噺の話

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2018年 07月 07日 ( 1 )

 歌丸のことを書いた後、最初の師匠、五代目今輔について書かれた本をめくっていた。
 本名鈴木五郎、明治31(1898)年生まれ、昭和51年(1976)没。
 群馬県佐波郡境町(現、伊勢崎市)の出身で、「お婆さん落語」で売り出し、「お婆さんの今輔」と呼ばれた。曲芸師の鏡味健二郎は実子。

 ちなみに、歌丸は、今輔門下にあって、当時若手の寄席の出番が少ないなどについて、他の若手と一緒に待遇改善を訴えたことから今輔の逆鱗の触れ、一時落語界を離れている。
 二年ほど化粧品のセールスなどをした後、兄弟子米丸の仲介で戻り、米丸の弟子として再出発した経緯がある。
 
 今輔の前名も、米丸。

 
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宇野信夫著『私の出会った落語家たち』

 宇野信夫著『私の出会った落語家たち-昭和名人奇人伝-』は、2007年河出文庫の発行だが、1986年に同じ河出文庫発行『今はむかしの噺家のはなし』を底本にして、一部を割愛、いくつかの章を他の本から追加したもの。

 この本に、米丸時代のことが書かれているので、紹介したい。

 米丸になってからの今輔は少しは売れてきた。昭和十年の一月に「吹雪峠」という私の作が二代目左団次によって東劇に、九月に六代目菊五郎によって「巷談宵宮雨」が歌舞伎座に上演された。この二作とも、米丸は文都(里う馬)柳楽(可楽)馬の助、甚語楼(志ん生)と一緒に見物してくれた。但し私の作だけを、三階の一幕見の立見席で見てくれた。もちろん、普通の入場料を払うほど楽ではなかったからである。しかし、これがほんとうの「惣見」だと言っていた。

 里う馬は、九代目。本名黒柳吉之助で、“吉ッつあんの里う馬”と呼ばれた人。明治25生まれだから、志ん生の二歳下。あの名人四代目橘家円喬に入門したものの半年ほどで師匠が亡くなり、出鼻をくじかれて活弁に転向した。それも半年でやめ、四代目円蔵門下から六代目馬生(四代目小さん)門下となったものの、師匠の妹さんとの不祥事から北海道にドロンした後は、一時幇間になった、というなんとも波乱の半生を送った人。
 馬の助は、亭号は蝶花楼で、明治29年生まれ、後に八代目金原亭馬生になった人。本名小西万之助。志ん生とは若い頃いちばんの友人。
 その二人とは里う馬になった文都も仲が良く、頻繁に橋場の宇野邸を訪ねては、ご馳走になっていた。
 八代目の可楽になった柳楽は、志ん生の口ききであの世界に入った人で、明治31年生まれ。
 そういった兄貴分志ん生を中心にした悪友たちの中に、米丸時代の今輔も加わっていたのは、いささか意外であった。
 橋場の旦那、さすがに多くの噺家に慕われていたということか。

 引用を続ける。

 米丸の芸風は、前述の通りぶッきら棒でそっけなく、義理にもうまい噺家とはいえなかったが、その人がらが堅実で、しっかりした見識をもっていた。
「私のことを仲間が上州だ、群馬県だ、と言うから、こっちから先に、私は群馬県だからね、私は上州だからね、と何かにつけて先廻りして言ってやると、この頃は私のことを誰も群馬県だ、上州だ、と言わなくなっちまいましたよ」そんなことを私に言ったことがある。

 訛りについて思い出すのは、初代正楽が信州出身、二代目正楽が春日部出身で訛りに苦労して噺家から紙切りに転身したことは有名。
 しかし、米丸は、その出身による言葉のハンデを、新作落語によって克服した。
 戦後、今輔になってから、新作では第一人者になった。今輔は自分の芸風が古典落語ににむかないことをよく知っていた。自分に生きる道は新作にあると、早いうちから悟っていた。私の「霜夜狸」を誰より先に高座にかけたのは、今輔である。
 鈴木通夫という私の友人が、今輔の理解者で、「おばあさん」を主人公とする落語を何篇か書いた。今輔はそれを生かして高座にかけて大いに迎えられ、「今輔のおばあさん」で通るようになった。今輔は鈴木氏にしんから感謝したに違いない。
 鈴木氏がこんなことを私に話したことがある。
「大晦日の晩、今さんがわざわざ鎌倉の私の家をたづねてくれた。誰でもいそがしい大晦日に、なんの用だろうと思っていると、私の原稿料をもってきてくれた。苦労をしたんだから、私の懐を考えてくれたんだろうと思って、ほんとうに有難かった」 
 里う馬の生活を思いやって、まとまった金を出して、
「返すときがあったら返してくれ、返さなくても結構」今輔さんこそ男の中の男だ、里う馬は古風なことを言って、涙をこぼしていた。

 いい話ではないですか。

 このあと、押しもおされもしない人気者になった今輔は、宇野信夫が高齢者を対象に開催していた「敬老会」に、安い謝礼金にも文句を言わず、毎年出演してくれたことが明かされている。

 今輔の人柄の良さ、仲間思いで義理堅い人だったことがうかがえる。

 たぶんにそれは、上州生まれであることを周囲からもからかわれ、自分もその訛りに苦労してきた若い頃の我慢の日々が。土台にあるのだろう。

 だから、弟子だった歌丸(当時は、今児)たちの行動が、我がままな振る舞いとしか思えなかったのかもしれない。

 歌丸のことから、最初の師匠今輔の人となりを思い返すことになった。
 
 晩年、志ん生とは、きっと協会などの縛りなどを越えた交流もあったのではないだろうか。

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by kogotokoubei | 2018-07-07 11:57 | 落語家 | Comments(2)

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by 小言幸兵衛