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噺の話

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カテゴリ:一門( 5 )

 11日に行った立川左談次を偲ぶ会に行き、いろいろ思うことがある。

 3月19日の命日に向けて、さまざまな追善興行があると思う。

 先んじて、立川流を離れた馬桜が会を開いたことには、彼の思いが込められていたと察する。

 鈴々舎馬桜については、かつて、聴かず嫌いな面があった。

 それは、彼が立川流を脱退して、落語協会に戻ったことについて、弟弟子たちの著作や、高座のマクラで、あまり良く言わなかったことが、潜在的に脳裏にあったからだと思う。

 すぐ下の弟弟子、談四楼は著作の中で、談生を好意的には、書いてはいない。
 しかし、それもやむなし、だろう。
 立川流発足間もない頃、何かと不安な時に、自分たちを捨てて協会に戻った兄弟子、という思いもあるだろう。

 しかし、立川流発足後に入門した者が、談生を非難するのは、私には少し違和感がある。

 中でも志らくは、名指しで非難していたのを二度ほどマクラで聞いているが、どうも、聞いていて、良い感じはしなかった。

 志らくが入門後、談生とどんな交流があったのか、あるいは、交流がなかったのかは知らないが、相手は、落語家として大先輩である。
 協会に戻ったからと言って、あからさまに非難する資格が、志らくにあるとは思えない。
 私は、ブログを始める前から、横浜にぎわい座の「志らく百席」などに行っていた。
 実に、センスの良い若手落語家、というのが当時の印象。
 
 しかし、次第に彼の落語を聴かなくなったのは、一つは、自分が一番談志のDNAを継いでいる、というような態度や発言が鼻についてきたこと。
 そして、立川流以外の噺家、中でも、脱退した人に対するなんとも失礼な発言が、少なからず彼と距離を置くことに影響したと思う。


 それはそれとして、寄席や落語会で馬桜の高座に接するにつれ、この人への聴かず嫌いの垣根は、次第に低くなっていった。

 軽い調子ながら、知的センスも覗かせる、なかなか味のある高座は、悪くない。

 昭和56(1981)年には、NHK新人落語コンクールで優秀賞を受賞している。ちなみに、その時の最優秀賞は、弟弟子、朝寝坊のらく、現在の立川ぜん馬だ。

 談志門下の弟弟子だが、二人は翌年、同時に真打に昇進している。


 馬桜は、立川流ができた二年後の昭和60(1985)年に立川流を脱退して、鈴々舎馬風門下となる。落語協会への復帰が認められたのは翌年一月のことだ。
 彼(談生)は、立川流設立を談志が弟子に宣言した後も、師匠は落語協会に戻るはずだ、と信じていたことは、談四楼の本から紹介した通り。
 
 寄席に出たかったのだろうし、協会の数多の師匠たちからも稽古をつけてもらいたかったのだと、察する。

 談生は、前年の昭和57年12月に、真打に昇進したばかりだった。
 十人、真打昇進試験を受験し、全員合格した年で、兄弟子左談次、弟弟子ぜん馬も同時昇進だった。
 左談次、ぜん馬は、立川流に残った。
 しかし、談生は、協会に戻った。
 
 11日の鼎談で知ったことだが、談生の二ツ目時代、兄弟子の左談次(談奈)と弟弟子の現在の龍志との三人会を開いた後、龍志が抜け、雲助や一朝と三人会を開催していたとのこと。
 彼は協会の香盤の近い先輩や同期たちとの交流が深かったのだ。

 談生は、昭和53年に協会を脱退した三遊亭圓生一門に置き換えると、圓丈とよく似ていると思う。

 圓丈は、昭和53年に真打に昇進し、それからたった二ヵ月後に、あの事件が勃発。

 真打昇進した直後の師匠の協会脱退、という点で圓丈と談生は似た体験をしているわけだ。

 結果として二人とも、協会に戻っているのも、やむなし、と言えるのではなかろうか。

 せっかく、前座修行を終え、二ツ目としての苦労を積んで、昇進した真打。

 さて、これから、と言う時に、親方が「おい、ここを出るぞ」てなもんで協会を去ることで、自分が修行の場であり、名を売り、芸を披露する寄席出演の機会を失うのである。

 左談次を偲ぶ会では、「立川流と交流がないもので」と話していたが、それは、お互いに、過去を引きずっているのだろう。

 談四楼は、『シャレのち曇り』の文庫版(平成20年刊)の最終章「その後の落語界・上」で、次のように書いている。

 去る人もいます。談プさんはどうしているのでしょう。司会者をしているはずなのですが会いませんねえ。談生さんと小談志さんは、馬風門下の人となりました。たまに出くわすのですが、深い話はしません。それがルールで、その心中を推しはかるのみです。ま、それぞれの人生を歩んでいるわけですから。


 「それがルール」なのか・・・・・・。

 他人には、とやかく言えない、介入できない関係があるのだとは、思う。

 わだかまりは、消えにくいかもしれない。

 しかし、「時が解決する」ということもあるのではないか。

 左談次の一周忌を機に、彼の弟弟子の交流が復活するのなら、あの世の左談次もきっと喜ぶ、そんな気がする。

 特に馬桜と談四楼は、左談次との関係性の強さで、ヨリ(?)を戻せるのではなかろうか。

 二人は、NHK新人落語コンクールで優秀賞、いわば第二位を獲得したという縁もある。

 ちなみに、談四楼の受賞は、ぜん馬が最優秀賞、談生が優秀賞を獲得する前年の昭和55年。なお、その年の大賞受賞者は、当時の雷門助三、現在の春雨や雷蔵。
 

 馬桜が昭和24年生まれ、談四楼、昭和26年生まれの二歳違い。
 お互い、古希を迎えようという時期になっている。

 ぜひ、左談次のネタを肴に、二人が酒を酌み交わしてくれることを願う。
by kogotokoubei | 2019-02-14 21:47 | 一門 | Comments(0)
 立川志の輔が映画に初主演した、とか、志らくがコメンテーターとして何か言ったとか、という話題をメディアで目にする。

 志らくは、コメンテーターとしてもてはやされているが、テレビであの丸いメガネの顔を見るのが、最近は辛くなってきた。
 誤解なきよう補足するが、かつて、彼の著作をAmazonのレビューで高く評価したこともあるし、ブログを書く前には意図的に彼の落語会に足を運んだこともある。横浜にぎわい座での「志らく百席」の最初のシリーズには数回駆けつけている。
 落語家、また、落語評論家としての彼の力量は、認めている。
 しかし、コメンテーターというテレビタレントとしては、はっきり言って、好きではない。毒舌などと言われているが、そのほとんどが、大多数の人が批判する対象について、自分なりの形容で攻撃を加えるだけであり、あえて言えば、弱い者いじめ。権力者への批判などは、稀有なのである。
 たとえば、昨年の西日本豪雨の際、安倍首相他が赤坂の飲み会で浮かれていたことを、彼はテレビで擁護するような発言をしていた。まったく、がっかりなのだ。

 立川流の噺家さんでニュースになるのは、この二人や談春、そして談笑が多い。
 談春は、全国を独演会で飛び回りながらも、池井戸潤原作のドラマ出演で顔を売った。
 談笑は、噺家として売れる前からテレビタレントだった、と言える。

 四人とも、メディアで顔が売れたこともあり、人気者と言えるだろう。
 この四人を「立川四天王」なんて呼ぶ人までいるが、それは大きな誤解を生む。

 まるで、立川談志一門を、この人気者たちが代表しているかのように受け取られているが、それは、正しくはない。

 また、これらの人たち以外の談志門下は、「ら」の字一つで、「○○○ら(たとえば、志の輔ら)の立川流」と、ひと括りにされることが多いので、立川談四楼は、自虐的に「ら族」と呼んでいる。

 立川流発足時、師匠の周囲で主だった活動をしたのは、まさに「ら族」である。

 どうも、今の人気者が談志一門の主流であるかのように世間が誤解するのが、歯がゆくてならない。

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立川談四楼著『シャレのち曇り』

 立川流発足前夜のことは、立川談四楼の『シャレのち曇り』に詳しい。
 
 本書は、処女作『屈折十三年』を含む、彼の半生記とも言える本。
 初版が1990年発行の文芸春秋の単行本、その後私が読んだ講談社ランダムハウス文庫での発行が2008年、そして2016年、PHP学芸文庫の仲間入りをした。

 小説として“虚実皮膜”の部分もあるが、なかなか興味深い内容が詰まっている。

 以前に、立川流の創立につながる談四楼と兄弟子小談志の真打昇進試験落第のいきさつについて、本書第一章の処女作「屈折十三年」からご紹介したことがある。

2017年6月6日のブログ
2017年6月7日のブログ


 では、昭和58年、談志が協会を脱退して立川流を設立する際の、いわば“決起集会”の模様を振り返る。

 昭和58年6月13日午後10時、談志の練馬の家に、一門が勢揃いした。
 総領の桂文字助を筆頭に、土橋亭里う馬、立川左談次、立川談プ、立川談生、立川小談志、立川談四楼、朝寝坊のらく改め立川ぜん馬、金魚家錦魚、立川談之助、英国屋志笑、立川談幸、他に前座の談洲、談六、談カン、志の輔、そしてマネージャーの松岡と、男ばかりの寄合である。

 補足する。
 談プは、その後の漫談家、祭奇パン。
 談生は、現在の鈴々舎馬桜。
 小談志は、談四楼と一所に真打昇進試験に落ちて、立川流発足のきっかけにもなった人だが、落語協会に復帰したのち四代目喜久亭寿楽を名乗り、2008年に肝硬変で逝去。
 金魚家錦魚は、現在の立川龍志。
 英国屋志笑は、二台目快楽亭ブラック。
 談洲、談六は、その後廃業。
 談カンは、その後、たけし軍団に入った、ダンカン。

 今、「四天王」などと呼ばれているうちで名前があるのは、志の輔のみで、彼も入門したばかりの前座。

 さて、引用を続ける。

 前半が談志の決意表明。後半は酒盛りであった。
 六月の末日に脱退届を出す。
 協会に残った方が自分にとって都合がよい、メリットがあると判断した者は残ってよし、オレが頼み込んででも残れるようにしてやる。決して無理強いはしない。
 小談志、談四楼は言うに及ばず、錦魚、談之助、志笑まで俺が真打と認める。他人が認めるんじゃあない、師匠である俺が認めるんだ、こんな確かなことはないだろう。披露は秋口がいいか来春にするか、その時期と規模を考えておけ。
 ついては家元制度を導入する。
 十月末日までに、名前料としての一時金、真打三十万円、二ツ目は十万円納めるべし。
 十一月一日より月謝として、真打が四万円、二ツ目が二万円、前座は一万円納めるべし。分割は不可。今からコツコツ貯めるべし。
 集った金は、私腹を肥やすためではない。落語会など、これからの活動資金とする。

 協会に残りたい者は残れ、という談志の言葉は、以外に知られていないのではなかろうか。
 たぶんに、昭和53年の円生一門脱退のことが、談志の脳裏にあったのだろう。

 この後、宴会になる。

 クサヤ、タタミイワシ、丸干し、柿の種、キュウリの古漬、塩出し不充分のワカメのヌタのようなもの、ラッキョウ、梅干・・・・・・。
「しょっぺえなこりゃ、乾き物と漬物をよくこんだけ揃えたね。これじゃますれ東北の宴会だよ」
「違ェねえ」
 皆、好きなことを言っている。
「このまんま出ちゃっちゃ、何か面白くねえな。誰か残る奴ァいねえか。ひとりぐらい置いときてえじゃねえか。どうだ、誰かスパイにならねえか」
 談志は少し酔ってきた。
「だったらこいつがいいですよ」
 と左談次が、呑み、かつ食らう志笑を指でさす。英国屋志笑は、日本人の母と米国軍人の父との間に生まれ、父が本国に帰ると、母はなぜか韓国人と出奔し、母方の祖母に育てられたという。風貌はアメリカ人そのものであるが英語はまるで駄目で、乳製品を一切受けつけず、ただひたすら米のメシを愛するという変わり種である。前座の頃の立川ワシントン以来、のべつに芸名を変えることでも知られ、あと何回かで志ん生の十八回という記録に手が届く。その辺のところを熟知している左談次が嬉しそうだ。
「もともとこいつハーフなんだし、スパイにゃうってつけですよ。おい志笑、おまえ英国屋志笑なんて間抜けな名前この際よしてよ、毛唐なんだからおまえがスパイになれよ。改名ついでに立川に戻っちゃえよ。どうです師匠、立川レフチェンコってな」
 一同ひっくり返ってウケた。
 協議の結果、志笑改メ、レフチェンコにしっかり者の談幸を付け二人が三月ばかり協会に残ることになった。即決であった。こういうこととなると妙に手回しのいい集団なのである。
「談幸をなぜ?」という問いに再び左談次。
「決まってんじゃねえか、レフチェンコを見張る役だよ」
 ワアワア馬鹿なことを言い、素晴らしい盛り上がりを見せつつ、その夜は更けていった。

 私は、残念ながら左談次の生の高座を見ることができなかったが、紹介した内容から、当時の立川談志一門において、彼の存在感は小さくなかったことが分かる。

 また、立川レフチェンコとは、なんとも傑作なネーミング。

 ちょうど、前の年に、「レフチェンコ事件」が発覚。
 ソ連国家保安委員会(KGB)の少佐だったスタニスラフ・レフチェンコが、日本国内で行った工作活動に関する事件で、アメリカに亡命したレフチェンコが、昭和五十七(1982)年7月14日に、米下院情報特別委員会の秘密聴聞会で工作活動を暴露し、国内外に大きな衝撃を与えたのだった。
 だから、まさに、タイムリーな命名だ。
 左談次、センスあるねぇ^^

 昨年、訃報に接して記事を書いたが、生で聴けなかったことが、残念。
2018年3月22日のブログ

 談志の決意表明の後の宴会での盛り上がりの中で、そ勢いに染まらなかった人もいた。

 一人だけ寡黙な男がいた。立川談生である。一門における彼の去就は、注目を浴びていた。それというのも談生は試験以降、
「師匠は絶対に協会を出ない。オレは出ない方に賭けてもいい」と公言し憚らなかったからである。
「師匠が出ても、オレは協会に残る」とも言っていた。しかし談生はこの夜、その件に関しては終始無言であった。曖昧な笑いを浮かべ、当たり障りのないことを言っていた。そして、実に呆気ないくらいに師匠の言に従ったのである。
 談生は、円生と志ん朝が好きで談志に入門した男である。芸名である談生の生が「円生の生だ」というのも彼の自慢のひとつで、なぜそういう人が談志の弟子に、と訝った談四楼、前座の頃に尋(き)いたことがある。ひと言、談志(あのひと)は放任主義だから、という答えだった。高座も普段の口調も円生と志ん朝が交錯し、能書きだけが談志の受け売りという、不思議な男なのである。

 この談生が、現在の誰かは、すでに書いた通り。

 この集会から十日が経過し、新聞、週刊誌に、談志一門の動向が報じられるようになった。

 『談志 落語協会を脱退か』『談志 小さんに造反』『異端児談志またもい騒動』そんな見出しが多かった。報知、スポニチ、日刊スポーツはかなり正確な情報を伝え、おおむね好意的だった。
 読売新聞、サンスポは、談志がとび出す大きな原因は弟子が試験に落ちた為だと言い、御丁寧にもその弟子の名は『小談志と談四楼』だと、世間様に向かって大きな声で言ってくれた。

 ということで、立川流発足直後で、もっとも名が売れた一門弟子は、小談志と談四楼だろう。

 志の輔は、もっとも下っ端の前座、談春、志らく、談笑は、入門前。

 立川流を語るのであれば、もっと「ら族」の噺家さんたちが語られるべきだと思う。
 桂文字助のことは、談四楼がツィッターで頻繁に報告してくれたこともあって、昨今、生活保護を受けながらも、公園の掃除などをしている様子がテレビで放送されたようで、語られることは多くなった。
 私はこの人の高座を知らない。相撲噺が得意で、談志は文字助の相撲噺を聞いてから、自分ではやらなくなったとまで言われている。元気な頃の高座のことなどを語ることができる人は少なくなったと思うが、ぜひ、ご存知の方には語ってもらいたい。

 土橋亭里う馬の高座も、未見。ぜひ、今年は聴きたい人の一人。

 左談次を生で聴けなかったのは、残念でならない。昨年、渋谷落語の雲助との二人会の予約をしようと思っていた矢先での訃報だった。
 一周忌を前にして、近々、彼を偲ぶ落語会があり、行くつもりだ。左談次のCDも配布されるらしい。
 その会の発起人が、談志一門で後輩だった、ある噺家さん。この方の高座も、以前よりは聴いてみたかったので、良い機会となりそうだ。

 談四楼、ぜん馬、龍志、談幸といった人たちも、以前聴いたことはあるが、今年も聴いてみたい。
 
 「ら族」と談四楼は自虐的に形容したが、もちろん、この方々、一山いくら、の噺家さんではない。

 あの家元が絶頂期に入門したのだ、気骨のある噺家さんだと思う。

 なかなか以前ほどは寄席や落語会に行かなくなったが、今年のテーマの一つは「ら族」である。


by kogotokoubei | 2019-02-06 21:02 | 一門 | Comments(14)
立川流で、動きがありそうだ。
 左談次のホームページにある日記で、12月6日の記事に、立川談幸一門が立川流を退会し、左談次は理事を辞任したと書かれている。
立川左談次ホームページの該当記事

 左談次はツイッターで、談幸一門は本年をもって退会し、落語芸術協会(芸協)入りすると発信している。その内容は、立川キウイのブログで確認することができる。立川キウイのブログの該当記事
 肝腎の談幸のホームページやブログには、退会のことは、まだ何ら書かれていない。

 私は、芸協の来年の真打昇進者の告知が遅いことを不審に思っていた。昨年は10月1日に発表されていた。

 談幸一門が芸協へ移籍(?)するのなら、談幸の弟子吉幸が昇進候補者として検討すべき対象になるだろうから、真打昇進者決定の情報が遅れている謎も解けてくる・・・・・・。


 談幸は、唯一、談志の内弟子経験者。人形町らくだ亭で聴いたことがあるが、妙なクスグリなど挟まない、いわば本寸法の高座だった。他の立川流の噺家さんと好対照であることが印象的だった。
 この人は、相模大野の焼肉屋さん「八起」が長年にわたって開催している「八起寄席」に、柳家喜多八、瀧川鯉昇などと一緒に長らく出演してきたこともあり、他流派との交流は少なくない。

 吉幸は平成9年快楽亭ブラックに入門し、平成17年に談幸門下に替わっている。平成19年にやっと二ツ目となった遅咲きと言える人だが、古今亭志ん輔が主催している「たまごの会」の一員であり、他流派との交流は少なくない。
 志ん輔の会で聴いたことがあるが、師匠同様まっとうな古典派の印象。やや大人しい感じもしたが、やたら派手なクスグリなどでウケを狙う若手が多いあの一門の中では貴重な若手だと思っていた。
 入門からすでに17年。吉幸が、今年10月から来年4月にわたって日暮里サニーホールコンサートサロンで6回行われる真打トライアルに参加しなかったのは、このことが理由だったわけだ。

 その談幸には、もう一人二ツ目の弟子幸之進がいる。幸之進はまだ聴いたことがない。平成16年入門、平成23年に二ツ目昇進の若手。

 もちろん、今の段階で、ネット情報を元に断定的なことは言えない。

 あくまで、私の邪推かもしれないが、こういうことは言えるのではなかろうか。

 談幸一門は、立川流に固執する理由がなかったのだろうし、師匠は二人の弟子に寄席に出る機会を増やしてやりたい、という思いも強かったのだろうと察する。師匠も弟子の吉幸も落語協会そして芸協所属の噺家との人脈もあり、いろんな会話も交わされたのではなかろうか。
 そして、吉幸は真打昇進を目前にした重要な過渡期にあり、立川流の真打になるか、二大協会のいずれかで真打を目指すかの判断を迫られたのだろう。その結果、師匠と弟子は、立川流を離れる決断を下したのだと察する。
 談幸は私とほぼ同じ世代の人で、今年還暦。11月の師匠の命日もすぎ、何か期するものがあったのだろう。

 立川流一門のサイトには、まだ談幸も弟子たちも名前が残っている。立川流一門のサイト

 このサイトによれば、いわゆる役員の方は次の通り。

代表
土橋亭里う馬

理事 
立川左談次 立川談四楼 立川談幸 立川志の輔 立川志らく 立川雲水


 代表の土橋亭里う馬には申し訳ないが、家元に替わって一門を束ねるのは難しかろう。
 そして、理事は、左談次と談幸の二人が抜けるということだから、談四楼、志の輔、志らく、雲水が残ることになる。
 あるいは、もっと理事を辞任した人がいるのかどうか、分からない。いずれにしても、二人の理事が抜けることで、理事の再組織化などの必要性に迫られるだろう。それは、立川流としての存続を望むなら、ではあるが。

 里う馬のみならず、志の輔にだって一門を束ねるのは無理だろう。もっと言えば、彼が一門全体のことを憂慮しているのなら、正月のパルコの会などやっていられないのではないか、と私は思う。自分と、せいぜい自分の弟子のことだけで、精一杯なのだろう。

 年が明けてどのような情報が発信されるか興味深いが、私はこのような事態になるのは、時間の問題だと思っていた。

 元来、家元ありきの「立川流」なのであって、組織としての「立川協会」があるわけではない。
 立川流創設からしばらく、二ツ目や真打昇進の数字的な条件はあったが、昇進の是非は、あくまで家元の眼にかなうことが必須であった。
 立川流≒立川談志、と言ってよかったのであって、組織として機能していたとは思えない。

 談志に代わって求心力のあるカリスマは存在しない。だから、私は、談志の死をもって、実質的に立川流は終焉したと思っている。ただし、談志の元に実力のある噺家さんが育ったことは事実だ。
 なかでも、志の輔、志らく、談春、そして談笑は、今のままでも、落語会の開催などで食べていけるかもしれない。
 しかし、その弟子たちの将来は、果たしてどうなのだろうか。
 立川流のサイトを確認すると、志の輔門下には、真打が一人、二ツ目が四人、前座が一人。志らく門下には、真打が二人、二ツ目が七人、前座が五人もいる。なぜこんなにいるのか、いつも不思議に思う。一方、談春には二ツ目が二人。前座には・・・あれっ、名前がない。以前はいたはずなのだが、去って行ったのか。談笑には二ツ目の弟子が二人いる。
 
 また、四人以外の真打やその弟子たちは、いったいどれほどに立川流という看板の恩恵を被っているのだろうか。

 以前に、円楽グループのことを書いた際、協会を芸者の置屋、寄席を料亭にたとえたことがある。
2009年11月12日のブログ

 落語協会と芸術協会の噺家は、置屋(協会)に登録してあることで、都内の老舗料亭(定席寄席)に出ることができる。芸協は鈴本には出られないけど、末広亭、池袋、浅草には出ることができる。

 しかし、立川流という置屋に登録した噺家は、日暮里やお江戸日本橋亭などの小さな永谷の寄席にしか出ることができない。もちろん、そういった場も大事なのだが、噺家を育てる環境としては、老舗の定席にはかなわない。日暮里などの寄席は、固有の贔屓客が多いだろうから、他の定席のような‘アウェー’の環境や、目の肥えた客の鋭い視線にさらされることは少なかろう。老舗の寄席における、太鼓や高座返し、楽屋の雑用などの修業も若手が成長するためには大事なものだ。

 立川流は、談志亡き後、真打昇進といいう重要な通過儀礼を、「トライアル」というイベントにして凌いでいるようだが、それ以外に、一門としての存在意義や団体としての活動とは、いったい何なのだろう・・・・・・。
 そういった疑問は、当事者の中にももちろんあるだろうから、今後も櫛の歯が抜けるように、この一門からの脱退者は増えるに違いない。芸協あるいは落語協会に入会することで、寄席への出番は確実に増えるし、その置屋の仕組みの中で若手は育ち昇進という通過儀礼を迎えることができる。

 私は、立川流を離れる噺家さんは、談志とも交流の深かった市馬が会長になった落語協会が、その受け入れ先となるのではないか、と勘繰っていた。しかし、談幸一門が芸協に流れて行くのであれば、最近、とみに痩せたとの情報のある市馬の健康状態の背景に、このことがあるのかと邪推してしまうのである。

 年明けに正確な情報が発信されるのだろうが、立川流が大きな変動期を迎えているのは確かなのだろう。
by kogotokoubei | 2014-12-09 06:05 | 一門 | Comments(10)

円楽一門、芸協に接近

ある程度は予測していたことだが、五代目円楽が「立つ鳥、目一杯 跡を濁す」状態で亡くなってから、10月29日で一周忌を迎え、残された一門、というか六代目の円楽(まだ楽太郎の名が頭に残る)が落語芸術協会への接近を公言した。複数の媒体で報じられているが、まずasahi.comの記事から全文を引用する。
asahi.comの10月29日の記事

 5代目円楽一門会(三遊亭鳳楽会長)が落語芸術協会(桂歌丸会長)に友好関係の一層の強化を打診していることが28日、分かった。この日、東京・足立区の易行院で行われた5代目三遊亭円楽一周忌法要で6代目円楽(60)が明かした。

 円楽一門は大師匠三遊亭円生とともに78年に落語協会を脱退。円生死後は円楽一門で活動したが、今年3月の6代目円楽襲名披露興行で落語芸術協会の協力を得て、32年ぶりに寄席出演が実現した。円楽は「その時に落語芸術協会との友好関係を発展させ、一門が寄席に出る機会を増やしたいと思った」という。

 歌丸会長は「協会での話し合いはこれから。何も決まってません」と話したが、円楽は「一門がすぐ協会入りということではない。最初は1人、2人でも出してもらい、大きなお付き合いになればいい」と話した。法要には林家こん平、春風亭小朝らも出席した。



 次にスポニチだが、ちょっとニュアンスが異なる。これまた短いので全文引用。スポニチの10月28日の記事

 昨年10月29日に死去した落語家の五代目三遊亭円楽さん(享年76)の一周忌法要が28日、東京都足立区の易行院本堂で営まれ、六代目三遊亭円楽(60)ら「五代目三遊亭円楽一門会」、落語芸術協会会長の桂歌丸(74)ら約70人が参列した。

 命日の29日に六代目円楽プロデュースの「博多・天神落語まつり」が初日を迎えるため、1日早い法要となった。六代目は「師匠が好きだった演目をやって偲(しの)ぼうかと思います」と話し涙を流した。

 1978年に五代目の師匠にあたる三遊亭円生が落語協会から脱退してから、一門は東京・上野の鈴本演芸場など定席の寄席に出演できない状態が続いていた。しかし日本テレビ「笑点」の仲間の歌丸らが協力し、今年3月の六代目襲名披露興行で32年ぶりの定席出演が実現。六代目は歌丸に「友好団体でも吸収合併でもいい。定期的に定席に出るために落語芸術協会に交ぜていただきたい」と申し入れ。「これが師匠が残していった宿題」と話す六代目に、歌丸は前向きに検討する意向を示した。



 この一門の行く末については、円生襲名問題に関連して何度か書いてきた。
 「笑点」つながりで落語芸術協会入りもありえるだろうし、円生襲名を円窓に譲る見返りで落語協会復帰の可能性もあるか、とも書いた。
2010年2月18日のブログ
2010年5月19日のブログ
 円生襲名問題は、落語のポッドキャスト番組を“ナビゲート”している塚某アナウンサーただ一人がいまだにはしゃいでいるが、落語愛好家のほとんどは、醒めた目で見ている。

 この記事で違和感があるのが、この一門会の会長の鳳楽ではなく六代目円楽の発言が取り上げられている、ということ。実質的には円楽がリーダーということなのかどうか・・・・・・。芸協との関係について何か言うのなら、円楽ということなのだろう。しかし、鳳楽が同意していなければ、こんな発言できないよなぁ。

 歌丸芸協会長の後押しで始まった六代目円楽襲名披露は、鈴本以外の定席が終わっても、今なお全国各地で、「笑点」で顔の売れた客演の噺家を“ダシ”に続いている。性善説に立って考えて、「そこまで襲名で稼ぐのは、先代が経営難で心半ばで潰してしまった寄席“若竹”を再建して、一門が独立してでも高座に上がれる場を作ろうということか?」と、少しだけ思ったが、やはりそんな健気な気持は、“腹黒”な彼にはなかったことが判明。
 やはりどこまでも“笑点つながり”だね、情けない。スポニチの記事にあるように「これが師匠が残していった宿題」というのは、「寄席」「定席」への出演の道ということなのだろうから、もちろん芸協のみならず、落語協会との接近があっても不思議はないのだが、円楽-歌丸のパイプが強固なのに反し、鳳楽が円生襲名問題で、落語協会の円窓や円丈と争っていて、いわば敵対関係にある。私が以前に思いつきで書いたような、円窓に円生襲名を譲って協会に復帰という考えはないということだ。欲しいんだね、七代目の名が。これまでのいきさつを考えると、もし一門全員で芸協入りした場合は、円生襲名を断念するしかなかろう。だけど、この一門全員が芸協に入りたがっているのだろうか。中には違う思いの人もいるのではなかろうか・・・・・・。

 関連して言えば、スポニチの記事にある「友好団体でも吸収合併でもいい」という円楽の発言には、首を傾げざるを得ない。この一門の“団体”“組織”としての存在意義がまだあると思っているのだろうか・・・・・・。そもそも、落語協会や芸術協会でさえ、以前にも書いたが“たかが置屋”“されど置屋”なのであり、組織体として何かを成し遂げるものではないのだ。この一門は、かつては目的や価値観を共有した噺家の“集合体”であったかもしれないが、その旗頭を失い、集合する意味や目的を見失った今は、定席に出れないというマイナスだけを味わっている個人の職業落語家の集団でしかない。だから、所属するそれぞれの噺家の思いは結構微妙に違っているはずだ。

 もし、私が六代目円生の関係者あるいはご意見番で、今のこの一門の事態を落語界全体の問題という認識に立ったら、こうなるように動くだろう。

(1)円楽一門会は、元々が六代目円生を慕ってきた弟子達の集団であり、六代目も総領弟子の五代目円楽も亡き今、存在の意義はなく、速やかに解散する。
(2)円窓、円丈、鳳楽の誰にも七代目円生は継がせない。この三人もそれを受諾する。かつ、円生の名跡は今後最低十年間は止め名とする。
(3)落語協会、落語芸術協会は、円楽一門のそれぞれの噺家が各個人の希望で協会入りを希望した場合は、入会を無条件で認める。

 これで、六代目円楽が何を言おうと、「本当は芸協じゃなくて小三治会長の落語協会に行きたいんだよなぁ」という噺家にも道ができる。やはり、この記事の発言者が円楽であって、会長の鳳楽ではないというところに、今後の火種がいろいろと隠されていると思うなぁ。兼好などは、しっかりとその実力で国立演芸場でも横浜にぎわい座でも、独演会でも客を呼べるから気にしてはいないのかもしれないが、定席への思い入れはあるだろう。

 ともかく、この一門の将来と円生襲名問題の行く末に新たな幕が開いたのかもしれない。さて、外野は冷静かつ楽しみなから、成り行きを眺めているとしよう。
by kogotokoubei | 2010-11-01 17:25 | 一門 | Comments(2)
昨日の落語協会の来年9月昇進者の件を書いた文中で、円楽一門(グループ)についてあらためて書くと約束(?)したので、書きます。

しかし、テーマの中心は落語界の二大体系と大きな名跡のこと。

東京の落語の歴史には二大系列といえる三遊派と柳派があった(あえて過去形)。

三遊派のルーツは初代の円生。1768(明和5)年生まれで1838(天保9)年に70歳で亡くなっている。当時としては長生きの部類だろう。江戸神田の生まれで 1797(寛政9)年ごろというからほぼ三十歳あたりで山遊亭猿松の名で噺家となったとされるが、初代三笑亭可楽門に転じ東生亭世楽と称したとする説もある。初代の烏亭焉馬門で立川焉笑,さらに落語の爛熟期とも言える文化年中(1804~18)に三遊亭円生となっている。浅草の堂前に住んだところから「堂前の師匠」と呼ばれ,人望厚く二代目の円生や初代古今亭志ん生など多数の門弟を擁し、二代目の弟子であった円朝も尊敬の対象は、あくまでこの初代だった。
この三遊派のルーツにつながる六代目円生の一門が、旧(と言うべきだろうなぁ)円楽一門ということになるのだが、ここからがちょっとややこしい。三遊派の流れにある噺家さんは、落語協会にも落語芸術協会にもいる。古今亭一門がもちろんそうだし、円朝の弟子だった初代からの流れにある芸術協会の三遊亭円遊だってそうだ。遊三も小遊三ももちろんである。

片や、もう一方の大きな系統は柳派。ルーツは初代の麗々亭柳橋だが、三遊派に対する強力なライバルとして柳派の存在を確固たるものとして位置付けたのは、柳橋の弟子であった初代春風亭柳枝の弟子で、江戸時代から明治にかけて円朝一門と張り合った初代談洲楼燕枝(前名は柳亭燕枝)。この両チーム(?)1888(明治21)年には完全に独自に興行を行うことになる。実質的な柳派のルーツ燕枝からつながる大きな名跡が柳家小さんであり、春風亭柳枝であり、柳亭左楽などである。こちらも落語協会にも芸術協会にも子孫(?)がいるねぇ。

要するに、三遊とか柳というのは、芸者の置屋とでも言うべき協会とは別の次元の体系。また、「置屋」とご本人の「マネージメント会社」とは、これまた別。例えば、上方で米朝一門の噺家さんでも上方落語協会に入っている人もいれば入らない人もいるし、協会の所属とは関係なく、米朝事務所がマネージメントをする人もいれば、違う人もいる。だから、本来、東京で協会だろうが芸協だろうが、どちらに籍を置くかということと、三遊か柳かということは関係がないのが今日の状況。

そして、ここからがまたややこしい話。名跡については、これまたその権利所得者が誰かとか、協会はどういう権限を持つのかなどが目一杯グレーなため、いろんな問題の種になる。その例が、まさに円生という名である。故円楽は、昨年の春に自分と師匠の名跡について思いを吐露していたのだが、これが波紋を広げた。円生一門なのに円楽とウマが合わず落語協会に残った円窓さんは怒ったね。

2008年5月2日の三遊亭円窓師匠のブログを、全文引用させてもらいます。
*円窓さんのブログでは「圓」を使っていて、私は「円」を使うので混在しますが、ご容赦ください。
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 夜分、ソニーの京須さんより電話。
「今日の朝日新聞の夕刊に『圓楽(5)の談で、〈鳳楽の圓生(7)、楽太郎の
圓楽(6)の襲名〉が載っていた』」と。
楽太郎の圓楽(6)の襲名は問題はないのだが、鳳楽の圓生の襲名は
横暴の一語に尽きる。
そもそも、圓生の名は、6代目の死後、稲葉修大臣、圓生(6)の未亡人、
山本進(NHK)、京須偕充(ソニー)、それに圓楽(5)の五人が連名して、
「圓生の名前はもう誰にも継がせない」という意をこめて「止め名」にした
のである。
 この企画に奔走したのが、圓楽(5)である。
 五人のうち、稲葉修大臣、圓生(6)の未亡人は他界したが、他の3人はまだ
生存しているし、その文書もちゃんと現存している。

 然るに圓楽(5)は京須さんには一言の相談もなく、また兄弟弟子にはなにも
知らせずに新しい圓生の襲名を新聞に発表してしまった。
 圓生の名は「止め名」にしたのであって、圓楽が所有しているものではない。
 売れっ子が新聞に発表すれば、マスコミもその流れに乗るであろう。が、
偽装を施したものであって、本物ではない。
 圓楽はマスコミに売れていることを利用して、真実を隠して、報道させた。
 マスコミも売れっ子の発言を鵜呑みにしてないで、真実を追究してほしい。
 圓生の名は、止め名にして墓の中へ納めたものである。
 新しい圓生の看板を作りたいのなら、5人のうちの生存者と相談して、
止め名の封印を解いてから、新しい圓生の人選をすべきである。
 にも関わらず、圓楽は5人のうちの一人、京須さんには一言もなく、自分の
弟子に新しい圓生を継がせようとしているのだ。
 まるで、墓荒らしと同じ行為である。
 寺の息子である圓楽がそんな愚行をして恥ずかしくないのか。
 圓楽(5)は暴君のつもりでいるのであろう。
 悲しいことである。
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コメントなども含め確認したい方は、円窓師匠のブログへどうぞ。
三遊亭円窓師匠のブログ

円楽が横暴なら、由緒ある円生の名を勝手に「止め」てしまう人たちは横暴ではないのか、と疑問がわく。
*ちなみに、来年3月真打昇進する窓輝は円窓の息子である。本件には関係ない。
 
このブログから一年余り、円楽死して残ったのは山本進さんと京須さんの二人。え~っ、この二人で円生襲名の是非を決めていいの?山本さんや京須さんの書籍にはお世話になっていますが、それとこれとはまったく別な次元の問題ですなぁ。 

「円楽憎し!」のベテラン噺家は円窓に限らず残っているし、川柳師匠なんかは高座で頻繁にネタにしている。しかし、実は内心は結構寂しいんじゃないかな、川柳さん・・・・・・。
今のままで鳳楽が円生を継ぐのは難しかろう。かと言って、襲名のためだけに頭を下げて協会に戻るなんてことは一門はしないだろうし、許さない協会の古株もまだいるだろう。ここからは、時間が解決する以外には噺家が苦手とする「交渉力」の問題になりそうだが、さて、どうなることやら。

個人的には、現在継承者のいない大名跡はできるだけ相応しい噺家さんに継いでもらいたい。その代々の噺家さんの思い出を語ることができる方がご健在なうちに、語り部として若い人達に伝承して欲しい。志ん生、柳枝、円生、そして円朝だって止め名にしなくてもいいでしょ。何度か書いたけど、職業落語家の元祖である三笑亭可楽という大きな名前は、しっかり残っているじゃないですか。この名は、落語界にとって円生などよりずっと大きい名だと思うよ。

まぁ、今後起こるであろう騒動も、噺家の皆さんはネタにするであろうし、逆にネタにして笑えるようなことが起こることを期待して、この件は終わります。
by kogotokoubei | 2009-11-12 17:04 | 一門 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛