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噺の話

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2017年 12月 29日 ( 1 )

二列目の異才たち(2)福田蘭童ー池内紀著『二列目の人生ー隠れた異才たちー』より。_e0337777_15282902.jpg

池内紀著『二列目の人生-隠れた異才たちー』(集英社文庫)

 落語の『二番煎じ』をはさみ、この本からの、二番煎じ。

 ご紹介するのは、福田蘭童。

 一回目の記事に、取り上げられた人で知っている名は橋爪四郎のみ、と書いたところ、佐平次さんからこの人も知っているでしょう、とコメントを頂戴したが、実は、知らなかった。

 この方の父親とご長男は、知っていた。

 まず、お父上のことから。

 画家青木繁の評価はとっくに定まっている。伝記、評論、画集など、いろいろとある。その年譜には東京美術学校卒業と同じ年に、こんな記述があるはずだ。
「房州布良へ写生旅行(坂本繁二郎、森田恒友、福田たね同行)。『海の幸』『海景』など制作」
 天才画家がはじめて自分の天分を作品にした意味深い旅行だった。だが、つづく翌年の出来事には、さして注意が払われない。
「明治三十八年(1905)、一子幸彦(のちの福田蘭童)誕生」
 福田の姓からもわかるように福田たねとのあいだにできた。房州布良が二人を結びつけた。海彦の里にちなみ、ついては「幸」を念じて「幸彦」と名づけたのだろう。このとき父親青木繁は二十四歳、福田たねは二十一歳。
 青木繁の名は、知っていた。
 しかし、その長男のことは、この本で初めて知った。
 佐平次さんの年代よりは少しだけ若いので、笛吹童子は知っていて、♪ヒャラーリ、ヒャラリーコ、という笛のテーマソングも聞いたことはあるが、その音楽を担当した人の名をそらんじることができる同時代のラジオを聞いた世代ではないのですよ^^

 昭和15年生まれの著者は、もちろん同時代で、あのラジオを聞いていた。

 番組のはじめにスタッフの紹介があった。そのはずである。というのは「作・北村壽夫(ひさお)」を記憶のはしにとどめているのだから。しかし、ほかは何一つ覚えていない。ただし、「音楽・福田蘭童」を除いてのこと。そして、この「音楽・福田蘭童」は「作・北村壽夫」よりも何倍か強く印象づけられた。蘭童というナゾめいた名前が呪文のようにある世代を呪縛した。

 このナゾめいた名の持主のご長男は、よく知っている。
 福田蘭童の長男、石橋エータローが「笛吹童子」のころを回想したなかで述べているが、NHKに父親を訪ねたとき、ちょうど主題歌の録音中で、尺八を片手にオーケストラの指揮をしていた。横笛もいろいろ工夫して、自分でつくって吹いていたそうだ。曲の最後が中途半端だというと、蘭童は答えた。
「まだ何かありそうな気分にしたかった。おまえのやっているジャズとはちがうからな」
 石橋エータローは本名英市、姓が福田ではなく石橋なのは母親が離婚をしたからだ。

 父親の天才画家と言われる青木繁、そして、ご長男の石橋エータローの名を知っていたのだが、蘭童はこの本で初めて知った。

 エータローにとって父蘭童は、「物心ついた頃からオヤジは死んだことになっていた」とのこと。
 十七、八歳の時に生きていると分かり、母親の禁令を無視して蘭童に会いに湯河原まで行ったと回想している。

 その蘭童も、親の愛には恵まれない少年だった。

 青木繁は一子誕生の翌年、わが子を恋人の両親に押しつけて郷里へ帰ってしまった。娘の「不始末」に困惑したのだろう、その両親は預かった子供を養子として入籍した。ために母と子は、戸籍の上では姉と弟になっている。

 預けられた栃木から上京して小石川の中学に通った蘭童は、知り合いの先生宅を訪ねて、床の間にあった尺八をいじってこっぴどく叱られたことがくやしくて、本格的に尺八を習うようになる。
 琴古流荒木派の関口月童、月童が倒れた後、水野呂童についての猛稽古の末、次のような逸話まであった。

 井伏鱒二はまた人からの話だがと断った上で、「福田蘭童は指先で紙に触ってみて、その紙の色彩を云いあてることが出来る」と述べている。机の上のマッチ箱を指でおさえ、下側のレッテルの色をいいあてたこともある。

 中学生で、すでに師範格、同時にピアノを習い、洋楽を学んだとのこと。

 独立したのち一派をおこして、これまで秘伝扱いされていた尺八に五線譜を導入した。晩年の弟子である横山勝也は「修行帖」のなかで「今でこそ誰でも使う奏法である、タンキングや情感の表現としてのポルタメントやレガート奏法、甲ツのメリを四と五孔開けの替え運指で出したり、の技法を、いち早くわがものにしていた若い蘭童の天才ぶりをあげている。

 蘭童がその名を残したのは、尺八ばかりではない。
 きっと、栃木での少年時代の川釣りからの発展なのだろう、釣りの名人とも言われた。

 西園寺公一の『釣魚迷』には釣り三昧だった蘭童の日常が語られている。「-日本が真珠湾の奇襲から太平洋戦争に突入する少し前の頃だ」と書き添えてある。人みなが好むと好まざるとにかかわらず軍国主義に流されていくなかで、そんな時代相をいっさい黙殺するかのように釣り糸を垂れたいた。
「魚釣りはたのしい。釣れないときより釣れたときのほうが嬉しいにきまっているが、釣れた魚をその場で、調理して食べるのはまた格別である」
 蘭童は開高健のように『釣魚大全』などといった大げさなタイトルはつけなかった。その著書はまったく、これ以上ないほど自然な名づけ方で、『釣った魚はこうして料理』。

 渋谷に、数年前、居残り会メンバーで忘年会を開催した三漁洞がある。

 佐平次さんから、石橋エータローの奥さんのお店とお聞きしていたが、その元は蘭童だったんだなぁ。エータロー亡き後は、奥さんが仕切っている。

 「三漁洞」では調理室に入ることはせず、そっと店に顔を出して、片隅で酒を飲んでいた。味見をすると、たいていはほめた。おりおり、何げない口ぶりで魚の特長や料理法のコツを洩らしたりした。いつもきちんとスーツを着て、ネクタイをしている。年をとっても独特にイロ気があって、若い嫁は義父と顔が合うたびに胸がドキドキしたそうだ。

 嫁の胸をときめかせる、粋でダンディで、かっこいい義父だったということか。
 
 本書では、その蘭童が、父青木繁に対して、複雑な思いを抱いていたことが、久留米に父の墓詣りをした時の逸話からうかがえる。

 天才画家の子をして生まれ、尺八、釣りで名を残した福田蘭童を、恥ずかしながら、この本で初めて知ることができた。
 
 もう一人位、本書から紹介したいが、他の記事を挟むかもしれない。

by kogotokoubei | 2017-12-29 12:21 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛