噺の話

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2018年 10月 31日 ( 1 )

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長部日出雄著『笑いの狩人-江戸落語家伝-』

 『笑いの狩人-江戸落語家伝-』の最初のお話「江戸落語事始」からの、最終四回目。

 石川流宣の後押しもあって、長谷川町に住む塗師の安次郎は、鹿野武左衛門という名で江戸の咄職の先駆となり、人気者となった。

 しかし、武左衛門に、とんでもない災難が待っていた。

 その災難につながるのが、五代将軍綱吉の『生類憐れみの令』だった。

 綱吉の一子徳松が亡くなって以降、正室にも側室にも子が生まれないことを案じた綱吉の母である桂昌院に、僧の隆光が「前世の殺生の報い」であるからかたく殺生を禁じること、中でも綱吉は戌年生まれなので犬を大切にせよ、と進言したことから、天下の悪法が施行された。

 さて、そんな時代に、ある疫病が蔓延した。

 その年の四月ー。
 江戸にはソロリコロリという原因不明の奇病が蔓延して、沢山の人が死にはじめた。幕府では官医の余語古庵に命じて、治療法を研究させたが、悪疫の猖獗は一向にやまなかった。そのうちに奇妙な噂と、『病除(やまおよけ)の方書(ほうがき)』と称する小冊子が、巷に流れ出した。それによれば、あるところの馬が人語を発して、
ーこの病を防ぐためには、南天の実と梅干を煎じて服すれば即効あり。
 といったというのである。南天の実を乾燥させたものは、古来、咳どめの薬とされており、梅干は毒消し、または下痢どめの薬として知られている。ソロリコロリの主な症状は激しい嘔吐と下痢で、しかもその処方を馬が口にした、ということが、いかにも奇跡的な著効があるようにおもわせたのか、その小冊子は飛ぶように売れ、南天の実と梅干の値段は、平常の二十倍から三十倍にまで暴騰した。

 この事態を解決すべく、南町奉行の能勢出雲守頼相によって、流言蜚語の出所を確かめるために、一町ごとに人別改めが行われた。
 
 鹿野武左衛門と石川流宣は、「どこのだれか知らねえが、薬の方書なんか書かせておくのは勿体ねえ、咄職になったほうがいい」などど冗談を言い合っていた。

 ところが、とんでもないことが起こった。

 武左衛門の家へ二度目にやって来た町役人は、いきなりかれを縛って、呉服橋の南町奉行所に引っ立てた。
 奉行所の吟味場の砂利に敷かれた荒筵(あらむしろ)のうえに、縄つきで引き据えられた武左衛門に向かって、板の間を隔てた上段の畳敷きの部屋から、二人の吟味方与力のうちの一人が、怖ろしい形相でこういった。
「そのほう、よくも馬が物をいったなどと、不埒なことを申したな」
「め、めっそうもない」
 まるっきり身に覚えのない嫌疑に、武左衛門は動転して問い返した。「一体なにを証拠にそのようなことを・・・・・・」
「なにを証拠に?」尻上がりにそういって「白白しいことを申すなッ。ここに、ちゃんとこのように確かな証拠があるではないか!」
 吟味方与力は、持っていた一冊の書物を手で叩いた。それは確かに武左衛門の著書であった。かれは自分の話を集めて、十年まえに『武左衛門口伝はなし』、七年まえに『鹿の巻筆』という本を出していたのだが、与力が手にしていたのは、そのうちで一年まえに再刊された『鹿の巻筆』の一巻だった。
「ああ、それは・・・・・・」
 武左衛門は、ようやく事の次第を理解した。その一巻のなかには、『堺町馬の顔みせ』という話がある。

 この『堺町馬の顔みせ』という話は、現在『武助馬』として伝わるネタの原話。
 米河岸で刻み煙草を売っていた芝居好きの斎藤甚五兵衛という男が、念願かなって市村座の芝居に出ることになり、米河岸の仲間にぜひ総見し祝儀を上げてくれと頼んだ。とこどが、自分の役は、馬の後ろ足。それに気づいた仲間たちが「イヨーッ、馬さま、馬さま」と声をかけると、甚五兵衛も黙っていられなくなり、馬の尻のほうから「いいん、いいん」と嘶き、舞台を跳ね回った、というお話。

 与力の話では、江戸中を詮索した結果、『病除の方書』を書いたのは、浪人の筑紫団右衛門と判明したとのころ。彼が自分の本のみならず、南天の実と梅干を高値で売るために神田須田町の八百屋惣右衛門と共謀したのだが、この二人を取り調べた結果、馬がソロリコロリの処方を喋ったという話を、武左衛門から聞いたと白状したと言う。

 もちろん、武左衛門は否定し、反論した。
 
「それは嘘でございます」
 武左衛門は怒りと恐怖で身を震わせながら叫んだ。「だいいち、その筑紫団右衛門と申す浪人者やら、八百屋惣右衛門なる者、会ったこともございませぬ。さきほども申しました通り、わたくしめが喋りましたのは、馬の足の役者がなき声を真似たという話で、だいたい馬が人の言葉を喋るなどということは・・・・・・」
 (中 略)
「そのほう、いかにもまことしやかに、根も葉もないつくり話などして、おのれの名を売ったり、多額の金を儲けたり、それでこの世の中が通るとおもっておるのか!」
 与力の眼の色には、高名で実入りの多い武左衛門に対する深い憎悪と嫉みも籠められているようであった。

 武左衛門は、いわゆる“スケープゴート”にされたのであった。

 その後、穿鑿所(せんさくじょ)に連れて行かれた武左衛門は、尖った薪の上に座らされ、膝の上に思い石版を乗せる拷問を受けた。
 この様子は、読んでいるだけで痛くなる(?)ので、割愛。

 ついに、拷問の恐ろしさに耐えかねて、嘘の自白をすることになる。

 南町奉行能勢出雲守は、浪人筑紫団右衛門に斬罪、八百屋惣右衛門と鹿野武左衛門には流罪、板木元の弥吉には江戸追放を申しつけた。『鹿の巻筆』と『病除の方書』は、板木を焼き捨てられた。
 武左衛門は伊豆の大島に流された。命は助けられたものの、人に話を聞かせることを禁じられたかれは、死んだも同然であった。大島における武左衛門は、いつも無患子(むくろじ)の皮を煎じた汁をつけた葭の茎から、小さな泡のような水玉を吹き飛ばして見せては、島の子供たちの喝采を浴びていたという・・・・・・。
 幕府の狙いは、当ったともいえるし、当らなかったともいえる。鹿野武左衛門は、五年目の元禄十二年の四月に許されて江戸に帰り、八月に死んだ。五十一歳だった。かれの死後、どんな軽口や小咄も、幕府の怒りに触れるということで、江戸の落語は、すっかり廃れてしまった。

 とんだ、とばっちりを受けたものだ。

 しかし、鹿野武左衛門が本当に流罪になったかどうかについては、異説もある。
 延広真治さんが疑問を呈していることを、以前の記事で紹介した。『武助馬』として伝わる、問題となったネタ『堺町馬の顔見世』についても関山和夫さんの『落語名人伝』の引用で紹介した。
2014年1月12日のブログ

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延広真治著『江戸落語』(講談社学術文庫)

 重複するが、その記事から延広真治さんの『江戸落語』の内容を引用する。

大島遠島も証となるべき『流人帳』は現存せず(立木猛治『伊豆大島志考』、昭和三十六年)、赦免も、『旧幕府引継書』中の『赦帳』が、『正徳四年より享保九辰迄 御仕置ニ成候者此度赦ニ可罷成分窺帳』に始まるため、確認できない。八丈島遠島は、宇喜多秀家以来の『流人明細帳』により確認しうるが、武左衛門は不登場。したがって大島遠島に関しては確かめえないが、『延元年間秘事』も「板刻ハ焼捨」が、正徳六年(1716)板『鹿の巻筆』の存在により否定された以上、遠島も疑うべきであり、しかも無削除であるから、『鹿の巻筆』筆禍説は成り立つまい。


 このように、武左衛門が流罪になったことを裏付ける証拠に乏しいのである。

 しかし、武左衛門のつくった滑稽噺が、江戸の詐欺事件と結び付けられ、彼がとばっちりを受けたこと、そして、その結果、江戸の落語の火が消えたことは事実なのではなかろうか。

 長部さんの本から、鹿野武左衛門に関する「江戸落語事始」の記事、これにてお開き。
 他の話も紹介しようかとは思っているが、別な記事を挟んでからになる予定。

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by kogotokoubei | 2018-10-31 12:47 | 落語の本 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛