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噺の話

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カテゴリ:今日は何の日( 81 )

 今日11月8日は、旧暦の十月十二日。

 松尾芭蕉の命日。

 芭蕉は、寛永二十一(1644)年生まれで、 元禄七年十月十二日(1694年11月28日)に、満五十歳で旅立った。

 号に、風羅坊があり、これは、落語『金明竹』の後半、あの上方の男の道具づくしに登場する。

 この噺を十八番とした噺家として、三代目三遊亭金馬を外すことはできない。
 私が、仲間内の宴会で演じた『金明竹』は、金馬版である。

 実は、11月8日は、金馬の命日でもある。

 前の東京五輪が開催された昭和三十九年のこの日に、旅立っている。

 なんとも不思議な巡り合わせ。

 旧暦と新暦で、芭蕉と金馬が、今日、祥月命日なのだ。

 そして、私の中で、二人をつなぐのが、「風羅坊」の言葉。

 芭蕉の『笈の小文』の序に、風羅坊は登場する。

 『笈の小文』は、別名を『庚午 (こうご) 紀行』あるいは『大和紀行』、『卯辰 (うたつ) 紀行』と言われる。貞享四(1687) 年 十月に江戸を出発し、翌年四月までに各地を旅した紀行文だ。芭蕉生前は未定稿のまま門人の乙州に預けられ、没後15年を経た宝永六(1709)年、乙州により刊行された。

「序」の冒頭部分をご紹介。

百骸九竅(ひゃくがいきゅうけい)の中に物有り。かりに名付けて風羅坊(ふうらぼう)といふ。誠にうすものの風に破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好むこと久し。終(つひ)に生涯のはかりごととなす。ある時は倦(うん)で放擲(ほうてき)せん事を思ひ、ある時は進んで人に勝たむ事を誇り、是非胸中にたたかふて、是が為に身安からず。暫(しばら)く身を立てむ事を願へども、これが為にさへられ、暫(しばら)く学んで愚を暁(さとら)ん事を思へども、是が為に破られ、つひに無能無芸にして只(ただ)此の一筋に繋(つなが)る。西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶における、其の貫道(かんどう)する物は一(いつ)なり。


 さまざまなサイトで、現代語訳や朗読を確認することができるので、ここでは現代語訳は割愛。

 「風羅坊」についてのみ補足するが、「風羅」は風にひるがえる衣のこと。ひらひら、ふらふらして地に足がつかない様子を自分のことに置き換え、諧謔的に自らの号とした、と言えるだろう。

 ふと、デラシネという言葉を思い浮かべた。

 根無し草。

 そして、風羅坊。

 芭蕉、そして金馬。

 風羅・・・風にひるがえる衣のような、自由奔放さ、という点で共通しているように思える。

 二人は、外の世界、世間体などに頓着しない、自由人だったのだろう。

 二人の命日に、そんなことも考えていた。

by kogotokoubei | 2019-11-08 12:47 | 今日は何の日 | Comments(2)
 時事的な内容は、兄弟ブログに引越したのだが、3.11から八年を迎えた今日、どうしても書いておきたいことがある。

 さまざまな角度から特別番組が組まれているが、重要な問題がおざなりになっているように思う。

 それは、原発事故による、甲状腺がん患者の増加に関する問題だ。

 検索しても、大手メディアのサイトでは、ここ最近ほとんど扱われていない。

 朝日が今年1月に掲載した記事は、福島県立医大の発表をそのまま扱い、原発事故との関連性を希薄化しようとしているような記事で、感心しない。
朝日新聞の該当記事

 真実は、もっぱら、他のサイトから確認することになる。

 なかでも、「福島原発事故の真実と放射能健康被害」のサイトが有益だ。
 昨年末更新された、甲状腺がん増加に関する詳細な記事を紹介する。
「福島原発事故の真実と放射能健康被害」のサイト


福島の甲状腺がん→現状で子供201人が発病!原発事故の現在と影響
更新日:2018年12月27日 公開日:2014年3月14日

2019年、福島原発事故の現状。それは子供達の甲状腺がんの多発を抜いて語ることはできません。

そこで今回は『福島原発事故と甲状腺癌』のカテゴリに属する7つの記事をまとめて5分で読めるようダイジェストでご紹介します。詳細な内容は各記事への青色のリンクをクリックすることで閲覧できます。

福島原発事故の現状…現在の状況がどうなってしまっているのか…

2018年9月5日に公表された最新の福島県民調査報告書によると、福島県の小児甲状腺がん及び疑いの子供達は、2か月半前…前回の198人から3人増えて合計201人になりました。

それから手術で良性結節だったことが確定し甲状腺がんではなかった1人も元々は、この甲状腺がん及び疑いにカウントされていましたから、この1人も数えれば甲状腺がん及び疑いは合計202人となります。

福島県の発表は甲状腺がんを、悪性…悪性とはがんのことですが『悪性ないし悪性の疑い』という言葉を使い、あたかも甲状腺がんでない子ども達もこの中に含まれているように書くことで、焦点をぼかしチェルノブイリ原発事故との比較を困難にしています。


しかし手術を終えた165人の中で、良性結節だったのはたった1人にすぎず、162人が乳頭癌、1人が低分化癌、1人がその他の甲状腺癌との診断です。

つまり手術を終えた165人中164人が小児甲状腺癌でした。

%表記にすれば『悪性ないし悪性の疑い』のうち99%は、小児甲状腺癌。

ですので疑いという言葉を過大評価して安心するのは危険です。

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この記事は現状、福島県で甲状腺癌と考えられる201人の子どもたちを市町村別、事故から病気発見までの経過年数別、男女別、事故当時の年齢別、地方別にそれぞれ分類して、チェルノブイリ原発事故や過去の日本や福島県のデータと比較しています。比較することで、現状の福島の小児甲状腺がん患者数が多いのか?少ないのか?放射能の影響はあるのか?ないのか?客観的に見ることができます。

なお混乱しやすい先行検査と本格検査の定義の解説もおこなっていますので初めて『福島の甲状腺がん問題』に接する方にも最適です。


 サイトから、他の記事もぜひご確認いただきたい。

 国は、甲状腺がんと原発事故との因果関係を認めようとしない。

 しかし、さまざまな事実、データなどを踏まえて、その因果関係は明らかではなかろうか。

 国策として原発を推進してきた国、そして、想定可能だった津波対策をないがしろにした東京電力は、甲状腺がん患者となった人々に対して、大きな責任を持っている。

 なぜ、「あれから八年」の番組で、甲状腺がんのことが避けられているのか・・・・・・。

 政府への忖度であったり、メディアの自主規制であるなら、これは、由々しき問題である。

by kogotokoubei | 2019-03-11 21:36 | 今日は何の日 | Comments(11)
 今日8月8日は、ジャズアルトサックス奏者、キャノンボール・アダレイの命日。

 1928年9月15日にフロリダ州タンパで生まれ、1975年8月8日にインディアナ州で、脳梗塞で亡くなった。47歳の誕生日を迎える前だった。

 本名は、ジュリアン・エドウィン・アダレイ。

 キャノンボールは愛称だが、その名がついた由来には二説ある。「キャノン=大砲」の「ボール=弾丸」、つまり昔の大砲の弾は炭団を大きくしたような丸い鉄の玉だったので、彼のでっぷりとしたおなかの出具合からきたという説と、「人食い=キャニバル」のように大食いだったから、という説。

 その大食いが糖尿病を招き、彼の死期を早めたと言ってよいだろう。

 ジュリアンの父親はコルネット奏者で、そうした家庭環境もあって少年期にはサックスを吹くようになっていた。成人してからは地元の高校で音楽の教師をやりながら自分のバンドを率い、地味に活動していた。

 キャノンボールは朝鮮戦争が始まった1950年に徴兵されている。配属は軍楽隊で、彼は音楽監督に抜擢されている。その後、1955年に教職の修士課程を取るためにニューヨークへ向かった。

 そのニューヨークで、伝説的なデビューをすることになる。

 1955年6月19日。グリニッジ・ヴィレッジにできたばかりのジャズ・クラブ「カフェ・ボヘミア」に、ジュリアンと弟ナットのアダレイ兄弟は居た。それは、ニューヨークに着いた初日だった。
 ボヘミアのハウスバンドはベースのオスカー・ペティフォードのバンドだったが、いつものサックス奏者が現れない。たまたま居合わせたサックス奏者チャーリー・ラウズに代役を頼んだのだが、彼は楽器を持っていない。そこに、アルト・サックスを抱えていたキャノンボールがいた。ペティフォードはジュリアンに楽器を貸してくれと頼んだところ、なんと自分が演奏すると言い出したのだ。
 ペティフォードは、生意気な太っちょを懲らしめるつもりで、とんでもないハイ・スピードで演奏を始めたのだが、キャノンボールは難なくこなしてしまった。一夜にして、キャノンボールの存在がニューヨークのジャズ・シーンに知られることになった。

 カフェ・ボヘミアでの飛び入りが、ジュリアンを教師の道から、ジャズアルトサックス奏者への道に変えた。

 この1955年は、3月にアルトサックスの巨星チャーリー・パーカー(愛称バード)が亡くなった年だった。だから、キャノンボールを「ニュー・バード」と呼ぶ人もいた。

 デビュー後、キャノンボールはマイルスのバンドで多くのアルバムに参加し、その後、弟ナット(コルネット奏者)とバンドを組んでヒットアルバムを出すことになる。

 さて、キャノンボールの命日に何を聴こうか、と思いながら、ある本をめくってみた。

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 後藤雅洋さんの『ジャズの名演・名盤』(講談社現代新書)は1990年の発行。
 著者後藤さんは、老舗ジャズ喫茶、四つ谷「いーぐる」の店主であり、ジャズ評論家としても有名。

 後藤さんはキャノンボールについて、本書でこう書いている。

 事あるごとに言っているので、少々しつこいと思われるかもしれないが、『サムシン・エルス+1』はキャノンボール・アダレイのアルバムではない。いくらジャケットに名前が大きく書かれていても、このアルバムの実際のリーダーは、キャノンボールではなくマイルスなのである。嘘だと思うなら、このアルバムの目玉、「枯葉」を聴いてみればよい。この曲のムードを決定するおいしいフレーズは、全部マイルスが吹いているから・・・・・・。

 たしかに、そうだろう。
 では、後藤さんはどんなアルバムをお奨めしているのか。

 改めてキャノンボール探究の第一手を考えようとすると、少々困ったことが持ち上がる。マイルスがらみでないキャノンボールも、実は二面性があるからだ。
 まず、パーカー直系の、バリバリと吹きまくるインプロヴァイザーとしての顔を、より広く一般に知られるファンキー・キャノンボールである。個人的には前者の方が好みなのだが、世間的な評価は後者にある。それに、キャノンボールの場合、「ファンクの御用商人」などと辛辣なことを言われても、必ずしも本人の意にそまぬことをしているわけでもない。むしろファンキーは彼の陽性な資質にぴったり合った音楽であるとの見方も成り立つわけだ。
 そこで、彼が弟のナット・アダレイと組んだ記念すべきファンキー・バンドの第一作『キャノンボール・アダレイ・イン・サンフランシスコ』から紹介しよう。
 と思ったのだが、その前に先程から使っている「ファンキー」なることばの説明をしておこう。ファンキーは元々がスラングで、黒人臭さを意味し、そこから「ファンキー・ジャズ」は、黒人特有のアーシーな感覚を強調したジャズということになる。実際の演奏のスタイルはハードバップで、これに“ファンキーな”味付をしたのがファンキー・ジャズなのだ。もっとも、何事にもやりすぎということがあるもので、味付が濃くなり過ぎたものは「オーバー・ファンク」などと言われ、硬派フアンからはバカにされていた。

 ということで、「ファンキー」の説明のあと“イン・サンフランシスコ”のことにふれて、この路線を突き進めて行った果てに大ヒット作『マーシー・マーシー・マーシー』があると解説。

 そして、次のように続く。
 ここらでいよいよ僕の本名盤『キャノンボール・アダレイ・クインテット・イン・シカゴ』を聴いていただこう。テナーの巨人、ジョン・コルトレーンとがっちり四つに組んで、一歩も引けをとっていない。艶やかで朗々と鳴るパーカー派キャノンボールの素晴らしいソロを聴けば、これが『マーシー・マーシー・マーシー』のアルト吹きと同じ人物なのかと考えこんでしまう。アップテンポでのインプロヴァイザー振りも凄いが、「アラバマに星は落ちて」で見せる歌もの解釈に適切さも聴き所。ともかく、キャノンボールで一枚だけと言われたなら、僕は躊躇なくこれをとる。

 私は、正直なところ、一枚、と言われたら、サンフランシスコかシカゴか、はたまたボサノバか・・・・・・。

 しかし、後藤さんがシカゴを奨める理由は、よ~く分かる。

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1.Limehouse Blues (Furber-Braham)
2.Stars Fell On Alabama (Frank Perkins-Mitchel Parish)
3.Wabash (Julian Adderley)
4.Grand Central (John Coltrane)
5.You've A Weaver Of Dreams (Victor Young-Jack Elliot)
6.Tha Sleeper (John Coltrane)

Personnel
Julian Cannonball Adderley(as)
John Coltrane(ts)
Wynton Kelly(p)
Paul Chambers(b)
Jimmy Cobb(ds)

1959/2/3
Universal Recording Studio B,Chicago
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 1959年にマーキュリーから出されたこのアルバムは、マイルスの呪縛から解き放たれたキャノンボールとコルトレーンが、生き生きと演奏しているのが伝わる。

 このアルバム、'Cannonball & Coltrane'というタイトルでも呼ばれる。

 ジャズファンは、私も含め、サンフランシスコに対して、キャノンボールのシカゴ、と呼ぶ人が多いと思う。

 では、後藤さんもお奨め、'Stars Fell On Alabama'を聴きながら、キャノンボールを偲ぼうか。
 

by kogotokoubei | 2018-08-08 21:36 | 今日は何の日 | Comments(8)
 いろんな“記念日”があるものだが、今日7月21日が、古今亭志ん生のある記念日であることを、文春オンラインで知ることになった。

 近藤正高さんという若手のライターの方が、結城昌治の『志ん生一代』から拾った逸話を元にして書いた記事を引用したい。
文春オンラインの該当記事

 いまから70年前のきょう、1947(昭和22)年7月21日、戦時中に満州(現在の中国東北部)に渡っていた落語家の古今亭志ん生(5代目)が、東京・日本橋の寄席・人形町末広に帰国後初めて出演した。

 結城昌治『志ん生一代』によれば、大の酒好きだった志ん生は、この日も朝から飲んでおり、昼席のあと贔屓に呼ばれてまた飲み、夜席のトリに上がるときにはそうとう酔っていたという。それでもこのときの演目「ずっこけ」は酔っ払いの噺とあって、無事に務めた。彼が伝説に残る“失態”をしでかしたのは、このあとの大喜利での席だった。

 大喜利では、客席から帽子やマッチなどを借り、落語家たちがそれらの品をシャレに織り込んで噺をつなげ、最後の演者がサゲをつけるというお題噺が披露された。ところが、志ん生まで番が回ってきたところで、噺が止まってしまう。下を向いたきり顔を上げないので、最初はどうしゃべるか考えているのだろうと皆は思ったが、そのうち軽いいびきが聞こえてきた。何と、志ん生は酔っぱらって、坐ったまま眠ってしまったのだ。客にもやがて気づかれ、笑い声が起こる。共演していた桂文楽(8代目)があわてて「志ん生は満州の疲れがとれておりません。なにとぞご勘弁のほどを――」と頭を下げると、客は文句も言わず、「ゆっくり寝かしてやれよ」という声がいくつもかかったという(結城昌治『志ん生一代(下)』小学館)。

 戦時中、旧満州へ慰問のため三遊亭圓生(6代目)とともに渡った志ん生は、その後、ソ連軍の侵攻で九死に一生を得る。終戦から1年以上経った46年末にようやく引き揚げ船に乗りこみ、この年1月に帰国した(圓生は3月に帰国)。戦前からの貧乏暮らしで働かねば食っていけず、帰国後6日目にして、体がまだふらついたまま新宿末広亭に出演。3月31日には上野鈴本で独演会を開き、昼も夜も大入の客を集めた。帰国後の志ん生は「芸が大きくなった」と言われ、人気も高まっていく。「大きいやかんは沸きが遅い」と大器晩成を自認した志ん生は、57歳にして大輪の花を咲かせたのである。


 志ん生が高座で寝てしまって、前座が起こそうとすると、客席から「寝かせてやれ」と声がかかったという逸話は、少なくない。
 しかし、大喜利の途中と言うのは、他にはないのではなかろうか。

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 この部分、この記事の補足として、『志ん生一代』から、引用する。

 その晩のお題ばなしは志ん生が真ん中で、左右に文楽、馬楽、円太郎、それと志ん朝からもとの芸名むかし家今松に改名した清が坐っていた。即席で落語をつくるといっても、およその定石さえ心得ていればそう難しいことはなかった。
 ところが、円太郎から馬楽まではいつもの通りで快調に運んだが、志ん生のところではなしが止まってしまった。下を向いたきり顔をあげないのである。
 初めは、誰しも出題の品をどう工夫して喋るか考えているのだろうと思っていた。
 そのうち軽い鼾が聞こえてきた。酔っていたので眠くなり、坐ったままで眠ってしまったのだ。
 びっくりしたのは隣にいた清だった。文楽や馬楽も驚いたにちがいない。
 間もなく満員の客にも眠っていることが分かって、あちこちで笑い声がした。
 おそらく満州で苦労した疲れがどっと出たのである。
「志ん生は満州の疲れがとれておりません。なにとぞご勘弁のほどを・・・・・・」
 文楽があわてて頭をさげた。
 それに対して、客は文句を言わなかった。
「ゆっくり寝かしてやれよ」
 という声がいくつも掛かった。
 清は父を抱きかかえて楽屋へ下り、それからお題ばなしのあとをつづけた。


 「満州の疲れがとれておりません」と頭を下げた文楽の言葉は、決して、その場の洒落ではなく、本音の部分があったと思う。

 満州の疲れは、生半可なものではなかったはずであり、文楽はそれを十分に感じていたに違いない。

 『志ん生一代』については、拙ブログを初めて間もない、2008年10月13日に書いた。
2008年10月13日のブログ
 また、2012年には、祥月命日の翌日に、「替わり目」という章を中心に記事を書いた。
2012年9月22日のブログ

 しかし、この記事を読むまで、戦後、人形町末広復帰初日の大喜利での失敗談は、忘れていた。

 それにしても、この記事の写真が、実にいいね。

 りん夫人を中央に、左に志ん生、志ん朝、右に馬生・・・みんなが笑っている。
 馬生の隣は馬生夫人で、膝の上にちょこんと座っているのは、池波志乃に違いない。
 右端は、長女の美津子さんだろう。

 しかし、昭和22年の志ん生の姿に近いのは、2012年の祥月命日の記事で紹介した、昭和24年公開の「銀座カンカン娘」で『替り目』を披露している、もっと痩せた姿に近いと思う。
2012年9月21日のブログ

 志ん生の一般的なイメージは、文春オンラインに掲載されているような、晩年の丸みを帯びた好々爺然とした姿だろう。
 私は、「銀座カンカン娘」で、満州から帰国後二年経っての表情を最初に見て、少なからず衝撃を受けた。

 あんなに、痩せていたんだぁ・・・・・・・。

 志ん生と円生の満州行脚は、志ん生への聞き書き本や『志ん生一代』でも書かれているし、井上ひさしの『円生と志ん生』は舞台にもなっていて、今年も9月にサザンシアターで予定されている。
 私はテレビでではあるが、この舞台を見ている。

 しかし、本や舞台にはならなかった事実や、志ん生と円生が語らなかった、あるいは、語れなかった面も多いに違いない。
 
 人形町末広での大喜利での失態は、もちろん酒を飲んでから高座に上がったことが直接的な原因ではあろうが、文楽が庇った「満州の疲れ」の深さも影響していたと思う。

 五十半ばで、満州で死をも覚悟するような体験をしてきたのだ。

 いろんな逸話、そして記念日を遺した志ん生だが、今後、7月21日は、大喜利で居眠りをした記念日、として覚えておこう。
 それは、「満州の疲れ」という文楽の科白とともに、戦争の記録、記憶と切り離すことができない記念日だと、私は思う。


by kogotokoubei | 2017-07-21 21:36 | 今日は何の日 | Comments(2)
 今日三月一日は、旧暦二月四日。
 
 元禄十六年(西暦1703年)のこの日、赤穂義士四十六人が切腹した。

 先日行った落語会で、三遊亭時松が一席目に柳家喬太郎作『白日の約束』を演じた。
 この噺は、今ではホワイトデーという実に迷惑な日(?)となっている三月十四日が、浅野内匠頭の命日(元禄十四年)であるということがネタの骨子になっているのだが、もちろん本来は旧暦三月十四日なので、ホワイトデーとはまったく重ならない。

 忠臣蔵としてあまりにも知れ渡っている事件に関しては、吉良邸討ち入りの十二月十四日に義士たちが眠る泉岳寺などで「義士祭」があるが、命日の行事はあまり聞かない。

 そう思って少し検索したところ、故郷の赤穂の大石神社で、先月二月四日に「御命日祭」が行われたというニュースが見つかった。

 神戸新聞から引用。

神戸新聞の該当記事

2017/2/5 05:30神戸新聞NEXT
赤穂義士しのび御命日祭 大根炊き振る舞う

 討ち入りを果たした赤穂義士が切腹してから314年目の命日に当たる4日、兵庫県赤穂市上仮屋の大石神社で「御命日祭」が行われた。神社総代ら約20人が参列して47本の大ろうそくに火をともし、参拝客に厄よけの大根炊きが振る舞われた。

 同神社で1912(大正元)年の創建時から続く伝統行事だが、かつては、義士が吉良邸に討ち入った12月14日に比べ、切腹した2月4日は知名度が低かった。行事を盛り上げようと、2005年から大根炊きの振る舞いや大ろうそくの点火を始めたところ、近年、参拝客が増えてきたという。

 この日、午前10時から拝殿で神事があり、参列者が大ろうそくに火をつけた。参拝者も次々と訪れ、手を合わせて義士の遺徳をしのびつつ、温かい大根炊きを笑顔で味わった。

 毎年訪れるという市内の女性(75)は「赤穂が有名になったのも義士のおかげ。命日ももっと有名になってほしい」と話していた。(古根川淳也)

 “切腹した2月4日は知名度が低かった。行事を盛り上げようと、2005年から大根炊きの振る舞いや大ろうそくの点火を始めたところ、近年、参拝客が増えてきた”、とあるが、参列者は、約20名とのこと・・・・・・。

 思い出したが、先月放送されたNHK「鶴瓶の家族に乾杯」で、鶴瓶が武井咲と一緒にこの神社を訪ねていたなぁ。
 武井咲は、あの番組では実に可愛かったのだが、土曜時代劇「忠臣蔵の恋ー四十八人目の忠臣ー」で礒貝十郎左衛門の恋人きよ(後の月光院)の役は、彼女にとって少し荷が重すぎた。

 討ち入りの日のみならず、主君の暴挙(?)でお家断絶となり、命を懸けて討ち入りを挙行した四十六人の命日が話題になることは、悪いことではないだろう。

 しかし、どうしてもこういう記念日については、新暦に置き換える現代日本の風習に馴染めない。

 ちなみに、浅野長矩の命日旧暦三月十四日は、今年は新暦なら四月十日。
 辞世、「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」は、その時期にこそ相応しい。

 再来週の新暦三月十四日は、“春の名残り”ではなく、せいぜい“春めく”頃、であろう。
 来週8日は、旧暦二月最初の午の日、いわゆる初午。
 だから、先日志ん吉で聴いた『明烏』が、まさに旬の噺と言える。

 
by kogotokoubei | 2017-03-01 12:36 | 今日は何の日 | Comments(0)

半夏生で思ういろいろ。


 今日7月2日は、雑節の半夏生で、おまけに満月なのだが、残念ながら曇っている。

 半夏生については、昨年も書いているので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2014年7月2日のブログ

 昨年の記事で紹介したように、地域により半夏生に食べるものの風習が違うが、福井では鯖。
 昨年は福井新聞から引用したが、今年は中日新聞からご紹介。
中日新聞の該当記事

 夏至から数えて十一日目の「半夏生(はんげしょう)」を翌日に控えた一日、大野市内の鮮魚店ではサバの丸焼き「半夏生サバ」の準備が進んだ。夏のスタミナ食が次々と焼き上がり、香ばしい香りに包まれた。

 大野市では江戸時代ごろから、農作業の疲れを癒やすため半夏生にサバの丸焼きを食べる風習がある。市内各地の二十軒ほどの鮮魚店や仕出し料理店でサバの丸焼きが並ぶ。

 同市明倫町の鮮魚料理店「うおまさカフェ」では焼き台を店頭に出し、体長四〇センチの特大サイズのサバを炭火で焼き上げた。

 サバの脂の焼ける香りが立ちこめると、近所の人も集まり岩本美恵子さん(78)は「最高の味だし、栄養も付くし、どうでも食べなあかんです」と話した。半夏生当日は毎年、夕方前に完売してしまうという。(尾嶋隆宏)

 私は鯖が大好きだ。この記事の写真を見て、涎がでてきた(^^)

 昨年の今日の記事にいただいた福井の方のコメントから、福井に地域寄席「きたまえ亭」ができたことを教えていただいたことを思い出す。

 しかし、同寄席は、残念ながら昨年一杯で閉鎖とのこと。
 福井新聞の昨年師走の記事から引用する。
福井新聞の該当記事

福井の寄席小屋「きたまえ亭」休止 ファンが惜しみながら笑い納め
(2014年12月28日午前7時00分)

 常設のとして親しまれてきた福井市中央1丁目の「きたまえ亭」の定期寄席が27日、千秋楽を迎えた。客席を埋めた落語ファンが、今年1月の開設以来、この日まで47回の公演に延べ2千人以上が訪れた小屋の休止を惜しみながら、「笑い納め」をした。

 この日は、上方落語家の桂蝶六さん、月亭文都さん、市内のアマチュア落語家らが出演。通りに呼び込みの口上と拍子木が響くと、約100人のファンが続々訪れ、会場はすぐに満席になった。

 最初に「上七亭らっこ」こと福井工大准教授の木川剛志さん(38)が、壊れた扇風機やほこりだらけの笛などを売る若者と客とのやりとりを描いた「道具屋」を披露し、笑いを誘った。

 1年間、プロの落語家の世話役を務めてきた桂蝶六さんは2度高座に上がった。トリで披露した「猫の忠信」のオチでは、客席からこの日最も大きい拍手が送られた。

 毎月きたまえ亭を訪れていた常連の鈴木真人さん(65)=永平寺町=は、こけら落としの時と同じ最前列で千秋楽を楽しんだ。これまで巧みな話術に「自分も江戸時代にいるように感じられることがあった」と振り返った。山岡俊男さん(75)=福井市=は「家から歩いてくると、拍子木の音が聞こえ、まちがにぎやかでよかった。これから寂しくなる」と惜しんだ。

 きたまえ亭は、県内の落語愛好家らでつくる運営協議会が西武福井店本館前の空き店舗を改修。地方都市では珍しい常設の小屋として1月に設けられた。運営には「応援志金」として県内外の約160個人・団体から約250万円が寄せられた。しかし収益源として見込んでいた貸し館利用が伸びず、行政支援が今年で終わることから、休止が決まった。

 運営協議会の鳴尾健代表(54)は「お客さんには春夏秋冬の約350のはなしを楽しんでもらえたと思う。1年間続けられたのは市民の大きな支援とボランティアのおかげ」と感謝した。

 地元の落語愛好家の方に親しまれていたようだ。

 私は、自宅近所の「ざま昼席落語会」を楽しんでいるし、先日初めて行った「しんゆり寄席」では、交流会を含め、地域寄席を支えている地元の方の熱い思いに感動すら覚えた。

 もちろん、座間や川崎は会場を含め行政そのものが深く関わっているので、「きたまえ亭」と同列には比較できない。
「きたまえ亭」は、どちらかと言えば、神田連雀亭・巣鴨獅子座に近い存在だったのだろう。
 詳しくは知らないが、福井は、なかなか落語愛好家の方が多いようで、テレビ局が後援する落語会や、民間の方が主宰する会などもあるようだ。

 せっかく「きたまえ亭」が点けた新たな灯を消さずに、行政と一緒になって「きたまえ亭」が形を変えても復活することを祈りたい。

 福井の関係者の方は半夏生の今日、焼き鯖を食べて復活に備えているに違いない!

 鯖だけに、夕食で食べているかな。
 (英語のシャレだが、今ひとつ)

by kogotokoubei | 2015-07-02 21:21 | 今日は何の日 | Comments(2)
 先週7日の土曜日は、ざま昼席落語会で、入船亭扇遊の『鼠穴』を堪能した。

 落語のマクラでよく耳にする江戸の名物が、「武士、鰹、大名小路、広小路、茶店、紫、火消、錦絵、火事に喧嘩に中っ腹、伊勢屋、稲荷に犬のくそ」と最後はやや下品になるが、もちろん火事は欠かせない。

 火事にまつわる小咄は多いが、ネタとしては、先日の『鼠穴』以外に、『富久』、『大坂屋花鳥』、『火事息子』、江戸ではないが『厩火事』なんてぇのもある。

 江戸の大火で被害が大きかったものを、Wikipedia「江戸の火事」を元にご紹介。Wikipedia「江戸の火事」

明暦3年1月18日・19日 (1657年)  明暦の大火(別名、振袖火事) 死者数は最大で107000との推計

天和2年12月28日 (1682年) 天和の大火(別名、八百屋お七の火事)  死者数830-3500

明和9年2月29日(1772年) 明和の大火(別名、行人坂の火事)死者数14700、行方不明者数4060

天保5年2月7日 (1834年) 甲午火事 死者数4000

安政2年10月2日(1855年) 地震火事 死者数4500-26000


 
 2月16日は、旧暦で12月28日。天和2年のこの日に「天和の大火」があった。

 なぜ「八百屋お七の火事」と言われているかはWikipediaにも書かれているのだが、「歴史人」のサイトの昨年12月28日の「今日は何の日?歴史人カレンダー」からご紹介する。
「歴史人」サイトの該当記事

お七火事=天和の大火が起こる (天和2年=1683年1月25日) 12月28日 

 331年前の今日(旧暦)、天和の大火が江戸の町を焼いた。お七火事とも呼ばれる。
 天和2年(1683)、駒込大円寺が火元という大火が江戸の町を襲い、死者3500名にも及ぶという大惨事となった。
 井原西鶴の『好色五人女』を始め、歌舞伎や文楽などで名高い八百屋お七の物語は、この天和の大火に始まる。
 天和の大火で焼け出された江戸・本郷の八百屋、八兵衛なる男は、檀那寺であった駒込の吉祥寺に避難した(本郷の円乗寺ともいう)。八兵衛にはお七という16歳になる娘がいた。お七は避難場所で出会った寺小性、生田庄之介と恋仲となる。
 やがて八兵衛は新居を再建、一家は寺を引き払うが、お七の庄之介への恋情はやみがたかった。
 お七は、火事になればまた庄之介に会えるかもと、なんと自宅に放火をしたのである。
 お七の火付けによる火事は幸い大火にはならずすぐに消し止められて小火で済んだ。
 しかし、当時、火付けは大罪である。
 お七は捕われ、鈴ヶ森で火あぶりの刑に処される。
 天和3年のことだった。
 この事件の3年後の貞享3年(1686)、井原西鶴が『好色五人女』でお七を取り上げたことにより、お七の名は全国に広く知られるようになる。
 歌舞伎や文楽などの悲恋のヒロインがこうして誕生したのである。
(文/宮本次郎=コラムライター)



 お七が小姓の庄之介(佐兵衛とも言われている)に会いたい一心で放火をしたのは、天和3年の3月2日とされている。
 ぼやで済んだようだが、放火は大罪。

 お分かりのように、別名「八百屋お七火事」と言われる「天和の大火」は、あくまでお七を吉祥寺(あるいは円乗寺)に避難させ、小姓に合わせるきっかけになった火事だ。

 実際のお七という人物に関しては、天和3年の3月に放火で断罪された女性がいたことだけは事実のようだが、詳細は謎に包まれている。

 西鶴の本、その後の人形浄瑠璃、歌舞伎によって、お七の姿が、あくまでフィクションとして伝説化したと思ったほうがよいだろう。

 ネットで調べているうちに、お七の墓は、生まれ故郷である八千代市の長妙寺にあるらしいことが分かった。「長妙寺」サイトの該当ページ
 しかし、このお寺のサイトでは、お七の放火で江戸の町が焼かれた、とある。‘小姓吉三’で説明されていることもあり、大変失礼だが、もう少し史実に沿った内容に訂正してもらいたいものだ。

 史実と、その後に読み物や浄瑠璃、歌舞伎などで脚色されて世に流布している内容とが大きく違うことは多い。
 忠臣蔵の討ち入りの時は前日までの雪がやんでいた、とか、堀部安兵衛が高田の馬場で倒した相手は多くても五人である、とか。人々は、どうしても、物語として大袈裟に脚色(歪曲?)されたり美化されたりするフィクションの方を好みがちだ。

 八百屋お七についても、お七の放火で江戸の大火になったと勘違いしている方も多かろう。

 ことほど、史実がフィクションによって歪曲され、それが、事実のように広まることもあるのは、実に恐ろしいことだ。

 しかし、よ~く考えると、フィクションと分かった上で、一つの物語を楽しむのであれば、お七も浮ばれるかもしれない。

 落語では、円生が得意にしていた『お七』があるし、『七段目』でも重要な演出の一こまをつくっている。『くしゃみ講釈』では覗きカラクリが大事な要素である。小姓と胡椒だよね^^


 八百屋お七のことから、史実(ノンフィクション)とフィクションのことに思いが至る。

 たとえば、史実(史伝)の吉村昭、歴史小説の司馬遼太郎という二人の対比を思い浮かべるが、最近は、そういう二者択一的な考え方ではまずいのではないか、と思い始めた。

 たとえば、藤沢周平や葉室麟は、どう位置づけられるのか、ということ。

 いわば、ノンフィクションとフィクションの狭間にある作品は存在すると思う。

 たとえば、定説のある歴史的な事実に、まったく別な角度から光を当てる試みは貴重だ。
 また、無名の庶民を題材としていながら、当時の世相なども巧みに織り込み、リアリティのある人間像を描き出し読者を魅了するフィクションも存在する。藤沢や葉室は、そういった作品の代表的作家だと思う。

 時代小説、あるいは歴史小説において、肝腎なことはいったい何なのだろうか・・・・・・。

 描かれた作品が人の心に迫ってくるかどうかは、作者の想像力と了見によって決まるのだと思う。

 視聴率だけがその番組を測る指標とは思わないが、NHKの大河の低い視聴率が話題になるのは、当然の帰結である。想像力と了見の両方に問題があり、観る者の心を揺さぶらない。

 それに比べて葉室麟の原作『銀漢の賦』を元にした、同じNHKの木曜時代劇「風の峠」は違う。原作の良さを、映像化する人達も的確に演出しており、実に観る者の心を揺さぶるではないか。そこには、定めの中で必死に生きる男や女が、侍も農民も含め描かれている。脚本家や演出家の想像力と了見が大河とは違うのだろう。今週で最終回なのが惜しくてならない。

 ノンフィクションがフィクションより上とか下とかの問題ではなく、小説やドラマ、映画という作品において、どれほど読者や視聴者に、その時代や環境において、悩み、もがき、葛藤する、生きた人間が描けているかが大事なのだろう。
 その結果、読む者、観る者に、感動や、それこそ勇気を与えることができる作品こそが傑作なのだと思う。

 昨今、テレビのスポーツ番組で「勇気」や「感動」という言葉が大安売りされている。「勇気と感動をありがとう!」という軽~いノリのアナウンサーの言葉を聞くと、興醒めだ。
 しかし、優れた文章や映像から、本当に勇気や感動を受けた場合、しばらく何も言えず、じ~んと胸に沁みてくるものだと思う。目が潤むこともある。とても、軽々しく言葉など発せられないのが、心から感動した時の状況のはずだ。


 「八百屋お七の火事」の日、最近の時代劇ドラマなどのことも含め、いろんなことを考えていた。
 相当発散してしまったが、じ~んとくる、小説や映像に一つでも多く出会いたいと思う。それは、ノンフィクションでもフィクションでも、もちろん構わない。
by kogotokoubei | 2015-02-16 19:45 | 今日は何の日 | Comments(0)
一年前の師走も押し迫った時期に、まさか大瀧詠一の訃報を目にするとは思わなかった。

 私の携帯音楽プレーヤーに、「A Long Vacation」をはじめ、大瀧詠一の曲を外すことができない。
 
 大瀧詠一は、漫才やモノマネ、そして落語などの演芸が好きだった。

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『増補新版 大瀧詠一』(文藝別冊 KAWADE夢ムック) 
 今年1月に版を重ねたKAWADE夢ムック『大瀧詠一』から、いくつか引用したい。
 初版は2005年11月である。

 まず、自ら、“ナイヤガラー”と称する内田樹との、2005年8月16日に行われた対談から。

内田 大瀧さんの声には実に複数の層があって、喉からだけでなく、たとえば鼻骨や頭骨が時間差をもって震動しているということがあると思うんです。だから「一人交響楽」みたいな感じになる。歌唱における説得力というのは、単音がその前後で空間的な厚みと時間的な幅をどれだけ持って成立するかということが重要なのじゃないかと思うんです。すぐれた歌い手は声を出す前にすでに「予兆」のようなものを発信しますね。
大瀧 戦う前にわかるということだね。松井でも打席に入る前にスウィングしているだけで調子がわかる。今日は上手く歌えそうだとかダメだといったことは歌う前にわかるんだよね。
内田 録音状態のよい音源を聴いたときの、ギターの弦を指がスッと滑る音や発声前のブレス音が好きなのですが、これから先にいい音が出てくるという場合は、息を吸い込む瞬間の音がとても色っぽい。
大瀧 最近はブレスを強調する平井堅など流行ってるね。
内田 あれは録音技術が上がっているから拾っているということなのですか?
大瀧 わざとやっているんですよ。昔から三田明とか、ブレスを強調する歌手はいたんですよ。それを息継ぎでやっているのが山本富士子ですね(実演してみせる)。
内田 それは誰かのモノマネじゃないですか?
大瀧 桜井長一郎でやる山本富士子のマネ。
内田 山本富士子はそんなことやらないです!(爆笑)
大瀧 この突っ込みができるかどうかが僕の相手になるかどうかのポイント(笑)。


 この“予兆”って、よく分かるなぁ。
 いい曲って、昔なら、レコードの針を落とした最初の音から、予感させる何かがあった。

 しかし、大瀧詠一が桜井長一郎の山本富士子を演じるとは。聞いてみたかった^^

 次に、星セントとの対談から。

セント 初めて会ったのは、何年前ぐらいでしたっけ?
大瀧 えーっと、ラジオで一日だけスペシャル・パーソナリティをやってたときだから・・・・・・。
大瀧のマネージャー氏 77年3月の春分の日です(と即座に返答)。
大瀧 すごい記憶力だね(笑)。そうそう三波春夫の「東京五輪音頭」をかけたんだ。で、その番組にゲストで来てもらったんだ。えらい風邪ひきでね。ぐしゃぐしゃの鼻声だから間がもたないでしょ。で、これは色モノを間に入れようってんで、お願いして、わざわざ来てもらったんですよ。
 忙しい人達でしょ。来てくれないんじゃないかなと思ってたのね。でも来てくれて・・・・・・もう、その頃は人気の絶頂期は過ぎてたんですいか?
セント ・・・・・・!?
大瀧 てなことはないね、ハハハ。
セント アハハハハハ(ブキミな笑)。
大瀧 そのときは、すごく面白かった。ちょうど、その半年前に初めてテレビでセント・ルイスを見てね。
セント あの頃、どんな出しものをやってましたっけ?
大瀧 「美人の論理」ちか「幸せの論理」とか。とにかく異常な面白さだったね。何をいってるんだかよくわからなかったんだけど(笑)。
セント ほんと、わかんなかった。俺にもわかんなかったぐらい(笑)。
大瀧 何をいってんのかわかんないというのは、ここ四、五年のマンザイの人の特徴だね。たけしも紳助もわかんない。言葉が明瞭じゃないし、テンポがやたらに早い。
セント みんな、間が恐いんですね。シラケの間ってヤツが、一秒でもあると恐いんだ。
大瀧 でも勉強になるね。わかんないことでも早くパッとやって次に移ってしまえば、それでいいんだってことを学んだし(笑)。
セント 何をいってんだかわかんないというのが、何回も聞かせられるコツですよ(笑)。
大瀧 初めてテレビで見たとき、偶然にテープに録ってたんだ。何いってんだろうって何回も聞いたね。
セント 暗号解読だね(笑)。
大瀧 それまで、マンザイのテープをくり返し聞くことはあったけど、10回も20回も聞いたのは、あれが初めてだったねえ。でも結局、何いってんのかわからないもんね(笑)。


 セント・ルイスのテープを何度も聴き直す大瀧詠一の姿を想像すると、笑えてくる。

 「間が恐い」という指摘、何か深いものを感じる。

 高田文夫が「冷麺で恋をして」と題して、次のようなことを書いている。

意外に思われるかも知れないが大瀧詠一氏と私はツーカーの仲。この本ではありとあらゆる方達が大瀧氏のゴー・ゴー・ナイアガラ的な音楽界における大巨人ぶりをお書きになっていると思うが、ここでは案外知られていない笑芸的見地からの私と大瀧氏とのふれあいについてふれたい。お互いに昭和23年のネズミ年生まれという事もありますが、その事がふたりの中ではっぴいいえんどという訳ではない(ン?いきなり訳が分からなくなってきたぞ、しっかりしろ五十七歳)。まっこの本全体の中で私の頁がイロモノ的という事を含めて河出的にはOKでしょう。私の耳に“大瀧”なる男の名前が届いてきたのが、私が脚本等で参加していた「オレたちひょうきん族」。漫才の駄目な方の相方ばかり三人を集めた“うなずきトリオ”で出した曲の作詞作曲が誰あろうこの匿名のO氏。その名曲「うなずきマーチ」は小さなヒットを飛ばし、イモ欽トリオの「ハイスクールララバイ」に追いつきたいけど追いつけない情なさでした。その詞その曲は私のハートをつかんではなさないアイアンクローな出来栄えでした。大瀧詠一恐るべし。

 

 お笑い好きな大瀧詠一の一面をうかがわせる。

 高田文夫作詞「冷麺で恋をして」を、「A面で恋をして」の曲で発売することを大瀧は快諾した。


 もちろん、落語も好きだった。
 今年3月のお別れ会で、奥さんの静子さんが、最後の姿について語る言葉が、音楽ナタリーの記事に載っていた。
 「音楽ナタリー」の該当記事

静子さんは「夕食前だからリンゴでも食べるかなと思い皮を剥いていたとき、突然『ママ、ありがとう!』と大きな声で言われました。そんなことを突然言われましたので、びっくりして主人のほうを見ますと、イスにもたれかかり、ぐったりしていました」と当時の様子を克明に語ってくれた。その後救急車に乗せて病院へ行っても、大瀧が息を吹き返すことはなかった。静子さんは続けて「当日会話をしたのは20分ぐらいだったと思います。今では会話のすべてが遺言となってしまいました。本来ならば、12月末は大好きな落語を聴いて、スタジオの整理、片付けをしている姿があったのですが、昨年はありませんでした。亡くなる最後に『ありがとう』と言ってくれたのは、これまで主人を支えて見守ってくださった方々、またファンの方々に私から一言お礼を述べてほしいということだったと思います。この場をお借りしまして、本当にありがとうございました」と深々とお辞儀をした。


 年末、好きな落語を聴きながら、スタジオの片付けをしている時、きっと大瀧詠一は、何事にも替えられない至福の時間を過ごしていたのだろう。

 大瀧詠一が、“落語は哲学であり、哲学書など読まなくても、落語を聞けば哲学的な思索はできる”、というようなことをつぶやいていたのをネットで目にしたことがある。

 まったく同感だ。

 大瀧詠一の歌を聴くたびに、落語や漫才など大衆芸能好きの彼が、微笑んでいる姿を思い浮かべる。

 さて、一周忌の歌は何にしようか、悩んだ末に、これにした。
 CM集!
 大瀧詠一を知らない人も、彼の名曲をコマーシャルで聞いたことのある人は多いのではなかろうか。それにしても、同じ曲がたくさん使われてるね。

 彼は、天国で“長いバケーション”を、今楽しんでいるに違いない。

 大瀧詠一さん、ありがとう。


by kogotokoubei | 2014-12-30 07:01 | 今日は何の日 | Comments(2)
12月18日は、旧暦10月27日。今年は閏の9月があったので、まだ10月である。

 旧暦10月27日は、吉田松陰の命日。安政6年のこの日、29歳で旅立った。

 NHKの来年の大河は、松陰の妹が主人公とのこと。「八重の桜」に続き、女性を主人公とする大河は「花燃ゆ」というお題らしい。花つながり、か。原作はなく、女性の脚本家二人の書下ろし、とのこと。NHK「花燃ゆ」の公式サイト

 女性主役の大河ドラマ、どうもNHKが安倍政権にヨイショしているような気がしないでもない。企画段階では安陪が、女性の社会進出云々を叫んでいたのではなかろうか。あの会長なら、迎合しないこともないだろう。

 それはさておいて、吉田松陰のこと。

 NHKの大河が妹のことなら、命日に、同じ女性でも、松陰ご本人の‘幻の恋人’のことを書いてみたい。

 通説では、独身を通し、身の回りの女性問題は潔癖、という風評に包まれている松陰。しかし、同じ長州下関出身の作家の古川薫は、発見した松陰の和歌と俳句から、松陰が幽閉された野山獄(のやまごく)における、松陰と一人の女性との淡い恋を小説にした。

 当初『野山獄相聞抄』としてあった短編は、その後『吉田松陰の恋』と改題された。
 この原作を元に、下関の映画制作会社が、「獄(ひとや)に咲く花」という映画を四年前に製作している。

 映画の公式サイトは、こちら。「獄(ひとや)に咲く花」公式サイト

 山口経済月報のサイトに、この映画の説明書PDFがあり、原作者の文章も含まれているので、長くなるが、全文を紹介したい。山口経済月報による「獄に咲く花」の資料

吉田松陰の恋

古 川 薫
映画『獄に咲く花』原作者

 松陰・吉田寅次郎が海外密航未遂の罪で捕らえられ、江戸の獄から萩に護送され、野山獄に入ったのは、安政元年(1854)10月だった。野山獄には12の独房があり、松陰の入獄で満室となる。獄には女囚が1人収容されていて、300石取り藩士の奥方だった高須久子という美貌の未亡人である。37歳だった。このとき松陰は25歳だ。
 久子は姦淫の罪というが、音曲の好きな彼女は、歌を流して正業としている若い芸人を屋敷内に入れて歌わせていた。武家の女が身分低き者と親しくすることを不行跡と咎める親戚の借牢願いによって野山獄に収容された。すでに在獄4年である。松陰は久子の境遇に同情し、自信をもって生きよとはげました。人間平等の思想に徹する松陰は、やがて主宰する松下村塾でも、身分の別を問わず向学心にもえる若者たちを受け入れた。
 高須久子は獄中で松陰に学ぶ機会を得たひとりの女性である。彼女の松陰にたいする尊敬と感謝の念は、自由を奪われた獄囚の身にもだえ苦しむ憂国の青年への母性本能をふくむ恋愛感情に昇華していく。久子の一途な恋慕に、戸惑
いつつもこたえていくうちに、安政大獄の魔手は松陰にせまり、極限状況に近づいていくのだ。
 2年足らずの短い期間、松陰と久子の間にプラトニックな恋が交わされたと信ずるに足る相聞の歌句が存在することは、早くから研究者のあいだでささやかれていたが、「講談者流の憶測にすぎない」と否定され、とくに戦前においては神格化された松陰の逸事として話題にすることも避けられていた。それは松陰の人間像が現代によみがえり、戦後おびただしく出た新しい松陰伝にも語られることはなかった。やはり松陰の神聖を冒すものとの考え方がただよっていたのである。

 清らかな夏木のかげにやすらへど人ぞ
 いふらん花に迷ふと


 これは「高須未亡人に数々のいさをしをものがたりし跡にて」と前書きして、久子に渡した松陰の和歌である。松陰と久子が親しく語りあっているのを、同囚たちからなにかと噂された事情をうかがわせる。
 また「未亡人の贈られし発句の脇とて」と前書きされた松陰の和歌2首もある。俳諧の心得のある久子は、ときに(あるいはしばしばか)発句(俳句)を松陰に送っていたのであろう。
 松陰が仮出獄するとき、囚人一同がひらいた送別句会の久子の句は、

 「鴫 立つて あと淋しさの夜明けかな」

 というのである。
 鴫は松陰のあざな「子義」にかけている。

 二度目の投獄、そして江戸評定所に召喚され、死出の旅にたつ松陰に、久子は餞別に手布巾を贈った。
 「高須うしのせんべつとありて汗ふきを送られければ」と前書きした松陰の和歌。

 箱根山越すとき汗の出でやせん君を思
 ひてふき清めてん


 久子が松陰に贈った絶唱ともいうべき別れの相聞の句は「手のとはぬ雲に樗の 咲く日かな」で、それにたいする松陰の返し歌は、「高須うしに申し上ぐるとて」として振りしぼるような一句を吐いている。

 一声を いかで忘れん ほととぎす

 わたくしが松陰と久子のことを小説化し、『野山獄相聞抄』の題で、「別冊文藝春秋」に発表したのは、昭和53年(1978)夏だった。その当時でさえ、読者からの抗議の手紙が送られてきたのは予想したとおりだったが、多くはたしかな手ごたえを得た。
 2年後、同書が文庫となったとき、わたくしの読者としてはめずらしく23歳の女性から感動したという熱心な読後感が送られてきた。
 史実に基づき吉田寅次郎という青年の一瞬にもひとしい時間を彩った青春を、幕末動乱を背景として淡彩画のように描いた作品にたいする賛辞であったか。いや維新革命の途次、非業の死をとげた孤高の志士の短い人生の終末に、純粋なおんなの愛を捧げた高須久子という美しく教養ある女囚への深い共感であったろう。


 作者古川薫は、野山獄での二人の俳句のやり取りが、まさに相聞歌であると考え、松陰と久子につかの間の恋を味わわせる小説を構想した。

 補足するが、高須久子について、‘音曲の好きな彼女は、歌を流して正業としている若い芸人を屋敷内に入れて歌わせていた。武家の女が身分低き者と親しくすることを不行跡と咎める親戚の借牢願いによって野山獄に収容’とあるが、その芸人は、いわゆる被差別民であった。
 結婚し、夫が亡くなった後も貞操を守るのが当たり前という時代、音曲好きの久子が被差別民である芸人を座敷に上げた行動は、嫁ぎ先から毛嫌いされ、久子は実家に戻された。そして、親の命で監獄生活を強いられたのである。

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古川薫『吉田松陰の恋』(文春文庫)

 小説『吉田松陰の恋』からも、少し引用したい。
 一度、野山獄から出て、松下村塾で数多く人材を育てた後、老中間部詮勝の暗殺疑惑で野山獄に戻り、安政の大獄により江戸に召喚される直前の場面。この作品は高須久子の一人称で語られる。

 最後の夜-その夜を、わたしは震える心で待っておりました。大胆にも、寅次郎様の房に、もう一度忍んで行くつもりでした。最早どのように思われても、ここで身を投げ出さずにはおかない、でなければこの牢獄で送る残りの生涯を悔いで塗りつぶすことにことになる。それならいっそ死んだほうがましだ・・・・・・わたしは噴き出してくるものを、もはや抑えもやらず身悶えしながら、待っていたのでございます。
 ところが、ついにあの人は獄に帰って来られず。実家のご両親と供に、その夜をすごされたのでした。
 (中 略)
 寅次郎様は、早朝、野山獄へ戻られるとすぐ、江戸へ向けて出発されることになりました。

 手のとはぬ雲に樗(おうち)の咲く日かな   久子

 司獄官の執務部屋から出て来られるのを待ち構えて、このはなむけの句をお渡ししますと、寅次郎様は頷いて、「これは昨夜、家でつくりました。あとで見て下さい」と、一通の封書を、搏(う)つようにわたくしの掌に載せ、慌しく庭に降りて行かれました。「久殿」と宛名書きされ、寅次郎様のふところの温みが残るそれを素早く胸元に押しこみ、わたくしは見送りの人の列に加わりました。家に帰られた夜、たとえわずかな間でも、わたくしひに思いをむけて下さっていたことを知ったよろこびの絶頂で、たちまち別離のときを迎えたのでございます。



 封書に入っていたものはご想像がつくと思うが、ぜひ実際に読んでご確認のほどを。

 私は、古川薫のこの作品が好きだ。
 あの吉田松陰だって、男である。
 
 運命のいたずらで、野山獄にただ一人の女性がいたことは事実だ。
 そして、この二人の和歌と俳句が残っている。
 
 幕末の激動期、若き命を燃やした松陰の人生に、ほのかながら‘艶’を与える小説。

 「花燃ゆ」での高須久子役は、井川遥。好きな女優だ。
 しかし、登場する回数は、そんなに多くないだろうなぁ。
 
 幕末に、家の恥として、親から牢に送り込まれた娘がいたというのも、歴史上の事実。

 久子と野山獄での松陰との物語。高須久子は、‘幻の恋人’かもしれないが、血なまぐさい印象が強い松陰をめぐる貴重な逸話だと思う。
by kogotokoubei | 2014-12-18 19:24 | 今日は何の日 | Comments(2)
12月10日は、早いもので、小沢昭一さんの三回忌になる。

 訃報を目にした二年前の今日、小沢さんの著作(『小沢昭一がめぐる 寄席の世界』)とKAWADE夢ムックの特集のことなどについて、記事を書いた。
2012年12月10日のブログ
 『小沢昭一がめぐる 寄席の世界』については、ブログを書き始めてから間もなく記事にしたことがある。ご興味のある方はご覧のほどを。
2008年10月4日のブログ

 あれからもう二年・・・いや、まだ二年・・・なんとも微妙な感じだ。

 二年前の師走には、他に何があっただろうか。
 12月16日に衆議院選挙があり、自民党圧勝で政権が交代した。同じ日に東京都知事選もあり、猪瀬が当選した。
 この二つの政治的な出来事だけでも、二年間経過してみて、ある側面からは「もう」であり、別な観点からは「まだ」とも言えそうな気がする。

 そして、今年も選挙がある。

 小沢さんは、ラジオなどで「正義の戦争よりも、不正義の平和の方がいい」と発言されていたらしい。

 実は、この言葉は、小沢さんも出演された今村昌平監督の映画『黒い雨』において、北村和夫が演じた主人公である閑間重松の言葉。

 井伏鱒二の原作にある言葉の文学碑が、モデルとなったの重松静馬さんの故郷、広島県神石高原町にある。同町のサイトから引用する。
広島県神石高原町サイトの該当ページ

平和への祈り
戦争の本当の恐ろしさを知る人こそ,平和への祈りは尽きません。
被爆者の体験談をもとに,旧三和町に生まれ育った実在の人物をモデルに描かれた「黒い雨」は,優れた文学作品であるとともに,私たちに平和の尊さを教えてくれるのです。

文学碑
戦争はいやだ
勝敗はどちらでもいい
早く済みさえすればいい
いわゆる正義の
戦争よりも
不正義の
平和の方がいい

井伏鱒二著「黒い雨」の一節より



 昨年の芒種の前日に、『黒い雨』について記事を書いたが、その中で、猪瀬前東京都知事が、かつて『黒い雨』を盗作であるかのように批判していたことも紹介した。
2013年6月4日のブログ

 神石高原町の文学碑の紹介サイトから、再度引用する。この内容を読めば、モデルとなった重松静馬さんと井伏鱒二は釣り仲間として懇意にしており、二人の友好関係から、戦争の悲劇を伝える傑作が生まれたのであって、あの作品が盗作などではないことが分かろうと言うものだ。二人が語らう写真も掲載されている。

黒い雨
旧三和町小畠の商店街裏の丘に,重松静馬さんの生家があります。
「この数年来,小畠村の閑間重松は姪の矢須子のことで心に負担を感じて来た」
この書き出しで始まる井伏鱒二の代表作「黒い雨」は,昭和三六年春に完成した重松静馬さんの作品をもとに書かれました。

主人公「閑間重松」は,重松さんがモデルになっています。
小畠には代官所があり(現在の役場があるところ),たくさんの古文書が残されていました。井伏氏は,この古文書をもとに作品を書いたこともあり,三和町に関係する小説は,「黒い雨」以外にもたくさんあります。

井伏氏はそんなことから知り合いになった重松さんと一緒に釣り宿に泊まったとき,原爆を受けた姪の話になり,自分の記録もあるからというので,後に「黒い雨」と改題される,「姪の結婚」を書くことになりました。
重松さんの被爆日記や,広島や小畠の人々の体験談などをもとに,昭和四〇年一月,井伏氏は「新潮」に「姪の結婚」の連載をはじめ,八月に「黒い雨」に改題。翌年九月に作品は完成しました。

現在重松さんの息子さん夫婦が住まれている家には,当時の井伏氏からの書簡が多数保存されています。「父は井伏さんの作品が好きで,自分もよく似た表現をしていたのですよ」
父,静馬さんのこと,井伏氏のことなど,思い出は尽きません。

「黒い雨」が映画化,ドラマ化された時には出演者がお墓参りに来そうです。
戦後60年。
実際に戦争を体験した人は少なくなり,あの悲しみ,あの怒りを忘れつつある現在,「黒い雨」が伝えようとしたものを,私たちはもう一度考えなければならない時代を迎えています。


 重松さんのお墓参りに来た出演者の中に、小沢昭一さんもきっと含まれていたと思う。

 ますます、「正義の戦争」に突き進もうとする世相のことを、小沢さんがご健在だったなら、どうおっしゃるだろうか。
 きっと、平和の方がいい、という思いには変わりがないだろう。

 小沢さんは、「東京やなぎ句会」の一員で、俳人としても有名。

 この季節にちなんだ、小沢昭一さんの俳句をご紹介。なお、俳号の変哲は、お父さんの川柳の号が由来である。

 
 ふろふきや猫嗅ぎ寄りて離れけり 変哲

 小沢さんは「NEKOの唄」を作詞作曲するほどの猫好き。

 それでは、私も小沢さんを偲んで、一句。
 我が家は、連れ合いも私も犬好き。

 ふろふきや犬嗅ぎ寄りて食べにけり 幸兵衛

 これを・・・盗作と言う。
 小沢さんごめんなさい^^
by kogotokoubei | 2014-12-10 06:02 | 今日は何の日 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛