噺の話

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 俳人の金子兜太さんが、亡くなった。

 戦時中のことを含め、さまざまなメディアでお人柄、業績などが紹介されているので、私ごときがくどくど書く必要はないだろう。

 もうじき、旧暦小正月なので、この句をご紹介するにとどめたい。


左義長や 武器という武器 焼いてしまえ

 本当に、その通り。

 偉大な俳人にして、反戦の旗頭だった金子兜太さんのご冥福を、心よりお祈りいたします。

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# by kogotokoubei | 2018-02-21 20:31 | 幸兵衛の独り言 | Comments(1)
 長い歴史を誇る八起(やおき)寄席に、ようやく行くことができた。
 相模大野駅近くの焼肉屋さん八起で開催される会。
 電車で隣り駅という近所でありながら、これまで縁がなかったのだ。
 偶数月第三月曜日開催で、奇数月には、近くのグリーンホールで開催されている。

 同会のホームページに、その沿革などが説明されている。
「八起寄席」のホームページ

 焼肉屋さんが、若い落語家が芸を披露できる場が少ないと聞いて、昭和61年に始めたとのこと。三十年を超える歴史がある。

 落語協会、落語芸術協会、立川流、円楽一門の四派からそれぞれ幹事が任命されていて、所属を超えた人選で開催されてきた会。

 旧幹事には柳家喜多八、瀧川鯉昇の名が並んでいた。

 今は、立川談修、瀧川鯉橋、三遊亭兼好、古今亭文菊が幹事となっている。
 幹事役の誰かと若手が出演、というスタイルのようだ。

 今回は鯉橋が幹事で、若手が三遊亭歌太郎。

 電話したところ、席はたぶん大丈夫だろうが、できれば開演三十分前の六時半までに来て欲しい、とのこと。たぶん、女将さんだったと思う。

 ご指導通り、六時二十分頃に着いた。
 正面の入り口を開けると、暖簾があって、その向うが厨房っぽい。要するに、勝手口だったのだ。
 「すいません」と声をかけると、暖簾をはねのけて、私服の歌太郎が出て来た。
 歌太郎が「お客さんですが、入ってもらっていいんですか」と女将さんに声をかけると「ダメダメ、お客さんはお店の玄関から」とのこと。
 歌太郎から、「私も間違えたんですよ」と言われいったん出てみると、なるほど、少し横に客の入り口があった。
 あらためて靴を脱いでポリ袋に入れて中へ。木戸銭千円を、以前は海苔の入れ物だったようなガラス瓶に入れる。先のお客さんは三人。
 最終的に、焼き肉店の中に、約二十人、空席(空きスペース)は二席ほどだったかなぁ。高座のすぐ前のテーブルの席に落ち着く。掘り炬燵風の客席なので、脚が楽だ。

 なんと、開演前なら限定メニューで飲食可能とのことで、お酒一合と、唯一の肴のもやしを注文できた。熱燗で体を温めているうちに、常連と思しき方々が三々五々お越しだった。

 壁には、談志と女将さんが一緒に写っている写真や、その談志の出演したグリーンホールでの会の写真などが貼ってある。
 焼肉屋さんだからであろう、天井は全体が煤けていて、後で歌太郎がマクラで言っていたが、“時代”がついている。

 そんなお店の様子を眺めながら、癖になりそうな美味いもやしで一杯やるうちに、開演時間。

 厨房と客席を仕切る暖簾をくぐって、厨房の方から客席に座っているお客さんの後ろの狭いスペースを体を斜めにして演者が高座に上がる。

 私の席と高座との距離は、二メートルほどか。砂かぶりではなく、唾かぶり席^^

 こんな構成だった。

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開口一番 三遊亭あんぱん 『初天神』
三遊亭歌太郎 『やかん』
瀧川鯉橋   『蒟蒻問答』
(仲入り)
三遊亭歌太郎 『電報違い』
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それぞれ、感想など。

三遊亭あんぱん『初天神』 (12分 *19:02~)
 笑遊の二番弟子の前座さんは、初めて聴く。
 ご通家ばかり二十人の目の前のお客さんを前にした前座さんだから、致し方ないだろうが、なんとも緊張しっぱなしで、可哀相になった。しかし、こういう場で冷汗をかくことが、今後につながるはずだ。頑張って欲しい。

三遊亭歌太郎『やかん』 (21分)
 私服とは、当たり前だが、噺家の姿になって登場すると印象が変わるねぇ。すぐお隣のお客さんが「おめでとう」と声をかけた。きっとNHKの大賞のことだろう。この声に歌太郎は二席目でふれて、マクラでしっかり逸話をご披露。
 やはり、初出演らしい。歌太郎の名の由来などのマクラで客席を温める。久し振りだが、体も噺も大きくなった印象。歌太郎として四代目とのこと。歌ぶとの頃から聴いているが、師匠は、その前座名を漢字にする案を推したらしい。しかし、それが酒の席で、つい「嫌です」と断り、「歌太郎」の名を希望したとのこと。10分弱のマクラからこの噺へ。魚の根問いなどから川中島の合戦となったが、なかなか見事な講釈。終始持ち味の明るさで通した好高座。私より前にいらっしゃったお客さんは、実際に唾かぶりだったのではなかろうか。

瀧川鯉橋『蒟蒻問答』 (23分)
 幹事としての出演。鯉昇の四番弟子だったが、その後六年半、下の弟子ができず諦めていたらその後たくさん入門して、今や十五人とのこと。師匠から聞いた大師匠の八代目小柳枝のことや、師匠二番目の師匠である柳昇と四代目柳好との逸話など、こういう席でなければ聴けないマクラが楽しかった。
 八代目小柳枝は、寺に借金のため五万円で売られた、という話から本編へ。師匠のこのネタも何度か聴いているが、この人の高座もなかなかに結構。あまり使いたくないが、この人の“本寸法”の高座、好感が持てる。

 終わって仲入りになったが、近くのお客さん同士が、師匠は、座間で『餃子問答』を演じたとお話しされていた。なるほど、鯉昇ならありそうだ。最近座間に行けてないからなぁ。

三遊亭歌太郎『電報違い』 (33分 *~20:50)
 10分ほどの仲入りの後、再登場。
 一席目の客席からの「おめでとう」は、たぶんNHKのことかと思います、とその時の大変だった旅の話を披露。台風のため新幹線が豊橋で止まり、結果、11時間かかって大阪に着いたとのこと。
 この件は、大賞受賞のニュースでも紹介されていた。
スポニチの該当記事
 高座から落語家の審査員同士がヒソヒソ話をしていて「あれ、何か間違えたか?」と不安になったことや、実は賞金があって、その金額が・・・といった話など、約13分のマクラの後、ネタ帳を見てこれまで演じられていない噺を、と本編へ。とはいえ、前日の落語会でもかけていて、その会にいらっしゃったお客さんの顔があったようで、「初めて聴くつもりで、お願いします」とことわっていた。
 なるほど、この噺なら初めてだろう。
 初代三遊亭円歌の作品で、大師匠の三代目円歌も持ちネタにしていた作品。
 石町の生薬屋の旦那と出入りの植木屋の信太(しんた)が旅に出て、名古屋で心中しようとする若い男女に遭遇して、その二人を助けたことから、帰宅する予定が遅れることになった。旦那が信太に「明日帰れんから、そう電報を打ってくれ」と頼む。
 信太が郵便局に行き『アスアサケエレン』の電報を頼むのだが、担当の職員に、旅の途中の横浜、静岡の遊郭で女にもてすぎて弱った、などと長々話し続ける場面が、聴かせどころだ。
 この場面、『粗忽の釘』で、八五郎がお隣に行って女房との馴れ初めをくどくど聞かせたり、『小言幸兵衛』で、仕立屋を前に、幸兵衛が妄想話を聞かせるのに、似た要素を持った話ともいえる。『うどん屋』の酔っ払いと、うどん屋の会話にも似てなくはない。
 さんざん、どうでもいい話を聞かされた郵便局の職員。
 「分かりました。では電文は『アスアサケエレン』ですね。で、誰のお名前で」
 「ダンナだよ」
 「そのダンナお名前は?」
 「昔から旦那で通っているので、名前は知らねぇ。そうだ、その下に
  俺の名前のシンタと入れておいてくれ」
 ということで、どういう電文になるかは、お察しの通り。
 生では初めて聴くことができた。こういう噺を継承してくれるのは、私は実に嬉しい。
 マクラを含め、今年の新人賞候補として色を付けておく。


 終演後、馴染みのお客さんを八起の女将さんが暖かく見送る。
 手作りの落語会、とは、まさにこういう会のことを言うのだろう。
 来月の第三月曜は談修が幹事でグリーンホールで開催。
 四月は文菊の幹事でお店での開催である。

 また、縁があれば、ぜひ来たいと思う。
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# by kogotokoubei | 2018-02-20 21:46 | 寄席・落語会 | Comments(2)
 東京新聞のコラム「筆洗」の筆者は、たびたび落語を素材に楽しい記事を提供してくれるが、本日の内容も、なかなかの出来栄え。
 同新聞サイトより引用する。
東京新聞サイトの該当コラム

願いごとがあって、願をかけて三年間酒を断つことにした。しかし、やっぱりつらい。それで、その期間を六年間に延ばして、夜だけは飲んでもかまわないことにした。古い小噺(こばなし)である▼続きがある。夜だけにしてみたが、やっぱりつらい。そこで断酒の期間を十二年間にしてもらって毎日、朝晩飲んでいる-。まことに勝手な禁酒の方法で、これならば、何年でも続けることができる▼これとよく似た話を最近聞いたが、笑い話ではなく、どうやら真剣な話らしい。政府がカジノ解禁に関連して自民、公明両党に示したギャンブル依存症対策である。日本人客と日本に住む外国人については、カジノへの入場回数を週三回、月単位では十回程度に制限することを提案している▼カジノ通いも週三回ならば、依存症になる心配はないとでも言うおつもりか。このあたり夜だけ飲んでの「禁酒」と同じで、カジノを導入したい政府の示した甘い規制案では依存症対策になるまい

 後半はサイトでご確認のほどを。

 なかなか、適切な比喩として落語の小咄を使っていると思う。

 ギャンブル依存症については、かつてスポーツ選手のギャンブルに関わる問題で書いたことがある。
2016年4月12日のブログ

 その記事の中で、精神科医で作家でもある帚木蓬生さんが雑誌「週刊ポスト」に書いた内容を紹介したが、再度、引用したい。
NEWSポスト・セブンの該当記事
 ギャンブル依存は本人の性格でも自己責任でもなく、「脳内の報酬系神経伝達物質ドパミンが異常分泌する精神疾患であり、病気。ピクルスが胡瓜、たくわんが大根には戻れないように、本人の意志ではどうにもなりません」と、作家で精神科医の帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)氏は言う。

 その実態を広く訴えたのが、『ギャンブル依存とたたかう』(2004年)や『やめられない』(2010年)だとすれば、本書『ギャンブル依存国家・日本』の主語は国や社会。つまり日本では患者以前に社会そのものがギャンブルなしでは生きられない、またはそう思い込む、依存体質に陥っているというのだ。
 “社会そのものがギャンブルなしては生きられない”という依存体質に陥っていないか、という問題提起は、実に重要だ。

 二年前の記事では引用しなかった部分を紹介したい。

「何しろパチンコ、スロットの管轄は各都道府県の警察と公安委員会で、全日本遊技事業協同組合や日本遊技機工業組合等々も含めて、彼らの大事な天下り先というのが日本の現状です!」
 また競馬は農水省、競艇は国交省、競輪は経産省の管轄にあり、中には赤字に陥った公営競技場を閉鎖する予算が確保できないことを理由に放置、各自治体の財政をかえって圧迫している例も多い。そうまでしてギャンブルをやめたくない日本では、東京オリンピックを睨んで新たなスポーツ振興くじの導入も検討され、〈これが文科省の仕事か〉と、帚木氏は筆を荒らげる。

「そんな発想を役人がすること自体、日本が依存体質から抜け出せない証。もはや〈人権侵害〉という視点を我々は持った方がいい」

 ギャンブル依存症の対策をするどころか、国そのものが、どっぷりとギャンブル依存体質にはまっている、ということが問題である。

 従来、野球やバドミントン、そして、相撲などの世界でギャンブルによる問題が起こると、ほとんどのメディアは、本人の責任やら所属する組織の管理不行き届きなどを中心に論じていて、ギャンブル依存症という視点がほぼ欠落していた。

 当事者の問題はあるし、組織の管理面の問題は、もちろん存在する。

 しかし、病気という認識の元に、病根をいかに絶つかという論議にまで発展させることが必要だと思う。

 そういう意味で、小咄を巧みに盛り込んだ味のあるコラムだった。

 もし、ギャンブル依存症という病気であるという視点を持たないならば、紹介した小噺に似たような、本質を離れた、笑い話のような処方しか思い浮かばないことになろう。

 それは、ギャンブル依存体質の役人や政治家による妄想であり、欺瞞でしかない。
 帚木蓬生さんが指摘する「人権侵害」という視点を持った議論が求められる。

 引用された小咄は、笑ってばかりはいられない、人間の弱さの本質に迫る。
 アハハ、と笑ってしまった後、『壺算』のように、その内容がなぜおかしいのか、つい考えさせる上質なアイロニーを含んでいる。

 落語の持つ魅力は、こういうところにもある、と思う。

 落語好きと思しきコラムニストによる今日の「筆洗」、大いに共鳴できた。

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# by kogotokoubei | 2018-02-19 21:54 | メディアでの落語 | Comments(0)
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矢野誠一_落語歳時記
 今日二月十八日は、旧暦の正月三日。

 旬の噺、『蔵前駕籠』のことを矢野誠一さんの『落語歳時記』で読んでいて、関連した逸話に目が止まった。

 幕末のある正月の出来事、という噺。
 まず、この本の冒頭部分を、ご紹介。

 三日 無精ひげさまになりたる三日かな

蔵前駕籠(くらまえかご)

    慶応四年という年は、不思議な年で、正月の三日から鳥羽と伏見の
    戦いが始まりました。
      *
 物情騒然という言葉があるが、三百年の歴史を誇った徳川幕府が、いまや瓦解しようという時期の江戸市中などまさにそれであろう。とくに慶応四年(明治元年)の正月は、お屠蘇気分も抜けない三日に、「鳥羽伏見の戦い」が始まったのだから、これはたいへんなことであった。林家正蔵(彦六)の十八番として知られ、古今亭志ん生の飄逸味がなつかしい『蔵前駕籠』は、小品ながら優れた落語感覚の横溢した、洒落たはなしだが、この騒然たる江戸が背景になっている。

 この後、あらすじが説明されている。

 ご存知のように、当時、吉原通いの駕籠を蔵前通りで止めて追剥を働く者がいた。
 由緒あって徳川家へお味方する浪士と名乗り、軍用金が不足しているから、という理屈で駕籠の客の身ぐるみ脱がす、という事件が勃発した。
 駕籠屋も、だから吉原方面には夕方以降は駕籠を出さない。
 しかし、世の中には「女郎買いの決死隊」がいて、無理を言って吉原まで乗ったのだが・・・という筋書き。

 矢野さんの本では、この章の後半、ある小説家の逸話が紹介されていた。

 江藤淳による『漱石とその時代』(新潮社)の冒頭は、夏目漱石が生まれた慶応三年(1867)年の、ということは、『蔵前駕籠』の背景になっている時代の、江戸のありさまがかなり克明に書かれていて興味ぶかい。面白いことに、漱石の生家に、この頃流行りの強盗がおしいっていて、江藤淳はこう書いている。
  「牛込馬場下の夏目小兵衛の家に、軍用金調達と称する抜身をひっ下げた黒装束の八人
  組が押し入って、五十両あまりの小判を強奪して行ったのはこの頃のことである。幕府
  は旗本に命じて諸隊を編成させ、市中の巡回にあたらせたがあまり効果がなかった。警
  察力に期待できないことを知った夏目家では、それ以来柱を切り組にしてその中に有り
  金を隠すことにした」
 まったく駕籠屋と同じ被害にあっているわけで、黒装束の八人組などというのも『蔵前駕籠』をほうふつさせる。
 のちには、正岡子規と連れだって、さかんに寄席通いをするようになり、その作品に、落語からの影響が少なからず認められる漱石だけに、『蔵前駕籠』に接していないはずはなく、自分の生まれた年に生家で起こった事件と落語とのつながりにどんなものが去来したか、文豪の胸のうち、興味ぶかくもある。

 へぇ、蔵前駕籠に登場するような物騒な連中が、なんと漱石の生家を襲っていたんだねぇ。

 矢野誠一さんが『落語讀本』で明かしていることだが、実は、漱石自身が作品に、この強盗騒ぎのことを書いている。
 青空文庫の『硝子戸の中』から、引用する。
青空文庫「硝子戸の中」(夏目漱石著)
ついこの間昔私の家へ泥棒の入った時の話を比較的詳く聞いた。
 姉がまだ二人とも嫁かたづかずにいた時分の事だというから、年代にすると、多分私の生れる前後に当るのだろう、何しろ勤王とか佐幕とかいう荒々しい言葉の流行たやかましい頃なのである。
 ある夜一番目の姉が、夜中に小用に起きた後、手を洗うために、潜戸を開けると、狭い中庭の隅に、壁を圧るような勢いで立っている梅の古木の根方が、かっと明るく見えた。姉は思慮をめぐらす暇もないうちに、すぐ潜戸を締めてしまったが、締めたあとで、今目前に見た不思議な明るさをそこに立ちながら考えたのである。
 私の幼心に映ったこの姉の顔は、いまだに思い起そうとすれば、いつでも眼の前に浮ぶくらい鮮やかである。しかしその幻像はすでに嫁に行って歯を染めたあとの姿であるから、その時縁側に立って考えていた娘盛りの彼女を、今胸のうちに描き出す事はちょっと困難である。
 広い額、浅黒い皮膚、小さいけれども明確はっきりした輪廓を具えている鼻、人並より大きい二重瞼の眼、それから御沢という優しい名、――私はただこれらを綜合して、その場合における姉の姿を想像するだけである。
 しばらく立ったまま考えていた彼女の頭に、この時もしかすると火事じゃないかという懸念が起った。それで彼女は思い切ってまた切戸を開けて外を覗こうとする途端に、一本の光る抜身が、闇の中から、四角に切った潜戸の中へすうと出た。姉は驚いて身を後へ退いた。その隙に、覆面をした、龕灯提灯を提さげた男が、抜刀のまま、小さい潜戸から大勢家の中へ入って来たのだそうである。泥棒の人数はたしか八人とか聞いた。
 彼らは、他を殺めるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、その代り軍用金を借かせと云って、父に迫った。父はないと断った。しかし泥棒はなかなか承知しなかった。今角の小倉屋という酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動かなかった。父は不精無性に、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。彼らは金額があまり少な過ぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい」と忠告した。その紙入の中には五十両ばかりあったとかいう話である。
 泥棒が出て行ったあとで、「余計な事をいう女だ」と云って、父は母を叱りつけたそうである。その事があって以来、私の家では柱を切り組くみにして、その中へあり金を隠す方法を講じたが、隠すほどの財産もできず、また黒装束を着けた泥棒も、それぎり来ないので、私の生長する時分には、どれが切組にしてある柱かまるで分らなくなっていた。
 泥棒が出て行く時、「この家は大変締まりの好い宅だ」と云って賞めたそうだが、その締りの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日から擦傷がいくつとなくできた。これは金はありませんと断わるたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと云っては、抜身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしても宅にはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情を張り通して、とうとう金は一文も奪られずにしまった。
 私はこの話を妻から聞いた。妻はまたそれを私の兄から茶受話ちゃうけばなしに聞いたのである。

 江藤淳も、この作品から知ったことだったのだろう、きっと。

 漱石の父と母のやりとりは、結構、可笑しい。

 また、小倉屋の半兵衛さんが、なんとも可愛そうだ。

 その時のご当人たちは、文字通り必死だったとは思うが、こういう後日談になると、つい笑ってしまう。

 それにしても、漱石は、この話、直接親兄弟から聞いたのではなかったんだ。

 ほぼ漱石が生まれた頃の夏目家の一大事件だったはず。
 普通の家なら、親子、兄弟姉妹で、「徳川様の終わる頃、おまえが生まれる前に、大変なことがあったんだよ」などと聞いていても不思議のないことなのだが。

 実は、夏目金之助(漱石の本名)は、波乱の幼少期を送っている。

 生後すぐに里子に出されたり、八歳で養子に出されたりしていたからね。
 実父と養父の中が悪く、夏目家に復籍したのは、二十一歳の時だ。

 だから、大好きな落語の『蔵前駕籠』のような強盗が生家に押し入ったということを、長らく肉親から聞くことはなく、妻から兄の話として伝達されたということなのだろう。

 『蔵前駕籠』のことを矢野さんの本で読んで夏目家の事件を知り、そこから漱石の書まで辿って行った結果、夏目金之助の幼少期の寂しさに思いがいたることになった。

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# by kogotokoubei | 2018-02-18 17:11 | 落語のネタ | Comments(0)
 先日、三遊亭兼好の『品川心中』の通しを聴いて、その舞台である品川のことやサゲのことなど、いろいろと思うことがあった。

 まず、兼好がマクラでふった「品川の客 ニンベンありとなし」の川柳のこと。

 この“あり”は「侍」、“なし”は、「寺」。

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 日本近代史研究家、西山松之助の対談集『江戸っ子と江戸文化』(小学館創造選書)は、昭和57(1982)年に発行された本。
 以前、下町とはどこなのか、ということについて、引用したことがある。
2015年6月23日の該当ブログ
 紹介したのは、「第一章 江戸っ子のくらし」、池田弥三郎さんとの対談だった。

 江戸時代史専攻の竹内誠との対談の章「廓の悪所と出会い茶屋」に、品川のことで、次のように紹介されている。

竹内 いわゆる四宿といわれる内藤新宿・板橋・品川・千住などには、江戸からだけではなく、周辺の農村からも遊びにくる連中がいたようですよ。四宿は、ちょうど農村との接点になりますからね。
西山 それはいたでしょうね。品川の場合などは「品川の儲け七分は芝の金」といわれたように、増上寺からあのあたりにかけて寺がいっぱいありましたし、また増上寺のお坊さんの数はいまと違って莫大なものでしたからね。坊さんはいちおう品行方正を建前としてはいますけれど、じっさいは、むかしから坊さんはなまぐさいものと決まっている。だから、彼らはよく品川へ出かけていったようですよ。
竹内 品川にはもう一つ薩摩の藩邸がありますね。
西山 それと 鍋島があります。で、薩摩の紋が丸に十の字で泡盛が有名でしょう。鍋島は抱茗荷なんですが、川柳に「泡盛も茗荷もわっちは好きんせん」というようなのがある(笑)。これはやはり、九州からきた荒武者どもがしょっちゅう品川へいっていた証拠でしょうね。
竹内 いわゆる「浅黄裏」といわれたヤボな田舎武士、そういう人たちが常連だたんでしょうね。

 なるほど、「品川の客 ニンベンありとなし」なわけだ。
 薩摩の浅黄色、で思い出すのは、『棒鱈』。
 あの噺の中で、芸者が薩摩の田舎武士に、「最近、お見限りじゃないですか、品川の方でお遊びと聞いておりますよ」などと言うが、彼らにとって品川は、ホームグラウンドということだね。

 さて、先日の兼好の“通し”の「下」は、通常とは違っていた。
 お染に突き落とされた品川の海で死装束をずぶ濡れにさせ、犬に吠えられながらも親分の家にたどり着いた金蔵。博打の最中での突然の訪問者に慌てる例のドタバタ騒ぎ。親分は金蔵の話を聞き、一同は金蔵がお染に復習するのを手伝うのだが、彼らは金蔵を早桶に乗せて白木屋に連れて行く、という設定。
 この場面で、私は『幕末太陽傳』で金蔵に扮した小沢昭一さんの映像を思い浮かべていた。

 小沢さん扮するアバタの金蔵、“アバ金”のあの姿である^^

 『幕末太陽傳』については、ずいぶん前だが書いている。
 落語を素材にした、川島雄三監督の大傑作。
2012年1月9日のブログ
 
 兼好の「下」は、本人の工夫なのかどうか知らないが、『幕末太陽傳』に影響を受けたのではないか、と思った。

 そして、その改作も悪くないと感じた。

 ただ、サゲにはもう一工夫欲しいように思う。
 この噺や、『居残り佐平次』のサゲは、今では通じにくいので、噺家がいろいろと工夫している。
 兼好のサゲは明かさないが、あの筋書きなら、こんなサゲもあると思う。

親分 金蔵、お染が出てこねぇのなら、お前が乗りこんで脅かしてやれ。
金蔵 あっしが、いえそりゃぁ、できません。
親分 どうしてできねぇんだ。その立派な足があるじゃねぇか。
金蔵 いえいえ、昨日の飲み食いのオアシが、ありません。

 今ひとつか・・・・・・。
 では、こういうのはどう。

親分 金蔵、お染が出てこねぇのなら、お前が乗りこんで脅かしてやれ。
金蔵 へぇ、あの野郎(と言って、お染の部屋へ)
   こら、なんてぇ薄情な女だ!
お染 なんだい、幽霊だって言うけど、オアシがあるじゃないか。
   だったら、昨日の飲み食いの勘定も払っておくれ。
金蔵 えっ(と、驚いて)そっちの、オアシはない。

 どっちも、日光の手前(いまいち)かな。

 今後、別なサゲを思いついたら、ご紹介するつもり。

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# by kogotokoubei | 2018-02-16 20:54 | 落語のネタ | Comments(2)
 久しぶりの生落語は、「にぎわい倶楽部」と題された、二年振りのこの会。
 通算27回目、とのこと。

 2016年2月の会は、兼好の『置泥』と、かい枝の『茶屋迎い』が実に良かった。
 とりわけ、かい枝の高座は、その年のマイベスト十席に選んでいる。
2016年2月9日のブログ

 二席のうち一席はネタ出し。
 今回は、かい枝が上方の噺家としては珍しい『子は鎹』、兼好も、たぶん彼としては珍しい『品川心中』である。

 実は、開演前の横浜にぎわい座の方の口上(?)が、なんとも笑えた。
 携帯、スマホの電源を切ってください、といういつもの注意なのだが、「私がこれほどお願いしても、一昨日、たい平師匠の『文七元結』の最中、それも、あの吾妻橋の場面で携帯が鳴り、昨日は、権太楼師匠の『笠碁』の途中で鳴りました」で、会場大爆笑^^
 その成果であろう、この日は携帯は鳴らずにメデタシ、メデタシ。

 さて、次のような構成だった。

---------------------------------------------
(開口一番 三遊亭しゅりけん『転失気』)
三遊亭兼好 『雑俳』
桂かい枝  『子は鎹』
(仲入り)
桂かい枝  『京の茶漬け』
三遊亭兼好 『品川心中』
---------------------------------------------

 順に感想などを記す。

三遊亭しゅりけん『転失気』 (13分 *19:01~)
初。兼好の三番弟子とのこと。前座としてはまぁまぁというところか。
やや頭髪が伸びすぎているところが、気になった。
前半、和尚が珍念に「転失気」を「本堂の脇に立てかけてあったろう」と言うのは、誰の演出か知らないが、この噺の筋からは適さないように思う。

三遊亭兼好『雑俳』 (25分)
 オリンピックのジャンプのことから会津で大雪の中で落語会をしてきた話につなぎ、このネタへ。雪、の季語からなので、適切な流れだ。
 「雪」「りん」と八五郎の迷句が続く。ご隠居の句の鸚鵡返しを失敗する場面などで、私の席の周囲の女性たちが大笑い。こういうネタでは、外さないのがこの人。二席目を考慮してのネタ選択かとは思うが、大いに楽しんだ。

桂かい枝『子は鎹』 (35分)
 長野冬季オリンピックでボブスレーの応援に行った体験から、それに比べて落語はいいでしょう、とつなぐ。たしかに、コンマ数秒で落語は終わらないし、客席も震える寒さではないわなぁ。
 ネタ出しされていて、楽しみにしていた噺。上方の噺家さんで聴くのは、たぶん、初。
 大工の名が熊なのは東京と変わらずだが、女房は、お花、子供は亀ではなく寅だ。
 あらすじを、ざっと。
 (1)女房が家を出て行く場面から始まる。「中」の最後の方、ということになる。
    出て行く際に、お花が「寅が大きくなった時、お父ちゃんはどんな人だった?」
    と聞かれた時のために、と古いカナヅチを持っていく設定。
 (2)二年経った。松島新地からやって来た女郎上がりの二人目の女房は、飯も炊けず、
    三ヵ月もすると出て行った。酒もやめ、仕事に精進している熊。
    お店の番頭が訪ね、主人に言われ、堀江に着いた材木を一緒に見に行くことに。
 (3)道すがら、番頭との会話で、熊が別れた女房お花、そして子供の寅のことを思い
    出していると、路地から飛び出した子供とぶつかる。なんと、それは、寅だった。
 (4)寅からお花が再婚せず、寅と二人で住んでいると知り、内心喜ぶ熊。寅は、東京の
    元ネタのように苛めれて額に疵があるのではなく、ガキ大将で喧嘩して負けた相手
    が母親と一緒に抗議に来た、という設定。その際、お花が「父親がいないから、
    馬鹿にして」と泣いていた、と聞き、熊は胸が締め付けられる。
    寅に小遣い五十銭を渡し、翌日の鰻屋での再会を約束して二人は別れた。
 (5)家に帰った寅をお花は待ちかまえ、糸巻きの手伝いをさせようと、握った拳を
    開けさせると、五十銭が転がった。誰にもらったのかを明かさない寅をつかまえ、
    持ち帰っていたカナヅチを握ったお花が寅に詰問。しかし、相手が熊と知り、
    驚くとともに、ほっと安堵するお花。
 (6)翌日、寅を鰻屋に送り出しても落ち着かないお花は、着換えて、化粧し鰻屋へ。
    二階の窓から店の前にいるお花を見つけた寅。二階と路上での高低差のある
    短い会話の後、二階に上がったお花と熊の対面。
    熊は、煙草は吸わない。話す言葉を探しながら、前日の寅との対面や約束の
    ことを、たどたどしく繰り返す。
    三度目に入る時、お約束で、寅が止めに入り、しばらくの、間。
    意を決した熊が、お花に再縁を申し出る。
    涙し「勝手なこと言って・・・・・・」と漏らすお花。そして、二人の思いが
    一致した。
    熊が「寅は鎹だな」と言い、寅のサゲの一言。

 この噺を上方に伝えたのは、円朝門下の二代目三遊亭円馬と言われており、その内容は柳派の『子別れ』と違って、子供が父親の元に残る、円朝作の『女の子別れ』だったようだ。
 しかし、噺家さんにもよるが、上方でも母親と子供が一緒に出て行く型も多いらしいし、実際、かい枝もそうだった。
 かい枝の高座は、泣きの場面にも程よく笑いどころを挟みながら、上方の噺家さんとしては(?)、落ち着きのある、人情噺に仕立てていた。
 中でも、熊と寅との再会、そして、サゲ前の復縁の場面が秀逸。
 わざとらしくなく、くどすぎず、親子、そして、男女の情愛のふれあう姿が描かれていたように思う。
 こういうネタも、しっかりこなすのが分かると、なおさら、文枝の名はこの人が継ぐべきだったなぁ、と思わずにはいられない。
 芸の幅広さを示した高座、今年のマイベスト十席候補とする。

桂かい枝『京の茶漬け』 (17分)
 仲入り後は、私が米朝の音源をよく聴いている、この噺。
 四代目春団治襲名披露のことを、マクラで少しだけ語ったが、内容は秘密^^
 神戸、大阪、京都の気質の違いから本編へ。
 なんとか「幻」の京の茶漬けを食べようと京都まで電車賃を払ってまでやって来た大阪男と、京おんなのバトルを楽しく聴かせてくれた。
 かい枝の大阪の男の描写が秀逸。その家の主人を鯛の刺身と灘の生一本でもてなした様子を、くどいくらいに演じる場面、席の近くの女性のお客さんが凍えで「いやらしい・・・」って呟いていた。かい枝の芸の巧みさが、推し量れる証拠。
 この噺の可笑しさ、学生時代に京都にいた私は、よくわかるのだ。一度も京の茶漬けは、食べたことがないからねぇ。

三遊亭兼好『品川心中』 (43分 *~21:29)
 「上」のみかと思っていたら、工夫した「下」につないだ「通し」。
 この人の大きな持ち味の一つだと思うのは、古典落語の古い内容の理解を助けるための“譬え話”が巧みなことだろう。
 板頭は、キャバクラのナンバーワンに置き換えて笑いをとるし、お染と悪口を言うライバル達の関係は、会社のOLたちの関係に譬え、女性同士の争いの怖さ、惨さを表現してみせる。
 そして、兼好が描くお染も、そういうしたたかな女性として見事に造形されていた。
 前半は、そのお染と、実に軽いノリの貸本屋金蔵とのやりとりの楽しさで一気に進む。
 特に、お染が邪険に金蔵を扱ってきたのは、「本気になるのが、怖かったからだよ」と言うのを真に受けた金蔵の、舞い上がり方が、なんとも可笑しい。
 金蔵が、自分で用意した、頭には三角、下はツンツルテンの死装束を着たままお染に背中を押されて品川の海にドボン。
 この衣装の仕込みがあったので、改作の「下」にすんなりとつながった。
 そう、通しだったのだ。その遠浅の海から抜け出し、親分の家にやって来た場面あたりで約30分だったろうか。だから、例のドタバタでさげるかなぁ、と思っていたのので、驚きながら、嬉しい誤算。
 親分はじめご一行が協力して、早桶に金蔵を入れて白木屋に連れて行き、「金蔵が幽霊で現れた、線香の一本も上げて供養しないと浮かばれない」、とお染に迫る、という展開になった。
 こういう下の描写、いったい誰の型なのか・・・オリジナルかな。
 私は聴いていて、『幕末太陽傳』の小沢昭一さんの金蔵役の姿を思い起こしていた。
 さて、事の次第を妓夫太郎がお染に伝えると、「幽霊・・・あたしは、オアシのない人は嫌いだよ」と会わない。この科白でも、結構、笑いがあったなぁ。
 怒った親分が金蔵に、「さぁ、幽霊になって、お染の部屋に行け」と言うが、その後に金蔵のサゲの言葉。なるほど、とは思ったが、サゲは、もっと工夫の余地があるかな。
 この時間で、改作とはいえ通しで演じた好高座、今年のマイベスト十席候補としたい。
 
 終演後、いつものように兼好が外でお客さんをお見送り。かい枝は、先に移動だったのかな、姿は見かけなかった。それとも、見逃したか。

 途中に間は空けているが、長年、この会に来ている。来る度に、二人が着実にネタも増やし、芸も磨いていることが実感できる。

 兼好は、持ち味の滑稽噺の上手さのみならず、この人ならではの個性で人情噺もものにしつつあるのは、この『品川心中』で十分に理解できた。
 かい枝も、この日の『子は鎹』で、芸の幅広さを示していた。もちろん、師匠五代目文枝の十八番も、新作も含め、引き出しの多さでは、上方でも上位に入るのではなかろうか。

 にぎわい座には、今回でスタンプが10個となった特典としてチケットを入手できた会に、また来ることになる。
 その会とは・・・それは、記事をお楽しみに願いましょう。

 久しぶりの落語、そして、この二人会、大いに楽しんだ。
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# by kogotokoubei | 2018-02-14 12:39 | 寄席・落語会 | Comments(6)
 ほぼ一年前、落語研究会について記事を書いた。
2017年1月29日のブログ
 現在は第五次で、今年で五十周年になる。
 記事では、2016年一年間の出演者の顔触れを見て、まるで、「落語(協会)研究会」のようだ、書いた。

 2017年の出演者とネタを、いつもお世話になる「手垢のついたものですが」のサイトにある「落語はろー」のデータ編から引用させていただく。
「手垢のついたものですが」サイトの該当ページ

583 2017.01.30 動物園の虎 柳家喬の字                
583 2017.01.30 鼓ヶ滝 三遊亭歌奴                
583 2017.01.30 雪とん 入船亭扇辰                
583 2017.01.30 羽織の遊び 柳亭左龍                
583 2017.01.30 三軒長屋 柳亭市馬                
584 2017.02.24 寄合酒 春風亭昇也                
584 2017.02.24 百川 桂やまと                
584 2017.02.24 夢金 柳家小満ん                
584 2017.02.24 火焔太鼓 古今亭志ん輔                
584 2017.02.24 宿屋の富 瀧川鯉昇
585 2017.03.28 風の神送り 三遊亭好の助                
585 2017.03.28 鹿政談 蜃気楼龍玉                
585 2017.03.28 ねずみ 入船亭扇遊                
585 2017.03.28 親子酒 柳家花緑                
585 2017.03.28 縁切り榎 柳家喬太郎                
586 2017.04.26 豊竹屋 柳家こみち                
586 2017.04.26 疝気の虫 古今亭志ん陽                
586 2017.04.26 二十四孝 桂文治                
586 2017.04.26 堀之内 春風亭一之輔                
586 2017.04.26 ひとり酒盛 柳家さん喬                
587 2017.05.31 そば清 春風亭正太郎                
587 2017.05.31 明烏 柳家小八                
587 2017.05.31 三方一両損 春風亭一朝                
587 2017.05.31 犬の災難 桃月庵白酒                
587 2017.05.31 死神 柳家権太楼                
588 2017.06.27 雛鍔 桂三木助(5) 三木男              
588 2017.06.27 蛙茶番 春風亭三朝                
588 2017.06.27 野ざらし 橘家円太郎                
588 2017.06.27 熱血怪談部 林家彦いち                
588 2017.06.27 大山詣り 古今亭志ん輔                
589 2017.07.19 徳ちゃん 桂宮治                
589 2017.07.19 一眼国 三遊亭兼好                
589 2017.07.19 青菜 柳家小さん(6)                
589 2017.07.19 なす娘 入船亭扇辰                
589 2017.07.19 佃祭 五街道雲助                
590 2017.08.22 ぞろぞろ 柳家わさび                
590 2017.08.22 にゅう 柳家喬太郎                
590 2017.08.22 薮入り 林家正蔵(9)                
590 2017.08.22 質屋庫 柳家一琴                
590 2017.08.22 派手彦 柳家小満ん                
591 2017.09.29 干物箱 柳家小痴楽                
591 2017.09.29 鮑熨斗 鈴々舎馬るこ                
591 2017.09.29 文違い 入船亭扇遊                
591 2017.09.29 試し酒 橘家文蔵(3)                
591 2017.09.29 五貫裁き 柳家三三                
592 2017.10.31 悋気の独楽 立川志の八                
592 2017.10.31 ねぎまの殿様 三遊亭ときん                
592 2017.10.31 うどん屋 柳家さん喬                
592 2017.10.31 短命 立川生志                
592 2017.10.31 付き馬 三遊亭小遊三                
593 2017.11.29 水屋の富 柳家さん若                
593 2017.11.29 紋三郎稲荷 柳家小せん(5)                
593 2017.11.29 らくだ 古今亭菊之丞                
593 2017.11.29 持参金 瀧川鯉昇                
593 2017.11.29 中村仲蔵 柳家花緑                
594 2017.12.26 鉄道戦国絵巻 古今亭駒次                
594 2017.12.26 三下り半 三笑亭夢丸(2)                
594 2017.12.26 菜刀息子 桂小南(3)                
594 2017.12.26 尻餅 春風亭一之輔                
594 2017.12.26 御慶 柳亭市馬                

 が落語芸術協会、ピンクが圓楽一門、は立川流だ。

 延べ総数六十名中、芸術協会が九名、圓楽一門からは二、立川流からも二。
 47÷60で落語協会の占有率は、78.3%と、ほぼ八割。

 2016年は、芸協から五、立川流から一、圓楽一門から二で、落語協会の占有率が87%だったから、少しは改善(?)されている。

 ちなみに今月28日の会の出演者をTBSのサイトで確認すると、下記のよう告げられている。
TBSサイトの該当ページ

「粗忽の釘」    柳亭市弥
「黄金の大黒」   古今亭志ん八改め古今亭志ん五
「干物箱」     五街道雲助
「花筏」      柳家喬太郎
「抜け雀」     柳家さん喬

 あら、まさに、落語“協会”研究会。

 昨年末に、毎回の顔付けやネタ選びを担当していたプロデューサーの今野徹さんが亡くなったという情報をネットで目にしていた。
 まだ、五十代だったとのこと。
 だから、今、どなたが今野プロデューサーの仕事を継いでいるのかは知らないが、

 昨年の記事でも書いたが、第一次以降の開催期間は、次の通りだ。

 ◇第一次 明治38(1905)年~大正12(1923)年:18年
 ◇第二次 昭和3(1928)年~昭和19(1944)年:16年
 ◇第三次 昭和21(1946)年2月~8月
    *第三次は落語会の開催を目指したものではないらしい。
 ◇第四次 昭和23(1948)年~昭和33(1958)年:10年
 そして、
 ◇第五次 昭和43(1968)年~

 
 いわゆるホール落語会の中で伝統と格式ということで挙げられるのは、この落語研究会、朝日名人会、紀伊國屋寄席、あたりだろうか。

 1998年から始まったので歴史的には浅いものの、ホール落語界としては落語研究会と伍していると思しき朝日名人会。その、次回3月の出演者は、次の通りだ。
朝日ホール・サイトの該当ページ
柳家 わさび 『佐々木政談』
桂   文治 『親子酒』
古今亭志ん輔 『抜け雀』
立川  生志 『猫の皿』
柳家 さん喬 『ちきり伊勢屋・下』

 立川流からも生志が出演。

 昭和39年から始まっている紀伊國屋寄席。2月、本日の会の顔触れ。
紀伊國屋書店サイトの該当ページ

林家木りん 『時そば』
柳家三語楼 『軒付け』
柳家三三  『二番煎じ』
三遊亭王楽 『三方一両損』
桃月庵白酒 『幾代餅』

 圓楽一門から、王楽が出演。

 あえて書くが、この三つの中で、出演者とネタの組み合わせの全体で、私がもっとも魅力を感じないのが、落語研究会だ。

 あくまで、好みですよ^^

 歴史が長いので、それぞれの演者の十八番は出尽くしている、ということもあろうが、さん喬、雲助、喬太郎なら、もっと別な噺を聴きたいものだ。
 この中なら、志ん五の『黄金の大黒』にもっとも魅力を感じるなぁ。


 落語研究会、曲がり角を迎えているのではなかろうか。

 居残り会のお仲間の数名の方は、あの会の年間通し券を入手するのに、大変なご苦労をされた。また、それだけの魅力も、当時はあったのだろう。

 さて、今は果たしてどうなのだろうか。

 私も二度ほど行く機会があったが、出演者とネタの組み合わせに疑問を感じたものだ。

 五十周年という節目、そして、プロデューサーの交代を機に、いったん休んでみてもいいのではなかろうか。
 プログラムの魅力が、減退していると感じる。
 今野プロデューサーも苦心していたのだろうが、長く続きすぎていることによる弊害もあるだろう。

 落語研究会への出演は、その噺家さんに大きな意味を持っているはず。
 だから、直前の会や寄席では、研究会のネタの稽古をする噺家さんも多い。
 テレビ放送や音源、DVDの発売などを考えると、落語研究会や朝日名人会への出演は、注力せざるを得ないのである。

 その出演者とネタに、あまりにも疑問が多い。

 当日にしても、寄席や他の会を断っての出演なのだろうが、果たして、ネタ選びを含めて、噺家さんのそういった努力に見合うだけの会になっているのかどうか、私は疑問に思っている。

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# by kogotokoubei | 2018-02-13 12:18 | 寄席・落語会 | Comments(2)
 今日2月11日は、初代談洲楼燕枝の祥月命日。
 天保8年10月16日(1837年11月13日)に生まれ、明治33(1900)年2月11日に没した。
 ちなみに、その明治33年は8月11日に円朝が旅立っているので、実に東京の落語界にとって寂しい年だった。

 初代燕枝のことは、ずいぶん前、三三が燕枝作『嶋鵆沖白浪』を復活させたことに因み記事にしている。
2010年11月19日のブログ
 また、森銑三著『明治人物閑話』を元にも記事を書いた。
2016年12月13日のブログ
2016年12月14日のブログ
 
 先日、百年前の東京落語界の戦国時代の模様について、暉峻康隆さんの『落語の年輪』などを元に記事を書いたが、その中に二代目燕枝の名が登場した。
 三代目小さんとともに二代目禽五楼小さんの門下だった人。
 その二代目燕枝の弟子が、柳亭だが、燕枝を名乗っていた。昭和30年7月19日没。
 三代目は、ややその大きな名跡に負けていた、とも言われる。話芸はもちろん、俳諧、文筆など幅広く評価の高かった八代目入船亭扇橋を父に持ち、周囲の期待が大きかったことも、相当のプレッシャーだったのだろうと察する。

 昨年、小南の名が復活した。
 そして、何より、あの立花家橘之助に二代目ができた。その襲名は、あの『たぬき』の高座を聴いて、大成功だったと思っている。

 今空位の大名跡と言うと、まずは円生そして志ん生という三遊派の名前、そして、柳派には柳枝、そして燕枝ということになるだろうか。

 以前の燕枝の記事のきっかけになった『嶋鵆沖白浪』を、私は幸運にも最初の紀尾井ホール、再演の横浜にぎわい座、そして一昨年のイイノホールで聴くことができた。

 どれも実に良い高座であったし、何より、人情噺は三遊派、柳派は滑稽噺という先入観に対し、燕枝の名作を掘り起こした功績は大きい。

 その後、三三は全国で「たびちどり」と題して、この噺を披露しているが、なかなか結構な試みだと思う。

 そこで、思うのだが、三三に、六十余年にわたって空白となっている燕枝の名を継いで欲しいのだ。

 十分にその資格はあるのではなかろうか。

 師匠小三治は、周囲に六代目小さん襲名の期待があったものの、継ぐことなく小三治のままで噺家生活を全うするのだろう。

 しかし、今でも、小さんを継いで欲しかった、という声は小さくない。私も、そう思う。

 やはり、その名に相応しい人に、ぜひ懐かしい大きな名を蘇らせて欲しい。

 初代の命日に、強くそのことを思う。

 ご賛同いただける方も、少なくないのではないか。

 いきなり談洲楼ではなく、柳亭燕枝でも結構。
 その方が、協会会長の協力も得やすかろう。

 上方では、文枝の名をその十八番『三十石』の出来ない人物が強引に継いで、その名を落としめているのが、誠に残念。そもそも、既に噺家としての旬を過ぎての襲名だった。

 三三は、これからの人だ。彼なら名前負けもしないだろう。

 ぜひ、三三による四代目燕枝襲名のを期待する。

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# by kogotokoubei | 2018-02-11 18:31 | 襲名 | Comments(4)
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暉峻康隆著『落語の年輪-大正・昭和・資料篇』(河出文庫)

 主に暉峻康隆さんの『落語の年輪』に基づき、ほぼ百年前の東京落語界を振り返るシリーズの四回目。

 大正九年十一月、それまでの東京寄席演芸株式会社(会社)、落語睦会(睦会)、東西落語会の三派に加え、五厘の大与枝が再起をかけて睦会の分断を仕掛けて新睦会が発足。それを機に噺家の引き抜きや移籍が続き東京落語界は混迷していた、というところまでが前回。

 さて、そんな状況を、メディアはどう伝えていたのか、という部分から再開。

 咄が聞きたくば会社派へ、見物したくば東西派へ、にぎやかなのがよければ睦会へ、浪人不平党がよければ新睦会へ、というのが大正十年(1921)三月一日付の「都新聞」の評判である。ところがそれから半月後には、新睦会と円右の三遊派が“東西落語会”に合併したので、これでまた東京落語界は、会社派と睦会と三派合同の“東西落語会”の三派になったわけである。

 あらら、また三つになったんだ。
 と、思ったら。

 ところが、三派でしばらくおちついていた大正十年の東京落語界も、秋になるとまた一騒ぎが持ち上がった。それは神戸の吉原派が、鈴本一派の東西落語会から分立し、神田の入道館と浅草の江戸館などを根城として“扇風会”と称し、競争することになったからである。その扇風会は、明けて大正十一年の一月から、事務所を日本橋蠣殻町に設け、扇風会改め“東西落語演芸会”と称することになったので、東西落語会はたまりかねて、七月になると“東洋会”と改称している。

 まさに、離合集散。
 この後に、当時の落語界で中心となった人物として、品川の円蔵と言われた四代目橘家円蔵のことが書かれている。
 当時、東京落語界でもっとも勢力があったのは、この四代目円蔵であった。東京の三派へはもちろん、京都へも門人を出しているのはこの円蔵だけで、東西派へは円坊、文三、円幸、睦派へは円都、大阪へ蔵之助、花橘、京都へ一馬、桂州、蔵造、会社派へは御大自身の出馬だけに、円窓(のちの五代目三遊亭円生)を旗頭に、円好(六代目円生)、小円蔵の新進に、円兵衛の古参をしたがえていた。そのほか地方(どさ)回りや修業中の若い者を入れると同勢は約百人というのであるから、まさに円朝亡き後の最大の勢力といってよかろう。
 百人の一門・・・とは凄い。

 また、この時期に今につながる興行形態の変更があった。
 それは、睦会が、それまで月二回替り興行だったのを、上席一日、中席十一日、下席二十一日としたのである。

 三派が争う中で、大正十二年が、明けた。
 離合集散の動きは、その後、おさまっていたのだが。

 ところが、そのしばらくの平穏も、今度は落語界というコップの中の嵐ではなく、九月一日の関東大震災という天災地変によって、東京落語界は壊滅してしまった。
 まず市内の寄席では、会社派に属している神田の立花亭、両国の立花家、本郷の若竹亭、雷門の並木亭、京橋の金沢亭は焼失、わずかに駒込の山谷亭、四谷の若柳亭の二、三が残るのみとなった。
 睦会の席では、四谷の喜よし、駒込の動坂亭、青山の富岳座、同じく新富岳、牛込の神楽坂演芸場、小石川紅梅亭、渋谷演芸場などを残し、他は全部焼けてしまった。
 多くの落語家が焼け出された中で、運わるく本所被服廠跡に避難したために死亡したのは、坐り踊りの名手であった麗々亭柳橋、それに古今亭志ん橋、音曲師の三遊亭花遊、手品師の帰天斎小正一、柴笛の山田天心であった。この四人の合同追善法要は、翌月十九日、浅草観音堂で営まれた。
 また市内の寄席の看板およびビラを扱っていた専業者は、三光新道のビラ辰、神田三崎町のビラ万、それに廓橋の村田などであったが、三軒ともにこの大震災で類焼してしまったので、当分は江戸趣味の木版のビラは見られないことになってしまった。

 実は、上記の文を含め、大震災以降の東京落語界については、以前に落語協会の成り立ちとして記事にしている。
 同記事は、協会のホームページの改悪のことにも多く触れているが、冒頭にはこのシリーズ一回目で紹介した大正六年の出来事など紹介していた。
2015年4月11日のブログ

 重複する部分のあるが、大震災の後のこと。

 不幸中の幸いは、落語家の大部分が無事だったことで、九月十六日には早くも動き出し、落語睦会では当日から五日間、牛込の神楽坂演芸場と白山下の紅梅亭で、罹災者慰問のため、無料演芸会を催した。講談奨励会でも、震災後ただちに地方の災害地慰問委員として、貞丈や若狸(じゃくり)などを近県に派遣していたが、十月二十日には日比谷公園音楽堂で無料講演会を催し、これを第一回として諸方で催すことになった。
 被害に遭った落語家もいる。五代目麗々亭柳橋は火災のため焼死している。
 しかし、人数的には、名人たちの多くが健在だったことは、東京の落語界にとって救いだった。その名人たちの動向のこと。

 そうした動きの中で、かねて隠退を希望していた柳家小さんは震災を機に決意し、九月十七日に上野桜木町の家を引き払って蒲田の隠宅へ移った。だが時勢はそれをゆるさず、小さんの隠退はのびのびとなっている。また談洲楼燕枝も、門下の営業の道もついたので、十月二十六日に家族をつれて大阪へおもむき、北区の老松町に落ち着いたが、これまた早くも翌年四月には東京に舞いもどっている。いずれも東京落語再建の動きが、隠退をゆるされなかったのである。

 談洲楼燕枝は二代目。こ人、最初は初代快楽亭ブラックの一座で地方廻りをしていた。東京に戻って二代目代目禽語楼小さんに入門。三代目小さんは兄弟子にあたる。明治34(1901)年二月、初代燕枝の一周忌に柳亭燕枝を襲名し二年後に亭号を談洲楼と改めた。

 隠退を思いとどまった名人たちの思いは、その後実ることになる。
 あれだけ分裂を続けていた東京落語界は、震災という危機により団結する。
 大正十二年九月一日の関東大震災で、一時支離滅裂となった東京落語界であったが、翌十月には早くも大同団結に着手し、“落語協会”が誕生した。それは“落語睦会”と“会社派”の大部分が合同したもので、四代目柳枝こと華柳を顧問にいただき、左楽が頭取に就任し、馬生、三語楼などもすでに加入して、一日から睦会の席であった八席に出演し、成績は上々であった。旅に出ていた小勝、文治も加入のはずであり、また隠退したのを借り出されて大阪へ出演中の小さんも、別格の大看板として落語協会に迎えることになった。

 これで、ひとまずは、百年前に始まった東京落語界の“戦国時代”は終焉を迎える。

 とはいえ、翌大正十三年には、落語協会に参加しなかった四代目円橘や二代目金馬などによる“三遊睦会”や、いったん落語協会に吸収された東西落語会が協会を脱退し“柳三遊落語会”を発足し、再び三派体制になるのだが・・・・・・。

 大正六年に戦乱の火ぶたが切られた東京落語界の戦国時代については、これにてお開き。
 長々のお付き合い、誠にありがとうございます。
 
 あらためて思うのだが、“戦国時代”は、客にとっては、そう悪い状態でもなかったのではないか、ということだ。
 大正十一年三月一日の都新聞を再度ご紹介。

 “咄が聞きたくば会社派へ、見物したくば東西派へ、にぎやかなのがよければ睦会へ、浪人不平党がよければ新睦会へ”

 これだけの選択肢があったということだ。

 今の落語界、果たして、協会や会派などによる際立った特色、売り物、はあるのか。
 戦国とまではいかなくとも、やはり、ある程度の競争は、芸の世界でも必要なのではないかと思うなぁ。

 さて、芋づる式の拙ブログ、この後どんなネタになるものやら。

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# by kogotokoubei | 2018-02-10 11:36 | 江戸・東京落語界 | Comments(2)
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暉峻康隆著『落語の年輪-大正・昭和・資料篇』(河出文庫)

 このシリーズの三回目。
 前回は、寄席演芸会社(会社)、睦会、誠睦会の三派に分裂した大正六年の東京の落語界において、最後発の誠睦会の“東西落語会”に、合資会社と改めた会社側の無限責任者でもある三代目小さんが、弟子の燕枝との親子会で出演したというところが、切れ場だった。

 もちろん、そのままでは収まるはずはない。

 会社側もだまってはおらず、看板はただちにはずされたが、その騒ぎは睦会への飛火して、小さんが鈴本へ出演する以上、我々も断然会社派と手を切って、三月上席にきまった横浜新富亭の出演もことわれ、と決議してしまった。
 会社側はまた一騒動ですったもんだの末、ようやくおさまって、小さんも無事に鈴本へ出演したが、そのどさくさに、会社派の月の家円鏡は三月上席から睦会へ転籍してしまった。これは睦会における柳と三遊を二分して争おうという右女助の策略と勘ぐるむきがあったが、その噂のとおり睦会は三月中に両派に分裂し、三遊は円右、円鏡、右女助、円左、小南、小円右、小文の一派、柳は柳枝、左楽、今輔、馬生、正蔵、翫之助、枝太郎、芝楽、馬之助、柳昇の一派が対立することとなった。
 離合集散、という戦国模様だ。
 この右女助は、初代円右の弟子だった初代三遊亭右女助で、その後、四代目古今亭今輔になる人。
 この後、東京の戦乱(?)に巻き込まれる形で上方の落語家が東京で出演したことが、思わぬ副次的な産物を生み出したことが紹介されている。

 大正七年五月の「朝日新聞」に、「色物席が江戸式の杉戸高座を大阪風の袖附の襖に改築」という記事があるが、さらに翌大正八年一月の同紙には、
  近頃の寄席は江戸式の杉戸高座を大阪式の袖附襖に改築するのが流行して
  いるが、睦会はこの頃円右などが上がる時でさえ楽屋で大阪式の鳴物を入れ、
  又芸人も上方風に脱いだ羽織を右手へ放り込む。
 という記事が見える。江戸前の杉戸高座を大阪式の袖附襖に改築したり、高座に上がる際に出囃子を使ったり、脱いだ羽織を右手へ放りこんだり、寄席の高座や演出が上方風に一変したという事実は、東京の落語史上、見落としてはならない変革である。
 今につながる出囃子などは、“戦国時代”が生んだ東西交流の産物だったわけだ。

 代表的な噺家の出囃子が、次のように紹介されている。

 三升家小勝 「いでの山吹」(長唄)
 林家正蔵  「あやま浴衣」(同)
 桂文楽   「野崎)
 三遊亭円生 「正札付根元草擦引」(長唄)
 古今亭志ん生「一調入り」
 三遊亭円遊 「さつま」
 三笑亭可楽 「勧進帳」
 古今亭今輔 「野毛山」
 春風亭柳橋 「せり」(大阪芝居でせり上げに使う合方)
 三遊亭円歌 「踊地」
 柳家小さん 「のっと」

 さて、そういう変化があったものの、戦乱は一時鳴りをひそめていたのだが。

 さて、小康を保っていた東京落語界も、大正九年八月になるとまたもやひと騒ぎもち上がった。会社派、睦、東西落語の三派のほかに、一日から五厘大与枝の“誠睦会”が復活したのである。大与枝は会社派ができたとき、睦派の創立に奔走したが、睦派が後援する伊藤痴遊をはじめ左楽などの幹部連と不和になり、大正七年十一月に鈴本・金沢などと組んで“中立会”を、さらに翌八年春には大与枝が主任となって“誠睦会”と改めたが、まもなく神戸の吉原が乗りこんできて、誠睦会は“東西落語会”となり、大与枝はしだいに窮地に追いこまれてしまった。そこで東西会とは手を切り、小さいながらも独立しようとして復活したのが“誠睦会”である。

 誠睦会の芸人は、小円遊、龍玉、武生、小三治などの落語家に百面相の花栗、義太夫の越駒などで、席は花川戸東橋亭、江戸川鈴本、牛込柳水亭の三軒。
 噺家に注がないので調べてみた。
 龍玉は二代目蜃気楼龍玉だろう。小円遊はその龍玉の息子の三代目かと思う。武生は金原亭で、あの志ん生のはず。ちなみに、翌大正十年に真打に昇進している。この小三治は三代目小さん門下の六代目で、本名は内田留次郎。俗に「留っ子」「坊やの小三治」と言われた人だろう。

 この誠睦会の復活とは、別な動きも出て来た。
 こうして会社、睦、東西落語会、誠睦会と、東京落語界は大小四派となったと思うとまもなく、翌九月下旬に、今度は四団体の中でもっとも優勢であった“睦会”に分裂さわぎがおこった。
 睦会は左楽派の勢力が盛んで、柳枝派といえども太刀打ちができず、その結果、左楽派に属しない各系統の芸人で不平を抱く者がすくなくない、というのが昨今の情勢であった。ところが、一方に左楽などと不和のために、睦会の創立当時功のあった大与枝が睦会を去って、中立会をつくり、また誠睦会をつくったが不振で、昨今は逆境におちいっているのを同情し、軍資金を出して大与枝の復活を図る者が現れたことが、睦会分裂の原因であった。
 睦会の水面下で、左楽派に押されている者だちが五厘の大与枝と通じ、誠睦会の復活、そして、睦会の分裂につながっていく、ということか。
 噺家の集団とはいえ、なんとも政治的な権力闘争のドロドロした世界が、その当時はあったのだなぁ。
 この睦会の分裂で出来たのが、“新睦会”。
 大正九年十一月上席から発足した睦会の別派の新睦会の幹部の顔ぶれは、おおむね予定どおり桂小南、金原亭馬生、月の家円鏡、神田伯龍、春風亭柳昇(ただし今月から改め朝寝坊むらく)ときまった。ところが円右だけは過般来、騒ぎの渦中に巻きこまれて身動きがとれなくなり、やむなく小円右、右女助をしたがえ、円右一人で三遊派をとなえ、局外中立を標榜し、新睦会と三遊派は大与枝の家に事務所を置くこととなった。
 担ぎ上げられたのが、初代桂小南。発足時に睦会に呼ばれたものの、勢力のあった左楽派の組織には馴染めなかったということだろう。先日、文楽の言葉を紹介したように、小南は、うぬぼれ屋であり、自分が一番でなければ済まない人だったようだ。
 この金原亭馬生は後に四代目古今亭志ん生となる六代目馬生。月の家円鏡は、のちの三代目三遊亭円遊だろう。
 新睦会の発足は、戦乱をさらに混沌とさせることになる。
 新睦会が十一月の上席から、馬生、小南、今輔、むらく、円鏡等に、中立の円右を加えた三十余名で旗あげしたので、落語界はいっそううるさくなった。というのは、同勢三十余人で中堅の芸人が欠けている新睦会が、月給や手当てや何もかも合算して六、七十円の収入で、へこたれていた会社派の中堅に目をつけて引抜きにかかった結果、円治(もとの文三)その他十数人が会社を辞職することになったからである。また騒ぎは東西落語会にもおよび、十二月になると燕枝が東西派を抜けて睦会へもどることになった。

 もう誰が以前はどこにいたのかが、記憶がごちゃごちゃになっている。

 この後、東京落語界は、いったいどんなことになるのかは、次回。
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# by kogotokoubei | 2018-02-10 00:27 | 江戸・東京落語界 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛