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噺の話

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 昨日の記事の“マクラ”でリンクしたのだが、2012年9月1日の「関東大震災と、志ん生」という記事へのアクセスが、百を大きく超えていた。

 どう考えても「いだてん」効果と言えるだろう。
 
 視聴率ではなく、視聴“質”の高いドラマは、観る人もドラマに登場する内容への関心が極めて高いのだろう。

 クドカンが、実に的確にあの震災を描いたことを、しっかり受け止めている視聴者がいるのだ。

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岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)

 さて、このシリーズの三回目。

 岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)は、平成19(2007)年の発行で、内容は平成6(1994)年から発行が始まった『これが志ん生だ』(三一書房、全十一巻)の月報の中から選んで編まれている。
 副題が「家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔」とあるように、志ん生 “が” 語るのではなく、志ん生 “を” 語っている本。

 前回は、馬生が、家ではちっとも面白くないから、志ん生の高座が面白い、なんて話していることをご紹介。
 では、家ではどんな親子の関係だったのか。馬生は、こう語っている。

 あたしはオヤジさんとは酒の呑みかたがちっとも合わないんですよ。だから、誰かが、
「お父さんと呑んだ時のことを」
 なんて聞くんだけれども、思い出しても何もない、思い出がないの。
 うちのオヤジさんてえのは、例えば湯豆腐をグツグツと煮てて、酒をグッと呑んじゃうと、その湯豆腐ですぐ飯を食っちゃう。わたしは、トロトロ、トロトロ呑んですよ。するとオヤジさんが、
「手前(てめい)みてえなヤツと酒を呑むのは嫌だっ」 
 だからほとんど一緒に呑んだことがない。

 酒呑みの印象が強い志ん生だが、家での酒は、実に大人しかった。
 昨日の「いだてん」では、関東大震災で酒屋の四斗樽から一気に一升五号の酒を呑んだ、というのは、いわば“火事場の馬鹿力”で、例外。
 また、あの双葉山と呑み比べをして二升呑んだが、さすがに横綱には勝てなかったという逸話もあるが、これまた例外と言えるだろう。

 じっくり呑む酒が好きな馬生は、父の晩酌の友とはなれなかったようだが、若い時分には、様子が少し違っていたようだ。

 酒は二ツ目の頃のほうが一緒に呑むことが多かったですね。二ツ目の頃は、こっとはついて歩いてましたからね。そうすると、
「お前の今の噺はこうだ」
「これはいけねえ」
 とか、
「あの師匠はこうやってたぞ。俺はこうやるけど」
 というようなことを教えてくれましたね。例えば、細かいことですけど、
「お前、碁を習え。俺は知たねえから『傘碁』はできないし、『碁泥』はできない。で、『雨の将棋』って将棋で演(や)ってるけど、あの噺は将棋じゃ駄目だ」
 とか。だいたい自分の欠点もそのまま言ってましたね。
「俺は“間”を持ってジーッとしゃべってるよりも、ある程度スーッとしゃべってるほうが自分も心持ちがいい」
 って言ってましたね。マクラのうちは、
「えーえ・・・・・・」
 なんて言っても、噺に入るとトントン、トントンっていくリズム感が何とも言えませんでしたね。

 二ツ目の頃には、なかなか好ましい親子の会話があったじゃないか。
 私は、馬生の『笠碁』の音源が好きで、五代目小さんよりも良いと思っている。
 その十八番の背景には、父・志ん生の助言があったとは、嬉しいじゃないか。

 馬生は、志ん生が、橘家圓喬の弟子だった、と主張することなどについて、こう語っている。

 うちのオヤジさんが、圓喬の弟子だって言ってましたけど、それは一つの見栄でいいじゃないですか。
 最初は圓盛(三遊亭)、“イカタチ”の圓盛さんの弟子で・・・・・・弟子っていうか、あの頃は、とにかく咄家になれればよかったわけです。師匠は誰でもかまわなかったんです。で、咄家になってその後、小圓朝(二代目)さんの所へ自然と吸収されていくわけです。
 で、一時、圓喬師の弟子が足りなくなっちゃんで、小圓朝さんの所へ、
「誰か若い者を貸してくれよ」
 って言ってきたんで、オヤジさんが行ったらしいんですね。
 今は何かと詮索して楽しむようなところがあるでしょう。情報化社会だから。
「馬生は志ん生によって不幸になった」
 って余計なことを言う人がいる。
「志ん朝は、志ん生によって幸福になった」
 なんて。何だっていいんですよ。そんなことは大きなお世話なんです。そういうことでみんな腐っちゃうんだよね。私は圓右(二代目)のことをずいぶん細かに調べてるけど、かなり上手かったらしいですよ。それをね、徹底的に黒門町(八代目文楽)がけなしましてね。
「あれは馬鹿でした。馬鹿松でした。本当に馬鹿でしたね。それが証拠に掃除夫になって終えました」
 って言ってましたけど。圓右さんが、<落語界がみんなでぶったたいてくるなら、俺はやめちゃおう>って、掃除夫になって晩年をおくたってのは本人にとってよかったと思うんですよ。大成しないで、高座をやんないで、楽屋の隅で割り(給金)をもらって生きていくより手前でもって掃除夫になって、誰の世話にもならないで、誰も知らないうちに死んじゃう・・・・・・。あたしなんか、そっちをとりますね。
 だから、小圓朝さんだって、本当の意味で先代の倅っていう色メガネで見られなかったら、もう一段大きな咄家になったと思いますね。

 
 馬生、志ん生本人が「圓喬の弟子だった」と言っているんだから、それでいいじゃないか、それ以上詮索するのは野暮だ、と言っているのだろう。
 いろいろ詮索してその本人の言葉を否定しにかかっている私なんぞは、馬生からは、野暮の固まりに思えることだろう^^

 また、二代目の圓右(本名沢木松太郎)、三代目の小圓朝に関する言葉は、同じ咄家の倅という立場、いわば“同志”としての思いが吐露されたと思う。

 今回は、これにてお開き。

# by kogotokoubei | 2019-06-17 12:57 | 落語の本 | Comments(2)
 今夜の「いだてん」は、志ん生一家の引っ越し、そして、関東大震災・・・・・・。

 大震災と志ん生のことについては、以前書いたことがあるので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2012年9月1日のブログ

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岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)

 さて、このシリーズの二回目。

 岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)は、平成19(2007)年の発行で、内容は平成6(1994)年から発行が始まった『これが志ん生だ』(三一書房、全十一巻)の月報の中から選んで編まれている。
 副題が「家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔」とあるように、志ん生 “が” 語るのではなく、志ん生 “を” 語っている本。
 
 前回は、馬生が、父と母の生前中に、六代目志ん生は弟の志ん朝に継がせると約束していた話をご紹介。

 さて、今回は。

 馬生にとって、父はどんな存在だったのか。

 この聞き書きでは、珍しくこんなことを言っている。
 この頃よく<つまんねえなあ・・・・・・>と、考える。とにかく人の面倒ばかり見てきた。物心ついた時から親の手伝いでしょ。それから戦争に入って、咄家になって、・・・・・・咄家も一番悪い道をずーっと歩いてきて、やっとどうにかなった時には、志ん生の倅ってことで、つまり、“咄家の倅いじめ”ってのがあってね。志ん朝はあたしが防波堤になったから、まあ、ぶつからなかったんですけどね、それをやられて、ようやっと振りきってやってきたんです。

 これだけ泣き言を言うのは、珍しいのではなかろうか。

 昭和三年生まれの馬生。
 笹塚の家を夜逃げ同然に引っ越して業平の“なめくじ長屋”で暮らすようになったのが二歳の時だ。
 予科練を志していたが、腸の病気で大手術を受けることになり、断念。 落語家になろうと思い立って昭和17(1942)年、十四の時に父に入門し、四代目むかし家今松を名乗った。ちなみに、当代は七代目。
 当時は落語家が足りなかったため、二ツ目からのスタート。昭和十九(1944)年頃、初代古今亭志ん朝と改名。昭和二十(1945)年四月、終戦直前になって父・志ん生が満州慰問に出てしまったため、苦労を重ねた。 
 だから、志ん生没後、父について語ることには、積極的と言えなかった。

 オヤジさんの話をするってのは本当は嫌なんです。それはね、志ん生というとみんなが綺麗な印象を持ってる。それをどうしたって一つづつはがしていくことになるでしょ。
 まあ、あたしなんか志ん生を偲ぶってのを何十回とやってきた。だから、
「もう勘弁してぃださいっ。うちのオヤジさんは名人だったんです。で、非常に楽しい芸人だったんです。それでいいじゃないですか。みなさんが頭の中で描いている志ん生像が一番なんです。それぞれがこしらえてる志ん生像がある。それを何もほうぼうからはがすことはないんだから、もうよしましょうよ」
 って今まで言ってきたの。

 志ん生を高座や音源でしか知らない人に、その家族がイメージを壊しかねない姿を暴露することへの遠慮、気配り、ということもあろうが、馬生にとっては、長男として抱く父、美濃部孝蔵への複雑な思いもあっただろう。

 馬生、いや、美濃部清にとって、父の孝蔵とはどんな存在だったのか。

 まあね、うちのオヤジさんは内側だとちっとも面白くないんですね。面白くないからこそ、高座が面白かったんですよ。楽屋でやたらと面白い人がいるんですよ。楽屋でやたらと面白いんだけど、高座に上ると面白くないの。うちのオヤジさんなんて楽屋でブスっとしている。前座に、
「何が出てるぅ?」
 って聞いて、で、
「・・・・・・うん・・・・・・」
 って言って、高座に上る。そこで一席演って、下りてきて、次へ行っちゃう。皆さんが期待するようなことは何もないんです。これだけの話だからね。

 それでも、家では親子の会話だってあっただろうにと思うのだが、それについては、次回。
# by kogotokoubei | 2019-06-16 21:05 | 落語の本 | Comments(0)
 古今亭志ん生について書かれた本は、たくさんある。

 その中には、私と同様、生の志ん生の高座を知らない著者による本もあった。

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岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)

 岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)が、それだ。

 志ん生と、りんさんの実にいい写真がカバーとなった本は、平成19(2007)年の発行で、内容は平成6(1994)年から発行が始まった『これが志ん生だ』(三一書房、全十一巻)の月報の中から選んで編まれている。

 この本、副題が「家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔」とあるように、志ん生 “が” 語るのではなく、志ん生 “を” 語っている本。

 まだ、「いだてん」を充分には楽しめなかった頃、志ん生についての誤解(?)を解くべく、本書から二度、記事にした。

 一つは、先代圓歌による、高座で寝た志ん生の目撃談。
2019年4月2日のブログ

 もう一つは、榎本滋民さんが証言する、志ん生の“ダンディズム”について。
2019年4月3日のブログ

 昭和二十七年生まれで、私と同世代の著者の「あとがき」から、ご紹介。

 『これが志ん生だ!』(全十一巻・三一書房)の第一巻が出たのは平成六年(1994年)の九月だからもう十三年、準備の段階から入れると十六、七年の歳月が流れている。
 当時、私は落語というより、五代目古今亭志ん生の熱烈なファンだったが、生で志ん生を見たことは一度もないのである。

 生で高座を見たことはなかったが、著者は志ん生について書かれた本を読み漁り、LPやカセットを聴きまくり、ますます志ん生への思いが募る。
 その結果、志ん生の本を出版することになるのだが、そのため多くの関係者に取材することになった。

 その取材対象者の中には、もちろん、家族も含まれる。

 先日、『柳田格之進』を楽しませてくれた、むかし家今松の師匠十代目金原亭馬生は、父志ん生についてどんなことを語っているか、ご紹介したい。

 題は、「ふだんちっとも面白くないからこそ、高座が面白かったんですよ」となっている。
 冒頭から引用。
 オヤジさんが死んでからも、いろんな人にオヤジさんのことを聞かれますけど、人について語るなんておこがましいですよね。まして、オヤジのこととなると、そうでしょ?だから、できるだけオヤジさんのことは話さないようにしてるんですけどね。その点、
「名人です。うちのオヤジは名人です」
 って言ってる志ん朝のほうが利口ですね。だから、
「オヤジさんは面白い人でした」
 それでいいんです、それは。でも、みなさんは納得しないで、何かと聞くわけです。だからここで、まあ、これが最後ってわけじゃないと思うんですけど、あたしなりのオヤジさんの話をしてみようと思うんです。

 ということで、実に貴重な記録と言えるだろう。

 この後、すぐ、襲名のことに話が及んでいる。

 みなさんが気になっているのは、あたしが六代目を継ぐかどうかっていうことなんですけど、これはもう志ん朝に継がせることに決めたんです。別に誰に言われたってわけじゃなくて、あたしが自分で決めたんです。オヤジさんの遺言じゃない。
 オヤジさんはもう志ん朝がかわいくて、かわいくてしょうがないんですよ。歳をとってからの子供でしょ。それがパーッと素直に育って、パーッと売れたでしょ。だから嬉しくてしょうがないわけです。だけど、あたしという者がいるから、心配なわけですよ、もう。そこになると単なる世間のお父っつぁんになっちゃうですね。ええ。だから、生前、
「安心しなよ。志ん生は志ん朝に襲名させるから」
 って言ったら、もう、涙と洟(はなみず)でクシャクシャになって、
「ありがとう・・・・・・ありがとう」
 って。で、おふくろからも、
「お願いします」
 って両手をつけられて、それじゃあしょうがないでしょう。わずらってるおふくろに、
「お願いします」
 って、手をつかれちゃったら。・・・・・・それであたしが志ん生になったら馬鹿ですよ。

 ということで、せっかく兄が気配りして父、そして母に約束した弟の六代目襲名だったが、それは、結果として実現しなかった。

 本書の馬生の聞き書き、ご本人の生きた言葉が聞こえるようで、なかなかいいのだよ。

 初回は、このへんでお開き。
# by kogotokoubei | 2019-06-14 12:47 | 落語の本 | Comments(0)
 月曜から、古い記事へのアクセスが急増している。

 2010年に、古今亭志ん生のりん夫人の命日、12月9日に書いた記事だ。
2010年12月19日のブログ
 
 「いだてん」の影響だろう。

 9日のいだてんも、なかなか楽しかった。

 金栗四三の、女の園でのお茶らけぶりは、クドカンならでは。

 志ん生が真打昇進した際の、ぼろぼろの着物での披露目も登場。
 そして、りんさんと結婚。

 結婚したのは、関東大震災の前年大正11年、美濃部孝蔵32歳、清水りん25歳の晩秋のことだった。りん夫人がやって来た翌日には、悪友と女郎買いに出かけた志ん生の姿も「いだてん」で描かれていたね。

 夫人が持参した嫁入り道具はあっと言う間にまげて(質に入れて)しまい、あの有名な貧乏生活が幕を開けるのであった。


 私は、このドラマ、金栗四三と田畑政治、そして、古今亭志ん生の三人が主役、と思って観ている。

 実在の人物を「モチーフ」にしたフィクションと割り切り、たとえば、若き日の志ん生の姿も、相当脚色されてはいるのだが、それも、クドカン流の楽しさと思うようになってきた。

 相変らず視聴率が低いというニュースがネットで飛び交うが、そんなことは気にしなくていいでしょう、関係者も。

 見ている人の期待度、満足度は。これまでの大河より高いのではなかろうか。
 私は、そうだ。

 視聴率という「量」ではなく、測ることはできないが、視聴「質」で勝負する大河。
 それが、「いだてん」だと思う。

# by kogotokoubei | 2019-06-12 12:57 | ドラマや時代劇 | Comments(2)
 昨日は、雨で日曜恒例のテニスが休み。

 ということで、事前に電話して空席ありを確認し、むかし家今松が主任の国立へ。
 九月の独演会は、大学同期との旅行に重なり行けないので、なんとか行きたかったのだ。雨のおかげだ。
 
 とはいえ、今思うと、出かける時にはほとんど雨が止んでいたのが、吉兆だったかな。

 演芸場の前には、開場40周年の幟。

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 演芸資料館では、40周年記念のさまざまな懐かしい資料の展示があった。
 撮影禁止で、ご紹介できないのが、残念。

 国立演芸場開場40周年記念「国立演芸場40年の歩み」は、7月21日まで開催とのこと。
国立演芸場サイトの該当ページ

 電話で確認した通り、たしかに当日券があった。

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 5月15日の四代目圓歌襲名披露興行では、当日券なしで満席だったことを思い出す。

 先にチケットを確保。なんと4列目の中央当りの席がポカっと空いていた。
 近くで、昼食をとって、会場へ。

 入りは、五割ほどだったろうか。
 雨とはいえ、日曜の昼席であることを考えると、なんとも寂しい。

 私の席の近くに、どこかの学校の同窓会を兼ねてお集まりになったと思しき団体さん。 
 今松にご縁のある人たちか。
 松戸出身で昭和20年生れの今松。年齢も近いような気がする。違うかもしれない。
 終演後は、どこかで食事会なのだろう。落語会で集合なんて、なかなか洒落た同窓会ではないか。

 さて、開口一番から順に、感想などを記す。

柳家小ごと『道具屋』 (13分 *12;46~)
 初。一琴の弟子。だから、小三治の孫弟子。
 丸顔でやや太った姿に、やなぎの前座時代(さん坊)を前座の時に聴いた頃を思い出した。
 やや怖い見た目なのは、緊張のせいもあるか。
 与太郎が、鼠の山葵おろしでの退治の仕方や、鯉の捕獲方法を叔父さんに伝授する場面を含め、なかなかしっかりした高座で、今後も期待したい。

初音家左吉『家見舞』 (17分)
 九月の真打昇進が近づいてきた。髪型は、いつものように、しん平に似たリーゼント的。結構、スタイルには執着しているのだろう。
 高座のほうは、二ツ目としては水準は超えていると思うが、どうも後味が悪い。
 兄ぃの家に着く前に、やはり、この甕は洗って欲しい。運んでいきなり水を張ってはいけないでしょう^^
 たとえば、この日の主任の今松のこの噺は、実に楽しいし、後味も良い。見習って欲しいものだ。
 また、この人は、どんんば噺を自分の“売り”にしていこうとしているのだろう。
 何度か聴いているが、つかみどころがない、という印象。
 真打となる以上、何か自分の十八番を見つけ出して欲しい。

古今亭菊志ん『野ざらし』 (16分)
 久しぶりだ。2014年10月の鈴本での『五目講釈』以来。
 末広亭で名づけされた日に行っても、代演だったことが、たぶん二度あったはず。
 菊朗時代から好きな人で、円菊門下の、菊之丞、菊志ん、文菊の若手トリオが、将来の東京落語界で重要な存在になると思っている。
 さて、この高座も実に良かった。この噺の手本と言えるだろう、春風亭柳好と春風亭柳枝の良いところを、上手に融合させたような構成。
 たとえば、菊志んは、釣りの場所を向島としていたが、柳好は、最初は三囲辺り、そこから鐘ヶ淵まで移動しても駄目だった、と言っている。柳枝が、向島としている。
 また、鐘の音の演じ分けは、柳好。
 もちろん、この噺を滑稽噺と仕立てた初代円遊の型が、そもそもの土台であることは言うませもない。
 途中、この人ならではのクスグリが、適度に効いている。
 「ドクロ? あぁ、野菜か果物がわからねぇやつ」「そりゃぁ、ザクロだ!」なんてのが可笑しい。
 柳好版のように、鐘の音の違いを演じわける場面も、楽しいし、♪サイサイ節もしっかり。
 妄想場面で、近くで見ている釣り人が「とうとう、寸劇が始まりましたよ」なんて科白にも、笑った。
 その妄想、向島のコツが夜に八五郎の長屋にやってきて、浮気をしたら嫌だよ、とつねったりくすぐったりの場面、「ツネツネ」「コチョコチョ」の掛け合い、持ち味の豊かな表情が生きる。
 川に落ちて上がってきたところでサゲたが、いつか通しで聴きたいものだ。
 さすがの菊志ん、と久しぶりの高座を満喫。
 寄席の逸品賞候補として色をつけておく。

アサダ二世 奇術 (17分)
 「時間調整しなくてはいけない」と話しながら、芸をしようとしてマイクに戻る語りと、赤いスカーフ→紐→トランプ、は5月15日とほぼ同じ。
 トランプの風船のネタでは、最前列下手のご家族連れがお手伝い。小学校四年生の少年の将来が楽しみだ。
 先月との違いは、右手人差し指に傷テープが巻かれており、「猫にひっかかれまして」というところ^^
 71歳、まだまだ落語協会の色物で、この方には頑張っていただきたい。

五明楼玉の輔『宗論』 (18分)
 マクラが7分ほどあったから、ネタは十分程度。
 この人の十八番の一つで、近くの席の同窓会と思しき団体さんは大笑いして、賛美歌まで一緒に口ずさんでいる方がいたが、私はあまり笑えなかった。
 どうも、相性が悪いのだ。
 定番のマクラも、そろそろ飽きてきた。マンネリは磨かれて一つの芸になることもあるが、「またか・・・・・・」と思わせるマクラには、そんな可能性はありえないだろう。

柳亭小燕枝『禁酒番屋』 (22分)
 仲入りは、この人。前日には、今松休演でトリも務めている。
 楽しみだった一人なのだが、残念。
 左吉の『家見舞』が出ていることを考えると、このネタの選択には疑問。
 また、この人にニンな噺とも思えない。

 さて、後半。

ニックス 漫才 (16分)
 妹が小池ゆる子という旅館の女将、姉が客、という設定のコント(?)は、初めて。
 最初の頃から、次第にこの人たちとの相性の悪さがなくなってきた。
 以前気になっていた不自然な間が、妹の「そうでしたか」の科白で解消されていることもあるか。

柳亭左龍『鹿政談』 (20分)
 『英会話』が二度続いていたので、久しぶりのこの人の古典を聴くことができた。
 マクラで、しっかりと江戸、京都、奈良の名物を紹介。
 左龍とは少し違うと思うが、米朝の音源からご紹介。
  江戸名物:武士、鰹、大名小路、生鰯、茶店、紫、火消、錦絵
       (伊勢屋稲荷に犬のクソ、をあえて入れないところが米朝^^)
  京都名物:水、壬生菜、女、羽二重、御簾屋針(みっしゃばり)、寺に織屋に人形、焼物
  奈良名物:大仏に、鹿の巻筆、霰(あられ)酒、春日灯篭、町の早起き

 この「早起き」の由来を、左龍もしっかり押さえておいて本編へ。
 お白州で奉行(松野河内守としていた)が、なんとか情けをかけてやろうとして「六十三では、見間違いなどもあろうに」などとふっているのに、正直者の六兵衛さん、耳も目もしっかりしていて、ここ三年風邪もひかない、と答える。
 「元は奈良の生まれではなかろう」と言われても「いえ、三代続く奈良の者で」と、せっかくの奉行も、かたなし。
 奉行、「これは鹿ではなく、赤犬ではないか」と言って、目付の塚原出雲に尋ねる。 出雲が「いえ、鹿に相違ございません」と答えるのに対して奉行、「いや、鹿には角があるが、ないではないか」と言うと、出雲が奉行を馬鹿にするように「鹿は毎年春、若葉を食しますために弱って角を落とします。これを落とし角と申し」という言葉をさえぎり、「そんなことは分かっている」と、奉行が出雲への反撃開始。
 出雲が鹿の餌料を横領していることを突きつけ、そちらの裁きを先にしようか、と言う。苦りきった表情の出雲。あらためて奉行から「これは犬ではないか」と問われ、出雲も興福寺の了全も、そして、同心たちも鹿を「犬でございます」と「忖度」して、六兵衛さん、事なきを得る。
 よく考えると、長いものに巻かれる噺では、ある^^
 左龍の丁寧な語り口は歯切れ良く、お白州での奉行を演じる眼力の演技も結構。
 この人にはニンな噺だと思う。
 こちらも、寄席の逸品賞候補として色を付けておく。
 
柳家小菊 俗曲 (14分)
 三部作♪「への八番」、も、♪「チャッキリ節」も良かったが、小唄♪「気前が良くて」も結構でした。
 ♪気前が良くて男前 たんとお宝持っていて 私を優しくしてくれて
  乙な小唄も唄えるような そんなお方はいないかえ   まず少ないねえ
 そりゃ、少ないだろう^^
 ♪「品川甚句」で締める前、「何かリクエストはありませんか、ありませんね」と言いかけて、客席から「烏、正夢」との声。
 「あら、明烏後正夢ですか、よくご存知ですね。でも、あれは時間がかかりますから、別の機会に。それにしても、ご通家の方がいらっしゃるから気が抜けないわ」と、師匠紫朝から最初に習った新内であると語る。
 持ち時間からしても、小菊のいつもの芸から考えても、到底リクエストに応えることはないと知りながらの掛け声だったとは思うが、小菊は嬉しかったのではなかろうか。

むかし家今松『柳田格之進』 (40分 *~16:21)
 最近の事件のことなどにふれ、世の中は欲と嫉妬などと言いますが、欲望だらけのトランプ、なんて言葉が出てくるのが、嬉しい。まるで政権御用達と化した大阪の某芸能プロダクションの芸人とは、了見が違うのだ。
 そんな欲と嫉妬の世の中にも、昔は清廉潔白な武士がいて、と本編へ。
 私は心の中で、「えっ、柳田!?」と叫んでいた。もちろん、嬉しさの叫び。
 元は講釈ネタで、明治の前半に活躍した三代目春風亭柳枝が得意とした、とされる。
 しかし、今に残る噺は、何と言っても、古今亭志ん生が元と言って良いだろう。
 その筋書きは、志ん生と志ん朝の型と、師匠馬生(金原亭)の型では、いろいろと違いがあるが、もちろん、今松は馬生の型。
 さて、今松のその高座、まず主役の格之進の紹介。彦根の城主井伊氏の家来で、その真っ正直さが疎まれて浪人の身となった男。文武両道に優れているが、あまりに正直で潔癖すぎて、他の者が受け取る商人たちからの付け届けも一切断る。そうなると、周囲の者からは疎まれ、讒言のために浪人の身に。娘のおきぬと江戸に出て、浅草阿部川町の裏店に逼塞している。
 このあたりのプロローグ、よどみなく、過不足なく語ってくれた。
 毎日家にこもる父を見て、おきぬが気晴らしに碁でも打ってきては、と勧められ碁会所へ行き、馬道一丁目の両替商、万屋源兵衛と知り合う。碁の腕前も同じ位で、二人は親しくなっていく。
 ある日、碁会所がいっぱいの人で碁盤が埋まっていて、源兵衛は、「どうです、うちにお越しいただけませんか」と誘ってから、格之進の万屋通いが始まる。
 碁を打った後には、酒肴が提供されるのを、潔癖な格之進が、これではいかん、と万屋へ行かずに家にいると、丁稚が迎えに来る。つい、誘いに乗ってしまい、後日世に出た時に返そう、と思い直し、格之進と源兵衛との交流が続く。
 今松、この二人の描き方も、的確。
 さて時は過ぎて中秋の名月、月見の宴に誘われて、格之進は万屋へ。そして、あの事件が起こった。二人が碁に夢中になっている時に、小梅の水戸様からの五十両を番頭の徳兵衛が源兵衛に渡したのだが、それが見あたらなくなったのだ。
 余談だが、『文七元結』といいこの噺をいい、五十両となれば、“小梅の水戸様”なのである。
 さて、徳兵衛は、「もしや、柳田様が」と言うが、源兵衛は「馬鹿なことを言うものではない。柳田様はそんなお方ではない。もし万が一そうであったとしても、私はいずれ何がしかをお渡ししたいと思っていたんだ。五十両は私の小遣いにつけて、忘れなさい」と言う。源兵衛が、どれほど格之進という人間の清廉潔白さを尊敬していたかが分かる言葉。
 しかし、徳兵衛としては、一番番頭である自分より、一浪人を信じる主人への不満もあるし、なにしろ大金である。翌日、柳田の裏長屋へ出向いて、「もしや、柳田様、あの五十両のことをご存知では」と言うと、格之進「疑っておるのか、まったく見覚えがない」と答えるのだが、奉行所に届けると聞くと、格之進、「濡れ衣ではあるが、疑われたのは自分の不徳」と、明日五十両渡すと約束し、徳兵衛を帰す。
 このあたりの徳兵衛の姿は、師匠が演じるほど伝法ではなく、今松は、やや軽妙な味つけで描いた。それも悪くない。
 格之進、おきぬを叔母の家に使いに出して、その後切腹する覚悟。しかし、おきぬは父の心情を読み取る。
 前半の山場は、この父娘の会話だろう。
 今松、淡々としていながらも、おきぬの武士の娘としての凛とした姿を描いてくれた。
 吉原に身売りをして得たのが、百両。なにかと差し引いて、残った五十両を徳兵衛に渡し、格之進が「見覚えのないこと、後日、その金がよそから出てきたら、どうする」の問いに、そんなはずはないと思い込む徳兵衛が、自分の首と、主人源兵衛の首も差し出しましょう、と返事。この徳兵衛のこの場面の軽妙さも、この噺のアクセントとして活きる。
 そうこうするうちに、十二月十三日の煤掃きとなった。師匠馬生、私の持っている音源では日をはっきり定めない。志ん朝は二十八日としている。十三日が正しい。さすがの今松。
 源兵衛と格之進が碁の対局でいつも使っていた部屋の額縁の裏から、小僧が五十両を発見。源兵衛は番頭以下店の者に、長屋から姿を消した格之進を探させる。褒美に三両となれば、皆が朝から「柳田様を捜しにまいります」と堂々と外出し、中にはどこかでさぼっている者も、というのは、小僧、手代たちとしては、ありえることだ。もちろん、なんとか必死で探す者もいただろう。一番番頭がいなくなれば、順送りで上に行けるのだから。
 後半の最初の山場は、湯島切通しの場。
 今松は、事件の次の年も過ぎ、また正月が明けた四日、と設定。これは、師匠も翌年としていたので、今松の工夫だろう。たしかに、帰参がかなって、なおかつ、おきぬを身請けしてから湯島の場面という筋書きなので、事件の翌年の正月では、早すぎるかもしれない。このあたりは理にかなっている。
 頭と一緒に年賀の挨拶の途中で湯島天神にさしかかった徳兵衛が、降り始めた雪の中でふとすれ違ったのが、豪華な煤竹羅紗の合羽を羽織った立派な身なりの侍。何と江戸留守居役として帰参がかなった格之進であった。
 格之進が、すれ違いざまに徳兵衛に気づき、
「失礼だが、徳兵衛殿ではござらぬか」
「おっしゃる通り、万屋の徳兵衛でございますが、どちらのお侍さんでございましょうか」
「柳田格之進だ」
 で、徳兵衛の顔が青ざめる。
 湯島天神境内のお留守居茶屋で、徳兵衛から五十両が見つかったと聞いた格之進、徳兵衛に「明日、二人の首をいただきに、うかがう」と言い放つ。すぐ退散する徳兵衛。
 さて、最後の山場。
 志ん生・志ん朝では、翌日、主の源兵衛は、使いに行けと徳兵衛を外出させて格之進を迎える、としている。しかし、徳兵衛は出かけずに格之進と源兵衛の会話に聞き耳を立て、源兵衛が自分を助けようとしたことが分かり、思い余って登場、という筋書き。
 馬生型である今松は、二人が一緒に揃って柳田迎えると設定。
 きっと、使いに出そうとするが残っていた徳兵衛、という設定は割愛できる、との判断だろう。
 さて、主従揃っているところに登場した格之進。あの五十両は、娘が吉原に身を沈めて作った金。帰参かなって身請けして家にいるが、衰弱し、まるで老婆のような姿・・・と告白する。ここも、馬生型。やや、聴いていて辛いおきぬの後日談、ではある。
 源兵衛が、「どうか徳兵衛を助けていただき私の首を討ってください」と言うのを聞いて、「とんでもない、旦那様は柳田様はそんなことをする人ではない、と止めるのを聞かず、私が勝手にやったこと。どうか私をお斬りください」と徳兵衛は頭を下げる。
 格之進は、主従の思いを聞いて逡巡し、結果、二人を斬ることはなく、碁盤を真っ二つ。
「柳田勘忍袋の一席」でサゲた。
 馬生の型は、父や弟のように、源兵衛が柳田に助けられてから、おきぬを身請けし、徳兵衛とおきぬが所帯を持つとか、その子が柳田の家を継ぐという設定ではない。
 ハッピーエンドにはならないが、今松の高座、決して、暗い後味はない。それは、今松という噺家さんの持ち味が成せるものだろう。聴いていて、じんわりと瞼が濡れてきた。
 決して大袈裟な表現手法を取らないのだが、登場人物の内面がずしっとした重みで聴く者に伝わるのが、今松落語の真骨頂なのだと思う。
 師匠の型を踏襲しながらも、語り口、人物描写には、今松ならではの丁寧さ、気配りが見受けられた絶品の高座。今年のマイベスト十席候補とする。


 外に出ると、雨。とはいえ、それほど強くは降っていない。
 豪雨被害などは困るが、ほどほどの雨は作物が育つには必要。

 加えて、落語を楽しむこともできる^^

 今松の高座の余韻を楽しみながら、帰路についた。

 帰宅して、記事を書き始めたが、一杯やりながら、サッカーの久保君デビューを見ているうちに、瞼が重くなってきた。到底、その日のうちに書き終えることはできないのであった。

 居残り会では、「記事が長い!」とのご指摘をしばしば受けるのだが、良い高座に巡り合うと、つい、長くなってしまう。ご容赦のほどを^^

# by kogotokoubei | 2019-06-10 20:54 | 寄席・落語会 | Comments(4)

Dr.Johnを偲ぶ。

 Dr.Johnの訃報に接した。

 77歳。心臓発作だったようだ。
 
 70年代、好きなミュージシャンの一人だった。

 Wikipediaの「ドクター・ジョン」から引用。
Wikipedia「ドクター・ジョン」

ルイジアナ州ニューオーリンズ出身。1950年代からマック・レベナックの名でギタリストとして活動を始める。しかし1961年、フロリダ州のモーテルで友人のミュージシャンのロニー・バロンをかばって左手を撃たれ、薬指が不自由になりギタリストを断念。これを機にオルガン、ピアノを覚える。
その後ロサンゼルスへ渡り、作曲家などの活動を経て1967年に『グリ・グリ』でデビューする。濃厚なR&Bのセンスとニューオーリンズならではのブードゥー教文化を背景にしたサイケデリックな音楽性はキワモノ的なものであったが、収録曲「アイ・ウォーク・オン・ギルデッド・スプリンターズ」は、後にハンブル・パイやポール・ウェラーにカヴァーされた。1972年の『ガンボ』はニューオーリンズの古いポピュラー音楽を蘇らせた試みとして高い評価を受けた。同年には、ローリング・ストーンズ『メイン・ストリートのならず者』にバック・コーラスでゲスト参加。1973年の『イン・ザ・ライト・プレイス』からのシングル「ライト・プレイス・ロング・タイム」は、全米9位の成功を収め、同年にはコロムビア・レコードからジョン・P・ハモンド、マイク・ブルームフィールドとのコラボレーション・アルバム『三頭政治』がリリースされた。1976年11月25日にはザ・バンドの解散コンサートにゲスト参加し、その時の模様は、映画『ラスト・ワルツ』でも紹介された。

 ハリケーン被害に遭う前のニューオーリンズを訪れたことがあり、ガンボを食べた時、ドクター・ジョンのことを思い出した。

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 最初に聴いたのは、「ガンボ」の中の、♪スタッカ・リー、だったはず。
 高校時代の深夜放送だと思う。 


 「ラスト・ワルツ」での♪Such A Nightを聴きながら、彼を偲びたい。

 「イン・ザ・ライト・プレイス」に収められていた曲で、「こんな夜は盗みにもってこい、君をあいつから盗むんだ」、というような歌詞の、ドクター・ジョンらしいラブソング。



# by kogotokoubei | 2019-06-07 12:54 | ある人物 | Comments(6)
 立川志らくが、自分が主宰している芝居の稽古を見に来なかった、という理由で弟子の二ツ目全員を、前座に降格させたとのこと。

 弟子ならば師匠のやっていることに興味を持つのが当然であるはず、ということらしい。

 この件に特段興味はなかったのだが、志らく自身が、師匠談志から破門を言い渡されても拒否していたことを思い出し、紹介したくなった。

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立川志らく著『雨ン中の、らくだ』

 『雨ン中の、らくだ』に書かれている、前座時代、他の兄弟子と同じように築地で修行するように師匠に言われた時のこと。

 なお、志らくは、大学落研の先輩、高田文夫の紹介で、談志に入門している。

「お前は見込みがあると思ってたいがいのことは我慢してきたが、やっぱり駄目だな。お前も明日から築地に行け」
 とうとう審判が下されたのです。私の頭の中に一瞬、高田先生の顔が浮かびました。高田先生にこのことを報告したらどれだけ悲しむか。
 それから師匠のあのときの言葉が浮かんできました。
「お前は築地に行くような馬鹿になるなよ」

 私は覚悟を決めて言いました。
「師匠、築地に行くのは嫌です」
「・・・・・・お前だけエコひいきするわけにはいかないのだ。行け」
「嫌です。行きたくないです」
「ならば、破門だ。辞めてもらう」
「それも嫌です」
 師匠に逆らうなんてこの世界ではありえないことです。師匠の言うことは絶対というのが不文律。でも、師匠の「師匠は絶対ではない。ケースバイケースだ」という言葉を思い出しました。築地には行きたくないし、破門は嫌なのだから、ここはどんなことがあってもくらいつかないといけない。私は必死でした。
 師匠はちょっと驚いた顔をしましたが、しばらく無言のあと、こう言ってくれました。
「両方嫌なんじゃしょうがねェ。じゃあ今までどおり、いろ」
(中略)
 談春兄さんは半ば呆れた顔で私に言ってきました。
「嫌って言えばよかったのか。ずるいなぁ」


 昭和61(1986)年、談春が二十歳、志らくは二十三歳でのこと。

 さて、今回、志らくに降格を言い渡された弟子たちの中で、「嫌です!」と答えた人はいたのだろうか。
 
 「嫌です!」と拒否してもいいんじゃないか、志らくの弟子なら。

 師匠のやっていることに興味を持つのが弟子なら、師匠が彼の師匠の命令に抵抗した事実にも大いに興味を持って、師匠がとった行動を見習うべきではなかろうか^^

 とはいえ、もし弟子が「嫌です!」と拒否した時、志らくが師匠談志のように認めるだけの度量があるかどうかは、疑問。
# by kogotokoubei | 2019-06-05 12:36 | 師匠と弟子 | Comments(4)

 5月の記事別アクセスランキングは、次の通りだった。

1.「万引き家族」における、樹木希林さんのアドリブのことなど。(2018年9月19日)
2.今から140年前、なぜ明治政府は改暦を急いだのか。(2013年1月14日)
3.『抜け雀』のサゲ-『米朝らくごの舞台裏』『落語鑑賞201』などより。(2015年5月15日)
4.あれから八年・・・風化しつつある、甲状腺がん問題。(2019年3月11日)
5.志ん生は、本当に圓喬の弟子だったのか・・・・・・。(2019年4月4日)
6.『擬宝珠』—柳家喬太郎による古典掘り起こしの成果の一つ。(2014年1月18日)
7.新宿末広亭 四月下席 夜の部 4月29日(2019年5月2日)
8.新宿末広亭 四月下席 昼の部 4月29日(2019年5月1日)
9.健さんが愛した歌、「ミスター・ボージャングル」についての補足。(2014年11月25日)
10.あらためて、小痴楽の単独真打昇進のこと、など。(2018年12月30日)

 「万引き家族」について書いた記事が、先月に続き1位。
 アクセス数は先月から倍増に近く約1300。
 その理由はよく分からないが、是枝監督の本が文庫化されてから増えているように思う。

 2位は、こちらも安定的にアクセス数のある、明治の改暦の記事。
 
 3位と6位は落語のネタの記事で、こちらも安定してアクセスがある。

 4位は、3.11に書いた記事。久しぶりに時事ネタを書いた。

 5位の志ん生の記事。「いだてん」効果だと思う。

 7位、8位に新宿末広亭の昼夜居続けの記事が並んだ。

 9位も、毎月ランキングする、高倉健さんのお気に入りの歌の記事。

 10位は、次第に近づいてきた、柳亭小痴楽の単独真打昇進の記事。



 さて、はや六月。
 明日三日から、旧暦五月。だから、街は皐月の季節。

# by kogotokoubei | 2019-06-02 19:36 | アクセスランキング | Comments(2)
 川崎の事件は、なんとも言えない悲しみと空しさが募る。

 さまざまなメディアで。あの事件が報道されている。

 その中で、街頭での声やメディアでのコメンテーターなる人たちの発言が、いろいろと物議を醸している。

 どんな発言が話題になっているかは、あえて書かない。

 
 こういう事件があると、随分前に書いた、ある本に関する記事を思い出す。

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中島梓『コミュニケーション不全症候群』

 それは、中島梓さんの『コミュニケーション不全症候群』。
 1991年8月に筑摩書房から単行本として発行され、1995年12月に文庫化。

 八年ほど前、二度、長い記事を書いた。
2011年3月5日のブログ
2011年3月6日のブログ

 今思えば、3.11の直前だった。
 
 最初の記事は、本書の引用を中心に、どんなことが書かれているかを紹介し、翌日、補足的な記事を書いた。

 その二つ目の記事と重複するが、こういう事件の背景にある社会病理について、考えたい。


 あの本の「最後の人間」の章から引用。

 ここに、なぜ「おタク」や「ダイエット」などを素材として「コミュニケーション不全症候群」というテーマで本を書いたのかについて、著者中島さんの思いが書かれている。

 もっとずっと重大に見えるたくさんの問題−たとえば環境破壊、地球の汚染、戦争や飢餓がこれほど身近に迫った臨界点をかかえているように見えるとき、なんでわざわざコミュニケーション不全症候群−いうなればほんのちょっとした不適応ないし過剰適応の問題を俎上にあげてまじめに考えなくてはならないのか。
 それは警察の機構と似ている。−「犯罪が起こらなくては何もできることはない」のである。おタクのなかのあるものがゆきずりに幼女を殺せばはじめておタクという存在は社会問題となる。が、それはすぐに次の−そう、たとえば、見捨てられている少年たちが女子高校生をさらって監禁し、ついになぶり殺してしまった、というような事件にとってかわられ、人々の関心と有識者の意見とはすぐに、それまでのおタクについての考察から、放任家庭への批判へとうつりかわってゆく。同じように拒食症で20キロになって死に瀕してはじめて、少女たちは多少なりともかえりみられるだけの価値のある存在、つまりは立派な「患者」として扱われるようになるだろう。
 本当はそれでは遅いのだが、そういう扱いが幸いにして間に合うことはなかなかない。いや、彼ら彼女たちがそのような、さまざまな異様な症状を呈するにいたったのはそもそも大体が、それほどに−殺人をおかしたり20キロにまで自分自身をすりへらすようなことになるまでに、社会から無視され、かえりみられず、かえりみるだけの価値もない存在として扱われていたからなのだ。社会は彼らをちゃんとした人間として正視しなかったし、彼らもまた自分たちの同類をそうしなかった−彼らの場合はそうするだけの余力はもう残ってなかったのかもしれない。また彼ら自身も社会に対してそういう期待をもつこともなかったのだ。そうするかわりに彼らは自分自身の頭を虚構の砂のなかに埋める−さながら駝鳥のようにだ。そうして何も見ないで生きようとする。

 中島さんの文章は、特にこの評論は、独特の言い回しもあって分かりにくい部分もあるが、私なりの理解とちょっとした主張にまとめると、こういうことになる。

(1)現代社会は、自分自身が安心していられる“テリトリー”が、常に侵害される恐れがある
(2)そのテリトリー外の人とのコミュニケーションが、なかなか上手く行えない傾向にある
(3)いわば「コミュニケーション不全症候群」と言うべき病は、必ずしも“ヘンな人”や
   “異常な人“といった特定個人の問題ではなく、現代人がすべからく侵されかねない
   社会病理である
(4)そういった環境に過剰適合したものとして、「おタク」や「ダイエット」、そして行き
   過ぎたダイエットによる摂食障害などの問題がある。
(5)しかし、こういった社会病理に起因する問題は、特定個人が何か問題を起こしたり、
   ニュースになるような事態になって初めて、あくまで“個人”の問題として警察が扱い
   マスコミも取り上げるが、本質的な社会病理のことは滅多に話題にならない
(6)重要なのは、その特定個人による“事件”の背景にある社会病理の実態を知ることと、
   それをどう解決するかという議論なのである


 さまざまな事情、背景から、自分の狭いテリトリーに閉じこもりがちな人に対し、その殻を一層固いものにしてしまうような発言や行動は、決して今回のような事件の解決にならないと思う。

 すでに“犯人”である人物に対し批判するのは、周囲の同調も得られやすい。
 そういう時の発言は感情的になりやすいが、多くのメディアは、それを煽る。

 そうやって、犯人を批判、指弾することは、同じような事件の発生を抑制する効果があるのかどうか。

 大事なことは、“犯人”を出さないことではないのか。

 安倍内閣を含め、登下校時の安全確保、ということを力説するが、それで問題の本質部分が解決できるのだろうか・・・・・・。


 中島梓さんが『コミュニケーション不全症候群』を書いてから三十年近く経とうとしている。
 彼女が指摘した、“社会から無視され、かえりみられず、かえりみるだけの価値もない存在として扱われ“る人は、間違いなく増えていると思う。

 同じような事件が起こらないようにするには、寛容な姿勢で、相互扶助の精神が生きる社会が必要だと思う。

 3.11の後、そういう社会に戻りつつあったように思うが、残念ながら、あれだけの犠牲があったにもかかわらず、不寛容な社会に戻りつつある。

 “さながら駝鳥のように”“自分自身の頭を虚構の砂のなかに埋める”人が増えているのではないか。

 防御の観点でいろいろ考えることも、大事かもしれない。

 しかし、警備を厳重にすることにも限界がある。

 AIを活用して画像認識技術で危険と思われる人物を特定する、なんてことが可能な時代だ。
 中国では顔の認識技術と罰金の引き上げで、交通違反や犯罪を減らしている。

 しかし、行き過ぎると、常に監視の眼が光る息苦しい社会になる危険性がある。

 ジョージ・オーウェルの「1984」の社会は、技術的には現実性を帯びてきた。

 そんな息苦しい社会を、多くの人が望むのだろうか。

 やはり“犯人”をできるだけ生み出さないための社会の姿を模索することが大事ではないか。

 あえて、「甘い!」という批判を覚悟で書くが、イソップ寓話の「北風と太陽」の教えを思い出す必要があると思う。

# by kogotokoubei | 2019-05-31 21:54 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 5月19日の「いだてん」で、森山未來が馬生と志ん朝(朝太)の高座を演じ分けた芸に感心した。

 ビートたけしの志ん生も、最初の頃ほど抵抗感はなくなってきた。

 というか、金栗四三、田畑政治、そして志ん生の三人の物語と思って、楽しんでいる。

 その志ん生が、記録的な改名の歴史を誇る(?)ことは、有名。

 しかし、いつどの名跡を名乗っていたかは、部分的にはご本人の記憶も曖昧で、確たる説はない。

 どんな説があるのかを、ある本から紹介したい。

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保田武宏著『志ん生の昭和』

 その本は、保田武宏さんの『志ん生の昭和』(アスキー新書)。
 著者の保田さんは志ん生のCDとDVDの全作品691のガイドブックも書いているし、志ん生のことを知るには、保田さんの著作に当るべきだろう。

 「第一章 なめくじ長屋」から引用。

 ここで五代目古今亭志ん生の改名について記しておこう。度重なる改名で、本人もはっきり覚えていないほどだが、三つの説がある。
[小島貞二説] まず『びんぼう自慢』を聞き書き、アレンジした小島貞二の説。
   三遊亭盛朝(明治四十年)-三遊亭朝太(明治四十一年)-三遊亭圓菊(大正五年)-
   金原亭馬太郎(大正七年)-全亭武生-吉原朝馬-隅田川馬石-金原亭馬きん(大正十年)-
   古今亭志ん馬-小金井芦風-古今亭馬生(大正十五年)-柳家東三楼(昭和二年)-
   柳家ぎん馬-柳家甚語楼-古今亭志ん馬(昭和七年)-金原亭馬生(昭和九年)-
   古今亭志ん生(昭和十四年)
 馬太郎と馬ぎんのあいだに全亭武生、吉原朝馬、隅田川馬石をまとめて入れているが、年代の裏づけはない。

 古今亭志ん馬を二度名乗っているので、名跡の数は十六。
 保田さんが小島さん以外に紹介しているのは、結城昌治さんと、斎藤忠市郎さんの説。

[結城昌治説] 小説『志ん生一代』の作者の説。
   三遊亭朝太(明治四十三年)-三遊亭圓菊(大正五年)-金原亭馬太郎(大正七年)-
   吉原朝馬(大正八年)-全亭武生(大正九年)-金原亭馬きん(大正十年)-
   古今亭志ん馬(大正十二年)-小金井芦風(大正十三年)-古今亭馬生(大正十五年)-
   古今亭ぎん馬(大正十五年)-柳家東三楼(昭和二年)-柳家甚語楼(昭和二年)-
   隅田川馬石(昭和五年)-柳家甚語楼(昭和五年)-古今亭志ん馬(昭和七年)-
   金原亭馬生(昭和九年)-古今亭志ん生(昭和十四年)
 隅田川馬石を昭和へもってきているが、ぎん馬を古今亭にして柳家東三楼の前にしている。最初の盛朝は入れていない。
 すべてに襲名の時期がある。大正十二年と昭和五年は、同じ年での二度改名していることになる。
 盛朝がなく、古今亭志ん馬と柳家甚語楼が二度あって、名跡は十五種類。

 さて、三っめの説。

[斎藤忠市郎説] 落語史研究家が、新聞、雑誌などの資料にあたって、調べあげた説。筆者も調査してみて、この説が一番正確だと判断した。したがって本書はこの説によっている。
   三遊亭盛朝(明治三十八年)-三遊亭朝太(明治四十三年)-三遊亭圓菊(大正六年)-
   金原亭馬太郎(大正七年)-金原亭武生(大正九年)-金原亭馬きん(大正十年)-
   古今亭志ん馬(大正十三年)-小金井芦風(大正十四年・志ん馬と併用)-
   古今亭馬きん(大正十四年)-古今亭馬生(大正十五年)-柳家東三楼(昭和二年)-
   柳家ぎん馬(昭和二年)-柳家甚語楼(昭和三年)-隅田川馬石(昭和五年)-
   柳家甚語楼(昭和五年)-古今亭志ん馬(昭和七年)-金原亭馬生(昭和九年)-
   古今亭志ん生(昭和十四年)
 吉原朝馬が入っていない。これを名乗のった形跡がないのである。武生は前二説と違って金原亭であり、馬きんは金原亭と古今亭の二度名のっている。ぎん馬は名前から判断すると古今亭のように思えるが、これは三語楼門下になってからであり、柳家で間違いない。

 古今亭志ん馬と柳家甚語楼を二度名乗っているので、名跡の数は十六。

 
 26日の放送では、アントワープオリンピックのマラソンで16位と低迷した金栗四三が、他のメンバーと一緒に帰国せず、ヨーロッパを旅していた。

 アントワープオリンピックの開催は1920年、大正九年。
 斎藤忠市郎説で、志ん生は金原亭馬太郎から金原亭武生に改名した年だ。

 ちなみに、本書で保田さんが書いているが、隅田川馬石の名は、三語楼協会を出てフリーになった時に名乗ったのだが、結局は泣かず飛ばずで、ほぼ一ヶ月後に三語楼に頭を下げて復帰し、再び甚語楼に戻っているとのこと。

 借金取りから逃げるため、と改名の理由を志ん生は語っているが、それだけではない歴史も背後には存在する。
 
 今後、「いだてん」で、若き志ん生にどんな出来事があり、いつどんな名跡を名乗るのか、なんてことも楽しみである。

# by kogotokoubei | 2019-05-30 12:59 | 落語家 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛