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噺の話

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2019年 05月 31日 ( 1 )

 川崎の事件は、なんとも言えない悲しみと空しさが募る。

 さまざまなメディアで。あの事件が報道されている。

 その中で、街頭での声やメディアでのコメンテーターなる人たちの発言が、いろいろと物議を醸している。

 どんな発言が話題になっているかは、あえて書かない。

 
 こういう事件があると、随分前に書いた、ある本に関する記事を思い出す。

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中島梓『コミュニケーション不全症候群』

 それは、中島梓さんの『コミュニケーション不全症候群』。
 1991年8月に筑摩書房から単行本として発行され、1995年12月に文庫化。

 八年ほど前、二度、長い記事を書いた。
2011年3月5日のブログ
2011年3月6日のブログ

 今思えば、3.11の直前だった。
 
 最初の記事は、本書の引用を中心に、どんなことが書かれているかを紹介し、翌日、補足的な記事を書いた。

 その二つ目の記事と重複するが、こういう事件の背景にある社会病理について、考えたい。


 あの本の「最後の人間」の章から引用。

 ここに、なぜ「おタク」や「ダイエット」などを素材として「コミュニケーション不全症候群」というテーマで本を書いたのかについて、著者中島さんの思いが書かれている。

 もっとずっと重大に見えるたくさんの問題−たとえば環境破壊、地球の汚染、戦争や飢餓がこれほど身近に迫った臨界点をかかえているように見えるとき、なんでわざわざコミュニケーション不全症候群−いうなればほんのちょっとした不適応ないし過剰適応の問題を俎上にあげてまじめに考えなくてはならないのか。
 それは警察の機構と似ている。−「犯罪が起こらなくては何もできることはない」のである。おタクのなかのあるものがゆきずりに幼女を殺せばはじめておタクという存在は社会問題となる。が、それはすぐに次の−そう、たとえば、見捨てられている少年たちが女子高校生をさらって監禁し、ついになぶり殺してしまった、というような事件にとってかわられ、人々の関心と有識者の意見とはすぐに、それまでのおタクについての考察から、放任家庭への批判へとうつりかわってゆく。同じように拒食症で20キロになって死に瀕してはじめて、少女たちは多少なりともかえりみられるだけの価値のある存在、つまりは立派な「患者」として扱われるようになるだろう。
 本当はそれでは遅いのだが、そういう扱いが幸いにして間に合うことはなかなかない。いや、彼ら彼女たちがそのような、さまざまな異様な症状を呈するにいたったのはそもそも大体が、それほどに−殺人をおかしたり20キロにまで自分自身をすりへらすようなことになるまでに、社会から無視され、かえりみられず、かえりみるだけの価値もない存在として扱われていたからなのだ。社会は彼らをちゃんとした人間として正視しなかったし、彼らもまた自分たちの同類をそうしなかった−彼らの場合はそうするだけの余力はもう残ってなかったのかもしれない。また彼ら自身も社会に対してそういう期待をもつこともなかったのだ。そうするかわりに彼らは自分自身の頭を虚構の砂のなかに埋める−さながら駝鳥のようにだ。そうして何も見ないで生きようとする。

 中島さんの文章は、特にこの評論は、独特の言い回しもあって分かりにくい部分もあるが、私なりの理解とちょっとした主張にまとめると、こういうことになる。

(1)現代社会は、自分自身が安心していられる“テリトリー”が、常に侵害される恐れがある
(2)そのテリトリー外の人とのコミュニケーションが、なかなか上手く行えない傾向にある
(3)いわば「コミュニケーション不全症候群」と言うべき病は、必ずしも“ヘンな人”や
   “異常な人“といった特定個人の問題ではなく、現代人がすべからく侵されかねない
   社会病理である
(4)そういった環境に過剰適合したものとして、「おタク」や「ダイエット」、そして行き
   過ぎたダイエットによる摂食障害などの問題がある。
(5)しかし、こういった社会病理に起因する問題は、特定個人が何か問題を起こしたり、
   ニュースになるような事態になって初めて、あくまで“個人”の問題として警察が扱い
   マスコミも取り上げるが、本質的な社会病理のことは滅多に話題にならない
(6)重要なのは、その特定個人による“事件”の背景にある社会病理の実態を知ることと、
   それをどう解決するかという議論なのである


 さまざまな事情、背景から、自分の狭いテリトリーに閉じこもりがちな人に対し、その殻を一層固いものにしてしまうような発言や行動は、決して今回のような事件の解決にならないと思う。

 すでに“犯人”である人物に対し批判するのは、周囲の同調も得られやすい。
 そういう時の発言は感情的になりやすいが、多くのメディアは、それを煽る。

 そうやって、犯人を批判、指弾することは、同じような事件の発生を抑制する効果があるのかどうか。

 大事なことは、“犯人”を出さないことではないのか。

 安倍内閣を含め、登下校時の安全確保、ということを力説するが、それで問題の本質部分が解決できるのだろうか・・・・・・。


 中島梓さんが『コミュニケーション不全症候群』を書いてから三十年近く経とうとしている。
 彼女が指摘した、“社会から無視され、かえりみられず、かえりみるだけの価値もない存在として扱われ“る人は、間違いなく増えていると思う。

 同じような事件が起こらないようにするには、寛容な姿勢で、相互扶助の精神が生きる社会が必要だと思う。

 3.11の後、そういう社会に戻りつつあったように思うが、残念ながら、あれだけの犠牲があったにもかかわらず、不寛容な社会に戻りつつある。

 “さながら駝鳥のように”“自分自身の頭を虚構の砂のなかに埋める”人が増えているのではないか。

 防御の観点でいろいろ考えることも、大事かもしれない。

 しかし、警備を厳重にすることにも限界がある。

 AIを活用して画像認識技術で危険と思われる人物を特定する、なんてことが可能な時代だ。
 中国では顔の認識技術と罰金の引き上げで、交通違反や犯罪を減らしている。

 しかし、行き過ぎると、常に監視の眼が光る息苦しい社会になる危険性がある。

 ジョージ・オーウェルの「1984」の社会は、技術的には現実性を帯びてきた。

 そんな息苦しい社会を、多くの人が望むのだろうか。

 やはり“犯人”をできるだけ生み出さないための社会の姿を模索することが大事ではないか。

 あえて、「甘い!」という批判を覚悟で書くが、イソップ寓話の「北風と太陽」の教えを思い出す必要があると思う。

by kogotokoubei | 2019-05-31 21:54 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


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