噺の話

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2018年 02月 02日 ( 1 )


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桂小南著『落語案内』(立風書房)
 この本からの、六回目。

 腸チフスにより死の淵から脱出し、戦後東京に戻り、秦豊吉支配人の気遣いで、宝塚劇場の売店を任され、飲まず食わずの生活から脱出した金太郎のその後。

 まア、ともかく、足もとがお札でいっぱいになるんです。だから儲かって仕方がない。
 しかし、そこが噺家ですねえ。そのときの金を貯めときゃいいんだ。そうすれば、銀座の四兆名あたりに大きなビルなんぞ建ったでしょうが、百円札をまとめて尻のポケットにねじ込んで、銀座ぶらぶらしちゃア、中華料理の高いのを食って、ほとんど使っちまいました。
 で、いい気持ちになってたら、師匠に叱られました。
 神田の立花でした。雨が降り出したんで、師匠の家から下駄と傘を持って行った。
「師匠、下駄と傘を持ってきました」
「ああ」
「ここに置いときます」
「あいよ」
 と、立花の支配人さんが師匠に、
 「あ、師匠、来月、金太郎さんをうちに願います」
 といったんです。ここはなかなか出られないから、やれうれしやと思ってたら、師匠がこう断りました。
「あれはダメです。あれは南京豆の方が上手いんですからダメです」

 「南京豆」という表現が、なんとも可笑しい^^
 私が、咄の稽古もしないで店の仕入ればかりやってるっていうの知ってたんですね。
 あとで師匠がいってました。
「あそこで俺が受けたり、お頼みしますといってごらん。そりゃ出してくれるだろうが、お前自身が頼まれるようでなきゃ駄目だよ」
 もっともですね。
 これが身にしみて、売店の方は人に任せて、私はかまわないようにしました。
 そうしておいて、師匠にいったんです。
「私も寄席に入りたいんですが」
 当時、歌笑さんが日の出の勢いでしたからねえ。それなのに私の方は、まだ前座の毛が生えたところでウロチョロしてる。
 歌笑さんは、噺家として初めて国際劇場に出て、それを満員にしたんですから。
 そのころですか、歌笑さんの家に行くと、「お前、俺の番頭になれ」
 といわれました。いまでいえばマネージャーです。一時は本気で考えました。しかし、噺家が好きでしたから、やっぱり噺家でいたい。

 人気が爆発していた歌笑のマネージャー・・・迷っただろうが、金太郎の選択は、結果として正しかったということか。

 なお、歌笑については、ずいぶん前に書いたことがある。
 当時十四歳だった談志が、彼の死を知って泣いた、ということも紹介した。
2009年5月28日のブログ

 さて、歌笑の番頭要請を断った金太郎の、その後。
 それで、師匠に相談したんですがね。
 そうしたら、あの頑固で、人に頭を下げたこともない師匠が、
「お前は関西の出だから、小文治さんのところへ行った方がいいだろう。俺が頼んでやるよ」
 こういって、すぐ、小文治師匠のところへ電話してくれました。
「すまないけど、うりの金太郎を、なんとかそっちの会に入れてもらえないだろうか」
 それまで、小文治の“こ”の字もおわなかった人がね。
 弟子のためですねえ。
 それで、私は桂小文治師匠のところへ行くことになったんです。
 昭和二十六、七年でしたね。
 金馬師匠の家に入ってから十二年目のことです。

 金馬は、見ていないようで、金太郎のことをしっかり見ていたのだ。
 今のままでは、伸びない。
 関西出身だから、同じ上方から来て東京で看板となっている小文治の下で修業させるのが良いだろう、と日頃思っていたからの、行動と察する。

 小文治は、二代目桂小文治。
 Wikipediaからプロフィールを引用する。
Wikipedia「二代目桂小文治」

現在の大阪府大阪市港区出身。1906年(明治39年)ころ、7代目桂文治門下となり9代目桂小米。1915年(大正5年)、2代目桂米丸襲名。三友派若手の有望株として踊り、声色で活躍する。

1916年(大正6年)10月、東京寄席演芸会社の招きで上京し上席に出演。当初1か月の契約だったのが、そのまま東京に定住。1917年(大正7年)5月、下席から桂小文治に改名し真打昇進。1922年(大正11年)4月、落語睦会に移籍。6代目春風亭柳橋、(俗に)3代目春風亭柳好、8代目桂文楽と並ぶ「睦の四天王」の一角として人気を得る。その後日本演芸協会、さらに日本芸術協会(現:落語芸術協会)に加わり、副会長として、会長6代目春風亭柳橋を補佐する。大阪落語の落語家でありながら、東京落語界の幹部となった。

また、小文治は東京に行ったのち、師匠文治の引退興行の時に大阪に顔を出したが、小文治を可愛がっていた4代目橘家圓蔵が引退する文治よりも小文治の宣伝をしたため、小文治の兄弟子初代桂春団治が激怒し、止めに入った小文治を蹴飛ばし、舞台上で圓蔵を罵倒した、それがゆえに大阪へ戻れなくなり、東京に骨を埋めることとなったといわれている。

2代目三遊亭百生と共に、上方落語を東京で紹介した業績は大きい。また、第二次世界大戦後は、衰亡していた上方落語復興のため、当時の若手6代目笑福亭松鶴、3代目桂米朝らを支えた。戎橋松竹や道頓堀角座にも定期的に出演していた(ただし、肩書きは「東京落語」であった)。

面倒見の良い性格で、他所の門を失敗した落語家を引取ったため、門人も多かった(このため、小文治一門は現在、芸術協会の大半を占め、80名の真打の中で50名以上いる)。

 あの、小金治さんも、小文治門下だった。
 小文治の“身内”になるということで、初めて落語芸術協会の寄席に出る機会が訪れた。

 いよいよ寄席に入りました。入って驚きました。東宝の楽屋とまるで違う。だいたい、楽屋にいる人の名前がわからない。とくに若い人なんか全然わからない。
 それもそのはずで、私が噺家になったころから終戦まで、ほとんど噺家になろうなんていう人がいなかったのに、終戦で、しょうがないから噺家でもやろうか、噺家しかないなんていう「デモシカ噺家」が増えたんですな。そういっては失礼ですが、いまは、もう立派に一家を成している人がいますのでね。
 ま、そう思ったんです。正直なところ。
 さて、小文治師匠の身内になりましたが、身内というのは弟子とは意味が違いまして、早くいえば外様ですから、身近にはいるが、ま、他所者ですよ。

 今の言葉で言えば、“アウェー”な環境に飛び込むことになったわけだ。
 しかし、金太郎は、二ツ目ながら、この時、本来の前座修業に精を出した。
 とはいえ、辛い日々が続く。
 芸術協会に入ったけれど、外様の悲しさ、予備(控え出演者)で高座に上がる機会がない。
 こうなると、どうしてもひがみが出ます。
 このとき、頭に浮かんだのが、金馬師匠の言葉でした。
「噺家は一にも稽古、二にも稽古、褒められたら、ああよかったと稽古しろ。うれしかったら稽古しろ。腹が立ったら稽古しろ。腹が減ったら稽古しろ。腹がふくれたら稽古しろ」
 それから稽古しました。稽古するよりやることがないんです。

 師匠の有難い言葉を思い出して稽古を重ねるが、それが何年も続くと、金太郎も挫けそうになる。

 他人(ひと)の受けてるのが口惜しくて仕方がない。
 この時期、本気で「噺家をやめよう」と思いました。
 それで、本屋さんをはじめました。江戸川橋のそばでしたが。本は好きだったものですから、本屋が一番いいというんでね。もっとも私は店に座りません。名人会の売店のときと同じで、かみさんにやらせました。
 さ、そうこうするうちに、民間のラジオがはじまりました。
 ここでも私は乗り遅れるんです。
 師匠の手引きで、後から入った噺家がどんどんラジオに出る。と、その人の顔つきが変わって来るんです。なんとなく光り輝いてくる。実際、着る物や食べる物まで違ってくるんです。
 私の方は、相変わらず青白い冴えない顔して楽屋の置き物です。
 咄も迷いました。これならいいだろうと思う咄をやってみる。これがダメ。
 そうなんです。いまの言葉でいうと、落ち込んでるときはどうやってもダメなんです。
 これは亡くなりました、桂三木助師匠がいった言葉です。
「噺家の生涯なんて、真ッ黒な部屋の中で、天井からぶら下がってる綱を引っぱってるようなもんだ」
 つまり、綱をのぼって明るい表に出ようと思うが、昇って行くと天井にごつんと当たる。で、一度下りて別の綱にとりつく、やっぱりごつん、ということなんです。
 私も、思い余って、金語楼師匠の種をもらって新作を手がけてもみました。
 しかし、とことんドンヅマリ。
 金もありませんよ。本屋の上がりなんて大した役に立ちません。素人本屋ですしね。
 で、金欲しさに、農村慰問なんかに行って、そりゃもう、受けよう受けようで、大きな振りして演ってたんです。
 で、ある日、金馬師匠の家に行ったら、いきなりどなられました。
「馬鹿野郎、貴様舞台で銭が欲しい、銭が欲しいといってやがる。やめちまえッ」
 私は、一度も師匠の前で喋ったことないんですが、ちゃんと知ってる。弟子のことは何でも知ってるものなんです、師匠というのはね。
 その師匠はといえば、二階に上がって、きちんと稽古している。
 それみて、ああ稽古しなくちゃいけないなと思って帰りましたね。
 ところが、家に帰ると、「何で俺だけ受けないんだ」って囁きが聞こえて来る。もう一人の自分が囁く。人間って弱いもんですねえ。

 何をやってもうまくいかない、そんな時期って、一生のうちに必ずあるよね。

 金太郎にとっては、この時期が、そんな不遇の時だったわけか。

 それにしても、師匠の金馬は、遠くからでも、しっかり弟子を見ていたんだなぁ。

 その師匠から、大きな転機を迎える話があった。

 もう、にっちもさっちもいかなくなりました。
 と、師匠から呼び出しがかかりました。
 で、家に参りますと、
「金太郎、お前大阪落語やれ」
 という。
 師匠はちゃんとご存知だったんですね、私が苦しんでるっていうのをね。
「大阪落語ですか・・・・・・」
「京都の生まれだから、その方がよかろう。その気があったら、今度俺が大阪の戎橋松竹に出るから連れてってやるから、ひとつ向うの咄を聞いてみろ」
 と、いうので、師匠の鞄持ちで大阪へ行きました。
 ところが、これは寄席とは関係がない。大阪へ行くなんてことは、小文治師匠と行くなら公用ですが、金馬師匠と行くのは、いわば私用です。
 でも、そんなこといっちゃいられません。
 協会の方へは、しばらく休ませていただきますよ、大阪へ行きました。
 背水の陣を敷いたわけですね。

 私は、この本を読むまで、小南は小文治の下で上方落語を学んだのだろうと思っていた。

 ところが、小文治の身内の時代が、こんな悲惨な時期であったことを初めて知った。

 もちろん、それは小文治のせいではなく、東宝名人会専属の師匠に弟子入りしていたという事情も含め、小南にとって巡り合わせの悪さが大きな原因と言えるのだろう。

 さて、大阪で金太郎はどんな経験をすることになるのか。
 それは、次回のお楽しみ。


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by kogotokoubei | 2018-02-02 12:54 | 落語の本 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛