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噺の話

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2019年 06月 17日 ( 1 )

 昨日の記事の“マクラ”でリンクしたのだが、2012年9月1日の「関東大震災と、志ん生」という記事へのアクセスが、百を大きく超えていた。

 どう考えても「いだてん」効果と言えるだろう。
 
 視聴率ではなく、視聴“質”の高いドラマは、観る人もドラマに登場する内容への関心が極めて高いのだろう。

 クドカンが、実に的確にあの震災を描いたことを、しっかり受け止めている視聴者がいるのだ。

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岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)

 さて、このシリーズの三回目。

 岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)は、平成19(2007)年の発行で、内容は平成6(1994)年から発行が始まった『これが志ん生だ』(三一書房、全十一巻)の月報の中から選んで編まれている。
 副題が「家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔」とあるように、志ん生 “が” 語るのではなく、志ん生 “を” 語っている本。

 前回は、馬生が、家ではちっとも面白くないから、志ん生の高座が面白い、なんて話していることをご紹介。
 では、家ではどんな親子の関係だったのか。馬生は、こう語っている。

 あたしはオヤジさんとは酒の呑みかたがちっとも合わないんですよ。だから、誰かが、
「お父さんと呑んだ時のことを」
 なんて聞くんだけれども、思い出しても何もない、思い出がないの。
 うちのオヤジさんてえのは、例えば湯豆腐をグツグツと煮てて、酒をグッと呑んじゃうと、その湯豆腐ですぐ飯を食っちゃう。わたしは、トロトロ、トロトロ呑んですよ。するとオヤジさんが、
「手前(てめい)みてえなヤツと酒を呑むのは嫌だっ」 
 だからほとんど一緒に呑んだことがない。

 酒呑みの印象が強い志ん生だが、家での酒は、実に大人しかった。
 昨日の「いだてん」では、関東大震災で酒屋の四斗樽から一気に一升五号の酒を呑んだ、というのは、いわば“火事場の馬鹿力”で、例外。
 また、あの双葉山と呑み比べをして二升呑んだが、さすがに横綱には勝てなかったという逸話もあるが、これまた例外と言えるだろう。

 じっくり呑む酒が好きな馬生は、父の晩酌の友とはなれなかったようだが、若い時分には、様子が少し違っていたようだ。

 酒は二ツ目の頃のほうが一緒に呑むことが多かったですね。二ツ目の頃は、こっとはついて歩いてましたからね。そうすると、
「お前の今の噺はこうだ」
「これはいけねえ」
 とか、
「あの師匠はこうやってたぞ。俺はこうやるけど」
 というようなことを教えてくれましたね。例えば、細かいことですけど、
「お前、碁を習え。俺は知たねえから『傘碁』はできないし、『碁泥』はできない。で、『雨の将棋』って将棋で演(や)ってるけど、あの噺は将棋じゃ駄目だ」
 とか。だいたい自分の欠点もそのまま言ってましたね。
「俺は“間”を持ってジーッとしゃべってるよりも、ある程度スーッとしゃべってるほうが自分も心持ちがいい」
 って言ってましたね。マクラのうちは、
「えーえ・・・・・・」
 なんて言っても、噺に入るとトントン、トントンっていくリズム感が何とも言えませんでしたね。

 二ツ目の頃には、なかなか好ましい親子の会話があったじゃないか。
 私は、馬生の『笠碁』の音源が好きで、五代目小さんよりも良いと思っている。
 その十八番の背景には、父・志ん生の助言があったとは、嬉しいじゃないか。

 馬生は、志ん生が、橘家圓喬の弟子だった、と主張することなどについて、こう語っている。

 うちのオヤジさんが、圓喬の弟子だって言ってましたけど、それは一つの見栄でいいじゃないですか。
 最初は圓盛(三遊亭)、“イカタチ”の圓盛さんの弟子で・・・・・・弟子っていうか、あの頃は、とにかく咄家になれればよかったわけです。師匠は誰でもかまわなかったんです。で、咄家になってその後、小圓朝(二代目)さんの所へ自然と吸収されていくわけです。
 で、一時、圓喬師の弟子が足りなくなっちゃんで、小圓朝さんの所へ、
「誰か若い者を貸してくれよ」
 って言ってきたんで、オヤジさんが行ったらしいんですね。
 今は何かと詮索して楽しむようなところがあるでしょう。情報化社会だから。
「馬生は志ん生によって不幸になった」
 って余計なことを言う人がいる。
「志ん朝は、志ん生によって幸福になった」
 なんて。何だっていいんですよ。そんなことは大きなお世話なんです。そういうことでみんな腐っちゃうんだよね。私は圓右(二代目)のことをずいぶん細かに調べてるけど、かなり上手かったらしいですよ。それをね、徹底的に黒門町(八代目文楽)がけなしましてね。
「あれは馬鹿でした。馬鹿松でした。本当に馬鹿でしたね。それが証拠に掃除夫になって終えました」
 って言ってましたけど。圓右さんが、<落語界がみんなでぶったたいてくるなら、俺はやめちゃおう>って、掃除夫になって晩年をおくたってのは本人にとってよかったと思うんですよ。大成しないで、高座をやんないで、楽屋の隅で割り(給金)をもらって生きていくより手前でもって掃除夫になって、誰の世話にもならないで、誰も知らないうちに死んじゃう・・・・・・。あたしなんか、そっちをとりますね。
 だから、小圓朝さんだって、本当の意味で先代の倅っていう色メガネで見られなかったら、もう一段大きな咄家になったと思いますね。

 
 馬生、志ん生本人が「圓喬の弟子だった」と言っているんだから、それでいいじゃないか、それ以上詮索するのは野暮だ、と言っているのだろう。
 いろいろ詮索してその本人の言葉を否定しにかかっている私なんぞは、馬生からは、野暮の固まりに思えることだろう^^

 また、二代目の圓右(本名沢木松太郎)、三代目の小圓朝に関する言葉は、同じ咄家の倅という立場、いわば“同志”としての思いが吐露されたと思う。

 今回は、これにてお開き。

by kogotokoubei | 2019-06-17 12:57 | 落語の本 | Comments(4)

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by 小言幸兵衛