噺の話

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2018年 05月 30日 ( 1 )


  瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
  われても末にあはむとぞおもふ

 有名な崇徳院の作。
 落語愛好家の方は、よくご存知^^


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白洲正子著『西行』

 白洲正子さんの『西行』から、今度は、西行と崇徳院に関して。

 落語の『西行』でも登場する「あこぎ」という言葉を、まだ出家する前の佐藤義清(のりきよ)に言ったのは、待賢門院であっただろう、という白洲さんの推理のことを前の記事で紹介した。

 崇徳院は、その待賢門院の子。しかし、待賢門院の夫である鳥羽天皇(後の上皇)の子では、ない。

 本書「讃岐の院」から、引用。

 保元の乱につづいて平治の乱、源平の合戦から承久の乱に至るまで、それらの戦いは皆ひとつづきのもので、さしも強力であった朝廷の権力は、怒涛のように崩れ去るのであるが、中でも凄惨をきわめたのは崇徳天皇の生涯であった。
 天皇が、白河法皇と待賢門院璋子(たまこ)の間に生れた不義の子であったことは、周知の事実であり、父親の鳥羽上皇は、「叔父子(おじご)」と呼んでおられた。
 白河法皇が六十を過ぎて、当時十代の璋子を可愛がるあまり身ごもらせてしまったのだが、白河法皇は孫の鳥羽天皇に璋子を中宮(天皇の妻)とさせた。
 
 表向きは平穏でも、こうした親子の間柄ほど複雑で、陰湿なものはない。白河法皇が崩御になると、前(さきの)関白太政大臣忠実の娘が後宮に入って、皇后に冊立(さくりつ)され、ついで美福門院得子が、鳥羽上皇の寵愛を一身に集めるようになる。

 関白太政大臣藤原忠実は、前の記事で、待賢門院がふしだらな女性であることを日記に書いた人物であったことを、紹介した。

 白河法皇に疎まれていたが、法皇の崩御で、権力を取り戻したのである。

 鳥羽上皇も、目の上のたんこぶだった白河法皇がいなくなれば、自分の時代、とばかりに好きなことを始めた。
 寵愛した美福門院得子に子供ができた。
 天皇の母であった待賢門院は、徐々にその立場を失い始める。

 それが表面に現れたのは、得子の産んだ体仁(なりひと)親王(後の近衛天皇)を皇太子に立て、崇徳天皇に譲位をせまられた時のことであった。
 その時天皇は二十三歳で、体仁親王を養子にしていられた。させられていた、というべきかも知れない。それは得子の身分が低いので箔をつけるためであったが、親王はわずか三歳で即位し、譲位の宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」と記されていた。これはきわめて重要なことで、皇太弟では、退位後に上皇は院政を執ることができないだけでなく、子孫を皇位につける望みもあやしくなる。「愚管抄」には、「コハイカニト又崇徳院ノ御意趣ニコモリケリ」と、鳥羽上皇に恨みを抱かれたことが記してあるが、実際には殺生忠通の策謀によるものであったらしい。

 白河法皇の崩御から、一気に激動の時代に突入する。
 皇室や摂関家が敵味方に別れて戦うことになるが、メインプレーヤーとして登場したのが、藤原忠通(ただみち)だった。

 忠通は、忠実の長男で、実直な父親とは違って、奸智(かんち)にたけた政治家であった。一方、次男の頼長は、愚管抄に「日本第一の大学生(だいがくしょう)」と称賛されたほどの大学者であったから、父親に愛され、兄の忠通とはことごとに反目し合っていた。どちらかといえば、一本気で、融通のきかない忠実・頼長父子と、天才的な策士である忠通との二派にわかれた摂関家の内紛が、皇室の内部にまで影響を及ぼし、保元の乱の要因となったことは疑えない。

  瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
  われても末にあわむとぞおもふ

 百人一首で有名な崇徳院の御製である。永治元年(1141)譲位して間もなくの作とかで、『詞花和歌集』では「恋 題不知」となっており、「谷川」が百人一首では「滝川」に変っている。一応はげしい恋の歌には違いないが、岩にせきとめられて、二つに分かれた急流が、やがては一つになって逢うことができるであろうという信念は、崇徳院の皇統が、いつかは日の目を見ることを切に願っていられたことを暗示している。
 そのころから母后の待賢門院も落胆のあまり出家して、病がちとなり、四年目の久安元年(1145)崩御になった。

 保元の乱において崇徳院の敵方には、源義朝と平清盛も、仲良く加わっていた。

 さて、西行が失恋のあまり出家することになった待賢門院の子、崇徳院が窮地に陥り、西行はどうしたのか・・・・・・。

 次の記事で、ご紹介したい。

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by kogotokoubei | 2018-05-30 12:27 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛