噺の話

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2018年 08月 04日 ( 1 )


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ドナルド・キーン著『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』

 ドナルド・キーン『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』から二回目。

 前回同様、まず「第一章 開戦の日」からの引用。ときに、章の名の範囲を超えた時期の日記もキーンは紹介している。

 戦時中、作家たちは元旦に新しい日記を書き始めるにあたって、そのつど予言したものだったー(どの年であれ)今年こそ日本の運命を決する年になるだろう、と。昭和二十年は、まさにその決定的な年だった。昭和二十年一月一日、当時医学部の学生だった山田風太郎(1922-2001)は、次のように日記に書く。

   ○運命の年明く。日本の存亡この一年にかかる。祈るらく、祖国のために生き、祖国の
  ために死なんのみ。
   ○昨夜十時、午前零時、黎明五時、三回にわたりてB29来襲。除夜の鐘は凄絶なる迎撃の
  砲音、清め火は炎々たる火の色なり。浅草蔵前附近に投弾ありし由。この一夜、焼けたる家
  千軒にちかしと。
 
 最初に東京が空襲を受けたのは、昭和十七年四月だった。ジェイムズ・ドゥーリトル中佐率いる十六機の中型爆撃機が、軍事的な標的と公式に認められていた東京の施設を爆撃した。もっとも、その成果を示す写真は小型の釣り船一隻の沈没を確認するにとどまった。爆撃機は航空母艦から発進したが、着艦に際して爆撃機の機体の重量があり過ぎたため、爆撃完了後は安全のため中国大陸へ向かった。これは見せしめのための空爆にすぎず、東京の標的に損害を与えることより、むしりアメリカ人の士気を高めることが目的だった。しかしながら、この爆撃は日本人の不安を煽ることになった。ドゥーリトル戦隊の急襲の翌日、伊藤整は灯りが外へ洩れないように窓の隙間に目張りをし、また身動きしやすいように着物をやめて洋服を着ることにした。永井荷風は、日記にこう書いている。

   四月十八日。(中略)哺下金兵衛に至り初めて此日の午後米国飛行機東京に来襲。爆弾投下の
  事を知る。火の起りし処早稲田下目黒三河島浅草田中町辺なりと云。歌舞伎座昼間より閉場。
  浅草興行物夕方六時打出し夜は無しと云。新聞紙号外を出さず。
   四月十九日。(中略)米機襲来以後世情騒然たるが如し。午睡の後金兵衛に至り人の語るを
  きくに大井町鉄道沿線の工場焼亡。男女職工死傷二三百人。浅草今戸辺に高射砲弾丸破片落下
  の為負傷せし者あり。小松川辺の工場にも被害ありと云。新聞紙ラヂオ共に沈黙せるを以て風説
  徒(いたずら)に紛々。確報知るべからず。

 信頼すべき情報の欠如が、この戦争の特徴だった。

 山田風太郎、本名山田誠也(せいや)は、兵庫で父母ともに医者の家系に生まれた。
 旧制高等学校の受験に失敗し、更に二年間浪人したが希望校に入れず、昭和十七年に家出同然に上京した。二十歳になっていたので徴兵検査を受けたが、肋膜炎のため丙種合格で入隊していない。昭和十九年、二十二歳で旧東京医学専門学校、現在の(世間を賑わわせている)東京医科大学に入学。入学後は、やや虚無的な青年として読書ばかりする日々を送った。戦争末期には学校ごと長野県飯田に疎開している。

 戦中の山田青年が、やや異常な精神状態となっていたことが、その日記からもうかがえる。

 一方、荷風の日記に登場する金兵衛は、彼の行きつけの新橋の小料理屋。日記に頻繁に名が出る。

 昭和十七年のドゥーリトル隊の空襲は、米軍が想定していた以上に、日本人に多大な恐怖心を植え付けた。
 その年以降、空襲が劇化する中、人心がどう変遷していったか、山田風太郎の日記で察することができる。

 アメリカの空襲が頻繁になり、アメリカ軍が昭和二十年三月に硫黄島を占領後、空爆はさらに激化した。日本の本土に近い基地を手に入れたことで、アメリカの爆撃機は日本列島に爆弾を落とした後、燃料を補給することなく基地に帰還できるようになった。事実上向かうところ敵なしのアメリカの爆撃機は、全国の大都市を広域にわたって破壊した。しかし多くの日本人は、この期に及んでなお最終的な日本の勝利を信じていた。
 山田風太郎は日記の中で、こうした日本人が抱く自信と、敵国の人々が抱く自信の性格を比較している。富強に頼るアメリカ、広大な領土に頼る中国、不敗の伝統に頼る英国と違って、日本人を支えていたのは日本魂に対する信仰だけだった。山田は、戦争のこの段階での日本人を夢遊病者に譬え、誰もが物に憑かれたように「凄烈暗澹たる日本の運命」を両手で支えている、と書いた。昔からゴシップ談義に花が咲く銭湯で耳にした話題について、山田は次のように記している。

   十七年はまだ戦争の話が多かったと憶えている。十八年には工場と食物の話が風呂談義の
  王座を占めていた。十九年は闇の話と、そして末期は空襲の話。(中略)今ではいくら前の
  晩に猛烈な空襲があっても、こそとも言わない。
   黙って、ぐったりとみな天井を見ている。疲れ切った顔である。それで、べつに恐怖とか
  厭戦とかの表情でもない。戦う、戦いぬくということは、この国に生まれた人間の宿命の
  ごとくである。(中略)壁の向うの女湯では、前にはべちゃくちゃと笑う声、叫ぶ声、子供のい
  泣く声など、その騒々しいこと六月の田園の夜の蛙のごとくであったものだが、今はひっそりと
  死のごとくである。女たちも疲れているのである。いや女こと、最も疲労困憊し切って
  いるのである。

 昭和二十年一月六日、山田は書く。

   過去のすべての正月は、個人国民ともにそれぞれ何らかの希望ありき。目算ありき。
  今年こそはあの仕事やらん、身体を鍛えん、怒らざらむ等々。よしそれの成らざるも、一年の
  計を元旦になすは、元旦の楽しみの一つなりき。しかも今年に限りてかかる目算立つる人
  一人もあらざべし。

 昭和二十年元日の山田の日記、また同じ日に書かれた他の筆者たちの日記にも戦争を楽観視する言葉は微塵も見られない。

 山田風太郎の日記から、戦局の悪化は、銭湯での笑い、そして会話を奪い取っていったことがよく分かる。

 昭和二十年元旦、ほとんどの作家が、暗澹たる気持ちで日記帳やノートを広げていたことも、伝わってくる。

 少し時期を戻して、「第二章 『大東亜』の誕生」から、ガダルカナルの戦闘の頃。

 昭和十七年(1942)八月から翌十八年二月まで続いたガダルカナルの戦闘は、開戦初年度に日本軍が占領した領土をアメリカ軍が奪還にかかった第一歩だった。戦闘は熾烈を極めた。多くの日本兵がアメリカ軍の銃弾のためだけでなく、飢餓によって死んだ。そのため、日本兵たちは自分の日記にガダルカナル島のことを「餓島」と記したものだった。戦場や海上で回収されたこれらの日記を、わたしは数週間後に真珠湾の海軍局で読んだ。飢えと病気に苦しむ男たちの話で満たされた日記を読んでわかったのは、これまで日本人の心理がわかると公言していた者たちが、日本人のことを普通の人間の弱さを持たない狂信者だと言っていたのが大変な間違いだということだった。

 遅ればせながら著者ドナルド・キーンのことを本書表紙裏からご紹介。

 1922年、米国ニューヨ。ーク生まれ。日本文学研究者、文芸評論家。
 コロンビア大学に学ぶ。米海軍日本語学校で学んだのち情報士官として海軍に属し、
 太平洋戦線で日本語の通訳官を務めた。戦後、ケンブリッジ大学、京都大学に留学。
 1955年からコロンビア大学助教授、教授を経て、同大学名誉教授。
 2008年に文化勲章受章。2011年、日本国籍を取得し日本に永住することを発表した。

 キーンが丹念に読んできた戦中の作家の日記について、もう一、二回は記事にするつもりでいる。

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by kogotokoubei | 2018-08-04 10:07 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛