人気ブログランキング |

噺の話

kogotokoub.exblog.jp
ブログトップ
 志ん生の最初の師匠のことを、何冊かの本で探っている中で、ある本の解説を読んで、いろいろ考えさせられた。

e0337777_14340435.jpg

大西信行著『落語無頼語録』

 それは、大西信行さんの『落語無頼語録』の、永井啓夫さんの解説の中の文章。

 なお、この本は、昭和48年に「話の特集」に連載され、昭和49年に芸術生活者から単行本として発行されたものだ。
 ちなみに、この単行本のAmazonのレビュー(一件)は、私が書いたもの。
 なお、昭和51年には、角川文庫で再刊されている。

 永井さんの文章の順番を逆にして、まず、本書と著者について書かれた部分を先に引用する。

 大西信行の『落語無頼語録』は、こうした固陋なはなし家たちに向って正面から堂々と所信をぶっつけた壮挙ともいうべき評論である。大西の<毒舌>には、すでにゆるぎない定説がある。たとえば老練の歌舞伎俳優中村翫右衛門に対して「翫右衛門は名優ではない」と評し、歌舞伎界の誤れる通説に一石を投じたのも大西であった。それまで翫右衛門が登場すれば、必ず繊細で写実的な<名人芸>という賛詞を呈することが劇通や批評の慣習となっていた。だから大西の提言によって驚愕したのは翫右衛門ではなく劇通や批評家だったのである。<名優>という虚名から解放され、ひとりの俳優として批判を浴びせられたことは、翫右衛門にしてみればむしろ役者冥利だったといえよう。
 大西にとって、落語史上<神様>のようにあがめられている三遊亭円朝も名人ではなかったし、「功成り名を遂げた生涯」と新聞が書き立てた桂文楽の死に対しても<自殺説>を主張して哀悼の意を表することとなる。<はなし>とは、しょせん<人>によって語られるものである。だから語り手が「うまいはなし家になりたい」と思ったとき、円生も馬生も談志も、すべて一刀両断に斬られることになる。

 大西さんの鋭い批評家精神は、たしかに、異彩を放っている。

 本書については何度か記事にしているが、たとえば2016年1月に、次のような内容を紹介した。
2016年1月26日のブログ

 三遊亭円朝だけではなしに、そのほかいろいろな分野で、おなじような評価のされ方が、日本ではありがちなのだともいえよう。
 たとえば、あの役者はうまいとだれかがいうと、いつの間にかみんながその役者をうまいというようになり、いったんうまいといわれた役者のやったことだと全部が全部名舞台名演出だと、だれもが疑いをはさむこともなく信じこまれてしまう。そんなバカバカしい現象が、日本という風土には生じやすいもののようだ。
 そのことをひどく不愉快だとも、恥ずかしいことだとも、たまらなくいやだとも、ぼくは思っている。
 あの文楽にだって出来の悪い高座はあった。名優菊五郎も舞台を投げた日があった。
 いや、その日その日の出来のよし悪し以前に、主題の把握の誤りや、役づくりの失敗も、どんな名優名人にもなかっとはいえない筈だ。
 それを正しく判断する目を耳を、みんながみんな失くしてしまっていては困る。
 三遊亭円朝にしても・・・・・・

 連載が始まった昭和48年は、文楽が亡くなってから、まだ二年。
 そんな時期に、このようなことを書く人は、他にいなかったことだろう。

 永井さんは、そんな大西の本を評価する背景を、最初に引用した文章の前段で、当時の落語批評と落語家の実態に照らして、次のように指摘する。
 
 現代落語の質的解明には、江國滋・三田純市・矢野誠一・山本益博らのような見巧者の愛情にみちた指摘も多い。しかし、かんじんのはなし家たちは、落語ばかりでなく伝統芸能の世界ではいずれも共通のことだが<批評>はすべて悪意と曲解によるものとして耳を藉(か)さない。これは現代の伝統芸能が抱えている最大の不幸であろう。

 昭和48年、すでに安藤鶴夫さんは、いない。
 永井さんが挙げた中に、当時ご健在だった榎本滋民さんの名がないのが、残念。

 さて、この本の発行から四十年余りが経過している。

 果たして、落語批評と落語家の関係は、変わったのか、否か・・・・・・。

 少なくとも、永井さんが名を挙げた方を含め、批評を公にする落語の見巧者は、圧倒的に減ったのは間違いがない。

 一方の落語家の方はどうか。

 批評を悪意と曲解によるものと考える落語家は、もしかすると減っているのかもしれない。
 とはいえ、聞く耳を持っているとしても、聞かせる言葉がなければ、コミュニケーションは成り立たない。

 落語批評、とりわけ大西さんのような、媚びることなく、いいものはいい、悪いものは悪い、と明言する人は、今、どれだけいるのだろうかと思うと、暗澹とせざるを得ない。

 芸人を育てるのは客であり、その客の中に、批評家も含まれると思う。

 しかし、職業としての落語批評家、評論家は、成り立ちにくい時代。

 その代わりと言うわけでもないが、ネットの役割は大きくなった。

 よく拝見するブログでも、その視点や批評内容に感心することが度々ある。

 見巧者の方のブログを読んで、自分の聴き方、見方の甘さを反省することも少なくない。

 好みの噺家さんの高座の評価は、どうしても甘くなる。

 大西さんや永井さんの文章をあらためて読んで、いろいろ考えさせられた。

 ネットは匿名性により、長所も短所もある。

 “つぶやき”同様に、「良かった」「面白かった」とか「良くなかった」「面白くなかった」とだけ書かれる高座もあるだろう。

 もし、“批評”として価値がある内容とするには、「何が」「どう」良かったのか、あるいは、悪かったのか、そして、改善するならどうすればいいのか、というヒントも提示できなければならないと思う。

 もちろん、大西さんご指摘のように、噺家さんも人間。
 体調の悪い時だって、あるだろう。
 そんなことも含め、その批評に当事者が読むに耐える内容でなければ、批評とは言えないのではないか。

 落語会、寄席の備忘録として始めたブログだが、出会った高座の感想を書いている以上は、やはり、いい加減なことは書きたくないとも思う。

 “小言”も、聞くに耐えるものでありたい。

 奢った言い方になるのを承知で書くが、拙ブログも、読んでいただいて落語家さんが耳に痛くはあるが参考になるような、身内では表面化しにくい批評となるよう努めなければならないなぁ、と思っている。

# by kogotokoubei | 2019-04-18 12:27 | 落語評論 | Comments(8)
 新橋駅で、旅に出る朝太の見送りに来た円喬は、「フラがあんだよ、フラが」と、円朝門下の兄弟弟子の小円朝に朝太を託す。

 今日の「いだてん」の一場面。
 餞別に、煙草の敷島まで朝太は円喬からもらうのだった。
 あくまで、実在の人物をモチーフにした、フィクションなのです。

 もう、円喬が本当の師匠だったかはどうかについては、書きません^^

 しかし、志ん生は、まぎれもなく昭和の名人だった。
 その志ん生の贔屓は、実業界や政治家、教育者など幅広く、有名な人も多かった。

 吉田茂、池田勇人は、よく知られた志ん生のご贔屓。

 他にも、いろんな方が志ん生という噺家を愛したことを、再確認した本からご紹介。

e0337777_18353586.jpg

古今亭志ん生『びんぼう自慢』(ちくま文庫)
 小島貞二さんの『びんぼう自慢』(ちくま文庫)の「楽屋帳」、いわば少し長めの「あとがき」を読んでいて、意外な人の名を発見した。
 「サンデー毎日」の連載を元に、毎日新聞から最初に『びんぼう自慢』が発行されたのが、東京五輪開催の昭和39年4月。

 この本の発行を記念して志ん生を励ます会を開くことになった。
 その案内状がこれ。

「志ん生さんが、あれ程の大病を克服して、再び高座に元気な姿を見せています。それにまた、このたびは『びんぼう自慢』という結構な本を出しました。
 そこで、これを機に、志ん生を愛する仲間で、心からの励ましとお祝いの会を開きたいと思います。派手なパーティーといったものでなく、落着いた会でしたら、という志ん生さんの気持ちに合った集いを、ゆかりの人形町で開きますから、どうぞお出かけ下さいますよう、ご案内申し上げます。
 日時は五月十七日(日)午後一時から、ところは人形町末広。会費は千円。発起人は小泉信三、鴨下晁湖、安藤鶴夫、桂文楽、高原四郎、小島貞二」

 発起人の顔ぶれが、凄い。

 そして、その会の内容も贅沢だし、客にも高名の人々が並ぶ。

 司会は馬の助、前座が志ん朝(「野ざらし」)、二ツ目が馬生(「たがや」)。そして新内の岡本文弥が、この本にもある「なめくじと志ん生」を演じたあと、三味線豊太郎(次女の喜美子さん)が加わって、志ん朝、馬生が小唄振り。真打に志ん生が上って、晴れ晴れとした表情で、「火焔太鼓」をたっぷりと演じたのである。
 安倍能成、渋沢秀雄、徳川夢声、市川三郎、柳家金語楼・・・・・・など、発起人たちとは別の名だたる人たちの笑顔が、はじめから客席の中にあった。

 な、なんという豪華な会。

 次男志ん朝が前座、長男馬生が二ツ目を務め、トリ志ん生のお祝いの会、最初で最後の組み合わせだったことだろう。

 客席の安倍能成(あべ よししげ)は、哲学者であり、教育者、政治家でもあった人。夏目漱石門下としても有名。貴族院勅選議員、文部大臣、学習院院長などを務めた。

 市川三郎は作家で、ラジオや映画にもなった「チャッカリ夫人とウッカリ夫人」の原作者。

 あら、一万円札になることで今や時の人、渋沢栄一の子息(四男)、渋沢秀雄の名もあるねぇ。今の田園調布の開発に努めた人も、志ん生好きだったんだ。
 渋沢秀雄は、設立間もない田園都市株式会社で、田園調布や洗足田園都市の計画的で大規模な宅地開発を行い、その開発地区のための鉄道敷設・電力供給、多摩川園遊園地の運営も行った。
 開発当初の田園調布は、いわばサラリーマンのための郊外住宅地で、現在のような高級住宅街という存在ではなかった。

 発起人、そして、客席にも名だたる贔屓たちが、当日の人形町末広に集っていたのだ。

 古今亭志ん生という噺家さんの魅力は、幅広く、さまざまな日本人を虜にしたことを、この会のことから、再認識した。

# by kogotokoubei | 2019-04-14 21:09 | 落語好きの人々 | Comments(4)
 またか、という声が聞こえてきそうなのですが、古今亭志ん生の最初の師匠のこと。

e0337777_12300303.jpg

矢野誠一著『志ん生のいる風景』

 本件について書くにあたって、矢野誠一さんの『志ん生のいる風景』を忘れかけていた。
 本棚の奥に、横積みにした数冊の文庫の下の方に、カバー付きで置かれていたので、見逃していた。

 志ん生について語るなら、避けて通れない本だよねぇ。

 初版が昭和58年の青蛙房刊、昭和62年に文春文庫で再刊。私はこの文春文庫を読んでいる。なお、今年、河出文庫でも発行されたが、「いだてん」の影響だろう。

 本書に、「ひとりの師」という章があった。
 
 小島貞二さんの『びんぼう自慢』の中の「円喬師匠のところへ弟子入りして、最初につけてもらった名前が三遊亭朝太」という志ん生自身の言葉があることや、昭和46年の「文藝春秋」掲載の対談でも、志ん生が円喬に最初に入門したと語っていることを紹介した後、このように矢野さんは書いている。

 いずれにしても、落語家古今亭志ん生の最初の師が、四代目橘家円喬であるというのは、当の志ん生没後もしばらくのあいだは定説であった。その定説を否定して、志ん生の最初の師を、二代目三遊亭小円朝であると記したのが、結城昌治『志ん生一代』で、「週刊朝日」連載第一回、まさに発端の章にこう書かれている。

<その志ん生が三遊亭小円朝(二代目)に弟子入りして、朝太の名をもらったのは明治四十三年(1910)、ちょうど二十歳のときである。>

 結城昌治さんが、古今亭志ん生の最初の師匠を、三遊亭小円朝で橘家円喬ではないと推断した最大の根拠は、三遊亭朝太という志ん生に与えられた前座名にある。志ん生自身が、『びんぼう自慢』で、「円喬師匠が若いころやっぱりこの名前をつかっていたそうでありまして」と語っているように、橘家円喬は八歳のとき三遊亭円朝に入門して、三遊亭朝太を名乗っている。しかしこれは、三遊亭円朝の「朝」の字をとった命名で、円喬となってから自分の弟子に「朝」の字のついた名を与えている例がないことなどから推しはかっても、二代目小円朝の弟子で朝太と考えるほうが自然である。橘家円喬が、四十七歳という若さで逝ったのは1912(大正1)十一月二十二日のことなのだが、当時の新聞や雑誌に載った訃報や追悼の記事をさがしてみても、朝太という弟子がいたという記録はない。

 そうそう、結城昌治さんの『志ん生一代』では、疑いもなく二代目小円朝の弟子、としてあった。
 ちなみに、結城さんに志ん生の本を書くよう勧めたのは、立川談志らしい。

 さて、結城昌治さんの本、小説ではあるが、本人聞き書きによらない一代記として志ん生を知る上での必読書だ。
 今年、小学館文庫で再刊されたのは、「いだてん」効果だろう。

 これまでにも、何度かこの本から記事を書いている。
2008年10月13日のブログ
2012年9月1日のブログ
2012年9月22日のブログ
2013年9月21日のブログ
2017年7月21日のブログ

 さて、矢野さんの本に戻る。

 矢野さんは、小島貞二さんの『びんぼう自慢』本文の内容と年表の矛盾を見逃さなかった。

 『志ん生一代』で結城昌治さんが、志ん生の橘家円喬門下説を否定したことは、故人の周辺にはまったくといっていいくらい影響を与えなかった。誰の弟子であろうと、古今亭志ん生は古今亭志ん生なので、その後すぐれた落語家としての名跡は、師匠筋が誤り伝えられたくらいのことでは、びくともするものじゃない。
 波紋は、むしろべつの方面に及んだ。たとえば。1970年(昭和45)に刊行された『志ん生廓ばなし』(立風書房)についている年表で、
 <明治四十年  十七歳
  浅草富士横丁のモーロー俥夫の家に居候しているとき、すすめられてはなし家を志し、運よく“名人”といわれた橘家円喬門下となり、三遊亭朝太の名をもらう。>
 と、している小島貞二は、『志ん生一代』が公にされたあとの、1977年(昭和52)に出た文庫版の『びんぼう自慢』(立風書房)の年表を、

<明治四十一年(1908) 十八歳
 四月二十三日、兄(二男)益没、二十九歳。あとの兄弟はみな夭折して、五男の孝蔵のみのこる。
 円盛のひきで、円盛の師匠初代(正しくは二代目だが芸界では初代)三遊亭小円朝門下に転じ、朝太の名をもらう。「名人四代目円喬の弟子になった」と志ん生本人は語っているが、師匠筋とすると小円朝が正しい。同門に二代目小円朝(初代の実子、当時朝松)、それにのちの講談師田辺南鶴(当時一朝)がいた。>

 と、訂正した上、「楽屋帳(あとがきにかえて)」と題する末尾の文章で、こうのべている。
<年譜を対比しながら、この本を読んだ方は、「生年月日から違ってるではないか」「両親の名前も違うのは、どうしたことだ」などなど、さまざまな疑問を感じられるに違いない。
 実は、私は、そういうことを、随分取材の折り、念を押した。
 放浪時代の入墨のことも、最初の師のイカタチの円盛のことも、そして小円朝のことも、それとなく伺ってみたのだが、その辺のところは触れるのを嫌うように、志ん生師は話題をすぐ別のほうへ動かした。
 (中 略)
 志ん生という人を、本人の談話を忠実に、活字の中に生かすことが、与えられた私の仕事で、何もかもすべてをすっぱ抜き、大上段に人物論を展開するのが目的ではない。本人の語らない・・・・・・無理に語ろうとしない面は、そのままにしておくことが、やはりこうした読物のとるべき態度であろうと、私は今も信じている。>

 この矢野さんの引用を読んで『びんぼう自慢』文庫版の年表を確認した。
 たしかに、「楽屋帳」の「四」に、この通りに記されている。

 小島さんも、苦渋の決断での「聞き書き」であったのだろう。
 矢野さんは、この楽屋帳の内容について、「なんとも歯切れのよくない」印象としている。

 そして、こう書いている。
自分の師を橘家円喬だとする発言が、戦後満州から引きあげてきてからのものと思われるところに興味がわく。

 その後、正岡容が『當代志ん生の味』という文章で、正岡も最初の師匠を小円朝と書いていることを紹介した後で、このように、この問題(?)への考察を締めている。

 戦前の、赤貧洗うがごとき暮しをしていた落語家の時代には、その経歴に注目するひとなどそういなかった。だが、満州から帰国していらい、たちまち時代の寵児のあつかいを受け、東京落語界の指導的地位に立たされてしまった志ん生には、自分の経歴をかざることも必要になってきたのである。三遊亭小円朝よりも橘家円喬のほうが師としてふさわしいというより、橘家円喬でなければならない理由が、志ん生にはあった。

 なるほど・・・なのである。

 結城昌治さんは、小説でありながら実証的な推理を元に最初の師匠を小円朝とし、小島貞二さんは、その本人の言葉を疑いながらも円喬としながら、結城さんの本の出版後、文庫の年表では、正しいと思われる内容を補足した。

 そして、なぜ本人は「円喬の弟子」を強調したのか・・・は、矢野さんの書く通りなのだろう。

 前の記事で、小島貞二さんの『志ん生の忘れもの』に、この問題(?)は、「幻の中」にある、という記述を紹介した。

 小島さんの気持ちも、よく分かる。

 とはいえ、矢野さんの指摘で、「幻」の霧が晴れたのも事実。

 この件、これにてようやくお開き。
 
# by kogotokoubei | 2019-04-11 22:27 | 落語家 | Comments(2)
 先日、古今亭志ん生の最初の師匠は、「いだてん」が描くように四代目橘家圓喬ではないだろう、と書いた。

 あくまで、憧れの師匠が圓喬であり、ご本人が圓喬に入門したとおっしゃっているのは、願望する余りの思い込みではないか、と書いた。

 実は、あの記事で、小島貞二さん聞き書きの『びんぼう自慢』の内容は、あえて引用しなかった。

 なぜなら、あの本では、明確に最初の師匠は円喬と紹介されており、「いだてん」も、たぶんに『びんぼう自慢』を土台にしていると思えたからだ。

 しかし、前回の記事を書いてから、小島さんの本で、見逃せないものがあったことを思い出した。

e0337777_14290589.jpg

小島貞二著『志ん生の忘れもの』(うなぎ書房)

 その本は、『志ん生の忘れもの』(うなぎ書房)。
 平成11(1999)年の発行。
 同じ書店から出ている小島さんの『こんな落語家(はなしか)がいた-戦中・戦後の演芸視-』は、何度か紹介している。

 小島貞二さんと志ん生とのお付き合いは長く、深い。

 その二人の出会いのおかげで、落語愛好家のとって宝物とも言える多くの志ん生に関する作品が残された。

 最初、『サンデー毎日』の連載企画のために小島さんによる志ん生の聞き書きが始まり、その内容から『びんぼう自慢』が生まれた。

 毎日新聞から立風書房に移ってから、その『びんぼう自慢』の再刊に続いて、「志ん生○○○ばなし」シリーズが発行された。

 ちなみに、この本の発行元うなぎ書房は、その立風書房を退社された方が創業した会社。

 「まえがき」から、まずご紹介。

 志ん生さんとのやりとりは、普通のインタビューとは違っていた。
 普通は、一問一答の形で進む。話のキャッチボールで会話が弾むものであるが、志ん生さんの場合は違う。
 一つテーマを示す。「きょうは、子どもの時分のことを・・・・・・」と注文すると、「えー、あたしのガキの時分の、上野、浅草なんてえものは・・・・・・」ともう始まっている。
 あくる日、酒についての注文を出す。「酒えてことになると、あたしは、どうも、ダラシがなくなっていけませんや・・・・・・」、その次は旅、その次はバクチ。「ひとり高座」が十五分も二十分も続く。その日の気分で、いつ、どこから、どっちへつながるのかわからない。
 時には同じ話が二度、三度と返ってくるかと思うと、その同じことのある部分が拡大され、そこから新しい話がまた始まる。無尽蔵の宝庫の中で、しばし迷子になるような気分であった。底の知れない穴蔵に、腕を突っ込んで、埋もれた金塊を探す光景にも似ていた。

 なんとも、贅沢なインタビューだろう。
 
 小島さんというたった一人の客に向かっての、志ん生の高座、とでも言うべきか。

 そんな長時間の聞き書きを、「思い出すままを記した」のが本書、と説明されている。

 本書の「朝太ひとり旅」より引用。

 志ん生さんにきいた、もっともいい話、もっともドラマテックな話を一つ。
 若いころ・・・・・・おそらく朝太の時代であろう。小円朝一座で旅に出た。
 小円朝は当時、三遊派の頭取をつとめた大看板であったが、ちょっと協会にごたごたがあり、責任をとっての旅回りということらしい。前座がひとり足りないからと、朝太がかり出されたのである。
 旅先で、師匠円喬の訃を知り、体中の水分がなくなるほど泣く。旅が一年半ほど続くが、ドサ回りはどこも客が入るとは限らない。ご難が続く。
 そのうちに、「いい加減に、東京に戻っておいでよ」の手紙が来て、小円朝一行は帰京ときまる。朝太も、「お前も、一緒に帰るんだろうね」ときかれる。朝太は考える。
 帰っても師匠(円喬)はいない。このまま小円朝の弟子になる気が向かない。多少芸に自信みたいなものも生まれて来ている。ここでひとり旅をして、いよいよ困ったら東京に戻ればいい。
 友達の窓朝に相談してみると、「ひとり旅も面白いもんだぜ。でも大変だけどもなァ・・・・・・」という。「面白いもんだぜ」と「大変だけどもなァ・・・・・・」を両天秤に掛けて前者を選ぶ。
「それじゃァね、しっかりおやりよ。でもね、身分が前座のままでは通りもわるかろうから、わたしが許すから、これからどこへ行っても、東京の二ツ目ってえことにしたらいいよ」
 と、小円朝から餞別と一緒に、特別に「二ツ目」をもらう。こうして、朝太ひとり旅がはじまる。

 ということで、この文章からは、志ん生が円喬の弟子だったことを、まったく疑う様子が見えない。

 あまりに、志ん生と近づきすぎたことによる、錯覚の共有なのか・・・・・・。

 それとも、小島さんが何度も聞く中で、志ん生ご本人が語る円喬の思い出話から、弟子であったことの信頼性が高いと、判断したのか・・・・・・。

 などと思っていたら、この章のしばらく後に、種明かしのような章があった。

 その名も、「最初の師匠」から引用。

「あたしは、はじめ円盛のとこにいたんですよ」
「えッ、あの、イカタチの円盛の?」
「うん・・・・・・」
 私が飛び上がるほどおどろいたというのは、全くの初耳で、円盛は“奇人”で知られてはいるものの、二流の落語家で、ほとんど無名といってよい。
 志ん生さんは『びんぼう自慢』の中でも、名人といわれた橘家円喬(四代目)の弟子だといっている。最初の名が三遊亭朝太であったこともはっきり語っている。朝太は円喬の最初の名。出世名前である。
 私も、最初の『びんぼう自慢』取材の折、そこのところを二、三度確かめたが、忘れてしまったのか、思い出したくないのか、多くを語ることはなかった。
 志ん生さんのいう「名人円喬の弟子」で、そのときには原稿を統一したいきさつがある。自伝の聞き書きは、誰の場合でもそうであるが、ご本人や記録を大事にしなければならない。
 そこは、いきなり奇人円盛“が、最初の師匠として飛び出した。それもこちらが何も聞かないのに、志ん生さんがポツリと告白のようなひとことだから、驚いて当り前だ。

 このポツリの述懐は、信憑性がありそうだ。

 だから、まずは最初、円盛の弟子、というのは動かせないだろう。

 小島さんは、美濃部孝蔵少年の家出以降を、このように推測している。
 毎日遊んでばかりにはゆかない。さほどの期間ではないが、御徒町の鼻緒屋に奉公したことがある。そのころ芸事に夢中になり、天狗連(アマチュア、セミプロごっちゃの芸自慢)に入り、そういうグループを仕切る三遊亭円盛の内輪になる。そのときの芸名は盛朝。かなり達者で評判もいい。本格的にプロの道に入りたいと願うようになり、円盛に相談すると、
「じゃあ、ウチの師匠に頼んでみよう」
 と、円盛の師匠、小円朝に紹介され、そこに入門する。
 入ってみたが、師匠との折り合いがあまりよくない。寄席できく円喬の名人芸に惚れ込んで、「師匠はこの人だ」とのめり込む。
 あるいは、小円朝の許しを得て、人形町の玄冶店に住む円喬のとろろに通い、身の回りの世話をしながら、稽古を受けたことが、一時期あったのかもしれない。円喬の没は大正元年十一月二十二日、四十八歳だから、志ん生さんが円喬に接したのは、さほど長くはない計算になる。円喬没後改めて小円朝門下に転じたのかもしれない。
 のちの九代目土橋亭里う馬は、その円喬の最晩年の弟子で、初名を喬松といった。
「志ん生さんは、円喬の弟子だったことがあるんですか」
 と生前、里う馬に聞いてみたが、笑ってイエスともノーともいってくれなかった。
 三代目の三遊亭小円朝は、二代目小円朝の実子。志ん生より二つ年下で、十六歳でg父に入門、初名を朝松という。
「志ん生さんは、円喬の弟子だったといってますが、本当は、お父さんの弟子で、師匠とは兄弟弟子でしょう」
 と、きいたことがあるが、これもはっきりと返事をしてもらえなかった。
 功なり名を遂げた“天下の志ん生”に対し、仲間うちで否定的なことは絶対のタブーと、私は理解した。
 志ん生さんのプロとしての最初の師匠は円喬なのか小円朝なのか、幻の中にある。

 この、円喬の弟子だった土橋亭里う馬と、三代目小円朝の小島さんの質問への態度に、事実が隠されているようにも思う。
 なるほど、あの時代の噺家さんは、小島さんの質問に軽々しく答えるようなことはなかった、ということか。

 志ん生が、生涯「円喬の弟子」と言い続けた気持ちも、汲み取ってあげる必要があるのだろう。

 実際に、円喬宅を訪れ、稽古をつけてもらった可能性も、ある。
 師匠の乗った人力車をひいた、というのは、考えにくいのだけどね^^


 さて、あらためて、志ん生の師匠は誰だったか。

 小島さんの言うように、その答えは幻の中にそっと閉じ込めておくのが、よさそうだ。

# by kogotokoubei | 2019-04-08 21:36 | 落語家 | Comments(0)
 Exciteのニュースに、6月1日に落語芸術協会会長に就任する春風亭昇太の“野望”に関する記事があった。

 ちょっと驚く内容。引用する。
Exciteニュースの該当記事

 芸協の会長に就任した昇太が、さっそく手をつけようとしているのが、落語界に存在する4つの派閥の一本化だという。
「関東の落語界には落語芸術協会、落語協会、円楽一門会、立川流の4つの派閥が存在する。一つにまとまればそれだけ発言力も増すのですが、真打昇進に際し、師匠筋に発生する金銭の授受などの問題から、なかなか一本化できないんです。実際に、この派閥の流れは昇太が司会を務める『笑点』にも存在します。メンバーになればチケットの売れ行きが全く違ってきますからね」(落語事情通)

 金の成る木と称される『笑点』メンバーだが、
「昇太が新会長となる芸協系から三遊亭小遊三、落協系から林家木久扇とたい平に三平、一門会系から三遊亭圓楽と好楽がそれぞれ選別されています。なんでも昇太はこの『笑点』のレギュラー枠をうまく利用して、一つにまとめ上げようとしているんです」(同)

 この(落語事情通)なる人、どれほど事情に通じているというのか・・・・・・。

 以前にも書いたが、東京に二つある落語の“協会”とは、芸者の“置屋”のような存在。
2009年11月12日のブログ

 芸協には、客を呼べる芸者が少ない、圓楽一門などの人気者も出して客を呼べ、と末広亭の席亭から叱咤されたのが、七年余り前のこと。
 その事件(?)の紹介を含む記事も書いた。
2012年1月27日のブログ
 その後、この件に関する記事の紹介を含め、私見を書いた。
2012年2月7日のブログ

 当初、私は、芸協は他派の力など借りずにもっと動員力を向上させるよう魅力のある寄席運営をするべきと考えていた。

 その後、芸協は、歌丸前会長と「笑点」における圓楽一門とのパイプを元に、席によっては圓楽一門の日替わり出演を番組に取り込むようになり、また、立川流、そして上方の噺家の日替わり出演も実施し始めた。

 自らの協会員の出番を減らすことにはなるが、たしかに、お客さんを動員させる策になっているようだ。

 しかし、それは、あくまで寄席の番組構成としてのこと。

 落語協会という、自分たちより大きな協会を相手に、二つの協会の統合を昇太が意図しているとは、とても思えない。

 そもそも、人気と実力の面で、まだ、芸協は落語協会に総合力では劣っている。

 「笑点」の落語協会メンバーは、木久翁、たい平と、あの三平であり、とても組織としての落語協会を代表する噺家さん達ではない。

 新作落語のグループとして存在したSWAで、昇太は白鳥、喬太郎や彦いちとのパイプができたが、あくまで個人の活動の延長。

 そもそも、二つの協会を統合する、その目的が分からない。

 昇太が、東京落語界のドンとして君臨したいから・・・ありえないでしょう。

 圓楽一門を芸協に取り込むことはありえると思ってはいたが、結局は六代目圓楽のみ客分として加わっただけ。

 立川流など、談志家元亡き後、組織としての実態は存在しない。

 あくまで寄席運営としてなら、昇太の人脈は生きるだろうが、それは、前会長がつけてくれた道を歩くようなもの。

 四派を統合する、などということは、昇太自身考えてもいないだろうし、もしそんな野望があったとしても、実現するはずはない。


 個人的には、芸協を応援したい。
 個性的な噺家さんもいるし、若手には将来を期待させる元気な人が多い。

 あくまで、芸協を魅力ある芸者(噺家)がたくさんいる置屋にするための、女将としての仕事に昇太は専念すべきだろう。

 その女将が、メディアへのパイプを生かして若手を売り出すことも仕事のうち。
 
 他の置屋と一緒になる必要などはない。

 紹介した記事、実に不思議な<事情通>さんの話である。


# by kogotokoubei | 2019-04-08 12:36 | 落語芸術協会 | Comments(2)
 「いだてん」では、古今亭志ん生が、名人の誉れ高い四代目橘家圓喬の弟子として描かれている。

 しかし、落語愛好家の方はご存知のように、本人はそう言っているが、たぶんに疑わしい。

 今回は、そのあたりについて、少し。

e0337777_11101369.jpg


 『古今東西落語家事典』では、こうなっている。

 出生日には六月五日、六月十日の異説がある。
 三遊亭圓盛(いかたちの)門人の天狗連で盛朝を名乗ったが、明治四十三年ごろ二代目三遊亭小圓朝門下となり朝太と名づけられた。大正五年ごろ三遊亭圓菊で二ツ目に昇進、さらに馬生(のち四代目古今亭志ん生)門に移って金原亭馬太郎、さらに金原亭武生と改名、同十年九月、金原亭馬きんで真打に昇進した。

 圓喬に入門、とは書かれていない。

 しかし、圓喬の名は次のような文脈で登場する。

 晩年売れたのも、崇拝していた四代目橘家圓喬などの本格的な噺を身につけた上で、柳家三語楼の明るい話し口を加えた独特の芸風が迎えられたものである。

 この事典の執筆者の一人の本にもあたってみた。


e0337777_10345507.jpg

保田武宏著『志ん生の昭和』

 保田武宏さんの『志ん生の昭和』(アスキー新書)だ。
 著者の保田さんは志ん生のCDとDVDの全作品691のガイドブックも書いているし、志ん生のことを知るには、保田さんの著作に当るべきだろう。

 もしかすると、事典とは違う沿革が書かれているかもしれないと思ったが、本書でも、このように記されている。

 放蕩生活を続けたあと、明治三十八年に天狗連に加わる。天狗連というのは、素人の落語家の集りで、当時たくさんあった端席の寄席などで高座に上がっていた。その仲間に入って、三遊亭圓盛(堀善太郎)のもとで三遊亭盛朝と名のった。この圓盛という人は、二代目三遊亭小圓朝(芳村忠次郎)門下のプロの落語家で、背が低くて頭が大きく、イカが立って歩いているようだというので「イカタチの圓盛」と呼ばれていた。芸はまずかったが、奇人として有名だった。
 この圓盛の師匠である小圓朝に入門したのが明治四十三年、数え二十一のときだといわれている。三遊亭朝太の名前をつけられ、プロの落語家としてのスタートをきった。
 このように、圓喬の名は、まったく出てこない。

 では、珍しい親子の会話もご紹介。

e0337777_10220852.jpg

『志ん生芸談』(河出文庫)

 『志ん生芸談』は、本人が落語集のために語り下ろした言葉や、雑誌に掲載された対談などが収められている。

 その中に、昭和36(1961)年12月4日号の『週刊文春』の記事がある。
 記者が日暮里の志ん生宅を訪問して書かれたもののようだ。
 
 日付は昭和36年11月19日、倒れるほぼ一ヶ月前になっている。

 真打昇進の一年前で、まだ朝太の志ん朝が、志ん生のネタ帳を見ての親子の会話。

「“和歌三神”か・・・・・・父チャン、これできねえだろう?」
「できるよ。圓喬さんがうまかったネ・・・・・・。“鰍沢”なんてえのは、天下一品だったネ、楽屋で聞いてて、柱に頭ぶつけて、目ェまわしたことあるんんだもんネ・・・・・・」
「その名人の圓喬さんの噺てえのを聞いてみたいもんだネ」
「円喬さんを知ってえるのは、アタシと文楽さんだけだ」
「父チャン、圓喬さんの弟子だたってえけど、掃除なんかしにいったの?」
「そりゃ、もうオメエ、朝早く出かけてくてえと、もうチャンと起きてるからネ、そいでもって、きせる掃除したりなんかしたん・・・・・・」
「じゃあ、ほんとのお弟子さんだったん?・・・・・・なァんて、父チャン疑ぐられちゃってんだ」

 この志ん生の言葉を信じるならば、圓喬の弟子だったことになるが・・・・・・。
 崇拝していた圓喬の弟子だったことにしたい、という願望が、弟子だった、と自分も思い込むほどの錯覚につながったのかもしれない。

 志ん生が圓喬の弟子だったのかどうかは、結構、大きな落語界のミステリーと言えるかもしれない。

 くどかんは、弟子だった、ということで脚本を構成しているが、なかなかに微妙なのである。

 私は、あくまで憧れだったのが圓喬であり、弟子ではなかった、と思っている。

 次回「いだてん」では、小圓朝門下として旅に出る場面が描かれそうだ。

 地方回りでの逸話も多いので、いろんな事件(?)が描かれるだろう。

 松尾スズキの出番は、今後減っていくのは残念だが、小圓朝や他のドサ回り仲間がどう描かれるのかは、楽しみにしたい。

 余談だが、引用した昭和36年11月の出来事の中で、11月17日には、東京落語会で『火焔太鼓』の後、新宿末広亭で『寝床』をかけている。
 71歳だったが、まだまだ元気だったことが分かる。
 翌月12月15日が、巨人の祝勝会だ。

 私は、志ん生が倒れた原因を知ることで、アンチジャイアンツの度合いが増した。

 
# by kogotokoubei | 2019-04-04 12:53 | 落語家 | Comments(0)
 「いだてん」では、古今亭志ん生のさまざまな逸話が、相当脚色されて表現されている。

 たしかに、高座で寝たことはあるが、まさか楽屋に師匠がいる前座時代に、『富久』を演じながら寝た、なんてぇことはない。

 「フィクション」とことわっているので、あまり「それは違う!」などとたてつくのも大人気ないとは思うが、その逸話の典拠(元号か^^)については、正しく知ってもらいたい、という思いがある。

 だから、前の記事で、高座で寝たという逸話について、その目撃者の言葉を紹介した。

e0337777_08372897.jpg

岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)

 その、先代圓歌の証言(?)を紹介したのが、この本。

 志ん生と、りんさんの実にいい写真がカバーとなった本、平成19(2007)年発行の岡本和明の『志ん生、語る。』は、平成6(1994)年から発行が始まった『これが志ん生だ』(三一書房、全十一巻)の月報の中から選んで編まれた本。
 つい、他のページも読んでいて、紹介したくなった内容が、いくつかある。
 今回は、榎本滋民さんの文から。
 お題は、「すぼらぶりのダンディズム」。

 上野の本牧亭は、私がよく通い、舞台劇『孤塁』(唱和三十六年九月初演)のモデルにもした寄席だが、夏の昼下がり、なにかの会の中入りで、寄席の後部から階下の手洗いへ下りると、部屋で一人、将棋盤を前に座っている古今亭志ん生の背中が見える。
 彼の起伏に富む半生の前半を(当時朝太の)志ん朝、後半を故・馬生がドキュメンタリータッチで演じるテレビドラマ(唱和三十五年三月放送)を書いたばかりの時期でもあり、一番好きな寄席で一番好きな咄家を見かけたうれしさに、声をかけようとして、危うくやめた。
 偶然にも、彼の読みふけっていた本が、定跡の棋譜や詰め将棋の出題ではなく、明治二十二年創刊の落語講談速記雑誌『百花園』から、私が黄金時代の名演を選んで編集解説した、全五巻の落語全集の一巻であることが、ちらりと見えた表紙でわかったからである。
 と、そのとき遅くかのとき早く、人気配を背中に感じたらしい彼が、本を閉じざま座布団の下へ隠した。当時すでに定着し、多くの熱烈なファンを酔わせていた、晩期の春風駘蕩たる高座ぶりとはまるでちがう、つばめ返しのように俊敏な動作である。その直後、盤面をのぞきこんで。、将棋の工夫をこらすふりをした彼から、私は忍び足で遠ざかった。
 修行時代に敬仰(けいぎょう)した、四代目橘家園喬をはじめとする先輩たちの所演速記が、彼にとって聖典にひとしいものであるとしても、それに正対している彼の真摯きわまる姿勢は、「無頓着」「八方破れ」「出た床とこ勝負」「変転自在」などと伝えられてきたイメージとはおよそかけ離れたもので、図らずも特級の企業秘密にふれた私が、さすがにほんもののプロだ、掛け値なしの巨匠だと、なおさら志ん生が好きになったのは、おいうまでもない。
 もう一つ、後ろめたい悪事を働いていた場合でもないのに、人の気配にさっと本を隠してとぼける反射神経がうれしかった。とにかく、芸熱心をひけらかす努力型の芸人ほど、野暮で甘い批評家にかわいがられる中で、不断の刻苦勉励全くしていないふりをするシャイネスは、実は裏返しのダンディズムであることが、よくわかったからである。
 このダンディズムは、江戸芸人の心意気であったばかりか、彼の血脈に流れ入っていたという直参侍の士魂(さむらいだましい)でもあったろう。天馬空を往くがごとき縦横無尽の芸境は、ひそかなきびしい鍛錬の積み重ねによって築かれたものにほかならないと、私は確信している。

 榎本さんならではの、得がたい逸話。

 志ん生には、すぼらでいい加減、というイメージが元々あるのに加え、「いだてん」がそれに拍車をかけているように思えてならない。

 とんでもない。

 紹介したような、江戸っ子のダンディズムに溢れた芸人さんである。

 たしかに、終戦直前に、日本にいるより酒が飲めるだろう、などと思って満州に渡ったりする面もある。

 しかし、こと落語に関しては、志ん生はいたって真面目に取り組んでいた。
 とはいえ、そんな自分の姿を曝け出すことには注意し、すぼらな志ん生像を、あえて演じていたように思う。

 「いだてん」では、ずいぶん誤解されるような描かれ方をしている。
 それは、金栗四三のマラソンと、『富久』での幇間久蔵の“いだてん”ぶりを重ね合わせようとする脚本家くどかんの演出の無理がもたらしている面も多い。

 その着眼は悪くないとは思うが、志ん生という稀代の噺家について、誤解が広まるのは、残念だ。

 せめて、拙ブログでは、志ん生の実像について少しでも補足したい、などど偉そうに思っているが、ご容赦のほどを。

 次回「いだてん」では、圓喬の元を離れ、地方回りが始まるようだ。
 元号も、今の世と同じように、明治から大正に変わる。
 いろんな逸話も登場することだろう。
 楽しみでもあり、少し、不安もあるなぁ。

# by kogotokoubei | 2019-04-03 21:21 | 落語の本 | Comments(2)
 一昨日の「いだてん」は、落語愛好家の方には、さまざまな感想を抱きそうな内容だった。

 それは、若き日の志ん生の高座。

 朝太(志ん生)が、師匠橘家圓喬が稽古するのを人力車をひきながら聴いて耳で覚えた『富久』を、その師匠が楽屋で聴いている中で演じ、酒がまわってきて途中で寝てしまうという、なんとも大胆な演出だった。

 前座が、『富久』・・・ありえないなぁ。

 とはいえ、高座で寝たという逸話は、事実。

e0337777_08372897.jpg

岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)

 平成19(2007)年発行の岡本和明の『志ん生、語る。』は、平成6(1994)年から発行が始まった『これが志ん生だ』(三一書房、全十一巻)の月報の中から選んで編まれた本。

 その中に、先代圓歌の貴重な話がある。

 志ん生師匠が高座で寝ちゃったって話、よく他の咄家がしますけど、あれを実際に見ている人間は今じゃ僕くらいしかいないんです。
 今はもうなくなっちゃったけど、新富町に「新富演芸場」ってのがあったんです。ここは楽屋が高座の下にあったんですが、僕は志ん生師匠が好きだったから、志ん生師匠が高座に上がるとぼーっと見ているわけですよ。
 で、その日は楽屋にいる時からうつら、うつらしていましてね、もちろんいつもお酒を呑んでから楽屋へ入りますけど、でも、<あれ?志ん生師匠、珍しくうつら、うつらしてるな>って思ってたんです。すると前座が、
「師匠、出番です」
 で、出囃子が鳴ると芸人根性ですからね、すっと高座へ上ってったんですよ。あの方は、
「昔はってえと・・・・・・」
 と言った瞬間に、もう、自分が江戸時代を出せる人でしたからね。それは、他の人間がどんなことをしたってできやしないし、あそこまで行けないですよ。僕はその突っ込みが好きですし、尊敬もしていましたから、その日も見ていたんです。志ん生師匠は高座に上ると、座ってお辞儀を一回したんです。で、
「昔はってえと・・・・・・」
 と言って噺に入ったんですが、そのうちにおとなしくなっちゃった。<何だろうな?>と思って見ていると、「がー」って鼾が聞こえてくるんですよ。そしたら前にいたお客の、
「寝てるよ・・・・・・寝てるよ」
 って声がこっちにも聞こえてくるんですよ、小っちゃな声だけど。で、前座がすーっと出てきたんです。すると前にいたお客が、
「おい、いいよ、いいよ。寝かせといてやれよ」
 って小さな声で言ったんですが、まさか寝かせとくわけにもいかないんで、その時、楽屋にいた小圓朝師匠だったかな、誰かが、
「いいよ、俺が上るから」
 ってんで、出囃子が鳴ったとたん、志ん生師匠はすーっと目を覚ましたんです。僕が高座で話す時はここまでで終わりにしちゃうんですけど、実際には演りました。
「俺、寝ちゃって・・・・・・」
 みたいなことを言ってから、噺に入っていきましたよ。その時、もうお亡くなりになった“へたり”(前座のまんまでいる咄家のこと)で「圓福」って人がいたんですがね、その時は五十か六十だったと思いますが、そのお父っつぁんが言ってましたよ、
「疲れてんだねえ・・・・・・」
 って。その後、志ん生師匠が寝たって話は聞かなかったから、たぶん、その一回だけだと思うんですよね、志ん生師匠が高座で寝たのは。よくいろんな人間が、
「志ん生師匠が高座で寝たのを見た」
 なんて言ってるけど、そんなこと言ってたら志ん生師匠は一年中高座で寝てなくちゃなんない。

 そうなんだ、寝っぱなしじゃなかったんだ・・・・・・。

 ちなみに、起きてから演じたネタは、何だったのだろう。

 もはや、それを確認することのできる人は、一人もいない。

 圓歌さん、どこかで書いたり話してくれていたのだろうか。

 その名跡も、代が替わる。

 元号も変わる五月には、新たな圓歌に会いに行きたいと思っている。

# by kogotokoubei | 2019-04-02 08:45 | 落語家 | Comments(4)

新元号にちなんで。

 ちょっと、元号で遊んでみました。

   新しい元号の二字を明示(明治)して、出典対象(大正)も明らかにし、
   皆で「令和」と唱和(昭和)するなり。失われつつある、平静(平成)の世。



 おそまつ・・・・・・。
# by kogotokoubei | 2019-04-01 21:30 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)

 先月の記事別アクセスランキングは、次の通りだった。

1.落語協会、来春の四代目圓歌襲名と、来秋の真打昇進について。(2018年11月14日)
2.落語芸術協会、今後の課題。(2019年3月22日)
3.『抜け雀』のサゲ-『米朝らくごの舞台裏』『落語鑑賞201』などより。(2015年5月15日)
4.松鶴に土下座させた、笑福亭小松という落語家のこと。(2014年8月4日)
5.今から140年前、なぜ明治政府は改暦を急いだのか。(2013年1月14日)
6.新宿末広亭 三月下席 夜の部 3月24日(2019年3月25日)
7.円楽の落語芸術協会加入について。(2017年6月26日)
8.新宿末広亭 三月下席 昼の部 3月24日(2019年3月25日)
9.落語を楽しむための「マナー」について。(2016年6月21日)
10.柳家喬太郎プロデュース “とみん特選寄席” 夜の部 紀伊國屋ホール 2月26日(2019年2月27日)

 1位は、落語協会関連で、鈴本に続き今日から末広亭で始まる四代目圓歌の襲名披露と、今秋の真打昇進披露の記事。
 2位は、芸協に関する記事で、新会長のニュースを機に書いた記事。
 3位は、このところ安定してアクセスの多い2015年の『抜け雀』についての記事。
 4位に、こちらも安定的なアクセスのある、2014年8月に書いた笑福亭一門のこと。
 5位、これまた古い、改暦について書いた2013年の記事。
 3月24日の、末広亭居続けの夜と昼の記事が、6位、8位に入った。
 7位は、一昨年書いた当代円楽の芸協加入(客分として)の件。
 9位には、このところアクセスの多い、落語を聴くマナーのこと。
 10位に、2月の「とみん特選寄席」の記事が入った。


 落語協会、落語芸術協会がらみの記事に、先月はアクセスが多かったのは、昇太新会長内定報道の影響だろう。
 「えっ、落語の協会って、一つじゃないんだ?」なんて人も、検索しているように思う。

 数少ない生の落語の記事が三つランキング入りは、嬉しい。

 その中の「とみん特選寄席」において、正楽師匠の紙切りで起きた出来事について、最近、Iさんから「東京かわら版」に長井好弘さんが書いた記事があると、スキャンデータ添付でお教えいただいた。

 恩田えり嬢と太鼓(たぶん小辰)の機転で、「ボヘミアンラプソディ」のリクエストに答え169.pngWe Will Rock Youが流れ、自然発生的に客席から手拍子が湧いたことについて、書かれている。
 この記事には興味深い裏話もあって、正楽師匠が、「フレディ・マーキュリー」というお題を最初にいただいたのは、1991年、彼が亡くなった年のケープタウンだったとのこと。
 「初めて切る」なんて言いながら^^
 実に結構なBGMに乗って、見事なフレディーとブライアンでござんした。

 さて、何かと野暮用の多い四月になった。

 新元号は、「令和」、ですか・・・・・・。

 昭和は、ますます遠くなるなぁ。

# by kogotokoubei | 2019-04-01 12:27 | アクセスランキング | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛