人気ブログランキング |

噺の話

kogotokoub.exblog.jp
ブログトップ

2019年 10月 27日 ( 1 )

 イングランドは、強かった。
 タックルもラインアウトもスクラムも。
 オールブラックスが、あれほど押し込まれるとは。
 エディーの日本語の挨拶も、嬉しいじゃないか。

 さて、ウェールズ対南アフリカ戦の前に、この記事を書いておこう。

e0337777_14592316.jpg


 シリーズ五回目。
 本書は、「東京かわら版」で連載していた「噺の細道」が河出から書籍化されたもの。
 「東京かわら版」への連載が、平成十六年一月からの五年間。
 単行本は、十年前、平成二十一(2009)年の発行。


 一回目は、目次を全てご紹介。
 二回目に、六十ある項目のスタート、第一章の日本橋だった。
 三回目は、第二章から谷中全生庵を取り上げた。
 四回目は、第三章から、浅草酉の市をご紹介。

 今回は、「第四章 隅田川流域と向島」から、「佃島」を取り上げる。

 あまりにも有名な地だが、知らないことも少なくない、ということが本書を読んだ印象。
 まず、冒頭から。

  雪ふれば佃は古き江戸の島   北條秀司

 の句碑が、思わぬ春の雪に一段と興を添えてくれた。「渡船跡」の重厚な石碑から右へ目を移した処にあり、隣は佃煮の「田中屋」だ。もう一軒の佃煮屋「天安」も、今日の雪で表暖簾が見えない。北條秀司の芝居「佃の渡し」は残念ながら観ていないが、それにちなんだ小唄「雪ふれば」がある。

  雪ふれば 佃は古き江戸の島
  千鳥啼くなよ あの笛は
  今年限りの 渡し船
  わしとお前は 今日限り
  (昭和五十二年、北條秀司作詞、三世飯島ひろ子曲)

 劇作家の北條秀司は、新国劇で辰巳柳太郎主演で大ヒットした『王将』が有名。
 
 ずいぶん前に、佃島に行ったことがある。
 しかし、北條の句碑、記憶がないなぁ。次に行った時はしっかり見なきゃ。

 さて、このあとには佃島の歴史が説明されている。

 豊臣秀吉が天下人の頃、伏見城に上がることになった徳川家康が、途中、摂津の住吉神社へ詣でようとした。渡るべき船がなくて困っていると、佃村の漁父彦作が漁船を漕いで送ってくれた。以来、伏見城に居る時も、また大阪城西の丸に移ってからも御膳の魚を任されることになり、そのほか密使の御用も勤めるようになったという。その後、徳川家康の関東入国に従って、佃村の漁師たちが江戸へ召されたが、その辺りから若干事情の異なる話もあるので、ことのついでに御紹介しておく。
 実は彦作は、家康の御船手御番であった石川八右衛門を頼って、江戸へ下ったというのだ。石川八右衛門は高崎藩の下屋敷であった隅田川下流の鎧島を拝領し、高崎藩の下屋敷は対岸の鉄砲洲へ移った。以来、八右衛門の移り住んだ鎧島は八右衛門島とも石川島とも呼ばれるようになる。八右衛門の後を追って江戸へ下った彦作も、江戸城へお魚御用の願いが許され、摂州住吉神社の権宮司(ごんのぐうじ)と漁師三十三名が江戸へ呼ばれ、石川島の干潟、百間四方を賜り、ここを埋め立てて、故郷の名にちなんで佃島としたのである。

 話としては、前段の家康ゆかりという筋書きの方が、物語があって良いと思うが、現実は後段の石川八右衛門との縁、ということかもしれない。

 本書では、この後、石川島は、寛永二(1790)年に、火付盗賊改役長谷川平蔵によって罪人の人足寄場としたことにふれている。
 「鬼平」ファンは、もちろん、よくご存じのことだが、この寄場が、明治半ばに巣鴨監獄に移り、跡地に石川島造船所ができて、その名が残ったことも説明されている。

 佃島の渡し船の歴史は、次のように書かれている。

 佃の渡し船は明治以後も踏襲されたが、昭和二(1927)年からは発動機船での引船となって、昭和三十九(1964)年に佃大橋ができるまでは、無料の往復運航をしていた。そして、夜遅くなって島へ帰りそびれた人は、島人が「えど」と呼んだ対岸から、「時やァいッ・・・・・・」と、島の船頭さんに迎え船の催促をしたらしい。昔は、急を要することを「時の用」と言ったから、夜更けて船頭を呼ぶ声もそんな含みがあって、「時やァいッ・・・・・・」に、なったのかも知れない。

 さぁ、ウェールズと南アフリカの「時やーい!」


by kogotokoubei | 2019-10-27 17:54 | 落語の本 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛