噺の話

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2018年 02月 04日 ( 1 )

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桂小南著『落語案内』(立風書房)
 この本からの、七回目。長くなったものだ。
 
 小文治の身内となって芸術協会の寄席に出ることができたものの、外様としての扱いもあって、次第に心が萎えていった金太郎の姿を師匠の金馬はしっかし見ていた。
 そして、上方落語をやれと言い、自分が大阪について来させた。

 さて、大阪に着きました。
 着いたら、大阪に噺家がいないんです。
 当時、大阪の落語界は全滅状態だったんです。
 事実、大阪の人でさえ「大阪落語は終わった」といってましたからね。
 とにかく若手の二、三人が細々とやってり有様でした。
 大阪は漫才王国ですから、落語なんか相手にしないんです。でも、寄席というからには落語も必要だ。なら、東京から看板の師匠を一人か二人呼べばこと足りるというので、大阪の師匠を呼ばない。


 金太郎の大阪行きは、昭和30年前後かと察するが、その後上方四天王と呼ばれる人々も、まだそれぞれがもがいていた時期だ。

 上方落語協会は、昭和32年の発足。
 協会発足当時の状況については、60周年を迎えた昨年、記事を書いた。
2017年4月3日のブログ

 その記事でも紹介したように、初代会長は三代目染丸。
 四代目染丸や、将来を期待されながら若くして亡くなった四代目小染(「ザ・パンダ」メンバー)などの師匠。

 なお、歴代の会長と在任期間は次のようになっている。
1 三代目林家染丸   1957年 - 1968年 (9年)
2 六代目笑福亭松鶴  1968年 - 1977年 (9年)
3 三代目桂春団治    1977年 - 1984年(7年)
4 三代目桂小文枝   1984年 - 1994年(10年)
5 二代目露の五郎   1994年 - 2003年(9年)
6 六代目桂文枝    2003年 -

 六代目会長、すでに15年になる。
 先月のアクセス数トップは、その会長のスキャンダルのこと。
 権力の座に長く居座ることの弊害は、どの世界でも同じだが、あの男は、会長室で浮気相手の女性と会っていたらしい・・・・・・。
 とにかく、一日も早く辞めるべきだ。。

 さて、金太郎のことに戻る。
 寄席が漫才一色のその時、どうやって彼は上方落語を稽古したのか。
 こんな具合ですから、さァ弱った。
 なにしろ百幾つ持っていた東京落語を全部捨てて行ったんですから。二、三年噺家をやめたつもりで大阪落語をやれと、師匠にもいわれましたし、自分でもその気になってましたから。
 大阪では、師匠が出演してるということで、義理で私を前座に出してくれました。出してくれたのは支配人さんですが、いまでも、この人は恩人だと思ってます。
 と、いうのは、この支配人さんに、こう頼んだのです。
「実は、私、今度大阪落語を覚えたいと思うんですが・・・・・・」
「そうかい、よしよし、それじゃ引き受けてやるから、前座しながら覚えなさい」
 親分肌で、いつまでも出してやるとさえいってくれました。

 東宝名人会の秦豊吉のような恩人が、大阪にもいたということか。
 金太郎、人生の節目で、いろんな人に救われているなぁ。

 さ、前座で出たが、咄を教わる師匠がいない。で、いろいろ訊きました。
 と、大阪には、前座さんがいなくて、下座をやる人は“へたり”というんですが、この人が大抵噺家くずれなんです。この人に訊くました。と、ここにこういう人がいる。あそこにこういう師匠がいるとい教えてくれました。
 で、金馬師匠に相談しましたら、神戸に橘ノ円都師匠がいる。寄席をやめて十二、三年たってるが、達者でいるに違いないから行ってみろといわれました。
 神戸へ行きましたよ。
 円都師匠は、金馬師匠のいうようにお達者でした。
 そこで、用件を伝えますと、
「金馬さんが来てる。会いたいなア」
 と、戎橋まで遊びに来てくれました。
 そこで改めて、師匠から、「実はこれが京都の人間で、東京落語はうまくいかない。ついては、稽古をつけてくれませんか」と、お願いしてくれました。
「では、明日からでも私が神戸に参ります」
 といったら、円都師匠がいいました。
「いや、ワイがこっちへ来るわ。その代りにすまんけど定期買うてくれんか」
 金馬師匠にこれを伝えますと、定期代を出してくれました。
 その翌日から円都師匠が来て下さいました。実にうれしそうにね。
 上方落語復興の話では、この橘ノ円都という人の名は、結構目にする。

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 『古今東西落語家事典』から、橘ノ円都のことを確認したい。

橘ノ円都
 明治十六年三月三日~昭和四十七年八月二十日 90歳

 神戸の代々続いた大工の家に生まれたが、二十一歳のときに素人落語の橘連に加わり、すぐ座長となった。このため家を勘当され、明治三十八年に大阪へ出て、初代桂春団治の世話で二代目桂文団治に入門、桂団寿を名乗った。しかし当時としては入門が遅かったためか前座修業がつらく、堺の天神席でへたりとなったり、派をとびだして旅まわりをしていたが、明治四十五年、神戸に戻った時に、兄弟子の団三郎が橘ノ円の一門で円三郎と改めていたことから一門に加わり、橘家円歌となった。
 その後、大正六年、東西会で上京する時、東京側から三遊亭円歌とまぎらわしいため改名をすすめられ、橘の円都と改めた。円都自身のはなしによれば、円都の名はもともと三遊亭の名で六代目まで続いていたので、この時七代目円都として、神戸千代之座で披露をい行なったという。
 (中 略)
 ネタ数は多く、特に浄瑠璃物が得意で『寝床』『軒付』『浄瑠璃息子』『片棒』などを好んで演じた。けっして器用な噺家ではなかったが、二代目桂三木助、六代目林家正楽、桂塩鯛らから譲り受けた多くの噺をそのままの形で後世に伝え、現役の落語家で、直接・間接に円都の影響を受けていない噺家はないといっても過言ではないほど、後身の指導果たした功績は大きい。また東京大阪で現在演じられている『加賀の千代』は昭和二十年代に自作自演したものである
 あらぁ、『加賀の千代』の作者だったんだ。
 Wikipediaによると、米朝にも枝雀にも多くのネタを稽古している。
Wikipedia「橘ノ円都」
 桂米朝に『宿屋仇』『軒付け』『胴乱の幸助』『けんげしゃ茶屋』『掛取』『三枚起請』『ふたなり』など、桂枝雀には『日和違い』『夏の医者』『あくびの稽古』などが挙がっている。凄いネタばかりではないか。
 この人、上方落語界を語る上で、不可欠ではなかろうか。
 円都のことは、もっと調べて別途書きたいものだ。

 金馬は、金太郎が上方落語を学ぶために、最適の人物を知っていたのだ。
 さて、円都の稽古は、その後どうなったのか。
 これが十日続きました。寄席は十日替わりですからね。
 そして十日が終わるころ、支配人が、
「よっしゃ。そいならわしにまかしとけ。十日過ぎたら、次の芝居には出すわけにはいかんから、次の十日は、京都へ行って来い」
 そういって、京都在住の噺家さんを教えてくれました。
 この人が、いまの文之助茶屋のお兄さんに当たる方で、文の家かしくという方。
 この人は“へたり”をやってたんです。
 (中 略)
 当時は録音機もありませんから、帳面持ってって、聞きながら書きつけました。ですから、咄を教わるどころか、筋を付けるのが手いっぱいでしたね。
 十日はすぐ過ぎる。と、大阪に帰って戎橋の前座です。
 また、円都師匠の稽古です。それから文団治師匠のところへ教わりに行く。そしてまた京都へ。
 そのうち、京都で下手な芸人を泊めるのを内職にしているオバサンをみつけて、その家の三畳を借りました。
 三ヵ月いました。それで、仕入れられるだけの咄をもらいました。
 文団治師匠には、師匠が出ている新世界に一緒に行って教わりました。当時は弟子もなしでした。いまの文紅さんもまだいませんでした。
 で、とうとう、円都師匠をして、
「もう、お前にやる咄はないわ」
 というほど、頂戴しました。
 で、三ヵ月ぶりに東京へ帰って来ました。

 当時の上方落語界において、ネタの多さを誇った円都が、こう言ったとは。
 そして、京都の文の家かしく、大阪の桂文団治も含め、なんと濃密な三ヵ月の上方落語修業だったことだろう。
 この文団治は四代目で、文紅(こちらも、四代目)の入門し文光を名乗ったのは昭和30年3月なので、金太郎の上方修業は昭和二十九年頃かと察する。

 さて、次回は、東京へ戻ってから、小南襲名までの最終回。
 
 ついつい長くなってしまったが、お付き合いのほどを。


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by kogotokoubei | 2018-02-04 18:03 | 落語の本 | Comments(6)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛