たまこ)であるらしい。

 待賢門院は、白河法皇に幼い頃から可愛がられていた。その結果、二人の間に子供(崇徳院)ができてしまった。

 崇徳院は、父の鳥羽上皇の子ではなく、上皇の祖父白河法皇と母の待賢門院との間の不義の子であるために、上皇に疎まれていた。

 白河法皇の崩御をきっかけに、時代は不穏な空気に包まれていく。
 上皇は、寵愛していた美福門院得子との間にできた子の体仁(なりひと)親王を崇徳院の養子にさせることで、崇徳院が院政を執ることができないようにした。

 これは摂政藤原忠通の策謀といえた。

 待賢門院は心労もあって、崩御。

 と、ここまでが前の記事からのいきさつ。

 さて、それでは、あらためて本書から引用。

 生まれながらに暗い影を背負わされていた崇徳院には、悲しい歌が多いのであるが、その日その日を生きること自体が、薄氷を踏むおもいであったに違いない。

  早瀬川水脈(みを)さかのぼる鵜飼舟 
  まづこの世にもいかが苦しき

  (中 略)

  憎しむとて今宵かきおく言の葉や
  あやなく春のかたみなるべき

 最後の歌は詞花和歌集に、「三月尽の日、うへのをのこどもを御前に召して、春の暮れぬる心をよませさせ給ひけるに、よませ給ひける 新院御製」としてあり、いつ頃の作かはっきりしたことは知らないが、「今宵かきおく言の葉」が、いつ何時「かたみ」となるかも知れないことを、懼れていられたのではなかろうか。

        *

 やがて病弱な近衛天皇が夭折すると、崇徳院の同母弟の雅仁親王(後の後白河天皇)が即位され、「われても末にあわむとぞおもふ」望みはついに断たれてしまう。それと同時に頼長も、近衛天皇を呪詛したかどで宮廷から完全に閉めだされてしまった。実はそれだけの理由ではなく、長い時間をかけて忠通が裏でさまざまの工作をしたのであるが、それは歴史の本を読めばわかることだから触れずにおく。

 実は、崇徳院が、これほどまで不幸に見舞われた人だとは、本書を読むまで知らなかった。
 西行のことを知りたいと思って読んでみて、この本からは他にも多くのことを教えられている。
 肝腎の西行の歌は、あまり覚えることができていないんだけどね^^

 そうそう、その西行と崇徳院とのこと。
 再び、引用する。

 保元の乱が何日にはじまったか、はっきりしたことはいえないが、七月八日に天皇方が頼長の東三条邸を襲ったのが最初の合戦で、十一日の朝にはあっけなく終っていた。崇徳院は出家して、弟の覚性(かくしょう)法親王のいられる仁和寺へ逃亡し、頼長は流れ矢に当って死んだという。
 この時、西行は、いち早く仁和寺の崇徳院のもとは伺候した。

     世の中に大事いできて、新院あらぬ様にならせおはしまして、御髪(みぐし)
     おろして仁和寺の北院におはしましけるにまゐりて、兼賢阿闍梨(けんげん
     あざり)いであひたり、月明(あか)くてよみける
  かかる世にかげも変らずすむ月を
  見るわが身さへ恨めしきかな

 保元元年といえば、西行が高野山で修行していた時代で、鳥羽上皇の葬送に参列したばかりか、敗残の崇徳院のもとへも馳せ参じているのである。当時の情況としては、これは中々できにくいことで、まかりまちがえば殺されかねない。西行は覚悟の上で実行したのであろう。この歌にも、止むに止まれぬ崇徳院への思いがこもっており、世が世なれば自分も院に味方して、命を落したであろうにと、生きて今宵の月を見ることが悔まれたに相違ない。これで私たちははじめて崇徳院に対する西行の真情を知ることができるのであるが、それは単なる判官びいきとか、主従の情愛とかいうものではなくて、長年の間に育くまれた人間同士の理解の深さによるのではないかと思う。

 (中 略) 
 
 西行(1118生)と、崇徳院(1119生)は一つ違いで、頼長(1120生)ともほぼ同年輩であった。「悪左府(あくさふ)」と呼ばれた学者の頼長は、強い性格の持主で、欠点も多かった半面、情熱家であったことは、西行の出家を大げさに賛美したことでもわかるが、この三人に共通する性格は、「純粋」であったことだろう。政治家の中でもっとも悪辣な忠通と太刀打ちできる筈はなく、勝敗は保元の乱で戦う以前にきまっていた。その中で、西行は身分の低いためもあって、早くに自己に目覚めて出家することができたので、別に来たるべき惨事を予見していたわけではあるまい。が、詩人の敏感さから、世の中の趨勢に不安を感じ、安心を得たいと願っていたことは、左のような歌からも想像がつく。

   惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは
   身を捨ててこそ身をも助けめ

 これは出家するに当り、鳥羽院においとまを述べに行った時の歌であるが、年齢の近いせいもあって、西行が親近したのは、御子の崇徳院の方であったと思う。その上、崇徳院はすぐれた歌人であり、数奇の好みにおいても西行と共通するところが多かった。

 乱のあった保元元年(1156)、西行は四十八歳、崇徳院が四十七歳。

 寿命の短い時代とはいえ、本来であれば盛りと言える年齢において、二人は辛い出会いをしたのだろう。

 西行にとっては憧れの女性、崇徳院のとっては母であった待賢門院がつないだ縁。

 白洲さんが、“長年の間に育くまれた人間同士の理解の深さ”を物語る逸話が紹介されている。

 西行が崇徳院の知遇を得ていたのは、ただ和歌の上ではなかったように思われる。

      縁(ゆかり)有りける人の、新院の勘当なりけるを、許し給ふべき由、申し入れ
      たりける御返歌に
   最上川つなでひくともいな舟の
   しばしがほどはいかりおろさん  (崇徳院)

      御返(をんかへし)奉りける
   強く引く綱手と見せよ最上川
   そのいな舟のいかりをさめて   (西行)

 西行に縁のある人が、崇徳院に勘当されたので、その許しを願った時、院から御返事を頂いた。
 -最上川では上流へ遡る稲舟を綱で引くというが、もうしばらくの間はこのままで、いかりを下しておこう、という歌で、いな舟を「否」に、いかりを「怒り」にかけて、そなたがいくら取りなしてもまだ許しはしない、という意味である。「つなで」が「なべてひくらむ」となっている場合もあるが、これは綱手の方がわかりやすいし、似合ってもいる。
 それに対して西行は、-私が一生懸命お願いしていること(強く引く綱手)をお察し下さって、お怒りをおさめて下さいましと、たくみに言い返したのである。「かく申したりければ、許し給びてけり」と記してあり、崇徳院は西行の歌に免じて勅勘を解いたのであろう。「縁有りける人」は誰だかわからないが、一説には、俊成のことだともいわれており、崇徳院と俊成と西行の間には、和歌を通じて切っても切れぬ縁があったのである。それはとにかく、西行が縁者の赦免のために、直接崇徳院と交渉できるほど信頼されていたことは、心にとめておいていいことだ。


 この和歌による二人の会話の、なんとも雅で、かつ智に富んでいることか。


 待賢門院は、康和3年(1101)生まれなので、西行の十八も上だった。

 亡くなったのは、久安元年(1145)。

 保元の乱による崇徳院の無残な姿を見ることがなかったのは、もしかすると幸いだったのかもしれない。


 西行、そして、崇徳院。
 ある女性を媒介にして、また、和歌で通じ合っていた二人。

 よもや、後世に落語のネタにされるとは、想像していなかったに違いない。

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by kogotokoubei | 2018-05-31 12:36 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

  瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
  われても末にあはむとぞおもふ

 有名な崇徳院の作。
 落語愛好家の方は、よくご存知^^


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白洲正子著『西行』

 白洲正子さんの『西行』から、今度は、西行と崇徳院に関して。

 落語の『西行』でも登場する「あこぎ」という言葉を、まだ出家する前の佐藤義清(のりきよ)に言ったのは、待賢門院であっただろう、という白洲さんの推理のことを前の記事で紹介した。

 崇徳院は、その待賢門院の子。しかし、待賢門院の夫である鳥羽天皇(後の上皇)の子では、ない。

 本書「讃岐の院」から、引用。

 保元の乱につづいて平治の乱、源平の合戦から承久の乱に至るまで、それらの戦いは皆ひとつづきのもので、さしも強力であった朝廷の権力は、怒涛のように崩れ去るのであるが、中でも凄惨をきわめたのは崇徳天皇の生涯であった。
 天皇が、白河法皇と待賢門院璋子(たまこ)の間に生れた不義の子であったことは、周知の事実であり、父親の鳥羽上皇は、「叔父子(おじご)」と呼んでおられた。
 白河法皇が六十を過ぎて、当時十代の璋子を可愛がるあまり身ごもらせてしまったのだが、白河法皇は孫の鳥羽天皇に璋子を中宮(天皇の妻)とさせた。
 
 表向きは平穏でも、こうした親子の間柄ほど複雑で、陰湿なものはない。白河法皇が崩御になると、前(さきの)関白太政大臣忠実の娘が後宮に入って、皇后に冊立(さくりつ)され、ついで美福門院得子が、鳥羽上皇の寵愛を一身に集めるようになる。

 関白太政大臣藤原忠実は、前の記事で、待賢門院がふしだらな女性であることを日記に書いた人物であったことを、紹介した。

 白河法皇に疎まれていたが、法皇の崩御で、権力を取り戻したのである。

 鳥羽上皇も、目の上のたんこぶだった白河法皇がいなくなれば、自分の時代、とばかりに好きなことを始めた。
 寵愛した美福門院得子に子供ができた。
 天皇の母であった待賢門院は、徐々にその立場を失い始める。

 それが表面に現れたのは、得子の産んだ体仁(なりひと)親王(後の近衛天皇)を皇太子に立て、崇徳天皇に譲位をせまられた時のことであった。
 その時天皇は二十三歳で、体仁親王を養子にしていられた。させられていた、というべきかも知れない。それは得子の身分が低いので箔をつけるためであったが、親王はわずか三歳で即位し、譲位の宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」と記されていた。これはきわめて重要なことで、皇太弟では、退位後に上皇は院政を執ることができないだけでなく、子孫を皇位につける望みもあやしくなる。「愚管抄」には、「コハイカニト又崇徳院ノ御意趣ニコモリケリ」と、鳥羽上皇に恨みを抱かれたことが記してあるが、実際には殺生忠通の策謀によるものであったらしい。

 白河法皇の崩御から、一気に激動の時代に突入する。
 皇室や摂関家が敵味方に別れて戦うことになるが、メインプレーヤーとして登場したのが、藤原忠通(ただみち)だった。

 忠通は、忠実の長男で、実直な父親とは違って、奸智(かんち)にたけた政治家であった。一方、次男の頼長は、愚管抄に「日本第一の大学生(だいがくしょう)」と称賛されたほどの大学者であったから、父親に愛され、兄の忠通とはことごとに反目し合っていた。どちらかといえば、一本気で、融通のきかない忠実・頼長父子と、天才的な策士である忠通との二派にわかれた摂関家の内紛が、皇室の内部にまで影響を及ぼし、保元の乱の要因となったことは疑えない。

  瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
  われても末にあわむとぞおもふ

 百人一首で有名な崇徳院の御製である。永治元年(1141)譲位して間もなくの作とかで、『詞花和歌集』では「恋 題不知」となっており、「谷川」が百人一首では「滝川」に変っている。一応はげしい恋の歌には違いないが、岩にせきとめられて、二つに分かれた急流が、やがては一つになって逢うことができるであろうという信念は、崇徳院の皇統が、いつかは日の目を見ることを切に願っていられたことを暗示している。
 そのころから母后の待賢門院も落胆のあまり出家して、病がちとなり、四年目の久安元年(1145)崩御になった。

 保元の乱において崇徳院の敵方には、源義朝と平清盛も、仲良く加わっていた。

 さて、西行が失恋のあまり出家することになった待賢門院の子、崇徳院が窮地に陥り、西行はどうしたのか・・・・・・。

 次の記事で、ご紹介したい。

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by kogotokoubei | 2018-05-30 12:27 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

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白洲正子著『西行』

 落語の『西行』でも重要な要素となる、北面の武士、佐藤義清(のりきよ)が出家するきっかけとなった、ある失恋。

 なお、北面の武士とは、平安時代に院の御所の北面 (きたおもて) に居て,院中を警固した武士のこと。白河上皇のときに設置された。この白河上皇は、本記事で後半に登場する。
 なお、院の御所とは、上皇の住まいのこと。
 上皇とは、皇位を後継者に譲った前の天皇のことであり、太上天皇(だいじょうてんのう)と呼ばれる。なお、出家した上皇を、法皇と呼ぶのだよ。

 さて、落語では、西行をふった女性は、染殿の内侍という設定だが、これは、あくまで作り話。

 白洲正子さんの『西行』から、いったいどの高貴な女性が「あこぎ」と言ったのか、白洲さんの推理をご紹介。

 その推理には、ある本が大きなヒントとなっている。

 先日、角田文衛氏の『待賢門院璋子(たまこ)の生涯』(朝日選書)を読んで、「申すも恐ある上﨟」とは、鳥羽天皇の中宮、待賢門院にほかならないことを私は知った。角田氏は極めて慎重で、そんなことは一つも書いていられない。が、実にくわしくしらべていられるので、読者はいやでもそう思わざるを得ない。
 (中 略)
 待賢門院璋子は、康和三年(1101)、正二位権大納言藤原公実(きんざね)の末子に生れた。公実の子の実能(さねよし)、-璋子の兄に当る人が嵯峨んび徳大寺を建立したので、その後は「徳大寺殿」と呼ばれるようになるが、西行がその家人だったことは前に記した。

 なるほど、佐藤義清と待賢門院(たいけんもんいん)が、この徳大寺で出会ったことは、十分に考えられる。

 その待賢門院璋子とは、どんな女性だったのか。

 璋子は生れてすぐの頃から、白河法皇の寵妃、祇園女御の養女となり、以来、院の御所で生活するようになる。父の公実は美男であったというから、幼時からすぐれて美しい子供であったらしい。白河法皇が、孫のように可愛がられた逸話が『今鏡』にある。
   をさなくては、白河院の御ふところに御足さしいれて、ひるも御殿ごもり
   たれば、殿(関白忠実)などまゐらせ給ひたるにも、「ここずちなき事の
   侍りて、え自づから申さず」などといらへてぞおはしましける。(宇治の川瀬)
 法皇のふところに足をさし入れて、昼も添寝をしていられたとは、何とも不思議な情景である。「ずちなき事」は術なきこと、仕様がないという意味で、関白が参内しても、今、手の離せない事情があって、答えるわけには行かないと、法皇がいわれたのもおかしなことである。いくら相手が幼い子供でも、妙に色っぽい話で、法皇がふくみ笑いをしながら、関白を追払っていられる様子が目に見えるようである。
 そのようにして、天下第一の専制君主と、その寵妃に甘やかされて育った姫君の将来に、どんなことが起ったか。先ずはっきりしているのは、法皇が璋子を寵愛するあまり、ついに手をつけられたことで、その関係は、彼女が鳥羽天皇の中宮になった後もつづいて行く。光源氏と紫上の情事を思わせるが、いかに男女の仲が自由であった時代でも、これは異常のことで、しまいには璋子を自分の孫(鳥羽天皇)の中宮に据えてしまうのだから、言語道断というほかない。

 なんとなんと、璋子は、そういう環境で育ったのであった。
 この後、白洲正子さんは、前述の角田さんの本を元に、最初の関係が、白河法皇が六十歳を過ぎ、璋子が十三歳の時と推察している。

 現代なら、間違いなく、犯罪だ^^

 法皇は、璋子の将来のことを心配もし、その婿探しをしている。
 白羽の矢が立てられたのは、関白忠実の息子、忠通(ただみち)だったが、忠実は応じなかった。
 そりゃそうだろう、法皇が幼い頃から璋子を、尋常ではなく可愛がっていたことを、忠実は知っているのだからねぇ。

 結局、璋子は法皇の孫、鳥羽天皇のもとへ入内。
 永久五年(1117)のことで、天皇は十五歳、璋子が十七歳の時。
 
 いよいよ入内がきまった時、忠実ははじめて日記(『殿暦』)に、このようなことを 暴露した。
 -件の院の姫君は、備後守季通(すえみち)と通じており、世間の人々は皆このことを知っている。「不可思議也」。その他いろいろの噂が耳に入り、とても真実とは思えないが、世間周知の事実であるのだ、と。

 忠実は、その後も日記に、璋子が他の者とも密通している、と書き残している。
 しかし、白洲さんが参考にした本において、著者角田氏は、忠実が書いている季通は、そんな好色な人物とは思えない、と疑問を呈している。

 そんな噂が立つほどの美女、璋子と西行、佐藤義清は、璋子の兄が建立した徳大寺で出会い、一夜をともにし、そして、その後、待賢門院璋子が、西行に「あこぎの浦ぞ」と言ったことは、十分に推定できる。

 この待賢門院は、鳥羽天皇の元に入内した後に子を何人か生むのだが、そのうちの一人が、白河法皇との子と鳥羽天皇も疑った、後の崇徳院なのであった。

 西行、そして、彼を取り巻く環境には、何かと落語との関係が深いのである。


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by kogotokoubei | 2018-05-28 12:54 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 落語に『西行』がある。
 二代目、そして三代目三遊亭円歌の十八番だったようだ。

 内容は、西行が、天皇の側室、染殿の内侍に一目ぼれして、歌を交わすうちに内侍に気に入られ一夜をともにする。西行が「またの逢瀬は」と問うと、「阿漕であろう」と返される。その「阿漕」の意味がわからなかったが西行だが・・・とサゲにつながる。

 西行が登場する落語は、他に『鼓ケ滝』がある。

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白洲正子著『西行』
 
 先日、自宅付近の古書店で、文庫ばかり五冊手に入れた。
 そのうちの一冊が、この白洲正子さんの著『西行』だった。

 落語の『西行』でも、染殿の内侍の「阿漕」という言葉の説明があるが、もう少し、この言葉の背景や、西行という人について、本書で知ることができた。

 西行、元は北面の武士佐藤義清’のりきよ)が出家した理由は、『西行物語』では、親友の佐藤範康の急死にあると、されているらしい。

 本書より引用。

 西行物語によると、その前日に鳥羽法皇の命により、西行こと佐藤義清は、御所の障子に、十首の歌を一日のうちに詠んで奉ったので、褒美に「あさひまろ」という太刀を賜わった。また、待賢門院の方へも召されて、美しい御衣の数々を頂戴したため、衆人は驚き羨んだだけでなく、家族の人々にも大いに面目をほどこしたという。
 さて、その夜は同じ北面の武士の佐藤範康とともに退出し、翌朝範康の家へ行くと、ン門前で多くの人々が立ち騒いでいる。何事が起こったのか問い質すと、殿は今宵亡くなられましたと、十九になる若妻と、八十を越えた老母が、身も世もあらず嘆き悲しんでいる。義清は夢に夢みる心地がして、人の命のはかなさを痛切に思い知らされるのであった。
 (中 略)
 それを機に義清は出家に踏み切るのであるが、『源平盛衰記』は、ぜんぜん別の物語を伝えている。

 引用部分、「翌朝」訪ねたのに、「今宵」亡くなった、というのは少し変なのだが、これは本書のまま。

 いずれにしても、つい前日まで一緒だった二歳年上の同僚の突然の死が、佐藤義清に与えた精神的なダメージは多きかったとは思う。
 しかし、『源平盛衰記』は、別な物語を伝えているらしく、その物語とは何か気になる。
   さても西行発心のおこりを尋ぬれば、源は恋故とぞ承る。申すも恐ある
   上﨟(じょうらふ)女房を思懸け進(まひ)らせたりけるを、あこぎの浦
   ぞと云ふ仰(おはせ)を蒙りて、思ひ切り、官位(つかさくらゐ)は春の
   夜見はてぬ夢と思ひなし、楽み栄えは秋の夜の月西へと准(ながら)へて、
   有為の世の契を逃れつつ、無為の道にぞ入りにける。(崇徳院のこと)
 西行の発心のおこりは、実は恋のためで、口にするのも畏れ多い高貴な女性に思いをかけていたのを、「あこぎの浦ぞ」といわれて思い切り、出家を決心したというのである。「あこぎの浦」というのは、

  伊勢の海あこぎが浦に引く網も
  たびかさなれば人もこそ知れ

 という古歌によっており、逢うことが重なれば、やがて人の噂にものぼるであろうと、注意されたのである。
 あこぎの浦は、伊勢大神宮へささげる神饌の漁場で、現在の三重県津市阿漕町の海岸一帯を、「阿漕が浦」「阿漕が島」ともいい、殺生禁断の地になっていた。そこで夜な夜なひそかに網を引いていた漁師が、発覚して海へ沈められたという哀話が元にあって、この恋歌は生れたのだと思う。或いは恋歌が先で、話は後からできたという説もあるが、それではあまりにも不自然で、やはり実話が語り伝えられている間に歌が詠まれ、歌枕となって定着したのあろう。

 この後、世阿弥が作曲した『阿漕』の能について書かれている。

 漁夫のざんげ物語が、いつしか西行の悲恋の告白に変って行き、「阿漕々々といひけんも、責一人に度重なるぞ悲しき」と、前シテの老人が泣き伏すところなど、まるで西行がのりうつって、恨みを述べているかのように見える。
 室町時代になると、「あこぎ」という詞(ことば)と、西行は、切り離せないものになっていたことを示しているが、ものもとあこぎには、厚かましいとか、しつこいという意味があり、今私たちが使っているような、ひどいことをする、残酷である、という言葉とは違う。時代を経るにしたがって、ものの見かたの立場が変って来たのである。だから「あこぎの浦ぞ」といわれることは、最大の恥辱であったのだが、では、そんな冷酷な言葉を誰が投げつけたのかといえば、ただ「申すも恐ある上﨟女房」とあるのみで、相手は誰ともわかってはいない。朝廷に仕える女房たちとなら、西行は自由に交際していたし、源平盛衰記も、「申すも恐ある」とはいわなかったであろう。このように高飛車な言が吐けるのは、よほど身分の高い「上﨟」に違いないのである。

 あこぎ、という言葉、よほど酷いことをする相手に対しても、そう簡単には言えない。

 さて、ではいったい、どんな高貴な女性が、西行に「あこぎ」と言ったのか・・・・・・。

 佐藤義清の当時の勤務先(?)や、特別な環境で過ごしたある女性に着目した白洲正子さんの推理については、次の記事でご紹介。


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by kogotokoubei | 2018-05-27 19:12 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
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葉室麟著『河のほとりで』(文春文庫)

 この本から三回目。

 前回は藤沢周平について葉室麟がどう思っていたか、ご紹介した。
 今回は、司馬遼太郎のこと。

 司馬さんのソファー
 仏教的な世界観 培った 宗教記者時代

 <司馬さんのソファー>と呼ばれる長椅子がある。
 作家の司馬遼太郎さんは、もとは産経新聞の記者で若かりしころ、京都の宗教回りを担当していた。京都は各宗派の本山だけでも何十もあり、行事や人事も多く、これらを記事にするのが宗教回りの記者だ。司馬さんは東西両本願寺の記者室を中心に国内でも唯一、世界的にも珍しい「宗教記者クラブ」の創立メンバーのひとりだった。

 司馬作品は結構読んでいるが、このことは知らなかった。

 まさに、京都ならではの記者クラブと言える。

 引用を続ける。

その当時、司馬さんが宗教記者クラブの記者室で横になって本を読んでいた長椅子が、いまも<司馬さんのソファー>として保存されているのだ。
 京都、西本願寺の宗教記者室を訪れて拝見させてもらった。記者室の一角にあるソファーは、何の変哲もない長椅子に違いないのだが、司馬さんが新聞記者から作家に転身した後でも宗教記者時代の姿を覚えていたひとが多かったということだろう。
 そんなことを考えていると、宗教記者だった司馬さんはそのころの経験から仏教的な世界観を持つにいたったのではないかと、ふと、思った。
 司馬さんは戦時中、従軍して戦地に行く際には親鸞の『歎異抄』を持っていったという。「蓮如と三河」という文章の中で司馬さんは『歎異抄』を読んだ体験について、
「とくに『歎異抄』を読んでいるときに、宗教的感動とともに、芸術的感動がおこるのである。

 親鸞は弟子一人ももたず候

 ということばなどは、昭和十八年、兵営に入る前、暮夜ひそかに誦唱してこの一行にいたると、弾弦の高さに鼓膜が破やぶれそうになる思いがした」
 と書いている。生と死の問題を考えざるを得なかった戦時中だけでなく、戦後、作家になった司馬さんの作品の中にも仏教の影響が見え隠れする。

 この後、葉室麟は、司馬作品の中の仏教の影響の例として、『空海の風景』はもちろんとして、『国盗り物語』における斎藤道三の法華経の解釈のことや、『燃えよ剣』や『新撰組血風録』に見られる仏教的な無常感などを挙げている。

 そして、このエッセイは、次のような文章で締めくくられている。

 『「昭和」という国家』では、日本という国は昭和に入って「魔法の森」に入ったと述べ、この「魔法の森」のために数百万人の日本人が死んだとしている。そのことの是非はさておき、司馬さんは昭和という時代が、仏教でいう釈迦の教えが顧みられなくなる、 
 -末法の世
 に見えていたのではないかという気がする。
 もし、そうだとすると、司馬さんが存命なら昭和だけでなく、平成の今も「魔法の森」に入った末法の世だと思ったのではないだろうか。

 
 いわゆる司馬史観について、さまざまな意見があると思う。

 明治維新を高く評価し、それ以降、あの戦争までを暗黒時代と見なすことへの反論はあるだろう。
 維新の功臣たちを英雄視し、市井の人々への視線に欠けているという指摘もあるだろう。

 しかし、司馬史観に肩入れしないとしても、明治維新までと、それから日清・日露、そして太平洋戦争に向かう時代の様相の違いは大きい。
 もし、「魔法の森」に入ってしまったとするなら、それは、昭和からなのだろう、という指摘は否定できないように思う。


 そして、葉室が指摘するように、昭和が「魔法の森」に入ったとするならば、間違いなく、平成もまた「魔法の森」に舞い戻ってしまったのではなかろうか。

 戦争をしやすい国家にしようとする者が国のリーダーである状況は、あの戦争の前の日本の状況と似ていはしないか。

 しかし、同じ過ちをしてはいけない。
 早く、その森から抜け出さなくてはいけない。
 司馬遼太郎も、そして、葉室麟も、きっとそう言うに違いない。

 この文章を読んで、そんなことを思っていた。
 
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by kogotokoubei | 2018-04-17 20:36 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
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葉室麟著『河のほとりで』(文春文庫)

 この本から再び。

 藤沢周平について書かれた章。
 まずは、葉室麟に藤沢周平のことを紹介してもらおう。

 藤沢周平文学
 たじろがず 過去を振り返る ひそやかな強さ

 藤沢周平さんは時代小説の大先達だ。わたし自身、藤沢作品をこよなく愛するファンのひとりでもある。
 七月に山形市に行く機会があったおりに、鶴岡市の藤沢周平記念館を訪れた。
 藤沢さんは昭和二年に山形県東田川郡黄金村大字高坂(現鶴岡市高坂)に生まれた。
 山形師範学校に学び、中学教師となったが、結核が見つかって休職、教師生活は二年間で終わった。六年余の闘病の後、東京の業界新聞社に就職した。仕事の傍ら小説を執筆し、昭和四十八年、直木賞を受賞した。四十五歳のときだ。故郷の鶴岡市では、藤沢さんの業績を讃えて、藤沢さんの書斎を再現し、自筆原稿や創作メモなどの資料を展示する市立記念館を建設、四年前にオープンした。

 この文章が西日本新聞に掲載されたのが2014年9月。だから、記念館は2010年のオープンということになる。
 藤沢の直木賞受賞は昭和47(1972)年の『暗殺の年輪』。

 葉室麟は、記念館で『風の果て』の特別展示を見たようだ。

 藤沢作品の中でも『風の果て』は特に好きだ。どこが好きなのかと言えば、中年にさしかかた男が過去を振り返らざるを得なくなったときの視線に思いがけないほどの温かさがあるからだ。
 生きていくことは過酷で、何かを得ていくことは、同時に大切なものを捨てることである。それだけに過去を振り向くには難しい。自分が見たくないものを見ようとはしない。蹉跌の苦情やひとを傷つけたかもしれない自らの傲慢さから目をそむけてしまう。しかし、藤沢作品には、たじろがずに過去を振り返るひそやかな強さがある。

 この文章を目にして、葉室麟がどれほど藤沢作品から影響を受けてきたかを知った。

 葉室が藤沢作品について評した、“たじろがずに過去を振り返るひそやかな強さ”は、葉室作品の主人公に、そのまま当てはまると思うからだ。

 この文章の後、藤沢が教科書に載っていた佐藤春夫の詩「望郷五月歌」を暗記していたことが『半生の記』に書かれていると、同詩の一部を紹介している。

 その『半生の記』で、藤沢が戦時中にクラス全員で予科練志願すべきと、級長として国を憂うる正義派ぶって級友をアジったことを悔いていることを葉室は紹介している。

 そして、こう言う。

 軍国主義の時代、戦争協力を当然のごとく叫び、意に従わない者を声高に非難した<愛国者>は多かったに違いない。だが、戦後になって、そのひとたちは自らがしたことを悔いただろうか。手のひらを返したように「仕方ない」ですませたのではないか。
 自らがしたことを後悔する誠実さ、やさしさは現代になって失われつつあるものだ。
 いまもなお藤沢文学がひとを癒やすのは、時代の波に押し流されない「悔いるやさしさ」があるからだ、とわたしは思う。

 「悔いるやさしさ」は、その根底にある「悔いる強さ」は、藤沢作品に魅かれた葉室麟の作品にも、感じるものだ。

 良き読み手が、良き書き手になったのだなぁ、と、このエッセイを読んで強く感じた。

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by kogotokoubei | 2018-04-16 21:42 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 葉室麟が昨年12月に亡くなったことを知った時は、しばらく、呆然とした。

 まだ六十代後半だ。

 発行されている作品の七割位は読んでいると思う。
 
 実在の歴史上の人物がモデルの本もあるし、フィクションもあるが、登場人物につい感情移入してしまう名作、佳作が多い。

 これから、まだまだ歴史時代小説好きを楽しませてくれると思っていたので、残念でならない。


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葉室麟著『河のほとりで』(文春文庫)
 『河のほとりで』は、その葉室麟のエッセイ集。

 2月に文春文庫のオリジナルとして発行。

 内容の大半は西日本新聞に掲載されたものだ。
 
 「書物の樹海で」の章は、他の作家の作品の解説が中心。

 その中の2015年4月発行の山本兼一著「おれは清麿」の解説から引用したい。

 山本兼一さんとは生前、安部龍太郎さん、伊東潤さん、佐藤賢一さんととものに歴史座談会でご一緒したことがある。
 座談会が終わって、中華料理店での打ち上げで山本さんの隣に座らせていただいた。にぎやかに雑談しながら、ふと横を見ると、山本さんはいつもにこやかな表情で杯を傾けておられた。
 聡明で人徳のある方だという印象だった。
 それだけのご縁だったと思っていたが、振り返ってみると、山本さんが『利休にたずねよ』で直木賞をとられたとき、わたしも候補のひとりだった。
 このときは、同じ時代小説家の北重人さんも候補だった。五十歳過ぎの歴史時代小説家三人がそろって恋の話を書き、直木賞候補になっていると、ある新聞に書かれた。

 この第140回直木賞、葉室は『いのちなりけり』、北重人は『汐のほとりで』で候補になった。
 『いのちなりけり』には続編があり、その『花や散るらん』も直木賞候補になった。
 この二冊を通して、雨宮蔵人と咲弥という男女の数奇な人生を中心に、赤穂事件の背景への独自の解釈で味付けをしたもので、たしかに、『いのちなりけり』だけでは、直木賞選考委員も本命とは推しずらかったかもしれない。

 引用を続ける。

 初候補のわたしにとっては、照れくささもあり、晴れがましさもあった。しかし、三人のうち、北さんは直木賞候補の翌年に急逝され、昨年、山本さんも永い眠りにつかれた。
 残されたひとりとしての寂寥感はもちろんあるが、それ以上に逝かれた山本さんや北さんが何を作品に込められていたのだろうか、と日々、考えてしまう。
 三人とも作家としては中年になってからの<遅咲き>のデビューで歴史時代小説を書くにあたっては、それぞれの人生と重なり合う思い入れがあったはずだ、と思うからだ。

 その葉室麟も、永い眠りについた。
 
 読者である我々の寂寥感は、まだ癒されない。

 もう新作がないと思うと、まだ読んでいない作品を、急いで読む気になれないのだ。

 このエッセイ集では、藤沢周平、司馬遼太郎という先輩歴史時代小説作家について書かれた文もあり、次回は、その中からご紹介するつもり。

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by kogotokoubei | 2018-04-13 12:38 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
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池内紀著『二列目の人生-隠れた異才たちー』(集英社文庫)

 池内紀さんのこの本から、三人目のご紹介。

 その名は、高頭式(たかとう しょく)。

 実はこの本で初めて知ったのだが、私が六年住んだことのある、越後長岡出身だ。
 同じ姓のお店などがあるのは知っていたが、この人のことは知らなかった。

 ちょうど、富士山が舞台のブラタモリの再放送を観たところだが、この高頭式、山に深く関係のある異才だ。

 まず、本書の冒頭から引用。

 東京・市ヶ谷の閑静な一角、少し古びたビルの中に日本山岳会の本部がある。玄関を入った左手がフロアになっていて、壁にずらりと顔写真が並んでいる。歴代の山岳会会長というといかめしい。むしろ人一倍、山好きだった面々のポートレート集といっていい。初代の小島鳥水にはじまって、木暮理太郎、槇有恒、松方三郎・・・・・・。槇隊長によるマナスル初登頂をはじめとして、日本山岳会は数々の輝かしい偉業をなしとげた。あるいは遠征にあたり背後から強力に支援した。
 歴代の「顔」のなかに見慣れぬ一つがまじっている。二代目の位置にあって、ツルリとした頭にまん丸い童顔、きちんとした和服姿だが、病床にあったものか、うしろに枕のようなものが見える。名前まで風変わりだーつまり、高頭式。
 槇有恒(まき ありつね)の名は、マナスル初登頂を成し遂げた日本隊の隊長として、教科書で習った。その名は、まきゆうこう、と覚えている。

 他の会長の名は、正直なところ知らない。
 もちろん、高頭式も。 

 どんな人だったのか。

 明治三十八(1905)年の日本山岳会発足時の規則に、こんな内容が記されている。

 「高頭氏は山岳会の会計に欠損ある場合、向う十年間、毎年千円(会費千人分)を提供する」

 この文の前に、当時の東京帝国大学文科大学講師夏目金之助の年俸が八百円、啄木石川一(はじめ)の岩手の尋常小学校代用教員の月俸が八円、と紹介されている。

 山岳会が赤字なら、毎年千円、それを十年続けると規定された高頭式という人間は、なぜ、そんな大金を拠出できたのだろう。

 その生い立ちについて、ご紹介。

 『越後豪農めぐり』(新潟日報事業社)といった本によると、県内関川村の渡辺家は江戸末期には三千八百石規模の大地主だった。豊浦町の市島家は最盛期には田地二千町歩を数えた。そして高頭式の生家はそんな一つで、長岡郊外深沢村の豪農だった。
 明治十年(1877)の生まれ。本名式次郎。二十歳のとき父が亡くなって家督を継ぎ、家名仁兵衛を名のった。自分では式、あるいは義明を使った。
 
 長岡に六年住んでいた頃、渡辺家は、訪れたことがある。
 しかし、深沢村の豪農高頭家のことは、まったく知らなかったなぁ。
 
 式、あるいは義明は、豪農の家を継ぎながら、何がきっかけで山岳会に関わることになったのか。

 高頭式は十三のとき弥彦山に登って山に開眼した。そのときの体験があずかっていたのかもしれない。のちに『日本山獄志』を著したとき、標高はたいしてないが眺望の大きいことを力説した。『・・・・・・眼界忽ち開けて、北に佐渡島を望み、陸・羽の遠山は模糊として水天髣髴の間に在り』。十三歳の少年はきっと、ひたすら目を輝かせて周りの景観に見入っていたのだろう。『天気晴朗』の日の山頂を述べて、「其爽快なること言語に堪えず」と書きそえている。

 この『日本山獄志』という本が凄い。
 全千ページをこえ、厚さ十五センチ、六十点にあまる写真図版と数十のペン画山岳図、加えて二色刷り・百三十ページに「山獄表」つき、とのこと。

 原稿はすべて和紙に毛筆で書かれていた。積み上げると、まさしく天にとどいただろう。二十世紀初頭に、一国の山を収めて、これだけ完璧な山岳事典が世界のどこかにあったものか。少なくとも、もっとも早い、もっともすぐれた一つだったにちがいない。発行は博文館となっているが、出版費用の全額を高頭式自身が負った。

 有志と一緒に日本山岳会を発足させた翌年の明治三十九年に、この本が、山岳会誌『山岳』と一緒に、世に出された。 
 その後、日本山岳会の運営に、高頭の財力は、欠かせないものとなっていた。

 昭和八年(1933)、小島鳥水のあとを受けて日本山岳会第二代会長につく。ながらくの援助に対する山岳会からの返礼であって、高頭式自身には意にそわない役まわりだったらしく、二年後に早々と退いた。役員の一人が回想している。「・・・・・・いつも高頭さんは役員会に出席しておられた。他の会合でもそうであったように、いつも黙々として語られるところは極めて寡く、談論風発すり若い者の言葉を専らに聴き入って、会が終ると音もなく静かに帰って行かれるのであった」。
 大半が名士の息子たちで、その都会っ子の自慢話を、高頭式がどんな思いで聞いていたのかはわからない。戦後の「農地解放」で大地主があわてふためくなか、彼は自邸を開放して旅館にした。宿の名を「山岳」といって、玄関に高島北海画の槍・穂高屏風、次の間に中村清太郎筆「伯耆大山」、廊下には木下藤次郎の水彩「中禅寺湖」が飾られていた。奥の間は二十畳敷き。昭和二十九年(1954)に訪れた槇有恒が報告しているが。「旅館は御令息夫妻と、令嬢とによって営まれているが、全く旅館といった空気など微塵もない」。
 来迎寺駅を唯一の連絡場所とするその旅館は、世に知られることもなく、近在の者がたまに泊まる、贅沢な空間だった。

 槇がその「山岳」を訪ねた同じ年、高頭式は中風で倒れた。
 日本山岳会のロビーに飾られている写真は。この前後のようだ。

 昭和三十三年(1958)四月没、享年八十一。

 越後の豪農の倅が、酒や博打、女道楽にうつつを抜かすのではなく、日本山岳会という組織のために、家を危うくしてしまった。しかし、彼は“山岳”だけに家財を投入したわけではなかった。

 長岡の日本山岳会事務所を預かる室賀さんや、弥彦山岳会の渡辺さんの回想で、それは証明されている。

 生家跡には背をこす草が茂っていた。昔の写真では松林ごしに冠木門が見え、その奥に白壁をめぐらして堂々とした屋敷が控えていた。今はただ、うっそうと影をつくった藪があるばかり。
「度量の大きな人でしたね」
 室賀さのことばに渡辺さんが無言のまま何度もうなずいた。地区の学校、組合、山の手入れ、道路づくり。一人で費用のおおかたをまかなった。支配人がしぶるのを押しきって、たのまれるとこころよく請け判を捺した。その好人物ぶりを笑う人がいたのだろう、高頭式は大正十四年(1925)に出した『御国の咄し』のはじまりに自分の生い立ちをつづり、そのなかで「馬鹿」といわれたことについて触れている。いかにも自分はノロマで、ボンヤリで、安本丹(アンポンタン)であるが、だからといって馬でも鹿でもない。むしろ「先祖から伝わりました家宝を売りましたり、家屋を壊しましたり致しまするから、それが訛りまして破家(ばか)となりましたものと確信を致して居りまする」。
 大正デモクラシーと労働争議の高まりのなかで、地方では小作争議が頻発していた。隣県富山からはじまった米騒動が、またたくまに全国に波及する。そんな時代相を見つめながら、この「越後の旦那様」は、大地主といったものの行く末をはっきり見定めていたのではあるまいか。

 どんな豪農も、時代の流れには逆らえなかったかもしれない。

 しかし、その趨勢の中で、自分の趣味から大きく発展させて、高頭式は、二列目ではあったが、独力でつくった山岳大辞典とも言える著書を著し名を残した。

 高頭式を知っていたら、もう少し、長岡時代に訪ねるべき場所や人もいたのに、と悔やむ。

 このシリーズ、これにてお開き。
 他の異才たちについては、ぜひ、実際に本書をお読みのほどを。
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by kogotokoubei | 2018-01-02 09:37 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
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池内紀著『二列目の人生-隠れた異才たちー』(集英社文庫)

 落語の『二番煎じ』をはさみ、この本からの、二番煎じ。

 ご紹介するのは、福田蘭童。

 一回目の記事に、取り上げられた人で知っている名は橋爪四郎のみ、と書いたところ、佐平次さんからこの人も知っているでしょう、とコメントを頂戴したが、実は、知らなかった。

 この方の父親とご長男は、知っていた。

 まず、お父上のことから。

 画家青木繁の評価はとっくに定まっている。伝記、評論、画集など、いろいろとある。その年譜には東京美術学校卒業と同じ年に、こんな記述があるはずだ。
「房州布良へ写生旅行(坂本繁二郎、森田恒友、福田たね同行)。『海の幸』『海景』など制作」
 天才画家がはじめて自分の天分を作品にした意味深い旅行だった。だが、つづく翌年の出来事には、さして注意が払われない。
「明治三十八年(1905)、一子幸彦(のちの福田蘭童)誕生」
 福田の姓からもわかるように福田たねとのあいだにできた。房州布良が二人を結びつけた。海彦の里にちなみ、ついては「幸」を念じて「幸彦」と名づけたのだろう。このとき父親青木繁は二十四歳、福田たねは二十一歳。
 青木繁の名は、知っていた。
 しかし、その長男のことは、この本で初めて知った。
 佐平次さんの年代よりは少しだけ若いので、笛吹童子は知っていて、♪ヒャラーリ、ヒャラリーコ、という笛のテーマソングも聞いたことはあるが、その音楽を担当した人の名をそらんじることができる同時代のラジオを聞いた世代ではないのですよ^^

 昭和15年生まれの著者は、もちろん同時代で、あのラジオを聞いていた。

 番組のはじめにスタッフの紹介があった。そのはずである。というのは「作・北村壽夫(ひさお)」を記憶のはしにとどめているのだから。しかし、ほかは何一つ覚えていない。ただし、「音楽・福田蘭童」を除いてのこと。そして、この「音楽・福田蘭童」は「作・北村壽夫」よりも何倍か強く印象づけられた。蘭童というナゾめいた名前が呪文のようにある世代を呪縛した。

 このナゾめいた名の持主のご長男は、よく知っている。
 福田蘭童の長男、石橋エータローが「笛吹童子」のころを回想したなかで述べているが、NHKに父親を訪ねたとき、ちょうど主題歌の録音中で、尺八を片手にオーケストラの指揮をしていた。横笛もいろいろ工夫して、自分でつくって吹いていたそうだ。曲の最後が中途半端だというと、蘭童は答えた。
「まだ何かありそうな気分にしたかった。おまえのやっているジャズとはちがうからな」
 石橋エータローは本名英市、姓が福田ではなく石橋なのは母親が離婚をしたからだ。

 父親の天才画家と言われる青木繁、そして、ご長男の石橋エータローの名を知っていたのだが、蘭童はこの本で初めて知った。

 エータローにとって父蘭童は、「物心ついた頃からオヤジは死んだことになっていた」とのこと。
 十七、八歳の時に生きていると分かり、母親の禁令を無視して蘭童に会いに湯河原まで行ったと回想している。

 その蘭童も、親の愛には恵まれない少年だった。

 青木繁は一子誕生の翌年、わが子を恋人の両親に押しつけて郷里へ帰ってしまった。娘の「不始末」に困惑したのだろう、その両親は預かった子供を養子として入籍した。ために母と子は、戸籍の上では姉と弟になっている。

 預けられた栃木から上京して小石川の中学に通った蘭童は、知り合いの先生宅を訪ねて、床の間にあった尺八をいじってこっぴどく叱られたことがくやしくて、本格的に尺八を習うようになる。
 琴古流荒木派の関口月童、月童が倒れた後、水野呂童についての猛稽古の末、次のような逸話まであった。

 井伏鱒二はまた人からの話だがと断った上で、「福田蘭童は指先で紙に触ってみて、その紙の色彩を云いあてることが出来る」と述べている。机の上のマッチ箱を指でおさえ、下側のレッテルの色をいいあてたこともある。

 中学生で、すでに師範格、同時にピアノを習い、洋楽を学んだとのこと。

 独立したのち一派をおこして、これまで秘伝扱いされていた尺八に五線譜を導入した。晩年の弟子である横山勝也は「修行帖」のなかで「今でこそ誰でも使う奏法である、タンキングや情感の表現としてのポルタメントやレガート奏法、甲ツのメリを四と五孔開けの替え運指で出したり、の技法を、いち早くわがものにしていた若い蘭童の天才ぶりをあげている。

 蘭童がその名を残したのは、尺八ばかりではない。
 きっと、栃木での少年時代の川釣りからの発展なのだろう、釣りの名人とも言われた。

 西園寺公一の『釣魚迷』には釣り三昧だった蘭童の日常が語られている。「-日本が真珠湾の奇襲から太平洋戦争に突入する少し前の頃だ」と書き添えてある。人みなが好むと好まざるとにかかわらず軍国主義に流されていくなかで、そんな時代相をいっさい黙殺するかのように釣り糸を垂れたいた。
「魚釣りはたのしい。釣れないときより釣れたときのほうが嬉しいにきまっているが、釣れた魚をその場で、調理して食べるのはまた格別である」
 蘭童は開高健のように『釣魚大全』などといった大げさなタイトルはつけなかった。その著書はまったく、これ以上ないほど自然な名づけ方で、『釣った魚はこうして料理』。

 渋谷に、数年前、居残り会メンバーで忘年会を開催した三漁洞がある。

 佐平次さんから、石橋エータローの奥さんのお店とお聞きしていたが、その元は蘭童だったんだなぁ。エータロー亡き後は、奥さんが仕切っている。

 「三漁洞」では調理室に入ることはせず、そっと店に顔を出して、片隅で酒を飲んでいた。味見をすると、たいていはほめた。おりおり、何げない口ぶりで魚の特長や料理法のコツを洩らしたりした。いつもきちんとスーツを着て、ネクタイをしている。年をとっても独特にイロ気があって、若い嫁は義父と顔が合うたびに胸がドキドキしたそうだ。

 嫁の胸をときめかせる、粋でダンディで、かっこいい義父だったということか。
 
 本書では、その蘭童が、父青木繁に対して、複雑な思いを抱いていたことが、久留米に父の墓詣りをした時の逸話からうかがえる。

 天才画家の子をして生まれ、尺八、釣りで名を残した福田蘭童を、恥ずかしながら、この本で初めて知ることができた。
 
 もう一人位、本書から紹介したいが、他の記事を挟むかもしれない。

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by kogotokoubei | 2017-12-29 12:21 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 23日に葉室麟が亡くなっていたことを知り、ただただ意気消沈。

 最近も、織田信長の娘の数奇な人生、そして、その夫、蒲生氏郷という武将の健気な姿が描かれた『冬姫』を読んだばかり。

 名作『銀漢の賦』が『風の峠ー銀漢の賦ー』という題でNHKで放送された時、いくつか記事を書いた。
2015年1月30日のブログ
2015年2月6日のブログ
2015年2月20日のブログ


 直木賞受賞作の『蜩の記』は、もちろん、数多くの良質な時代小説を楽しみにしていたし、今後も多くの傑作を著してくれるものと期待していたのに。

 まだ、六十六・・・・・・。

 葉室麟のことは、別途書くとして、今回の記事のこと。

 今日12月25日は、大正天皇の祥月命日。

 期せずして、その大正天皇と深い関係のあった人に関する記事になった。

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池内紀著『二列目の人生-隠れた異才たちー』(集英社文庫)

 この本は、昨年、NHK FMラジオの「日曜喫茶室」の過去の放送の中で、著者池内紀さんが、当時の「近刊」として説明していらしたのを聴いて知っていた。
 最近になって古書店で文庫を見つけ迷わず購入。
 記憶が曖昧だが、「日曜喫茶室」で池内紀さんは、トップランナーではなく、その後ろを走ってきた人にも、さまざまな人生があって、それに興味を持って調べ始めた、というようなことをおっしゃっていたと思う。

 本書は、2003年に晶文社から単行本として発行され、五年後に集英社文庫入り。

 取り上げられた人物を目次から拾ってみる。

  大上宇市  もうひとりの熊楠
  島 成園  松園のライバル
  モラエス  ハーンにならない
  中谷巳次郎 無口な魯山人
  西川義方  天皇のおそばで
  高頭 式  先ズ照ラス最高ノ山
  秦 豊吉  鴎外の双曲線
  篁 牛人  志巧を見返す
  尾形亀之助 賢治の隣人
  福田蘭童  尺八と釣り竿
  小野忠重  版の人
  中尾佐助  種から胃袋まで
  早川良一郎 けむりのゆくえ
  槁爪四郎  もうひとりのトビウオ

 私が知っていたのは、橋爪四郎のみ・・・・・・。

 本編の紹介の前に、印象に残る言葉「記憶の訪問」について、「はじめに」からご紹介。

  はじめにー「記憶の訪問」のこと

 幸田文(あや)は父の露伴から家事その他きびしい躾を受けた。二十四のときに嫁いで十年後に離婚。だから「結婚雑談」というエッセイのはじめに、自分は離婚した経験をもつ女だから、結婚について満足なことは何一つ言えそうにない。もし言うとすると、「いびつな過去」を思い返して、「いびつなままの現在」から話すしかない。と断っている。
 この場合の「いびつな」は謙虚さから出た言葉だろう。大きな経験を、よく耐えた人に特有の意味深いことがつづられている。
 二十代のはじめから何度か見合いをした。そのうちの一つが結ばれて、あとは流れてしまったわけだが、流れ去ってあとかたもなくなるはずのものに、流れてもなお余情のあるものがある。恋ではなく特別な事件でもなく、なんとなく心に残る人のおもかげといったもの。だからこそ結婚というのが大きな事柄であることに、あらためて気がついた。
「結ばない縁のはしばしにも忘れないものがあって、こうして三十年過ぎた今も記憶の訪問に逢うからである」
 ちょうどこの『二列目の人生』を書いているときだった。「記憶の訪問」という言葉がひとしお身にしみた。まさにそんな気持ちで一人、また一人と対面していたからである。
 何か一つのことに打ち込んだ人は、たいていの場合、独自のルールをもっている。そのためしばしば世間から変わり者扱いされたりした。
 (中 略)
 あきらかに、その人でなくてはありえないエピソードなのに、なぜか誰にあってもあかしくないようでもある。どうやら夢のありかを伝えているせいらしい。
 
 「記憶の訪問」とは、なんとも味わい深い言葉だと思う。

 そうそう、ふいに、過去の記憶の訪問を受けることがある。

 この中から、もうじき祥月命日を迎える大正天皇の侍医でありった西川義方について、紹介したい。
 ちなみに大正天皇は、明治12(1979)年8月31日に生まれ、大正15(1926)年12月25日の崩御。だから、昭和元年は、たった六日しかなった。

 西川義方の凄さは、彼が残した医者にとって大事にされていた書物が物語っている。

 もしかすると、ちいさいときに目にしたことがあったかもしれない。腹痛で近所の医者にいった。老先生が診てくれた。白い髪に鼻ひげ、ズボンつりをつけた腹がまん丸い。聴診器を胸にあてられると、くすぐったいのだ。からだをよじらせているうちに、いつのまにか腹痛が消えていた。
 生水は飲まない。ご飯をよく噛んで食べる。食事のすぐあと駆け出さないー老先生はそんなことをいった。いちいち思い当たる。神妙な顔で聞いている間、目は一心にあたりをながめていた。不思議な形の瓶や皿、瓶のレッテル。ガーゼの束、消毒液。ガラス戸棚に大きな本が並んでいる。見なれない漢字のせいで魔法の書物のようだった。はしに一つの青い本があって、背が低いわりに厚ぼったい。のべつ開かれるらしく、はしが手ずれでほつれている。
 西川義方著『内科診療の実際』といった。刊行は南山堂。古い医家にはきっと一冊そなわっていたはずだ。表紙の色のせいで通称「青本」。大正十一年(1922)に世に出て以来、半世紀あまりにわたり、たえず版を改めた。途中に息子が手助けして、西川義方・西川一郎著となって、役割を終えた最後の版が昭和五十年(1975)の改訂七十版。総部数はいったい、どれほど数えたものか。
 途方もない著書である。手にとると、だれだってそんなふうに思うだろう。三千ページちかくに及んで「医」にかかわるあらゆる情報がつまっている。著者はその世界を大都に見立てたようだ。そこに入るべき二つの門を考えた。つまり、
  第一門 治療門
  第二門 診察門
 門が編に分かれ、編が章に細分化され、章が節で区分され、節が第一、第二、第三と分岐し、それがさらに一、二、三に分けられ、これをまた其一、其二、あるいは①②③が補っていく。

 私も、池内さんと同じような体験がある。

 子どもの頃、風邪をひいたり、腹をこわすと、近所の町医者に連れて行かれた。
 すでにご子息が病院を継いではいたが、大先生も健在で、子供はだいたい大先生が診ていたように思う。
 白髪で、鼻ひげ。
 あの頃は、とにかく注射が嫌いで、太い注射針を見ただけで泣いていたような気がする。だから、大先生は、正直、怖かった。
 しかし、その先生に注射を打ってもらったり、いただいた薬を飲むと、風邪も腹痛の治った記憶がある。名医だったのだろう、きっと。

 その病院の棚には、たしかにいろんな瓶やらの隣の本棚に洋書と並んでぶ暑い青い本があったはずだ。
 北海道の片田舎の先生も、きっと『内科診療の実際』は必読書だったに違いない。
 だから、先生が名医だったのではなく、その本が優れていたのかもしれない。

 こんな凄い本を書いた西川義方とは、どんな人物なのか。

 西川義方は明治十三年(1880)六月、和歌山県海草郡雑賀村に生まれた。父は村長をしていたので、その支援があったのだろう。三高より東大医学部に進学。卒業してすぐに和歌山の新宮病院に赴任。弟の学資稼ぎの意味もあった。数年で東京にもどり、日本医大で教えていた。そのままいけば勉強好きで学生おもいの医学部の先生の一生だったはずである。学界のボスになったりせず、新発見もしなかったが、町医者の六法全書ともいうべきありがたい本をのこしていったー。
 大正八年(1919)、西川義方は大正天皇の侍医に任じられた。入沢侍医長が東大のときの恩師にあたり、その縁で人選が進められていたらしい。当時、天皇の侍医は四人いて、そのうちの一人である。

 侍医になったのは、西川義方、三十九歳の時だ。
 しかし、大正天皇に初めてお会いした際、天皇から「西川、いくつになります」と問われて、西川は「こればかりは御許しを願います」と答えている。
 「言ってもよいではないか」とさらに天皇から問われ、「それではどうか御許しを得まして申し上げまする。西川は三十でございます」と嘘をついている。
 大正天皇は、ひとりごとのように「そんな筈はなかろうに」と呟かれてらしい。

 なぜ、西川は九つもサバを読んだのか。
 彼は、なんでも人間は三十が生命の盛りであって、これをこえると十二分の活躍がむずかしい、と考えていた。だから、いつも三十歳の意気でいたかったかららしい。

 大正天皇は、時に冗談を言って、西方たち侍医を笑わせるような人だったようだが、次第に病魔が襲ってきた。

 侍医に任官した翌年のこと。

 同年七月、宮内省発表。
「・・・・・・御発語に御障害起り明亮を欠くことあり。厳粛なる御儀式の臨御、内外臣僚の引見は御見合せ相成る旨・・・・・・」
 大正十年十一月二十五日、皇太子裕仁が摂政となった。以後は天皇の代理をする。その三日前、宮内省は大正天皇の幼時にさかのぼり、理由をくわしく発表した。
「天皇陛下には御降誕後三週目を出ざるに脳膜炎様の御疾患に罹らせられ、御心身の発達に於て、幾分後れさせらる、所ありしか・・・・・・」
 ために政務においては日夜、ひとしおの苦労があった。目下のところ、おからだにはお変わりはないのだが、「御脳力漸次御衰えさせられ特に御発語の御障害あらはるるため御意志の御表現甚だ御困難に拝し奉る・・・・・・」
 表現がまわりくどく、敬語がのさばっているが、しかし、伝えるべき情報はきちんと伝えてある。何一つ隠しだてせず、言い換えたりも、言いつくろったりもしていない。発表は「まことに恐懼に堪えざる所なり」で結ばれているが、それは自分の年齢を仕事ざかりの三十歳と思いさだめて、専心任務にはげんでいた侍医の思いでもあったに相違ない。

 大正天皇がまだご健在な間に、皇太子裕仁が摂政となって代理をしている、という事実を知り、この度の今上天皇の生前退位問題を思い出した。
 今上天皇は、父が摂政となって健康がすぐれない大正天皇の代理を務めたことを知りながらも、皇太子を摂政とするのではなく、自分が退位する道を選んだ、ということか。
 天皇という名である以上は、どうしても無理をせざるを得ない、ということなのだろうな。
 
 さて、発語障害などの悪化に伴い、なんとか最新医療を知ることで対策を打てないか、ということもあったのだろう、西川義方は、大正十五年(1926)二月に、新医学見聞の公務でヨーロッパに向かった。

 ドイツ語がよくできたし、自分もドイツ医学畑出身なので、旅のコースからもわかるように、ドイツが中心だった。しかし、本になったときは、なぜか北欧にはじまって、イタリア、フランス、イギリスのあと、ようやくドイツが出てくる。実際は一度ドイツを離れてから、イタリア巡歴中に遠路をおしてベルリンにもどった。そしてベルリン郊外ダンドルフの精神病院へ行った。
 プロフェッサー・シュスターに会うためだった。彼から「アルツハイメル氏病」について、くわしく聞いた。ふつう、ブラウスラウ大学教授アロイス・アルツハイマーの発見といわれているが、ダルドルフのシュスター氏が早々と病理解剖をしていた。
 (中 略)
 その臨床報告によると、ある女教師だが、読むこと、書くことができなくなり、何をいっても定まった一語しか発しない。この病は四十五歳から五十五歳に発病して、確実に進行する。西川義方はつけ加えている。「氏によると本病の病理は特定せる局所がない。浸潤もなく又滲出もない」。
 経過は短く、おおかたは数年にして死亡する。数カ月の短い経過で終わったケースもある。
 パリに着くと大使館員より封書を手渡された。入沢侍医長よりの電報が封じ手あった。
「至急御帰朝相成度ー」
 ただちに旅装をととのえ、シベリア鉄道経由で帰国。十二月五日、下関。翌日、葉山着。同月大正天皇没。四十七歳だった。

 内科医の百科辞書ともいえる大著をものにした西川義方も、大正天皇の病を治すことは、かなわなかった。

 西川は、『温泉と健康』という、四百頁、図版が四百五十あまりという本も著している。日本の温泉は、妻と二人で訪れ、「共著たるべきもの」をつくるつもりだったという。
 昭和六年(1931)、妻を病で失った。『温泉と健康』の序に、いかにも明治人間の語彙で、ともあれ青年のような初々しさで述べている。
「一時は、こいしさ、なつかしさ、かなしさ、やる瀬なさの涙に金泥にして、紺紙に写経でもものして、悶々の情を医(いや)さんとも考えた」
 だが、せっかく妻と二人して集めた資料である。約束を果たしてやらなくてはかわいそうだ。「夢見る人の心で、ある時はうれしく、なつかしく、またある時は狂おしく迸る心に鞭をあてて」、ペンを走らせたという。

最後に、大正天皇の微笑ましいお話を。

 宮中には独特の言い方があって、日常の食べ物でも名前がちがう。西川義方は、お得意の図表形式で品目と特別の呼び名の一覧をつくっているが、たとえば葱は「ひともじ」、ソバは「そもじ」、エビは「えもじ」、タコは「たもじ」、タイは「おひら」、イワシは「おむら」。
 大正天皇が元気なころ、京都府舞鶴に赴いたことがあった。大森という知事が説明役で近くの水産講習所に話が及んだ際、知事は「おむら」を知っているかとたずねられた。
「水産講習所を建てながら、魚の名のおむらも知らぬとは」
 と天皇は笑った。
 そのあと天橋立で網を引くと、大量のイワシがかかった。知事が水産講習所長に「おむら」のことをたずねると、所長は首をひねった。専門家も知らぬ魚を、知事が承知していなくてもやむをえないー。一件を紹介したあと西川義方は書いている。「大森はずるいぞ」といって天皇は大いに笑った。
 休憩のあと成相山登山が予定に入っていた。二十町の急坂に先導役の肥っちょ知事があえいでいる。痩せ形の天皇が声をかけた。
「大森、押してやろうか」
 その人が日々、休息に衰えていく。
  
 大正天皇のお人柄が伝わる、逸話。

 この部分前半の“宮中の符牒”の、葱が「ひともじ」で、つい、落語の『たらちね』を思い出してしまった。

 昭和四十三年に八十八歳で亡くなった西川義方という医者の存在を、この本で初めて知ることができた。

 本書からは、あと二、三人、異才をご紹介するつもり。

 ところで、この本の題、「二列目の人生」は、葉室麟作品の主人公と相通じるものがあるような気がしていた。
 葉室麟は、歴史上の人物を題材にする場合、いわば“一列目”で名の通った人はほとんど選ばない。
 そんな気がしながら、この記事を書いていた。
 まだまだ書いて欲しかったなぁ。


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by kogotokoubei | 2017-12-25 23:45 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛