噺の話

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カテゴリ:旧暦( 18 )

鳥インフルエンザのニュースの中で、中国が「清明節」の休暇になることが伝えられていた。

 二十四節気の春分の次が、明日、新暦で四月五日、旧暦二月二十五日の「清明」だ。

 
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小林弦彦著『旧暦は暮らしの羅針盤』(NHK出版)

 これまでも何度か紹介したことのある小林弦彦著『旧暦はくらしの羅針盤』(NHK生活出版新書)には、清明について、こう説明されている。

万物が発生、清く明らかになる時期。中国では、清明節といって、一族そろって祖先を祭る日。沖縄でも同じ風習が残っています。



 会社の中国人社員に以前聞いたことがある。彼らが墓参りするのは日本の春分(春のお彼岸)ではなく、清明らしい。もちろん、あの国では祝日。旧正月(春節)の次の長期休暇でもある。
 
 紹介した小林さんの本で記載されていた沖縄については、「沖縄大百科」のサイトからご紹介。
「沖縄大百科」サイトの該当ページ

清明祭
意味 【しーみー】 旧暦3月の吉日に行われる沖縄の三大行事の一つ。中国から伝わったとされ「清明の節」の期間に先祖のお墓に親戚が集まって、お線香やお花、重箱につめた料理をお供えし供養する。ちなみに「清明の節」というのは、植物が成長をはじめる時季、という意味で活力にあふれた季節を意味している。基本的には清明の入りから15日以内に行うのが基本だが、現在では休日に行うことが多い。



 沖縄には、自然と共存する文化がまだ残っているようで、うれしい。日本の他の地域で、さて「清明節」を祝う地域や集落があるのやら、私は分からない。

 “万物が発生、清く明らかになる時期”や、“植物が成長をはじめる時季、という意味で活力にあふれた季節”という表現には、駄ジャレではないのだが、「生命」という言葉の方が相応しいように思う。

 日銀新総裁の大盤振る舞いやアベノミクスのニュースの背後で、まだまだ大震災やフクシマから復興途上にいる人々のこと、施設のこと、文化財のことなどを思っていたが、ぜひ「清明」を機に被災された方々の「生命」が逞しくなることを祈るばかりだ。
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by kogotokoubei | 2013-04-04 22:19 | 旧暦 | Comments(0)
落語仲間でブログ仲間である佐平次さんが、昨日の私の記事にリンクしていただき、何とも過分なお褒めをいただいた。佐平次さんのブログ「梟通信」の該当記事
 佐平次さんのブログ読者の方がお立ち寄りになり、私が不勉強な「漢方薬と五行説との関係」などの情報をいただくなど、当サイトへお越しいただいた方も少なくないようだ。誠にありがたいことである。

 私は、そんなに博識でもないし、旧暦についての専門家ではないので赤面するばかり。
 ただ、明治五年に改暦するまで、日本人の生活に密着していた旧暦(太陰太陽暦)に興味があり、何冊か関連する本も読み、関連するサイトにも度々訪れている位のものである。
 
 昨日の記事はWikipediaからの引用を中心とする内容だったので、少し補足もしたく思い、あらためて旧暦について書きたい。

 まず、旧暦に関する参考図書のご紹介。
 これまでも何度か紹介したことのあるのが、小林弦彦著『旧暦はくらしの羅針盤』(NHK生活出版新書)。
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小林弦彦著『旧暦は暮らしの羅針盤』(NHK出版)

 たとえば、この本からの引用を中心に、「七夕」について書いたことがある。2010年7月7日のブログ
 本書では「ここがヘン!」というコラム的な記事がところどころに挟まれている。その中から紹介。

ハウス栽培の高価な七草
 七草は、五節句の第一番目で、旧暦一月七日の朝に七草粥を食べる行事です。枕草子の第百三十四段に「七日の日の若菜を、六日に人の持て来、さわぎとり散らしなどするに、見も知らぬ草を、子どもの取りて来たるを・・・・・・」という文章があります。これは清少納言が生きていた平安時代の京都で、一月七日の七草が、野原で採れたことを描写しています。
 しかし、新暦の一月七日に、野原で自然に生えている七草すべてを採ることは不可能です。スーパーやデパートの食品売り場で、パック詰めの七草は、ほとんどが大分のハウス栽培の高価なもの。旧暦の一月七日であれば、ハウス栽培の七草を買わずにすみます。


 2002年発行の本なので、今でも大分のハウス栽培かは分からないが、新暦一月七日では、自然の野原で採れた七草が手に入らないのは同じだろう。

 他のお奨め本として、松村賢治著『旧暦と暮らす-スローライフの知恵ごよみ-』(文春文庫)がある。この本には小林弦彦さんのことも書いてある。

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『旧暦と暮らす-スローライフの知恵ごよみ-』松村賢治著(文春文庫)

 なお、松村賢治さんは、社団法人大阪南太平洋協会の理事長で、同協会では「旧暦カレンダー」を発行している。
(社)大阪南太平洋協会

 本書は2002年にビジネス社から単行本として発行され、2010年文春文庫に加わった。この後に「庵を結び炭をおこす−続・旧暦と暮らす」「続々と、旧暦と暮らす」が発行されているので、三部作の第一作と言える。

 本書からは、まず昨日書いた「明治の改暦」に関する裏話や、その改暦によって引き起こされたと思われる問題の指摘などを、「第六章 なぜ旧暦が使われなくなってしまったのか」の「改暦の怪」から引用。

 ペリーの浦賀来航以来、ロシアやヨーロッパ列強から開国を迫られ、さまざまな条約を締結してきた新政府は、彼我の暦の違いに、大いに不満を感じていました。
 また、今後ますます、欧米の先進文化を導入していくに際し、西暦への改暦は、必要不可欠となっていました。同じ「旧暦」での改暦ですら、我が国では千二百年間に数えるほどのこと。ましてや、「太陽暦」への改暦で、紆余曲折のないはずがありません。事実この時も、世の中は大混乱となりました。
 岩倉具視、大久保利通といった政府首脳の多くが、遣欧米使節団として不在の間に、大隈重信は福沢諭吉と共にこの大改革を断行したのです。福沢は、改暦推進用のパンフレット「改暦弁」で、「日本国中の人民、この改暦を怪しむ人は必ず無学文盲の馬鹿者なり」と、激しく旧暦害悪論を展開しています。そして、当時の知識人の多くが、「農暦」としての効用を分かっていながら、この急激な大改暦を支持せざるを得ず、旧暦害悪論の大合唱に追随してしまったのです。
「閏により気候の早晩が起こり、旧暦は農業に不都合。迷信が多く、知識進歩の妨げとなる」という「改暦の詔勅」が、公式見解として百三十年も尾を引いているとは・・・・・・。

「改暦は、脱亜入欧、富国強兵、文明開化促進の要」という大義名分は、まったく正当なものに違いありません。しかし、実際のところは、明治政府の懐具合が、改暦の大きな要因だったようです。廃藩置県を断行して、中央地方共々、お役人のサラリーは月給制になっていました。その上、政府は外国人のアダバイザーや教育指導者をたくさん雇い、目白押しの大改革に、更なる大出費を迫られていました。
 明治六年は、「旧暦」のままだと閏六月があり、給料日が十三回ある年でした。
「もし、明治五年十二月三日が、明治六年のお正月になり、翌年が「太陽暦」で、閏がなくなったら・・・・・・」
「難なく、十二月と六月、二ヶ月分の給料がカットできる!!」
 どうもこれが、大急ぎの改暦の第一の理由だったようです。

 さて、他のアジア諸国の改暦事情は、どうだったのでしょう。韓国は、明治二十九(1896)年、中国が辛亥革命の翌年、明治四十五(1912)年です。日本は明治六(1873)年ですから、確かに、アジアでの西欧化の先頭に立ったわけです。
 アジアの中の日本という連帯感を、旧暦害悪論が少なからず打ち壊し、他のアジア諸国の不興を買ってしまったことは、否めない事実のようです。
 国際交流の面から捉えてみても、アジアの風土に根ざした生活規範を全面否定して、ヨーロッパの仲間入りを目指した日本を、周辺アジア諸国の人々がどのように感じていたのか、そういった面での思いやりに欠けた行動が、後にアジアの人々よの間に、大きなわだかまりを作る原因となったのかも知れません。
 今の我が国のひずみは、季節感や古き良きものへの愛着心の喪失も含めて、自然に則した社会運営の歯車が、急激な改暦で狂っていった結果かもしれません。


 初版が約十年前の本書だが、アジア諸国との関係は十年前より悪化していると言えるだろう。その理由のすべてが改暦にあるとはもちろん言わない。しかし、中国や韓国は改暦後も歳時など生活のリズムとでも言うべきものは依然として旧暦を土台としているのとは対照的に、日本が新暦にどっぷり依存していることと、隣人達との関係悪化は無縁ではないように思う。

 私の勤める会社には、中国籍の方もいる。彼ら、彼女たちは、日本にいても旧正月(春節)のお祝いをしている。大晦日には御馳走が並び、元旦、正月二日と食べるものはほぼ決まっているらしい。一般に鶏(吉と同音で縁起がいい)や魚(余と同音)を食べるとされるが、出身地域や家庭によって料理は違うようだ。北京以北の出身の方は水餃子が正月では欠かせない料理とのこと。中国における春節は、四千年前から続く行事であり、無事健康に年を越すことができたことを祝う、一年で最重要なハレの行事なのである。
 また、旧暦八月十五日の十五夜のお祝いにしても、中国、韓国、台湾では中秋節で祝日となり、月餅などを食べて祝う。旧暦だから満月なのであって、新暦8月15日に「十五夜」は祝えない。ちなみに今年の新暦8月15日は旧暦で7月9日、月齢8.2で、ほぼ上弦の月である。
 
 さて、本書の「第四章 自然のリズムから得た暮らしのヒント」の「衣替え」からも引用したい。

 平安時代の衣替えは、四月一日と十月一日だったそうです。もちろん旧暦の日付です。
 しかし、室町時代にな ると、武家の生活習慣が規範となって、四月一日n綿入れを袷(あわせ)に替え、さらに五月五日、端午の節句には帷子(かたびら)に替えました。すなわち、裏地を付けない単衣(ひとえ)の着物にしたのです。そして、九月一日には再び袷となり、更に九月九日の重陽の節句から、綿入れを着たそうです。
 これは、あくまでも武家など上流社会の習慣で、江戸時代の商家などではこれを見習い、四月一日に綿入れから袷に、そして足袋をやめます。さらに、五月五日には単衣に「衣替え」です。九月一日にまた袷に替え、足袋を履いて綿入れと、かなり規則正しく、四季の変化に衣装を合わせて、寒暖に対応していたようです。
 ところが、庶民はそんなに豊ではありませんから、湿度の高い夏には、男は褌一丁、女は腰巻一つで長屋住まいをしていたようです。そして着物は、町でも田舎でも、もっぱら古着のリサイクルシステムが充実していて、貧しいながらも、洗いざらしの清潔な生活を送っていました。
 
 現代の私達の生活に、この季節対応の知恵が活かせないはずがありません。
 旧暦の四月一日、五月五日、九月一日、九月九日は、それぞれに「夏の初日」「中夏初旬」「晩秋初日」「晩秋中旬」のことです。九月九日は、まさに晩秋の気配あ現れ始める頃で、見事に気温の変換時期を示しています。しかも、これが太陽暦に付けられた二十四節気ではなく、その年ごとの旧暦の日付で変化するわけですから。ストーブのしまい時や扇風機の出し時は、新暦ではいつもウロウロと悩んでしまいます。また、電気カーペットを物置から出し入れする時期も、上の物を動かしてからでないとできないので、その時期は、生活に大きく関係してまいります。衣替えの時期は、虫干しの時期でもあり、前の季節に新しい風を入れる時です。その日の天候も旧暦でチェックしてみてはいかがでしょう。
 風通しをよくするのは、政治や企業のモラルにも必要かもしれませんが、住まいでの風通しというシンプルな機能を駆使すれば、空調設備のコスト低減やシックハウス症候群対策に繋がります。また、防臭や除菌のスプレーにたよることもないでしょう。


 
 私自身も、旧暦の知恵を活かした生活が十分に出来ているわけではない。しかし、できるだけ旧暦を意識したいと思っている。「暑ければ脱ぐ、寒ければ着る」の生活をするにしても、“暑さ”“寒さ”は、新暦ではなかなか計りにくい。また、月の満ち欠け、海の満ち干は、体調などにも影響していると思う。

 旧暦の知恵を地球の太陽黄道上での動きで区切って付けた「二十四節気」は太陽暦(新暦)で固定された日の指標である。この二十四節気と、旧暦の両方を踏まえることで、それぞれの年の四季の状況が、ある程度は予測できるように思う。それが、長い歴史を踏まえた先人の知恵なのである。
 *「二十四節気」や「太陽黄道」についてご興味のある方は、下記をご覧のほどを。
2010年8月23日のブログ

 私は「今日は旧暦で何日?」を確認するには、「旭川情報ネット」サイトのカレンダーを参照している。字も大きく、非常に分かりやすい。「旭川情報ネット」サイト内のカレンダー

  大震災とフクシマは、それまで「大量消費社会」をまっしぐらに走ってきたことの是非を振り返る契機であったはずだ。原子力村の勧めるままに、電気を湯水のごとく無駄遣いしてきたことを反省する気持ちを、私達はもう忘れていいのだろうか。

 自民政権やマスメディアは、大震災やフクシマの話題を嫌がる世情を反映、あるいは助長して景気の良さそうなネタばかりを追いかける。もちろん、景気回復は重要な課題だし、期待もしたい。ところが、そういった「景気」を良くする話題の一つに次のような「原発輸出推進」などを加えて欲しくはない。時事ドットコムの該当記事

原発輸出を推進=茂木経産相

 茂木敏充経済産業相は15日の閣議後記者会見で、海外への原発インフラの輸出について「相手側の希望と安全性(の確保)を大前提に、これからも進めていきたい」と述べ、政府として今後も推進していく考えを示した。 
 経産相は2011年3月の東京電力福島第1原発事故を受け、相手国の希望を重視する考えを強調した。その上で「わが国が蓄積した原子力に関する技術、人材を原子力の平和利用のためにきちんと使っていきたい」と語った。(2013/01/15-11:42)


 こういう記事には要注意だ。「のど元過ぎれば」になってはいけないと思う。大震災もフクシマからも、まだ復興途上にあることを、「景気」の良い話で忘れてはならないはずだ。

、今の日本は、あらためて旧暦を重んじて自然と協調し、エネルギーと時間のムダ使いをしない生活が省みられる絶好の契機だと思うのだが、なかなかそんなことを言う政治家もメディアも少ないのが実態である。あの「節電」はいったい何だったのか・・・・・・。

 「景気回復」のための予算計上も必要だろうが、フクシマを経験した日本だから進めるべき、原発に替わるエネルギー産業の育成にも予算を投入すべきだろう。たとえば、液化天然ガスを使用したコンバインドサイクルの火力発電は、燃焼効率が良く廃棄物も少ない。間違っても放射性廃棄物を出すことはない。
 なぜ、ヒロシマ、ナガサキ、フクシマを経験した日本が、原発を輸出するのだろうか。メディアは、もっと取り上げるべきテーマである。最近は朝日も反原発ネタが少なくなってきたなぁ。

 少し脱線しつつあるので旧暦に戻すが、省エネルギー生活をするにも旧暦は実に良くできた知恵だし、他にも効用があると思う。たとえば、アジア諸国と良好な関係を構築するためにも、彼らと同じ生活のリズムを取り戻すことが重要だろう。簡単なことではないが、そういう姿勢がなければ、「世界基準」や「グローバル化」という虚ろな言葉に翻弄されるばかりではないだろうか。せっかく、大きな犠牲を払って「大量消費社会」を反省する機会を得た日本にとって、旧暦を考えることは、決して無駄ではないように思う。

 しかし、今回も、つい記事が長くなり、飲む酒も増えて、時間もかかった。これのどこが“省エネルギー”なのかと、思わないでもない。

 それでも、最後に。
 旧暦も原発も、その他の問題も、その是非をはかる重要な問いかけは、「それが自然と協調することにつながるか?」それとも「自然を破壊することにつながるか?」ということではなかろうか。
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by kogotokoubei | 2013-01-15 19:29 | 旧暦 | Comments(3)
雪、である。先を歩くのは、連れ合いである。

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 今日1月14日は、旧暦で12月3日にあたる。今から140年前の明治5年旧暦の12月3日に当たる日を、明治政府は新暦(グレゴリオ暦)の明治6(1873)年1月1日として改暦した。
 この改暦は、布告がその一カ月前にも満たない旧暦11月9日という、非常に慌しいものであった。いったい、なぜ明治政府は改暦を急いだのだろうか。

「グレゴリオ暦」のWikipediaから引用したい。一部を太字にする。
Wikipedia「グレゴリオ暦」

日本におけるグレゴリオ暦導入

日本では、明治5年(1872年)に、従来の太陰太陽暦を廃して翌年から太陽暦を採用することが布告された。この「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(明治5年太政官布告第337号、改暦ノ布告)では、「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」として、グレゴリオ暦1873年1月1日に当たる明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることなどを定めた。そのため明治5年12月2日まで使用されていた天保暦は旧暦となった(明治改暦、明治の改暦)。

この布告は年も押し詰まった同年11月9日(1872年12月9日)に公布されたため、社会的な混乱を来した。暦の販売権をもつ弘暦者(明治5年には頒暦商社が結成された)は、例年10月1日に翌年の暦の販売を始めることとしており、この年もすでに翌年の暦が発売されていた。急な改暦により従来の暦は返本され、また急遽新しい暦を作ることになり、弘暦者は甚大な損害を蒙ることになった。一方、福澤諭吉は、太陽暦改暦の決定を聞くと直ちに『改暦弁』を著して改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時の1873年(明治6年)1月1日付けで慶應義塾蔵版で刊行されたこの書は大いに売れて、内務官僚の松田道之に宛てた福澤の書簡(1879年(明治12年)3月4日付)には、この出来事を回想して「忽ち10万部が売れた」と記している。

これほど急な新暦導入は、当時参議であった大隈重信の回顧録『大隈伯昔日譚』によれば、政府の財政状況が逼迫していたことによる。すなわち、旧暦のままでは明治6年は閏月があるため13か月となる。すると、月給制に移行したばかりの官吏への報酬を1年間に13回支給しなければならない。これに対して、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり12か月分の支給ですむ。また、明治5年も12月が2日しかないので、11か月分しか給料を支給せずに済ますことができる。さらに、当時は1、6のつく日を休業とする習わしがあり、これに節句などの休業を加えると年間の約4割は休業日となる計算である。新暦導入を機に週休制にあらためることで、休業日を年間50日余に減らすことができる。


 もちろん、福澤諭吉など進歩派が改暦を強く支持した背景には、維新を経て海外との交流が活発になり、欧米人と交渉をする場合など、彼らが使う「グレゴリオ暦」を採用しないと、不平等条約の是正などの外交の会議日程を設定するにしても不便だったことは分かる。明治の改暦を考える時、私は数年前に大きな声で叫ばれた「世界基準」という言葉を思い出す。

 しかし、「世界基準」に合わせるという“タテマエ”の裏には、コスト削減という明治政府の“ホンネ”がしっかり見える。改暦は実に政治的な判断で拙速に行われたと言ってよいだろう。

 改暦前日まで使われてきた「天保暦」は、過去から長い期間にわたって使われてきた暦の改訂版であったが、中国ほかアジアの国における「農暦」と同様に、「太陰太陽暦」という、太陽と月の動きを元に、自然現象と密着した生活を送るためには、非常に良くできた暦であった。
 そして、中国も韓国もその他多くのアジアの地域も、あくまで一つの指標としての「グレゴリオ暦」は採用していても、季節を踏まえた祭事などの行事や農作業の準備は、旧暦を元に行っている。また、イスラム文化圏では、生活や宗教上のしきたりの基盤は太陰暦である。

 ところが、日本はどうか・・・・・・。何かことが起こると集団でまっしぐらになる、良く言えば適応力の強い日本人、悪く言えば節操のない日本人は、見事にたった140年前に採用されたばかりの「グレゴリオ暦」に、ほとんど染まってしまった。

 たった140年と言うのは、例えば中国暦の一つである「宣明暦」を、日本では貞観4年1月1日(862年2月3日)から、貞享元年12月30日(1685年2月3日)まで、823年間も使用していた。日本における旧暦(太陰太陽暦)の歴史は、新暦(グレゴリオ暦)の比ではないのだ。

 「女郎の誠と玉子の四角 あれば晦日に月が出る」という、廓ばなしでお馴染みのマクラ、新暦では何のことか分からない。太陰太陽暦では、晦日に月は出ない。
 赤穂浪士が討入りした元禄15年12月14日は、満月に近い明かりを吉良邸襲撃の助けにしようとして決めた日取りなのである。グレゴリオ暦では1703年の1月30日。とても満月ということが連想できる月日ではない。

 落語や古典も、旧暦を知ることで理解が深まり楽しみも増す。

 今年は新暦2月10日が旧暦1月1日、旧正月(春節)である。中国などでは民族の大移動がある。そして、製造業などで日本から中国や旧暦が生活の基盤になっているアジアの国の工場や提携会社に赴任した人々は、旧正月休暇前の社員への「餅代」のことや、新暦正月よりも長い旧正月の休暇のことを、海外赴任で初めて知るかもしれない。

 「グローバル化」という言葉には、かつての「世界基準」と同様に、うそ臭い匂いがプンプンするが、その「グローバル」な活動によってアジアで旧暦を見直す日本人が増えて、自然と一体となった生活を尊ぶようになるのなら、「グローバル化」の皮肉な効用と言えるのかもしれない。

 旧暦では12月までは、冬。1月から春。だからこそ年賀状で「迎春」と書くのである。140年まえの今日は、本当は旧暦12月3日だった。しかし、明治政府は改暦して、新暦1月1日にしてしまった。
 今日の雪が、140年前の改暦について、「おい、まだ冬だよ」と言う“空”からのメッセージのような気がしたので、ついこんなことを書いてしまった次第。
 雪は雨に変わってきたが、季節感も月の満ち欠けも海の満ち干にも関係のない新暦中心の日本人の生活は、そう簡単には変わりそうもない。せいぜい、落語を楽しむ中で、私は旧暦による季節感を少しでも味わいたいと思う。
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by kogotokoubei | 2013-01-14 16:00 | 旧暦 | Comments(15)
今日8月27日は、旧暦の7月10日。そう、「四万六千日」である。しかし、「浅草寺」は、「ほおずき市」を含めてもっとも御利益の大きな日の行事を新暦の7月9日・10日に開催にしている。

 「浅草寺」のサイトに、「四万六千日」は次のように説明されている。
『浅草寺」サイトの該当ページ

 観音さまのご縁日は「毎月18日」ですが、これとは別に室町時代以降に「功徳日(くどくび)」と呼ばれる縁日が新たに加えられました。月に一日設けられたこの日に参拝すると、百日分、千日分の参拝に相当するご利益(功徳)が得られると信仰されてきました。中でも7月10日の功徳は千日分と最も多く、「千日詣」と呼ばれていましたが、浅草寺では享保年間(1716~36)ごろより「四万六千日」と呼ばれるようになり、そのご利益は46,000日分(約126年分)に相当するといわれるようになりました(この数については「米一升分の米粒の数が46,000粒にあたり、一升と一生をかけた」など諸説ございますが、定説はありません)。
 なお、この10日を待って一番乗りで参拝したいという民衆の思いから、前日の9日より人出があって、7月9・10日の両日が四万六千日のご縁日と受け止められるようになりました。
 また、この両日には「ほおずき市」が「四万六千日」のご縁日にちなんで開かれます。そもそもこの市は、芝の愛宕(あたご)神社の縁日に始まり、「ほおずきを水で鵜呑(うの)みにすると、大人は癪(しゃく)を切り、子どもは虫の気を去る」といわれるなど薬草として評判であったようです。その愛宕神社の縁日は観音さまの功徳日にならい四万六千日と呼んでいたのですが、やがて「四万六千日ならば浅草寺が本家本元」とされ、ほおずきの市が浅草寺境内にも立つようになり、かえって愛宕神社をしのぎ盛大になったと伝えられています。
 一方、江戸の昔、落雷のあった農家で「赤とうもろこし」を吊るしていた農家だけが無事であったことから、文化年間(1804~18)以後に「雷除(かみなりよけ)」として赤とうもろこしが売られるようになりました。ところが明治初年に不作が原因で赤とうもろこしの出店ができなかったことから、人々の要望により「四万六千日」のご縁日に「雷除」のお札が浅草寺から授与されるようになり、今日に至っています。



享保年間(1716~36)ごろより「四万六千日」と呼ばれるようになったのだから、間違いなく旧暦の時代だ。

 何度か紹介したことがある、『旧暦はくらしの羅針盤』(小林弦彦著、NHK生活人新書)には「四万六千日」は次のように書かれている。
小林弦彦 『旧暦はくらしの羅針盤』

四万六千日
 七月十日、観音さまの結縁日です。結縁とは、『広辞苑』には『仏道に入る縁を結ぶこと』と書いてあります。この日に観音さまにお参りすると、四万六千日分の功徳があるといわれます。一日のお参りで、百二十年以上の功徳があるとは。浅草寺の観音さまが、ことのほか賑わいました。



 三日前先週8月24日は、旧暦の7月7日、七夕だった。前の日の落語会のことを思い出しながらブログを書いている途中で、外で一服し空を眺めたら、見事な上弦の月だった。織女(ベガ)と彦星(アルタイル)を含む「夏の大三角」を確認し忘れたが、満月の明るさの十二分の一と言われる半月の夜だからこそ、織女と彦星の年に一度の逢瀬、というロマンを楽しむことができるわけで、今年の新暦7月7日は旧暦5月18日で月齢17.5の明るさだったから、たぶんベガやアルタイルを確認することはできなかっただろう。ちなみに、仙台や北海道などでは、できるだけ旧暦に近くということから8月7日に七夕のイベントを行う。ちなみに新暦8月7日は旧暦6月20日で立秋、月齢は18.9だった。その日、ベガとアルタイルがよく見えたのかどうかは不明。

 「四万六千日」と言えば、『船徳』の文楽による名言、「四万六千日、お暑い盛りでございます。」があまりにも有名だが、思うに文楽も新暦で考えたのだろうなぁ。旧暦で7月は“秋”の初めの月である。さすがに今年は残暑がきびしいが、本来「暑い盛り」は過ぎている。三代目柳家小さんが『船徳』を「四万六千日」の出来事と設定したと言われているが、小さんは安政四年(1857年)生まれなので、明治5年に新暦に切り替わった時は十五歳。浅草寺が、「四万六千日」の行事をいつから新暦開催に切り替えたのかは分からないが、小さんは旧暦で考えていたかもしれない。いや、噺家として活躍していた時はすでに新暦だったから、新暦でイメージしたのだろうか。このへんは、ちょっとしたミステリーだと私は勝手に思っている。

 今日行われた落語会や寄席で『船徳』をかけた噺家がいたら、その人は結構いいセンスをしていると思う。
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by kogotokoubei | 2012-08-27 20:25 | 旧暦 | Comments(6)
今日から8月。8月1日を「八朔(はっさく)」と言う。本来は旧暦8月1日に「八朔」の行事があるべきなのだが、新暦にそのまま移行していることも多いのは、ある程度やむを得ないかかもしれない。ちなみに今日は旧暦では7月2日。旧暦8月1日は今年は8月29日。
 京都から「八朔」行事のニュースを紹介。MSN.産経ニュースの該当記事

八朔の京都、芸舞妓「おたの申します」
2011.8.1 13:13

 京都の芸舞妓(げいまいこ)が芸事の師匠やお茶屋に挨拶(あいさつ)まわりをする行事「八朔(はっさく)」が1日、京都市東山区の祇園一帯などで行われ、辺りは華やいだ雰囲気に包まれた。

 八朔は旧暦の8月1日をさし、お世話になった人にお礼や贈り物を届ける風習があった。花街では、新暦移行後もこの習わしが続けられており、夏の京都の風物詩となっている。

 京都五花街の1つ、祇園甲部(同市東山区)では、黒紋付きの正装をした芸舞妓が京舞井上流五世家元の井上八千代さん宅などを訪問し、「おめでとうさんどす」「相変わりませず、おたの申します」などと挨拶した。

 舞妓の真咲(まさき)さん(15)は「とてもおめでたいことです。今年が初めてで緊張していますが、気持ちを新たに頑張りたい」と話していた。



 「八朔」について何度も引用させてもらっている小林弦彦さんの本には、こう書いている。小林弦彦著『旧暦はくらしの羅針盤』

徳川家康が江戸城に入った日とされ、江戸時代は公式の祝日でした。八朔は中秋の入りでもあり、季節の変わり目でもあり、草餅やぼた餅などを作ったところもありました。庶民の間では、この日から「よなべ」が始まりました。よなべとは、夜の残業のことで、奉公人にとっては嬉しくない節日でした。



 「土用」の話の時にも引用した荒井修著『江戸・東京 下町の歳時記』から、「八朔」のことを紹介したい。京都の芸舞妓の「おたの申します」も色っぽいけど、江戸の色街では、京都とはちょっと違った慣習があったのだ。
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 荒井修著『江戸・東京 下町の歳時記』

八朔 
 8月1日のことを「八朔」といいます。一般には、徳川家康が江戸城に初めて入城した日だったり、その年の新しい穀物を贈答したりして祝う日なんだけど、八朔というと、あたしたちにとっては吉原をイメージするくらい色っぽいことのような気がするのね。
 というのは、吉原芸者たちが新しい出し物をやって見せたり、新しいおべべを着たりするんです。遊女じゃなくて、吉原芸者だよ。たとえば新作の吉原俄(にわか)が始まるんだけど。俄というのは特別な出し物みたいなもの。踊りが多いけど、博多俄なんかは漫才みたいなのをやったりもする。企画ものという感じですね。
 この日は吉原の紋日です。紋日は旗日(祝日)のことですが、廓の紋日というのは、世間一般の旗日とは違って、この日遊女たちは白無垢小袖に衣がえをする。なぜ衣がえが旗日になったかというと、着物からなにから全部替えるのは、たいへんなお金がかかる。どれだけの衣装を用意できるか。たとえば一流の花魁といわれる人が、新しい衣装を身にまとえなかったら、その人はもう落ち目になったと思われるでしょう。超一流が二番手、三番手になっちゃうわけだから。そういう、権勢を誇る特別な日でもあるんですね。だから、八朔は廓の旗日だというのが、「いいね、色っぽいね」という感じがするんだよね。
 そんなふうに、一般の人の知らないような行動がいっぱいあるんです。


 京都の芸舞妓の風習とは、ちょっと違う吉原芸者の八朔の行事。そして、落語愛好家には何と言っても馴染み深い(?)、吉原花魁のこと。「紋日」という言葉は、『品川心中』で落語ファンにはお馴染み。品川の白木屋で板頭(いたがしら=筆頭女郎)を張ってきたお染が、紋日前になっても“移り替え”ができそうになく、誰かを道連れに心中しようと思い立って・・・・・・という噺。すべては書きません。上下ある長い噺だが、下を聞く機会は、そう多くない。

 “移り替え”は、着物を紋日ごとに季節のものに新調するだけではなく、お店のやり手婆さんや牛太郎などの従業員にも酒や肴を振舞って小遣いまであげる行事なので、それ相応のお金持ちの客(パトロン)がいなくては、とてもトップ(板頭)の座を維持できないわけだ。「巻紙も 痩せる苦界の 紋日前」ですよ!
 
 まぁ、旧暦時代の歳時が、新暦にせよ残っていれば、その背景や物語をたどることもできるから、有難いと思うべきなのかもしれない。そう言えば、果物のハッサクは、旧暦8月1日頃に採れるので名がついたらしい。あくまで、旧暦八朔の頃ですよ。
 
 昨日から旧暦の7月に入ったから、秋が始まったわけだ。今週6日土曜日が旧暦7月7日の七夕。半月の夜だから天の川を見るのが、ちょうどいいわけだ。そして来週8日の月曜日が「立秋」。ついでに言うと、翌9日が旧暦7月10日の「四万六千日」。ただし、浅草寺では、先月新暦ですでに「ほおずき市」は終っている。
 季節の歳時を旧暦に少しでも近づけようとしているのが、仙台など北国の七夕まつり。毎年8月7日に行われる。今年も仙台で開催されるようで何より。仙台七夕まつり公式サイト
 震災からの一日も早い復興を祈るまつりになるのだろう。珍しく締めの一句。

 「被災地の 祈りよ届け 天の川」(オソマツ)
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by kogotokoubei | 2011-08-01 16:57 | 旧暦 | Comments(0)
 たまたま昨夜、家の近所の鰻屋さんで鰻を食べた。土用の丑の日には食べないことにしているので、前倒しして、馴染みの店で連れ合いと食べた鰻は上手かった。養殖とはいえ、静岡県吉田町産で、肉厚の美味しい鰻を、良心的な価格で食べさせてくれるお店。普段は夫婦二人で切り盛りしている鰻屋さんだが、明日21日の丑の日は助っ人数人がやって来て臨むとのこと。しかし、いつもと同じ品質の鰻を通常より多く確保するのは大変な苦労らしい。長年のお付き合いがあって初めて確保できるとのこと。

 鰻屋のご主人と四方山話をしていたら、台湾産鰻が国内産より高くなったということを聞いた。
 
 帰ってからネットで調べたら、なるほど、NHKのニュースでも取り上げていた。NHKオンラインの該当ニュース

台湾産うなぎ価格 国内産上回る
7月13日 18時5分

「土用のうしの日」を前に、台湾では、日本向けに輸出する養殖うなぎの出荷作業が最盛期を迎えていますが、ことしは、稚魚のシラスウナギの不漁が原因で、日本国内の卸売価格は過去最高値となり、台湾産のうなぎが国内産を上回る事態となっています。

養殖したうなぎの9割以上を日本に輸出している台湾では、来週21日の「土用のうしの日」を控え、出荷の最盛期を迎えています。台湾北部の空港近くにあるうなぎの輸出会社の施設では、台湾各地で養殖されたうなぎが運び込まれ、日本に空輸するため、氷の入った水と一緒に袋に入れられ、箱詰めされる作業が行われていました。台湾では、日本と同じように稚魚のシラスウナギの不漁が原因で、ことしの日本国内での卸売価格は過去最高値となり、ことし5月から6月にかけては、台湾産のうなぎの値段が国内産を上回る事態となっています。日本の輸入業者によりますと、今週の台湾産のうなぎの国内での卸売価格の相場は、1キロ3350円と、去年の同じ時期に比べ70%以上、値上がりしているということです。台湾から日本への輸出量は、今月に入ってから、去年に比べ60%落ち込んでおり、台湾のうなぎの業界団体の代表は、「うなぎの価格が上がるのは望ましいが、これから先も不漁で高騰している稚魚を確保できず、台湾の養殖業全体が縮小してしまうことを心配している」と話していました。台湾では、稚魚のシラスウナギの高騰が続くなか、うなぎの養殖から撤退する業者も出ていて、今後、収穫量をどのように確保していくかが課題となっています。


 ニュース動画の最初の画像だけでもグラフが確認できるので、こちらも紹介。
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 中国産も台湾産も国産価格を上まわっている・・・・・・。
 いくら、稚魚のシラスウナギが不漁とはいえ、「土用の丑の日」を当て込んで、しっかり商売しているように思うのは、私だけではないだろう。

 土用の丑の日に、無理して普段より高かったり量が少ない中国産や台湾産の鰻を、騒々しくサービスの行き届かない店で食べなくてもいいと思うのだが・・・・・・。
 そもそも土用は夏だけではなかった。以前にも何度か紹介している小林弦彦さんの本から引用する。小林弦彦著『旧暦はくらしの羅針盤』
 土用は旧暦の「雑節」の一つ。
 *ちなみに、昨年「処暑」を取り上げた時に、下記の文に登場する「二十四節気」を説明したので、ご興味のある方はご覧のほどを。2010年8月23日のブログ

 雑節は、二十四節気や五節供以外に、「暦注」として旧暦時代の暦本に記載されていたものです。忘れられたものもありますが、多くは現在でも年中行事として使われています。
 雑節は、一般的には「節分」「彼岸」「社日」「八十八夜」「入梅」「半夏生」「土用」「二百十日」「二百二十日」の九つです。それ以外には、「初午」「盂蘭盆会」「中元」を加える説もありますが、ここでは九つのみ説明します。


 土用は次のように説明されている。

土用 
 旧暦では、立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれ前の十八日を、土用といい
ました。年に四回あったのですが、夏の土用だけが残りました。夏の土用は
猛暑の最中ですので、「土用うなぎ」を食べるのが一般に普及しました。


 補足すると、必ずしも18日間とか限らない。17日の場合も19日のこともある。wikipediaから引用する。

歴史 
 五行では、春に木気、夏に火気、秋に金気、冬に水気を割り当てている。残った土気は季節の変わり目に割り当てられ、これを「土旺用事」、「土用」と呼んだ。
 土用の間は、土の気が盛んになるとして、動土・穴掘り等の土を犯す作業や殺生が忌まれた。ただし、土用に入る前に着工して土用中も作業を続けることは差し支えないとされた。また「土用の間日(まび)」には土用の障りがないとされた。



 さて、今日では夏の土用のみが日常で意識され、その間の「丑」の日に鰻を食べる習慣が残っているのだが、夏のこの時期、必ずしも鰻だけがお奨めではないし、その昔にはいろんな夏の風物詩があったということを、次の書から紹介したい。
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 荒井修著『江戸・東京 下町の歳時記』

 著者の荒井修さんは私より少し年長の“団塊の世代”で、浅草にある舞扇の老舗、荒井文扇堂の四代目社長さん。「はじめに」から、まず引用。

 あたしが生まれた昭和23年ころは、まだ戦災の爪あとが深く、東京中が仮住まいのバラックだらけだったそうです。それでも物心のつく三、四歳のころになると本建築の家が建ち始め、あたしの家にも大工さんが入り、その大工さんの弁当箱の大きかったことを今でも覚えています。
 あたしは浅草で三代続く扇子屋に生まれましたが、戦時中に踊りを踊っている人などいるわけもなく、扇子なんかそうそう売れるものではありません。当時は仕入れられるものならなんでもということで、万年筆からおもちゃの刀まで売っていたというのだから、祖父やおやじたちの苦労は相当のものだったと思います。
 (中略)
 この本は、あたしの生まれ育った下町と、江戸時代からの歳時記を加えて綴ったものです。もちろん下町とは、江戸城から江戸湾に向かった日本橋あたりから人形町方面をさした言葉で、江戸時代でいうところの浅草は下町エリアではありません。けれども庶民の町で江戸一番の盛り場ですから、下町文化という点では、この地のあれやこれを下町の歳時記とすることにっは間違いはないと思います。


 “あたし”であって、“わたし”や“私”ではないところが、ミソ!
 さぁ、荒井さんによる夏土用の下町の歳時記をご紹介。

夏土用と暑気払い 
 夏の土用となると、いろんなことをやりますが、土用の丑の日にうなぎを食うなんていうのは、一説には平賀源内がうなぎの売れ行きの悪かった時期に、うなぎ屋のために始めたものです。土用というと、それまでは丑湯なんていうのがあるんですよ。夏土用の丑の日に薬湯につかるんです。そうすると健康になれる。
 それから、丑浜なんていってね、丑の日に海に入るんですね。そうすると健康でいられるとか、いっぱいあるんだ。焙烙灸もそう。さっきの、お盆に使う焙烙があるでしょう。そこに山のようにお灸を据えて頭に載せるの。効き目があるとかなんとかではなくて、一つのおまじない的にね。
 夏土用のころっていうと、たいがい暑いんで、暑気払いに「直し」というものを飲む。直しというのは江戸の言い方で、上方では「柳陰」といいます。「青菜」という落語の中にも出てきますが、柳のある日陰で、ちょっと飲んで涼めるというところから柳陰というらしい。これは、焼酎をみりんで割ったものなんだけど、この焼酎はどうやら米焼酎のようです。
 みりんというものは文化文政から天保年間に、江戸で一番の料理屋「八百膳」四代目主人の栗山善四郎という人が書いた『料理通』という本がるんだけど、この中の一節に、「みりんを煮返して」っていうのが出てくるわけ。そうすると、みりんがちょっと焦げるんだな。それがおいしくするコツらしい。だけど、そうやって料理に使うだけじゃなくて、屠蘇散を入れてお屠蘇として飲んだり、飲み物としてのみりんもあるんです。
 で、この直しはとろっとして、リキュールみたいな感じ。甘くてね。これはがぶがぶ飲むもんじゃないね。みりんは、冷たくすると固まっちゃうからそのままで、井戸水の中に徳利ごとつけておいた焼酎で割る。その程度の冷え方でじゅうぶんなんだと思うよ。これを飲んで身体の中の熱を外に出すという、この知恵、素敵じゃない?
 (中略)
 直しの場合は、ある説によると、焼酎2に対してみりん1っていうんだけど、この前、実は割り方をいろんな比率で試してみたときに、上方の人間が一人いたんだ。そいつはみりん2に対して焼酎1でいいって言う。だけど東京の人は、「いや、焼酎2でみりん1だとう」って言ったりね。これでかなり度数が違うんですよ。
 ちなみに、あたしは1対1がうまいと思うんだけどね。


 ここで出てくる“焙烙”とは、荒井さんの説明では、「素焼きの大きな皿みたいなもの」である。

 出ましたよ、「青菜」!「直し」!
 直しのことが、よく分かる解説がうれしい。
 夏の土用の時期の暑気払い、必ずしも「鰻」だけではないわけだ。この後に、次のように書かれている。

夏を越す 
 夏っていうのは、たぶん、昔の人にとってはたいへんきびしい季節なんですよ。大人だけじゃなくて、幼児のうちに死んじゃったりする場合が結構ある。江戸時代は、寿命五十歳だったりするでしょう。だから、夏を越せたというのは、おめでたい話なわけですよ。夏には夏独特のいろんな病があったり、水あたりがあったりというのは、もう普通に起こりやすいことだから、それをどうやって越すかということは、その時代の人にすりゃたいへんなことですよ。
 だから焙烙灸にしろ、井戸さらいにせよ、みんな夏を越すための大切な行事ですよ。行事というか、なきゃならないものなんだろうな。
 当時の人が夏を恐れ、そして信心を持ち、それからなんとか乗り切っていくために、暑気払いというようなものがある。
 「蚊やり」っていう言葉があるでしょう。蚊は向こうに「やる」ものなんだ。殺しちゃうという了見じゃないんだよ。わかる?江戸の人間というのは、あくまでも最後に逃がすんだよな。そうありたいということだね。


 
 以前に飼っていた犬を思い出す。メスが十六歳で亡くなった翌年、オスが十九歳で天寿を全うした。亡くなったのは11月だったのだが、その年の夏が越せるかずいぶん心配したものだ。

 夏、そして土用、鰻だけではないことが少しはお分かりになったかと思う。鰻を食べなくても、「土用しじみ」なんてのもあるね。私はしじみ大好き。オルニチンが肝臓にいいから。

 丑湯に浸かって、“直し”をじっくり舐めるように飲みながら、青菜をつまみ、しじみ汁を吸う。

 よし、これで夏を乗り切ろうと思って、奥に「青菜はあるか?」と聞いたら、「鞍馬山から牛若丸がいでまして・・・・・・」(スイマセン)
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by kogotokoubei | 2011-07-20 16:08 | 旧暦 | Comments(4)
今日8月23日は二十四節気の「処暑」。暑さも和らぐ、と言われている目安の日。しかし、今年はどうなのか・・・・・・。
 8月7日が「立秋」だったが、「立秋」と「処暑」は、“二十四節気”の「節気」と「中気」である。
 なんて、いきなり書いても「わかるかなぁ~わかんねぇだろうなぁ~」と松鶴家千とせ、じゃなく小言幸兵衛は言う(失礼!)
 “二十四節気”とは何か、について以前にも紹介したことがある、『旧暦はくらしの羅針盤』(小林弦彦著、NHK生活人新書)から引用。
小林弦彦 『旧暦はくらしの羅針盤』

 旧暦では、「二十四節気」という基準点があります。太陽の動く黄経を二十四等分したものです。360度を15度ずつに分割すると、二十四になります。
 この二十四節気が、旧暦では太陽暦の思想です。すでに説明しましたが、二十四節気は「節気」が十二、「中気」が十二、配置され、中気が閏月を決めるポイントになります。二十四節気は、新暦では日付がほとんど一定していますが、旧暦では毎年変動します。
 二十四節気にはどんな意味があるのでしょうか。知っておくと便利です。
 (中略)
 二十四節気は、シーズンの変わり目に枕詞として、現在も活用されています。


 そして、“節気”である黄経135度の「立秋」の後の“中気”である黄経150度が「処暑」である。旧暦が「太陰太陽暦」と言われるのは、この「二十四節気」のように太陽の動きも考慮しているからなのだ。
 そこで、次に「黄経」って何?という疑問がわくでしょうねぇ。「黄経」を理解するには、“太陽の動く道”である「黄道」を知る必要があるが、Wikipediaの「黄道」に分かりやすい図を含め説明されてあったので、拝借 。*便利な世の中になったものだ・・・・・・。Wikipedia 「黄道」

 黄道は天の赤道に対して23.4度傾いている。この角度を黄道傾斜角といい、地球の公転面の垂線に対する地軸の傾きに由来するものである。白道(月の通り道)は、黄道よりさらに約5度傾いている。
 黄道と天の赤道との二つの交点を分点という。このうち、黄道が南から北へ交わる方を春分点(しゅんぶんてん)といい、春分点を起点(0度)として黄道を360度に分けたものが黄経(こうけい)である。もう一つの交点を秋分点(しゅうぶんてん)といい、黄経180度に当たる。
 現行の二十四節気は、黄道を15度毎の24分点に分割して定められている。
 読み方は「こうどう」でも「おうどう」でもどちらでも正しいが、文部省の学術用語集では「こうどう」となっている。


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 図にあるように、黄経90度が「夏至」、黄経270度が「冬至」である。黄経150度がどのあたりかは、皆さんご推察の程を。

 中国には、“七十二候”というものがあって、それは前述の小林さんの本で次のように紹介されている。
 

旧暦の二十四節気は、現在でも季節の移り変わりの枕詞として活用されています。また、旧暦での閏月を決める重要な役割ももっています。
 それに対して、七十二候はお天気の話題にも、登場しません。なぜでしょう。七十二候も本来は中国暦の思想で、二十四節気をさらに三等分して、七十二もの季節の目安を作ったわけです。七十二のなかには、とうてい考えられないようなものもあり、日本の気候に合ったように、作り替えられたものもあります。定説はありません。


 前掲の書の巻末を参考に、、「処暑」に関する七十二候をご紹介する。
 第40候(処暑・初候、8/23-8/27)  「鷹乃祭鳥」:たかが、とりをとってたべる
 第41候(処暑・次候、8/28-9/1)   「天地始粛」:あつさも、とうげをこした
 第42候(処暑・末候、9/2-9/7)    「禾乃登」 :いねがみのる *禾(か)とは、稲のこと
 *今年の「処暑」の次の節気は、9月8日の「白露」。
 初候に関して日本で作り替えられたものが「綿柎開(めんぷ ひらく) : 綿を包む咢(がく)が開く」であるらしい。たしかに、鷹が鳥をとって食べる、という表現は農耕民族には馴染みにくいかもしれない。

 さて、本当に「天地始粛」とならなければ、鷹どころか、人間がおかしくなってとんでもない事件ばかり起こしそうな、そんな猛暑。こういう時は、落語でも聞いて涼むに限る。
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by kogotokoubei | 2010-08-23 11:40 | 旧暦 | Comments(2)
今日7月7日は、旧暦(太陰太陽暦)では5月26日、まだまだ「七夕」には遠い。ちなみに旧暦7月7日は今年は8月16日になる。
旧暦では1月から3月が春、4~6月が夏、7~9月が秋、そして10月~12月が冬と、実にシンプルで分かりやすいし、実際の天候との整合性も高い。逆にいえば、自然と天候に関する長年の人間の英知から旧暦が出来たと言ってもいいだろう。

さて、「七夕」の話。旧暦7月は秋の始まりの月なので、「七夕」は俳句では秋の季語。
下記の「五節句」(あるいは「五節供」)の一つ。月日は、くどいようですが、本来は旧暦です。
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人日(じんじつ):1月7日→七草
上巳(じょうし/じょうみ):3月3日→桃の節句、雛祭り
端午(たんご):5月5日→菖蒲の節句
七夕(しちせき/たなばた):7月7日→たなばた、星祭り
重陽(ちょうよう):9月9日→菊の節句
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柳家権太楼は『人形買い』のマクラで、楽しそうにこの五節句のことを説明してくれる。

さて、「七夕」とはどんな日(だった)のか?
そして新暦(グレゴリオ暦)の7月7日を無理矢理「七夕」とする場合、どんな無理があるのだろうか?

以前にも紹介したことがある、『旧暦はくらしの羅針盤』(小林弦彦著、NHK生活人新書)から少し長くなるが引用。*第3章「旧暦で本当の季節感を取り戻そう」から
小林弦彦 『旧暦はくらしの羅針盤』

七夕
旧暦七月七日は七夕で、五節供の第四番目です。夏祭のシーズンも終わり、秋風を少し感じる頃に「七夕」がやってきます。澄み渡る夜空には、七日目の半月が輝いています。半月の明るさは満月の十二分の一です。ですから、天の川も牽牛と織姫星が、きれいに見えるのです。夜のロマンです。七夕飾りの笹には、色紙や短冊などが吊るされました。商家では、それらの他に商売繁盛を願って大福帳なども吊るしたそうです。
<ここがヘン!>雨に祟られデートもままならぬ牽牛と織姫
 旧暦時代の七夕は、夢とロマンの行事でした。現在の七夕も、旧暦時代を真似て笹に短冊を結びつけて、子どもには願いごとを書かせたりしていますが、背景が違います。
 まず秋でないこと。梅雨が終わっていないこと。お月様が半月かどうか分からないこと。
 もしも幸いに晴れていても、満月ならば、星は見えません。いずれにしても、子どもをがっかりさせる七夕になっています。もっとがっかりしているのが、牽牛と織姫でしょう。
 仙台が八月に七夕祭を行うのは、旧暦に季節を近づけようと、努力しているからです。
 俳句の季語では「七夕」は秋になっています。旧暦七月の異称は、文月です。芭蕉の『おくのほそ道』に「文月や六日も常の夜には似ず」と、七夕の前夜に詠んだ句があります。また、「荒海や佐渡によこたふ天河」と七夕を詠んだ句もあります。与謝蕪村(1716~84年)のロマンあふれた句もあります。「戀(こい)さまざま願の絲(いと)も白きより」



何もかもが旧暦がいいとは言わないが、旧暦をベースにした祭りや行事やしきたりには、それなりの理由がある。そして、落語だって多分にそういった旧暦時代の日常と密接なつながりがある。今週末は、旧暦7月10日の「四万六千日」を新暦に置き換え浅草寺で“ほおずき市”があり賑わうことだろう。まぁ、こういった行事が残っているだけでも良しとすべきなのだろうが、旧暦7月10日は今年は8月19日にあたる。もし、その日にどこかで誰かが『船徳』を高座にかけたら、その噺家さんのセンスはなかなかのものです。

梅雨ど真ん中の今日、関東地区ではとても星は見えそうにない。もし見えたら、それは“たなぼた”である。(失礼!)
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by kogotokoubei | 2010-07-07 10:59 | 旧暦 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛