噺の話

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2018年 02月 01日 ( 1 )

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桂小南著『落語案内』(立風書房)
 この本からの、五回目。
 思ったより、このシリーズ長くなりそうだ。

 前回は、入隊し演芸会でスターになった金太郎だが、太平洋戦争に突入した昭和十六年十二月、連帯がフィリピンに移動しようとする時に、腸チフスになり、死を覚悟していた。

 さぁ、金太郎はその後どうなったのか。
 前回ご紹介した最後の部分から。

「もう死ぬのかな」
 覚悟、というより、ぼんやりしてました。
 と、輸血が止まってから三日目でした。
 夜中に軍医さんが来て、
「おい、いまから輸血する」
 というんです。
「ハイ」
「この血はただの血ではない。よく聞け、お前の中隊長殿が特別に下さったものだ。中隊長は出発前に、面会を希望したが、それはできないとお断りした。『もう死にます』と。そしたら『じゃ俺の血を採れ、採って輸血してやってくれ』とおっしゃる。それはできないといったのだが、『たっての頼みだ』というので採血した。いいか、いまからこれを輸血する。死ぬなり生きるなり自分できめろ。中隊長殿は、いまフィリピンに向け出発された」
 軍医中尉でした。軍医で中尉といえば、連隊長級でしたね。
 私は、ここで思い直しました。ここで死ぬのを待ってちゃいけない。死んだら中隊長をはじめ連隊中がなんで輸血に協力してくれたのかと。
 生きるんだ、そう思いました。
 と、その翌日からぐっぐっと良くなるんです。びっくりしましたね。
 軍医さんまで「どうして良くなったんだろう」って首を傾げてる。
 それから二、三日したら、若いヤツが歩いて入院して来て、朝入院して、昼に逝ってしまったんで、私のベッドの下にある服を着せました。あんまり急だったものでね。あれは、私の身代りですね。
 で、つくづく思いました。病は気からだってね。心をぐっと締めてかかれば病なんて平気だってネ。

 こういう実話を知ると、病は気から、という言葉の重さをしみじみ感じる。
 連隊の仲間のみならず、連隊長までもが、金太郎のために自らの血を授けてくれたということが、しおれかけていた生きる力に水を与え、彼らのためにも、という生命力が湧き出てきたのだろう。
 その後のこと。

 こうして、死病から逃れることができましたが、私に輸血してくれた戦友は、フィリピン沖で輸送船が襲われてずいぶん戦死しました。
 ただ、中隊長は帰って来ました。再会したときは、本当に土下座してお礼をいいました。
 ま、これというのも私が噺家で、それも金馬の弟子だったからでしょうね。
 そんなこんなの間に合ったような間に合わなかったような兵隊を三年つとめて帰ってまいりました。
 終戦。
 死の淵から生還した東京。
 宝塚劇場は、進駐軍に接収されアニー・パイルという名に替わった。
 名人会は、日劇の五階に移った。

 ところが、東宝があちこちに寄席を作ったんです。映画館より手軽にできるということでね。
 神田の立花の買収を皮切りに、新宿の帝都座、神楽坂の演芸場、早稲田の寄席好きの染物屋さんが工場を改造した“ゆたか”など東宝が傘下に収めたんです。
 これを私がかけ持ちですよ。そりゃいい気分でしたね。気の毒に、他の寄席に出てる人は、東宝が呼ばなければ入れない。たとえ来たところで東宝専属の私の方が上って頭があるから、威張ってました。ま、威張ってるたってタカが知れてます。二ツ目ですもの。
 しかし、それも長く続きませんでした。
 で、秦豊吉先生に連れられて名古屋の宝塚劇場に行きました。

 この秦豊吉は、「第四章 忘れえぬ芸人」でも登場するが、以前紹介した池内紀さんの『二列目の人生ー隠れた異才たちー』でも、十五人の中の一人として取り上げられている。
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池内紀著『二列目の人生-隠れた異才たちー』(集英社文庫)

 拙ブログでは紹介しなかった秦豊吉について、池内さんの文章を引用したい。
 題は「鴎外の双曲線」。

 秦豊吉は三つの人生を生きた。一つは三菱商事のエリートとしてのそれである。府立一中、一高・東大法科卒の優等生は、新妻をともなってベルリン支店へ赴任した。十数年にわたる三菱時代のあいだ、彼は無遅刻、無欠勤のモーレツ社員だった。
 二つ目は文筆家としての人生である。ベルリン駐在中は精力的にヨーロッパの文芸思潮を紹介した。そして多くの翻訳をした。レマルクの『西部戦線異状なし』をはじめとして、第一次大戦後のドイツの話題作は、おおむね秦豊吉訳を通してこの国に入ってきた。
 三つ目は演劇人としての人生である。四十代のはじめ、秦豊吉は三菱より東宝に転じ、以後は舞台芸術に没頭する。その才覚は、もっぱら、レヴューやコミック・オペラといった軽演劇の分野で発揮された。秦豊吉企画・脚本・演出による数々の舞台は、わが国のモダニズムが、まがりなににも実現しためざましい成果だった。
 正確にいえば、さらにもう一つの人生がある。「丸木砂土」のペンネームのもとにおこなったエロス文学顕彰のそれである。

 という、実に多彩な方。
 小林一三は、昭和七年に宝塚の東京進出を企て、三菱の文筆家社員に目をとめ、昭和八年一月一日付けで秦豊吉を新劇場の取締役として迎えた。秦が四十一歳の時のことだ。
 
 小南の本に戻る。
 その秦豊吉に連れられて行った名古屋の宝塚劇場で、金太郎はどんな体験をしたのか。

 当時、劇場の前に立つと、大須の観音様まで見通せました。あとは焼けっ原でね。
 その劇場に宝塚が来ると、大変な入りでしたね。なにしろ遊ぶところがほかにないんですから、何も。ですから、劇場の周りを見物する人が取り巻くんです。それで整理券がつかない。すると、その時分にヤクザ者がおりました、これが出て来て整理をする。なかで“浅切りの正太”という物凄いのがおりました。どうして浅切りかというと、人を斬るのに、死なない程度にスパーッと斬るのでこの名がついたという。
 この正太とあと二人凄いのがいました。
 ところが、私たち芸人に対しては大変親切なんです。とくに私は楽屋に寝泊まりしてましたから、ちょくちょく楽屋に来ては遊んでいるんです。大人しいんです。二十二、三くらいでしたが、子分を二十人くらい連れてました。三人がそれぞれにね。それで劇場内で暴れる者がいると摘み出してしまう。
 私は、当時、落語もやってましたが、芝居もやってたんです。実は、五階の寄席の楽屋にいると、下の劇場で、役者が足りないから手伝ってくれってんで、助(ス)けですね。
 喜んでやってましたよ。
 この後、“浅切りの正太”に誘われて、ある壮絶な場面を見物することになるが、その件は割愛。
 
 名古屋は一年間勤めまして、また東京へ帰って来ました。
 帰ったが飯が食えない。食えないのは名古屋も同じですが、楽屋泊りですから何とか食えたが、東京じゃ、アパート暮し、これが八円です。家賃が払えないんです。仕方がないから外食券(当時米は配給制で、この券がないと食堂で食べられなかった)をもらって、これを売って家賃にする。あとはどうするかというと、水飲んで部屋に引っくり返ってました。
 そうしたら、秦先生が見るに見かねて、「お前、そんなことしててもしょうがないから名人会で売店やれ」
 と、こういったんです。
「ほんとですか」 
 私は、飛び上がりましたよ。
 と、いうのは、私は食えもしないのに、おかみさんをもらったんです。名古屋でね。もらったというより養子になっちゃったわけですよ。ですから、これを食わせなくちゃならない。当時売店ってな儲かったんです。だから権利をとるのが大変でした。それを社長の一言ですから私にその権利がきた。
 そこで名人会にふさわしくってんで、数寄屋造の素晴らしい売店を造ってもらって、商売をすることになりました。
 飴を売りました。
 これがバカ売れ。儲かるなんてもんじゃアない。昼間は、これがラジオで始まると、風呂屋がガラガラになったという“鐘の鳴る丘”の芝居で、夜が名人会。
 もう夫婦じゃ忙しくてたまらないというんで、かみさんの妹を連れて手伝わせました。
 この妹が来たら、私ァ落語屋でもって、高見の見物をきめようと思ったんですが、休憩が終わると店がからっぽになっちゃうんです。なにもないんです。で、何か仕入れてこいといわれて、「へいッ」ってんで、籠持って御徒町へ飛んで行く、いまでいうアメ横ですね。で、飴でもなんでもいいから、仕入れて帰って店へ並べる。と、休憩になる。客が百円札を抛るようにして出すと、五つ六つ摑んで客席へ行く。釣りなんか取らないんです。で、十五、六分で空。またアメ横へ行く。問屋なんか待っちゃいられないんですからね。

 “水っ腹金ちゃん”から、“飴屋の金ちゃん”への転身。
 その当時、金太郎にとって、秦は神様のように思えたのではなかろうか。
 最終章で、秦(先生)について、こう書いている。

 東宝名人会の創立者として、秦先生は、われわれ噺家にとっては恩人です。
 日劇黄金時代というのがありました、ダンシングチームだけで小屋が唸るほど入りました。
 この時代に秦先生が東宝名人会というものを拵えたんです。
 それは本当の名人会でした。いまの名人会とは格が違いました。
 とにかく、当時、寄席では大看板扱いの桂右女助(小勝)さんが前座ですから。
 そのメンバーたるや、先代小さん、柳橋、先代円生、金語楼、先代柳好、権太楼、それに先代金馬。実に錚々たる名前ばかりです。
 しかし、秦先生は、若手にも目をかけてくれまして、私も先生のおかげで、東宝の前座になることができたんです。
 と、いっても高座には上がれません。で、早めに師匠の家を出て、まだ緞帳が下りている東宝演芸場に来て、真ッ黒な舞台に布団を敷いて、稽古するんです。
「ええ、一席うかがいます」
『金明竹』などやりました。
 ある日、いつものように稽古してたんですが、電球二つつけて緞帳の下りた中で演ってると暖かくて、眠気がさして来た。咄の半分どころで、つい、「ふわァ、あああ」ってあくびしたんです。
 と、緞帳の向う側で、
「馬鹿野郎ッ」
「なにィ・・・・・・」
 ひょいと緞帳の裾を持ち上げて覗いたら、秦先生じゃありませんか。
「馬鹿野郎ッ」
 飛び上がりましたよ。
 と。「続けろ」、「ヘエッ」
 いつの間にか舞台の前にいて聞いているんですね。
 とにかくこわい先生でした。


 その秦が若手のために、『東宝笑話会』というの場をつくった。
 昼間があいてる時間に若手を含めて、バラエティに富んだ寄席形式のものにしたのだ。

 池内紀さんの本で初めて知った秦豊吉という人物について、桂小南の実体験から、より深くその人柄を知ることができた。
 実は、池内さんの本では、東宝名人会のことは、ほとんどふれられていなかったのだ。
 小南がこの後に書いているが、名古屋で日本舞踊のチームを作ろうとしていて、間もなく発足というところまで行って、秦がアメリカ軍の追放を食らって、いっさいの公職から手を引くことになる。
 小南は、名古屋にもう一つ名物が増えたと思うのに、と残念がっている。

 池内紀さんが「二列目」としているのは、この公職追放がなければ、「一列目」として、もっと秦豊吉という人の名が陽の目を見たはず、という思いがあるからかもしれない。


 さて、死の淵から生還し、秦先生という恩人のおかげで窮地を救われた金太郎は、その後、どんな噺家としての人生を歩むのか・・・は、次回。

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by kogotokoubei | 2018-02-01 12:36 | 落語の本 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛