噺の話

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2018年 11月 15日 ( 1 )

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 少し間が空いたが、和田誠さんの『落語横車』から三回目。

 和田さんは映画についてのエッセイで有名。

 「落語と映画・芝居など」の章から、私の大好きな「幕末太陽伝」に関する部分をご紹介。この本、初版は昭和55年。

 数人の若手落語家と「幕末太陽伝」の話をしたことがある。みんな観ていたし、それぞれに感心したらしい。中には「あの映画を観て、落語が好きになったんです」と言った人もいた。ただし、別の機会に立川談志さんに、「『幕末太陽伝』よかったね」と言ったら、「へえ?そうかい」と言われてしまった。その日はすぐ別の話になったので、へえ、そうかいの意味をきくヒマがなかった。別の話というのはアメリカのミュージカル談義で、談志という人物は、こと「芸」に関してなら落語に限らず、日本の芸能に限らず、フレッド・アステアのタップからドナルド・オコーナーのとんぼ返りに至るまで、とにかく好きで、好きというより惚れ込んでいて、夢中になって語るのだ。
 いずれチャンスがあったら「幕末太陽伝」の話の続きをしたいと思うが、今、ぼくはぼくなりに談志さんの言ったことを勝手に解釈してみよう。

 いったん、休憩。
 川島雄三生誕百年ということで、さまざまなイベントがある中で「幕末太陽伝」に縁のある噺の落語会があることを、6月に拙ブログでお知らせした。

 11月4日までの開催だったが、結果として、私は行かなかった。

 プレゼント付きとはいえ、4,800円と木戸銭が高いと思ったことと、川島雄三が空の上で喜ぶのかどうか疑問を感じたこと、加えて、スケジュールが合わせにくなかったということもある。

 さて本書に戻る。
 和田さんは同じ昭和11年生まれの談志の思いを、どう解釈したのか。

 つまり、彼は落語が好きだ。落語に惚れ込んでいる。たった今、落語に限らず「芸」なら何でも好きだと書いたばかりだけれど、中でもとりわけ落語には心底惚れ込んでいると断じていい。すると、「幕末太陽伝」がどんなによく出来ていようと、例えば三遊亭円生が「居残り佐平次」をやり、古今亭志ん生が「三枚起請」をやり、三笑亭可楽が「品川心中」をやり、それが一度に聴ける高座があったとしたら、それは映画を観るより余程いいじゃねえか、と言うのじゃないかしら。もしそう言われたら、いや、やっぱり映画がいいぜとぼくには反論できないのである。そう言っちゃミもフタもないとおっしゃる人もいるかも知れないが、やはり落語はそれほど大きなものだろう。

 和田さんの推測は、たぶん半分当っているように思う。
 私が思う、もう半分の理由は、談志が川島雄三という映画監督にあまり良い印象を抱いていなかったのではないか、ということ。

 正岡容に代表されるが、川島雄三を、落語界から桂小金治さんを奪い去った憎い男、と思っている人は少なくなかっただろう。

 そんな思いも、「へえ?そうかい」という言葉の背景にあったのではなかろうか。
 円生も志ん生も可楽もいない平成の落語界だが、この度の企画では、誰がどんな噺を演じたのか。
 「お江戸@マーク」のサイトを見ると、噺家さんの演じたネタは、次の通りだったらしい。
「お江戸@マーク」のサイト

 
柳家喬太郎 「品川心中」「文七元結」
春風亭一之輔 「五人廻し」「付き馬」「お見立て」「居残り佐平次」
桃月庵白酒「文違い」「付き馬」「明烏」
立川志らく「品川心中」
立川志らら「お見立て」
橘家文蔵「文七元結」
柳家わさび「亀田鵬斎」
神田松之丞 天保水滸伝より「潮来の遊び」「青龍刀権次」

 
 この映画については、ずいぶん前、二谷英明の訃報をきっかけに記事を書いた。
2012年1月9日のブログ
 
 その際に、私が記した、あの映画に登場するネタは次の通り。

(1)居残り佐平次
(2)船徳*相模屋の倅の名が徳三郎、ということで。
(3)明烏
(4)品川心中
(5)三枚起請
(6)文七元結
(7)五人廻し
(8)お茶汲み*こはるが客を騙す“うそ泣き”をする
(9)付き馬
(10)お見立て
(11)たちきり*相模屋の若旦那徳が座敷牢に入れられる

 あら、「文違い」が入っていない。
 う~ん、どこにあの噺を連想する場面があったっけ。
 佐平次が花魁たちの手紙の代書をするというのも、居残り、と言えるだろうし。

 もしかすると、廓噺ということでの選択かもしれないが、「文違い」の舞台は、品川ではなく新宿だなぁ。

 また、今回の企画では、「文七元結」「品川心中」「お見立て」「付き馬」が重複しているのだが、「お茶汲み」と「たちきり」はともかく、「三枚起請」がない。
 これは、残念だ。

 また、松之丞の天保水滸伝が、どうこの映画につながるのだろうか。
 
 江戸の元号でつながっているが、藤本義一さんの『生きいそぎの記』に関する記事で、川島とフランキーが、写楽を主人公として「寛政太陽傳」を作る約束をしていながら叶わず、川島の遺志をフランキーが継いだことを紹介した。
 あくまで、写楽の映画。

 そういった構成への疑問も、俳優座に足を運ぼうとしなかった理由の一つかな。

 行かなかったくせに、小言を書いていることは、平にご容赦のほどを。

 さて、和田さんの本に戻る。
 落語と音楽のことから。

 音楽の世界では、「たらちね」がオペラになっているそうだが、ぼくは聴いていない。デュークエイセスが「寿限無」「長屋の花見」などを歌にして歌っている。出来のいいのは「長屋の花見」で、リーダーが大家、ほかの三人が店子に扮し、いくらかセリフも混えながら、もちろん主としてはコーラスによって組曲ふうに綴って行く。コーラス・グループが落語に取り組んだ実験精神を大いに買いたい。しかし、やはり落語のような笑いは取れないのがちょっとつらいところ。

 デュークエイセス、懐かしい。
 結成は、私が生まれた昭和30年。昨年、惜しまれながら解散。一昨年にはダークダックスも解散しているので、残るは、ボニージャックスのみ。
 
 引用を続ける。

 ミュージカルでは「死神」があった。これは「今村昌平台本のオペラによる」というサブタイトルが付されていたと思う。オペラの方が上演されたかどうか、ぼくは知らない。こちらはいずみ・たく作曲によるミュージカルで、西村晃、今陽子などの出演。歌の中で記憶に残るいい曲が一つあったけれど、長丁場の舞台にするにはいろいろなエピソードをつけ加えなければならず、落語が本来持つ引き締まった面白さが、どうしても水増しされる結果になった。それに、全体に暗いムードのい舞台になってしまった。落語の「死神」はブラック・ユーモアだが、ユーモアが欠落してブラックだけが残ったという印象。「死」を相手にしても底抜けに明るい、というのが落語の持っている良さの筈だと思うのだが。落語を素材にしながら暗い部分が強調されるのは真面目さのなせるわざだろう。演劇人(映画もテレビも含めて)に共通な感覚として、大作に取り組む時はたいてい、素材を深刻な方にとり込んでしまうようだ。
 そう考えて思い返すと、「幕末太陽伝」の主人公にも死の匂いがつきまとっていた。「居残り佐平次」には確かに「俺はこのあいだからどうも身体の具合が悪い」というセリフがあり、それで療養のつもりで海辺の品川遊郭に泊り込むわけだが、落語では、そのことについてはそれ以上は出てこない。映画の佐平次は完全に労咳という設定で、死と直面しているために居直った人物という解釈があったような気がする。
 あら、また「幕末太陽伝」に戻ってしまった。
 
 少し検索してみたら、今村昌平作のオペラ「死神」は、あちこちで上演されているようだ。
 オペラのみならず、ミュージカル「死神」もあったんだねぇ。
 暗~い、ミュージカルって、あまり観たいとは思わない^^

 しかし、NHKの「昭和元禄落語心中」で、菊比古(ハ代目八雲)の「死神」を知った若い落語愛好家も多いかもしれないから、今なら、ミュージカル「死神」当たるかも!

 明日16日(金)は、その「昭和元禄落語心中」が一つのヤマを迎える。

 これまで、原作の漫画も読んでいず、昨年放送されたアニメも観ていない私だが、今回のドラマは都合よく毎週観ている。

 NHK大河と比べることに無理があるとは思うが、あちらも実在の人物をモチーフにしたフィクションドラマとするなら、ドラマとしての魅力は、格段と「昭和元禄落語心中」が上である。
 
 そのうち、あのドラマについて何か書こうと思っている。

 ちょっと話があっちこっちに発散してしまったなぁ。

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by kogotokoubei | 2018-11-15 12:47 | 落語の本 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛