噺の話

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2018年 07月 02日 ( 1 )

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吉村昭著『彰義隊』(新潮文庫)

 吉村昭の『彰義隊』を元に、サッカーのポーランド戦が始まる前に書いた記事の、後半。

 それにしても、昨日の二試合が、いずれもPK戦になるとは。
 
 さぁ、ベルギー戦は、どうなるか。

 その前に、百五十年前の上野の戦いのこと。
 前回は、慶応四(1868)年の五月十五日の月の見えない、雨の中の一戦を前に、薩摩兵が黒門口を固めた、というところまでを書いた。

 ついに、戦いの火ぶたが切られた。
 大村益次郎からは、黒門口を突破せよという指令があって。薩摩藩兵の一隊は広小路を進み、黒門口の彰義隊に一斉に銃撃を開始した。六ツ半(午前七時)であった。
 その銃声に、湯島神社にあった本隊は、砲五門をひいた大砲隊を黒門口前面と御徒町方面へ、さらに小銃諸隊、遊撃隊がそれにつづいて押し出し、たちまち激烈な戦闘がくりひろげられた。

 上野戦争は、町人たちの生活にも、多大な被害をもたらしている。

 薩摩藩の大砲隊長は、黒門口をのぞむ会席料理の松源と仕出し料理店の雁鍋(がんなべ)の二階に砲をかつぎあげさせて、そこから砲撃させた。このことが後に江戸市民の批判を受け、人気のあった松源の客足は徐々に少なくなり、やがて廃業の憂き目にあった。

 東叡山を身近に感じていた上野の住人にしてみれば、官軍側に肩入れするような店は、許せなかったのだろう。

 しかし、松源も雁鍋も、薩摩藩兵が鉄砲掲げて「二階を貸せ」と言ってきたら、到底断ることはできなかったはずで、なんとも可愛そうである。

 大村益次郎は、戦略家で、根岸、日暮里方面には兵を配置せず、彰義隊の逃げ口として開けておいた。彰義隊も、それを知っていた。

 さて、戦闘はどんな様相となっていたのか。
 黒門口は、上野東叡山の南にあるが、北の谷中口方面には長州、肥前、筑後(久留米)、大村、佐土原の各藩の連合軍が、本郷の加賀藩邸から根津方面に出撃し、根津権現にいた彰義隊の一隊と遭遇してこれを撃退し、団子坂から谷中口方面に進んでいた。
 谷中口をかためていた彰義隊の諸隊は、それを知って出撃し、団子坂と善光寺坂の間の、水が満々とはられた水田をへだててはげしい銃砲撃戦となった。
 また、朝廷軍の諸藩兵は、穴稲荷門をはじめ諸門を守る彰義隊に砲弾を浴びせかけ、銃弾を連続的に撃ちこみ、これに対して彰義隊も必死に応戦し、樹木は吹き飛び、硝煙で視野は閉ざされた。
 双方の死傷者はおびただしく、時間の経過につれてその数は増していた。手足がちぎれて血を流し、頭部が砲弾で吹き飛んだ遺体が血に染まって降雨の中にころがっていた。

 あえて、おどろおどろしい表現の部分も引用したが、戦争とは、そういうものなのであって、湾岸戦争以降の風潮のように、決して、ゲーム感覚で捉えてはいけないと思う。戦地では、血が流れるのだ。

 黒門口では、もっとも激烈な戦闘が続けれらていた。

 薩摩藩兵の死傷者が増し、指揮者は、本陣で戦況を見守る大村益次郎のもとにおもむいて増援を要請した。しかし、大村は床几に座ったまま返事をしない。
 指揮者は怒り、
「薩摩藩兵をことごとく死なせるつもりですか」
 と、言った。
「もとより、その通りだ」
 大村は、冷ややかに答えた。
 この一言に、指揮者の怒りはさらにつのり、黒門口に駆けもどった。
 薩摩藩兵の背後の民家は火炎を噴き上げ、それがせまってきて、火熱が兵たちをおおうようになっていた。このままでは、陣地を撤去して敗退することになる。指揮者は、進む以外に活路は得られぬと決断し、全軍に突入を命令、藩兵たちは喊声をあげて銃を乱射しながら黒門口に突撃した。
 これを見た鳥取、藤堂藩の藩兵たちも、呼応して突き進み、これによって少しのゆるぎなく守られていた黒門口の陣地が突破された。
 薩摩藩兵は、後退する彰義隊員を追って進み、すぐにとって返して黒門口をかためた。
 彰義隊員たちは、黒門口を奪い返そうとして、後方にまわり、銃弾を放った。藩兵は応戦し、彰義隊員を追い払って、黒門口は朝廷軍の手に落ちた。時刻は、九ツ半(午後一時)すぎであった。

 この薩摩の指揮者と大村とのやりとりについては、吉村昭は裏が取れたのかもしれないが、諸説ある。

 一つは、作戦会議の段階で大村が示した薩摩軍の配置を見て、西郷隆盛が「薩摩兵を、皆殺しになさる気ですか」と問うと、大村が「そうです」とにべもなく答えたという説。また、大村を問い詰めたのは桐野利秋という説もある。しかし、もっとも激戦の予想された黒門口を受け持つことを薩摩が希望したという説もあるので、このあたりは、何とも言えない。
 しかし、西郷は大村に全権を委任したと思われるので、彼の発言とは思えない。

 いずれにしても、“背水の陣”ならぬ“背炎の陣”での薩摩藩兵の突破により、彰義隊は黒門口を失った。残された時間は多くはなかった。

 銃声は散発的に起こっていたが、戦いは、事実上終わっていた。七ツ半(午後五時)すぎであった。
 依然として雨は降りつづき、上野の山には死骸が累々と横たわっていた。朝廷軍の死傷者は約百二十名、彰義隊の死者じゃ、二百六十六人。彰義隊の死者が多かったのは、薩長両藩の使用したアームストロング砲をはじめとした最新鋭の銃砲の威力によるものであった。

 アームストロング砲については、佐賀藩の所有する同砲が活躍した、とも言われている。

 朝七時から、午後五時・・・約十時間の戦闘。

 戊辰戦争の局地戦の一つ、と数えることもできる上野戦争から百五十年。

 かつて、日本人同士内戦を行ったことは、次第に忘れられていく。

 明治という国をつくるための陣痛とも言える内戦は、なんとも痛ましい歴史だ。
 
 そして、戊辰戦争を含む多大な犠牲を払い出来た新たな日本は、日清、日露の勝利に奢り、あの大戦に向かって行く。

 
 内戦はもとより、戦争も、「なんとも、馬鹿なことをした」と振り返られるべきだ。
 決して、美化してはいけない。

 そんな思いがあって、旧暦五月十五日に、この記事を書き始めた。
 あの夜は見事な満月だったが、百五十年前の江戸は雨で、その雨は上野の山のあちこちで、血の色に染まったのだ。


 八月十五日近くにメディアはいろんな特集を組むかもしれないが、いわば年中行事化しているとも言えるだろう。

 「今そこにある戦争の危機」について、大手メディアは、ほとんど無視している。

 いろんな戦争の歴史を振り返るたびに、今そこにある危機が、もっと語られていいと思う。
 
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by kogotokoubei | 2018-07-02 12:27 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

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