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噺の話

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2019年 04月 28日 ( 1 )

 今夜の「いだてん」では、志ん生の無銭飲食事件が描かれていたが、さすがに借りていた宿代は、先日の記事で『正蔵一代』から紹介したように、寄席の席亭が払っていたなぁ。
 『びんぼう自慢』で志ん生の語るような、検事の支払いではなく、正蔵が語っていた説(事実かな)を、クドカンも採用したわけだが、妥当だと思う。

 それにしても、留置場での一席で、『文七元結』が登場するとは思わなかった。

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矢野誠一著『志ん生のいる風景』

 さて、矢野誠一さんの『志ん生のいる風景』から、戦前の速記に関する記事、第二回。

 講談社が発行した戦前の雑誌に掲載された落語の速記を集め、『昭和戦前傑作落語全集』が全六巻で発行されることになり、矢野さんが解説を引き受けることになった。
 もっとも多く収録された志ん生の口演の数々を、矢野さんは、半ば驚きを交えて紹介している。

 年代順に編纂された『昭和戦前傑作落語全集』に、志ん生の速記が初登場するのは第三巻で、この巻には、『円タクの恋』『悋気の見本』『長命』『代り目』『桃太郎』『ぞろぞろ』の六本が載っている。
 前の二本が五代目古今亭志ん馬で、残りの四本は七代目金原亭馬生の名になっている。時代区分でいうなら、いちばん早い『円タクの恋』が1934年(昭和9)の「講談倶楽部」八月号で、『ぞろぞろ』が1935年(昭和10)十二月号のやはり「講談倶楽部」である。わずか一年半のあいだに六本の速記を雑誌に発表している計算になるのだが、このほか全集におさめられていない作品もあるわけで、単純に数だけから判断するならば、かなり多いといえるだろう。

 志ん生を襲名する前の、志ん馬、馬生時代でも、他の人より多くの速記が雑誌に掲載される落語家だったということは、意外に知られていないと思う。私も、知らなかった。

 矢野さんは、それらの速記を読んで、このように書いている。

 こうした雑誌の速記にたくして、志ん生という落語家は思いきった独自の色彩を打ち出してみせている。新作を手がけたり、自身の大胆なアレンジをほどこすなど、他人とおなじ演り方はしたくないといった感じがはっきりと見てとれる。

 では、今では聴くことのできない『円タクの恋』が紹介されているので、紹介したい。
 この噺は、二代目円歌の『社長の電話』などの作者、鈴木みちをが、橘ノ百円時代の七代目の橘家円太郎のために作った『恋の円タク』が元らしい。晩年は音曲ばなし手がけた円太郎は、百円時代に新作を積極的に手がけた人だったようだ。
 その百円の演目だったものを、志ん生は、どう演じたのか。

 おどろくべきことは、鈴木みちをという作者の介在している作品でありながら、すでに志ん生独特の口調が全篇に脈打っていることである、

<ああそうですか・・・・・・向うなら向うといってくれるがいいじゃないか・・・・・・あああの紳士が、手を上げたよ・・・・・・へェお待ち遠さま・・・・・・へェ乗らないんですか、いま手を上げたでしょう・・・・・・ああワイシャツのぼたんが取れたので、ああそうですか・・・・・・なんだ、あんなやつワイシャツなどと着る柄じゃァない、新聞紙に穴でもあけて被ってろよ・・・・・・ああどこかのお嬢さんがパラソルを持って立っている。自動車を待っているに違いない・・・・・・へェ、お嬢さん、参りましょう・・・・・・ェッ、乗らないんですか、人を待っているんで、へッ、いい男でしょうね・・・・・・なーンだ、人の恋路の邪魔までできるか。>

 なんて運転手のモノローグなど、声を出して読んでみるとあの志ん生の語り口が彷彿としてくる。


 昭和9年の『講談倶楽部』に載った、志ん馬時代の口演。
 “パラソル”なんて科白を口にしていたと思うと、なんとも楽しくなる。


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保田武宏著『志ん生の昭和』

 なお、保田武宏さんは『志ん生の昭和』の中で、『円タクの恋』について、こう解説してくれている。

 円タクは一円タクシーの略で、長距離でなければ一円均一で客を乗せたタクシーである。
 (中 略)
 噺は、タクシーの運転手が、ガソリンスタンドに勤めるお君ちゃんという女性に恋をして、夜の十時に逢う約束をする。それまで二時間あるから稼ごうと町を流すと、普段は少ない客がこんなときにかぎってたくさんいて、やっとの思いで十時過ぎにすべり込みセーフで間に合う。ところがお君ちゃん、母親がうるさいから十時を過ぎたら帰らなければならないという。仕方なく明日改めてということにして、お君ちゃんと送っていく。家に帰ったお君ちゃん、母親に「遅いじゃないか。お友達のところへでも行っていたのかい」「いいえ、油を売っていたの」という噺だ。
 ところどころに「おまえなんか円タクに乗る柄じゃねえ。もっこに乗る柄だ」とか、「あんな奴ワイシャツを着る柄じゃない、新聞紙に穴でもあけてかぶっていろ」とか、後の志ん生らしいギャグが入っていておもしろい。これなら編集者も、続けて使う気になる。

 
 保田さんは、一席掲載されると三十円になり、サラリーマンの月給の半分位に相当し、これで、家計は多いに助けられた、と説明している。

 さて、あらためて矢野さんの本から、同じ志ん馬時代のネタ『悋気の見本』。

 矢野さんによるとこんな噺。
 
 『悋気の見本』は他愛ない小品といってしまえばそれまでだが、志ん生でなければ出せない味だけはちゃんとそなわっていることに感心する。
 (中 略)
 全然やきもちをやかない夫人を、友人のなみはずれて嫉妬深い夫人のところへ連れて行き、やき方を覚えさせるというナンセンスなものだ。

 ということで、どんな“味”わいがあるか、引用。

 掲載は昭和12年『キング』四月増刊号で、ちょうど名古屋城の金の鯱(しゃちほこ)がはがされるという事件があった頃とのこと。

<どうかすると手の届かないような所へ手を伸ばして、物を盗ろうなんてんで、名古屋城のしゃちの鱗(こけら)を持って行っちゃったりなんかします。あのしゃちは夫婦ですからな、細君の方が驚いて、
妻「本当にあきれっちまうよ。人間なんて本当に油断がならない。とうとうあなたわたしの鱗を持って行っちゃったわよ。本当に、この分じゃ、みんな鱗を持って行っちゃうよ。こんな思いをするくらいならば、いっそのこと、わたし生きているのがいやだから、お前さんと二人、猫いらずを服んで死にましょうか」
夫「馬鹿なことをいうな。夫婦で猫いらずなど服んでみろ、長年の間、名古屋のしゃちほこは金であると思われていたのを、二人で猫いらずを服んで死んでみろ、金と人は思わねえぞ」
妻「思わないことはありませんよ」
夫「イヤ思わねえ。二人で死んでみろ、あれは真鍮(しんちゅう)だなどといわれらァ」
 しゃちが洒落を言っております。>

 時局にあったエピソードを、たくみなくすぐりや小咄にアレンジしてみせることを、志ん生は晩年まで得意にしていたが、この名古屋城の金の鱗の小咄など、すでにその萌芽がうかがえるのである。

 説明するまでもないが、「真鍮」は「心中」の洒落。蛇足^^

 なお、名古屋城の金の鯱の鱗の盗難は、昭和12(1937)年1月6日に発覚した事件のようで、金の鱗が58枚盗まれていたらしい。

 明治二十三(1890)年生まれの志ん生なので、志ん馬の口演が雑誌に掲載された昭和十年前後は、四十歳半ば。
 貧乏のどん底から、雑誌への口演の掲載を弾みに経済状態も少しづつ改善され、その名も馬生から昭和14年、五代目の志ん生となる。

 その後、名前に負けない昭和の名人になる大きな要因が、戦前の口演にもみられる高い創作力にあったのだと、あらためて思う。

by kogotokoubei | 2019-04-28 20:57 | 落語家 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛