噺の話

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カテゴリ:小説家と落語( 4 )

 今日7月14日は、里見弴が百三十年前、明治二十一(1888)年に生まれた日だ。

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矢野誠一著『文人たちの寄席』(文春文庫)

 先日、宇野信夫のことで引用した矢野誠一さんの『文人たちの寄席』には、里見弴の章もある。
 なお、本書の初版は、平成9(1997)年4月に白水社から発行され、私が持っている文春文庫版の発行は、平成16(2004)年10月。

 引用する。

 里見弴が熱心に寄席通いしたのは明治の末から大正改元頃の四、五年間、年齢で言うと二十歳前後のことだという。あの娘義太夫こそその全盛期をすぎてはいたが、色物席とよばれただけあってその時分の寄席には落語ばかりでなく、常磐津の岸沢式多津(西川たつ)、新内の三代目柳家紫朝、浮世節の立花家橘之助、講釈の神田松鯉(初代)、中国手品の吉慶堂李彩などなど絢爛たる藝人だちが名人上手ぶりを高座に競っていた。

 立花橘之助の名も出た。
 色物が、今よりもなんとバラエティに富んでいることか。
 もちろん落語家も華々しい名が並んでいた時代だ。

 落語のほうでは、橘家圓喬、初代三遊亭圓右、四代目の橘家圓蔵といった三遊派の大看板が顔をそろえたいた時代で、里見弴も圓喬の十八番中の十八番だった『鰍沢』をきいている。

 このように、三遊派全盛の時代なのだが、里見弴は、こんなことをしていた。

 里見弴の家では年に一度氏神祭を催していたのだが、ある年父親に言いつかってその余興をつとめたことがある。脳脊髄梅毒症に白内障を患って失明した廓噺の名手初代柳家小せんを招いて好評だったのだが、当日来ていた親戚の医者に「ありゃあ梅毒のひどいやつだ、あんなものを座敷に連れてきて」と、さんざ油をしぼられたという。

 当時活躍していた名のある三遊派の噺家ではなく、小せんを選ぶあたり、里見弴は並の落語愛好家ではないと感じるねぇ。

 そうそう、里見弴と言えば、有島武郎、生馬の弟だが、有島家には落語と縁がある。

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永井啓夫著『新版 三遊亭円朝』(青蛙房)

 以前、圓朝の翻案作品について書いた記事で、永井啓夫の『三遊亭円朝』から、『名人長二』について次の内容を紹介した。
2013年8月11日のブログ

 明治二十五年、大阪より帰京後、怪我をした円朝が湯河原で湯治中創作にとりかかった作品である。
 題材は、有島武夫人幸子から教えられたフランスの小説家モーパッサンの小説『親殺し』(Un parricide、1884年作)を翻案、作話したといわれている。
 有島武(1840-1914、有島武郎、生馬、里見弴の父)が横浜で税関長をしていた頃、部下にフランス文学の研究者があり、その人から聞いた話を有島夫人幸子が書きとめて円朝に送ったのである。これに対する円朝の礼状が、有島家に所蔵されている。
 モーパッサンの作品がわが国で始めて翻訳紹介されたのは、明治三十三年「帝国文学」に掲載された「ゐろり火」である。翻案にしても、円朝がその八年前にモーパッサン作品を手がけていることは注目すべき事であろう。

 
 里見弴の母親が、圓朝の『名人長二』誕生に、貢献していたのである。
 その母親の実家は山内という名だが、里見弴の本名は山内英夫。生後すぐに母の実家の養子となったためだが、育ったのは有島家である。なぜそうなったかは、分からない。

 学習院から東大英文科に進んだが、中退して「白樺」の同人になった。
 先輩志賀直哉の影響を受けたが、一度、絶交状態になった。

 志賀直哉との絶交状態はその後解消したが、矢野さんは『大佛次郎敗戦日記』からの引用を含め、次のように書いている。

    里見氏の作風に対し志賀氏は小せん(落語)にならねばよいがと云った由。
 という記述がある。
 戦時風景の記録はさておき、里見弴の作風が柳家小せんにならねばとの志賀直哉のいだいた危惧の念とは、どういうことなのだろう。

 実は、矢野さんの本、この里見弴の章の後「仲入り」の章があり、矢野さんは阿川弘之の『志賀直哉』を読んで、志賀直哉の言葉の謎が解けたことを記してくれていた。
 昨年の春、結局四百五十枚ばかしになったその評伝の一応の完結を見て、ほっとした気分で楽しみにしていた封印切りをしたとたんにぶつかったくだりというのが、
    里見弴についても、自分の柄にあるものは中々上手だから、「若し盲目になって、
    脚が立たなくなれば、小説家の小せんになれる」と、芸人見立てで揶揄した。
 なる一節なのである。
 孫引きのかたちになった鍵括弧内の志賀直哉の言の出典は、雑誌「人間」に寄せた「『人間』の合評家に」なのだが、志賀直哉というひとの他人の仕事に対するきびしい物言いに、あらためて感心させられる。

 実家の宴会の余興に初代小せんを呼んだ里見弴。
 そして、先輩志賀直哉からは、その小せんの名で評されたというのは、落語好きな里見弴らしい、とも言えるかもしれない。

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by kogotokoubei | 2018-07-14 19:58 | 小説家と落語 | Comments(0)
 今日7月11日は、旧暦で5月28日。

 隅田川花火大会は、享保18(1733)年の5月28日に始まった。

 花火大会公式サイトから、引用する。
隅田川花火大会の公式サイト

川開きと花火その由来

歴史的記録の残るものは両国の花火が最古となっています。江戸時代の享保17年(1732)の大飢餓で多くの餓死者が出て、更に疫病が流行し国勢に多大な被害と影響を与えました。
幕府(8代将軍吉宗)は、翌18年(1733)5月28日(旧暦)犠牲となった人々の慰霊と悪病退散を祈り、隅田川で水神祭を行いました。この時に、両国橋周辺の料理屋が公許(許可)により花火を上げたことが「両国の川開き」の由来とされています。

※江戸時代、隅田川は別名「大川」とも呼ばれていました。古典落語の中では大川と表現されていることがあります。
※両国橋の名称の由来、貞享3年(1686)武蔵国と下総国の国境に掛かっていたので両方の国をつなぐ橋として両国橋の名がついたそうです。

 落語のことを含む注釈も含め、なかなか結構な説明だ。

 両国の花火、となれば落語『たがや』だが、あの噺については、ずいぶん前に書いた。
2009年6月3日のブログ

 あの記事では、由来や画像を「NPO法人 すみだ学習ガーデン」さんのサイトからお借りしたのだが、同法人は今年三月末で解散になったらしい。
「すみだ学習ガーデン」のサイト
 花火のことを知るのに大いに参考になったのだが、残念。

 さて、その『たがや』で思い出すことがある。

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 この噺となると、まずは三代目桂三木助、そして、三遊亭金馬を思い浮かべるが、志ん生ももちろん手がけており、立風書房「志ん生文庫」の「志ん生長屋ばなし」に収められている。

 この本、解説は推理作家、SF作家、そして翻訳家としても活躍した都筑道夫。

 昭和四年生まれの都筑道夫、まずは、落語との出会いから。

 古今亭志ん生を最初に聞いたのは、レコードによってで、演目は「替り目」だった。わが家にはそれまでにも、柳家金語楼の「兵隊」や、三遊亭金馬の「居酒屋」のレコードがあったが、三歳上の兄が買ってきた志ん生の「替り目」は、たちまち私の気に入って、口まねするくらい、なんども聞くようになった。

 志ん生「替り目」との出会いは、小学校の時。

 兄の影響もあってレコードの落語が好きになった都筑道夫は、寄席にも出向くようになる。
 神田の神保町にあった花月、上野の鈴本、人形町の末広、四谷駅から四谷三丁目のほうへ少し行った左がわの裏通りにあった喜よし、たしか現在地とは反対側にあった新宿の末広、あちらこちらに出かけたが、山の手線の大塚駅前、天祖神社のわきの道を入ったところに、大塚鈴本という寄席が出来ると、そこへいちばん頻繁に行くようになった。私たちの家が小石川の江戸川橋にあって、ほかの寄席よりも、この大塚鈴本が近かったからだ。
 短篇小説「円太郎馬車」や長篇小説「寄席」、寄席芸能に関する随筆で、注目はじめていた正岡容が、そのこと大塚の三業地のなかに住んでいて、隔月だったか、毎月だったか、「寄席文化向上会」という会を、大塚鈴本で主催していた。現在の目で見ると、なんとも嫌味な名前の会だけれども、戦争ちゅうだから、しかたがない。
 正岡容については、今さら説明するまでもないだろう。

 都筑道夫の兄は、落語好きが高じてその後、噺家になった。

 たしか昭和十八年ごろだったが、兄は正岡容のところへ出入りしていたので、その口ききで古今亭志ん生の弟子になった。兄を通じて、志ん生の芸談を聞くのが、私の楽しみになった。

 このお兄さん、志ん生門下では、古今亭志ん治を名乗った。

 昭和二十一年には、志ん生が大陸から戻って来ないこともあり、正岡容のすすめで五代目古今亭今輔門下となり、桃源亭花輔を名乗る。その三年後には、鶯春亭梅橋で真打昇進している。
 そうそう、桂歌丸が五代目今輔に入門したのが昭和二十六年なので、当時、一門の真打として梅橋が同門だったということになる。

 私は原稿を書いて生活するようになっていて、なるべく兄の内面には立入らないことにしていたから、くわしい事情はわからない。なにしろ、私はまだ十九、二十、独立して生活をはじめるのに、精一杯だった。けれど、兄が悩んでいることはわかった。その言葉のはしばしから、しだいに私は落語家がきらいになっていった。
 いまでも、私は落語は好きだが、落語家は好きではない。ふたたび、ホールの落語会なぞへ通うようになったのは、兄の鶯春亭梅橋が二十九歳で、若死にしてからである。寄席はすっかり変っていた。志ん生の芸は円熟して、「火焔太鼓」の底ぬけのおかしさ、「今戸の狐」の深い味わい、「黄金餅」の陰惨さが笑いに突きぬけているところ、悟りの境地のような笑いの世界に、私は堪能した。

 小学校で知ったレコードの志ん生から始まる、長い年季の入った志ん生ファンが、都筑道夫ということだ。

 しかし、その志ん生に、異変が起きた。

 その志ん生が倒れ、桂文楽の調子がおかしくなったときには、私はもう落語は聞くまいと思った。志ん生が再起して、ホールの落語会に出たり、独演会をひらくようになると、私はできるかぎり逃さずに出かけていった。
 しかし、人形町の末広で独演会を開いたときには、あまりのいたましさに涙が出た。小泉信三が好きだったという大津絵の「冬の夜」をうたったのだが、私はごく前のほうにすわっていたのに、声がかすれ、言葉はもつれ、まったき、聞きとれない。おまけに最後の演目の「たがや」では、武士の首のかわりに、たがやの首を飛ばしてしまったのである。
 それだけなら、名人も病いには勝てない。そうなってまで、独演会をひらきたがる志ん生に、拍手を送るだけですんだのだが、翌週、ある週刊誌にその独演会の記事がのった。筆者は安藤鶴夫で、まるでなにごともなく、好調な独演会であったかのように、しかも大津絵「冬の夜」をうたったあと、小泉信三をしのんで、志ん生が泣いている姿をえがいて、きわめて感動的な記事にしていたのだ。
 嘘をつきやがれ、と私は思った。あれは、めちゃめちゃな独演会だった。感動的なものがあったとすれば、それに黙ってつきあっていた客たちの、志ん生に対する愛情だけだ。私は落語家と落語評論家が、またあらためて嫌いになって、それからはもっぱらレコードで、志ん生を聞くようになった。

 『たがや』で、武士の首ではなく、たがやの首を飛ばすという筋がないわけではない。元々は、そういう筋だったとも言われる。

 しかし、この「志ん生長屋ばなし」収録のこのネタでも、飛ぶのは武士(殿さま)の首となっているから、わざと志ん生が筋を変えたわけではない。

 都筑道夫と安藤鶴夫が、同じ高座を聴いて、なぜ、こんなことが起ったのか。

 アンツルさんだって、その日の高座や大津絵を高く評価していたとは思えない。
 楽屋での志ん生の姿が、もっとも印象深かったのだろうし、病後の志ん生の高座を批判することを憚る気持ちが、新聞の記事につながったのだろう。

 かたや、小学生の頃からの筋金入りの志ん生ファン都筑道夫としては、「あれは、私の好きな志ん生ではない」という思いが強かったのだろうし、あくまで高座を客観的に見る姿勢が強かったのではないだろうか。

 また、「嘘をつきやがれ」という言葉からは、兄のみならず正岡容と懇意にしていた都筑道夫だから、正岡のライバル(?)アンツル、という強い対抗意識も感じる。

 隅田川花火大会が始まった旧暦5月28日、『たがや』に始まり、同じ志ん生の独演会の時間と空間を共有していた二人のことまで、思いは発展していったのである。

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by kogotokoubei | 2018-07-11 19:54 | 小説家と落語 | Comments(2)

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 池波正太郎のエッセイは好きだ。

 最近になって古書店で入手した『小説の散歩みち』(昭和62年発行、朝日文芸文庫)を、読み終えた。
 この本は、朝日新聞社から出版された二冊の単行本、『新年の二つの別れ』(1977年発行)、『一年の風景』(1982年発行)が底本らしい。
 
 この本に、明日12月12日が祥月命日の八代目桂文楽に関する内容が含まれていた。

 池波正太郎と落語家、ということでは、古今亭志ん朝が「鬼平犯科帳」の木村忠吾役を演じていたことを思い出す。逸話として、池波正太郎が新国劇の脚本を書いていた頃、落語家になったばかりの志ん朝に「若いころの六代目尾上菊五郎」を重ね合わせて、新国劇の将来の後継者に育てたいと本気で考えていた、という話がある。
 しかし、池波のエッセイでは落語や落語家に関する内容を目にしたことがなかった。志ん朝のことではなかったが、落語愛好家として嬉しかった。

 その章には、池波の子供の頃、そして敗戦後に復員してからの、それぞれに印象深い文楽の高座の思い出が記されている。

 「桂文楽のおもい出」から引用。

 戦前の東京の下町に生まれ育ったものは、いずれも早熟で、やたらに、大人のまねをしたがったものだ。
 私なども、十か十一になると、芝居・映画・寄席へは、それこそ、キャラメルを買うようなつもりで出かけたものだし、母も、これを咎めなかった。
 つまりは母も、そうした少女時代を送ってきたからであろう。
 少年のころ、私が住んでいたのは浅草の永住町であった。
 この町名は、いま〔元浅草〕という、吐気をもよおすような町名に木端役人どもが変えてしまった。
 浅草へ歩いて十五分、上野へ十分という便利な町で、そのころは寄席もずいぶんあった。
 私は、いまも残っている上野広小路の〔鈴本〕へ、よく出かけた。
 あれは、小学校五年生のころだったろう。
 鈴本へ入って、高座の、すぐ下へ陣取り、大好きな故・桂文楽の出を待ちかまえる。
 当時の文楽は、まだ四十そこそこであったろうが、私には、この人の落語をきくと、他の落語家が、みんな色褪せてみえたものだ。
 その夜も、文楽が出て来ると、私は夢中で手を叩き、
「よかちょろ演(や)って」
 と注文した。
 すると文楽は、
(おや?)
 というように、私は見下ろして、
「坊や。そんなこといっちゃいけません。そんな、あなた、ませたことをいうと、お母さんに叱られますよ」
 あきれたように、いった。
 申すまでもなく、落語の「よかちょろ」は、商家の若旦那が吉原の花魁に夢中になるはなしである。
 客が、どっと笑う。 
「よかちょろ演って」
 と、また、私が叫ぶ。
 文楽は困惑顔に、客席へ向かって、
「どうも、この坊やにはかないません。いかがいたしましょう?」
 客が、おもしろがって、
「演ってやれ、演ってやれ」
 と、こたえる。
「それでは・・・・・・」
 と、文楽は、ちょっと形をあらためるようにして、私に、
「坊や、耳をふさいでおききなさいよ」
 と、いったのである。
 いまも、そのころの、血気さかんな桂文楽の高座が、私の瞼に浮かんでくる。


 池波正太郎は関東大震災があった大正12年の生まれだから、昭和一桁の頃の思い出だろう。
 
 十歳か十一歳にして「よかちょろ」を文楽にリクエストするなんざぁ、なるほどその後の時代小説の巨匠となる萌芽と言えるなぁ。
 
 このあと池波は文楽のネタの中では「心眼」も好きだ、と書いたあと、復員してからの思い出を綴っている。
 あの太平洋戦争が終って、海軍の基地から復員して間もなく、私は人形町の〔末広〕で、桂文楽の独演会があるときき、飛んで行った。
 焼野原の東京で、空腹を抱えている客が、ぎっしりとつめかけた中で、文楽は精気にあふれ、たっぷりと「明烏」と「心眼」と「王子の幇間」をやった。いずれも戦時中はゆるされなかったであろうものだけに、文楽も張り切っていたにちがいない。
 助(スケ)は柳家三亀松に円鏡。三亀松もまた、水に帰った魚のように、おもうさま色気を出しての快演だったが、文楽が最後に「心眼」をやって、夢さめた按摩の梅喜が、
「あゝ・・・・・・」
 おもわず、ためいきを吐いたとき、突然、驟雨が寄席の屋根を叩いてきた。
 その雨音に文楽が・・・・・・いや梅喜が凝(じっ)と聴き入ってから、
「めくらてえのは、妙なもんだ。眠っているうちだけ、よく見える」
 しんみりと演じ終えたとき、私は梅喜の胸の内のさびしさに、おぼえず泪ぐんでしまった。
 以前にも何度も聞いた「心眼」では、こんなおもいをしたことがない。
 私も、いくらか大人になっていたのだろうか。
 そしてまた、偶然の驟雨が、文楽の名人芸の、ちょうど、うまいところへやって来て、おもわぬ効果をあげたからでもあろう。
 (文楽の高座を、生きて帰ってきて聞けようとはおもわなかった。おれも生きている、文楽も生きていた・・・・・・)
 その感動をかみしめながら、私は焼け残った下町の一角にある小さな部屋へ帰って行ったのだった。

 ( )に括られた心情は、百の言葉で反戦を唱えるよりも、生き残った者として平和の尊さを伝えているように思う。

 戦争中、禁演落語五十三種が本法寺境内のはなし塚に葬られたが、その中には、「明烏」「よかちょろ」「つるつる」なども含まれていた。
 無事復員して文楽の高座を聴くことのできた池波や他のお客さんのみならず、ようやく十八番ネタを演じることのできた文楽も、この独演会への思いは特別だったのではなかろうか。加えて、文楽はご子息を戦争で亡くしている。

 桂文楽は明治25(1982)年生まれなので、‘まだ四十そこそこ’の頃、「よかちょろ演って」という大人びたおねだりを叶えてあげて、正太郎少年が終生忘れられない思い出をつくった。

 そして、戦後の焼け跡の中、文楽は五十代半ばにして、復員してきた池波青年の前で披露した「心眼」の名演によって、生きることの尊さを深く噛みしめさせることとなった。


 落語に限らず、人生のある時点で出会った優れた音楽、映画や芸能は、当時の生活の情景とともに忘れられない思い出となる。
 
 文楽の名人芸とともに池波正太郎の脳裏に深く刻まれた二つの思い出を読んで、正太郎少年と池波青年との間に挟まれた戦争と平和ということにも、思いを馳せる。
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by kogotokoubei | 2014-12-11 19:11 | 小説家と落語 | Comments(2)

夏目漱石と落語

先週7日(土)、私は吉祥寺にいたのだが、漱石ゆかりの土地である新宿では区の主催で『漱石千思万考』というイベントが開催されたようだ。企画メンバーの一人である大友浩さんのブログによると、次のようなプログラムだったらしい。
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○日時:2009年2月7日(土) 14:00開演
○会場:四谷区民ホール
○主催:新宿区
○制作:社団法人日本芸能実演家団体協議会(芸団協)
○番組:
 第一部 創作落語
    「『坊っちゃん』外伝」三遊亭圓窓
 第二部 日本舞踊
     「吾輩は猫である」花柳寿南海
 第三部 大喜利
    五明楼玉の輔・桂平治・三遊亭萬窓・三遊亭丈二・三遊亭遊雀
    司会=三遊亭圓窓
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大友浩さんのブログ_芸の不思議、人の不思議

 『坊ちゃん』が落語になり、『吾輩~』が日本舞踊になったようである。このメンバーでの大喜利も、さぞ楽しかっただろうなぁ。

 夏目漱石は、新暦では今日2月9日の生まれである。慶応3(1867)年旧暦1月5日の生まれ、大正5(1916)年の12月9日没。本名は夏目金之助。
 余談だが、日本の旧暦(正確には天保暦)は明治5年12月2日(新暦で1872年12月31日)まで使われて、その翌日の12月3日をもって明治6年(1873年)1月1日に改暦された。旧暦(太陰太陽暦)については堀井憲一郎さんの『落語の国からのぞいてみれば』(講談社現代新書)に詳しく説明されている。
堀井憲一郎_落語の国からのぞいてみれば
 
 さて、ご紹介したイベントでも物語るように、夏目漱石と落語の関係は深い。特に有名な『三四郎』で登場人物に語らせる名人三代目柳家小さん評は、ずいぶん多くの評論家や落語家に引用されている。
 少し筋書きを説明すると、三四郎が東大に入学し専攻課目以外の授業も含め週に四十時間も大学に通っていても物足らないと言うのを聞いた友人の佐々木与次郎が、「電車に乗って、東京を十五六返乗回しているうちに自ら物足りる様になるさ」と電車に乗せた後、日本橋の料理屋へ連れて行き晩飯を食べ酒を呑んだ後の記述である。

 次に本場の寄席へ連れて行ってやると云って、又細い横町へ這入って、木原店(きはらだな)と云う寄席へ上った。此処で小さんという落語家を聞いた。十時過通りへ出た与次郎は、又「どうだ」と聞いた。三四郎は物足りたとは答えなかった。然し満更物足りない心持もしなかった。すると与次郎は大に小さん論を始めた。小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものじゃない。何時でも聞けると思うから安っぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じうして生きている我々は大変な仕合せである。今から少し前に生まれても小さんは聞けない。少し後れても同様だ。


 夏目漱石の作品自体への落語の影響は、『吾輩は猫である』のほうがはるかに大きい。作品そのものが”落語的”と言ってもいいだろうし、あちこちに優れたパロディが見られる。
たとえば、強盗が入れられた翌朝、苦沙弥夫婦が盗まれた物を確認する会話は、まさに『「花色木綿(出来心)』のパロディである。

「帯までとって行ったのか、にくい奴だ。それじゃ帯から書き付けてやろう。帯はどんな帯だ」
「どんな帯って、そんなに何本もあるもんですか。黒繻子と縮緬の腹合の帯です」
「黒繻子と縮緬の腹合の帯一筋—価はいくら位だ」
「六円位でしょう」
「生意気に高い帯をしめてるな。今度から一円五十銭位のにしておけ」
(中 略)
「それから?」
「山の芋が一箱」
「山の芋まで持って行ったのか。煮て食うつもりか、とろろ汁にするつもりか」
「どうするつもりか知りません。泥棒の所へ行って聞いていらっしゃい」
「いくらするか」
「山の芋のねだんまで知りません」
「そんなら十二円五十銭位にしておこう」
「馬鹿馬鹿しいじゃありませんか、いくら唐津から掘って来たって山の芋が十二円五十銭してたまるもんですか」


 なぜ、漱石の(初期の)小説に落語の香りがこんなに漂うか、ということについては矢野誠一さんの『文人たちの寄席』からヒントが得られる。
矢野誠一著『文人たちの寄席』(文春文庫)

 江戸の草分けと言われる名主の家に生まれた夏目金之助漱石は、子供時代を牛込馬場下で過ごすのだが、まだ十歳にみたぬ頃から日本橋瀬戸物町の伊勢本に講釈をききに出かけたという。娯楽の少なかった時代の名家に育った身にとっては、あたりまえのことだったのかもしれない。正則中学校、二松学舎、成立学舎をへて東京帝国大学英文科と、漱石の学生生活は一方で寄席通いの歴史でもあった。正岡子規との交遊が始まったのは、1889(明治22)年1月からだが、そのきっかけとなったのはふたりで交わした寄席談義だったとされている。


 晩年の作品は落語とは次第に無縁となっていったが(もちろん、それぞれ傑作であるが)、若かりし頃の漱石の作品には、落語ファンにはたまらない魅力がある。それは、寄席が大好きだった少年時代の思い出が大きく影響しているのだろう。
 漱石作品は『こころ』をきっかけに、中学から高校にかけて夢中に貪った懐かしい思い出がある。それは、その小説としての魅力はもちろんだが、敗戦を終戦と誤魔化され、昭和30年代以降の世界しか知らなかった世代にとって、その作品に広がる明治の東京が新鮮に、そして美しく思えたことが大きな理由でもある。団子坂の菊人形などのキーワードが今も思い出される。

 あらためて久しぶりに漱石を読み返してみよう、と思う記念日であった。

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by kogotokoubei | 2009-02-09 15:03 | 小説家と落語 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛