噺の話

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2018年 02月 10日 ( 2 )

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暉峻康隆著『落語の年輪-大正・昭和・資料篇』(河出文庫)

 主に暉峻康隆さんの『落語の年輪』に基づき、ほぼ百年前の東京落語界を振り返るシリーズの四回目。

 大正九年十一月、それまでの東京寄席演芸株式会社(会社)、落語睦会(睦会)、東西落語会の三派に加え、五厘の大与枝が再起をかけて睦会の分断を仕掛けて新睦会が発足。それを機に噺家の引き抜きや移籍が続き東京落語界は混迷していた、というところまでが前回。

 さて、そんな状況を、メディアはどう伝えていたのか、という部分から再開。

 咄が聞きたくば会社派へ、見物したくば東西派へ、にぎやかなのがよければ睦会へ、浪人不平党がよければ新睦会へ、というのが大正十年(1921)三月一日付の「都新聞」の評判である。ところがそれから半月後には、新睦会と円右の三遊派が“東西落語会”に合併したので、これでまた東京落語界は、会社派と睦会と三派合同の“東西落語会”の三派になったわけである。

 あらら、また三つになったんだ。
 と、思ったら。

 ところが、三派でしばらくおちついていた大正十年の東京落語界も、秋になるとまた一騒ぎが持ち上がった。それは神戸の吉原派が、鈴本一派の東西落語会から分立し、神田の入道館と浅草の江戸館などを根城として“扇風会”と称し、競争することになったからである。その扇風会は、明けて大正十一年の一月から、事務所を日本橋蠣殻町に設け、扇風会改め“東西落語演芸会”と称することになったので、東西落語会はたまりかねて、七月になると“東洋会”と改称している。

 まさに、離合集散。
 この後に、当時の落語界で中心となった人物として、品川の円蔵と言われた四代目橘家円蔵のことが書かれている。
 当時、東京落語界でもっとも勢力があったのは、この四代目円蔵であった。東京の三派へはもちろん、京都へも門人を出しているのはこの円蔵だけで、東西派へは円坊、文三、円幸、睦派へは円都、大阪へ蔵之助、花橘、京都へ一馬、桂州、蔵造、会社派へは御大自身の出馬だけに、円窓(のちの五代目三遊亭円生)を旗頭に、円好(六代目円生)、小円蔵の新進に、円兵衛の古参をしたがえていた。そのほか地方(どさ)回りや修業中の若い者を入れると同勢は約百人というのであるから、まさに円朝亡き後の最大の勢力といってよかろう。
 百人の一門・・・とは凄い。

 また、この時期に今につながる興行形態の変更があった。
 それは、睦会が、それまで月二回替り興行だったのを、上席一日、中席十一日、下席二十一日としたのである。

 三派が争う中で、大正十二年が、明けた。
 離合集散の動きは、その後、おさまっていたのだが。

 ところが、そのしばらくの平穏も、今度は落語界というコップの中の嵐ではなく、九月一日の関東大震災という天災地変によって、東京落語界は壊滅してしまった。
 まず市内の寄席では、会社派に属している神田の立花亭、両国の立花家、本郷の若竹亭、雷門の並木亭、京橋の金沢亭は焼失、わずかに駒込の山谷亭、四谷の若柳亭の二、三が残るのみとなった。
 睦会の席では、四谷の喜よし、駒込の動坂亭、青山の富岳座、同じく新富岳、牛込の神楽坂演芸場、小石川紅梅亭、渋谷演芸場などを残し、他は全部焼けてしまった。
 多くの落語家が焼け出された中で、運わるく本所被服廠跡に避難したために死亡したのは、坐り踊りの名手であった麗々亭柳橋、それに古今亭志ん橋、音曲師の三遊亭花遊、手品師の帰天斎小正一、柴笛の山田天心であった。この四人の合同追善法要は、翌月十九日、浅草観音堂で営まれた。
 また市内の寄席の看板およびビラを扱っていた専業者は、三光新道のビラ辰、神田三崎町のビラ万、それに廓橋の村田などであったが、三軒ともにこの大震災で類焼してしまったので、当分は江戸趣味の木版のビラは見られないことになってしまった。

 実は、上記の文を含め、大震災以降の東京落語界については、以前に落語協会の成り立ちとして記事にしている。
 同記事は、協会のホームページの改悪のことにも多く触れているが、冒頭にはこのシリーズ一回目で紹介した大正六年の出来事など紹介していた。
2015年4月11日のブログ

 重複する部分のあるが、大震災の後のこと。

 不幸中の幸いは、落語家の大部分が無事だったことで、九月十六日には早くも動き出し、落語睦会では当日から五日間、牛込の神楽坂演芸場と白山下の紅梅亭で、罹災者慰問のため、無料演芸会を催した。講談奨励会でも、震災後ただちに地方の災害地慰問委員として、貞丈や若狸(じゃくり)などを近県に派遣していたが、十月二十日には日比谷公園音楽堂で無料講演会を催し、これを第一回として諸方で催すことになった。
 被害に遭った落語家もいる。五代目麗々亭柳橋は火災のため焼死している。
 しかし、人数的には、名人たちの多くが健在だったことは、東京の落語界にとって救いだった。その名人たちの動向のこと。

 そうした動きの中で、かねて隠退を希望していた柳家小さんは震災を機に決意し、九月十七日に上野桜木町の家を引き払って蒲田の隠宅へ移った。だが時勢はそれをゆるさず、小さんの隠退はのびのびとなっている。また談洲楼燕枝も、門下の営業の道もついたので、十月二十六日に家族をつれて大阪へおもむき、北区の老松町に落ち着いたが、これまた早くも翌年四月には東京に舞いもどっている。いずれも東京落語再建の動きが、隠退をゆるされなかったのである。

 談洲楼燕枝は二代目。こ人、最初は初代快楽亭ブラックの一座で地方廻りをしていた。東京に戻って二代目代目禽語楼小さんに入門。三代目小さんは兄弟子にあたる。明治34(1901)年二月、初代燕枝の一周忌に柳亭燕枝を襲名し二年後に亭号を談洲楼と改めた。

 隠退を思いとどまった名人たちの思いは、その後実ることになる。
 あれだけ分裂を続けていた東京落語界は、震災という危機により団結する。
 大正十二年九月一日の関東大震災で、一時支離滅裂となった東京落語界であったが、翌十月には早くも大同団結に着手し、“落語協会”が誕生した。それは“落語睦会”と“会社派”の大部分が合同したもので、四代目柳枝こと華柳を顧問にいただき、左楽が頭取に就任し、馬生、三語楼などもすでに加入して、一日から睦会の席であった八席に出演し、成績は上々であった。旅に出ていた小勝、文治も加入のはずであり、また隠退したのを借り出されて大阪へ出演中の小さんも、別格の大看板として落語協会に迎えることになった。

 これで、ひとまずは、百年前に始まった東京落語界の“戦国時代”は終焉を迎える。

 とはいえ、翌大正十三年には、落語協会に参加しなかった四代目円橘や二代目金馬などによる“三遊睦会”や、いったん落語協会に吸収された東西落語会が協会を脱退し“柳三遊落語会”を発足し、再び三派体制になるのだが・・・・・・。

 大正六年に戦乱の火ぶたが切られた東京落語界の戦国時代については、これにてお開き。
 長々のお付き合い、誠にありがとうございます。
 
 あらためて思うのだが、“戦国時代”は、客にとっては、そう悪い状態でもなかったのではないか、ということだ。
 大正十一年三月一日の都新聞を再度ご紹介。

 “咄が聞きたくば会社派へ、見物したくば東西派へ、にぎやかなのがよければ睦会へ、浪人不平党がよければ新睦会へ”

 これだけの選択肢があったということだ。

 今の落語界、果たして、協会や会派などによる際立った特色、売り物、はあるのか。
 戦国とまではいかなくとも、やはり、ある程度の競争は、芸の世界でも必要なのではないかと思うなぁ。

 さて、芋づる式の拙ブログ、この後どんなネタになるものやら。

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by kogotokoubei | 2018-02-10 11:36 | 江戸・東京落語界 | Comments(2)
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暉峻康隆著『落語の年輪-大正・昭和・資料篇』(河出文庫)

 このシリーズの三回目。
 前回は、寄席演芸会社(会社)、睦会、誠睦会の三派に分裂した大正六年の東京の落語界において、最後発の誠睦会の“東西落語会”に、合資会社と改めた会社側の無限責任者でもある三代目小さんが、弟子の燕枝との親子会で出演したというところが、切れ場だった。

 もちろん、そのままでは収まるはずはない。

 会社側もだまってはおらず、看板はただちにはずされたが、その騒ぎは睦会への飛火して、小さんが鈴本へ出演する以上、我々も断然会社派と手を切って、三月上席にきまった横浜新富亭の出演もことわれ、と決議してしまった。
 会社側はまた一騒動ですったもんだの末、ようやくおさまって、小さんも無事に鈴本へ出演したが、そのどさくさに、会社派の月の家円鏡は三月上席から睦会へ転籍してしまった。これは睦会における柳と三遊を二分して争おうという右女助の策略と勘ぐるむきがあったが、その噂のとおり睦会は三月中に両派に分裂し、三遊は円右、円鏡、右女助、円左、小南、小円右、小文の一派、柳は柳枝、左楽、今輔、馬生、正蔵、翫之助、枝太郎、芝楽、馬之助、柳昇の一派が対立することとなった。
 離合集散、という戦国模様だ。
 この右女助は、初代円右の弟子だった初代三遊亭右女助で、その後、四代目古今亭今輔になる人。
 この後、東京の戦乱(?)に巻き込まれる形で上方の落語家が東京で出演したことが、思わぬ副次的な産物を生み出したことが紹介されている。

 大正七年五月の「朝日新聞」に、「色物席が江戸式の杉戸高座を大阪風の袖附の襖に改築」という記事があるが、さらに翌大正八年一月の同紙には、
  近頃の寄席は江戸式の杉戸高座を大阪式の袖附襖に改築するのが流行して
  いるが、睦会はこの頃円右などが上がる時でさえ楽屋で大阪式の鳴物を入れ、
  又芸人も上方風に脱いだ羽織を右手へ放り込む。
 という記事が見える。江戸前の杉戸高座を大阪式の袖附襖に改築したり、高座に上がる際に出囃子を使ったり、脱いだ羽織を右手へ放りこんだり、寄席の高座や演出が上方風に一変したという事実は、東京の落語史上、見落としてはならない変革である。
 今につながる出囃子などは、“戦国時代”が生んだ東西交流の産物だったわけだ。

 代表的な噺家の出囃子が、次のように紹介されている。

 三升家小勝 「いでの山吹」(長唄)
 林家正蔵  「あやま浴衣」(同)
 桂文楽   「野崎)
 三遊亭円生 「正札付根元草擦引」(長唄)
 古今亭志ん生「一調入り」
 三遊亭円遊 「さつま」
 三笑亭可楽 「勧進帳」
 古今亭今輔 「野毛山」
 春風亭柳橋 「せり」(大阪芝居でせり上げに使う合方)
 三遊亭円歌 「踊地」
 柳家小さん 「のっと」

 さて、そういう変化があったものの、戦乱は一時鳴りをひそめていたのだが。

 さて、小康を保っていた東京落語界も、大正九年八月になるとまたもやひと騒ぎもち上がった。会社派、睦、東西落語の三派のほかに、一日から五厘大与枝の“誠睦会”が復活したのである。大与枝は会社派ができたとき、睦派の創立に奔走したが、睦派が後援する伊藤痴遊をはじめ左楽などの幹部連と不和になり、大正七年十一月に鈴本・金沢などと組んで“中立会”を、さらに翌八年春には大与枝が主任となって“誠睦会”と改めたが、まもなく神戸の吉原が乗りこんできて、誠睦会は“東西落語会”となり、大与枝はしだいに窮地に追いこまれてしまった。そこで東西会とは手を切り、小さいながらも独立しようとして復活したのが“誠睦会”である。

 誠睦会の芸人は、小円遊、龍玉、武生、小三治などの落語家に百面相の花栗、義太夫の越駒などで、席は花川戸東橋亭、江戸川鈴本、牛込柳水亭の三軒。
 噺家に注がないので調べてみた。
 龍玉は二代目蜃気楼龍玉だろう。小円遊はその龍玉の息子の三代目かと思う。武生は金原亭で、あの志ん生のはず。ちなみに、翌大正十年に真打に昇進している。この小三治は三代目小さん門下の六代目で、本名は内田留次郎。俗に「留っ子」「坊やの小三治」と言われた人だろう。

 この誠睦会の復活とは、別な動きも出て来た。
 こうして会社、睦、東西落語会、誠睦会と、東京落語界は大小四派となったと思うとまもなく、翌九月下旬に、今度は四団体の中でもっとも優勢であった“睦会”に分裂さわぎがおこった。
 睦会は左楽派の勢力が盛んで、柳枝派といえども太刀打ちができず、その結果、左楽派に属しない各系統の芸人で不平を抱く者がすくなくない、というのが昨今の情勢であった。ところが、一方に左楽などと不和のために、睦会の創立当時功のあった大与枝が睦会を去って、中立会をつくり、また誠睦会をつくったが不振で、昨今は逆境におちいっているのを同情し、軍資金を出して大与枝の復活を図る者が現れたことが、睦会分裂の原因であった。
 睦会の水面下で、左楽派に押されている者だちが五厘の大与枝と通じ、誠睦会の復活、そして、睦会の分裂につながっていく、ということか。
 噺家の集団とはいえ、なんとも政治的な権力闘争のドロドロした世界が、その当時はあったのだなぁ。
 この睦会の分裂で出来たのが、“新睦会”。
 大正九年十一月上席から発足した睦会の別派の新睦会の幹部の顔ぶれは、おおむね予定どおり桂小南、金原亭馬生、月の家円鏡、神田伯龍、春風亭柳昇(ただし今月から改め朝寝坊むらく)ときまった。ところが円右だけは過般来、騒ぎの渦中に巻きこまれて身動きがとれなくなり、やむなく小円右、右女助をしたがえ、円右一人で三遊派をとなえ、局外中立を標榜し、新睦会と三遊派は大与枝の家に事務所を置くこととなった。
 担ぎ上げられたのが、初代桂小南。発足時に睦会に呼ばれたものの、勢力のあった左楽派の組織には馴染めなかったということだろう。先日、文楽の言葉を紹介したように、小南は、うぬぼれ屋であり、自分が一番でなければ済まない人だったようだ。
 この金原亭馬生は後に四代目古今亭志ん生となる六代目馬生。月の家円鏡は、のちの三代目三遊亭円遊だろう。
 新睦会の発足は、戦乱をさらに混沌とさせることになる。
 新睦会が十一月の上席から、馬生、小南、今輔、むらく、円鏡等に、中立の円右を加えた三十余名で旗あげしたので、落語界はいっそううるさくなった。というのは、同勢三十余人で中堅の芸人が欠けている新睦会が、月給や手当てや何もかも合算して六、七十円の収入で、へこたれていた会社派の中堅に目をつけて引抜きにかかった結果、円治(もとの文三)その他十数人が会社を辞職することになったからである。また騒ぎは東西落語会にもおよび、十二月になると燕枝が東西派を抜けて睦会へもどることになった。

 もう誰が以前はどこにいたのかが、記憶がごちゃごちゃになっている。

 この後、東京落語界は、いったいどんなことになるのかは、次回。
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by kogotokoubei | 2018-02-10 00:27 | 江戸・東京落語界 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛