噺の話

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2018年 02月 08日 ( 1 )

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暉峻康隆著『落語の年輪-大正・昭和・資料篇』(河出文庫)
 初代桂小南のことを書いた記事の中で紹介した、暉峻康隆さんと文楽の会話で、東京寄席演芸株式会社と睦会のことが話題になっていた。

 私のブログは“芋づる式”なので、この大正六(1917)年の東京落語界の出来事が気になり、同じ暉峻さんの『落語の年輪(大正・昭和・資料篇)』で確認した。

 今からほぼ百年前に、こんな状況があったのだ。

 “落語研究会”が支えとなって、小康を保っていた東京落語界も、大正六年八月に“東京寄席演芸株式会社”が設立されたのをきっかけに、落語史上またとない戦国時代がおとずれることとなった。

 落語界に“戦国時代”という言葉は、なんとも不自然な印象なのだが、いったいどんな戦国だったのだろう。

 この演芸会社の株主は、神田の立花、白梅、下谷の鈴本、人形町の鈴本、末広、京橋の金沢、浅草の並木、両国の立花、麹町の青柳をはじめとする落語二十八軒と、小さん、円右、燕枝、小勝、円蔵らの咄家連で、柳・三遊派と契約して、新たに月給制度を採用するという新体制であった。内輪もめの連続で、一年あまりで解散してしまったが、月給制度の会社組織に踏み切った理由は、つぎのようなものであった。
 それまで寄席と出演者の取り分は、長年の習慣で歩合制せあった上に、掛持ちが多いので席を空ける咄家が多く、しかも高座の時間は十分か十五分、といえば今のラジオのコマ切れ落語なみで、中には都々逸の二つ三つもうなって下がるという咄家も出る有様、これではとうてい落語のみで客はひけなくなるという判断にもとづき、団結して会社を組織し、給料を定めて十分に技術を発揮させようというのであった。
 まず、大正六年時点で、この株式会社設立に賛同した寄席だけでも二十八軒あった、ということに、時代の流れを強く感じる。
 この寄席側の思い、分からないではない。都々逸の二つ、三つの高座では、席亭も怒って当然。
 さて、その後、どうなったのか。

 ところが八月上席から、その制度で興行をはじめてみると、内外の苦情が持ちあがり、現在株主たる席亭の中にさえ、折を見て脱会しようとする者があらわれ、左楽のごときは高座で反対を唱える始末であった。

 いったい、どういった問題や苦情が持ち上がったのか。
 契約をした者が、上席の給金を受け取ったままで出演しなかったり、柳枝、小柳枝、年枝、錦生などは、公然と反旗をひるがえし、寄席会社は出発と同時に大騒ぎとなった。生活の保証は腕次第という咄家にとって、安定した月給制度は一応妙案ということになる。しかし一面、天狗の多い咄家のこだから、査定された月給に不満を持つのも当然だし、また腕に自信のある咄家は、月給でしばられて稼ぎを制約されるのは不満であったろう。また席亭にしても、出演者の顔付けは会社から一方的におしつけられる制度では腕のふるいようがなく、これまた不満組が出たのはやむをえない。
 とくに後押しする野次馬もあらわれて、月給に対する不満組が結束し、会社に向かって月給三割増しと要求した結果、一割五分増しで妥協したが、さらに三ヵ月分の給金前払いを要求する者もあらわれる始末であった。

 なるほど、そういうことだったか。
 会社と労働組合との争議、と見られないこともない。
 労使対決で済んでいればまだしも、もっと大きな騒動に発展する。
 一方、反対派は寄席会社が発足した同じ大正六年八月一日に、神楽坂上の演芸館に集合し、三遊・柳両派を存続せしめて旧慣を重んじ、寄席とも協定して円満に落語の改革を図ることになった。柳派の頭取の柳枝をはじめ、雷門橘之助、円遊その他六、日十名が調印して会社へは辞表を出し、政治家の三木武吉氏を顧問として、“落語 睦会”を結成した。会長は五代目柳枝、副会長は五代目柳楽と決定し、同時に睦会の強化を図り、同月中旬に大阪から桂小南を迎えた。
 小南の名も、登場。
 睦会の会長を「五代目柳枝」としているが、正確には後に初代春風亭華柳となる「四代目」の間違いだろう。
 実は、柳枝に五代目は存在しない。俗に「横浜の柳枝」と呼ばれる六代目柳枝が、左楽と同じ五代目では畏れ多い、と代を一つ飛ばしたのだ。
 睦会副会長の、その五代目柳亭左楽は、後に文楽が慕う人物。
 随分前になるが、左楽については書いたことがあるので、ご興味のある方はご参照のほどを。
2010年3月25日のブログ
 また、睦会の顧問役となった三木武吉は、鳩山一郎の盟友として知られた政治家で、1955年の保守合同実現の立役者とも言われている。映画『小説 吉田学校』では若山富三郎が演じていた。 
 そんな政治家まで担ぎ出して会社側に対抗する組織が出来上がった東京の落語界は、激しく戦国の様相を示していく。

 月給制の寄席会社に対して睦会が設立されると、落語界の動揺はいよいよはげしくなっていった。
 会社が発足してからまもなくの大正六年八月二十一日には、会社の重役の一人である神田立花亭こと大森竹次郎が、浅草山の宿(やまのしゅく)の春風亭小柳枝こと松出幸太郎と、下谷西町二丁目の立花家橘之助(浮世節)方の古今亭錦生改め古今亭しん馬の二人を相手取り、東京地方裁判所に演芸債務不履行および損害賠償金五千円の訴訟を提起するにいたった。

 さぁ、訴訟勃発。
 立花家橘之助“方”の志ん馬は、俗に「横浜の志ん馬」と言われた四代目で、昨年、橘之助の浮世節家元の看板の変遷について書いた記事で紹介した、寄席文字の橘右近さんの本『落語裏ばなし』に登場する。昨年二代目橘之助襲名が実現したことに、この志ん馬さん、結構貢献している。
2017年1月7日のブログ

 さぁ、寄席演芸会社と睦会が並び立った、東京落語界の“戦国時代”、その後どんな様相を示すものやら。

 今回は、ここらでお開き。次回をお楽しみに。
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by kogotokoubei | 2018-02-08 12:18 | 江戸・東京落語界 | Comments(0)

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by 小言幸兵衛