噺の話

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2018年 10月 29日 ( 1 )

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長部日出雄著『笑いの狩人-江戸落語家伝-』

 『笑いの狩人-江戸落語家伝-』の最初のお話「江戸落語事始」からの三回目。

 自分の新作を披露して、初めて絵師石川流宣やその弟子たちを爆笑させることができた安次郎。流宣は、咄職を本業としてはどうかと安次郎に勧めるのだった。

「咄職というのは、この江戸にはまだねえ商売だが、なあに、あまえさんほどの腕がありゃあ、心配することはねえ。おまえさんがその気なら、及ばずながらおれたちみんなが贔屓になって後押しさせて貰うぜ」
 流宣はそう言って、弟子のほうに声をかけた。「なあ、みんな」
「へえ」「安次郎さんのためなら・・・・・・」「興行の旗持ちでも車引きでも、なんでもやりまうぜ」
 弟子たちは口口にいった。
「しかし・・・・・・」と流宣は「京の咄職が露の五郎兵衛で、江戸がおしゃべり安次郎というんじゃ、どうも貫禄がねえな。おまえさんの家には、苗字ってものはないのかい」
「なんでも聞いたところでは・・・・・・」安次郎は首を傾げて「先祖はさむらいで、志賀という苗字だったとか」
「元は武士で、苗字は志賀か。志賀の・・・・・・そうだ、鹿野武左衛門(しかの ぶざえもん)というのは、どうだい。これなら飄軽なところと、武張ったとことを両方あって、江戸の人間にゃあ、ぴったりだ。どうだい、この名前は」
「へえ、わたしには別に異存は・・・・・・」
「よし、決まった。おまえさんはきょうから鹿野武左衛門、江戸の咄職の元祖てえわけだ」

 というわけであった。

 なお、第一回の記事で、初代三笑亭可楽のお話、としばらく間違えたままだったことを、平にお詫びします。最近、以前では考えられないような間違いが、多くなったなぁ。

 さて、塗師の安次郎が、ついに咄職の鹿野武左衛門として、人様の前に顔を出すこととなる。

 中橋広小路の露天に、葭簀(よしず)張りの小屋を構えて、六文の木戸銭を取り、晴天八日の興行をした鹿野武左衛門の仕方咄は、たいへんな評判を呼んで、連日大入り続きの盛況となった。武左衛門はこのときのために、小咄ばかりでなく、身振り手振りを入れた仕方咄を練り上げて「しかた咄 鹿野武左衛門」の看板と幟を小屋の外に掲げていた。

 この後、「夢中の浪人」という仕方咄のあらすじが紹介されている。
 武左衛門の著『鹿の巻筆』巻二に収録されているようだ。
 浪人が仕官を目指して訪れたある殿様の家で、殿を待つ間にその家の子供が現れ、浪人に出された干菓子を持って行ってしまう。浪人が食べたと思われるのを厭い、何度も顔を出し菓子を盗む子供を脅かそうと、目と口と鼻の穴に両手の指を突っ込み、顔をできるだけ引きひろげ、「ももんがあ!」と嚇した。
 それでも懲りずにやって来る子供に、その都度、「ももんがあ!」をやる浪人。

 この話には浪人が「ももんがあ」の顔をつくるところが五回ある。武左衛門の顔はその五回とも、まるっきり違っていた。造作を横にひろげたり斜めにしたり八の字にしたりするので、浪人が顔をまえに伸ばして「ももんがあ!」と嚇すたびに、吹き出さずにはいられない。とくに「ももんがあ」の顔をしたまま、相手が殿と判った一瞬の表情の変化は、抱腹絶倒のおかしさだった。そして最後の憎きも憎し、と眦(まなじり)を本当に横に切り裂けんばかりに肘を張った両手で引きひろげ、「ももんがあ!」と威嚇するところでは、その浪人が怖いなら、おかしいやら、気の毒なやらで、聞く者は、ああ面白い、よい話を聞いた・・・・・・と、すっかり満足させられてしまうのだった。

 仕方の巧さのみならず、話を実話仕立てにしているところも、武左衛門の人気が出る要因だった。

 石川流宣や彼の弟子たちも、武左衛門のために協力した。

 -武左衛門のいるは賑わし涼み台
 という句を、人の目につく壁に書いて、かれの名前の広目(宣伝)をして歩いた。武左衛門の成功に刺激されて、江戸には、横山町の休慶、中橋の伽羅小左衛門(きゃら こざえもん)、おなじく伽羅四郎斎、芝の喜作・・・・・・といった咄職が生れた。そのことも、仕方咄随一の名人は鹿野武左衛門、ということになって、いっそうかれの名前を高めた。
 何年もしないうちに、鹿野武左衛門は江戸市中の人気者になっていた。

 塗師の安次郎は、ついに、江戸の咄職の元祖、鹿野武左衛門として人気を博すことになった。

 しかし・・・・・・好事魔多し、である。

 この後、あの事件が起きるのであった。

 その内容は、最終回にて。


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by kogotokoubei | 2018-10-29 20:53 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛