噺の話

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カテゴリ:幸兵衛の独り言( 282 )

 「お笑い三人組」の主役の一人、一龍斎貞鳳さんが、二年余り前に亡くなっていたことを、今日のニュースで知った。

 サンスポから引用。
サンスポの該当記事

2019.1.10 12:24
一龍斎貞鳳さんが死去…テレビ草創期のバラエティー番組「お笑い三人組」で人気

 テレビ草創期のNHKのバラエティー番組「お笑い三人組」に出演して人気を博した元講談師で、参院議員も務めた一龍斎貞鳳(いちりゅうさい・ていほう、本名今泉正二=いまいずみ・しょうじ)さんが2016年12月27日、脳梗塞のため東京都内で死去していたことが10日までに分かった。90歳。福島県出身。三回忌を済ませたのを機に遺族が公表した。

 1938年に五代目一龍斎貞丈に入門し、54年に真打ち昇進。「お笑い三人組」では落語家の四代目三遊亭金馬(当時は小金馬)、物まねの故・三代目江戸家猫八さんと共に出演し、茶の間の人気者となった。

 71年には自民党から参院選に出馬して当選。本名を議員名として国立演芸場の設立などに尽力したが、1期で引退。その後は講談界に戻らず、政治評論活動などをしていた。
 
 亡くなったことが、二年以上も、伏せられていたんだ・・・・・・。

 芸能人をめぐるどうでもいいネタの取材のために身辺をストーカーまがいの行動でかぎまわる人間が多い今日、ずっと貞鳳さんの訃報が表面化しなかったということに、なんとも言えない切なさを感じる。

 NHKの「お笑い三人組」は、最初はラジオだったが、昭和31(1956)年からテレビ放送になり、昭和41(1966)年まで約十年間続いた。

 私は、小学校低学年の頃に家族と一緒に見た記憶があり、「アハハ ウフフ 三人元気に顔出して、ニコニコニッコリ笑ったら、心はいつでも青空だ」のテーマソングは、よく覚えている。

 舞台設定の違い、キャスティングの違いなどで、第一期、第二期、第三期と分けられるが、私が覚えているのは、最後の第三期。
 Wikipedia「お笑い三人組」から、キャスティングを引用。
Wikipedia「お笑い三人組」

満腹ホール(ラーメン屋)の金ちゃん(竜助):三遊亭小金馬
ニコニコクレジット社員の正ちゃん(今泉正二):一龍齋貞鳳
クリーニング屋の八ちゃん(八太郎):江戸家猫八
金ちゃんの妹(かおる):音羽美子
正ちゃんの妻(真知子):桜京美
おたまちゃん(珠枝、八ちゃんの恋人):楠トシエ
おたまちゃんの母・おふで:武智豊子
クリーニング屋「峰松」の主人:渡辺篤
金ちゃんの父:木田三千雄
頑太(満腹ホールのアルバイト):矢野目がん


 主役の三人を支える脇役陣に、喜劇役者の名優が並ぶ。

 音羽美子さんは、主役の妻、妹、恋人という女性三人の中では、おとなしい美人という役回り。

 桜京美さんと楠トシエさんが、とにかくパワフル。

 桜京美さんは、「アイ・ラブ・ルーシー」のルーシーの初代声優でもあったなぁ。

 楠トシエさんは、あの頃流行った「トランジスターグラマー」の見本のような人であったように思う。

 猫八さんとの「八ちゃん、おたまちゃん、うー」というギャグが懐かしい。

 そのおたまちゃんの母親おふで婆さんの武智豊子さん、好きだったなぁ。
 あの甲高い声を思い出す。
 「女エノケン」と言われた人だ。
 
 渡辺篤さんは、もちろん、テレビで他人の家を訪問しているあの人ではない^^
 黒澤映画で名脇役だった人。

 あのドラマの凄さは、今日のバラエティと称する愚かしいテレビ番組とは、一線を画している。

 なんと言っても、公開生放送なのだ。

 それで、思い出したのは、三代目江戸家猫八さんのこと。

 広島で被爆し、原爆症の辛さから、あの生放送の日も体調が悪い日もあったことを、晩年に告白されている。

 2014年の原爆投下の日、記事を書いた。
2014年8月6日のブログ

 三人組は、ついに、金馬さんだけになった。

 貞鳳さんが、参議院議員を辞めた後に講談界に戻らなかった理由は、知らない。

 講談師の時代も、司会などですでに売れっ子になっていたことから、講談には未練がなかったのかもしれない。

 今や、松之丞人気もあって、講談があらためて注目を集めていることを考えると、一龍斎貞鳳さんが、人知れず亡くなっていたことが、なんとも言えない寂しさをもたらす。

 今頃、猫八親子と一緒に、昔話に花を咲かせているのかもしれない。

by kogotokoubei | 2019-01-10 21:27 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)
 12月24日の末広亭で、ホームランが、正月三日に生放送での出演依頼があった、と話していた。
 しかし、何らかの都合で出演しないかもしれない、と言っていたので、さてどうなったかと思いしばらくNHKの「新春生放送 東西笑いの殿堂」を見ていた。

 実際に出演していたので、良かった。

 しかし、ややネタはすべったかな^^

 その前にスタジオで太神楽の翁家和助と小花が出ていたが、こちらのほうが盛り上がっていたね。

 和助、土瓶の芸、仙三郎の後継者として期待したい。
 小花は久しぶりだが、うまくなった。

 こういう寄席の伝統芸を知る人が増えるのは良いことだと思う。

by kogotokoubei | 2019-01-03 14:47 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)
 私は関西の大学の体育会で軟式庭球をしていた。

 今は、毎週日曜、硬式テニスを楽しんでいる。

 スポーツは観るのも好きで、中でもラグビーは大好き。

 ずいぶん前だが、今の会社のラグビー部が出来た時、ノックオンを含めまったくルールを知らないメンバーのために、ルールブックを作ったなんてこともある。

 昭和60年1月15日には、当時住んでいた越後から、国立競技場に行き、あの新日鉄釜石と同志社の日本選手権決勝を目撃している。

 だから(?)、ラグビーについて、少し書かせていただく。

 今、CSで今日の大学選手権の準決勝を観たところ。

 天理が帝京に完勝した。
 
 帝京の10連覇を、関西の大学が阻止したことが、まず、嬉しい。
 
 とにかく、低いタックルが帝京の突進を、ことごとく防いだ。
 それは、ノーサイドまで、続いた。

 また、体重差を感じさせない、スクラムの強さに、練習量を感じた。

 それと熱いハートを保ちながらも、クールな頭脳を感じたプレー。

 後半、帝京にトライを返されながらも、その後にゴール前でモールに組み変えてからのトライで点差を広げるなど、試合巧者ぶりを発揮した。


 今年の天理は、強い、と再認識

 小松節夫監督の長年の指導が花咲く年になりそうだ。

 2012年1月、三点差で帝京に負けた雪辱を果たしただけで満足はしていないはず。

 明治も早稲田を破って勢いに乗っているとは思うが、黒い軍団に死角はなさそうだ。

 関西リーグで同志社を零封した時に、まず、その強さを感じた。

 留学生がいるいない、ということを同志社側は言いたいかもしれないが、ルール内でのチーム編成である、言い訳はできない。


 まぁ、小松監督が同志社OBなので、全関西代表、ということで頑張ってもらいたい。

 関西三連覇の今シーズン、打倒関東をこのチームなら果たしてくれそうだ。

 決勝が実に楽しみになった。

 ぜひ、あの昭和60年の同志社以来、34年ぶりに関西の優勝を期待している。
by kogotokoubei | 2019-01-02 20:27 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)

皆さん、良いお年を。

 今年は、二月に連れ合いのお父さんが八十六歳で亡くなったので、年始のご挨拶は遠慮させていただいたため、我が家のシーズー、ミミーとユウの記念写真は撮らなかった。

 しかし、彼らが元気なことを何とかお伝えしたく(?)、本日の散歩の写真をご紹介。

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 これが、二人ともカメラ目線の一番良い写真、かな。
 左が女の子のミミー、来年4月で10歳。
 右が男の子のユウ、来年9月で9歳。

 年末大サービス(?)で、他の写真も^^
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 いろんなことがあった一年。

 どんな元号になるか知らないが、来年は、世界も日本も皆さんも、そして我が家にとっても良い年でありますよう祈ります。


by kogotokoubei | 2018-12-31 12:50 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)

 一昨日17日の記事別アクセス数の結果を見て、驚いた。

 二年余り前に飯島友治さんの本を元に三代目三遊亭小円朝について書いた記事のアクセス数が、一日で1895と、2000近くになっていた。
2016年4月29日のブログ

 ひと月でも特定の記事へのアクセス数が1000を越えることは稀なのに、一日でこの数とは・・・・・・。

 もしかすると、システム障害かもしれない。

 ちなみに二番目にアクセスが多かったのは、五年以上前に、談志家元の本の引用などで四代目三遊亭小円遊について書いた記事だが、アクセス数は300位で、この数も通常では考えられない数なのだ。
2013年10月5日のブログ

 ただし、「笑点」の人気者だった小円遊の記事は、結構安定的にアクセスがあるので、そうは驚かないのだが、小円朝という地味な噺家さんの記事へのアクセス急増は想定をはるかに超えている。

 きっと、この現象は、四代目三遊亭小円朝の訃報が影響しているのだろう。

 15日に、四十九歳という若さで肺炎で亡くなったとのこと。

 残念ながら、生の高座に出会ったことはない。

 円楽一門。

 師匠は六代目三遊亭円橘。
 父も噺家の三代目三遊亭円之助。

 円橘も円之助も、三代目小円朝の弟子だった。

 多くのメディアの訃報の中で、スポーツ報知がもっとも詳しかったので、引用する。
スポーツ報知の該当記事

 小円朝さんの父親は3代目・三遊亭円之助。1996年に父親の弟弟子になる三遊亭円橘に入門。97年に二ツ目に昇進し4代目・円之助を襲名。2005年5月に真打ちに昇進し4代目・小円朝を襲名した。

 ここ数年は体調を崩し入退院を繰り返していた。今年6月には兄弟弟子が「小円朝再生落語会」を開催し、「芝浜」を熱演していた。11月末にインフルエンザから肺炎を発症し入院。今月7日に予定されていた「第2回 小円朝再生落語会」は師匠の円橘が代演した。

 関係者によると、亡くなる前日の14日、師匠・円橘や兄弟弟子がお見舞いに行った時は円橘の「来年4月に落語会を開くから頑張れよ」の激励にはっきり返事をするなど、意識もあったが、翌早朝、眠るように息を引き取ったという。

 最後の高座は10月、千葉・富浦での落語会だった。小円朝さんは落語協会での修業経験もあり、5代目円楽一門会が出演する両国寄席で、太鼓などの鳴り物や、前座修業のしきたりなどを教える良き兄貴分でもあった。

 落語協会での修行経験、とあるが、最初小三治に弟子入りしたのだった。前座名は、さんぽ。入門順では、一琴と三三との間に入る。二年ほどで破門となってしまっている。
 小三治の奥様、郡山和世さんの名著『噺家カミサン繁盛記』に名前を探したが、見つからなかったなぁ。

 お父さんの円之助も、昭和4(1929)年生まれで、小円朝が高校時代の昭和60(1985)年に亡くなっており、決して長命とは言えなかった。

 萬橘、橘也の兄弟子にあたる円橘一門の総領弟子。

 三代目小円朝の記事では、飯島友治さんが、三代目について「微笑みを演じる芸」と形容していたことを紹介した。

 訃報に掲載されている四代目の柔和な写真から、そんなことを思い出した。


 高座への出会いはなかったが、四代目三遊亭小円朝のご冥福をお祈りする。
 
by kogotokoubei | 2018-12-19 12:36 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 昨夜の「チコちゃんに叱られる」に、神田松之丞が登場した。

 お題は「年の瀬」。

 番組に講談の高座が登場しての一席。

 年の瀬や大晦日、いかに借金の取立てを防ぐか、という話。
 落語愛好家なら、どんな話になるか、ある程度想像がつく。
 ところが、「落語では、大晦日一日中葬式をして」借金返済を逃れる噺がある、などと言っていたが、『掛取り』『狂歌家主』『睨み返し』『言訳座頭』など、年の瀬の代表的な落語ネタのことが登場しなかったなぁ。

 これは、チコちゃんや岡村は許しても、落語愛好家は、許さないぞ^^

 また、新宿末広亭に松之丞が出演すると行列が凄いとチコちゃんが言っていたが、私が先月25日の日曜日、彼が夜席仲入りに出た日に行った末広亭では、そんなことはなかったぞ^^


 同じ寄席で仕事をする講釈師、年の瀬の代表的な落語ネタは、言って欲しかった。

 それにしても、松之丞人気は、バブルだと思うなぁ。

by kogotokoubei | 2018-12-15 11:15 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)
 昨日の記事で、三笑亭笑三の私が聴いた最後の高座を、2012年の池袋での『悋気の火の玉』と書いたが、実は2015年7月、国立演芸場における、夢丸の真打昇進披露興行での『ぞろぞろ』だった。

 訂正し、お詫びします。

 検索したつもりで、見逃していた。

 それだけあの『悋気の火の玉』の印象が強かったとも言えるが、『ぞろぞろ』についても、こんなことを書いていた。歌丸の代演での仲入りの高座。
2015年7月6日のブログ

三笑亭笑三『ぞろぞろ』 (25分)
 仲入りは、歌丸の代わりに、今年10月で満90歳を迎える長老が登場。腰は曲がっていたが、自力で高座に上がった。 
 言葉には結構力があるし、よく通る。
 マクラでは、お賽銭の金額の調査をしたら、八割が十円。たった十円で、なんと人間は欲張るものか、とふって本編へ。
 途中、言いよどみはあったが、漫談ではなく、しっかりとネタを披露した。高座から下がりながらのサゲにした後姿を見て会場は一瞬沈黙したが、無事で良かった(^^)
 五月五日の末広亭、披露興行は夜だったが、昼の部の後半から会場に入り、トリの歌丸が板付きだったことを思い出す。長期休養中の会長の代役を、協会の相談役がしっかり果たした。
 実に得難い高座に出会えた、そんな思いを抱きながら、仲入り。

 六年余り前の高座は覚えていて、三年余り前のこの高座を、忘れていたとは・・・・・・。

 ブログを読んで、ようやく少し思い出した。
 サゲの時、一瞬ドキっとしたのだ。

 そうそう。口上でも、三本締めを「三々九度」と言って、笑わせていた。


 卒寿の噺家さんの高座に出会えたのは、これまでこの高座と2016年5月末広亭での米丸だけ。

 天国の笑三さん、あの高座を忘れていて、ごめんなさい。

by kogotokoubei | 2018-12-12 12:18 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)
 三笑亭笑三が亡くなったことを、今日知った。
 (拙ブログの常で、敬称は略させていただきます)

 10月24日だったらしい。
 朝日新聞から引用。
朝日新聞の該当記事

三笑亭笑三さん死去 初代林家三平の台本作家として活躍
2018年12月11日18時04分

 三笑亭笑三さん(さんしょうてい・しょうざ=落語家、本名斧田道男〈おのだ・みちお〉)が10月24日、肺炎で死去、92歳。葬儀は近親者ですでに行った。

 46年に八代目三笑亭可楽に入門、61年に真打ちに昇進した。初代林家三平の台本作家としても活躍。09年から落語芸術協会の相談役を務め、90歳を過ぎても高座に上がった。

 私が大好きな、八代目可楽の弟子だった。
 
 ブログを始めてからは、残念ながら一度しか生で聴いていない。

 2012年5月の池袋演芸場での『悋気の火の玉』。
2012年5月3日のブログ
 こんな感想を書いていた。

三笑亭笑三『悋気の火の玉』 (22分)
 仲入り前はこの人。大正14年生まれ87歳のパワーに、恐れ入りました!
 先代文楽の十八番だったが、この人の元気なアクションが、「笑三の火の玉は、こうなんだ!」と言う主張に、納得。マクラも現代的な話題を交えて結構だし、テレビでは出せないような内容を含む本編も大変結構。この高座を聞けただけでも良かった。花川戸からやって来る本妻の火の玉と、根岸からのお妾さんの火の玉の壮絶なバトル!凄いね、笑三は。マイベスト十席候補とはならないが、特別な高座として色付けしておく。

 結構、この高座の印象、残っている。
 今は「寄席の逸品賞」と名を変えた、上期の「寄席大賞」に選んだ。
2012年12月28日のブログ
 
 大正生まれの噺家さんは、米丸一人となった。

 最後の高座がいつだったかは知らないが、私にとってはあの高座が最後だった。

 実に個性的な噺家さんだった。

 合掌

by kogotokoubei | 2018-12-11 21:57 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 時事的な話題は、兄弟ブログ「幸兵衛の小言」に引越ししたのだが、あえて書くことにする。

 M-1とか言う番組で、昨年の優勝者や今年の出場者が、SNSで特定の審査員のことを酔っ払って批判したことが、ちょっとした騒ぎになっているようだ。

 私には、どうでもいいこと。

 また、居残り忘年会でも話題になったが、ある関取の暴力事件のことが過剰にメディアを賑わわせているのも、不思議でならない。

 そういう芸能ネタ(相撲も元々芸能の興行)ばかりを取り上げ、国民の生活苦につながる政治の問題への真っ当な議論が、棚上げされている。

 政治家や官僚が、データを捏造していたり、与党が議長を含めて野党議員の発言を妨げ、ほとんど議論なしに重要法案をゴリ押ししていることのほうが、どれほど重要であろうか。

 入管難民法や水道民営化法は少しは話題になっているが、漁業法と原子力賠償法の改悪は、ほとんどメディアで取り上げられない。
 漫才師のSNSでの醜態や、かつては取り上げなかったであろう相撲界の“かわいがり”問題で、テレビは公共の電波を無駄使いしている。

 漁業法は企業の参入を促すもので、個人経営の地元の漁業関係者にとっては死活問題だ。
 原子力賠償法は、電力会社の賠償への備えを決めるものだが、上限を撤廃すべきなのに、据え置かれた。事故が起きても、限度額以上は賠償責任がないことにしようという悪法。

 今年四月に廃止された種子法も、昨年モリカケ問題に隠れて、ほとんどのメディアが取り上げないままに成立した。
 得意(特異?)の、閣議決定、国会ゴリ押しの一例。
 農家は、種子を育てることに国からの補助がなくなるので、日本の大企業やモンサントを代表とするグローバル企業から種子を買わなければいけなくなる日が近い。


 そこで、このブログに相応しく(?)、落語とも縁の深い狂歌らしきものを、いくつか。

  世の中は とろやサーモンと やかましい
     サビの効かない ネタの不味さよ

  悪代官 昔越後屋 今グローバル
     相手代われど 主は変わらず

  グローバル その横文字の 意味するは
     漢字で書けば 愚弄ばるなり


 お粗末でした。
by kogotokoubei | 2018-12-10 12:27 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)
 昨日は、珍しく午後から半日時間ができたので、夕方六時からの居残り忘年会の前に、横浜は桜木町で映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観た。忘年会は、お隣りの関内駅の近く。

 正直なところ、話題の『ボヘミアン・ラプソディ』には、それほど期待していなかった。
 同時代では、好みで言うならイーグルスのファーストアルバムからのファンだったし、クィーンは、いわば、キワモノと思っていた。
 ただし、ブライアン・メイのギターは好きだった。
 ちなみに私の好きなロックバンドは、なんと言ってもCCR、そしてイーグルス(バーニー・リードン在籍中の前期が特に好き)、そしてカントリーロックのNGDBなど。

 さて、事前に桜木町の映画館の上映時間をネットで確認したら、二時半からの回に△がついていたので、すこし早めに行ってチケットを取ったが、たしかに空席は少なかった。とはいえ、前から五列目のほぼ中央の席を取ることができた。

 若い人よりも、私と同じような年代の方が多く、また夫婦連れが目立ったなぁ。

 この映画、クィーンへの思い入れによって、感想も違ってくるのは当然。

 映画の公式サイトには、「伝説のバンド」とか「その生き様が世界を変えた」というコピーがあるが、そういう形容には、私は違和感をおぼえる。
映画『ボヘミアン・ラプソディ』公式サイト

 とはいえ、最近あちこちで映画の話題になると、この映画を観たという話が出るので、同時代に海外のロックを聞いていた者としては観ておかねば、と思った次第。

 観終わって、感じたことは、これはクィーンの映画というより、フレディ・マーキュリー、本名ファルーク・バルサラの映画だということ。

 Wikipediaのフレディ・マーキュリーから、生い立ちを少し引用しながら、映画の感想などを書きたい。
 なお、映画のネタバレになることも書いているので、これから映画を観る予定の方は、ご留意のほどを。
Wikipedia「フレディ・マーキュリー」

フレディは、当時イギリス領だった、タンザニアにあるザンジバル島のストーン・タウンで生まれた。インド生まれの両親Bomi(1908〜2003)とJer Bulsara(1922〜2016)は、ペルシャ系インド人であるパールシー。彼の名字のバルサラは、インド・南グジャラートの町であるバルサードに由来する。植民地政府のオフィスで会計係として働く彼の父親が仕事を続けるため、妻とザンジバルに移った。

 映画の最初の方で、フレディがパキスタン人への別称で呼ばれる場面がある。
 しかし、彼はペルシャ系インド人両親の血をひいているんだね。

 引用を続ける。
フレディは、インドで幼少期の大半を過ごした。7歳の頃にピアノを習い始める。1954年、8歳でボンベイ(今のムンバイ)郊外のパンチガニにある全寮制の英国式寄宿学校、セント・ペーターズ・ボーイズ・スクールに通う。この頃から複数のロックバンドで活動し、ピアノとヴォーカルを担当した。ボリウッド歌手のラター・マンゲーシュカルが彼のミュージカル形式に影響を与える。12歳で、彼はスクールバンドの「ザ・ヘクティクス」、クリフ・リチャードやリトル・リチャードのカバー・ロックンロール・バンドを組織する。当時の彼の友人は、フレディは「ラジオを聴き、その後で聴いた曲をピアノで再現する、異様な能力」を持っていたと振り返る。
 映画では、幼少時代、そして、寄宿学校時代のことなどは割愛されている。
 だから、彼がロンドンのバーで後にクィーンになるスマイルというバンドでボーカルが抜けたため、困っているブライアンとロジャーの前で自分を売り込むために歌う場面は、やや唐突な印象を受けてしまった。

1963年にザンジバルに戻り家族と一緒に暮らし始めたが、その翌年ザンジバル革命が起こり、アラブ人とインド人の多数の死傷者が出た。当時17才のフレディとその家族は、安全上の理由でザンジバルから逃れた。家族は、イングランドのミドルセックス州フェルサムにある小さな家へ移り住んだ。両親は郊外住宅の使用人として働いた。フレディはウェスト・ロンドンにあるアイルワース工業学校(現在のウェスト・テムズ・カレッジ)に入り、芸術を学んだ。その後、イーリング・アートカレッジへ進み、芸術とグラフィック・デザインの修了証書を受け取る。彼は後に、クイーンでこれらの技術を用い衣装をデザインしている。
 
 映画は、家族がロンドンに移り住んでからの物語。
 ザンジバル革命のことは語られていない。
 また、カレッジを卒業してからの内容。
 
卒業後、フレディはバンドに参加しながら、ガールフレンドであるメアリー・オースティンとロンドンのケンジントン・マーケットで古着を販売していた。彼はさらに、ヒースロー国際空港でも職に就いた。当時の友人は、彼を「音楽に対して関心を示す、静かで内気な若者」として記憶している。1969年、彼はレッケイジと改名し、バンドのアイベックスに参加する。しかし、このバンドは上手くいかず、サワー・ミルク・シーという別のバンドに加わる。しかし、このグループも、1970年前半には同様に解散した。

 映画は、ライブ・エイドの映像を少し見せた後、空港で荷物の積み下ろしをするフレディが、パキスタン人への別称で怒鳴られる場面。
 上記のようなバンドの変遷のことは割愛されており、クィーンの前身となったスマイルというバンドとのからみになる。

1970年4月、フレディは、ギタリストのブライアン・メイ、ドラマーのロジャー・テイラーが所属するバンド、スマイルに加わる。メイやテイラー、それに当時彼らのマネジメントに携わっていたトライデント・スタジオが難色を示したものの、フレディの選んだ「クイーン」を新たなバンド名とした。

 ボーカル&ベースのメンバーが脱退し、フレディと新たなベーシストが加わったのだった。

 正直な感想としては、前半は少しダレた。
 フレディ役のレミ・マレック(『ナイト・ミュージアム』でエジプトの王子役だった人)の、やや、上の前歯を強調しすぎたメイクと演技も、違和感があった。

 しかし、次第に売れていく彼らの姿と迫力のある演奏が、体を乗せて行く。
 やはり、ロックは、いいのだ。
 フレディとメアリーとの別れの場面、メアリーがフレディがゲイであることを知っていた、という告白は、少しつらかったねぇ。

 そして、ライブ・エイドの直前、新しい恋人(もちろん、男)とフレディが家に立ち寄り、父親とハグする場面は、自然に泣けてきた。

 映像は、ライブ・エイドの場面をハイライトとして終了し、その後フレディが亡くなることはエンドロールで知らされる。

 全体としては、ロック好きな人にとって楽しい時間を過ごさせてくれる映画として良かった。
 とはいえ、今のような大ブームになるほどの映画かと言うと、疑問。
 いわば、ある沸騰点を越して、仲間うちで「まだ、観てないの!?」と言われることが恥となるところまでの動員となり、ますますヒットした、ということか。


 さて、映画館のすぐ近くの桜木町駅から一駅の関内駅。そして、じっくり散歩しながら、常磐町の「団欒」へ。

 関内ホール(小ホール)での柳家小満んの会の後、佐平次さんが事前に当りをつけ二人でぶらっと入ってから、居残り会の店。
 しかし、昨年ご主人が手術入院された。再開後も、閉店時間が早まっていた。
 また、小満んの会も、関内ホールの改装のため吉野町に変わったので、ご無沙汰だったのだ。
 私が幹事役となり、佐平次さん、Yさん三人の居残り会創設(?)メンバーに、その後ほとんど居残りレギュラーとなったI女史、M女史、F女史、そしてKさんの計七人での居残り忘年会だった。
 「迷いカツオ」や、サゴシ(青箭魚)(出世魚のサワラの前)の焼き物などの絶品の肴のおかげもあって、話題もベイスターズ(YさんとKさんが大ファン)のこと、大相撲の話題、もちろん落語のことやら歌舞伎など、なんとも楽しい会話が続いた。
 余興として、私とYさんとで『子別れ』のリレー落語。
 私は「上」「中」を、小三治の音源を元にご披露。縮めるのに苦労したが、まぁまぁだったかな。
 Yさんは「子は鎹」部分を、自分の子育てのことなども踏まえたアレンジで演じた。なかなか結構でしたよ。でも、カミシモはつけましょうね^^

 皆さん、ヨイショ上手で持ち上げていただいたが、だんだん座付き芸人(?)のハードルが高くなる^^

 ちなみに、M女史は『ボヘミアン・ラプソディ』をすでに二回ご覧になり、I女史も一度ご覧になって、また行くとのこと。
 
 お店のご主人も奥さんもお元気そうで良かった。
 そして、居残り仲間の皆さんの元気を、いただくこともできた、そんな忘年会だった。
 
 なお、次回、一月二十一日の小満の会は、関内ホールに戻る。
 団欒のご主人には、居残り会開催をお願いした。
 また、M女史が関わっている二月のある落語会も、全員参加予定。

 来年も、皆さんとの楽しいおつき合いを期待できそうだ。

by kogotokoubei | 2018-12-09 17:33 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛